創価学会破折
謗法路線


謗法年表

「広布第2章」と摂受謗法路線

公明党前代表 太田昭宏らが稲荷(いなり)神社の「狐の行列」に!/『慧妙』R2.1.16b

SGI、とうとうローマ法王の膝下に!/『慧妙』H25.6.1

信心しなくても「人間革命」できる!?/『慧妙』H24.8.1

学会流「破邪顕正」とは/『慧妙』H19.8.16

創価学会の「広告」考/『慧妙』H23.3.16

「イスラム社会も創価の師弟を賞讃」だって!?/『慧妙』H21.11.16

友好のためなら御輿担ぎも!?/『大白法』H20.7.16

ここまで来た!創価学会の謗法体質/『慧妙』H19.11.16

『朝日』にまで破折されてしまった創価学会・公明党/『朝日新聞』社説H18.9.19・<法蔵>H18.11.11

入りやすくなった創価/『慧妙』H18.11.1

大聖人がイエスを尊敬/『大白法』H17.9.1

"大聖人直結"とは逆の謗法同座/『慧妙』H15.10.1

「平和運動」「池田礼賛」で「折伏」!?/『聖教新聞』H15.1.1・『フォーラム21』H15.1.15

「イエスの正義」を公然と語る/『慧妙』H14.9.16

選挙対策で折伏・摂受の使い分け!?/『フォーラム21』H14.4.15



「広布第2章」と摂受謗法路線

正本堂のところからさらに敷衍した「広布第2章」という、池田大作の考えに基づいて、大聖人の仏法を我見をもって解釈し、外道義と共なる展開となっておるのであります。 今日、平和運動とか文化運動というようなことを言っておりますけれども、その根本に大聖人の仏法の魂が入っていなければ何もならないのであります。しかるに、池田大作の見解によるところの、その曲がった心が元になっておるが故に、彼等の在り方において、大聖人様の正法によるところの正しい世界平和の達成はありえないということを、私は信ずるものであります。(第67世日顕上人『大日蓮』H5.1)

●池田大作などという謗法者は少しぐらい、つまり会員が800万世帯になったからといって、「これでもうよい」というような考えを持ったのである。だから「アメリカの考え方も、あちらの考え方も、こちらの考え方も取り入れていこう」というようないい加減な形を取り、一番根本のところをきちんと考えていかなかったから、世間と迎合するという形も出てきたり、色々な面で様々な狂いが出てきておるのです。
 我々も、随方毘尼ということもあるから、世界に向かって広宣流布をしていく上においては、もちろんそれぞれの国の実状、政情等に即して妙法広布の道を進んでいくことが大切だけれども、しかし、あくまで「法華折伏 破権門理」という、一番基本の在り方をもって広宣流布していくということが大切なのです。
 その辺の基準を、自分の我儘によるところの勝手な考えでもって仏法を歪曲しているのが、はっきり言って池田らの創価学会なのです。我々は、あくまでその点がきちんとされておるが故に、たとえ数は少なくとも、どんな迫害があろうとも微動だにすることはないのである。(第67世日顕上人・H14.11.7富士学林研究科閉講式/『大日蓮』H14.12)

●戸田(城聖=2代会長)さんも亡くなり、大化城もでき大客殿もでき、昭和47年に正本堂が建立せられた。その直後から非常に学会の態度がおかしくなってきた。たいへん僧侶も馬鹿にするし、また教義上においても非常に変化が多いように思う。そのつど、私も種々な時にそれを指摘して、「そういうことはいけない、日蓮正宗の教義と違う」と、指摘してきたつもりでございます。(第66世日達上人・第1回時事懇談会・昭和53年2月9日/『慧妙』H14.5.16)

◆近年の宗門との問題が昭和47年、正本堂建立以降の、学会の広布第2章の進み方の基調と、そのうえで、私が展開した昭和52年の一連の指導に、発端の因があったことは事実であります(池田大作『聖教新聞』S55.4.2/『大白法』H23.11.16)


【折伏放棄】<「広布の団体」>参照)
<「7つの鐘」構想と「広布第2章」>
・戸田会長逝去直後の総会で、当時参謀室長だった池田大作は「広宣流布をめざして」という題名のもと、過去から未来にかけての創価学会の道筋を、7年ごと、7つの段階に分けて意義付ける「7つの鐘」構想をぶちあげた。牧口、戸田時代の歴史を第1から第4の鐘とした上で、昭和40年までを第5の鐘、同47年までを第6の鐘の時代とし、昭和54年に7つの鐘を打ち鳴らし、広宣流布を実現すると予言した。

・昭和54年までに広宣流布を達成すると予言していた池田大作としては、何としても正本堂=御遺命の戒壇、という意義づけがしたかったのである。

◆もうこれまでのような勢力拡大を目指すのではなく、社会に浸透し、認知されて、時代、社会に仏法を展開する大文化運動が"広宣流布"である。(池田大作・昭和45年の謝罪講演/『慧妙』H15.2.1)
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 池田大作は、この講演において、冒頭、自らの会長就任以来の10年間を"創業・建設の時代"と意義付け、(中略)次の10年を、"完成と総仕上げの時代"であると意義付け(『慧妙』H15.2.1)
 池田創価学会は、かつて、自らが引き起こした言論出版妨害事件後、批判を恐れて世間に迎合しようと、「折伏」を「仏法対話」に、「邪宗」を「他宗」に言い換えて、事実上、折伏を放棄してきた。(『慧妙』H16.2.16)

日蓮正宗は第1章をここに終わり、本日より第2章に入ったわけであります。あくまでも、民衆のために-。(正本堂完工式での池田発言『聖教新聞』S47.10.2)

一昨年(昭和47年)の秋くらいから、去年を通じ今年(昭和49年)の春にかけて、学会の宗門に対する態度と申しますか、いろいろ僧侶に対して批判的であり、また、教義上においても、我々から見て逸脱していることが多々あるように思われます。 それは世間の友好のため、広宣流布のため、という目標によってそうしておると聞きますけれども、そのままにしておいたんでは、それは大問題になりはしないか。終いにおいて取り返しのつかないことになりはしないか。(第66世日達上人 昭和49年7月22日)
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このお言葉から拝せられるように、正本堂建立以降に池田が推し進めた路線は、創価学会を主とし日蓮正宗を従とする本末転倒の関係の構築であり、さらに、日蓮正宗を排除した独立路線の確立であった。それが、池田が唱えた「第2章」の意味だったのである。

かねてより自身の手によって広宣流布を達成しようと目論んでいた池田大作は、正本堂建立をもって広布を達成したことにしたかった。正本堂は、池田大作が広布を達成したという標識であり、池田本仏論(大聖人が達成できなかった本門事の戒壇を建立し、広宣流布を達成した偉大な指導者)の証でもあった。そして、正本堂が完成されて以降は、折伏ではなく摂受を表にした大文化運動が展開される。


<「四箇の格言」を放棄>
SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して(中略)対話し、その解決のために協力していく(SGI第20回総会・H7.10.17※<SOKAnet>WSによれば「H7.11.13」/『大白法』H15.10.16)

◆創価学会の機関誌『大白蓮華』は3月号で、池田大作名誉会長と斎藤克司教学部長の対談を掲載し、「四箇格言」の読み直しを提唱している。 今回の対談では、各宗の態度が日蓮の時代と違うことを強調する。 池田氏は「当時の念仏宗は権力と結託し、独善的で排他的だった」としながらも、浄土教を「どんな疲れ病む衆生をも仏界の生命力で包み、絶対の安心感を与える」とする。「自力のみによる悟りの獲得と安住を説く」という「天魔」の禅は「自分の中に自分を変革する力のあることを信じ、それを実感していける」とされた。「呪術による現世利益を説く護国宗教」の「亡国真言」も「現実の変革に勇気をもって邁進していける」存在となった。(『朝日新聞』夕刊H14.8.1・2版)

日蓮か激しく他宗派を非難した背景には、新興教団を当時の有力教団が迫害した歴史的背景もある。斎藤氏は経緯をこう説明した。「創価学会にも、似たような事情から他宗派を反撃した過去がある。しかし、今後は攻撃されないかぎりは協調していきたい。そのために組織内の意識改革を狙った試論です。時代の変化を無視して今の世に「四箇格言」をそのままにしておくことは、かえってこちらが独善的と批判されかねませんから(『朝日新聞』夕刊H14.8.1・2版)
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大聖人の時代にも「独善的」という批判はあった。それでも大聖人は敢えて「四箇の格言」をもって折伏をされたのである。「攻撃されないかぎりは協調」これこそ、池田学会の対外的行動規範である。学会(就中、池田大作)を攻撃するかどうかが正邪の分岐点であり、邪悪=学会(池田)を批判する者は徹底的に瞋恚の命をもって攻撃するのである!


<他宗に与同>
平成5年12月16日、創価学会と立正佼成会の最高幹部が会談した。
 両者の初会合は都内のホテル・ニューオータニで行なわれ、学会側は副会長の西口浩ら2名、佼成会側は布施浩志理事ら2名が、それぞれトップの了承のもとに出席。
 学会側は、「これまで他の宗教団体と接触してこなかったのは、日蓮正宗の指導方針があったため。日蓮正宗から独立した以上、他宗教と交流を深めていくのは当然」として、佼成会のみならず、他の宗教団体とも共存共栄を図(はか)る方針を明らかにしたことが、『毎日新聞』(平成6年2月27日付)によって報じられた。(『慧妙』H22.5.1)
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さらには佼成会の開祖・庭野日敬の葬儀に学会・公明党の各代表が参列したことも「忘れた」とは言わせない。(『慧妙』H19.6.16)

平成7年11月17日、SGIは、第20回総会を開き、「SGI憲章」の制定を発表した。その第7項には、「SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく」(『大白蓮華』H7.1-50頁)との条目を制定。(『慧妙』H19.6.16)
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この憲章に沿うようにして、創価学会関西広報局文化部長の秋庭洋が、天台宗や高野山真言宗、浄土真宗本願寺派、日蓮宗、天理教や立正佼成会、PL教団、円応教、金光教泉尾教会、新宗連などの諸教団等を訪ね歩き、"邪宗・邪教と排撃(はいげき)してきたのは、日蓮正宗の教義に拘束されていたから。たいへん申し訳なかった"などと詫(わ)び、"今後は、こうした姿勢はとらないので、誼(よしみ)を通じていきたい"と懇願(こんがん)して回ったことが、週刊誌等によって報じられた。(『慧妙』H22.5.1)

◆創価学会広報室長であった西口副会長は、平成8年6月13日付『産経新聞』によれば、他宗教に対し、今まで強折をしてきたことなどについて謝罪し、また、八尋副会長は、「日蓮正宗の手かせ足かせがなくなり、柔軟な対応が可能になった。祭りや地域行事もおつきあいする。宗教が宗教という理由で争ってはならない」(同『産経新聞』)と、謗法厳誡の精神を無視した暴言を吐(は)いている。(『慧妙』H19.6.16)

平成9年10月20日中外日報社などが主催する「第7回日中仏教学術会議」に伴う「懇親の夕べ」に、創価学会副会長の山崎尚見と西口良三、創価大学教授の菅野博史らが参加し、諸々の邪宗諸師と祝杯をあげて歓談した。そして遊戯雑談(ゆげぞうだん)にうつつを抜かす、その腑(ふ)抜けた笑顔が、『中外日報』(11月13日付)紙上に紹介されていた(『慧妙』H13.9.1)
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各種宗教団体に対して〝創価学会は「謗法厳誡」の教えを捨て去りました〟とアピールすることで、創価学会の〝友好活動〟すなわち選挙運動を、行ないやすくする意図があったと思われる。

『聖教』(H15.6.19)が、今度はイスラム教とも「仲良し」になったことを大々的に報じている。1面には「仏教とイスラムの対話」の大見出しが踊り、「寛容」「多様性の尊重」などが「両宗教」の「共通点」であるから、両宗教が「協調すべき」なのだという。(『慧妙』H15.7.1編集)
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海外は摂受、という側面もあるが、基本は末法=折伏である。末法の衆生は例外なく"本未有善"であり過去に善根がない、だから三大秘法の下種仏法でなければ成仏できないのである。この点は、日本も海外もない。そうであれば、仏法上の正邪の峻別なくして布教はありえないし、真の平和も実現できないのである。

◆(平成20年)4月21日に駐日ローマ法王庁大使館で「ナショナルデー」の祝賀会というものが行われている。『聖教新聞』によれば、
 「これには原田会長、学会本部国際室の大内担当部長が出席」(『聖教新聞』H20.4.22)
などと報じている。また以前、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の死去に際しては、大作がローマ法王庁に弔電を送った。(『大白法』H20.7.16)
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 「大切なのは『信心』」(『聖教新聞』H20.4.29)と言う原田(会長)よ。わざわざカトリックのローマ法王庁ヘアプローチするところの意味を「信心」で会員に説明してみよ。
 創価学会の目論見(もくろみ)は、もはや世界の支配欲に駆(か)られた大作の懐柔策(かいじゅうさく)に過ぎない。「他の誤り」を破折することもなく、巧言令色(こうげんれいしょく)の甘言をもって世間を誑(たぶら)かす学会は、まさしく国賊である。こんな謗法まみれの団体に「信心」などあるはずがない。(『大白法』H20.7.16)

 日蓮正宗からの破門をこれ幸いに、謗法の他宗他門を破折するどころか、自ら他宗他門にすり寄って誼をつなごうとし、破折を忘れて謗法の者との遊戯雑談に現(うつつ)を抜かす―これが今の創価学会の実態なのである。
 こうしたことが、日興上人の『遺誡置文』の御制戒に抵触することはもちろん、日有上人の『化儀抄』においても認められていない、謗法容認であることは明々白々である。(『慧妙』H22.5.1)

総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ、さだにも候はば釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし、其れさへ尚人人の御心中は量りがたし。(『四菩薩造立抄』全集989頁)

●誰人にても坐せ諸経は無得道・堕地獄の根源・法華経独り成仏の法なりと音も惜まずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ(『如説修行抄』全集504頁)

●事の即身成仏の法花宗を建立の時は、信謗を堅く分ちて身口意の三業に少しも他宗の法に同すべからず云云、身業が謗法に同ずる姿は法花宗の僧は必ず十徳の上に五帖のけさをかくべきなり、是れ即誹謗法花の人に軈(やが)て法花宗と見へて結縁せしめんためなり、若し又十徳計にて真俗の差異なき時は身業が謗法に同ずるにて有るべきなり、念仏無間、禅天魔、真言亡国等の折伏を少しも油断すれば口業が謗法に同ずる姿なり、彼ノ折伏を心中に油断すれば心業が謗法に同ずるなり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻70頁)



<「他事」にうつつを抜かす>
◆創価学会会長秋谷栄之助らは、昨年(※2001年)12月の本部幹部会で「02年は対話拡大の年」との活動方針を打ち出した。学会幹部は「この2年間、国政選挙が続き、応援に力を取られてきた。本来の宗教活動に立ち返りたい」と説明。(『佐賀新聞』H14.2.25)
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折伏をおろそかにして、組織をあげて選挙活動にうつつをぬかす。あまっさえ集票のために、謗法与同の「友好活動」を推進する。池田学会は「御書根本」といいながら、その解釈は我意我見による我田引水の謗法義であり、本来の御書の精神に反しています。

おめでとう、よくやった。勝って勝って。本当にありがとう。見事で、嬉しいね。勝つということは楽しい。嬉しいもんです。勝つための仏法なんです。信心なんです。(略)広宣流布の1000万の陣列を達成することは、牧口先生、戸田先生の悲願であった。思えば、昭和31年、学会が初めて参議院の選挙の支援に取り組んだ。全国区の得票は90万。90万台。で、今回の得票は、いまだかつてない873万票。凄いことだ。(略)みんな驚いてます。この数にこれからの時代を担っていく未来部、そして、未成年の若き後継者を集めれば、優にもう1000万。従って、1000万の目標は実質的には達成されている(池田大作H15.11.13本部幹部会/『週刊新潮』H15.12.11)
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選挙での得票数が873万票であったことから、「未成年の若き後継者を集めれば、優にもう1000万」と得意の"水増し"をして「広宣流布の1000万の陣列を」「実質的には達成」と結論付けている。要するに選挙の票=折伏数、という考えであることが分かる。すなわち、池田学会にとって選挙の戦いは即折伏行なのである。

●未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。(『日興遺誡置文』全集1618)

●今日蓮は去ぬる建長五年〔癸丑〕四月二十八日より今年弘安三年〔太歳庚辰〕十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり(『諌暁八幡抄』全集585頁)
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謗法与同の友好活動は「他事」にも及ばない。

◆文化活動というものは、広宣流布の大構想からみれば、それは子供のオモチャのようなものである。(中略)それが広宣流布のための本格的な闘争であると思ったら大まちがいです。そう思われたら困る。(中略)政治のための政治ではない。だから自由党で立ちたかったら自由党、社会党ならば社会党、共産党で立ちたかったら共産党で立てばいい。その人の主義、政党には、私は干渉しない。胸の奥底に広宣流布をしまっておけば、何党でもさしつかえない。(『戸田城聖全集』第4巻275頁)
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「文化活動」とは主に政治活動のことである。「その人の主義、政党には、私は干渉しない」これは、学会組織の意向によって立候補や引退が決められたり、政党の分割統合(「新党平和」や「公明」、「新進党」)も組織の意のままという池田学会とは大違いではないか。また、公明党の得票数を即広宣流布の達成度と考える池田とは大違いである。




【謗法容認】
<謗法払い>
1◆「謗法払い」については、あくまで原則どおり、本人処分であることには変わりはありませんが、御本尊を安置するための絶対的前提条件ではありません。謗法払いしてからでないと御本尊を安置してはいけないという考え方を変え、もっと幅広く、まず御本尊を安置し、拝み始める。そのうえで信心が深まって、古い対象物は置きたくなくなる。そうなってから、自発的に本人がそれを取り除くようにしてもかまいません。(中略)したがって、神棚や仏具等を取り除く必要はありません秋谷栄之助『聖教新聞』H9.2.11
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 これは御本尊を神札や阿弥陀仏などと一緒に祀ってもよいということで、この信仰のありかたは、天台大師や伝教大師が説かれた迹門熟脱の法華経の修行すなわち摂受です。
 末法の本門下種の仏法は折伏であることは、御書のどこを拝読しても明々白々のことであり、かつては創価学会が実践してきたことでもあります。
 創価学会が日蓮大聖人様の教えに真っ向から違背し、成仏できないことは明らかです。それでも「学会は日蓮大聖人の仏法を実践している」とうそぶいて、「日顕宗を折伏する」といっているのです。精神分裂症か、頭破作七分(ずはさしちぶ)か、一闡提(いっせんだい)か。あなたはどう思われますか。
 「謗法払いは必要ない」ということは、折伏を放棄して摂受になることであり、折伏を放棄した創価学会は折伏をする論拠も資格もないのです。(宗門作成パンフH13.5.3)
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「古い対象物」とは、邪宗の本尊などです。これを所持したまま曼陀羅を拝んでもよいというのです!こんな指導をする者に、信教の自由のない封建体制下の特殊の状況下における一時的な仏像安置黙認(第17世日精上人時代に、一部末寺に限って行われたとされる一時的化儀。安置されたのは邪宗の仏像ではなく、新しく作られたものであり、御法主上人によって開眼されたものであろう。また、当然、境智冥合の対境としてではなく曼荼羅本尊の両脇に安置されたものである。)を、謗法呼ばわりする資格はありません。

帰命の句の有る懸地をばかくべからず二頭になる故なり、人丸の影、或は勝鬼大臣の影をばかくべきなり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻66頁)
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邪宗の本尊でなくとも「南無」の字の入った掛け軸でさえ謗法となるのです。

●南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心・人の中の神のごとし、此れにものを・ならぶれば(中略)わざはひのみなもとなり(『上野殿御返事』全集1546頁)



<友好活動>
地域の祭りといっても、現代社会においては、宗教的な意味あいは薄く、文化的、社会習俗であり、地域の親睦(しんぼく)という側面が強くなっています。したがって、それに参加することが、必ずしも信仰としての意味をもつとは限りません。ゆえに、それが直(ただ)ちに謗法になることはありません。(中略)信仰として参加するのでなければ、社会的、文化的行為であり、宗教的行為ではありません。したがって少しも謗法にはあたりません(秋谷会長『聖教新聞』H7.夏/『慧妙』H13.9.1)
私どもの謗法厳誡の精神はいささかも変わりません。しかし、地域友好、地域貢献のために、祭りに参加することで、自分を責めたり、同志を非難することは行き過ぎです。もっと自由で、もっと大らかなのが大聖人の仏法である、と心得ていきたいと思うものであります(秋谷会長『聖教新聞』H7.8.7/『慧妙』H13.9.1)
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謗法厳誡を貫くより、地域との友好を重視せよ、つまり〝謗法行為に目くじらを立てるより「F」を増やせ〟と指導したのである。

平成8年10月20日の衆院選に新進党から立候補した黒柳明(元公明党参議院議員・元創価学会総務)は、同年8月18日に行なわれた東京・江東区の深川祭り(深川不動尊の祭り。江東区は黒柳が立候補した選挙区)で、当然のように御輿(みこし)を担(かつ)いだ
 その様子を放映したテレビ局のレポーターから「御輿を頻繁(ひんぱん)に担ぐのは、衆院選が小選挙区制になった影響なのか」と聞かれた黒柳は、「〝お祭り重要、のべつまくなし〟というのは、小選挙区の影響ですよ。これはもう、否定できません」と、平然と答えたのであった(しかし結果は、創価学会が有数の強さを誇る選挙区から立候補し、しかも万全の体制で臨〈のぞ〉んだはずにも拘〈かか〉わらず、落選)。(『慧妙』H13.9.1)
[画像]:平成8年8月、深川不動尊の祭りで御輿を担ぐ黒柳明の姿が全国に流れた(『慧妙』H19.12.1)

大切なのは「信心」です。「心こそ大切なれ」です。大聖人の仏法は「形式」ではありません。(中略)町会や自治会の一員として、仮に宗教的色彩のある祭りなどに参加したりしても、信じて拝むのでなければ、謗法にはなりません。御輿を担がざるをえない場面があったとしても、地域役員として宗教色の濃い儀式等に立ち会わざるをえない場面があったとしても、それは地域の文化行事への参加と同次元のことです。それをもって、ただちに謗法とは言えません(秋谷栄之助『聖教新聞』H11.9.9/『慧妙』H13.9.1)
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「信じて拝むのでなければ、謗法にはなりません」これでは、外見上何をやっても謗法になりません。

祭りにおいて、御輿を担がざるをえない場面があったとしても、地域役員として宗教色の濃い儀式等に立ち会わざるを得ない場面があったとしても、それは地域の文化行事への参加と同次元のことです。”一種の文化祭”と名付けた学者もいた。それをもって、ただちに謗法とは言えません。(同上)
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「御輿」の中には謗法の神体が入っており、これを担ぐことが謗法であることはいうまでもありません。御輿の神体は、本来、それを担ぐことによって、信仰心を表明するものだからです。つまり、御守りを所持すること、神社の神体に手を合わせることと同じ謗法行為です。

●他宗の神社に参詣し一礼をもなし散供をも参らする時は、謗法の人の勧請に同ずるが故に謗法の人なり、就中正直の頭を栖と思し召さん垂迹の謗法の人の勧請の所には垂迹有るべからず、還つて諸神の本意に背くべきなり云云、但し見物遊山なんどには神社へ参せん事禁ずべからず、誠に信を取らば謗法の人に与同する失あり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻71頁)
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拝まなくとも「一礼」をしただけでも謗法なのです。わざわざ神体を祀っている神輿を担ぐことが許されるはずがない。


平成12年6月25日に行なわれた衆院選では、東京・大田区の公明党小選挙区候補者として出馬した遠藤乙彦が、選挙期間中、自民その他の保守系支持層の歓心を買おうとしてか、積極的に地域の神事に参加。それは、「余裕のはずの公明党・遠藤候補も、最後は神頼みとなった」とテレビ放映されるほどのものであった(当然のことながら、選挙の結果は大惨敗)。(『慧妙』H13.9.1)

◆学会は近年、会員が地域の神社やクリスマスの行事に参加することを容認し「若者の学会アレルギーがなくなってきた」と手ごたえを感じている。それだけに「政局や選挙はない方が望ましい」(幹部)との「願望」を抱いている。(『佐賀新聞』H14.2.25)

●法楽祈祷なんどの連歌には寄り合はず、其故は法号を唱へ三礼を天神になす故に・信が二頭になる故に・我家の即身成仏の信とはならざるなり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻66頁)
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趣味の「連歌」の寄り合いでさえ、神に法楽を捧げるため、あるいは祈祷するためといった、宗教的儀式を目的とした会であれば、参加自体が謗法となるのです。

●宗門の道俗平素の嗜好に依りて・他宗の者と連歌の席に列するは差支なしといへども、其席が法楽祈祷追善等の宗教的儀式を以つて主礼とする処には参るべからず、当時の連歌の儀式には天神(菅亟相)を三礼する故に、仮にも此を信する形ちなれば・信心二頭となりて・宗旨の一心欲見仏の意に背く、此を以つて此に寄り合ふことを禁ぜられたり、現代の歌会には此等の旧習なかるべしといへども・其会の底意宗教にあるものには・其会合を避くべきなり。(第59世日亨上人『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻178頁)
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歌会にかぎらず、集まりの真の目的が宗教にあるものならば、その会合への参加は避けるべきだ、と示されている。すなわち、謗法かどうかは、当人が信じているかどうかだけではなく、対象となる会や行事の趣旨・性格が深く関係するのである。それは、邪宗の本尊や守り所持自体が謗法となるのと同じ道理である。



<謗施>
◆大分県日田市天瀬町湯山にある「九州池田記念墓地公園」に隣接する金比羅神社の参道(石段)整備に、なんと150万円もの寄付をしていたことが発覚した。(『慧妙』H19.11.16

地域行事への寄付も同様です。(略)社寺へ直接出すものでなければ、問題ありません(理事長・正木正明『聖教新聞』H24.8.9)
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これはかつて創価学会がしたように、神社の参道整備に寄付しても謗法ではない、というのと同じ趣旨を述べているようです。要するに、「謗法厳誡」は口先だけで、恥じ入る様子など微塵(みじん)も見せず、その時々の都合次第(選挙対策等)で謗法を容認していく姿勢を鮮明にしているのです。(『慧妙』H24.9.1)


<化儀破壊>
このほど、創価学会の「勤行」および「御祈念文」として、「方便品・自我偈の読誦と唱題」による勤行と御祈念文を制定いたしました。 池田第3代会長の就任以釆、世界広宣流布が大きく進展し、現在、世界190ヵ国・地域に、SGIの同志が活躍しております。 この本格的な世界広宣流布の時代の到来という「時」のうえから、方便品・自我偈による勤行について、正式な制定を要望する声が強く寄せられてきました。 そこで、このほど、師範会議、総務会で慎重(しんちょう)に審議したうえ、「方便品・自我偈の読誦と唱題」による勤行を創価学会の正式な勤行として制定することになりました。 また、従来の御観念文についても検討し、新たに御祈念文として、「御本尊への報恩感謝」「広宣流布祈念」「諸願祈念ならびに回向」の3つの部分からなる世界広宣流布の時代にふさわしい内容で制定をいたしました。(秋谷栄之助・第41回本部幹部会・H16.9.9/『慧妙』H16.9.16)
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完全な異流儀・池田教と化した創価学会が、いまだに宗門の化儀を盗み取って猿マネの宗教儀式を行なっていることは、誰が考えても、じつに好ましくないことである。が、ここへきて学会は、五座三座の勤行を事実上、廃止することを、ようやく公式に表明したようだ(記事参照)

★宗門では、四悉檀の上から化儀について一時的例外的に、本来の姿からの逸脱を容認する場合もありました。しかし、それは、国家の宗教政策や交通事情、宗門草創期など、弟子旦那の意思とは無関係の不可効力的な特殊な状況下においてです。しかも、化儀改変を決定されるのは血脈付法の御法主上人に限られることは、唯授一人の血脈を根本とする師弟相対の信心の上から当然のことです。信教の自由が認められた時代においてこそ、化儀は本来の姿のままに実践すべきはずです。それを、正当な理由もなく勝手に化儀を改変解釈しておきながら、一方で日精上人や日恭上人などを謗法だと詈る学会、これこそ御都合主義の最たるものであり、頭破作七分の現証としかいいようがありません。





友好のためなら御輿担ぎも!?

―創価学会―
(『大白法』H20.7.16)

【「謗法とはいえない」?】
創価学会会長の原田稔は、『聖教新聞』のなかで「地域友好と『祭り』について」と題し、
宗教的色彩のある祭りなどの行事に参加したりしても、信じて拝むのでなければ謗法にはなりません(中略)祭りで、みこしを担がざるを得ない場面があったとしても(中略)それは地域の文化行事への参加と同次元のことで、直ちに謗法とはいえない(創価学会会長・原田稔『聖教新聞』H20.4.29)
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と述べ、他宗本尊の礼拝や御輿担ぎを容認している。そして、
大切なのは「信心」です(同上)
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と発言するに至っては、まさに噴飯ものである。日蓮大聖人の仏法の本心を失った支離滅裂な姿と言うほかない。


【御輿担ぎの狙い】
 かつては戸田城聖氏を先頭に徹底した邪宗攻撃を果たした創価学会。現在の邪宗化した指導の目的を原田は、
「地域の繁栄のため」「友好拡大のため」であり「広宣流布のため」(創価学会会長・原田稔『聖教新聞』H20.4.29)
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などと美辞麗句を並べ立てているが、欺瞞(ぎまん)この上もない。
 この謗法の定義改悪は、組織への勧誘の緩和と新入会者や若年層に対する組織離れの防御策でもあろうが、最大の狙いは、現今囁(ささや)かれている解散総選挙を見据え、「友好拡大」と称して世間行事に深く関与し、公明票獲得につなげるための策略であることは明々白々だ。
 いずれにしても、創価学会は大聖人の仏法とは異質の、独自の邪教義を構築しつつある。たとえ祭りに出ようが、御輿を担ごうが"信心さえあればいい"という暴論は、謗法厳誡の精神を踏みにじるものであり、また戸田氏の指導である、
●邪宗は、断じて許すことはできない。「あれもよいでしょう。これもよいでしょう」などとは、学会はいってはいない(『戸田城聖全集』第4巻216頁)
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などの言葉も、平気で足蹴(あしげ)にするものである。


【アプローチを説明せよ】
 去る4月21日に駐日ローマ法王庁大使館で「ナショナルデー」の祝賀会というものが行われている。『聖教新聞』によれば、
 「これには原田会長、学会本部国際室の大内担当部長が出席」(4月22日付同紙)
などと報じている。また以前、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の死去に際しては、大作がローマ法王庁に弔電を送った。
 「大切なのは『信心』」と言う原田よ。わざわざカトリックのローマ法王庁ヘアプローチするところの意味を「信心」で会員に説明してみよ。
 創価学会の目論見(もくろみ)は、もはや世界の支配欲に駆(か)られた大作の懐柔策(かいじゅうさく)に過ぎない。「他の誤り」を破折することもなく、巧言令色(こうげんれいしょく)の甘言をもって世間を誑(たぶら)かす学会は、まさしく国賊である。こんな謗法まみれの団体に「信心」などあるはずがない。


【堕落と失望の宗教】
 最近、ある日蓮宗の僧侶は、
 「念仏の方々とも協力していかなければ(中略)世界平和と人類の幸せは来ない」
 「現代では、折伏第一主義や四箇格言は(中略)足枷(あしかせ)になると思います。他宗の協力なくして……」(『現代仏教』H20.4 64頁)
と言い、もはや自宗の力では世界平和も人類の幸せも実現できないと吐露(とろ)している。
 所詮、それらの理想は、邪宗邪教が成しうるものではない。
 『立正安国論』に、
 「早く天下の静謐(せいひつ)を思はゞ須(すべから)く国中の謗法を断つべし」(御書247頁)
とあり、折伏による謗法断絶こそ、安国の必須条件である。他宗がいかに野合を図ろうとも、我が日蓮正宗は独り決然と広宣流布に向かい、謗法破折、折伏行に邁進(まいしん)するのみである。
 本年後半、"謗法は断じて許さず"の気概(きがい)で折伏行に汗を流そうではないか。





ここまで来た!創価学会の謗法体質

―見よ「一金百五拾萬円也 創価学会」―
―信心を失った証拠!平気で大謗法犯す―

(『慧妙』H19.11.16)

 創価学会が神社の参道整備に多額の寄付をした!?
 今、「創価学会九州池田記念墓地公園」のある大分県では、この問題が大きな話題となっている。
 そこで本紙は、この問題の真相に迫るべく取材を開始した――。


【神社の参道整備に寄附とは!?】
―学会の根回し?口つぐむ周辺住民―
 創価学会の大謗法の実態が、また1つ明らかになった。大分県日田市天瀬町湯山にある「九州池田記念墓地公園」に隣接する金比羅神社の参道(石段=[画像])整備に、なんと150万円もの寄付をしていたことが発覚したのである。
 竣工記念の銘板([画像])によれば、この参道整備は昨年5月に地元の自治会が音頭を取って行なわれたもので、総事業費は294万円。すなわち、創価学会はその半分以上を負担していたのである。
 この事実が表面化したのは、九州創価学会の在り方を内部から糾弾している学会員のグループが、ホームページ上に銘板の写真を掲載したことから。
 同ホームページによれば、九州創価学会はこの事実について、会員に対し、「墓苑隣接の集落に道がなかったので、その生活道を寄付してあげたもの」などと説明しているようだ。
 だが、納得のいかない学会員が、周辺の住民に「学会は神社の周りの道を寄付したといっていますが本当ですか?」と確認したところ、「学会がくれたんは階段(神社の参道の石段)じゃ」と笑顔で答えたという。
 こうした経緯がインターネット上に公開されて、はじめて衆目が集まったのだが、じつは、問題の写真がアップされる直前、大分市内の正宗寺院に、学会による金比羅神社への寄付を暴いた文書が投げ込まれていた。
 その文書は「仏法を正す婦人の会」という名で、問題の神社の参道の写真を添え、謗法与同の打破を訴えて賛同の署名を募る、という体裁を採っていた。さらに、それには、現場への案内図と、創価学会九州メモリアルパーク(墓地公園)に神社参道造営への寄付を要請した平成17年4月27日付の「町づくり活動へのご支援お願いについて」と題する文書のコピー([画像])が添えられていたのである。
 その要望書には、次のように書かれていた。

 拝啓 葉桜の候 時下ますますご□□(※コピーの汚れにより判読不能)のこととお慶び申し上げます。
 九州メモリアルパークの竣工を間近に、何かとご繁忙のことと拝察申し上げます。
 さて、私ども■■■■(※自治会名=塗り潰し)では、ただ今歴史を踏まえた町づくりに取り組んでいます。その1つに明治20年代から■■■■(※塗り潰し)の山頂に祭られている金比羅様に参道を建設する計画です。
 高低差30メートルの斜面に300段の階段を設けるもので建設費は約200万円を要します。計画はしたものの、私どもの小さな集落では建設費は誠に住民の負担となり、その捻出に苦心しております。
 つきましては、このたびの九州メモリアルパーク建設をご縁に、私ども近隣集落の町づくり活動にご支援を賜りたく、誠に勝手なお願いでございますが、私どもの実情をご□□(※コピーの汚れにより判読不能)いただきまして、ご支援賜りますよう切にお願い申し上げます。
 下記に建設見積書を添付させていただきます。(※以下略)

 この要望書が本物であれば、創価学会は、その金が神社の参道建設に使われることを承知で寄付金を出したことになる。これはまさに「謗施(謗法への布施)」ではないか。
 そこで本紙スタッフは、銘板に名を刻まれた、学会以外の何名かに電話を入れ、真相を確認してみた。
 ところが、すでに学会の手が回ったものか、「神社の参道の件について」と切り出すと、皆一様に口ごもり、話に応じなくなってしまったのである。
 ともあれ、創価学会が巨大墓地公園の地元自治会に対して、金比羅神社の参道整備のために150万円という大金を拠出したのは、紛れもない事実のようだ。


【巨額の利を生む学会の〝墓地公園商法〟】
―周辺住民懐柔のためなら大謗法も平気!?―
 創価学会はなぜ、このような多額の寄付を行なったのか――。それは、巨大墓地公園をスムーズに運営するためであろう。なぜなら、巨大墓地公園は、創価学会にとって莫大な〝利〟を生み出す存在だから、神社の参道だろうが何だろうが、地元対策として寄付をするのは当然の事なのだ。
 例えば、広島県山県郡北広島町(旧大朝町)にある「中国平和記念墓地公園」。
 3万5千基の墓石を擁(よう)する、この巨大墓地公園の総工費は、約165億円。
 一方、同墓地公園の、開園当時の募集要項に目をやれば、利用者が支払う1基あたりの「納付金」は98万円(内訳は、墓地永代使用料が82万円、墓石およびカロートの永代使用料が16万円)で、3万5千基分を合計すると、その総額は、何と343億円!!
 〝完売〟すれば、差し引き178億円もの大金が、創価学会の懐(ふところ)に転がり込むのである。
 この〝利益〟を1基あたりに換算すると、50万円強となる。となれば、4万2千基の墓石を擁する「九州池田記念墓地公園」の場合、およそ210億円もの〝収入〟が期待できるのである。
 されば、創価学会が巨大墓地公園の建設に躍起(やっき)となるのは当然のことだといえよう。
 さらに、「九州池田記念墓地公園」を紹介する創価学会のホームページには「申込予約受付中」とある。これを文字どおりに受け取ると、創価学会には、今後も「九州池田記念墓地公園」を拡張していく計画があるのだろう。
 となれば、何が何でも地元住民との関係を良好に保ち続けよう、と考えるのは当然であり、住民の意見や要望には必死に応えようとするに違いない。たとえ、それが、以前は〝大謗法〟と考えてきた邪教への供養であったとしても。
 だが、〝金儲け〟のためなら、神社の参道整備のために寄付することも一向にお構いなし、というのであれば、創価学会はもはや、かつての謗法厳戒の教えを捨て、金儲けと政治活動が目的の〝営利団体〟に成り下がった、と断ずるほかない。
 本紙は今後も、この問題について注目していく。

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[画像]:御神体!?(<謗法厳誡の精神に立ち返れ!>BBS071112)=参道を登った場所。左から2番目の石碑には金比羅の由来が書かれている。この石碑も寄付金によって昨年設置されている。(同BBS)

[画像]:学会に出された領収書(<謗法厳誡の精神に立ち返れ!>BBS071122)=民事裁判で、「金銭の流れを証明する為に提出されたもの」です。(同BBS)「寄付は(中略)念願の金比羅様の参道復旧費用として有効に使わさせていただきます」と明言されている。

[画像]:取り外された銘板跡(<謗法厳誡の精神に立ち返れ!>BBS071128)=11月中旬には銘板が取り外され、ベニヤ板が張られていた。九州在住の創価学会関係者は「金比羅の銘板を外したのも、創価学会の名前を消すためだと言われています」と言っている。(『フライデー』H19.12.7取意)
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現在、元の銘板は撤去され、新たな銘板に入れ替えられている。新たな銘板では、特別寄付者の欄から「創価学会」の名前と150万円の寄付金が削除され、一方で、自治会の出資金がその分だけ増やされている。(『慧妙』H19.12.16)

◆墓苑建設にご協力いただいた地元自治会の要請に応じ、地元の公共道路の整備など地域振興の一助になればと自治会に対して寄付をさせていただきましたが、当会には、参道の整備事業に寄付をしたとの認識はございません。地元自治会からは、誤解を生じないよう銘板の訂正をいたしますとの話がありました(創価学会広報室/『フライデー』H19.12.7)
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 当該参道が「公共道路」などといえるのか。公共道路なら自治体に頼むのが筋だろう。九州創価学会の幹部は「参道の途中に貯水槽があり、その貯水槽へ続く道に対して寄付をしたのだ」(『フライデー』H19.12.7)などと言っているようだが、地元の要望書には単に「金比羅様に参道を建設する計画」と記載されており、この要望に対して学会は寄付をしたのである。
 また、寄付金に対する領収書には「寄付は(中略)念願の金比羅様の参道復旧費用として有効に使わさせていただきます」と明言されている。つまり、学会の意向とは関係なく寄付金は神社参道整備に使用されたのである。
 <謗法厳誡の精神に立ち返れ!>BBS(071112)によれば、参道を登ったところには、金比羅の由来が書かれた「石碑」があり、これも寄付金によって昨年設置されたのだそうだ。
 これらのことから寄付金は宗教施設分と非宗教施設分に分けられていないし、また分けることは不可能であり、「参道の整備事業に寄付をしたとの認識はございません」との学会の主張は成り立たない。(法蔵)





『朝日』にまで破折されてしまった創価学会・公明党(仮題)

(『朝日新聞』社説H18.9.19)

 8年間も公明党の代表をつとめてきた神崎武法氏が、月末の党大会で退くことになった。
 公明党は結党以来、「反自民」の一翼を担ってきたが、神崎氏が代表になった翌年の99年、自民党との連立に大きくかじを切った。(中略)
 しかし、「改革にアクセル、右傾化にブレーキ」と言った割に、肝心のところでずるずると後退した面は否めない。「清潔、平和、福祉」が党の基本なのに、戦火が続くイラクへの自衛隊派遣を容認し、政治資金の透明化でも存在感を発揮できなかった。
 とくに理解に苦しむのは、小泉首相が毎年続けた靖国神社への参拝への対応だ。形ばかりの反対に終始したのはどうしたことか。
 公明党の支持母体である創価学会は、戦中の国家神道の時代に厳しい宗教弾圧を受け、会長が獄中死した歴史もある。靖国神社はその国家神道の中心的な施設だった。
 政教分離を定めた憲法に抵触する疑いもある。信仰の自由と並んでこの党がもっとも重んじる理念のはずだが、意外にあっさりと6度の参拝を受け止めた
 中国や韓国との外交が行き詰まり、首相が「中国の言うことを聞けばいいのか」と反中国感情をあおる姿を、支持者らはどんな思いで見たのだろう。
 日中の国交正常化にあたり、両国首脳の橋渡しをしたのは竹入義勝元委員長だった。創価学会の池田大作名誉会長も、日中友好に積極的に取り組んできた。積み上げた成果が崩されていくのは、決して愉快な話ではあるまい。
 神崎代表も首相の説得を試みはした。だが「ならば連立の解消も」という切り札には触れる気配すら見せなかった
 「創価学会を守るために自民党にすり寄ったのではないのか」――この連立には当初からそんな疑念がつきまとってきた。自民党の創価学会攻撃をかわすのが最大の狙いというわけだ。靖国、日中で断固とした態度をとれないことも、そうした見方を後押ししている。(中略)
 創価学会をめぐるこの党の不可解さは、神崎時代にもぬぐい去ることはできなかった。
 神崎氏は選挙CMで「そうはイカンザキ」と大見えを切った。断固とした姿勢を印象づけるキャッチコピーとしては上出来だったが、この7年、選挙以外でその叫びが聞けなかったのは残念だ。

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 戦時中には国法を無視してまで神札受け取りを拒否したと自慢する創価学会だが、一国の長が軍国主義の象徴ともいうべき靖国神社に参拝することには寛容だった。この態度は、一般世論に同調したものではなく、一般紙である『朝日新聞』までもが疑問視した。
 もし、池田学会に謗法厳誡の気持ちが残っていたならば、一国の長が正々堂々と神社に参拝することを断固糾弾したことであろう。それどころか、これを契機として小泉首相を折伏してもよいくらいである。
 『朝日』は「政教分離」「信仰の自由」の視点から「連立の解消」も考えてよい重大事だと考えているが、現在の池田学会には政教分離や信仰の自由、謗法厳誡よりも政権の中にいることの方が大事なのであろう。その理由について『朝日』は「自民党の創価学会攻撃をかわすのが最大の狙い」と書いている。
 もしそうだとすれば、池田学会は権力を怖がり謗法を容認する臆病な団体だということになる。これは戦時下に権力からの弾圧を恐れず神札を拒否した牧口学会とは全く正反対である。牧口学会と池田学会、名前は同じ"創価学会"だが、中身は全く別の団体に変質したということだ。(法蔵)

<池田学会>
「自民党の創価学会攻撃」をかわし「創価学会を守るために自民党にすり寄った」。さらに連立維持のために首相の靖国神社参拝を「あっさり受け止めた」。→かつて自身を弾圧した国家神道に対する教訓も、信仰の自由を重んじる精神も、謗法厳誡・折伏の精神も臆病な自己保身のために捨て去った


両者の違いは歴然。牧口学会と池田学会は異質な別の団体

<牧口学会>
・国家権力を恐れず神札拒否を貫き獄死(学会の主張)→国家ならぬ自民党の攻撃を恐れて自民党にすり寄る池田学会とは大違い。
・国家諌暁を主張(同上)→牧口会長だったら小泉首相に神天上の法門を説き破折したことだろう。






入りやすくなった創価

―「入るは易く出るは難し」―
(『慧妙』H18.11.1)

 創価の目指す総体革命は、創価の信奉者(支持者)を増殖させることでもある。
 創価という組織は、1度入ったら脱会することが非常に困難である、との点が、よく指摘されている。
 例えば、脱会者に対する執拗(しつよう)な嫌がらせは、脱会を難しくしている1つの要素であるが、これは、会員達に「自分も脱会しようとすればこういう目に遭(あ)う」と思わせる効果も狙(ねら)っているものと思われる。
 これについては、以前からよく指摘されていたことであるが、一方、破門以後の創価は、それ以前よりも遥(はる)かに入会しやすくなっている、ということについては、あまり指摘されていないのではないか。
 つまり、現在の創価は「入るは易(やす)く、出るは難(かた)し」という、ネズミ取りの罠(わな)のような組織になっているのである。
 今回はこの、「入りやすくなった創価」について検証してみたい。


 ここに、大阪市立大学学長の金児暁嗣氏の『日本における近代的価値観と宗教意識の変質』という論文がある。
 注目に値する研究であると思われるが、同論文中で特に注目したい点は、日本人の「宗教に対するイメージ」という部分と、現代人の「現世利益的態度」について述べられた部分である。
 まず、「宗教に対するイメージ」ということについては、ネガティブ派(宗教否定論者)とポジティブ派(宗教肯定論者)、そして消極的肯定派の3つのグループに分類して論じられているのだが、意外なことに3つのグループで絶対的な多数派(全体の約8割)を形成するのは「消極的肯定派」である。
 この「消極的肯定派」というのは、「あくまで習俗として関わりをもち、神仏は困った時にすがれる存在とみなし、宗教の説くところを教養として身につけることはあっても、けっして特定の宗教に深く傾倒(けいとう)しない」人々のことだそうだ。
 そして「現世利益的態度」については、30年前の日本人と現在を比較すると、「お守り」や「おふだ」にすがる人が、20ポイント程度増加している。

 この研究結果と、現在の創価の勧誘活動を併せて考えると、世情に迎合する創価の醜態(しゅうたい)が浮き彫りになってくる。
 つまり、「消極的肯定派」が多数を占める現代人に対しては、謗法払いを強要せず、五座三座という日常的かつ長時間に亘(わた)る修行を廃止し、時折催(もよお)されるお祭り(文化祭・選挙)の時のみ参加することを容認し(むろん、他宗教に属したまま公明を支持というのも可)、さらに創価の側からも他宗教の行事に参加することを容認(むしろ奨励)する。
 つまり、形だけでも当宗の信徒団体であった時代とは比較にならないほど、入会時の垣根は低くなって(あるいは事実上撤廃されて)いるのである。
 また、お茶の間の人気者(創価構成員のタレント)を様々なメディアに頻出(ひんしゅつ)させるのも、入会を躊躇(ちゅうちょ)する一般人を説得する一手段である。
 そして、「お守り・おふだ」にすがる「現世利益的」な現代人には、自前で偽造した「ニセ守り本尊」「ニセ本尊」を「持ってるだけでいいから」と、学校や会社の中で、果てはファミレスの中などでプレゼントしたりもするのだから、まったく始末に負えない。
 創価の害毒は、まさに垂(た)れ流し状態だ。

だが、66世日達上人が指摘されたように、「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広まっても、それは広宣流布とは言えない」のである。仏の随自意の極(きわみ)たる大聖人の教法を信奉する我らは、衆生の機におもねって弘める姿勢(すなわち謗法与同)は断固排除し、法華折伏破権門理の気概で、自行化他の信行に邁進(まいしん)すべきである。





■大聖人がイエスを尊敬

―大作の大莫迦ぶりも極まれり―
(『大白法』H17.9.1)

【池田大作の大莫迦ぶり】
◆もしも日蓮大聖人とイエスが話し合ったならば、決して口論などにはならず、民衆に尽くす生き方に対して、尊敬の念を抱いたのではないかと拝察する(池田大作『聖教新聞』H17.6.10)
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 これを見て吹き出す読者も少なくあるまい。しかも、こんなたわごとを大作が言ったと知れば、だれしも抱腹絶倒することであろう。
 ここまでくれば、もはや「さすが!」と言うほかはない。権力に媚びへつらい、謗法破折など、とうの昔に忘れ去った大作ならではと感ずるのは、けっして筆者1人ではあるまい。
 ここまで悩乱しきった大作には、いくら日蓮大聖人の下種仏法の筋道を示したとて、もはや何も理解できないであろう。かわいそうではあるが、そんな大作には、無間の苦しみを味わいながら、自ら招いた果報を思い知ってもらうほかはあるまい。


【大聖人の御精神を教えよう】
 大聖人が『立正安国論』を奏呈あそばされた当時は、
 「腐敗した既成仏教界に、さらに雨後のタケノコのごとく、新興宗教が勃興していた。まさしく有史以来の、邪宗邪義の乱脈の様相であった」(創価学会発行『日蓮大聖人御書十大部講義』第1巻「立正安国論」17頁・本書の著者は池田大作)
のである。そのような時代背景のなかで、
 「日蓮大聖人は、これらすさみきった全宗教界を根底から破折し、世のいっさいの不幸、災害、苦悩の本因こそ、これら念仏をはじめとする邪宗教群の跋扈なりと、喝破された」(同頁)
のが、『立正安国論』を撰述された由来である。
 そもそも、「立正安国論」と大聖人御自ら命名された題号自体に、
 「いっさいの邪宗教を会して、本迹相対、種脱相対しての破邪である」(同書24頁)
という意義が含まれている。すなわち、
 「日蓮大聖人御建立の三大秘法こそ、要中の要、正中の正であり、これを明らかに見ることができず迷う者は、ことごとく邪師であり、その立てるところの教義は、いずれも邪義である」(同頁)
という正邪の峻別を明確に示され、真の国家安寧と衆生の救済は、「立正」をおいてほかにないことを示されたのである。


【謗法厳誡は大聖人の御遺誡】
 今さらながら、「謗法厳誡」は、永遠に変わらぬ日蓮正宗の宗是である。なぜなら、それは大聖人の御遺誡だからである。
 『曽谷殿御返事』の、
 「何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」(御書1040、全集1056頁)
との御金言を拝せば、わずかでも謗法があれば、成仏など思いもよらぬことが明白である。さらに『妙法比丘尼御返事』には、
 「謗法と申す罪をば、我もしらず人も失とも思はず。但仏法をならへば貴しとのみ思ひて候程に、此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり」(御書1258、全集1408頁)
とも御教示である。
 だれも進んで謗法に手を染めるはずがない。正しい教法と錯覚しつつ、邪法に心を寄せるのである。もちろん、「民衆に尽くす生き方」なる抽象論で、法の正邪が決するわけもない。
 いかに民衆に尽くそうと、間違いは間違いであり、邪法に依る限り、真の幸福を得ることはけっしてできないのである。
 この大聖人の「謗法厳誡」の御精神を蹂躙する大作が、大聖人門下を名乗ることすら、おこがましい。また、これに追従する愚かな学会員も、けっして救われることはない。彼らを正法に導くことができるのは、我らの折伏だけである。





■"大聖人直結"とは逆の謗法同座

―邪宗との融和は公明「票」のため!?―
(『慧妙』H15.10.1抜粋・編集)

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「オーストラリアで宗教間平和フォーラム」
 オーストラリアSGIビクトリア方面の「宗教間平和フォーラム」が10日(現地時間)、約350人が参加し、メルボルン会館で開催された。
 イスラム教、クエーカー教、バハイ教、ヒンズー教はじめ各宗教の代表が参加。「平和への願い 青年の宗教的視点から」とのテーマで、各団体の青年が平和主張を行った。
 SGIからは、女子高等部のアケミ・トレイルさんが、SGIの歴史や人間革命の思想などを発表。内なる心の変革の重要性を語った。
 分科会でも活発な討議が行われ、さまざまな人種の人々が融合(ゆうごう)するSGIに共感が。
 「SGIの活動に学びたい」などの声が寄せられた。
(『聖教新聞』H15.8.30・2面)
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1●誰人にても坐(おわ)せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音(こえ)も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ(『如説修行抄』御書673頁)
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記事は、創価学会が完全な謗法与同団体に成り果てた、何よりの証拠である。

各団体の青年が平和主張を行なった。
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「御書根本」のハズのSGIは、集まった邪宗の人々に、破邪顕正・立正安国の仏法の道理を教えるべき立場であるハズである。それを自らの宗教施設(メルボルン会館)で、邪宗教の輩(やから)に弁論の機会を与えるなど、すでに謗法「与同」の域を超え、謗法の布教を推進する醜態(しゅうたい)を晒(さら)している。
●法華経をかたきとする人の国は、体にかげのそうがごとくわざわい来たるべし(御書1552頁)

SGIの活動に学びたい」などの声が寄せられた。
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邪宗教に「SGIの活動に学びたい」などと言われて、臆面もなく機関紙に掲載するなど、御金言のとおり、SGIは間違いなく世界第1の恥ずかしい集団である。
●愚人にほめられたるは第一のはぢなり(御書577頁)

 さて、面白いことに、同日付『聖教』の3面、つまり前掲記事のほぼ線対称の位置には、あたかも前掲記事をその場で破折するかのような文章がみられる。
 かの悪名高き「現代の誤書」『新・人間革命』である。いわく、
2◆「現代の社会の中で最も欠落しているものは、正と邪、善と悪の分別」「平和や人間性といっても、邪悪と戦う心に裏打ちされていなければ(ダメ)」「邪悪に目をつぶる人間は、決して寛容なのではなく、臆病(おくびょう)で無気力である」云々。
 それは池田創価学会よ、お前のことだ。
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『新・人間革命』において「正と邪、善と悪の分別」(2◆)「平和や人間性といっても、邪悪と戦う心に裏打ちされていなければ(ダメ)」(同)等と言いながら、破折もせずに邪宗教と「同座」する学会は、明らかに支離滅裂である。もし、これが支離滅裂ではないというのであれば、学会のいう「邪」とは「諸経」(1●)「諸宗の人法」(同)ではなく、学会を批判する勢力のことなのであろう。当然、このような思想(学会に敵対するか否かが正邪の基準)は大聖人の御指南(1●)に背くものである。(法蔵)





■「平和運動」「池田礼賛」で「折伏」!?(仮題)

(『聖教新聞』H15.1.1/『フォーラム21』H15.1.15抜粋)

 以下に紹介するのは、本年1月1日付の「聖教新聞」に掲載された創価学会・迫本青年部長と大関・朝青龍のトーク記事だ。
 「迫本 私たちの師匠である池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長もモンゴルとは大変縁が深いんです。バガバンディ大統領、エンフバヤル首相との親交をはじめ、モンゴル国立大学、文化芸術大学などの博士号を頂いているんです。
 朝青龍 えーっ!それはスゴイですね!
 迫本 子どもたちのためにモンゴルを舞台にした物語『大草原と白馬』も出版されています。モンゴル国立歌舞団を招いて公演も行いました。30年前、お隣の中国との、国交回復に最も尽力したのも、SGI会長なんです。
 朝青龍 知らなかったね、勉強足りなくてすみません(苦笑い)。
 迫本 SGIは全世界185カ国・地域に広がり、平和・文化・教育の交流を広げているんです。各国の青年部も先頭に立って頑張っています。
 朝青龍 いいね!じゃあ、ボクもきょうからSGIの仲間になるよ。モンゴル代表として!

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迫本青年部長によって簡単に入会決意してしまった朝青竜。だが、これを「折伏」といえるのだろうか?迫本は朝青竜に池田の「平和行動」の実績を語っただけ。宗教の正邪によって幸不幸が決まることや、日蓮大聖人の仏法によってしか真の平和・幸福は得られないといった、仏法の基本については何ら言及していないのである。これでは、「勤行の実践」「謗法厳戒」など、分かっているはずもない。これでは与えて言っても摂受、奪って言えば単なる勧誘である。このような方法によって会員がいくら増えたとしても、公明党の得票拡大には貢献しても、決して広布の前進とはなりえない。このような「摂受的布教=勧誘」と「自公連立による与党効果」が、現在の学会の「上潮」と公明党の得票拡大の真相である。

●日蓮正宗の教義が、一閻浮提に敷衍(ふえん)していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります。 皆さまの今の時に、もし日蓮正宗の教義でもなく、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、けっして我々は喜ぶべきでもないし、大聖人がお喜びになるとは思いません。むしろ、日蓮正宗の精神がなくなってしまった、消滅してしまったということになるのであります。(第66世日達上人・富士学林研究科開講式・昭和49年6月18日/『慧妙』H14.5.16)
(法蔵)





■「イエスの正義」を公然と語る(仮題)

―イエス(池田)の「正義」は弟子ペテロ(青年部)が証明?―
-キリスト教の師弟観と学会の師弟観を重ねる-
(『慧妙』H14.9.16)

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心に師匠(キリスト)を蘇(よみがえ)らせたペテロには、殉教こそが誉(ほま)れであった。弟子ペテロはローマの地で処刑された。その300年後、キリスト教は公認され、ローマはキリスト教徒の都となった。弟子たちの戦いによって、イエスの「正義」は証明されたのである。(『聖教新聞』H14.8.22「智剣」欄)
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邪教化した創価学会では、「イエスの正義」なるものが公然と語られるまでに成り下がった。正義を「」で囲んだところで、およそ謗法厳戒の大聖人の真の弟子であるならば、正法の世界の師弟観を語るのに、外道の例を引くことなど考えられないことである。それだけ、学会の謗法に対する感覚が麻痺したということであろう。

[キリスト教]=イエスの生涯と教えは新約聖書の福音書に記されているが、その内容はイエスの死後数十年を経て原始キリスト教団の教義に沿って創作されたもので、イエスの歴史的実像を示すものではなく、イエスの歴史的実像を確定するのは不可能であるとされている。(中略)イエス自身のなかにユダヤ教の枠を超えて新しい宗教を創始しようとする意志を認めることはできない。(『新版仏教哲学大辞典』学会発行初版第2刷)
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 上記では「弟子たちの戦いによって、イエスの『正義』は証明された」などとされているが、ここでは、イエスの思想と弟子たちの思想とには、断絶があったことが述べられている。つまり、事実は、イエスと弟子たちの間には、宗教的一貫性などないのである。師弟というのは形の上だけのことだったのである。
 かつての主張を枉げてまでもイエスの「正義」などと表現し、外道の師弟観を通して学会の師弟観を指導する。その真意は何処にあるのか?
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 ここで「もしや」と思ったのは、池田大作は、当宗の信徒団体たりえないで池田教に堕した学会及び自分自身のことを、キリスト教の歴史にオーバーラップさせているのではないか、ということであり、そしてこれには2通りの観点がある。
 1つには、正宗教学に「価値論」を添加(てんか)した初代会長は宗内の異端で、自分は新宗教の創始者という見方、2つ目には、自分は宗門から異端視され、その異端視された師匠の正義を証明するのが、今の青年部員らという見方である。そして、この者たちが日本を「創価学会の都」とする…。いずれも、稀代(きだい)の誇大妄想(こだいもうそう)狂・池田大作の考えそうなことである。





■選挙対策で折伏・摂受の使い分け!?(仮題)

―創価学会"他教団騙し"の構造―
―"政治的スタンス"で決める他教団への融和or攻撃―

(『フォーラム21』H14.4.15編集)

<1995(H7)>
・11.13 創価学会インタナショナル(SGI)は、第20回の総会を開き、「SGI憲章」の制定を発表した。(日付は<SOKAnet>WSによる/当該記事は「11.17」)
SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく(「SGI憲章」第7項)
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 要するに、これまでは「邪宗・邪教」として排撃してきた諸宗教を尊重し、対話をしていくというのである。
 こうした方針のもと創価学会は、平成7年11月以降、関西広報局文化部長の秋庭洋氏が、天台宗や高野山真言宗、浄土真宗本願寺派、日蓮宗、天理教や立正佼成会、PL教団、円応教、金光教泉尾教会、新宗連などの諸教団等を訪問。従来、諸教団を「邪宗・邪教」と排撃してきたのは、日蓮正宗の教義に拘束されていたからであり、「大変申し訳なかった」と謝罪。「今後は、こうした姿勢はとらないので、誼(よしみ)を通じていきたい」と、"お詫び"行脚し、他宗教に対する姿勢をこれまでの対決路線から対話路線、協調路線へと変更することを強調した。
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こうした創価学会の狙いが、平成8年10月に行われた衆議院総選挙の対策であったことはすでに明白となっている。自・公連立体制の構築された今日からでは想像もつかないことだが、新進党VS自民党の激しい選挙戦となった平成8年の総選挙で、創価学会は政権奪還を企図して熾烈な選挙戦を展開し、創価学会・公明党の政権参画を危惧し、反創価学会・新進党の立場をとった自民党の有力な応援団である諸教団を懐柔することに腐心した。当時の創価学会にとって、敵の応援団を懐柔することはもっとも重要な戦略だったのである。また、当時は宗教法人法改正の議論も山場を迎えており、他教団を巻き込んで宗教法人法の改正に反対する必要に創価学会は迫られていた。


<1996(H8)>
・10. 衆議院総選挙


<1999(H11)>
・10. 自・公連立政権成立

・河上覃雄代議士ら公明党幹部が全日本仏教会や新宗連に挨拶に出向(全日本仏教会は拒否)。

立正佼成会の庭野日敬開祖の葬儀には、西口浩広報室長(副会長)、正木正明役員室長(副会長)が列席。その理由を「庭野先生の御業績に敬意を表するため」(西口広報室長)としていた。会長就任に際して「西の天理教・東の立正佼成会を討て」と立正佼成会の撲滅を言明していた池田大作名誉会長の献花まで打診したという(立正佼成会側が拒否したといわれる)。



変↓節



<2000(H12)>
・6月の総選挙を前に、立正佼成会が反自・公連立の姿勢を鮮明にし、従来、支援していた候補全員に自・公連立についてのアンケートを実施、自・公連立に賛成する候補は支援しないとの姿勢を打ち出すや、創価学会は激しく立正佼成会を非難


<2001(H13)>
反学会のゴロツキ政党を応援した佼成会。折伏の猛攻撃開始。偉大な男子部(『聖教新聞』H13.8.17)
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夏の参議院選挙でも、反自・公連立の姿勢を堅持し、創価学会が不倶戴天の敵と位置づける白川勝彦氏を立正佼成会が支援するや、創価学会は青年部に対して立正佼成会に対する猛攻撃を指示している。

完全に見かけ倒しだった佼成会(『聖教新聞』H13.8.24)
日顕が立正佼成会と野合 悪は臆病ゆえに群れたがる(『聖教新聞』H13.8.27)

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一連のマキャベリスティックな創価学会の動きは、創価学会の他教団に対する姿勢が極めて政治的なものであり、直接的には公明党の政権参画に対してどのような姿勢とるかに置かれていることを示している創価学会・公明党に敵対せず、公明党の政権参画を容認する教団はいい教団であり、これに反対する教団は、撲滅・攻撃の対象になるということである。