創価学会破折
戦時下の問題

<牧口学会の実態は>
・信心(折伏・謗法厳戒)に命をかけるという正の部分もあったが、世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)するという負の部分もあった。→ただし、後の戸田会長の懺悔と功績に鑑み、歴代上人も、正の部分のみを強調されていた。(<歴代上人の賞賛について>参照)

・大部分の会員は退転し、組織は壊滅状態に→牧口学会総体としては、退転という最も避けなければならない謗法を犯したといえる。

・国家権力に弾圧されたのは事実だが、戦争に反対していた訳ではない。むしろ牧口学会は紛れも無く戦争翼賛団体であったのだ。(<牧口常三郎の戦争観>参照)



<池田学会と牧口会長との関係は>
・池田学会の主張する牧口像(謗法厳誡)が正しかったとしても、牧口会長の精神は池田学会には伝わっていません。(<摂受謗法路線>参照)→一般論としても正しい師匠についた弟子が異流義を構えたり、親の信心を子が受け継がない場合があります。

・従って、牧口会長を如何に宣揚しようとも、そのことをもって現在の池田学会を正当化することはできません。→残念でした。(笑)

<四悉檀と御法主の教導>参照)




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日恭上人誹謗粉砕
合同問題と獅子身中の虫

四悉檀と御法主の教導/<法蔵>H19.5.19

日淳上人の神道観/<法蔵>H19.7.15

御書削除/『慧妙』H15.1.1他

観念文改訂/『慧妙』H15.1.1他

開戦直後の訓諭

神宮遥拝

報国団

神札問題/<法蔵>H19.7.15

物資供出

内憂外患の情勢下で清流を死守/『慧妙』H6?

日恭上人の御遷化/『慧妙』H14.9.16他

『大橋慈譲講本集』について/『慧妙』H6?他
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学会「弾圧」の真相
学会「弾圧」の真相

宗門を悩ませた牧口会長の独善性/『慧妙』H6?

本山での神札指導

登山停止・信徒除名
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「通諜」問題
「通諜」問題総括/『慧妙』他

「通諜」の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す(完結編)/『慧妙』H5.9.16

「通諜」の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す(下)/『慧妙』H5.8.16

「通諜」の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す(中)/『慧妙』H5.7.16

「通諜」の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す(上)/『慧妙』H5.7.1

やはり学会文書「通諜」は実在した/『慧妙』H5.6.1

宗門は庫裡に神札を祀るよう徹底/『地涌』H5.6.15・第669号

「通諜」の所有者である竜門講・稲葉「証言」は不可解極まる/『地涌』H5.6.14・第668号

謀略文書「通諜」を元に史実を覆そうとする/『地涌』H5.6.10・第667号

戸田会長を逆恨む檀徒の亡霊が「通諜」を携えさまよってる/『地涌』H5.6.8・第666号

牧口、戸田両会長に傷をつけようとする者が偽造/『地涌』H3.3.2・第61号

謗法容認の御指南を拒絶し、獄にあっても不屈であった/『地涌』H3.3.1・第60号



日恭上人誹謗粉砕

合同問題と獅子身中の虫


※ ◎=出所を示さない場合は<現宗研=日蓮宗現代宗教研究所>WSまたは<たむ・たむ>WSより

明治元年(1868)3月 「神仏分離令」を発布し神仏習合を禁じ、廃仏毀釈という手荒な措置にまで進展した。

明治5年(1872)4月 政府は教導職制度を設け、神官とともに僧侶を教導職14級に組み込み、三条教則による国民教化活動を推進した。そして教導職管長として身延山久遠寺の北風日健が就いた。

明治5年(1872)8月 仏教各宗の提唱により、神仏合併大教院を設置し、教化活動と教導職養成が行われた。

明治5年(1872)10月 日蓮宗・天台宗・真言宗・浄土宗・禅宗・時宗・真宗の7宗に、一宗一管長制を定める通達が出されたのである。この通達に対し日蓮系各派は、法華経の受容のありかたにおいて、本門迹門の一致を主張する一致派と、本門迹門の勝劣を主張する勝劣派に分かれていたが、ここに日蓮宗と総称し、交代制の管長制度を定め、顕日琳が管長として就任した。日琳は本成寺派、現在の法華宗陣門流の総本山越後本成寺住職であり、一宗一管長制における日蓮宗初代管長は、勝劣派から出たことがわかる。
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「一宗一管長制」といっても、各派の自治は認められていたから、教義・本尊などは従来通りであった。

明治7年(1874)3月 一宗一管長制度も教義の違いや管長選出に問題が生じ、各派ごとに管長を置くことが認められ、日蓮宗一致派と、日蓮宗勝劣派に分けられた。
●大石寺は、当初より一貫して独立を主張し、再三にわたって政府に独立願いを提出したが認められなかった。当時においては、これ以上の抵抗を続ければ廃寺となるため、万やむをえず、比較的教義が近い勝劣派と、ひとまず連合(統合ではない)することとなった。(『慧妙』H14.12.1)

明治9年(1876)2月 本迹勝劣派は4派に分離し、大石寺をはじめとする興門8箇本山、すなわち大石寺、北山本門寺、京都要法寺、富士妙蓮寺、小泉久遠寺、保田妙本寺、西山本門寺、伊豆実成寺は、日蓮宗興門派と称することとなりました。そして、この時は明治政府の意向もあり、協議の上、1年ごとに8箇本山から交替で管長に就任することになったのであります。(『大日蓮』H15.9)

明治17年(1884) 太政官布達第19号にて、「第四条 管長は各其立教・開宗の主義に由て左項の条規を定め、内務卿の認可を得可し、一宗規、二寺法、三僧侶並に教師たる分限及其称号を定むる事、四寺院の住職任免及教師の等級進退の事、五寺院に属する古文書宝物什器の類を保存する事 以上仏道管長の定む可き者とす」と、管長の義務が明示された。(『慧妙』H14.12.1)
●明治17年の太政官布達第19号における管長選出にあたっては、他派の誤りを指摘し、大石寺の正統性を主張して、大石寺の正義のもとに帰一合同するよう働きかけていたのである。惜(お)しくも、その企図は達成されなかったが、戦後、妙蓮寺等が本宗に帰伏したことを考えれば、当時の御法主上人のこうした御苦労、善導が功を秦したともいえるのである。まさに慈悲の宗たる本宗の面目躍如たるものがあるではないか。(『慧妙』H14.12.1)

明治29年(1896)12月13日 本多日生は『各宗綱要』編纂における「四箇格言」削除(島地黙雷による)に端を発する、他宗僧徒との対決のなかで本成寺派・本隆寺派と連携し、統一団を結成する。統一団の折伏布教で小笠原長生・佐藤鉄太郎等の著名人を獲得するが、妙満寺派の統一団ということに本多は限界を感じていくようになる。そこでセクト意識を払拭し、村上專精の『仏教統一論』を意識し日蓮系教団統一への会派設立へと向かうのである。
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この本多日生の行動は国権による教団保護を目的とした国家主義的護教思想に基づくものであり、明治末期からの7教団合同の動きへ発展する。

明治33年(1900)9月18日 興門派より離脱した大石寺は「日蓮宗富士派」と称し独立。
●大石寺と他派との間には教義上の軋轢(あつれき)がやまず、大石寺の分離独立が認可され、本宗は「日蓮宗富士派」と公称して一宗独立を果たしたのである。(『慧妙』H14.12.1)

明治43年(1910) 大逆事件
 7教団合同の動きは、この事件を契機とする政府の「思想善導」運動と結びついてすすめられた。

明治45年(1912) 「日蓮宗富士派」を「日蓮正宗」と改称した。

大正3年(1914) 池上本門寺において教団統合会議が開かれ、7教団管長並びに代表者が出席、教団帰一の実現、連絡一致、教育機関の設立を目的に交渉委員の選出を協議し、門下統合後援会が組織された。7教団統合委員として谷日昌、信隆日秀2名を出し、教団統合規約を制定。具体化されずに立ち消えになる。

大正4年(1915) 日蓮宗・日蓮正宗・顕本法華宗・法華宗の4宗管長が日本橋倶楽部で統合規約成立発表会を開く。

大正11年(1922) 生誕700年にあたり大師号宣下につき、9教団が集結、奉戴式が催される。本門法華宗、日蓮宗、日蓮正宗、顕本法華宗、本門宗、法華宗、本妙法華宗、不受不施派、講門派の9教団である。
 これらの教団の動向は天晴会・本多日生、国柱会田中智学、法華会山田三良、矢野茂、小林一郎らによる統合の支援が生んだものであった。

大正14年(1925)4月22日 治安維持法(旧法)公布
 第1条@ 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ10年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
A 前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス



【第58世日柱上人退座の策謀】
大正14年11月18日、宗会の初日に、正規の宗会進行の裏で密かに進められていた日柱上人追い落としの「誓約書」(全文)を紹介する。(中略)宗会議員・下山廣健 同・早瀬慈雄 同・宮本義道 同・小笠原慈聞 同・松永行道 同・水谷秀圓 同・下山廣琳 同・福重照平 同・渡邊了道 同・水谷秀道 同・井上慈善 評議員・水谷秀道 同・高玉廣辨 同・太田廣伯 同・早瀬慈雄 同・松永行道 同・富田慈妙 松本諦雄 西川眞慶 有元廣賀 坂本要道 中島廣政 相馬文覺 佐藤舜道 白石慈宣 崎尾正道(『地涌』第240号)

日蓮正宗の管長をめぐる紛争を、話し合いによって解決できないと判断した文部省宗教局は、選挙によって管長候補者を選出することを決定した。その決定は、全国檀徒大会がおこなわれた1月6日に日蓮正宗側に伝えられたようだ。そこで、規則に従い、管長候補者選挙が告示された。(『地涌』第244号)

●(※崎尾正道は)日開上人にどうしても、日正上人の跡をやっていただきたい。そうすれば自分もきっと幅をきかせられる、と思ったのでしょう。そこで、日開上人を日正上人の跡にしようと、策謀したのでございます。(第66世日達上人『蓮華』S47.6)
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この崎尾正道とは、池田の小説『人間革命』第8巻で、「蓮華寺のS住職」としで描かれており、宗門に敵対して離脱していった人物であるから、学会古参幹部諸氏も、その人となりについてはよく知るところであろう。(『慧妙』H14.12.16)
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 日柱上人退座の首謀者の中に小笠原慈聞師がいたことは注目に値する。何故なら、彼は、後に軍部と繋がる水魚会なるグループの一員として活動し、宗門を身延と合同させるべく暗躍したからである。彼が合同実現のために取った行動は、国策に適ってはいるが宗義に反する思想を宣伝し、もし、これに異を唱える者があれば、当局に訴え弾圧し、合同の口実を作り出すというものであった。
 日柱上人退座に際して、文部省宗教局が"紛争解決"のために乗り出したのであるが、もし時期がずれておれば、合同の口実にされていたかも分らない。
 小笠原師が何時頃から水魚会で活動したか、あるいは、何時頃から合同を画策し始めたかは定かではない。しかし、小笠原師の関与は不明であるが、明治時代から日蓮系教団の統一を画策する動きがあったことを思えば、師がこの時期すでに、戦時下の軍部と一体となっての合同画策の萌芽とも言えるものを、胸の内に抱いていた可能性は十分あるのではないか。



【「本尊誤写事件」】
総本山第60世阿部日開(日顕の実父)は、昭和3年の登座直後、本尊を間違って書写した。「仏滅度後二千二百三十余年」と書くべき讃文を、「仏滅度後二千二百二十余年」と書写してしまった。(中略)宗内で問題とされ、小笠原慈聞らが阿部日開を問い糾した。(『地涌』第353号)
小笠原慈聞らは、昭和4年2月18日の朝、阿部日開が「六ツ坪」での勤行を終えるのを待ち詰問する。その結果、阿部日開は過ちを認め、訂正文を書き、自署花押したのである。(同)

◆流血の惨までも見せた管長選挙問題と昨年阿部管長の本尊誤写問題に絡み全信徒が2派に対立して騒ぎを続けている際とてこれが導火線となつて70万の信徒をあげて騒動の波紋を拡げさうな形勢である(『読売新聞』S5.12.29)
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これは、宗務総監・水谷秀道師のスキャンダルを報じる記事である。おそらく小笠原一派がリークした内容を新聞社が鵜呑みにして掲載したのであろう。その証拠に「本尊誤写問題に絡み全信徒が2派に対立」「70万の信徒をあげて騒動」など、全く証拠がなく、事実に反する。おそらくは、情報提供者の願望であり、宗内の混乱を社会に印象付けることがネライだったのではないか。もし、この時点で既に、小笠原師が身延との合同を意識していたのであれば、宗門のイメージダウンは合同の口実にもなるし、一般世間の支持も得られやすくなる。合同問題は別としても、後に「神本仏迹論」を掲げるほど信仰心のない小笠原師が、ことあるごとに宗内の混乱に中心人物として登場することから考えて、師が、薄汚い意図を持って宗門をコントロールしようと画策していたことは、ほぼ間違いない。



昭和8年(1933)11月1日 小笠原慈聞が日蓮正宗同心倶楽部結成。同月10日には同倶楽部の開場式がおこなわれた。この倶楽部が、日蓮正宗を内部攪乱する拠点となるのである。(『地涌』第692号)

昭和9年(1934)2月11日 小笠原は月刊誌『世界之日蓮』を発行。小笠原は同誌を武器に、日蓮正宗の正義を根絶し、みずからの野望を達成しようとする。いよいよ、師子身中の虫が露骨な動きを見せ始めたのである。(『地涌』第692号)

昭和9年(1934) 浅井要麟が一般読者の便を図って総ルビ付きで発刊した『昭和新修日蓮聖人遺文全集』が、読み易さが仇となって内務省警保局の目に留まり、不敬字句の削除を命じられていたことが『東京日日新聞』の報道で明らかとなり、日蓮遺文不敬削除問題が起こる。これは徐々に本格化する日蓮遺文削除改訂と曼荼羅国神勧請不敬問題の始まりであった。(<教化情報第12号「現代教学への検証」>070620)

昭和10年(1935)12月8日 大本教に対する第2次弾圧がおこなわれた。大本教は翌11年には京都府亀岡と綾部にあった神殿を柱1本残さず破壊された。この大本教への弾圧をテコに、国家権力は宗教団体への干渉を強める。(『地涌』第692号)

昭和12年 国家権力による宗教弾圧は容赦のないものとなり、4月5日に「ひとのみち教団」への一斉検挙、10月20日には「新興仏教青年同盟」への一斉検挙がおこなわれた。(『地涌』第692号)

昭和13年(1938) 門下合同協議会
 第1次近衛内閣成立直前の中国への本格的侵略準備のため文部省の『国体の本義』全国配布で本格化した、「国体明徴」と「国民精神総動員」運動への、迎合的協力姿勢によるものであった。しかし、この教団上層部の上からの動きはいずれも各派間の協議の不一致と各派の下からの強い批判に遭遇して結実にいたらなかった。

昭和14年(1939)4月 主務大臣の強権発動によって宗教団体を「臣民タルノ義務」としての戦争遂行と、そのための国民精神総動員に奉仕させることを目的とする「宗教団体法」が成立・公布される。

昭和14年(1939)8月19日 小笠原慈聞、大石寺でおこなわれた教師講習会で、「日蓮正宗教義の再吟味」と題し講演(『地涌』第693号)
◆天照太神に対し奉る信念の入替へ是正を叫び、本宗勤行式の「初座天拜」に梵天帝釋大六天魔王等の下に天照太神を連ねてゐることは大不敬である(小笠原慈聞「日蓮正宗教義の再吟味」『世界之日蓮』S17.2/『地涌』第693号)

昭和15年(1940)9月 政府は神・仏・基の代表を招集して各教派の合同を希望し、さらに仏教各宗派代表懇談会を招集して、宗教団体法第5条の「教派、宗派又ハ教団ハ、主務大臣ノ認可ヲ受ケ合併又ハ解散ヲ為スコトヲ得」によって、翌年3月末日までに「自主的」合同をおえて認可申請を行わなければならないこととされた。



【宗教団体法】
●昭和15年施行の宗教団体法に基づき、殊に軍国主義的色彩の強かった日蓮各門下において、強力に合同政策が押し進められていたのである。(『離脱僧らの再度の邪難を破す』/『大白法』H14.9.1)

●時の政府は、この法令をかざして、仏教会に対し「命令に背く宗派は解体に処す」と、強権をもって合同を迫り、当時、13宗56派あった宗派を13宗28派に統合したのであります。(『大日蓮』H15.9)

●この方針(※合同政策)は、日蓮宗の各教団は単称日蓮宗(身延)へ合同しなければならないとし、軍人会館を中心に日蓮主義者と称する軍人と、日蓮宗の策謀家達が屢(るる)会合して、この謀略の推進に当っていた。大石寺の僧俗の中にもこれに動揺を来(きた)す一類を生じ、小笠原慈聞師は水魚会の一員となり、策謀の一端を担うに至る、而(しか)して「神本仏迹論」を唱え、思想的にも軍閥に迎合して総本山大石寺の清純な教義に濁点を投じた。(『富士宗学要集』第9巻430頁)

◆政府が宗教界統一をくわだてゝ大規模な各宗教統一に乘り出したころの事、小笠原慈聞が神本佛迹論を数度にわたつて鈴木日恭猊下へ文書で提出して居るという、又眞僞の確証はないが慈聞の活躍した水魚会を通じ日恭猊下のもとへ身延と合同せよと数度電報(?)を出したという事で、私が出獄後この話を聞いて眞僞をたしかめるため若しこれが本当ならあの当時の宗務院の文書を見せて下さるわけに行かぬでしょうか、と当局者に御うかゞいした事がある、その時は記録拝見は許されなかつたが、事件の有無については否定も肯定もなされず話をぼかして居られたのでそれ以上押しておたずねはしなかつた。又身延派と小笠原慈聞との間に、「この身延との合同が実現すれば小笠原を清澄寺の管長にする」という内約さえ出來て居てそれでしつこく水魚会方面から合同勧告があつたのだと水魚会関係者からうわさを聞いたし、当時このうわさは宗務院と交渉の深いだん信徒の間に公然と流布されていたものである。(『聖教新聞』S27.5.10/『地涌』第669号)

◆戦局の進行とともに、日蓮系各派の陸海軍人、学者、実業家などで形成された水魚会を背景として、小笠原慈聞の一派が宗内をかき回す。日蓮正宗内では、まんじどもえの暗闘が続いた。(中略)小笠原は時局に迎合し、鈴木日恭を治安維持法に引っかけようと、書状をもって難詰する。その書状のやり取りは6回おこなわれたが、鈴木日恭の返書は、すべて特高関係に渡っている。東京品川・妙光寺信徒の1人が小笠原の差し金で、この返書をばら撒いたので、特高(特別高等警察)の手に書状が落ちたものと思われる。(<暁闇>WS)



◎日蓮門下8派は合同委員長に日蓮宗柴田一能を選出、本門法華宗、法華宗、日蓮宗、本妙法華宗、顕本法華宗、本門宗、不受不施派、講門派が出席、合同に賛成し教団の組織は管長、宗務総監、宗会議員、日蓮宗20名、各派21名ときめる。宗名、教義、本尊は特別委員会で決めることになった。

昭和16年(1941)3月2日 法華宗・本門法華宗・本妙法華宗の3派合同

昭和16年(1941)3月10日 治安維持法(新法)公布
 第1章第7条 国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スべキ事項ヲ流布スル事ヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ無期又ハ4年以上ノ懲役ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ1年以上ノ有期懲役ニ処ス
 第3章第39条@ 第1章ニ掲グル罪ヲ犯シ刑ニ処セラレタル者其ノ執行ヲ終リ釈放セラルベキ場合ニ於テ釈放後ニ於テ更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著ナルトキハ裁判所ハ検事ノ請求ニ因リ本人ヲ予防拘禁ニ付スル旨ヲ命ズルコトヲ得
A 第1章ニ掲グル罪ヲ犯シ刑ニ処セラレ其ノ執行ヲ終リタル者又ハ罪ノ執行猶予ノ言渡ヲ受ケタル者思想犯保護観察法ニ依リ保護観察ニ付セラレ居ル場合ニ於テ保護観察ニ依ルモ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ危険ヲ防止スルコト困難ニシテ更ニ之ヲ犯スノ虞アルコト顕著ナルトキハ亦前項ニ同ジ

昭和16年(1941)3月11日〜13日 日蓮宗第37宗会
 日蓮宗・本門宗・顕本法華宗の3派合同を承認、同時に本末制度の解体が決められた。これより戦時新体制による新教団として戦争遂行にいっそう協力することとなった。
 教団合同の道筋には、当時の国家主義的風潮への心酔と迎合があった一面、政府・官憲によるさまざまな弾圧・脅迫があったことを忘れてはならない。



【僧俗護法会議】
●これに対し、日蓮正宗においては昭和16年3月10日僧俗護法会議を開催し、身延派など日蓮宗との合同は、これを断固拒否したのである。(『離脱僧らの再度の邪難を破す』/『大白法』H14.9.1)

●遂に鈴木日恭猊下は断固たる御決心から直々文部省へ出頭遊ばされ日蓮正宗は他派と絶対に合同せぬ由の御決意をのべられ、この合同問題に止めをさゝれたのであつた。(戸田城聖『聖教新聞』S27.6.10/『大白法』H3.4.1)

●猊下(※日恭上人)はお一人で文部省を訪れた。身延との合同問題が、国家権力の弾圧のもとに、実行にうつされるばかりになっていた。
 猊下は、単身、当局にむかって「合同、不承知」を、厳然と宣言して帰られたのである。
 日蓮大聖人の、正法正義を継承する本宗は、断じて、邪法邪義たる身延をはじめ、いかなる宗とも、絶対に合同はせぬ―と。
 その毅然たる態度、迫力に、役人たちは驚いた。
 なおも猊下は、たとえいま、頸(くび)を切られてここに死すとも合同せず、と叫ばれて、ここに正宗の法水を護りぬかれて帰られた。じつに、日蓮大聖人の、幕府権力に対決した時のお姿が、そのまま拝されるのである。(『人間革命』第1巻「千里の道」265頁)

4月1日漸(ようや)く単独で宗制の認可を取ることができた。(『富士宗学要集』第9巻430頁)
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文部省の認可は昭和16年3月31日に下りました(『大日蓮』H15.9)

●当時、日蓮門下は9派ありましたが、(中略)日蓮正宗大石寺だけが、身延との合同を拒否し、日興上人の身延離山の遺誡を護りました。当時、日蓮正宗のこの姿勢を見て、他門では「日蓮正宗は遠からずして解体されるであろう」と好奇心をもって見守っていたと言われています。(『大日蓮』H15.9)

[画像]:宗教団体の合同について報じる『朝日新聞』S16.4.1

[画像]:宗義顕揚報恩大法会(昭和16年6月7日)


◎昭和16年当時、「神本仏迹論」の邪義を唱えていた小笠原慈聞師は、単独宗制認可後も、神本仏迹論をもって、通算5回にわたって日恭上人に詰問状を送りつけ、日蓮正宗を"不敬罪"へと導こうとし(『慧妙』H6?)
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本宗の教義の上で、神本仏迹論を破折することはたやすいことではあったが、「神は迹、仏は本」と言下に破すれば、不用意に弾圧を招く危険性があり、某師への対応には慎重をきわめたことが、当時の往復文書(本紙第13号参照)より拝される。(『慧妙』H6?)


昭和16年6月 日蓮宗は宗綱審議会を開き、自主的に日蓮遺文2百8ヶ所を削除する条案を決定する。(<教化情報第12号「現代教学への検証」>070620)



【観念文改定】
宗門は昭和16年8月22日、皇国史観に基づき、初座の観念文を中心に改竄(かいざん)を行ない、「皇祖天照大神」「皇宗神武天皇」に始まる代々の天皇に対する感謝を明記した。国家神道に領導(りょうどう)された国家権力に屈して、観念文を改竄するという大罪を犯した日蓮正宗は、宗教的にはもう骨抜きにされたも同然で、教義に違背し、ただひたすら大政翼賛を推進、戦争協力を行なった。(学会の主張)
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当時の宗門が行なった御観念文の改訂は、世情を考え、仏法に違背しない、許容範囲内での改訂である。したがって、「国家神道に領導された国家権力に屈し」云々という学会の疑難は、まったくの的外れである。(『慧妙』H15.1.1)



【御書削除】
宗門は、すでに昭和16年8月24日に「日蓮正宗宗務院」名で、「宗内教師」に対し御書全集の刊行を禁ずる院達を出し、同月29日には「宗務院教学部長」名で、「教師住職教会主管者宗教結社代表者」宛に御書の削除を通達した。(『地涌』第670号)


昭和17年 小笠原慈聞師、宗教新聞『中外日報』を使い、宗務当局に総辞職を迫る(『慧妙』H6?)



【神宮遥拝に関する文部省の通牒】
昭和17年10月10日に出された院達、日蓮正宗の「住職教師教会主管者」宛。
 文部次官より日蓮正宗管長宛に「通牒」があったことを述べ、「趣旨を檀信徒一般に徹底せしむる様周知方可然御配意相煩はし度」と、各末寺での檀信徒への徹底を通達している。その宗務院を経て僧俗に周知させられた「通牒」の内容。
 「神嘗祭当日神宮遥拝に関する件神嘗祭当日遥拝時間の設定に関しては客年十月八日付官文三七八号を以て通牒致したる処聖戦下愈々神嘗祭ノ真意義を周知徹底せしむるの要有之付貴(学、校、所、会)職員をして当日午前十時を期し一斉に各在所に於て神宮を遥拝せしむる様可然御配意相煩度」
 神嘗祭とは、伊勢神宮の収穫祭のことで、1869年(明治2年)に皇室祭祀に定められた国家神道の重要行事の1つである。毎年10月17日に行われ、宮中においては現人神である天皇が伊勢神宮を遥拝し、また宮中三殿の1つである賢所で親祭を執り行う。この意義を「周知徹底」するということは、国家神道の教義の流布である。また10月17日当日は午前10時を期して、檀信徒に伊勢神宮を遥拝するように、宗務院は僧侶に命じたのである。
(旧sf:2100)

★御観念文の改変や昭和17年10月の神宮遥拝に関する文部省の通牒については、その以前から、宗門と政府軍部との折衝があったことと無関係には論じられない。当時の日本は軍国化の真っ只中にあり、昭和15年施行の宗教団体法に基づき、殊に軍国主義的色彩の強かった日蓮各門下において、強力に合同政策が押し進められていたのである。これに対し、日蓮正宗においては昭和16年3月10日僧俗護法会議を開催し、身延派など日蓮宗との合同は、これを断固拒否したのである。かかる状況に鑑み、徒に他の瑣末な事項をもって当局を刺激し、身延派との合同の強制執行などという事態に至ることだけは何としても避けなければならない状況があった。そこにこれらの通牒などを敢えて拒否しなかった理由が存する。(『離脱僧らの再度の邪難を破す』/『大白法』H14.9.1)



【「合同問題のもつれ」と神札問題】
●(※昭和)18年4月7日には、東京の常泉寺において、小笠原師の神本仏迹論を議題に、堀米部長(※第65世日淳上人)が対論することになったが、小笠原師の破約によつて実現しなかった、また、この頃東京の妙光寺にも紛争があったが、陰には小笠原の策謀があつたといわれている。(『富士宗学要集』第9巻430頁)
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昭和16年4月に合同問題に一応の決着がついたとはいえ、小笠原一派の策謀は、その後も続いていたのである。

昭和18年6月初旬に総本山から「学会会長牧口常三郎、理事長戸田城聖その他理事7名登山せよ」という御命令があり、これを受けた学会幹部が至急登山、その当時の管長であられた鈴木日恭猊下、及び堀日亨御隠尊猊下おそろいの場に御呼出しで、(場所はたしか元の建物の対面所のように記憶している)、その時その場で当時の内事部長渡辺慈海尊師(現在の本山塔中寂日房御住職)から「神札をくばって来たならば受け取つて置くように、すでに神札をかざっているのは無理に取らせぬ事、御寺でも一応受取っているから学会でもそのように指導するようにせよ」と御命令があった。
 これに対して牧口先生は渡辺尊師に向ってきちっと態度をとゝのえて神札問題についてルルと所信をのべられた後、「未だかって学会は御本山に御迷惑を及ぼしておらぬではありませんか」と申上げた処が、渡辺慈海尊師がキツパリと「小笠原慈聞師一派不敬罪で大石寺を警視庁へ訴えている、これは学会の活動が根本の原因をなしている」とおゝせられ、現に学会が総本山へ迷惑を及ぼしているという御主張であった。(戸田城聖「なぜ小笠原師が牧口会長を殺したと言うか」『聖教新聞』S27.6.10/『大白法』H3.4.1)
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身延との合同に失敗した小笠原一派は、国家権力に訴え宗門を弾圧するべく策謀したのである。彼らの宗門弾圧の目的は、やはり身延との合同実現ではなかったか。

◆(※学会幹部の)投獄は内務省、憲兵隊、警視庁が合体してやつたのだが、先にのべた警事(刑事?)の言葉通り大石寺に対する告訴状以来学会弾圧が決定して居たという事だ。(戸田城聖『聖教新聞』S27.6.10/『大白法』H3.4.1)

●こうして合同問題のもつれと、小笠原一派の叛逆、牧口会長の国家諌暁の強い主張等を背景とし、直接には牧口会長の折伏が治安を害するといい、又神宮に対する不敬の態度があるとして、弾圧の準備が進められたから会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)

◆あなた(※小笠原慈聞師)の神本仏迹論を、深く謝罪しなさい。私に謝れとはいわん。御本尊様にお詫び申し上げるのです。そして、いまは亡き日恭猊下と、初代牧口会長の霊に謝るのです(『人間革命』第6巻)
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 以上のように、当時の宗門中枢には小笠原慈聞師という獅子身中の虫が存在した。彼は、私利私欲のために仲間を扇動し、宗内を撹乱する。特に、戦時下においては軍部と繋がる水魚会なるグループで活動し、日蓮正宗を身延に合同させようと画策していたのである。
 国家神道によって国民をコントロールしようとした政府・軍部は、国家神道を否定するような言動をする団体に対しては、強い態度で取り締まった。国家神道を否定するような言動とは、宗門の場合、具体的には御書の文言、観念文、神札の扱い、神宮遥拝の要否などである。もし、これらの問題で宗門の言動が不適当とされれば、政府や軍部に、身延との合同を強力に推し進める格好の口実を与えることとなったであろう。
 大聖人の仏法(大御本尊と血脈)を後世に伝える使命を持つ宗門としては、少々の"逸脱"を引き換えにしても、身延との合同だけは何としても避けなければならなかったといえる。




【各種発表は混乱回避の方便!?】
―僧俗個々に謗法なし―
"逸脱"といっても、僧俗個々人が実際に謗法に手を染めるというものではない。宗内に公式文書を発表することによって、不必要な混乱を回避したというべきであろう。また、弾圧回避の対外的"アピール"の意味もあったのであろう。

<「本尊誤写事件」>
―信無き者に、相伝書の解釈をしても納得しない―

 ことは相伝書の解釈に関わることであるから、他の文証をもって解釈の正当性を論じるすべがなかった。なぜなら、相伝書とは本来、唯授一人の血脈を受けられた方のみが披見できたのであるから、その解釈の仕方も当然、相承を受けられた方のみが伝え聞いているからである。
 唯授一人の血脈に対する信の欠如している者に対して、本尊書写に関する相伝の深義を説明したところで、相手が納得するはずもなかったであろう。
●書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん(『太田入道殿御返事』全集1012頁)
●親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ御心得候へ(『報恩抄送文』全集330頁)

―宗内撹乱の目的を遮(さえぎ)るには謝罪してでも騒ぎを収める―
小笠原一派の執拗な攻撃に対しては、一応非を認め謝罪することが、騒ぎを大きくしない唯一の方法だったのであろう。事実これによって、小笠原一派は、攻撃の鉾先を収めるほかなかったのである(ただし、これ以降も、ことある毎に新たな問題を作出し宗内を混乱させるが)。

―謝罪が問題解決のための一応の方便であったことは、周知されていた―
もし本尊の誤写が事実であれば、血脈の尊厳に関わる由々しき問題であるが、謝罪文を提出したことで簡単に収まった。このことは何を意味するか。大半の僧俗は、本尊誤写とは認識していなかったということであろう。もし、多くの人が本尊誤写と認識しておれば、宗内撹乱を画策する小笠原一派としては、事を大きくする絶好の機会であったに違いない。それは、現在の学会が、この問題をもって血脈そのものを否定する材料としているように。


<観念文の改定>
・牧口学会がこの観念文に異議を唱えたという事実はない。
・牧口学会は、新入会者に対して、この新しい経文を配布したのか?そのような証拠はないし、学会員も否定するであろう。
・そうであれば、宗門としても、それまで使用していた経本を回収してまで、新しい経本を配布はしなかったと考えられる。それどころか、新入信者に対しても、従来の経本(新品)を使用させていた可能性は大である。


<御書削除>
 御書全集の刊行を停止し、御書の字句削除を発表した理由は、当時の国情により、誤解・反発を招かぬように、との配慮にすぎない。
 この「削除通達」が、本当に本宗の僧俗によって実行されたのか、どうかも、現在ではわからない。
 というのも、冨士学林図書館に所蔵されている『祖文纂要』には、削除の痕跡(こんせき)など全く認められないからである。
 このことから推測すれば、他の僧俗においても、実際に削除を行なった人はまずいなかったであろう、と考えられる。
 つまり、この「院達」は、軍部の圧力を回避するための一時的な方便として、形どおり発表したにすぎないものであった、といえよう。(『慧妙』H15.1.1)


<神宮遥拝に関する文部省の通牒>
無用の混乱を避けるための形式的な通知に過ぎない。宗内において神宮遥拝をしたなどという事実はない。一方、牧口会長は自分の言葉で、神社参拝を容認し、わざわざ書籍として出版している。↓

●吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(中略)今上陛下こそ現人神であらせられる(昭和17年11月第5回総会『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
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"感謝のためなら神社に参拝してもよい"これが牧口会長の指導でした。

[参拝]=神社・寺にお参りして拝むこと(『新明解国語辞典』第4版)


<神札受容>
―信徒に対しては謗法厳戒を指導していた―

●総本山において、天照大神のお札を貼ったことは1度もありません。今時の大戦争において、国において軍部が大変に力を得て、我が国を滅ぼしたような状態でございました。昭和18年ごろ、いよいよ戦争が激しくなってきた時分、この総本山においては当時客殿・御宝蔵・庫裡・六壷、それから大奥と、そのちょうど真ん中あたりに書院がございまして、・・・そこは大書院ですから、御本尊は祭ってありません。その所を、昭和18年の、戦争がいよいよ盛んになった時に、国で借り上げてしまった、国に借りられてしまったわけです。その時にその書院を「中部勤労訓練所」ということにされてしまったのでございます。・・・その時に所長である上中甲堂と云う人が、書院の上段の間へ天照大神のお札を祭ったんです。
 それに対して、こちらは再三異議を申し立てたんですけれども、しかし国家でやる仕事である、国の仕事であるから、いくらこちらで何を言っても、それは及びもしない。何とも仕方がないから、そうなってしまったのであります。ただそれだけのことで、別に我々がその天照大神のお札を拝んだことなどありもしない。また、実際その中へ入って見たこともない。入れてくれもしない。まあ借家同然で、借家として貸したんだから向こうの権利である。そういうような状態であって、決して我々が天照大神のお札を祭ったとか、拝んだとかいうことは事実無根であります。(第66世日達上人/『大白法』H3.4.1)
◆18年7月、中部勤労訓練所という、徴用工訓練のための機関が大坊の書院(200畳敷き)を利用しはじめた。神道に毒されていた指導者たちは、この書院に神棚をつくり、天照太神を祀ってしまった。総本山の宗務院は、当局者に厳重に抗議をした。(中略)再三にわたって、日蓮正宗の教義を懇切に説き、神棚の撤回を迫った。(『人間革命』第1巻「千里の道」258頁〜)
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謗法の徒が総本山内に神札を祀った時、宗門は「教義を懇切に説き、神棚の撤回を迫った」のである。この事実から考えても、宗門として信徒に神札を祀ることを容認する指導があったとは考えられない。神札受容は、実質をともなわない形式的対外的配慮に過ぎなかったのである。

◆(※牧口)「天照大神は天皇陛下の先祖であつてかえつて我々がズケズケおまいりするのは不敬になるとしているだけなのです。今少し強く申し上げたいと思いますが、時ではないと思うので、これでも心掛けているつもりです。ただし謗法だけは我等の会員にはさせたくないと思いますが、どうしたものでしようかな」
(本山側)「一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法か、又積んで置いてもそれ程の害はありますまい」(昭和18年6月初旬の本山での会話/戸田城聖著『人間革命』聖教新聞S28.12.6/『地涌』第667号)
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本山側は学会に対し「そっと処分」するように指示している。これのどこが謗法なのか。



◆邪宗の本尊は、人の命を食うことは知っているが、幸福にすることはできない。われわれがお山に行って、たった300円でお参りができるのは、もったいないことである。もし、小笠原慈聞が身延へ売ったとしたら、何万円出しても拝することはできなかったであろう。(S28.3.1第2回鶴見支部総会『戸田城聖全集』第4巻20頁)

◆牧口が宗門をあげての「国家諌暁」を願った時、総本山では文部省から、思想統一政策の1つとして、全日蓮宗の統合合併策を強要されていた。そして宗門の一部には、この身延との統合案に迎合する悪侶も出ていたのである。これらの節操のない僧侶が、時の軍部と手を握ったため、宗門は紛糾せざるを得なかった。 国家諌暁の断行には、第1に宗門の内部の意志の統一が必要であることは、いうまでもない。宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。宗内の獅子身中の虫ともいうべき一派は、水魚会と称する背後の軍部勢力と結託していた。これらが、文部省の宗教政策を牛耳りつつあったのである。そのため正宗の僧侶達は、国家の危機より、宗門の7百年来の未曾有の危機を克服することに懸命であった。(『人間革命』第3巻「渦中」)
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池田自身、当時の宗門の置かれていた状況を「宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。」としていた。一信徒の牧口と、宗門全体の信徒の信心と法体を守るべき立場とでは、自ずから考えや行動の視点が異なるのである。

 ともあれ、明治期以降の近代は、政府の宗教政策による合同間題や、仏教界全般に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が荒れ狂うなど、宗門の運営はけっして平坦なものではなく、慎重な舵(かじ)取りが要求された時代である。このような苦難を乗り越えて、日蓮大聖人の清浄な仏法を今日まで伝えてくださったが故に、現在の我々が成仏の大功徳を享受させていただけるのである。
 しかれば、今日まで大法を守りぬいてこられた御歴代の御法主上人をはじめ、先師先達方に、深く感謝申し上げなけれはならない。(『慧妙』H14.12.1)



【邪難粉砕】
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日蓮宗身延派に日蓮正宗が合同させられないよう、創価教育学会は政界要人への運動をおこなった。宗門は案ずるだけで効果的な手を打つことはできなかった。日蓮正宗の僧侶たちによって、命がけの合同回避工作がおこなわれたから合同が回避されたとするのは、史実を知らない者の虚言である。(『地涌』第693号)
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客観的証拠(文証)も挙げないで、よくもまあ、自分達に都合のよい"感想文(空想文)"が書けたものである。

●猊下(※日恭上人)はお一人で文部省を訪れた。身延との合同問題が、国家権力の弾圧のもとに、実行にうつされるばかりになっていた。
 猊下は、単身、当局にむかって「合同、不承知」を、厳然と宣言して帰られたのである。
 日蓮大聖人の、正法正義を継承する本宗は、断じて、邪法邪義たる身延をはじめ、いかなる宗とも、絶対に合同はせぬ―と。
 その毅然たる態度、迫力に、役人たちは驚いた。
 なおも猊下は、たとえいま、頸(くび)を切られてここに死すとも合同せず、と叫ばれて、ここに正宗の法水を護りぬかれて帰られた。じつに、日蓮大聖人の、幕府権力に対決した時のお姿が、そのまま拝されるのである。(『人間革命』第1巻「千里の道」265頁)
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『地涌』の筆者によれば、"現代の御書"たる『人間革命』の記述も「史実を知らない者の虚言」となるのか??

◆水魚会関係者から毎日総本山へ「身延と合同せよ」という勧告電報が来たそうで、遂に鈴木日恭猊下は断固たる御決心から直々文部省へ出頭遊ばされ日蓮正宗は他派と絶対に合同せぬ由の御決意をのべられ、この合同問題に止めをさゝれたのであつた。(戸田城聖「なぜ小笠原師が牧口会長を殺したと言うか」『聖教新聞』S27/『大白法』H3.4.1)
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『地涌』の筆者によれば、戸田会長も「史実を知らない者」となるのか??


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宗教行政をおこなう文部省も、宗派合同を強制する法的根拠は持たず、宗派が合同を拒否すれば、それ以上のことはできなかったというのが事実。すなわち、合同を拒否すれば法的制裁を受け、宗派が滅亡するなどということは、まったくの架空の話である。(『地涌』第693号)
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 政府が宗派合同を進める目的は、宗教団体を能率的にコントロールすることであろう。そして、宗教団体をコントロールする目的は、国体護持に他ならない。国体護持の中身を具体的に言えば天皇制及び国家神道の絶対化である。
 確かに、合同自体は政府にとって大きな問題ではなかったかも知れないが、天皇制及び国家神道を冒涜する一切の言動については、政府として、どんなことがあっても容認できなかったはずである。だから、治安維持法や宗教団体法が制定されており、これを犯す団体については強権をもって、解散、財産処分なども行われたのである。
 要するに合同問題は、宗教統制の一手段に過ぎない。しかし、これを不穏当な形で強引に拒否すれば、政府の不興をかい、最悪は解散ということも十分あったであろう。
 また、そうはならなくとも、小笠原慈聞一派をして、宗門を乗っ取らせ教義・化儀を破壊するということもあったかも知れない。

●(※ひとのみち=PL教の前身)教団本部に特高警察が入り、教祖が拘引された翌年の昭和12年4月5日、当局は「不敬の事実をつかんだ」として、教祖を不敬罪で追起訴し、私はじめ弟の道正ほか、十数名の幹部教師も不敬罪で拘引されました。そして28日には、内務大臣命令により治安警察法が適用されて、教団に対して結社禁止処分を行ったのです。(中略)判決も出ないままに、教団は解散させられたばかりか、動産・不動産の処分、債務の整理、さらには建物の破壊もしくは売却までさせられました。(ひとのみち事件・御木徳近『宗教弾圧を語る』岩波新書61頁〜)


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 合同した宗派は35派、合同しなかった宗派は21派であった。ちなみに、日蓮正宗以外の合同しなかった20派の主たるものは以下のとおり、律宗、真言律宗、浄土宗、臨済宗国泰寺派、曹洞宗、黄檗宗、真宗十派、時宗、融通念仏宗、法相宗、華厳宗。
 臨済宗国泰寺派などは、末寺が25ヵ寺しかない弱小宗派だったが、さしたる合同反対運動もしなかったのに、合同を回避し独立した一派として認められた。
 合同問題で日蓮正宗のみ孤塁を守ったとするのは、完全な過ち。約4割の「派」は合同しなかったのである。ただし、小笠原が陸海軍人、学者、実業家、各派有力者などで構成される「水魚会」を背景にして、宗門中枢に合同するよう圧力をかけ、それに宗門が困惑したのは事実である。(『地涌』第693号)
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 合同の目的は国体護持であり、国体とは、天皇制および国家神道を根幹とする。だから、同じ合同といっても、その教義・化儀が天皇制や国家神道と矛盾しない教団と、そうでない教団とでは、政府の力の入れ方が違って当然である。
 日蓮大聖人の御書には天照太神に関する記述があり、仏本神迹の立場である。また、御本尊には天照太神が認められている。さらには、謗法厳戒を説かれている。
 また、日蓮系教団は明治以降、自主的に教派統合の動きがあったし、宗門内部にも、小笠原慈聞という、軍人と繋がり合同を画策する獅子身中の虫が存在したのである。
 このような状況であれば、同じ宗教団体といっても、日蓮正宗の置かれた立場と、他の宗派とは全く異なり、単純に合同した宗派の数を挙げて、「日蓮正宗のみ孤塁を守ったとするのは、完全な過ち」などとは言えないはずである。

●日蓮宗(四派)従来の九派のうち日蓮宗(総本山身延山久遠寺)顕本法華宗(同妙満寺)本門宗の三派で新に「日蓮宗」をつくり本門法華宗、法華宗、本妙法華宗の三派は「法華宗」を設立、日蓮宗不受不施、同不受不施講門の両派も合同して「本化正宗」を設立、日蓮正宗(総本山静岡県大石寺)だけがそのまゝ一派として残つた(『朝日新聞』S16.4.1)
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日蓮系教団9派のうち、合同しなかったのは日蓮正宗だけであった。

[画像]:宗教団体の合同について報じる『朝日新聞』S16.4.1


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合同問題は昭和16年3月に決着しており、創価教育学会に神札甘受を命じたのは、昭和18年6月のこと。身延派に合併させられることを避けるために、神札甘受を創価教育学会に命じたとするのは、歴史的にかけはなれた事実を牽強付会に結びつけ、大謗法を犯した言い訳をしているだけのことである。(『地涌』第693号)
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 まず、昭和16年当時、「神本仏迹論」の邪義を唱えていた某師は、単独宗制認可後も、神本仏迹論をもって、通算5回にわたって日恭上人に詰問状を送りつけ、日蓮正宗を"不敬罪"へと導こうとし昭和17年にも、宗教新聞『中外日報』を使い、宗務当局に総辞職を迫るなど、日恭上人を悩まし奉っていた。
 本宗の教義の上で、神本仏迹論を破折することはたやすいことではあったが、「神は迹、仏は本」と言下に破すれば、不用意に弾圧を招く危険性があり、某師への対応には慎重をきわめたことが、当時の往復文書(本紙第13号参照)より拝される。
 また、昭和18年には、創価教育学会の不敬問題が摘発され、それが本山へも波及しそうになった(結果的に、この時は御宗門の素早い対処により、未然に宗門本体への危難を避けるこどができたが)。これもまた、本宗の危機を招き寄せる一因となったのである。
 昭和16年から18年にかけての本山は、合同は免れたといっても、このような内憂外患の状態にあり、強行に「国主諌暁」を行ない、「神札拒否」を表明すれば、足並みも揃わないまま、御法主上人の投獄、そして宗門断絶へと進む危険性があったのである。(『慧妙』H6?)

 合同問題は、明治以来、政府が宗教統制の一環として何度も浮上し、実行に移された事柄である。また、治安維持法が強化されて以降は、天皇制および国家神道の絶対化とその維持が、思想統制の至上命題であった。
 このような状況であれば、1度は乗り切った合同問題が、再度浮上しても不思議ではなかったと考えるのが当時の常識であったといえよう。また、小笠原一派が大石寺を告訴し、それによって当局による学会弾圧が決定されたことを考えれば、合同問題どころか、宗派の解散さえあり得る状況だったといえよう。

◆渡辺慈海尊師がキツパリと「小笠原慈聞師一派不敬罪で大石寺を警視庁へ訴えている、これは学会の活動が根本の原因をなしている」とおゝせられ、現に学会が総本山へ迷惑を及ぼしているという御主張であった。(戸田城聖「なぜ小笠原師が牧口会長を殺したと言うか」『聖教新聞』S27.6.10/『大白法』H3.4.1)
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身延との合同に失敗した小笠原一派は、国家権力に訴え宗門を弾圧するべく策謀したのである。彼らの宗門弾圧の目的は、やはり身延との合同実現ではなかったか。

◆(※学会幹部の)投獄は内務省、憲兵隊、警視庁が合体してやつたのだが、先にのべた警事(刑事?)の言葉通り大石寺に対する告訴状以来学会弾圧が決定して居たという事だ。(戸田城聖『聖教新聞』/『大白法』H3.4.1)






四悉檀と御法主の教導

(試論<法蔵>H19.5.19)

【御本仏の弘教】
―発迹顕本と法体建立に向けての法華経の行者の振る舞い―
 大聖人の折伏は、法華経の文々句々をことごとく身読することによって自身が法華経の行者であり上行菩薩の再誕であることを証明するための特別の振る舞いである。そして、法華経の完全な身読の後に発迹顕本をなさり、末法の御本仏として時を感じて法体を建立されたのである。(『「三類の強敵」は大聖人の為に説かれた』参照)
 この振る舞いこそ、御書に説かれる如説修行であり、我々の理想であり模範とするところである。しかし、これは別しての法華経の行者の修行である。(『法難と法体厳護』参照)



【折伏の上の摂受】
大聖人滅後の御僧侶の使命は、大聖人が身命を賭して建立された法体と法門を正しく伝持することにある。それは折伏の上の摂受に当たる。

◆「法体の折伏」「化儀の折伏」からいえば、宗門僧侶の使命は「法体の折伏」という「折伏の上の摂受(しょうじゅ)」にあったといえる。事実、宗門700年の歴史を振り返ると、広布の時に備え、どうにか大御本尊を護持してきた「折伏の上の摂受の時代」であったと言わざるを得ない。(『聖教新聞』H5.9.20取意/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

●当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。(『観心本尊抄』全集254頁)
●折伏に二義あり。一には法体の折伏。謂く「法華折伏、破権門理」の如し。蓮祖の修行これなり。二には化儀の折伏。謂く、涅槃経に云く「正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣弓箭鉾槊を持すべし」等云云。仙予国王等これなり。今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て仍摂受と名づくるなり。或はまた兼ねて順縁広布の時を判ずるか云云。(第26世日寛上人著『観心本尊抄文段』)
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大聖人が「摂受」とは理解し難いところだが、「法華折伏、破権門理」とあるように他宗破折の法門の確立及び法門の説法等を「摂受」というのか。しかし、立宗宣言から佐渡赦免までは、法華経の行者としての特別の振る舞いであるから、法体建立前後(身延入山)からの振る舞いが、特に御僧侶の修行の規範となるのではあるまいか。

●法体の折伏は既に大聖人の御出現によって確立され、あとは日興上人以下、僧宝による伝持の折伏となりますが、問題は国王による化儀の折伏です。これは大聖人御出現当時より現在、そして未来へ向かう時の流れのなかに正法を篤く信仰してその威儀を顕し、法の威光を発揚するとともに、勧善懲悪の働きをなす大人格の出現であります(第67世日顕上人『大日蓮』H2.4/wt:23396)
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池田大作は、自分の代で広宣流布を達成しようと目論んでいたが、残念ながら「大人格」とは、池田のことではない。謗法まみれの氏が「勧善懲悪の働きをなす大人格」であるはずがないからネ。

●去ぬる文永十一年太歳甲戌二月十四日に・ゆりて同じき三月二十六日に鎌倉へ入り同じき四月八日平の左衛門の尉に見参してやうやうの事申したりし中に今年は蒙古は一定よすべしと申しぬ、同じき五月の十二日にかまくらをいでて此の山に入れり、これは・ひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほうぜんがために身をやぶり命をすつれども破れざれば・さでこそ候へ、又賢人の習い三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれと・いうことは定まるれいなり(『報恩抄』全集323頁)
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佐渡からお帰りになった大聖人は「三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれ」との故事に則り、身延山に入られた。その後は国主諌暁を控えられ、令法久住(弟子檀那の教化育成、法体の建立)に力を注がれた。

●法華読誦の音青天に響き一乗談義の言山中に聞ゆ(『忘持経事』全集977頁)
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大聖人門下における学問所の起源をたどれば、古く御開山日興上人が大石寺の運営を3祖日目上人に任せ、御自身は北山重須の地に子弟育成の重須談所を開かれたのが、大聖人門下全体を見渡しても最も古い談所となります。日興上人のこの御構想は、宗祖大聖人が晩年身延山にあって法華経等を講ぜられたことに端を発したものと拝されます。(『日寛上人と興学』511頁)

●まかる・まかる昼夜に法華経をよみ朝暮に摩訶止観を談ずれば霊山浄土にも相似たり(『松野殿女房御返事』全集1394頁)

●今年一百よ人の人を山中にやしなひて十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ、此れらは末代悪世には一えんぶだい第一の仏事にてこそ候へ(『曽谷殿御返事』全集1065頁)

◆700年の間には、徳川時代のような時代があった。あの時代に貫主様のなさっていらっしゃる行躰は摂受なんです。折伏の中の摂受です。折伏という大きな舞台からみて、摂受の分という意味です。(『戸田城聖全集』第2巻452頁)

●縦(たと)ひ此の如く山林に斗藪(とそう)し万人に対せずとも義理に違背之無くんば折伏の題目と成り、普(あまねく)く諸人に対する談義なれども広の修行は摂受の行相となるべきか、是即ち大聖の仰せ云云(第13世日院上人『要法寺日辰御報』/『富士宗学要集』第9巻64頁)
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[斗藪]=@衣食住に対する欲望をはらいのけ、身心を清浄にすること。また、その修行。とすう。
A雑念をはらって心を1つに集めること。(『大辞泉』)

●僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず(『四恩抄』御書268・全集938頁)
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僧の役割は仏法を正しく後世に伝えることである。ここでいう「僧」とは、当然"僧俗"の「僧」であり、在家に対する語すなわち出家した人である。

●涅槃経に云く「内には智慧の弟子有つて甚深の義を解り外には清浄の檀越有つて仏法久住せん」云云、天台大師は毛喜等を相語らい伝教大師は国道弘世等を恃怙む云云。(『曾谷入道殿許御書』全集1038頁〜)

●戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり(『三大秘法禀承事』全集1022頁)
[有徳王]=(前略)唯一人の正法の受持者、覚徳比丘が破戒の悪僧に襲われ、正法がまさに滅せんとしたとき、武器を執って悪僧と戦い覚徳比丘を守った。(『新版仏教哲学大辞典』初版)
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広宣流布がまさに達成する時には、在家の有徳王が出家の覚徳比丘を守る。ここにも僧俗の役割・立場の相違が明らかである。

●善男子正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭・鉾槊を持して持戒清浄の比丘を守護すべし(『釈迦一代五時継図』全集644頁)
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 在家は僧を守護することによって、令法久住の一翼を担うのである。僧俗の立場の相違はここにも明白である。
 学会よ!"命を捨てて謗法厳誡を貫き折伏をしたのは学会だけ"と自慢するのであれば経文どおり「持戒清浄の比丘を」命がけで「守護すべし」
※"「持戒清浄の比丘」などいない"という反論が聞こえてきそうだが、それは「持戒清浄」の意義を履き違えているからであろう。また、"僧侶不要""僧俗平等"を主張する在家団体であること自体「正法を護持する者」たりえない証拠である。


時期修行の目的または内容文証
身延入山前の大聖人法華経の身読(国主諌暁、三類の強敵、数々見擯出等)→法華経の行者・上行菩薩の再誕の証明→発迹顕本(末法の御本仏)

「法華折伏、破権門理」の法体の折伏
●我が身の法華経の行者にあらざるか、(中略)日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん(『開目抄』全集202頁〜)

●問うて云く法華経は誰人の為に之を説くや、答えて曰く(中略)末法を以て正と為す末法の中には日蓮を以て正と為すなり、問うて曰く其の証拠如何、答えて曰く況滅度後の文是なり、疑つて云く日蓮を正と為す正文如何、答えて云く「諸の無智の人有つて・悪口罵詈等し・及び刀杖を加うる者」等云云(『法華取要抄』全集333頁〜)

●疑つて云く何を以て之を知る汝を末法の初の法華経の行者なりと為すと云うことを、答えて云く法華経に云く「況んや滅度の後をや」又云く「諸の無智の人有つて悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん」又云く「数数擯出せられん」又云く「一切世間怨多くして信じ難し」又云く「杖木瓦石をもつて之を打擲す」又云く「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉・鳩槃荼等其の便りを得ん」等云云、此の明鏡に付いて仏語を信ぜしめんが為に、日本国中の王臣・四衆の面目に引き向えたるに予よりの外には一人も之無し、時を論ずれば末法の初め一定なり、然る間若し日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん(『顕仏未来記』全集507頁)

身延入山以降の大聖人法体建立と令法久住、及び「法華折伏、破権門理」の法体の折伏●摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。(『観心本尊抄』全集254頁)

●三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれと・いうことは定まるれいなり(『報恩抄』全集323頁)

●此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがことし。余は二十七年なり。(弘安2年10月1日『聖人御難事』御書1396、全集1189頁)

滅後の僧侶法体護持と令法久住、及び「法華折伏、破権門理」の折伏(伝持の折伏)●摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。(『観心本尊抄』全集254頁)

●涅槃経に云く「内には智慧の弟子有つて甚深の義を解り外には清浄の檀越有つて仏法久住せん」云云、天台大師は毛喜等を相語らい伝教大師は国道弘世等を恃怙む云云。(『曾谷入道殿許御書』全集1038頁〜)

●僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず(『四恩抄』御書268・全集938頁)

●一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。
一、大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。(『日興跡条々事』御書1883頁)

大聖人御入滅後の御僧侶の使命の第一は、大聖人が建立された法体(本門戒壇の大御本尊)と唯授一人の血脈を死守し、令法久住せしめることである。その上で謗法厳誡や布教拡大、国主諌暁がある。大御本尊と唯授一人の血脈は宗旨の根幹であり絶対不変、少しも傷を付けてはならない。それに対して謗法厳誡や布教拡大、国主諌暁などは、四悉檀の上から時機に応じた対応が可能。




【世相を弁(わきま)えた折伏】
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●謗国の失を脱れんと思はば国主を諫暁し奉りて死罪か流罪かに行わるべきなり(『秋元御書』全集1076頁)
●常に仏禁しめて言く何なる持戒智慧高く御坐して一切経並に法華経を進退せる人なりとも法華経の敵を見て責め罵り国主にも申さず人を恐れて黙止するならば必ず無間大城に堕つべし(『秋元御書』全集1077頁)
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弾圧を恐れて国家諌暁もせず、神札を受け取ったり、観念文を改訂したり、御書を削除した戦時下の宗門は、明らかに上記御指南に反する。
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経文どおりに国主を諌暁し三類の強敵がすべて惹起したのは歴史上、大聖人様お一人。しかし、大聖人滅後の上人方も世相に応じて国主を諌暁されている。我々弟子檀那もまた、その分に応じて大聖人の折伏を規範として修行に勤めることは当然である。だからといって、世相を弁えずに、"何が何でも大聖人のように命を捨てて折伏しなければ謗法"などということは決してない。


<総じての「法華経の行者」>
●凡(およ)そ法門に於(おい)ては総別の二義があるのでありまして此れを忘れると地獄へ堕ちることになります。日蓮大聖人は「総別の二義を違へば成仏思ひもよらず」と仰せられてありますが、此れは行人(ぎょうにん)の最も心ををくべきところであります。法華経の行者は大聖人唯御一人だけで末法の仏も大聖人であります。総じて申せば妙法を信受する程のものは行者といへますが別して逆縁の衆生でありまして順逆の分別は行功によるところであつて畢竟(ひっきょう)御一人の仏に対しては凡夫であります。かへすがへすも此のところが根本でありまして、その御本尊を信受し奉る上の修行が題目になるのであります。既に仏身地であらせられる大聖人の建立し玉ふ大曼荼羅を信受し持ち奉ることが肝要でありまして、此れ以外は皆偏見であり邪道であります。(第65世日淳上人『日淳上人全集』982頁〜)

法華経の行者に二人あり・聖人は皮をはいで文字をうつす・凡夫は・ただ・ひとつきて候かたびら・などを法華経の行者に供養すれば皮をはぐうちに仏をさめさせ給うなり(『さじき女房御返事』全集1231頁)
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「法華経の行者に供養」とは、大聖人への供養であるが、滅後は御僧侶に供養するのである。↓(<『さじき女房御返事』御書解説>参照)

●在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経文の如くならば随力演説も有るべきか(建治2年御作『松野殿御返事』全集1386頁)
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折伏は大切であるが「南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養」すること、つまり正しい自行が基本である。

1●末代の衆生は法門を少分こころえ僧をあなづり法をいるかせにして悪道におつべしと説き給へり、法をこころえたる・しるしには僧を敬ひ法をあがめ仏を供養すべし、今は仏ましまさず解悟の智識を仏と敬ふべし争か徳分なからんや、後世を願はん者は名利名聞を捨てて何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし、是れ正く経文なり。(『新池御書』全集1443頁)
2●此の僧によませまひらせて聴聞あるべし、此の僧を解悟の智識と憑み給いてつねに法門御たづね候べし、(『新池御書』全集1444頁)
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1●の「僧」が大聖人に限定されないことは、同じ御手紙の「此の僧」(2●)が大聖人の命によって派遣された弟子であることから明らか。

●貴女は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり、此僧は無戒なり無智なり二百五十戒一戒も持つことなし三千の威儀一も持たず、智慧は牛馬にるい(類)し威儀は猿猴ににて候へども、あを(仰)ぐところは釈迦仏・信ずる法は法華経なり、例せば蛇の珠(たま)をにぎり竜の舎利を戴くがごとし、藤は松にかかりて千尋をよぢ鶴は羽を恃みて万里をかける、此は自身の力にはあらず。治部房も又かくのごとし、我が身は藤のごとくなれども法華経の松にかかりて妙覚の山にものぼりなん、一乗の羽をたのみて寂光の空にもかけりぬべし、此の羽をもつて父母・祖父・祖母・乃至七代の末までも・とぶらうべき僧なり、あわれ・いみじき御たから(宝)は・もたせ給いてをはします女人かな、彼の竜女は珠をささげて・仏となり給ふ、此女人は孫を法華経の行者となして・みちびかれさせ給うべし(『盂蘭盆御書』全集1430頁)
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「無戒」「無智」であっても「法華経」を「信ずる」「僧」は「いみじき御たから(宝)」だと仰せである。御手紙を頂いた女性は在家信徒であるが、その人から見れば一般僧侶は「法華経の行者」であり「宝」(僧宝)なのである。


<時機に応じた折伏>
●心は日蓮に同意なれども身は別なれば与同罪のがれがたきの御事に候に主君に此の法門を耳にふれさせ進せけるこそ・ありがたく候へ、今は御用いなくもあれ殿の御失は脱れ給ひぬ、此れより後には口をつつみて・おはすべし、又天も一定殿をば守らせ給うらん、此れよりも申すなり。(『主君耳入此法門免与同罪事』全集1133頁)
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折伏は、誰彼となくシツコク何回もすればよい、ということではない。建長8(1256)年に27歳で入信した四条金吾が主君・江馬氏を折伏したのは、文永11(1274)年9月、実に入信18年後のことであった。それまでは幕府の弾圧が厳しかったが、この時、大聖人の佐渡流罪が幕府より赦免されたのである。弾圧が厳しかったときにはできなかった主君への折伏を、赦免を機に行ったとも考えられる。それでも周囲の金吾に対する迫害は厳しく、大聖人は「此れより後には口をつつみて・おはすべし」と、主君に対する折伏を控えるように御指南されている。

●賢人の習い三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれと・いうことは定まるれいなり(『報恩抄』全集323頁)
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大聖人は、上記故事に倣い、佐渡赦免後は身延に退かれ国家諌暁を控えられた。

●小蒙古の人・大日本国に寄せ来るの事、我が門弟並びに檀那等の中に若し他人に向い将又自ら言語に及ぶ可からず、若し此の旨に違背せば門弟を離すべき等の由・存知せる所なり、此の旨を以て人人に示す可く候なり。(『小蒙古御書』全集1284頁)
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大聖人は、他国侵逼難を予言され、幕府に対し何度も"法華経に帰依しなければ他国に攻められる"と諫言された。しかるに、いざ、かねてからの予言が的中し、蒙古が攻めてくると、「言語に及ぶ可からず」と仰せられた。

●縦(たと)ひ此の如く山林に斗藪(とそう)し万人に対せずとも義理に違背之無くんば折伏の題目と成り、普(あまねく)く諸人に対する談義なれども広の修行は摂受の行相となるべきか、是即ち大聖の仰せ云云(第13世日院上人『要法寺日辰御報』/『富士宗学要集』第9巻64頁)

●(昭和18年)牧口会長は今こそ国家諌暁の時であると叫ばれ、総本山の足並みも次第に此に向つて来たが、時日の問題で総本山からは、堀米部長(日淳上人)がわざわざ学会本部を来訪なされ、会長及び幹部に国家諌暁は時期尚早であると申し渡されたが、牧口会長は「一宗の存亡が問題ではない、憂えるのは国家の滅亡である」と主張なされた。(『富士宗学要集』第9巻430頁)
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世相を弁えずに、勝手に暴走した牧口会長。しかし、氏が国家諌暁をしたという事実はない。尚、大聖人は、蒙古が襲来する前には何度も国家諌暁をされたが、いざ蒙古が襲来し国家存亡の危機が現実化したときには「他人に向い将又自ら言語に及ぶ可からず」と弟子檀那に厳命された。

3●(※日恭上人より)予(※日亨上人)が池袋の蟄窟(ちっくつ=ひそかに住んでいる場所)に駕を枉げて(がをまげて=貴人がわざわざ来訪する)国諌の御相談があった、此頃は大東亜戦の最中で危機非常の時とて東西の真俗に古例に倣つて国諌を成し遂げ法力を以て国家を磐石たらしむべき説が蜂起したので、東京の一部の真俗よりの熱願に酬(こた)へての最後の手段の御相談であった。予は宗開両祖伝統の国諌の対所は時の国権の実権者であって、皇帝でも無く将軍でも無い執権でもない、国家の棟梁として平左衛門尉如き下級官吏までも時に取っては敵手(あいて)とされた。此点を考慮なされ先ず第一に御自身に全責任を負はれ門下の何人も力にしてはならぬ、安政度の霑上の国諌ぶりをも引いて懇談した事で、要するに激越に御奮起を催したが此の盛挙は取り止めになった道程は聞かないが但或方面の低級な御信者の中には池袋の隠居は国諌は嫌ひぢやげな先聖に背く怪(けし)からぬ悪魔であるとかの聲(こえ)がしたとの事、尤(もっと)も宗門の表面から隠れて居(お)る足の無い亡者であるから此の曲批を不問に付した(第59世日亨上人著『日恭上人伝補』29頁〜/『大白法』H6.7.1ただし下線部はwt:21966による)
4●顧(かえり)みるに法難の起こる時、必ず、外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発ありて其の端を発し、内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の門徒ありて、(内外の)両面より官憲の横暴を徴発(ちょうはつ)するの傾き多し。本篇に列する十余章(の法難も)皆、然らざるはなし(第59世日亨上人『富士宗学要集』第9巻247頁)
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日亨上人が、国家諌暁に賛成であったとしても、それは御法主上人御自身が「全責任」(3●)をもって行うことで、「門下の何人も力にしてはならぬ」(3●)というお考えであった。だから当然、国諌のやり方や時期についても御法主の専権事項である。また一方、個々の僧俗が勝手に「世相を無視」(4●)し「官憲の横暴を徴発」(4●)するような行為に対しては否定的であったことは「似非信行の門徒」(4●)という語から容易に分かることです。


<身命に及ぶ弘教、不惜身命>
我々が模範とし、常に目指すべき聖人の修行か。ただし、「不惜身命」といっても初信の者が直ちに実践できるものではなく、初信の人々の信心を守ることも、大切なことではないか。また、自由な時代に敢えて文字通りに身命を捨てる必然性はない。

●仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる、既に経文のごとく悪口・罵詈・刀杖・瓦礫・数数見擯出と説かれてかかるめに値い候こそ法華経をよむにて候らめと、いよいよ信心もおこり後生もたのもしく候、死して候はば必ず各各をも・たすけたてまつるべし(『佐渡御勘気抄』全集891頁)

●未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。(『日興遺誡置文』全集1618頁)

●悲いかな我等誹謗正法の国に生れて大苦に値はん事よ、設い謗身は脱ると云うとも謗家謗国の失如何せん、謗家の失を脱れんと思はば父母兄弟等に此の事を語り申せ、或は悪まるるか或は信ぜさせまいらするか、謗国の失を脱れんと思はば国主を諫暁し奉りて死罪か流罪かに行わるべきなり、我不愛身命但惜無上道と説かれ身軽法重死身弘法と釈せられし是なり、過去遠遠劫より今に仏に成らざりける事は加様の事に恐れて云い出さざりける故なり、未来も亦復是くの如くなるべし今日蓮が身に当りてつみ知られて候、設い此の事を知る弟子等の中にも当世の責のおそろしさと申し露の身の消え難きに依りて或は落ち或は心計りは信じ或はとかうす、御経の文に難信難解と説かれて候が身に当つて貴く覚え候ぞ、謗ずる人は大地微塵の如し信ずる人は爪上の土の如し、謗ずる人は大海進む人は一H。(『秋元御書』全集1076頁〜)

●常に仏禁しめて言く何なる持戒智慧高く御坐して一切経並に法華経を進退せる人なりとも法華経の敵を見て責め罵り国主にも申さず人を恐れて黙止するならば必ず無間大城に堕つべし、譬えば我は謀叛を発さねども謀叛の者を知りて国主にも申さねば与同罪は彼の謀叛の者の如し、南岳大師の云く「法華経の讎(あだ)を見て呵責せざる者は謗法の者なり無間地獄の上に堕ちん」と、見て申さぬ大智者は無間の底に堕ちて彼の地獄の有らん限りは出ずべからず、日蓮此の禁めを恐るる故に国中を責めて候程に一度ならず流罪死罪に及びぬ(『秋元御書』全集1077頁)



【四悉檀】
四悉檀を駆使し世相に応じた教化によって僧俗の信心を擁護するのは血脈付法の御法主の役割

[四悉檀]し‐しつだん(シシッダンとも)=仏様の教法を4種に分けたもの。『大智度論』巻1等に説かれる世界悉檀・為人悉檀・対治悉檀・第一義悉檀をいう。悉檀とは宗、理、成就、究極などの意。また、『法華玄義』巻1下では、仏が4種の教相をもって遍く一切衆生に施すゆえに悉檀というとしている。
@世界悉檀……楽欲(ぎょうよく)悉檀ともいい、一般世間の楽(ねが)い欲する所にしたがって法を説き、凡夫を歓喜させ利益を与えること。
A為人悉檀……詳しくは各各為人悉檀といい、生善悉檀ともいう。人によって性欲機根が不同のために、人に応じて法を説き、過去の善根をさせていくこと。
B対治悉檀……断悪悉檀ともいう。貪欲の多いものには不浄を観ぜしめ、瞋恚(しんに)の多いものには慈心を修せしめ、愚痴の多いものには因縁を観ぜしめること。三毒の煩悩を対治するために法を説き、遍く一切衆生に施すので対治悉檀という。
C第一義悉檀……真実義悉檀、入理悉檀ともいう。前の3種が仮の化導であるのに対し、真理を直ちに説いて衆生を悟らせること。

●予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、且(しばら)く世間普通の義を用ゆべきか(『太田左衛門尉御返事』御書1222、全集1015頁)
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「強ちに成仏の理に違はざれば」これを判断される方こそ、大聖人以来の血脈相承を受けられた御法主上人なのです(<化儀と血脈>参照)。

●各薬王楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ雪山国王等の如く身を投げ心を仕えよ、若し爾らずんば五体を地に投げ徧身(へんしん)に汗を流せ、若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め若し爾らずんば奴婢と為つて持者に奉えよ若し爾らずんば・等云云、四悉檀を以て時に適うのみ(『顕立正意抄』全集537頁)
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不惜身命は成仏のための大切な要件であるが、最初からそのような境界を得られるものではない。「若し爾らずんば」と仰せのように、修行者を取巻く社会的立場や世相、修行者自身の信心その他を総合的に判断し、時機に応じた信仰活動も認められるのである。

●日本国は神国なり此の国の習として仏・菩薩の垂迹不思議に経論にあひにぬ事も多く侍るに・是をそむけば現に当罰あり、委細に経論を勘へ見るに仏法の中に随方毘尼と申す戒の法門は是に当れり、此の戒の心はいたう事かけざる事をば少少仏教にたがふとも其の国の風俗に違うべからざるよし仏一つの戒を説き給へり、此の由を知ざる智者共神は鬼神なれば敬ふべからずなんど申す強義を申して多くの檀那を損ずる事ありと見えて候なり(『月水御書』全集1202頁〜)

●釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、はせまいりてをがみまいらせ候わばや、「欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来」は是なり、但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ、自身並に子にあらずばいかんがと存じ候、御所領の堂の事等は大進の阿闍梨がききて候、かへすがへすをがみ結縁しまいらせ候べし、いつぞや大黒を供養して候いし其後より世間なげかずしておはするか、此度は大海のしほの満つるがごとく月の満ずるが如く福きたり命ながく後生は霊山とおぼしめせ。(『真間釈迦仏御供養逐状』全集950頁)
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この御手紙は、富木常忍へ宛てたものである。常忍は造像を好むところがあり大黒を供養することすらあった。そのような常忍が釈迦仏を造立したことに対して、権実雑乱の大謗法を制止する立場から、一時的に許可されたものと拝する。

●随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ云云。(『五人所破抄』全集1614頁)
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日興上人は「執する者」に対してのみ「四菩薩を加」えた造仏を許可されている。

●開山上人御弟子衆に対するの日仍容預進退有り是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻177頁)
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 日寛上人は大聖人・日興上人時代の造仏については「是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり」と容認されている。すなわち、本来の化儀からみれば逸脱(謗法)であっても、「信者を将護」するために時機を鑑みて容認する場合もある、ということである。
 ここでは本尊としての仏像安置について「宗門最初なる故に」許されたのであるが、時代が下っても相応の寛容を示されることがある。それは、江戸時代に幕府の宗教政策によって種々の弾圧を受けたり、不如意を強いられた宗門僧俗の対応について御存知だった日寛上人が「開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し」(『当流行事抄』)と明言されているとおりである。↓

●開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し、故に朝暮の勤行は但両品に限るなり(第26世日寛上人『当流行事抄』/『富士宗学要集』第3巻211頁)
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 趣旨は勤行の化儀にあるが「故に」とあるから「化儀・化法四百余年全く蓮師の如し」は化儀・化法に対する一般論として成り立つ意義である。つまり、化儀・化法全体について「四百余年全く蓮師の如し」という前提が正しいからこそ「故に」勤行の化儀についても同様に「四百余年全く蓮師の如し」という文意である。「四百余年全く蓮師の如し」とあるから当然、日精上人が一部末寺での仏像安置を容認されたことや、金沢法華講衆が表面上邪宗の檀家となっていたことも含まれる(下記5●6●)。これらは、四悉檀の上から許容される範囲のことであり、謗法厳誡を説かれた大聖人の御指南に反するものではないのだ。
 ただし、血脈の真義から考えて、あくまでも化儀を決定されるのは正師(大聖人以来の別付嘱の方)である。本来の化儀から見れば逸脱であっても正師の認可がある限りにおいて血脈が流れ通い功徳が出る。その場合の化儀は正義を前提としての方便のようなものであり、逸脱であって逸脱ではない。方便の法門も絶待妙の立場からみれば体内の法となるようなものか?

●當宗之立場より大聖人を本仏として人本尊と仰ぐなり 乍然是等は第一義の法門にして世間悉壇(※世界悉檀) 所謂日本之国体より君臣之義よりすれば天照大神は 御皇室の御先租日蓮聖人は御臣下に在す故に宗租を本地と云ひ 天照○○を垂迹など云へば不敬に渡る事故言ふべからざる事と存候(第62世日恭上人より小笠原慈聞師への書簡S16.8.21『特高月報』所収/『慧妙』H6?)
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 すなわち、当時の時局や人々の機を考えて、無用の反発を生むことのなきよう(中略)世間悉檀の上から衆生教化を目されていたことが明らかである。
 また、この往復書簡を通読すると、某師は日恭上人に、わざと「神本仏迹説は邪義」と言わせることに腐心していた形跡がうかがわれる。つまり、書簡は私信ではあっても、某師の裏には軍部が控えており、わずかでも不敬にあたる言説があれば、弾圧、ひいては宗門断絶の危険性があったということであり、日恭上人はこの罠にも似た策謀を、四悉檀を駆使して巧みにかわされているのである。
 こうした、日恭上人の筆舌に尽くせぬ御苦労があって、今日、我々が妙法を信受できるのであり、多くの民衆が成仏の境界を享受できるのである。
 後年、2代会長戸田城聖氏は、某師に向かい、
 「あなたの神本仏迹論を、深く謝罪しなさい。私に謝れとはいわん。御本尊様にお詫び申し上げるのです。そして、いまは亡き日恭猊下と、初代牧口会長の霊に謝るのです」(『人間革命』第6巻)
 と呵責したそうだが、大法を護持しぬかれた日恭上人を誹謗する学会こそ、この呵責を我が身に引き当て、真摯に受け止めるべきであろう。(『慧妙』H6?)

●顧(かえり)みるに法難の起こる時、必ず、外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発ありて其の端を発し、内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の門徒ありて、(内外の)両面より官憲の横暴を徴発(ちょうはつ)するの傾き多し。本篇に列する十余章(の法難も)皆、然らざるはなし(第59世日亨上人『富士宗学要集』第9巻247頁)
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[突喊]とっかん=@ときの声をあげること。 Aときの声をあげて、敵陣へ突き進むこと。(『大辞泉』)
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戦時下の国家弾圧において「世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の門徒」とは一体誰で「官憲の横暴を徴発」とは何でしょうか。すぐに思い浮かぶのが、牧口会長以下学会員達が神札焼却の強調や、四悉檀を無視した強引な罰論等に走ったことです。



【門外折伏・門内摂受】
(全国布教師・正説寺住職 早瀬義久御尊師『大白法』H20.4.16抜粋)

 「門外折伏・門内摂受」、皆様には聞き慣れない御言葉かと思います。
 この御言葉は、総本山第59世日亨上人が第9世日有上人の『化儀抄』121箇条を解説された折に、大聖人様の御教示をふまえて私たちの信心の在り方、姿勢を、一言に「門外折伏・門内摂受」と説かれたものであります。
 その元は、『化儀抄』第57条の、
●法華宗の大綱の義理を背く人をば謗法と申すなり、謗とは乖背(けはい)の別名なるが故なり(聖典983頁)
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という、日有上人の御教示を敷衍(ふえん)されて「門外折伏・門内摂受」と説かれるのであります。
 門外、つまり宗門の外部に向かっては、勇猛果敢に折伏を進めなくてはいけない。
 対して門内、宗門内の僧俗間にあっては「法華宗の大綱の義理」、正しく仏法僧の三宝を崇めるということでありまして、仏宝として大聖人様を御本仏と仰ぐ、法宝として本門戒壇の大御本尊様を根本の御本尊と定める、そして僧宝として2祖日興上人以来血脈付法の御歴代上人を大聖人様の御代理として、その御指南を拝する。また、他の一切の宗教を邪宗邪義として捨てる。これが「法華宗の大綱の義理」ということであります。
 この「大綱の義理」に背かない限りは、広い心、寛容の心をもって、些細なことには目をつぶり、その人の長所、すばらしいところを敬い、励まし合い、異体同心の絆を固めていく。これを「門内摂受」と説かれるのであります。
 「摂受」、摂引容受という言葉を略したもので、摂は「おさめる、包み込む」という意味があります。仏法の根本に背かない限りは、相手に仮に誤りがあっても、それを許し、包み収めて少しずつ導いていく。



【国法遵守】
国法遵守は当然のことであり、大聖人も国法は遵守された。

●よき師とは指したる世間の失無くして聊(いささか)のへつらうことなく少欲知足にして慈悲有らん僧の経文に任せて法華経を読み持ちて人をも勧めて持たせん僧をば仏は一切の僧の中に吉第一の法師なりと讃められたり(『法華初心成仏抄』全集550頁〜)


<鎌倉時代>
大聖人の時代はどうであったかといえば、法論そのものを禁止する法律はなかったのです。だからこそ幕府は、大聖人に付すべき罪状に困り、種々の讒言(ざんげん)を用いることによって「世間の失」なき大聖人を処刑しようとしたのです。

●念仏者等此の由を聞きて、上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程にかなはざりしかば、長時武蔵守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知りて理不尽に伊豆国へ流し給ひぬ。されば極楽寺殿と長時と彼の一門皆ほろぶるを各御覧あるべし(『妙法比丘尼御返事』全集1413頁)
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伊豆流罪は文応元年の国主諌暁を契機として起こった法難である。この流罪は、時の最高権力者が国法に則るのではなく「親の御心を知りて」「理不尽」に行ったものである。つまり仏法上は勿論、世法に照らしても違法な行為であった。

●然るに事しづまりぬれば、科(とが)なき事は恥づかしきかの故にほどなく召し返されしかども、故最明寺の入道殿も又早くかくれさせ給ひぬ(『立正安国論』御書1150頁)
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この「最明寺の入道」というのは北条時頼のことでありますが、つまり時頼は、全く失がないのに流罪(※伊豆流罪)にしたということに気が付いて、大聖人様を赦免されたということです。(第68世日如上人『大日蓮』H18.7)

●故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり(『聖人御難事』全集1190頁)
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「此の殿」とは北条時宗のこと。

●日蓮が度度・殺害せられんとし並びに二度まで流罪せられ頚を刎られんとせし事は別に世間の失に候はず(『清澄寺大衆中』全集893頁)

●我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし(『佐渡御書』全集958頁)

●法華経を信じ参らせて仏道を願ひ候はむ者の争か法門の時・悪行を企て悪口を宗とし候べき、しかしながら御ぎやうさく有る可く候・其上日蓮聖人の弟子と・なのりぬる上罷り帰りても御前に参りて法門問答の様かたり申し候き(『頼基陳状』全集1157頁)
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貞永式目12条は「悪口は騒乱の元であるから口にしてはならない。これを犯す者は流罪および禁固の刑に処す」とあります。しかしこれは法論対決を否定するものではなかったのです。

●讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人しるさる(『種種御振舞御書』全集916頁)
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鎌倉時代は、折伏自体は国法に触れる行為ではなかったのです。だからこそ、邪宗の連中は、他の罪を捏造したのです。


<江戸時代>
1640(寛永17)年、幕府は、寺請制度を設けて、宗門改役を設置しました。
 宗門改役は、絵踏などをさせて、キリシタンや日蓮宗不受不施派かどうかを取り調べました。これを宗門改めといいます。キリシタンでないことが証明されると、宗門改帳(宗旨人別帳)に記載されます。一度定められた寺院を変更することは出来ません。定められた寺院を檀那寺といい、記載された人を檀家とか檀徒(施主)といいます。こうした制度を寺請制度と言います。(<エピソード高校日本史>WS070803)

1665(寛文5)年、4代将軍徳川家綱は、諸宗寺院法度を出しました。これは先の寺院法度を強化したもので、幕府は、各宗派ごとに、その本山・本寺の地位を公認し、本山・本寺に末寺を統制する権限を与えました。これを本山・末寺制度といいます。
 内容は、(1)各宗の法式を守る(2)寺院の住持の資格や本末関係を厳正にする(3)自由な布教活動や自由な法談は制限する(4)新寺建立やそのための勧進募財は制限する(5)寺格や僧侶の階位も細かく規定する(6)住職になるための修行年数や学問も定める、などとなっています。(同上)

◆日寛上人の時代には、今のような折伏をやる人もないし、やったらまた、首を斬られてしまう。そういう意味だと、わたしは思うのです。(『戸田城聖全集』第2巻452頁)
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死身弘法は当然ですが、国法を遵守し四悉檀や随方毘尼の上から、時代状況に適合した修行をすることもまた必要なのです。「大石寺日俊累年の間御制法に背き自讃毀他の談義を致し」(『富士宗学要集』第9巻30頁)といって北山が日俊上人を攻めたように、江戸時代は、法論そのものが国法に違反する行為だったのです。

●慈雲寺(※法華宗陣門派)のほとんどの檀家が富士派となり、その近辺の寺院にも驚く程の富士派信者がいたことを、寺の過去帳などによって突きとめることができた。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』64頁)
5●久保家子孫代々伝えまいらせ候。今日まで正宗の法華経唱え奉り候えども、藩の取締り堅固なれば思うままに信心致し難く、大石寺にまかり出る事なかなか至難に相なり候ば、ただひたすら襖(ふすま)の影より心ひそかに題目を唱え居り候。(久保専朴の遺言状・弘化3〈1846〉年/『金沢法難を尋ねて』)
身業は一往は国法に任すといえども、口意の二業は全く当山興尊の付弟と申し、無二信受の大賢人あり、名を池田宗信と云う(第32世日教上人『金沢法難を尋ねて』向敏子著37頁)
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金沢では、慈雲寺(法華宗陣門派)の僧、了妙が折伏を受けて富士派に改宗したことから享保11(1726)年、第1回の加賀藩の富士派信仰禁止令が出た。第5代藩主・綱紀の代には、法論に負けると潔く改宗を表明することが常識であったが、第6代藩主・吉徳の代には改宗は事実上厳禁となった。表面上は邪宗の檀徒として、葬儀などの法要を依頼する。しかし、隠れて御本尊を拝み折伏し登山もしていた。第32世日教上人は、身は国法に従わざるを得ない厳しい環境にあって、あらゆる困難を乗り越えた絶大なる信心を称讃されている。

●先年、岩田伝右衛門の調べの時、富土派一万二千人(寛政3〈1791〉年の記録)
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この当時の金沢の人口は10万人に満たなかったであろうから、藩禁制であるにもかかわらず、この数字は藩にとって脅威の的と写ったことは言うまでもなかった。事実野田山墓地を調査して見ると富士派の人々は本当に多いのである。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』91頁)当時は相当の信心がなければ御本尊の下附は叶わない時代であった。(中略)城下が寝静まる夜中に題目を唱え、壁をくり抜いて御本尊をお掛けして護り抜き、折伏に走った時代なのである。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』110頁〜)

6●かならず、かならず信の一字こそ大事にて候。たとへ山のごとく財をつみ候て御供養候とも若信心なくば詮なき事なるべし。たとへ一滴一塵なりとも信心の誠あらば大果報を得べし。乃至・かならず、かならず身のまづしきことをなげくべからず。ただ信心のまづしき事をなげくべけれ(第26世日寛上人著『松任治兵衛殿御返事』妙喜寺蔵)
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これは、第26世日寛上人が加賀信徒に与えられた御手紙の一節である。歴代上人の慈悲あふれる感動的な御手紙は多くの加賀信徒の中に代々語り伝えられてきたのである。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』84頁〜)


<戦時下>
◆第7条 国体を否定し又は神宮若は皇室の尊厳を冒涜すべき事項を流布することを目的して結社を組織したる者又は結社の役員其の他指導者たる任務に従事したる者は無期又は4年以上の懲役に処し(治安維持法=昭和16年改正/『牧口常三郎全集』第10巻444頁)
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戦時下は直接国家神道を破折すること自体が国法に触れる行為であったのです。

●昭和十六年五月十五日改正治安維持法施行後も前記目的を有する同会の会長の地位に止まりたる上、同会の目的達成の為(中略)昭和五年頃より昭和十八年七月六日頃迄の間、東京市内其の他に於て同市王子区神谷町三丁目千三百六十四番地岩本他見雄外約五百名を折伏入信せしむるに当り、其の都度謗法罪を免れんが為には皇大神官の大麻を始め家庭に奉祀する一切の神符を廃棄する要ある旨強調指導し、同人等をして何れも皇大神宮の大麻を焼却するに至らしめ、以て神宮の尊厳を冒涜(ぼうとく)し奉る所為を為したる等諸般の活動を為し、以て神宮の尊厳を冒涜(ぼうとく)すべき事項を流布することを目的とする前記結社の指導者たる任務に従事したると共に、神宮に対し不敬の行為を為したるものなり(「創価教育学会々長牧口常三郎に対する起訴状」/『牧口常三郎全集』第10巻252頁〜)
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学会の大麻焼却は、当時の国法(治安維持法)に違反する行為であった。

●日本国民の総氏神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)をまつっている伊勢の神宮の御神札は、明治以前は御師(おし)といわれる神職によって全国各地の家々に配布されていました。(中略)明治の御代になって、御師による配布は廃止され、御祓大麻は神宮大麻(じんぐうたいま)と名称が改まり、明治天皇の聖旨により政府事業として全国全戸に漏れなく配布されるようになりました。(<神社と神道>WS060311)

●(左の一編は小平芳平氏の記に依る)(中略)18年6月(※初旬)には、学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(中略)会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)
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神札を焼却しなくとも謗法にはならない。↓

●他宗の法花宗に成る時、本と所持の絵像木像并に神座其の外他宗の守なんどを法花堂に納むるなり、其の故は一切の法は法花経より出てたるが故に此の経を持つ時、本の如く妙法蓮花経の内証に事納まる姿なり、総して一生涯の間、大小権実の仏法に於いて成す所の所作、皆妙法蓮花経を持つ時、妙法蓮花経の功徳と成るなり、此の時実の功徳なり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻70頁)
●当時、全戸に配布されていた伊勢神宮のオフダの受領を拒否して弾圧され(『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫52頁)
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他宗の本尊であっても御守であっても、これを破却することなく末寺の「法華堂」にを納めていたのである。その意義から言えば、新入信者の神札等を、世相を無視して堂々と焼却する必要はまったくなかったといえる。会員の神札受け取りについても、金銭を支払って受け取るのであれば格別、当局が勝手に配布するのであれば、一応受け取り、捨て置くか寺院に納めるか、コッソリ焼却すればよかろう。

●當宗之立場より大聖人を本仏として人本尊と仰ぐなり 乍然是等は第一義の法門にして世間悉壇 所謂日本之国体より君臣之義よりすれば天照大神は 御皇室の御先租日蓮聖人は御臣下に在す故に宗租を本地と云ひ 天照○○を垂迹など云へば不敬に渡る事故言ふべからざる事と存候 甚だ乍略寸暇も無之最中御海容願上候 拙僧に対し責任ある身之上なるが故に時局柄手紙にては法義を論ずべからずと注意せられ候間此等之点に就而以後は他之方へ御照会願上候 右之次第に付是迄にて御断り申候(第62世日恭上人『特高月報』/『慧妙』H6?)
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これは、第62世日恭上人が小笠原慈聞師に宛てた書簡である。「大聖人を本仏として人本尊と仰ぐ」ことは「第一義の法門」であると断言されている。しかし、これを公言して神本仏迹論を否定することになれば「不敬に渡る事故言ふべからざる事」と仰せである。勿論これは、公然と神本仏迹論を主張し身延との合同を画策していた小笠原慈聞師への書簡であるから、このように述べられたのであろう。



【御遺命の達成と御法主の教導】
 広宣流布は絶対達成される―これは大聖人の弟子檀那の確信であり、大聖人の御指南である。また、大聖人は謗法厳誡と不惜身命の信心を強調されている。この点において、牧口会長は、謗法厳誡を貫くことによって必ず諸天の加護があると信じていたといえよう。確かに原則は、そのとおりである。しかし、よくよく大聖人の御書を拝してみれば、時機に応じた様々の御指南が存在するのである。それらを総合的に考慮し、弟子檀那の信心を擁護するために四悉檀を駆使して謗法厳誡と国法遵守の両立をはかる―これこそ広布達成時まで法体を護持し一宗を導かれる御法主上人の役割であり、そこには我々の想像を絶するほどの苦衷があったことであろう。
 牧口会長のように命を惜しまず謗法厳誡を貫くことは立派ではあるが、ある意味指導者としては楽である。が、そのようなことでは信徒の信心は守れないし、法体の護持そのものが危うくなる恐れすらあるのだ。世相を弁えずに突喊(とっかん)する信心は、決して大聖人の御意に沿う信心ではないのである。

●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。(中略)背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり(『池上相承書』全集1600頁)
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大聖人は、日興上人に背く者は「非法の衆」だと断定されています。このように、大聖人御自身が、滅後の師匠を日興上人御一人に限定されたのです。たとえ、大聖人の直弟子であっても、大聖人御入滅後は、日興上人を師と仰がなければならないのです。時の貫首である日興上人を蔑ろにした「大聖人直結」などありえないことは、明らかです。

●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(大聖人・日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
●明星直見の本尊の事如何、師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を以つて本尊とす可きと・虚空蔵に御祈請ありし時古僧示して言はく汝等が身を以つて本尊と為す可し(中略)釈迦古僧に値ひ奉つて塔中に直授せるなり貴し貴しと讃め被れたり、(中略)仍つて本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ。(大聖人・日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
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後加文ではありません。御本尊書写の権能が唯授一人血脈相承の方に限るとされています。唯授一人の相承は大御本尊だけではなく、大聖人の御内証の伝授とともに、本尊書写の権能も含まれるのです。しかもそれは「塔中に直授せるなり」とあるように、上行菩薩への別付嘱に由来するのです。

●一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。
一、大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。(『日興跡条々事』御書1883頁)

●但し直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(『百六箇抄』全集869頁)
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日亨上人は「後加と見ゆる分の中に義において支語なき所には一線を引き」(『富士宗学要集』第1巻25頁)とあるごとく、史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのです。


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唯授一人の血脈によって大聖人の内証が伝わるのであれば、敢然と国家権力に立ち向かっても血脈が断絶することはないのではないか。
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歴代上人は、内証(内心の悟り)は大聖人と一体であるが、外用は菩薩の位であり、自ずからその能力や振る舞いにおいて仏とはことなる。(<内証と外用>参照)

●殺生―下殺は螻蟻蚊蝱
     中殺は凡夫人及び前三果の聖人
     上殺は阿羅漢・辟支仏・菩薩・父母等十悪(『一代五時図』全集616頁)
●五逆―一殺父
     二殺母
     三殺阿羅漢
     四出仏身血
     五破和合僧(『一代五時図』全集616頁〜)
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「殺生」とは十悪の1つであるが、その中に仏は含まれない。「五逆」(五逆罪)は「5種の最も重い罪のこと」(『新版仏教哲学大辞典』初版)で「これが業因となって必ず無間地獄の苦果を受ける」(同)という重罪であるが、「出仏身血」とあるのみで"殺仏"はない。すなわち、いかなる悪人であっても強大な国家権力をもってしても仏を殺害することはできないのである。これに対して菩薩方は殺害される可能性がある。御法主上人が御法の為に命を惜しむことなど有り得ないが、血脈の断絶だけは断固として避けなければならないのである。

◆牧口が宗門をあげての「国家諌暁」を願った時、総本山では文部省から、思想統一政策の1つとして、全日蓮宗の統合合併策を強要されていた。そして宗門の一部には、この身延との統合案に迎合する悪侶も出ていたのである。これらの節操のない僧侶が、時の軍部と手を握ったため、宗門は紛糾せざるを得なかった。
 国家諌暁の断行には、第1に宗門の内部の意志の統一が必要であることは、いうまでもない。宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。宗内の獅子身中の虫ともいうべき一派は、水魚会と称する背後の軍部勢力と結託していた。これらが、文部省の宗教政策を牛耳りつつあったのである。そのため正宗の僧侶達は、国家の危機より、宗門の7百年来の未曾有の危機を克服することに懸命であった。(『人間革命』第3巻「渦中」)
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池田自身、当時の宗門の置かれていた状況を「宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。」としていた。一信徒の牧口と、宗門全体の信徒の信心と法体を守るべき立場とでは、自ずから考えや行動の視点が異なるのである。


●広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし(『諸法実相抄』全集1360頁)
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大聖人の如説修行の御指南と上記御指南から、牧口会長は単純に、身命を賭して折伏をすれば諸天の加護があり戦争にも勝つ、と考えたのであろう。しかし、大聖人の御書をよくよく拝すれば、時機に応じた様々な御指南があるのだ。当該御指南は、血脈付法の御法主方が、必ず時機に応じた適正な教導をなさることを前提とした御指南なのである。

◆邪宗の本尊は、人の命を食うことは知っているが、幸福にすることはできない。われわれがお山に行って、たった300円でお参りができるのは、もったいないことである。もし、小笠原慈聞が身延へ売ったとしたら、何万円出しても拝することはできなかったであろう。(S28.3.1第2回鶴見支部総会『戸田城聖全集』第4巻20頁)
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"大御本尊は絶対に守られ広宣流布は絶対できる"と運命論的に安易に考えるのは誤りであろう。戸田会長は、「(大御本尊を)小笠原慈聞が身延へ売ったとしたら」と仰せであるが、この言葉には安易な運命論はない。"命懸けで拝めば何でもかなう"と思っている人もいるが、それほど単純ではない。大聖人が御在世中に国主を帰伏させられなかったのは何故か?『三大秘法抄』の他言を制止され、大御本尊の意義を公言されなかったのは何故か?日興上人が断腸の思いで大御本尊を奉持し身延を去られたのは何故か?自身の能力や客観的状況、弟子の機根等、すべてを総合的に判断して、道理に適った努力なくして願い(目的)は達成できないし、因縁がなければすぐにはかなわないのである。

●日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし(『異体同心事』全集1463頁)
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戦時下の宗門には、神本仏迹論を公言し身延との合同を画策する僧や、反対に世法を無視し宗熱に突喊(とっかん)する僧俗がいた。これでは宗門が一丸となって国家権力に対峙できなかったのも当然であろう。

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●迹門は全部で14品ありますが、その中心は方便品第2から授学無学人記品第9までの8品です。ここにおいて三周の説法というものが示され、法説周・譬説周・因縁説周という3つに区分されて説かれてくるのです。これはどういうことかというと、相手の機根によったのです。つまり説法を聞く衆生のなかに、上根の人、中根の人、下根の人というような区別がありまして、いわゆる法を聞く能力に違いがあるのです。(中略)
 このように釈尊は法説周・譬説周・因縁説周の3段階で説かれたのでありますが、このことは、まさに今日の折伏においても活用できるかと思います。特に譬え話、具体的に言うと体験談など、そういった話をとおして話をしていくことで、相手の方が納得することがあるのです。また、御親戚の方にお話をするときに「あなたと私はこういう深い関係があるのです」と言って納得されることもあるでしょう。(第68世日如上人『大白法』H20.11.16)
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仏法上の機根といえば大きくは本未有善(末法の衆生)と本已有善(在世及び正法・像法時代の衆生)に分けられる。しかし、釈尊在世の弟子方の中にも機根の違いがあり、釈尊は機根に応じた説法をされた。同様に末法においても機根の違いがある。

●『撰時抄』のなかに、
 「世尊は二乗作仏・久遠実成をば名字をかくし、即身成仏・一念三千の肝心其の義を宣べ給はず。此等は偏にこれ機は有りしかども時の来たらざればのべさせ給はず。経に云はく『説時未だ至らざるが故なり』等云云」(御書834頁)
と仰せのように、機根が調っていても、時が来なければ大事な法は説かれないのだとおっしゃっております。(中略)
 このように、仏法においては時を逸してはだめなのです。ならば今、私達は何をすべき時なのか。この末法に在って、明年の『立正安国論』正義顕揚750年の大佳節を迎える時に、我々はいったい何をすべきなのか。
 その答えは実に明快に、日顕上人から平成14年に御指南を頂戴しております。私達は『立正安国論』正義顕揚750年の大佳節へ向かって、2つの御命題を賜りました。1つは「地涌倍増」であり、もう1つは「大結集」であります。(第68世日如上人『大白法』H20.11.16)
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仏法上の時といえば大きく正法・像法・末法に分けられる。しかし、釈尊在世に時の違いがあったように、末法の中においても時の違いがある。



【学会の矛盾】
<国交正常化後の中国や旧ソ連での弘教>
学会は、国交正常化後の中国や旧ソ連において、まったく布教できていません。それは何故でしょう?おそらくは、国家として信教の自由を認めていなかったからです。布教自体が国家によって禁止されていたからです。


<折伏放棄>
◆SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して(中略)対話し、その解決のために協力していく(SGI第20回総会・H7.10.17※<SOKAnet>WSによれば「H7.11.13」/『大白法』H15.10.16)
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「尊重」する「他の宗教」の中には神道も含まれるのであろう。戦時下の学会会長が池田大作だったら、不敬罪で投獄されることもなかったし、組織が壊滅することもなかったでしょう。(笑)

◆創価学会は平成6年2月、それまで対立関係にあった立正佼成会に和解≠申し入れ、「在家仏教団体の先輩である佼成会に教えを乞(こ)いたい。戒名の付け方等も教えてもらいたい」とまで媚(こ)びを売った。
 当時の大新聞はこのことを、政界への影響力を強めるための、創価学会の政治戦略として報じたが、事実、その後の学会は、支持拡大、票獲得のために、大聖人の謗法厳誡の御制誡を次々と破っていったのである。(『慧妙』H13.9.1)


<自由な時代に謗法容認>
●とくに理解に苦しむのは、小泉首相が毎年続けた靖国神社への参拝への対応だ。形ばかりの反対に終始したのはどうしたことか。
 公明党の支持母体である創価学会は、戦中の国家神道の時代に厳しい宗教弾圧を受け、会長が獄中死した歴史もある。靖国神社はその国家神道の中心的な施設だった。
 政教分離を定めた憲法に抵触する疑いもある。信仰の自由と並んでこの党がもっとも重んじる理念のはずだが、意外にあっさりと6度の参拝を受け止めた。(『朝日新聞』社説H18.9.19)
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池田学会には、国家諌暁の精神など皆無であることがよく分かります。

◆謗法払いについては、あくまで原則どおり、本人処分であることには変わりはありませんが、御本尊を安置するための絶対的前提条件ではありません。謗法払いしてからでないと御本尊を安置してはいけないという考え方を変え、もっと幅広く、まず御本尊を安置し、拝み始める。そのうえで信心が深まって、古い対象物は置きたくなくなる。そうなってから、自発的に本人がそれを取り除くようにしてもかまいません。(秋谷栄之助『聖教新聞』H9.2.11)
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「古い対象物」とは、邪宗の本尊などです。これを所持したまま曼陀羅を拝んでもよいというのです!信教の自由が保障された時代にこんな指導をする者に、戦時下の神札受け取り(形式的なもの)を批判する資格はありません。

◆もし宗教目的に賛同して、他宗の本尊や神体を信じて拝むのであれば、それは謗法です。しかし、町会や自治会の一員として、仮に宗教的色彩のある祭りなどの行事に参加しても、信じて拝むのでなけれは、謗法にはなりません(秋谷栄之助『聖教新聞』H11.9.9)
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「他宗の本尊や神体を」「信じて拝むのでなけれは、謗法にはなりません」一体こんな御指南が御書にあるでしょうか?これでは、外見上何をやっても謗法になりません。

◆祭りにおいて、御輿を担がざるをえない場面があったとしても、地域役員として宗教色の濃い儀式等に立ち会わざるを得ない場面があったとしても、それは地域の文化行事への参加と同次元のことです。”一種の文化祭”と名付けた学者もいた。それをもって、ただちに謗法とは言えません。」(秋谷栄之助『聖教新闇』同日付)
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「御輿」の中には謗法の神体が入っており、これを担ぐことが謗法であることはいうまでもありません。

★四悉檀の上から化儀について一時的例外的に、本来の姿からの逸脱を容認する場合もありました。しかし、それは、国家の宗教政策や交通事情、宗門草創期など、弟子旦那の意思とは無関係の不可効力的な特殊な状況があったからです。しかも、化儀改変を決定されるのは血脈付法の御法主上人に限られることは、唯授一人の血脈を根本とする師弟相対の信心の上から当然のことです。信教の自由が認められた時代においてこそ、化儀は本来の姿のままに実践すべきはずです。それを、正当な理由もなく勝手に化儀を解釈し改変しておきながら、一方で日精上人や日恭上人を謗法だと詈る学会、これこそ御都合主義の最たるものであり、頭破作七分の現証としかいいようがありません。

<牧口学会の実態は>
・命を賭するという正の部分もあったが、世相を無視して宗熱に突喊した似非信行という負の部分もあった。→ただし、後の戸田会長の懺悔(下記◆)と功績に鑑み、歴代上人も、正の部分のみを強調されていた。

・大部分の会員は退転し、組織は壊滅状態に→牧口学会総体としては、退転という最も避けなければならない謗法を犯したといえる。


<池田学会と牧口会長との関係は>
・池田学会の主張する牧口像(謗法厳誡)が正しかったとしても、牧口会長の精神は池田学会には伝わっていません。(<摂受謗法路線>参照)→一般論としても正しい師匠についた弟子が異流義を構えたり、親の信心を子が受け継がない場合があります。

・従って、牧口会長を如何に宣揚しようとも、そのことをもって現在の池田学会を正当化することはできません。→残念でした。(笑)

●「先生・・・」
 戸田は数珠を手にしたまま、ふり仰いだが、あとは言葉にならなかった。彼は、堀米尊師の前に手をついて、無言のまま動かなかった。堀米尊師は、彼の傍によって、痩せた手をのばし、戸田の手をとった。大御本尊の真ん前であった。戸田は、思わず両手でその手を握った。すると堀米尊師は、もう片方の手を、その上に重ねた。2人は、互いに抱擁するような姿で、戦友のように堅く握りあった。
 2人のあいだには、語るべき多くのことが溢れていた。だが、あまりの懐かしさに、その感慨は言葉にはならなかった。ただ、無言で堅く握っている手が、言葉以上の多くを語っていた。
 堀米尊師は、戦時下、総本山の中枢であり、宗門の矢面に立って戦ってこられたのである。特に、国家権力に対峙する一切の衝にあたり、骨身を砕いてきていた。
 戸田城聖は、学会の要として、あらゆる苦難を一身にあびてきていた。そして、弾圧の2年の歳月は、2人をまったく隔離していた。複雑怪奇ともいうべき時代の激流は、助けあい、呼びあう2人を、みるみる遠ざけてしまった。流れのうえには、誤解や曲解が流木のように、浮かんだり消えたりしていた
 後世の歴史家は、この昭和の最大の法難にあたって、勇敢に弾圧と戦った人は、2人いたというだろう。1人は、日蓮大聖人の法水を、微塵も汚すことなく護りきった、総本山側の堀米尊師、もう1人は、最大の講中である創価教育学会側の戸田城聖その人である―と。(中略)
〈※堀米尊師〉「戸田さん、いつ?・・・」
〈※戸田〉「おとといの夜、やっと保釈になりました」(中略)
「この戸田の生きているかぎり、断じて御本山を安泰にお護り申しあげます。ご心配くださいますな。ただ、出獄後、まだ事業の見とおしも得ませんので、しばらくの猶予をおねがいいたします。」
 僧俗一体の実は、2年ぶりで回復したのである。(『人間革命』第1巻「一人立つ」)
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 戸田会長自身が「(堀米尊師が)日蓮大聖人の法水を、、微塵も汚すことなく護りきった」と言っている。当然、「法水」とは唯授一人の血脈のことであり、池田学会が謗法を犯したと口汚く詈る日恭上人所持の法水のことである。ここでは一応堀米尊師のみが「宗門の矢面に立って戦って」こられたように述べているが、結局は御法主を初めとする宗門首脳の指示のもと行動されたのであり、あるときには御法主(日恭上人)自ら、当局に足を運び「(身延との)合同不承知」を宣言されたこともある。「国家権力に対峙する一切の衝」の内容は、池田学会が誹謗する神札の件、観念文の件等も含まれると考えるべきである。これら一切の宗門側の対応について戸田会長は「日蓮大聖人の法水を、、微塵も汚すことなく護りきった」といっているのである。
 尚、「(※戸田)おとといの夜、やっと保釈になりました」とあることから、保釈後、初めて宗門御僧侶に面会したのが、このときの会話であることが推測される。実は、このとき戸田氏は、日淳上人に戦時中に僧侶誹謗の罪を懺悔していたという証言がある(下記●)。「流れのうえには、誤解や曲解が流木のように、浮かんだり消えたりしていた」とは、このことを婉曲的に述べたものだろう。

◆堀米先生に、去年堀米先生を「そしった」罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。「法の師をそしり」し罪を懺悔しつつ「永劫の過去を現身に見る」と言っております、と(戸田城聖『獄中書簡』S19.9.6妻あて/『慧妙』H18.3.1)
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日淳上人誹謗を懺悔。仏法上、心から懺悔すれば罪障を消滅することができる。このことと、戦後の戸田会長の折伏活動および唯授一人の血脈に対する絶対的尊信の念(<戸田城聖の実像>参照)より、歴代上人は牧口会長に対しても正の部分を強調した讃歎の言を残されたといえよう。日亨上人が戦時下の学会弾圧を法難として賞賛されたのもその表れか。ただし、一般論としては、「世相を無視」(上記4●)し「官憲の横暴を徴発」(同)するような「似非信行の門徒」(同)が存在したとし、暗に学会を批判されている。尚、溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』によれば『若き日の手記・獄中記』(『獄中書簡』を納めたものか)は昭和45年に遺族が刊行。

●足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)






日淳上人の神道観

(<法蔵>H19.7.15)

【『誤ることなかれ』】
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 神道に於て神社神道宗派神道との二流があつて、前者は祖神崇敬を中心とし、後者は神道を宗教として立てるところに両者は全く趣を異にするといふのが学者の定説である。然るに近時神道家の間に神社神道を宗教的たらしめやうとする運動が擡頭(たいとう)しつつあるやうである。此は今日の国体精神の復興に刺激せられ国粋的純情の自然の趨勢(すうせい)として起り来るもの敢へて怪しむに足らぬところであつて、一般世人も暗々裡にかくの如き傾向にあるといへる。
 此れ等の所論に従へば日本は神国であり、世界無比の国である。然るに他国より輸入せられた神仏を崇敬して膝を屈するは恥辱であり、国体観念の混乱はこのことによつて醞醸される。苛(いやしく)も文化が他国と同等若くはそれ以上に達したる現在何を苦(ママ)んで他国の神仏を崇める必要があるか宜しく此等を排撃して神道に帰すべきであるといひ、而して此のために神道も此れ等の所依となるべく宗教的にならねばならぬといふ。而して又神道を宗教たらしむることの合理的なるについては神道は本来国家的倫理的宗教的の三つの要素を包含してをる。それ故此の宗教的要素を高揚して宗教とするも毫(ごう)も差支へなく当然であるといふ。
 此れについて吾人は前の他国の神仏を崇敬するを止めんとするは別途の意義もあり大いに賛するところである。由来かかる他国の神仏を立つることは往昔我が国文化が劣つてをつた時他国文化を崇拝するあまりに起つたことである。勿論此れは人情の然らしむるところ、今更とかくいふ必要もないが今日我が国が世界のどの国にも遜色なき文化をもち、しかも真の面目を宣揚して世界を導かんとする時に当って過去の残滓(ざんし)たるものを清掃して自家の天地を自覚し、決然立つべき時に於ては当然執(と)られねばならぬ処置である。このことはけつして感情上の議論ではなく、純粋理性の上から他国の神仏を批判する時到達するところなのである。
 しかし乍(なが)ら一方論者のいふ神社神道を宗教たらしめんとすることには一言しなければならぬと思惟する。神道が三つの要素を包含してをるが故に宗教たらしむることは差支へないといふは一往もっともの如くである。しかし乍ら此れは祖神を立つるところに自ら三要素が具足するのであつて宗教的の上に神があるのではない。此れが神道の根本義である。然るにその宗教的要素の高揚は必らず宗教的なる辺に神道を立つるといふことに結果する。若し然れば今日の宗派神道と何等撰ぶところがなくなるのである。祖神を立つるところ宗教的であるといふのと、宗教的なる辺に立つるといふのとは大した差違もなく考へられるが、しかしその結果より見る時大変な相違がある。而してこのことは神道の根本義を破壊するものである。
 神道が宗教として立てられることは宗派神道に見られる。而し此等がその教義を徹底して窮極(きゅうきょく)するときどうであるか。大概は神道の根本義たる祭政一致を没却し直接祭祀のことをなすが故に神の啓示は教祖教主が或は自己にありと信じ必然的に世間法の混乱錯雑を誘引するにいたる。このことは大事が中の大事である。
 西洋の神なるものは造化神であるかまた祖神なることに違いはない。彼等は此の神を宗教の上に信ずるがため、此れに影響せられて皆悪平等に堕するのである。その結果はどうであるかといへば西洋史の上に現はれてをる。今神道を宗教たらしむることは此の弊を踏襲することに他ならぬ。
 神道に於ては祖神を崇敬するところに宗教的要素があるのであつて、宗教的なるところに神道を立てないのが根本でなければならない。此の限界は一見不分明であるが、もつとも戒心すべきところである。(第65世日淳上人『大日蓮』S11.8/『日淳上人全集』136頁〜)
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【『神道の限界性に就いて』】
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 最近神道側から神社を以て宗教となし、之れを国教とせよといふ声が頻(しき)りに伝へられる。而してその論ずるところは神社以外の一切の宗教は非国家的であつて国体観念を破壊する誘引とこそなれ、豪(ごう)も涵養(かんよう)するものでないが、神社は国体の表現そのものであり、神人合一にこそ国家人としての体現があるとし、従来神道は教典を有せず三世を説かない等宗教としての要素を具備しないといはれるがけつして此見解が当つてをるものでないといふ。而して或は又神社は倫理的宗教的国家的の要素の上にあるものであるから宗教的面の高揚は少しも不都合でないとして主張するが如くである。
 宗教を国家の上から批判してその適合性によつて正邪を判断することは正当なことであり、日蓮大聖人は五綱の教判即ち教、機、時、国、教法流布の前後の五箇条を基準として宗教の正邪を判定なされてあるが此のうち国判がそれである。大聖人はこの国判によつて他一切の宗教は吾が国体に不適合であると断定せられてをる。神道側の主張は別な意味からではあるが国家を基準としてなさるゝ点は同じであり此は正当なことである。
 実際この国家を基準として現在行はるゝ宗教を見るとき吾が国体に適合するものはない。此点からいつて此等の宗教は否定されなければならない。或は此れに対して非常時に於て和を破ぶるが如き極論は避くべきでありといふものもあり、或は今日迄此等の宗教を信仰せるものの中にも日本精神を発揮せしものもあつたといふ理由をもつて抗議せんとするものもある様である。而し此等は誠に不徹底な言であつて非常時なるが故に国体に不適合なものは整理されねばならないしまたそれ等の宗教のうちに日本精神を発揮したものがあるといふもそれはそれ等の教法によつて体達されたものでなく天性の然らしめたのに他ならない。
 以上の理由によつて神道が宗教たり国教たらねばならぬといふことは一応首肯し得られやう。若しそのため必要ならば宗教的要素を補足するも可なりであつて、それは一切の宗教に於て見らるゝところであるから少しも差支へない。しかし乍ら神社を宗教たらしめた結果はどうなるであらうか。論者のいふ如く宗教として神人合一を庶幾(しょき)しその体現の上はどうなるであらうか。この事を考へる時到底此れ等の説を首肯することができない。神人合一の体現は必然的に世間法を混乱に導くことになる。今日不敬事件をもつて摘発を受けた宗教は皆神道に属するもののみである。その禍因(かいん)は他にもあらうが吾人は神道を宗教として信仰し、神人合一の結果当然堕入る結果が不敬となるものと思惟する。此ことは世間の識者に充分なる考慮を煩はさねばならぬところと思ふ。恰(あたか)も西洋の神なるものは造化神であるが祖先であることに相違はない、而して此れを宗教神として崇めるとき一切の人は平等であるといふ悪平等の思想が胚胎するその結果はどうであるか、西洋神が如実に之れを物語てをる。西洋の思想が基督教を産み出したといふも基督教が西洋思想を生み出したといふも結局同じことであつて危険なることに変りはない。
 考へてこゝにいたれば神社宗教論は国粋的純情のしからしむるところとしてその心情の辺は一応理解する事はできるが、その結果よりいつて到底賛ずる事はできない。神社はあくまで祖廟(そびょう)として世間法に属してその上に出世間法に跨(またがる)るものとしての立場を厳守しなければならない。それが神道の姿であり、本来の使命であつて此の範(のり)を超す時その面目を失ふ事になり弊害を醸(かも)すことになるであろう。(第65世日淳上人『大日蓮』S12.7/『日淳上人全集』164頁〜)
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【神社神道と宗派神道】
<神社神道>
[神社神道]
……祖神崇敬を中心とする。祖神を立つるところに自ら3要素(国家的倫理的宗教的)が具足するのであって宗教的の上に神があるのではない。此れが神道の根本義である。(日淳上人)
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「祖神崇敬を中心とする」「国家的」というから、これは国家神道のことである。

●それが宗教であるためには必ず本尊がある筈である。本尊のないものは思想であるか学であるに過ぎない。(『大日蓮』S10.12/『日淳上人全集』122頁〜)
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宗教は本尊をもって根幹とする。本尊とは「信仰者が供養し、礼拝・祈祷し、生命を委ねる対境」(『大白法』)である。日淳上人が神社神道を宗教でないとされた理由は、まさにこの点―個人の幸不幸に関わる本尊の有無―にあったといえよう。

◆国家神道(こっかしんとう)とは明治から大東亜戦争(太平洋戦争)の終戦までの間に日本政府の政策により成立していた国家宗教、あるいは祭祀の形態の歴史学的呼称である。「国体神道」・「神社神道」とも、また単に「神社」とも称した。(<Wikipedia>070712)

◆「国家神道」を宗教では無いとする説と宗教であるとする説がある。非宗教説は、敬神を国民の義務とし、この義務は道徳の範疇にあるので、敬神は宗教では無いとする説である。(<Wikipedia>070712)


<宗派神道>
[宗派神道]
……神道を宗教として立てる。直接祭祀のことをなすが故に神の啓示は教祖教主が或は自己にありと信じ必然的に世間法の混乱錯雑を誘引するにいたる。(日淳上人)



【日恭上人】
●畏(おそれおお)くも聖上陛下には昨冬12月12日伊勢神宮に御親拝と拝承し奉る、是れ赤子(せきし)たる我等国民の齊(ひと)しく恐懼(きょうく)感激する所なり。(第62世日恭上人=報国団結成の「祈願文」S18.1.15)
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日恭上人も国家神道の祖神崇敬自体については一往容認されていた。天皇がその祖先を崇敬すること自体は、仏教の教えにも適っている。

●當宗之立場より大聖人を本仏として人本尊と仰ぐなり 乍然是等は第一義の法門にして世間悉壇 所謂日本之国体より君臣之義よりすれば天照大神は 御皇室の御先租日蓮聖人は御臣下に在す故に宗租を本地と云ひ 天照○○を垂迹など云へば不敬に渡る事故言ふべからざる事と存候 甚だ乍略寸暇も無之最中御海容願上候 拙僧に対し責任ある身之上なるが故に時局柄手紙にては法義を論ずべからずと注意せられ候間此等之点に就而以後は他之方へ御照会願上候 右之次第に付是迄にて御断り申候(第62世日恭上人『特高月報』/『慧妙』H6?)
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これは、第62世日恭上人が小笠原慈聞師に宛てた書簡である。「大聖人を本仏として人本尊と仰ぐ」ことは「第一義の法門」であると断言されている。しかし、これを公言して神本仏迹論を否定することになれば「不敬に渡る事故言ふべからざる事」と仰せである。天皇の祖先を神と仰ぐ国家神道としては、神を仏の垂迹とする法門は受け入れられない。よって世間悉檀(世界悉檀)の上から、本地垂迹説の主張を控えられたものと拝する。



【牧口会長】
◆吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(中略)今上陛下こそ現人神であらせられる(昭和17年11月第5回総会『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
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「無条件で敬神崇祖」とは国家神道の教えである。ここに牧口会長が国家神道を容認していたことは明らかである。「神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない」とは、日淳上人が「宗教的の上に神があるのではない」として国家神道を容認された主張を参考にしたものか。それにしても、「神社は感謝の対象」「吾々が靖国神社へ参拝するのは」とは言い過ぎではないか。


日淳上人は神道を「神社神道」と「宗派神道」に分類し、前者は宗教的でないとして容認し、後者は邪宗教として排斥された。国家神道とは、天皇及びその祖先を神として敬うという理念(イデオロギー)であり、個人の具体的な幸不幸に関わる教義や祈念の対象としての本尊を持たない。その意味で宗教ではないのであり、その限りにおいて容認される。それに対して宗派神道は本尊(神体?)を持ち、それを信じることによって個人の幸不幸に関与する。だから邪宗教として破折排撃されるべきである。日恭上人を初めとする戦時下の宗門は、世間悉檀の上から、このような方針で国家神道に臨まれたものと拝する。







御書の削除

(『慧妙』H15.1.1ほか)

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院第二一七七号
昭和十六年八月二十四日 日蓮正宗宗務院
宗内教師殿
 今般上老会議ノ協議ヲ経テ参議會ニ諮問ノ上左記ノ條項決定候條御了知相成度候
        記
一 御書刊行ニ関スル件
 宗祖日蓮大聖人ノ御書ハ鎌倉時代ノ国情ノ下ニ御述作遊バサレシ為現下ノ社会ノ情勢ニ於テハ却ツテ宗祖大聖人ノ尊皇護国ノ御精神ヲ誤解スル者アルニ鑑ミ御書全集ノ刊行ハ今後禁止致シ本宗依用ノ祖書要典ヲ新ニ発行スルコト
二 垂迹説ニ関スル件
 本地垂迹ハ一般仏教ノ通途ノ説ニシテ宗祖已来日本国所立ノ仏法トシテ任ジタル本宗ハ第一義ニ於テ依用セザリシハ勿論ナレドモ方今世上ノ論議ニ顧ミ一層此点ニ留意徹底セシムベキコト
以上
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(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070623)

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宗門は、すでに昭和16年8月24日に「日蓮正宗宗務院」名で、「宗内教師」に対し御書全集の刊行を禁ずる院達を出し、本地垂迹説の使用自粛を通達しました。

 昭和16年9月29日日付「学第八号」。この公式文書の中で、宗門は、大聖人の御書の字句を14箇所にわたって削除することを要請しました。「宗務院教学部長」名で、「教師住職教会主管者宗教結社代表者」宛に『祖文纂要(そもんさんよう=52世日霑上人編纂(へんさん)の御書要文集)』の中から本地垂迹(ほんちすいじゃく)説に関する14ヵ所の字句を削除することを発表。
 「此の日本国の一切衆生のためには釈迦仏は主なり師なり親なり天神七代地神五代人王九十代の神と王すら猶釈迦仏の所従なり何に況や其の神と王との眷属をや」
 「太政入道隠岐の法皇等の亡び給ひしは是れなり此れは其れには似るべくもなし、教主釈尊の御使いなれば天照太神正八幡宮も頭を傾け手を合わせて地に伏し給ふべきことなり」
などのように国家神道を慮ってのものであった。だが、なかには、
 「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり上一人より下万民に至るまで之を軽毀して刀杖を加え流罪に処するが故に梵と釈と日月四天と隣国に仰せ付けて之を逼責するなり」
という、日蓮大聖人が末法の御本仏としてのお立場を示されたものもあった。
 国家神道では絶対的存在とされる天照大神や国主を「小神」「仏の所従」と表現されている部分を削除し、当時の教学部通達で、「法話講演等ニ引用セザルコト」と、一切の使用・言及を厳禁した。
 これらの所業は、弾圧を恐れて、大聖人が御本仏であることを否定した、ということに他ならない。
 宗門は、この御書の削除をおこなった時点で、宗祖日蓮大聖人、開祖日興上人に連なる仏弟子としての資格をみずから放擲してしまったといえる。
『地涌』第670号ほか)
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 まず御書の件とは、昭和16年8月、及び9月に、宗務院より御書全集(※準備中のもの)の刊行禁止と、それに代わり祖書要典を使用する件、また祖文纂要中の14書につき、部分的に字句の使用を控えるよう通達を行った件である。
 これらのうち、御書全集の刊行禁止については、宗務院通達中の「上老会議ノ協議ヲ経テ参議会ニ諮問ノ上左記ノ条項決定候」の文に注目しなければならない。すなわち、昭和16年の時点においては、宗門には、59世日亨上人、60世日開上人、61世日隆上人の3御隠尊猊下がおられた。まして御書全集刊行禁止など御書の件に関しては、日亨上人が学匠として権威をお持ちであり、当然、当局の命令を受け、かかる決定を御裁可なされたものと拝される。また祖文纂要中の御書要文14箇所についての文字削除についても、時局を鑑みた止むを得ざる決定であり、祖文纂要を再編纂する形をもって、当局の文字削除命令に応えるという、苦肉の策が拝せられるのである。これとても御隠尊並びに御当職日恭上人をはじめ、上老会議・参議会等、当時の宗門中枢の方々の決定であり、また、この具体的な文の削除に関する指導決定は日亨上人がなされたのである。(『離脱僧らの再度の邪難を破す』/『大白法』H14.9.1)
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 御書全集の刊行を停止し、御書の字句削除を発表した理由は、当時の国情により、誤解・反発を招かぬように、との配慮にすぎない。
 また、刊行を停止し字句を削除するといっても、「時代に適さぬから不要」としたのでもなければ、「御金言の内容を否定」したのでもない。法難を引き起こす口実を与えないよう、このように発表されたものである。
 なお、削除の対象とされた箇処は、一般的な本地垂迹説の説かれた箇処や、皇室が臣下に成敗された箇処などであり、日蓮大聖人の仏法の本質とはあまり関係のない部分ばかりである。
 創価学会が言い掛かりを付けている、「日蓮大聖人が末法の御本仏としての確信を述べられた」という『聖人知三世事』の箇処は、他の部分と同様に、神祇(じんぎ)観に関連することが説かれているから対象となったのであって、何も「御本仏としての確信」を否定したわけでも何でもない。
 事実、『撰時抄』の「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」の御文や、「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」等の、御本仏としての御確信を説かれている御文は、削除の対象には入っていないのである。
 また、この「削除通達」が、本当に本宗の僧俗によって実行されたのか、どうかも、現在ではわからない。
 というのも、冨士学林図書館に所蔵されている『祖文纂要』には、削除の痕跡(こんせき)など全く認められないからである。
 このことから推測すれば、他の僧俗においても、実際に削除を行なった人はまずいなかったであろう、と考えられる。
 つまり、この「院達」は、軍部の圧力を回避するための一時的な方便として、形どおり発表したにすぎないものであった、といえよう。(『慧妙』H15.1.1)

[画像]:昭和16年8月24日付「院第二一七七号」

[画像]:昭和16年9月29日付「学第八号」


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従来の御書の中から「本地垂迹説」の引用を禁止することが要請されているのです。これは、大聖人の本義である、「仏が本体、神はその影の姿」という内容の御文に触れることを禁止するものです。(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070623)
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●日本国は神国なり此の国の習として仏・菩薩の垂迹不思議に経論にあひにぬ事も多く侍るに・是をそむけば現に当罰あり、委細に経論を勘へ見るに仏法の中に随方毘尼と申す戒の法門は是に当れり、此の戒の心はいたう事かけざる事をば少少仏教にたがふとも其の国の風俗に違うべからざるよし仏一つの戒を説き給へり、此の由を知ざる智者共神は鬼神なれば敬ふべからずなんど申す強義を申して多くの檀那を損ずる事ありと見えて候なり(『月水御書』全集1202頁〜)
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「本地垂迹説」を「大聖人の本義」などと述べているが、これは「随方毘尼」の法門であり、本来は「少少仏教にたがふ」ことなのである。そのこともあってか当時の時局柄、無用の混乱を避けるために使用を控えたということである。

●開山上人御弟子衆に対するの日仍容預進退有り是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻177頁)
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 日寛上人は大聖人・日興上人時代の造仏については「是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり」と容認されている。すなわち、本来の化儀からみれば逸脱(謗法)であっても、「信者を将護」するために時機を鑑みて容認する場合もある、ということである。
 ここでは本尊としての仏像安置について「宗門最初なる故に」許されたのであるが、時代が下っても相応の寛容を示されることがある。それは、江戸時代に幕府の宗教政策によって種々の弾圧を受けたり、不如意を強いられた宗門僧俗の対応について御存知だった日寛上人が「開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し」(『当流行事抄』)と明言されているとおりである。

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昭和9年には、浅井要麟が一般読者の便を図って総ルビ付きで発刊した『昭和新修日蓮聖人遺文全集』が、読み易さが仇となって内務省警保局の目に留まり、不敬字句の削除を命じられていたことが『東京日日新聞』の報道で明らかとなり、日蓮遺文不敬削除問題が起こる。これは徐々に本格化する日蓮遺文削除改訂と曼荼羅国神勧請不敬問題の始まりであった。(<教化情報第12号「現代教学への検証」>070620)

◆38(※昭和13)年3月には大阪憲兵隊の特高課長が、大阪のキリスト教牧師たちに、天皇とキリスト教の神との関係、勅語とバイブル、神社参拝などについて一三項目の質問状を発して回答を求めており、4月には憲兵隊から教会にたいして、「キリスト者がわが国体に対して忠良であるなら、教会に大麻を奉斎してもらいたい」と申し入れた。立教大学では、配属将校が、礼拝堂の十字架を破壊する事件もあった。(<法政大学大原社研_宗教統制>070620)

◆39(※昭和14)年3月に成立し40(※昭和15年)年4月から施行された「宗教団体法」は、「宗教団体または教師のおこなう宗教の教義の宣布もしくは儀式の執行または宗教上の行事が安寧秩序を妨げ、または臣民たるの義務に背くときは主務大臣〔文部大臣〕はこれを制限しもしくは禁止し、教師の業務を停止しまたは宗教団体の設立の認可を取り消すことを得」(第16条)ときびしく規定し、また司法省の執務資料によれば「法律の定むる各種の規定に拠るべきことはもちろんであるがその根本理念はあくまでも民族的信念たる皇道精神に基礎を求めねばならぬと確信する。右の皇道精神とは国家皇室を中心とする臣民道を指すのであって、これと相容れない宗教は必ずや皇国において発展することは出来ないであろう」とされ、事実上信教の自由は著しく拘束されるにいたった。(同)

昭和15年3月より福田素剣主筆の『皇道日報』が日蓮宗が逆賊であるとして「大不敬大反逆・日蓮宗抹殺建白書」キャンペーンを行っていた。翌年の1941年(昭和16)4月、曼荼羅国神不敬事件により本門法華宗が弾圧を受け、6名が検挙されている。これを受けて6月、日蓮宗は宗綱審議会を開き、自主的に日蓮遺文2百8ヶ所を削除する条案を決定する。9月、文部省の大政翼賛を計る宗派合同方針に則り、3派合同の新制日蓮宗初代管長に酒井日慎が就任する。この年の12月に日米開戦となり、日蓮宗は戦時体制事務局を設置し、仏教界全体も宗教報国の戦時体制に入っていく。(<教化情報第12号「現代教学への検証」>070620)

 宗教団体法の施行前後からは、いっそう宗教への弾圧は厳しくなる。キリスト教では本尊とも言うべき十字架が破壊され、時局に迎合していた日蓮宗でさえ、外部から批判されるという状態であった。このような中、日蓮系団体の代表格とも言うべき日蓮宗が、昭和16年6月に「自主的に日蓮遺文2百8ヶ所を削除する条案を決定」したのであった。「自主的」とはいっても、既に昭和9年の時点で「不敬字句の削除を命じられ」た経緯と国家統制の強化を考えれば、強制される前に行ったということであろう。
 当然、宗内にいて日蓮宗と連携していた人々は、宗門に対しても御書削除を有形無形の圧力をもって要求したであろうことは、容易に推測できよう。このような時局の変化を鑑みてみれば、宗門としても形だけでも日蓮系教団の動きに同調せざるを得なかったのであろう。(法蔵)





観念文の改訂

(『慧妙』H15.1.1ほか)

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初座 天拝
謹みて皇祖天照太神 皇祖神武天皇 肇国以来御代々の鴻恩を謝し併せて皇国守護の日月天等の諸神に法味を捧げ奉る希くは哀愁納受を垂れ給え
◆三座 仏宝僧宝拝
久遠元初 内証本仏 南無日蓮大聖人 大慈大悲 御報恩謝徳御供養の御為に 南無妙法蓮華経
血脈付法の大導師 御開山日興上人 御報恩謝徳御供養の御為に 南無妙法蓮華経
第三祖 閻浮の御座主 新田卿阿闍梨日目上人 御報恩謝徳御供養の御為に 南無妙法蓮華経
(「日蓮正宗勤行式」/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS060907)

[画像]:「日蓮正宗勤行式」(『慧妙』H23.6.16)
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宗門は昭和16年8月22日、皇国史観に基づき、初座の観念文を中心に改竄(かいざん)を行ない、「皇祖天照大神」「皇宗神武天皇」に始まる代々の天皇に対する感謝を明記した。国家神道に領導(りょうどう)された国家権力に屈して、観念文を改竄するという大罪を犯した日蓮正宗は、宗教的にはもう骨抜きにされたも同然で、教義に違背し、ただひたすら大政翼賛を推進、戦争協力を行なった。
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 当時の宗門が行なった御観念文の改訂は、世情を考え、仏法に違背しない、許容範囲内での改訂である。したがって、「国家神道に領導された国家権力に屈し」云々という学会の疑難は、まったくの的外れである。
 まず「皇祖天照大神・皇宗神武天皇」等の語であるが、『神国王御書』に
 「神と申すは又国々の国主等の崩去し給へるを生身(しょうじん)のごとくあがめ給う」(御書1298頁)
と御教示のように、大聖人は、国王(天皇制の時代ならば天皇)が崩御(ほうぎょ)した後、天界に生じて善神となることを明かされている。つまり、日本でいえば、天皇家の祖先(皇祖)が天照大神等の諸神として善神に連なることは、法義上当たり前のことであって、邪義でも何でもない。
 諸天善神を単なる"宇宙に具(そな)わる働き"としか見られない、創価学会の浅薄な生命観、また崩御した国主を諸神とする御文証すら知らずに「御書根本」と喚(わめ)く不勉強ぶり、大いに笑うべきであろう。
 さて、当時の御観念文は、さらに続けて「皇国守護の日月天等の諸神に法味を捧げ奉る」となっているが、諸天善神は、法華守護の働きと、国土守護の働きを兼ね備えているのであって、その文証は御書中にも繁多である。
 当時、日本は天皇制であり、まさに「皇国」と称していたのだから、「皇国守護の日月天等の善神」とは、国土守護の諸天善神であって、これまた邪義でも何でもない。
 また、2座・3座等の御観念文も改訂になっているが、大御本尊はあくまでも「本門戒壇の大御本尊」であり、日蓮大聖人への讃文は「久遠元初内証本仏南無日蓮大聖人」となっている。
 すなわち、本宗において第一義であるところの、「本門戒壇」「内証本仏」との讃文は、軍部権力の圧力が高かったこの時代においても厳然としており、本宗の正義を示しているのである。
 以上、日蓮正宗の法義を研鑚すれば、これらの御観念文の改訂が、あくまでも仏法上許される範囲内での改訂であることが理解されるのであり、「国家権力に屈し」たとの疑難は、学会本部の無知のなせるわざである。(『慧妙』H15.1.1)

●国主をたづぬれば(中略)地神五代の第一は天照大神(中略)人王は大体百代なるべきか。其の第一の王は神武天皇(『神国王御書』御書1296、全集1516)

●但し日本国は神国なり此の国の習として仏・菩薩の垂迹不思議に経論にあひにぬ事も多く侍るに・是をそむけば現に当罰あり、委細に経論を勘へ見るに仏法の中に随方毘尼と申す戒の法門は是に当れり(『月水御書』御書304、全集1202)

神と申すは又国々の国主等の崩去し給へるを生身のごとくあがめ給う(『神国王御書』御書1298、全集1518頁)


また、国家権力に屈してなどいなかったことについては、『人間革命』を挙(あ)げて破折としよう。
◆さらに、これよりまえ、猊下(※日恭上人)はお1人で文部省を訪れた。身延との合同問題が、国家権力の強圧のもとに、実行にうつされるばかりになっていた。猊下は、単身、当局に向かって「合同、不承知」を、厳然と宣言して帰られたのである。日蓮大聖人の、正法正義を継承する本宗は、断じて邪法邪義たる身延をはじめ、いかなる宗とも、絶対に合同はせぬ…と。その毅然(きぜん)たる態度、迫力に、役人たちは驚いた。なおも猊下は、たとえいま、頚(くび)を切られてここに死すとも合同せず、と叫ばれて、ここに正宗の法水を護(まも)りぬかれて帰られた。じつに、日蓮大聖人の、幕府権力に対決した時のお姿が、そのまま拝されるのである。(『人間革命』)
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 この『人間革命』の記述は、当時の史実に基づいており、まさしく日恭上人が身命を賭(と)して正法正義を護られたからこそ、日蓮正宗が現在まで続いており、また創価学会も興隆してこられたのである。どこに批判の余地があるだろうか。
 現在、学会では、「戦前の宗門は謗法だらけ」「宗門は権力に諂(へつら)い法義を曲げた」等の邪難を浴びせているが、この文章にみるごとく、我が日蓮正宗宗門は、法体と法義を厳格に守っていたのである。(『慧妙』H23.6.16)

★御観念文の改変や昭和17年10月の神宮遥拝に関する文部省の通牒については、その以前から、宗門と政府軍部との折衝があったことと無関係には論じられない。当時の日本は軍国化の真っ只中にあり、昭和15年施行の宗教団体法に基づき、殊に軍国主義的色彩の強かった日蓮各門下において、強力に合同政策が押し進められていたのである。これに対し、日蓮正宗においては昭和16年3月10日、僧俗護法会議を開催し、身延派など日蓮宗との合同は、これを断固拒否したのである。かかる状況に鑑み、徒に他の瑣末な事項をもって当局を刺激し、身延派との合同の強制執行などという事態に至ることだけは何としても避けなければならない状況があった。そこにこれらの通牒などを敢えて拒否しなかった理由が存する。(『離脱僧らの再度の邪難を破す』/『大白法』H14.9.1)


『慧妙』では(中略)「当時、日本は天皇制であり、まさに『皇国』と称していた」と嘯いているが、皇国と称していたのは明治時代からである。(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS060907)
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「当時、日本は天皇制であり、まさに『皇国』と称していた」のは事実である。明治時代に使用しなかったのは国家神道の強制が厳しくなかったからである。国家統制が厳しくなった戦時下だからこそ、随方毘尼の上から「皇国」の語を用いたまでである。


1)初座天拝で「皇祖天照大神」「皇宗神武天皇」を初め、歴代天皇に敢えて「感謝」をしている点(中略)
1)について、(中略)要するに、軍部政府の弾圧を恐れて、教義を改変して御観念文を改竄したのである(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS060907)
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◆吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(中略)今上陛下こそ現人神であらせられる(昭和17年11月第5回総会『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
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牧口会長は自分の言葉で、神社参拝を容認し、わざわざ書籍として出版している。"感謝のためなら神社に参拝してもよい"これが牧口会長の指導でした。牧口会長こそ「軍部政府の弾圧を恐れて、教義を改変」したのではないか(笑)。
[参拝]=神社・寺にお参りして拝むこと(『新明解国語辞典』第4版)


2)日興上人に「南無」していない
2)については、何ら反論をしていない。否、反論不能なのである。「僧宝の日興上人」を尊崇の対象にしていない邪義を構えている。三宝破壊は誰の眼から見ても明らか!(中略)要するに、軍部政府の弾圧を恐れて、教義を改変して御観念文を改竄したのである(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS060907)
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「仏宝僧宝拝」「血脈付法の大導師」「御報恩謝徳御供養の御為に」の語は、日興上人の内証即大聖人であることを示すものであり、当然日興上人にも「南無」していることになる。しかし略しているだけのことである。そもそも大聖人を本仏とし南無しているのだから、歴代上人に「南無」を冠していないからといって「軍部政府の弾圧を恐れて、教義を改変」したことにはなるまい(笑)。

2●凡(およ)そ謗法とは謗仏・謗僧なり三宝一体なる故なり(『真言見聞』全集142頁)
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観念文に「仏宝僧宝拝」とあるように、「仏宝」とは大聖人、「僧宝」とは日興上人や日目上人である。しかして「三宝一体」故に仏宝と僧宝は一体である。

3●問う、三宝に勝劣ありや。答う、此れ須(すべか)らく分別すべし、若し内体に約さば実に是れ体一なり。所謂法宝の全体即即ち是れ仏宝なり。故に一念三千即自受用身と云い、又十界具足を方に円仏と名づくと云うなり。亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也(第26世日寛上人著『三宝抄』/歴代上人全書4−392)
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ここでいう法水写瓶の義が日興上人に限るものでないことは、以下の御指南に明らか。↓

4●目師より代々今に於て、二十四代金口の相承と申して一器の水を一器にうつすが如く云々(第26世日寛上人『寿量品談義』/『富士宗学要集』第10巻131頁)
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真の「三宝一体」義かどうかは、僧宝に重々の総別のある中で、唯授一人血脈相承の有無が分岐点であるといえる。

5●日興上人已下代々も亦爾なり、内証に順ずる則んば仏宝なり、外用に順ずれば則ち僧宝なり(第31世日因上人御消息 金沢妙喜寺蔵/<宗門>WS)
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仏・法・僧は、外用の上からは別であるが、内証の上からは一体なのである。

6●嗚呼(ああ)代々の貫首即日蓮日興の尊語をいかにせんや。(第59世日亨上人『富士日興上人詳伝(下)』274頁)


3)日目上人に「南無」していない上、歴代上人を省いている
3)「創価学会勤行要典」作成時に、日蓮正宗は「日目上人に『南無』を冠していない、歴代上人が省略されているので、教義改変の大謗法」と主張するが、無意味な反論であることは明白。(中略)要するに、軍部政府の弾圧を恐れて、教義を改変して御観念文を改竄したのである(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS060907)
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日目上人については上記日興上人と同様である。「歴代上人を省いている」というが、観念文になくとも、各家庭の過去帳に基づき5座において、その日御命日忌に当たる上人に、御報恩謝徳申し上げている。「無意味な反論」をした事実はない。そもそも学会の観念文に歴代上人が記載されていないのは削除であって「省略」ではない。唯授一人の血脈によって宗祖の内証が歴代に伝持されているとする宗門と、唯授一人の血脈を否定する学会では、仮令観念文に共通部分があったとしても意義がまったく異なるのである。

●南無仏・南無法・南無僧とは若し当流の意は(中略−仏宝、法宝を挙げたあと)南無本門弘通の大導師・末法万年の総貫首・開山・付法・南無日興上人師、南無一閻浮提座主・伝法・日目上人師、嫡々付法歴代の諸師(第26世日寛上人『当家三衣抄』/『富士宗学要集』第3巻238頁)
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かつて学会員は、文中、「嫡々付法歴代の諸師」に「南無」を冠していないことをもって"日道上人以下は南無の対象ではない"と批判したことがある。しかし、この御文は三宝を挙げられたものであり冒頭に「南無僧」とあるのだから、「嫡々付法歴代の諸師」に「南無」が冠されていないのは単純に省略されているに過ぎない。

●南無法水瀉瓶唯我与我御開山白蓮阿闍梨日興上人 南無一閻浮提之御座主新井田卿阿闍梨日目上人日道上人日行上人等正統御代々の尊上師 御威光倍増御報恩謝徳御供養之御為南無妙法蓮華経々々(「興師御門徒朝夕勤行観念文」嘉永4〈1851〉年/『宗旨建立と750年の法灯』109頁)
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ここでは日興上人・日目上人に「南無」を冠し、日道上人以下には省略されている。

●南無第三祖日目上人(「第三祖日目上人御画像」第32世日教上人御開眼=宝暦5〈1755〉年/『宗旨建立と750年の法灯』30頁)



以上(2●〜6●含む)のように宗門は三宝一体の上から、歴代上人の内証即大聖人と考え、歴代上人に南無申し上げてきた。ときとして観念文に「南無」の語がない場合もあるが、省略しているに過ぎない。そもそも大聖人を本仏とし南無しているのだから、歴代上人に「南無」を冠していないからといって「軍部政府の弾圧を恐れて、教義を改変」したことにはなるまい(笑)。



<学会の邪説>
◆吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(中略)今上陛下こそ現人神であらせられる(『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
◆吾々は現在の天皇陛下以外にどなたに対し奉って祈願すべきでありましょうか(「訊問調書」/『牧口常三郎全集』第10巻207頁)
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「靖国神社へ参拝」、「天皇陛下」への「祈願」、こんな法門が御書にあるのか?





開戦直後の訓諭


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訓諭第二十九号
宗内一般
 本日米国及英国ニ対シ畏(かしこ)クモ宣戦ノ大詔(たいしょう)煥発(かんぱつ)アラセラレ洵(まこと)ニ恐懼(きょうく)感激ニ堪(た)エズ(中略)本宗宗徒タルモノ須(すべから)ク
聖慮(せいりょ)ヲ奉体(ほうたい)シ仏祖ノ遺訓ニ基キ平素鍛練ノ信行ヲ奮(ふる)ヒ堅忍持久百難ヲ排シ各自其ノ分ヲ竭(つく)シ以テ前古(ぜんこ)未曾有ノ大戦ニ必勝ヲ期セムコトヲ
右訓諭ス
 昭和十六年十二月八日
日蓮正宗管長 鈴木日恭
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<日蓮正宗問題研究>WS070623)

[画像]:訓諭

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昭和16年12月8日付「訓諭」。鈴木日恭法主が、宗内一般に与えたもの。戦争が始められたことを喜び、「恐懼(きょうく)感激ニ堪(た)エズ」とまで述べています。天皇を現人神(あらひとがみ)と認め、その天皇のもと、日本の陸海軍が多大な「成果」を挙げたことをも「我等感謝ニ堪(た)エズ」と、感謝の念に打ち震えて述べています。中でも、注目すべきことに、日恭法主は、大聖人を戦争推進に利用して、「大聖人の本意を拝して、必ず戦争に勝利すべく、日々、鍛錬を怠らぬよう」との旨を、全信徒に要請しています。いわく、「聖慮(せいりょ:大聖人の教え)ヲ奉體(ほうたい)シ仏祖ノ遺訓ニ基キ平素鍛錬ノ信行ヲ奮ヒ堅忍持久百難ヲ排シ各自其ノ分ヲ竭(つく)シ以テ前古未曾有ノ大戦ニ必勝ヲ期セムコトヲ」と。しかし、現宗門は、平然と言っています―「宗門に格別の戦争責任はない」と。「大聖人の仏法を護り抜いた」と。(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070623)
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これは戦時下という特殊な状況に鑑み、当時の宗教団体その他の各種団体が行っていた戦争翼賛の一般的形式的儀礼の一種に過ぎない。


>大聖人を戦争推進に利用して、「大聖人の本意を拝して、必ず戦争に勝利すべく、日々、鍛錬を怠らぬよう」との旨を、全信徒に要請しています。
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当該文書が、内外からの批判をかわすための形式的通知であってみれば、「大聖人を戦争推進に利用」ではなく、むしろ「戦争推進」を利用して信行倍増を促したというべきである。しかしまた、起こってしまった戦争に反対することなど、当時としては不可能であった。それならば、戦勝を願うことは国民感情として当然である。牧口会長や戸田会長も戦勝を願い、そのために国家諌暁を訴えていたではないか。

●(※牧口会長:)国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)

●戦場に於ては悉(ことごと)く大善生活法の実践であり、それによつてのみ勝利が得られ、これがなくしては必ず惨敗をするのである。(S16.10.20「価値創造」第3号/『牧口常三郎全集』第10巻18頁)
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「大善生活法」を戦争推進に利用しています。(笑)

●東亜共栄圏乃至世界列国にこれからの新秩序の中核として吾等が実証によってこゝに提供せんとする最高価値の大善生活法は、人生の理想として何人も渇望する所のものであり、仏教の極意たる成仏法こそ之に応じた妙法であり、又「惟神(かんながら)の道」の真髄も之でなければなるまい。所謂(いわゆる)皇道精神もこれ以外にあるべきはない(S16.8.20「大善生活法の提唱」『牧口常三郎全集』第10巻9頁)
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「大善生活法」=「仏教の極意たる成仏法」=「惟神の道の真髄」=「皇道精神」? 戦争推進の精神的支柱は国家神道であったが、これなども「ふうふうさん」の見解では、皇道精神高揚に仏法や価値論を利用していることになるのか(笑)
[惟神の道]かんながら-のみち=神代から伝わってきて、神のみこころのままで人為の加わっていない道。神道(しんとう)。〔近世、国学者が用いたことに始まる〕(『大辞林』)


>天皇を現人神(あらひとがみ)と認め
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これは何を根拠にしているのか。他人のことを云々する前に、自分達の組織のことを糾弾しなさい↓

●万世一系の御皇室は一元的であって、今上陛下こそ現人神であらせられる。即ち天照太神を初め奉り、御代々の御稜威は現人神であらせられる今上陛下に凝集されているのである。されば吾々は神聖にして犯すべからずとある「天皇」を最上と思念奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。「義は君臣、情は父子」と仰せられているように、吾々国民は常に天皇の御稜威の中にあるのである。恐れ多いことであるが、十善の徳をお積み遊ばされて、天皇のお位におつき遊ばされると、陛下も憲法に従い遊ばすのである。即ち人法一致によって現人神とならせられるのであって、吾々国民は国法に従って天皇に帰一奉るのが、純忠だと信ずる。(S17.11『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻363頁)
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「人法一致」などという語をつかって、宗義にはない思想を展開してまで、皇国思想におもねる。


>現宗門は、平然と言っています―「宗門に格別の戦争責任はない」と。
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厳しく言えば、戦争責任は当時の国民や、ほとんど全ての団体にあった、ともいえる。しかし、当時の宗門が、宗教団体として突出して戦争に協力した訳ではない。

●1941年(昭和16)12月8日に、米英両国に対して宣戦を布告する詔書が渙発されたので、文部大臣の訓令に依って、同日付けで管長金光攝胤の諭告が達示された。(<金光教が発した通牒等>/<金光教>WS070625)
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同様の訓諭が同日に金光教からも出されていた。これについて金光教では「文部大臣の訓令に依って」「達示された」と説明している。ということは、当該訓諭は宗門において自発的に出されたものではなく、当局の指示に基づいて他の宗教団体と歩調を合わせるために形式的に出されたことが分かる。

 学術的にも、戦時下の宗教団体の戦争協力について論じられている。その中で、日蓮正宗の戦争協力を取り上げている事例など、ほとんどないといってよい。インターネットで検索しても、宗門の戦争協力を批判しているサイトは、決まって学会関係者が主催するものである。
 学会員の中には"宗門が批判されなかったのは学会が弾圧された歴史のおかげ"などとと主張する者もいるようだが、根拠のないことである。真面目な(特定の団体を攻撃するために作成されたのではない)研究では、戦争協力についても、弾圧の事実についても客観的に提示している。だから、宗門の戦争協力が突出しているなら、そのような指摘があるはずである。学会のような弱小団体の弾圧があったことで宗門の戦争協力が矮小化されるなどということはありえないのである。

●大東亜戦争に入ると各宗派は競うように「戦時布教方針」をたて、勤労報国隊や軍費献納運動に走った。各宗教宗派の独自性とヒューマニズムは見失われ、戦争協力の翼賛宗教に転落していった。みんなが知っているところだ。(『月刊住職』H8.4)

●(※国家神道は)自らを「超宗教」の高みに祭り上げ、他の宗教は国家神道を侵さない限りにおいてのみ存在を許す、という排他性・偏狭さが実際だった。(<2002年度 カトリック社会問題研究所夏期セミナー>)



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日蓮正宗(以下、宗門)が今日まで重ねてきた悪事の中で、最悪のもののひとつが、第2次世界大戦への積極的な加担でした。これは、SGIメンバーであるか否かを問わず、現在の全世界から糾弾されるに十分な対象と言って差し支えありません。宗門による積極的な戦争への加担を明示する史料は、膨大な数に及びます。(中略)
宗門における戦争協力は、当時、群を抜いて突出したものであり、全国民の間で、まぎれもなく「米英撃滅の大いなる模範」であったと言えます。現在残っている数多くの史料が、それを裏付けています。それにも拘わらず、宗門には、平然と「日蓮正宗の戦争加担は、国民一般の感覚以上に突出していたとはいえない」と述べている現状があります。(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070623)
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 「宗門における戦争協力は、当時、群を抜いて突出」などと断言するからには、全国的規模において、他の諸団体、少なくとも宗教団体の動向を比較した客観的資料を提示すべきはずである。しかし、そのような資料はまったく提示せずに、日蓮正宗の資料のみを取り上げて、このような主張を断定的に行っているのである。
 このような主張に、学問的科学的価値のないことは勿論だが、それだけでなく名誉毀損の可能性大である。
 御本人は"客観的資料"に基づいて論理的に導き出した当然の結論のように思っているのであろう。しかし、実際には自己の願望に基づく牽強付会の論に過ぎなかったのである。これは、"学会を破門した宗門憎し"の個人的感情が、無意識に、理性的思考判断を鈍らせてしまった結果、なのかも知れない。(<宗教界への弾圧と戦争協力>参照)

◆現人神を国の頂点に戴いた国家神道を基となす国家は、その戦争目的遂行のために、仏教諸派に金、物資、人を調達させたのであった。日蓮正宗も、時代のすう勢とはいえ、その一翼をになったわけである。(学会側怪文書『地涌』第34号H3.2.3)
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宗教界が戦争協力を強いられたのは「時代のすう勢」であり、宗門もその「一翼をになった」だけのことである。多くの学会員が利用している『地涌』でさえ、宗門の戦争協力が「群を抜いて突出」などとは述べていない。



【戦争翼賛する牧口学会】
学会は戦争に反対して弾圧されたのではない。戦時下の学会は、紛れも無く戦争翼賛団体であったのだ。以下の言動に対する総括は未だにない。それどころか、当時から反戦団体であったかのごとく言いふらしているのが池田学会であり、二重に悪質である。

●若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(T5「地理教授の方法及内容の研究」/『牧口常三郎全集』第4巻273頁)
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"外敵"に対する防御のみならず、日本の権勢拡大のためにも弱い国家に対して「力」を使え、と力説

●創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁/『慧妙』H17.11.1)
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創価教育学会が、、当初から反戦・平和を唱え、天皇制を批判していたのなら、軍人や植民地支配の最高責任者に顧問就任を要請するはずなどなく、また軍人らも、要請されたとしても、それを承(う)けようはずがない。

●最近、文部省が軍事訓練を課したるは、近ごろの大できである。……何という、今の非常国家に適切の忠告であろう(牧口常三郎「『光瑞縦横談』と教育・宗教革命」S11/『フォーラム21』H14.3.15)
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「軍事教練」の義務化を賞賛する牧口に、軍国主義に反対する思想があったとはとうてい言えない。牧口会長は、戦争に反対するどころか、教育の分野においても戦時下に即した対応の必要性を認めていたのである。

●大善生活は個人主義生活や独善主義の生活ではなく、まして臆病なる寄生主義の生活でもなくて、勇敢なる全体主義の生活なることが解るであらう。全体主義とはいへ己を忘れるが為に、云ふべくして行はれないやうな空虚なる偽善生活ではなく、自他共に共栄することによって初めて、完全円満なる幸福に達し得る、真実なる全体主義の生活のことである。全体のためと共に、各個人にもその所を得しめる皇道精神の理想と一致することが知れるであらう(S16.10.20「大善生活法即ち人間の平凡生活に」『牧口常三郎全集』第10巻14頁)

●戦場に於ては悉(ことごと)く大善生活法の実践であり、それによつてのみ勝利が得られ、これがなくしては必ず惨敗をするのである。(S16.10.20「価値創造」第3号/『牧口常三郎全集』第10巻18頁)

●(※宮城遥拝・黙祷の後、野島辰次理事「開会の辞」)大東亜戦開始以来の戦果は、法華経の護持国家なればこそであります。昨夜のラヂオ放送の如き余裕下に、今日総会を開くのは感激の極みであります(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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大東亜戦争(太平洋戦争)で赫々たる戦果があがっているのは、日本が法華経の護持の国であればこそであり、勝利の戦果を聞く時に総会を開催することは感激の極みだというのである。宮城遥拝に次いで首脳幹部が大東亜戦争の戦果を賞賛する。ここには侵略戦争に反対したという事実も、軍国主義に抵抗した事実も全く見あたらない。あるのは侵略戦争に迎合協力する体制翼賛団体としての創価教育学会の姿だけである。

●(※戸田理事長が披露した歌=幹部会員・四海民蔵作詩)男だ 日本人だ 日蓮正宗の信者だ 栄光ある生活改善同盟の戦士だ 大君のかがやく御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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「大君の御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む」とは、大東亜共栄圏の建設を目指した軍部政府のアピールそのものである。

●(※岩崎洋三理事)我々は大東亜戦争を戦ひ取っている、日本帝国の銃後の一員として課せられた一大使命を発見する者であります。産業報国が然り、職域奉公が然り貯金報国が然り簡素の生活が然り、而し斯る一通りの事に依って銃後の使命足れりとする創価教育学会の会員が万一ありとすればそは誤れるの甚しき物であります。然らば我等の使命は何ぞや。折伏之のみであります。折伏に於て此の幸福の生活を世間に延しひろめて、不安と疑と嫉妬と排斥ときづなと権謀の世界の消へ去った時こそ、たとへ何年でも大東亜共栄圏を戦ひ取る迄がんばり抜く銃後が築かれるのである(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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八紘一宇の思想に基づく大東亜共栄圏を建設するために、通り一遍の協力のみならず、「大東亜共栄圏を戦ひ取る迄がんばり抜」ける優秀なる「銃後の民」を築くのが、創価教育学会員の一大使命だというのである。創価教育学会の実態が、創価学会の言う「侵略戦争に反対」する「反戦・平和の団体」ではなく、軍国主義体制に迎合する体制翼賛団体であったことは、第4回総会での一連の幹部発言に照らせば明瞭である。

●「皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る」といふ剣道の真髄を、実戦に現はして国民を安堵(あんど)せしめられるのが、今回の日支事変及び大東亜戦争に於て百戦百勝の所以(ゆえん)である。それは銃後に於けるすべての生活の理想の要諦でもある(S17.5「大善生活実験証明の指導要領」『牧口常三郎全集』第10巻129頁)

●(※理事の1人)いまや、島国日本が北はアリューシャン群島方面より遥(はる)かに太平洋の真ん中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、さらに南洋諸島を経て西は印度洋からビルマ支那大陸に、将又(はたまた)蒙疆満州に至るのは広大な戦域に亘り、赫々たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問わず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐らくが戦場精神によって一丸となり、只管(ひたすら)に目的達成に邁進しつつある(創価教育学会第5回総会『大善生活実証録』S17.12.31発行)
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[聖戦]=宗教的に神聖とみなされる目的のために戦われる戦争。また、正義の戦い。(三省堂『大辞林』第2版)

●(※牧口会長)森田君、しっかりやってきて下さい。日本の民族は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、搭乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。(中略)この大東亜戦争は、1年の後か、2年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有り難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺身するから、森田君は御本尊様に一切お委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)
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これは、終戦後に出版されたものである。戦後の日本社会は反戦・平和思想が広く浸透しており、創価学会もその時流に乗り、反戦・平和を前面に掲げて活動している。そのような中で、池田学会は自己正当化のために"牧口会長は反戦論者であった"かのように喧伝している。しかし、戸田会長は、そのようには牧口会長のことを描いてはいなかったのである。戸田会長が描く牧口会長は「日本の民族は勇敢」であるから「米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させた」と、国粋主義者のような言動をとり、出征する会員に対して「前線で悔いのない働き」をするように激励していたのである。これは、終戦後の反戦思想の普及した時代に書かれたものであり、決して"会員擁護のための方便"などではない。

●(※牧口会長)国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)

●洋三(牧口会長の三男、享年38歳)戦死の御文、(中略)病死にあらず、君国のための戦死だけ、名誉とあきらめ唯だ冥福を祈る(「獄中書簡」『牧口常三郎全集』第10巻300頁)
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これを、家族を守り検閲を逃れるための方便とすることはできない。なぜなら、牧口氏の他の獄中書簡には戦争翼賛、皇国讃歎の記述はないからである。つまり、一々君国賛美の記述がなくても検閲は通っていたのである。そもそも妻子を守るために真意を隠すような態度で「反戦思想を貫いた」などといえるのか?






神宮遥拝


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院第二三二八号
 昭和十七年十月十日
日蓮正宗宗務院
 住職教師教会主管者殿
今般文部次官より官文三三四号を以て別記の通り通牒有之たるに付御承知の上其趣旨を檀信徒一般に徹底せしむる様周知方可然御配意相煩はし度
官文三三四号
文部次官印
 日蓮正宗管長殿
 神嘗祭当日神宮遥拝に関する件
神嘗祭当日遥拝時間の設定に関しては客年十月八日付官文三七八号を以て通牒致したる処聖戦下愈々神嘗祭ノ真意義を周知徹底せしむるの要有之付貴(学、校、所、会)職員をして当日午前十時を期し一斉に各在所に於て神宮を遥拝せしむる様可然御配意相煩度
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(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070623)

[画像]:「院第二三二八号」を伝える『大日蓮』

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 さて、昭和17年10月10日の院達は、日蓮正宗の「住職教師教会主管者」宛に出されたもので、文部次官より日蓮正宗管長宛に「通牒」があったことを述べ、
 「趣旨を檀信徒一般に徹底せしむる様周知方可然御配意相煩はし度」
と、各末寺での檀信徒への徹底を通達している。
 さてその宗務院を経て僧俗に周知させられた「通牒」の内容は、次のようなものであった。

◆神嘗祭当日神宮遥拝に関する件
神嘗祭当日遥拝時間の設定に関しては客年十月八日付官文三七八号を以て通牒致したる処聖戦下愈々神嘗祭ノ真意義を周知徹底せしむるの要有之付貴(学、校、所、会)職員をして当日午前十時を期し一斉に各在所に於て神宮を遥拝せしむる様可然御配意相煩度
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 神嘗祭とは、伊勢神宮の収穫祭のことで、1869年(明治2年)に皇室祭祀に定められた国家神道の重要行事の1つである。毎年10月17日に行われ、宮中においては現人神である天皇が伊勢神宮を遥拝し、また宮中三殿の1つである賢所で親祭を執り行う。
 この意義を「周知徹底」するということは、国家神道の教義の流布にほかならない。また10月17日当日は午前10時を期して、檀信徒に伊勢神宮を遥拝するように、宗務院は僧侶に命じたのである。
(『地涌』第32号)
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<神宮遥拝に関する通知>
>この意義を「周知徹底」するということは、国家神道の教義の流布にほかならない。また10月17日当日は午前10時を期して、檀信徒に伊勢神宮を遥拝するように、宗務院は僧侶に命じたのである。
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無用の混乱を避けるための形式的な通知に過ぎない。宗内において神宮遥拝をしたなどという事実はない。一方、牧口会長は自分の言葉で、神社参拝を容認し、わざわざ書籍として出版している。↓

●吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(中略)今上陛下こそ現人神であらせられる(昭和17年11月第5回総会『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
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"感謝のためなら神社に参拝してもよい"これが牧口会長の指導でした。「吾々が靖国神社へ参拝するのは」とある以上、実際に「お礼、感謝の心を現はす」ために「靖国神社へ参拝」していたことは間違いない。

[参拝]=神社・寺にお参りして拝むこと(『新明解国語辞典』第4版)


<一般信徒への徹底>
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当時、宗門は、文部省から「本山や末寺の『住職』、『在勤者』に神宮遥拝(ようはい)をさせるべし」という要求を受け取っていました。しかし、そこには一般信徒への言及は、まったくありませんでした。ところが、宗門はこの要求を積極的に受諾、意図的に拡大解釈し、一般信徒すべてに神宮遥拝(ようはい)を要請したのです。それは、同「院達」そのものに明示されています。「神嘗祭(かんなめさい)當日神宮遥拝(ようはい)に関する件」と題された、この「院達」には、文部省からの要請が引用されているのです。文部省の要請は「『職員』をして當日(とうじつ)・・・神宮を遥拝せしむる様(よう)」というものでした。これにも拘わらず、同「院達」には「其趣旨(そのしゅし)を檀信徒一般に徹底せしむる様(よう)」と要求しました。(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070623)
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@官文記載によれば「神宮を遥拝せしむる」対象は「貴(学、校、所、会)職員」である。これを受けて院達が通達したのは、当該官文の「趣旨を」「檀信徒一般に徹底」せしむることであって、「神宮を遥拝せしむる」ことではない。

Aただし、神宮遥拝は国民全員が行うべきことであったから、当局の趣旨は各団体を通じてその構成員全体に神宮遥拝を通知することにあったはずである。<ふうふうさんのウエブナビ>では「貴(学、校、所、会)職員」とあるのを表面的にとらえて「職員」のみに徹底すればよかった、としているが、それは当局の趣旨に反することであったろう。

Bいずれにせよ、当局の通知を形式的に機関誌に掲載したということで、宗門関係者が実際に神宮を遥拝したという事実はない。

◆(※宮城遥拝・黙祷の後、野島辰次理事「開会の辞」)大東亜戦開始以来の戦果は、法華経の護持国家なればこそであります。昨夜のラヂオ放送の如き余裕下に、今日総会を開くのは感激の極みであります(昭和17年5月17日・創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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宮城遥拝を行うとは単に、皇居に礼をすることではない。宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)と現人神である天皇に対する拝礼であり、その根底にはもちろんのこと神道がある。(『地涌』第33号)
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学会は会合の度に「現人神である天皇に対する拝礼」である宮城遥拝を行っていた。上記官文は、学会のような小さな組織には通知されなかったであろうが、もし、同様の通達が学会に来ていたらどうしただろうか。「根底に」「神道がある」宮城遥拝を実際に行っていた学会のことだから、形式的な内部通達くらいはしていただろう。






報国団


【報国団】
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 日蓮正宗に報国団が結成されたのは昭和17年11月19日のことで、結成式は大客殿大広間において行われた。午後4時から行われた結成式は、開式之辞、宮城遥拝、国歌奉唱、祈念感謝、詔書奉読、読経唱題、役員推薦、総裁訓辞、国旗授与、宣誓、団長挨拶、報国団経過報告、記念撮影、万歳奉唱、閉式という順に続いた。
 宮城遥拝(宮中三殿・現人神に対する拝礼)、詔書奉読などが注目される。
 「日蓮正宗報国団々則」を見れば、本部は日蓮正宗宗務院に置かれ、分団が宗務支院に置かれていたこと、総裁には管長がなることなどがわかる。この報国団の目的について同規則には、
 「本団は肇国の聖意を体し挙宗一致時難克服、挺身皆労以て宗教報国の完遂を期す」
と明記されている。
 また団員の構成については、
 「本団は本宗の全僧侶檀信徒を以て組織し本宗の僧侶檀信徒たるものは必ず本団に入団するものとす」
となっている。
 そして昭和18年度の事業項目として、献金並軍機献納資金、傷病兵慰問並慰問品、興亜開発事業、報国勤労作業、僧侶の錬成、一般信徒の錬成、救急施設、社会事業促進などが挙げられている。
 現人神を国の頂点に戴いた国家神道を基となす国家は、その戦争目的遂行のために、仏教諸派に金、物資、人を調達させたのであった。日蓮正宗も、時代のすう勢とはいえ、その一翼をになったわけである。
 太平洋戦争開戦からちょうど1年後の昭和17年12月8日、概要のなった日蓮正宗報国団の人事が発表されている。
 報国団々長には宗務総監心得であった崎尾正道、同副団長には庶務部長であった渡辺慈海が任命された。(『地涌』第34号)
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>宮城遥拝(宮中三殿・現人神に対する拝礼)、詔書奉読などが注目される。
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「宮城遥拝」については学会も会合で行っていました。↓

●(※宮城遥拝・黙祷の後、野島辰次理事「開会の辞」)大東亜戦開始以来の戦果は、法華経の護持国家なればこそであります。昨夜のラヂオ放送の如き余裕下に、今日総会を開くのは感激の極みであります(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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大東亜戦争(太平洋戦争)で赫々たる戦果があがっているのは、日本が法華経の護持の国であればこそであり、勝利の戦果を聞く時に総会を開催することは感激の極みだというのである。宮城遥拝に次いで首脳幹部が大東亜戦争の戦果を賞賛する。ここには侵略戦争に反対したという事実も、軍国主義に抵抗した事実も全く見あたらない。あるのは侵略戦争に迎合協力する体制翼賛団体としての創価教育学会の姿だけである。


>現人神を国の頂点に戴いた国家神道を基となす国家は、その戦争目的遂行のために、仏教諸派に金、物資、人を調達させたのであった。日蓮正宗も、時代のすう勢とはいえ、その一翼をになったわけである。
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日蓮正宗だけではありません。牧口学会も「戦争目的遂行のために」「その一翼をになっ」ていたではありませんか。↓

●本団は本宗の全僧侶檀信徒を以て組織し本宗の僧侶檀信徒たるものは必ず本団に入団するものとす(「日蓮正宗報国団々則」)
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ということは、学会員も当然、「日蓮正宗報国団」の団員だった訳です。戦勝を念願し、数々の戦争推進発言を繰り返していた牧口学会が、この活動に批判的だったとは考えられません。(【戦争翼賛する牧口学会】参照)

◆鈴木管長(日恭上人)及びその一味は、時局の如何を弁(わきま)えず、政府の宗門合同を要望せるに拘わらず、自家独尊の建前を固守し、(中略)何ら宗門らしき奉公の実を示さず、此の苛烈(かれつ)なる戦局に対し、飛行機1機も献納せんともせず、「報国会」の組織も名のみにして実行なく(『世界之日蓮』S18.12・S19.1合併号)
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『世界之日蓮』は、戦時中、戦争翼賛に積極的であった宗内の一僧侶が主催していた。この記事から分るように、身延との合同問題等、最悪の環境の中、法体護持を最優先した当時の日蓮正宗は、時局下、戦時体制に積極的に協力する意思表示はせざるをえなかったものの、実際の行動は、他の団体等に比較して非常に消極的であった、ということである。(『慧妙』H17.12.1)



【報国団結成の「祈願文」】
昭和18年1月15日、日蓮正宗報国団の名古屋第7分団の結成式が行なわれた。この結成式において、日恭(上人)は、つぎのような祈願文を述べた。(不破優『地涌からの通信・歴史編』)
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 今時大東亜戦役(せんえき)は皇国の興廃(こうはい)を堵(と)せる振古未曾有(しんこみぞう)の大戦にして東亜に於ける米英の禍根を除去し大東亜隣邦の共存共栄を遂げんとする実に邦家自衛の止むなきに出づる所なり。御稜威(みいつ)の下(もと)忠誠勇武なる我(わが)皇軍将兵の勇戦奮闘による大捷報(だいしょうほう)は荐(しき)りに至ると雖(いえど)も、彼等敵米英は豊富なる資源と執拗(しつよう)なる民族性とにより、将(まさ)に一大反撃を企(くわだ)てんとしつゝあり、畏(おそれおお)くも聖上陛下には昨冬12月12日伊勢神宮に御親拝と拝承し奉る、是れ赤子(せきし)たる我等国民の齊(ひと)しく恐懼(きょうく)感激する所なり。
 されば、勇躍軍に従ふもの元より身命を鴻毛(こうもう)の軽きに比し、傷つき病むも猶(なお)且(か)つ再起出陣を願ふ、銃前斯く如く、銃後の衆庶亦然り戦時資材の製作に、輸送の完壁に各自奉公の誠を盡(つく)して生産増強に死力を效(いた)して間然する所なく、或は軍人遺家族の後援に将又(はたまた)英霊の祭祀に其の周到鄭重(ていちょう)を極む、為めに士気愈々(いよいよ)軒昴(けんこう)たり。
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 日恭(上人)はこの祈願文の中で、天皇が伊勢神宮に「親拝」したことについて、「恐懼感激」と述べている。また、「英霊の祭祀に其の周到鄭重を極む」と、靖国神社への戦死者奉祀を評価している。
 また、同日の訓辞においても日恭(上人)は次のように述べ、天皇の伊勢神宮参拝を賛嘆している。
 「畏くも聖駕(せいが)伊勢路に嚮(むか)ひ国威の宣揚(せんよう)を御祈願あらせ給ひしを拝聞し、実に恐懼(きょうく)に堪へず、我宗徒たるもの正に一大勇猛心を振(ふるい)起(おこ)し挺身報国。上御宸襟を安んじ奉り、下令法久住を期すべきの秋に相当たれり」
 このように、"法主"たる日恭(上人)の指南により、宗内の僧俗が日蓮大聖人の仏法の名の下に、戦争に向かわされたのである。
 これらの"指南"はいずれも、日蓮大聖人の御精神にまったく反した行為である。(不破優『地涌からの通信・歴史編』)
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<天皇の伊勢神宮親拝>
 まず、天照太神について、昭和初期に編纂(へんさん)された百科事典には
 「高天原(たかまがはら)の主神であると共に、皇室の御先祖にて坐(ましま)し、我が国において最も崇敬せらるる神」
と解説されている。つまり伊勢神宮は、天照太神を、日本の主神として、また皇室の先祖として祀っているのである。
 本宗の神天上(かみてんじょう)の法門によって見れば、『新池御書』に、
 「此の国は謗法の土なれば、守護の善神法味にうへて社をすて天に上り給へば、悪鬼入れかはりて多くの人を導く」(新編1458頁・全集1440頁)
とあるとおり、伊勢神宮には、仏法守護の善神としての天照太神はいない。したがって、そこが衆生の信仰の対象とならないことは当然である。しかしながら、天皇家の人々が祖先の墓所として墓参することは、祖霊に対する感謝や追善を主とするものであるから、何ら問題ではなかろう
 さて、日恭上人のお言葉は、天皇の伊勢神宮親拝(すなわち祖先の墓参)について、敬語を交えて述べられたものにすぎない。これが「大聖人の御精神にまったく反した行為」などでないことは、もちろんである。(『慧妙』H6.10.16)

 なお、『歴史編』は、日恭上人の訓辞をも疑難しているが、これは、昭和17年末頃、太平洋戦争の戦況が悪化し、天皇自らが祖霊に国威宣揚(こくいせんよう)を誓願したことについて、述べられたものである。
 まず、日恭上人は、日本国民としての立場から、天皇がわざわざ伊勢まで出向くほど悩まれていることに対して、「実に恐懼(きょうく)に堪へず」と述べられている。
 そして、その上で、仏法の立場の上から、「御宸襟(しんきん)を安んじ奉り、下令法久住を期すべき秋(とき)に相当たれり」と、広宣流布・令法久住によって、一国の安穏を期し、天皇の宸襟を安んじ奉るよう、訓辞せられたものと拝するのである。
 『歴史編』の、「日蓮大聖人の仏法の名の下に、戦争に向かわされた」などという疑難が、意図的に当時の世情と本宗の信条を無視したものであることが、以上で明らかであろう。(『慧妙』H6.10.16)


<「英霊の祭祀に其の周到鄭重を極む」>
 つぎに、「英霊祭祀に其の周到鄭重(ていちょう)を極む」の語をとらえて、「靖国神杜への戦死者奉祀を評価している」と疑難しているが、「英霊」とは、死者とくに戦死者への尊称であって、「靖国神杜」とは直接関係のない語である。
 『歴史編』は、この項の末尾に、日恭上人が付けられた戦死者の法名を挙げているが、これらの人達も(靖国神社に祀られずとも)歴とした「英霊」なのである。そして、この「英霊」たちは日蓮正宗の化儀にのっとり、「周到鄭重」に追善供養されているのである。
 「英霊」=「靖国」=謗法という、短絡的な発想しかできない不破優君、君の手許には国語辞典はないのか。ないのならば、至急、池田の許に走り、辞書を買う許可をもらって買い揃えておくことだ(池田創価学会では、鉛筆1本さえも、池田の許可なしでは自由にできないという)。(『慧妙』H6.10.16)






神札問題

(<法蔵>H19.7.15)

【神札指導】


(左の一編は小平芳平氏の記に依る)(中略)18年6月※初旬)には、学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした、が心中には次の様に考えられていた、当時の軍国主義者は、惟神道と称して、日本は神国だ、神風が吹く、1億一心となつて神に祈れ、等々と呼びかけていた。少しでも逆う者があると、国賊だ、非国民だといつて、特高警察や憲兵のつけねらう所となつた、もとより牧口会長は、神札を拝むべきではない、神は民族の祖先であり、報恩感謝の的であつて、信仰祈願すべきではないと、日蓮大聖人、日興上人の御正義を堂々と主張なされていた。(中略)会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)

「会長の応急策」こそは、会員に対し、神札を粗末に扱わなうよう指導する通牒だったのである。↓

●皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること。(戸田城外『通諜』S18.6.25)



【神札に対する対応の是非】
<神札を焼却する必要なし>
●第四十七段・我所領の内に有る謗法の社寺なりとも、公方より崇敬する処ならば・卒爾に沙汰すべからず、私所ならば早々改むべし云云。(第9世日有上人『有師物語聴聞抄佳跡上』/『富士宗学要集』第1巻248頁)
●(※上記について)宗門信仰の領主等が・謗法の社寺を破壊せんとする時・其破戒せらるべき社寺が、時の日本国の全権者足利公方の崇敬の所ならば、軽忽に処決すべからずと云ふ・是れ大に為政者に敬意を払ひ給へるなり、公方已にかくの如し、況んや至尊に於てをや、故に広布の道程にある間は為政者に対して理を責め道を推して・臣民の礼節を全ふして・諌暁し上ることは、無論なりといへども熱心に激して妄断する事はあるべからざるなり、是即本師の精神固より仏祖の御本意ならんか(第59世日亨上人『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻159頁)
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上記御指南は、為政者の社寺を破壊することを誡めたものであるが、為政者が作成した神札についても当てはまるのではないか。為政者といえども謗法を諌めることは大切であるが、為政者は我々にとって主徳の一分を有する存在である。であるから、為政者に対しては特別に敬意を払うべきであり、その信仰の対象を無闇に破壊すべきではないと思われる。

※主権が国民にない時代の為政者と国民との関係は、あたかも大家と間借り人の関係のようなものではないか。間借りした部屋に大家所有の神札が祀られていたとする。神札も部屋も大家の所有物であれば、これを勝手に処分できないことは当然である。その場合、神札は間借り人にとって所有物ではないし、信仰の対象でもない。これは、たまたま乗ったバスやタクシーに御守がぶら下がっているようなものではないか。わざわざ、神札の祀られた部屋を間借りするのもどうかと思うが、戦時下では、"神札のない部屋"はなかったのである。

●他宗の法花宗に成る時、本と所持の絵像木像并に神座其の外他宗の守なんどを法花堂に納むるなり、其の故は一切の法は法花経より出てたるが故に此の経を持つ時、本の如く妙法蓮花経の内証に事納まる姿なり、総して一生涯の間、大小権実の仏法に於いて成す所の所作、皆妙法蓮花経を持つ時、妙法蓮花経の功徳と成るなり、此の時実の功徳なり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻70頁)
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他宗の本尊であっても御守であっても、これを破却することなく末寺の「法華堂」に納めていたのである。その意義から言えば、新入信者の神札等を、世相を無視して堂々と焼却する必要はまったくなかったといえる。

昭和17.1頃以降 警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)
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宗門が問題にしたのは、世情や人情、社会的常識を逸した法を下げる行為であったといえよう。


<神札受け取りも問題なし>
●当時、全戸に配布されていた伊勢神宮のオフダの受領を拒否して弾圧され(『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫52頁)
●日本国民の総氏神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)をまつっている伊勢の神宮の御神札は、明治以前は御師(おし)といわれる神職によって全国各地の家々に配布されていました。(中略)明治の御代になって、御師による配布は廃止され、御祓大麻は神宮大麻(じんぐうたいま)と名称が改まり、明治天皇の聖旨により政府事業として全国全戸に漏れなく配布されるようになりました。(<神社と神道>WS060311)
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会員の神札受け取りについても、金銭を支払って受け取るのであれば格別、当局が勝手に配布するのであれば、一応受け取り、捨て置くか寺院に納めるか、コッソリ焼却すればよかろう。

●(※ひとのみち=PL教の前身)教団本部に特高警察が入り、教祖が拘引された翌年の昭和12年4月5日、当局は「不敬の事実をつかんだ」として、教祖を不敬罪で追起訴し、私はじめ弟の道正ほか、十数名の幹部教師も不敬罪で拘引されました。そして28日には、内務大臣命令により治安警察法が適用されて、教団に対して結社禁止処分を行ったのです。(中略)判決も出ないままに、教団は解散させられたばかりか、動産・不動産の処分、債務の整理、さらには建物の破壊もしくは売却までさせられました。(ひとのみち事件・御木徳近『宗教弾圧を語る』岩波新書61頁〜)
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当時は、個人の私有物であっても強権をもって処分された。だから、個人の家屋であっても実質は国家の容認の上に所有占有できたに過ぎないのである。また、大麻は国家が作成し全戸に配布した。これは、譬えて言えば、家主が自作の神札を間借り人の部屋に置くようなものである。現行法では、家主といえども、そのようなことはできないが、当時は、"家主"の権力は絶大であり、それを拒めば部屋を借りることができなかったのである。



【宗門の実態】
学会同様、宗門も謗法払いを否定していない。宗門が学会に指示した内容は、公的機関から差し出された神札(大麻)を拒否したり、公然と焼却せずに一応受け取るというものである。だから、会員であれ、新入信者であれ、本人が納得して神札を取り払うのであれば、宗門の指示に反するものではない。

●総本山において、天照大神のお札を貼ったことは1度もありません。今時の大戦争において、国において軍部が大変に力を得て、我が国を滅ぼしたような状態でございました。昭和18年ごろ、いよいよ戦争が激しくなってきた時分、この総本山においては当時客殿・御宝蔵・庫裡・六壷、それから大奥と、そのちょうど真ん中あたりに書院がございまして、・・・そこは大書院ですから、御本尊は祭ってありません。その所を、昭和18年の、戦争がいよいよ盛んになった時に、国で借り上げてしまった、国に借りられてしまったわけです。その時にその書院を「中部勤労訓練所」ということにされてしまったのでございます。・・・その時に所長である上中甲堂と云う人が、書院の上段の間へ天照大神のお札を祭ったんです。
 それに対して、こちらは再三異議を申し立てたんですけれども、しかし国家でやる仕事である、国の仕事であるから、いくらこちらで何を言っても、それは及びもしない。何とも仕方がないから、そうなってしまったのであります。ただそれだけのことで、別に我々がその天照大神のお札を拝んだことなどありもしない。また、実際その中へ入って見たこともない。入れてくれもしない。まあ借家同然で、借家として貸したんだから向こうの権利である。そういうような状態であって、決して我々が天照大神のお札を祭ったとか、拝んだとかいうことは事実無根であります。(第66世日達上人/『大白法』H3.4.1)
●18年7月、中部勤労訓練所という、徴用工訓練のための機関が大坊の書院(200畳敷き)を利用しはじめた。神道に毒されていた指導者たちは、この書院に神棚をつくり、天照太神を祀ってしまった。総本山の宗務院は、当局者に厳重に抗議をした。(中略)再三にわたって、日蓮正宗の教義を懇切に説き、神棚の撤回を迫った。(『人間革命』第1巻「千里の道」258頁〜)
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謗法の徒が総本山内に神札を祀った時、宗門は「教義を懇切に説き、神棚の撤回を迫った」のである。この事実から考えても、宗門として信徒に神札を祀ることを容認する指導があったとは考えられない。神札受容は、実質をともなわない形式的対外的配慮に過ぎなかったのである。

●(※牧口)「天照大神は天皇陛下の先祖であつてかえつて我々がズケズケおまいりするのは不敬になるとしているだけなのです。今少し強く申し上げたいと思いますが、時ではないと思うので、これでも心掛けているつもりです。ただし謗法だけは我等の会員にはさせたくないと思いますが、どうしたものでしようかな」
(本山側)「一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法か、又積んで置いてもそれ程の害はありますまい」(昭和18年6月初旬の本山での会話/戸田城聖著『人間革命』聖教新聞S28.12.6/『地涌』第667号)
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本山側は学会に対し「そっと処分」するように指示している。これのどこが謗法なのか。

●私は、大石寺塔中了性坊の檀家に生まれ、信心深かった先祖の名にちなんで命名され育ちました。戦前、戦中のこと、(中略)受持の先生に、家に神棚のある人は手を挙げなさいと言われましたが、手を挙げずに居りますと「村長さんの家でそんなことはない」とただされ、帰宅して「家に神棚がどうしてないの」と泣きますと、祖母は私を御本尊様の前に座らせ「ここに天照大神と名前が記されているのだから手を挙げて良いのだよ」とさとしました。(本山塔中百貫坊・井出信子『展転』妙恵寺支部発行H17.11.13)
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神札拒否を公然と表明することはできなかったものの、公人たる村長の家庭でも神札を祀ることはなかったのである。






物資供出


【山内の樹齢600年の老杉200本を戦争協力に供出】
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昭和19年1月8日付『静岡新聞』の記事。題字がすべてを物語っています。すなわち、「ひびく米英撃滅の斧音(おのおと)―大石寺の巨木二百本愈々出陣」と。老杉200本の伐採には、鈴木日恭法主が自ら立会い、読経を行ないました。それは、彼等にとってことさらな「鬼畜」である米英を撃滅するための読経でした。同記事には、日恭法主が、「戦争推進のための、この行為が、仏法の本義に叶ったものである」との旨を述べたことが示されています―「国難来って我ら一億総決起は宗祖の説くところで、600年来法燈ともに茂っていた杉、檜が応召する、全く国是宗法に叶ったもの」と。けれども、宗門は、今、平然と、こう主張しているのです―「我々には、格別の戦争責任はない」と。「大聖人の仏法を護り抜いた」と。(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070625)

[画像]:
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>「我々には、格別の戦争責任はない」
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戦争協力は、当時の国民すべてが財力に応じて表面上"積極的""自発的"に行っていたのである。(<開戦直後の訓辞>参照)


>「大聖人の仏法を護り抜いた」
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●今年大蒙古国より牒状之有る由・風聞す等云云、経文の如くんば彼の国より此の国を責めん事必定なり、而るに日本国の中には日蓮一人当に彼の西戎を調伏するの人たる可しと兼て之を知り論文に之を勘う、君の為・国の為・神の為・仏の為・内奏を経らる可きか(『宿屋入道への御状』全集169頁)
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国家の戦勝を願い、それに協力することは国民として当然の感情である。大聖人も蒙古の調伏については否定されていない。つまり、戦争協力の事実をもって仏法守護を否定することはできないのである。



【戦争推進の為、物資を積極的に供出】
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昭和19年1月14日付『静岡新聞』の記事。大石寺は、軍備の需要に対して、これに、旺盛に応じました。寺内の仏具類のみならず、建造物の屋根等までも軍に差し出しました。題字には「銅板屋根もお役に」、「六百年の歴史語る大石寺で供出」、「大石寺の佛具類―大梵鐘と共に應召(おうしょう)」、「釣鐘類續々(ぞくぞく)應召(おうしょう)」等と描かれている。では、これは軍から要請されたものであったのか。そうではありません。同記事には、「寺院の協力に縣(県)感激」との題字も掲示されています。県を感激させるほどの供応―つまり、これらの供応は、宗門自らの積極的な意志で行なわれたのです。明らかに、大石寺は、戦争推進のためには、「大いなる模範」でした。そもそも、大石寺の御堂・三門の銅瓦は、軍部からの金属供出の対象から外されていたのです。それにも拘わらず、大石寺は、これらの供出を行なったのでした。当時の『大日蓮』には、「鬼畜米英撃滅のためにお役に立ちたい」旨の記述がなされています。しかし、これにも拘わらず、現在の宗門は言っています―「当時、宗門は、突出した戦争への加担はしなかった」と。(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070625)

[画像]:
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>これは軍から要請されたものであったのか。そうではありません。同記事には、「寺院の協力に縣(県)感激」との題字も掲示されています。県を感激させるほどの供応―つまり、これらの供応は、宗門自らの積極的な意志で行なわれたのです。
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1●竹富島では、軍の防空壕のささえ木、大石部隊の港構築(西海岸の砂浜を掘り、暴風林の中まで水路港にしようと計画)のために、木材の供出が行なわれた。竹富島では、お嶽の木を伐ることはタブーになっているがそのお嶽のみごとなふく木も切り倒され、今度は住民の長期間心をこめて育成した最高の建築資材「キャー木」(イヌマキのこと)を強奪した。私のもの約80本、有田家のもの約200本。それらは30年木で直経約30センチ高さ約7、8メートルもある立派なものばかりだった。木材を供出したということで軍から「感謝状」を受けた有田のじいさんは、「これはただの紙切れではないか、30年間の苦労をどうしてくれる」といかりで体をふるわせ、泣いていた。(<沖縄戦の記憶・本館>WS070630)
●1942年に「家にある鉄や銅や金やダイヤモンドの製品を提供しなさい」と、命令がでました。なべ、かま、やかん、を残してすべて提出しました。いやがったり、かくしたりしたら、「非国民」などといって、罰したりしました。(<戦時中のkasiwaの様子>WS070630)
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強制的な供出であっても「感謝状」が出される。逆にいやがったり隠したりすれば「非国民」として罰せられる。つまり、戦時下の戦争協力は、表面上すべて自発的積極的な行為であり、感謝されるべきものだったのである。「寺院の協力に縣(県)感激」→軍から要請されたものではない→自発的に戦争に協力した、と考えるのはあまりにも皮相的な発想であることが分かる。

●終戦直後、憶えておられる方も多いと思いますが、東京・九段の靖国神社周辺や皇居前広場には、敗戦を詫びる人々の姿がありました。食うや食わずの困窮をものともせず「天皇さま、奉公心が足りず申し訳ございませんでした」「私たちの努力が足りませんでした」といつまでも頭を垂れている姿があちらにもこちらにも見られました。そのように教育したのは国家神道であり国粋主義者だったわけで、今日を生きる私たちの目から見れば、そのように教育された人々は国家神道の犠牲者、15年戦争の被害者です。家を焼かれ人生を破壊され肉親を奪われながら、まさに被害者が加害者に「申し訳なかった」と詫びる構図をもって、国全体を統治していたのです。(<2002年度 カトリック社会問題研究所夏期セミナー>)
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当時の国民は「積極的な意志」によって戦争協力をしていたのだ。宗教団体も例外ではなく積極的に戦争に協力していた。このような国家的風潮の中では、戦争に反対であっても、表面上は積極的自発的な戦争協力をしなければならなかった、といえる。「寺院の協力に縣(県)感激」とあるのは、静岡県下では最大級の大石寺が"積極的に"物資を供出したことを県民に宣伝する効果を狙ったものであろう。全国に末寺を持つ総本山といえば、県下では大石寺を凌ぐ程のものはなかったのではないか。その大石寺が県下の宗教界の先頭に立って戦争協力をするのは、むしろ当然視されていたはずである。すなわち、すべての戦争協力は積極的自発的になされるべきものであり、それに対して当局は感謝して受け入れる、という構図が出来上がっていたのだ。


>大石寺の御堂・三門の銅瓦は、軍部からの金属供出の対象から外されていたのです。それにも拘わらず、大石寺は、これらの供出を行なった
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これについて当該記事の原文を是非とも示して欲しいものである(画像では確認不能)。もし、「寺院の協力に縣(県)感激」の記事から「軍部からの金属供出の対象から外されていた」と断定したとすれば、あまりにも短絡的な考えです。

●大東亜戦争に入ると各宗派は競うように「戦時布教方針」をたて、勤労報国隊や軍費献納運動に走った。各宗教宗派の独自性とヒューマニズムは見失われ、戦争協力の翼賛宗教に転落していった。みんなが知っているところだ。(『月刊住職』H8.4)
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宗教界全体が「競うように」「戦争協力の翼賛宗教に転落」していったのである。軍部から命じられたから供出した、というだけでは全国に末寺を有する総本山としては"消極的"だという批判があったのであろう。


>これにも拘わらず、現在の宗門は言っています―「当時、宗門は、突出した戦争への加担はしなかった」と。
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●戦時下最も必要な金属類は、昭和16(1941)年8月に勅令が出され、強制回収が始まった。当初は工場などが対象であったが、その後、寺院等も指定施設となり、中でも梵鐘は回収範囲の筆頭にあげられた。(<発見!三重の歴史>WS070630)
●昭和17年1月12日、柏町は、兵器に使うための必要な鉄や銅などが不足しているため、寺のつり鐘や公園の銅像、各家庭の金属製品までを供出させました。(<戦時中のkasiwaの様子>WS070630)
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柏市(千葉県)では、既に昭和17年に「寺のつり鐘」が供出されている。大石寺の金属供出が昭和19年からだとすれば、全国的には、むしろ遅きに失した感もあるが。これでも「突出した戦争への加担」だと言えるのだろうか?

◆鈴木管長(日恭上人)及びその一味は、時局の如何を弁(わきま)えず、政府の宗門合同を要望せるに拘わらず、自家独尊の建前を固守し、(中略)何ら宗門らしき奉公の実を示さず、此の苛烈(かれつ)なる戦局に対し、飛行機1機も献納せんともせず、「報国会」の組織も名のみにして実行なく(『世界之日蓮』S18.12・S19.1合併号)
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『世界之日蓮』は、戦時中、戦争翼賛に積極的であった宗内の一僧侶が主催していた。この記事から分るように、身延との合同問題等、最悪の環境の中、法体護持を最優先した当時の日蓮正宗は、時局下、戦時体制に積極的に協力する意思表示はせざるをえなかったものの、実際の行動は、他の団体等に比較して非常に消極的であった、ということである。(『慧妙』H17.12.1)
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飛行機の献納について言えば、陸軍愛国機献納は遅くとも昭和8年頃から行われていた。そのうち宗教界が献納したものが30機(現在判明分)で、大半が昭和18年9月までに献納されている。朝日新聞も読者に呼びかけて献納しているが大半は昭和19年以前である(<陸軍愛国号献納>参照)。これに対して宗門は昭和18年12月の時点でさえ、「飛行機1機も献納せんとも」しなかったのである。宗門の戦争協力が表面的形式的なものであったかが分かるではないか。



【本山・末寺の積極的な戦争協力】
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昭和19年6月9日付『静岡新聞』の記事。宗門の本山と末寺が、いかに積極的に戦争協力・推進を行なったかが、大々的に報道されています。当時の世相に即して言えば、「絶賛」されています。題字には、宗門を指して「決戦する寺院」、「宗教家も戦列へ―大石寺一門の逞(たくま)しい奮闘」、「総本山大石寺―全国へ飛檄(ひげき)」、「宗教参戦に邁進(まいしん)の大石寺」等々の題字が躍っています。しかし、彼等は、現在、言っています―「宗門は、戦争に突出した加担はしていない」と。「大聖人の仏法を護り抜いた」と。(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070625)

[画像]:
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 これは、『静岡新聞』という一地方紙の報道である。しかも「富士宮支局」が書いた記事である。全国的には、些細なことであっても富士宮近辺のニュースとしては大きなことであったのだろう。しかも、これを大々的に取り上げることは『静岡新聞』にとっても戦争推進に一役買ったことになるし、読者の戦争意識を高揚させる意義もあったろう。すなわち、この記事をもって「戦争に突出した加担」があったとはいえない。
 また、上記1●の証言からも分かるように、個人が行ったしぶしぶの供出であっても「感謝」されるのである。そうであれば大石寺という、まがりなりにも全国に末寺を擁する総本山が行った戦争協力であれば、仮令それが嫌々であっても「絶賛」されるくらいのことは、あったであろう。

●国体を否定し、神宮または皇室の尊厳を冒涜すべき事項を流布することを目的として、結社を組織したるもの、または結社の役員その他指導者たる任務に従事したるものは無期または四年以上の懲役に処し、情を識りて結社に加入したるものまた結社の目的遂行の為にする行為をなしたるものは1年以上の有期懲役に処す(治安維持法)
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この法律から新聞紙法や出版法などに至るまで、当時一般的な報道の規制を目的として取り締まるための法律は、電信法まで含めると26の多きに及びました。つまり、天皇制の下に言論の自由などは望むべくもなかったのです。(<2002年度 カトリック社会問題研究所夏期セミナー>)

ちなみに『朝日新聞』は、軍用機の献納を読者に呼びかけていた(<陸軍愛国号献納>参照)。当時の新聞自体が戦争協力を推進し、国民に戦争協力の必要性を訴える教育的機能を積極的に果たしていたのだ。そうであれば、当該報道も目的の第一義は読者の戦争協力への意識を高揚させることにあったことは容易に分かることである。大石寺の戦争協力を大々的に報じることは、新聞社の使命でもあった訳で、記事に書かれた主観的評価を文字通りに鵜呑みにすることはできないのである。


>しかし、彼等は、現在、言っています―「宗門は、戦争に突出した加担はしていない」と。
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戦争協力は、当時の国民すべてが財力に応じて表面上"積極的""自発的"に行っていたのである。(<開戦直後の訓辞>参照)





内憂外患の情勢下で清流を死守

(『慧妙』H6?)

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 次に『新報』は、本宗が「国主諌暁」「神札受諾拒否」をなしえなかった理由は、日恭上人が大法よりも自らの身命を惜しんだゆえである、として、時局協議会文書より、
 「頑強に神札受諾を拒否すれば、日亨上人、日恭上人の投獄・獄死の危険があり、血脈断絶の危機に及ぶ。また大石寺が身延の支配下に入れば、戒壇の大御本尊が身延の支配下に置かれることになる。戒壇の大御本尊を他宗の支配下に置き、血脈断絶に至る以上の大謗法が、ほかにあろうか(趣意)」
との箇所を挙げて、これに反論する形で論を進めている。
 すなわち、『新報』は「宗派合同間題」については、昭和16年に解決済み(昭和16年3月31日、日蓮正宗単独宗制認可)であり、身延の支配下に置かれる危険性はなかった―とし、「血脈断絶の危機」については、日恭上人・日亨上人が投獄・獄死という運命をたどろうとも、61世日隆上人が控えており、現に日恭上人御遷化後は、63世日満上人は日隆上人より血脈を受けている事実から考えても、なんらの後顧の憂いはなかったのだから、堂々と国主諌暁・神札受諾拒否をすればよかったのだとしている。
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 『新報』編集部には、本宗誹謗のための、都合のよい歴史しか見えないらしいが、歴史は『新報』が見るような単純なものではない。
 まず、宗派合同問題は、日恭上人の、「たとい今、首を切られてここに死すとも合同せず」(『人間革命』第1巻)という御決意をもっての、政府役人との対決により、危機一髪のところで回避できたが、事態はそれで沈静化したわけではなく、その後も、本宗を根幹から揺るがす事件が続いていたのである。
 まず、昭和16年当時、「神本仏迹論」の邪義を唱えていた某師は、単独宗制認可後も、神本仏迹論をもって、通算5回にわたって日恭上人に詰問状を送りつけ、日蓮正宗を"不敬罪"へと導こうとし昭和17年にも、宗教新聞『中外日報』を使い、宗務当局に総辞職を迫るなど、日恭上人を悩まし奉っていた。
 本宗の教義の上で、神本仏迹論を破折することはたやすいことではあったが、「神は迹、仏は本」と言下に破すれば、不用意に弾圧を招く危険性があり、某師への対応には慎重をきわめたことが、当時の往復文書(本紙第13号参照)より拝される。
 また、昭和18年には、創価教育学会の不敬問題が摘発され、それが本山へも波及しそうになった(結果的に、この時は御宗門の素早い対処により、未然に宗門本体への危難を避けるこどができたが)。これもまた、本宗の危機を招き寄せる一因となったのである。
 昭和16年から18年にかけての本山は、合同は免れたといっても、このような内憂外患の状態にあり、強行に「国主諌暁」を行ない、「神札拒否」を表明すれば、足並みも揃わないまま、御法主上人の投獄、そして宗門断絶へと進む危険性があったのである。
 次に、血脈断絶の問題だが、『新報』は、日恭上人・日亨上人が投獄・獄死されても、日隆上人が控えておられたから血脈断絶の危険はなかった、日恭上人は単に憶病のために「国主諌暁」「神札拒否」ができなかったのだ、などと疑難しているが、何とも浅はかな推理である。
 考えてもみよ。日亨上人・日恭上人が不敬罪で逮捕されるということは、次に控えておられた日隆上人もまた、同じく「不敬罪」で逮捕されることは確実であろう。神札を公然と「謗法」と断ずる以上、弾圧は日蓮正宗宗門断絶まで続くことは必至である。
 血脈の断絶、戒壇の大御本尊の破却―。それは、宗祖大聖人の、
 「日蓮が慈悲広大ならば南無妙法運華経は万年の外・未来までも流るべし」(全集329頁)
との仰せを破り、末法万年の衆生の成仏への大道を、永久に塞(ふさ)ぐことを意味するのである。大聖人の仏法を奉ずる唯一の正統教団である本宗に、そのような選択が許されるであろうか。
 どうみても、学会の疑難は令法久住・広宣流布という大事な視点を忘失している、としか言いようがない。

[資料][画像]:『特高月報』に記載された日恭上人から某師への書簡(第4信)





日恭上人の御遷化

(『慧妙』H14.9.16ほか)

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第62世日恭上人は、戦時下、軍部の圧力に屈し、神札受諾、書院への神札奉安という大謗法を犯し、その罰で、大奥での焼死という非業の死を遂げた。
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 第62世日恭上人は、昭和12年11月3日に、第61世日隆上人より血脈相承を受けられ、戦時下の厳しい時代において、もっとも正法護持にご苦労あそばされた御歴代のお1人であられた。
 当時、総本山の一部が軍部の施設「中部勤労訓練所」として借り上げられ、そのうちの書院に、軍部の手で強引に神札が祀(まつ)られる、という事態が惹起(じゃっき)。その謗法の果報故か、昭和20年6月17日、大坊をはじめとする諸施設が焼失する、という大災害に見舞われた。
 日恭上人は、この大災害に際し、一切責任を負われて、火中で覚悟の御遷化(ごせんげ)を遂(と)げられたのであった。
 創価学会は、この一事を捉えて、日恭上人の御事跡に大謗法が存したかのごとく喧伝(けんでん)しているのである。(『慧妙』H14.9.16)


【焼死の真相】
・耳が遠くて逃げ遅れた?
・持病で歩行が困難だったから逃げ遅れた?
・カマドにはまり込み、逃げるに逃げられなかった?
・後からボロボロ出てくる証言は信用できない?
・木材や焼け落ちた屋根瓦が覆って燃えているのに・・・?
・1番先に火の手があがった場所
・肥満していたために逃げ遅れた?
・新聞報道も「逃げ遅れて」?

【日恭上人に対する評価】
―「罰」か「崇高な振る舞い」か―
<宗門の場合>
<戸田会長の場合>

【樺太正宗寺院の焼失】

【命を回向する賢聖方の振る舞い】
<釈尊>
<日寛上人>
<日恭上人>

/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_
【焼死の真相】
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日恭(上人)は耳が遠く、火事であることに気付かず、逃げ遅れて焼死した。
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 当時、お側近くで日恭上人の謦咳(けいがい)に接してこられた、ある寺族の方は次のように証言しておられる。
 「お耳が遠いといっても、それほどではありません。今の私ぐらでしたよ。それは、ある程度のお歳ですから、耳が良くはなくても、普通の会話はされていましたよ
とのことであり、けっして、火事を知らせる叫びが聞こえなかった、などということはありえない。
 学会では、耳が遠かったことの傍証として、当時の信徒(東京・常在寺の直達講副講頭)竹尾清澄氏が、上人の御遷化の少し前にお目通りした際、わざわざ申し上げることを紙に書いてご覧に入れた、という話を挙げているが、これは竹尾氏が猊下の御事をそこまで想って配慮されたまでのことであって、何も、筆談でなければ話が通じないほど、お耳が遠かった、ということではない。(『慧妙』H14.9.16)


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日恭上人は持病で歩行が困難であり、火事の際も、そのために逃げ送れた。
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 日恭上人は当時、頻繁(ひんぱん)に上井出の寿命寺と大石寺の間を徒歩で往復されていたし、火事の起きる日も、上井出から、御僧侶をお供に帰ってこられたのであるから、歩行には支障をきたしてはおられなかったのである。
 そのことは、お供をして記憶している御僧侶も健在であるし、また寺族の方もこう語る。
 「火事の起きる日ね、あそこに”逆さ杉”(現在の奉安堂の左後方の御華水の近く)ってあるでしょ、そこで一休みして、帰ってきたって、そう言っておられましたよ。だから、そんなこと(歩行が困難だったということ)は、絶対嘘ですよ。
 寿命寺と大石寺の間がどれほどの距離であるか、1度、歩いてみるがよかろう。現代人にとっては、車を使いたくなる距離であることは確実である。
 以上によって、「歩行が困難だったから逃げ遅れた」との疑難は、事実でないことがわかる。(『慧妙』H14.9.16)


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大奥2階の床が焼け落ち、日恭上人は1階に落ち、意識のあるままカマドにはまり込み、逃げるに逃げられないまま焼け死んだと思われる。上半身のみ焼け、下半身と腸(はらわた)が残った死体が、そのことを物語っている。
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●(図を指しながら)ちゃんとしたカマドは、こちら(※台所の隣の土間・図のA)にあるんですよ。で、猊下の御遷化になられた場所はこちら(※大奥2階の仏間・図のB)ですからね。まったく離れています。(中略)
 カマドまでは遠いですよ。大奥の小さな台所にあったのは、せいぜい七輪(しちりん)ぐらいのものでした。
 ですから、「カマドにはまり込み」なんてこと、実際も全くありませんでしたし、もとより、はまり込みようがないですよ。
(当時の総本山に詳しい方『慧妙』H14.9.16)
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このように、カマド云々の話は、1つには、使用していたカマドが御遷化の場所とは全く異なっていたこと、2つには、そのカマド自体が小さずぎて人が入れるわけなどないこと等から、明らかに後世の捏造(ねつぞう)であることがわかる。

[画像]:当時の大坊建物の配置図

では、「カマドにはまった」との話は、どこから作り出されたかというと、どうやら次のようなことらしい。

●この大奥の2階建ての建物は、650遠忌の時、60世の日開上人が建てられたんですが、それが建てられる前は、52世の日霑上人の頃に作られた台所が、この場所にあった。ですから、大奥の建物の縁の下には、昔の小さな古いカマドが残っていて、それが、火事の後、焼けた建物を撤去したら出てきたようです。
 そのことと話をつなぎ合わせて、「カマドにはまった」なんて話を作ったんでしょうね。でも、床下の、それも昔のカマドの跡になんか、はまりたくとも、はまれませんよ。(同)
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つまり、大奥の1階の縁の下に、52世日霑上人の御代に建てられた時の小さなカマドが残っていて、火災後、それが発見されたことと、日恭上人の御遷化とを結び付けて作った、邪悪な作り話だということである。

●「猊下のお姿が見えない」と大騒ぎになったのは、火もようやく下火になった頃でしたね。あちこち探しても、お姿が見当たらない。「そういえば、猊下のお姿は最初から見えなかった」ということになり、「もしや」ということで、翌早朝から焼け跡の捜索を開始したんでず。
 捜索は、焼け跡の片付けと並行して進められました。
 大奥のあたりで、それこそ手作業で、慎重に捜索が進められるうちに、「衣のようなものが見えたぞ」との声が挙がったのです。
 そこで、汚れを洗い流すために水をかけつつ、材木を1本1本、手でどけ、また、手で瓦をかき分けていったわけです。
 すると、焼け落ちた屋根瓦などの下から、御宝蔵の方角を向き、合掌されたまま、前屈(かが)みになられた姿勢で御遷化された、日恭上人の御遺体が現われたのです。(中略)
 (※学会の「カマドにはまっていた」との疑難に対し)とんでもない。日恭上人の御遺体の下には、ちゃんと畳が残っていました。もちろん畳の燃えさしの下には、梁(はり)や1階の天井部分などにあたる焼けこげた材木などがありました。その下にはさらに2階部分の瓦礫(がれき)が−2階建ての建物が焼け落ちたのですから当然です。(当時、消防団員として活躍していた志村高氏=故人・平成11年3月没『慧妙』H14.9.16)

●平成6年の6万総登山の前に、平野という副会長が、男子部を連れて脱講運動とやらで家に来たものだから、「おまえら、『創価新報』に何をいい加減なこと書いているんだ。いったい誰から"日恭上人はカマドに嵌(は)っていた"なんていう与太話を聞かされたんだ!?」と、問い詰めたんです。
 そしたら平野らは「僧侶から聞いた」などと言い出した。
 そこで、「だったら、そいつをここに連れてこい。自分は消防団員として現場に駆けつけ、日恭上人の尊いお姿を、この目でしっかりと拝しているんだ。自分の前に、その僧侶とやらを連れてくることができたら、自分が折伏した68世帯全部を引き連れて学会に移ってやるから、さあ連れてこいっ!」と一喝してやったら、奴ら、すごすごと帰っていきましたよ。(中略)
 毎年、過去帳の17日の頁を開くたびに、あの日のことが、まるで昨日のことのように思い出されるのです。甘んじて難に殉じられた日恭上人の尊いお姿を、全くの虚構をもって誹謗する創価学会の主張は絶対に通りません。いや、通させません。何故なら、私も、あの時の"生き証人"の1人だからです。(当時、消防団員として活躍していた志村高氏=故人・平成11年3月没『慧妙』H8?)

かくのごとく、当時を知る方々が異口同音に真実を語っている以上、創価学会の邪悪な文筆家が難癖を付ける隙(すき)はない、と知るべきである。

 池田大作の著書『人間革命』の改訂第2版が、平成25年初頭から続々と刊行されている。今般の改訂では、日蓮正宗の歴史をいかに崇高に見せないようにするか、という点に心血(しんけつ)が注(そそ)がれている。日恭上人の御遷化に関する記述についても、旧版では3ぺージに亘って、焼亡した客殿とともにその身を殉(じゅん)じた日恭上人の雄姿が描(えが)かれていたのだが、すべて削除された。
 ところが今回の改訂版でも、上記怪文書の内容は微塵(みじん)も反映されていない。それは何故か。怪文書の記述は、根拠なき完全なデッチアゲであったからだ。もし、根拠のない誹謗内容を学会の公式出版物に掲載して訴えられたら、学会本部が名誉毀損の罪を負うことになる。それを恐れて、当該誹謗記事を、日恭上人の御遷化を記した『人間革命』改訂版にも載せられなかったのである。(記事参照)


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宗門お得意の後からボロボロ出てくる証言はね。
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宗門側の証言の中心部分は、破門前の学会側出版物と同趣旨のものばかりである。自らの前言を翻し、出所不明の捏造史料を「後からボロボロ出」してくるのは、むしろ学会の方であろう。

証言と言うのなら、この焼死体を現場で目撃した河辺は「2度、焼いたんじゃ……」 と、半焼けの死体を荼毘に付したことを述べ、詳しく語っていたことが知られている。 新しい者は騙せても、宗門古参の老僧などは知っていることだ。
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本人が生存中に認めてもいないことを、勝手に言いふらす。出所も明示せずに誹謗中傷を繰り返す。これこそ学会「お得意」のカルト的手法だ!


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だいたい、2階が1階に焼け崩れ落ち、更に日恭の上から木材や焼け落ちた屋根瓦が覆って燃えているのに、「御宝蔵の方角を向き、合掌されたまま、前屈みになられた姿勢で御遷化」でなんて、あまりに不自然すぎる。
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誰も、燃えている状態の木材や屋根瓦が日恭上人に覆いかぶさったなどとは言っていない。あるいは、御遷化された後に、木材等が落ちたのかも知れない。


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出火は日恭の下の1階から出ているので、1番先に火の手があがった場所でもある。単に逃げ遅れだ。
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●焼けただれた管長室には、第62世日恭猊下が、おいたわしくも、身を火炎に自ら焼き、端座したままの姿であられたのである。 しかも、正装であり、袈裟をかけられたお姿である。そして、一閻浮提総与の大御本尊を御安置した、御宝蔵のほうにむかっていた。(『人間革命』第1巻「千里の道」)
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「正装であり、袈裟をかけられたお姿」つまり、日恭上人には着替えをされるだけの時間的余裕があったのである。

●時折聞こえる敵機の爆音に怯(おび)えた昭和20年6月17日の夜半、すりばん(近所の火事を知らせる半鐘)がけたたましく鳴り、親に起こされて寂日坊の方を見ると、寂日坊の北側のガラス窓が真っ赤になっているのが見えました。大坊の火事が映っていたのです。父や姉はバケツを持って方丈に駆け込みました。やがて客殿は火炎に包まれ、丸柱が倒れる光景を目の当たりにして、大変なことになったと、小さな胸がどきどきしたことを覚えています。
 翌日、日恭上人の御遺体が発見されましたが、日恭上人は部屋の中側から鍵を掛けられ、覚悟の最期を遂げられたと伺いました。
 思えば、日恭上人は大変お優しい猊下であらせられました。御開扉の後、書院の西側の濡れ縁をお供して大奥に登る階段の所まで来ると、「ちょっと待ってなさとと言ってクッキーを紙に包んで持ってきて下さいました。後で知ったことですが、そのクッキーは日恭上人御自身でお作りになったものだったのです。(常秀院日統御尊能化『富士の法統』妙教編集室)


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宗門では日恭(上人)の焼死を「覚悟の御遷化」などと美化しているが、単に肥満していたために逃げ遅れただけで、「覚悟」と呼べるものではなかった。
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●日恭上人がお隠れになる、その日でずね。私はその頃、財務の方を預かっていたから、ある用件を、行って申し上げた。それは、すっかりお聞きになった、帰ろうと思って奥を出て、次の間に来たら、「おい」と呼ばれた。「何ですか」と言ったら、「あれはな」という。「御相承に関するのは、こういうところに入れてあるから、あなた覚えておきなさい」と。「承知しました」と言って、私はそのときに奥を下ってきたけれども、”まてよ、今日に限って日恭上人が変なことを言われたぞ。日恭上人に何か事がなければいいな”と思っていた。そうしたところが、その晩でしょう。
 そのときに、日恭上人が私にお話なさった言葉を、その翌日か翌々日に、堀猊下がいらっしゃった時分に、一切のことを申し上げたら、堀猊下は「それは日恭上人は、それぐらいのことはあるはずだ」とおっしゃって、手帳へお書きになった。
 それから、次の猊下になられた日満上人にも、私はこのことを申し上げた。(中島日彰尊能化の懐古談『大白蓮華』S32.12・第79号/『慧妙』H14.9.16)
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日恭上人が、血脈不断のための御準備と御自身の御覚悟をなされていたことが拝されるではないか。

●焼けただれた管長室には、第62世日恭猊下が、おいたわしくも、身を火炎に自ら焼き、端座したままの姿であられたのである。
 しかも、正装であり、袈裟をかけられたお姿である。そして、一閻浮提総与の大御本尊を御安置した、御宝蔵のほうにむかっていた。
 猊下はお逃げになることは、いくらでもできたのである。その証拠に、数百人の罹災者のなかで、負傷者は1人もなかった。
 戦況の日に日に非なることに話が及んだ時、猊下は、ひとりごとでも言われるように、側近の老僧に語った。
 「国が滅亡びるか、否かの時になった。私も、いつ倒れるかわからない
 さらに、その数日前、もう1人の老僧にも、猊下は、異常な御覚悟を語っていた。
 「…私に、万一のことがあろうと、御相承のことは、お2人の御隠尊猊下(堀日亨上人、水谷日隆上人)がいらっしゃるから、何も心配はない。」(『人間革命』第1巻「千里の道」)
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かつての池田大作は、日恭上人の覚悟の御遷化について、このように認識していたにも拘(かか)わらず、日蓮正宗と挟(たもと)を分かった途端、部下共に悪し様な侮言(ぶげん)を吐(は)かせるのだから、呆れるではないか。

●日恭上人は客殿の焼失とともに、我が身を自ら火炎に焼き、死身弘法の誠を示された。日恭上人はこのことをかねて予知されており、側近の老僧に対し、「国が滅びるか否かの時になった。私はいつ倒れるかわからない」と語っていたといわれる。(『新版仏教哲学大辞典』初版1355頁)


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◆午後10時半ごろ、大坊の対面所裏から出火した火事は、対面所、大奥(管長室)、書院、客殿、六壷、米蔵等を全焼し、18日午前4時前に、ようやく鎮火した。この火事で管長鈴木日恭師(77)は逃げ遅れて焼死(『毎日新聞』S20.6.19)
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日恭上人が焼死であられたことは、誰も否定していない。だから火事についてのマスコミ報道としては、「逃げ遅れて焼死」と書くのも仕方あるまい。そもそも、新聞記者以上に、火事の前後の状況や、日恭上人の言動を詳しく御存知だったのは宗門関係者である。当該記事に「逃げ遅れて焼死」した理由を証言に基づいて詳しく記述しているのならともかく、そうでない以上、記者が短絡的に、失火が原因で焼死したから「逃げ遅れ」たと発想したまでのことである。つまり、このような記事があったからといって覚悟の死を否定する証明にはならない。




【日恭上人に対する評価】
―「罰」か「崇高な振る舞い」か―

<宗門の場合>
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 日恭が焼死した時、当時の宗門ははっきりと仏罰とした。
 焼死した日恭法主の後を受け、一時、管長代務者をつとめた能化の中島日彰が大火からわずか3ヵ月後に、東京・妙光寺で語った話の最後で、
 「金口嫡々の法主上人が此くの如き御最後を御遂げになったと云ふことは僧俗共に深く考へなければならぬことで、是は大聖人大慈の御誡であります」としている。大聖人からの誡めであるという認識に明瞭に立っている。
 「宗報」に掲載された、当時の大僧都・渋田慈旭も、
 「宗門全体に対する御罰でなくてなんであろう、今こそ宗門僧俗一同の責任に於て深く総懺悔をしなくてはならぬ。(中略)宗門も中古以来神天上の法門などすっかり棚に上げて自然と世間の風潮になじんで軟弱化して来た事、特に戦争中は軍の一色に塗り潰されて官憲の手前大事な国家諫暁等は勿論、真の布教は封ぜられ結局時局便乗で進むより外は実際に手も足も出なかった。大聖人の弟子として何と情けない事か」(「宗報」S23.6)
としている。
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 「大聖人大慈の御誡」「御罰」とは日恭上人に対する語ではない。それは「僧俗共に」向けられた御誡であり「宗門全体に対する」御罰である。また、「僧俗」に中島尊能化が入り、「宗門全体」に渋田尊師が入ることは当然である。
 即ち、師を焼死という形で失った悲しみ・衝撃自体が残された弟子檀那にとっては地獄界である。さらに、自己を含む弟子檀那の不甲斐なさを反省する意味で敢えて「誡」「罰」と言う厳しい語を使用したのであろう。不甲斐なさとは、1には小笠原慈聞という獅子身中の虫を生み出してしまったこと。2には、彼に追随する者がいたこと。3には、1・2の理由などにより、宗門全体が一丸となって国家権力に対峙することができず、結果として御法主上人の宸襟を悩ませ奉ったことへの深い懺悔の言であり、将来の謗法厳戒と随力弘通への決意表明というべきであろう。

1●日恭上人がお隠れになる、その日でずね。私はその頃、財務の方を預かっていたから、ある用件を、行って申し上げた。それは、すっかりお聞きになった、帰ろうと思って奥を出て、次の間に来たら、「おい」と呼ばれた。「何ですか」と言ったら、「あれはな」という。「御相承に関するのは、こういうところに入れてあるから、あなた覚えておきなさい」と。「承知しました」と言って、私はそのときに奥を下ってきたけれども、”まてよ、今日に限って日恭上人が変なことを言われたぞ。日恭上人に何か事がなければいいな”と思っていた。そうしたところが、その晩でしょう。
 そのときに、日恭上人が私にお話なさった言葉を、その翌日か翌々日に、堀猊下がいらっしゃった時分に、一切のことを申し上げたら、堀猊下は「それは日恭上人は、それぐらいのことはあるはずだ」とおっしゃって、手帳へお書きになった。
 それから、次の猊下になられた日満上人にも、私はこのことを申し上げた。(中島日彰尊能化の懐古談『大白蓮華』S32.12・第79号)
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日恭上人が覚悟の焼死であられたことを示す証言者の1人が、何と中島日彰尊能化だったのである。覚悟の死を罰だと捉えるはずがなかろう。

少なくとも日恭上人に対する「誡」「罰」でないことは、当時乃至以後の宗門においても、一貫して宗旨の根本は大御本尊と唯授一人の血脈であったことから明らかである。

●申すまでもなく御相伝となりますれば直接御指南の金口嫡々の御相承や宗門の上の御教示等重々あらせられると拝しますが、それは御法主上人として大事大切なことでありまして、一般の僧侶や信徒としては御法主上人に随順し奉ることによって、自ら受けることができるのであります。それ故此には従来拝読を許されてをる御相伝書を挙ぐるに止めたのでありまして、此れを以て全部であると速断してはならないのであります。(第65世日淳上人『大日蓮』S27.7~S27.11/『日淳上人全集』1150頁)

●但し直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(『百六箇抄』全集869頁)
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第59世日亨上人は「後加と見ゆる分の中に義において支語なき所には一線を引き」(『富士宗学要集』第1巻25頁)とあるごとく、史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのです。此の御文は百歩譲っても日亨上人の御指南と拝するべきです。


<戸田会長の場合>
●昭和18年6月に学会の幹部は登山を命ぜられ、「神札」を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうかと、2上人立ち会いのうえ渡辺慈海師より申しわたされた。
 御開山上人の御遺文にいわく、
 「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(御書全集1618頁)
 この精神においてか、牧口会長は、神札は絶対に受けませんと申しあげて、下山したのであった。(S26.7.10『創価学会の歴史と確信』/『戸田城聖全集』第3巻)
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「時の貫首為りと雖も・・・」これは、昭和18年6月当時の牧口会長の確信を述べたものである。しかし、結局は牧口会長も本山の指示に従い神札受容(形式的なもので祀ることは認めていない)を決め、会員用に「通諜」を作成。また、逮捕後は「国法にはどんなにでも服従」(牧口会長「獄中書簡」S19.3.16/『牧口常三郎全集』第10巻288頁)と。(<学会「弾圧」の真相>参照)

2●「涅槃経に云く『一切衆生異の苦を受くるは悉く是れ如来一人の苦なり』等云々。日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是れ日蓮一人の苦と申すべし」
 彼(※戸田)は、日恭猊下は一国謗法の苦を、御一身にお受けなさったものと拝察した。有り難い極みではないか、と思った。(『人間革命』第1巻「千里の道」)

●こうして合同問題のもつれと、小笠原一派の叛逆、牧口会長の国家諌暁の強い主張等を背景とし、直接には牧口会長の折伏が治安を害するといい、又神宮に対する不敬の態度があるとして、弾圧の準備が進められたから会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)
●あなた(小笠原慈聞師)の神本仏迹論を、深く謝罪しなさい。私に謝れとはいわん。御本尊様にお詫び申し上げるのです。そして、いまは亡き日恭猊下と、初代牧口会長の霊に謝るのです(戸田城聖の発言『人間革命』第6巻)
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第59世日亨上人は弾圧の要因の1つを「小笠原一派の叛逆」としている。もし、日恭猊下が謗法に与同していたのであれば、戸田会長も、日恭上人を牧口会長や御本尊と同列に並べて、「謝れ」とは言わないだろう。

●誰がなんと言おうと、誰がどうあろうと、私は総本山に御奉公の誠を尽くし、猊下に忠誠を尽くし、広宣流布のため、今こそ死身弘法の実践を、この佳き日に誓うものであります(戸田会長の言・S23.11客殿六壷復興落慶法要『人間革命』第3巻「結実」)

●日蓮大聖人から600余年、法統連綿と正しくつづいた宗教が日蓮正宗である。もっとも完全無欠な仏法が正宗なのである。(S26.7.10『創価学会の歴史と確信』/『戸田城聖全集』第3巻111頁)
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この部分は、昭和26年当時の戸田会長の考えである。一方、神札容認の宗門の態度を「己義」とまで批判したのは、昭和18年6月当時の故人・牧口会長の「確信」である。

●水魚会関係者から毎日総本山へ「身延と合同せよ」という勧告電報が来たそうで、遂に鈴木日恭猊下は断固たる御決心から直々文部省へ出頭遊ばされ日蓮正宗は他派と絶対に合同せぬ由の御決意をのべられ、この合同問題に止めをさゝれたのであつた。(戸田城聖「なぜ小笠原師が牧口会長を殺したと言うか」『聖教新聞』S27/『大白法』H3.4.1)

 ともあれ、日に日に悪化する戦況と、それにともなってますまず濃くなる国内の大謗法、さらには清浄なる山内に軍部が強引に持ち込んだ神札−、正法を命がけで護持される御当代上人であればこそ、このような御覚悟を持たれたに違いない。
 また、何よりもそれは、日亨上人の「日恭上人は、それぐらいのことはあるはずだ」(上記1●)との御言葉からも、充分に拝されるではないか。
 戦後生まれの新興宗教にして、日蓮正宗に寄生して生き長らえてきた創価学会ごときが、自らの変節と無定見さを棚に上げて、大法を護持あそばされた日恭上人を誹謗するなど、もってのほかである。
 ことに、毒々しいオカルトもどきの邪悪な作り話を作った莫迦小僧は、自らを待ち受ける還著於本人(げんちゃくおほんにん)の果報を畏(おそ)れるべきであろろ。(『慧妙』H14.9.16)




【樺太正宗寺院の焼失】
●真岡には、港を見下ろす山の手の一角に、開法寺があった。樺太唯一の正宗寺院である。住職は辰野開道尊師といい、50歳を超えた独身僧侶であった。1人の弟子と、その姉と3人して、日本の最北端の法城を護っていたのである。
 突如、8月15日の終戦となった。在留邦人は、船便のあり次第、婦女子の引き上げを開始した。19日の船便で、辰野尊師は、1人の弟子とその姉を乗船させ、貯金通帳のすべてを持たせてやった。そして、1人で法城を護る決心をしたのである。
 ソ連軍は南下し、20日には真岡に迫ってきた。真岡の日本軍は、抗戦したらしい。そして、背後の山中に隠れていった。市街地に無気味な銃声が起き、やがて海上から凄い地響きとともに、艦砲射撃がはじまったのである。(中略)翌21日夜、左手の山の手に、真っ赤な火炎が上がった。倉庫の千名の眼には、それが開法寺ではないかと目測できた。
 果たして、開法寺であった。夜8時ごろ、突然、火を発したのである。火を吐く本堂では、読経・唱題が中断することなく、声高らかに続いていた。(中略)炎上のさ中に、唱題と太鼓の音が、あたりに絶えることなく響きわたっていた。
 暗い夜空に、無気味な炎を寺院を一なめにし、火炎は屋根を突き破っていった。やがて火勢が衰え、棟が燃え尽きたように、どっと崩れ落ちた。この時、唱題と太鼓の音も、止んだのである。(中略)翌朝未明に、2、3の信徒は、焼け跡に白骨を見た。それは、御本尊の須弥壇の前とおぼしきところであった。辰野尊師は、御本尊と運命を共にすることを、最高の責務と考えたのであろう。(中略)聞き入っていた本山の僧侶の顔も、真剣であった。1年前の客殿焼亡と、日恭猊下の御遷化を、思い起こしていたのである。(『人間革命』第2巻「光と影」)
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開法寺焼失のときの辰野尊師について「御本尊と運命を共にすることを、最高の責務と考えた」と名誉の殉教と捉えていた。さらにこの殉教と日恭上人の焼死を結びつけていたのである。実際、辰野尊師の焼死は日恭上人焼死の1年後のことであり、辰野尊師は、日恭上人の焼死の件は御存知であったはずである。そうであれば辰野尊師の殉教は、日恭上人の御遷化の姿と精神を受け継いだ行動であったともいえよう。

<一方は殉死、一方は現罰!?>
―覚悟の死―

・日恭上人がお隠れになる、その日ですね。(中略)「御相承に関するのは、こういうところに入れてあるから、あなた覚えておきなさい」と。(日恭上人)
・1人の弟子とその姉を乗船させ、貯金通帳のすべてを持たせてやった。そして、1人で法城を護る決心をしたのである。(辰野尊師)
―御本尊に唱題―
・正装であり、袈裟をかけられたお姿である。そして、一閻浮提総与の大御本尊を御安置した、御宝蔵のほうにむかっていた。(日恭上人)
・焼け跡に白骨を見た。それは、御本尊の須弥壇の前とおぼしきところであった。(辰野尊師)
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覚悟の死であったことといい、御本尊に唱題しながら迎えた死であったことといい、お2人の状況は全く同じであったといってよい。それなのに、辰野尊師は殉教で、日恭上人の場合は罰だというのだから、矛盾も甚だしい。その上、日恭上人の御事についても、破門前は覚悟の殉教と捉えていた、それどころか「一国謗法の苦を、御一身にお受けなさった」(上記2●)とまで言っていたのであるから、殉教以上の深い大慈大悲に基づく尊い振る舞いだと捉えていたのである。この学会の無節操な変節には呆れてしまう。

●常泉寺の在勤間もなく、昭和20年3月10日の東京大空襲があって、浅草、日本橋、墨田区一帯が全部戦火に見舞われました。
 その時常泉寺には、僧侶は日昇上人と私の2人、あと浦安から来ていた目の不自由なお手伝いのおばあさんが1人の、計3人しかいませんでした。
 日ごろ、私は日昇上人より、「空襲になったら本堂の窓を全部開け放つように」(これは空襲になった時にどちらの方角から火の勢いが来るか見るため)と言いつかっていたのですが、その大空襲の時、いざ「空襲」と言われ、本堂にすっとんで窓を開けた時には、すでに前の本行寺側は火の海でした。御住職の日昇上人は白衣とモンペのお姿で「自分はお寺と運命をともにする!」との断固たる決意でいらっしゃいましたので、私も猊下の驥尾(きび)に付して、猊下とともにお寺をお守りする決意でいました。
 投下された焼夷弾で周囲は火の海となり、常泉寺の庇(ひさし)に火が点(つ)きました。それで、猊下と私とおばあさんと3人でバケツリレーで水を運び、消火につとめました。そこへ、花屋の岡本さんが飛んできて屋根に梯(はしご)をかけ、また、通りすがりの兵隊さんが、協力してくれて、私たちが運んだバケツの水で、常泉寺の庇に点いた火を何とか消し止めてくれました。
 あの大きな常泉寺の建物が燃えてしまうと、風下にあった大島病院や電車通り(水戸街道)のあの一帯が火の海になるところだったのですが、常泉寺の火を消し止めたので助かったのだと思います。常泉寺が焼け残ったおかげで、あの辺一帯も焼けることがなくて本当によかったと思いました。(常布院日康御尊能化『富士の法統』妙教編集室)
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当時の宗門にも、身命を投げ打って寺院を守護せんとする方がたくさんいたのです。今の学会員が、日恭上人の焼死を事故や罰としか考えられないのは、真に清らかな正信の世界を知らないからでしょう。




【命を回向する賢聖方の振る舞い】
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唯授一人が何故焼死を選んだのかね?
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<釈尊>
●仏の寿命・百二十まで世にましますべかりしが八十にして入滅し、残る所の四十年の寿命を留め置きて我等に与へ給ふ恩をば四大海の水を硯の水とし一切の草木を焼て墨となして一切のけだものの毛を筆とし十方世界の大地を紙と定めて注し置くとも争か仏の恩を報じ奉るべき(『四恩抄』全集938頁)
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仏は御自分の寿命の1/3を衆生に施されたのである。

<日寛上人>
●詳公(※日詳上人)薬養を勧む、師云はく色香美味の大良薬を服するを以て足りぬ更に何をか加へんや、詳公再三諫め勧む、師云はく実には思ふ所あつて医療を為さず、所以は何ん天台止観第五に云はく行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起る、乃至、随ふべからず畏るべからず之レに随へば人を将いて悪道に向はしむ、之レを畏れば正法を修する事を妨ぐ等と、吾祖曰く此釈は日蓮が身に当ての大事なるのみにあらず門家の明鏡なり(以上内十六已下内廿六)
 凡ソ一念三千の観法に二あり一には理二には事なり、天台伝教の時は理なり、今の時は事なり観念既に勝るる故に大難又色増さる、彼レは迹門の一念三千此レは本門の一念三千なり天地遙に殊なり殆ンど御臨終の時まで御心得あるべく候なり以上御書、料り知ぬ当山年を追うて繁栄し観解倍ス勝進す当に三類の巨難競ひ起るべきか、予春よりこのかた災を攘(はら)ふこと三宝を祈誓すること三度仏天哀感を垂れ病魔を以て法敵に代ゆ謂ゆる転重軽受とは是レなり、憂ふべからず憂ふべからず。(『日寛上人伝』/『富士宗学要集』第5巻357頁〜)
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日寛上人は敢えて医療を拒否し、自身に襲いかかる病魔を、将来総本山に競い起こるであろう巨難として、これを転重軽受されたのである。

<日恭上人>
●「涅槃経に云く『一切衆生異の苦を受くるは悉く是れ如来一人の苦なり』等云々。日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是れ日蓮一人の苦と申すべし」
 彼(※戸田)は、日恭猊下は一国謗法の苦を、御一身にお受けなさったものと拝察した。有り難い極みではないか、と思った。(『人間革命』第1巻「千里の道」)
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日恭上人の御最期は確かに、明治維新における廃仏棄釈以来の神道中心の国家的謗法行為と、その結果としての戦争の世紀を総括される一切の責任を負われた崇高なお振る舞いであられたことは、その従容たる覚悟のお姿によって明白である。特に、日恭上人の御遷化後、僅か2ヵ月も経たぬ8月、広島、長崎に原爆が投下され、数十万の人々の猛火による犠牲をもって戦争が終結し、国家神道の謗法が終焉すると同時に、平和憲法による信教の自由の時代を迎えたのである。この仏法上の重大なる意義と日恭上人の御遷化とは決して無関係ではあられないと固く信ずるものである。(「離脱僧らの再度の邪難を破す」/『大白法』H14.9.1)

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◆聖人は横死せず(『神国王御書』)
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日恭上人が火事以前より御自身の死を覚悟されていたことは、中島尊能化の証言(上記1●)から明白。失火自体は思いがけない災難であったが、この災難に自ら身を投じることによって、一国謗法の責めを一身に受けられたことは、種々の証言から容易に推察できることである。つまり、きっかけは不慮の失火であっても、覚悟の死であることに変わりはないのである。だから「横死」とはいえない。信心のない者は、表面上の現象に囚われて短絡的に罰だ功徳だと決め付ける。


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◆聖人・賢人・福人・智者をば火やくことなし(『王舎城事』)
◆大果報の人をば大火はやかざるなり(『王舎城事』)
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これも上記同様、不慮の火災についての御指南であり、日恭上人には当てはまらない。

●不軽品に云く「悪口罵詈」等、又云く「或は杖木瓦石を以て之を打擲す」等云云、涅槃経に云く「若しは殺若しは害」等云云、法華経に云く「而かも此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し」等云云、仏は小指を提婆にやぶられ九横の大難に値い給う此は法華経の行者にあらずや、不軽菩薩は一乗の行者といはれまじきか、目連は竹杖に殺さる法華経記莂の後なり、付法蔵の第十四の提婆菩薩・第二十五の師子尊者の二人は人に殺されぬ、此等は法華経の行者にはあらざるか、竺の道生は蘇山に流されぬ法道は火印を面にやいて江南にうつさる・此等は一乗の持者にあらざるか(『開目抄』全集230頁)
●提婆師子は身をすつ薬王は臂(ひじ)をやく上宮は手の皮をはぐ釈迦菩薩は肉をうる楽法は骨を筆とす、天台の云く「適時而已」等云云(『開目抄』237頁)
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聖人・賢人といえども、難によって火に焼かれたり、殺害されることがある。或は法を求めて自ら我が身を火に焼いたり、命を落とすこともある。これらは、謗法怨嫉の徒より故意に被った場合か、自ら進んで行ったものである。しかし日恭上人は、不慮の火災を国家乃至宗門の難と捉え、それを一身に受けることによって転重軽受されたのである。これは、日寛上人が、病魔を法敵に代え転重軽受されたのと同様であると拝する。


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◆第四火不能焼水不能漂の事御義口伝に云く火とは阿鼻の炎なり水とは紅蓮の氷なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は此くの如くなるべし云云(『御義口伝』)
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●提婆達多は現身に阿鼻の炎を感ぜり(『神国王御書』全集1525頁)
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「火とは阿鼻の炎」とあるが提婆達多は焼死した訳ではない。つまり、「火不能焼」の「火」とは阿鼻地獄の苦しみを譬えた語であるといえよう。


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いったいいつから仏教徒に「自殺」が認められるようになったのですか?
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 そういえば、私が学会員時代に当時の県青年部長が、「自殺は一番いけない」なんて言っていました。確かに、一般論としては自殺はいけないことだし、他殺はもっといけないことでしょう。そして仏法においても命の大切さは説かれています。
 しかし、仏法では命以上に大切なものがあり、それが三宝であると説かれているではありませんか。大切な命だからこそ、その命を三宝、とくに仏と法に供養することが不惜身命の実践となるのです。その結果として即身成仏できるのですから、命を捨てることによって、実は自身の命を絶対的に価値のある存在とすることができるのです。
 まことに仏法の思想は深く広大であり、単純に世間一般の常識で推し量ることはできないことを知るべきです。

●世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし牛馬猶身を惜む況や人身をや癩人猶命を惜む何に況や壮人をや、仏説て云く「七宝を以て三千大千世界に布き満るとも手の小指を以て仏経に供養せんには如かず」取意、雪山童子の身をなげし楽法梵志が身の皮をはぎし身命に過たる惜き者のなければ是を布施として仏法を習へば必仏となる身命を捨る人・他の宝を仏法に惜べしや、又財宝を仏法におしまん物まさる身命を捨べきや、世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数多し男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ、魚は命を惜む故に池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむしかれどもゑにばかされて釣をのむ鳥は木にすむ木のひきき事をおじて木の上枝にすむしかれどもゑにばかされて網にかかる、人も又是くの如し世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし。(『佐渡御書』全集956頁〜)
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大聖人は命を捨てる事自体を必ずしも否定されていない。問題は何のために捨てるかである。世間一般に自殺を否定するのは、人生を落胆し世をはかなんだ行為だからであろう。

●昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子・薩埵王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ(『佐渡御書』全集957頁)
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薩埵王子は、身を捨てることによって菩薩行を実践した。この行為も世間一般の常識から言えば「自殺」なのであろう(<摩訶薩埵の捨身>参照)。


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蓮祖は頸の座を見事に克服なさいました。嫡々一人は嘘なのかね?
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<内証と外用>参照。






『大橋慈譲講本集』について(仮題)

―『新報』の「信仰的意味づけ」は矛盾―
―一国謗法の責を受けられた日恭上人―

(『慧妙』H6?)

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◆私(亨師)は再三、貴師(恭師)は2階が好きらしいが、疝気(せんき)等を起こして足腰が弱いのですからいざという時危険です。2階住まいはやめなさいと注意しておったが、一向にやめないで、終りにあのような最期を遂げた。2階住まいしなかったら焼けなかったろうに。信仰的意味づけは立派であるが、それは事実と違うではないか。原因結果しかない(日亨上人『大橋慈譲講本集』より)
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日恭上人は、足腰が弱いのに大奥の2階住まいを好んだため、火事より逃げ遅れた。また、他の悪条件も重なって火中での御遷化となったのであり、これは罰であった。(『新報』7月20日付)
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 この日亨上人のお言葉は、大橋慈譲尊師(神奈川・正継寺)との会話の中で仰せられた、とされているものであるが、その前後の脈絡等は余人にはわからぬことである。
 また、むしろ、「信仰的意味づけは立派であるが、それは事実と違うではないか。原因結果しかない」との言は、浅い一般的・世間的な因果についてのみ示し、仏法上の因果や意義づけをすることを避けたものであるから、学会のいうごとき、「火中での御遷化は罰」とする「信仰的意味づけ」は、もとより否定・排除されるべきであろう。資料の引き方を間違えてはいけない。
 なお、学会は、どうしても「火中での御遷化は仏罰」としたいらしいが、池田の『人間革命』には、大戦終了直後、樺太の正宗寺院・開法寺で、読経唱題しながら火中で御本尊と共に御遷化された一御住職のことが記されているではないか。
 一末寺の御住職においてもなお、寺院について全責任を負われるのである。まして、日恭上人は大石寺の住職であられ、また、一宗の全責任を背負われる御法主であられる。一国の大謗法、軍部による書院への神札奉安、総本山大石寺の火災―これらの一切の責任を、御一身に受けられたものと拝するのである。

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 『大橋慈譲講本集』は、日亨上人が兄弟弟子を失った悲しみを直截に表現したもので、広く他人に聞かせることを意識して論理的に述べたものではない。とくに普段から日恭上人の御身体を心配なさって「足腰が弱いのですからいざという時危険です。2階住まいはやめなさい」と御注意申しあげていたものだから、余人とは異なる立場から主観的直感的に、この御注意と焼死の事実を単純に結びつけたものであろう。
 いずれにせよ、日亨上人は当日、現場には居られなかったのであるから、焼死の真因については推測の域を出ないし、ましてや"罰"などとは一言も仰せになっていない。
 御発言からすれば"1階に住んでおれば焼死しなかった"という見解ともとれるが、これはむしろ、もっと厳しく御注意申し上げておればよかったのにという、御自分を御責めになる後悔の念の表明に過ぎない、といえよう。
 日亨上人から直接お話を伺った大橋御尊師自身、日恭上人の御遷化について「戦争・軍部独裁という背景、その中で起こった不慮の出来事、その中で起こった一瞬の有り様、これらは体験した人でないと判りません」(下記■)とし、日亨上人ではなく「ある老僧」の「間近にそれを体験し、自らも避難した生々しい手記」を引用され「『覚悟の死』と思われるお姿で御遷化」とされている。
 また、「信仰的意味づけは立派であるが、それは事実と違うではないか。」という御発言であるが、日亨上人は信仰上は、唯授一人の血脈を根本とお考えになっておられた。そのことは、以下の御指南に明らかである。

●「初め此仏菩薩に従つて結縁し還つて此仏菩薩に於いて成熟す、此に由つて須らく下方を召すべきなり」と云ふ文句の文なり、(中略)此仏と云ふも此の菩薩と云ふも・共に久遠元初仏菩薩同体名字の本仏なり、末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり、猶一層端的に之を云へば・宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり(第59世日亨上人『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻117頁)
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「宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり」とあるように、血脈に直系傍系があります。直系とは別しての唯授一人の血脈であり、傍系とは総じての信心の血脈です。

●但し直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(『百六箇抄』全集869頁)
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日亨上人は「後加と見ゆる分の中に義において支語なき所には一線を引き」(『富士宗学要集』第1巻25頁)とあるごとく、史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのである。「尽未来際に至るまで」の御文に注目すべし。

これらの事実を無視して、日亨上人の御発言を利用し、同上人が仰せにもなっていない"罰"と決め付ける学会の態度は、日亨上人をも冒涜するものではないか。(法蔵)

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■日恭上人 追憶談
―第50回遠忌 御逮夜法要の折―
(遺弟代表 正継寺住職・大橋慈譲御尊師『大白法』H6.7.1)

1.序
 本年は、総本山第62世日恭上人が昭和20年6月17日、御遷化になられましてより第50回遠忌に相当たります。
 従いまして、もったいなくも総本山第67世日顕上人猊下には、御法務極めて御繁多の中、親しく大導師を賜わり篤く御礼申し上げます。また、総監殿をはじめ満山大衆の御焼香を得て、この50回遠忌を迎えることは、私共行遺弟(ゆいてい)にとって残る生涯の感銘であります。
 私は、北海道の出身にして昭和13年、16才にて日恭上人を御師範と仰ぎ出家得道し、道号を慈謙と戴き、目下、神奈川県相模原市・正継寺にて御奉公させていただいておる者でこざいますが、本日、法類を代表して御師範上人の追憶談を語らせていただきます。

2.発心
 上人は幼少より、御母堂様に伴(ともな)われて久留米・霑妙寺に参詣しておりました。御母堂様は大変信仰心が篤く、ついにその薫化によって上人は、明治13年12月20日、12歳の時、自ら発心して、御住職佐野広謙師、即ち妙寿日成尊尼を御師範と仰ぎ、出家得道し、道号を慈謙と戴きまた。(後に日霑上人の譲り弟子となられた)
 本来、名前はその人にふさわしいものを付けるものであって、妙寿尊尼は上人の道号を付けるに当たって、その性格にふさわしいものを付けたと思われます。
 即ち、慈謙の慈は日霑上人の道号、「慈成」の慈で、日霑上人の門下たるを示します。次に謙の字の意義は、謙は謙譲の謙で、へりくだることを意味し、謙譲は、へりくだりて人に譲ることであります。
 これは、後に猊座に昇られた以後の話でありますが、上人御当座の折には3御隠尊、即ち日亨上人・日開上人・日隆上人がおられまして、年間の御虫払、御会式の大法要の後、日恭上人と3御隠尊上人が会食をなされる慣習があり、客殿での法要が終えられ、大奥へ向かわれる途中、大書院と書院番部屋の間の処で、上人は毎回、必ず3隠尊上人をお待ちになり、3御隠尊へ「どうぞ、お先へ」と先頭を譲られる。すると日亨上人は「御当職よりどうぞ」と譲られる。そんなやり取りが2〜3回あって、やっと御当職の上人が先頭に立たれて中へ入られたと。ある老僧は、今になっても先師方のその謙譲の美徳を讃歎されておりました。
 更に霑妙寺時代、妙寿尊尼の補佐として十数年御給仕申し上げました。普通でありますれば謹厳そのものの師匠に仕えては1〜2年で音をあげますのに十数年お仕えしました。御本山に上がってもまた、日霑上人にお側近く御仕えしました。
 日霑上人はよく弟子を叱正されました。そんな時は他の御弟子方は近づきませんが、謙譲の美徳ある上人は、そんな時でも逃げようとされず、進んで御給仕なされましたので、叱正を戴くのは常に上人で、これはAの分、これはBの分と人の分まで度々戴きました。よってますます日霑上人は憎からず思召され、終には御養子になされたとのことであります。

3.人柄
 謙譲の美徳は温厚篤実(とくじつ)となって表れ、また決して嘘をいわぬ「真正直な方」でありました。嘘をついて人を騙(だま)したということは、何れの方も見聞したことはないと言います。
 また天真爛漫(らんまん)にして俗智に染まぬ方で、また天衣無縫(むほう)、善悪共に秘密の無い、円満無垢(むく)の仁(ひと)であったといいます。後に三仏という逸話がありますが、その三仏の1人に数えられております。
 三仏とは、木仏は日恭上人、金仏は日開上人、石仏は太田広伯老師のことで、仏様の如き良き人格であられたので、かくの如く言われたということであります。それが為か、信徒間においては絶対の尊崇をうけ、霑妙寺においても、大阪・蓮華寺においても、更に本山においては東都の有識層等の数多の御信者方に囲まれたのであります。

4.生苦
 今、霑妙寺時代の妙寿尊尼を補佐した日課の記録がありますが、毎朝起床は4時、勤行は必ず5座世雄偈(せおげ)を読み、各座長行を読みますので、優に2時間かかりました。参詣は常時40〜50名、御経後は座談と法話、日曜は華道・身行給仕・諸々の教訓等、10年1日も欠かさず実行されたとあります。
 猊座に登られてからは、私は小僧時代約1ヵ年間くらい大奥副番を勤めましたので、ほぼ正確にその御様子を覚えております。
 丑寅勤行等、日常の決まった生活は別としまして、特に今でも鮮明に記憶しておりますことをお話しますれば、上人は若い時はお痩せになっておられましたが、壮・老年には大分お太りになられ、上背が無いものですから特にお腹の恰幅(かっぷく)の良さが目立っておりました。
 食事は甚だ質素で、ほとんど一汁一菜でした。好物は豆腐とか湯葉で、夕食時には、時たま私に材料を運ばせ、湯豆腐や湯葉鍋を居間の長火鉢にて作られました。
 御給仕は、ほとんど私がさせていただきました。最初は小僧に上がった初めでもあり、宗門で、否世界で一番偉い方の御側近くの御給仕と思うと、震えるほど緊張しましたが、後、上人の御人柄にふれて楽な姿勢で御給仕させていただけるようになり、先師方(日霑上人や妙寿日成尊尼)のエピソード等を数多聞かせていただきました。

5.弘教
 次に、遡(さかのぼ)って申し上げますれば、明治26年、上人25才にて八幡・法霑寺の前身、頃末(ころすえ)教会担任教師となりました。即ち妙寿尊尼が先に久留米・霑妙寺を設立し、その後、続いて九州法戦の補佐として赴任したのであります。その頃の記録によりますと、すでに尊尼の努力によって、博多・長崎・遠賀(おんが)に布教陣が展開しておりましたが、更に青年僧であった上人が加わって一段と力が加わりました。明治38年長崎教会(現在の法光寺)設立、頃末教会を八幡尾倉山に移転、上人も信徒と共に土方作業をして明治41年新寺を設立。明治42年門司教会(妙境寺)設立。そのほか佐世保教会(法光寺)、大在教会(大分妙祥寺)、下田教会(下関妙宝寺)、防府教会等を尊尼と共に設立されます。更に大正3年霑妙寺の本格的堂塔伽藍を建立されておられます。
 以上のような輝かしき御功績は、妙寿日成尊尼の御高徳と名補佐役としての上人の折伏逆化の弘教の然らしむるものであります。

6.国諌
 今次、大戦にあたって国諌云云のことを巷間(こうかん)に聞こえますが、今となってはそれを知る手立てはありません。しかし、次の如き堀日亨上人の記録がありますので引用させていただきます。
 「予が池袋の蟄窟(ちっくつ)に駕(が)を枉(ま)げて国諌の御相談があった(乃至)安政度の霑上の国諌ぶりをも引いて懇談した(乃至)此の盛挙は取止めになった道程は聞かないが但或方面の低級な御信者の中には池袋の隠居は国諌は嫌ひぢやげな先聖に背く怪からぬ悪魔であるとかの聲がしたとの事、尤も宗門の表面から隠れて居る足の無い亡者であるから此の曲批を不問に付した云云」(堀日亨著『日恭上人伝補』29〜30頁)
 この一文によって、当時宗門要路の方々が、国諌の件も視野に入れて行動をなされたことがよく理解できるのであります。

7.御遷化
 昭和20年6月17日不慮の災難によって御遷化。この事実に対し最近種々云々されますが、戦争・軍部独裁という背景、その中で起こった不慮の出来事、その中で起こった一瞬の有り様、これらは体験した人でないと判りません。ある老僧は、間近にそれを体験し、自らも避難した生々しい手記を残しました。今、それを使うて、その現実を再現し垣間見てみたいと思います。
 「今にして思えば、當時の日本は既に敗戦色が濃かったのであるが、昭和二十年六月頃は連日のように米空軍機による東京空爆が激しくなり、特に東京空爆をするB29爆撃機は富士山を目標に襲ってくるため、お山の上空はその通過経路となり、警戒警報・空襲警報発令が連発される毎日であった。(中略)そう云う状況の中で、お山は陸軍の農工隊が将校・下士官・兵士等数名と朝鮮人兵士数百名が本山大坊に駐屯、忠霊塔裏(現正本堂建立地)の雑木林を伐採、開墾する作業に従事して居った」(要略)
 「又、その當時の本山僧侶の状況は、御開扉は出征兵士の御開扉が偶に行われるのみで、満山供養は本山関係以外は皆無。塔中は老人、病身者のみで、大坊は所化小僧の青年僧は応召並びに強制的に陸・海・空の三軍に志願させられ、残る在勤者は青年二十才以下の所化が五〜六名と四〜五名の小学生の小僧のみであった」(要略)
 「然して強制的に勤労奉仕が割り当てられ、庵原・田子の浦等の土木作業に所化等は出て居った」(要略)
 「此の様な状況の中で、神札不敬罪問題、合同問題も起きた」(要略)
 「昭和二十年六月十七日、東京小畑氏の満山供養が行われることになった。恭師は養生の為、上井出の壽命寺(姪が居る)に居られたが一時帰られ、その夜は大奥へ泊まられた」(要略)
 「その内に、背中の方が熱いので目を覚ますと、部屋の周圍のガラス戸が燃え、寝ている布団に燃え移っていた。私はビックリして飛び起き、大坊中庭を突っ切り、大奥階下に駆け付けた。O師と大奥階下東端の雨戸を蹴破ると、既に階下は猛煙に包まれ、入れる状態ではなかった。それでも何とか中に入ることが出来ないものかと、階下の周圍に右往左往しているところへ、誰かが『御前様は無事避難された』という声が聞こえたので、O師と私は『では御宝蔵だ』と、御宝蔵に駆け付けてみると、既に戒壇の御本尊と御宝物は無事避難された後だった。(中略)
 火災が下火になった頃、誰かが『御前様の姿が見えない』と云い出した。全員が上人を必死になって捜したが上人を見つけることができなかった。私はそれでもと思い、大奥焼け跡の焼棒杭(やけぼっくい)をどけながら、上人を捜していると、大奥二階の内仏安置の部屋の処に、上人が、お姿の上体を御宝蔵の方向に向かわれ、お頭は大腿部の間にお俯せになり、『覚悟の死』と思われるお姿で御遷化されておいでになった。この時、私は『もし御前様が避難しようと思えば、寝室の隣の部屋(内仏様御安置)に行くことが出来たくらいなのだから、北側のベランダのある部屋に御宝蔵側はガラス戸と欄干があり、そこから空襲時の用意に常備してあった非常梯子を使って避難出来たのに』と思った。しかし、今にして思うと、上人は當時の幾つかの決意を覚悟するものがあったと拝するのである。(中略)
 上人が戒壇の大御本尊に向かわれ、お詫び申し上げる姿勢で御遷化されていたことは、その御覚悟の姿と拝するものである云云」
と結んでいます。
 今回、上人の50回遠忌を迎えるにあたり、令法久住、広宣流布の道は決して平坦ではないことを肝に銘じ、更に御法主上人を中心に一致団結して未来永劫に為法為宗精進することを法類一同と共にお誓い申し上げ私の追憶談を終わります。(文責在編集部)





学会「弾圧」の真相

学会「弾圧」の真相(反戦・平和の"原点")

国家主義・軍国主義と戦い殉教した牧口初代会長。その遺志を継ぎ、獄中から平和闘争を開始した戸田第2代会長。この精神は、学会の平和運動の原点である(『聖教新聞』H14.8.30/『大白法』H14.10.1)

◆第7条 国体を否定し又は神宮若は皇室の尊厳を冒涜すべき事項を流布することを目的して結社を組織したる者又は結社の役員其の他指導者たる任務に従事したる者は無期又は4年以上の懲役に処し(治安維持法=昭和16年改正/『牧口常三郎全集』第10巻444頁)
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昭和16年といえば、太平洋戦争勃発の年である。


<逮捕前の指導と出来事>
最近、文部省が軍事訓練を課したるは、近ごろの大できである。……何という、今の非常国家に適切の忠告であろう(牧口常三郎「『光瑞縦横談』と教育・宗教革命」昭和11年/『フォーラム21』H14.3.15)
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牧口学会は、太平洋戦争勃発以前より、軍国主義教育の推進に加担していたのである。

昭和11年5月4日、牧口は学会幹事の矢島周平、同研究所員・石澤泰治と高地虎雄を連れて、警視庁労働課と内務省警保局を訪問。思想犯の考えを変えさせる転向指導について懇談した。警保局は特高の元締めであり、労働課は労働運動を苛烈に取り締まる部署である。(「極秘資料が物語る『戦時』創価学会の真実」『週刊東洋経済』H27.9.26/『慧妙』H28.1.1)

昭和11年5月6日、高地虎雄が単身出発して長野市の思想検事や特高課長らとも懇談。「君たちのように、一度左翼の洗礼を受けたもので、真に転向を完成して新しい信念を得た人たちに、外部から積極的に働きかけてもらはぬとだめだ」(学会機関誌『新教』S11.6)と高地は激励された、という。(「極秘資料が物語る『戦時』創価学会の真実」『週刊東洋経済』H27.9.26/『慧妙』H28.1.1)

昭和11年5月14日、長野支部を無事立ち上げた高地は再び警視庁と内務省を訪れ、長野行の首尾を報告している。(「極秘資料が物語る『戦時』創価学会の真実」『週刊東洋経済』H27.9.26/『慧妙』H28.1.1)

昭和11年6月5日には長野県特高課の刑事が学会を訪れ、牧口らと転向談義に花を咲かせた。「刑事は、長野県教員赤化事件の検挙に当つて、頗(すこぶ)る辛辣(しんらつ)なる評のあつた人であるが今や態度を一変し……数時間の打解けた歓談を遂げて満足して帰った。」(学会機関誌『教育改造』S11.7)後の牧口の論文によれば、元赤化教員の学会参加は「拾余名に達した」という。(「極秘資料が物語る『戦時』創価学会の真実」『週刊東洋経済』H27.9.26/『慧妙』H28.1.1)

1◆(※宮城遥拝・黙祷の後、野島辰次理事「開会の辞」)大東亜戦開始以来の戦果は、法華経の護持国家なればこそであります。昨夜のラヂオ放送の如き余裕下に、今日総会を開くのは感激の極みであります(昭和17年5月17日・創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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大東亜戦争(太平洋戦争)で赫々たる戦果があがっているのは、日本が法華経の護持の国であればこそであり、勝利の戦果を聞く時に総会を開催することは感激の極みだというのである。宮城遥拝に次いで首脳幹部が大東亜戦争の戦果を賞賛する。ここには侵略戦争に反対したという事実も、軍国主義に抵抗した事実も全く見あたらない。あるのは「侵略戦争」に迎合協力する体制翼賛団体としての創価教育学会の姿だけである。

2◆(※戸田理事長が披露した歌=幹部会員・四海民蔵作詩)男だ 日本人だ 日蓮正宗の信者だ 栄光ある生活改善同盟の戦士だ 大君のかがやく御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む昭和17年5月17日・創価教育学会第4回総会/『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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「大君の御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む」とは、大東亜共栄圏の建設を目指した軍部政府のアピールそのものである。

3◆吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(中略)今上陛下こそ現人神であらせられる昭和17年11月・第5回総会『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
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"感謝のためなら神社に参拝してもよい"これが牧口会長の指導でした。
[参拝]=神社・寺にお参りして拝むこと(『新明解国語辞典』第4版)

私の願いは、一身一家ではない。この世界の大動乱の中にあって、この世界に皇道を宣布し、世界中の大悪思想を撲滅し、(中略)英、米の自由主義、個人主義、利己主義の思想はもとより、世界の隅々まで蝕んでいる共産主義思想を撲滅することが、我々の務めである(『大善生活実証録』に掲載の幹部の話/『慧妙』H8.9.1)
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正法ならぬ「皇道」を宣布することが「願い」だと、総会で公言する幹部

4◆(※牧口)「天照大神は天皇陛下の先祖であつてかえつて我々がズケズケおまいりするのは不敬になるとしているだけなのです。今少し強く申し上げたいと思いますが、時ではないと思うので、これでも心掛けているつもりです。ただし謗法だけは我等の会員にはさせたくないと思いますが、どうしたものでしようかな」 (本山側)「一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法か、又積んで置いてもそれ程の害はありますまい」(昭和18年6月初旬の本山での会話/戸田城聖著『人間革命』聖教新聞S28.12.6/『地涌』第667号)
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神社参拝をしない理由が「ズケズケおまいりするのは不敬になる」からだという。これのどこが、謗法厳戒の正論なのか。これは、対外的見解ではなく、本山での会話であるから、本心であったのであろう。つまり、牧口会長は、判断基準こそ違え天皇やその祖先に対する「不敬」を恐れていたのである。

5●(左の一編は小平芳平氏の記に依る)(中略)18年6月(※初旬)には、学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(中略)会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)
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「会長の応急策」こそは、会員に対し、神札を粗末に扱わなうよう指導する通牒だったのである。学会は、神札受取を勧めた当事者の一人である日亨上人がウソをついているというのか。まことに不知恩の極みである。6月初旬という日付については(<「通諜」問題総括>参照)。

6◆皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること。(昭和18年6月25日・戸田理事長名で会員に通達された「通諜」/『慧妙』H5.7.1)(資料参照


<逮捕までの経緯>
7◆昭和16.11 北九州に牧口が指導に出かけた時、会場には特高刑事が臨検し、神社問題が質問された。その時は牧口の指導によってうまく解決したようであり、翌年(昭和17)の「第5回総会報告」において、関係者の小学校長安川は「自分は昨年の今頃までは、非国民扱ひされて、県当局からは辞表を出せとすゝめられるし、警察も家庭や僕の素行調査をやってゐたが、最近その関係がなくなったばかりか、県からは満州行の代表になれ、市からは視学をやれと招かれてゐる。あの時から1年数ヶ月になるが、全く御法を持つて力が出ると悟った。只今は完全に解消された。」と報告した。(第5回総会『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
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特高に神社問題について質問されたのに、「牧口の指導によってうまく解決」したという。しかも翌年には問題が「完全に解消」されたという。少なくとも神社参拝問題については、感謝のための参拝容認、天皇現人神肯定などによって、弾圧を回避していたことが分かる。

昭和17.1頃以降 警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)

昭和18.4頃 学会幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕。

8◆昭和18.5 牧口は、天照皇太神宮の大麻(神札)などを取り払い焼却することが神社等に対する不敬罪にあたるとして、警視庁と東京・中野警察署に出頭を命じられ取調べを受けた。(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)
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「大麻(神札)などを取り払い焼却すること」について出頭を命じられた牧口氏。学会の言うように、氏が正々堂々と神札謗法の持論を展開していたのであれば、既にこの時点で逮捕されたと思うのだが、いかにして牧口氏は、警察の追及を逃れたのであろうか?「この時こそ、天皇陛下が自ら目覚められて、尊い御本尊を拝まなくてはならん」(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H6?)と意気軒昂な牧口氏だが、神札の件について出頭した警察署においては、国家諌暁どころか謗法厳戒の精神さえ主張しなかったことは明らかであろう。


<逮捕>
9●昭和18.6.5 東京・中野の一学会員が、近所の人の子供が死んだのを、頭から「罰だ」と決めつけて折伏しようとしたことで、怒った相手から訴えられ、特高警察に逮捕・拘留されるという事件が起きた。 特高では、この事件を機に、かねてマークしてきた創価教育学会を一気に壊滅(かいめつ)せしめる意志決定をし、逮捕した学会員を厳しく取り調べて、学会弾圧の「罪状」を作成にかかったのである。(『慧妙』H13.8.16)
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学会弾圧の契機は、神札不敬ではなく、人情を無視した非常識な「罰論」であった。

◆客年(※昭和17年)1月頃以降警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者ありて、皇大神宮に対する尊厳冒涜竝に不敬容疑濃厚となりたる為同庁に於て、本月(※7月)7日(※昭和18年7月6日逮捕。7日、警視庁に護送)牧口常三郎外5名を検挙し取り調べを進めたる結果、更に嫌疑濃厚と認めらるる寺坂陽三外4名を追検挙し引き続き取り調べ中なり。(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)
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謗法払いのために、敢えて神札や仏壇を焼く必要はない。「夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起」などは、戦時下でなくとも非常識な、法を下げる行為であろう。また、謗法払いは、本人や家族が充分納得した上で行うべきものである。それが実行できておれば神札不敬があったとしても、警察への投書などによって社会問題化することもなかったであろう。学会弾圧は、社会常識、庶民感情を無視した強引な布教の結果、一般庶民を敵に回したために惹起した自業自得の"災難"だったのである。

★「特高月報」7月分の逮捕の経緯によれば、牧口逮捕の契機は、外部からの投書によるものであって、牧口氏自身の言動によるものではない。しかも、逮捕までに何度か官憲からの尋問を受けているが切り抜けていた。このことから、既に特高警察の監視下にあった牧口会長自身については、本山の神札指導以前から、神札に関する「不敬」(会員への指導も含む)がなかったことは明白である。ただし、会員への神札受容を指示した「通諜」の作成が逮捕の10日程前であるから、末端の会員には神札不敬禁止が徹底していなかった可能性はある。


<逮捕後>
10◆吾々は現在の天皇陛下以外にどなたに対し奉って祈願すべきでありましょうか(「訊問調書」/『牧口常三郎全集』第10巻207頁)
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感謝の対象は神社(1◆)、祈願の対象は天皇だという邪義を展開

11●留守部隊長として万々の労苦御察し致します。私が帰りましたら第一線で万事引き受けるつもりですからどうか頑張って下さい。(中略)僕の心境(中略)「国の為、君の御為に捨つる身に かざらまほしき真如の月かな」(戸田城聖=昭和18年12月4日・岩崎洋三氏への獄中書簡/『富士宗学要集』第9巻444頁)
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 「治安維持法」「不敬罪」で逮捕されながら、堂々と獄中より学会活動の激励をしている。神札不敬を撤回したからこそ、当局も学会活動自体については容認していたのであろう。それなのに2年間も拘留されたのは何故か?弁護士がなかなかつかなかったことと、過去の不敬罪を認めなかったこと、将来にわたって組織として神札不敬の意志のないことを信じてもらえなかったこと、などが考えられる。
 学会は、宮城遥拝、戦争翼賛、神社参拝(ただし、祈願のためではなく感謝のために限定)、すべて公式に容認していた。ただ一点、神札拒否・焼却において治安維持法違反の罪に問われたのである。もともと、地下組織もなく、戦争に賛成で、国家の転覆を考える気もない団体であるから、今後組織として神札不敬の意志のないことが分かれば、当局も罪を執拗に追及せず、組織活動も黙認したのであろう。

◆当方無事。春になっても安心です。3度共に暖かいごはんに汁沢山。青年時代からあこがれて居た本が読めるので、却って幸ひである。国法にはどんなにでも服従すると言ふのだから、心配はいらない。(牧口「獄中書簡」昭和19年3月16日/『牧口常三郎全集』第10巻288頁)
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「3度共に暖かいごはんに汁沢山」とは、家族を心配させまいとする配慮であろうが、あまりにも見え透いている気がする。家族も行っている信仰については、謗法厳戒が牧口学会の"確信"であり"生命線"である。仮にも、そのような牧口氏が、家族を安心させるためとはいえ"同志"(信仰上の問題であれば、家族である以前に一会員であるはず。また、書簡の内容も信仰上のことであれば会員にも伝わったであろう)に「国法にはどんなにでも服従する」などと言うはずがない。そんなことを言うくらいなら、会員に神札拒否を指導し、組織を空中分解させることもなかったであろう。ここにも、『創価学会の歴史と確信』で述べられた牧口会長とは異なる一面が現れている。これは起訴(昭和18年11月20日)以降のことであるから、予審中のことである。訊問調書完成以後、牧口の環境や心境の変化が感じられる。というより、訊問調書自身、官憲の作文であったのであろう(13●)。押収物の中には宗学書もあったから、簡単に大聖人の"正論"を作文できたはず。↓

●私があくまでも沈黙を守っていると、今度は、「いままで出されたホーリネス教会の出版物を調べると、どうしてもこういうふうに信ずるようになるではないか」と攻めてくるわけです。(ホーリネス教会事件・山崎鷲夫『宗教弾圧を語る』岩波新書168頁)

御上の事は何んでも従ふことで検事様との間はなごやか(牧口「獄中書簡」昭和19年3月27日/『牧口常三郎全集』第10巻405頁)
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年月日から考えて「検事」とは「判事」の誤りか。

★「国法にはどんなにでも服従」「御上の事は何んでも従ふ」と獄中書簡で綴った牧口会長であるが、『創価学会の歴史と確信』で述べる意気軒昂な牧口像との相違が明白である。ここには、一番弟子が語った牧口氏の「確信」の片鱗も見られない。国法を無視して神札拒否、焼却を繰り返した牧口会長は、本山での指導後"変心(改心)"したことが察せられる(既に、官憲の追及を巧みに切り抜けた上記7◆8◆は、そのきざしを示している)。その"変心"の証拠が例の「通諜」である。「通諜」の内容と、獄中書簡の内容は、国法遵守という点において合致しているのである。

12◆毎日裁判所通ひで、大に取調べも進んでいるし、数馬判事さんも、やさしく、法華経の御研究、かつ私の価値論も御理解下されます(牧口「獄中書簡」昭和19年5月18日/『牧口常三郎全集』第10巻405頁)
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仮にも、治安維持法違反の組織の長の思想に対して、判事が理解を示すことなど、考えられない。もし、これが事実とすれば、既に訊問調書において「不敬」の罪を認めた牧口氏であるから、判事の余裕の表れか?また、被疑者の本音を引き出すための"作戦"とも考えられる。↓

●新興宗教は皆インチキやと、そういう観念を持っておった・・・ところが、ほんみちの信徒を各個に調べてみて、入信の動機を聞いたり、あるいはいろいろの霊験談を聞いたりしとるうちに、ぼく(※予審判事)の心境が変わってきた。ぼくもひょっとしたら、機縁があったら、ほんみちを信心したか分からん(ほんみち事件・取調べ中の予審判事『宗教弾圧を語る』岩波新書132頁)
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「ほんみち」とは「天理教から分かれた新興宗教」(同書)であるが、「天皇制を否定」(同書)している。その組織の幹部(教祖の甥)に対する判事の言である。少なくとも表面上、判事との関係は"和やか"であったことが推測される。これは、上記牧口会長の場合と同様であり、12◆の記述は信憑性があるといえよう。

数馬判事の私を憎むこと山よりも高く、海よりも深き実情であった。(中略)牧口先生をいじめ、軽蔑し、私を憎み、あなどり、同志をうらぎらせた彼は、裁判官として死刑の判決を受けたのである。(『創価学会の歴史と確信』/『戸田城聖全集』第3巻110頁)
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この数馬判事に対する評価は、牧口氏自身が書いた獄中書簡(上記12◆)と完全に矛盾する。御法主上人の神札受け取り指示を、牧口会長が「己義」だと決め付けたという『創価学会の歴史と確信』の記述は、その名のとおり「確信」に重点が置かれ、必ずしも客観的事実に忠実ではないことが分かる。

●予審になってから2年ほどほとんど取調べがないんです。半年に一ぺんくらいちょっと出てきて、5分か10分ですよ。私は面接禁止で、文書・手紙の往復、接見を解かれるのが、昭和13年9月30日。この終わり近くに取り調べられて、それまでは2年半のあいだ調べがほとんどない。(中略)昭和13年8月10日が第1回の裁判です。(大本事件・徳重高嶺『宗教弾圧を語る』岩波新書30頁)
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これは、昭和10年12月に逮捕された大本教幹部の証言である。予審中でも外部との書簡のやり取りが許された牧口会長とは大分待遇が違うようである。また、「2年ほどほとんど取調べがない」という証言も、「毎日裁判所通ひで、大に取調べも進んでいる」(12◆)という牧口会長と大違いである。

13●取調官があんまりひどいデッチ上げをいうので「そんなバカなことはない」と食ってかかろうものなら両手を背中までもっていって後手にしばる、足もしばって転がしてしまう。口にはゴムでつくった丸い猿ぐつわをくわえさせられて、しめつけられる。物も言えない・・・。ところが向こうの机の上にはちゃんと質問書ができているんですね。(中略)こちらの言い分も聞かないで、どんどん書いていっちゃう(中略)取調官は書くだけ書いてしまうと、「きょうはこれで終わりだ。えらかったろう。ちょっとこれにハン押してくれ」。ハン押せったって、大国さんは手をくくられている。そうすると印肉をしばられている後の手へ持ってくるんです。あおむけに転がされているのを今度は裏がえしにしてうつぶせにして、上になった手の指に印肉をもっていってぴしゃっと引っ付ける。それで自分がちゃんと印を押したことにされてしまった、というんだからひどいもんです。署名の字も大国さんに名前を何枚も何枚も書かせ、それをもってあとで特高が調書を間にはさんで、なぞる。これで、自分が書いたことになる。(大本事件・徳重高嶺『宗教弾圧を語る』岩波新書12頁〜)
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訊問調書は、逮捕を正当化するために、容疑事実を裏付けるように官憲によって"作文"されていたのです。


<解散命令なしの学会「弾圧」>
●(※大本教教祖・出口王仁三郎)聖師が起訴されたのが、昭和11年3月13日。その日にすぐ解散命令を出した。(大本事件・徳重高嶺『宗教弾圧を語る』岩波新書24頁)

●特高警察は、明石真人、村本一生の判決1週間後の(※1939年)6月21日の早朝、「燈台社はイエス・キリストの再臨による地上神の国の建設を究極の目標とし、その神の国建設の為現存せる一切の国家組織及社会制度を根本的に破壊撃滅せんと企図活動しつつあること」の確証を得たとして、治安維持法違反および不敬罪の嫌疑で、全国一斉に検挙を断行しました。明石順三以下115人が検挙され、うち52人が起訴されました。起訴と同時に結社禁止の処分を受け、解散させられました。(『弾圧に屈しなかった一牧師の記録』

●(※ひとのみち=PL教の前身)教団本部に特高警察が入り、教祖が拘引された翌年の昭和12年4月5日、当局は「不敬の事実をつかんだ」として、教祖を不敬罪で追起訴し、私はじめ弟の道正ほか、十数名の幹部教師も不敬罪で拘引されました。そして28日には、内務大臣命令により治安警察法が適用されて、教団に対して結社禁止処分を行ったのです。(中略)判決も出ないままに、教団は解散させられたばかりか、動産・不動産の処分、債務の整理、さらには建物の破壊もしくは売却までさせられました。(ひとのみち事件・御木徳近『宗教弾圧を語る』岩波新書61頁〜)
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教祖が逮捕された翌年には「結社禁止処分」が出ている。

※神札拒否を貫いたという学会には何故、解散命令が出なかったのか?それどころか、「獄中書簡」において、堂々と信心指導することが許されていたのである(11●)。これは何故か?


<実刑なしの学会「弾圧」>
日蓮正宗僧侶である藤本蓮城(本名=秀之助)も、創価教育学会の有村・陣野らが逮捕される少し前の(※昭和18年)6月16日に、不敬罪等の容疑により逮捕されている。 藤本は昭和2年ごろ、日蓮正宗に入信し、昭和16年に出家し僧侶となった経歴の持ち主。この藤本と同時に、藤本にしたがう高塩行雄も逮捕されたが、高塩は逮捕直後より「改悛の情顕著」ということで起訴猶予となり、藤本のみが、9月22日に起訴となった。(『地涌』第669号)
蓮城房は、東京区裁判所の公判で、「失言を取り消します」と言えば助かると言われたが、「僕の言ったことは失言といえるけれども、日蓮大聖人の言ったことだから失言とはいえない」と、譲らなかったという。 蓮城房への判決は、早くも10月25日に東京区裁判所において下された。判決内容は、不敬の罪で懲役1年4カ月であった。蓮城房は上告せず服役した。(『地涌』706号)
日蓮正宗僧侶中ただ1人、逮捕拘留されていた藤本蓮城に対しては、一宗擯斥処分に付し宗門より追放してしまった。藤本は昭和19年1月10日、長野刑務所で獄死している。(『地涌』第670号)
昭和19年3月に弾正会々長が入獄獄死(戸田城聖『聖教新聞』S27.6.10/『大白法』H3.4.1)
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罪を認め尚且つ「改悛の情顕著」であれば、いちはやく起訴猶予となり(高塩行雄)、罪を認め尚且つ再犯の恐れのある者はいち早く起訴され刑が確定する(藤本蓮城)、ということか。牧口、戸田両氏はどちらでもなかった。つまり、当初は、なかなか罪を認めようとしなかったために調書作成にてまどった。"罪を認めない"とは、不敬などする意思がないと主張したということである。

●警察側はなんとしてでも、そういう(※容疑事実の証拠となる)言質を取ろうとするわけです。しかし、私がどうしても彼らに都合のよい返事をしないので、業をにやして、最後には、拘置所に送るとか、いうとおりに答えないとためにならないぞ、といった口だけのおどしはありました。とにかく、このままではいつまでも出さないとか調べないとかいうのは、いわば心理的な拷問をかけたようなものです。(中略)しかし、結果的にはモデル調書に同意させられたことになりました。最初のころの調書はとにかく(※ママ=ともかく?)、他の大部分の調書は、そうしたプリントになったモデル調書を使って作製した、型通りのものだったことは、きわめて明白です。(中略)いつまでも放っておかれるほど精神的苦痛はないのですから。これは、拘留された経験のある人間だけが分かる拷問です。(ホーリネス教会事件・山崎鷲夫『宗教弾圧を語る』岩波新書167頁〜)

◆戸田は4日まえに、巣鴨の東京拘置所から、いきなり豊多摩刑務所へ移された。理由は、わからなかった。そしてきょう、保釈出所となったのである。混乱の時勢で、わけもわからぬことであったが、おそらく3年の刑を3日で済ませたのかもしれない。彼は転重軽受の法門を信じた。(『人間革命』第1巻「黎明」)
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 最高無期の重罪に相当する者を、罪を認めず反省もしないままに保釈するだろうか?しかも獄中書簡において堂々と信心の指導をしているのである(11●)。ちなみに、大本教幹部(最高幹部ではない、庶務課次長、宣伝使、三丹地方本部次長などを歴任)であった徳重高嶺は、昭和10年12月に逮捕され、保釈されたのが昭和14年8月である。起訴されたのが昭和11年5月、地裁判決(有罪)が昭和15年2月であるから、起訴後も長く拘置されていたのである(『宗教弾圧を語る』岩波新書より)。
 転向しなくても保釈された例はあったようであるが、保釈金も積まずに保釈されるのだろうか?戸田氏の刑は確定していないはずであるが「3年の刑を3日で済ませた」とか、「転重軽受」だといっている。当時としても、不可解なことだったようである。背景に容疑事実の容認、神札受け取り容認、「通諜」の存在、牧口会長の死などがあったのではないか。

●ふつうは、予審調書をつくって起訴になるまで1年を警察に、それから拘置所で1年、その間に裁判があり、執行猶予の有無にかかわらずいったん保釈出所、というのが1つのパターンですが、保釈にならなかった例もいくつかあります。(ホーリネス教会事件・山崎鷲夫『宗教弾圧を語る』岩波新書165頁)

※藤本蓮城は、罪を認めたために半年足らずで判決が下り、服役した。起訴事実を認めたが転向したのではない。一方、牧口・戸田両氏は1年以上拘留されている。これは、なぜか。転向せずとも、起訴事実を認めれば起訴・判決・服役となるはず。それがなかなか事が運ばなかったのは、起訴事実(治安維持法違反・不敬罪)を最初は認めなかったからではないのか?

※20名近くが逮捕された中で、有罪となったのは森田孝、堀宏、小林利重の3名のみ、しかも全員執行猶予付き。残りの者も、獄死した牧口会長を除き、終戦前に出所している。

14◆老衰と栄養失調が、彼(※牧口)の老体にしのびよった。彼は病んだ。取り締まり当局は、病監へ移ることを再三彼にすすめた。重体であったが、彼は頑としてこれを拒否しつづけた。(『人間革命』第1巻「一人立つ」)
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当局の勧めにも拘わらず、牧口会長がなぜ、病監へ移ることを拒否したのかは不明である。しかし、最初から素直に当局の指示に従っておれば、あるいは生きて出所できたのかも知れない。


<神札破却の是非>
●第四十七段・我所領の内に有る謗法の社寺なりとも、公方より崇敬する処ならば・卒爾に沙汰すべからず、私所ならば早々改むべし云云。(第9世日有上人『有師物語聴聞抄佳跡上』/『富士宗学要集』第1巻248頁)
●(※上記について)宗門信仰の領主等が・謗法の社寺を破壊せんとする時・其破戒せらるべき社寺が、時の日本国の全権者足利公方の崇敬の所ならば、軽忽に処決すべからずと云ふ・是れ大に為政者に敬意を払ひ給へるなり、公方已にかくの如し、況んや至尊に於てをや、故に広布の道程にある間は為政者に対して理を責め道を推して・臣民の礼節を全ふして・諌暁し上ることは、無論なりといへども熱心に激して妄断する事はあるべからざるなり、是即本師の精神固より仏祖の御本意ならんか(第59世日亨上人『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻159頁)
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上記御指南は、為政者の社寺を破壊することを誡めたものであるが、為政者が作成した神札についても当てはまるのではないか。為政者といえども謗法を諌めることは大切であるが、為政者は我々にとって主徳の一分を有する存在である。であるから、為政者に対しては特別に敬意を払うべきであり、その信仰の対象を無闇に破壊すべきではないと思われる。「熱心に激して妄断」とは下記「世相を無視して宗熱に突喊」(16●)することであろう。(少なくとも本山での神札指導以前における)牧口氏は、時の仏法の師である御法主上人の御指南を無視するだけでなく、「本師(日有上人)の精神」や「仏祖の御本意」にも背いたのです。
※主権が国民にない時代の為政者と国民との関係は、あたかも大家と間借り人の関係のようなものではないか。間借りした部屋に大家所有の神札が祀られていたとする。神札も部屋も大家の所有物であれば、これを勝手に処分できないことは当然である。その場合、神札は間借り人にとって所有物ではないし、信仰の対象でもない。これは、たまたま乗ったバスやタクシーに御守がぶら下がっているようなものではないか。わざわざ、神札の祀られた部屋を間借りするのもどうかと思うが、戦時下では、"神札のない部屋"はなかったのである。

●他宗の法花宗に成る時、本と所持の絵像木像并に神座其の外他宗の守なんどを法花堂に納むるなり、其の故は一切の法は法花経より出てたるが故に此の経を持つ時、本の如く妙法蓮花経の内証に事納まる姿なり、総して一生涯の間、大小権実の仏法に於いて成す所の所作、皆妙法蓮花経を持つ時、妙法蓮花経の功徳と成るなり、此の時実の功徳なり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻70頁)
●当時、全戸に配布されていた伊勢神宮のオフダの受領を拒否して弾圧され(『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫52頁)
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他宗の本尊であっても御守であっても、これを破却することなく末寺の「法華堂」に納めていたのである。その意義から言えば、新入信者の神札等を、世相を無視して堂々と焼却する必要はまったくなかったといえる。会員の神札受け取りについても、金銭を支払って受け取るのであれば格別、当局が勝手に配布するのであれば、一応受け取り、捨て置くか寺院に納めるか、コッソリ焼却すればよかろう。

15◆(※牧口)「天照大神は天皇陛下の先祖であつてかえつて我々がズケズケおまいりするのは不敬になるとしているだけなのです。今少し強く申し上げたいと思いますが、時ではないと思うので、これでも心掛けているつもりです。ただし謗法だけは我等の会員にはさせたくないと思いますが、どうしたものでしようかな」 (本山側)「一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法か、又積んで置いてもそれ程の害はありますまい」(昭和18年初旬の本山での会話/戸田城聖著『人間革命』聖教新聞S28.12.6/『地涌』第667号)
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本山側は学会に対し「そっと処分」するように指示している。これのどこが謗法なのか。

16●顧(かえり)みるに法難の起こる時、必ず、外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発ありて其の端を発し、内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊する似非信行の門徒ありて、(内外の)両面より官憲の横暴を徴発(ちょうはつ)するの傾き多し。本篇に列する十余章(の法難も)皆、然らざるはなし(『富士宗学要集』第9巻247頁)
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まさに、学会弾圧は、国家神道中心のファシズムが世を支配している異常な状況下で、「世相を無視して宗熱に突喊する、似非信行の」言動(「神札焼却」の強調や、四悉檀を無視した強引な罰論等)に走った牧口会長以下学会員達が、いたずらに招き寄せた弾圧であった、というほかはない。

要するに、学会の"法難"とは・・・

@世相を弁えず、庶民感情を無視し(9●)、「宗熱に突喊する似非信行」(16●)が招いた自業自得の"災難"であった。

A本山での指導後、改心するも「会長の応急策(※「通諜」)も已に遅し」(5●)。改心するのが遅かったために招いた逮捕・拘留劇であった。

Bともあれ、宮城遥拝(1◆)や神社参拝容認(3◆=ただし感謝のため)、戦争翼賛(2◆)は以前から行われていたし、遅きに失したとはいえ神札受容も既定の方針(6◆)であったから、解散命令も実刑判決もなく、獄中書簡において堂々と信心指導(11●)もできた。病死(14◆)した牧口会長以外全員、目出度く終戦前に出所できたのであります。

※第59世日亨上人は『富士宗学要集』第9巻において、この戦時下の学会の"災難"を法難として記載されている。しかしそれは、あくまでも牧口会長が、遅ればせながらも本山の指示に従ったという認識があってのことであろう。もし、学会の言うように、牧口会長が当時の御法主の御指南を「己義」であると考えていたり、最後まで本山の指示に背いていたのであれば、決して法難とはいえないし、日亨上人も「法難編」に学会の弾圧を加えられなかったであろう。


<平時に謗法容認の池田学会>/<「広布第2章」と摂受謗法路線>参照
謗法払いについては、あくまで原則どおり、本人処分であることには変わりはありませんが、御本尊を安置するための絶対的前提条件ではありません。謗法払いしてからでないと御本尊を安置してはいけないという考え方を変え、もっと幅広く、まず御本尊を安置し、拝み始める。そのうえで信心が深まって、古い対象物は置きたくなくなる。そうなってから、自発的に本人がそれを取り除くようにしてもかまいません。(秋谷栄之助『聖教新聞』H9.2.11)
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「古い対象物」とは、邪宗の本尊などです。これを所持したまま曼陀羅を拝んでもよいというのです!こんな指導をする者に、信教の自由のない戦時下の特殊の状況下における一時的な神札受け取り(形だけのもので、本山は処分を指導している―15◆)を、謗法呼ばわりする資格はありません。

帰命の句の有る懸地をばかくべからず二頭になる故なり、人丸の影、或は勝鬼大臣の影をばかくべきなり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻66頁)
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邪宗の本尊でなくとも「南無」の字の入った掛け軸でさえ謗法となるのです。

●南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心・人の中の神のごとし、此れにものを・ならぶれば(中略)わざはひのみなもとなり(『上野殿御返事』全集1546頁)




宗門を悩ませた牧口会長の独善性

―自ら宗門を離れた歴史は明らか―
(『慧妙』H6?)

『新報』(8月3日付)は、渡辺日容(慈海)尊能化著『日恭上人の御師範』を基に、次のように述べている。
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 昭和18年2月のこと、日蓮正宗の当時庶務部長であった渡辺慈海氏のもとに静岡県富士地区特高課から呼び出しの電話があった。渡辺氏が署へ出頭してみると、幸いにもその特高課の課長は同氏の旧友であった。その課長は渡辺氏に「静岡県庁特高課で聞いたことだが、日蓮正宗に不敬罪の嫌疑がかけられており近く手入があるらしいぞ」と注意した。
 渡辺慈海氏はさあ一大事だと、当時の鈴木日恭法主に報告。そして法主の命で上京した。時の官界権威者(元内閣書記官長)であり数年前から正宗信徒になっていたE氏に頼んで警視庁へ事の真偽を照会してもらうためである。E氏は警視庁の官房主事A氏に万事、手配をした。渡辺氏が車をとばし、警視庁を訪ねると、A氏への直々の面会を許可された。A氏は渡辺氏から委細を聞くと、同庁内の第2特高課長を呼び出し、真相を質(ただ)した。
 はたせるかな、日蓮正宗の不敬問題は調査中であった。大石寺信者である創価教育学会々員末梢(まっしょう)の人の苛烈な他宗破折や神道攻撃、公衆の面前での神札破棄などの行動に"不敬"があるとして、これらが告訴されたことによるものであった。そのために学会本部や大石寺管長の取り調べ、全国4、5ヵ所に司直の手が入ることになっていることが明瞭になった。
 そこで渡辺氏は第2特高課長に、学会と正宗の関係を説明し、「会員のなかに脱線的な分野もあって苛烈な折伏をすることは日蓮正宗の本山が直接知らないことであり、また正宗の純信者や末寺には不敬の行為は絶対にない」と力説した。そこへ官房主事A氏から「日蓮正宗本体が不敬でもなさそうだ。ここにはE閣下など多数の信者もあることじゃ、一部反対者の告訴のみで、戦時中管長召喚など穏かでないよ、本山の動揺のみか日本の問題だから、根拠も薄弱のようだ、君やめといたほらがよいよ」と口添があった。警視庁官房主事に言われて、さすがの第2特高課長も平身低頭、その場で卓上電話をとって静岡県庁特高課へ取消命令を下した--。(『新報』)
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渡辺氏は"不敬"行為をやめない学会員は「日蓮正宗の純信者」ではないかのごとくいい、学会の熱心な折伏は「日蓮正宗の本山が直接知らないこと」であるといって、学会の行動と日蓮正宗本体との関わりを完全に否定している。そこには、自らに火の粉がふりかかるのを恐れる自己保身の体質が歴然である(『新報』)
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 どうやら学会は、自らを「謗法厳誡にして神札を峻拒(しゅんきょ)した健気(けなげ)な信徒団体」であるとする妄想から、いまだに抜けきれておらぬようだが、実際は、当時の学会は、けっして「純信者」などとは言い切れない状態だったのである。
 直達講(講頭・三谷素啓氏、牧口氏も同講に所属していた)の副講頭であった竹尾清澄氏は、当時の牧口氏の信仰を次のように記している。
 「牧口氏は(中略)利善美の理論などを説き、畑毛を中心に左右の山地を取り入れた一大仏都建設の構想などを述べていたそうであるが、是は全く日蓮正宗を無視する異流と云わざるを得ない。牧口氏はあれだけの学識がありながら、仏法上の総別ということになると、どうも認識が浅いような所が見られた。」
 こうした「日蓮正宗を無視する異流」の信仰を持つ牧口氏であったが故に、「この日本の大戦争を勝たせるためには、どうしても広宣流布しなければ勝てっこはない。まずこの時こそ、天皇陛下が自ら目覚められて、尊い御本尊を拝まなくてはならん」(妙悟空著『人間革命』)と、戦争勝利のための信仰を主張するようになるのである(本紙第17号参照)。
 そして、その主張・行動の延長が、「脱線的な」「苛烈(かれつ)な折伏」を引き起こすのである。
 事実、昭和18年6月5日、東京・中野の一学会員が、子供を亡くして悲しみの底にあった近所の家に行き、頭から「罰だ」と決めつけたため、怒った相手から訴えられる、という事件が起き、これを契機(けいき)に学会弾圧が始まっている。この模様は『富士宗学要集』第9巻にも記録されており、小平芳平・元教学部長自身が、かかる「脱線的な」行為を「行き過ぎ(罰論)」と表現しているのである。
 さらに、渡辺尊能化が「本山が直接知らないこと」とした事情は、前掲の竹尾氏の記録に明らかである。そこには、
 「牧口氏の所謂(いわゆる)不敬罪事件について、私は宗務当事者が特高課の追及を恐れ、また特高課が宗門の介入により事件の拡大するのを好まず、牧口氏だけの問題として処理する結果となったものと考えていた。(中略)牧口氏の側にも次のような事情があったことが、ご隠尊と山峰師のお話から感じられた。
 牧口氏は所属寺院の歓喜寮主管堀米泰栄師(後の日淳上人)と議論し、『もう貴僧の指導は受けない』と席を蹴って退去し、本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は茲(ここ)で日運正宗と縁が切れ、(中略)この様な状勢の中で、天照太神に対する牧口氏の不敬事件は、個人の問題として取り扱われ」
と記されている。
 すなわち創価教育学会は、牧口氏独自の異流義と、師に背く傲慢(ごうまん)な信仰態度によって、自ら宗門より離れていったのである。
 このような牧口氏の率いる学会が、「脱線的な」「行き過ぎ」た「苛烈な」布教を行なったとしても、「日蓮正宗の本山が直接知らないこと」として扱われることは、むしろ当然であった。

[資料]:『畑毛日記』




本山での神札指導


【富士宗学要集】


(左の一編は小平芳平氏の記に依る)(中略)18年6月(※初旬)には、学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした、が心中には次の様に考えられていた、当時の軍国主義者は、惟神道と称して、日本は神国だ、神風が吹く、1億一心となつて神に祈れ、等々と呼びかけていた。少しでも逆う者があると、国賊だ、非国民だといつて、特高警察や憲兵のつけねらう所となつた、もとより牧口会長は、神札を拝むべきではない、神は民族の祖先であり、報恩感謝の的であつて、信仰祈願すべきではないと、日蓮大聖人、日興上人の御正義を堂々と主張なされていた。(中略)会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)

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「会長の応急策」こそは、会員に対し、神札を粗末に扱わなうよう指導する通牒だったのである。学会は、神札受取を勧めた当事者の1人である日亨上人がウソをついているというのか。まことに不知恩の極みである。

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 『慧妙』(平成5年6月1日付)は、『富士宗学要集』(堀日亨上人編)第9巻に、「18年6月には、学会の幹部が総本山へ呼ばれ、『伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう』の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた牧口会長は、その場では暫く柔らかにお受した」と記されていることを取り上げ、あたかも創価学会側が、宗門の指示する神札甘受を認めたかのように記している。
 しかも、この『富士宗学要集』第9巻の文について、「左の一編は小平芳平氏の記に依る」と『富士宗学要集』に書かれていることをもって、これを創価学会の公式見解であると解釈している。根拠は、小平氏が本稿執筆当時に創価学会教学部長であったということになる。
 たしかに小平氏は、創価学会を代表して「昭和度」の法難史を記したものであろうが、『富士宗学要集』の編者が日亨上人であることから、編者への遠慮があったものと思われる。日亨上人は昭和18年6月、神札甘受についての宗門より創価教育学会への申し渡しに立ち会われている。
 そして、いわずもがなのことであるが、宗門の戦中の罪をかばって創価学会側が露骨な表現を避けたと考えられる。(『地涌』第667号)
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◆『富士宗学要集』第9巻は、昭和32年10月10日発刊である。(『地涌』第667号)
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『富士宗学要集』第9巻は昭和32年10月10日の発刊であり、翌月に日亨上人は御遷化なされた。つまり、既に戸田会長が『創価学会の歴史と確信』(昭和26年)で"神札拒否"や"登山停止"について、公式に言及した後のことである。あたかも、学会の"公式の歴史"の誤りを糾すかのように、歴史の生き証人の1人として日亨上人は、信徒団体・創価学会をも含む日蓮正宗の宗学書(しかも学会の発行)に、"創価学会による神札受容"を歴史的事実として、永遠に記載したのである。

<小平記事の真相>
 創価学会にとって、牧口会長が神札拒否を貫き、投獄され獄死したことは、最高の誉れであり信仰の原点である。であるならば、宗門の"正史"ともいうべき宗学書(『富士宗学要集』)に、その誉れある事実を積極的に記載して欲しい、と考えるのが当然の心理であろう。ところが、小平氏は、学会教学部長という公的立場でありながら「牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした」「が心中には次の様に考えられていた」などと、(牧口会長が)神札拒否を明言しなかったことにしてしまった。それどころか、神札受け取り指示の記述を受ける形で「会長の応急策」が講じられたことを認めたのである(「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意→その場では暫く柔かにお受けした、が心中には・・・→会長の応急策も已に遅し)。
 もし、『創価学会の歴史と確信』が事実であれば、当時の学会教学部長として、このような記述は絶対にありえない。では、なぜ、このような記述をしたのか?その答えは、本山において牧口会長は神札受け取りを受容したのであり、その結果、講じられたのが「会長の応急策」だった、これこそが真実だったからに他ならない。一般の会員は騙せても、当日現場におられた日亨上人は騙せなかった、だからこそ、日亨上人には真実の記事を提示したのであろう。  とはいえ、「心中には・・・」と断りながらも、長々と学会の"正義"を語っているところは、「創価学会を代表して『昭和度』の法難史を記した」(『地涌』第667号)教学部長の、健気な"抵抗"か?

編者が日亨上人であることから、編者への遠慮があったものと思われる。(『地涌』第667号)
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日亨上人の歴史書編纂の態度からすれば、あり得ない。日亨上人は、日精上人の著述に対しても、辛辣な批評をされている。だからこそ、学会は、そこに付け込み、日亨上人の権威を利用する形で、日精上人ひいては血脈そのものを攻撃しているのだ。日亨上人の日精上人に対する批判には、多くの誤解があったけれども、御自分が宗門の歴代に名を連ねながら、同じく宗門の歴代である日精上人の著述を厳しく批判されたのは、自己の立場を度外視しても真実を追究したい、という"学者気質"の賜物であろう。そのような日亨上人の"学者気質"は、学会も充分承知していたはず。このような日亨上人の、客観性を重んじる御性格と、自己主張・自己正当化に余念のない学会の体質を考え合わせるならば、もし神札拒否が事実ならば、学会が、日亨上人の前で自己の信仰の原点ともいうべき"正義の歴史"を「遠慮」して主張しないことなど、ありえない。また、かりに、真実を枉げて「遠慮」した文書を小平氏が提示したとしても、事情をよく知る日亨上人が、そのような真実を枉げた記録を御自分の歴史書に掲載されるはずがない。

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「暫く柔らかにお受けした」とは、激しく反発をせず話をいくらか聞いたといった程度のニュアンスにしかとれず、これを神札甘受にたちまち結びつけることは、やや無理がある。(『地涌』第667号)
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勿論、「暫く柔らかにお受けした」というだけでは、そうかも知れない。しかし、「が、心中には・・・」とあるから、心中においては神札を拒否したが、その意思は表明されなかったことが明らかである。つまり、本山よりの神札受け取り指示に対して、牧口会長が拒否の意思表示をしなかったことは、文意として明らかである。その上、この話の流れの中で、「会長の応急策も已に遅し」とあるのだから、この「応急策」が、神札受け取りに関するものであることも明白である。もし、牧口会長が「心中」のとおり、神札拒否を貫いたのであれば、「応急策」など必要ない。また、「応急策」が、神札受け取りと無関係であるならば、それについての説明があるはず。とくに具体的な説明もなく単に「応急策」と述べたのは、本山での神札受け取り指示に呼応したものであるからに相違ない。

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この『富士宗学要集』第9巻は、昭和32年10月10日発刊である。当時の管長は、戦中戦後において、創価学会の最も良き理解者である堀米日淳上人である。それだけに創価学会側は、史実を伏せて宗門をかばい、穏当な表現をしたと思われる。(『地涌』第667号)
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●(前略)昭和30年7月1日 編者日亨耄沙弥89歳の病床に横たわりて富士大石が原の雪山文庫にて識るす。(学会版『富士宗学要集』第9巻緒言)
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昭和32年10月の発行だというが、原稿はそれより以前に書かれた。まして、発刊計画ともなれば、かなり以前から関係者が相談していたはず。日淳上人が御登座されたのは昭和31年であるから、同上人の御登座後に発刊の話が出たかどうかは微妙であろう。

 小平氏の記述(『富士宗学要集』収録)には、本山が学会に対して、神札受け取りの指示をしたことが述べられている。これは、学会が"宗門は国家権力に屈して神札受け取りを容認した"(趣意)と宗門を攻撃する内容そのままでないか。これのどこが「宗門をかば」っていることになるのか。また、"学会が宗門の謗法に従った"ことが、宗門を庇(かば)ったことになると考えるのは、あまりに卑屈な発想でないか。
 別の見方をすれば、学会が神札受け取りを受諾したことによって、宗門の行為(神札受け取り指示)が、謗法でなくなる、ともとれる。これは、謗法か否かの基準を、学会と同意か否かに置いているともいえる大増上慢である。本当に神札受け取りを謗法であると考えるのなら、それを"受諾した"と虚偽の記述をして「宗門をかば」うことも謗法与同である。まったく学会の言うことなすこと、全て支離滅裂というほかない。

当時の特殊な状況下、神札を一応形として受け取ることは、止むを得ない措置であった。だから、日亨上人をはじめ、その後の宗門としても決して"誤った選択"などとは考えていなかった。だからこそ、日亨上人も史実として堂々と掲載されたし、その点について何ら自己批判されていないのである。

日淳上人は「学会の最も良き理解者」だから宗門をかばったが、日昇上人は理解者でないから堂々と宗門批判をした、というのもおかしな行動である。むしろ、常識的に考えれば逆でないのか。日淳上人が学会の理解者だと考えるのならば、むしろ正々堂々と学会の"正義"とやらを宗門の正史に掲載していただく絶好の機会だったはず。それをせずに、むしろ戦時中の宗門と同じ行動(しかも学会流の見解では謗法)をとっていたことにして、そのことをもって「宗門をかば」ったという発想は、まことに卑屈で、自己中心的御都合主義の情けない行動基準である。要するに学会は、日淳上人を理解者とは考えていても「法の師」としてどこまでも仕えるという師弟相対の信心には立っていなかったのである。また、日淳上人が日昇上人から受けられた法を絶対的には信じていなかったのである。これは、むしろ日淳上人を冒涜するものである。本当に、自分達の行動が正しいと思い、尚且つ日淳上人とその所持する法が真実だと思うならば、相手が誰であろうと真実を堂々と述べるべきである。それができない学会は、相手や自分たちの立場に応じて"真実"をクルクル変える無節操な団体である。蛇足ながら、学会の御法主上人方に接する態度は、"水魚の思い"ならぬ"魚心あれば水心"であり、時代劇の悪代官か悪徳商人の心根そのままである。(笑)



【戸田城聖著『人間革命』聖教新聞〜昭和29年8月】
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 この『富士宗学要集』第9巻は、昭和32年10月10日発刊である。当時の管長は、戦中戦後において、創価学会の最も良き理解者である堀米日淳上人である。それだけに創価学会側は、史実を伏せて宗門をかばい、穏当な表現をしたと思われる。
 このことは、戸田第2代会長が「妙悟空」の名で著された『人間革命』の単行本発刊にもあらわれている。『人間革命』は、もともと『聖教新聞』紙上に昭和26年4月より昭和29年8月まで連載されたものである。
 この『聖教新聞』の連載をまとめて昭和32年7月3日に単行本にしたのだが、新聞紙上に連載の『人間革命』に記述されていた、昭和18年6月に宗門が神札甘受を命じた箇所が単行本では割愛されている。以下に、割愛された箇所の一部を紹介する。
 「笠公〈小笠原慈聞〉は破門せられ、堀井〈堀米泰榮・のちの日淳上人〉尊師は内務部長の位置を離れた。ガサ公は野にある虎の如く宗門に喰ってかかつてゐる。
 牧田〈牧口会長〉先生の一行はこの空気の中に登山したのであつた。客殿の隣りにある広書院へ通された、正面には日恭上人、お隣りにすこし座を下つて堀御隱尊猊下が着座されている。すこしその下手に新らしき内務〈庶務〉部長渡辺慈公〈渡辺慈海〉尊師がお座りになつている。正面にむかつて下座に牧田先生の一行は静粛にかしこまつていた。
 慈公尊師が牧田先生に向つて
  『牧田さん、今度登山をお願いしたのは折入つてよくお話したい事があるのです、それは外でもないが神札の問題です』
  『ハツ』と云つて牧田先生はあらたまつた。巖〈戸田会長〉さんと他の一行は何だ神札の事かと云う様にケロリとした顔をしていた。
  『貴方の会では神札を焼かせたり神棚をとつたり、又神札を受けないそうじゃありませんか』
  『それはどう云う事なのでしょうか』
  と牧田先生もけげんそうな顔をされた。
  『時勢がこの様な時勢だから、神札だけは各寺院でも一応は受取る事にしたのです、貴方の会でも神棚や神札にふれん様にしたらいかがですか、そうして頂きたいと此方は希望するのです』
  牧田先生は決然と言上した。
  『神詣でのついでに宗祖聖人へお目通りに来られた尼をおしかり遊ばしたと云う話も承わります、御開山上人の身延離山のその原因に地頭波木井が三島神社へ供養した事がある、と承わつて居ります。牧田は決してそんな事は出来ません』
 慈公尊師
  『何事もおんびんにやつてもらいたいと云う主旨なのです』
  『天照大神は天皇陛下の先祖であつてかえつて我々がズケズケおまいりするのは不敬になるとしているだけなのです。今少し強く申し上げたいと思いますが、時ではないと思うので、これでも心掛けているつもりです。ただし謗法だけは我等の会員にはさせたくないと思いますが、どうしたものでしようかな
  『一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法か、又積んで置いてもそれ程の害はありますまい』
 あまりの言葉に何事にも無頓着な巖さんでも、やれやれこれは困つたもんだわいと思い出した」(昭和28年12月6日付『聖教新聞』より一部抜粋。〈 〉内は筆者加筆)
 単行本化するにあたり、これらの箇所が割愛されたのは、堀米日淳上人が猊座にあり、宗門の創価学会への理解が高まっていたという時代状況にあったことと関連すると思われる。これと同様の配慮が、『富士宗学要集』の記述の仕方にもなされたのであろう。(『地涌』第667号)
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(※牧口会長)「天照大神は天皇陛下の先祖であつてかえつて我々がズケズケおまいりするのは不敬になるとしているだけなのです。(戸田城聖著『人間革命』聖教新聞・昭和28年12月6日付)
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神社参拝をしない理由が「ズケズケおまいりするのは不敬になる」からだという。これのどこが、謗法厳戒の正論なのか。これは、対外的見解ではなく、本山での会話であるから、本心であったのであろう。つまり、牧口会長は、判断基準こそ違え天皇やその祖先に対する「不敬」を恐れていたのである。

「(※牧口会長)今少し強く申し上げたいと思いますが、時ではないと思うので、これでも心掛けているつもりです。ただし謗法だけは我等の会員にはさせたくないと思いますが、どうしたものでしようかな」(戸田城聖著『人間革命』聖教新聞・昭和28年12月6日付)
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「強く申し上げたい」とは、上記「不敬」云々のことであり、「申し上げ」る対象は、国家権力側であろう。つまり、学会として神社参拝を控えているのは、不敬を恐れてのことであることを、国家に対して「強く申し上げたい」としているのである。これが、牧口流"国家諌暁"の中身だとすれば、あまりにもオソマツというほかない。しかも、それが「時ではないと思う」というのであるから、消極的である。その上、自分の確信を主張して宗門の指示を一蹴するどころか、「どうしたものでしようかな」と本山側に対して指導を求めているのである。

「(※本山庶務部長)一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法か、又積んで置いてもそれ程の害はありますまい」(戸田城聖著『人間革命』聖教新聞・昭和28年12月6日付)
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本山側の"神札受け取り"は一応形だけのものであり、決してそのまま受持することを勧めたものではない。

★以上の記述は以下の点において『創価学会の歴史と確信』の記述や池田大作著『人間革命』の記述とは大違いである。昭和29年8月まで『聖教新聞』に連載されたという戸田城聖著『人間革命』の方が、牧口会長自身、神札拒否に頑なではなく、むしろ宗門に指導を求めており、『富士宗学要集』の小平記述に近いことが分かる。

@靖国神社不参拝の理由は、謗法厳戒からではなく、天皇やその祖先(天照大神)に対する不敬を恐れたから。
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ただし、『大善生活実証録』においては、感謝のための参拝を認めている。

A牧口流"国家諌暁"とは、神社不参拝の理由(上記@)を国家に訴えることだった。その上「時ではない」と消極的だった。
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国家権力を折伏し、正法に帰依させるという、壮大な計画ではなかった。尚、同じく戸田城聖著『人間革命』には、牧口会長の意見として「この日本の大戦争を勝たせるためには、どうしても広宣流布しなければ勝てっこはない。まずこの時こそ、天皇陛下が自ら目覚められて、尊い御本尊を拝まなくてはならん」との記述があるが、本山における会話での「強く申し上げたい」内容といい「時ではない」という消極的態度といい、両者は大いに相違している。これは、牧口会長自身の心境の変化か、あるいは『人間革命』自身が所詮「小説」の域を出ないフィクションであり、事実と理想をゴチャマゼにした結果、矛盾を露呈したものであろう(実際、牧口学会が"国家諌暁"を行った事実はないが)。

B牧口会長は、強い信念と確信をもって神札拒否で一貫していたのではなく、会員に謗法を犯させずに、不必要な弾圧を回避する方策について本山に指導を仰いでいた。

C本山は神札を「そっと処分」する方法を提示していた。

単行本化するにあたり、これらの箇所が割愛されたのは、堀米日淳上人が猊座にあり、宗門の創価学会への理解が高まっていたという時代状況にあったことと関連すると思われる。これと同様の配慮が、『富士宗学要集』の記述の仕方にもなされたのであろう。(『地涌』第667号)
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上記のように「割愛」された箇所こそは、牧口会長が神札拒否に頑なではなく、むしろ本山に指導を仰いでいた部分である。要するに「堀米日淳上人が猊座にあり、宗門の創価学会への理解が高まっていたという時代状況」において、学会は、『地涌』の主張とは逆に、「宗門をかば」うどころか、「一度神札を受けてそつと処分する」(本山庶務部長)という宗門の謗法厳戒の主張を隠す一方、神社不参拝の呆れた理由=オソマツな国家諌暁の中身、弾圧回避について本山に指導を求めていたこと、つまり学会の"カッコ悪い"実態を隠蔽したのである。学会は、「最大の理解者」である日淳上人が管長であることをこれ幸いと、学会にとって都合の悪い真実を隠していたのである。



【戸田会長談話】
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 昭和27年6月10日付『聖教新聞』には、つぎのような戸田会長の談話が掲載されている。
 「戰局も悲運にかたむき、官權の思想取締が徹底化して來た昭和18年6月初旬に総本山から『学会会長牧口常三郎、理事長戸田城聖その他理事7名登山せよ』
 という御命令があり、これを受けた学会幹部が至急登山、その当時の管長であられた鈴木日恭猊下、及び堀日亨御隱尊猊下おそろいの場に御呼出しで(場所はたしか元の建物の対面所のように記憶している)、その時その場で当時の内事部長渡辺慈海尊師(現在の本山塔中寂日坊御住職)から『神札をくばつて來たならば受け取つて置くように、すでに神札をかざつているのは無理に取らせぬ事、御寺でも一應受け取つているから学会でもそのように指導するようにせよ』と御命令があつた。
 これに対して牧口先生は渡辺尊師に向つてきちつと態度をとゝのえて神札問題についてルルと所信をのべられた後、『未だかつて学会は御本山に御迷惑を及ぼしておらぬではありませんか』と申し上げた処が、渡辺慈海尊師がキツパリと『小笠原慈聞師一派が不敬罪で大石寺を警視廳へ訴えている、これは學会の活動が根本の原因をなしている』とおゝせられ、現に学会が総本山へ迷惑を及ぼしているという御主張であつた」(昭和27年6月10日付『聖教新聞』より一部抜粋)
 この戸田会長の談話は、この年4月の狸祭り事件にまつわり出されたものである。このとき宗門は、狸祭り事件にこと寄せて戸田会長を処断しようとしている。(『地涌』第667号)
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「神札問題についてルルと所信をのべられた」とはあるが、その所信の中身については触れられていない。それどころか、本山において、牧口会長は神札受け取りを拒否したのかどうか不明である。『地涌』によれば、この時の管長が「最大の理解者」(日淳上人のこと)ではなかったから、「遠慮」することなく、また、「宗門をかば」うこともなく真実を語ったそうであるが、少しも学会の"正義"=神札拒否を貫いたこと、が明示されていない。

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戸田会長の書いた『創価学会の歴史と確信』や『聖教新聞』紙上に出された戸田会長談話に、事実に反する宗門誹謗があったとすれば、この昭和26年、27年当時、大いに問題になっているはずである。(『地涌』第667号)
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戸田会長談話では、本山が学会に対して、神札受け取りを指示した事実が述べられている。しかし、これは、『富士宗学要集』にも記載されていることで、何ら問題はない。相違があるとすれば「神札問題についてルルと所信をのべられた」とある点であるが、これ自体は大した問題ではない。何故なら、本来、神札など所持すべきものではないことは、宗門人として当然の感覚だからだ。問題は、本山の指示を受けたかどうかであるが、『地涌』の記述をみる限り、言及されていない。これでは、「大いに問題になっているはず」がない。

『創価学会の歴史と確信』においては、本山において神札拒否を貫き、そのために登山禁止となったことが述べられている。客観的事実の記述は、これだけである。
・神札拒否は本山における会話であるから、下山後本山の指示に従って「応急策」(『富士宗学要集』)を講じたことを否定したものではない。
・御法主が「己義」を構えたかのような記述は、大いに問題となるところであるが、これは故人である牧口会長の「確信」の表明に過ぎず、戸田会長の意思でもなければ、学会の公式見解でもない。その証拠に、戸田会長は当時から、唯授一人の血脈こそが宗旨の根幹であることを何度も指導している。このような背景事情があったから、大きな問題とならなかったのであろう。

●日蓮大聖人から600余年、法統連綿と正しくつづいた宗教が日蓮正宗である。もっとも完全無欠な仏法が正宗なのである。(S26.7.10『創価学会の歴史と確信』/『戸田城聖全集』第3巻111頁)
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この部分は、昭和26年当時の戸田会長の考えである。一方、神札容認の宗門の態度を「己義」とまで批判したのは、昭和18年6月当時の故人・牧口会長の「確信」である。

●誰がなんと言おうと、誰がどうあろうと、私は総本山に御奉公の誠を尽くし、猊下に忠誠を尽くし、広宣流布のため、今こそ死身弘法の実践を、この佳き日に誓うものであります(戸田会長の言・昭和23年11月客殿六壷復興落慶法要『人間革命』第3巻「結実」)
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このときの猊下は、第64世日昇上人である。

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戸田会長存命中は、戦中の教義違背の罪を暴かれるのを恐れて宗門は口を閉ざしており、戸田会長亡き後、35年を経てから日顕宗機関紙である『慧妙』などで史実を覆そうとする。汚いといえばあまりに汚いやり口である。(『地涌』第667号)
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既に戸田会長存命中に、当時の学会教学部長名の公式記録を『富士宗学要集』に掲載してある。「口を閉ざしている」とは、事実誤認も甚だしい。謗法の果報によって白も黒に見えるのか。(溜息)



【野島辰次著『我が心の遍歴』】
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 真実は、創価教育学会副理事長であった野島辰次がその手記の中に記している。
 野島は創価学会を嫌悪し、昭和27年頃に戦後第1次の檀徒活動の中核として暗躍した経歴の持ち主である。
 「あれはこの6月の末、私が学会から特派されて福岡へ1週間ほどの旅行に出かける前のこと、本山から特に招請状が来たので、真木大三郎〈牧口常三郎〉、遠田丈男〈戸田城聖〉、葉山仁之助〈稲葉伊之助〉、岩間謙三〈岩崎洋三〉、中川清右衛門〈西川甚右ェ門〉など幹部の一行に私も加わって大石寺へ詣り、そこには法主〈日恭上人〉、元法主〈日亨上人〉も列席し、主として総監亘理慈全〈渡辺慈海〉から、皇大神宮の大麻を祀ることについての取扱方、時局柄あまりこの問題で摩擦を起こさないようにという注意があったが、学会としては、この問題はこれまでにも度々論議されたことで、真木会長の指導で、一貫した理論を持っていたつもりだったので、折角の本山のえんきょくな注意を受け入れるどころか、返って逆襲した形で、勿論、こちらは真木先生が中心になって応答したのであるが、私などもその尻馬に乗って、ふだん聞かされていた天照大神天皇一元論の一端など一くさり述べたのだった」(野島辰次遺稿集『我が心の遍歴』より引用。〈 〉内は筆者加筆)
 これを書いた野島は、戦中、官憲に逮捕されたときには一心に早期出獄を願い、創価教育学会の組織壊滅の導火線となった。
 にもかかわらず、早期出獄を果たせなかったのは、牧口会長、戸田理事長(当時)らのせいであると逆恨みし、昭和19年8月の出獄後、牧口会長の死を知ったときも、心には冷たい反応しか涌いてこなかったとし、
 「『さういえば真木先生って方がお亡くなりになったそうですね、この間兄から電話があった時にそういってましたよ』と健助〈野島辰次〉達も当然もう知ってることのようにそういわれ、ところが健助はその時初めて真木大三郎の死を知ったのだった。『ああそうですか、真木先生が……』
 あっさり聞き流すような、うわべは平気な風を健助は装ったが、ひやりと冷たいものを頸筋のあたりに何かそういうものを感じた。(中略)それほど健助は他人のちょっとした出来事を知ったほどに冷たくなっていたのだが、若し健助の心がもう一段冷たくなっていたなら、真木という恩師の死に対して、悪魔のような嘲笑をひょっとしてその口辺にただよわしたかも知れない」(同)
 というふうに『我が心の遍歴』で述懐している。
 この野島は、自分を含めた創価教育学会首脳が、昭和18年6月の宗門の指示を聞き入れなかったことが、災いの因となったと考えていた。もっと率直に述べれば、このときの「御指南」に逆らったから、罰を受け投獄され家族ともども地獄の苦しみを味わったと、牧口会長を心底、恨んだのであった。
 その野島が創価学会側に立ち、昭和18年6月の状況を創価学会側に有利に美化する必要などないのである。それだけに、国家権力による法華経の持者に対する弾圧を、法難と受けとめず災い(罰)と考える野島による件の情景描写は信用できるのである。
 野島は、昭和26年、戸田会長が会長就任したことを面白く思わず、砂町教会(のちの白蓮院)を拠点に反創価学会の活動をおこなった。このとき、野島とともに戦後第1次の檀徒活動をしたのが、牧口会長の縁戚でもある稲葉荘である。
 その稲葉が「通諜」(正しくは通牒)を今さら持ち出し、真実めいた「証言」をしている。
 稲葉が、この「通諜」が真実であると確信していたのなら、昭和52年頃に「通諜」のコピーが出回ったとき、どうして正々堂々と“返還された押収書類”と証言しなかったのだろう。檀徒活動の先輩らしくないではないか。その事情は後ろめたさから、話せなかったものと思われる。(『地涌』第667号)
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折角の本山のえんきょくな注意を受け入れるどころか、返って逆襲(中略)私などもその尻馬に乗って、ふだん聞かされていた天照大神天皇一元論の一端など一くさり述べたのだった(野島辰次著『私が心の遍歴』)
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「天照大神天皇一元論」については、戸田城聖著『人間革命』においても、それらしき記述はある。しかし、それは神社参拝に関するものであり、神札に関するものではない。また、『人間革命』では「ただし謗法だけは我等の会員にはさせたくないと思いますが、どうしたものでしようかな」と、むしろ本山側に指導を仰いだことになっている。また、両文書とも、何らかの"反論"をしたことになっているが、最終的に本山の指示を受けたかどうか不明である。また、仮に、『創価学会の歴史と確信』で述べるように、本山では徹底して神札を拒否したとしても、下山後、『富士宗学要集』で述べるところの弾圧回避の「応急策」が講じられた可能性は、充分ある。

この野島は、自分を含めた創価教育学会首脳が、昭和18年6月の宗門の指示を聞き入れなかったことが、災いの因となったと考えていた。もっと率直に述べれば、このときの「御指南」に逆らったから、罰を受け投獄され家族ともども地獄の苦しみを味わったと、牧口会長を心底、恨んだのであった。その野島が創価学会側に立ち、昭和18年6月の状況を創価学会側に有利に美化する必要などないのである。それだけに、国家権力による法華経の持者に対する弾圧を、法難と受けとめず災い(罰)と考える野島による件の情景描写は信用できるのである。(『地涌』第667号)
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「学会側に有利に美化する必要などない」というが、野島氏は、本山の指示を無視した行動を"正義"などとは捉えていなかったのである。むしろ、頑なに神札を嫌う学会の行動を"世相を無視して宗熱に突喊する似非信行"だと考えていたのであろう。そうであれば、また、『地涌』の言うように氏が学会を恨んでいたのであれば、真実を枉げてでも"世相を無視して宗熱に突喊する似非信行"を強調した可能性は充分ある。当該書の題名が『我が心の遍歴』とあるのも、客観的事実を基調としながらも、小説風に心の遍歴に重点を置いた記述であることが推測されるのである。同様のことが『創価学会の歴史と確信』についてもいえる。同書は牧口氏と戸田氏の「確信」に焦点を当てて記述されており、問題となる宗門批判の記述は、主に牧口会長の「確信」部分に過ぎないのである。

●顧(かえり)みるに法難の起こる時、必ず、外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発ありて其の端を発し、内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊する似非信行の門徒ありて、(内外の)両面より官憲の横暴を徴発(ちょうはつ)するの傾き多し。本篇に列する10余章(の法難も)皆、然らざるはなし(『富士宗学要集』第9巻247頁)
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 戦時下の弾圧においては「内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊する似非信行の門徒」とは誰であろうか?史実を見る限り牧口会長(または、『地涌』の記述が正しければ藤本某)以外には相当する人はいないであろう。
 まさに、学会弾圧は、国家神道中心のファシズムが世を支配している異常な状況下で、「世相を無視して宗熱に突喊する、似非信行の」牧口会長以下学会員達の行きすぎた言動(「神札焼却」の強調や、四悉檀を無視した強引な罰論等)が、いたずらに招き寄せた弾圧であった、というほかはない。野島氏も同様に考えていたのであろう。
※ただし、遅くとも下山後、神札に関する弾圧回避の「応急策」(冒頭『富士宗学要集』)が講じられた。遅きに失したとはいえ、最終的には本山の指示に従ったからこそ、日亨上人は『富士宗学要集』第9巻の「法難編」に学会の弾圧を加えられたのであろう。



【『創価学会の歴史と確信』】
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 昭和18年6月、宗門が創価教育学会首脳を呼びつけたときの真実は、まぎれもなく戸田会長の『創価学会の歴史と確信』に記されたとおりである。
 「当時、御本山においても、牧口会長の、宗祖および御開山のおきてに忠順に、どこまでも、一国も一家も個人も、大聖の教義に背けば罰があたるとの態度に恐れたのである。信者が忠順に神棚をまつらなければ、軍部からどんな迫害がくるかと、御本山すら恐れだしたようである。
 昭和18年6月に学会の幹部は登山を命ぜられ、『神札』を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうかと、2上人立ち会いのうえ渡辺慈海師より申しわたされた。
 御開山上人の御遺文にいわく、
 『時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事』(御書全集1618頁)
 この精神においてか、牧口会長は、神札は絶対に受けませんと申しあげて、下山したのであった。しこうして、その途中、私に述懐して言わるるには、
 『一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖聖人のお悲しみを、恐れるのである。いまこそ、国家諫暁の時ではないか。なにを恐れているのか知らん』と。
 まことに大聖人の御金言は恐るべく、権力は恐るべきものではない。牧口会長の烈々たるこの気迫ありといえども、狂人の軍部は、ついに罪なくして罪人として、ただ天照大神をまつらぬという“とが”で、学会の幹部21名が投獄されたのである。このとき、信者一同のおどろき、あわてかた、御本山一統のあわてぶり、あとで聞くもおかしく、みるも恥ずかしきしだいであった。牧口、戸田の一門は登山を禁ぜられ、世をあげて国賊の家とののしられたのは、時とはいえ、こっけいなものである」(『戸田城聖全集』第3巻所収『創価学会の歴史と確信』より一部抜粋)
 この戸田会長の論文は、「上」「下」にわかれており、会長就任間もない昭和26年の『大白蓮華』(「上」は7月号、「下」は8月号)に発表された。(『地涌』第667号)
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<他の学会文書等との矛盾>
―神札指導―

1◆信者が忠順に神札をまつらなければ、軍部からどんな迫害がくるかと、御本山すら恐れだしたようである。(『創価学会の歴史と確信』/『戸田城聖全集』第3巻106頁)
◆一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法か、又積んで置いてもそれ程の害はありますまい(昭和28年12月6日付『聖教新聞』/『地涌』第667号)
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1◆では本山が「神札をまつ」るように指示したような記述になっているが、ここでは、「そっと処分」するように指示されている。

牧口、戸田の一門は登山を禁ぜられ、世をあげて国賊の家とののしられた(『創価学会の歴史と確信』/『戸田城聖全集』第3巻107頁)
◆「(※堀米尊師)戸田さん、いつ?・・・」「(※戸田)おとといの夜、やっと保釈になりました(中略)この戸田の生きているかぎり、断じて御本山を安泰にお護り申しあげます。ご心配くださいますな。ただ、出獄後、まだ事業の見とおしも得ませんので、しばらくの猶予をおねがいいたします。」(『人間革命』第1巻「一人立つ」)
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戸田氏は、出獄の翌々日には堀米尊師(日淳上人)にお会いしている。しかも会話の中で、「戸田の生きているかぎり、断じて御本山を安泰にお護り申しあげます。」と明言している。これはおかしなことではないか。もし、「登山停止」が事実であるならば、まず、処分の撤回がなければならない。「登山停止」となった者が「御本山を安泰にお護り」することなどできないからである。まずは、「御本山を安泰にお護り」できる立場となるために、登山停止を撤回してもらわなければならないが、そのような描写はまったくない。

◆昭和21年元旦、−午後3時近く、戸田城聖は東海道線冨士駅に降りた。同行者は、藤崎陽一、北川直作、岩森喜三の3名であった。(中略)理境坊がある。故牧口会長以来、本山にお願いして、この坊を学会専用の坊として、つねに使用してきた。 理境坊の本堂に荷物をおろし、住職に久闊の挨拶をすますと、住職は人懐かしい様子で、熱い茶を入れながら、様々な話をはじめた。(『人間革命』第1巻「千里の道」)
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戦時中に登山停止となったとされる戸田氏だが、終戦後半年もたたない内に、早々と登山している。しかも、御住職は戸田城聖氏らを快く受け入れている様子である。一体いつ、どのようにして学会は登山停止を解除されたのか?<信徒除名、登山停止>参照。


―逮捕後(下山後)の牧口―
数馬判事の私を憎むこと山よりも高く、海よりも深き実情であった。(中略)牧口先生をいじめ、軽蔑し、私を憎み、あなどり、同志をうらぎらせた彼は、裁判官として死刑の判決を受けたのである。(『創価学会の歴史と確信』/『戸田城聖全集』第3巻110頁)
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この数馬判事に対する評価は、牧口氏自身が書いた獄中書簡(2◆)と完全に矛盾する。
2◆毎日裁判所通ひで、大に取調べも進んでいるし、数馬判事さんも、やさしく、法華経の御研究、かつ私の価値論も御理解下されます(昭和19年5月18日牧口「獄中書簡」/『牧口常三郎全集』第10巻405頁)
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仮にも、治安維持法違反の組織の長の思想に対して、判事が理解を示すことなど、考えられない。もし、これが事実とすれば、既に訊問調書において「不敬」の罪を認めた牧口氏であるから、判事の余裕の表れか?また、被疑者の本音を引き出すための"作戦"とも考えられる。↓

●新興宗教は皆インチキやと、そういう観念を持っておった・・・ところが、ほんみちの信徒を各個に調べてみて、入信の動機を聞いたり、あるいはいろいろの霊験談を聞いたりしとるうちに、ぼく(※予審判事)の心境が変わってきた。ぼくもひょっとしたら、機縁があったら、ほんみちを信心したか分からん(取調べ中の予審判事『宗教弾圧を語る』岩波新書132頁)
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「ほんみち」とは「天理教から分かれた新興宗教」(同書)であるが、「天皇制を否定」(同書)している。その組織の幹部(教祖の甥)に対する判事の言である。少なくとも表面上、判事との関係は"和やか"であったことが推測される。これは、上記牧口会長の場合と同様であり、2◆の記述は信憑性があるといえよう。

●留守部隊長として万々の労苦御察し致します。私が帰りましたら第一線で万事引き受けるつもりですからどうか頑張って下さい。(中略)僕の心境(中略)「国の為、君の御為に捨つる身に かざらまほしき真如の月かな」(戸田城聖=昭和18年12月4日、岩崎洋三氏への獄中書簡/『富士宗学要集』第9巻444頁)
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「治安維持法」「不敬罪」で逮捕されながら、堂々と獄中より学会活動の激励をしている。神札不敬を撤回したからこそ、当局も学会活動自体については容認していたのであろう。

◆当方無事。春になっても安心です。3度共に暖かいごはんに汁沢山。青年時代からあこがれて居た本が読めるので、却って幸ひである。国法にはどんなにでも服従すると言ふのだから、心配はいらない。(牧口会長「獄中書簡」昭和19年3月16日/『牧口常三郎全集』第10巻288頁)
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「3度共に暖かいごはんに汁沢山」とは、家族を心配させまいとする配慮であろうが、あまりにも見え透いている気がする。家族も行っている信仰については、謗法厳戒が牧口学会の"確信"であり"生命線"である。仮にも、そのような牧口氏が、家族を安心させるためとはいえ"同志"(信仰上の問題であれば、家族である以前に一会員であるはず。また、書簡の内容も信仰上のことであれば会員にも伝わったであろう)に「国法にはどんなにでも服従する」などと言うはずがない。そんなことを言うぐらいなら、会員に神札拒否を指導し、組織を空中分解させることもなかったであろう。ここにも、『創価学会の歴史と確信』で述べられた牧口会長とは異なる一面が現れている。これは起訴(昭和18年11月20日)以降のことであるから、予審中のことである。訊問調書完成以後、牧口氏の環境や心境の変化が感じられる。というより、訊問調書自身、官憲の作文であったのであろう。押収物の中には宗学書もあったから、簡単に大聖人の"正論"を作文できたはず。そう考えれば、"謗法厳戒""国家諌暁"を主張した牧口会長は、下山後"変心(改心)"したことが察せられる。

御上の事は何んでも従ふことで検事様との間はなごやか(牧口会長「獄中書簡」昭和19年3月27日/『牧口常三郎全集』第10巻405頁)
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年月日から考えて「検事」とは「判事」の誤りか。


―戦後の学会文書との矛盾―
@「神札は絶対に受けませんと申しあげて、下山」と、少なくとも本山では神札拒否を明言し、そのまま撤回しなかったことになっている。「今こそ国家諌暁のとき」と意気軒昂。「信者が忠順に神札をまつらなければ、軍部からどんな迫害がくるかと、御本山すら恐れだしたようである。」と、本山があたかも神札を祀るように指示したような記述。(戸田城聖・昭和26年『創価学会の歴史と確信』)
A「神札問題についてルルと所信をのべられた」と述べるが、結論として本山の指示を受諾したかどうかは不明。(昭和27年6月10日付『聖教新聞』の戸田会長の談話)
B神社参拝が謗法であると表明したが、神札拒否については表明せず。むしろ、本山の指示を仰ぐ。"国家諌暁"については「時ではない」と消極的。本山は「一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法」を提示。(戸田城聖著『人間革命』聖教新聞・昭和28年12月6日付)
C心中では本山に反論したが、結局神札受け取りに応じ、応急策を講じる。(小平芳平教学部長『富士宗学要集』/第59世日亨上人編纂・昭和30年頃作成)

D本山に反論。神札拒否を貫いたかどうかは不明。(創価教育学会副理事長であった野島辰次著『我が心の遍歴』)

本山において、牧口会長が反論した点については、複数の文書に記載されている。しかし、本山の会話で最後まで神札受け取りを拒否したことを明言しているのは@(『創価学会の歴史と確信』)のみであり、C(『富士宗学要集』)では逆に受諾したことになっている。下山後の学会の神札に対する対応について言及しているのはCのみであるが、そこには「会長の応急策」が講じられたことが記載されている。この「応急策」が、神札に関するもので、弾圧回避策であることは文脈上明らかである。

★以上@〜Cのように、学会側の公式文書は、神札の対応について変遷している。いずれにしても、後に宗門として、このときの状況を詳しく総括、訂正する形で、学会教学部長の記録を収録した『富士宗学要集』が出版(学会発行)されたのであるから、当時の戸田会長もこれに従ったことは明らかである。

●先判後判の中には後判につくべし(『開目抄』全集199頁)
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当該御文は釈尊の説法の先判、後判について述べたものであるが、信心の指導や教義の説明などについても、これに準じて考えるべきである。『新版仏教哲学大辞典』(初版第2刷)には「一体系のものを判ずるとき」として、「前後二判が相矛盾している場合は、後判の説をとる」としている。学会の信心指導、歴史解釈などは、後に書籍としてまとめられており、世間の契約、約束事とは違う。「一体系のものを判ずるとき」に相当するといえよう。であるならば、本山での神札受け取り指示を中心とする学会の対応についても、「後判」ともいうべき『富士宗学要集』(学会教学部長の記事)を有効とすべきであろう。尚、池田大作著『人間革命』の記述などは、『創価学会の歴史と確信』などを基に作成されたものであるから、発刊が新しくとも「後判」とはいえない。

[先判]=後判に対する語で、一体系のものを判ずるとき、前説と後説に大別し、その前説にあたるものをさす。釈尊一代の経教でいえば、40余年の方便教は先判、法華経が後判。また法華経でいえば前十四品が先判、後十四品が後判となる。前後二判が相矛盾している場合は後判の説をとる。(学会教学部編『新版仏教哲学大辞典』初版第2刷1128頁)


<「確信」述べたに過ぎない『・・・歴史と確信』>
 『創価学会の歴史と確信』において綴られた客観的事実は、本山において神札拒否を貫き下山した、そのために登山禁止となったということだけである。他のこと(『日興遺誡置文』の引用や、国家諌暁など)は、牧口会長の「確信」に過ぎない。それも、本山での神札受け取り指示があった頃の牧口会長の「確信」を述べたに過ぎない。その証拠に、逮捕後の牧口氏の言動は、『創価学会の歴史と確信』とは大いに矛盾している(上記)。また、戦時中の状況を伝える学会文書も、神札問題で本山に反論した記述はあるものの、逮捕時まで神札拒否を貫いたと明言している文書はない。また、宗門の対応(神札受け取り指示)を批判したものは、後にも先にも『創価学会の歴史と確信』のみである(上記)。
 『創価学会の歴史と確信』が、文字通り学会(就中、牧口・戸田会長)の「確信」について書かれたものであることからすれば、牧口会長の「確信」に反する事実は敢えて言及しなかったとも考えられる。そう考えれば上記@〜Cは必ずしも矛盾しない。ただ1点、Cの牧口会長の所信表明が「心中」のこととなっている点は、矛盾するが、それこそ、「史実を伏せて」(『地涌』第667号)学会「をかばい、穏当な表現をしたと思われる」(同)。(<私的見解>参照
 尚、『創価学会の歴史と確信』が発表された昭和26年当時、戸田会長は牧口会長の国家諌暁の姿勢を高く評価していたようであるが、昭和29年の指導では「天皇陛下が、この日蓮正宗を信じられるわけがない」としている。(<戦時下の国家諌暁について>参照)




信徒除名、登山停止


<学会の邪説>
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1◆学会の幹部は登山を命ぜられ、「神札」を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうかと、二上人立ち会いのうえ渡辺慈海師より申しわたされた。 御開山上人の御遺文にいわく、「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(御書全集1618頁) この精神においてか、牧口会長は、神札は絶対に受けませんと申しあげて、下山したのであった。-中略-(逮捕によって)御本山一統のあわてぶり、あとで聞くもおかしく、みるも恥ずかしきしだいであった。牧口、戸田の一門は登山を禁ぜられ、世をあげて国賊の家とののしられたのは、時とはいえ、こっけいなものである。(『創価学会の歴史と確信』/『戸田城聖全集』第3巻106頁〜)

2◆だが、宗門は、日蓮大聖人の教えを守り、断固として謗法を受けつけない正信の信徒である創価教育学会の牧口会長、戸田理事長らに対し、「登山止め」の処分をもって報いた。宗門は法義を曲げ、それにしたがわない者に宗政上の権力を行使し、処罰したのである。 その処罰を下した直後、創価教育学会幹部の逮捕が相次いだのであるが、官憲の弾圧に恐怖する宗門は、「登山止め」の処分だけでは処分が弱く、司直の手が宗門におよぶ可能性があると判断し、さらに創価教育学会に対し、処分の追い打ちをかけた。 驚くべきことに、牧口常三郎会長、戸田理事長をはじめとする創価教育学会幹部たちを信徒除名にしたのであった。(『地涌』第670号
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<破折>
3●(左の一編は小平芳平氏の記に依る)(中略)18年6月には、学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした、が心中には次の様に考えられていた、当時の軍国主義者は、惟神道と称して、日本は神国だ、神風が吹く、一億一心となつて神に祈れ、等々と呼びかけていた。少しでも逆う者があると、国賊だ、非国民だといつて、特高警察や憲兵のつけねらう所となつた、もとより牧口会長は、神札を拝むべきではない、神は民族の祖先であり、報恩感謝の的であつて、信仰祈願すべきではないと、日蓮大聖人、日興上人の御正義を堂々と主張なされていた。(中略)会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)
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登山停止については戸田城聖氏が述べているが(1◆)、信徒除名については全く根拠がない。この小平氏(当時、学会教学部長)の記録では、学会は本山の指示に従い「応急策」を講じたことになっている。この記録は、当時の状況に詳しく、かつ神札受け取り指示の現場にも居られた日亨上人が、正しいと認められたからこそ、『富士宗学要集』に掲載されたのである。処分を科す側(日亨上人)が、このような認識であったのだから、戸田氏らが処分を受ける理由はない。

4◆「先生・・・」
 戸田は数珠を手にしたまま、ふり仰いだが、あとは言葉にならなかった。彼は、堀米尊師の前に手をついて、無言のまま動かなかった。堀米尊師は、彼の傍によって、痩せた手をのばし、戸田の手をとった。大御本尊の真ん前であった。戸田は、思わず両手でその手を握った。すると堀米尊師は、もう片方の手を、その上に重ねた。2人は、互いに抱擁するような姿で、戦友のように堅く握りあった。
 2人のあいだには、語るべき多くのことが溢れていた。だが、あまりの懐かしさに、その感慨は言葉にはならなかった。ただ、無言で堅く握っている手が、言葉以上の多くを語っていた。
 堀米尊師は、戦時下、総本山の中枢であり、宗門の矢面に立って戦ってこられたのである。特に、国家権力に対峙する一切の衝にあたり、骨身を砕いてきていた。
 戸田城聖は、学会の要として、あらゆる苦難を一身にあびてきていた。そして、弾圧の2年の歳月は、2人をまったく隔離していた。複雑怪奇ともいうべき時代の激流は、助けあい、呼びあう2人を、みるみる遠ざけてしまった。流れのうえには、誤解や曲解が流木のように、浮かんだり消えたりしていた。
 後世の歴史家は、この昭和の最大の法難にあたって、勇敢に弾圧と戦った人は、2人いたというだろう。1人は、日蓮大聖人の法水を、、微塵も汚すことなく護りきった、総本山側の堀米尊師、もう1人は、最大の講中である創価教育学会側の戸田城聖その人である―と。(中略)
「(※堀米尊師)戸田さん、いつ?・・・」
「(※戸田)おとといの夜、やっと保釈になりました」(中略)
「この戸田の生きているかぎり、断じて御本山を安泰にお護り申しあげます。ご心配くださいますな。ただ、出獄後、まだ事業の見とおしも得ませんので、しばらくの猶予をおねがいいたします。」
 僧俗一体の実は、2年ぶりで回復したのである。(『人間革命』第1巻「一人立つ」)
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戸田氏は、出獄の翌々日には堀米尊師(日淳上人)にお会いしている。しかも会話の中で、「戸田の生きているかぎり、断じて御本山を安泰にお護り申しあげます。」と明言している。これはおかしなことではないか。もし、「登山停止」「信徒除名」が事実であるならば、まず、これらの処分の撤回がなければならない。「登山停止」はともかく、「信徒除名」となった者が「御本山を安泰にお護り」することなどできないからである。まずは、「御本山を安泰にお護り」できる立場となるために、信徒除名を撤回してもらわなければならないが、そのような描写はまったくない。ただし、同じ時の会話と思われる別の証言では、戸田氏が日淳上人に謝罪したことになっている。また、それより前に戸田氏自身の獄中書簡において、日淳上人に懺悔している。

5●堀米先生に、去年堀米先生を「そしった」罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。「法の師をそしり」し罪を懺悔しつつ「永劫の過去を現身にみる」と言っております、と(戸田城聖著『獄中書簡』/『慧妙』H13.9.1)
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僧誹謗の重罪を懺悔。「永劫の過去を現身にみる」の「現身」とは、投獄の身となったことを指すと考えられる。

6●(※昭和20年7月5日)足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)
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上記『人間革命』での堀米尊師(日淳上人)との再開の場面と同じときのもの。

7●牧口氏の所謂不敬罪事件について、私は宗務当事者が特高課の追及を恐れ、また特高課が宗門の介入により事件の拡大を好まず、牧口氏だけの問題として処理する結果となったものと考えていた。(中略)牧口氏の側にも次のような事情があったことが、ご隠居尊と山峰師のお話から感じられた。 牧口氏は所属寺院の歓喜寮主管堀米泰栄師(後の日淳上人)と議論し、「もう、貴僧の指導は受けない」と席を蹴って退去し、本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は茲で日蓮正宗と縁が切れ、後に戸田氏が宗門に帰参してからも、学会は寺院を離れた独自の路線をとることになった。この様な状勢の中で、天照太神に対する牧口氏の不敬事件は、個人の問題として扱われ(直達講の副講頭であった竹尾清澄『畑毛日記』/『慧妙』H6?)

★以上のように、『人間革命』の記述(4◆)が正しいとすれば「信徒除名」「登山停止」などなかったことになる。ただし、『獄中書簡』(5●)や「日淳上人夫人の証言」(6●)が事実とすれば、何らかの処分があった可能性はある。しかし、それは「堀米先生を『そしった』」(5●)ことによるものであり、学会側のいうような理由(神札をめぐる本山での会話)ではない。牧口会長と日淳上人との仲違いについては元直達講・副講頭であった竹尾清澄氏の日記(7●)にも記述されており、信憑性は高いといえる。もし、牧口氏らが日淳上人を誹謗したことをもって何らかの処分があったとすれば、戸田氏自身、心から懺悔したのである。だからこそ処分は撤回されて「御本山を安泰にお護り」(4◆)できる立場となったのである。

◆第1歩として、彼は法華経講義をはじめることを決意した。(中略)
 理事たちの衆議一決は、実行となると、たちまちあやしくなった。戸田はなだめすかすように、笑ながら言った。
 「法華経は逃げやしない。これから年の暮れにかかるし、お互いに落ち着かないから、来年の元旦、本山へそろって登山して、講義は、お山でスタートしようじゃないか。(中略)」
 彼らは、口々に賛成の叫びをあげながら、街路に出た。師走なかばの木枯らしが、暗い街を吹きぬけていった。(中略)
 昭和21年元旦、−午後3時近く、戸田城聖は東海道線冨士駅に降りた。同行者は、藤崎陽一、北川直作、岩森喜三の3名であった。(中略)理境坊がある。故牧口会長以来、本山にお願いして、この坊を学会専用の坊として、つねに使用してきた。 理境坊の本堂に荷物をおろし、住職に久闊の挨拶をすますと、住職は人懐かしい様子で、熱い茶を入れながら、様々な話をはじめた。(『人間革命』第1巻「千里の道」)
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戦時中に信徒除名・登山停止となったとされる戸田氏だが、半年もたたない内に、早々と登山している。しかも、住職は戸田城聖氏らを快く受け入れている様子である。一体いつ、どのようにして学会は登山停止・信徒除名を解除されたのか?

<登山停止・信徒除名がなかった理由>
@登山停止の原因は神札受け取り拒否だとされるが、日亨上人は、牧口会長が本山の指示に従い、何らかの「応急策」を講じた旨述べられている。処分を科す側がこのような認識であったのだから、処分があったとは考えられない。

A終戦後、半年も経たないうちに戸田氏は登山し、理境坊住職に歓待されており、登山停止・信徒除名がいつ、どのようにして解除されたのかが全く不明

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『獄中書簡』では「堀米先生をそしった罰」を懺悔しているとあって、出獄後、戸田氏が日淳上人に直接懺悔したという証言がある。しかし、学会のいうような神札をめぐる問題について、戸田氏が謝罪したという証拠はない。

B「信徒除名」などは、公式な手続きのもとに行われるべきもので、それが簡単に撤回されるはずもない。また、撤回されたとしても、規則に則って行われるはずで、何らかの証拠(文書)が残っているはずだが、存在しない。

<私的見解>
 本山での会話(1◆)では神札を拒否したために、登山を遠慮するように言われたが、後に下山後、本山の指示に従って「応急策」を講じた。おそらくは口頭で「登山を遠慮するように」と言われたことをもって、戸田氏は正式な「登山停止処分」だと誤解したのであろう。しかし、宗制宗規に則った正式な処分ではなかったはず。だからこそ、終戦後、正式なルールに則った処分の撤回もなく登山できたのであろう。信徒除名については、全くの事実無根というべきである。
 『富士宗学要集』では、「牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした」とあるのに対し『戸田城聖全集』では「神札は絶対に受けませんと申しあげて、下山」とあるから、この点については両方成り立つ解釈は難しいと思われる。ただし、自分のことでもないのに「心中には・・」というのは、少々不自然な気もする。あるいは、"意気軒昂"な牧口会長のことであるから、日淳上人に国家諌暁を説いた(下記7●)ときのように、御法主上人の御前で得々と自説を披瀝したのかも知れない。これが、分を弁えない不遜な態度であり"世相を無視して宗熱に突喊する似非信行(下記8●)"であると感じられた日亨上人が、牧口氏の恥を隠すために、氏の発言を敢えて「心中」に納められたのかも知れない。だとすれば、これは、現に本山に忠誠を尽くしている戸田氏の、牧口氏を慕う心情を察した慈悲の行為である。
 尚、その場合、厳密に言えば記述の客観性は損なわれるようにも思われるが、「心中」(意業)にせよ、実際の発言(口業)にせよ、最終的に同意して具体的な行動=「応急策」を講じたのであれば、大きく真実からかけ離れているとは言えないであろう。

<参考>
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7●牧口会長は今こそ国家諌暁の時であると叫ばれ、総本山の足並みも次第に此に向つて来たが、時日の問題で総本山からは、堀米部長がわざわざ学会本部を来訪なされ、会長及び幹部に国家諌暁は時期尚早であると申し渡されたが、牧口会長は「一宗の存亡が問題ではない、憂えるのは国家の滅亡である」と主張なされた。(『富士宗学要集』第9巻430頁)
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世相を弁えずに、勝手に暴走した牧口氏。このことも含めてか、後に戸田会長は、「堀米先生を謗った罪」を詫びている。

◆彼(戸田)の活動が、実は空転していたとさえ思えてならない。彼はまだよい。先師牧口にいたってはまったくの空転に終わったとさえ、時に思われた。彼の反省は深かった。(『人間革命』第5巻「随喜」)
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独りよがりの「謗法厳戒」で、組織を空転させてしまった罪は大きい。

●上記「空転」の理由について、牧口門下で創価教育学会の理事を務めていた野島辰次氏の著書の中で、戸田会長は野島氏の質問に答えて
(牧口)先生が御自分の学説に重きを置いた結果、法華経をむしろその手段のように扱ったということ(野島辰次著『我が心の遍歴』/『慧妙』970916)

●堀米先生に、去年堀米先生を「そしった」罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。「法の師をそしり」し罪を懺悔しつつ「永劫の過去を現身にみる」と言っております、と(戸田城聖著『獄中書簡』/『慧妙』H13.9.1)
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僧誹謗の重罪を懺悔

★学会組織の空中分解の真の原因が、本山の指示を無視し反抗した「僧誹謗」の重罪にあったことを1人戸田氏のみは悟っていたようである。ただし、師である牧口氏への忠誠心と、今後の学会広布の進展の上から、投獄=名誉ある法難として宣揚したのであろう。このような戸田氏の心中を察し、深く反省し現に広布に挺身している戸田氏を擁護する立場から、歴代上人も学会の過去の罪を不問に付し、むしろ讃歎されたようである。

★登山停止が事実であったとしても、戸田城聖氏が日淳上人に謝罪することによって、最終的に本山の許しが出たと考えられる。つまり、戸田氏自身が、世相を弁えずに、師(牧口ではない)の指示を無視したことに対する懺悔をした結果、許されたのである。であれば、今更宗門の措置を批判することは、戸田氏の懺悔と道念に反する言動というべきである。

後に堀日亨上人は、この戦時下の学会弾圧事件を、『富士宗学要集』の法難編に「第十三章・昭和度の法難」として加えられているが、同法難編の冒頭の文に、以下のように指摘されている。↓

8●顧(かえり)みるに法難の起こる時、必ず、外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発ありて其の端を発し、内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊する似非信行の門徒ありて、(内外の)両面より官憲の横暴を徴発(ちょうはつ)するの傾き多し。本篇に列する十余章(の法難も)皆、然らざるはなし(『富士宗学要集』第9巻247頁)
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戦時下の弾圧においては「内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊する似非信行の門徒」とは誰であろうか?史実を見る限り牧口会長(または、『地涌』の記述が正しければ藤本某)以外には相当する人はいないであろう。
 まさに、学会弾圧は、国家神道中心のファシズムが世を支配している異常な状況下で、「世相を無視して宗熱に突喊する、似非信行の」牧口会長以下学会員達の行きすぎた言動(「神札焼却」の強調や、四悉檀を無視した強引な罰論等)が、いたずらに招き寄せた弾圧であった、というほかはない。
※ただし、遅くとも下山後、神札に関する弾圧回避の「応急策」(3●『富士宗学要集』)が講じられた。遅きに失したとはいえ、最終的には本山の指示に従ったからこそ、日亨上人は『富士宗学要集』第9巻の「法難編」に学会の弾圧を加えられたのであろう。






「通諜」問題

「通諜」問題総括


[画像]:「通諜」のカラー写真

創価学会教育学会各理事
 仝     各支部長  殿
           理事長  戸田城外
 通諜
時局下、決戦体制の秋、創価教育学会員には益々尽忠報国の念を強め会員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戦ひ抜かんことを切望す。依って各支部長は信心折伏について各会員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。
一 毎朝天拝(初座)に於いて御本山の御指示通り、皇祖天照大神皇宗神武天皇肇国以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し、国運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと。
一 学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。
一 感情及利害を伴へる折伏はなさざること。
一 創価教育学会の指導は生活法学の指導たることを忘る可からざること。
一 皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること。
 以上
6月25日

(『慧妙』H5.7.1)


【「通諜」】
<日付>
<保存状態>
<出処と出回った経緯>
<稲葉証言の信憑性>
<押証番号がない理由>
<理事長名で作成された理由>
<戸田理事長の筆跡>
<誤字>
<「天皇中心主義」>
<「天皇」>
<「天拝」>
<代々の天皇への報恩>
<「法華講員S」が書いた文書>

【「会長の応急策」】

【逮捕後の経緯】
<訊問調書の信憑性>
<「通諜」があれば釈放されたはず?>
<保釈と転向>

【「和泉ミヨさんの手帳」】

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【「通諜」】
<日付>
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「通諜」に書かれている「6月25日」との日付を、昭和18年のことであると一方的に断定している。なぜ「6月25日」が昭和18年だと判断するのかについては一切、触れられていない。(『地涌』第60号)
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言わずもがなの愚問です。「通諜」の趣旨は、神札を粗末に扱わないように会員に、指示徹底することです。もし、この「通諜」が昭和18年6月初旬以前のものであれば、本山から神札の受け取り指示があるはずがない。また、牧口会長・戸田理事長が逮捕されたのが昭和18年7月であるから、それ以後に、このような「通諜」が作成されるはずがない。つまり、その内容から考えて「通諜」の「6月25日」という日付は、昭和18年以外にはありえないのである。

●戰局も悲運にかたむき、官權の思想取締が徹底化して來た昭和18年6月初旬に総本山から「学会会長牧口常三郎、理事長戸田城聖その他理事7名登山せよ」という御命令があり、これを受けた学会幹部が至急登山、その当時の管長であられた鈴木日恭猊下、及び堀日亨御隱尊猊下おそろいの場に御呼出しで(場所はたしか元の建物の対面所のように記憶している)、その時その場で当時の内事部長渡辺慈海尊師(現在の本山塔中寂日坊御住職)から「神札をくばつて來たならば受け取つて置くように、すでに神札をかざつているのは無理に取らせぬ事、御寺でも一應受け取つているから学会でもそのように指導するようにせよ」と御命令があつた。(戸田会長の談話『聖教新聞』S27.6.10/『地涌』第667号)
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 これは、戸田会長が機関紙に公式に発表した内容である。ここには"神札指導"の年月日を「昭和18年6月初旬」と断言しているではないか。「6月初旬」は、総本山から「登山せよ」と御命令があった日であるから、登山は別の日とも考えられるが、「これを受けた学会幹部が至急登山」との記述から考えれば、どんなに遅くとも10日以内には登山したことであろう。とすれば、仮に御命令の日が6月10日であったとしても、6月20日までには登山していたと見るべきであろう。
 尚、『慧妙』(H5.6.1等)では"神札指導"の日を6月20日としている。しかし、その根拠については確認できていないので、当サイトとしては一応6月初旬を"神札指導"のあった日とする。


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神札甘受を言い渡されたのは、6月27日(fb:7467/2005-10-25)
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学会員が証拠として出してきた「和泉ミヨさんの手帳」には「6月27日」の項が紹介されていないのは何故か?(笑)この記述は『創価新報』(H15.11.5)を鵜呑みにしたものであろうが、「27日」の根拠はまったく示されていない。

◆同年6月初旬、牧口、戸田両氏が二上人立ち会いの下、渡辺慈海庶務部長(当時)より神札を受けるよう申し渡された(『地涌』第33号)
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学会側謀略誌も「6月初旬」としている。




<保存状態>
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 「通諜」とやらのコピーを見ると、書面の四方がボロボロになっており、余白の部分も朽ちたように穴があちこちにあいているのがわかる。ところがそこまで朽ち果てているのに、なぜか文字だけはすべて判読できるのである。
 また、書面の真ん中には縦に汚れが走っている。まるで長い間2つに折られてほこり焼けしたかのようになっている。それなのに、四方の朽ち果てたような破れは左右対称でない。余白の破れも同様である。真ん中がほこり焼けするほど長い間折られていたのであれば、当然のことながら朽ち方も左右対称であるはずだ。外見からだけでも、いろいろと疑念のわいてくる書面である。(『地涌』第61号)
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◆なぜか文字だけはすべて判読できる
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「通諜」は複数確認されている。今回『慧妙』紙が公表したカラー写真では、文字の部分にもシッカリ(?)穴が開いていて判読できない(笑)

◆まるで長い間2つに折られてほこり焼けしたかのようになっている
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憶測に過ぎない。

●今回の取材で初めて確認したのだが、この通牒は真物である。もともとの出所は稲葉荘氏(学会の初代総務・稲葉伊之助氏の子息)で、稲葉氏は同家の地下室に収蔵していたため、文書は湿気で周辺部がボロボロになった。現在、同文書は同大同形の紙で裏打ちされ、たしかに畳(たた)まれて保存されているが、畳まれたときの破損状況は理にかなって作為はあり得ない。(実物確認をしたフリージャーナリストの溝口敦『慧妙』H5.8.16)




<出処と出回った経緯>
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この書面が出まわったのは、宗門と創価学会とのあいだが少しギクシャクしはじめた、昭和52年の8月の終わりか9月の初め頃であった。それ以前には見た者もまったくおらず、もちろんのこと、その存在すらも語られたことはなかった。昭和52年に突然、それもコピーのみが世の中に出まわりはじめたのである。実に不可解なことである。(『地涌』第61号)
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 昭和51年春、学会系企業「シナノ企画」により、映画『続・人間革命』が製作された。48年の本編に続き、この続編についても日蓮正宗宗門は、学会からの要請で製作に全面協力をした。
 が、その内容に関し、史実の歪められている箇処があるとして、不快に思った僧侶Y師が、旧知の間柄だった稲葉氏に胸の内を語った。
 その会話の中で、稲葉氏が
 「学会では、"本山は神札を受けて謗法を犯したが、学会だけはこれを拒否して弾圧された"などと言っているけども、それは事実と違う。その証拠に、うちには、こんなものが残っている」
といって、自宅地下室から持ち出したのが、かの、「戸田城外理事長」名での「通諜」だったのである。
 これがY師の手を経て、52年問題の時にコピーとなって宗内に出廻った、という次第であって、そこには、学会側の妄想するような「戦後入信の、ある特定の法華講員」など、まったく介在しておらない。(『慧妙』H5.9.16)

 この文書は、東京の稲葉荘氏(学会の初代総務・稲葉伊之助氏の子息)宅に保管されていたものである。
 昭和18年7月6日、牧口会長・戸田理事長・矢島周平氏・稲葉伊之助氏らが逮捕された際、各人の家は特高警察の刑事達によって捜索され、関係資料の一切(この中には、なんと御本尊までが含まれていた)が押収されてしまった。
 稲葉氏宅の場合、この押収資料が返還されることになったのは、ようやく戦後10年も経った昭和30年頃のことであり、リヤカーを引いて資料の受け取りに行ったということである。
 その折、伊之助氏の娘(荘氏の姉)が牧口氏の子息・洋三氏(戦死)に嫁いでいる、という縁戚関係があったことから、当局より、牧口氏の押収資料も一緒に引き渡され、稲葉荘氏はハトロン紙に包んだ返還資料を2人分(2個口)持ち帰ってきた。
 そして、当時既に2代会長に就任していた戸田会長に架電し、牧口氏の分の返還資料の処置について相談したところ、
 「それは荘君が保管してくれ」
との指示であった。
 そこで稲葉氏宅では、いったん2個の包みを開き、その中味を一緒に保管するところとなったのだが、昭和35年に池田が3代会長に就任して後、柏原ヤスを通じて、
 「保管されている牧口先生の分の資料を、記念品として学会に引き渡して欲しい」
旨、申し入れがなされた。
 こうして、ほとんどの牧口氏の資料が学会に引き渡されたのだが、稲葉氏宅では、2個の包みをほどいて中味だけを一緒に保管していたため、牧口氏の携行用の小さな御書を含め若干の引渡し洩れが生じたのであった。そして−この引渡し洩れの牧口氏の資料の中にあったか、あるいは稲葉氏の分の資料の中にあったか、定かに区分けすることはできないが、ともかく、そのとき稲葉氏宅に残った資料の中に、ワラ半紙にガリ版刷りの「通諜」があったのである。その数、およそ30枚―。
 稲葉氏宅では、この文書がそれほど重大な問題になるものとは夢にも思わず、他の資料と共に、再び地下室に収蔵したのであった。その後、湿気の多い地下室に長期収蔵されたため、同文書は多くが破損滅失し、残りは各関係先へ資料として寄贈された(幸いにして3通の「通諜」の現存が確認されている)。
 以上が、稲葉氏宅に「通諜」が伝わった経緯である。(『慧妙』H5.6.1編集)




<稲葉証言>
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 稲葉「証言」は信用できない。稲葉は、縁戚関係である牧口会長はともかくも、戸田会長には深い恨みを持っていた。
 戦中の弾圧でもろくも崩れてしまった創価教育学会の理事・稲葉伊之助は、稲葉荘の実父である。その稲葉伊之助らに対し、戸田会長は公に厳しく評価を下している。
 「投獄せられた者も、だんだんと退転してきた。いくじのない者どもである。勇なく、信が弱く、大聖人をご本仏と知らぬ悲しさである。
 名誉ある法難にあい、御仏のおめがねにかないながら、名誉ある位置を自覚しない者どもは退転したのである。大幹部たる野島辰次、稲葉伊之助、寺坂陽三、有村勝次、木下鹿次をはじめ、21名のうち19名まで退転したのである」(戸田会長著『創価学会の歴史と確信』より引用)
 戸田会長は、さらに稲葉について、
 「狂人的警察官、不良の官吏、斎木という特高の巡査になぐられ、いじめられ、ついに死を覚悟して、取り調べのすきをうかがって2階から飛び降りたほど苦しんだ稲葉伊之助氏などは、4か年の刑をおそれて畜生界のすがたであった」(同)
 とも書いている。
 稲葉伊之助は法難のただ中にありながら、それを自覚せず、恐怖に囚われ精神に異常を来したのであった。
 この『創価学会の歴史と確信』は、戸田会長が会長に就任した昭和26年5月3日のすぐ後、同年7月10日に書かれたものである。その稲葉伊之助に対する戸田会長の評価を、息子である稲葉荘は快く思わず、創価学会より離れ、砂町教会(のちの白蓮院)に依拠した。いうならば、稲葉荘は戦後の檀徒のはしりである。
 この砂町教会には、創価教育学会のかつての副理事長でありながら、獄に長く繋がれたのは牧口会長、戸田理事長(当時)のせいと恨み、創価学会を忌み嫌っていた野島辰次もいた。
 野島や稲葉は、昭和27年4月の狸祭り事件の前後、砂町教会内に竜門講を結成し創価学会の組織切り崩しをおこなった。竜門講は、台頭する創価学会に反感を持つ坊主や法華講勢力を背景に、戦後第一次の檀徒活動をおこなったのである。稲葉は、その竜門講の中核メンバーであった。
 これらの経緯から、稲葉「証言」は信憑性に欠けるのである。(『地涌』第666号)
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 まず、稲葉伊之助氏が「精神に異常をきたした」などというのは、まったくの事実無根のことであるし、氏は昭和25年に亡くなるまで、一貫して学会員として通した人だったのである。
 しかるを、子息の荘(さかり)氏憎さのあまりとはいえ、生涯を通じて学会員であった伊之助氏に対し、気違い呼ばわりするわ、造反者扱いするわ―もう、ムチャクチャである。
 また、荘氏本人についても、氏は戸田会長とは最後まで親交を貫いていたから、氏が戸田会長を深く恨んでいた、などというのはまったくの大嘘である。
 ただ、狸祭り事件を契機に、荘氏は「学会組織の暴力的体質にだけは、どうしても付いていけない」として、戸田会長にことわった上で円満に砂町教会へと移ったのだが、その時は、すでに竜門講は存在していたから、「野島や稲葉は竜門講を結成し」などというのも、もちろん事実に反している。また、それからの氏が、竜門講の中核メンバーとして学会切り崩しを行った、などという事実はどこにもない。(『慧妙』H5.7.1)

 稲葉氏は、牧口常三郎氏とは身内の関係(稲葉氏の姉は牧口家に嫁いでいる)になる上、稲葉氏夫人の父親替わりを務めたのは戸田会長であり、そのような関係上、戸田会長も講義の帰り途、しばしば稲葉氏宅に寄っては酒を飲む、というほど親密な間柄を続けたのであった。
 ゆえに、稲葉氏が、牧口氏や戸田氏や学会を恨むような事は、何ひとつないのである。ただ、氏としては、あくまでも事実を事実として述べたい、との、実直な考えの上から、当時あったこと(神札問題と「通諜」の件)をありのまま語っているにすぎない。(『慧妙』H5.9.16)




<押証番号>
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 「これも返還された押収資料の一部」と写真説明された『大善生活實證録 第5回總會報告』と題する創価教育学会発行の本の表紙には、「治安維持法違反事件 被疑者 稲葉伊之助 證第二號」との文字がクッキリと読める。『慧妙』が気張ってカラー印刷した効果は抜群である。ほかにも短冊様の小さな紙が貼られており、押証番号がかすかに読み取れる。
 だがどうだ、肝心な「通諜」にはそれらのものはない。すなわち「通諜」は、戦中、押収されたものではなかったのである。
------------------------------------------------------------
 まず、『大善生活実証録』に貼(は)られていた「証第二号」の紙であるが、これは読んで字のごとし、「証拠として採用した第二番目の書類」という意であって、べつに押収書類のすべてに貼られていたわけではない(※ちなみに「押証番号」なる呼称は、学会が勝手に付けたものである)。
 しかも、まったく同じ内容の書類が30枚もあれば、仮にそれを証拠として採用したとしても、「証第○○号」と貼るのはそのうち1枚だけで、30枚すべてに貼ったりしないのは当然のことである。(『慧妙』H5.7.1)




<理事長名>
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なにゆえそのような重大な方針転換を会長の名で出さないのか?応急処置がこれだというのなら、会長名で出すのが自然である。弾圧を避けるためというのなら、牧口会長を守るという観点からもそれが当然である。(旧sf:2075)
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緊急のことでもあり、原稿の作成や印刷の手配など、戸田氏の責任で行ったのであろう。戸田氏と牧口会長が一体の関係であったことは、会員の間に広く浸透していたであろうし、立場上も「理事長」であるから、会内の重要事項を理事長名で出すことに何ら問題はない。現在の学会の会則では理事長が「代表役員」の地位にあり、「臨時に会長の職務を行う」とある。世間的にも理事長が、緊急時その他において代表者として行動することは不自然とはいえない。

◆第14条 理事長は、会長を補佐し、会務を掌理し、会長に事故のあるときまたは会長が欠けたとき、臨時に、会長の職務を行なう。(現在の学会会則)

◆第15条 理事長は、宗教法人「創価学会」の代表役員を兼務する。(現在の学会会則)




<戸田氏の筆跡>
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 今回の『慧妙』同様、日顕宗時局協議会資料収集班1班が、「通諜」を本物と断定して、平成3年の3月と5月に、それぞれ「『神札問題』について」と「日蓮正宗の戦争責任」と題する文を宗内に配布した。
 このとき、創価学会側は、谷川佳樹男子部長名で日顕宛に抗議文を送り、文中、
 「すなわち、まず何よりも、『通諜』なる文書の筆跡は、戸田理事長の筆跡とは似ても似つかないほど全く異なるものであり、明らかに第三者の筆によるものであるということであります。」(『地涌』第666号)
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●ワラ半紙にガリ版刷りの「通諜」があったのである。その数、およそ30枚―。(『慧妙』H5.6.1)
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ガリ版の原紙を書くのは、牧口・戸田両氏が直接ではなく、担当者がいたことだろう(『慧妙』H5.8.16)

印刷原稿を作る仕事は、通称「ガリ切り」と呼ばれ、ヤスリ板の上にロウ原紙をのせ、鉄筆で枠の中をひたすら文字で埋めてゆく実に根気のいる仕事だった。ガリ切りで内職をする人もいて、早い話がその道の「プロ」までいた。(<ガリ版印刷機>
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このような、単純だが根気のいる作業を理事長自らが行ったと考える方が、不自然であろう。戸田理事長がメモ書きし、それをもとに印刷原稿を作る仕事は、身近にいた人が行ったと考えるべきである。従って、「通諜」の筆跡は戸田理事長のものでなくて当然である。




<誤字>
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そもそも、いまコピーで出回っている「通諜」なるものは、字が間違っています。正しくは「通牒」ですよね。こんなひどい間違いを、戦時中、厳格な教育者であった牧口先生や戸田先生が・・・(元学会教学部長・小平芳平『創価新報』H5.6.16)
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非常時下、慌(あわ)てふためいて作った文書(それも、ガリ版の原紙を書くのは、牧口・戸田両氏が直接ではなく、担当者がいたことだろう)であれば、字の間違いがあっても何ら不思議ではない。それよりも、むしろ後年の偽作だとした場合には、時間の余裕もある中で、念入りに作るであろうから、字の間違いなど起こりえぬであろう。したがって、逆に、この単純なミスが「通諜」の信憑性を高めている、とすら感ぜられるのである。(『慧妙』H5.8.16)

◆給(ママ)(ふ)(『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻130頁)、賞罰(ママ)(読点カ)(同132頁)、準基(ママ)(基準カ)(同132頁)、ぢず(ママ)(怖)(同133頁)、言語断(ママ)(道)(同134頁)
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これは、『大善生活実証録』の中の「大善生活法実験証明の指導要領」の項にあった誤字脱字の訂正である。わずか6頁中に5ヵ所も間違いがある。公式の出版物でさえ、これほどのミスがある。慌てて校正する暇もなかったであろう手書きのガリ版印刷であれば、これ以上の誤字脱字等があっても不思議ではなかろう。




<天皇中心主義>
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 決定的な間違いがある。2項目の「天皇中心主義」という言葉は、現在から考えれば、戦時下において使われていたもののように思うが、意外にも、その当時は使われていないのである。
 この言葉は、当時の右翼のなかでも、最も過激な数団体のみが使った、きわめて特殊な用語で、一般では使うことのないものであった。従って、教職に従事している者の多い創価教育学会の通達文書で使用することは考えられない。この語句を使ったことは偽造犯人にとって致命的な過ちである。(『地涌』第61号)
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もともと学会にも宗門にも「天皇中心主義」などという思想も言葉もない。しかし、天皇を国家の中心・要とする思想は、既に牧口氏の指導にあるから、それを端的に言い表した語が「天皇中心主義」だったのであろう。↓また、当時は「日蓮主義」「全体主義」「共産主義」などの語も多用されており、その影響で「天皇中心主義」という語がでてきたのであろう。

◆吾々は神聖にして犯すべからずとある「天皇」を最上と思念奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。(中略)即ち人法一致によって現人神とならせられるのであって、吾々国民は国法に従って天皇に帰一奉るのが、純忠だと信ずる。(『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻363頁)
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この内容を仮に「天皇中心主義」と名づけたのであろう。

「右翼のなかでも、最も過激な数団体」というが、彼等は、当時の国策を強力に推進しようとする立場であったはず。そうであれば、むしろそのような者の用いる語を用いた方が、特高対策としては都合がよい、という計算もあったかも知れない。また、元直達講(牧口氏が所属していた)副講頭・竹尾清澄氏の『畑毛日記』によれば、当時、極右の人間が大石寺に出入りしていたようである。だから、戸田氏らも彼らと何らかの交流があり、「天皇中心主義」なる語も、その影響で出てきたのかも知れない。可能性としては十分ある。

極右の朝日平吾も大石寺に参篭したことのある人である。 また他面、牧口氏の側にも次のような事情があったことが、ご隠尊と山峰氏のお話から感じられた。・・・(元直達講副講頭・竹尾清澄『畑毛日記』/『慧妙』H6?)
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朝日平吾は大正時代の人であるが、牧口氏の入信が昭和3年であるから、あるいは入信前(内得信仰時代またはそれ以前)に、折伏親の三谷素啓氏らを通じて交流があったのかも知れない。上記記述は、別のテーマ(牧口氏らが日淳上人を誹謗し、宗門と疎遠になった経緯)で紹介された『畑毛日記』の記事の端っこに偶々掲載されたものでる。そのため残念ながら、前段の内容は不明である。しかし、「極右の朝日平吾も大石寺に参篭・・・また他面、牧口氏の側に」とあるから、朝日平吾についての記述は、牧口氏との関連で書かれたことは間違いない。
[資料][画像]:『畑毛日記』

●28(昭3)年に目白商業学校校長の三谷素啓に出会い日蓮正宗に入信。(『現代日本-朝日人物事典』/<牧口常三郎・戸田城聖とその時代>WS)

●設立当初の創価教育学会は、元々大日本皇道立教会(※南朝を正統として両統の融和を計ることを目的として大正3年に設立された団体)の教旨・目的を根本として国民に新たな皇道を教育する団体として結成されました。(<芳野朝廷研究会>WS)
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牧口氏や戸田氏は日蓮正宗に入信する以前から、天皇(制)に対して深い思い入れがあったようである。そのような牧口氏や戸田氏であれば、「天皇中心主義」なる語は知っていたであろう。

[画像]:大日本皇道立教会のメンバー




<「天皇」の語>
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「天皇」という語句を文中にそのまま続けて書くのも、時代を考えれば非常識である。当時の公式文書でこのような書き方をすることはない。「天皇」という語句の前を1文字あけるか、改行して最上部に書いていなければならない。(『地涌』第61号)
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この「通諜」は緊急の内部通達用であり、公式文書ではない。少なくとも対外的な文書ではない。逮捕も時間の問題、という緊急を要する状況下において作成された「応急策」なのだ。また、「天皇」の語は公式出版物である『大善生活実証録』にも文中に記載されている。

◆答 左様な事にはならないと思います。私は学会の座談会等の席や又会員其他の人に個々面接の度々 陛下の事に関しまして、
 天皇陛下も凡夫であって、皇太子殿下の頃には学習院に通はれ、天皇学を修められて居るのである。(「訊問調書」/『牧口常三郎全集』第10巻202頁)
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この文書は内務省警保局保安課『特高月報』の末尾に摘録されたものである。「陛下」の語の前は1字空白にし、「天皇」の語の前では意識的に改行されている。尚、文中「天皇陛下も凡夫」という発言については、<牧口常三郎の戦争観>参照のこと。

◆吾々は神聖にして犯すべからずとある「天皇」を最上と思念奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。(中略)即ち人法一致によって現人神とならせられるのであって、吾々国民は国法に従って天皇に帰一奉るのが、純忠だと信ずる。(昭和17年『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻363頁)
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この文書は創価教育学会の公式出版物である。「天皇」の語は、現在同様、文中にそのまま書かれている。

[画像]:『大善生活実証録』=文中に「天皇」の語がいくつか出てくるが、いずれも最上部にはない。




<「天拝」>
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 創価学会員にとって、戦時中に入信した者であっても「天拝」というのは聞き慣れない言葉である。「天拝(初座)」として後に初座と断り書きがしてあるが故に、初めて意味が通じるのである。
 「天拝」は、かつて日蓮正宗の僧侶においてよく使われた言葉である。この偽書を作りあげた犯人が、凝りすぎて馬脚をあらわしたのである。単に「初座」としておけばよいものを、わざわざ「天拝(初座)」と凝ったために、逆に偽造犯人がしぼられることになった。
 この「通諜」の偽造犯人は、日蓮正宗の僧侶かあるいはその周辺の者の可能性が大である。かつ旧字の使い方、文章の表現もボロを出しているとはいえ巧みであり、戦時中の状況を体験として知っている年齢の者であると推測される。(『地涌』第61号)
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◆「天拝」は、かつて日蓮正宗の僧侶においてよく使われた言葉
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御僧侶においてよく使われた語であれば、御僧侶と交流のあった信徒が使用しても不思議はない。「日蓮正宗の僧侶かあるいはその周辺の者」とは、まさに戸田城聖(城外)氏のことではないか(爆笑)

◆「天拝(初座)」として後に初座と断り書きがしてあるが故に、初めて意味が通じる
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その辺のことを知悉していたが故に「(初座)」と書き加えたのであろう。つまり作者は、当時使われていた「天拝」の語を知っていて、さらに、それが会員の間ではあまり知られていないことも知っていたのである。これこそ、僧侶と交流のあった当時の学会員が作者であるという証拠である。




<代々の天皇への報恩>
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 『慧妙』がこの文章を本物というならば、「皇祖天照大神皇宗神武天皇」およびそれに連なる代々の天皇への報恩、そして神を敬い「國運の隆昌」「武運長久」を祈ることが、初座の祈願目的であると「御本山の御指示」が出ていたことを認めることになる。
 これは、国家神道を支える皇国史観に額づくものである。宗門は明らかな謗法を犯していたことになる。(『地涌』第666号)
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 昭和16年8月22日改訂の御観念文においては、初座は
 「謹みて、皇祖天照太神・皇宗神武天皇肇国以来御代々の鴻恩(こうおん)を謝し、併せて皇国守護の日月天等の諸神に法味を捧げ奉る」
となっており、学会文書「通諜」の第1項は、明らかにこの文を引用したものである。(このことは、むしろ、「通諜」が当時に作られたもの、という傍証になっている)。
 『地涌』は、これを指して「国家神道」「明らかな謗法」というのだが、「皇祖天照大神」云々については、『神国王御書』に
 「神と申すは又国々の国主等の崩去し給へるを生身のごとく・あがめ給う」(『神国王御書』御書1298、全集1518頁)
とあるように、国王(天皇制の時代なら天皇)が崩御(ほうぎょ)して善神となるのだから、天皇家の祖先(皇祖)が、天照大神等の諸神として、善神につらなることは、法義上あたりまえのことなのである。
 次に「皇国守護」という表現については、もとより諸天善神には、法華守護の働きと国土守護の働きとの両面があり、また、天皇制であった当時の我が国は「皇国」と称していたのだから「皇国守護の日月天等の諸神」とは国土守護の諸神の別名にすぎない。
 いったい、どこが「明らかな謗法」であるというのであろうか(※ただし、「通諜」中の「敬神の誠を致し、国運の隆昌・武運長久」云々は初座の御観念文にもなく、宗門とは無関係である)。(『慧妙』H5.7.1)




<法華講員S>
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・偽書「通諜」(昭和52年頃に出まわったコピー
 この「通諜」のコピーが世に最初に出回ったのは、昭和52年のことであった。この昭和52年は、戦後第2次檀徒活動である正信会活動の胎動の年でもある。そして第3次檀徒活動ともいえる「C作戦」発動にあたり「通諜」が再び浮上した。創価学会切り崩しをめざした檀徒活動のたびにクローズアップされる「通諜」。(『地涌』第668号)
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・偽書「通諜」を書いた法華講員・S(故人)の自筆文書(※「S文書」と呼ぶ=法蔵)。
 Sは昭和20年代、法道院より発行されていた『大日蓮』編集部に勤務していた。
 偽書「通諜」とS自筆文書の筆跡の一致は瞭然
 この文書が作られたのは、書面のコピーが出まわりはじめた昭和52年当時であると判断するのが妥当ではないか。なぜならばニセ物を作った者は、必要性があるからデッチ上げたのだ。それを何年も放置するとは考えにくい。(『地涌』第61号)
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以下の点について明らかにされるべきであろう。

・S氏とは誰か。

・「S文書」がS氏のものである証拠は何か。

・「S文書」が昭和52年頃出回った証拠は何か。
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学会が公開した現物が、実際に昭和52年頃までに出回ったという証拠がない限り、当該文書は、「通諜」公開後に学会側によって作成された可能性が残る。

・「通諜」と「S文書」の筆跡比較[資料]:「通諜」の筆跡
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「一、」の右上がりの具合など、一見したところ、文書全体から受ける感じは筆跡が似ているようでありながら、1つ1つの文字を丹念に見比べてみると、大分特徴に違いがある。「外」「殿」「月」「日」「と」など、素人目にも異なる筆跡と分かる。とくに「域」「城」「義」「誠」など、「S文書」ではしっかりとはねているが、「通諜」ではそれほどでなく、両者の違いは明白である。

「S文書」が「通諜」より先に書かれたものであるならば、同文書は「通諜」の原案であり、これを写したのが「通諜」だと考えるのが自然である。しかし、そうであれば、「通諜」と同じく縦書きで、字体も昭和18年当時のままにするはず。だが、「S文書」は横書きであり字体(「価」「職」など)も異なる。また、「S文書」が「通諜」の原案であれば「昭和18年6月本山より下山した直後の公式文書(ワラ半紙のガリ版刷)」(「S文書」)という記述は有りえない。

「S文書」が、「通諜」作成よりも後に書かれたものであるとすると、何のために、自分の文書(「通諜」)を書き写したのか?しかも、自分で「通諜」を作成しておきながら「昭和18年6月本山より下山した直後の公式文書(ワラ半紙のガリ版刷)」(「S文書」)などと書くのもおかしい。まったく不自然というべきである。

「S文書」の作者と「通諜」の作者が同じならば、むしろ「通諜」(またはそのコピー)そのものを最初から世に出すはずであるし、"戦時中の「通諜」を戦後になって第三者が書き写した"という体裁になっている文書を、「通諜」と同じ作者が自分の意思で世に出すとは考えられない(筆跡が同じであることが簡単にバレてしまうから)。「S文書」が公表された経緯を明らかにすべきである。

「通諜」が偽物であるならば、その作成目的は、世に出すこと以外考えられない。そうであれば、常識的には偽物を作って程なく世に出回ったと考えるべきである。とすれば、何故に「通諜」は、わずかの期間で周辺部がボロボロになるほど腐蝕してしまったのか?まったく不自然である。

以上のように"「通諜」偽作説"には、筆跡その他、不自然な点が多く、信用できない。いずれにせよ、日亨上人の「会長の応急策」(下記1●『富士宗学要集』第9巻431頁)が神札受け取りに関するものであることは否定しようもないのである。


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 今回の『慧妙』同様、日顕宗時局協議会資料収集班1班が、「通諜」を本物と断定して、平成3年の3月と5月に、それぞれ「『神札問題』について」と「日蓮正宗の戦争責任」と題する文を宗内に配布した。
 このとき、創価学会側は、谷川佳樹男子部長名で日顕宛に抗議文を送り、文中、
 「(中略)しかも、私どもは単に戸田理事長の筆跡ではないというだけでなく、その筆跡が、戦後に入信し、戦前の創価教育学会とは何らの関係もない、ある特定の法華講員の筆跡であるとの確実な証拠を入手しております。
 このことは、『通諜』なる文書が戦後に偽造された謀略文書であるということを、見事に証明して余りある事実であります」(『地涌』第666号)
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 本紙からの「ならば、その根拠と法華講員の名を明かせ」との責めに対し、(『慧妙』H5.7.16)↓


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 たしかに、「通諜」の筆者の名を明かせばこと足りる。だが、それをしない。理由はただ一つ。言い訳にもならぬ言い訳を、『慧妙』編集部に代表される日顕宗の「非学匠」の者らにさんざんさせ、自らの"屁理屈"によってガンジガラメになるのを見て楽しみたいのである(『地涌』第672号)
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余程、カッコ悪い言い訳であることに気づいたためかWSには掲載されていない。↓
http:/www.houonsha.co.jp/jiyu/chap18.html





【会長の応急策】


1●(左の一編は小平芳平氏の記に依る)(中略)18年6月には、学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした、が心中には次の様に考えられていた、当時の軍国主義者は、惟神道と称して、日本は神国だ、神風が吹く、一億一心となつて神に祈れ、等々と呼びかけていた。少しでも逆う者があると、国賊だ、非国民だといつて、特高警察や憲兵のつけねらう所となつた、もとより牧口会長は、神札を拝むべきではない、神は民族の祖先であり、報恩感謝の的であつて、信仰祈願すべきではないと、日蓮大聖人、日興上人の御正義を堂々と主張なされていた。(中略)会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)

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「会長の応急策」こそは、会員に神札受取を指導する「通諜」だったのである。学会は、神札受取を勧めた当事者の1人である日亨上人がウソをついているというのか。まことに不知恩の極みである。


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 「この"応急策"の記述は、6月本山から帰った後のことではありません。当時の弾圧の準備は、この年に入って急速に進み、4月、5月ごろには、理事クラスの逮捕や先ほども述べた牧口会長の中野署での取調べのように、もう現実段階に入っていました。
 そこで、これらの当局の不穏な動きに対して、牧口会長のもと弁護士なども入って真剣に対応策を練っていたんです。ただ、もはや、弾圧の流れは止まらない勢いになっていたため、間に合わなかったのです
」(小平芳平『創価新報』H5.6.16)
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●当時は弁護する弁護士も起訴するというくらいの気持ちだったようです。(中略)三木弁護士は少し引っ張られたのではないかと思います。不敬罪というのは、当時、認定罪ですからね。こっちに意思がなくても、認定されてしまえば仕方がない罪名なんです。ですから、そういうものを弁護する弁護士も不敬罪だということにできるんですね。(『宗教弾圧を語る』岩波新書30頁〜)

◆牧口会長は、8月(※昭和18年)に東京・巣鴨の東京拘置所に移され、同じく戸田理事長も、同拘置所で、本格的な取調べを受けた。しかし、思想犯ということで、弁護士もなかなかつかず、取調べも、進まなかった。(創価学会発行『創価学会40年史』/『慧妙』H5.9.16)

◆治安維持法違反と不敬罪という罪名のために、後難を恐れて弁護士さえなかなか決まらなかった。(聖教新聞社発行・創価学会45年史『革命の大河』/『慧妙』H5.9.16)

◆弁護師(ママ)は未だ決せぬなら、小栗へ言ふて田利君に頼ませて下さい。先方法華経に反対ならば、双方に罰があるから頼まぬ事。さもなくば相当の報酬を約束して頼んで呉れ。(牧口「獄中書簡」昭和19年2月7日/『牧口常三郎全集』第10巻286頁)
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「田利」=牧口が大正、西町小学校の校長時代、牧口のもとにあって教師を勤めながら、勉強して資格をとった田利清弁護士。

◆牧口に弁護士をつけようと努力した有志もいた。19年春、藤森富作が「弁護届け」をもって東京拘置所へ行った。牧口の拇印をもらいにである。典獄(現在の所長にあたる)は、さっそく部下を通じて拇印をとりに行かせた。その部下は「弁護届け」を差し出した。しかし、牧口は拇印を押そうとしなかった。 ところが、藤森が戻ってきた部下に「藤森がきておりますと伝えてください」と頼むと、今度は、牧口は珍しくニコニコして「そうか、そうか」といって気持ちよく拇印を押した。弟子の心づかいがうれしかったのであろう。(聖教新聞社編『牧口常三郎』/『慧妙』H5.9.16)

これらを見ても明らかなように、思想犯として当局から睨まれ、(学会側の説によれば)すでに昭和18年初頭から2度にわたって警視庁で取り調べを受けていた牧口会長らを支援する弁護士は、1人としていなかった。いなかったからこそ、逮捕後も弁護士が見つからなかったし、逮捕の翌19年になって、はじめて弁護士を捜す手続きを開始しているのである。(『慧妙』H5.9.16)

1942 創価教育学会の座談会・総会にも、1942年(昭和17年)頃になると、特高刑事が監視に現れるようになった。年を追って激しくなり、1943年頃になると、ほとんどの会合は特高刑事の監視下で行われ、牧口はもとより、各会員の発言に注意を向け、動向を探り続けていた。(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)

1943.5 牧口は、天照皇太神宮の大麻(神札)などを取り払い焼却することが神社等に対する不敬罪にあたるとして、警視庁と東京・中野警察署に出頭を命じられ取調べを受けた。(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)

1943.6.29 陣野忠夫、有村勝次の両氏が学会活動の行き過ぎ(罰論)で逮捕(『富士宗学要集』第9巻431頁/『慧妙』H5.6.1)

◆(※昭和18年)6月29日には幹部の陣立(※陣野)、有田(※有村)等が淀橋署に検挙されていた。忍び寄る司直の魔手が、刻々と牧口の身辺にも近づいていたのである。彼は、それを感じてはいた。(中略)検察当局は、学会幹部の一斉検挙の機会を、虎視眈々と狙っていた。そして、神道を蔑視する言動を理由に、ついに学会を反国家的な団体として決めつけていったのである。(『人間革命』第3巻「渦中」)
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本山での神札受け取り指示(1943年6月上旬)よりも前から、学会は公然と特高の監視下に置かれていたのである。このような状況下、国家に睨まれている団体の窮地を救うべく手を貸そうとする殊勝な弁護士がいるはずもない

●東京の弁護士の意見は、こういう意見でしたよ。「日本の有数の弁護士を30人入れようと50人入れようと、ほんみちを無罪にするということは、治安維持法があるかぎりは不可能だ」(『宗教弾圧を語る』岩波新書137頁)
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弁護士の活動は、国法に則った形でしか許されないのである。そうであれば、どんな策を弄しようとも、不敬罪に当たる行為(神札拒否)を止めない限り、弾圧を回避できないことは、誰の目にも明らかだったはず。"弁護士の手を借りれば弾圧を回避できる"などと暢気なことを考える者は、平成の時代に平和ボケした頭を酷使し、机上の空論を振り回し、その場凌ぎの自己弁護に終始する学会員くらいのものだろう。

◆彼は獄中で、彼の事業がまったく挫折していることを、すでに承知していたが、その実態を知る由もなかった。(中略)戸田は決めた。彼の事業の残務整理を一切託してある、渋谷の一弁護士を、ただちに訪問することにした。(中略)彼の衰弱は歩行をも困難にしていた。昨夜、豊多摩刑務所から自宅まで、2時間以上も要したのである。(『人間革命』第1巻「再建」)
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獄中においても、家族との書簡のやり取りは許されていた。しかも、その内容は信仰活動にも及んでいた。それでも、学会活動とは何の関係もない事業の「残務整理を一切託してある、渋谷の一弁護士」とは連絡がとれなかったのである。もし、学会の言うように弾圧回避の「応急策」が弁護士の介入を意味するのであれば、その弁護士は、逮捕後もそれなりの弁護活動をしたはずであり、獄中においても弁護士と何らかのコンタクトがとれたはずである。しかし、家族を介してさえ、そのようなコンタクトがとれなかったのは何故か?答えは1つ、「応急策」とは、弁護士の協力などではなかったのである。

◆彼は、仕事を具体的に一歩すすめようと、年来の友人、小沢清弁護士に、このことを相談することに決めた。(中略)(※昭和20年7月)6日(中略)午後になると、幾枝に付き添われて家を出た。(中略)電話で連絡してあったので、小沢は心まちに待っていた。(中略)小沢は、戦況の裏にいささか通じていた。軍部の一端と結んで、和平工作の企画にもあずかっていたからである。(中略)2人の終生の友は、この時すでに25年の交遊を経ていた。彼らが最初に出会ったのは、大正9年、開成中学の夜間部3年のクラスの時であった。(中略)友情は色褪せることなく長くつづいた。(中略)失意の友を目の前にして、小沢は、この「雲雀男」を信ずるのに困難を感じた。こんどは、時代と諸条件が、まるで違っているからである。(中略)戸田は、治安維持法や不敬罪で起訴されている。その友とのかかわりあいは、できることなら時節がら、避けたい思いがあったにちがいない。(『人間革命』第1巻「再建」)
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「小沢清弁護士」は、戸田氏の「年来の友人」であり「友情は色褪せることなく長くつづいた」という。しかも彼は「軍部の一端と結んで、和平工作の企画にもあずかっていた」ほどに、権力の側に対してコネクションを持っている、ある意味で"有力者"であった。そのような人でさえ、「治安維持法や不敬罪で起訴されている」「友とのかかわりあいは、できることなら時節がら、避けたい思い」があったのである。そうであれば、学会弾圧の最中にあって、わざわざ、特高に目をつけられている組織の弁護を買って出る殊勝な弁護士などいるはずがない。また、そのような弁護士がいると考えるハズもない。





【逮捕後の経緯】
<訊問調書>
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「牧口先生の訊問調書を読めば、先生の言い分が神社参拝を否定してきた本来の日蓮正宗の教えに基づくことは、すぐに分かります」(小平芳平『創価新報』H5.6.16)
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2●取調官があんまりひどいデッチ上げをいうので「そんなバカなことはない」と食ってかかろうものなら両手を背中までもっていって後手にしばる、足もしばって転がしてしまう。口にはゴムでつくった丸い猿ぐつわをくわえさせられて、しめつけられる。物も言えない・・・。ところが向こうの机の上にはちゃんと質問書ができているんですね。(中略)こちらの言い分も聞かないで、どんどん書いていっちゃう(中略)取調官は書くだけ書いてしまうと、「きょうはこれで終わりだ。えらかったろう。ちょっとこれにハン押してくれ」。ハン押せったって、大国さんは手をくくられている。そうすると印肉をしばられている後の手へ持ってくるんです。あおむけに転がされているのを今度は裏がえしにしてうつぶせにして、上になった手の指に印肉をもっていってぴしゃっと引っ付ける。それで自分がちゃんと印を押したことにされてしまった、というんだからひどいもんです。署名の字も大国さんに名前を何枚も何枚も書かせ、それをもってあとで特高が調書を間にはさんで、なぞる。これで、自分が書いたことになる。(『宗教弾圧を語る』岩波新書12頁〜)
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訊問調書は、逮捕を正当化するために、容疑事実を裏付けるように官憲によって"作文"されていたのです。

牧口氏の本心がより明らかに表れているのは、取調べ検事が押収書籍(堀日亨上人の『日蓮正宗綱要』など)の内容を盛り込んで作成した"訊問調書"よりも、牧口氏の自発意志で行われた"総会での講演"記録であろう。

◆吾々は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは『よくぞ国家の為に働いて下さった。有難うございます』といふお礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。もし、『あゝして下さい、こうして下さい』と靖国神社へ祈願する人があれば、それは恩を受けた人に金を借りに行くやうなもので、こんな間違った話はない。 天照大神ばかりにあらせられず、神武以来御代々の天皇様にも、感謝奉つてゐるのである。万世一系の御皇室は一元的であって、今上陛下こそ現人神(あらひとがみ)であらせられる。即ち、天照大神を初め奉り、御代々の御稜威は現人神であらせられる今上陛下に凝集されてゐるのである。されば吾々は神聖にして犯すべからずとある『天皇』を最上と思念し奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。(中略)天照大神のお札をお祭りするとかの問題は万世一系の天皇を二元的に考え奉る結果であって、吾々は現人神であらせられる天皇に帰一奉ることによって、ほんとうに敬神崇祖することが出来ると確信するのである。またこれが最も本質的な正しい国民の道だと信ずる次第である(牧口常三郎『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁〜)
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牧口氏自ら靖国神社へ参拝していた(もしくは参拝を問題なく許容していた)ことが明らかではないか。いったい、どこが「本来の日蓮正宗の教え」だというのか。 また、小平氏は「(天皇一元論は)当時の世相のなかで神札を拒む合法的な一つの便法として、指導・徹底されたもの」とも言っているが、そもそも一方で"靖国神社参拝容認発言"があるのに、これでは、まったく苦しい言い逃れにしか見えぬであろう。(『慧妙』H5.8.16)




<「通諜」あれば釈放されたはず?>
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逮捕された幹部たちも、「通諜」なるものがあるのなら、それを積極的に存在をアピールすべきであるのに、そのような形跡が全く無い。方針転換をしたというアピールもない。誰もその存在を知らない。(旧sf:2075)
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 通牒は牧口氏(または稲葉氏)の押収資料の中にあったものである。しかし、押収資料をすべて証拠採用する訳ではない。証拠採用するかどうかは、検事の一存で決定されるのである。
 また、「通諜」についていえば「会長の応急策も已に遅し」(1●)とあるように、印刷はしたが、広く会員に行き渡る前に逮捕された可能性もある。

◆牧口会長が布教先の伊豆・下田で逮捕されていること、中枢幹部を一斉検挙していることからして、警察による長期間にわたる内偵がおこなわれ、逮捕にあたっては綿密な準備がなされていたと結論される。 それは6月29日の理事・有村や中野支部長・陣野らの逮捕により弾圧が始まったのでなく、それは水面下で長期間つづけられてきた捜査が、顕在化するきっかけとなったと見るべきである。有村、陣野らを1週間、調べただけで、創価教育学会中枢に対する組織的な一斉検挙がなされることなどあり得ない。 創価教育学会幹部の逮捕はその後も相次ぎ、7月20日には、副理事長・野島辰次、理事・寺坂陽三、理事・神尾武雄、理事・木下鹿次、幹事・片山尊が警察に逮捕された。この昭和18年7月以降も逮捕が相次ぎ、昭和19年3月までに総計21名が逮捕された。(『地涌』第669号)
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当局は、「長期間にわたる内偵」によって、幹部2名の逮捕以前から一斉検挙を「準備」していたのである。そうであれば、逮捕後に「通諜」が発見されたとしても、逮捕を正当化するために当局がこれを無視したことは充分考えられる。

1943.6.29 陣野忠夫、有村勝次の両氏が学会活動の行き過ぎ(罰論)で逮捕(『富士宗学要集』第9巻431頁/『慧妙』H5.6.1)
◆(※昭和18年)6月29日には幹部の陣立、有田等が淀橋署に検挙されていた。忍び寄る司直の魔手が、刻々と牧口の身辺にも近づいていたのである。彼は、それを感じてはいた。(中略)検察当局は、学会幹部の一斉検挙の機会を、虎視眈々と狙っていた。そして、神道を蔑視する言動を理由に、ついに学会を反国家的な団体として決めつけていったのである。(『人間革命』第3巻「渦中」)
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じつは、当時の特高警察は、先に逮捕してあった陣野らを激しく取り調べ、学会弾圧の罪状を作成した上で、一挙に、牧口氏以下21名の幹部を逮捕に踏み切っている。つまり、学会を潰滅せしめる意志決定が、あらかじめなされていたのだ。(『慧妙』H15.6.1)そうであれば、「通諜」の存在や牧口会長自身の態度を酌量して保釈・求刑の減刑を考慮するにしても、当局自らが貼り付けた学会に対するレッテル=神札不敬を公然と主張する反社会的団体、を簡単に撤回することはできないであろう。更には、既に不敬罪を犯した過去の罪まで許すことはできないことは言うまでもない。ただし、ナンバー2の戸田氏を初め、他の幹部が終戦を待たずに保釈されている事実からすれば、早晩、牧口会長も保釈される予定があったのかも知れない。保釈されるはずだったが、保釈を待たずに病死してしまった。十分考えられることである。


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そんな「通諜」を出したのなら、なにゆえ戸田理事長はそのように供述しない?老体の牧口会長を少しでも早く出したいとするであろう。(旧sf)
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 戸田会長の供述など、どこにあるのだ?訊問調書では、『大善生活実証録』で容認していた感謝のための神社参拝まで否定されている。このことからも、訊問調書が逮捕前後の学会の主張を無視していることは明らかです。
 「通諜」は特高が押収したものであるが、それを証拠として採用するか否かは、すべて検事の一存で決まるのである。感謝のための神社参拝を容認した『大善生活実証録』も押収されているが、訊問調書には反映されていない。(<訊問調書>参照)
 「老体の牧口会長を少しでも早く出したいとするであろう。」というが、牧口氏と同時期に逮捕された者は、戸田氏も含め皆、終戦前に釈放(『富士宗学要集』第9巻432頁)されているではないか。このことは何を意味するか?既に牧口氏自身が、戦争翼賛、神社参拝容認や、天皇中心主義的指導をしていたのであるから、逮捕された者はそれに沿った供述をしたのであろう。しかし、牧口氏は会長として、これまでに多くの不敬を指導した"前科"があったから特別扱いされたのであろう。

3◆日蓮正宗僧侶である藤本蓮城(本名=秀之助)も、創価教育学会の有村・陣野らが逮捕される少し前の6月16日に、不敬罪等の容疑により逮捕されている。 藤本は昭和2年ごろ、日蓮正宗に入信し、昭和16年に出家し僧侶となった経歴の持ち主。この藤本と同時に、藤本にしたがう高塩行雄も逮捕されたが、高塩は逮捕直後より「改悛の情顕著」ということで起訴猶予となり、藤本のみが、9月22日に起訴となった。(『地涌』第669号)
4◆蓮城房は、東京区裁判所の公判で、「失言を取り消します」と言えば助かると言われたが、「僕の言ったことは失言といえるけれども、日蓮大聖人の言ったことだから失言とはいえない」と、譲らなかったという。 蓮城房への判決は、早くも10月25日に東京区裁判所において下された。判決内容は、不敬の罪で懲役1年4カ月であった。蓮城房は上告せず服役した。(『地涌』706号)
5◆日蓮正宗僧侶中ただ1人、逮捕拘留されていた藤本蓮城に対しては、一宗擯斥処分に付し宗門より追放してしまった。藤本は昭和19年1月10日、長野刑務所で獄死している。(『地涌』第670号)
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罪を認め尚且つ「改悛の情顕著」であれば、いちはやく起訴猶予となり(高塩行雄)、罪を認め尚且つ再犯の恐れのある者はいち早く起訴され刑が確定する(藤本蓮城)、ということか。牧口、戸田両氏はどちらでもなかった。つまり、当初は、なかなか罪を認めようとしなかったために調書作成にてまどった。"罪を認めない"とは、不敬の事実を否認したということである。




<転向>
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牧口会長は死亡、戸田会長は「予審中」と昭和特高弾圧史4に掲載され、不退転が示されている。他の多くは転向したことは、学会はかねてから示しているし、戸田会長も記述している。(旧sf)
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「予審中」とあるのは古い資料です。牧口氏と同時に逮捕された者は皆、終戦前に釈放(『富士宗学要集』第9巻432頁)となっている。また、その後に逮捕された者も森田、堀、小林の3名を除いて終戦前に釈放または起訴猶予となっている。ナンバー2の戸田氏をはじめ多くの者が終戦前に釈放となっていることから考えて、組織としては「通諜」の内容、または、それに則した供述が最終的に信用されたのであろう。わずかに3名が有罪(執行猶予)となったのは、個人的な問題であろう。個人的な問題とは、不用意に不敬の言動をなしたとか。


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 通牒があるのなら、転向以前に、追検挙の際「其の後検察当局の取調べ進捗し、本月末被検挙者11名中10名の起訴を終り、他の1名も起訴の見込みとなりたる」及び「右取調の結果容疑濃厚と認めらるる左記3名を追検挙」というような文書(特高月報昭和19年1月分掲載)とはならなかったであろう。
 そして転向した者は後に釈放されている。転向は会員の退転を促すのであり、転向を最も求めたのである。これは共産党においても同様であった。(旧sf)
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大本教への弾圧証言(2●)や藤本蓮城の例(3◆〜5◆)からも分かるように、転向の有無に拘わらず、違法行為があれば逮捕し、容疑事実に即した調書が作成され、起訴、有罪となるのである。

6◆吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(中略)今上陛下こそ現人神であらせられる(昭和17年11月第5回総会『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
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「感謝のためなら神社に参拝してもよい」これが牧口会長の指導でした。
[参拝]=神社・寺にお参りして拝むこと(『新明解国語辞典』第4版)

7◆吾々は現在の天皇陛下以外にどなたに対し奉って祈願すべきでありましょうか(「訊問調書」/『牧口常三郎全集』第10巻207頁)
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感謝の対象は神社(6◆)、祈願の対象は天皇だという邪義を展開

◆私の願いは、一身一家ではない。この世界の大動乱の中にあって、この世界に皇道を宣布し、世界中の大悪思想を撲滅し、(中略)英、米の自由主義、個人主義、利己主義の思想はもとより、世界の隅々まで蝕んでいる共産主義思想を撲滅することが、我々の務めである(『大善生活実証録』に掲載の幹部の話/『慧妙』H8.9.1)

★逮捕前から(感謝のための)神社参拝を容認し、戦争を翼賛、天皇を神と考えていた牧口氏であれば、特に「転向」の必要もなかったのではないか。拘留が長引いたのは、"謗法厳戒の貫徹"などではなく、過去の神札不敬をなかなか認めなかったことや、不敬の意思のないことを信用してもらえなかったこと等によるものであろう。





【「和泉ミヨさんの手帳」】
 創価学会員は今頃(H17)になって「和泉ミヨさんの手帳」なるものをインターネットの掲示板上で出してきた。「和泉手帳は、牧口先生の逮捕等、学会の歴史を伝える1級資料となっている」そうだが、それにしては戦時下の学会弾圧の様子を伝える『富士宗学要集』第9巻にも、『牧口常三郎全集』第10巻にも出ていない。さらに宗門誹謗で悪名高い『地涌』にも出ていないようである。まことに眉唾モノの「1級資料」ではある。
 しかしここでは、「和泉手帳」の信憑性(真偽問題)は保留し、仮にその内容が真実であると仮定して学会側の「通諜」批判を論破することにする。

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 ところが、牧口会長らが登山し、神札甘受を言い渡されたのは、「6月27日」であったことがすでに判明している。牧口会長は翌28日にも鈴木日恭に面会を申し入れ、国家諌暁を直訴した。
 このことは、牧口先生の秘書的な役割ををされていた和泉ミヨさんの手帳からも明らかになっている。(和泉手帳は、牧口先生の逮捕等、学会の歴史を伝える1級資料となっている)
 あどべの手元にあるコピーにはこのように記されている。
 「6月28日(月) 朝5時半で御本山へ、牧口先生にお目にかヽる。3時40分のバスで下山 ○○さん宅に宿る」
 その直前の登山は、
 「5月23日(日) 御本山へ、○、○、○(以下名前列挙)一行20余人」とある。
 手帳に記された6月初旬の牧口会長の行動は、
1日(火)幹部会に出席
5日(土)教育者クラブの会合
6日(日)砂町教会御講
7日(月)退転防止委員会
8日(火)京橋支部会合
10日(木)日本橋支部会合
13日(日)千葉県鎌ヶ谷村へ折伏
と活発に学会の活動を行っており、6月初旬に本山へ行った記録は残っていない
 6月27・28日に登山し、神札の受け取りを拒否していた牧口会長・戸田理事長が、応急策で25日に通牒を出すこと自体、何の意味もないのである。
25日付けの通牒で神札甘受を会員に徹底し、27日に「神札は絶対に受けません!」、28日に「今こそ日蓮正宗は国家諌暁を!」では、全くストーリーが成り立たないのである。
(fb:7467/2005-10-25)
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神札甘受を言い渡されたのは、「6月27日」
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証拠として出してきた「和泉ミヨさんの手帳」には「6月27日」の「牧口会長の行動」が紹介されていないのは何故か?(笑)この記述は『創価新報』(H15.11.5)を鵜呑みにしたものであろうが、「27日」の根拠はまったく示されていない。

28日にも鈴木日恭に面会を申し入れ、国家諌暁を直訴した
牧口先生の秘書的な役割ををされていた和泉ミヨさんの手帳からも明らか
6月28日(月) 朝5時半で御本山へ、牧口先生にお目にかヽる。3時40分のバスで下山 ○○さん宅に宿る
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「鈴木日恭に面会を申し入れ、国家諌暁を直訴した」という28日の項には、和泉氏が本山にて牧口会長と会った事実しか述べられていない。こんなことでは「和泉手帳は、牧口先生の逮捕等、学会の歴史を伝える1級資料となっている」とは到底いえない。

6月初旬に本山へ行った記録は残っていない
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そもそもこの証拠は「和泉ミヨさんの手帳」であって、牧口会長自身の記録ではない。仮に学会の主張どおり和泉氏が「秘書的な役割」をしていたとしても、氏が牧口会長の行動の一切を掌握していたという保障(証拠)はどこにもない。また、この手帳が牧口会長の「秘書」活動用のものであったとは考えにくい。その証拠に、学会が出してきた内容は、和泉氏自身の日記ともいうべきものである。氏自身の行動と感想が中心に綴られており、牧口会長に関する記述も和泉氏との関連で書かれているではないか。そうであれば「6月初旬の牧口会長の行動」なるものも、実は和泉氏自身に関わるものを列挙したに過ぎないという可能性は大きい。

●戰局も悲運にかたむき、官權の思想取締が徹底化して來た昭和18年6月初旬に総本山から「学会会長牧口常三郎、理事長戸田城聖その他理事7名登山せよ」という御命令があり、これを受けた学会幹部が至急登山、その当時の管長であられた鈴木日恭猊下、及び堀日亨御隱尊猊下おそろいの場に御呼出しで(場所はたしか元の建物の対面所のように記憶している)、その時その場で当時の内事部長渡辺慈海尊師(現在の本山塔中寂日坊御住職)から「神札をくばつて來たならば受け取つて置くように、すでに神札をかざつているのは無理に取らせぬ事、御寺でも一應受け取つているから学会でもそのように指導するようにせよ」と御命令があつた。(戸田会長の談話『聖教新聞』S27.6.10/『地涌』第667号)
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 これは、戸田会長が機関紙に公式に発表した内容である。ここには"神札指導"の年月日を「昭和18年6月初旬」と断言しているではないか。「6月初旬」は、総本山から「登山せよ」と御命令があった日であるから、登山したのは別の日とも考えられるが、「これを受けた学会幹部が至急登山」との記述から考えれば、どんなに遅くとも10日以内には登山したことであろう。とすれば、仮に御命令の日が6月10日であったとしても、6月20日までには登山していたと見るべきであろう。
 尚、『慧妙』(H5.6.1等)では"神札指導"の日を6月20日としている。しかし、その根拠については確認できていないので、当サイトとしては一応6月初旬を"神札指導"のあった日とする。

◆同年6月初旬、牧口、戸田両氏が二上人立ち会いの下、渡辺慈海庶務部長(当時)より神札を受けるよう申し渡された(『地涌』第33号)
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学会側謀略誌も「6月初旬」としている。



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7月度の内容(和泉ミヨさんの手帳)を出してみたく思う。
・1日 岸さん宅に伺って色々お話してざんげする。<幹部会に出席>
・2日 <6時40分汽車で伊豆へ。牧口先生、岸さんと一緒に。夜は蓮台寺へ落ち付く。>牧口先生から色々お話を伺た。御本尊様を信じていない事を反省する
・3日 <朝から荒増へ出掛け御本尊をおまいりして来る。お札が取れないので本当に困って了ふ。>子供がけがをしてゐた。とけいによって伯父と話す
・4日 蓮台寺から下田へ。家へ寄って3時半のバスで須崎へ。今日も雨に降られる。田中さん宅へ来る途中、自分を反省して慈悲心のない事をつくづく感じて申し訳ない
・5日 須崎から下田へ。加増野へ行くつもりでいたのにバスが遅いので明日早く出掛ける予定。戦地へ九信
・6日 加増野へ。道合、和瀬隠居へ行く。久し振りにお墓まいり。林さん病気で休んでいる。<夕方、蓮台寺へ。牧口先生、下田警察へ。突然の事で驚く>
・7日 中田へ藤木さん見える。<下田警察へ行く。牧口先生、もうお立ちになった由。>中田へ帰ってゆっくりする。明朝、帰京の予定
・8日 朝9時30分のバスで帰途につく。<牧口先生宅に伺って、奥様に色々お話する>
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 牧口先生逮捕までの様子が伺える。牧口先生は7月2日、下田の折伏に出かけられた。和泉ミヨさんも一緒である。下田の近くの蓮台寺温泉の中田旅館を拠点に2日、3日、4日と近隣の縁故者や旅館の従業員を対象に折伏座談会を行われた。この旅館の主人は親戚の折伏で入信しており、前回に牧口会長が訪れた折に御本尊の御安置が行われていた。
 さて、7月3日に注目したい。
 「3日 <朝から荒増(あらぞう)へ出掛け御本尊をおまいりして来る。お札が取れないので本当に困って了ふ。>」
 荒増には、この年の春に入信した和泉家の親戚が住んでいた。東京で御本尊下附を受けたその親戚様子を伺うために和泉さんが訪ねたところ、家に神札をまつったままなので謗法払いするように言ったが、どうしても取ろうとしないので困った、ということである。
 和泉さんがこのことを牧口先生に報告、指導を受けておられたであろうことは疑いないであろう。少なくとも、彼女が神札を謗法払いしようとしていたことは明瞭である。
 「通諜」なる文書があったのであれば、間違いなく牧口先生は共に下田の折伏に向った彼女にそのことを説明するはずである。更に、日記には
 「7月1日 幹部会に出席」とある。当時は毎月1日に、神田の本部で、会長・理事長等が出席して月例幹部会が開催されていた。逮捕された昭和18年7月にも、1日に幹部会が開かれており、和泉さんはこの戦前の学会の最後の幹部会に出席していたのである。
 宗門のいうように、6月25日に、「通諜」なる文書が作成されていたのなら、しかも本山から神札を受けるように言われていたのだから、当然にこの幹部会で「通諜」のことが報告され、更には宛て先である理事や支部長に配られていたはずである。ましてや、幹部会の前々日の29日には、陣野支部長らが逮捕されるという事件が起こっている。ところが誰も「通諜」なる文書の存在を知らず、報告さえもされていない。和泉さんは7月3日に神札をはがそうとしている。
 当時のナンバー3であった野島副理事長も、退転して、牧口先生や戸田先生をうらんでいたが、その彼の手記にも神札拒否のことが書かれているが、「通諜」なる文書は全く出てこない。全く知らないのである。野島の手記は、遺族によれば、「昭和20年に埼玉県の疎開先で筆を起し、戦後の23年頃にかけて纏めたもののようです。」と証言されている。(「通諜」なる文書は昭和23年より後に偽造されたのであろう)
 このように「通諜」なる文書が作成されていたとは到底有り得ない。
(fb:7516/2005-10-27)
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学会同様、宗門も謗法払いを否定していない。宗門が学会に指示した内容は、公的機関から差し出された神札(大麻)を拒否したり、公然と焼却せずに一応受け取るというものである。だから、会員であれ、新入信者であれ、本人が納得して神札を取り払うのであれば、宗門の指示に反するものではない。

●日本国民の総氏神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)をまつっている伊勢の神宮の御神札は、明治以前は御師(おし)といわれる神職によって全国各地の家々に配布されていました。(中略)明治の御代になって、御師による配布は廃止され、御祓大麻は神宮大麻(じんぐうたいま)と名称が改まり、明治天皇の聖旨により政府事業として全国全戸に漏れなく配布されるようになりました。(<神社と神道>WS060311)

昭和17.1頃以降 警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)
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宗門が問題にしたのは、世情や人情、社会的常識を逸した法を下げる行為であったといえよう。

●(左の一編は小平芳平氏の記に依る)(中略)18年6月(※初旬)には、学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(中略)会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)
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神札を焼却しなくとも謗法にはならない。↓

●他宗の法花宗に成る時、本と所持の絵像木像并に神座其の外他宗の守なんどを法花堂に納むるなり、其の故は一切の法は法花経より出てたるが故に此の経を持つ時、本の如く妙法蓮花経の内証に事納まる姿なり、総して一生涯の間、大小権実の仏法に於いて成す所の所作、皆妙法蓮花経を持つ時、妙法蓮花経の功徳と成るなり、此の時実の功徳なり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻70頁)
●当時、全戸に配布されていた伊勢神宮のオフダの受領を拒否して弾圧され(『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫52頁)
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他宗の本尊であっても御守であっても、これを破却することなく末寺の「法華堂」に納めていたのである。その意義から言えば、新入信者の神札等を、世相を無視して堂々と焼却する必要はまったくなかったといえる。会員の神札受け取りについても、金銭を支払って受け取るのであれば格別、当局が勝手に配布するのであれば、一応受け取り、捨て置くか寺院に納めるか、コッソリ焼却すればよかろう。

●総本山において、天照大神のお札を貼ったことは1度もありません。今時の大戦争において、国において軍部が大変に力を得て、我が国を滅ぼしたような状態でございました。昭和18年ごろ、いよいよ戦争が激しくなってきた時分、この総本山においては当時客殿・御宝蔵・庫裡・六壷、それから大奥と、そのちょうど真ん中あたりに書院がございまして、・・・そこは大書院ですから、御本尊は祭ってありません。その所を、昭和18年の、戦争がいよいよ盛んになった時に、国で借り上げてしまった、国に借りられてしまったわけです。その時にその書院を「中部勤労訓練所」ということにされてしまったのでございます。・・・その時に所長である上中甲堂と云う人が、書院の上段の間へ天照大神のお札を祭ったんです。
 それに対して、こちらは再三異議を申し立てたんですけれども、しかし国家でやる仕事である、国の仕事であるから、いくらこちらで何を言っても、それは及びもしない。何とも仕方がないから、そうなってしまったのであります。ただそれだけのことで、別に我々がその天照大神のお札を拝んだことなどありもしない。また、実際その中へ入って見たこともない。入れてくれもしない。まあ借家同然で、借家として貸したんだから向こうの権利である。そういうような状態であって、決して我々が天照大神のお札を祭ったとか、拝んだとかいうことは事実無根であります。(第66世日達上人/『大白法』H3.4.1)

●18年7月、中部勤労訓練所という、徴用工訓練のための機関が大坊の書院(200畳敷き)を利用しはじめた。神道に毒されていた指導者たちは、この書院に神棚をつくり、天照太神を祀ってしまった。総本山の宗務院は、当局者に厳重に抗議をした。(中略)再三にわたって、日蓮正宗の教義を懇切に説き、神棚の撤回を迫った。(『人間革命』第1巻「千里の道」258頁〜)
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謗法の徒が総本山内に神札を祀った時、宗門は「教義を懇切に説き、神棚の撤回を迫った」のである。この事実から考えても、宗門として信徒に神札を祀ることを容認する指導があったとは考えられない。神札受容は、実質をともなわない形式的対外的配慮に過ぎなかったのである。

●(※牧口)「天照大神は天皇陛下の先祖であつてかえつて我々がズケズケおまいりするのは不敬になるとしているだけなのです。今少し強く申し上げたいと思いますが、時ではないと思うので、これでも心掛けているつもりです。ただし謗法だけは我等の会員にはさせたくないと思いますが、どうしたものでしようかな」
(本山側)「一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法か、又積んで置いてもそれ程の害はありますまい」(昭和18年6月初旬の本山での会話/戸田城聖著『人間革命』聖教新聞S28.12.6/『地涌』第667号)
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本山側は学会に対し「そっと処分」するように指示している。これのどこが謗法なのか。


当時は毎月1日に、神田の本部で、会長・理事長等が出席して月例幹部会が開催されていた(中略)当然にこの幹部会で「通諜」のことが報告され、更には宛て先である理事や支部長に配られていたはずである。
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配られていなかったという証拠はない。以下の理由によって、6月25日以降に学会幹部が謗法払いしていた事実が、必ずしも「通諜」の否定にはならないと考えられる。

@宗門が学会側に指示した内容は「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」(『富士宗学要集』第9巻431頁)というものであった。これと呼応する形で「通諜」には「皇大神宮の御札」とあるが、一般の神札や御守り等については言及されていない。しかし、「和泉ミヨさんの手帳」には単に「お札」とあるのみで、「国禁」の対象となる「大麻」とは断定できない。

A宗門が学会側に指示した内容は「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」というものであった。しかし、その一方で「一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法か、又積んで置いてもそれ程の害はありますまい」(戸田城聖著『人間革命』聖教新聞S28.12.6/『地涌』第667号)という教示もあった。また、宗門自身、部外者によって書院に天照太神が祀られたときには「教義を懇切に説き、神棚の撤回を迫った。」(『人間革命』第1巻「千里の道」258頁〜)のである。このことから考えて、「通諜」が宗門の指示に基づいて作成・配布されたとしても、対外的なもので、内実は"バレないようにうまくやれ"という程度のものであったと考えられる。

★要するに、牧口会長の"謗法厳戒の精神"について、宗門はまったく否定していない。謗法払いのやり方が問題だっただけである。だから、本山での"神札指導"後において、牧口会長はじめ幹部連が、折伏をし神札を取り払うべく努力したとしても、そのことをもって「通諜」の存在を否定することにはならないのである。

●父母は早くから、小泉隆氏、辻武寿氏と共に蒲田の三羽ガラスといわれ、中心的な活動家でした。父が小泉氏を折伏し、小泉氏が辻氏を折伏したのです。
 当時、私の家の隣が白木薫次氏のお宅で、その次女が、後に池田大作の妻となったカネ子さん(香峯子と改名)。白木家は私の父が折伏したのです。私の母・精子は学会の初代婦人部長でした。(中略)
 先日、創価教育学会の頃からの会員であり、牧口常三郎氏の親戚であった稲葉さんという人の家の地下室にあった、戸田理事長名での通牒が、写真週刊誌『フライデー』で紹介されましたが、私は、『継命』編集室にいた昭和50年代末頃、その写しを目にしたことがあります。生前の母にたずねたところ、"記憶がある"と言っていました。(原島嵩=元創価学会教学部長『慧妙』H17.11.16)





「通諜」の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す(完結編)

(『慧妙』H5.9.16)

 連載してきた「―屁理屈を破す」も、いちおう今回をもって終了する。
 そこで今回は、これまで論述してきた内容についての若干の補足、及び追加説明を加えておこう。


【「弁護士との相談が"応急策"」という大嘘】
―弁護士つかなかった当時の学会―
 まず、本紙第15号で述べた、
 「牧口氏が弁護士と共に対応策を練った、それが『会長の応急策』だった―というのは大ウソ。思想犯と睨(にら)まれた学会には、牧口逮捕後においてすら弁護士がつかなかった」(要旨)
という点について、かつて学会側で出していた資料を紹介する。
 「牧口会長は、8月(※昭和18年)に東京・巣鴨の東京拘置所に移され、同じく戸田理事長も、同拘置所で、本格的な取り調べをうけた。しかし、思想犯ということで、弁護士もなかなかつかず、取り調べも、進まなかった。」(創価学会発行『創価学会40年史』)
 「治安維持法違反と不敬罪という罪名のために、後難を恐れて弁護士さえなかなか決まらなかった。」(聖教新聞社発行・創価学会45年史『革命の大河』)
 「牧口に弁護士をつけようと努力した有志もいた。19年春、藤森富作が『弁護届け』をもって東京拘置所へ行った。牧口の拇印をもらいにである。典獄(現在の所長にあたる)は、さっそく部下を通して拇印をとりに行かせた。その部下は『弁護士届け』を差し出した。しかし、牧口は拇印を押そうとしなかった。
 ところが、藤森が戻ってきた部下に『藤森がきておりますと伝えてください』と頼むと、今度は、牧口は珍しくニコニコして『そうか、そうか』といって気持ちよく拇印を押した。弟子の心づかいがうれしかったのであろう。」(聖教新聞社編『牧口常三郎』)
 これらを見ても明らかなように、思想犯として当局から睨まれ、(学会側の説によれば)すでに昭和18年初頭から2度にわたって警視庁で取り調べを受けていた牧口らを支援する弁護士は、1人としていなかった。いなかったからこそ、逮捕後も弁護士が見つからなかったし、逮捕の翌19年になって、はじめて弁護士を捜す手続きを開始しているのである。
 これで学会の嘘は明白だ。学会よ、もう観念して、いいかげんな作り話はよせ。だいたい、ほとんど寝たきりになっている小平芳平氏の名を利用し、こんな嘘を発表するなんて、良識ある人間のすることではあるまい。


【「通諜」が世に出廻った経緯】
―稲葉氏と牧口・戸田両会長の関係―
 次に、稲葉荘(さかり)氏が「通諜」を世に出した経緯につき、触れておく。
 昭和51年春、学会系企業「シナノ企画」により、映画『続・人間革命』が製作された。48年の本編に続き、この続編についても日蓮正宗宗門は、学会からの要請で製作に全面協力をした。
 が、その内容に関し、史実の歪められている箇処があるとして、不快に思った僧侶Y師が、旧知の間柄だった稲葉氏に胸の内を語った。
 その会話の中で、稲葉氏が
 「学会では、"本山は神札を受けて謗法を犯したが、学会だけはこれを拒否して弾圧された"などと言っているけども、それは事実と違う。その証拠に、うちには、こんなものが残っている」
といって、自宅地下室から持ち出したのが、かの、「戸田城外理事長」名での「通諜」だったのである。
 これがY師の手を経て、52年問題の時にコピーとなって宗内に出廻った、という次第であって、そこには、学会側の妄想するような「戦後入信の、ある特定の法華講員」など、まったく介在しておらない。
 なお、稲葉氏のことに触れたついでに、本紙第12号で述べた、
 「"稲葉荘氏が戸田会長と学会を深く恨んでいた"などは真っ赤な嘘。氏は戸田会長と最後まで親交を貫いていた」(要旨)
という点をもう少し詳しく補足しておく。
 稲葉氏は、牧口常三郎氏とは身内の関係(稲葉氏の姉は牧口家に嫁いでいる)になる上、稲葉氏夫人の父親替わりを務めたのは戸田会長であり、そのような関係上、戸田会長も講義の帰り途、しばしば稲葉氏宅に寄っては酒を飲む、というほど親密な間柄を続けたのであった。
 ゆえに、稲葉氏が、牧口氏や戸田氏や学会を恨むような事は、何ひとつないのである。ただ、氏としては、あくまでも事実を事実として述べたい、との、実直な考えの上から、当時あったこと(神札問題と「通諜」の件)をありのまま語っているにすぎない。
 どす黒い腹の学会幹部には、そうした氏の心情はまったく理解できず、"戸田会長への深い恨みがあるに違いない"としか思えないらしい。じつに哀れな連中ではある。


【切り文で本紙の記事を改ざん】
―良識のカケラもない悪徳編集子―
 次に、学会側の反論・批判の支離滅裂ぶり、狂いぶりについて、2、3、指摘しておきたい。
 『創価新報』(6月16日号・4面)に、「通諜問題」と題して、
 「何とカラー写真で逆に押収物でないことを証明
 「『慧妙』も認めた・『通諜』はだれも見ず知らずの幽霊
 「化けの皮はがされた『戦中作成説』
等の見出し付き記事が掲載されている。
 このうち、最初の見出しに示される「カラー写真で逆に押収物でないことを証明」云々という言い掛かりについては、すでに本紙第12号で粉砕済み(それに対して学会側は、真摯な対応をせず居直りを決め込んでいる)。
 残る2つの見出しの趣旨は、
 「『慧妙』の通諜論で化けの皮がはがされたのは、戦時中『通諜』を見た者はだれもいなかった、ということである。これは重要な記述である。『慧妙』では"野島氏以下ほとんどの幹部達は『通諜』の現物を見てすらいなかった""まだ配布されていない『通諜』なる文書が牧口氏宅からの押収資料の中にあった"つまり、だれも見ず、知らず、聞かず、だというのである
というものだが、これがまったく呆れ果てたゴマカシなのである。
 すなわち、『新報』が本紙からの引用として挙げている2文の末尾には、それぞれ、「であろう」と「としても」の字句が故意に削除されており、本紙が、論を進める途中の推測および仮定として述べた文を、あたかも既定の新事実を明かした「重要な記述である」かのごとく改ざんしているのだ。
 このように、相手側の主張を勝手に歪曲しておいて、それを得意気に批判してみせる手口は、平成3年以降、学会が使ってきた常套(じょうとう)手段であり、これは、相手側を打ち破るというより、むしろ、自らの陣営側(学会員)に、学会の正しさを印象づける目的で行なわれている洗脳報道であり、戦時中の大本営発表と全く同じ性質のものである。もはや、学会には良識のカケラもない、といえよう。
 なお、『新報』の同記事の末尾には、
 「それにしても『慧妙』編集子の程度の低さ。支離滅裂な推理といい、手の内を何でも明かしたがる幼稚さといい、話にもならない幼年探偵団だ
などという捨てゼリフが吐き捨てられてあったが、学会に都合の悪い事実は全て隠蔽(いんぺい)し、宗門攻撃の材料として使えそうな話だけを選別して、断定的かつ針小棒大に報道するのが常識の"悪徳編集子"の眼から見れば、取材結果をそのつど全てオープンに報道し、推測は推測として有り体に記述する本紙の姿勢が、かように異和感を伴って映ずるのであろう。したがって、これは、『新報』から本紙に対する、ある意味で正しい評価ともいえるが、あえて嫌味な御礼までは言わないでおく。


【「健気(けなげ)な信徒団体」だなんて悪い冗談】
―悲哀!天に唾(つば)ならぬ排泄物―
 最後に、この通諜問題での論争中、可笑(おか)しくて可笑しくて仕方のなかった、学会側の一文を引いて紹介したい。
 「どうして日蓮大聖人の末流に、謗法厳誡にして神札を峻拒(しゅんきょ)した健気(けなげ)な信徒団体があったことを認めないのであろうか。(略)依って立つべき聖なる地の無い者は、他を穢(けが)すことのみを喜びとするのである。誇るべき信も行も学も無い者の哀れな排池行為である。」(『地涌』第666号・不破優)
 僧誹謗、摧尊入卑(さいそんにゅうひ)、現代仏陀論、0分勤行、本尊模刻―等々等々、こんな輩が「謗法厳誡の健気な信徒団体」だなどと自讃しては、もう完全なブラック・ユーモアだ。
 その上、このような、まさに「依って立つべき聖なる地の無い者」が、無賛任な怪文書をバラまくなどして「他を穢すことのみを喜び」としているのだから、後半の文は全て彼ら自身のことを言い当てた文ではないか。だとすれば彼らは、自らの「哀れな排泄行為」によって生じた排池物を、自らの顔面にかぶって喜ぶ狂人のようなものだ。何とも悲哀の漂(ただよ)う、あまりに馬鹿げた姿ではないか。
 以上、通諜問題に関する学会の屁理屈を、おおむね破し了(おわ)った。もし、学会側が再反論に及ぶ気力を持ちあわせていたら、あらためて、とことんまで論じ合う所存である。(以上)






「通諜」の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す(下)

―史実覆い隠す"小平談話"の嘘―
(『慧妙』H5.8.16)

 何としても「通諜」実在を否定したい学会は、これまで池田離れが噂されていた小平芳平氏(元・学会教学部長で、池田を折伏した人物)を創価新報(六月十六日号)に登場させ、インタビュー記事の形での談話を発表した。
 ところが、これまた、史実に反する嘘と苦しい言い訳に終始しており、まったく用をなしておらない。
 以下、まとめて指摘しておこう。

<牧口氏は日本の侵略戦争を翼賛>
―小平氏はその史実を忘れたのか―

 まず第一に、小平氏は
 「(牧口会長は)日本軍が占領した海外の各地に神社をつくり、他民族に礼拝を強制したことに対して、日本民族の思い上がりも甚だしいと激しく非難していました
等、さも、牧口氏が日本の侵略戦争に反対していたかのごとく述べているが、これは当時の史実に反する真っ赤な嘘である。(でなければ、小平氏も学会の洗脳によって、そう思い込んでいるのか)
 すなわち、戸田会長著の『人間革命』によれば、戦時中、牧口氏は
 「森田君、しっかりやってきて下さい。日本の民族は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、搭乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。(中略)この大東亜戦争は、一年の後か、二年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有り難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺身するから、森田君は御本尊様に一切お委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい
 「国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ」
 「国家諌暁をしなければ、日本は惨憺たる敗戦を招く!」
等々の発言をしていたことが明らかだし、また、『大善生活実証録』(昭和十七年十二月三十一日発行)によれば、創価教育学会第五回総会(むろん牧口氏が主催した)の席上、理事の1人に
 「いまや、島国日本が北はアリューシャン群島方面より遥(はる)かに太平洋の真ん中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、さらに南洋諸島を経て西は印度洋からビルマ支那大陸に、将又(はたまた)蒙疆満州に至るのは広大な戦域に亘り、赫々たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問わず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐らくが戦場精神によって一丸となり、只管(ひたすら)に目的達成に邁進しつつある」
※【聖戦】宗教的に神聖とみなされる目的のために戦われる戦争。また、正義の戦い。(三省堂提供『大辞林』第2版=法蔵)
との発表をさせている。そればかりか、当時の学会の総会においては、毎回のように、
 「牧口会長の発声で天皇陛下の万歳を三唱し奉って」(第四回総会)
 「吉田理事の指導にて、遠く戦野にある牧口会長令息・洋三君をしのぶ軍歌を高唱し、(中略)牧口会長の発声にて、聖寿(天皇の年齢をさす)の万歳を三唱し奉って」(第五回総会)
いたのである。
 かかる思想であった当時の牧口氏が、日本の占領地政策等に対し「日本民族の思い上がりも甚だしいと激しく非難」などするハズがなかろう。牧口氏(および氏の弟子達)は、明確に、日本の侵略戦争を翼賛し、日本による諸国征服を期待していたのだ。
 このような明らかな史実を、なぜ、小平氏は覆い隠そうとするのか。もし、史実を忘れてしまった、あるいは曲げて記憶していた、というなら、それが学会による洗脳(マインド・コントロール)の成果であると知るべきであろう。

<牧口氏の本心は講演内容に明白>
―靖国神社参拝を是認した牧口氏―

 第二に、小平氏は
 「牧口先生の訊問調書を読めば、先生の言い分が神社参拝を否定してきた本来の日蓮正宗の教えに基づくことは、すぐに分かります
などと述べている。
 しかしながら、牧口氏の本心がより明らかに表れているのは、取調べ検事が押収書籍(堀日亨上人の『日蓮正宗綱要』など)の内容を盛り込んで作成した"訊問調書"よりも、牧口氏の自発意志で行われた"総会での講演"記録であろう。そこには、牧口氏の記録として
 「吾々は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは『よくぞ国家の為に働いて下さった。有難うございます』といふお礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。もし、『あゝして下さい、こうして下さい』と靖国神社へ祈願する人があれば、それは恩を受けた人に金を借りに行くやうなもので、こんな間違った話はない。
 天照大神ばかりにあらせられず、神武以来御代々の天皇様にも、感謝奉つてゐるのである。万世一系の御皇室は一元的であって、今上陛下こそ現人神(あらひとがみ)であらせられる。即ち、天照大神を初め奉り、御代々の御稜威は現人神であらせられる今上陛下に凝集されてゐるのである。されば吾々は神聖にして犯すべからずとある『天皇』を最上と思念し奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。(中略)天照大神のお札をお祭りするとかの問題は万世一系の天皇を二元的に考え奉る結果であって、吾々は現人神であらせられる天皇に帰一奉ることによって、ほんとうに敬神崇祖することが出来ると確信するのである。またこれが最も本質的な正しい国民の道だと信ずる次第である」(大善生活実証録)
と述べられており、牧口氏自ら靖国神社へ参拝していた(もしくは参拝を問題なく許容していた)ことが明らかではないか。いったい、どこが「本来の日蓮正宗の教え」だというのか。
 また、小平氏は
 「(天皇一元論は)当時の世相のなかで神札を拒む合法的な一つの便法として、指導・徹底されたもの
とも言っているが、そもそも一方で"靖国神社参拝容認発言"があるのに、これでは、まったく苦しい言い逃れにしか見えぬであろう。

<「字の間違い」云々の言い掛かり>
―かえって「通諜」の信憑性を高める―

 第三は、小平氏は
 「そもそも、いまコピーで出回っている『通諜』なるものは、字が間違っています。正しくは『通牒』ですよね。こんなひどい間違いを、戦時中、厳格な教育者であった牧口先生や戸田先生が」云々
などと、何故か『地涌』(第61号)の論旨丸写しの発言をしているが、だいたい、非常時下、慌(あわ)てふためいて作った文書(それも、ガリ版の原紙を書くのは、牧口・戸田両氏が直接ではなく、担当者がいたことだろう)であれば、字の間違いがあっても何ら不思議ではない。
 それよりも、むしろ後年の偽作だとした場合には、時間の余裕もある中で、念入りに作るであろうから、字の間違いなど起こりえぬであろう。したがって、逆に、この単純なミスが「通諜」の信憑性を高めている、とすら感ぜられるのである。

<見苦しい言い訳や怪釈はよせ>
―「不本意だが従った」の文意明らか―

 第四に、小平氏は、自らが『富士宗学要集』第九巻に記載した文について、
 「『暫く柔らかにお受けした』というのは、本山からの話を無下に拒否するのではなく、一応、話は"お受け"した、つまり聞いたという意味で、特に本山の忠告を"受け入れた"意味ではありません。したがって『その場では』と記しているのです。(中略)実際、本山の話の内容を受け入れなかったことは、すぐ次下に"が、心中には牧口会長は、神札を拝むべきでない等と、日蓮大聖人、日興上人の正義を主張されていた"と記した通りなんです
等々と、訳のわからぬ言い訳をしている。
 いったい、氏には日本語の意味(それも自身の書いた文の意味)がわからぬのか。「一応、話は"お受け"した」「"が、心中には、牧口会長は、神札を拝むべきでない等と、日蓮大聖人、日興上人の正義を主張されていた"」との表現は、誰が考えても"内心は不本意だったが、忠告には従った"との意味ではないか。
 この他にも氏は、「当時は、そういう言い方をしたんですよね。"話はお受け帰ってきた"といったように」等、ますます訳のわからぬ弁明を試みているが、まったく見苦しいかぎり、という他はない。

<「弁護士を加えた対応策」との嘘>
―小平氏よ、当時の状況思い出せ―

 第五に、小平氏は、本紙が投げかけてあった"すでに手遅れだった会長の応急策とは何か"との疑問に対し、
 「この"応急策"の記述は、六月本山から帰った後のことではありません。当時の弾圧の準備は、この年に入って急速に進み、四月、五月ごろには、理事クラスの逮捕や先ほども述べた牧口会長の中野署での取調べのように、もう現実段階に入っていました。
 そこで、これらの当局の不穏な動きに対して、牧口会長のもと弁護士なども入って真剣に対応策を練っていたんです。ただ、もはや、弾圧の流れは止まらない勢いになっていたため、間に合わなかったのです

等と述べ、「会長の応急策」とは「弁護士なども入って」練っていた「対応策」にすぎない、としている。
 しかし、氏よ、よくよく、当時の状況を思い出してみるがよかろう。
 学会は当時、治安維持法違反(要するに思想犯)の容疑で当局から狙われ、取り締りを受けた。思想犯に荷担する者は、また思想犯の一味と見なされる時代であったから、学会には、弾圧以前も以後も、弁護士などつかなかったのである(それを証明する当時の記録も数多ある)。
 しかるを、牧口氏が弁護士と共に対応策を練った、それが「会長の応急策」だった、などとは、よくも言えたもの。どうせ五十年も前のことだから、何を言っても大丈夫、と思ったのかもしれないが、あまり白々しいゴマカシは止めることだ。

 以上、新報(六月十六日号)掲載の"小平談話"の誤りと嘘について指摘してきたが、このデタラメ度合いからして、これが本当に小平氏の語ったとおりの内容なのか、どうか―それすら疑わしくなってくるのである。(次号「完結編」へ続く)




「通諜」の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す(中)

―学会の呆れた捏造の手口―
―好き勝手の歴史をデッチ上げ―
―稲葉証言への疑難、総崩れ―

(『慧妙』H5.7.16)

 創価学会では、何が何でも「通諜」を否定しようとして、お得意の捏造(ねつぞう)記事を持ち出してきた。
 なかでも、よく学会の手口を物語っているのが、『地涌』(第668号)掲載の"昭和27年に起きた砂町教会との対立"記事である(同記事の筆者は、例の「頭破」もとい「不破」クンである)。
 同記事の狙いは、「通諜」所蔵者である稲葉荘(さかり)氏が、戸田会長を怨んで砂町教会(後の白蓮院)へ移籍し、竜門講を結成して学会と深刻に対立した、だから稲葉氏の証言には客観的な信憑(しんぴょう)性がない―と言おうとして、当時のわずかな聖教記事に基づき、砂町教会と学会の間に「極限までの対立」があったことにしてしまおう、というものである。
 少し長くなるが引用しておくと、同記事では
 「創価学会と砂町教会との対立が顕在化したのは、狸祭り事件(昭和27年4月)の直前であったようだ。
 当時、砂町教会の住職は千種法輝。この千種法輝の実母(千種花子)がなかなかのやり手で、檀徒とも親しく法務に影響力を持った。この砂町教会と創価学会が、ほんの一時期であるが表立って実に深刻に対立した。
 昭和27年3月20日付の『聖教新聞』にその片鱗を認めることができる。「寸鉄」に次のように書かれている。
 〈6.折伏してお寺へ新しい同士を1人案内する時の嬉しさ、折伏の苦しみを知つた者でなければ味わえない境地である。
 7.それを喜ばない坊主がいると聞く、うそとは思うが若しいたとすれば、そんな坊主は日蓮門下というのでなくて天魔門下だ。
 8.御受戒するとかせぬとかいう事は御僧侶の権威だと思つていたらあるお寺のくそ婆が御受戒をするとかしないとか威張つたそうな、イヤハヤ世の中も闇だ。
 9.それは紹介者が惡いからだろう。書式がととのつていなかつたに違いないと思う奴は大ちがい、紹介者が会長先生で折伏も会長さ。
 10.とんでもないくそ婆だ、それは創價学会にけんかを賣る氣だ見事に買つてやろうではないかといきまいた青年がいる、その時寸鉄居士曰く
   『婆というものは先に死ぬものだ、あわてるなあわてるな、いや大聖人樣からしかられてお尻に大かいおできでも出來てウンウンうなつて死ぬさ』〉
 同年4月1日付『聖教新聞』の「寸鉄」にも、次のような下りがある。
 〈6.会長先生にたてついた婆さんのいるお寺で、御受戒になまけ出したとさ支部長幹部ががまんの緒を切つて何故かと伺つたらお彼岸まわりで忙しいそうな
 7.日蓮正宗にお彼岸つてあるのかい、即身成佛の教ぢやないか
 8.口の惡いのがおつてそれはお彼岸廻りではない、お布施廻りだよとさ
 9.お布施まわりでもよいから御授戒だけちやんとやつたらいゝじやないか、所化さんの手が足りないんだとさ
 10.迷案を言上する、レコードにお経をふき込んで3人程手わけして信者の家でかけて居て、坊さんが自轉車にのつて、まわつて歩けば間に合うじやないか〉
 野島や稲葉らが檀徒として所属していた砂町教会が反創価学会色を強め、創価学会の折伏した人の御授戒をしなくなったことが、この「寸鉄」からうかがえるのである。それに対する創価学会側のエキサイトぶりが充分、伝わってくる。
 ということは一方で、砂町教会側も極限までエキサイトしていたことになる。もともと創価学会嫌いの野島などは、ここぞとばかりに創価学会や戸田会長の悪口を言ったことだろう。創価学会に対抗するために砂町教会内に竜門講が結成された。野島、稲葉らは、その中核となって活動した。
 だが、この両者の極限までの対立も、すぐさま氷解するに至っている。創価学会は同年(昭和27年)6月、白蓮院鶴見支院を寄進することを決め、7月には寄進している。

等といっている。
 聖教新聞「寸鉄」欄のいいかげんさは、今に始まったことではないが、それよりも、そのわずかな記事を膨大(ぼうだい)な資料の中から見つけだし、かかる捏造ストーリーをデッチ上げていく異才ぶり(言い換えれば、多数の学会員をダマシて地獄へ連れて行く、人並み外れた才能ということ)に驚嘆せざるをえない。このようなマネは、とても常人にはできえないであろう。
 とはいえ、やはり捏造は捏造でしかないから、真実の前には崩れ去るほかないのである。
 まず、当時の「寸鉄」が記述している出来事であるが、実際の経過は次のとおりである。

<当時の実際の経過はこうだ!>
―「いきまいた青年」の正体!?―

 当時、砂町教会に在勤していたA師という僧侶があった。A師は頻繁(ひんぱん)に学会本部に立ち寄っていたが、ある時、戸田会長の紹介で御授戒を受けることになった人があり、学会本部において「そのことを御住職に伝えてほしい」と頼まれた。
 ところが、A師はこれを御住職に伝言せず、やがて、御授戒を受けたいという本人が、直接、砂町教会に来てしまったのである。
 その際、「御授戒願」とか「紹介状」などの書類を持っていなかったことと、しかも寺院としては一言も伝言を聞いていなかったために、応対した御住職の御母堂は御授戒を断らざるをえなかった。
 すると、前掲「寸鉄」にもあるように、学会幹部の中から「とんでもないくそ婆だ、それは創価学会にけんかを売る気だ。見事に買ってやろうじゃないか」などと、常軌を逸(いっつ)して「いきまいた青年」が出て、まず、昭和27年3月20日付・聖教に「寸鉄」記事を載せ、砂町教会への攻撃を始めたのである。
 そのとき「いきまいた」ヤクザ顔負けの「青年」とは誰であったか?じつは当時、砂町教会の所在していたエリアの学会組織は文京支部であり、その文京支部の実質的責任者は、支部長代理の池田太作(当時、名のっていた本名)青年であった。これだけ言えば(そして、本紙5月1日号・3面に載せた、当時の池田青年の写真を見れば)「いきまいた」青年のおよその見当がつくであろう。
 それはさておき、驕(おご)り昂(たか)ぶり「いきまいた青年」は、こんなささいなことから「極限までエキサト」し、「見事にけんかを買ってやる!」との宣言どおり、実際の行動に移った。
 具体的には、文京区における学会員の御授戒を、すべて池袋の寺院に連れて行くようにして、砂町教会の御宝前には御授戒の御供養が上がらぬようにし、一方、他寺院の御授戒の時間に間に合わないような"時間外"の御授戒に限っては、急に砂町教会に連れて行く、という戦術に出たのである。
 そして、その"時間外"の御授戒が寺院の時間的都合と折り合わなかった、といっては、同年4月1日付、聖教の「寸鉄」に見るごとく、
 「御授戒のなまけ出した」「御彼岸まわりで忙しいそうな」「御授戒だけちゃんとやったらいいじゃないか、所化さんの手が足りないんだとさ」
等々の悪口をもって、さらに攻撃を加えたのであった。
 まったく、「寸鉄」の記述のいいかげんさと偏向ぶりに、うんざりさせられるではないか。

<なかった「極限までの対立」>
―「不破」らは捏造小説の作家だ―

 しかも、これが『地涌』の「不破」クンの手にかかると、
 「学会側のエキサイトぶりが充分伝わってくる。ということは一方で、砂町教会側も極限までエキサイトしていたことになる。もともと創価学会嫌いの野島などは、ここぞとばかりに創価学会や戸田会長の悪口を言ったことだろう
等ということにされてしまうのだが、あまり、邪推・憶測を膨(ふく)らませて勝手な作り話をするものではない。
 すなわち、すでに述べてきたように、実際は、ささいなことから「いきまいた青年」等が、勝手に「エキサイト」し、砂町教会に対して一方的に悪口・嫌がらせを仕掛けていたのであり、なにも「両者の極限までの対立」などという事態は起こっていなかったのである。
 その証拠に、『地涌』では、
 「この両者の極限までの対立も、すぐさま氷解するに至って」「学会は同年6月、白蓮院鶴見支院を寄進することを決め」たなどと書いているが、「すぐさま氷解」という不可解さについては、何の説明もできていない。実際は、「両者の極限までの対立」など最初から起きておらず、また、戸田会長と白蓮院の御住職・御母堂とは互いに理解しあっていたから、一部の「いきまいた青年」等が仕掛けた悪口・嫌がらせも大事に発展することなく解消し、鶴見支院の寄進という慶事(けいじ)が成ったのである。
 以上、当時の状況も知らない「不破」クンが、短い「寸鉄」記事に基づき、勝手な私情でデッチ上げた捏造ストーリーを粉砕した。
 もう1つ付け加えておくならば、本紙前号でも明らかにしたとおり、稲葉荘氏が砂町教会へ移籍したのは、狸祭り事件(昭和27年4月27日)を契機として、それ以後のことであるから、『地涌』が狸祭り事件の直前」に起きたと言う「学会と砂町教会との対立」「両者(学会と砂町教会竜門講)の極限までの対立」とは、時期的にみても前後が逆であり、稲葉氏と"極限までの対立(?)"とは全く無関係であることが判(わか)るのである。
 さて、"砂町教会との対立"記事について、ここまで詳しく述べてきたのは、不破クン達のいつものやり口(スリカエとゴマカシの手口)を暴くのに、ちょうど適した題材だったからに他ならない。これまでも、不破クン達は、全く無関係な古い記事や資料を見つけ出し、そこに邪推・憶測によって何倍もの肉付けを行い、捏造の宗門史等をデッチ上げてきた―、その手口が今回の虚構性をみても、よく分かるではないか。
 こんな連中は、宗史や教学のことを論ずべきではない、彼らに相応しいのは、小説の作家―それも、異常なまでの表現の汚ならしさからいって"変態"と名の付く小説であろう。とっとと転職せよ、不破クン、君にはそれがお似合いだ。

<一事が万事の捏造記事>
―異常人格者共の所論を笑う―

 ところで、一事が万事というように、この"砂町教会との対立"記事に限らず、一連の学会の「通諜」はムリな捏造だらけである。以下、そのいくつかの例を挙げておこう。
 第1に、『地涌』(第669号)に
 「牧口会長らに対し、宗門は総本山第62世日恭上人、御隠尊の第59世日亨上人立ち会いの下、庶務部長・渡辺慈海より「神札」をいちおう受けるようにと申し渡された。その申し渡しに対し、牧口会長は、日蓮大聖人の法義に違背することとして、明確にそれを拒否した
などと述べているが、この記述は、小平芳平(当時・学会教学部長)が『富士宗学要集』第9巻に
 「18年6月には、学会の幹部が総本山に呼ばれ、『伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう』の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場で暫く柔かにお受けした、が心中には次の様に考えられていた」云々
と書いた公式記録とまったく異なっている。学会というところは、ことほどさように、以前の記録や歴史を平気で塗り変え、学会史の"捏造"を行うのだ。
 第2に、『地涌』は、"「通諜」は、戦後に入信した、ある特定の法華講員が偽造したもの"と決めつけておきながら、本紙からの「ならば、その根拠と法華講員の名を明かせ」との責めに対し、
 「これは、故なきことではない、このことを日顕宗の者らは肝に銘ずるべきである」(第668号)
 「たしかに、「通諜」の筆者の名を明かせばこと足りる。だが、それをしない。理由はただ1つ。言い訳にもならぬ言い訳を、『慧妙』編集部に代表される日顕宗の「非学匠」の者らにさんざんさせ、自らの"屁理屈"によってガンジガラメになるのを見て楽しみたいのである」(第672号/※余程、カッコ悪い言い訳であることに気づいたためかWSには掲載されていない。→http://www.houonsha.co.jp/jiyu/chap18.html
等々と、仏法者とも思えぬ変質者的な言い訳を弄(ろう)し、あげくは
 「ここで指摘しておかなければならないことは、『通諜』の筆者が"戦後入信した法華講員"であるという事実である。それなのになぜ"戦後入信した法華講員"がデッチ上げた偽書である『通諜』を稲葉が所持しているのか。稲葉がその理由を知らぬはずはあるまい」(第673号/※余程、カッコ悪い言い訳であることに気づいたためかWSには掲載されていない。→http://www.houonsha.co.jp/jiyu/chap18.html
とまで言い切っている。自らの勝手な決めつけを根拠に、ここまで言い切る異常―、捏造はこうした異常人格から生まれるのだ。
 第3に、聖教新聞(6月6日付)に、
 「しかもこれ(※国家権力の牧口らに対する弾圧)に加担したのが、こともあろうに宗門であった
 「宗門の卑劣な裏切りは、『創価の父』である牧口先生、戸田先生を投獄せしめ、牧口先生を獄死に至らしめた」(5.5の池田スピーチ)
等とあるが、いったい、何をどう考えれば、このような言い掛かりがつけられるのか。日蓮正宗宗門が"弾圧に加担した"だの"獄死に至らしめた"だの―、これは、もはや短絡などという域ではなく、事実と全くかけ離れた造り話となってしまっており、これまた捏造と呼ぶほかないであろう(捏造でないというなら"気違いの所論といおうか")。
 最後に、『地涌』(第672号)に
 「(『慧妙』は)日本の宗教弾圧史しついての何某(なにがし)かの研鑚も蓄積もなく、いきなり『通諜』問題をカラー刷りでモノしようとしたところに無理があった。フンドシ担ぎは、急には横綱相撲はとれぬ
等の文があったが、「宗教弾圧史」と「いきなりカラー刷り」との相関関係については次回の『地涌』でコジツケ解説を願うとして、今回、明らかになった学会による「捏造」の手口の前には、何らの「宗教弾圧史についての研鑚」も不要であろう。何故なら彼らは、どんな歴史でも好き勝手にデッチ上げてしまうのだから―。(以下次号)




「通諜」の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す(上)

(『慧妙』H5.7.1)

 創価学会の謀略文書『地涌』が、連日、狂ったように、"「通諜」実在"(※本紙6月1日号で既報)に対する反論を繰り返している。
 その様は、まさしく「狂ったように」で、毎回、同じことを反復して述べ続けたり、本紙の反論も待たずに勝手な勝利宣言をしたり、はたまた、邪推と嘘を史実のごとく言い切ったり、変質者丸出しの表現をもって罵詈(めり)したり―等々。
 まあ、そうした異常心理もわからぬでもない。2、3ヶ月前、「合成写真事件」「椎名夫妻爆弾証言」等で、あそこまで派手な報道合戦を繰り広げたあげく、無残にも本紙に完敗し、大恥を晒(さら)した御連中としては、ともかく休みなく吼え続けておらなければ、「また、やられるかもしれない・・・」との恐れが、つい、込み上げてきてしまうのだろう。
 『地涌』が吼えれば吼えるほど、そんな哀れな心中が、誰の目にも明らかに映るばかり―、じつに気の毒なことだ。
 ともあれ、本紙は、この「通諜」問題についても引き下がるつもりはない。真実は一つだ。とことん決着をつけようではないか。

「通諜」は「明らかな謗法」か>
―教学力ない悪意の言い掛かり―

 まず第1に、『地涌』は、
 「『慧妙』は、「通諜」を戦中の本物とすることで、宗門と同様の教義違背者として創価学会を汚泥にまみれさせようと計っているのである。いやいや、戦中の宗門の為体を評するに、「汚泥」は穏当すぎる。宗門がまみれている同じ糞尿にまみれさせようとしている、あるいは宗門が全身嵌まり込んでいた野壺(肥だめ)に時代を遡って引きずり込もうとしているのが、『慧妙』の編集意図である。(中略)この文書を本物というならば、『皇祖天照大神皇宗神武天皇』およびそれに連なる代々の天皇への報恩、そして神を敬い『國運の隆昌』『武運長久』を祈ることが、初座の祈願目的であると『御本山の御指示』が出ていたことを認めることになる。これは、国家神道を支える皇国史観に額づくものである。宗門は明らかな謗法を犯していたことになる。(中略)このような謗法の『御本山の御指示』が出ていたと認めるのであろうか。まず、こう『慧妙』に尋ねたいのである」(第666号)
等といって、矛先(ほこさき)逃れの言い掛かりをつけている。
 これについては、かつて『妙観』紙(平成4年5月15日号)でも触れているが、昭和16年8月22日改訂の御観念文においては、初座は
 「謹みて、皇祖天照太神・皇宗神武天皇肇国以来御代々の鴻恩(こうおん)を謝し、併せて皇国守護の日月天等の諸神に法味を捧げ奉る」
となっており、学会文書「通諜」の第1項は、明らかにこの文を引用したものである。(このことは、むしろ、「通諜」が当時に作られたもの、という傍証になっている)。
 『地涌』は、これを指して「国家神道」「明らかな謗法」というのだが、「皇祖天照大神」云々については、『神国王御書』に
 「神と申すは又国々の国主等の崩去し給へるを生身のごとく・あがめ給う」(『神国王御書』御書1298、全集1518頁)
とあるように、国王(天皇制の時代なら天皇)が崩御(ほうぎょ)して善神となるのだから、天皇家の祖先(皇祖)が、天照大神等の諸神として、善神につらなることは、法義上あたりまえのことなのである。
 次に「皇国守護」という表現については、もとより諸天善神には、法華守護の働きと国土守護の働きとの両面があり、また、天皇制であった当時の我が国は「皇国」と称していたのだから「皇国守護の日月天等の諸神」とは国土守護の諸神の別名にすぎない。
 いったい、どこが「明らかな謗法」であるというのであろうか(※ただし、「通諜」中の「敬神の誠を致し、国運の隆昌・武運長久」云々は初座の御観念文にもなく、宗門とは無関係である)。
 たいした教学力もない者が、ともかく日蓮正宗を誹謗しようという悪意で言い掛かりをつけるから、こんなオソマツな所論となるのだ。それも、1年以上も前に『妙観』紙上でメッタ切りに破折され、一言も反論できぬまま沈黙し、忘れた頃になって、またぞろ同じ疑難を持ち出す厚顔ぶり―本当に呆れさせられるではないか。
 そのくせ、「汚泥(おでい)まみれ」「糞尿(ふんにょう)まみれ」「野壺(肥だめ)に引きずり込む」等々と、罵(ののし)り言葉の口汚なさだけは、まさに変質者並の一級品―。なんとすばらしい教養ぶりか、東洋哲学研究所のメンバーとやらにだけは、たとえ頼まれてもなるものではない。

「押証番号ない」から戦後の物か>
―この異常な短絡思考の哀れ―

 第2に、『地涌』は、
 「『慧妙』に聞きたい。「これも返還された押収資料の一部」と写真説明された『大善生活實證録 第五回總會報告』と題する創価教育学会発行の本の表紙には、「治安維持法違反事件 被疑者 稲葉伊之助 證第二號」との文字がクッキリと読める。『慧妙』が気張ってカラー印刷した効果は抜群である。ほかにも短冊様の小さな紙が貼られており、押証番号がかすかに読み取れる。だがどうだ、肝心な「通諜」にはそれらのものはない。すなわち「通諜」は、戦中、押収されたものではなかったのである」(同号)
等と称し、以後、第672号・673号・674号および創価新報(6月16日号)などに、繰り返し繰り返し、同じことを述べ続けている。
 まあ、これくらいしか、「通諜」そのものに対する批判ができないのだろうから、同じ繰り返しになるのも仕方ないが、それにしてもオソマツである。
 まず、『大善生活実証録』に貼(は)られていた「証第二号」の紙であるが、これは読んで字のごとし、「証拠として採用した第2番目の書類」という意であって、べつに押収書類のすべてに貼られていたわけではない(※ちなみに「押証番号」なる呼称は、学会が勝手に付けたものである)。
 しかも、まったく同じ内容の書類が30枚もあれば、仮にそれを証拠として採用したとしても、「証第○○号」と貼るのはそのうち1枚だけで、30枚すべてに貼ったりしないのは当然のことである。
 子供でもわかりそうな、この程度の道理も常識もわからず、短絡(たんらく)して、「すなわち『通諜』は、戦中、押収されたものではなかったのである」と断定してしまう筆者の「不破」君は、どうやら、そのペンネームに反して、謗法の果報でそうとうに頭が破(わ)れているようだ。
 その上、あまりの馬鹿らしさに、本紙前号(6月16日号)でも取り挙げず放置しておいたところ、
 「これについて『慧妙』は、どのような反論もしていない」「押証番号がないのだから、ただ『通諜』が押収品でないことのみが真実だということになる」「その事実を認めず、虚勢を張って嘘を通そうとするから、世の笑い者となる」「フンドシ担ぎは、急には横綱相撲はとれぬ」等々―と、「在家童子」だの「編集部」だのという連中が、「不破」に付和雷同して騒ぎはじめた。まったく、この子供たちときたら、自分たちの非論理性こそが「世の笑い者」となっていることに、まだ気づかぬらしい。
 それも謗法の果報なれば、やむをえぬことか―、せいぜい、自分達だけの狂える世界の中で、互いにうなずきあい自己満足にひたっていればよかろう。哀れ、哀れ。

「稲葉証言は信用できない」か>
―下衆な憶測で書いた嘘物語―

 第3に、『地涌』は、
 「稲葉証言は信用できない」(第666号)
として、
 「稲葉伊之助は、法難の只中、恐怖に囚(とら)われ精神に異常をきたしており、その事実を厳しく評価した戸田会長に対し、息子である稲葉荘が深い恨みを持った。そして、稲葉荘は、昭和27年前後、父・伊之助も所属していた砂町教会(白蓮院)に所属し、野島辰次と共に竜門講を結成して学会切り崩しを行ったのである。ゆえに稲葉証言は信憑性(しんぴょうせい)に欠ける」(第666号・667号趣意)
という。
 ところが、これがまた真っ赤な嘘なのだから、救われない。
 まず、稲葉伊之助氏が「精神に異常をきたした」などというのは、まったくの事実無根のことであるし、氏は昭和25年に亡くなるまで、一貫して学会員として通した人だったのである。
 しかるを、子息の荘(さかり)氏憎さのあまりとはいえ、生涯を通じて学会員であった伊之助氏に対し、気違い呼ばわりするわ、造反者扱いするわ―もう、ムチャクチャである。
 また、荘氏本人についても、氏は戸田会長とは最後まで親交を貫いていたから、氏が戸田会長を深く恨んでいた、などというのはまったくの大嘘である。
 ただ、狸祭り事件を契機に、荘氏は「学会組織の暴力的体質にだけは、どうしても付いていけない」として、戸田会長にことわった上で円満に砂町教会へと移ったのだが、その時は、すでに竜門講は存在していたから、「野島や稲葉は竜門講を結成し」などというのも、もちろん事実に反している。また、それからの氏が、竜門講の中核メンバーとして学会切り崩しを行った、などという事実はどこにもない
 要するに『地涌』の記事は、すべてが下衆(げす)な憶測によって組み立てられ、執筆された"嘘物語"だったのである。
 そもそも、"稲葉荘氏が戸田会長を深く恨んでおり、それ故に、この「通諜」なる偽書を世に出した"というのなら、何故、戸田会長の没後、20年も30年も経ってから出したというのか、論理的にも不自然極まりないではないか。
 あまり、ムリな邪推をするものではない。
 いずれにしても、これで、"稲葉証言が信憑性に欠ける"との言い掛かりは崩れ去った。

「記憶が正確」だから「不可解」か>
―愚にもつかない粗捜しを笑う―

 第4に、『地涌』は、稲葉証言は「不可解極まる」として、
 「稲葉は『およそ30枚』という正確な記憶をなしているのに、どうしてそれが牧口会長分の押収資料か、自分の父親分の押収資料であるかの判別についての記憶がないのであろうか。(中略)この「通諜」について所蔵に関する記憶の定かでない稲葉が、『およそ30枚』という意外なほど鮮やかな記憶を有していることが気になるのである」(第668号)
などといっているが、そもそも稲葉氏が、とくに「通諜」の存在を意識し、「30枚」という枚数を確認したのは、昭和35年以降、学会に資料引渡しをした後のことで、一方、当局から返還されてきた牧口・稲葉両家の押収資料を、包みから出して一緒に保管したのは、昭和30年のことである。つまり、時期が何年もズレている上、「通諜」は昭和35年以降も稲葉家に残ったのだから、枚数については幾度か見て記憶していた―ただ、それだけのことであって、なんら「不可解」でも不自然でもないのである。
 むしろ、このような、愚にもつかない粗捜し(にもなっていないが)を得手とする「不破」君の精神構造こそ「不可解」であり、彼の後生のいかんが「気になるのである」。

稲葉夫妻は「独身」で「外地にいた」か>
―もっと正確な取材を心がけよ―

 第5に、『地涌』は、
 「稲葉荘は、大正11年11月21日生まれ。昭和18年6月当時、満20歳。『稲葉荘氏夫妻』は、すでに結婚していたのであろうか。稲葉荘は、昭和15年、渋谷の府立第一商業(旧制)卒業後、日満商事に就職して昭和16年頃から満州(現在の中国・東北部)に行き、徴兵検査で1度、短期間、日本に帰ってきただけで、昭和21年まで外地にいたという。すなわち稲葉は、『昭和18年6月下旬』には、日本にいないのである。その稲葉が、この当時の創価教育学会についての「証言」をすること自体が不可解でなのである」(第668号)
といっているが、ここまで調べ上げておきながら、どうして、もう少し正確な取材ができないのか、いぶかしく感じられる。
 すなわち、稲葉荘氏の夫人は、昭和18年、荘氏の兄嫁として嫁(とつ)いだが、御主人の戦死により、戦後になって荘氏と再婚したのである(昔はこうした形が多く、まさに戦争のもたらした悲劇でもあった)。
 昭和18年6月下旬、稲葉家が学会本部からの指示で神札についての取り扱いを変えた際、まさに、これを間近で見たのは夫人であり、荘氏は外地より戻ってきてから、父・伊之助氏より、その事情を聞いたのであった。
 ゆえに本紙は、「稲葉夫妻の証言」と報じたのであり、これまた、どこも「不可解」な点はないのである。(以下次号)




やはり学会文書「通諜」は実在した

―返還された押収書類の中に約30通―
―"事実無根説"総崩れ!!これが実物カラー写真だ―

(『慧妙』H5.6.1)

[画像]:「通諜」のカラー写真=本紙編集室でも実物を確認。これが現存する「通諜」のカラー写真だ!!

偽造写真事件で窮地に立たされている学会では、会員から疑惑の眼が向くのを必死にかわそうとして、インチキ新聞『創価新報』を使い、かの戦中の学会文書「通諜」を「戦後の偽書」「捏造文書のプロの仕業」「宗門の愚かな画策」であるとするキャンペーンを打ち上げた。だが、この必死の悪あがきも、正真正銘の「通諜」の実物が提示されてしまえば、すべて崩壊する。ここに本紙は、学会の「愚かな画策」を粉砕すべく、「通諜」の実物カラー写真を公開し、併せて同文書の伝わった経緯と背景を明らかにするものである。

<「通諜」の出所と伝わった経緯>
 1つの事実は百万の言葉に勝る。まず、このカラー写真(※上記[画像])を御覧いただきたい。これが、かねて騒がれてきた、昭和十八年六月二十五日付・戸田城外(後に城聖と改め)理事長名の「通諜」―その実物である。
 この文書は、東京の稲葉荘氏(学会の初代総務・稲葉伊之助氏の子息)宅に保管されていたもので、かつてフリーライターの溝口敦氏も『池田大作・創価王国の野望』(紀尾井書房刊)の中に
 「今回の取材で初めて確認したのだが、この通牒は真物である。もともとも出所は稲葉荘氏で、稲葉氏は同家の地下室に収蔵していたため、文書は湿気で周辺部がボロボロになった。現在、同文書は同大同形の紙で裏打ちされ、たしかに畳まれて保存されているが、畳まれたときの破損状況は理にかなって作為は有りえない。」
と述べ、これを『妙観』紙(平成4年5月15日付)でも引用掲載したことがある。
 しかるに今回の新報のキャンペーンでは、何故か稲葉氏の名には少しも触れず、ひたすら、野島辰次氏(元副理事長)作成説を批判してみたり、「戦後に入信した、ある特定の法華講員」による後世の偽作と勝手に決めつけたりしている。おそらく、稲葉氏について触れれば、同氏宅に「通諜」の実物が保管されていることがクローズアップされてしまい、それがもし"実物鑑定"にまで発展してしまえば、同文書が戦中のものと判明してしまう―それが、学会にとっては至極、都合が悪かったからであろう。
 だが、そうした姑息な考えに基づく策謀も、ここに「通諜」の実物を提示したことですべて吹っ飛んでしまった。すなわち、いかに「通諜が存在しなかった証拠」をあれこれ考え出してみたところで、実物が存在している以上、すべてが空論と化してしまうからである。
 さて、動かぬ証拠ともいうべき「通諜」の実物を提示した上で、さらに、これが稲葉氏宅に伝わった経緯と背景について述べる。

 昭和18年7月6日、牧口会長・戸田理事長・矢島周平氏・稲葉伊之助氏らが逮捕された際、各人の家は特高警察の刑事達によって捜索され、関係資料の一切(この中には、なんと御本尊までが含まれていた)が押収されてしまった。
 稲葉氏宅の場合、この押収資料が返還されることになったのは、ようやく戦後十年も経った昭和30年頃のことであり、リヤカーを引いて資料の受け取りに行ったということである。
 その折、伊之助氏の娘(荘氏の姉)が牧口氏の子息・洋三氏(戦死)に嫁いでいる、という縁戚関係があったことから、当局より、牧口氏の押収資料も一緒に引き渡され、稲葉荘氏はハトロン紙に包んだ返還資料を2人分(2個口)持ち帰ってきた。
 そして、当時既に2代会長に就任していた戸田会長に架電し、牧口氏の分の返還資料の処置について相談したところ、
 「それは荘君が保管してくれ」
との指示であった。
 そこで稲葉氏宅では、いったん2個の包みを開き、その中味を一緒に保管するところとなったのだが、昭和35年に池田が3代会長に就任して後、柏原ヤスを通じて、
 「保管されている牧口先生の分の資料を、記念品として学会に引き渡して欲しい」
旨、申し入れがなされた。
 こうして、ほとんどの牧口氏の資料が学会に引き渡されたのだが、稲葉氏宅では、2個の包みをほどいて中味だけを一緒に保管していたため、牧口氏の携行用の小さな御書を含め若干の引渡し洩れが生じたのであった。そして―この引渡し洩れの牧口氏の資料の中にあったか、あるいは稲葉氏の分の資料の中にあったか、定かに区分けすることはできないが、ともかく、そのとき稲葉氏宅に残った資料の中に、ワラ半紙にガリ版刷りの「通諜」があったのである。その数、およそ30枚―。
 稲葉氏宅では、この文書がそれほど重大な問題になるものとは夢にも思わず、他の資料と共に、再び地下室に収蔵したのであった。その後、湿気の多い地下室に長期収蔵されたため、同文書は多くが破損滅失し、残りは各関係先へ資料として寄贈された(幸いにして3通の「通諜」の現存が確認されている)。
 以上が、稲葉氏宅に「通諜」が伝わった経緯である。


<「通諜」にまつわる謎を解明>
―傍証となる学会側記録も明らか―
 このことから、さらに立ち入って考えてみると、「通諜」が入っていたのは、おそらく牧口氏宅から押収された資料の中、と考えて間違いない。
 何故ならば、もし稲葉氏宅からの押収資料の中にあったとすれば、少なくとも昭和18年7月6日の逮捕前に、「通諜」は稲葉伊之助に渡されていたことになる(それも30枚も)。
 むろん、「通諜」の宛て先が当時の「各理事・各支部長」となっていることからすれば、理事であった稲葉伊之助氏に渡っていても不思議はないが、だとすれば、当時の副理事長であった野島辰次氏が「通諜」の存在を知らない(と思われる)ことや、稲葉氏宅以外では見つかっていないことは、どうにも不自然に感じられる。
 では、この「通諜」が稲葉氏宅から押収された資料の中になかった、とするならば、あと残る可能性としては、牧口氏宅からの押収分の包みの中に入っており、しかも学会への引渡しから漏れた分にあった、ということになる。
 つまり「通諜」は、昭和18年6月25日付で文章が作られ、その翌日くらいまでに約30枚がガリ版印刷された後、牧口氏宅に届けられたが、折りしも6月29日には、理事の陣野忠夫らが非常識な罰論を使ったことが原因で逮捕され、そのゴタツキが起きたためであろうか、牧口氏は「通諜」を配布する機会のないまま、7月2日早朝から地方布教に出かけ(おそらく氏は、幹部の一斉逮捕などというほど、事態がさし迫っているとは思っていなかったであろう)、7月6日の下田での逮捕となったから、「通諜」は誰の手にも渡らないまま、約30枚がそっくり牧口氏宅から官憲に押収されたものと考えられる。
 されば、今回の新報がいうような、「獄中の野島を見ても『通諜』は一切出てこない」「『通諜』が実在していたのなら、野島は当然それを供述しているはず」「当時の理事・支部長だった人達にも配られていない」等というのも、むしろ状況としては当然のことといえよう。野島氏以下ほとんどの幹部達は、「通諜」の現物を見てすらいなかったであろうから。
 また、新報のいう「もし『通諜』があれば、とくに高齢だった牧口会長に対しては、保釈も検討されたであろう。(略)訊問調書や裁判書類には『通諜』は一切出てこないし、押収書類のなかにも『通諜』はないのである」等という疑難はどうであろうか。
 じつは、当時の特高警察は、先に逮捕してあった陣野らを激しく取り調べ、学会弾圧の罪状を作成した上で、一挙に、牧口氏以下21名の幹部を逮捕に踏み切っている。つまり、学会を潰滅せしめる意志決定が、あらかじめなされていたのだ。
 それであれば、まだ配布もされていない「通諜」なる文書が牧口氏宅からの押収資料中にあったとしても、当局としては、これを取り挙げるどころか無視を決め込むであろうし、ましてや「保釈を検討」したり、わざわざ「訊問調書」等の中に記録を残すようなヘマをするはずがない。悪名高い戦時中の特高は、人の良い民主警察ではないのである。
 これで、「通諜」に関する大きな謎―戦時中の証言や資料が出てこない理由―が解明されたが、では、この「通諜」の存在についての、古い証言や資料がまったく皆無なのかといえば、それは否である。『富士宗学要集』(59世日亨上人編)の第9巻の法難編・第13章「昭和度」に
 「左の一編は小平芳平氏(※当時の学会教学部長)の記に依る」(429頁)
として、学会から寄せられた弾圧記録が載せられている。そこに、
 「18年6月には、学会の幹部が総本山に呼ばれ、『伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう』の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場で暫く柔かにお受けした。(中略)合同問題のもつれと、小笠原一派の叛逆、牧口会長の国家諌暁の強い主張等を背景とし、直接には、牧口会長の折伏が治安を害するといい、また神宮に対する不敬の態度があるとして、弾圧の準備が進められたから、会長の応急策も已に遅し(※以下、次々と牧口氏ら学会大幹部が逮捕された状況が述べられている)」(431頁)
との文を見ることができるのである。
 この文中、すでに手遅れだった「会長の応急策」とは、まさに6月25日付「通諜」を指すことは明白である。もし、そうでないというなら、6月20日に総本山で「忠告を受けた」後、7月2日に地方に発つまでの間に打った「会長の応急策」とは、いったい何だったのか、また、どうして「すでに遅し」だったのか、それらを明らかにした上で反論しなければなるまい。
 ともあれ、この宗学要集掲載の文が、「通諜」実在の傍証であることはもはや確実であり、このことは、とりもなおさず、"学会の首脳陣は「通諜」の存在も、作成の経緯も知っていた"ということを、雄弁に物語っているのである。
 嗚呼、なんたる不正直の謀略組織であることか―。


<崩壊した学会側の疑難!>
―自己矛盾と幼稚な妄説を破す―

 なお、右の宗学要集掲載の文中、「牧口会長は、その場では暫く、柔らかに(宗門の忠告を)お受けした」とあることについて、新報では、野島辰次氏の遺稿集『我が心の遍歴』(平成4年6月19日発行)を頼りに
 「野島の記述は、当時の学会が、本山の申し出を後にも先にも、まったく受け入れなかったから弾圧された、ということであり、その意味で『通諜』などまったくなかったことの重要な証言といえよう」
などとはしゃいでいる。
 だが、この野島氏の遺稿は、氏自身の心に感じた、主観的な見方を書き綴ったところの、まさに『我が心の遍歴』であり、一方の、小平教学部長の手による宗学要集掲載の文は、昭和18年6月20日の「忠告」の場に立ち会われた日亨上人が允可(いんか)されたものであり、また学会の公式見解ともいうべき記録である。
 それを、その時の都合次第で猫の目のように変節し、これまで「裏切り者」「退転者」と罵ってきた野島氏の遺稿を利用して、自ら公認してきた記録の方を知らぬ顔で引っ込める、この破廉恥ぶり、信仰者として、恥ずかしくないのか、と言いたい。
 これについては、稲葉荘氏夫妻が、昭和18年6月下旬当時の出来事として、
 「学会では、慌てて神札の取り扱いを変え、いちおう受け取るよう、指示を流しました。私の家も、それで神札を受け取ったんです。それが、おそらく本山からのお話のあった直後のことだった、と思います」
と、証言していることだけ紹介しておこう。
 最後に、今回新報が述べたてた「宗門、『野島作成説』で命取り」という論調については、宗門ではこれまで「野島作成説」など主張したことはない、ということをここに明記し、また「(「通諜」は)戦後に入信し、戦前の学会とは何の関係もない、ある特定の法華講員が作成した」との妄説については、ならば、その「特定の法華講員」の氏名と、その人物が「作成した」という根拠を責任をもって明示せよ、(どうだ、できまい?それは、学会のムリな言い掛かりだからだ!)と申し伝えておく。





*創価教育学会幹部が大量逮捕されたことに恐怖した宗門は

―教師錬成講習会を開催し庫裡に神札を祀るよう徹底した―
『地涌』H5.6.15/第669号

 昭和18年6月、創価教育学会の牧口常三郎会長、戸田城外理事長(当時)ら幹部十数名は、宗門に命じられ急遽、登山した。
 登山した牧口会長らに対し、宗門は総本山第62世日恭上人、御隠尊の第59世日亨上人立ち会いの下、庶務部長・渡辺慈海より「神札」をいちおう受けるようにと申し渡された。その申し渡しに対し、牧口会長は、日蓮大聖人の法義に違背することとして、明確にそれを拒否した。
 直後、国家権力による創価教育学会への弾圧が始まる。
 このときの様子については、会長就任間もない昭和26年7月10日に戸田会長が著された論文『創価学会の歴史と確信』にくわしく書かれている。そのなかに、次のような記述がある。
 「まことに大聖人の御金言は恐るべく、権力は恐るべきものではない。牧口会長の烈々たるこの気迫ありといえども、狂人の軍部は、ついに罪なくして罪人として、ただ天照大神をまつらぬという“とが”で、学会の幹部21名が投獄されたのである。このとき、信者一同のおどろき、あわてかた、御本山一統のあわてぶり、あとで聞くもおかしく、みるも恥ずかしき次第であった。牧口、戸田の一門は登山を禁ぜられ、世をあげて国賊の家とののしられたのは、時とはいえ、こっけいなのもである」(『戸田城聖全集』第3巻所収)
 この戸田会長の文のうち、「御本山一統のあわてぶり、あとで聞くもおかしく、みるも恥ずかしき次第であった」に着目し、以下に宗門が弾圧にあたり露呈した日蓮大聖人の弟子にあるまじき姿につき詳述したい。
 『聖教新聞』(昭和27年5月10日付)には、次のような戸田会長の談話が掲載されている。
 「政府が宗教界統一をくわだてゝ大規模な各宗教統一に乘り出したころの事、小笠原慈聞が神本佛迹論を数度にわたつて鈴木日恭猊下へ文書で提出して居るという、又眞僞の確証はないが慈聞の活躍した水魚会を通じ日恭猊下のもとへ身延と合同せよと数度電報(?)を出したという事で、私が出獄後この話を聞いて眞僞をたしかめるため若しこれが本当ならあの当時の宗務院の文書を見せて下さるわけに行かぬでしょうか、と当局者に御うかゞいした事がある、その時は記録拝見は許されなかつたが、事件の有無については否定も肯定もなされず話をぼかして居られたのでそれ以上押しておたずねはしなかつた。又身延派と小笠原慈聞との間に、『この身延との合同が実現すれば小笠原を清澄寺の管長にする』という内約さえ出來て居てそれでしつこく水魚会方面から合同勧告があつたのだと水魚会関係者からうわさを聞いたし、当時このうわさは宗務院と交渉の深いだん信徒の間に公然と流布されていたものである。
 この合同騒ぎ、神本佛迹問題は堀米御尊能師等の御苦労で宗門の大事にはならずにすんだが、この事件にからんで宗義を守つて一番強硬な学会へ政府筋の弾圧の手がのびたものであつた」
 この文中にある「話をぼかして居られた」が気になる。それだけに宗門の隠している真実の一端を垣間見ようとの衝動にかられるのである。
 では、その作業の手初めとして、創価教育学会に対する治安維持法違反、不敬罪を理由としての弾圧の規模と経過を見ておこう。
 まず宗門が創価教育学会に「神札」を受けるよう命じた昭和十八年六月、その月に最初の逮捕者を出した。
 逮捕されたのは、創価教育学会理事の有村勝次と中野支部長の陣野忠夫であった。二人が逮捕されたのは6月29日、淀橋警察に留置された。
 つづいて7月6日には牧口常三郎会長が、折伏で訪れた伊豆の下田で逮捕され、下田警察に留置された。牧口会長は、翌7日警視庁に押送された。牧口会長の逮捕された6日には戸田城外理事長(当時)も逮捕され、高輪警察に留置された。戸田理事長も、のち警視庁に留置される。
 7月6日は、ほかに理事・稲葉伊之助、理事・矢島周平などが東京で逮捕された。
 牧口会長が布教先の伊豆・下田で逮捕されていること、中枢幹部を一斉検挙していることからして、警察による長期間にわたる内偵がおこなわれ、逮捕にあたっては綿密な準備がなされていたと結論される。
 それは6月29日の理事・有村や中野支部長・陣野らの逮捕により弾圧が始まったのでなく、それは水面下で長期間つづけられてきた捜査が、顕在化するきっかけとなったと見るべきである。有村、陣野らを1週間、調べただけで、創価教育学会中枢に対する組織的な一斉検挙がなされることなどあり得ない。
 創価教育学会幹部の逮捕はその後も相次ぎ、7月20日には、副理事長・野島辰次、理事・寺坂陽三、理事・神尾武雄、理事・木下鹿次、幹事・片山尊が警察に逮捕された。この昭和18年7月以降も逮捕が相次ぎ、昭和19年3月までに総計21名が逮捕された。
 国家権力による弾圧は、日蓮正宗の信徒団体である創価教育学会に対するものだけではなかった。日蓮正宗僧侶である藤本蓮城(本名=秀之助)も、創価教育学会の有村・陣野らが逮捕される少し前の6月16日に、不敬罪等の容疑により逮捕されている。
 藤本は昭和2年ごろ、日蓮正宗に入信し、昭和16年に出家し僧侶となった経歴の持ち主。この藤本と同時に、藤本にしたがう高塩行雄も逮捕されたが、高塩は逮捕直後より「改悛の情顕著」ということで起訴猶予となり、藤本のみが、9月22日に起訴となった。
 さて、この昭和18年6月、7月の日蓮正宗僧俗に対する国家権力による嵐のような連続検挙に対し、宗門はどのような対処をしたのであろうか。
 戸田会長の書いた「御本山一統のあわてぶり、あとで聞くもおかしく、みるも恥ずかしき次第」(『創価学会の歴史と確信』より)とは、いかなる「次第」か。
 まず宗門は、あわただしく7月に何回も長老会議、参議会を開き、局面の打開を協議した。それを受け日蓮正宗宗務院は7月30日付をもって日蓮正宗宗務院より「院達」を、全国の「教師住職教会主管者」宛に出す。
 「院達」は、来る8月21日と22日に第1回目の、8月25日と26日に第2回目の「教師錬成講習会」を、総本山の富士学林で開催することを伝えるものであった。
 「院達」には、「尚本講習會に於て特に重要事項の指示可有之に付理由無くして受講に應ぜざる者は宗制に照し處斷することあるべく爲念申添へ候」と、厳しく参加を義務づけていた。そして、第1回目と第2回目の「教師錬成講習会」の参加者を、それぞれ次のように指名した。

第1回目
 中島廣政 井口琳道 青山諦量 中原顯照 渡邊慈海
 渡邊孝英 小野眞道 細井精道 白石慈宣 野木慈隆
 佐藤慈豊 鈴木義忍 椎名法英 舟橋泰道 猪又法護
 辰野開道 小川慈大 永澤慈典 崎尾正道 秋山教悟
 松岡慈契 太田慈晁 澁田慈旭 柿沼廣澄 高野法玄
 佐野慈廣 前川慈寛 瀬戸恭道 佐野舜道 秋田慈舟
 早瀬道應 木村要學 堀米泰榮 眞弓智廣 佐藤慈英
 佐藤覺仁 佐藤治道 八木直道 磯野寛清 本江廣泰
 本多妙鶴 長岡法頂 福重照平 高瀬養道 藤川徹玄
 重住慈嚴 反橋智道 佐々木隆道

第2回目
 渡邊慈海 大村壽道 青山諦量 東 完道 伊藤達道
 太田泰福 本多慈運 千草法輝 三野徹妙 上原一如
 平山廣生 小野宏憲 佐野廉道 佐野周道 影山惠信
 岡田諦齢 堀米泰榮 高橋信道 西方慈正 關戸慈晃
 林 信隆 淺井廣龍 渡邊智道 秋山圓海 豊田貫道
 奥 法道 能勢安道 川田利道 落合慈仁 鳥山馨道
 野村學道 松本締雄 市川眞道 大石菊壽 手塚寛道
 小松照道 早瀬義顯 渡邊廣順 宮澤慈悳 飯塚慈悌
 佐藤舜道 石井觀境 辰野慈忠 菅野慈俊 崎尾正道
 中島妙宣 岩瀬正山 花枝宏旭 長谷部道海

 この「教師錬成講習会」においては、第1日午前5時に起床し、国旗掲揚、勤行、食事などを済ませたのち、午前8時より同11時まで堀日亨上人が講義をなし、午前11時より正午まで教学部長・佐藤舜道より指示がなされた。
 食事をはさんで午後11時より午後2時まで、堀米泰榮教授(のちの堀米日淳上人)の講義、午後2時より午後3時まで教学部長・佐藤舜道が再び指示をした。夜は午後6時50分より2時間にわたり「協議会」をおこなった。
 第2回目も午前5時起床。国旗掲揚、勤行、食事などの後、午前7時より「英霊墓参」。午前8時より同11時まで堀日亨上人による講義、その後、正午までの1時間、報国課長・青山諦量より指示がなされた。
 昼食後、午後1時より午後2時まで堀米教授の講義があり、その後、食料増産をめざして農作業をおこない、夕食の後、第1日目と同様、午後6時50分から2時間にわたり「協議会」をおこなった。
 では、宗門は該当者の厳正なる出席を求めた「教師錬成講習会」で、なにを徹底したのであろうか。哀れなことであるが、国家権力の弾圧に恐怖し、“神宮大麻(神札)を寺院の庫裡、あるいは僧や信徒の住宅に祀ることはやむを得ない”との宗門中枢の決定を徹底したのであった。
 昭和18年8月、日蓮正宗は一山あげて大謗法に染まったのである。江戸時代、徳川幕府の弾圧を恐れ、謗施を供養として受け取る大変節を宗門はなしたが、それに匹敵する一大教義違背を、時を隔て昭和の時代に再び犯したのである。
 日蓮大聖人曰く。
 「謗法と申す罪をば我もしらず人も失とも思わず・但仏法をならへば貴しとのみ思いて候程に・此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり」(妙法比丘尼御返事)
【通解】謗法という罪を、自分も気づかず、また人も悪いとも思わず、ただ仏法を習っているのだから貴いとばかり思っているので、この人も、またこの人に従う弟子、檀那なども無間地獄に堕ちるのです。




*「通諜」の所有者である竜門講・稲葉「証言」は不可解極まる

―「神札問題」の度に浮上する「通諜」の作成意図は明らかだ―
『地涌』H5.6.14/第668号

 『慧妙』(平成5年6月1日付)は、戦後入信の法華講員が作った謀略文書「通諜」(正しくは通牒)について報道している。
 「通諜」が戦前の創価教育学会当時に作成されたものとし、戦中、日蓮大聖人の教えどおり、謗法厳戒の姿勢を貫いた創価教育学会の歴史に瑕をつけようとしているのである。
 「通諜」の内容ついては、本紙『地涌』(第60号、第61号、第62号、第666号)に詳述しているので、それを参考にしてもらいたい。
 この「通諜」は、戸田理事長(当時)名で創価教育学会の各理事、各支部長宛に出された体裁をとっており、文中、神札を「粗末に取り扱はざる様」などと書かれている。
 日顕宗の『慧妙』などは、これをもって戦中、弾圧を逃れるために日蓮大聖人の正法正義を捨て去った宗門と同じ教義違背を、創価教育学会がおこなったかのように報じているのである。
 さてその『慧妙』が、「通諜」を戦中のものであると報ずる根拠は、稲葉荘「証言」である。稲葉は、昭和30年当時に当局より、父の稲葉伊之助の押収資料とともに、牧口常三郎会長の押収資料も返却されたとし、そのいずれかに「通諜」が入っていたとしている。
 『慧妙』は、その稲葉「証言」より邪推をなし、「『通諜』は誰の手にも渡らないまま、約30枚がそっくり牧口氏宅から官憲に押収されたものと考えられる」(『慧妙』平成5年6月1日付より引用)としている。
 だがこの「通諜」は、本紙『地涌』が何度も報じたように、戦前においては日蓮正宗および創価教育学会と縁もゆかりもない、戦後入信の法華講員が書いた文書なのである。有力情報に基づき、書いた人物の特定がされている。
 『慧妙』は、「また『(通諜は)戦後に入信し、戦前の学会とはなんの関係もない、ある特定の法華講員が作成した』との妄説については、ならば、その『特定の法華講員』の氏名と、その人物が『作成した』という根拠を責任をもって明示せよ(どうだ、できまい? それは学会のムリな言い掛かりだからだ!)、と申し伝えておく」(同)などと、いつものことながら意気がっているが、意気がれば意気がるほど後に引き下がれなくなり、行く末、醜態を晒すことになるだけである。
 ここで、稲葉「証言」の不可解さに触れてみたい。
 『慧妙』は、「当局より、牧口氏の押収資料も一緒に引き渡され、稲葉荘氏は、ハトロン紙に包んだ返還資料を2人分(2個口)持ち帰ってきた」(同)とし、「この引き渡し洩れの牧口氏の資料の中にあったか、あるいは稲葉氏の分の資料の中にあったか、定かに区分けすることはできないが、ともかく、そのとき稲葉氏宅に残った資料の中に、ワラ半紙にガリ版刷りの『通諜』があったのである。その数、およそ30枚」(同)と、稲葉「証言」を伝えている。
 稲葉は「およそ30枚」という正確な記憶をなしているのに、どうしてそれが牧口会長分の押収資料か、自分の父親分の押収資料であるかの判別についての記憶がないのであろうか
 この謀略文書「通諜」が、戦後入信の法華講員によりデッチ上げられた偽書であるとの真実を知るだけに、稲葉「証言」の記憶の偏りが気になるのである。
 稲葉は、戦後第1次の檀徒活動の中心メンバーである。昭和26年5月3日、戸田会長が創価学会第2代会長に就任したが、この前後、戸田会長の会長就任を快く思わない創価教育学会の元幹部たちが、反創価学会イコール反戸田の旗幟を鮮明にし、末寺に直接つき檀徒となった。
 元幹部らの多くは、戦中において国家権力の弾圧に抗さず信仰信念を曲げたが、その過去を戸田会長に指摘されることに反感を抱いていた。だが、法難に強い創価学会組織の再建をめざしていた戸田会長にしてみれば、戦中、法難に抵抗することもなくもろくも崩れてしまった幹部になあなあの評価をし、真実を蔽い隠すことなどできはしなかったであろう。
 まして、師たる牧口会長が獄中にあって死を賭して国家諫暁をなされているのに、それに背を向け逃げ出した弟子らを馴れ合いで許してしまえば、仏意仏勅の団体として創価学会を再建することなどままならない。
 広宣流布へ向けて仏の軍勢を組織化するという戸田会長の使命感が、裏切ったかつての同志たちの公的評価に私情をさし挟む余地を与えなかったと思われる。
 師を裏切った弟子らを許さなかった戸田会長を、創価教育学会の元幹部らは逆恨みした。なかんずく、創価教育学会のナンバー3の位置にあった副理事長の野島辰次は、戸田会長のみならず牧口会長まで恨んでいた。
 野島は、昭和18年6月に宗門より創価教育学会首脳が神札を受けるように言われたとき、宗門の指示どおりにすべきであったと考え、牧口会長らが自説に固執したがために、自分は長く獄に繋がれ辛酸をなめたと、出獄後においても考えていた。
 しかも野島は、戸田会長にはなはだしい怨嫉をしていた。これらのことは、野島の手記『我が心の遍歴』を読めば歴然とする。
 この野島は、戦後まもなくより砂町教会(のちの白蓮院)を拠点に活動をおこなった。この砂町教会には、稲葉荘の父・稲葉伊之助も所属しており、これらの事情からして、砂町教会に出入りする創価教育学会の元幹部と、再建途上の創価学会との間に微妙な緊張感が生じていた。
 それが昭和26年5月3日、戸田会長が第2代会長に就任したこと、それにひきつづき創価学会が単独で宗教法人格を取得しようとしたことなどにより、砂町教会に集まる野島らの反感はいっそう強まったようである。
 昭和25年8月3日には、かつて創価教育学会の理事であった稲葉伊之助が死去したが、その息子・稲葉荘が砂町教会で野島らとともに活動していた。
 創価学会と砂町教会との対立が顕在化したのは、狸祭り事件(昭和27年4月)の直前であったようだ。
 当時、砂町教会の住職は千種法輝。この千種法輝の実母(千種花子)がなかなかのやり手で、檀徒とも親しく法務に影響力を持った。この砂町教会と創価学会が、ほんの一時期であるが表立って実に深刻に対立した。
 昭和27年3月20日付の『聖教新聞』にその片鱗を認めることができる。「寸鉄」に次のように書かれている。
 「六、折伏してお寺へ新しい同士を一人案内する時の嬉しさ、折伏の苦しみを知つた者でなければ味わえない境地である。
 七、それを喜ばない坊主がいると聞く、うそとは思うが若しいたとすれば、そんな坊主は日蓮門下というのでなくて天魔門下だ。
 八、御受戒するとかせぬとかいう事は御僧侶の権威だと思つていたらあるお寺のくそ婆が御受戒をするとかしないとか威張つたそうな、イヤハヤ世の中も闇だ。
 九、それは紹介者が惡いからだろう。書式がととのつていなかつたに違いないと思う奴は大ちがい、紹介者が会長先生で折伏も会長さ。
 十、とんでもないくそ婆だ、それは創價学会にけんかを賣る氣だ見事に買つてやろうではないかといきまいた青年がいる、その時寸鉄居士曰く
   『婆というものは先に死ぬものだ、あわてるなあわてるな、いや大聖人樣からしかられてお尻に大かいおできでも出來てウンウンうなつて死ぬさ』」
 同年4月1日付『聖教新聞』の「寸鉄」にも、次のような下りがある。
 「六、会長先生にたてついた婆さんのいるお寺で、御受戒になまけ出したとさ支部長幹部ががまんの緒を切つて何故かと伺つたらお彼岸まわりで忙しいそうな
 七、日蓮正宗にお彼岸つてあるのかい、即身成佛の教ぢやないか
 八、口の惡いのがおつてそれはお彼岸廻りではない、お布施廻りだよとさ
 九、お布施まわりでもよいから御授戒だけちやんとやつたらいゝじやないか、所化さんの手が足りないんだとさ
 十、迷案を言上する、レコードにお経をふき込んで三人程手わけして信者の家でかけて居て、坊さんが自轉車にのつて、まわつて歩けば間に合うじやないか」
 野島や稲葉らが檀徒として所属していた砂町教会が反創価学会色を強め、創価学会の折伏した人の御授戒をしなくなったことが、この「寸鉄」からうかがえるのである。それに対する創価学会側のエキサイトぶりが充分、伝わってくる。
 ということは一方で、砂町教会側も極限までエキサイトしていたことになる。もともと創価学会嫌いの野島などは、ここぞとばかりに創価学会や戸田会長の悪口を言ったことだろう。創価学会に対抗するために砂町教会内に竜門講が結成された。野島、稲葉らは、その中核となって活動した。
 だが、この両者の極限までの対立も、すぐさま氷解するに至っている。創価学会は同年(昭和27年)6月、白蓮院鶴見支院を寄進することを決め、7月には寄進している。
 謀略文書「通諜」がどのような事情で作られたかを、もっとも強く示唆している事実がある。その事実とは、「通諜」が竜門講員である稲葉荘の手もとにしかないという動かし難い事実である。
 稲葉の証言によれば、それも「およそ30枚」あったということである。この「通諜」について所蔵に関する記憶の定かでない稲葉が、「およそ30枚」という意外なほど鮮やかな記憶を有していることが気になるのである。
 稲葉「証言」には、他にも不可解な点がある。『慧妙』には、
 「稲葉荘氏夫妻が、昭和18年6月下旬当時の出来事として、『学会では、慌てて神札の取り扱い方を変え、いちおう受け取るよう、指示を流しました。私の家も、それで神札を受け取ったんです。それが、おそらく本山からのお話のあった直後のことだった、と思います』と証言していることだけ紹介しておこう」(『慧妙』平成5年6月1日付より引用)
 と書かれている。稲葉荘は、大正11年11月21日生まれ。昭和18年6月当時、満20歳。「稲葉荘氏夫妻」は、すでに結婚していたのであろうか。
 稲葉荘は、昭和15年、渋谷の府立第一商業(旧制)卒業後、日満商事に就職して昭和16年頃から満州(現在の中国・東北部)に行き、徴兵検査で1度、短期間、日本に帰ってきただけで、昭和21年まで外地にいたという。
 すなわち稲葉は、「昭和18年6月下旬」には、日本にいないのである。その稲葉が、この当時の創価教育学会についての「証言」をすること自体が不可解である。
 この「通諜」のコピーが世に最初に出回ったのは、昭和52年のことであった。この昭和52年は、戦後第2次檀徒活動である正信会活動の胎動の年でもある。そして第3次檀徒活動ともいえる「C作戦」発動にあたり「通諜」が再び浮上した。創価学会切り崩しをめざした檀徒活動のたびにクローズアップされる「通諜」。
 それは、「通諜」がもともと創価学会攻撃を意図して作られたことを暗示しているかのようでもある。事実は、戦後、第1次檀徒活動をおこなった竜門講の稲葉荘の胸に秘められている。





*宗門は戸田城聖会長存命中は真実露見を恐れて口をつぐみ

―没後35年を経て謀略文書「通諜」を元に史実を覆そうとする―
『地涌』H5.6.10/第667号

 『慧妙』(平成5年6月1日付)は、『富士宗学要集』(堀日亨上人編)第9巻に、「十八年六月には、学会の幹部が総本山へ呼ばれ、『伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう』の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた牧口会長は、その場では暫く柔らかにお受した」と記されていることを取り上げ、あたかも創価学会側が、宗門の指示する神札甘受を認めたかのように記している。
 しかも、この『富士宗学要集』第9巻の文について、「左の一編は小平芳平氏の記に依る」と『富士宗学要集』に書かれていることをもって、これを創価学会の公式見解であると解釈している。根拠は、小平氏が本稿執筆当時に創価学会教学部長であったということになる。
 たしかに小平氏は、創価学会を代表して「昭和度」の法難史を記したものであろうが、『富士宗学要集』の編者が日亨上人であることから、編者への遠慮があったものと思われる。日亨上人は昭和18年6月、神札甘受についての宗門より創価教育学会への申し渡しに立ち会われている。
 そして、いわずもがなのことであるが、宗門の戦中の罪をかばって創価学会側が露骨な表現を避けたと考えられる。
 まして「暫く柔らかにお受けした」とは、激しく反発をせず話をいくらか聞いたといった程度のニュアンスにしかとれず、これを神札甘受にたちまち結びつけることは、やや無理がある。
 この『富士宗学要集』第9巻は、昭和32年10月10日発刊である。当時の管長は、戦中戦後において、創価学会の最も良き理解者である堀米日淳上人である。それだけに創価学会側は、史実を伏せて宗門をかばい、穏当な表現をしたと思われる。
 このことは、戸田第二代会長が「妙悟空」の名で著された『人間革命』の単行本発刊にもあらわれている。『人間革命』は、もともと『聖教新聞』紙上に昭和26年4月より昭和29年8月まで連載されたものである。
 この『聖教新聞』の連載をまとめて昭和32年7月3日に単行本にしたのだが、新聞紙上に連載の『人間革命』に記述されていた、昭和18年6月に宗門が神札甘受を命じた箇所が単行本では割愛されている。以下に、割愛された箇所の一部を紹介する。
 「笠公〈小笠原慈聞〉は破門せられ、堀井〈堀米泰榮・のちの日淳上人〉尊師は内務部長の位置を離れた。ガサ公は野にある虎の如く宗門に喰ってかかつてゐる。
 牧田〈牧口会長〉先生の一行はこの空気の中に登山したのであつた。客殿の隣りにある広書院へ通された、正面には日恭上人、お隣りにすこし座を下つて堀御隱尊猊下が着座されている。すこしその下手に新らしき内務〈庶務〉部長渡辺慈公〈渡辺慈海〉尊師がお座りになつている。正面にむかつて下座に牧田先生の一行は静粛にかしこまつていた。
 慈公尊*師が牧田先生に向つて
  『牧田さん、今度登山をお願いしたのは折入つてよくお話したい事があるのです、それは外でもないが神札の問題です』
  『ハツ』と云つて牧田先生はあらたまつた。巖〈戸田会長〉さんと他の一行は何だ神札の事かと云う様にケロリとした顔をしていた。
  『貴方の会では神札を焼かせたり神棚をとつたり、又神札を受けないそうじゃありませんか』
  『それはどう云う事なのでしょうか』
  と牧田先生もけげんそうな顔をされた。
  『時勢がこの様な時勢だから、神札だけは各寺院でも一応は受取る事にしたのです、貴方の会でも神棚や神札にふれん様にしたらいかがですか、そうして頂きたいと此方は希望するのです』
  牧田先生は決然と言上した。
  『神詣でのついでに宗祖聖人へお目通りに来られた尼をおしかり遊ばしたと云う話も承わります、御開山上人の身延離山のその原因に地頭波木井が三島神社へ供養した事がある、と承わつて居ります。牧田は決してそんな事は出来ません』
 慈公尊*師
  『何事もおんびんにやつてもらいたいと云う主旨なのです』
  『天照大神は天皇陛下の先祖であつてかえつて我々がズケズケおまいりするのは不敬になるとしているだけなのです。今少し強く申し上げたいと思いますが、時ではないと思うので、これでも心掛けているつもりです。ただし謗法だけは我等の会員にはさせたくないと思いますが、どうしたものでしようかな』
  『一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法か、又積んで置いてもそれ程の害はありますまい』
 あまりの言葉に何事にも無頓着な巖さんでも、やれやれこれは困つたもんだわいと思い出した」(昭和28年12月6日付『聖教新聞』より一部抜粋。〈 〉内は筆者加筆)
 単行本化するにあたり、これらの箇所が割愛されたのは、堀米日淳上人が猊座にあり、宗門の創価学会への理解が高まっていたという時代状況にあったことと関連すると思われる。これと同様の配慮が、『富士宗学要集』の記述の仕方にもなされたのであろう。
 昭和18年6月、宗門が創価教育学会首脳を呼びつけたときの真実は、まぎれもなく戸田会長の『創価学会の歴史と確信』に記されたとおりである。
 「当時、御本山においても、牧口会長の、宗祖*および御開山のおきてに忠順に、どこまでも、一国も一家も個人も、大聖の教義に背けば罰があたるとの態度に恐れたのである。信者が忠順に神棚をまつらなければ、軍部からどんな迫害がくるかと、御本山すら恐れだしたようである。
 昭和18年6月に学会の幹部は登山を命ぜられ、『神札』を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうかと、二上人立ち会いのうえ渡辺慈海師より申しわたされた。
 御開山上人の御遺文にいわく、
 『時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事』(御書全集1618ページ)
 この精神においてか、牧口会長は、神札は絶対に受けませんと申しあげて、下山したのであった。しこうして、その途中、私に述懐して言わるるには、
 『一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖*聖人のお悲しみを、恐れるのである。いまこそ、国家諫暁の時ではないか。なにを恐れているのか知らん』と。
 まことに大聖人の御金言は恐るべく、権力は恐るべきものではない。牧口会長の烈々たるこの気迫ありといえども、狂人の軍部は、ついに罪なくして罪人として、ただ天照大神をまつらぬという“とが”で、学会の幹部21名が投獄されたのである。このとき、信者一同のおどろき、あわてかた、御本山一統のあわてぶり、あとで聞くもおかしく、みるも恥ずかしきしだいであった。牧口、戸田の一門は登山を禁ぜられ、世をあげて国賊の家とののしられたのは、時とはいえ、こっけいなものである」(『戸田城聖全集』第3巻所収『創価学会の歴史と確信』より一部抜粋)
 この戸田会長の論文は、「上」「下」にわかれており、会長就任間もない昭和26年の『大白蓮華』(「上」は7月号、「下」は8月号)に発表された。
 また、昭和27年6月10日付『聖教新聞』には、つぎのような戸田会長の談話が掲載されている。
 「戰局も悲運にかたむき、官權の思想取締が徹底化して來た昭和十八年六月初旬に総本山から『学会会長牧口常三郎、理事長戸田城聖その他理事七名登山せよ』
 という御命令があり、これを受けた学会幹部が至急登山、その当時の管長であられた鈴木日恭猊下、及び堀日亨御隱尊*猊下おそろいの場に御呼出しで(場所はたしか元の建物の対面所のように記憶している)、その時その場で当時の内事部長渡辺慈海尊*師(現在の本山塔中寂日坊御住職)から『神札をくばつて來たならば受け取つて置くように、すでに神札をかざつているのは無理に取らせぬ事、御寺でも一應受け取つているから学会でもそのように指導するようにせよ』と御命令があつた。
 これに対して牧口先生は渡辺尊*師に向つてきちつと態度をとゝのえて神札問題についてルルと所信をのべられた後、『未だかつて学会は御本山に御迷惑を及ぼしておらぬではありませんか』と申し上げた処が、渡辺慈海尊*師がキツパリと『小笠原慈聞師一派が不敬罪で大石寺を警視廳へ訴えている、これは學会の活動が根本の原因をなしている』とおゝせられ、現に学会が総本山へ迷惑を及ぼしているという御主張であつた」(昭和27年6月10日付『聖教新聞』より一部抜粋)
 この戸田会長の談話は、この年四月の狸祭り事件にまつわり出されたものである。このとき宗門は、狸祭り事件にこと寄せて戸田会長を処断しようとしている。
 戸田会長の書いた『創価学会の歴史と確信』や『聖教新聞』紙上に出された戸田会長談話に、事実に反する宗門誹謗があったとすれば、この昭和26年、27年当時、大いに問題になっているはずである。
 戸田会長存命中は、戦中の教義違背の罪を暴かれるのを恐れて宗門は口を閉ざしており、戸田会長亡き後、35年を経てから日顕宗機関紙である『慧妙』などで史実を覆そうとする。汚いといえばあまりに汚いやり口である。
 真実は、創価教育学会副理事長であった野島辰次がその手記の中に記している。
 野島は創価学会を嫌悪し、昭和27年頃に戦後第一次の檀徒活動の中核として暗躍した経歴の持ち主である。
 「あれはこの6月の末、私が学会から特派されて福岡へ1週間ほどの旅行に出かける前のこと、本山から特に招請状が来たので、真木大三郎〈牧口常三郎〉、遠田丈男〈戸田城聖〉、葉山仁之助〈稲葉伊之助〉、岩間謙三〈岩崎洋三〉、中川清右衛門〈西川甚右ェ門〉など幹部の一行に私も加わって大石寺へ詣り、そこには法主〈日恭上人〉、元法主〈日亨上人〉も列席し、主として総監亘理慈全〈渡辺慈海〉から、皇大神宮の大麻を祀ることについての取扱方、時局柄あまりこの問題で摩擦を起こさないようにという注意があったが、学会としては、この問題はこれまでにも度々論議されたことで、真木会長の指導で、一貫した理論を持っていたつもりだったので、折角の本山のえんきょくな注意を受け入れるどころか、返って逆襲した形で、勿論、こちらは真木先生が中心になって応答したのであるが、私などもその尻馬に乗って、ふだん聞かされていた天照大神天皇一元論の一端など一くさり述べたのだった」(野島辰次遺稿集『我が心の遍歴』より引用。〈 〉内は筆者加筆)
 これを書いた野島は、戦中、官憲に逮捕されたときには一心に早期出獄を願い、創価教育学会の組織壊滅の導火線となった。
 にもかかわらず、早期出獄を果たせなかったのは、牧口会長、戸田理事長(当時)らのせいであると逆恨みし、昭和19年8月の出獄後、牧口会長の死を知ったときも、心には冷たい反応しか涌いてこなかったとし、
 「『さういえば真木先生って方がお亡くなりになったそうですね、この間兄から電話があった時にそういってましたよ』と健助〈野島辰次〉達も当然もう知ってることのようにそういわれ、ところが健助はその時初めて真木大三郎の死を知ったのだった。『ああそうですか、真木先生が……』
 あっさり聞き流すような、うわべは平気な風を健助は装ったが、ひやりと冷たいものを頸筋のあたりに何かそういうものを感じた。(中略)それほど健助は他人のちょっとした出来事を知ったほどに冷たくなっていたのだが、若し健助の心がもう一段冷たくなっていたなら、真木という恩師の死に対して、悪魔のような嘲笑をひょっとしてその口辺にただよわしたかも知れない」(同)
 というふうに『我が心の遍歴』で述懐している。
 この野島は、自分を含めた創価教育学会首脳が、昭和18年6月の宗門の指示を聞き入れなかったことが、災いの因となったと考えていた。もっと率直に述べれば、このときの「御指南」に逆らったから、罰を受け投獄され家族ともども地獄の苦しみを味わったと、牧口会長を心底、恨んだのであった。
 その野島が創価学会側に立ち、昭和18年6月の状況を創価学会側に有利に美化する必要などないのである。それだけに、国家権力による法華経の持者に対する弾圧を、法難と受けとめず災い(罰)と考える野島による件の情景描写は信用できるのである。
 野島は、昭和26年、戸田会長が会長就任したことを面白く思わず、砂町教会(のちの白蓮院)を拠点に反創価学会の活動をおこなった。このとき、野島とともに戦後第1次の檀徒活動をしたのが、牧口会長の縁戚でもある稲葉荘である。
 その稲葉が「通諜」(正しくは通牒)を今さら持ち出し、真実めいた「証言」をしている。
 稲葉が、この「通諜」が真実であると確信していたのなら、昭和52年頃に「通諜」のコピーが出回ったとき、どうして正々堂々と“返還された押収書類”と証言しなかったのだろう。檀徒活動の先輩らしくないではないか。その事情は後ろめたさから、話せなかったものと思われる。
 さて、『慧妙』の記事に話を戻そう。
 『慧妙』は、『富士宗学要集』に創価学会側の書いた文として、「牧口会長はその場で暫く柔かにお受した」(『富士宗学要集』第九巻より引用)と記述されていることにつづき、同文の、「合同問題のもつれと、小笠原一派の叛逆、牧口会長の国家諫暁の強い主張等を背景とし、直接には牧口会長の折伏が治安を害するといい、又神宮に対する不敬の態度があるとして、弾圧の準備が進められたから会長の応急策も已に遅し」(同)との箇所を引用している。
 非常に読みづらい文ではあるが、『慧妙』はこの文に書かれた「応急策」という文字に着目し、この「応急策」について牽強付会にも、つぎのように述べている。
 「この文中、すでに手遅れだった『会長の応急策』とは、まさに6月25日付『通諜』をさすことは明白である。もし、そうでないというなら、6月20日に総本山で『忠告を受けた』後、7月2日に地方へ発つまでの間に打った『会長の応急策』とは、いったい何だったのか、また、どうして『すでに遅し』だったのか、それらを明らかにした上で反論しなければなるまい」(平成5年6月1日付『慧妙』より一部抜粋)
 だが、これも先に詳述したように、真実は「牧口会長はその場で暫く柔かにお受した」ではないのだから、それを受けての「応急策」として神札甘受を組織徹底する「通諜」が出されたと結論することは、はなはだ無理な、根拠なしの推論ということになる。
 『慧妙』の推論の根拠自体が、史実ではないのである。ここに創価学会を、宗門と同等の教義違背者としようとする『慧妙』の試みは破綻したといえる。
 それも当然といえば、あまりに当然である。この「通諜」、戦前の創価学会とは縁もゆかりもない戦後入信した法華講員が書いた謀略文書であり、筆者も判明している。その謀略の真相を、「通諜」の所有者・稲葉荘が知らないはずはないと思うのだがどうであろうか。
 創価教育学会の弾圧にあたり稲葉荘の父・稲葉伊之助は取り調べの最中、2階から飛び降りるほど苦しんだ。だが、戸田会長は、法難に敢然と立ち向かわなかった稲葉に対し、「4か年の刑をおそれて畜生界のすがたであった」(『創価学会の歴史と確信』より一部引用)と記している。
 この戸田会長の評価を恨む息子・稲葉荘の気持ちはわからぬでもないが、戦後作成された謀略文書「通諜」を、戦中の真書と思わせるような発言はやめるべきである。
 最後に再び念を押しておくが、謀略文書「通諜」の筆者は判明しているのである。





*戸田会長を逆恨む檀徒の亡霊が「通諜」を携えさまよってる

―日顕宗がその怨霊にとりつかれ破滅の迷路に踏み込んだ―
『地涌』H5.6.8/第666号

 『慧妙』(平成5年6月1日付)が、「通諜」(正しくは通牒)なる文書の報道に、その第1面のほとんどを割いている。タイトルは、
 「やはり学会文書『通諜』は実在した」
 「返還された押収書類の中に約30通」
 「“真実無根説”総崩れ!! これが実物カラー写真だ」
 というもので、いつもながらの『慧妙』らしいにぎにぎしさである。だが、それ以上にこの第一面を派手なものにしているのは、カラー写真の掲載である。カラー写真は4枚掲載されている。
 上より1枚目の写真は、「通諜」なる文書が別紙で裏打ちされたもの。2枚目の写真は、ボロボロで裏打ちされていない「通諜」。3枚目の写真は、戦前の創価教育学会発行の『大善生活實證録』と題する書籍。4枚目の写真は、牧口創価学会初代会長が携行したとする『御書』の写真。
 以上の4枚の写真が、『慧妙』第1面にカラー写真で掲載されている。この「通諜」と『大善生活實證録』と牧口会長が携行したとする『御書』、この3点のものをカラー写真で出したのは、この3点のものが一体であるとの印象づけをしようとするトリックである。では『慧妙』はどのようなトリックを弄しているのか。
 いずれも戦中、特高警察に押収されたもので、戦後、一緒に牧口会長縁戚の稲葉荘のもとに返却されたものであるとの印象づけを狙ったものである。
 だがこのカラー写真が、逆に「通諜」が押収文書でないことを証明する。これについては後半で論述するが、では、なぜ『慧妙』は事実に反し「通諜」が戦中の押収文書であると報ずるのであろうか。
 その理由は、「通諜」の文面にある。この「通諜」は、「創価教育學會各理事各支部長」に宛てられたもので、文中には、「皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様……」などと指示されており、この「通諜」が戦中の本物であれば、創価学会も宗門同様、日蓮大聖人の教えに反し謗法を犯したことになるのである。
 要するに『慧妙』の報道の目的は、“宗門は戦中において正法正義を貫いた”といったことを証明することにあるのではなく、創価学会も宗門同様、戦中は日蓮大聖人の教法に違背して、神札を受け取っていたと証明したいのである。
 宗門は戦中、国家権力の弾圧を恐れ、1人の犠牲者も出ぬ前より屈服した。まことにもって日蓮大聖人の弟子を自称することもおこがましい臆病者ぶりであった。その象徴的な史実として挙げることのできるものは、昭和16年9月29日付で日蓮正宗宗務院がおこなった日蓮大聖人の御書の一部抹殺である。
 このとき宗門は、「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり、上一人より下万民に至るまで之を軽毀して刀杖を加え流罪に処するが故に梵と釈と日月・四天と隣国に仰せ付けて之を逼責するなり」(聖人知三世事)などの14ヵ所の字句を御書より削除するよう宗内に徹底した。
 その他、宗門は伊勢神宮の遥拝、神札の受領を宗内僧俗に命じ、総本山大石寺大書院にも軍部により神札を祀り込まれた。
 すなわち『慧妙』は、「通諜」を戦中の本物とすることで、宗門と同様の教義違背者として創価学会を汚泥にまみれさせようと計っているのである。いやいや、戦中の宗門の為体を評するに、「汚泥」は穏当すぎる。宗門がまみれている同じ糞尿にまみれさせようとしている、あるいは宗門が全身嵌まり込んでいた野壺(肥だめ)に時代を遡って引きずり込もうとしているのが、『慧妙』の編集意図である。
 その意図は「通諜」なる文書の文を読むことによってなおさらはっきりする。「通諜」のコピーを参考までに別掲(226頁)しておいたが、読みにくいと思われるので以下に全文を掲載する。ただし、一部判読不明な文字、脱字があったので、それを編集部で推測し〈 〉内に示した。
 「創價教育學會各理事
  仝  各支部長殿
                 理事長 戸田城外
     通  諜
時局下、決戰体制の秋、創價教育學會員〈に〉於い〈て〉益々盡忠報國の念を強め、會員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戰ひ抜かんことを切望す。依つて各支部長は信心折伏について各會員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。
一、毎朝天拜(初座)に於いて御本山の御指示通り 皇祖天照大神皇宗神武天皇肇國以來御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し國運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと。
一、學會の精神たる天皇中心主義の原理を會得し、誤りなき指導をなすこと。
一、感情及利害を伴へる折伏はなさざること。
一、創價教育學會の指導は生活法學の指導たることを忘る可からざること。
一、皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれとを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること。
                        以上
   六月廿五日」
 日顕宗の者らが、この「通諜」を戦中の本物として公表することは、これすなわち、戦中の宗門の教義違背を認めることである。創価学会を貶めんとして、みずからを貶めているのである。だが、日顕宗の者らは、創価学会憎さのあまり法義の正邪順逆すらも忘失しているのである。
 というのも、徹底事項5項目の第1番目に注目していただきたい。そこには、「毎朝天拜(初座)に於いて御本山の御指示通り 皇祖天照大神皇宗神武天皇肇國以來御代々の鴻恩を謝し承り敬神の誠を致し國運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと」と書かれている。
 『慧妙』がこの文章を本物というならば、「皇祖天照大神皇宗神武天皇」およびそれに連なる代々の天皇への報恩、そして神を敬い「國運の隆昌」「武運長久」を祈ることが、初座の祈願目的であると「御本山の御指示」が出ていたことを認めることになる。
 これは、国家神道を支える皇国史観に額づくものである。宗門は明らかな謗法を犯していたことになる。
 もっともそれは事実である。昭和16年8月22日、日蓮正宗宗務院は、同趣旨に初座の観念文を変えている。無論、国家権力の弾圧を恐れてのことだ。
 だが、「唯授一人血脈相承」の“法主”は、御本仏日蓮大聖人と同じ境界にあって絶対、過ちを犯さないとする、日顕宗の機関紙『慧妙』が、このような謗法の「御本山の御指示」が出ていたと認めるのであろうか。まず、こう『慧妙』に尋ねたいのである。
 さて、そのうえで「通諜」の真贋論に入ろう――とは、少し皮肉な言い方であろうか。要は、創価学会を貶めることに夢中になり、日蓮正宗を貶めている『慧妙』を、筆者は笑い者にしているだけのことだ。
 徹底項目の第5番目には、「皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれとを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること」と書かれているが、宗門が宗内僧俗にそれを徹底し、謗法にまみれていた史実と思いあわせると、『慧妙』が「通諜」を本物であると頑強に主張するほどに笑いが込み上げてくるのである。
 『慧妙』にとって、戦中の日蓮正宗のことごとくの信徒が臆病風に吹かれ、神札を甘受していたとすることのほうが、すんなりと心に入るらしい。
 どうして日蓮大聖人の末流に、謗法厳戒にして神札を峻拒した健気な信徒団体があったことを認めないのであろうか。あまつさえ、日蓮大聖人の弟子の範たる創価学会を、宗門と同じ糞尿にまみれさせることに懸命となり、『慧妙』第1面をカラー印刷にまでして騒ぐのであろうか。
 よって立つべき聖なる地のない者は、他を穢すことのみを喜びとするのである。誇るべき信も行も学もない者の哀れな排泄行為である。
 さて、ここまで卑しい『慧妙』が、浅知恵をもって「通諜」と『大善生活實證録』と牧口会長が携行したとする『御書』の3点を第1面にデカデカとカラー写真で出し、以下のように「通諜」の由来を主張する。
 少々長くなるが、『慧妙』の該当箇所を引用する。
 「昭和18年7月6日、牧口会長・戸田理事長・矢島周平氏・稲葉伊之助氏らが逮捕された際、各人の家は特高警察の刑事達によって捜索され、関係資料の一切(この中には、なんと御本尊までが含まれていた)が押収されてしまった。
 稲葉氏宅の場合、この押収資料が返還されることになったのは、ようやく戦後10年も経った昭和30年頃のことであり、リヤカーを引いて資料の受け取りに行ったということである。
 その折、伊之助氏の娘(荘氏の姉)が牧口氏の息子・洋三氏(戦死)に嫁いでいる、という縁戚関係があったことから、当局より、牧口氏の押収資料も一緒に引き渡され、稲葉荘氏はハトロン紙に包んだ返還資料を2人分(2個口)持ち帰ってきた。
 そして、当時すでに2代会長に就任していた戸田会長に架電し、牧口氏の分の返還資料の処置について相談したところ、『それは荘君が保管していてくれ』との指示であった。
 そこで稲葉氏宅では、いったん2個の包みを開き、その中味(ママ)を一緒に保管するところとなったのだが、昭和35年に池田が3代会長に就任して後、柏原ヤスを通じて、『保管されている牧口先生の分の資料を、記念品として学会に引き渡してほしい』旨、申し入れがなされた。
 こうして、ほとんどの牧口氏の資料が学会に引き渡されたのだが、稲葉氏宅では、2個の包みをほどいて中味だけを一緒に保管していたため、牧口氏の携行用の小さな御書を含め若干の引き渡し洩れが生じたのであった。
 そして――この引き渡し洩れの牧口氏の資料の中にあったか、あるいは稲葉氏の分の資料の中にあったか、定かに区分けすることはできないが、ともかく、そのとき稲葉氏宅に残った資料の中に、ワラ半紙にガリ版刷りの『通諜』があったのである。その数、およそ30枚――。
 稲葉氏宅では、この文書がそれほど重大な問題になるものとは夢にも思わず、他の資料と共に、再び地下室に収蔵したのであった。その後、湿気の多い地下室に長期収蔵されたため、同文書は多くが破損滅失し、残りは各関係先へ資料として寄贈された(幸いにして3通の『通諜』の現存が確認されている)。
 以上が稲葉氏宅に『通諜』が伝わった経緯である」(平成5年6月1日付『慧妙』より一部抜粋)
 これは、稲葉荘の「証言」に基づき記されたものである。だが、稲葉「証言」は信用できない。稲葉は、縁戚関係である牧口会長はともかくも、戸田会長には深い恨みを持っていた。
 戦中の弾圧でもろくも崩れてしまった創価教育学会の理事・稲葉伊之助は、稲葉荘の実父である。その稲葉伊之助らに対し、戸田会長は公に厳しく評価を下している。
 「投獄せられた者も、だんだんと退転してきた。いくじのない者どもである。勇なく、信が弱く、大聖人をご本仏と知らぬ悲しさである。
 名誉ある法難にあい、御仏のおめがねにかないながら、名誉ある位置を自覚しない者どもは退転したのである。
大幹部たる野島辰次、稲葉伊之助、寺坂陽三、有村勝次、木下鹿次をはじめ、21名のうち19名まで退転したのである」(戸田会長著『創価学会の歴史と確信』より引用)
 戸田会長は、さらに稲葉について、
 「狂人的警察官、不良の官吏、斎木という特高の巡査になぐられ、いじめられ、ついに死を覚悟して、取り調べのすきをうかがって2階から飛び降りたほど苦しんだ稲葉伊之助氏などは、4ヵ年の刑をおそれて畜生界のすがたであった」(同)
 とも書いている。
 稲葉伊之助は法難のただ中にありながら、それを自覚せず、恐怖に囚われ精神に異常を来したのであった。
 この『創価学会の歴史と確信』は、戸田会長が会長に就任した昭和26年5月3日のすぐ後、同年7月10日に書かれたものである。その稲葉伊之助に対する戸田会長の評価を、息子である稲葉荘は快く思わず、創価学会より離れ、砂町教会(のちの白蓮院)に依拠した。いうならば、稲葉荘は戦後の檀徒のはしりである。
 この砂町教会には、創価教育学会のかつての副理事長でありながら、獄に長く繋がれたのは牧口会長、戸田理事長(当時)のせいと恨み、創価学会を忌み嫌っていた野島辰次もいた。
 野島や稲葉は、昭和27年4月の狸祭り事件の前後、砂町教会内に竜門講を結成し創価学会の組織切り崩しをおこなった。竜門講は、台頭する創価学会に反感を持つ坊主や法華講勢力を背景に、戦後第一次の檀徒活動をおこなったのである。稲葉は、その竜門講の中核メンバーであった。
 これらの経緯から、稲葉「証言」は信憑性に欠けるのである。
 だが、『慧妙』は、この信憑性に欠ける稲葉「証言」を鵜呑みにしたうえで、先の引用文につづいて、「このことから、さらに立ち入って考えてみると、『通諜』が入っていたのは、おそらく牧口氏宅から押収された資料の中、と考えて間違いない」と結論する。
 以下その理由として、揣摩臆測を、『慧妙』は綿々と綴っているが、信用できない稲葉「証言」に基づき悪意による想像をめぐらしているだけなので、それに反論することはここで省く。
 あえて『慧妙』に注文するならば、そのような信憑性のない「証言」やそれに基づく憶測をしていないで、宗門が保持しているであろう歴史史料にあたるべきである。
 ことに、宗門が創価教育学会に神札を受けるよう申し付けたときの一件記録を公表してはどうかということである。
 昭和18年6月、日恭上人、日亨上人が立ち会い、ときの庶務部長・渡辺慈海が、牧口会長、戸田理事長ら創価学会幹部に神札甘受を命じた記録である。この記録は、後に予想された国家権力の弾圧から逃げる“証拠”として詳述され、かならず残されたはずである。
 信徒を官憲の前に放り出し、宗門のみが身の安全を計るための記録である。この会談記録に前後して、貴重な記録が数多く大石寺にあるだろう。そしてそれらは無残なほどに宗門の裏切りを証明しているに違いない。
 『慧妙』は、これら宗門に残された第1級の歴史史料を無視し、第1次檀徒活動の中核をなした者の信憑性の薄い話を我田引水に用いるべきではない。
 さて、この記事の冒頭、「このカラー写真が、逆に『通諜』が押収文書でないことを証明する」と書いた。
 そこで『慧妙』に聞きたい。「これも返還された押収資料の一部」と写真説明された『大善生活實證録 第五回總會報告』と題する創価教育学会発行の本の表紙には、「治安維持法違反事件 被疑者 稲葉伊之助 證第二號」との文字がクッキリと読める。『慧妙』が気張ってカラー印刷した効果は抜群である。ほかにも短冊様の小さな紙が貼られており、押証番号がかすかに読み取れる。
 だがどうだ、肝心な「通諜」にはそれらのものはない。すなわち「通諜」は、戦中、押収されたものではなかったのである。
 今回の『慧妙』同様、日顕宗時局協議会資料収集班一班が、「通諜」を本物と断定して、平成3年の3月と5月に、それぞれ「『神札問題』について」と「日蓮正宗の戦争責任」と題する文を宗内に配布した。
 このとき、創価学会側は、谷川佳樹男子部長名で日顕宛に抗議文を送り、文中、
 「すなわち、まず何よりも、『通諜』なる文書の筆跡は、戸田理事長の筆跡とは似ても似つかないほど全く異なるものであり、明らかに第3者の筆によるものであるということであります。しかも、私どもは単に戸田理事長の筆跡ではないというだけでなく、その筆跡が、戦後に入信し、戦前の創価教育学会とは何らの関係もない、ある特定の法華講員の筆跡であるとの確実な証拠を入手しております。
 このことは、『通諜』なる文書が戦後に偽造された謀略文書であるということを、見事に証明して余りある事実であります」
 と断じている。これは故なきことではない。このことを、日顕宗の者らは肝に銘ずるべきである。





*学会が神札を受けるように命じたという「通諜」は

―牧口、戸田両会長に傷をつけようとする者が偽造した――
『地涌』H3.3.2/第61号

 牧口、戸田両会長は、謗法容認の猊下の御指南を拒絶し、思想犯として入獄した後も、不退転の決意をもって信仰信念を貫いた。このことによって現在の大法弘通のときを招来することができた。
 この創価学会の初代、2代会長の偉業になんとしてでも傷をつけたいと思っている僧侶がいる。その彼らが、これが創価学会が神札を受けとるように学会員に指導していた証拠だと、現在うれしそうに披瀝しているのが「通諜」と題する書面のコピーである。
 それでは、「通諜」の全文を以下に紹介する。
 「創價教育學會各理事
  仝   各支部長殿
             理事長 戸田城外
    通 諜
時局下、決戰体制の秋、創價教育學會員には益々盡忠報國の念を強め、會員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戰ひ抜かんことを切望す。依つて各支部長は信心折伏について各會員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。
一、毎朝天拝(初座)に於いて御本山の御指示通り 皇祖天照大神皇宗神武天皇肇國以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し國運の隆昌武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと
一、學會の精神たる天皇中心主義の原理を會徳し、誤りなき指導をなすこと
一、感情及利害を伴へる折伏はなさざること
一、創價教育學會の指導は生活法學の指導たることを忘る可からざること
一、皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれとを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること   以上
  六月廿五日」

 相当に執念を持って作っている。マニア的な偏執狂の仕業と思われる。だがどう作ろうともニセ物はニセ物、ボロは出る。
 まず、書面の内容を述べる前に記しておくことがある。不思議なことに、誰一人として現物を見た者がいないのである。
 この書面が出まわったのは、宗門と創価学会とのあいだが少しギクシャクしはじめた、昭和52年の8月の終わりか9月の初め頃であった。それ以前には見た者もまったくおらず、もちろんのこと、その存在すらも語られたことはなかった。昭和52年に突然、それもコピーのみが世の中に出まわりはじめたのである。実に不可解なことである。
 さて、その「通諜」とやらのコピーを見ると、書面の四方がボロボロになっており、余白の部分も朽ちたように穴があちこちにあいているのがわかる。ところがそこまで朽ち果てているのに、なぜか文字だけはすべて判読できるのである。
 また、書面の真ん中には縦に汚れが走っている。まるで長い間2つに折られてほこり焼けしたかのようになっている。それなのに、四方の朽ち果てたような破れは左右対称でない。余白の破れも同様である。真ん中がほこり焼けするほど長い間折られていたのであれば、当然のことながら朽ち方も左右対称であるはずだ。外見からだけでも、いろいろと疑念のわいてくる書面である。
 それでは、書面の内容を吟味してみよう。
 まず「通諜」という表題だが、正しくは「通牒」と書く。戸田理事長(当時)は教員として奉職していたので、文部省からの「通牒」はいつも見ており、本人もかなり使い慣れている用語なので、この「通牒」の「牒」という字を「諜」と書き間違うことは考えられない
 決定的な間違いがある。2項目の「天皇中心主義」という言葉は、現在から考えれば、戦時下において使われていたもののように思うが、意外にも、その当時は使われていないのである。
 この言葉は、当時の右翼のなかでも、最も過激な数団体のみが使った、きわめて特殊な用語で、一般では使うことのないものであった。従って、教職に従事している者の多い創価教育学会の通達文書で使用することは考えられない。この語句を使ったことは偽造犯人にとって致命的な過ちである。
 さらに「天皇」という語句を文中にそのまま続けて書くのも、時代を考えれば非常識である。当時の公式文書でこのような書き方をすることはない。「天皇」という語句の前を1文字あけるか、改行して最上部に書いていなければならない。
 これらの諸点から、この文書が戦時下に書かれたものでないことは明白である。おそらくこの文書が作られたのは、書面のコピーが出まわりはじめた昭和52年当時であると判断するのが妥当ではないか。なぜならばニセ物を作った者は、必要性があるからデッチ上げたのだ。それを何年も放置するとは考えにくい。
 「通諜」を偽造したのは、いったい誰なのだろうか。そのヒントになる言葉が「通諜」の文中にある。
 「天拝」という言葉である。創価学会員にとって、戦時中に入信した者であっても「天拝」というのは聞き慣れない言葉である。「天拝(初座)」として後に初座と断り書きがしてあるが故に、初めて意味が通じるのである。
 「天拝」は、かつて日蓮正宗の僧侶においてよく使われた言葉である。この偽書を作りあげた犯人が、凝りすぎて馬脚をあらわしたのである。単に「初座」としておけばよいものを、わざわざ「天拝(初座)」と凝ったために、逆に偽造犯人がしぼられることになった。
 この「通諜」の偽造犯人は、日蓮正宗の僧侶かあるいはその周辺の者の可能性が大である。かつ旧字の使い方、文章の表現もボロを出しているとはいえ巧みであり、戦時中の状況を体験として知っている年齢の者であると推測される。
 また、創価学会あるいは戸田会長に相当な恨みを持っている。当時の文献もある程度、研究している。そして書面の紙の偽装をひっくるめて、作成には何日もかけたと思われる。犯人はマニア的な偏執狂である。
 人の妬みというものは実に恐ろしいものである。ということは、裏を返せば牧口、戸田両会長の獄中非転向がそれだけ素晴らしいということでもある。





*謗法容認の御指南を拒絶し、獄にあっても不屈であった

―その牧口、戸田両会長の戦があって広宣流布の時が開けた―
『地涌』H3.3.1/第60号

 最近、日蓮正宗の末寺の各所に、「嘘で固めた宗教法人創価学会」という、手書きの怪文書が出まわっている。それは次のように始まる。
 「誰も知らない創価学会の真実の歴史と体質を証拠書類を挙げて発表する。創価学会及び公明党の本質を知る上で参考になれば幸いである」
 この文章は、左右にわけてあり、「この左面の記事は学会出版物による嘘の記事」「この右面の記事は証拠品による真実の記事」と解説されている。
 まぎれもなく、創価学会は地涌の菩薩の団体である。これを策をもって破壊しようとする者はかならずや罰を受ける。また、その策も成就しない。
 僧侶といえども成仏が約束されているわけではない。瞋恚に身を焦がすばかりでなく、仏法の厳しさに思いをいたすべきである。
 1枚目の右面には、「昭和十八年六月本山より下山した直後の公式文書」として、「通諜」(ママ)という書面を紹介するとともに、この「通諜」の原本は「ワラ半紙ガリ版刷」であるとしている。
 この手書きの怪文書の作者は、「通諜」に書かれている「六月二十五日」との日付を、昭和18年のことであると一方的に断定している。なぜ「六月二十五日」が昭和18年だと判断するのかについては一切、触れられていない。
 昭和18年6月に、総本山において日恭上人の立ち会いのもと、当時の渡辺慈海庶務部長より、創価教育学会の牧口会長以下の幹部に対し、会員に神札を受けさせるよう申し渡しがなされたが、学会側はこの宗門の命令を、日蓮大聖人の仏法に違背するということで拒否した。
 怪文書の作者はこの歴史的事実と「通諜」を関連づけ、学会側は実は神札の受けとりを会員に指示していたと結論づけているのである。要するに戦時中、大謗法を犯していたのは宗門だけでなく、学会側も宗門の命令に従い一緒に謗法を犯していた。その証拠が「通諜」であるというのだ。
 またこの怪文書の作者は、怪文書の中に「戸田城外の退転」と、項目を立てて次のように述べている。
 「戸田城外は獄中生活に堪えかね、更に当時家族の身の上を心配して信心を退転し『転向の誓約書』を書いて提出し、昭和二十年七月三日中野刑務所を仮出所したのである」と、戸田会長が転向したため仮出所できたとしている。
 だが、「転向の誓約書」なるものがどのようなものなのか、いつ書いたものか、現在それがどこにあるのか、といった点には触れていない。まったく根拠は提示されていないのである。
 しかしそれにもかかわらず、怪文書の筆者は、戸田会長みずから記した『創価学会の歴史と確信』に論及、「上記した通諜及び戸田城外の退転仮出所の真実を知って、左記の記事(筆者注  『創価学会の歴史と確信』)を比較検討したならばどんなことになるだろう? 更にこの事実に基づいて『人間革命』池田大作著を読んでごらんなさい。全く嘘とデタラメでデッチ上げた『人間革命』『創価学会』の本質がよく解ることでしょう」とまで言っているのである。
 これ以降も文は続くが、戸田会長が「悶死の臨終」「死後の地獄の相」であったと悪態をえんえん述べている程度なので、一笑に付すのみで反論しない。
 ここでは「通諜」を問題とする。というのも「通諜」のコピーと称するものが、この怪文書とは別に、日蓮正宗内に出まわっているからだ。そのコピーに写し出された書面は虫食いだらけで、書面の四方が破れ、いかにも古い書類であるといった雰囲気が伝わってくる。
 これらの怪文書は、1つには昭和18年6月の神札問題、もう1つは昭和20年の獄中での転向問題を提起している。本来なら無視してしかるべき悪質なデッチ上げ怪文書なのだが、反創価学会意識をもっている僧侶のあいだで妙にウケているのである。
 日蓮正宗の僧侶のなかには、この「通諜」のコピーと称する書面を御講のときにふりかざし、「これは、学会でも神札を祀ることを認めていた証拠になる文書だ。戸田が幹部に指示を出していたのだ」と言っている者がいる。
 この発言には、日蓮正宗が戦時中、伊勢神宮への参拝を奨励し、神札を受け取るよう僧俗に周知徹底してきたことに対する反省など微塵もない。本紙に対し、戦時中の日蓮正宗の大謗法を指摘されたことを逆恨みして、なんとか創価学会にケチをつけたいという浅ましい心から、そのようなことを得意げに話しているものと思われる。
 そもそも、戦時下における日蓮正宗のありさまは、全山謗法の山と化しており、いくじなく生きのびることだけを考えていた。どこをどう叩いてみても、日蓮大聖人が竜ノ口に赴かれたときの大確信の片鱗すらもうかがえない。
 その戦時中の屈辱を恥じ、懺悔する気持ちがあればまだしも、今に至っても宗門は、一宗の独立を保つためには神札を容認することもやむを得なかったと述べて、はばからない。
 このようなことを破折するのに、御本仏日蓮大聖人のことを例に引くのも申し訳ないが、竜ノ口に引き立てられる大聖人が、自分の命が失われれば末法の弘通ができないということで、妥協をはかられたであろうか。決してそのようなことはない。竜ノ口を見習えば、国家神道を背景とした大政翼賛運動に際限なく妥協し、日蓮大聖人の御金言を切り文にして、戦争協力をするなどというバカなまねはどう考えてもできないはずである。
 大聖人の弟子であるならば、大聖人のなされたことに学ぶべきである。国家権力に屈服し謗法を犯しては、もはや大聖人の弟子ではない。
 戦時下、日蓮正宗が国家神道を背景とした軍部の圧力によって大謗法を余儀なくされているとき、創価教育学会が登場し、本宗の正法正義を死を賭して護り、現在の大法興隆のときを迎えることができたのだ。
 その創価学会出現の不思議は、仏法から見れば必然であった。この創価学会は仏意仏勅の団体であるという、戸田会長の獄中での開悟に基づく大確信がなければ、現在の世界広布の実体はない。
 あたら転向、退転の者が獄より出て、いくら正法正義の旗を掲げたところで、大白法とはいえ弘まることはない。その信仰の根本にかかわることを理解していない僧が日蓮正宗にいるのは、実に残念なことである。
 まず、「通諜」が偽書であることを論ずる前に、牧口、戸田両会長の獄中における不退の信仰があって、大法弘通の時を招来し得たことを確認しておきたい。この本質論こそが重大なのである。