創価学会破折
日開上人誹謗粉砕



日柱上人への相承/『慧妙』H14.12.16ほか

日柱上人退座

日柱上人退座/『地涌』第240~245号

「達磨の広告」破折

「本尊誤写事件」破折

勅額降賜



日柱上人への相承

(『慧妙』H14.12.16ほか)

<学会の邪説>
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 日蓮正宗第57世日正(上人)は、大正12年8月18日、病気療養先の静岡県興津で死亡した。この興津の一軒家で、日正(上人)は日柱上人に相承したのだが、極めて特殊な、異常とも思える相承をした。日柱上人に直接相承しないで、在家の者2名を療養先の一軒家に呼んで相承を預け、その2名の者が大阪蓮華寺において日柱上人に相承を伝えた。
 興津に一軒家を借りたのは、日柱上人への相承を阻もうとする者たちの仕業で、死期の近い日正(上人)を隔離したかったのである。日柱上人に対抗して次期猊座を狙っていた日開(上人=第60世御法主)が、指図して日正(上人)を一軒家に隔離したのである。
 したがって日正(上人)は、そばに仕える反日柱(上人)派と思われるお供の僧の目をくらまして、在家の者2名を呼び、相承を託したのであった。
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<破折>
[学会機関誌『大白蓮華』が学会を破折]
 まず、「在家に相承を託して蓮華寺で日柱上人に渡した」という件から。この件については、かつて、創価学会の機関誌『大白蓮華』誌上で、現学会参議会議長・辻武寿が真相をもって破折しているので、ここに引用する。

 「7月が過ぎ、8月も上旬になった。1日、(日正)上人は本山の大学頭・土屋慈観師を大阪から呼び寄せた。土屋師は、時に大阪の蓮華寺に在ったが、飛ぶようにして興津にかけつけた。土屋師は後の58世日柱上人である。
 土屋師を特に正師(日正上人)が呼び寄せられたのは、深い理由があった。日々に重なりゆく我が身の病から、幾ばくもない余命を覚られた日正上人が、大聖人以来、脈々と続いてきた法統を口伝相承すべく、とくにお呼びになられたのである。
 『土屋、只今参上致しました。おかげんはいかがでございますか』
 土屋師が緊張した面もちでたずねると、正師は、
 『うん、べつに何ともないが、わしもあまり長くはあるまいと思うので、あなたに来てもらったわけだ』
と、にこやかに微笑んだ。
 それからほど近い水口屋旅館において、総本山57世阿部日正上人より、58世土屋日柱上人への御相承が、2日1晩に亘(わた)っておごそかに行なわれた。
 いかなることが、どのように口決なされたか、凡夫の我々が知る由もないが、日蓮大聖人の大法が唯授一人2祖日興上人に口決相承があられたように、一分の余すところなく、日正(※日柱の誤植)上人に金口嫡々の御相承があられたことは明白である。
 唯、夏のこととて、蚊屋(かや)の中で行なわれたことだけが、御二方以外の石山門下が窺知(きゅうち)できた事実である。」(『大白蓮華』第56号・辻武寿記

 さらに『大白蓮華』翌月号は、「御相承」の場所について、正確を期すため、「訂正記事」を出している。

 「訂正記事
 本誌56号、16頁、臨終の明暗(6)57世阿部日正上人の御臨終の項で、
 『それから程近い水口屋旅館において、総本山57世阿部日正上人より、58世土屋日柱上人への御相承が、2日1晩にわたっておごそかに行われた』とありますが、これは編集記事の間違いでした。
 事実は、阿部日正上人は御臨終近きにあることを悟られておられましたのですから、『興津の一寓(いちぐう)で静かに御療養あそばされておられた。そして大阪から呼び寄せられた本山学頭・土屋慈観師(後の58世土屋日柱上人)は、日正上人の御住居から程近い水口屋旅館に止宿され、そこから阿部日正上人の御住居に通われて、2日1晩にわたって御相承を受けられたのである。
 御相承の大事だけに、慎んでここに訂正し、深く誤りを御詫び申し上げます。(編集部)」(『大白蓮華』第57号

 みよ、かつての学会は、真相に基づき、明らかに、「在家に相承を託した」「蓮華寺で相承した」等の妄説を打ち破っているではないか。
 また、かつては、「御相承の大事だけに、慎んで訂正」までしているのに、いまや、平気でデタラメを書いて本宗の血脈相伝を誹謗する・・・・これが創価学会の手口なのである。

[日達上人が明かされた全容]
 次に、「日開上人が、日正上人から日柱上人への御相承を邪魔した」との与汰話について。
 これらの疑難については、すでに日達上人が、太刀(たち)をもって瓜を切るがごとく明快に破折されているので、ここに奉載し、破折とする。

 「この日正上人は、7月のはじめ乃至(ないし)6月の終りかも知れませんが、大正12年の夏のはじめに体がお弱くなったために、いちおう興津へ一軒を借りまして、ご養生されておりました。その時に私も7月中頃以後、そこにお付きをしておりまして、よく、その間の事情は知っております。それで、8月11日の夕方に大学頭・日柱上人が、大阪の中弥兵衛という人と牧野梅太郎という人の2人に付き添われて、興津の日正上人のところへ来られました。
 また崎尾正道という人がおりまして、これは日正上人の弟子で、私よりも年は上だけれども、後輩の人でず。この人が非常に日正上人にかわいがられて、奥番なんか長くして、非常に用いられました。そのために、たいへん僭越(せんえつ)になって横暴(おうぼう)を極め、そして崎尾自身が日柱上人を非常に嫌っておった。日柱上人という人は非常に強い方で、悪いことがあると頭からガンガン怒る方でございますから、非常に付き合いにくい。それで崎尾も日柱上人を嫌がった。
 それに反し日開上人は温厚な方で、寂日坊から、常泉寺へ入られた。
 ですけれども、(崎尾は)日開上人にどうしても、日正上人の跡をやっていただきたい。そうすれば自分もきっと幅をきかせられる、と思ったのでしょう。そこで、日開上人を日正上人の跡にしようと、策謀したのでございます。
 ところが、日正上人は日柱上人を大学頭にしておるのだから、それより下の日開上人に法を譲るということはできないと、固い心があった。
 昨夜の本種院の話によっても、『崎尾正道は勝手なことをするからよく注意しろ』と言われたくらいで、非常に気にしておられたのであります。
 たまたま崎尾も興津へ行っておりまして、私も興津へ行って日正上人のお側へついて、お給仕をしておりました。崎尾も来て、何かと、若い我々に対していろんな、今も言ったとおり『日柱上人はだめだから、日開上人がやってくれなくては宗門はだめになる』ということを常に吹きこんだ。それから『師匠の日正上人もその心でいる』ということを言われましたから、私は本気にしておったのです。
 で、たまたま8月11日の夕刻、今言ったとおりに、日柱上人が日正上人に呼ばれて来た。その前に日正上人がもうお体が悪いからというので、本山では非常にいろんな策謀があったのです、崎尾がそのもとですが。
 そのために日正上人は、日柱上人がそれに巻き込まれることを恐れて、大阪へやってしまったのです。大阪の今の牧野梅太郎の家が宿屋をしておりましたから、そこにしばらく避けていろと言って、やられておったのです。
 その日柱上人が呼ばれて、その11日の夕方着きました。そのころの汽車はのろいですから、夕方やっと興津へまいられました。そして夏のことですから、蚊がおりますから、蚊帳(かや)をつって日正上人がおられました。そこへ3人が来ました。(中略)それで、しばらく話をされて、とにかく今夜12時に日柱上人にもう1遍来い、と言って帰しました。
 3人は、興津に大きな宿屋が当時ありまして、何というのか覚えていませんが、その宿屋へ行って泊っておって、夜中の12時に再び来まして、それで今度は日柱上人だけが、蚊帳に入ってゆっくりお話を聞いたのです。それがご相承だったのです。」(『蓮華』S47.6)

 このように、日達上人が事実を記されたことによって、「在家に相承を託した」とか、「日開上人が日柱上人への相承を阻もうと画策した」などと述べる学会の説は、ことごとくウソであり、真実は、日正上人より日柱上人へ直々に口決相承があり、学会のいう「策謀」とは、崎尾正道によるものであったことが明確にされているのである。
 この崎尾正道とは、池田の小説『人間革命』第8巻で、「蓮華寺のS住職」としで描かれており、宗門に敵対して離脱していった人物であるから、学会古参幹部諸氏も、その人となりについてはよく知るところであろう。
 その崎尾正道による策謀の汚名を、言うにこと欠き日開上人に着せるとは何ごとであろうか。
 しかし、右のように真実を見てくれば、学会の底意がどこにあるかがわかる。
 すなわち、「崎尾」という一僧侶の策謀とするより、現御法主日顕上人猊下の御尊父であり、後に第60世御法主となられる日開上人が策謀を企てたことにした方が、日蓮正宗の血脈を誹謗するには都合がよかったのである。
 以上に見てきたように、創価学会の疑難は、時に自らの機関誌さえ無視し、時に大恩ある日達上人の御言葉すらも無視して、都合よく作られたものである。
 このような御都合主義の疑難に騙(だま)され、地獄に道連れにされる創価学会員こそ哀れ、というほかない。


<学会の邪説>
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日亨上人が昭和26年に身近にいた僧侶に「柱師が知っておられるほどの相承は、ワシはすでに知っておる。何も3千円で相承をわざわざ買う必要などない、だから3千円の相承はワシには必要ないと突っぱねた」と発言された(離脱僧著『法主詐称』)
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<破折>
〈八木〉謹厳な日亨上人が、そのような不謹慎極まる発言をされるはずはないね。この連中は日亨上人が御存命でないのをいいことに何でも言いたい放題だね。もし日亨上人が言われたとすれば、「宗門として3千円を日柱上人に差し上げる件は、あくまで御隠居料としてであって、御相承に対する対価などではない」という意味ではなかったのかな。
〈司会〉そう思います。大正15年3月8日の日柱上人から日亨上人への御相承の儀式は、大石寺客殿において厳粛に執り行われたことが記録にも明らかです。(『大白法』H16.3.1)


<学会の邪説>
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>日柱上人は堀上人に伝えるべきものは何もなかった
>昭和26年の冬に、日亨上人が日柱上人を「信仰もなく学も行もない、親分・子分の関係を強いているヤクザの貫首」と批判した(離脱僧『法主詐称』)
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<破折>
この発言もまったく日亨上人の御言葉とは考えられないね。それというのは、日亨上人は昭和2年11月20日に宗内僧俗に対し、管長辞職の経緯につき告白されているが、その中で、日柱上人については、「大正4年に日柱師を学頭に推挙するの主動者となりてより同12年に58世の猊座に上らるまで直接に間接に力めて障碍なからしむるやうにした」と述べられているからだよ。この御言葉は日亨上人の日柱上人に対する信頼と評価を示していることは当然だよ。もし日柱上人が本当に「信仰もなく学も行もない、親分・子分の関係を強いているヤクザの貫首」のような方であったのならば、日亨上人ほどの正義感の強いお方が、自ら中心となって日柱上人を学頭に推挙されたり、さらにそれだけではなく、種々助力なさるはずなどないではないか。(菅野日龍御尊能化『大白法』H16.3.1)





日柱上人退座



【"事件"の経過】

【簡略破折】

【『地涌』の邪義】

【血脈の尊厳】

【混乱の要因】

【日開上人誹謗】

【御仏意】

【戸田会長指導】

【『悪書板本尊偽作説を粉砕す』】

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<大正14年11月18日>
・宗会議員および評議員が、日柱上人退座の件で「誓約書」を作成。(「誓約書」参照)

<同上>
・柚野村蓮正寺の住職前田正平が夜半に、「土屋日柱師が、本堂にて勤行中ピストルやうの爆音をさせたり本殿に向かって瓦石を投げつけた。(新聞報道/『仏教者の戦争責任』)

<大正14年11月20日>
・宗会、日柱上人の不信任を決議し辞職を勧告。(「管長不信認(ママ)決議案」「辞職勧告」参照)

<大正14年11月22日>
●おまい等両人よく聞け予は任意に辞職する3月末日までに(日柱上人/『仏教者の戦争責任』)
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「辞職勧告」をつきつけられた日柱上人は、宗会議長・小笠原慈聞と評議員座長・水谷秀道(後の61世、日隆上人)の2人を大石寺大奥対面所に呼び、「●」と言い放った。「任意に辞職」という文言に注目。

<大正14年11月24日>
・日柱上人、文部大臣・岡田良平に対し次のような「辞職届」を提示。
●野納儀去ル大正十二年八月廿二日以来管長ニ就職罷在候處多病ノ為メ事務所理難致候ニ付辭職致候ニ付此段及御届候也(日柱上人「辞職届」/『仏教者の戦争責任』)
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『地涌』第241号によれば、辞表を書いたのは22日。「宗会議長の小笠原慈聞ほか3名が、同日すぐさま、文部省当局に届け出をするために上京。翌々日の24日、届出の手続きを完了した。」(『地涌』第241号)

<大正14年11月25日>
・有元広賀、水谷秀道、小笠原慈聞の3名、文部省に堀慈琳師の「管長事務取扱申請書」を提出。(『仏教者の戦争責任』)

<大正14年11月28日>
・文部省の下村宗教局長、上記3名を同月28日に呼びつけ、翌29日、宗会による不信任決議ならびに辞職勧告について厳訓し、「決議案及勧告書は取消たらばどうか」と指導。(『仏教者の戦争責任』)

<大正14年12月1日>
・有元ら、決議案及び勧告書を取下げ、ふたたび下村宗教局長に面会。(『仏教者の戦争責任』)

<大正14年12月2日>
・文部省、堀慈琳師に対する「管長事務取扱」就任の辞令を発す。(『仏教者の戦争責任』)

※この時点で相承問題は一応決着していた。後の管長選挙では、堀慈琳師(日亨上人)が当選したのであるが、選挙をするまでもなく、日柱上人は、日亨上人を血脈を相承するに相応しい法器と認められていたということであろう。
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<大正14年12月4日>
・東京在住の信徒十数名が総本山大石寺に行き宗会議員ら(以下、新聞報道に基づき「僧徒派」とする)に対して抗議をおこなった。信徒側からは、田辺惜道、本田(音次郎か?仙太郎か?)、松本佐蔵、桜井某の4名が代表し、僧徒派からは、水谷秀道、有元広賀、下山広健、小笠原慈聞、福重照平が会談に出席したが、話し合いは平行線のまま、もの別れに終わった。(『仏教者の戦争責任』)

<大正14年12月14日頃>
・東京・品川の妙光寺住職・有元廣賀総務(今の宗務総監にあたる)が、東京の信徒代表12名によって強引に拉致され、東京に連れ去られてしまった。(『地涌』第242号)

・この頃、信徒側は「正法擁護会」を名乗り、本部を東京三田に置き僧徒派を批判する『正邪の鏡』と題する小冊子を発行し宗内の僧俗に配布した。(『仏教者の戦争責任』)


<大正15年1月16日>
・日蓮正宗の管長をめぐる紛争を、話し合いによって解決できないと判断した文部省宗教局は、選挙によって管長候補者を選出することを決定した。その決定は、全国檀徒大会がおこなわれた1月6日に日蓮正宗側に伝えられたようだ。そこで、規則に従い、管長候補者選挙が告示された。(『地涌』第244号)

<同上>
・正法擁護会を中心とする信徒たちが、東京神田において全国信徒大会を開催し、日柱上人を当選させるため全国檀信徒の覚醒を促すとともに、5項目にわたる決議書を満場一致で採択した。(「決議書」参照)

・また、この正法擁護会の動きに呼応して、全国の檀信徒も行動を起こしはじめた。たとえば、「大石寺の地元檀家七百余名は東京における前管長擁護の大会と相呼応し邪僧排斥の為檀家大会を近く大石寺内に開く」という新聞の報道もなされたし、兵庫県の兵庫教会の信徒組織である西宮本門講は、管長排斥問題について、西宮教会所を発行所として『明正録』という、退座に追い込んだ僧侶を批判する小冊子を出した。(『仏教者の戦争責任』)


<大正15年1月25日>
・土屋日柱上人はいったんは管長を辞任したものの管長選挙に立候補し、宗内の全僧俗に対して「宣言」を発表。(「宣言」参照)

<大正15年2月16日>
・管長選挙の投票が大石寺でおこなわれる。(『仏教者の戦争責任』)

<大正15年2月17日>
・管長選挙開票。開票の結果は当時の機関誌『大日蓮』3月号によれば次の通りであった。
当選 堀慈琳  83点
同  水谷秀道 51点
同  有元広賀 49点
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当選の3名はいずれも過半数を超える得票がなく、本来ならば決戦投票でもするべきところ、堀師が管長事務取扱であったところから話し合いで次期管長に確定したということらしい。(『仏教者の戦争責任』)

<同上>
◆勝った僧徒派が歓談の最中を取調べ 前管長擁護派から告訴してあつた脅迫事件
 日蓮正宗大石寺の管長選挙は昨報の如く十七日開票僧徒派の堀慈琳師が絶対多数で当選し信徒派の土屋前管長を物の見事に破つたので僧徒派は寺の大奥に集まり堀師をかこみ時の過ぐるのも知らず歓談にふけつて居ると午後一時頃突如大宮署の疋田警部補が数名の巡査を引率して参山し、かねて土屋前管長擁護派から告訴してあつた宗会議長小笠原慈聞師外各議員等二十名の脅迫事件の取調を開始したので歓談の夢も忽ち覚え果て僧徒派は非情なるろうばいを極め十八日には一部の僧徒は大宮署に同行せらる騒ぎである(新聞報道/『仏教者の戦争責任』)
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正法擁護会が、日柱上人に対する「宗会及び評議員会の不当決議と脅迫事件」を大宮署に告発していた。この刑事告訴は弁護士で正宗信徒であった田辺喜一を代理人として、正法擁護会の松本佐蔵、大草朝之助、田辺正太郎の3名が起こしたものである。

<大正15年2月18日>
◆僧徒派の取調べ 大石寺の騒ぎ
 富士郡上野村大石寺紛争に関し前管長を脅迫したとて告訴された宗会議長小笠原慈聞師外九名は十八日午前九時大宮署に召喚され武道場に押込められたる上、一人々々疋田警補の取調を受けて居るが尚他府県の住職中にも召喚を受けるものがあるらしいので大石寺内は十七日以後ゴヅタ返して居る(新聞報道/『仏教者の戦争責任』)

<大正15年2月19日>
◆大石寺の脅迫事件 取調大に進行
 日蓮正宗大石寺管長脅迫事件の取調べは大いに進行し大石寺の最高幹部の僧侶十三名は夫々大宮署の召喚十八日深更まで取調べ身柄は一時放還されたが大宮署では有力なる證拠を握つたらしく更に十九日には柚野村蓮正寺住職前田正平(二六)を召喚取調べたがその結果昨年十一月十八日夜半前管長土屋日柱が本殿にて勤行中ピストルやうの爆音をさせたり本殿に向つて瓦石を投げつけたことなどを自供したので共犯関係ある大石寺宗務院加藤慈忍(ママ)(二二)をも同日午後引致し教さ関係について取調べ中で事件は各方面に波及するやうである(新聞報道/『仏教者の戦争責任』)

・脅迫事件は僧徒派の自供もあってほぼ事件の全容をつかんだ警察から文部省へとその取り扱いが移るもようとなった。(『仏教者の戦争責任』)

<大正15年2月20日>
・正法擁護派が文部省の下村宗務局を訪問し、当選した堀慈琳師の不認可を陳情。
◆大石寺事件送局 正法派は新管長の不認可を宗務局に運動
 日蓮正宗の本山富士郡上野村大石寺土屋前管長脅迫事件は去る十七日以来大宮署において取調べを進めて居るが同寺宗務院の加藤慈仁(二二)及び同郡柚野村蓮成寺川田米吉(二八)の両人が脅迫の事実を自白しその證拠もあがつて居るので二十四日一件書類を送局したが一方正法擁護派の田辺(政)、中村、松本、藤原の四氏は去る二十日文部省に下村宗務局を訪問し不合理な選挙により管長に当選した堀慈琳師の不認可を陳情し局長も之を諒としたる由送局調書に乗った人々は左の如くである
 水谷秀道(五三)有元広賀(六〇)小笠原慈聞(五二)相馬文覚(三八)下山広琳(四九)中島広政(五七)西川真慶(五八)阪本要道(四六)早瀬慈雄(四八)松本締雄(三六)太田広伯(五九)
(引用者注、住所・寺院名は省略した)(新聞報道/『仏教者の戦争責任』)

<大正15年3月6日>
・午後1時53分の富士駅着の列車で、日柱上人、夫人、持僧と正法擁護会の者2名が到着。一行は自動車で大宮町(富士宮市)橋本館へ。
 そこで大石寺檀家総代3名と合流し、打ち合わせを始めた。夜には東京の正法擁護会の者2名が新たに加わった。打ち合わせは、深夜まで続いた。(『地涌』第245号)

<大正15年3月7日>
・日柱上人らは2台の自動車に分乗して、大石寺に登山。登山の目的は、日亨上人に相承をおこなうことであった。(『地涌』第245号)
◆宗教局長の調停で大石寺騒動解決す 新旧管長の妥協なり七日血脈相伝の式
 日蓮宗大石寺の管長排斥問題は下村宗教局長の熱心なる調停に依り土屋前管と堀新管長との間に妥協点立したので局長の懇請に依り血脈相伝の式を挙げることとなり全山の僧八十名と信徒総代渡辺登三郎、井出幸一郎、笠井民五郎の三氏立会で七日午前十時から大石寺大客殿において土屋前管長と日亨と改名せる堀新管長との間に荘厳なる血脈相伝の式あり同日午後より八日午前にわたって信徒等の会式ありさしもの粉憂もとにかく解決した妥協の条件左の如し
一、宗体の護持については前法主新法主互に協力する事
二、新法主山中及び宗門を改善する事
三、宗門の重大事については新法主前法主と相談する事
四、前法主は宗門の経営には容かいせざる事
五、新法主は僧りょの信仰を増進する事
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 日柱(上人)辞職の原因のひとつにクーデター派からの脅迫行為があったとはいえ、辞職届じたいは日柱(上人)自らが書き署名捺印した上で文部省に提出されており手続上は問題なく、結果として惨敗したとはいえ、管長選挙に立候補したということは日柱(上人)も選挙によって管長を選出するという方法を了承したことを意味している。
 下村宗教局長は186点中3点しか取れなかった日柱(上人)を再び管長に戻すことは不可能と判断し、日柱(上人)に対し隠退の条件面での妥協点を見い出す方法で動くしかなかった。(『仏教者の戦争責任』)



【『地涌』の邪義】
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<240号>
大正14年11月18日、総本山大石寺において日蓮正宗の宗会が開かれた。宗会では、当初は日蓮宗身延派への対策を協議していたが、20日になって、当時の法主である第58世日柱上人の不信任を決議、辞職を勧告したのである。
・身延派対策を練っていた宗会が、突如、法主の不信任案を成立させ、辞職勧告を決議した裏には、宗会議員たちの密約があった。盟約には、水谷秀道(のちの第61世日隆上人)、水谷秀圓(のちの第64世日昇上人)なども名を連ねている。
日柱上人には、失らしい失もなかった。
・このクーデターの裏に、日顕上人の実父・阿部法運(のちの第60世日開上人)がいたことはよく知られるところである。これについても、日柱上人を追い落としたはいいが、クーデターの隠れた首謀者である阿部法運が、いきなり法主につくのでは強硬な反対も予想され都合が悪いので、宗内に信望が厚い、のちの堀日亨上人がかつぎ出されたとするのが、一般的な見方である。
・衆議によって次の法主が指名されるなどといったことは、宗門において過去に1度もなかったのだろう。
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<241号>
・日柱上人は、これら宗会議員たちの圧力に押されたためか、22日辞職の意思を表明、辞表を書いた。日柱上人の辞表提出を幸いとして、宗会議長の小笠原慈聞ほか3名は、同日すぐさま、文部省当局に届け出をするために上京。翌々日の24日、届出の手続きを完了した。新しい法主は、先の密約どおり、のちの堀日亨上人とされた
・日柱上人が突然退座の意思を表明したとの知らせは、大石寺の檀家総代らに伝わった。だが総代らは、自分たちになんの相談もなく、ヤブから棒に事が進められていることに猛反発。彼らは、日柱上人に対する宗会の退座要求が不当であることを主張したのである。
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<242号>
・両派が大石寺内で深刻な対立を続けている12月14日頃、ある事件が起きた。11月18日の宗会開始以来、本山に陣取り、阿部法運(のちの日開上人)の意を受けて日柱上人おろしの中核として動いていた東京・品川の妙光寺住職・有元廣賀総務(今の宗務総監にあたる)が、東京の信徒代表12名によって強引に拉致され、東京に連れ去られてしまったのである。
・もともと日柱上人に対するクーデターは、この有元総務が、日柱上人に取り立てられた経過を無視して、日柱上人に敵対し、阿部法運側に寝返ったことによって可能になったとされる。ナンバー2のナンバー1への裏切りがあったればこそ、日柱上人降ろしが成功したのだった。
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<243号>
日柱上人は日亨上人に相承をおこなっていないので、日亨上人は法主ではない。ただし文部省宗教局に対し、日柱上人は管長の辞職届、日亨上人は就任届をそれぞれ出している。その限りにおいては日亨上人が管長であるとも言える。
・クーデターを起こした反日柱上人派の僧侶は養わない、「信仰上の交際を断絶する」とまで言っている。檀信徒による僧侶の“破門”である。“破門”の理由は、僧侶が血脈の本来のあるべき筋道をはずし、衆を頼んで相承を強制して、血脈相承を破壊しているということである。 いまの日顕上人らは、いったいどちらの主張が正しいというだろうか。日顕上人らの血脈相承観を規範にすれば、檀信徒の側が正しいと結論しなければならないはずだ。
・今の日蓮正宗僧侶の師僧や先達は、宗会の決裁によって法主を退座させた“実績”があるということだ。
・いざとなれば日開上人、日隆上人、日昇上人らの方策にならって、日蓮正宗宗会で日顕上人に対する不信任決議と辞職勧告決議をし、退座を迫ることも可能だ。
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<244号>
日柱の管長辞職は、裏に評議員宗会議員並に役僧等の陰謀と、其強迫によつて余儀なくせられたるものであれば元より日柱が真意より出たものでない。かゝる不合理極まる経路に依て今回の選挙が行はれる事になった。(日柱上人『宣言』)
・日蓮正宗の管長をめぐる紛争を、話し合いによって解決できないと判断した文部省宗教局は、選挙によって管長候補者を選出することを決定した。その決定は、全国檀徒大会がおこなわれた1月6日に日蓮正宗側に伝えられたようだ。そこで、規則に従い、管長候補者選挙が告示された。
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<245号>
・富士大石寺の法主(管長)の座をめぐる争いは、脱することのできない袋小路に入った。大石寺始まって以来、最悪の事態だ。 だが解決の日は、意外にも早く来た。
・3月6日午後1時53分の富士駅着の列車で、日柱上人、夫人、持僧と正法擁護会の者2名が到着。一行は自動車で大宮町(富士宮市)橋本館へ。 そこで大石寺檀家総代3名と合流し、打ち合わせを始めた。夜には東京の正法擁護会の者2名が新たに加わった。打ち合わせは、深夜まで続いた。 翌3月7日、日柱上人らは2台の自動車に分乗して、大石寺に登山。登山の目的は、日亨上人に相承をおこなうことであった。
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 日柱上人の御退座に際し、上人の管長としての宗門再建方針に対する異議に端を発した、宗内を二分する争論があったことは事実である。
 が、そもそもの争論自体は、宗門の将来を思えばこその真摯(しんし)なもので、また、過熱こそしたが宗規に則(のっと)っており、およそ「クーデター」と呼ぶような非合法なものでは、けっしてなかった
 しかして日柱上人は、争論の帰趨(きすう)を見据(みす)えた上で、最終的に自らの御判断で管長職を辞し、日亨上人に法を授(さず)けて御隠尊となられたのである。
 なお、日柱上人と日亨上人の間には、信頼関係こそあれ、確執などなかった。それは、昭和2年11月20日、日亨上人が、宗内僧俗に対し、
 「大正四年に日柱師を学頭に推挙(すいきょ)するの主動者となりてより同十二年に五十八世の猊座に上らるまで直接に間接に力(つと)めて障碍(しょうげ)なからしむるやうにした」
と述べられていることからも明らかである。日亨上人のお人柄からして、このお言葉に何らの虚飾がないことは、疑う余地のないところである。(『慧妙』H18.11.1)

※日柱上人の御事については、第41回全国教師講習会の砌の日顕上人御講義(『大日蓮』平成4年10月号所載)および、『慧妙』平成5年10月15日号・平成6年2月16日号・同6月16日号、『大白法』平成16年2月1日号・同3月1日号を参照されたい。



【血脈の尊厳】
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>衆議によって次の法主が指名されるなどといったことは、宗門において過去に1度もなかったのだろう。(『地涌』第240号)
>今の日蓮正宗僧侶の師僧や先達は、宗会の決裁によって法主を退座させた“実績”があるということだ。(『地涌』第243号)
>いざとなれば日開上人、日隆上人、日昇上人らの方策にならって、日蓮正宗宗会で日顕上人に対する不信任決議と辞職勧告決議をし、退座を迫ることも可能だ。(『地涌』第243号)
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 血脈を受けていない者の中に、ときとして獅子身中の虫が出て、正信の者まで扇動し大きな混乱を引き起こすようなこともある。しかしそれは、御書や経文に照らせばむしろ当然のことであり、それをもって「血脈の尊厳などない」と言うのは不信の者の邪推に過ぎない。
 日興上人の身延離山にみられるように、貫首に政治的権限がなく、それに従う者が少なければ、形としては屈するか自分から「退去」するしかない。日興上人の場合など地頭の権力と学頭・日向の非法の前になすすべなく、離山されたために、これを「分派」とみる向きもある。しかし、宗教上の正統性から論じるならば、あくまでも日興上人が師匠であり正義なのである。また、離山によって日興上人の宗教的尊厳が聊(いささ)かも損なわれていないことは当然である。
 日柱上人の場合も、形としては弟子の数の力に屈したようであるが、日柱上人の所持された血脈の尊厳はいささかも損じてはいないし、その血脈は、日柱上人の御意志によって相応しい法器即ち日亨上人に付嘱されたのである
 管長交代の契機となったのは確かに宗会を中心とする「反日柱派」の決議とその行動である。しかし、最終的に決断されたのは日柱上人である。もし、日亨上人がその器でなければ決して相承されなかったであろうし、御自分が引き続き一宗を統率すべき状況があれば、決然と辞職勧告を拒否されたであろう。

日柱上人には、失らしい失もなかった。(『地涌』第240号)

●衆義が色々と出て、それを日柱上人が深くお考えあそばされた上で、ここは私が退いたほうが御法のためになるとの、自らの深い御思慮の上からの決断であったと拝するのであります(第67世日顕上人『大日蓮』第560号)

●管長罷免と同時に法主権も自然消滅するのは制度の欠陥とも申しませう。(宗議会公式声明『正鏡』/<破折法論館Ⅲ>BBS061008)
●反對者は七百年来未曾有の事と申さるるも、七百年の長月日の宗門歴史に暗ひ者の言である。而して血脈相承は燦として光輝を放ち広宣流布の春を待っているのである(宗議会公式声明『正鏡』/<破折法論館Ⅲ>BBS061008)
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「反日柱派」の人々も血脈そのものについては否定していなかった。すなわち宗会が問題にしたのは日柱上人の管長としての立場であって法主としての立場ではなかったのである。

★日柱上人が宗会の意見を受け入れられた背景には、①宗会の意見は宗務行政上のことであり、血脈そのものを否定したものではないこと、②問題が宗務行政上のことであれば、退座を拒否したとしても宗会の意を無視したのでは結局、日柱上人の行政上の方針は達成できないこと、③宗会が推薦する次期法主(日亨上人)が法主となるに相応しい人物であること、などが考えられる。これらの状況を総合的に判断されての譲座であれば、その発端・契機は宗会の辞職勧告であったとしても、決して彼等の言いなりになって退座されたのではないというべきである。


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日蓮正宗において法主を批判することが、三宝破壊に即結びつくと考えている者はいなかったのだ。(『地涌』第240号)
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第56世日応上人、第57世日正上人、第59世日亨上人と当時の歴代上人の著作や事蹟を拝するならば、決してそのようなことはいえない。宗会決議は、あくまでも宗務行政上の意見の相違であり、血脈の否定ではない。また、後に身延との合同を画策するような者が中心者の中にいたことからも推測できるように、日柱上人退座要求の側には清濁合わせた、様々な人の思惑が混在しており、それらの集合体であったと考えられるのである。また、信徒や当局との関係など、様々な要素がからみあって大きな混乱となったのであり、後に血脈を受けられた方々の真意が、そのまま現存する資料の表面には必ずしも現われていない可能性の大きいことを信心をもって拝するべきであろう。

●但し直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(『百六箇抄』全集869頁)
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日亨上人は「後加と見ゆる分の中に義において支語なき所には一線を引き」(『富士宗学要集』第1巻25頁)とあるごとく、史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのです。このように、当時の混乱の渦中におられた日亨上人御自身が、唯授一人の血脈を尊信すべきであると御指南なのです。残された資料の断片だけを頼りに我田引水の邪推を逞しくして、安易に血脈の尊厳に傷をつけることだけは、厳に謹むべきであろう。

●法門上の異説異見は何によって起こるかといえば、機根が未だに熟さないうちに自らを省みず御書の一文一義に執して妄断するからである。即ち我見に任せて己義を立つるからである。古来仏法に於いて相承を尊び師伝を重んずるのは一に此の弊をなからしむるためである。聖祖は「法華経は相伝に非ずんば知り難し」と仰せられている。蓋(けだ)し仏法の奥底は相伝によって正しく理解することが出来るからである。(第64世日昇上人『日蓮正宗聖典』序)
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宗会議員の1人・水谷秀圓師が後の第64世日昇上人である。ここにも唯授一人の相伝に基づかなければ「我見に任せて己義を立つる」と明言されている。


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日柱の管長辞職は、裏に評議員宗会議員並に役僧等の陰謀と、其強迫によつて余儀なくせられたるものであれば元より日柱が真意より出たものでない。(日柱上人『宣言』/『地涌』第244号)
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もし、これが事実であれば評議員宗会議員並に役僧等のとった行動は非法であろう。歴代上人が仰せのように唯授一人の血脈相承を受けた者以外は、信心を踏み外す可能性が常にあるということか。また、獅子身中の虫の出現は、御書の御指南や宗門の歴史が証明することである。もし、この混乱に後に御法主となられる方が加担していたのであれば、現存する資料の表面には現われない、酌量すべき事情(誤解含む)があったのか、あるいは後に深く反省懺悔されたのであろう。

●常泉寺の在勤間もなく、昭和20年3月10日の東京大空襲があって、浅草、日本橋、墨田区一帯が全部戦火に見舞われました。
 その時常泉寺には、僧侶は日昇上人と私の2人、あと浦安から来ていた目の不自由なお手伝いのおばあさんが1人の、計3人しかいませんでした。
 日ごろ、私は日昇上人より、「空襲になったら本堂の窓を全部開け放つように」(これは空襲になった時にどちらの方角から火の勢いが来るか見るため)と言いつかっていたのですが、その大空襲の時、いざ「空襲」と言われ、本堂にすっとんで窓を開けた時には、すでに前の本行寺側は火の海でした。御住職の日昇上人は白衣とモンペのお姿で「自分はお寺と運命をともにする!」との断固たる決意でいらっしゃいましたので、私も猊下の驥尾(きび)に付して、猊下とともにお寺をお守りする決意でいました。
 投下された焼夷弾で周囲は火の海となり、常泉寺の庇(ひさし)に火が点(つ)きました。それで、猊下と私とおばあさんと3人でバケツリレーで水を運び、消火につとめました。そこへ、花屋の岡本さんが飛んできて屋根に梯(はしご)をかけ、また、通りすがりの兵隊さんが、協力してくれて、私たちが運んだバケツの水で、常泉寺の庇に点いた火を何とか消し止めてくれました。
 あの大きな常泉寺の建物が燃えてしまうと、風下にあった大島病院や電車通り(水戸街道)のあの一帯が火の海になるところだったのですが、常泉寺の火を消し止めたので助かったのだと思います。常泉寺が焼け残ったおかげで、あの辺一帯も焼けることがなくて本当によかったと思いました。(常布院日康御尊能化『富士の法統』妙教編集室)
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宗会議員の1人・水谷秀圓師が後の日昇上人である。身命を賭して寺院を守ろうとするお方が「陰謀」「脅迫」をするとは考えられない。


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いざとなれば日開上人、日隆上人、日昇上人らの方策にならって、日蓮正宗宗会で日顕上人に対する不信任決議と辞職勧告決議をし、退座を迫ることも可能だ。(『地涌』第243号)
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『地涌』自身「日柱上人は日亨上人に相承をおこなっていないので、日亨上人は法主ではない。」「日顕上人らの血脈相承観を規範にすれば、檀信徒の側が正しいと結論しなければならないはずだ。」といっているではないか。つまり、宗会であろうと本来退座を迫ることなど出来ないのである。「退座を迫ることも可能」というのは当時の宗規上可能だったというだけであり、宗義上可能ということではない。


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>其授受も亦た日柱が其法器なりと見込みたる人でなければならぬ。(日柱上人『宣言』/『地涌』第244号)
>3月6日(中略)大石寺檀家総代3名と合流し、打ち合わせを始めた。(中略)翌3月7日、日柱上人らは2台の自動車に分乗して、大石寺に登山。登山の目的は、日亨上人に相承をおこなうことであった。(『地涌』第245号)
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最終的には日柱上人の御意志によって相承が行われたと拝せられる。上人を支持していた檀家総代との「打ち合わせ」も彼等を説得して、日亨上人への相承を納得させるためのものだったのであろう。獅子身中の虫の扇動と、管長の権限が弱かったことなど、種々の要因が重なり合って生じた「不祥事」ではあったが、血脈相承は、授与者の意志によって、授与者が法器と認めた方に恙無く相伝されたのであるから、血脈の尊厳と維持に何ら問題はなかったのである。


<学会の退座要求との相違>
反日柱派は、日柱上人の宗務行政上の方針に対して反対であったのであり、血脈による権能=法義解釈や本尊書写などを否定したものではない。とくに、宗務行政については、日柱上人は厳格にこれを実施しようとせられたことが日達上人の証言より拝することができる。その厳格さ故に、周囲の者の反感をかったのであろう。

★獅子身中の虫は何時の時代にもいる。その者の画策によって、信心のある者まで不法の行動に巻き込まれることもあったのであろう。しかし、正しい信心とは唯授一人の血脈と本門戒壇の御本尊を根本とする信心であり、御登座された方は皆、異口同音にそのことを御指南である。その血脈が、獅子身中の虫による色々な策謀と混乱の中にあっても伝持されてきたのである。その点さえ押さえておれば、何ら問題はない。後は、個々の信心である。

学会は、血脈そのものを否定して「大聖人直結」などと主張している。これは大聖人や歴代上人の御指南に反する大謗法である。このような非法をなした者は、当時の「反日柱派」にもいなかったことを知るべきであろう。また、学会は「僧俗平等」「僧侶不要」などと称して僧宝としての僧侶の存在を否定している。この点についても当時の「反日柱派」とは大違いである。



【混乱の要因】
①日柱上人は自分にも他人にも厳しい方であったため、日柱上人が宗門トップになることを快く思わない者が御登座以前から存在した。

●日柱上人は宗学に於て漢学に於て、又信念に於て誠に傑出されて居られた。唯然し其れが為にか、凡庸なる人に対して思いやりの心が充分でなかつたと云う事は僻目ではないと思う。(第66世日達上人監修『悪書板本尊偽作説を粉砕す』/『慧妙』H14.12.16)

◆大正14年11月18日、宗会の初日に、正規の宗会進行の裏で密かに進められていた日柱上人追い落としの「誓約書」(全文)を紹介する。(中略)宗会議員・下山廣健 同・早瀬慈雄 同・宮本義道 同・小笠原慈聞 同・松永行道 同・水谷秀圓 同・下山廣琳 同・福重照平 同・渡邊了道 同・水谷秀道 同・井上慈善 評議員・水谷秀道 同・高玉廣辨 同・太田廣伯 同・早瀬慈雄 同・松永行道 同・富田慈妙 松本諦雄 西川眞慶 有元廣賀 坂本要道 中島廣政 相馬文覺 佐藤舜道 白石慈宣 崎尾正道(『地涌』第240号)

●崎尾正道という人がおりまして、これは日正上人の弟子で、私よりも年は上だけれども、後輩の人でず。この人が非常に日正上人にかわいがられて、奥番なんか長くして、非常に用いられました。そのために、たいへん僭越(せんえつ)になって横暴(おうぼう)を極め、そして崎尾自身が日柱上人を非常に嫌っておった。日柱上人という人は非常に強い方で、悪いことがあると頭からガンガン怒る方でございますから、非常に付き合いにくい。それで崎尾も日柱上人を嫌がった。 それに反し日開上人は温厚な方で、寂日坊から、常泉寺へ入られた。 ですけれども、(崎尾は)日開上人にどうしても、日正上人の跡をやっていただきたい。そうすれば自分もきっと幅をきかせられる、と思ったのでしょう。そこで、日開上人を日正上人の跡にしようと、策謀したのでございます。 ところが、日正上人は日柱上人を大学頭にしておるのだから、それより下の日開上人に法を譲るということはできないと、固い心があった。 昨夜の本種院の話によっても、「崎尾正道は勝手なことをするからよく注意しろ」と言われたくらいで、非常に気にしておられたのであります。 たまたま崎尾も興津へ行っておりまして、私も興津へ行って日正上人のお側へついて、お給仕をしておりました。崎尾も来て、何かと、若い我々に対していろんな、今も言ったとおり「日柱上人はだめだから、日開上人がやってくれなくては宗門はだめになる」ということを常に吹きこんだ。それから「師匠の日正上人もその心でいる」ということを言われましたから、私は本気にしておったのです。 で、たまたま8月11日の夕刻、今言ったとおりに、日桂上人が日正上人に呼ばれて来た。その前に日正上人がもうお体が悪いからというので、本山では非常にいろんな策謀があったのです、崎尾がそのもとですが。 そのために日正上人は、日柱上人がそれに巻き込まれることを恐れて、大阪へやってしまったのです。大阪の今の牧野梅太郎の家が宿屋をしておりましたから、そこにしばらく避けていろと言って、やられておったのです。 その日柱上人が呼ばれて、その11日の夕方着きました。そのころの汽車はのろいですから、夕方やっと興津へまいられました。そして夏のことですから、蚊がおりますから、蚊帳(かや)をつって日正上人がおられました。そこへ3人が来ました。(中略)それで、しばらく話をされて、とにかく今夜12時に日柱上人にもう一遍来い、と言って帰しました。 3人は、興津に大きな宿屋が当時ありまして、何というのか覚えていませんが、その宿屋へ行って泊っておって、夜中の12時に再び来まして、それで今度は日柱上人だけが、蚊帳に入ってゆっくりお話を聞いたのです。それがご相承だったのです。(第66世日達上人『蓮華』S47.6/『慧妙』H14.12.16)


②反日柱派の中心的メンバーの中には宗門の正しい信仰と教義を理解していない獅子身中の虫がいた。彼等が、「血脈の尊厳を守りつつも宗務行政上の理由から退座を願った」僧侶をも巻き込んで行き過ぎた行動をとった。

◆大正14年11月18日、宗会の初日に、正規の宗会進行の裏で密かに進められていた日柱上人追い落としの「誓約書」(全文)を紹介する。(中略)宗会議員・下山廣健 同・早瀬慈雄 同・宮本義道 同・小笠原慈聞 同・松永行道 同・水谷秀圓 同・下山廣琳 同・福重照平 同・渡邊了道 同・水谷秀道 同・井上慈善 評議員・水谷秀道 同・高玉廣辨 同・太田廣伯 同・早瀬慈雄 同・松永行道 同・富田慈妙 松本諦雄 西川眞慶 有元廣賀 坂本要道 中島廣政 相馬文覺 佐藤舜道 白石慈宣 崎尾正道(『地涌』第240号)

●この崎尾正道とは、池田の小説『人間箪命』第8巻で、「蓮華寺のS住職」としで描かれており、宗門に敵対して離脱していった人物であるから、学会古参幹部諸氏も、その人となりについてはよく知るところであろう。(『慧妙』H14.12.16)

●崎尾正道は、昭和39年(1964)年5月、創価学会と学会を擁護する宗門を批判し、宗門に対し被包括関係廃止を通告して、日蓮正宗から独立することになった僧侶である。(『仏教者の戦争責任』170頁)

●あなた(小笠原慈聞師)の神本仏迹論を、深く謝罪しなさい。私に謝れとはいわん。御本尊様にお詫び申し上げるのです。そして、いまは亡き日恭猊下と、初代牧口会長の霊に謝るのです(『人間革命』第6巻)
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日亨上人は弾圧の要因の1つを「小笠原一派の叛逆」としている。↓

●こうして合同問題のもつれと、小笠原一派の叛逆、牧口会長の国家諌暁の強い主張等を背景とし、直接には牧口会長の折伏が治安を害するといい、又神宮に対する不敬の態度があるとして、弾圧の準備が進められたから会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)

★当時の宗会議長は彼の小笠原慈聞師であった。師は戦時中「神本仏迹論」を唱え、身延との合同を画策した獅子身中の虫であった。また、日柱上人を御登座前から嫌っていた崎尾正道も、「クーデター」首謀者にその名を連ねているが、彼は、宗門に敵対して離脱していった人物である。そのような人が中心となった「クーデター」であれば、同じ反対派であっも行動の真意は区々であったろう。また、そのような集団であってみれば、日柱上人に退座していただくという1点では同意であっても、血脈への尊信の念はそれぞれ相違があったことであろう。そのために、団体として表明された意思や行動は、細かい点まで全員一致であったとは必ずしもいえないであろう。


③獅子身中の虫の出現と、宗務当局の介入、信徒と僧侶の誤解など、色々な要因偶然が重なって不幸な混乱を招いてしまった。

●日柱上人も之れでは到底志を達することは不可能と思召されたが、此の接捗の間に日柱上人に帰依する信徒は、日柱上人に対しての反対は絶対許し難いとして、此の信徒達と一般僧侶との対峙という形になったのである。(第66世日達上人監修『悪書板本尊偽作説を粉砕す』/『慧妙』H14.12.16)

◆日柱上人が突然退座の意思を表明したとの知らせは、大石寺の檀家総代らに伝わった。だが総代らは、自分たちになんの相談もなく、ヤブから棒に事が進められていることに猛反発。彼らは、日柱上人に対する宗会の退座要求が不当であることを主張したのである。(『地涌』第241号)

★宗会による辞職勧告を受けて間もなく、日柱上人は御自分から辞職を表明なされていたのである。しかし、これに反発した有力信徒と宗会僧侶とが対峙することとなり、文部省の介入など、種々の偶然、要因が重なり合って、大きな混乱となってしまったのである。周囲の混乱がなければ、相承は速やかに行われていたし、選挙や「日柱上人の態度の硬化」ということもなかったであろう。しかし、最終的には、「混乱」を日柱上人自ら信徒を説得する形で収束され、当初の御意志どおり譲座なされたのである。



【日開上人誹謗】
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裏に、日顕上人の実父・阿部法運(のちの第60世日開上人)がいたことはよく知られるところ(『地涌』第240号)
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全く根拠のない邪推であり、『地涌』自身、客観的根拠を何1つ挙げていない。

〈藤本〉要するに彼らは日蓮正宗の血脈法水を破壊することが目的だから、そのためにはすべてを誹謗するわけです。日柱上人に対しても「評判の悪い法主」などと悪口の言い放題だね。しかし、上人は宗学においても他の学問においても傑出しておられたと伝えられており、宗内の皆が、今日まで日柱上人の尊いお心をけっして忘れていないことは、剛直な上人のお書きものが現在も歴史のある本宗の寺院に珍重されていることからも判るね。
〈早瀬〉また日開上人が日柱上人御退座の策謀の黒幕だったなどとはまったくでたらめだね。たしかそんな策謀を本宗に反逆したある僧侶が目論んだことがあったとは聞いているが、日開上人がそんな策謀をなさるお方でないことは宗内に周知の事実だよ。
〈八木〉そう。御先師日達上人も日開上人を「上人は資性篤実で、謹厳至誠の方」と追憶しておられるし、また日達上人が監修あそばされた日蓮正宗布教会編の『悪書板本尊偽作論を粉砕す』の中にも、「日開上人は性来非常に謙譲な御方であって、むしろ謙譲過ぎられると一般から言われていた方である」との記述があるね。創価学会が「天魔」などと口を極めて誹謗するのは、日開上人が御当代日顕上人猊下の実父であられること以外に何も理由はない。日顕上人への憎悪が日開上人へも向けられているわけだね。本当に許されないことだ。(『大白法』H16.2.1)


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>両派が大石寺内で深刻な対立を続けている12月10日頃、ある事件が起きた。11月18日の宗会開始以来、本山に陣取り、阿部法運(のちの日開上人)の意を受けて日柱上人おろしの中核として動いていた東京・品川の妙光寺住職・有元廣賀総務(今の宗務総監にあたる)が、東京の信徒代表12名によって強引に拉致され、東京に連れ去られてしまったのである。
>もともと日柱上人に対するクーデターは、この有元総務が、日柱上人に取り立てられた経過を無視して、日柱上人に敵対し、阿部法運側に寝返ったことによって可能になったとされる。ナンバー2のナンバー1への裏切りがあったればこそ、日柱上人降ろしが成功したのだった。(『地涌』第242号)
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根拠のない邪推。日開上人が有元師らを裏で糸を引いていたように言うが、後に日開上人と有元師は日亨上人後の管長選挙で争っているのである。全く支持層も立場も異なっていたというべきである。

●日開上人は性来非常に謙譲な御方であって、むしろ謙譲過ぎられると一般から言われていた方である(第66世日達上人監修『悪書板本尊偽作説を粉砕す』/『大白法』H16.2.1)

●周囲の者が日開上人の御人格に帰依して、あくまで後継者たらしめねばとの強い意気込みで、その熱に動かされて選挙に望まれた(第66世日達上人監修『悪書板本尊偽作説を粉砕す』86頁/『慧妙』H6?)
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この『悪書―』は、65世日淳上人・66世日達上人が、後学の者が邪義の言説に惑わぬよう、ていねいに書き記されているのである。にもかかわらず、このような邪推をなすのは、学会自体がすでに邪義の者と成り果てている証拠である。(『慧妙』H6?)



【御仏意】
1●日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし(『報恩抄』全集329頁)

2●僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず(『四恩抄』御書268・全集938頁)
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僧の役割は仏法を正しく後世に伝えることである。ここでいう「僧」とは、当然"僧俗"の「僧」であり、在家に対する語すなわち出家した人である。

3●日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。(中略)血脈の次第 日蓮日興(『身延相承書』御書1675、全集1600頁)
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「日蓮一期の弘法」は別して日興上人御一人に付嘱されたのである。

4●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
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この御文は「金口嫡々・法水」の血脈相承のことです。「塔中及び蓮・興・目」とあるように、塔中における上行菩薩への別付嘱が、唯授一人血脈相承として歴代上人に伝わっているのです。

「仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず」(2●)とあるように、仏法は僧によって伝持される。しかして仏法の付嘱には総別があり(3●)、別付嘱とは唯授一人の血脈相承である(4●)。つまり、「南無妙法蓮華経」(1●)が「万年の外・未来までもながる」(1●)ということは、唯授一人の血脈相承もまた「万年の外・未来までもながる」ということである。


●同朋門徒中に真俗の人を師範に訴ふ時、さゝへらるゝ人、起請を以て陳法する時、免許を蒙るなり、然るに支へつる輩は誤りなり仍つて不審を蒙る間、是れも又起請を以て堅く支へらる時は両方且らく同心なきなり、何れも起請なる故に仏意計り難し失ちに依るべきか云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』)
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 「さゝへらるゝ人」とは・被告人なり・さゝふは支なり・さゝへらるゝは拒なり・さゝふる原告は・被告を罪に陥れんとす、被告は寃を訴へて之を拒ぐなり、「起請」とは・神代のうけひなり・誓約なり・神聖なる約束なり・故に請文には神仏の名をあげて・此の請文に背くときは・神仏の現罸を受くるも少しも悔ゆる事なき由を書く、此の請文を起つるを・即起請と云ひ、王朝時代より是あり、賀縁阿闍梨が三塔に披露の起請文・土佐房昌俊が義経に七枚の起請を書きし殊に著名なるは法然房の一枚起請なり、当門の起請は類文に引くが如し、「陳法」とは陳状と同義なり、起請文を以つて無実の罪なる事を陳ぶるなり、「支へつる輩をば誤なり」等とは・支へられたる被告が・神聖なる請文を以つて無実を陳弁するが故に・支へつる原告は・誣告の罪に落ちて却つて不審を被むる事となるが故に・原告は大に驚きて・直に起請文を以つて・自己の告訴は真実なり、被告の罪状は明白なりと抗弁す、是に於いて師範に於いては・此が処分を中止す
 何となれば起請は神聖なり・仏意なり・若し虚誑の意を以つて神仏を涜かす時は、顕罸立ところに至るが故に・且らく失の起るを待つなり、処決に人意を加へずして・徐ろに仏意を仰ぎ奉るとなり、上代の雅風大に見べき有り、今時の邪人猛省を加へずんば、仏辺を去る千億由旬ならんか・恐る可し恐る可し。(第59世日亨上人著『有師化儀抄註解』)
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 これは「同朋門徒中に真俗の人を師範に訴ふ時」であるから、日柱上人の件には該当しない。しかし、参考までに紹介しておく。もし、この御指南を牽強付会的に当該"事件"に当てはめてみればどうなるか。僧徒派は「仏祖三宝ニ誓テ茲ニ盟約」(「誓約書」)して事を起こし、対する日柱上人は僧徒派を批判した「宣言書」に題目を認め、いずれも大聖人に誓って自己の正当性を主張している。これは、さながら上記「起請」のごとくである。
 とすれば日柱上人が選挙に負けて退座されたのは「仏意」ということになる。しかし『地涌』も述べているように「日柱上人には、失らしい失もなかった」(第240号)のであるから選挙に負けたことは「顕罸」とはいえない。しかし、妥協点の無い両者の争いに正邪があるとすれば必ずいずれかに「顕罸」があるはずである。
 私の知る限り、僧徒派の中に後に擯斥処分を受けたり退転した者(小笠原慈聞、崎尾正道)がいる。当時乃至以降において彼らの境遇にどのような変化があったかは詳らかではないが、擯斥処分を受けたり退転する者が私心のない純真な気持ちで退座を要求したとは考えにくい。
 一方、僧徒派の中には後に猊座に登られる方もいた。このことから考えれば、対立の構図は"退座を要求する僧徒派対日柱上人"であり、要求の実現という点でみれば僧徒派の勝利である。しかし、仏法上の正邪という点からみれば、日柱上人に失はなく、むしろ邪心があったのは僧徒派の一部僧侶であったといえよう。

◆法主位の継承、したがって法門深々の御相承はもったいなくも御本仏宗祖日蓮大聖人より御開山日興上人にたまわられて以来、清浄の法水連綿として現在64代に及び、この大事あるがゆえに、末法の一切衆生は本因下種仏法の大利益を受けることができるのであって、いつ、いかなるお方が御登座あられようとも、それはすべて御仏意によるゆえに、信徒たる者は、ひたすらけいけんなる信心をもってこれに従い、これをお迎え申し上げるのが当然なのである。(中略)法位継承は手続きがいかにあろうと御仏意である以上は、信徒たる者は、これくらいの心構えをもって法を護るのが当然ではなかろうか(『聖教新聞』社説S31.1.29/『慧妙』H15.12.16)



【戸田会長指導】
1◆どこにおいても、御座替わりのときは、次の猊下の定まることで、いろいろゴタゴタと問題がおきるものであります。わかりもしないくせに、信者がいろいろ策動したこともあったのですが、このたびはそういうこともなく、ひじょうにめでたいことであります。今年は、ひじょうに清らかな御法主猊下の御座替わりであり、まことにめでたいと思う。(S31.1.31『戸田城聖全集』第4巻414頁)
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「信者がいろいろ策動したこともあった」とは、おそらく日柱上人退座の件を指すのであろう。とすれば戸田会長は、今日の池田学会が『地涌』などで盛んに吹聴しているくらいのことは、当然知っていたことになる。

2◆先代牧口先生当時から学会は猊座の事には一切関知せぬ大精神で通して来たし、今後もこの精神で一貫する。これを破る者はたとへ大幹部といえども速座に除名する(中略)どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、私は水谷猊下にお仕えして来たのといさゝかも変りはない。新猊下を大聖人様としておつかえ申上げ、広布への大折伏にまっすぐ進んで行くだけである(『聖教新聞』S31.1.29/『大白法』H18.2.16)

3◆法主位の継承、したがって法門深々の御相承はもったいなくも御本仏宗祖日蓮大聖人より御開山日興上人にたまわられて以来、清浄の法水連綿として現在64代に及び、この大事あるがゆえに、末法の一切衆生は本因下種仏法の大利益を受けることができるのであって、いつ、いかなるお方が御登座あられようとも、それはすべて御仏意によるゆえに、信徒たる者は、ひたすらけいけんなる信心をもってこれに従い、これをお迎え申し上げるのが当然なのである。(中略)法位継承は手続きがいかにあろうと御仏意である以上は、信徒たる者は、これくらいの心構えをもって法を護るのが当然ではなかろうか(『聖教新聞』社説S31.1.29/『慧妙』H15.12.16)
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当時、御当職であられた第64世日昇上人の御隠退の報に接した戸田会長の談話を受けて、『聖教新聞』が社説として報道した記事である。ここにも、日蓮正宗の血脈法水によって、本因下種仏法の大利益を受けることができること、また信徒として御相承をどのように拝するのか、という正しい姿勢が示されている。

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 「信者がいろいろ策動したこともあった」(1◆)とは、おそらく日柱上人退座の件を指すのであろう。とすれば戸田会長は、今日の池田学会が『地涌』などで盛んに吹聴しているくらいのことは、当然知っていたことになる。知っていて、「新猊下を大聖人様としておつかえ申上げ」(2◆)「法主位の継承、したがって法門深々の御相承はもったいなくも御本仏宗祖日蓮大聖人より御開山日興上人にたまわられて以来、清浄の法水連綿として現在64代に及び」(3◆)と指導しているのである。
 戸田会長を"永遠の指導者"と師事するほどの者であるならば、上記1◆~3◆の指導を読めば、日柱上人の件をもって血脈の尊厳を貶めることが、師敵対となることを思い知るべきであろう。

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●唯授一人嫡々血脈相承にも別付・総付の二箇あり其の別付とは則ち法体相承にして総付とは法門相承なり、而して法体別付を受け玉ひたる師を真の唯授一人正嫡血脈付法の大導師と云ふべし。又法門総付は宗祖開山の弟子檀那たりし者一人として之を受けざるはなし蓋(けだ)し法門総付のみを受けたる者は遂には所信の法体に迷惑して己義を捏造し宗祖開山の正義に違背す(第56世日応上人著『弁惑観心抄』211頁/『創価学会のいうことはこんなに間違っている』99頁)

御法主上人は凡夫であります。だから、いろいろな癖をおもちです。不思議なことには、法主の座につかれて1、2年もたつと、御人格がすっかり変わられる。そして崇高な、清らかなものになる。これは不思議なことであります。(S31.1.31豊島公会堂『戸田城聖全集』第4巻414頁)

猊座に登られて以降、仏法に違背して己義を構えた方はいない。





*日柱上人退座

(『地涌』第240号)

http://www.houonsha.co.jp/jiyu/06/240.html

 大正14年11月18日、総本山大石寺において日蓮正宗の宗会が開かれた。宗会では、当初は日蓮宗身延派への対策を協議していたが、20日になって、当時の法主である第58世日柱上人の不信任を決議、辞職を勧告したのである。
 身延派対策を練っていた宗会が、突如、法主の不信任案を成立させ、辞職勧告を決議した裏には、宗会議員たちの密約があった。いまふうに言えば“クーデター”計画があったのだ。いま日顕上人ら日蓮正宗中枢は、法主に逆らう者は三宝を破壊する者であり、これに過ぎたる謗法はないとしている。だが、大正14年11月の時点で、日蓮正宗の宗会は法主に対し不信任を決議し、辞めろと勧告しているのである。
 いまの日蓮正宗中枢は、法主に信伏随従することが信心だなどと言っているが、それでは、法主に辞職を迫った当時の僧侶たちは、全員が三宝破壊の重罪を犯したことになり、信心もない輩ということになるのだろうか。
 クーデターを起こすにあたって交わされた盟約には、水谷秀道(のちの第61世日隆上人)、水谷秀圓(のちの第64世日昇上人)なども名を連ねている。これら、のちの法主上人たちも三宝破壊の重罪を犯したことになるのだろうか。
 また、このクーデターの裏に、日顕上人の実父・阿部法運(のちの第60世日開上人)がいたことはよく知られるところである。日開上人もまた三宝破壊の重罪を犯したと、今日にあって日顕上人は断言できるのだろうか。それとも、三宝破壊は信徒の場合のみ成立する罪だなどという、珍論を展開するのだろうか。
 さて、大正14年11月18日、宗会の初日に、正規の宗会進行の裏で密かに進められていた日柱上人追い落としの「誓約書」(全文)を紹介する。
 少々、長くなるが注意深く読んでいただきたい。

 「現管長日柱上人ハ私見妄断ヲ以テ宗規ヲ乱シ、宗門統治ノ資格ナキモノト認ム、吾等ハ、速カニ上人ニ隠退ヲ迫リ宗風ノ革新ヲ期センカ為メ、仏祖三宝ニ誓テ茲ニ盟約ス。
 不法行為左ノ如シ。
 一、大学頭ヲ選任スル意志ナキ事。
 二、興学布教ニ無方針ナル事。
 三、大正十三年八月財務ニ関スル事務引継ヲ完了セルニモ不拘、今ニ至リ食言シタル事。
 四、阿部法運ニ対シ強迫ヲ加ヘ僧階降下ヲ強要シ之ヲ聴許シタルコト。
 五、宗制ノ法規ニヨラズシテ住職教師ノ執務ヲ不可能ナラシム。
 六、宗内ノ教師ヲ無視スル事。
 七、自己ノ妻子ヲ大学頭ノ住職地タル蓮蔵坊ニ住居セシムル事。
 八、宗制寺法ノ改正ハ十数年ノ懸案ニシテ、闔宗ノ熱望ナルニモ不拘何等ノ提案ナキハ一宗統率ノ資格ナキモノト認ム。
 実行方法左ノ如シ。
 一、後任管長ハ堀慈琳ヲ推選スル事。
 二、宗制寺法教則ノ大改正ヲ断行シ教学ノ大刷新ヲ企図スル事。
 三、総本山ノ財産ヲ明確ニシテ宗門ノ財産トスル事。右ノ方法ヲ実行スルニ当リ本盟ニ反スル者ハ吾人一致シテ制裁ヲ加ル事。
 以上ノ箇条ヲ証認シ記名調印スル者ナリ。
  大正十四年十一月十八日
 宗会議員 下山 廣健     同      早瀬 慈雄
 同      宮本 義道   同      小笠原慈聞
 同      松永 行道   同      水谷 秀圓
 同      下山 廣琳   同      福重 照平
 同      渡邊 了道   同      水谷 秀道
 同      井上 慈善

 評議員    水谷 秀道   同      高玉 廣辨
 同      太田 廣伯   同      早瀬 慈雄
 同      松永 行道   同      富田 慈妙
        松本 諦雄          西川 眞慶
        有元 廣賀          坂本 要道
        中島 廣政          相馬 文覺
        佐藤 舜道          白石 慈宣
        崎尾 正道               」

 前文は厳しい法主批判である。法主に対し「私見妄断ヲ以テ宗規ヲ乱シ」と決めつけている。これなど、いまの日顕上人にも該当する表現だ。ここで注目されるのは、法主を弾劾し隠退させることを「仏祖三宝ニ誓テ茲ニ盟約ス」としていることだ。
 この「誓約書」に署名捺印した僧侶たちには、「三宝」(仏法僧)に当時の法主である日柱上人が含まれるなどといった意識はさらさらないことが判明する。
 日顕上人を僧宝だとして、日顕上人を批判することは三宝破壊につながると、いまの日蓮正宗中枢は主張する。だが、大正14年当時の日蓮正宗の御歴々は、法主の打倒を「三宝」に誓っているのだ。いまの日顕上人らの「三宝論」からすれば、父君・日開上人を含む先達の行動は、仏法を識らぬ輩ということになるが、いかがなものだろうか。
 日柱上人の不法行為として、「一」から「八」までの具体的事例があげられている。その中でことに注目されるのは、「四」である。
 「阿部法運ニ対シ強迫ヲ加ヘ僧階降下ヲ強要シ之ヲ聴許シタルコト」
 阿部法運(のちの日開上人)は、この宗会に先立つこと約4ヵ月前に日柱上人により処分されていた。阿部は総務(今の宗務総監)の職よりはずされ、能化(法主になりうる僧階)より降格されたのだ。このため法主になることが絶望的となった。日柱上人引き降ろしのクーデターの背景には、阿部に対する処分問題が尾を引いていたのである。
 「7」も興味を引く。
 「自己ノ妻子ヲ大学頭ノ住職地タル蓮蔵坊ニ住居セシムル事」
 大学頭(次の法主が約されているポスト)が当時は空席であったからだろう。日柱上人の妻子が住職のいない蓮蔵坊に住んでいたのだ。
 「誓約書」はクーデターのプランを記している。後任の管長(法主)として「堀慈琳ヲ推選スル事」となっている。これについても、日柱上人を追い落としたはいいが、クーデターの隠れた首謀者である阿部法運が、いきなり法主につくのでは強硬な反対も予想され都合が悪いので、宗内に信望が厚い、のちの堀日亨上人がかつぎ出されたとするのが、一般的な見方である。
 だが、これは本来の血脈相承のあり方にまっこうから対立するものである。おそらく、衆議によって次の法主が指名されるなどといったことは、宗門において過去に1度もなかったのだろう。今日、法主を絶対視する者たちは、この事態をどのように理解するのだろうか。そのうえ、クーデターから脱落する者に対して、「吾人一致シテ制裁ヲ加ル事」としている。まさに血判状をもって法主打倒を盟約しているのだ。

 クーデターは実行に移された。大正14年11月20日、日蓮正宗宗会は次の決議をする。
 「宗会ハ管長土屋日柱猊下ヲ信任セス」
 不信任決議とともに、辞職勧告も宗会で決議された。決議の主文は次のとおり。
 「管長土屋日柱猊下就職以来何等ノ経綸ナク徒ラニ法器ヲ擁シテ私利ヲ営ミ職権ヲ乱用シ僧権ヲ蹂躙ス我等時勢ニ鑑ミ到底一宗統御ノ重任ヲ托スルヲ得ス速カニ辞職スル事ヲ勧告ス 大正十四年十一月二十日」
 この日蓮正宗宗会の決議した日柱上人への批判に比べれば、本紙『地涌』の日顕上人への批判など、まだまだなまぬるい。まして日柱上人には、失らしい失もなかった。それに比べ日顕上人は、たぐいまれな悪鬼入其身の破仏法者である。
 いずれにしても、宗内の主だった僧侶が、時の法主上人を辞職させようと盟約、行動に移した歴史的事実は動かし難いものがある。この密約をおこなった者が、日柱上人退座後の日蓮正宗の主流となった。
 繰り返すようだが、大正14年当時、日蓮正宗において法主を批判することが、三宝破壊に即結びつくと考えている者はいなかったのだ。それが日顕上人のもとでは、法主は「現代における大聖人様」と称されるまでになった。それを許す日顕上人の慢心のほどが知れようというものだ。
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(『地涌』第241号)

http://www.houonsha.co.jp/jiyu/06/241.html

 先号に記述したように、大正14年11月20日、日蓮正宗宗会は日柱上人に対して、不信任及び辞職勧告決議を突きつけた。これが総本山大石寺のお家騒動として、その後、半年間にわたり世情を騒がせた内紛の始まりとなる。
 はたしてこうした事実を、「金口嫡々唯授一人相承」のための次期法主選定の方法として受け入れることのできる僧俗がいるだろうか。血脈相承のあるべき姿とはあまりにかけ離れた史実である。
 まさに白法隠没の仏語を、みずからの身をもって示している大正時代末の日蓮正宗僧侶のこの姿こそ、仏意仏勅の創価学会出現の予兆と見るべきではあるまいか。
 日柱上人に対する圧力は、宗会の決議だけではなかった。宗会の決議は20日だが、宗会初日の18日の夜半、日柱上人に対するイヤがらせがすでにおこなわれていた。客殿で勤行中の日柱上人に対して、ピストルのような爆発音をさせて威嚇したり、客殿に向かって瓦や石を投げつけた。
 当時の大石寺は、夜ともなれば静寂そのものであったろう。そのしじまを破るような爆発音を響かせ、瓦や石を投げつけたというのだから悪質きわまりない。
 夜半の勤行ということだから丑寅勤行と思われるが、丑寅勤行中の日柱上人にイヤがらせをしたのは、2名の僧であった。ただし、この2人は、後に警察沙汰となってから判明した実行犯のみで、この裏には教唆した者がいたとされる。
 日柱上人に対する陰に陽にわたる圧力は、相当なものがあったと思われる。
 日柱上人は、これら宗会議員たちの圧力に押されたためか、22日に辞職の意思を表明、辞表を書いた。日柱上人の辞表提出を幸いとして、宗会議長の小笠原慈聞ほか3名は、同日すぐさま、文部省当局に届け出をするために上京。翌々日の24日、届出の手続きを完了した。新しい法主は、先の密約どおり、のちの堀日亨上人とされた。
 日柱上人が突然退座の意思を表明したとの知らせは、大石寺の檀家総代らに伝わった。だが総代らは、自分たちになんの相談もなく、ヤブから棒に事が進められていることに猛反発。翌23日、宗会議員らのおこなっていることは許すことのできない暴挙であるとして、宗会議員1人ひとりに檀家総代らが詰め寄るところまで、事態は紛糾した。
 宗会議長の小笠原慈聞らが、文部省宗教局に、日柱上人の退座、日亨上人の登座の届けを提出するために上京したことを知った檀家総代らは、追いかけるように、27日の早朝、3名の代表を急きょ東京に派遣、文部省宗教局に事情説明、陳情をおこなった。もちろん彼らは、日柱上人に対する宗会の退座要求が不当であることを主張したのである。
 文部省宗教局は、檀家総代らの陳情に基づき、2日後の29日、宗会側の主要人物である総務(今の宗務総監)の有元廣賀(品川・妙光寺住職)、水谷秀道(のちの第61世日隆上人)、松永行道(福岡・霑妙寺住職)を改めて召喚した。
 文部省宗教局は、宗会側の“クーデター”に対して強い不快感を抱いていたようだ。下村宗教局長は3名の僧に対し、「貴僧等は社会を善導教化すべき責任の地位にありながら今回の暴挙を敢て為すは何事か」(『静岡民友新聞』T14.12.3)と厳しく追及し、そのうえで、2日後の12月1日までに、日柱上人に対して宗会が突きつけた不信任決議書と辞職勧告書を回収して、文部省まで持参、提出するよう命令した。
 所轄官庁の宗教局としては、一宗のトップ交代が、クーデターのような形でおこなわれたとあっては、監督不行届きとなりかねないとの判断が働いたのではあるまいか。しかも、すでに辞表及び就任の書類を受理したことでもあり、ゴタゴタが表面化することを避け、円満な交代であったことを装うため、不信任決議書、辞職勧告書という不穏当な書面を撤回させ預かろうとしたのではあるまいか。
 宗会側の代表3名は、“日柱上人おろし”に成功して大喜びしていたところへ、宗教団体の監督に絶大な権力を持つ宗教局長から厳訓され、肝の縮むような思いで大石寺に帰った。
 もはやクーデターの成功を喜んでいるどころではない。ともかく宗教局長の命令どおり、12月1日までに、不信任決議書と辞職勧告書を提出することが最優先の行動とされた。
 帰山した3名は日柱上人に対し、2通の書面の返却を懇請したが、書面はすでに檀家総代の渡辺登三郎の手に渡っていた。いまや立場は逆転し、3名の僧侶は檀家総代に返却を哀願するハメにおちいったのである。
 だが檀家総代側も、これまでの経過からして、書面の返却を2つ返事で了承するなどといったことはしなかった。
 宗会側僧侶3名は、日柱上人と上野村村長の立ち会いのもと、詫び状を檀家総代に提出し、やっとのことで2通の書面を返却してもらった。僧侶が檀家総代に詫び状を入れたのも愉快だが、上野村村長が立ち会ったというのも抱腹絶倒ものである。
 それにしても、いま日蓮正宗の僧は、「信徒の分際で……」などと平気で発言し、時代錯誤の差別観で信徒を睥睨しているが、大正時代においては、お家騒動のあげく、僧侶が信徒に詫び状を入れたこともあったのだ。それも村長立ち会いのもとにである。いったい日蓮正宗の僧が、ふんぞり返り出したのはいつの頃からなのだろうか。
 それはさておき、文部省宗教局長に恫喝され、なんとしてでも不信任決議書と辞職勧告書を手に入れなければと、切羽詰まった思いに駆られていた有元、水谷、松永の3名は、詫び状を信徒に差し入れるという予想外の出来事があったにせよ、回収すべき書面を手に入れることができた。
 書面の提出期限の12月1日、僧侶たちは大宮駅(今の富士宮駅)を午前5時32分発の列車に乗り上京した。書面をたずさえた僧侶たちが緊張した面持ちで宗教局長の前にあらわれたのは、当時の交通事情からして、おそらく午後の2時か3時頃ではなかっただろうか。
 〈筆者注 本記事は、大石寺のお家騒動を報じた『静岡民友新聞』(現在の『静岡新聞』)、『東京朝日新聞』(現在の『朝日新聞』)などを参考に記述しました〉
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(『地涌』第242号)

http://www.houonsha.co.jp/jiyu/06/242.html

 宗会側を代表する僧侶3名は、日柱上人に突きつけた不信任決議書と辞職勧告書を撤回のうえ、回収した。そして文部省宗教局長から指示された、提出期限の12月1日当日、なんとか差し出すことができた。だが、それですんなりと事態が収拾され、新法主の誕生ということにはならなかったのである。
 宗会議員や評議員のクーデター派は、次の法主にのちの堀日亨上人(当時は堀慈琳を称し立正大学講師であった)を擁立するということで盟約し、日柱上人に辞表を書かせ、日亨上人の就任承諾も得たうえで、11月24日に管長(法主)の交替を文部省に届け出ていた。
 しかし日亨上人は、その後のゴタゴタに嫌気が差し、新管長(法主)への就任を見合わせるとの意志表示をした。不就任を表明したのは、宗会側の3名の僧が宗教局長に弾劾された11月29日の直後と思われる。
 一方、大石寺地元の檀家総代らは、日柱上人擁護の運動を広げるために、12月2日に上京した。上京したのは渡辺、笠井、井手の3檀家総代であった。3人の檀家総代は、篠原・東京信徒総務に面談、情報を交換するとともに今後の運動の展開などについて話し合った。
 このとき総代らは、日亨上人がいったん意思表示した管長不就任をひるがえし、再び就任の決意をしたことを知る。日亨上人としては、自分が管長就任を承諾しなければ、日柱上人の辞表がすでに文部省宗教局に受理されている現状からして、管長不在の状態が続き、無用の混乱を招くと判断したためと思われる。
 この日亨上人が管長(法主)就任を再び承諾したことは、日柱上人を擁護しようとする大石寺の檀家総代らにとってはきわめて不愉快なことであった。日柱上人派の不利な先行きを予想させるからである。
 そして、このニュースは、檀家総代らが白糸村村長・渡辺兵定宛に打った電報によって、大石寺の地元にもたらされた。大石寺のクーデターは、すでに多数の地元有力者を巻き込んでの紛争になっていたのだ。
 すでに11月27日、大石寺の地元より3人の総代が、宗教局に日柱上人留任の陳情をしていたが、それ以来、静岡と東京の信徒は連携を取り合いながら、代表が連日、宗教局に押しかけた。
 しかし日柱上人の辞任届と日亨上人の就任届が、監督官庁である文部省宗教局に受理されている以上、法的に有効であり、それを覆すにはよほどの法的事由が必要となる。だが、日柱上人側も、クーデターを無効にする決め手には欠けていた。
 さて、12月6日、日亨上人は、日蓮正宗の管長(法主)に就任するため大石寺に入山した。明けて7日、日亨上人は前管長の日柱上人に事務引き継ぎを申し入れる。
 ところが事務引き継ぎに不可欠の檀家総代の立ち会いが得られず、引き継ぎはできなかった。総代がこぞって立ち会いを拒否したのだ。
 新管長としての職務を遂行するために入山したにもかかわらず、事務引き継ぎができないため、日亨上人の管長就任は完全に暗礁に乗り上げてしまった。
 日柱上人は大坊にそのままいつづけたので、日亨上人はやむなく、塔中寺院の浄蓮坊に入った。これ以降、同じ大石寺の境内で、日柱上人を擁するグループと日亨上人を擁するグループとが2派に分かれ、深刻な対立をすることとなった。
 日柱上人の側には、大石寺の檀家総代をはじめ、主に東京などの檀信徒がついた。大石寺の檀家総代らにしてみれば、全国から集まった僧侶らが、なんの権限があって自分たちの大石寺住職(法主)を放擲しようとするのかということで、どうにも許せないものがあったのだろう。
 当時の新聞などの論調を見れば、日蓮正宗という宗派(包括法人)の僧侶たちが密議し、大石寺(被包括法人)を乗っ取ろうとしている、といった論調が目立つ。「大石寺派」(日柱上人のグループ)と「日蓮正宗派」(日亨上人のグループ)といった表現も、新聞報道の中に散見される。
 両派が大石寺内で深刻な対立を続けている12月10日頃、ある事件が起きた。11月18日の宗会開始以来、本山に陣取り、阿部法運(のちの日開上人)の意を受けて日柱上人おろしの中核として動いていた東京・品川の妙光寺住職・有元廣賀総務(今の宗務総監にあたる)が、東京の信徒代表12名によって強引に拉致され、東京に連れ去られてしまったのである。
 もともと日柱上人に対するクーデターは、この有元総務が、日柱上人に取り立てられた経過を無視して、日柱上人に敵対し、阿部法運側に寝返ったことによって可能になったとされる。ナンバー2のナンバー1への裏切りがあったればこそ、日柱上人降ろしが成功したのだった。そのクーデターの首謀者の1人が、信徒らによってあえなく強制下山させられてしまったのだ。大正時代の末寺住職は、日頃、信徒に世話になっている手前、信徒の意向に面と向かって争うことはできなかったようだ。大正14年は、両派ともに決定的な対抗策を講ずることもできないまま、暮れようとしていた。だが、暮れも押し迫った12月28日、日柱上人側が動きを見せた。突如、日柱上人が大石寺を下山し、東京に向かったのである。
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(『地涌』第243号)

http://www.houonsha.co.jp/jiyu/06/243.html

 日柱上人が、新年も間近に迫った大正14年12月28日、大石寺を下山したのは、クーデター騒ぎの後すぐさま旗揚げした正法擁護会など、日柱上人を擁護する東京の檀信徒たちとの連携をいっそう密にするためであった。大石寺内における両派の睨み合いという小康状態を、檀信徒の力を借りて打破しようとしたのだ。
 正法擁護会は、クーデター派僧侶の活動を阻むため、12月中旬頃にはすでに結成されていたようだ。日柱上人が上京した12月28日には、『正邪の鏡』という真相暴露の小冊子(37ページ)まで発行している。
 あわただしい年の瀬のさなかにもかかわらず、新しくできた小冊子を目の当たりにし、日柱上人を迎えた正法擁護会のメンバーの意気は、天を衝くものがあったのではあるまいか。
 正法擁護会を中核とした日柱上人擁護の檀信徒は、新年早々、東京において全国檀徒大会を開くことを決定した。全国の檀信徒の声をもって、宗会クーデター派の非を天下に訴えることにしたのだ。
 全国檀徒大会は、大正15年も明けて間もない1月16日の午後1時より、神田和泉橋倶楽部において開かれた。
 この全国檀徒大会では次の5項目が決議された。1つひとつの決議を吟味する中で、紛争当時の状況を探ってみたい。
 「一、管長即大導師の寳位を日柱上人に奉還することに努力邁進すること」
 日柱上人は日亨上人に相承をおこなっていないので、日亨上人は法主ではない。ただし文部省宗教局に対し、日柱上人は管長の辞職届、日亨上人は就任届をそれぞれ出している。その限りにおいては日亨上人が管長であるとも言える。
 すなわち檀信徒は、その当時の状況を、法主は日柱上人、管長は日亨上人と、本来なら1つであるべき法主と管長が、2つに分かれていると認識していたのではあるまいか。その現状認識が「管長即大導師」という表現に込められているようだ。
 檀信徒は、血脈相承が、前法主である日柱上人の意思にまったく逆らっておこなわれることに、信仰上の危機感を持っていた。このようなことは600有余年の大石寺の歴史において、いまだかつてなかったことである。今まさに、クーデターによって法主の座が奪われようとしているのだ。唯我与我の境界においておこなわれなければならない血脈相承が、破壊されることを危惧したのだった。
 この下剋上にも似た出来事は、当時の世相からしても、人々に受け入れられるものではなかった。
 大正時代は近代天皇制国家のもとにあった。上御一人の天皇より下万民に至るまでの不変の秩序立てこそ、優先されるべきことであった。その世相の中で、人々に範を垂れるべき僧侶が、下剋上の手本を見せたのだから、世間注視の大変な騒動となってしまったのだ。
 「二、戒壇の御本尊の開扉並に檀信徒に授與さるゝ御本尊の書冩は日柱上人に限り行はせられ血脈相承なき僧侶によつて行はれざる様適當の方法を講ずること
 檀信徒が、血脈相承のなされていない日亨上人による御開扉、御本尊書写を拒否しているのである。血脈擁護の立場からの主張であるが、それは現実的には、日亨上人へのあからさまな拒否反応としてあらわれてしまった。よかれと思って管長を引き受け、早期に紛争を解決しようとした日亨上人の苦慮のほどは、はかり知れないものがあっただろう。
 「三、日柱上人を排斥し又は之に與同した僧侶に對しては我等の目的を達するまで一切の供養を禁止すると共に信仰上の交際を斷絶すること」
 クーデターを起こした反日柱上人派の僧侶は養わない、「信仰上の交際を断絶する」とまで言っている。檀信徒による僧侶の“破門”である。“破門”の理由は、僧侶が血脈の本来のあるべき筋道をはずし、衆を頼んで相承を強制して、血脈相承を破壊しているということである。
 いまの日顕上人らは、いったいどちらの主張が正しいというだろうか。日顕上人らの血脈相承観を規範にすれば、檀信徒の側が正しいと結論しなければならないはずだ。
 日顕上人らには実に気の毒なことではあるが、史実は、現在の日蓮正宗を形成している血族、法類のすべてが、日顕上人らがいま声高に叫ぶ「血脈否定」「三宝破壊」をおこなってきたことを示している。日顕上人の父も、日蓮正宗役僧の師僧たちも、いまの日蓮正宗中枢がいうところの“堕地獄の因”を作ったことにならないか。
 ことにクーデターの黒幕である日顕上人の父・阿部法運(のちの日開上人)は、人に抜きん出た大罪をつくったということになるが、日顕上人はこれをいかに弁明するのだろうか。
 皮肉な言い方はよそう。ここには重要な問題がある。今の日蓮正宗僧侶の師僧や先達は、宗会の決裁によって法主を退座させた“実績”があるということだ。
 しかも、当時の状況を調べればわかることだが、日蓮正宗宗会によって不信任決議書、辞職勧告書をつきつけられた日柱上人に、さしたる失はない。だが、今の日顕上人には、明確な大罪が数限りなくある。いざとなれば日開上人、日隆上人、日昇上人らの方策にならって、日蓮正宗宗会で日顕上人に対する不信任決議と辞職勧告決議をし、退座を迫ることも可能だ。
 広宣流布の結束した歩みを、ここまでさんざんに乱したのは日顕上人である。日蓮正宗僧侶は与同罪をまぬかれるためにも、日顕上人の短慮と短気が破和合僧を招いたと、日顕上人に対する糾弾決議をおこなうべきだ。
 「4、宗制寺法、教則の改正等は管長の寳位が日柱上人の奉還せられた以後に實現される様に適當の処置を採ること」
 クーデター派に有利な規則の変更を阻もうとしたようだ。この時点で、両派ともに法的な検討を相当に詰めていたのではあるまいか。
 「五、右の各項を實現するため數十名の實行委員を選定すること」
 日柱上人復活に向けて、組織だった活動が、全国規模で展開されることになった。
 この1月16日におこなわれた檀徒大会は、クーデター派と日柱上人を擁護する反クーデター派が、完全に決裂してしまい、一切の調停が不可能であるとの印象を文部省宗教局に与えた。そこで宗教局は最後の決断を下す。
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(『地涌』第244号)

http://www.houonsha.co.jp/jiyu/06/244.html

 日蓮正宗の管長をめぐる紛争を、話し合いによって解決できないと判断した文部省宗教局は、選挙によって管長候補者を選出することを決定した。その決定は、全国檀徒大会がおこなわれた1月6日に日蓮正宗側に伝えられたようだ。そこで、規則に従い、管長候補者選挙が告示された。
 投票は郵送あるいは本人持参をもっておこなわれ、2月16日が投票締切。2月17日、大石寺宗務院において開票されることとなった。被選挙権者の資格は権僧正以上であった。ただし阿部法運は、僧階降格1年未満であったため除外された。
 その結果、当時の宗内で被選挙権を有する者は、日柱上人、有元廣賀(品川・妙光寺住職)、堀慈琳(のちの日亨上人、浄蓮坊)、水谷秀道(のちの日隆上人、本廣寺)の4名となった。一方、選挙権を有している者は80余名いた。
 日柱上人は選挙を有利にするため、1月25日、『宣言』を発表した。その内容の骨子は、「選挙に於て、日柱以外の何人が当選されたとしても、日柱は其人に対し、唯授一人の相承を相伝することが絶対に出来得べきものでない事を茲に宣言する」というものであった。選挙で自分に投票しなければ、血脈が断絶することになるぞと威嚇したのである。
 なお『宣言』全文は以下のとおり。
「 宣 言
一、日柱の管長辞職は、裏に評議員宗会議員並に役僧等の陰謀と、其強迫によつて余儀なくせられたるものであれば元より日柱が真意より出たものでない。かゝる不合理極まる経路に依て今回の選挙が行はれる事になった。
 斯の如き不合理極まる辞職が原因となりて行はれる選挙に於て、日柱以外の何人が当選されたとしても、日柱は其人に対し、唯授一人の相承を相伝することが絶対に出来得べきものでない事を茲に宣言する。
二、抑も唯授一人の相承は、唯我與我の境界であれば、妄りに他の忖度すべきものでない。故に其授受も亦た日柱が其法器なりと見込みたる人でなければならぬ。聞くが如くんば、日柱が唯授一人の相承を紹継せるに対し、兎角の蜚語毒言を放つ者ありと。これ蓋し為にせんとての謀計なるべきも、斯の如き者は、師虫の族である。相承正統の紹継者は、日柱に在り。日柱を除いて他にこれなき事を断言する。既に不合理の経路に依て行はるゝ、今回の選挙であれば、これに依て他の何人が当選するとも唯我與我の主意に反するを以て、相承相伝は出来ないのである。乃ち仏勅を重んずる精神に基く故である。斯の如く日柱が相承を護持する所以は、謗徒の為に、宗体の尊厳を冒涜せられ、仏法の血脈を断絶せらるゝ事を恐るゝゆへである。而かも米国の民主主義や、露国の無政府共産主義の如き事が、我宗門に行はれることになり、それが延ては終に日本国体に及ぼす禍根となるを悲む所以である。
三、日柱は宗体を顛覆せらるゝ事を痛嘆する者である。既にこれを憂慮せる清浄の信徒は、奮起して正義を唱へ、相承紹継の正統を、正統の正位に復すべく熱誠活動して居るのである。荀くも僧侶として信念茲に及ばざる如きあらば真に悲むべきである。即ち仏法の興廃は今回の選挙によつて定まるのである。願くば選挙に際し其の向背を誤らざんことを。
 仏日を本然の大光明に輝かさんと願はん純正の僧侶並に信徒は、敢然として三宝擁護に奉ずるために、正路に精進し、倶に共に宗体を援助するに勇猛なれ。
 南無妙法蓮華経
 大正十五年一月廿五日
            総本山五十八嗣法日柱 花押」
 意に反して猊座を追われた日柱上人の無念がひしひしと伝わってくる。日柱上人に退座すべき理由はなにもなかった。阿部法運(のちの日開上人、現日顕上人の父)の僧階を降格したばかりに、恨みを買い、クーデターを画策され、退座を余儀なくされたのだ。それも「陰謀」「強迫」によってなされたというのだから、穏やかではない。
 さて、日柱上人を擁立する檀信徒の集まりである正法擁護会代表8名は、日亨上人に対して日柱上人の支援にまわってくれるよう懇請するため、大石寺の浄蓮坊を訪ねた。1月29日のことである。この日亨上人との会見には、大石寺の地元の檀家総代1名が同席した。
 日亨上人と一同の会見は、1月29日から30日にかけて数度おこなわれたが、日亨上人が懇請をキッパリと退けたことにより、正法擁護会の工作は失敗した。
 1月30日、正法擁護会は大宮町(富士宮市)の旅館・橋本館に引き揚げ、夜遅くまで善後策を協議した。日亨上人の説得に失敗した今、日柱上人の敗北はほぼ確定的である。そこで、正法擁護会の代表8名は、残された非常手段に訴えることにした。
 明けて1月31日午後1時、一行は大宮警察署を訪ね、疋田警部補に面会。午後2時7分、大宮駅発の列車で帰京した。正法擁護会の代表たちは、前年11月の日蓮正宗宗会における不信任決議の不当性を訴え、日柱上人に対する脅迫事件の捜査を、疋田警部補に要請したようだ。(筆者注 時期の特定はできないが、日柱上人側が告訴していたことが後に判明する。これが後に日蓮正宗への警察の介入を招く)
 こうして、管長候補者の選挙がおこなわれたが、開票前日の『静岡民友新聞』(T15.2.16)は、次のように報じている。
 「屡報宗門の恥を天下にさらし、宗祖以来七百の誇り、血脈相承も棄てゝ管長選挙に僧侶と檀信徒が対立して醜争をつづけている日蓮正宗大本山富士郡上野村、大石寺の管長選挙も今十六日を以て投票を終り明十七日開票の筈だが、開票の結果は、檀信徒派擁立の土屋前管長の当選は到底覚束なく、僧侶派擁立の現管長事務扱、堀慈琳師の当選は疑ふ余地なき確実なものと観測されている。所轄大宮署では開票当日の大混乱を予測して官、私服の警官十余名特派し警戒に努める模様だ」

 日蓮正宗の管長候補選挙の開票に警察官十余名が動員されることが報じられている。この新聞記事は、日蓮正宗内の対立がいかにひどいものであったかを示している。
 そして、いよいよ開票日当日を迎える。
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(『地涌』第245号)

http://www.houonsha.co.jp/jiyu/06/245.html

 2月17日午前9時5分より、日蓮正宗管長候補者選挙の開票がおこなわれた。開票結果は次のとおり。
 総投票数87票のうち、棄権が2票、有効投票85票中、
 82点 当選 堀 慈琳師
 51点 同  水谷秀道師
 49点 同  有元廣賀師
  3点 次点 土屋日柱師
 日柱上人の得票は、たったの3票であった。当人の1票もあるので、時の法主であった日柱上人に「信伏随従」していた者は、たったの2名しかいなかったことになる。僧侶たちは、信徒には「信伏随従」を言うが、それはそのほうが自分にとって有利だと判断されたときだけである。
 大正15年2月の管長候補者選挙の投票結果は、僧侶の「信伏随従」の程度を数量的に示した数少ない事例である。「信伏随従」した者は、投票権を有した僧侶87名中たったの2名、2.2パーセントである。これが僧侶の「信伏随従」の数値である。お寒い限りだ。
 ともかく選挙は、日亨上人の圧倒的な勝利であった。あとは形だけの評議員会を開き、日亨上人を管長と決定し、文部省に申請して許可をもらうだけとなった。
 これで、まる3ヵ月にわたって続いた泥沼抗争にも終止符が打たれるかと思われた。だが、またも事態は暗転する。
 反日柱上人派は、開票当日の午後、大奥(大坊)において、“戦勝”を祝って日亨上人を囲み歓談していた。そこへ大宮警察署の疋田警部補が、数名の制服警官を伴ってあらわれた。この日は形だけの捜査で終わったが、翌18日より関係者一同は、大宮署において取り調べを受けることになる。
 日蓮正宗宗会議長の小笠原慈聞を筆頭に、宗会議員、評議員総計21名に対する告訴が、日柱上人擁護派より出されていたのだ。日柱上人がやむなく辞表を書いたのは、脅迫によるものだ、と訴え出ていたのである。
 翌18日は、あわただしく明けた。早朝、評議員会を開き、日亨上人を管長として文部省に申請することを決定。総務・有元廣賀、参事・坂本要道2名が旅装をして急きょ上京し、翌19日には文部省に管長認可に必要な書類を提出した。警察の介入に驚き、急いで法手続きを済ませたのだ。
 さて話は、警察の取り調べにもどる。
 まず18日は、小笠原慈聞ら9名が午前9時より取り調べを受けた。取り調べは、署内の武道場に全員を入れ、そこから順次1人ひとりを取り調べ室に呼び出し、徹底的におこなわれた。調べは夜遅くまでつづいた。
 ここに至って、前年の秋以来つづいた日蓮正宗の宗内抗争は、警察権力介入という最悪の事態に突入してしまったのだ。
 訴えられた他府県に所在する僧たちは、後日順次、大宮署に召喚された。大宮署の苛酷な取り調べは、その後も連日のようにつづいた。
 1月24日には早くも2名の者が書類を検事局に送られた。書類送検されたのは、日蓮正宗宗務院の加藤慈仁(慈忍という報道もある)と蓮成寺住職の川田正平(米吉という報道もある)の2名。この2名は前年11月18日、丑寅勤行中の日柱上人を脅すため、ピストルのような音をたてたり、瓦や石を客殿に投げたことを自供した。
 警察署から検事局に送られた書類には、その他、水谷秀道(静岡県・本廣寺住職、のちの日隆上人)、小笠原慈聞(宗会議長)、有元廣賀(品川・妙光寺住職)、相馬文覚(理境坊住職)、中島廣政(寂日坊住職)、西川真慶(観行坊住職)、坂本要道(百貫坊住職)、早瀬慈雄(法道院主管)、松本諦雄(『大日蓮』編集兼発行人)、太田廣伯(静岡・蓮興寺住職)などの名が載っていた。日柱上人に対する脅迫の嫌疑をかけられていたのだった。さらに捜査は続行した。
 富士大石寺の法主(管長)の座をめぐる争いは、脱することのできない袋小路に入った。大石寺始まって以来、最悪の事態だ。
 だが解決の日は、意外にも早く来た。
 3月6日午後1時53分の富士駅着の列車で、日柱上人、夫人、持僧と正法擁護会の者2名が到着。一行は自動車で大宮町(富士宮市)橋本館へ。
 そこで大石寺檀家総代3名と合流し、打ち合わせを始めた。夜には東京の正法擁護会の者2名が新たに加わった。打ち合わせは、深夜まで続いた。
 翌3月7日、日柱上人らは2台の自動車に分乗して、大石寺に登山。登山の目的は、日亨上人に相承をおこなうことであった。
 3月7日午前7時より総本山大石寺客殿において相承の式を挙行、午後1時に終了。午後は酒宴となった。3月8日午前零時より1時にかけて、血脈相承が日柱上人と日亨上人のあいだで執りおこなわれた。翌月の4月14日、15日には、日亨上人の代替法要が催された。
 これをもって、日蓮正宗の法主の座をめぐる争いは終了した。
 抗争劇は実にあっけない幕切れとなったのだが、日柱上人側が強硬な態度から、一挙に柔軟な態度に転じた背景には、文部省の下村宗教局長の調停があった。
 調停がおこなわれたのは、2月の終わりか3月の初めと思われる。
 大方の予想に反して、ただ1回の調停で和解が成立したという。
 その場で5ヵ条の合意を見た。残念ながら、文部省の誰が調停の場に臨んだのかは判然としない。だが、誰が代表で調停の場に出て合意したにしろ、それに基づき両派の睨み合いが解消されたことはたしかだ。
 ただし5ヵ条の合意内容は、当時、複数の新聞で報じられている。
 一、宗體の維持に就ては前法主派、法主互いに協力する事
 二、新法主は山中及び宗門を改正する事
 三、宗門の重大事に就て新法主前法主相談する事
 四、新法主は宗門の雑事には容喙せぬこと
 五、新法主は僧俗の信行を増進すること

 この5項目以外にも、日柱上人の「隠尊料」が問題にされた。その内容については、正法擁護会のメンバーである田辺政次郎が、日亨上人登座後の同年9月、『異体同心の檄文』という文書の中で一部明らかにしている。
 田辺は、日蓮正宗側が日柱上人に約した「隠尊料」を履行しないということで、合意内容を暴露したのである。
 その中で田辺は、以下のことを明らかにしている。
 「然して日柱上人隠尊料は(現金三千円之れは『正鏡』にも記載あり)白米七十俵本山より供養すべき内約を大石寺檀徒惣代人の意見として相談せし事、然れども此事は同三月八日御相承の後ち再び改め減額せられた即ち白米廿五俵現金一千円となりし是れも約束だけで実行はせぬ事に聞及びたり」(筆者注  『異体同心の檄文』一部抜粋、文中『正鏡』とあるのは反日柱上人側の出した文書)
 驚くべき事実である。血脈相承を円滑におこない御隠尊するにあたり、「隠尊料」が払われる約束になっていたと暴露しているのだ。しかもそれが相承を支障なくおこなう条件として、相承の前後に話されていたことがわかるのである。
 隠尊料は調停合意の時点では、現金3千円と白米70俵が、大石寺檀家総代の意見として述べられた。新管長側がそれをその時点で承諾したのかどうかは定かではないが、3月8日の相承のあとで、現金1千円と白米25俵に減らされてしまったと、日柱上人側の田辺は暴露している。
 田辺が隠尊料のことを暴露したのは、まだ宗内抗争の傷も癒えぬ頃である。関係者全員健在であろうし、田辺の記すことが、あながちウソとは思えない。
 隠尊料の実行不実行が、日蓮正宗内で人口に膾炙するようになるとは、「金口嫡々唯授一人相承」の金科玉条も、当時はその権威を失ってしまっていたと思われる。
 ちなみに現金1千円が今日のどの程度の金額に相当するか換算してみる。大正15年当時、10キロの米はおよそ3円20銭である。今日の米の値段をかりに10キロ5千円とすると、隠尊科の1千円は、現在の約150万円となる。公務員の初任給は大正15年当時75円。現在13万円として換算すると、大正15年の1千円は現在の170万円となる。
 もう1つおまけに換算してみよう。当時の『大日蓮』は15銭、いまの『大日蓮』は300円。すると隠尊料1千円は、約200万円となる。
 どうやら日柱上人の隠尊料は、現在の150万円~200万円程度だったようだ。だが、日柱上人はそれすら与えられず、宗内の者ことごとくに敵対され、放逐されたのだった。
 しかも猊座についていた期間は、2年3ヵ月という短期間であった。
 日柱上人に対する日蓮正宗僧侶の仕打ちは、酷いものがあったと思われる。
 新しく法主に登座された日亨上人は、学究肌の方であるから、「隠尊料」の取引に関与されることなど考えられない。
 おそらく、このクーデターの筋書を書いた“政僧”たちが、日柱上人や正法擁護会の人々を宥めるために、その場しのぎの懐柔をおこなったものだろう。人のよい日亨上人を利用し、日蓮正宗を我が物にしようとする“政僧”たちの息づかいが聞こえてくる。
 ただ、ぶざまな抗争で世の顰蹙を買ってしまった日蓮正宗であったが、日亨上人が総本山第59世として登座されたことは、なによりのことであった。日亨上人の人徳がなければ、抗争がこのように一挙に解決することもなかっただろう。
 しかし、人徳、識見ともに、石山が仏教界に誇る至宝ともいえる日亨上人を、同門の者たちが抗争の中で容赦なく傷つけたことは、かえすがえすも残念なことであった。





「達磨の広告」破折


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 明治・大正期の日蓮正宗の機関誌は『白蓮華』だった。この『白蓮華』は明治39年6月5日、「日蓮宗富士派宗務院」(日蓮正宗は大正元年までは、日蓮宗富士派と名乗っていた)の名で、正式に「機関雑誌」として「公認」されている。以後、同誌には、宗派としての人事、公達(院達)などが掲載される。いわば今の『大日蓮』である。(中略)
 掲載されている広告は、実にお粗末なものである。とてもではないが、宗祖日蓮大聖人、開祖日興上人に言上のしようがない代物ばかりである。ここにその一部を紹介する。
 まずは達磨の絵が大きく描いてある広告である(別ページ図参照)。仏具店の広告だが、「木魚」「般若心経」「仏像」まで、日蓮正宗の機関誌で宣伝することはあるまいにと思う。
 この広告は大正2年2月7日発行の第8巻第2号より始まり、同年12月まで11回連続で掲載される。翌大正3年にも、2月、5月、7月と掲載され、都合15回も登場した。
 この当時の『白蓮華』の発行責任者は阿部法運である。阿部法運といえば、のちの総本山第60世日開上人のことで、当代日顕上人の実父にあたる。
 いかに困窮しているとはいえ、達磨の絵を機関誌に大きく掲載して、お金をもらうようになってはおしまいである。(『地涌』第235号)
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●([質問]謗法払いのことについて、子供がオモチャにしているダルマとか、掛け軸とかというものは謗法になりますか。)そんなのは謗法になりません。おいてもよろしい。(『戸田城聖全集』第2巻125頁)
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本物のダルマ(置物)を置いても謗法ではないのである。広告に達磨の絵が掲載されていても問題ないことは当然である。

●[達磨]だるま=(1)〔梵 Bodhi-dharma 菩提達磨と訳す〕中国禅宗の祖。南インドの王子として生まれ、般若多羅から教えを受け、中国に渡って禅宗を伝えた。少林寺に9年面壁したといわれる。5世紀末から6世紀末の人とされる。なお、「達摩」と表記して、歴史上の人物として扱うことを示し、宗門上の伝説と区別することがある。円覚大師。達磨大師。生没年未詳。
(2)(1)の座禅姿を模して作った張り子の玩具。赤く塗り、全体を丸くかたどり、底を重くして倒してもすぐ起き上がるようにしてある。開運の縁起物とされ、最初片目だけを書き、願いのかなった時にもう一方の目を書き込んで祝う。起き上がり小法師。不倒翁。(『大辞林』第2版)
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「玩具」とはあるが、選挙の際などには「開運の縁起物」として使われており、達磨大師の絵よりも達磨の置物の方が宗教的意味合いがある。

 「達磨の絵を機関誌に大きく掲載して、お金をもらう」というが、仏具店が広告を出す目的は、その広告を見た人に商品を購入してもらうことである。しかし、日蓮正宗の僧俗であれば「木魚」「般若心経」「仏像」を宣伝しても購入するはずがない。売れない物を宣伝しても広告費の無駄となり、早晩、広告の掲載は中止されるはずである。そうなれば、宗門としては「お金をもらう」ことができなくなる訳である。そう考えれば、もし、宗門が仏具店に広告をいつまでも掲載してもらいたかったのであれば、広告費確保の点からいっても「達磨の絵」「木魚」「般若心経」「仏像」の掲載は控えるようにアドバイスしたであろう。しかし、実際はそうではなかった。それは何故か。要するに、当該広告は、他の広告同様、依頼主が用意した記事をそのまま機械的に掲載したということであろう。
 これまで学会は、執拗に宗門の過去の記録を漁り、少しでも誹謗中傷のネタになると思えば、簡単に破折されることを承知の上で、公開してきた。そのような学会の体質からいって、おそらくは、これまでのすべての宗門機関誌を調べ上げたことであろう。それでも、広告物についていえば「達磨の絵」1件のみが誹謗中傷のネタに採用されたのである。もし『地涌』の主張どおり、宗門が金のために謗法を容認してまで広告を掲載していたのであれば、明治以降現在までの宗門の出版物に、謗法がらみの広告が何十、何百と掲載されていても不思議ではないし、むしろ、その方が自然であろう。このことから考えても、「困窮している」から「達磨の絵を機関誌に大きく掲載」したのではなかったことが明らかであろう。

[画像]:『白蓮華』(第8巻第3号)掲載の広告





「本尊誤写事件」破折

総本山第60世阿部日開(日顕の実父)は、昭和3年の登座直後、本尊を間違って書写した。「仏滅度後二千二百三十余年」と書くべき讃文を、「仏滅度後二千二百二十余年」と書写してしまった。

(『地涌』第353号)





【『御本尊七箇相承』】
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 『御本尊七箇相承』には、次のように記してある。
 「一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉ること御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」(『富士宗学要集』第1巻所収)
 この相伝書によれば、まぎれもなく「仏滅度後二千二百三十余年」と認めることが正しい。そこには、議論の余地はない。(『地涌』第353号)
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●「仏滅度後二千二百三十余年」の御文は、特に「三十余年」か「二十余年」かを撰ぶものではなく、要は、正法・像法に未曽有の(つまり末法に初めて出現するところの)大漫荼羅であることを明記して、略してはならない、と御示しになったものである。そして、現に、大聖人御図顕の数多(あまた)の御本尊には、「三十余年」と「二十余年」の両様が存するのだから、これをもって「ニセ本尊」だ、などと言うことはできない。(『慧妙』H17.3.16)

●大石寺は本尊口決の相承として、宗祖より日興・日目上人、さらに歴代上人への相伝がある。その上に岩本開山日源の筆になる『本尊三度相伝』や、また『本尊七箇の口決』があり、日興上人へ伝授された正本は会津にある。これらの伝授口決に基づき御本尊を書写し奉るのである。これ以上の深い意義は申しがたいが、ただ問われている「日蓮在判」の義については少々談じよう(中略)他門法華宗は面々の伝授というものがあるのであろうか。大石寺は本尊書写においても面授の上に相伝されてきたのである。(第22世日俊上人著『辯破日要義』/『富士門流の歴史 重須篇』216頁~)
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「本尊口決の相承」は「面授の上に相伝」されてきたのである。「その上に」『本尊三度相伝』『本尊七箇の口決』がある。つまり、本尊書写に関する相伝は『本尊三度相伝』や『本尊七箇の口決』がすべてではないのである。



<第67世日顕上人>
●故に、この「二千二百二十余年」と「三十余年」は、時に約してお示しになっておられるのでありまして、そこに大聖人の御本仏としての御化導があり、また日興上人の唯我与我の御相承があるのであります。
 ですから、日興上人が付嘱を承けられた弘安5年は、仏滅後から拝しても『寿量品』という上から拝しても「二千二百三十余年」であるべきです。けれども、その「三十余年」ということの中には、数字に執われるべきものではなく、「二十余年」と「三十余年」の両意が付嘱の上の、大聖人より日興上人への大曼荼羅御顕発の御境界の中に、すべてが丸く収まっておるのであります。
 ただし、どうして大聖人が弘安元年・2年・3年において両方をお示しになっているかということについては、またこれは深意が拝せられるのでありますが、そのすべてを含んでの御付嘱なのです。だから基本的には、書写について「三十余年」の御指南があり、歴代先師の方々も概ねその如く、また私も登座以来、「二千二百三十余年」と御書写申し上げております。今後、未来においてもまた、それを基本とすべきことは当然であります。
 しかし、御歴代の中には時々、「二十余年」と御書写になっておる方もあります。これは書写の基本ではないが、大聖人の大曼荼羅御境界を拝された日興上人の御意を拝しつつ、そこを元として、その中に含まれた特別の境地を拝されたものであります。
 故に、「二十余年」と書写せられた少数の御本尊があり、また数人の御先師が時として、ごくわずかに「二十余年」と書写あそばされたことについて末輩が、相伝の何たるかも知らない者共が、"間違いだ"などと言うこと自体がおこがましいことである、と言っておるのであります。
 あるいはまた、「二十余年」とも「三十余年」ともお書きにならず、「正像未弘の大曼荼羅也」という御本尊もあります。だから軽率に先師を批判することは十分に慎まなければならないと思います(第67世日顕上人『大日蓮』S56.9/『地涌』第353号)

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日顕本人が、「二十余年」は書写の基本ではないと断言しているのであるから、やはり基本からはずれた書写は間違いということにならないか。(『地涌』第353号)
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 ここで言う「基本」とは応用に対する意味ではないかと思われる。つまり、「仏滅度後と書く可し」という前提を踏まえた表現であれば、「基本」からはずれても間違いとはいえない。
 「それ(※三十余年)を基本とすべきことは当然」が日顕上人の御指南なら、「相伝の何たるかも知らない者共が、(※二十余年が)"間違いだ"などと言うこと自体がおこがましい」というのも同じく日顕上人の御指南である。そうであれば、ここで仰せの「基本」の語は、"そこからはずれては間違いとなる"という意味ではないことは明白である。
 そもそも、言葉というものは時代によって変遷するし、同時代でも地域や世代、個人によっても異なる場合がある。同じ方の同じ文章であれば、全体の文脈から当人の真意を類推すべきであろう。

[基本]=①同類のすべてがそれの応用・変形としてとらえられるものと考えられる、共通の原型的なもの。「-文型:柔道の―は受身だ・―に忠実・―が出来てない」
②(枝葉末節・派生的なものと違って)それを抜きにしてはそのものの本質が見失われると考えられるもの。「民主主義の―は主権在民だ:―方針・を決める(貫く)」(『新明解国語辞典』第4版=三省堂)


●歴代上人のなかには宗旨上の特別な拝仰の上から「二千二百二十余年」と書写された例があります。例えば、17世の日精上人、19世の日舜上人、41世の日文上人等の御本尊の一部に拝されますが、通常の書写はもちろん「二千二百三十余年」と書くのが古来の通規になっております。私も登座以来、1幅も「二千二百二十余年」と書写申し上げたことはありません。すべて「三十余年」と御書写申し上げております。
 しかしながら「二千二百二十余年」という御本尊だから拝んではいけないなどということはない。総本山塔中久成坊の本堂に昔から安置されている常住板御本尊には「二千二百二十余年」とお書きになってある。しかも、この裏書きに26世日寛上人の判形がある。これは、もう明らかに「二千二百二十余年」の先師の御本尊の模刻を日寛上人が允可(いんか)されておるのです。
 要するに、相承を受けない者が、特に在家の者がこういうことを簡単に云々すべきではないということだけを、ひとこと言っておきます。(第67世日顕上人『創価学会の偽造本尊義を破す』119頁)
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このように、日開上人の御本尊御書写は、大聖人の大漫荼羅御境界に含まれる特別な境地を拝されてのことであられた。また、総本山久成坊の常住板御本尊には、讃文に「仏滅度後二千二百二十余年」とお認めである。この御本尊は日精上人が御書写なされた御本尊を、日寛上人が造立・開眼なされたものである。このことからも日寛上人は「仏滅度後二千二百二十余年」とお認めの御本尊を、誤りなどとはされていないことが明らかである。(青年僧侶邪義破折班H17.6.7)
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日開上人以前において、特に、総本山久成坊の常住板御本尊は、江戸時代の造立であるが讃文に「仏滅度後二千二百二十余年」とお認めであるという。小笠原慈聞師は、僧侶でありながら、こんなことも知らずに"騒ぎ立てた"ということか。



<相伝書の解釈>
1●書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん(『太田入道殿御返事』全集1012頁)
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大聖人や日興上人の御指南といえども、対告衆の機根や時代状況、著述の目的などを正しく把握しなければ著者の真意を把握することはできない。厳密に言えば「事事見参の時を期せん」とあるように、本人に直接会い、真意を糺す外はない。しかし、大聖人や日興上人は既に御入滅されてお会いすることはできない。そこにこそ、大聖人の御内証を其のまま伝持された時の御法主の存在意義がある。

●祖師より興師へ御付嘱亦是れ三大秘法なり。興師より目師へ御付嘱も亦是れなり。(中略)目師より代々今に於て、二十四代金口の相承と申して一器の水を一器にうつすが如く云々(第26世日寛上人『寿量品談義』/『富士宗学要集』第10巻131頁)
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唯授一人の血脈相承は、単に相伝書の授受によって成立するものではない。「金口」とあるように、師弟が直接対面して口伝されるのである。当然、"伝言ゲーム"のように一言一句変わらぬ言葉の伝授ではない(もし、そうならば相伝書の授受と同じで、上記1●「書は言を尽さず」の欠点がある)。師は、弟子の機根に応じた臨機応変の言葉をもって、法門の枢柄を伝えるのであろう。その場合、弟子より師への質問もあるかも知れない。そうして弟子は仏法の根本を悟り、師弟不二の境地に達する。




【邪宗・軍部と通じる獅子身中の虫】
<第58世日柱上人退座の策謀>
大正14年11月18日、宗会の初日に、正規の宗会進行の裏で密かに進められていた日柱上人追い落としの「誓約書」(全文)を紹介する。(中略)宗会議員・下山廣健 同・早瀬慈雄 同・宮本義道 同・小笠原慈聞 同・松永行道 同・水谷秀圓 同・下山廣琳 同・福重照平 同・渡邊了道 同・水谷秀道 同・井上慈善 評議員・水谷秀道 同・高玉廣辨 同・太田廣伯 同・早瀬慈雄 同・松永行道 同・富田慈妙 松本諦雄 西川眞慶 有元廣賀 坂本要道 中島廣政 相馬文覺 佐藤舜道 白石慈宣 崎尾正道(『地涌』第240号)



<「本尊誤写事件」>
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 日開の"御本尊誤写事件"は、当然、宗内で問題とされ、小笠原慈聞らが阿部日開を問い糾した。そして、当時の記録によれば、阿部日開は「タダ漫然之ヲ認タメ何トモ恐懼に堪ヘヌ」(「声明書」〈御本尊問題の顛末〉)と謝罪したのである。つまり「漫然」と書写して間違ったと謝ったのだ。
 だが、宗内の反阿部派がこの問題を大きく取り上げて騒いだことで、阿部日開ら宗門中枢は態度を硬化させ、誤写した本尊を回収することもなく、無視を決め込みはじめた。
 それに対して小笠原慈聞らは、昭和4年2月18日の朝、阿部日開が「六ツ坪」での勤行を終えるのを待ち詰問する。その結果、阿部日開は過ちを認め、訂正文を書き、自署花押したのである。
 「御本尊二千二百二十余年並に二千二百三十余年の両説は、二千二百三十余年が正しく、万一、二千二百二十余年の本尊ありとすれば後日訂正することとする。依って弟子旦那は二千二百三十余年の本尊を信ずべきものである。
以上
六十世 日開 花押」
(『地涌』第353号)
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"御本尊誤写事件"などとして、日開上人を糾弾した張本人は小笠原慈聞師であった。

流血の惨までも見せた管長選挙問題と昨年阿部管長の本尊誤写問題に絡み全信徒が2派に対立して騒ぎを続けている際とてこれが導火線となつて70万の信徒をあげて騒動の波紋を拡げさうな形勢である(『読売新聞』S5.12.29)
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 これは、宗務総監・水谷秀道師のスキャンダルを報じる記事の一部(核心部分は当該記事の前段)である。おそらく小笠原一派がリークした内容を新聞社が鵜呑みにして掲載したのであろう。その証拠に「本尊誤写問題に絡み全信徒が2派に対立」「70万の信徒をあげて騒動」など、全く証拠がなく、事実に反する。おそらくは、情報提供者の願望であり、宗内の混乱を社会に印象付けることがネライだったのではないか。
 『慧妙』(H18.11.1)によれば昭和5年当時の日蓮正宗を取り巻く状況として、京都・要法寺との確執があった。すなわち、京都・要法寺との間で、仙台・佛眼寺の帰属を巡(めぐ)って争っていた裁判に、要法寺側勝訴の判決が下ったものの、佛眼寺檀信徒は強制明け渡しを拒否。日開上人が佛眼寺檀信徒に向けて激励の書を送るなど、要法寺との関係が非常に緊迫(きんぱく)していたのである。そのような状況から『慧妙』は要法寺関係者が事件(水谷秀道師のスキャンダル)を捏造(ねつぞう)した可能性を仄(ほの)めかしている。
 しかし、もし、この時点で既に、小笠原師が身延との合同を意識していたのであれば、宗門のイメージダウンは合同の口実にもなるし、一般世間の支持も得られやすくなる。合同問題は別としても、後に「神本仏迹論」を掲げるほど信仰心のない小笠原師が、ことあるごとに宗内の混乱に中心人物として登場することは、師が、薄汚い意図を持って宗門をコントロールしようと画策していたことは、ほぼ間違いない。

●第2次世界大戦の始めの頃より我が国は一部偏狭(へんきょう)なる国家主義者に依って指導され、それが為(ため)の政府は神道を偏重(へんちょう)して仏教のいかなるかを弁(わきま)へず権実の理(ことわり)をも究(きわ)めず、唯(ただ)排仏の一途に進んだのであった。此の時貴師(※小笠原慈聞師)は仏教の常道を逸脱(いつだつ)し、宗祖大聖人並びに歴代相承の先師の教示を慢越して、神本仏迹の説を提唱した。為に日開上人日恭上人は小悩せられ、門下の僧侶は奮激して遂に宗門は貴師と道を分ったのである。(第64世日昇上人より小笠原慈聞師への誡告文S27.9.9/『慧妙』H15.1.16)
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第60世日開上人は昭和3年に登座され、昭和10年に法を日隆上人に付嘱されている。小笠原慈聞師が「神本仏迹の説を提唱」したのは「第2次世界大戦の始めの頃」とも読めるが、「日開上人日恭上人は小悩」という記述からすれば、あるいは日開上人御当職中にも同様の説を唱えていたのかも知れない。



<神札問題と合同問題>
●こうして合同問題のもつれと、小笠原一派の叛逆、牧口会長の国家諌暁の強い主張等を背景とし、直接には牧口会長の折伏が治安を害するといい、又神宮に対する不敬の態度があるとして、弾圧の準備が進められたから会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)

◆政府が宗教界統一をくわだてゝ大規模な各宗教統一に乘り出したころの事、小笠原慈聞が神本佛迹論を数度にわたつて鈴木日恭猊下へ文書で提出して居るという、又眞僞の確証はないが慈聞の活躍した水魚会を通じ日恭猊下のもとへ身延と合同せよと数度電報(?)を出したという事で、私が出獄後この話を聞いて眞僞をたしかめるため若しこれが本当ならあの当時の宗務院の文書を見せて下さるわけに行かぬでしょうか、と当局者に御うかゞいした事がある、その時は記録拝見は許されなかつたが、事件の有無については否定も肯定もなされず話をぼかして居られたのでそれ以上押しておたずねはしなかつた。又身延派と小笠原慈聞との間に、「この身延との合同が実現すれば小笠原を清澄寺の管長にする」という内約さえ出來て居てそれでしつこく水魚会方面から合同勧告があつたのだと水魚会関係者からうわさを聞いたし、当時このうわさは宗務院と交渉の深いだん信徒の間に公然と流布されていたものである。(『聖教新聞』S27.5.10/『地涌』第669号)

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以上のように、当時の宗門中枢には小笠原慈聞という獅子身中の虫が存在した。彼は、私利私欲のために仲間を扇動し、宗内を撹乱する。特に、戦時下においては軍部と繋がる水魚会なるグループで活動し、日蓮正宗を身延に合同させようと画策していたのである(<合同問題と獅子身中の虫>参照)。




【文部省の強権】
◆宗会議長の小笠原慈聞らが、文部省宗教局に、日柱上人の退座、日亨上人の登座の届けを提出するために上京したことを知った檀家総代らは、追いかけるように、27日の早朝、3名の代表を急きょ東京に派遣、文部省宗教局に事情説明、陳情をおこなった。もちろん彼らは、日柱上人に対する宗会の退座要求が不当であることを主張したのである。
 文部省宗教局は、檀家総代らの陳情に基づき、2日後の29日、宗会側の主要人物である総務(今の宗務総監)の有元廣賀(品川・妙光寺住職)、水谷秀道(のちの第61世日隆上人)、松永行道(福岡・霑妙寺住職)を改めて召喚した。
 文部省宗教局は、宗会側の“クーデター”に対して強い不快感を抱いていたようだ。下村宗教局長は3名の僧に対し、「貴僧等は社会を善導教化すべき責任の地位にありながら今回の暴挙を敢て為すは何事か」(『静岡民友新聞』T14.12.3)と厳しく追及し、そのうえで、2日後の12月1日までに、日柱上人に対して宗会が突きつけた不信任決議書と辞職勧告書を回収して、文部省まで持参、提出するよう命令した。
 所轄官庁の宗教局としては、一宗のトップ交代が、クーデターのような形でおこなわれたとあっては、監督不行届きとなりかねないとの判断が働いたのではあるまいか。しかも、すでに辞表及び就任の書類を受理したことでもあり、ゴタゴタが表面化することを避け、円満な交代であったことを装うため、不信任決議書、辞職勧告書という不穏当な書面を撤回させ預かろうとしたのではあるまいか。
 宗会側の代表3名は、“日柱上人おろし”に成功して大喜びしていたところへ、宗教団体の監督に絶大な権力を持つ宗教局長から厳訓され、肝の縮むような思いで大石寺に帰った。(『地涌』第241号)

◆日蓮正宗の管長をめぐる紛争を、話し合いによって解決できないと判断した文部省宗教局は、選挙によって管長候補者を選出することを決定した。(『地涌』第244号)

◆抗争劇は実にあっけない幕切れとなったのだが、日柱上人側が強硬な態度から、一挙に柔軟な態度に転じた背景には、文部省の下村宗教局長調停があった。(『地涌』第245号)

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当時の文部省宗教局長は「宗教団体の監督に絶大な権力を持」っていた。宗内において混乱が生じた場合、関係者を「召喚」し「厳しく追求」し「決定」「命令」を下す。宗教局長から「厳訓」された者は「肝の縮むような思い」となるそうだから、信教の自由・政教分離が保障された時代しか知らない者にとっては想像を絶する。


★戦前の政府は、宗教団体に対して絶大なる権限を持っていた。しかもその政府が明治時代以降、何回か、日蓮系各派の合同を画策した(<合同問題と獅子身中の虫>参照)。一方、小笠原師は昭和8年に「日蓮正宗を内部撹乱する拠点となる」(『地涌』第692号)日蓮正宗同心倶楽部を結成する。さらに師は、軍人や日蓮宗の人間が所属する水魚会の一員となり、身延との合同を画策する。このような、当時の宗門内外の特殊な状況を抜きにしては、「本尊誤写事件」の真相を正しく知ることはできない。




【謝罪文は混乱回避の方便!?】
―信無き者に、相伝書の解釈をしても納得しない―
 ことは相伝書の解釈に関わることであるから、他の文証をもって解釈の正当性を論じるすべがなかった。なぜなら、相伝書とは本来、唯授一人の血脈を受けられた方のみが披見できたのであり、その解釈の仕方も当然、相承を受けられた方のみが伝え聞いているからである。
 唯授一人の血脈に対する信の欠如している者に対して、本尊書写に関する相伝の深義を説明したところで、相手が納得するはずもなかったであろう。

●書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん(『太田入道殿御返事』全集1012頁)
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大聖人や日興上人の御指南といえども、対告衆の機根や時代状況、著述の目的などを正しく把握しなければ著者の真意を把握することはできない。厳密に言えば「事事見参の時を期せん」とあるように、本人に直接会い、真意を糺す外はない。しかし、大聖人や日興上人は既に御入滅されてお会いすることはできない。そこにこそ、大聖人の御内証を其のまま伝持された時の御法主の存在意義があるのです。

●親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ御心得候へ(『報恩抄送文』全集330頁)

 これなどは、たとえば見識の高い父親が手紙を書いているときに、「前畧」と書き始めたとしよう。横で見ていた小学生の子供が「お父さん、その字間違っているよ、りゃくはこう書くんだよ」といって「略」と書いたのに対して、父親が「あ、そうだ。お父さんがぼんやりしていた。お前えらいな」と応ずるようなものである。異体字のことなども判らぬ小学生に、「こういう字もあるのだ」といえば、かえって子供が迷ってしまう。ここは「お父さんがぼんやりしていた」というのが賢い人の答え方である。
 もって日開上人の、弟子・信徒に対する御化意を悟るべし。(『大日蓮』H24.11)


―宗内撹乱の目的を遮(さえぎ)るには謝罪してでも騒ぎを収める―
小笠原一派の執拗な攻撃に対しては、一応非を認め謝罪することが、騒ぎを大きくしない唯一の方法だったのであろう。事実これによって、小笠原一派は、攻撃の鉾先を収めるほかなかったのである(ただし、これ以降も、ことある毎に新たな問題を作出し宗内を混乱させるが)。


―謝罪が問題解決のための一応の方便であったことは、周知されていた―
もし本尊の誤写が事実であれば、血脈の尊厳に関わる由々しき問題である。しかし実際は、謝罪文を提出したことで簡単に収まった。このことは何を意味するか。大半の僧俗は、本尊誤写とは認識していなかったということであろう。もし、多くの人が本尊誤写と認識しておれば、宗内撹乱を画策する小笠原一派としては、事を大きくする絶好の機会であったに違いない。それは、現在の学会が、この問題をもって血脈そのものを否定する材料としているように。


●(※日開)上人は資性篤実で謹厳至誠の方(第66世日達上人『日開上人第25回御忌記念』序/『日達上人全集』1-5-719頁)
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と仰せのように、たいへんに篤実至誠なお方であられた。であるから日開上人は、大衆の誤解を解き、宗内を穏やかに導かれるための御教導をなされたのである。(青年僧侶邪義破折班H17.6.7)


■『千日尼御前御返事』御説法
(第67世日顕上人『大日蓮』H10.5)

〈『千日尼御前御返事』にのたまわく、
「弘安元年太歳戊寅七月六日、佐渡国より千日尼と申す人(乃至)仏滅度後はすでに二千二百三十余年になり候云云」(御書1248頁)
(題目三唱)〉


 ただいまは、当客殿の新築慶祝記念の第5日(第9日)、通算第9回(第18回)の法要を厳修つかまつりました。
 皆様には、仏法上、甚大の意義あるこの客殿落成について、慶祝の心をもってはるばる登山せられ、先程は本門戒壇の大御本尊御内拝御供養の段、仏祖三宝尊には大慈大悲をもってその御志を御嘉納あそばされ給うことと拝察つかまつります。
 さて、ただいま拝読の御書は、弘安元年7月6日の千日尼御前よりの便りに対し、同年7月28日付の大聖人様の御返事でありますが、本日は右拝読の年次の文について、本宗の御本尊に関係する重大な法義でありますので、少々申し述べます。
 昨日までの御書の法門より、少々専門的になりますが、御辛抱の上、しばらく聴聞願います。
 まず、右弘安元年の御書に「仏滅度後二千二百三十余年」(この「余」という字は、数字の4ではなく、余りという字であります。御本尊あるいは御書等に「仏滅度後二千二百二十余年」あるいは「三十余年」と示される場合の「余」という字は、すべて、この「余り」という字をお書きになってあります)とあり、この御書は御真蹟があり、明瞭に「三十余年」と書かれております。
 しかるに、不思議なことに、同じ年の9月6日の『妙法比丘尼御返事』には、
 「仏滅後既に二千二百二十七年になり候云云」(御書1267頁)
と書かれており、「二十七年」であることが明らかであります。
 なお、この『妙法比丘尼書』は真蹟は現存しませんが、
 「今又此の山に五箇年あり」(同1264)
という御文と、末尾の、
 「弘安元年(戊寅)九月六日」(同1269頁)
の記事より、弘安元年の御書であることは間違いありません。
 すると、同じ年の7月と9月の御書に、一方は「三十余年」と書かれてあり、一方は「二十七年」と書かれてあって、そこに大きな違いが拝されるのであります。
 ところが、文永10年の『南部六郎三郎殿御返事』には、
 「仏滅後今に二千二百二十二年なり」(同682頁)
とあり、また、建治2年の『報恩抄』には、
 「仏滅後二千二百二十五年」(同1036頁)
とあります。そこで、前記『妙法比丘尼御返事』の、弘安元年が「二千二百二十七年」と言われる年次と、実にぴったり合っておるのであります。
 そこで、疑いもなく大聖人は弘安元年が、当時の算定としての、「仏滅後二千二百二十七年」であることを確定あそばされていたのであります。
 しかるに、前記『千日尼抄』には、弘安元年の年であるにもかかわらず「仏滅度後二千二百三十余年」と書かれてありますから、大聖人はこのように2通りの算定をあそばされたことが拝せられます。
 これについて、さらに不思議なことは、大聖人様の御顕示の御本尊において、文永12年が建治に改元されまして、そののち同3年までの3年間の御本尊の仏滅讃文は、1幅の例外もなく、「仏滅度後二千二百二十余年」と書かれてあります。したがって、続く弘安元年も、先程の算定からするならば2千227年でありますから、それなら同じく2千220年代という意味において「二十余年」と書かれてよいわけであります。
 しかるに、弘安元年に入って「三十余年」と書き給う御本尊が圧倒的に多くなり、その後、弘安3年までの御本尊には「三十余年」と「二十余年」の、双方の讃文が拝されるのであります。
 これについて日寛上人は、法華経が1年に3品半を説かれたと御覧になり、釈尊が寿量品を76歳の年に説かれ、次の77歳の年に神力品を説かれて地涌・上行菩薩に結要付嘱をされたことを挙げられまして、寿量品説法の76歳より、入滅の1年前の79歳までの4年を加えると2千231年になります。したがって、仏の滅度の後より起算して、弘安元年が「仏滅度後二千二百二十余年」と言われたのであるとされています。これについて、さらに弘安元年著作の『本尊問答抄』にも、
 「此の御本尊は世尊説きおかせ給ひてのち、二千二百三十余年云云」(同1283頁)
とありますので、この文を挙げて、寿量品の本尊を説かせられた意義の上に、そこから算定して「二千二百三十余年」と言われたとして、故に弘安元年以降が御本尊についての「究竟の極説」となるという、1つの証拠とされております。
 しかし、ここでいささか疑問に感ずることがあります。それは、弘安元年は、釈尊が寿量品に本尊を説き顕し、神力品において上行菩薩に付嘱されたところより起算すれば、入滅の年より4年乃至、5年前、すなわち、これを加えることになりますから、普通の仏滅後よりの数え方ならば2千227年であるべき弘安元年が、2千231年、2年に当たり、故に「三十余年」と書かれたということは、たしかに数字の算定上、よく判るのであります。しかし、それなら何故に讃文に、その場合は「仏の滅度の後」ではなく、「仏顕本後」すなわち「仏が顕本され(寿量品を説かれ)た後に二千二百三十余年」と書かれなかったのでありましょうか。
 つまり、寿量品は顕本されたわけであって、釈尊が寿量品を説かれ、また、神力付嘱の時は、仏様がお亡くなりになるよりも4年乃至、5年前ですから、当然、まだ生きておられるわけです。しかるに、そこより算定するならば、「仏顕本後」あるいは「仏付嘱後」でなければならないと思いますが、そこをやはり同じように「仏滅度後」とお書きになっているのです。これは、生と死、生と滅が混乱し、混同しておる矛盾のように思われるのであります。
 この疑問については、日寛上人の会通のなかでは全く述べられておりません。しかしこれは、そのことを御存じなかったのではなく、大聖人が目的とし給う、最終意義についての説明を省略されていると拝せられます。
 今、これについて、相伝の深い元意を拝しつつ、この寿量品、神力品よりの算定による「二千二百三十余年」について、「寿量顕本以後」と書かれず、相変わらず「仏滅度後」と示されておる理由を拝したいと思います。
 これは、仏身の生滅の意義が、一代仏教の肝要たる寿量品の中心法体であると思われます。
 寿量品は他の諸経に絶えてない、法身・報身・応身の三身常住と、その仏の三世にわたる衆生済度を説かれております。そのなかの過去および現在の化導中に、仏の「非生現生」すなわち、生に非ずして生を現じ、「非滅現滅」すなわち、滅に非ずして滅を現ずる相を示されるのは、通常の大乗経において示現する法身のみの常住や、小乗経の応身たる釈尊の身がインドに生まれて法を説き、80で入滅する相と全く異なるものであります。天台はこれを『文句』に、
 「仏は三世に於いて等しく三身有り、諸教の中に於いて之を秘して伝えず」
と、寿量品のみに、この三身常住のなかに応身の生滅もまた、あることを述べております。そして、大聖人は『開目抄』に、
 「法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども、応身・報身の顕本はとかれず」(御書536頁)
と示され、寿量の仏は常住のなかにおいて数々(さくさく)生を現じ、また、滅を現ずることが明らかであります。
 すなわち、弘安元年が「仏滅度後二千二百三十余年」であるとの、寿量品に基づく年代の起算は、単なる応身仏としての釈尊の仏滅ではなく、三世常住の寿量品の仏身の生と滅を、末法出現の御本尊に顕す意であります。
 ここにおいて、法身・報身・応身の三身相即のなかで応身を中心とするときは、不滅に即する滅であり、すなわち、寿量品の釈尊の入滅を基点として、弘安元年まで2千227年でありますから、御本尊讃文に「仏滅度後二千二百二十余年」と記され、報身を中心とするときは、滅に即する不滅として、寿量品説法を基点とする2千231年であるから「三十余年」と記されたと拝せられます。
 故に、弘安元年より3年までの大聖人の御本尊に、この両方を拝するのは、共に寿量品の常住の滅・不滅の意義の上に示されるのであります。しかして、さらにその内証は、脱益の寿量の文底として、「三十余年」の本尊は久遠元初の自受用報身、「二十余年」の本尊は自受用に即する久遠元初無作三身を示し給うものと拝せられるのであります。
 日寛上人は、弘安元年以降の大聖人の御本尊が「究竟の極説」であると言われましたが、その数々の御本尊において「二十余年」と「三十余年」がある理由を、明確に述べられておりません。
 しかし、「弘安以降本懐究竟」と拝すべき大聖人様の大漫荼羅相は、ほかにも、中央の「南無妙法蓮華経」を下種の本法として所有あそばす「日蓮」の御名が、弘安以降、全くその直下の中心に顕し給うこと。
 また、次に、法界一切の諸仏はことごとく、この文底下種の「南無妙法蓮華経日蓮」に摂し給う故に、建治中、3年までのあらゆる御本尊に1幅の例外もなく示された、釈迦・多宝の両脇の、善徳仏と十方分身の諸仏が、弘安以降において全く削除されていること。
 次に、御判形が更改されたこと等において明らかに拝せられるのであり、要するに弘安元年以降の「二十余年」と「三十余年」の本尊を、特に究竟・未究竟をもって区別すべきでなく、共に本懐究竟なのであります。
 この時機において、大聖人の御内証と、熱原法難の三烈士等の、信徒の方々による不惜身命の法華護持の相との、内因と外縁が相俟(ま)って、弘安2年10月12日、ついに本門戒壇の大御本尊が顕されました。故に、日寛上人が、
 「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」(『日寛上人文段集』452頁)
と述べられるところであります。歴代上人は、この大御本尊の御内証を相伝の上に拝し、本尊を書写し奉られたのであります。
 ただし、日興上人の本尊書写における仏滅讃文については、その本尊相伝の時機が弘安5年でありますから、この年に至っては、以上の両意による算定が共に「仏滅度後二千二百三十余年」となる関係上、日興上人および以下の歴代上人も、これを書写の規準とあそばされておるのであります。
 以上、本日は仏滅讃文よりの本尊の大事について、その一部をあらあら申し述べました。これらの深義は、他門には全く明らかならぎるところであります。
 皆様には、当宗の本尊相伝の正義を信ぜられ、いよいよ行学に邁進されますよう、お祈り申し上げ、本日はこれをもって失礼いたします。(文責・編集室)





勅額降賜


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 邪宗日蓮宗が、昭和6年の日蓮大聖人650遠忌を直前にして「大師号」の宣下を思い立ったのは、天皇の威光にすがり昔日の勢いを盛り返そうとする意図があったのである。
 当時の日蓮宗身延派管長だった酒井日愼が、立正大師号の「立正」の文字を天皇に直接書いてもらい、それを額に入れて身延山の「御廟」(祖廟ともいう)に掲げようと目論んだのであった。
 その「勅額」を降賜されることで、650遠忌における日蓮宗の儀式に、他派に抜きん出た権威づけをしようとしたのだ。
 さらに、日蓮宗管長の酒井は勅額降賜を機に、身延が盟主となっての日蓮宗の合同を考えていたと思われる。酒井はそうした思惑を胸に秘め、国柱会総裁の田中智学に勅額降賜についての相談をした。田中は快諾し、勅額降賜のための「請願書」の草案を書いた。
 この田中の草案を清書し、昭和6年4月4日に勅額降賜の「請願書」(同年4月3日付)を身延山久遠寺住職・岡田日歸名で一木喜徳郎・宮内大臣宛に提出した。と同時に、同趣旨の請願を田中隆三・文部大臣にも出している。
 この「請願書」を上奏して間もなく、田中文部大臣より日蓮宗各派の管長に、この身延の「請願」に同意の「念書」を提出するよう要請があった。この文部大臣の要請を受け、日蓮宗庶務部長の妙立英壽は、各派管長の「念書」をとりつけるべく奔走した。
 妙立の奔走により、各派管長の「念書」がとりつけられるのであるが、この文部省の「念書」とりつけの要請の裏には、ある事情があった。この間の事情について、当事者の田中智学は『田中智学自伝』(師子王文庫)の中に、次のように記している。
 当時の事情を詳しく知るために、少々長くなるが引用する。
 「そこで願書を提出して、一面は宮内大臣に吾輩が會ッて、實地についてよく一木宮相にも話した、願書は今文部省から此方に廻ることになッて居るさうだから、何れお手許に來るに違ひない、其の節は御前宜しく御執奏方をお願ひするといッたところが、自分は職についてまだ先例を知らないが、さういふ例があるかないかといふ事であッたから、それは幾らもある、勅額を下賜された例は明治天皇の御時代にも道元禪師に承陽大師の勅額を賜はり、宇治の黄蘗山にも勅額を賜はッた例があるといッたらさういふ先例があれば取扱ひ上差支へないと思ふから、充分に力を盡くします、又日蓮聖人に對しては勅額を賜はるといふことは然るべき事と自分も考へるといふ挨拶であッた。
 それから宮内省で調べて、日蓮聖人の墓は全く身延にあるかといふことを尋ねて來た、それは事實がこれを證明して居るから其の趣きを答へた、然るに日蓮門下の各教團に對して、宮内省から日蓮聖人のが身延にあるに相違ないかといふことを、各派の管長に向けて諮問した、これは若し苦情が出ると、宗派の事は昔からよく爭論が起り易いから、宮内省でも愼重の態度を取ッたのであらう、ところがこれは事實それに違ひないから、何の派の管長も祖師日蓮聖人の墓は身延に相違ないといふことを申上げたので、一ぺんに埒があいた、そして其の通知が、大聖人が身延にお入りになッた式の開闢會といふのがあッて、其の開闢會の日に宮内省から電報が來た」
 文部省は勅額降賜にあたり、日蓮大聖人の墓が身延山にあることを、他の日蓮宗各派が認め、身延山久遠寺への勅額降賜に皆が賛成するということが、絶対に必要な要件であると考えていたのだ。そのため、各派管長に「念書」を提出することを要請したのだった。
 日蓮正宗を含む各派管長の提出した「念書」の文面は、次のようなものであった。

「     念  書
 宗祖*立正大師六百五十遠忌ニ際シ御廟所在地山梨縣身延山久遠寺住職岡田日歸ヨリ及請願候立正大師勅額御下賜ノ件ハ本宗(派)ニ於テモ異議無之候條速ニ御下賜有之候樣御取計相成度候也
  昭和六年 月 日
宗(派)管長      印 
  文部大臣 田中隆三殿              」

 この文面を、各派管長が田中文部大臣宛に提出したのである。このときの日蓮正宗管長は、日顕の父である総本山第60世阿部日開だった。
 阿部日開は、身延に「立正」と書かれた「勅額」が降賜されることに反対しないばかりか、日蓮大聖人のが身延にある、すなわち日蓮大聖人の聖骨が身延にあることすらも間接的に認めたのである。
 日蓮正宗管長のほかに「念書」を提出したのは、顕本法華宗管長・井村日咸、法華宗管長・岡田日淳、本妙法華宗管長・小澤日寛、本門法華宗管長・神*原日祐*、不受不施派管長・釋日壽、本門宗管長・富士日堂、不受不施講門派管長・佐藤日柱である。
 阿部日開ら日蓮宗各派管長が、身延山久遠寺に勅額が降賜されることに賛成したことで、昭和6年10月1日、身延山久遠寺に天皇より勅額が降賜された。身延山久遠寺の廟所(祖廟)に勅額が掲げられたのは翌10月2日のことであった。
 この日蓮宗身延派が勅額降賜の「栄」に浴したことについて、日蓮正宗側はどのような気持ちを抱いていたのだろうか。
 日蓮正宗機関誌『大日蓮』などには、勅額についての記述はない。「念書」提出の事実についても秘しているようだ。末寺である妙光寺の『妙の光』という新聞に、関連する記述をわずかに認めることができるので、その全文を紹介しよう。
 「單稱日蓮宗の本山身延山へ、勅額が下ることになり、關係者が準備協議中のこと、宗門が大きいが故に、そして社会的に活動して居るが故に、この有難い御沙汰を身延派が拜受することは、大聖の正統を傳へ、教義の眞正を誇る本宗僧俗として三考を要する事柄と思ひます」(昭和6年6月16日号)
 身延に勅額が降賜されたことに対する悔しさをうかがうことができる。だが、末寺数50程度の弱小教団である日蓮正宗としては、身延に対抗しても一笑に付される程度の存在でしかなかった。
 それにしても、自派の管長である阿部日開が「念書」を提出したことが、身延への勅額降賜の一助となったことは、この記事の執筆者はおそらく知らなかったのではあるまいか。
 よくよく考えてみると、阿部日開の「念書」提出は、宗開両祖に対し汚物を投げつけるようなものであり、すべての仏弟子に対する裏切りである。
 いったい日開は、日興上人が一大決心をもっておこなわれた身延離山を、どのように受けとめていたのだろうか。なぜ、邪宗日蓮宗にこれほどまでに媚びへつらおうとするのか。そもそも、大石寺に伝わる「御聖骨」をなんと思っていたのだろうか。(H4.4.21『地涌』409号)
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【大師号の宣下自体は問題なし】
<大師号宣下>参照



【廟所の所在】
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 文部省は勅額降賜にあたり、日蓮大聖人の墓が身延山にあることを、他の日蓮宗各派が認め、身延山久遠寺への勅額降賜に皆が賛成するということが、絶対に必要な要件であると考えていたのだ。そのため、各派管長に「念書」を提出することを要請したのだった。
 日蓮正宗を含む各派管長の提出した「念書」の文面は、次のようなものであった。

「     念  書
 宗祖*立正大師六百五十遠忌ニ際シ御所在地山梨縣身延山久遠寺住職岡田日歸ヨリ及請願候立正大師勅額御下賜ノ件ハ本宗(派)ニ於テモ異議無之候條速ニ御下賜有之候樣御取計相成度候也
  昭和六年 月 日
宗(派)管長      印 
  文部大臣 田中隆三殿              」

 この文面を、各派管長が田中文部大臣宛に提出したのである。このときの日蓮正宗管長は、日顕の父である総本山第60世阿部日開だった。
 阿部日開は、身延に「立正」と書かれた「勅額」が降賜されることに反対しないばかりか、日蓮大聖人のが身延にある、すなわち日蓮大聖人の聖骨が身延にあることすらも間接的に認めたのである。
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勝手な思い込みか故意にか知らないが、田中智学や地涌編集子は"墓が身延にあると認めた"と言っている。しかし、文部大臣宛の念書には「墓所在地」ではなく「廟所在地」と書かれている。

●【廟(びょう)】①死者、特に祖先の霊をまつる所。たまや。②神々の祠(ほこら)。③王宮の前殿で、政治を行うところ。(『大辞林』三省堂)
●【墓(はか)】遺骸や遺骨を葬る所。また、そこにしるしとして立てた石・木など。塚。墳墓。(『大辞林』三省堂)
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「墓」には「遺骸や遺骨を葬る所」と限定的具体的な意味がある。それに対して「廟」は「霊をまつる所」であり、抽象的で信仰の対象としての意味合いが強く、遺骨がまつられているとは限らない。

●ここで身延の大きな間違いは、御廟と御真骨を一緒にしていることである。個人を偲ぶよすがとして、廟は立てられるけれども、御真骨は必ずそこに安置するとは限らないのである。(「当家身延叢書『悪しく敬わば国亡ぶべし』の稚説を駁論す」『大白蓮華』S30.7/『慧妙』H5.11.16)

●大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。(『日興跡条々事』御書1883頁)
●甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭・南部六郎入道〔法名日円〕は日興最初発心の弟子なり、此の因縁に依つて聖人御在所・九箇年の間帰依し奉る滅後其の年月義絶する条条の事。(『富士一跡門徒存知事』全集1602頁)
●身延の群徒猥に疑難して云く、富士の重科は専ら当所の離散に有り、縦い地頭非例を致すとも先師の遺跡を忍ぶ可し既に御墓に参詣せず争か向背の過罪を遁れんや云云。
 日興が云く、此の段顛倒の至極なり言語に及ばずと雖も未聞の族に仰せて毒鼓の縁を結ばん、夫れ身延興隆の元由は聖人御座の尊貴に依り地頭発心の根源は日興教化の力用に非ずや、然るを今下種結縁の最初を忘れて劣謂勝見の僻案を起し師弟有無の新義を構え理非顕然の諍論を致す、誠に是れ葉を取つて其の根を乾かし流を酌んで未だ源を知らざる故か、何に況や慈覚・智証は即伝教入室の付弟・叡山住持の祖匠なり、若宮八幡は亦百王鎮護の大神・日域朝廷の本主なり、然りと雖も明神は仏前に於て謗国捨離の願を立て先聖は慈覚を指して本師違背の仁と称す、若し御廟を守るを正と為さば円仁所破の段頗る高祖の誤謬なり、非例を致して過無くんば其の国・棄捨の誓い都べて垂迹の不覚か、料り知んぬ悪鬼外道の災を作し宗廟社稷の処を辞す善神聖人の居は即ち正直正法の頂なり、抑身延一沢の余流未だ法水の清濁を分たず強いて御廟の参否を論ぜば汝等将に砕身の舎利を信ぜんとす何ぞ法華の持者と号せんや、迷暗尤も甚し之に准じて知る可し(『五人所破抄』全集1615頁)
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日興上人は、大石寺に対しては「墓」、身延に対しては「廟」と明確に使い分けをされている。日興上人も身延に大聖人の廟所のあることは認められているのである。

★要するに、日開上人は"身延には大聖人の廟所が存在する"ということを認められたに過ぎない。これは、日興上人も認められていることであり、何ら問題はない。

[画像]:身延山久遠寺に下賜された勅額



【合同問題と勅額降賜】
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さらに、日蓮宗管長の酒井は勅額降賜を機に、身延が盟主となっての日蓮宗の合同を考えていたと思われる。酒井はそうした思惑を胸に秘め、国柱会総裁の田中智学に勅額降賜についての相談をした。田中は快諾し、勅額降賜のための「請願書」の草案を書いた。
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合同問題は明治時代に入って、何度も浮上している。そのようななか、日正上人は、むしろこれを折伏の機会ととらえ、積極的に合同問題に関わられていた(<大師号宣下>参照)。そのような流れのなかで、大師号宣下や勅額降賜の問題があったと思われる。当時は宗教統制を目論む当局との関係もあり、主張すべきは主張し、譲歩すべきは譲歩することによって、合同問題を乗り切られていたと推察する。

[画像]:昭和6年3月16日の池上本門寺における会議