開眼について

(<法蔵>H19.12.9)

[開眼の要否]
 【仏像の本尊と法の本尊】
  <仏像(木画)の本尊>
  <「寿量の仏」「寿量品の釈尊」>
  <「法華経」の本尊>
  <「法華経の題目」の本尊>

 【草木成仏の原理】
  <『草木成仏口決』>
  <文字の開眼>

 【口伝の存在と大石寺の化儀】


[「成仏」「仏」の意味と血脈]
 【有情の成仏、仏】

 【信心の血脈】

 【非情の成仏】

 【開眼と血脈】
  <本尊の活眼>
  <非情は有情に随う>


[邪難粉砕]
 【血脈と開眼をオカルトと謗ずる邪難を破す】
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開眼の要否


【仏像の本尊と法の本尊】
<仏像(木画)の本尊>
1●但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ(文永7年9月 49歳御作『真間釈迦仏御供養逐状』全集950頁)
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 「開眼」によってはじめて「生身の教主釈尊」(仏)と成る。ここでは「法華経一部」を読むことによって開眼供養できるように説かれている。
 大聖人も、弟子に命じて開眼をさせていた。だからといって、誰が開眼してもよいのではない。あくまでも師の命によって行うところに、血脈が流れ開眼の意味が生まれるのである。もし、在家の身で勝手に「法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて」開眼できるのであれば、わざわざ「伊よ房」に「いそぎいそぎ」開眼を命じる必要もない。

●仏滅後は木画の二像あり是れ三十一相にして梵音声かけたり(中略)三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり(中略)今の木絵二像を真言師を以て之を供養すれば実仏に非ずして権仏なり権仏にも非ず形は仏に似たれども意は本の非情の草木なり、又本の非情の草木にも非ず魔なり鬼なり、(中略)法華を心得たる人・木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し、(中略)法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり。(文永9年 51歳御作『木絵二像開眼之事』御書638、全集468頁〜)
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仏像の前に法華経を置くことによって木画が仏となる。しかし「真言師を以て之を供養すれば実仏に非ず」「法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身」とあるから、正師による法華経読誦によって開眼できるのであろう。(※系年変更:文永元年→同9年)

・仏像(木画)の開眼は、正師(大聖人または弟子)が行っていた。



<「寿量の仏」「寿量品の釈尊」>
●草木成仏とは非情の成仏なり(中略)我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり(『草木成仏口決』全集1338頁〜)
●草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり、経に云く「如来秘密神通之力」云云(『草木成仏口決』全集1339頁)
●御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(『御義口伝』全集760頁)
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 草木成仏によって草木(非情)が「寿量品の釈尊」となる。その例が塔婆である。
 法華経『寿量品』の「如来秘密神通之力」の文は「法華経の行者の一身の当体」すなわち曼荼羅御本尊の依文である。『草木成仏口決』では草木である塔婆が開眼によって「寿量品の釈尊」と顕れることを示され、そのことを「如来秘密神通之力」と仰せである。しかし本来「如来秘密神通之力」とは、非情である曼荼羅が「寿量品の釈尊」と顕れることを示されたものと拝される。

2●此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩・文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う迹仏迹土を表する故なり、是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る、(中略)未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。(文永10年 52歳御作『観心本尊抄』全集247頁〜)
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末法に現れる本尊である「本門の肝心南無妙法蓮華経の五字」とは、その為体(ていたらく=有様)の説明(下線部)より、大聖人自筆の曼荼羅御本尊である。この曼荼羅御本尊のことを「寿量の仏」「仏像」とも表現されている。

・曼荼羅御本尊は「仏像」でもある。

・仏像であるならば、「仏の御開眼」(1●)が必要である。



<法華経の本尊>
●薬王在在処処に若しは説き若しは読み若しは誦し若しは書き若しは経巻所住の処には皆応に七宝の塔を起てて極めて高広厳飾なら令むべし復舎利を安んずることを須いじ所以は何ん此の中には已に如来の全身有す(法華経『法師品』/『本尊問答抄』)

●復次に迦葉諸仏の師とする所は所謂法なり是の故に如来恭敬供養す法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり(涅槃経『如来性品』/『本尊問答抄』)

●道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置し亦必ずしも形像舎利並びに余の経典を安くべからず唯法華経一部を置け(天台大師『法華三昧懺儀(せんぎ)』/『本尊問答抄』)

●上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊・法華経の行者の正意なり。(弘安元年9月 57歳御作『本尊問答抄』全集365頁)

●上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり(弘安元年9月 57歳御作『本尊問答抄』全集366頁)

3●妙法蓮華経一部一巻小字経、御供養のために御布施に小袖二重・鵞目十貫・並びに扇百本。(建治3年 56歳御作『曾谷入道殿御返事』全集1057頁)
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●この「小字経」というのは細字経のことで、小さい字で書写されたお経のことであります。この書写を曽谷さんが自らなさったか、それともだれかに書かせたかは判りませんが、その書かれた法華経を身延に送られて大聖人様のもとにおいて御宝前に安置し、お経、題目を大聖人様から唱えていただいて、その書写したお経の開眼の儀式を願ったのです。 そして御供養として、まず「御布施に小袖二重」。「小袖」は着物のことで、それが二重ねです。(第67世日顕上人H6.10.29/『大日蓮』H12.11)
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天台大師や釈尊は、法華経自体を本尊とされていたが、大聖人自ら、信徒の法華経を開眼されていたのである。

・法華経の本尊にも開眼は必要である。

・法華経の本尊の開眼は正師による。



<「法華経の題目」の本尊>
4●末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり(弘安元年9月 57歳御作『本尊問答抄』全集366頁)
●問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし、問うて云く何れの経文何れの人師の釈にか出でたるや、答う法華経の第四法師品に云く「薬王在在処処に若しは説き若しは読み若しは誦し若しは書き若しは経巻所住の処には皆応に七宝の塔を起てて極めて高広厳飾なら令むべし復舎利を安んずることを須いじ所以は何ん此の中には已に如来の全身有す」等云云、涅槃経の第四如来性品に云く「復次に迦葉諸仏の師とする所は所謂法なり是の故に如来恭敬供養す法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり」云云、天台大師の法華三昧に云く「道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置し亦必ずしも形像舎利並びに余の経典を安くべからず唯法華経一部を置け」等云云。(弘安元年9月 57歳御作『本尊問答抄』全集365頁)
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大聖人は曼荼羅御本尊のことを「法華経の題目」「法華経」と表現されている。そして、曼荼羅を本尊とする根拠として、法華経を本尊とする文証を挙げておられる。すなわち、曼荼羅御本尊は末法適時の"法華経の本尊"なのである。

・釈尊・天台時代の本尊であった法華経を大聖人自ら開眼されていた事実は、"末法の法華経"である曼荼羅御本尊の開眼が必要であることを推認させる。


・仏像(画木)は法(法華経)によって正師が開眼する。(1●)

・法(法華経)自体にも開眼が必要である。(3●)→末法の「法華経」である曼荼羅御本尊(4●)にも開眼が必要。

・曼荼羅御本尊は仏像(画木)でもある。(2●)→仏像(木画)の開眼に関する御指南は曼荼羅御本尊にも当てはまる。




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●日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり。(『富士一跡門徒存知の事』全集1606頁)
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日興上人は曼荼羅御本尊を「妙法蓮華経の五字」とし、いわゆる仏像を「絵像・木像」と表現し区別されている。この御指南からすれば、『木絵二像開眼之事』などの「木絵(木画)」に曼荼羅御本尊は含まれない。従って、「画像・木像の仏の開眼供養」(『四条金吾釈迦仏供養事』)とは、曼荼羅御本尊以外の仏像の開眼のことである。
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@曼荼羅御本尊には仏像(木画)の側面がある。
 『本尊問答抄』では、曼荼羅御本尊のことを「法華経」「法華経の題目」と表現され、仏像(木画)と対比されている。この点は『富士一跡門徒存知の事』も同様である。
 しかし『観心本尊抄』においては曼荼羅御本尊のことを「寿量の仏」「仏像」と表現され、『草木成仏口決』では「草木にも成り給へる寿量品の釈尊」と仰せられている。(上記<「寿量の仏」「寿量品の釈尊」>参照)
 このことからすれば、曼荼羅御本尊は仏(仏像)の本尊の側面と法(法華経)の本尊の側面を合わせ持つことが分かる。仏像の側面から言えば「仏の御開眼」(1●)が必要だといえる。

A法の本尊にも開眼は必要。(上記3●)
大聖人は釈尊・天台時代の法の本尊である法華経を開眼されていた。だから、「絵像・木像」に曼荼羅御本尊が含まれないとしても、曼荼羅御本尊に開眼が不要だとはいえない。

B文字は草木であり開眼が必要。(下記<文字の開眼>参照)



【草木成仏の原理】
<『草木成仏口決』>
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 問うて云く草木成仏とは有情非情の中何れぞや、答えて云く草木成仏とは非情の成仏なり、問うて云く情非情共に今経に於て成仏するや、答えて云く爾なり、問うて云く証文如何、答えて云く妙法蓮華経是なり・妙法とは有情の成仏なり蓮華とは非情の成仏なり、有情は生の成仏・非情は死の成仏・生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり、其の故は我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり、止観の一に云く「一色一香中道に非ざること無し」妙楽云く「然かも亦共に色香中道を許す無情仏性惑耳驚心す」此の一色とは五色の中には何れの色ぞや、青・黄・赤・白・黒の五色を一色と釈せり・一とは法性なり、爰を以て妙楽は色香中道と釈せり、天台大師も無非中道といへり、一色一香の一は二三相対の一には非ざるなり、中道法性をさして一と云うなり、所詮・十界・三千・依正等をそなへずと云う事なし、此の色香は草木成仏なり是れ即ち蓮華の成仏なり、色香と蓮華とは言は・かはれども草木成仏の事なり、口決に云く「草にも木にも成る仏なり」云云、此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり、経に云く「如来秘密神通之力」云云、法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし、理の顕本は死を表す妙法と顕る・事の顕本は生を表す蓮華と顕る、理の顕本は死にて有情をつかさどる・事の顕本は生にして非情をつかさどる、我等衆生のために依怙・依託なるは非情の蓮華がなりたるなり・我等衆生の言語・音声・生の位には妙法が有情となりぬるなり、我等一身の上には有情非情具足せり、爪と髪とは非情なり・きるにもいたまず・其の外は有情なれば・切るにもいたみ・くるしむなり、一身所具の有情非情なり・此の有情・非情・十如是の因果の二法を具足せり、衆生世間・五陰世間・国土世間・此の三世間・有情非情なり。
 一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり、天台・妙楽・伝教・内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず、一色一香とののしり惑耳驚心とささやき給いて・妙法蓮華と云うべきを円頓止観と・かへさせ給いき、されば草木成仏は死人の成仏なり、此等の法門は知る人すくなきなり、所詮・妙法蓮華をしらざる故に迷うところの法門なり、敢て忘失する事なかれ、恐恐謹言。
(『草木成仏口決』文永9年2月20日 与最蓮房日浄)
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5●草木成仏とは非情の成仏なり、問うて云く情非情共に今経に於て成仏するや、答えて云く爾なり、問うて云く証文如何、答えて云く妙法蓮華経是なり・妙法とは有情の成仏なり蓮華とは非情の成仏なり、有情は生の成仏・非情は死の成仏・生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり(文永9年2月20日 51歳御作『草木成仏口決』全集1338頁)
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草木成仏とは非情の成仏であり死(人)の成仏。

6●画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし、(中略)此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり(建治2年7月 55歳御作『四条金吾釈迦仏供養事』全集1144頁〜)
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非情である「画像・木像」は開眼供養によって仏となる(草木成仏)。

7●塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり、止観の一に云く「一色一香中道に非ざること無し」妙楽云く「然かも亦共に色香中道を許す無情仏性惑耳驚心す」(文永9年2月20日 51歳御作『草木成仏口決』)
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開眼は木画に限らない。文字を認められた塔婆にも行われる。「一色一香」とは非情であり「無情」のこと。草木成仏の原理を知らない人は、木や紙などの非情に仏性があることに「惑耳驚心」する。

●草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり、経に云く「如来秘密神通之力」云云(『草木成仏口決』全集1339頁)
●御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(『御義口伝』全集760頁)
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 草木成仏によって草木(非情)が「寿量品の釈尊」となる。その例が塔婆である。
 法華経『寿量品』の「如来秘密神通之力」の文は「法華経の行者の一身の当体」すなわち曼荼羅御本尊の依文である。『草木成仏口決』では草木である塔婆が開眼によって「寿量品の釈尊」と顕れることを示され、そのことを「如来秘密神通之力」と仰せである。しかし本来「如来秘密神通之力」とは、非情である曼荼羅が「寿量品の釈尊」と顕れることを示されたものと拝される。

8●一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり、天台・妙楽・伝教・内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず、一色一香とののしり惑耳驚心とささやき給いて・妙法蓮華と云うべきを円頓止観と・かへさせ給いき(文永9年2月20日 51歳御作『草木成仏口決』全集1339頁)
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「一色一香とののしり惑耳驚心」とは塔婆の御指南のところで「色香中道を許す無情仏性惑耳驚心」(7●)と述べられたことと同じである。すなわち曼荼羅も非情(草木)であるが故に、仏性の存在を信じがたい。しかし、草木成仏の原理によって「草木にも成り給へる寿量品の釈尊」と顕れるのである。木画、塔婆、法華経はともに非情であり開眼によって草木成仏する。ならば曼荼羅も同様の方法(開眼)によって草木成仏すると考えられる。

9●一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり。(『観心本尊抄』全集246頁)

・非情の成仏は御書に明らか。(5●)

・では、いかにして非情が成仏するのか。仏様の所作によって実現する非情成仏は、御書に基づくならば「開眼」以外ない。(6●7●)

・草木成仏は一念三千の法門に基づく。(9●)故に木画の開眼は一念三千が説かれた法華経によって行われた。(6●)しかし、大聖人は法華経自体を開眼されていた。(3●)このことから、「一念三千の法門をふりすすぎたてたる」(8●)「大曼荼羅」(同)についても開眼が必要であることが分かる。



<文字の開眼>
●塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり(文永9年2月20日 51歳御作『草木成仏口決』全集1339頁)
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開眼は木画に限らない。文字を認められた塔婆にも行われる。

妙法蓮華経一部一巻小字経、御供養のために御布施に小袖二重・鵞目十貫・並びに扇百本。(建治3年 56歳御作『曾谷入道殿御返事』全集1057頁)
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この「小字経」というのは細字経のことで、小さい字で書写されたお経のことであります。この書写を曽谷さんが自らなさったか、それともだれかに書かせたかは判りませんが、その書かれた法華経を身延に送られて大聖人様のもとにおいて御宝前に安置し、お経、題目を大聖人様から唱えていただいて、その書写したお経の開眼の儀式を願ったのです。 そして御供養として、まず「御布施に小袖二重」。「小袖」は着物のことで、それが二重ねです。(第67世日顕上人H6.10.29/『大日蓮』H12.11)
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天台大師や釈尊は、法華経自体を本尊とされていたが、大聖人自ら、信徒の法華経を開眼されていたのである。

●日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ(文永10年8月 52歳御作『経王殿御返事』全集1124頁)
●此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う(中略)未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。(文永10年 52歳御作『観心本尊抄』全集247頁〜)
●されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし、其の上一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり、三種の世間と申すは一には衆生世間・二には五陰世間・三には国土世間なり、前の二は且らく之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり(建治2年7月 55歳御作『四条金吾釈迦仏供養事』全集1144頁〜)
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「五色のゑのぐは草木なり画像これより起る」と仰せのように画像は「五色のゑのぐ」に「魂魄と申す神(たましい)を入」れることによって「草木成仏」する。「五色のゑのぐ」が草木であれば「すみ」も当然草木である。草木であれば開眼によって「たましひ(魂)」を「そめなが」すことができるのである。「ゑのぐ」と「すみ」、「魂魄と申す神(たましい)」と「たましひ」という表現の類似、さらに曼荼羅御本尊を「仏像」と表現されていることから考えて、草木である曼荼羅御本尊が開眼によって成仏するのは明らか。

・文字(墨)は草木である。草木であるならば木画同様、開眼によって草木成仏する。




【口伝の存在と大石寺の化儀】
●されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし、其の上一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり、三種の世間と申すは一には衆生世間・二には五陰世間・三には国土世間なり、前の二は且らく之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり(『四条金吾釈迦仏供養事』全集1144頁〜)
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●木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。二十八十三四条金吾抄に云く「(※上記下線部)」と云云。
 文の中に「此の法門」とは、一念三千の法門なり。(中略)またまた当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云。(第26世日寛上人著『観心本尊抄文段』/『日寛上人文段集』聖教新聞社・初版469頁〜)
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「木画の二像」は「一念三千の仏種の魂魄を入るる」という行為によってはじめて「木画の全体生身の仏」となる。これが「草木成仏」の姿であるが、「文字及び木画」とあるから「文字」を認(したため)められた「今安置し奉る処の御本尊」(曼荼羅御本尊)もまた「木画の二像」と同様であることは明らかである。ということは曼荼羅御本尊もまた、文字が認められただけでは本尊としての力用がなく、「一念三千の仏種の魂魄を入るる」という特別な行為によってはじめて「生身の仏」となることが分かる。「木画の二像」に「一念三千の仏種の魂魄を入るる」行為とは開眼であるから、「今安置し奉る処の御本尊」(曼荼羅御本尊)に「一念三千の仏種の魂魄を入るる」行為もまた、開眼である。(<木画の開眼と草木成仏>参照)

●木絵の二像は本草木にてあり。しかるを生身の妙覚の仏と開眼したもうことは、大事至極の秘曲なり。日蓮聖人乃至日因に至るまで三十一代、累(るい)も乱れず相伝これなり(第31世日因上人著『御消息』妙喜寺文書/『折伏教本』284頁)
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第31世日因上人は、「木絵の二像」を「生身の妙覚の仏と開眼」することは大聖人以来の唯授一人の血脈相伝に基づくと仰せである。つまり、「木絵の二像」を開眼する「秘曲」が大聖人滅後、曼荼羅本尊以外の仏像が完全に排除された後世にまで相伝されているのである。ということは、『木絵二像開眼之事』で仰せの「木絵二像」とは再往、下種仏法の立場から言えば、曼荼羅御本尊のことである。

●此法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり此金口嫡々相承を受けざれは決して本尊の書写をなすこと能はず(第56世日応上人著『弁惑観心抄』212頁)
●金口血脈には宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり(第56世日応上人『法の道』/研教27-474頁)
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と仰せのように、御法主上人による開眼とは「唯授一人金口嫡々相承」「極意の相伝を御所持なされる」お立場からの崇高なる御境界においてなされるものなのである。しかるにその内容に関しては、血脈相承をお受けなされた御法主上人のみ知るところであり、余人が知る必要もなく、また知ることはできないのである。(『松岡幹夫の傲慢不遜なる10項目の愚問を弁駁す』H17.8.24)

●義理は化法なり、大道理なり・化儀は設けられたる信条なり、諸法度なり御開山の廿六箇条又は当化儀条目の如し又は其時々々に師より弟子檀那に訓諭せし不文の信条もあるべし(第59世日亨上人著『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻151頁)
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「廿六箇条」(『日興遺誡置文』)や「化儀条目」(『有師化儀抄』)は、大聖人滅後に付法の上人によって認められたものである。その意味では、相伝・口伝を文書化したものであるが、これらが化法に即した正依であることは学会も異論あるまい。さらに、これら文書化された御指南(相伝・口伝)だけではなく、「其時々々に師より弟子檀那に訓諭せし不文の信条」もまた、『日興遺誡置文』や『有師化儀抄』と同等に扱われるべきである。

●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人著『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
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大聖人の法門は御書がすべてではない。その振る舞い(化儀)や、相伝も合わせて大聖人の仏法なのである。それを正しく伝えられているのが、血脈付法の方なのである。

・大聖人の化儀を伝承してきた大石寺では、正師によって曼荼羅御本尊を開眼している。


●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。(弘安5年10月13日 61歳御作『身延山付嘱書』全集1600頁)
●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(大聖人・日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
●付弟一人之を書写し奉るべきの由、日興上人御遺誡なり(日尊=日目上人の弟子『日蓮宗宗学全書』2−418)
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 日興上人は何故、書写を付弟(法主)1人に限定されたのか。もし、御形木(模写またはコピー)でもよいのであれば、わざわざ法主1人に書写の権能を付与する意味がない。かといって、御形木を認めなければ広宣流布が進展したときに御本尊下付ができなくなってしまう。
 このことから分かることは、法主に本尊に関する一切の権能(書写、開眼、授与)が付与されたということであり、御形木を本尊たらしめる権能を法主が有するということである。この権能こそ開眼である。また、「背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり」という御指南からすれば、仮に開眼が不要であったとしても、法主の意に背く本尊には仏力・法力がない、ということが分かる。しかして、歴代御法主は本尊を開眼されてきたのであるから、やはり本尊には正師による開眼が必要、と考えるのが道理というものであろう。

以上のとおり、道理と文証と歴史的化儀の上から曼荼羅御本尊には正師による開眼が必要であることは明らかである。


「成仏」「仏」の意味と血脈


【有情の成仏、仏】
●蓮祖の門弟はこれ無作三身なりと雖も、仍(なお)これ因分にして究竟果分の無作三身には非ず。但これ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり。若し六即に配せば、一切衆生無作三身とはこれ理即なり。蓮祖門弟無作三身とは中間の四位なり。蓮祖大聖無作三身とは即ちこれ究竟即なり。(第26世日寛上人著『取要抄文段』/文段集571頁)
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「無作三身」とは仏様(如来)のことである。信心している人を無作三身と仰せであるが、これは「因分」であって真実の仏ではない。

●法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり(『松野殿御返事』御書1047、全集1382頁)
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「法華経を持つ者」が直ちに仏ではない。しかし、信心の血脈が通う限りにおいて(広い意味で)仏の意義を有する、ということか。

●所詮己心と仏心と一なりと観ずれば速やかに仏に成るなり。故に弘決に又云はく「一切の詣仏、己心は仏心に異ならずと観(み)たまふに由るが故に仏に成ることを得」已上。此を観心と云ふ。(『三世諸仏総勘文教相廃立』全集569頁)

●南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待つて御覧ぜよ、妙覚の山に走り登つて四方をきつと見るならば・・・(『松野殿御返事』御書1051、全集1386頁)
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「退転なく修行」して初めて「最後臨終の時」に「妙覚の山」に登れるのが、我ら凡夫の現実の姿である。つまり、「受持即観心」であり、受持=臨終までの不退転の修行なくして成仏得道はないのである。



【信心の血脈】
●並開山日興上人、日目上人、日有上人等御箇條の條々不残御渡あって、さて元師の言様、此の秘法を胸中に納め玉ふ上は、日蓮、日興日目、乃至日因上人、日元、其許(そこもと)全体一体にて候。就中、日穏には、当今末法の現住、主師親三徳兼備にして、大石寺一門流の題目は皆貴公の内証秘法の南無妙法蓮華経と御意得候へとの御言也(第35世日穏上人『弁種脱体用味抄』/青年僧侶邪義破折班H17.6.7)
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これは34世日真(上人)に付法して隠居していた大石寺33世日元(上人)が日真(上人)の死去により当代法主として35世日穏(上人)に対し相承をおこなった時のものである。(『仏教者の戦争責任』178頁)

B●「初め此仏菩薩に従つて結縁し還つて此仏菩薩に於いて成熟す、此に由つて須らく下方を召すべきなり」と云ふ文句の文なり、(中略)此仏と云ふも此の菩薩と云ふも・共に久遠元初仏菩薩同体名字の本仏なり、末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり、猶一層端的に之を云へば・宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり(第59世日亨上人著『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻117頁)
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「宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり」とあるように、血脈に直系傍系があります。直系とは別しての唯授一人の血脈であり、傍系とは総じての信心の血脈です。

●只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ、(中略)妙法蓮華経の五字も又是くの如し・本化地涌の利益是なり(『生死一大事血脈抄』全集1336頁)
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「釈迦多宝上行菩薩血脈相承」とあるように、生死一大事の血脈は上行菩薩への別付属に由来するのです。そして、この別付嘱が末法においては唯授一人の血脈相承として日興上人以下の歴代上人に伝わっているのです。学会員は「釈迦多宝上行菩薩血脈相承」のみ認めて「宗祖開山已来血脈相承」(上記B●)を認めていません。これでは「弟子檀那等自他彼此の心なく、水魚の思ひを成して異体同心」(下記C●)といっても誰に同心してよいか分からず、各自が自分勝手に御書を解釈し、日蓮系門下のようになってしまいます。

C●総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり・・・信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり(『生死一大事血脈抄』御書514〜、全集1337頁〜)
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「総じて日蓮が弟子檀那」「信心の血脈」とあるように、これは日蓮大聖人の正統門下が正しい信心によって受けられる血脈のことです。日蓮大聖人の正統門下であるためには、唯授一人の血脈を信じ、別付嘱の方に随順することが必要なのです。ここでは同抄の趣旨より、「日蓮が弟子檀那」であるための要件については言及されていないのです。(<生死一大事血脈抄>参照)

・「成仏」「仏」といっても、その意義は一様ではない。刹那成道、一生成仏、因分の上の仏(仏性があるから仏、信心しているから仏など)、と様々な意義がある。

・たとえ一生成仏したといっても釈尊や大聖人のような仏様(法門を確立し、法体を建立し、能動的に衆生を導く)になる訳ではない。

・但し、仏道修行の途上であっても正師に随順し師弟相対の信心を実践することによって血脈が通い、(条件付きの広い意味で)仏の意義の一分が顕れるのであろう。




【非情の成仏】
●但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ(『真間釈迦仏御供養逐状』全集950頁)
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開眼によって仏像が「生身の教主釈尊」になると仰せである。

●春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す(『三世諸仏総勘文教相廃立』全集574頁)
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応に知るべし、この中に草木の体はこれ本覚の法身なり。その時節を差えざる智慧は本覚の報身なり。有情を養育するは本覚の応身なり。故に不改本位の成仏というなり。(第26世日寛上人著『観心本尊抄文段』)
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[徳用]とくゆう=すぐれた働き、仏果に具わる功徳力用(りきゆう)を意味する。用は作用・働きの意。(『御書辞典』学会教学部編S52)
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日寛上人は上記『三世諸仏総勘文教相廃立』の御文を草木成仏(不改本位の成仏)の依文とされている。「有情を養育するは本覚の応身」「成仏の徳用」とあるように、衆生を幸福に導くような働きをもって草木成仏の姿とされている。

・草木成仏といっても木画、塔婆、一機一縁の曼荼羅など、その対象は様々であり意義も異なると考えられる。

・いずれにせよ直ちに釈尊や大聖人のような仏様(法門を確立し、法体を建立し、能動的に衆生を導く)になるということではない。

・開眼によって広い意味でも狭い意味でも仏の働き(行者を成仏に導く働き)が顕れる、ということではないか。





【開眼と血脈】
<本尊の活眼>
●法華を心得たる人・木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し(中略)法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり。(『木絵二像開眼之事』全集469頁)
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開眼は「法華を悟れる智者」に限るのです。ここでいう「法華を悟れる智者」とは一般信者ではありません。基本的には大聖人であり、それが無理な状況であれば、大聖人の命を受けた弟子が行うのです。↓

●但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ(『真間釈迦仏御供養逐状』全集950頁)
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開眼は誰が行ってもよいのであれば、わざわざ「伊よ房」にして頂く必要はない。

●妙法蓮華経一部一巻小字経、御供養のために御布施に小袖二重・鵞目十貫・並びに扇百本。(『曾谷入道殿御返事』全集1057頁)
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●この「小字経」というのは細字経のことで、小さい字で書写されたお経のことであります。この書写を曽谷さんが自らなさったか、それともだれかに書かせたかは判りませんが、その書かれた法華経を身延に送られて大聖人様のもとにおいて御宝前に安置し、お経、題目を大聖人様から唱えていただいて、その書写したお経の開眼の儀式を願ったのです。 そして御供養として、まず「御布施に小袖二重」。「小袖」は着物のことで、それが二重ねです。(第67世日顕上人H6.10.29/『大日蓮』H12.11)
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法華経の開眼でさえ、大聖人に依頼するのである。御本尊の開眼を自分でやってよい訳はない。

・「法華を悟れる智者」による開眼によって血脈が通う。「法華を悟れる智者」とは大聖人、日興上人以下歴代上人である。(B●)




<非情は有情に随う>
D●非情は有情に随ふ故に他宗他門の法花経をば正法の人には之れを読ますべからず、謗法の経なる故に、但稽古のため又は文字を見ん為めなどには之れを読むべし子細有るべからず、現世後生の為に仏法の方には之れを読むべからず云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻)
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 「非情は有情に随ふ」という原理からいえば、同じ法華経でも、邪宗の使う法華経を用いてはならないと仰せである。御本尊についても、謗法の者の本尊は、大御本尊から血脈が流れずに、分身散体の義が失われるのではないか。だから、拝んではならないのであろう。
 尚、「非情は有情に随ふ」という原理は、依正不二の原理に基づくようにも思われる。

[依正不二]=依正不二とは、依報と正報が一体不二の関係にあることをいいます。正報とは、過去の業の報いとして受けた心身をいい、依報とは、正報の拠り所である環境・国土をいいます。そして不二とは、二にして一体である、仏の不可思議な悟りをいいます。(『大白法』H7.8.16)
●三千の中の生陰の二千を正と為し、国土の一千を依に属する(妙楽大師湛然著『法華玄義釈籤』/『大白法』H7.8.16)
●衆生世間・五陰世間・国土世間・此の三世間・有情非情なり。(『草木成仏口決』全集1339頁)
国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり(『四条金吾釈迦仏供養事』全集1144頁〜)
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国土世間は依報であり非情である。衆生世間と五陰世間は正報である。このことから、開眼の対象である本尊や数珠、経本などは非情であり依報に属することが分かる。

本尊に関する一切の権能は御法主上人が所持されている。だから、允可・開眼された一機一縁の御本尊も、法義上、御法主上人の所持の内に入り、御法主上人に「随ふ」。ところが、受持者が謗法となり破門されると御法主上人の所持から離れ、血脈が切れる。(「非情は有情に随ふ」の「有情」を御法主上人とした場合の解釈)

※依正不二の原理は、一般的普遍的に成り立つ原理である。これに対して草木成仏の原理は、仏の側が意図的に非情に働きかけることによって成り立つ。また、草木成仏は、単に正報と依報の境界が一体不二という以上に、仏の妙用、とくに衆生を成仏へ導く働きが非情に顕現されているように思われる。

◆富士大石寺にそむく謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがない(創価学会作成『折伏教典』340頁/『大白法』H17.10.1)
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本尊自体はもともと有効であったものが、受者が謗法となり破門されたために、本尊としての意義を失う。その原理からすれば、たとえ血脈付法の日寛上人書写の御本尊といえども、破門された学会が所持したのでは「大聖人の御魂は住まわれるわけがない」。ましてや、勝手にコピーした"物"をや、である。

◆日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し、遺(のこ)されてある。
 これは、弘安2年の10月12日の大御本尊様のただ1幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです。
 だから、身延や仏立宗や霊友会なんか、いくらがんばっても、御利益がでようがないのです。(S30.8.24 札幌市商工会議所『戸田城聖全集』第4巻343頁〜)
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「身延や仏立宗や霊友会なんか、いくらがんばっても、御利益がでようがない」とあることから、身延が所持している大聖人の真筆本尊であっても「弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したもの」とはいえず「法脈が切れてますから、絶対だめ」ということが分かる。ここで「法脈が切れ」た原因は何か。「非情は有情に随ふ」(D●)という原理からすれば行者自身の退転によって、彼と彼が所持する一機一縁の御本尊が共に、御法主上人と大御本尊から離れてしまい、血脈(法脈)が切れたということである。

◆電灯にたとえて考えてみると、ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光を発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光が出ないのである(中略)したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である(創価学会発行『折伏教典』339頁/『創価学会「ニセ本尊」破折-100問100答』)
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まして、今日の創価学会では、電球(本尊)までニセ物を作ってしまったのですから、そのニセ物には、光(功徳)の出ることなど絶対にありえません。(『大白法』H23.8.1)

(前略)第26世日寛上人は妙楽大師の
 「須(すべから)く根源を討(たず)ぬべし」
との文を引いて、仏道修行は、仏法の"根源"を求めなくては功徳を得られない、とお示しです。
 御本尊様の根源は、大石寺におわします本門戒壇の大御本尊様ですよね。
 わかりやすく木にたとえますと、大御本尊様を木の幹だとすると、他の御本尊はすべて枝葉にあたります。
 枝葉に養分がいくのは、幹につながっているからで、枝葉を切り落としてしまったら枯れてしまいます
 それと同じで、根源の大御本尊様から心が離れてしまえば、その人の信心には功徳が流れ通わなくなる、ということです。
 だから私達は1回でも多く大御本尊様がおわします総本山に参詣させていただきたいという気持ちを忘れてはいけないんですね。(『慧妙』H18.7.16)

大海の水と小さな器の水とでは、同じ海水であっても違うように、本門戒壇の大御本尊は無量無辺の大海の水であり、末法万年の外未来までも流れる一切大衆の信仰の根源であり、功徳の本源であります。私達が家庭へいただいて一家で信心している御本尊とは、その意義が異なるのです。(『大白蓮華』第71号/『慧妙』H5.12.1)

・「成仏」「仏」といっても釈尊や大聖人のような仏様(法門を確立し、法体を建立し、能動的に衆生を導く)になるということではない。その意義には広狭浅深があり一様ではない(非情=画木、塔婆、曼荼羅御本尊、経本、数珠など 有情=因分の上の仏、究竟即の仏など)。

・非情は開眼によって大御本尊(大聖人)からの血脈が通い、仏の意義が条件付限定的に顕れる。

・有情は正師に師弟相対の信をとり、正師開眼の本尊を拝むことで血脈が通い仏の意義が顕れる。

・我々有情は、退転すれば血脈が断絶し、非情は所有者が謗法となることによって血脈が切れる。


一機一縁の御本尊も、我ら行者も本来仏ではない。本尊は正師による允可・開眼によって大御本尊の分身となり仏力・法力が具わる。行者は受戒し正師に信伏随従し、本尊に唱題することによって信心の血脈が通い、行者の唱える題目は御法主上人(大聖人)の「内証秘法の南無妙法蓮華経」となる。しかし、行者が背信し破門されれば行者自身は勿論、行者所持の本尊も御法主上人及び大御本尊から離れ、血脈が切れる。




邪難粉砕


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・『木絵二像開眼の事』の御文は、真言宗による木絵二像の開眼を痛烈に非難された内容である(「日蓮正宗青年僧侶改革同盟」発行『創価学会の御本尊授与の正当性について』)
・大聖人は『報恩抄』で「天台宗の人々画像(えぞう)木像の開眼(かいげん)の仏事をねらはんがために、日本一同に真言宗にを(堕)ちて、天台宗は一人もなきなり」と、開眼の仏事自体を厳に戒められている(同)
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 『木絵二像開眼の事』は、真言宗による開眼を批判されているが、併(あわ)せて、
 「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し」(御書P638)
と仰せである。脱落僧共が言うような、「開眼」自体を否定する内容では、けっしてない。
 『報恩抄』の御文もしかり。「"開眼の仏事"自体を厳に戒められている」などというのは、全くのデタラメである。以下に、脱落僧共が引用した部分の前から引用する。
 「弘法大師の御義はあまり僻事(ひがごと)なれば、弟子等も用ふる事なし。事相計(ばか)りは其の門家なれども、其の教相の法門は、弘法の義いゐにくきゆへに、善無畏(ぜんむい)・金剛智(こんごうち)・不空(ふくう)・慈覚(じかく)・智証(ちしょう)の義にてあるなり。慈覚・智証の義こそ、真言と天台とは理同なりなんど申せば、皆人さもやとをもう。か(斯)うをも(思)うゆへに事勝の印と真言とにつひて、天台宗の人々画像(えぞう)木像の開眼(かいげん)の仏事をねらはんがために、日本一同に真言宗にを(堕)ちて、天台宗は一人もなきなり。」(御書P1015)
 要するに、当時の天台宗が、真言宗の印・真言を掲げる邪義に同じて開眼供養を行なうようになったことを批判されているのであって、"開眼の仏事自体を厳に戒められて"いるわけではない。(『慧妙』H24.2.1)



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「開眼によって単なる物質が仏様になる」ですって?だったら三大秘法自体不要になりますね。
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●画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし、(中略)此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり(『四条金吾釈迦仏供養事』全集1144頁〜)
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非情である「画像・木像」は開眼供養によって仏となる(草木成仏)。これは他ならぬ大聖人の御教示である。これを信じられないのであれば"御書根本"を撤回すべきであるし、最早大聖人の門下とはいえない。

三大秘法自体不要になりますね
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●凡そ草木成仏とは、一往熟脱に通ずと雖も、実はこれ文底下種の法門なり。その故は宗祖云く「詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり」と。一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文底に秘沈し給えるが故なり。(中略)若し草木成仏の両義を暁(さと)れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云。(第26世日寛上人著『観心本尊抄文段』/『日寛上人文段集』聖教新聞社・初版469頁〜)
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木画は法華経によって開眼されたが、曼荼羅御本尊の開眼は三大秘法によって行われるのだ。そのことは「草木成仏とは、一往熟脱に通ずと雖も、実はこれ文底下種の法門なり」「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文底に秘沈し給える」との教示に明らかである。



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肉体も物質も全て「色法」であります。「開眼することで、単なる物質が、民衆をお救いになる仏様になる」のであるなら、仏道修行が不要になります。信者に御本尊を与える事などせずに、信者(色法)を開眼すればそれですむ事になりますな・・・。

●凡そ心と色法とは不二の法(『諸宗問答抄』)
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色法と心法とは必ず一体(色心不二)であると教えにあるのですから、信者を開眼すればそれで済んでしまう事になる。開眼で「色心不二の仏様」のできあがり。あ〜ら「三大秘法」も「唱題」も「折伏」もいらなくなりますぅ。本当に素晴らしい邪説ですな。ぷっ
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「開眼することで、単なる物質が、民衆をお救いになる仏様になる」のであるなら、仏道修行が不要になります。
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開眼どころか学会本部の見解では、正師書写の本尊をコピーしただけで「単なる物質が、民衆をお救いになる仏様になる」としているではないか(爆笑)。また、開眼によって仏力・法力を具えた本尊となるのであり、その御本尊を生身の仏と拝するのである。「仏道修行が不要」どころか、開眼された御本尊を信受し勤行唱題することが仏道修行の基本である。


色法と心法とは必ず一体(色心不二)であると教えにあるのですから、信者を開眼すればそれで済んでしまう事になる。
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●草木成仏とは非情の成仏なり(中略)我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり(『草木成仏口決』全集1338頁〜)
●画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし、(中略)此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり(『四条金吾釈迦仏供養事』全集1144頁〜)
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有情の成仏を「即身成仏」、非情の成仏を「草木成仏」という。草木成仏は「開眼供養」によって成就する。非情である「画像・木像」も開眼供養によって仏となる(草木成仏)。すなわち開眼供養は非情に対するものであって有情である「信者」に開眼などできないのである。(ぷっ 爆笑)

●我等一身の上には有情非情具足せり、爪と髪とは非情なり・きるにもいたまず・其の外は有情なれば・切るにもいたみ・くるしむなり(『草木成仏口決』全集1339頁)
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「色法」といっても我々の意識とつながっている(神経がある)手足や胴体などは有情なのである。だからもし「信者を開眼」するのであれば非情である「爪と髪」を開眼することになる。しかし、それらは我々の心(意識)と無関係であるから、成仏するのは「爪と髪」であって我々自身ではない。「色心不二」というのは、この場合、有情の色心を指すのであろう。

 開眼は弟子檀那の仏道修行のために正師が行うもので、それ以外の目的で行われるものではない。また草木成仏といっても木画、塔婆、一機一縁の曼荼羅など、その対象は様々であり意義も異なると考えられる。いずれにせよ直ちに釈尊や大聖人のような仏様(法門を確立し、法体を建立し、能動的に衆生を導く)になるということではない。開眼によって大聖人(大御本尊)からの血脈が通い、(広い意味でも狭い意味でも)仏の働きが具わる、ということではないか。
 そのことは、我々有情の成仏についても同様で、刹那成道、一生成仏、因分の上の仏(仏性があるから仏、信心しているから仏など)、と様々な意義がある。また、たとえ一生成仏したといっても釈尊や大聖人のような仏様になる訳ではないのだ。但し、仏道修行の途上であっても正師に随順し師弟相対の信心を実践することによって血脈が通い、(条件付きの広い意味で)仏の意義の一分が顕れるのであろう。



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 戒壇本尊以外の現存する真筆御本尊はどの様に解釈すればいいのだろうか?法華講の立場から言えば、真筆本尊は宗祖が開眼したはず。開眼された本尊は、多数大石寺以外の寺々に保管されている。他門に存在する本尊を信仰の対象にしても可と言うのだろうか?
 それとも何者かによって、「閉眼」されたとでもいうのであろうか?若しくは開眼された本尊の有効性が自動的に切れるとでも考えているのであろうか?
 う〜ん。やはり穴だらけのインチキロジックだな。
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非情は有情に随ふ故に他宗他門の法花経をば正法の人には之れを読ますべからず、謗法の経なる故に、但稽古のため又は文字を見ん為めなどには之れを読むべし子細有るべからず、現世後生の為に仏法の方には之れを読むべからず云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻)
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「非情は有情に随ふ」という原理からいえば、同じ法華経でも、邪宗の使う法華経を用いてはならないと仰せである。御本尊についても、謗法の者の本尊は、大御本尊からの血脈が流れずに、分身散体の義が失われるのではないか。だから、拝んではならないのであろう。「閉眼」などという用語があるのかないのか知らないが、あるとしてもそれは大御本尊からの血脈が通う御本尊を焼却する場合に行うものであって、邪宗所持の真筆本尊には該当しない。

◆富士大石寺にそむく謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがない(創価学会作成『折伏教典』340頁/『大白法』H17.10.1)
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本尊自体はもともと有効であったものが、受者が謗法となり破門されたために、本尊としての意義を失う。その原理からすれば、たとえ血脈付法の日寛上人書写の御本尊といえども、破門された学会が所持したのでは「大聖人の御魂は住まわれるわけがない」。ましてや、勝手にコピーした"物"をや、である。

◆日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し、遺(のこ)されてある。
 これは、弘安2年の10月12日の大御本尊様のただ1幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです。
 だから、身延や仏立宗や霊友会なんか、いくらがんばっても、御利益がでようがないのです。(S30.8.24 札幌市商工会議所『戸田城聖全集』第4巻343頁〜)
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「身延や仏立宗や霊友会なんか、いくらがんばっても、御利益がでようがない」とあることから、身延が所持している大聖人の真筆本尊であっても「弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したもの」とはいえず「法脈が切れてますから、絶対だめ」ということが分かる。ここで「法脈が切れ」た原因は何か。身延が所持している本尊を、日興上人が「閉眼」される訳ではないから、行者自身の血脈が切れたために、彼が所持する一機一縁の本尊も大御本尊からの法脈が切れたということである。



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"法主の開眼が不可欠"なる言い分は御書のどこにもない邪義(『創価新報』H23.12.7)
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<依義判文の正義>
 「御書にない」と言いさえすれば、それでまかり通ると思い込んでいる様は、何とも哀れなものだ。
 「依義判文」の意義を知らないのだろうか。正義に基づいて御書を拝してこそ、その文意も正しく知ることができるのであり、そこから離れてしまえば、いかに御書を拝そうとも、その意義内容を正しく理解することなどできない。
 その根本とすべき正義こそが、唯授一人血脈相承に存するのである。故に、この御相承から離れれば、御書の文意を正しく拝することなどできない。
 その証拠に、他の日蓮各派でも御書を読むが、7百年来、全く正解に到達きずにいるではないか。

<正義は付嘱にある>
 日蓮大聖人は『三大秘法稟承事』に、
 「此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)、地涌千界の上首として、日蓮慥(たし)かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介爾(けに)計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり」(御書P1595)
と、釈尊よりの口決相承を示されている。
 これは、一往外用の御立場を前提とされて釈尊からの付嘱という形式を用いられているものの、再往内証深秘の上から考えれば、この三大秘法は釈尊の所有ではなく、元来が大聖人御所持の法体なのである。
 その深義はさておき、大聖人は「日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承」とまで仰せになり、御相承の重要性を教示されている。にもかかわらず、この御相承を軽んずることは、大聖人の御指南に背く所業に他ならず、これではいかに仏法を学ぼうと、正義に通達することなど、夢のまた夢である。

<根本の筋目たる血脈相承>
 また、大聖人は御入滅に際し、その一期御化導の締め括りとして、
 「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す」(同P1675)
と遺言せられた。
 この「日蓮一期の弘法」の正体とは、大聖人御教示の三大秘法にして、その中心は本門戒壇の大御本尊に在(ましま)すのである。そして、
 「上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」(同P1702)
と示され、尽未来際に至るまで、大聖人の仏法の正義たる三大秘法は、付嘱によって相伝されると遺誡された。
 今、その正義は、御法主日如上人猊下が伝持されるところであり、そのお立場に基づき、御書写をはじめ御本尊に関する一切の権能を所持されるのである。
 この正しい筋目から離れて、どうして正義が語れようか。したがって理の推すところ、創価学会が独自に作製販売する『ニセ本尊』には、いささかも大聖人の正義は存しないのである。

<創価の立義は御書にある?>
 逆に、「御書のどこにもない邪義」と言い張る学会員に聞いてみたいものだ。
 「大聖人直結」なる語は御書のどこにあるのか?
 「友人葬」はどこに示されているのか?
 「永遠の指導者」の意義は御書に書かれているか?
 そもそも「創価」の語が御書のどこにあるのか、と。
 これらは、すべて造語であるから、血眼(ちまなこ)になって探しても見つかりはしない。
 詰まるところ、創価学会は、大聖人直結、御書根本などと言いながらも、その意味するところは、池田大作が解釈する御書の説明に直結しているに過ぎない。
 池田教とか池田創価学会と呼称される所以であり、大作の大謗法が、こうやって学会員の命の奥底にまで浸潤していくのである。
 大作の恣意に翻弄されていながら、「大聖人直結」「御書根本」とは、全くもって呆れた言い分である。(『大白法』H24.6.1)



【血脈と開眼をオカルトと謗ずる邪難を破す】
―仏法はもとより不思議・秘密・神通の法―
―唯物論的見方の誹謗者には理解不能!―

(『慧妙』H28.1.1)

 近年のネット上における、謗法者の悪意ある中傷誹謗(ひぼう)の書き込みは、いまだに後を絶たない。
 今回は、宗門における血脈の尊厳と、御本尊の開眼に関する邪難を取り上げ、破折してみたいと思う。
 ネットを閲覧すると、以下のような邪難がある。
 「釈尊も天台も日蓮大聖人も、仏教の中に神秘・秘密主義的・超能力的なものを取り入れていないのである。ゆえに、血脈とか、開眼とか、呪術的な加持祈祷(きとう)とかは、説かれていない」
 「既にある御本尊に魂を入れたり取ったりする超能力が具(そな)わる、とでも言うのであろうか。これでは、まるでオカルト宗教ではないか。法主が開眼しなければ、御本尊の力用(りきゆう)はない、と御書のどこに書いてあるのか。このような仏法と全く関係のない超能力なんぞ、大聖人が一番禁じられている」
等々という内容である。
 つまり唯授一人の血脈相承や御本尊に魂を入れる開眼の法儀は、神秘的で超能力のようなものであり、このような呪術的な教義は大聖人も取り入れていない、として、血脈の尊厳と御本尊の開眼を全否定しているのだ。
 本宗より離反した者共がこの邪義を唱える背景には、自分達の教団と偽(ニセ)本尊を正当化せん、との意図がある。要するに、自分達の教団が生き延びていくための、保身の邪義である。
 だが、これらの疑難は、宗門7百年の法水を軽んじる恐るべき謗法行為であることを、まず最初に指摘しておく。
 さて、末法衆生を救済する下種仏法を、大聖人已来今日に至るまで正しく護持伝承してきたのは、大石寺の御歴代上人であり、創価学会が正法正義に巡り会えたのも、この血脈相伝の恩恵によるものである。
 また、宗門から破門される以前の学会員が下附された御本尊にしても、宗門古来よりの化儀伝統に則(のっと)り、すべて御法主上人が開眼供養なされてきたのは紛(まぎ)れもない事実てあり、これを会員宅に安置し、信仰に励んできたことも、また事実である。
 にもかかわらず、血脈相承と御本尊開眼を超能力などと揶揄(やゆ)し、あたかも非現実的なおとぎ話であるかのごとくに軽んじる、昨今の謗法者たちの暴言は、けっして許されるものではない。
 そもそも、自分たちの知らぬ事柄をすべて否定する態度は、難信難解の法門を体得しようと志す仏教者の姿勢ではない。
 また、目に見える事物以外をオカルトと揶揄する、唯物論的な偏見に陥(おちい)った彼らの見方からすれば、法華経の説相にある宝塔の涌現も、竜女成仏も、地涌の菩薩の出現も、すべて架空の話となろうし、ひいては御本尊の功徳力も、超能力や超常現象としか捉えられなくなる。
 だが、法華経に
 「如来秘密神通之力」
と説かれ、また天台大師も
 「妙とは不可思議に名づく」
と仰せのように、仏が説かれた真理(妙法蓮華経)とは、凡夫の頭では推(お)し量(はか)ることのできない、秘密・神通の法である。
 このことは、大聖人も『義浄房御書』に、
 「法華経の功徳と申すは唯仏与仏の境界、十方分身の智慧も及ぶか及ばざるかの内証なり」(御書P668)
と仰せのごとくである。
 されば、血脈や開眼について「神秘的・秘密主義的・超能力的なものは仏法と無関係」などと謗じて平然としている連中の疑難が、これらの金言に真っ向から違背していることは明白で、これ以上の反論は要しない。
 疑難者共は、自らを仏法者と任じながら、その実、非仏法者・唯物論者に堕していることに気付くべきであろう。呵々。