*日柱上人退座
(『地涌』第240号)
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/06/240.html
大正14年11月18日、総本山大石寺において日蓮正宗の宗会が開かれた。宗会では、当初は日蓮宗身延派への対策を協議していたが、
20日になって、当時の法主である第58世日柱上人の不信任を決議、辞職を勧告したのである。
身延派対策を練っていた宗会が、突如、法主の不信任案を成立させ、辞職勧告を決議した裏には、宗会議員たちの密約があった。いまふうに言えば“クーデター”計画があったのだ。いま日顕上人ら日蓮正宗中枢は、法主に逆らう者は三宝を破壊する者であり、これに過ぎたる謗法はないとしている。だが、大正14年11月の時点で、日蓮正宗の宗会は法主に対し不信任を決議し、辞めろと勧告しているのである。
いまの日蓮正宗中枢は、法主に信伏随従することが信心だなどと言っているが、それでは、法主に辞職を迫った当時の僧侶たちは、全員が三宝破壊の重罪を犯したことになり、信心もない輩ということになるのだろうか。
クーデターを起こすにあたって交わされた
盟約には、水谷秀道(のちの第61世日隆上人)、水谷秀圓(のちの第64世日昇上人)なども名を連ねている。これら、のちの法主上人たちも三宝破壊の重罪を犯したことになるのだろうか。
また、このクーデターの
裏に、日顕上人の実父・阿部法運(のちの第60世日開上人)がいたことはよく知られるところである。日開上人もまた三宝破壊の重罪を犯したと、今日にあって日顕上人は断言できるのだろうか。それとも、三宝破壊は信徒の場合のみ成立する罪だなどという、珍論を展開するのだろうか。
さて、大正14年11月18日、宗会の初日に、正規の宗会進行の裏で密かに進められていた日柱上人追い落としの
「誓約書」(全文)を紹介する。
少々、長くなるが注意深く読んでいただきたい。
「現管長日柱上人ハ
私見妄断ヲ以テ宗規ヲ乱シ、宗門統治ノ資格ナキモノト認ム、吾等ハ、速カニ上人ニ隠退ヲ迫リ宗風ノ革新ヲ期センカ為メ、仏祖三宝ニ誓テ茲ニ盟約ス。
不法行為左ノ如シ。
一、大学頭ヲ選任スル意志ナキ事。
二、興学布教ニ無方針ナル事。
三、大正十三年八月財務ニ関スル事務引継ヲ完了セルニモ不拘、今ニ至リ食言シタル事。
四、
阿部法運ニ対シ強迫ヲ加ヘ僧階降下ヲ強要シ之ヲ聴許シタルコト。
五、宗制ノ法規ニヨラズシテ住職教師ノ執務ヲ不可能ナラシム。
六、宗内ノ教師ヲ無視スル事。
七、自己ノ妻子ヲ大学頭ノ住職地タル蓮蔵坊ニ住居セシムル事。
八、宗制寺法ノ改正ハ十数年ノ懸案ニシテ、闔宗ノ熱望ナルニモ不拘何等ノ提案ナキハ一宗統率ノ資格ナキモノト認ム。
実行方法左ノ如シ。
一、
後任管長ハ堀慈琳ヲ推選スル事。
二、宗制寺法教則ノ大改正ヲ断行シ教学ノ大刷新ヲ企図スル事。
三、総本山ノ財産ヲ明確ニシテ宗門ノ財産トスル事。右ノ方法ヲ実行スルニ当リ本盟ニ反スル者ハ吾人一致シテ制裁ヲ加ル事。
以上ノ箇条ヲ証認シ記名調印スル者ナリ。
大正十四年十一月十八日
宗会議員 下山 廣健 同 早瀬 慈雄
同 宮本 義道 同
小笠原慈聞
同 松永 行道 同 水谷 秀圓
同 下山 廣琳 同 福重 照平
同 渡邊 了道 同 水谷 秀道
同 井上 慈善
評議員 水谷 秀道 同 高玉 廣辨
同 太田 廣伯 同 早瀬 慈雄
同 松永 行道 同 富田 慈妙
松本 諦雄 西川 眞慶
有元 廣賀 坂本 要道
中島 廣政 相馬 文覺
佐藤 舜道 白石 慈宣
崎尾 正道 」
前文は厳しい法主批判である。法主に対し「私見妄断ヲ以テ宗規ヲ乱シ」と決めつけている。これなど、いまの日顕上人にも該当する表現だ。ここで注目されるのは、法主を弾劾し隠退させることを「仏祖三宝ニ誓テ茲ニ盟約ス」としていることだ。
この「誓約書」に署名捺印した僧侶たちには、「三宝」(仏法僧)に当時の法主である日柱上人が含まれるなどといった意識はさらさらないことが判明する。
日顕上人を僧宝だとして、日顕上人を批判することは三宝破壊につながると、いまの日蓮正宗中枢は主張する。だが、大正14年当時の日蓮正宗の御歴々は、法主の打倒を「三宝」に誓っているのだ。いまの日顕上人らの「三宝論」からすれば、父君・日開上人を含む先達の行動は、仏法を識らぬ輩ということになるが、いかがなものだろうか。
日柱上人の不法行為として、「一」から「八」までの具体的事例があげられている。その中でことに注目されるのは、「四」である。
「阿部法運ニ対シ強迫ヲ加ヘ僧階降下ヲ強要シ之ヲ聴許シタルコト」
阿部法運(のちの日開上人)は、この宗会に先立つこと約4ヵ月前に日柱上人により処分されていた。阿部は総務(今の宗務総監)の職よりはずされ、能化(法主になりうる僧階)より降格されたのだ。このため法主になることが絶望的となった。日柱上人引き降ろしのクーデターの背景には、阿部に対する処分問題が尾を引いていたのである。
「7」も興味を引く。
「自己ノ妻子ヲ大学頭ノ住職地タル蓮蔵坊ニ住居セシムル事」
大学頭(次の法主が約されているポスト)が当時は空席であったからだろう。日柱上人の妻子が住職のいない蓮蔵坊に住んでいたのだ。
「誓約書」はクーデターのプランを記している。後任の管長(法主)として「堀慈琳ヲ推選スル事」となっている。
これについても、日柱上人を追い落としたはいいが、クーデターの隠れた首謀者である阿部法運が、いきなり法主につくのでは強硬な反対も予想され都合が悪いので、宗内に信望が厚い、のちの堀日亨上人がかつぎ出されたとするのが、一般的な見方である。
だが、これは本来の血脈相承のあり方にまっこうから対立するものである。おそらく、
衆議によって次の法主が指名されるなどといったことは、宗門において過去に1度もなかったのだろう。今日、法主を絶対視する者たちは、この事態をどのように理解するのだろうか。そのうえ、クーデターから脱落する者に対して、「吾人一致シテ制裁ヲ加ル事」としている。まさに血判状をもって法主打倒を盟約しているのだ。
クーデターは実行に移された。
大正14年11月20日、日蓮正宗宗会は次の決議をする。
「宗会ハ管長土屋日柱猊下ヲ信任セス」
不信任決議とともに、
辞職勧告も宗会で決議された。決議の主文は次のとおり。
「管長土屋日柱猊下就職以来何等ノ経綸ナク徒ラニ法器ヲ擁シテ私利ヲ営ミ職権ヲ乱用シ僧権ヲ蹂躙ス我等時勢ニ鑑ミ到底一宗統御ノ重任ヲ托スルヲ得ス速カニ辞職スル事ヲ勧告ス 大正十四年十一月二十日」
この日蓮正宗宗会の決議した日柱上人への批判に比べれば、本紙『地涌』の日顕上人への批判など、まだまだなまぬるい。
まして日柱上人には、失らしい失もなかった。それに比べ日顕上人は、たぐいまれな悪鬼入其身の破仏法者である。
いずれにしても、宗内の主だった僧侶が、時の法主上人を辞職させようと盟約、行動に移した歴史的事実は動かし難いものがある。この密約をおこなった者が、日柱上人退座後の日蓮正宗の主流となった。
繰り返すようだが、大正14年当時、
日蓮正宗において法主を批判することが、三宝破壊に即結びつくと考えている者はいなかったのだ。それが日顕上人のもとでは、法主は「現代における大聖人様」と称されるまでになった。それを許す日顕上人の慢心のほどが知れようというものだ。
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(『地涌』第241号)
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/06/241.html
先号に記述したように、
大正14年11月20日、日蓮正宗宗会は日柱上人に対して、不信任及び辞職勧告決議を突きつけた。これが総本山大石寺のお家騒動として、その後、半年間にわたり世情を騒がせた内紛の始まりとなる。
はたしてこうした事実を、「金口嫡々唯授一人相承」のための次期法主選定の方法として受け入れることのできる僧俗がいるだろうか。血脈相承のあるべき姿とはあまりにかけ離れた史実である。
まさに白法隠没の仏語を、みずからの身をもって示している大正時代末の日蓮正宗僧侶のこの姿こそ、仏意仏勅の創価学会出現の予兆と見るべきではあるまいか。
日柱上人に対する圧力は、宗会の決議だけではなかった。宗会の決議は20日だが、宗会初日の18日の夜半、日柱上人に対するイヤがらせがすでにおこなわれていた。
客殿で勤行中の日柱上人に対して、ピストルのような爆発音をさせて威嚇したり、客殿に向かって瓦や石を投げつけた。
当時の大石寺は、夜ともなれば静寂そのものであったろう。そのしじまを破るような爆発音を響かせ、瓦や石を投げつけたというのだから悪質きわまりない。
夜半の勤行ということだから丑寅勤行と思われるが、
丑寅勤行中の日柱上人にイヤがらせをしたのは、2名の僧であった。ただし、この2人は、後に警察沙汰となってから判明した実行犯のみで、この裏には教唆した者がいたとされる。
日柱上人に対する陰に陽にわたる圧力は、相当なものがあったと思われる。
日柱上人は、これら宗会議員たちの圧力に押されたためか、22日に辞職の意思を表明、辞表を書いた。日柱上人の辞表提出を幸いとして、
宗会議長の小笠原慈聞ほか3名は、同日すぐさま、文部省当局に届け出をするために上京。翌々日の24日、届出の手続きを完了した。新しい法主は、先の密約どおり、のちの堀日亨上人とされた。
日柱上人が突然退座の意思を表明したとの知らせは、大石寺の檀家総代らに伝わった。だが総代らは、自分たちになんの相談もなく、ヤブから棒に事が進められていることに猛反発。翌23日、宗会議員らのおこなっていることは許すことのできない暴挙であるとして、
宗会議員1人ひとりに檀家総代らが詰め寄るところまで、事態は紛糾した。
宗会議長の小笠原慈聞らが、文部省宗教局に、日柱上人の退座、日亨上人の登座の届けを提出するために上京したことを知った檀家総代らは、追いかけるように、27日の早朝、3名の代表を急きょ東京に派遣、文部省宗教局に事情説明、陳情をおこなった。もちろん彼らは、
日柱上人に対する宗会の退座要求が不当であることを主張したのである。
文部省宗教局は、檀家総代らの陳情に基づき、2日後の29日、
宗会側の主要人物である総務(今の宗務総監)の有元廣賀(品川・妙光寺住職)、水谷秀道(のちの第61世日隆上人)、松永行道(福岡・霑妙寺住職)を改めて召喚した。
文部省宗教局は、宗会側の“クーデター”に対して強い不快感を抱いていたようだ。下村宗教局長は3名の僧に対し、「
貴僧等は社会を善導教化すべき責任の地位にありながら今回の暴挙を敢て為すは何事か」(『静岡民友新聞』T14.12.3)と厳しく追及し、そのうえで、2日後の12月1日までに、
日柱上人に対して宗会が突きつけた不信任決議書と辞職勧告書を回収して、文部省まで持参、提出するよう命令した。
所轄官庁の宗教局としては、一宗のトップ交代が、クーデターのような形でおこなわれたとあっては、監督不行届きとなりかねないとの判断が働いたのではあるまいか。しかも、すでに辞表及び就任の書類を受理したことでもあり、ゴタゴタが表面化することを避け、円満な交代であったことを装うため、不信任決議書、辞職勧告書という不穏当な書面を撤回させ預かろうとしたのではあるまいか。
宗会側の代表3名は、“日柱上人おろし”に成功して大喜びしていたところへ、宗教団体の監督に絶大な権力を持つ宗教局長から厳訓され、肝の縮むような思いで大石寺に帰った。
もはやクーデターの成功を喜んでいるどころではない。ともかく宗教局長の命令どおり、12月1日までに、不信任決議書と辞職勧告書を提出することが最優先の行動とされた。
帰山した3名は日柱上人に対し、2通の書面の返却を懇請したが、書面はすでに檀家総代の渡辺登三郎の手に渡っていた。いまや立場は逆転し、3名の僧侶は檀家総代に返却を哀願するハメにおちいったのである。
だが檀家総代側も、これまでの経過からして、書面の返却を2つ返事で了承するなどといったことはしなかった。
宗会側僧侶3名は、日柱上人と上野村村長の立ち会いのもと、詫び状を檀家総代に提出し、やっとのことで2通の書面を返却してもらった。僧侶が檀家総代に詫び状を入れたのも愉快だが、上野村村長が立ち会ったというのも抱腹絶倒ものである。
それにしても、いま日蓮正宗の僧は、「信徒の分際で……」などと平気で発言し、時代錯誤の差別観で信徒を睥睨しているが、大正時代においては、お家騒動のあげく、僧侶が信徒に詫び状を入れたこともあったのだ。それも村長立ち会いのもとにである。いったい日蓮正宗の僧が、ふんぞり返り出したのはいつの頃からなのだろうか。
それはさておき、文部省宗教局長に恫喝され、なんとしてでも不信任決議書と辞職勧告書を手に入れなければと、切羽詰まった思いに駆られていた有元、水谷、松永の3名は、詫び状を信徒に差し入れるという予想外の出来事があったにせよ、回収すべき書面を手に入れることができた。
書面の提出期限の12月1日、僧侶たちは大宮駅(今の富士宮駅)を午前5時32分発の列車に乗り上京した。書面をたずさえた僧侶たちが緊張した面持ちで宗教局長の前にあらわれたのは、当時の交通事情からして、おそらく午後の2時か3時頃ではなかっただろうか。
〈筆者注 本記事は、大石寺のお家騒動を報じた『静岡民友新聞』(現在の『静岡新聞』)、『東京朝日新聞』(現在の『朝日新聞』)などを参考に記述しました〉
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(『地涌』第242号)
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/06/242.html
宗会側を代表する僧侶3名は、日柱上人に突きつけた不信任決議書と辞職勧告書を撤回のうえ、回収した。そして文部省宗教局長から指示された、提出期限の12月1日当日、なんとか差し出すことができた。だが、それですんなりと事態が収拾され、新法主の誕生ということにはならなかったのである。
宗会議員や評議員のクーデター派は、次の法主にのちの堀日亨上人(当時は堀慈琳を称し立正大学講師であった)を擁立するということで盟約し、
日柱上人に辞表を書かせ、日亨上人の就任承諾も得たうえで、11月24日に管長(法主)の交替を文部省に届け出ていた。
しかし
日亨上人は、その後のゴタゴタに嫌気が差し、新管長(法主)への就任を見合わせるとの意志表示をした。不就任を表明したのは、宗会側の3名の僧が宗教局長に弾劾された11月29日の直後と思われる。
一方、大石寺地元の檀家総代らは、日柱上人擁護の運動を広げるために、12月2日に上京した。上京したのは渡辺、笠井、井手の3檀家総代であった。3人の檀家総代は、篠原・東京信徒総務に面談、情報を交換するとともに今後の運動の展開などについて話し合った。
このとき総代らは、
日亨上人がいったん意思表示した管長不就任をひるがえし、再び就任の決意をしたことを知る。日亨上人としては、自分が管長就任を承諾しなければ、日柱上人の辞表がすでに文部省宗教局に受理されている現状からして、管長不在の状態が続き、無用の混乱を招くと判断したためと思われる。
この日亨上人が管長(法主)就任を再び承諾したことは、日柱上人を擁護しようとする大石寺の檀家総代らにとってはきわめて不愉快なことであった。日柱上人派の不利な先行きを予想させるからである。
そして、このニュースは、檀家総代らが白糸村村長・渡辺兵定宛に打った電報によって、大石寺の地元にもたらされた。
大石寺のクーデターは、すでに多数の地元有力者を巻き込んでの紛争になっていたのだ。
すでに11月27日、大石寺の地元より3人の総代が、宗教局に日柱上人留任の陳情をしていたが、それ以来、静岡と東京の信徒は連携を取り合いながら、代表が連日、宗教局に押しかけた。
しかし日柱上人の辞任届と日亨上人の就任届が、監督官庁である文部省宗教局に受理されている以上、法的に有効であり、それを覆すにはよほどの法的事由が必要となる。だが、日柱上人側も、クーデターを無効にする決め手には欠けていた。
さて、12月6日、日亨上人は、日蓮正宗の管長(法主)に就任するため大石寺に入山した。明けて7日、日亨上人は前管長の日柱上人に事務引き継ぎを申し入れる。
ところが事務引き継ぎに不可欠の檀家総代の立ち会いが得られず、引き継ぎはできなかった。総代がこぞって立ち会いを拒否したのだ。
新管長としての職務を遂行するために入山したにもかかわらず、事務引き継ぎができないため、日亨上人の管長就任は完全に暗礁に乗り上げてしまった。
日柱上人は大坊にそのままいつづけたので、日亨上人はやむなく、塔中寺院の浄蓮坊に入った。これ以降、同じ大石寺の境内で、日柱上人を擁するグループと日亨上人を擁するグループとが2派に分かれ、深刻な対立をすることとなった。
日柱上人の側には、大石寺の檀家総代をはじめ、主に東京などの檀信徒がついた。大石寺の檀家総代らにしてみれば、全国から集まった僧侶らが、なんの権限があって自分たちの大石寺住職(法主)を放擲しようとするのかということで、どうにも許せないものがあったのだろう。
当時の新聞などの論調を見れば、日蓮正宗という宗派(包括法人)の僧侶たちが密議し、大石寺(被包括法人)を乗っ取ろうとしている、といった論調が目立つ。「大石寺派」(日柱上人のグループ)と「日蓮正宗派」(日亨上人のグループ)といった表現も、新聞報道の中に散見される。
両派が大石寺内で深刻な対立を続けている12月10日頃、ある事件が起きた。11月18日の宗会開始以来、
本山に陣取り、阿部法運(のちの日開上人)の意を受けて日柱上人おろしの中核として動いていた東京・品川の妙光寺住職・有元廣賀総務(今の宗務総監にあたる)が、東京の信徒代表12名によって強引に拉致され、東京に連れ去られてしまったのである。
もともと日柱上人に対するクーデターは、この有元総務が、日柱上人に取り立てられた経過を無視して、日柱上人に敵対し、阿部法運側に寝返ったことによって可能になったとされる。ナンバー2のナンバー1への裏切りがあったればこそ、日柱上人降ろしが成功したのだった。そのクーデターの首謀者の1人が、信徒らによってあえなく強制下山させられてしまったのだ。大正時代の末寺住職は、日頃、信徒に世話になっている手前、信徒の意向に面と向かって争うことはできなかったようだ。大正14年は、両派ともに決定的な対抗策を講ずることもできないまま、暮れようとしていた。だが、暮れも押し迫った12月28日、日柱上人側が動きを見せた。突如、日柱上人が大石寺を下山し、東京に向かったのである。
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(『地涌』第243号)
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/06/243.html
日柱上人が、新年も間近に迫った大正14年12月28日、大石寺を下山したのは、クーデター騒ぎの後すぐさま旗揚げした正法擁護会など、日柱上人を擁護する東京の檀信徒たちとの連携をいっそう密にするためであった。大石寺内における両派の睨み合いという小康状態を、檀信徒の力を借りて打破しようとしたのだ。
正法擁護会は、クーデター派僧侶の活動を阻むため、12月中旬頃にはすでに結成されていたようだ。日柱上人が上京した12月28日には、『正邪の鏡』という真相暴露の小冊子(37ページ)まで発行している。
あわただしい年の瀬のさなかにもかかわらず、新しくできた小冊子を目の当たりにし、日柱上人を迎えた正法擁護会のメンバーの意気は、天を衝くものがあったのではあるまいか。
正法擁護会を中核とした日柱上人擁護の檀信徒は、新年早々、東京において全国檀徒大会を開くことを決定した。全国の檀信徒の声をもって、宗会クーデター派の非を天下に訴えることにしたのだ。
全国檀徒大会は、大正15年も明けて間もない1月16日の午後1時より、神田和泉橋倶楽部において開かれた。
この全国檀徒大会では次の5項目が決議された。1つひとつの決議を吟味する中で、紛争当時の状況を探ってみたい。
「一、管長即大導師の寳位を日柱上人に奉還することに努力邁進すること」
日柱上人は日亨上人に相承をおこなっていないので、日亨上人は法主ではない。ただし文部省宗教局に対し、日柱上人は管長の辞職届、日亨上人は就任届をそれぞれ出している。その限りにおいては日亨上人が管長であるとも言える。
すなわち檀信徒は、その当時の状況を、法主は日柱上人、管長は日亨上人と、本来なら1つであるべき法主と管長が、2つに分かれていると認識していたのではあるまいか。その現状認識が「管長即大導師」という表現に込められているようだ。
檀信徒は、血脈相承が、前法主である日柱上人の意思にまったく逆らっておこなわれることに、信仰上の危機感を持っていた。このようなことは600有余年の大石寺の歴史において、いまだかつてなかったことである。今まさに、クーデターによって法主の座が奪われようとしているのだ。
唯我与我の境界においておこなわれなければならない血脈相承が、破壊されることを危惧したのだった。
この下剋上にも似た出来事は、当時の世相からしても、人々に受け入れられるものではなかった。
大正時代は近代天皇制国家のもとにあった。上御一人の天皇より下万民に至るまでの不変の秩序立てこそ、優先されるべきことであった。その世相の中で、人々に範を垂れるべき僧侶が、下剋上の手本を見せたのだから、世間注視の大変な騒動となってしまったのだ。
「二、
戒壇の御本尊の開扉並に檀信徒に授與さるゝ御本尊の書冩は日柱上人に限り行はせられ血脈相承なき僧侶によつて行はれざる様適當の方法を講ずること」
檀信徒が、血脈相承のなされていない日亨上人による御開扉、御本尊書写を拒否しているのである。血脈擁護の立場からの主張であるが、それは現実的には、日亨上人へのあからさまな拒否反応としてあらわれてしまった。
よかれと思って管長を引き受け、早期に紛争を解決しようとした日亨上人の苦慮のほどは、はかり知れないものがあっただろう。
「三、日柱上人を排斥し又は之に與同した僧侶に對しては我等の目的を達するまで一切の供養を禁止すると共に信仰上の交際を斷絶すること」
クーデターを起こした反日柱上人派の僧侶は養わない、「信仰上の交際を断絶する」とまで言っている。檀信徒による僧侶の“破門”である。“破門”の理由は、僧侶が血脈の本来のあるべき筋道をはずし、衆を頼んで相承を強制して、血脈相承を破壊しているということである。
いまの日顕上人らは、いったいどちらの主張が正しいというだろうか。
日顕上人らの血脈相承観を規範にすれば、檀信徒の側が正しいと結論しなければならないはずだ。
日顕上人らには実に気の毒なことではあるが、史実は、現在の日蓮正宗を形成している血族、法類のすべてが、日顕上人らがいま声高に叫ぶ「血脈否定」「三宝破壊」をおこなってきたことを示している。日顕上人の父も、日蓮正宗役僧の師僧たちも、いまの日蓮正宗中枢がいうところの“堕地獄の因”を作ったことにならないか。
ことに
クーデターの黒幕である日顕上人の父・阿部法運(のちの日開上人)は、人に抜きん出た大罪をつくったということになるが、日顕上人はこれをいかに弁明するのだろうか。
皮肉な言い方はよそう。ここには重要な問題がある。今の日蓮正宗僧侶の師僧や先達は、
宗会の決裁によって法主を退座させた“実績”があるということだ。
しかも、当時の状況を調べればわかることだが、
日蓮正宗宗会によって不信任決議書、辞職勧告書をつきつけられた日柱上人に、さしたる失はない。だが、今の日顕上人には、明確な大罪が数限りなくある。いざとなれば日開上人、日隆上人、日昇上人らの方策にならって、
日蓮正宗宗会で日顕上人に対する不信任決議と辞職勧告決議をし、退座を迫ることも可能だ。
広宣流布の結束した歩みを、ここまでさんざんに乱したのは日顕上人である。日蓮正宗僧侶は与同罪をまぬかれるためにも、日顕上人の短慮と短気が破和合僧を招いたと、日顕上人に対する糾弾決議をおこなうべきだ。
「4、宗制寺法、教則の改正等は管長の寳位が日柱上人の奉還せられた以後に實現される様に適當の処置を採ること」
クーデター派に有利な規則の変更を阻もうとしたようだ。この時点で、両派ともに法的な検討を相当に詰めていたのではあるまいか。
「五、右の各項を實現するため數十名の實行委員を選定すること」
日柱上人復活に向けて、組織だった活動が、全国規模で展開されることになった。
この1月16日におこなわれた檀徒大会は、クーデター派と日柱上人を擁護する反クーデター派が、完全に決裂してしまい、一切の調停が不可能であるとの印象を文部省宗教局に与えた。そこで宗教局は最後の決断を下す。
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(『地涌』第244号)
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/06/244.html
日蓮正宗の管長をめぐる紛争を、話し合いによって解決できないと判断した文部省宗教局は、選挙によって管長候補者を選出することを決定した。その決定は、全国檀徒大会がおこなわれた1月6日に日蓮正宗側に伝えられたようだ。そこで、規則に従い、管長候補者選挙が告示された。
投票は郵送あるいは本人持参をもっておこなわれ、2月16日が投票締切。2月17日、大石寺宗務院において開票されることとなった。被選挙権者の資格は権僧正以上であった。ただし阿部法運は、僧階降格1年未満であったため除外された。
その結果、当時の宗内で被選挙権を有する者は、日柱上人、有元廣賀(品川・妙光寺住職)、堀慈琳(のちの日亨上人、浄蓮坊)、水谷秀道(のちの日隆上人、本廣寺)の4名となった。一方、選挙権を有している者は80余名いた。
日柱上人は選挙を有利にするため、1月25日、『宣言』を発表した。その内容の骨子は、「選挙に於て、日柱以外の何人が当選されたとしても、日柱は其人に対し、唯授一人の相承を相伝することが絶対に出来得べきものでない事を茲に宣言する」というものであった。選挙で自分に投票しなければ、血脈が断絶することになるぞと威嚇したのである。
なお『宣言』全文は以下のとおり。
「 宣 言
一、
日柱の管長辞職は、裏に評議員宗会議員並に役僧等の陰謀と、其強迫によつて余儀なくせられたるものであれば元より日柱が真意より出たものでない。かゝる不合理極まる経路に依て今回の選挙が行はれる事になった。
斯の如き不合理極まる辞職が原因となりて行はれる選挙に於て、
日柱以外の何人が当選されたとしても、日柱は其人に対し、唯授一人の相承を相伝することが絶対に出来得べきものでない事を茲に宣言する。
二、抑も唯授一人の相承は、唯我與我の境界であれば、妄りに他の忖度すべきものでない。故に
其授受も亦た日柱が其法器なりと見込みたる人でなければならぬ。聞くが如くんば、日柱が唯授一人の相承を紹継せるに対し、兎角の蜚語毒言を放つ者ありと。これ蓋し為にせんとての謀計なるべきも、斯の如き者は、師虫の族である。相承正統の紹継者は、日柱に在り。日柱を除いて他にこれなき事を断言する。既に不合理の経路に依て行はるゝ、今回の選挙であれば、これに依て他の何人が当選するとも唯我與我の主意に反するを以て、相承相伝は出来ないのである。乃ち仏勅を重んずる精神に基く故である。斯の如く日柱が相承を護持する所以は、謗徒の為に、宗体の尊厳を冒涜せられ、仏法の血脈を断絶せらるゝ事を恐るゝゆへである。
而かも米国の民主主義や、露国の無政府共産主義の如き事が、我宗門に行はれることになり、それが延ては終に日本国体に及ぼす禍根となるを悲む所以である。
三、日柱は宗体を顛覆せらるゝ事を痛嘆する者である。既にこれを憂慮せる清浄の信徒は、奮起して正義を唱へ、相承紹継の正統を、正統の正位に復すべく熱誠活動して居るのである。荀くも僧侶として信念茲に及ばざる如きあらば真に悲むべきである。即ち仏法の興廃は今回の選挙によつて定まるのである。願くば選挙に際し其の向背を誤らざんことを。
仏日を本然の大光明に輝かさんと願はん純正の僧侶並に信徒は、敢然として三宝擁護に奉ずるために、正路に精進し、倶に共に宗体を援助するに勇猛なれ。
南無妙法蓮華経
大正十五年一月廿五日
総本山五十八嗣法日柱 花押」
意に反して猊座を追われた日柱上人の無念がひしひしと伝わってくる。
日柱上人に退座すべき理由はなにもなかった。阿部法運(のちの日開上人、現日顕上人の父)の僧階を降格したばかりに、恨みを買い、クーデターを画策され、退座を余儀なくされたのだ。それも「陰謀」「強迫」によってなされたというのだから、穏やかではない。
さて、日柱上人を擁立する檀信徒の集まりである正法擁護会代表8名は、日亨上人に対して日柱上人の支援にまわってくれるよう懇請するため、大石寺の浄蓮坊を訪ねた。1月29日のことである。この日亨上人との会見には、大石寺の地元の檀家総代1名が同席した。
日亨上人と一同の会見は、1月29日から30日にかけて数度おこなわれたが、日亨上人が懇請をキッパリと退けたことにより、正法擁護会の工作は失敗した。
1月30日、正法擁護会は大宮町(富士宮市)の旅館・橋本館に引き揚げ、夜遅くまで善後策を協議した。日亨上人の説得に失敗した今、日柱上人の敗北はほぼ確定的である。そこで、正法擁護会の代表8名は、残された非常手段に訴えることにした。
明けて1月31日午後1時、一行は大宮警察署を訪ね、疋田警部補に面会。午後2時7分、大宮駅発の列車で帰京した。正法擁護会の代表たちは、前年11月の日蓮正宗宗会における不信任決議の不当性を訴え、日柱上人に対する脅迫事件の捜査を、疋田警部補に要請したようだ。(筆者注 時期の特定はできないが、日柱上人側が告訴していたことが後に判明する。これが後に日蓮正宗への警察の介入を招く)
こうして、管長候補者の選挙がおこなわれたが、開票前日の『静岡民友新聞』(T15.2.16)は、次のように報じている。
「屡報宗門の恥を天下にさらし、宗祖以来七百の誇り、血脈相承も棄てゝ管長選挙に僧侶と檀信徒が対立して醜争をつづけている日蓮正宗大本山富士郡上野村、大石寺の管長選挙も今十六日を以て投票を終り明十七日開票の筈だが、開票の結果は、檀信徒派擁立の土屋前管長の当選は到底覚束なく、僧侶派擁立の現管長事務扱、堀慈琳師の当選は疑ふ余地なき確実なものと観測されている。所轄大宮署では開票当日の大混乱を予測して官、私服の警官十余名特派し警戒に努める模様だ」
日蓮正宗の管長候補選挙の開票に警察官十余名が動員されることが報じられている。この新聞記事は、日蓮正宗内の対立がいかにひどいものであったかを示している。
そして、いよいよ開票日当日を迎える。
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(『地涌』第245号)
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/06/245.html
2月17日午前9時5分より、日蓮正宗管長候補者選挙の開票がおこなわれた。開票結果は次のとおり。
総投票数87票のうち、棄権が2票、有効投票85票中、
82点 当選 堀 慈琳師
51点 同 水谷秀道師
49点 同 有元廣賀師
3点 次点 土屋日柱師
日柱上人の得票は、たったの3票であった。当人の1票もあるので、時の法主であった日柱上人に「信伏随従」していた者は、たったの2名しかいなかったことになる。僧侶たちは、信徒には「信伏随従」を言うが、それはそのほうが自分にとって有利だと判断されたときだけである。
大正15年2月の管長候補者選挙の投票結果は、僧侶の「信伏随従」の程度を数量的に示した数少ない事例である。「信伏随従」した者は、投票権を有した僧侶87名中たったの2名、2.2パーセントである。これが僧侶の「信伏随従」の数値である。お寒い限りだ。
ともかく選挙は、日亨上人の圧倒的な勝利であった。あとは形だけの評議員会を開き、日亨上人を管長と決定し、文部省に申請して許可をもらうだけとなった。
これで、まる3ヵ月にわたって続いた泥沼抗争にも終止符が打たれるかと思われた。だが、またも事態は暗転する。
反日柱上人派は、開票当日の午後、大奥(大坊)において、“戦勝”を祝って日亨上人を囲み歓談していた。そこへ大宮警察署の疋田警部補が、数名の制服警官を伴ってあらわれた。この日は形だけの捜査で終わったが、翌18日より関係者一同は、大宮署において取り調べを受けることになる。
日蓮正宗宗会議長の小笠原慈聞を筆頭に、宗会議員、評議員総計21名に対する告訴が、日柱上人擁護派より出されていたのだ。日柱上人がやむなく辞表を書いたのは、脅迫によるものだ、と訴え出ていたのである。
翌18日は、あわただしく明けた。早朝、評議員会を開き、日亨上人を管長として文部省に申請することを決定。
総務・有元廣賀、参事・坂本要道2名が旅装をして急きょ上京し、翌19日には文部省に管長認可に必要な書類を提出した。警察の介入に驚き、急いで法手続きを済ませたのだ。
さて話は、警察の取り調べにもどる。
まず18日は、小笠原慈聞ら9名が午前9時より取り調べを受けた。取り調べは、署内の武道場に全員を入れ、そこから順次1人ひとりを取り調べ室に呼び出し、徹底的におこなわれた。調べは夜遅くまでつづいた。
ここに至って、前年の秋以来つづいた日蓮正宗の宗内抗争は、警察権力介入という最悪の事態に突入してしまったのだ。
訴えられた他府県に所在する僧たちは、後日順次、大宮署に召喚された。大宮署の苛酷な取り調べは、その後も連日のようにつづいた。
1月24日には早くも2名の者が書類を検事局に送られた。書類送検されたのは、日蓮正宗宗務院の加藤慈仁(慈忍という報道もある)と蓮成寺住職の川田正平(米吉という報道もある)の2名。この2名は前年11月18日、丑寅勤行中の
日柱上人を脅すため、ピストルのような音をたてたり、瓦や石を客殿に投げたことを自供した。
警察署から検事局に送られた書類には、その他、
水谷秀道(静岡県・本廣寺住職、のちの日隆上人)、小笠原慈聞(宗会議長)、有元廣賀(品川・妙光寺住職)、相馬文覚(理境坊住職)、中島廣政(寂日坊住職)、西川真慶(観行坊住職)、坂本要道(百貫坊住職)、早瀬慈雄(法道院主管)、松本諦雄(『大日蓮』編集兼発行人)、太田廣伯(静岡・蓮興寺住職)などの名が載っていた。日柱上人に対する脅迫の嫌疑をかけられていたのだった。さらに捜査は続行した。
富士大石寺の法主(管長)の座をめぐる争いは、脱することのできない袋小路に入った。大石寺始まって以来、最悪の事態だ。
だが解決の日は、意外にも早く来た。
3月6日午後1時53分の富士駅着の列車で、日柱上人、夫人、持僧と正法擁護会の者2名が到着。一行は自動車で大宮町(富士宮市)橋本館へ。
そこで
大石寺檀家総代3名と合流し、打ち合わせを始めた。夜には東京の正法擁護会の者2名が新たに加わった。打ち合わせは、深夜まで続いた。
翌3月7日、日柱上人らは2台の自動車に分乗して、大石寺に登山。登山の目的は、日亨上人に相承をおこなうことであった。
3月7日午前7時より総本山大石寺客殿において相承の式を挙行、午後1時に終了。午後は酒宴となった。3月8日午前零時より1時にかけて、血脈相承が日柱上人と日亨上人のあいだで執りおこなわれた。翌月の4月14日、15日には、日亨上人の代替法要が催された。
これをもって、日蓮正宗の法主の座をめぐる争いは終了した。
抗争劇は実にあっけない幕切れとなったのだが、日柱上人側が強硬な態度から、一挙に柔軟な態度に転じた背景には、文部省の下村宗教局長の調停があった。
調停がおこなわれたのは、2月の終わりか3月の初めと思われる。
大方の予想に反して、ただ1回の調停で和解が成立したという。
その場で5ヵ条の合意を見た。残念ながら、文部省の誰が調停の場に臨んだのかは判然としない。だが、誰が代表で調停の場に出て合意したにしろ、それに基づき両派の睨み合いが解消されたことはたしかだ。
ただし5ヵ条の合意内容は、当時、複数の新聞で報じられている。
一、宗體の維持に就ては前法主派、法主互いに協力する事
二、新法主は山中及び宗門を改正する事
三、宗門の重大事に就て新法主前法主相談する事
四、新法主は宗門の雑事には容喙せぬこと
五、新法主は僧俗の信行を増進すること
この5項目以外にも、日柱上人の「隠尊料」が問題にされた。その内容については、正法擁護会のメンバーである田辺政次郎が、日亨上人登座後の同年9月、『異体同心の檄文』という文書の中で一部明らかにしている。
田辺は、日蓮正宗側が日柱上人に約した「隠尊料」を履行しないということで、合意内容を暴露したのである。
その中で田辺は、以下のことを明らかにしている。
「然して日柱上人隠尊料は(現金三千円之れは『正鏡』にも記載あり)白米七十俵本山より供養すべき内約を大石寺檀徒惣代人の意見として相談せし事、然れども此事は同三月八日御相承の後ち再び改め減額せられた即ち白米廿五俵現金一千円となりし是れも約束だけで実行はせぬ事に聞及びたり」(筆者注 『異体同心の檄文』一部抜粋、文中『正鏡』とあるのは反日柱上人側の出した文書)
驚くべき事実である。血脈相承を円滑におこない御隠尊するにあたり、「隠尊料」が払われる約束になっていたと暴露しているのだ。しかもそれが相承を支障なくおこなう条件として、相承の前後に話されていたことがわかるのである。
隠尊料は調停合意の時点では、
現金3千円と白米70俵が、大石寺檀家総代の意見として述べられた。新管長側がそれをその時点で承諾したのかどうかは定かではないが、3月8日の相承のあとで、現金1千円と白米25俵に減らされてしまったと、日柱上人側の田辺は暴露している。
田辺が隠尊料のことを暴露したのは、まだ宗内抗争の傷も癒えぬ頃である。関係者全員健在であろうし、田辺の記すことが、あながちウソとは思えない。
隠尊料の実行不実行が、日蓮正宗内で人口に膾炙するようになるとは、「金口嫡々唯授一人相承」の金科玉条も、当時はその権威を失ってしまっていたと思われる。
ちなみに現金1千円が今日のどの程度の金額に相当するか換算してみる。大正15年当時、10キロの米はおよそ3円20銭である。今日の米の値段をかりに10キロ5千円とすると、隠尊科の1千円は、現在の約150万円となる。公務員の初任給は大正15年当時75円。現在13万円として換算すると、大正15年の1千円は現在の170万円となる。
もう1つおまけに換算してみよう。当時の『大日蓮』は15銭、いまの『大日蓮』は300円。すると隠尊料1千円は、約200万円となる。
どうやら日柱上人の隠尊料は、現在の150万円~200万円程度だったようだ。だが、日柱上人はそれすら与えられず、宗内の者ことごとくに敵対され、放逐されたのだった。
しかも猊座についていた期間は、2年3ヵ月という短期間であった。
日柱上人に対する日蓮正宗僧侶の仕打ちは、酷いものがあったと思われる。
新しく法主に登座された日亨上人は、学究肌の方であるから、「隠尊料」の取引に関与されることなど考えられない。
おそらく、このクーデターの筋書を書いた“政僧”たちが、日柱上人や正法擁護会の人々を宥めるために、その場しのぎの懐柔をおこなったものだろう。人のよい日亨上人を利用し、日蓮正宗を我が物にしようとする“政僧”たちの息づかいが聞こえてくる。
ただ、ぶざまな抗争で世の顰蹙を買ってしまった日蓮正宗であったが、日亨上人が総本山第59世として登座されたことは、なによりのことであった。日亨上人の人徳がなければ、抗争がこのように一挙に解決することもなかっただろう。
しかし、人徳、識見ともに、石山が仏教界に誇る至宝ともいえる日亨上人を、同門の者たちが抗争の中で容赦なく傷つけたことは、かえすがえすも残念なことであった。