創価学会破折
学会流三宝論破折



「僧俗平等」「僧侶不要」破折

重々の僧宝義

三宝一体

〝尊信の対象となる僧宝は日興上人御一人である〟との謬義を破す/日蓮正宗青年僧侶邪義破折班『大白法』H17.12.1編集

御僧侶の信徒教導は大聖人の御命/『慧妙』H24.11.16

維摩経について/<法蔵>H18.5.26

『当流行事抄』の「久遠元初の僧宝」について/<法蔵>H18.8.19

珍妙な会館寺院の開院/『慧妙』H18.5.1

三宝について/『慧妙』H15.7.1

創価学会の三宝破壊を破す①(仏宝)/『慧妙』H16.7.1

創価学会の三宝破壊を破す②(法宝・僧宝)/『慧妙』H16.7.16

僧宝論/『慧妙』H14.7.16

「三類の強敵」は大聖人の為に説かれた/<法蔵>H18.9.9


「僧俗平等」「僧侶不要」破折

◆仏教でも、坊さんだけがお経をあげ、説法し、引導を渡すことのできる権威を持っていた。ところが創価学会は、会員が自分でお経をあげられる。経典もどんどん勉強して知識を深め、実践する。仏教知識が大衆化し普及して、平等化が起こる。つまり僧侶の権威が崩壊(ほうかい)し、仏教革命が起ったのです。(秋谷栄之助『月刊中央公論』H17.2/『慧妙』H17.2.1)


【僧俗の役割】
―僧侶は令法久住、在家は布教と仏法守護―
 僧侶は僧侶にしかできない職分があり、在家には在家にしかできない広宣流布への御奉公があるのである。大聖人の仏法は令法久住(りょうぼうくじゅう=主に僧侶による仏法護持)と広宣流布(主に在家の行なう折伏弘宣)の二義が、協調し合いながら進んでいくのであり、このどちらか一方でも欠けてはならない。
 このうちの令法久住は、「法を久しく住せしめる」と読み、大聖人の仏法を寸分の違いなく未来へ流れ通わせることであり、日興上人已下御歴代上人に伝わる血脈相承がこれの中心にあたる。この根本を無視して、いくら広宣流布を唱えても、全く無意味である。(『慧妙』H16.9.16)

●僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず(『四恩抄』御書268・全集938頁)
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僧の役割は仏法を正しく後世に伝えることである。ここでいう「僧」とは、当然"僧俗"の「僧」であり、在家に対する語すなわち出家した人である。

1●涅槃経に云く「内には智慧の弟子有つて甚深の義を解り外には清浄の檀越有つて仏法久住せん」云云、天台大師は毛喜等を相語らい伝教大師は国道弘世等を恃怙む云云。(『曾谷入道殿許御書』全集1038頁~)

●善男子正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭・鉾槊を持して持戒清浄の比丘を守護すべし(『釈迦一代五時継図』全集644頁)
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在家は僧を守護することによって、令法久住の一翼を担うのである。僧俗の立場の相違はここにも明白である。

●戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり(『三大秘法禀承事』全集1022頁)
[有徳王]=(前略)唯一人の正法の受持者、覚徳比丘が破戒の悪僧に襲われ、正法がまさに滅せんとしたとき、武器を執って悪僧と戦い覚徳比丘を守った。(『新版仏教哲学大辞典』初版)
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広宣流布がまさに達成する時には、在家の有徳王が出家の覚徳比丘を守る。ここにも僧俗の役割・立場の相違が明らかである。

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本来、僧と俗とを問わず、広宣流布のために戦っている人が偉大(『創価新報』H16.8.4)
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たしかに、広宣流布のために精進している人は偉大である。しかし、僧侶の立場を軽視否定し、さらには誹謗(ひぼう)まで加えたり、広宣流布する法そのものが誤っていては、いくら広宣流布のために戦っている、と言っても意味をなさない。(『慧妙』H16.9.16)

●我が弟子等の中にも「未得謂得未証謂証」の輩有って、出仮利生の僧を軽毀せん。此の人の罪報具に聞くべし。今時の念仏・真言・禅・律等の大慢謗法・一闡提等より勝れたること百千万倍ならん。爰(ここ)に無智の僧侶、纔(わず)かに法華経の一品二品乃至一部、或は又要文一十乃至一帖二帖等の経釈を習ひ受けて、広学多聞の僧侶に於て同位等行の思ひを成す。之の僧侶は是くの如き罪報を得ん。無智の僧侶尚是くの如きの罪報を得ん。何に況んや、無智の俗男俗女をや。又信者の道俗の軽毀尚是くの如し。況んや不信謗法の輩をや。(『得受職人功徳法門抄』御書594頁)
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 「未得謂得未証謂証」とは、「未だ得ずを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂う」-解ってもいないのに解った気になり、悟ってもいないのに悟ったつもりになる、つまり増上慢のことですが、大聖人のお弟子の中にも、増上慢な心から「出仮利生の僧」を軽んじ毀る者がいた、というのです。
 「出仮利生」とは、菩薩が、迷いの凡夫の世界(これを仮といいます)に出現して、衆生を利益されることです。しかして「出仮利生の僧」というのは、御僧侶の中でも、特に長年の修行を積んで、師より、立派に衆生を教化していけると認められた方、今日でいえば、御法主上人や御尊能化、あるいは高位の御僧侶といえましょう。(『謗法厳誡論』141頁)
 大聖人門下であっても「出仮利生の僧を軽毀」する罪は「念仏・真言・禅・律等の大慢謗法・一闡提等より勝れたること百千万倍ならん」と仰せである。しかも、「何に況んや、無智の俗男俗女をや」「況んや不信謗法の輩をや」とあるように僧よりも俗、俗よりも門外の者の方が罪が深いと仰せである。ここにも僧と俗の相違が明白である。



【「御法主上人→末寺住職→信徒」の筋目】
<御法主上人が師>
●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。(中略)背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり(『池上相承書』全集1600頁)
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大聖人滅後は日興上人が貫主として教団を統率。以下日目上人、日道上人と唯授一人の血脈を受けた方が貫主として弟子檀那を教導してきた。

●但し直授結要付嘱は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付嘱せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(『百六箇抄』全集869頁)
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第59世日亨上人は「後加と見ゆる分の中に義において支語なき所には一線を引き」(『富士宗学要集』第1巻25頁)とあるごとく、史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのである。後加文だといって無視する学会だが、少なくとも日亨上人の御指南であると考えるべきである。

●申すまでもなく御相伝となりますれば直接御指南の金口嫡々の御相承や宗門の上の御教示等重々あらせられると拝しますが、それは御法主上人として大事大切なことでありまして、一般の僧侶や信徒としては御法主上人に随順し奉ることによって、自ら受けることができるのであります。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1150頁)

手続(てつぎ)の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能く々取り定めて信を取るべし、又我か弟子も此くの如く我れに信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮花経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云ふなり云云。(第9世日有上人『富士宗学要集』第1巻)


<御法主上人→末寺住職→弟子・檀那>
●此の三人(※熱原三烈士)は越後房下野房の弟子二十人の内なり。弘安元年に信じ始め奉る(日興上人『本尊分与帳』/『大日蓮』H23.4)

●自今以後は、師をさだめて、講衆にも、一とうせられ候べし。この法門は、師・弟子をただして、仏になり候。(中略)師・弟子だにも、違い候へば、同じ法華を、持ちまいらせて候へども、無間地獄に落ち候也。うちこし・うちこし直の御弟子と申す族(やから)が、聖人の御時候しあひだ本弟子六人を定め置かれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言わせんずるためにて候。案のごとく聖人の御後も、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申す族(やから)多く候、此等の人は謗法にて候也(第2祖日興上人『佐渡国法華講衆御返事』/聖教文庫『富士日興上人詳伝下』245、261頁、『歴代法主全書』第1巻182頁~)
http://sudati.iinaa.net/ketimyaku/sadonokuni.html <佐渡国法華講衆御返事>
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大聖人御在世は大聖人が師であり、その下には本弟子6人がいた。本弟子にはそれぞれ弟子がおり、その下には有縁の信徒がいた。このように師→弟子→信徒という関係において大聖人の法門は教団に周知徹底されていたのである。

●実名、有職、袈裟、守、漫荼羅、本尊等の望みを、本寺に登山しても田舎の小師へ披露し、小師の吹挙を取りて本寺にて免許有る時は、仏法の功徳の次第然るべく候、直に申す時は功徳爾るべからず云云。(第9世日有上人『富士宗学要集』第1巻)

●弟子檀那の供養をば先づ其の所の住持の御目にかけて住持の義に依つて仏へ申し上げ鐘を参らすべきなり、先師々々は過去して残る所は当住持計りなる故なり、住持の見たまふ所が諸仏聖者の見たまふ所なり。(第9世日有上人『富士宗学要集』第1巻)

●諸国の末寺へ本寺より下向の僧の事、本寺の上人の状を所持せざる者、縦ひ彼の寺の住僧なれども許容せられざるなり、況や風渡来らん僧に於てをや、又末寺の坊主の状なからん者、在家出家共に本寺に於いて許容なきなり云云。(第9世日有上人『富士宗学要集』第1巻)

●師弟相対の事、有師丁寧反復是を述べらる。前条にも本条にも、又下にも多く出づ。類文塔婆の下更に細かなり。今時の信仰稍此意を失へる傾あり。或は害あり、或は無し。謂己均仏・現身成仏・師弟不用の高慢より生して、師弟相対を無視する事は大いに信行に害あるものと知るべし(第59世日亨上人・有師化儀抄註解/『富士宗学要集』第1巻96頁)
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ここでいう「師」とは大聖人のことではなく、一般僧侶にとっては御法主上人であり、在家信徒にとっては末寺住職である。何故なら「有師丁寧反復是を述べらる」とあるように、日有上人の御指南についての解説だからである。日有上人は宗内僧俗のために種々の指針を残されたのである。日蓮正宗の僧俗に対して大聖人を師と仰ぐべきことを、「丁寧反復」に御指南する必要はない。

内証の上には大聖人の御弟子であることは勿論である。といつて内証のみに執して、師弟の関係を整えることが最も大事であって此れを無視するところに聖祖門下の混乱があり、魔の所行が起ってくるのである(『日淳上人全集』1443頁)


<僧は師、在家は「僧を敬ひ法をあがめ仏を供養すべし」(『新池殿御返事』)>
2●末代の衆生は法門を少分こころえ僧をあなづり法をいるかせにして悪道におつべしと説き給へり、法をこころえたる・しるしには僧を敬ひ法をあがめ仏を供養すべし、今は仏ましまさず解悟の智識を仏と敬ふべし(『新池殿御返事』1443頁)
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この「僧」が大聖人に限定されるものではないことは、同じ御手紙の次の御文から明らかである。
●此の僧によませまいらせて聴聞あるべし、この僧を解悟(げご)の智識と憑(たの)み給いてつねに法門御たづね候べし(『新池御書』全集1444頁)

3●日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り、我が弟子等の出家は主上・上皇の師と為らん在家は左右の臣下に列ならん(『諸人御返事』全集1284頁)


<師檀関係は封建的上下関係とは異なる>
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僧侶が上で、在家信徒が下などという考えは時代錯誤である。封建主義の思想が抜けきれないのだ(『創価新報』H16.8.4)
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―民主的社会にも上下関係は存在する―
 民主主義の現代社会においても上下関係はある。例えば会社に入れば社長と社員、上司と部下の関係がある。社長が決定した経営方針に社員が従うのは当然であるし、上司の業務命令を無視したり、会社の規則に違反すれば懲戒解雇もありうる。
 スポーツの世界はもっと厳しい。中でも相撲界などは、私生活さえ厳しい上下関係で縛られているようである(というより、"私生活"などというものがないのかも知れない)。それでも、このような世界を"封建的"だといって批判する声は聞いたことがない。
 学校では教師と生徒、茶道や花道などでも師匠と弟子という上下関係がある。
 このように、どのような組織や社会にあっても上下関係は存在する。それは、その組織や社会の目的遂行のためには欠かせないものであって、決して人権人格を軽視するものではないし、構成員全員の同意のもとに築かれている上下関係なのである。

―封建社会の上下関係―
・職業と密接不可分であり、一生固定化している。
・自己の意思によって、上下関係を解消できない(当該組織乃至社会から離脱することができない)。
・生まれながらのものであり、自己の意思で上下関係の存在する組織乃至社会に参加した訳ではない。
・公私に亘(わた)って、人生のあらゆる場面において上下関係が影響を持つ。
・上下関係が、人格能力等の優劣を反映しているかのような偏見が存在する。

―僧侶と信徒の関係―
・僧侶は得度試験を経て御法主上人の認可のもとに出家できる。在家信徒であっても道心厚い者は出家できる。→固定化した封建時代の身分制度とは異なる。
・日蓮正宗に入信することも脱退することも自由である。→上下関係を勝手に解消できない封建社会と異なる。
・僧侶であっても宗制宗規を犯し、個人的な思惑で信徒の行動をコントロールすることはできないし、そのような強制力もない。
・僧侶も信徒も国家の法によって権利が保護されており、法の前では平等である。
(以上私見=法蔵)

●茲(ここ)に於て我が日本に於ては先ず道徳的理念が再建されねばならない。それが為には従来の道徳が封建的であつたことについて鋭い吟味を加へ、而(しか)して真に普遍妥当なる道徳が見出さるべきである。(中略)といつて我々は日常生活に於て父子、夫婦、主従、師弟といふ関係の上に立つているのが実際であり、人間自然の本性である。若し之れを否定して、個々の存在の平等を主張するならば、理念的に正当であっても到底堪へ得られるものではない。(第65世日淳上人『大日蓮』S24.9/『日淳上人全集』1064頁~)



【信心境界は平等、信仰活動の上では差別】
貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮花経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか(第9世日有上人『富士宗学要集』第1巻)


<信心(内心の悟り、獲得する境界)は平等>
●忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり。(『松野殿御返事』全集1382頁)

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仏の生命が尊貴(そんき)であり、すべての人間には、平等に尊貴なる仏界の生命がある―妙法の生命尊厳観に裏打ちされた平等思想こそが、日蓮仏法の魂である(『創価新報』H16.8.4)
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 全ての人間には仏界が具(そなわ)わっているので差別はなく平等だ、とするが、これも学会御家芸のスリカエである。仏界が生命に具わるという衆生成仏の義と、僧侶の要否は、全く別問題である。
 いまや、大御本導をも否定して己心本尊なる邪義を提唱する学会は、禅宗の「直指人心」「見性成仏」と同様の、増上慢以外の何ものでもない。(『慧妙』H16.9.16)


<信仰活動の次元では差別>
●若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事。(『日興遺誡置文』全集1618頁)

●私ノ檀那之事、其れも其筋目を違はば即身成仏と云フ義は有るべからざるなり(第9世日有上人/『有師物語聴聞抄佳跡上』/『富士宗学要集』第1巻247頁)
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この御文について第31世日因上人は、
●此ハ師檀の因縁を示す檀那ハ是俗ノ弟子なり、故ニ師弟血脈相続なくしては即身成仏に非す、況や我が師匠に違背せるの檀那ハ必定堕獄なり(第31世日因上人『有師物語聴聞抄佳跡上』/『富士宗学要集』第1巻247頁)(同)



【正しい僧侶の指標】
"御書根本"と自慢し、自分達のことをいくら僧宝だと詐称しても、学会に真の意味での「僧」が存在しないことは御書の御指南に照らして明らかである。

<正師の下で出家し、師弟相対の実践>
●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。(中略)背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり(『池上相承書』全集1600頁)
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師弟の関係は、弟子となる者が一方的に結べるものではない。師の允可(いんか)があって初めて真の弟子であると認められるのである。

●此の法華経をば学乗房に常に開かさせ給うべし、人如何に云うとも念仏者・真言師・持斎なんどにばし開かさせ給うべからず、又日蓮が弟子となのるとも日蓮が判を持ざらん者をば御用いあるべからず(『一谷入道御書』全集1330頁)
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大聖人の認められた方こそ真の弟子である。大聖人滅後は日興上人を初めとする歴代上人に認められた方が真の弟子であり、正しい僧である。

●或は信じ或は伏し或は随い或は従う但だ名のみ之を仮りて心中に染まざる信心薄き者は設い千劫をば経ずとも或は一無間或は二無間乃至十百無間疑無からん者か是を免れんと欲せば各薬王楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ雪山国王等の如く身を投げ心を仕えよ、若し爾らずんば五体を地に投げ徧身(へんしん)に汗を流せ、若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め若し爾らずんば奴婢と為つて持者に奉えよ若し爾らずんば・等云云、四悉檀を以て時に適うのみ、我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず等云云。(『顕立正意抄』全集537頁)
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「奴婢と為つて持者に奉(つか)えよ」と仰せである。「奉え」ることが"御本尊への給仕"や"大聖人の仰せのままの実践"などを意味するものではなく、生きておられる方に仕えることは明らか。なぜなら、御本尊への給仕や御書の実践は、誰もがやるべきことであるが、ここでは「若し爾らずんば」とあるように、能力に応じた具体的実践について述べられているからである。しかもこれは、「或は信じ或は伏し或は随い或は従う」とあるように、信伏随従の姿の1つとして述べられているのである。

師資の系統明らかならざる風来僧を師と仰ぐなの厳制が長文(<佐渡国法華講衆御返事>)の各所に顕われており、一時系統不明の僧よりの御供養を拒絶せられてたことが明文にあるほどである。この開山上人の厳格さが、現今にまで御本山にも残っており、貧富にかかわらず、その所縁の僧俗の証明書をもって信徒たるの待遇をなす、厳として、またうるわしき慣例は、いかに煩雑の時代に変ずるとも、万年の未来までに残したきもので、師弟不二の信仰が、少しも衰微せぬことを祈り申すのである。(第59世日亨上人『富士日興上人詳伝(下)』262頁)

4●仏法を信行する者は必らず師弟の道を尊重し師資相承の跡を尋ねその正しき法流を確めて清水を汲(く)まねばならない(第65世日淳上人『弁惑観心抄』序文)
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僧侶は師の認可によって出家できる。その師弟関係をさかのぼれば、必ず大聖人に辿り着く。それが「正しき法流」である。昭和5年に突如として出現した在家団体創価学会には「師資相承の跡を尋ね」「汲(く)まねばならない」「正しき法流」が存在しないのである。


<大聖人以来の僧形>
5●其の身は無智無行にもあれかみをそり袈裟をかくる形には天魔も恐をなすと見えたり、大集経に云く「頭を剃り袈裟を著くれば持戒及び毀戒も天人供養す可し則ち仏を供養するに為りぬ」云云、又一経の文に有人海辺をとをる一人の餓鬼あつて喜び踊れり、其の謂れを尋ぬれば我が七世の孫今日出家になれり其の功徳にひかれて出離生死せん事喜ばしきなりと答へたり、されば出家と成る事は我が身助かるのみならず親をも助け上無量の父母まで助かる功徳あり、されば人身をうくること難く人身をうけても出家と成ること尤も難し(『出家功徳御書』全集1251頁)
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学会では背広姿の幹部が種々の儀式を執行しているようであるが、このような者達は、姿形の上からも僧とはいえない。

6●衣の墨・黒くすべからざる事。(『日興遺誡置文』全集1618頁)

●直綴を着す可からざる事。(『日興遺誡置文』全集1618頁)



【仏敵にも僧俗の差別】
7●諸の無智の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん我等皆当に忍ぶべし、悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるをこれ得たりと謂い我慢の心充満せん、或は阿練若に納衣にして空閑に在り自ら真の道を行ずと謂いて人間を軽賎する者有らん、利養に貪著するが故に白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如くならん是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若に仮りて好んで我等の過を出ださん、濁世の悪比丘は仏の方便・随宜所説の法を知らずして悪口して顰蹙し数数擯出せられん」と云云。
 文句の八に云く「初めに一行は通じて邪人を明す即ち俗衆なり、次に一行は道門増上慢の者を明す、三に七行は僣聖増上慢の者を明す、故に此の三の中初めは忍ぶ可し次は前に過ぐ第三は最も甚し」と云云。(『上行菩薩結要付属口伝』全集539頁)
8●東春云く「第三に或有阿練若より下の三偈は即是出家の処に一切の悪人を摂す」等云云、東春に「即是出家の処に一切の悪人を摂する」等とは当世・日本国には何れの処ぞや、叡山か園城か東寺か南都か建仁寺か寿福寺か建長寺か・よくよく・たづぬべし(『開目抄』全集228頁)
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「出家処に一切の悪人を摂す」とあるように「第三は最も甚し」とされる「僭聖増上慢」は必ず僧侶の中から出現する。これは、仏法においては僧侶が指導的立場であり、影響力・責任ともに重大であるからであろう。
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3番目が僭聖増上慢です。これは聖者のように装って、一往、社会的に尊敬を受けていますが、利欲に執し、悪心を懐いている僧侶のことです。(第68世日如上人『大日蓮』H20.2)

9●大悪魔は貴き僧となり父母・兄弟等につきて人の後世をば障るなり(『南条兵衛七郎殿御書』全集1497頁)

★池田学会は以上の御書(7●~9●)等を根拠にして日顕上人や御僧侶を僭聖増上慢や道門増上慢の如く誹謗している。しかし、これらの御文は僧俗の立場に相違があることを前提としたものであり、"僧侶不要""僧俗平等"を主張する池田学会を、ある意味で破折しているのである。

★一方、御書には、広宣流布の暁まで正法を受持する宗団には僧俗の役割分担があり、僧は師、在家は師を敬うべき存在であることを明示されている(1●~3●等)。もし、池田学会のいうように宗門御僧侶が僭聖増上慢や道門増上慢であるならば、正法を護持する僧侶はどこにいるのか?もし、いないとすれば御書に反する。

★要するに池田学会は正法破壊の在家新興教団に過ぎないのである。

※もし、上記御指南中の「僧」「出家」を聖職者・精神的指導者の意味に解するとしても、僧形や法流の点(4●~6●等)で、池田大作や職業幹部が正法護持の「僧」ではあり得ない。


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 池田センセーが僭聖増上慢でないのであれば、宗門を迫害する僭聖増上慢は誰か?もし、いないのであれば、宗門が法華経の行者ではない証拠である。
 一方、学会には宗門という僭聖増上慢がいる。これは池田センセーが法華経の行者である証拠である。
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<■「三類の強敵」は大聖人の為に説かれた>参照。


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仏とは日蓮大聖人の仰(おお)せの如く民衆に尽(つ)くし抜く存在(見出し)

◆如我等無異(『方便品』)(にょがとうむい=我が如く等しくして異ること無からしめん)
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仏の目的は、自分(仏)と等しい境地に衆生を導くことである。その実践をしているのが創価学会で、その反対に民衆を宗門に従わせているのが宗門である。(取意)
(『創価新報』H18.11.1)
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 しかし、方便品の「如我等無異」の経文の次下には、仏は衆生に会えば仏法をもって教化されるが
 「無智(むち)の者は錯乱(しゃくらん)し 迷惑(めいわく)して教(おしえ)を受けず 我知んぬ此(こ)の衆生は 未(いま)だ曽(かつ)て善本(ぜんぽん)を修せず 堅(かた)く五欲に著(じゃく)して 癡愛(ちあい)の故(ゆえ)に悩(なやみ)を生ず 諸欲(しょよく)の因縁を以(もっ)て 三悪道(さんなくどう)に墜堕(ついだ)し 六趣(ろくしゅ)の中に輪廻(りんね)して 備(つぶ)さに諸(もろもろ)の苦毒(くどく)を受く(乃至)深く虚妄(こもう)の法に著(じゃく)して 堅く受けて捨つべからず 我慢(がまん)にして自ら矜高(ほこ)り 諂曲(てんごく)にして心不實(ふじつ)なり」(『開結』111頁)
と説かれている。
 また、日蓮大聖人も、
 「経に云はく『如我等無異』等云云。法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり。(乃至)但し不孝の者は父母の跡をつがず」(御書605頁)
と仰せられているように、仏法の根本を忘れ、伝法正師を離れて、成仏など思いもよらない。
 すなわち、方便品の「深く虚妄の法に著して」の「虚妄の法」とは、池田大作の説く邪義であり、その邪義に執着する会員達をいうものと拝する。
 そして、「我慢にして自ら矜高り 諂曲にして心不実なり」とは、宗門のあらゆる教導にも耳を貸すことなく、ひたすら宗門を批判しようとする、その心はすでに諂曲であり、不実であり、高慢である。
 かかる創価学会が「如我等無異」などと言ったら、釈尊も唖然(あぜん)とするであろう。正法正師に背(そむ)く池田らが「如我等無異」の実践をしたら、会員も皆、正法正師に背く大謗法者となってしまうであろう。(『慧妙』H18.11.16)


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本来であれば、「如我等無異」のまま広宣流布を共に進めるゆえに大切にすべき信徒、すなわち釈尊・大聖人とともに歩む"尊極の同志"を隷属(れいぞく)しようとしたのが、日顕(上人)である。"僧俗差別義"なる差別思想を浸透(しんとう)させ、僧侶による信徒支配を正当化しようとした(『創価新報』H18.11.1)
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 しかし、この民主主義の時代に、宗門が信徒を隷属などあり得ないことである。むしろ、宗門のあることないことを会員に吹聴(ふいちょう)し、徹底して脱会を防ぎ、会員を隷属させているのは創価学会である。対立する相手の意見を聞かせないこと自体、隷属させている、との謗(そし)りを免(まぬが)れないであろう。
 寺院として、信徒を守り、大切にすることは当然のことであるが、信仰的に間違っていれば、慈悲の上から注意し教導することは当然である。そこには上とか下とかという立場はない。救う、という一念のみである。(『慧妙』H18.11.16)


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>お盆に僧侶に読経してもらい、先祖の供養をしてもらう必要はない(『創価新報』H24.8.1)
>お盆は大聖人の仏法とは関係ない(同上)
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 だが、そもそも日蓮正宗における盂蘭盆会法要は、宗祖大聖人以来伝わる化儀・儀式である。
 日蓮正宗の化儀即化法に基づく総本山の儀式法要は、全て宗開両祖を嚆矢(こうし)としており、嫡々付法の御歴代上人がその根本化儀を伝承されているのである。
 そして宗内の僧俗は、それら総本山の化儀を中心として修行し、成仏の境界を開いてきた。
 たとえば宗祖大聖人は、富木常忍に与えられた『始聞仏乗義』に、
●青鳬(せいふ)七結(ゆ)ひ下州より甲州に送らる。其の御志悲母(ひも)の第三年に相(あい)当たる御孝養なり(御書P1207)
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と仰(おお)せだが、このことから、富木氏が、大聖人のもとへ御供養を奉(たてまつ)り、母の3回忌の追善を願い出られたことがわかる。
 ほかにも、『曽谷殿御返事』『忘持経事』『千日尼御返事』『四条金吾殿御返事』『中興入道消息』などを拝せば、弟子檀那達が年忌・盆・彼岸の折に、宗祖大聖人へ故人の追善回向を願い出ていることがわかるのである。
 また、日興上人の書状を拝しても、「御霊供料」「盆料」「彼岸御仏料」等の表現が見られ、日興上人やその弟子達が、故人の追善供養のために、御本尊の前で、盂蘭盆や彼岸の読経を行なうことを述べられている。
 このように、宗開両祖の時代においても、僧侶による読経回向と、檀那の供養を伴(ともな)う追善仏事がなされたのである。
 つまり、"お盆に僧侶による読経は必要ない"とか、"お盆が大聖人の仏法とは関係ない"などと言うことは、宗開両祖の化儀を冒涜(ぼうとく)するものである。
 また、回向については、御本尊を根本とする四力成就(信力・行力により仏力・法力が顕現する)の追善回向の本義に対し、学会は衆生の修行のみを取り上げ、それを追善供養の根本であるとする。
 すなわち、御本尊よりも、むしろ衆生が中心となった功徳論に堕(だ)しているのであり、ここに、学会の誤りがあるのである。
 そもそも、衆生が御本尊を受持信行し、その功徳が他に回向されることはあっても、衆生の力のみでは功徳は生じない。
 仏法の追善回向は、あくまでも御本尊に具(そな)わる法仏の力用が根本であり、衆生の側には、この御本尊を根本とする信力・行力が必要である。そこに、四力が成就され、はじめて真実の追善の功徳が顕われるのである。
 しかも、衆生の信心を受け止め、正しくその功徳を顕わすことのできるのは、血脈相伝に基づく日蓮正宗の御本尊以外にないのである。
 仏法の追善供養の本義は、御本尊を根本として衆生の成仏を願うものであることを、けっしてなおざりにしてはならない。
 それ故に、26世日寛上人は
●凡(およ)そ当家の観心はこれ自力の観心に非ず。方(まさ)に本尊の徳用に由って即ち観心の義を成ず(御書文段P223)
●若し仏力、法力に依らずんば何ぞ能く我等が観心を成ぜんや(御書文段P228)
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と仰せである。
 それらの衆生の功徳善根の源は、御本尊即三宝尊の徳用にあるのだという、第一義の信仰が創価学会にはわからないのである。
 日蓮正宗の化儀は、全て御本尊への信心を根本とした、衆生成仏のためのものである。父母先祖の供養をしたい、という衆生の願いは、御本尊を根本とした葬儀・法事・盆・彼岸などの儀式において、四力成就の功徳のもとに追善回向されるのである。それは、また亡者のみならず、自身の善根を積むことにもなる。
 また、本宗の葬儀・法事・盆・彼岸の儀式のときに、僧侶が白袈裟(けさ)と薄墨の衣を纏(まと)い、御法主上人の名代として導師を務めるのは、下種三宝の御本尊の功力を根本にした、真実の追善回向を行なうためである。
 それはまた、同時に『当家三衣抄』に示されているように、他宗謗法の黒紫(こくし)金襴(きんらん)の法衣を簡異し、本宗の薄墨の名字本因下種の仏法を表明し、参列の衆生をして順逆二縁を結ばせる、折伏行でもある。
 日蓮正宗の化儀は、宗開両祖の化儀・化法をもととするのであり、この御本尊を根本として、衆生を成仏へ導(みちび)く本宗の化儀を通して、僧俗ともに正しい信心の筋目と功徳を自然に身に具えていくことができるのである。
 しかるに、本宗の相伝によらず、正しき化儀を否定し、ニセ本尊などを拝するかぎり、回向したくとも、回向すべき功徳がないどころか、罪障を積み、さらには先祖をも苦しめることになる。
 大聖人以来の本宗伝統の化儀を誹謗(ひぼう)し、中傷し、正しい先祖供養ができない創価学会員の先祖の苦しみは、察するに余りある。学会員諸兄には、一刻も早く反省懺悔(さんげ)され、日蓮正宗に帰伏することを祈るものである。(『慧妙』H24.9.16)



【昔の学会指導】
◆良き法と、良き師と、良き檀那との3つが、そろわなければだめだ。南無妙法蓮華経、これは良き法に決まっている。大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、64代の間を、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下を通して大御本尊様を拝しますれば、必ず功徳が出てくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私は、ひじょうに光栄とするものであります(昭和30年12月13日・関西本部入仏落慶式『戸田城聖全集』第4巻399頁)
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「良き師」とは「御法主上人」であり「良き檀那」とは学会員のことである。





重々の僧宝義


【正しい三宝義】
 三宝義には重々の立て分け、総別がある。これを無視してただちに在家の身で「弟子檀那すべてが僧宝」と主張することは、憍慢(きょうまん)謗法である。
 日達上人や日顕上人が「僧宝は日興上人に限る」という御指南をされたことがあるが、これはあくまでも別体三宝義を強調されたものである。さらには、謙譲の意味から「自分が僧宝である」とされることを控えられたものと拝するべきである。

<内証の三宝>
大聖人の一念に即する、因果倶時・人即法・法即人の御尊体に具される三宝
・仏-法即人の辺・久遠元初寿量品文底下種の御本仏
・法-人即法の辺・南無妙法蓮華経の御本尊
・僧-内証に即する本因修行の名字即の凡夫の辺、外用上行菩薩再誕の修行の辺


<別体の三宝(久遠元初の三宝)>
内証の三宝における一体三宝義は、衆生の凡眼には直ちに拝せない。そこで化導の上の法体に約して衆生に示される三宝
・仏-久遠即末法・行位体同・凡夫即極により、日蓮大聖人
・法-本因下種の法体・事の一念三千・人法一箇の独一本門戒壇の大御本尊
・僧-唯我与我血脈付法・直授相承の第2祖日興上人

●久遠元初の仏宝豈(あに)異人ならんや、則ち是れ蓮祖大聖人なり(中略)久遠元初の法宝とは即ち是れ本門の大本尊是れなり(中略)久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり(第26世日寛上人著『当流行事抄』/『富士宗学要集』第3巻214頁)
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日寛上人は『当流行事抄』の中で、末法の御化導における法体の下種三宝について、「仏宝は日蓮大聖人、法宝は本門戒壇の大御本尊、僧宝は日興上人(趣意)」と御指南されています。この法体の三宝に対する絶対の信こそが本宗信仰の根本です。(『大白法』H15.8.16)


<住持の三宝>
化導の法体として打ち立てられた三宝を末法万年に伝持・流通させていくために、住される三宝
・仏-日蓮大聖人
・法-事の一念三千・人法一箇の独一本門戒壇の大御本尊
・僧-日興上人より住持の第3祖日目上人をはじめとする歴代御法主上人

●南無仏・南無法・南無僧とは若し当流の意は(中略-仏宝、法宝を挙げたあと)南無本門弘通の大導師・末法万年の総貫首・開山・付法・南無日興上人師、南無一閻浮提座主・伝法・日目上人師、嫡々付法歴代の諸師(第26世日寛上人『当家三衣抄』/『富士宗学要集』第3巻238頁)
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この法体の三宝(※別体の三宝)に対し、下種三宝の法体を末法万年に伝持(でんじ)される日目上人以来の歴代の御法主上人は、外用の辺は「住持の三宝」の意義における僧宝の御立場と拝します。内証の辺では仏・法・僧の三宝は一体ですから、御歴代上人の御内証の血脈は、法体の三宝と一体不二の尊体にましますのです。故に御法主上人はその御内証の上から、御本尊書写の権能を持たれるのです。法体の下種三宝に深く帰依し奉るとともに、三宝伝持の血脈の御法主上人に信伏随従し奉るところに成仏の大功徳が存するのです。(『大白法』H15.8.16)

※学会では「日寛上人の『当家三衣抄』も化儀に関して定めた正依といえます。」(『日顕宗の邪義を破す』)などと言っている。「化儀に関して定めた」として当抄の意義を軽く見ているようであるが、化儀の前提には化法が存在する。化法に即して化儀は定められるのである。「住持の三宝」とはまさに、『当家三衣抄』の化儀の前提となる化法に属する基本的な法門である(<化儀と血脈>参照)。また学会が好んで用いる『当流行事抄』もまた、その名が示す通り「行事」=化儀に関する書である。

●此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云々。(第26世日寛上人『当家三衣抄』/『富士宗学要集』第3巻239頁)
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勤行唱題は化儀であるが、信心の基本である。その唱題行において「住持の三宝」を「一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え」るべきであると仰せなのである。僧宝が日興上人に限るのであれば、毎日の修行において歴代上人を三宝として念じる必要もなかろう。また、日興上人以外の歴代上人が一般僧侶や在家信徒と同等であるならば、「此くの如き三宝」に全てを列記されたはずである。ここに、一口に僧宝と言っても重々の総別が存在し、中でも歴代上人と一般僧侶、在家信徒の間には厳しく一線が画されていることが分かるのである。

1●僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず(『四恩抄』御書268・全集938頁)
●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり(『池上相承書』御書1675、全集1600頁)
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仏滅後、仏法を正しく伝えるのは僧の役目であり、僧宝と言われる所以である。僧宝が日興上人御一人に限られるのであれば、日興上人以降、仏法が断絶したことになってしまう。


<学会の矛盾>
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宗門において尊信の対象としての僧宝は、日寛上人が「久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり」(『当流行事抄』)と仰せのように、あくまで日興上人ただお一人である。(『新・教宣ハンドブック』H16.11.28)
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『当流行事抄』のどこに「尊信の対象としての僧宝」と書かれているのか。学会は"御書根本"と言いながら、こと三宝論については日寛上人の『当流行事抄』のみを振り回している。日寛上人を正師と仰ぐのであれば、『三宝抄』『当家三衣抄』『文段』等も合わせて考慮し、整合性のある解釈をするべきであろう。また、日寛上人の文証を用いるのであれば、彼らが正師と仰ぎ(?)ことあるごとにその御指南を利用している日亨上人についても同様に扱うべきである。すなわち同上人編纂の『百六箇抄』(後加文含む)も合わせて整合性のある解釈をするべきであろう。



【僧宝に重々の総別】
<僧宝=結要付属の方>
●吾が開山上人は智は先師に等しく徳は諸弟に超えたり、故に塔中伝授の秘要を付して本門弘通の大導師と称し、末法万年の総貫首と定め、二箇の相承を授けて延山の補処と為す、文証・現証了々分明なり。汝等智有らば此こに於いて疑いを生ずること勿れ云云。(第26世日寛上人『当流行事抄』/『富士宗学要集』第3巻215頁)

2●結要付属豈僧宝に非ずや(第26世日寛上人『当流行事抄』/『富士宗学要集』第3巻212頁)
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釈尊より上行菩薩への付嘱の体を所持している方こそ、末法の僧宝である。僧宝の存在意義は法の伝持にあるのだから(1●)、この付嘱もまた末法万年に存続することは当然である。↓

3●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
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「塔中及び蓮・興・目」とあるように、塔中における上行菩薩への別付嘱が、末法においては唯授一人血脈相承として歴代上人に伝わっている


●但し直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(『百六箇抄』全集869頁)
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「日蓮が正義」は「尽未来際に至るまで」「日興嫡嫡付法の上人」に「毛頭程も之れを残さず悉く付属」されていくのである。この文は所謂後加文であるが、日亨上人は「後加と見ゆる分の中に義において支語なき所には一線を引き」(『富士宗学要集』第1巻25頁)とあるごとく、史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのである。

●本仏の慈懐に酬(こた)えられて88歳の長寿を無病に薪尽火消・非滅現滅せられたる一閻浮提法華本門弘通の大導師の御涅槃は、安祥にして式の行事もまた日目上人によって厳粛に行なわる。以来620年、再々示現して利導衆生し、広宣流布の軌道を進行せらるべし。現本山法主60余世のなかのいくばくかその応現ならずとせんや。われら凡眼にして、たしかに知ること能(あた)わざるを憾(うら)むのみ。嗚呼(ああ)代々の貫首即日蓮日興の尊語をいかにせんや。(第59世日亨上人『富士日興上人詳伝(下)』274頁)

●仏法は伝法相承のことを重んずるが此れは能伝の人正しからざれば所伝の法又正しからざるによるが故である。(中略)教法を尋ねずとも伝法相承の跡を尋ぬれば法の帰趣を察することができる。(中略)(※『身延相承書』『池上相承書』を挙げた後)此れ聖祖付法の大儀を重んぜられ此れによって天魔の法を破る隙なからしめ給はんとせられたのである。三世の諸仏の施化は始終整備して毫末も欠くるところなく炳焉(へいえん)として具足している。 此くの如き厳然たる証明があって御滅後の衆生少しも付法の師に迷うところがない筈である。他山門徒諸士他はさてをいても此の御相承の御跡を尋ね此れに帰一して正法を立てなければならぬ。(第65世日淳上人『日淳上人全集』5頁~)
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大聖人から日興上人への別付嘱の「御跡を尋ね此れに帰一して正法を立てなければならぬ」と仰せである。

★仏滅後の仏法は僧宝によって伝持される(1●)。末法の僧宝は結要付属の体を伝持されている方である(2●)。結要付属は大聖人(上行菩薩)→日興上人→日目上人→と唯授一人の血脈相承によって相伝されている(3●)。このことから、大聖人、日興上人滅後の僧宝は住持の僧宝(歴代上人)が根本であることは明らか。


<僧宝=僧侶>
●吾が日興上人、嫡々写瓶の御弟子なる事分明也。故に末法下種の僧宝と仰ぐ也。爾来、日目・日道代々咸く是れ僧宝也、及び門流の大衆亦爾也云云(第26世日寛上人『三宝抄』)
[大衆]だいしゅ=一般の僧。衆徒。(三省堂『例解古語辞典』第3版)
[衆徒]しゅと=(1)奈良・京都の諸大寺の僧侶たち。平安末期以後は僧兵をさす。衆僧。僧徒。(2)特に、中世、奈良興福寺で、武装して寺院警護にあたった下級僧侶。(三省堂『大辞林』第2版)

●貴女は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり此僧は無戒なり無智なり二百五十戒一戒も持つことなし三千の威儀一も持たず、智慧は牛馬にるい(類)し威儀は猿猴ににて候へども、あを(仰)ぐところは釈迦仏・信ずる法は法華経なり、例せば蛇の珠(たま)をにぎり竜の舎利を戴くがごとし、藤は松にかかりて千尋をよぢ鶴は羽を恃みて万里をかける、此は自身の力にはあらず。治部房も又かくのごとし、我が身は藤のごとくなれども法華経の松にかかりて妙覚の山にものぼりなん、一乗の羽をたのみて寂光の空にもかけりぬべし、此の羽をもつて父母・祖父・祖母・乃至七代の末までも・とぶらうべき僧なり、あわれ・いみじき御たから(宝)は・もたせ給いてをはします女人かな、彼の竜女は珠をささげて・仏となり給ふ、此女人は孫を法華経の行者となして・みちびかれさせ給うべし(『盂蘭盆御書』全集1430頁)
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「無戒」「無智」であっても「法華経」を「信ずる」「僧」は「いみじき御たから(宝)」だと仰せである。御手紙を頂いた女性は在家信徒であるが、その人から見れば一般僧侶は「法華経の行者」であり「宝」(僧宝)なのである。

当宗出家の当躰即仏法僧三宝なるが故、又本理を以て法と為し、智水慧を以て仏と為し、慈悲を以て僧と為る故に、僧宝を供養すれば自ら仏界の供養となる義なるべし(第31世日因上人『有師物語聴聞抄佳跡上』/『富士宗学要集』第1巻192頁)


<僧宝=弟子檀那>
●末法の三宝とは、久遠元初自受用報身如来の再誕、法即人の主師親三徳本因妙の教主日蓮大聖人が仏宝であり、人即法の本地難思境地冥合事の一念三千無作本有の南無妙法蓮華経の大曼荼羅が法宝であり、大白法を正しく継承された日興上人を僧宝の随一とする。(中略)広く論ずれば正法を受持信行し随力弘通の任に当たる本宗僧俗のすべてが、僧宝である(『日蓮正宗要義』)
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『当流行事抄』は「随一」の僧宝を挙げられたものであり、日目上人以下が僧宝であることを否定したものではない。「随一」であって「唯一」ではないのである。

僧宝の意義に、総別の二義がある。別しては、大聖人より直授相承せられた日興上人にまします。故に、日興上人を僧宝の随一と仰ぐのである。総じては、唯授一人の血脈相承をもって、大聖人の法体を継承せられた御歴代上人が、全て僧宝にましますのである。したがって、時の御法主上人が、その時代における僧宝の中心なのである。なお、以上の総別の二義を合して別とした場合、御法主上人の法類である一般僧侶は、総じてこの僧宝の意義を顕現する立場に存するのである。また、さらに総じていうならば、日蓮正宗の信仰をする信徒にも僧宝の意義は存するといえる。しかし、『曽谷殿御返事』の、
総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輸廻生死のもといたらん(『曽谷殿御返事』全集1055頁)
との御指南、また日寛上人の『当家三衣抄』の、
●行者謹んで次第を超越する勿れ、勢至経の如きんば妄語の罪に因って当に地獄に堕つべし(第26世日寛上人『当家三衣抄』/『富士宗学要集』第3巻239頁)
との御指南のごとく、総別をわきまえず、その次第を越えたならば、かえって成仏の妨げとなり、地獄に堕ちることにもつながるのである。『化儀抄』の「僧俗の礼儀有るべきか」との御文の真意は、このことを指すのである。(『大日蓮』H3.4)



【御書にみる僧宝】
4●皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が・中程は信心もよはく僧をも恭敬せず供養をもなさず・自慢して悪見をなす、これ恐るべし恐るべし、始より終りまで弥信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん、(『新池御書』全集1440頁)
5●何としても此の経の心をしれる僧に近づき弥法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし。(『新池御書』全集1440頁)
6●願くは今度人間に生れて諸事を閣ひて三宝を供養し後世菩提をたすからんと願へどもたまたま人間に来る時は名聞名利の風はげしく仏道修行の灯は消えやすし、無益の事には財宝をつくすにおしからず、仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事これただごとにあらず、地獄の使のきをふものなり寸善尺魔と申すは是なり(『新池御書』全集1440頁)
7●貴僧・高僧には依るべからず、賎き者なりとも此の経の謂れを知りたらんものをば生身の如来のごとくに礼拝供養すべし是れ経文なり(『新池御書』全集1441頁)
8●末代の衆生は法門を少分こころえ僧をあなづり法をいるかせにして悪道におつべしと説き給へり、法をこころえたる・しるしには僧を敬ひ法をあがめ仏を供養すべし、今は仏ましまさず解悟の智識を仏と敬ふべし争か徳分なからんや、後世を願はん者は名利名聞を捨てて何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし、是れ正く経文なり。(『新池御書』全集1443頁)
9●此の僧によませまひらせて聴聞あるべし、此の僧を解悟の智識と憑み給いてつねに法門御たづね候べし、(『新池御書』全集1444頁)
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4●~8●の「僧」が大聖人に限定されないことは、同じ御手紙の「此の僧」(9●)が大聖人の命によって派遣された弟子であることから明らか。また「三宝を供養」(6●)「僧をも恭敬せず供養をもなさず」(4●)とあるように、供養の対象は三宝であり、その三宝(とくに僧宝)に大聖人の弟子(御僧侶)が含まれるのである。

●僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず(『四恩抄』御書268・全集938頁)
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仏滅後、仏法を正しく伝えるのは僧の役目であり、僧宝と言われる所以である。僧宝が日興上人御一人に限られるのであれば、日興上人以降、仏法が断絶したことになってしまう。

●所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合はせ是非を決せしめば、日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り、我が弟子等、出家は主上・上皇の師と為り、在家は左右の臣下に列ならん(『諸人御返事』御書1211、全集1284頁)

●両人共に大檀那たり、所願を成せしめたまへ。涅槃経に云はく「内には弟子有って甚深の義を解り、外には清浄の檀越有って仏法久住せん」云云。天台大師は毛喜(もうき)等を相語らひ、伝教大師は国道(くにみち)・弘世(ひろよ)等を恃怙(たの)む云云(『曽谷入道殿許御書』全集1038頁~)
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この御文は、天台大師・伝教大師の例を引かれ、僧侶と信徒の役割を明らかにされ、さらに僧侶のみでも、また信徒のみでも広宣流布は不可能であることを御教示されたものです。(中略)池田大作が勲章をぶら下げ、「広宣流布」と叫ぶのは勝手ですが、大聖人様の御指南に背いての「広宣流布」はありません。(『大白法』H15.2.1)

●総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり。若し然らば広宣流布の大願も叶ふべき者か(『生死一大事血脈抄』御書514、全集1337頁)
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「日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく」とあるように僧俗が異体同心であってこそ「総じて」の信心の血脈が流れ通う。「僧侶否定」の在家主義を唱える学会に血脈が流れないことは明らか。また、血脈のない学会が一時的に大きくなったとしても「広宣流布の大願」が叶はないことも明らかである。

●若輩為りと雖(いえど)も高位の檀那より末座に居る可からざる事(『日興遺誡置文』全集1618頁)

●貴賎僧俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、しかれども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか(第9世日有上人『化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻61頁)

※学会は「御書根本」であると主張しているが、三宝論については何故か御書を用いずに日寛上人の御指南(それも『当流行事抄』のみ)を用いている。これは大いに自語相違ではないか。まずは、自らが"唯一の正依"とたのむ御書のみを以て、三宝論を構築すべきであろう。



【邪義粉砕】
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かつての日蓮正宗の宗規を見ると、僧宝については「血脈付法の人、日興上人を僧宝とする」と書いてある。つまり、日興上人だけが僧宝だと規定されているでしょ?
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 これは、御法主上人を代表とする日蓮正宗全体の立場において僧宝を述べられたものですから、日興上人を僧宝と立てているのであって、信徒の立場からすれば御歴代上人方や御僧侶も僧宝に入るんです。(中略)
宗規に明記されていないことをもって、日興上人だけが僧宝である、などとは言えないでしょ。そもそも、この宗規とは、宗教を管轄する役所に提出するものだから、詳しい御法門の解説はなされていないし、また、日蓮正宗全体の立場から書かれているんです。(『慧妙』H23.3.16)

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日顕上人は
 「基本においては、日興上人をもって僧宝の随一として拝するわけであります。そういうところからするならば、歴代法主は僧宝以下の立場であって、それを軽々しく仏様だ、仏様だというような表現は、少し言い過ぎであると私は思っております」(『大日蓮』S58.5)
と、言っている。
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 まず僧宝とは、宝として尊ぶという、信仰上の尊信の対象です。信仰上の尊信とは、自ら身を低くして、下から上を仰(あお)ぎ尊ぶことですから、これを「自分が宝だ」などと思ったならば、下から上を仰(あお)いで尊ぶという信仰が成立しません。ですから、御歴代上人のお立場からすれば、その随一である日興上人を僧宝と仰(あお)ぎ尊ぶことが、正しいあり方で、日顕上人のお言葉は、まさに猊下のお立場の上から僧宝について仰(おお)せられたものですから、何ら矛盾(むじゅん)はありません。そして、我々信徒の立場からすれば、日興上人をはじめとする御歴代上人方、さらには御歴代上人の弟子として、大聖人の仏法を伝え護(まも)られている御僧侶方も、全て僧宝に連なる立場なのです。(中略)
僧宝には正法を伝え護り、弘める、という役割があるんです。学会版の御書全集にも『四恩抄』は収録されているでしょ。そこには
 「仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといえども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず」(御書268頁)
と、大聖人は仰(おお)せられていますよね。あなたの主張するように、僧宝が日興上人お一人だけだったならば、日興上人が御遷化(せんげ)されてしまったら、その時点で大聖人の仏法は消滅してしまい、創価学会初代会長の牧口さんも法華講員の三谷素啓さんに折伏されることなく、創価学会自体が存在していませんよ。(『慧妙』H23.3.16)

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日蓮大聖人直結の創価学会(『大白蓮華』S52.2/『慧妙』H16.7.16)。
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創価学会では、いちおう日興上人だけは僧宝として仰ぐかのようなことを言いながら、一方で、「日蓮大聖人直結」などと称してきた。自分たちが日蓮大聖人に直結しているというのなら、大聖人から今日まで仏法を習い伝えてこられた日興上人以下御歴代上人は不要、ということになってしまう。

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>大聖人が大御本尊を残されて入滅された後は、いったい誰が地涌の菩薩として広宣流布を進めていくのであろうか―こういう疑問が生ずる。ここに戸田前会長の、大聖人の御入滅700年後の出現が、重大な意義をもってくる(池田大作『広布第2章の指針』第10集/『慧妙』H16.7.16)

>今日における「僧宝」つまり仏法実践者の組織としては創価学会がある(『聖教新聞』S49.5.27/『慧妙』H16.7.16)

>戸田2代会長は(中略)人間革命の理念を掲げて、日蓮大聖人の仏法を現代に蘇生(そせい)させた(学会会則)
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つまり、大聖人の御入滅後、いったん仏法は滅びてしまったけれども、700年後、僧宝たる創価学会が出て仏法を蘇生させた、という意味で、これは2祖日興上人以来の日蓮正宗の正法伝持を全面否定する暴言であります。

 三宝である「仏法僧」の「僧」は、本来、在家に対する出家の意味である。そして、僧の役割の中心は正法の伝持にある(1●)。また、上記【御書にみる僧宝】に明らかなように、仏法を信じる者の中に僧俗の立場の相違が存在することは明白である。
 学会のように重々の総別の存在を無視して、"在家が僧宝""大聖人直結"と主張することは、釈尊以来の仏法にも大聖人の御指南にも背く大謗法というべきである。

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大聖人の究極の教えが日寛教学を通じて公開されている現代では、すべての信仰者が〝僧宝の一分になりうる〝存在である。(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
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 汝は〝大聖人の究極の教え〟などと抽象的な言辞を用いているが、要するに、汝らは、従来それが三大秘法義であると主張している。しかし、これまでにも何度も教えたように、三大秘法義の実体とは、日寛上人が『文底秘沈抄』に、「一器の水を一器に移す」と御指南の「蓮師の心月」であり、唯授一人金口嫡々の法体である。この法体は大聖人以来、代々の上人の胸中の肉団に秘して持たれるところであり、文書によって〝公開〟されるような次元と異なる御内証の深義であることが、邪信邪念の汝にはどうしても領解できぬらしい。このことが領解できなければ、汝らが〝僧宝の一分になりうる〟ことなど絶対にないのである。而るに汝が、〝今の私たちは、信仰の本質的次元において、法主とまったく対等な立場にいる〟などと述べることは、身の程を弁えぬ逆(ぎゃく)路迦耶陀(ろかやだ)の慢言であると断ずる。
 ここで汝に教えておく。我らが僧宝の一分に成りうるか否かは、御法門の公開未公開によるのではない。大聖人よりの唯授一人金口相承により大聖人の御法魂を御内証に具えられた御法主上人に信伏随従して、正しく信仰に励むか否かにある。したがって、その筋道を無視して、〝すべての信仰者が〝僧宝の一分になりうる〟存在〟などではけっしてないのである。さらにいえば、本宗の僧俗は、御仏意に適った正しい信仰を実践しているゆえに、〝僧宝の一分になりうる〟存在ではあるが、血脈付法の御法主上人に背逆する汝ら創価学会員は、〝僧宝の一分になりうる〟道理など微塵もないことを告げておく。(『大白法』H17.12.1)



【昔の学会指導】
●頭を剃り袈裟を著せば持戒及び毀戒をも、天人彼を供養すべし、即ち我を供養するに為りぬ、是れ我が子なり若し彼を撾打(ただ)する事有れば則ち我が子を打つに為りぬ、若し、彼を罵辱(めにく)せば則ち我を毀辱(きにく)するに為りぬ(『立正安国論』全集30頁/『戸田城聖全集』第3巻446頁)

◆「僧宝」とは、今日においては日興上人よりの唯授一人の法脈を受けられた御法主上人猊下であられる(池田大作『聖教新聞』昭和53年2月26日)





三宝一体


【内証と外用】
●日興上人已下代々も亦爾なり、内証に順ずる則んば仏宝なり、外用に順ずれば則ち僧宝なり(第31世日因上人御消息 金沢妙喜寺蔵/<宗門>WS)
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宗門の御能化が学会に送付した文書には「唯授一人の血脈の当処は戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします」とある。学会はこれを、"法主本仏論"だといって非難している。しかしこれは、「三宝一体」の上から述べられたものなのである。仏・法・僧は、外用の上からは別であるが、内証の上からは一体なのである。

●本宗信徒の立場からは、歴代法主の内証を大聖人様と拝することが、信仰上、大切でありますが、そこには三宝における内証と外用等の甚深の立て分け、筋道があるのです(中略)学会が論難する「法主即大聖人」や「法主本仏」などとは、筋道も意義も異なるのであり、そのようなことは全く宗門には存在しておりません(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』245頁)
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三宝における内証と外用の立て分けについて御指南され、学会の言い掛かりを明確に否定されている。(『大白法』H18.2.1)


<内証>
●凡(およ)そ謗法とは謗仏・謗僧なり三宝一体なる故なり(『真言見聞』全集142頁)

●問う、三宝に勝劣ありや。答う、此れ須(すべか)らく分別すべし、若し内体に約さば実に是れ体一なり。所謂法宝の全体即即ち是れ仏宝なり。故に一念三千即自受用身と云い、又十界具足を方に円仏と名づくと云うなり。亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也(第26世日寛上人『三宝抄』/歴代上人全書4-392)
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ここでいう法水写瓶の義が日興上人に限るものでないことは、以下の御指南に明らか。↓

●目師より代々今に於て、二十四代金口の相承と申して一器の水を一器にうつすが如く云々(第26世日寛上人『寿量品談義』/『富士宗学要集』第10巻131頁)
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真の「三宝一体」義かどうかは、僧宝に重々の総別のある中で、唯授一人血脈相承の有無が分岐点であるといえる。

●嗚呼(ああ)代々の貫首即日蓮日興の尊語をいかにせんや。(第59世日亨上人『富士日興上人詳伝(下)』274頁)

●大聖人様が広宣流布の時の大導師日目上人様として、第3代を継いで現われたのが猊座であります(中略)そこが大聖人様のお席である。だから大聖人様は、あの席に常に生れ替っている(第66世日達上人『日達上人全集』2-3-320頁/『大白法』H18.2.1)
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法主上人の御内証について御指南。


<外用>
●若し外相に約さば任運勝劣あり、所謂、仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師となす故也。故に法宝を以て中央に安置し、仏及び僧を以て左右に安置するなり(第26世日寛上人『三宝抄』)
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「外相」=「外用」とは凡夫即極の大聖人であり、仏と拝する。つまり示同凡夫のお姿ではあっても仏と拝し、仏としての振る舞い(数々見擯出、本尊建立など)をなさる。さらに僧宝を弟子とし、法宝を師とする。これが外用である。歴代上人は僧宝であるから仏をもって師とする。ここに相違勝劣があるものの、内心の悟りは一体なのである。

●法主が大聖人様の代わりだと、即座にこういうことを言うと、外から非難されますから、よくその点に注意していただきたい(第66世日達上人『日達上人全集』2-5-451頁/『大白法』H18.2.1)
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法主上人の外用についての御教示。



【邪難粉砕】
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>日寛上人は、ご自身が相承を受けられた後でも、歴代法主だけは本仏と一体である、などと決して説かれなかった(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
>最晩年に完成された再治本の『六巻抄』に、そのような主張は、どこにもみられない(同)
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●若し内体に約せば実には是れ体一なり。所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり故に一念三千即自受用身と云い、又十界互具方名円仏と云うなり。亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也。(第26世日寛上人『三宝抄』/『歴全』4-392頁)
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 「三宝一体」の意義が説かれている。後にも述べるが、「三宝一体」である故に、日興上人のみならず、歴代の御法主上人の御内証は、御本仏大聖人と一体である。
 この『三宝抄』は、日寛上人が第27世日養上人に血脈相承せられて御隠尊となられた後の享保7年(1722)の御著述である。ゆえに〝日寛上人は、ご自身が相承を受けられた後でも、歴代法主だけは本仏と一体である、などと決して説かれなかった〟などという汝の言が、事実に相違する虚言であることは明らかではないか。(『大白法』H17.11.1)

●今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し(第26世日寛上人『文底秘沈抄』)
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 日寛上人は「一器の水を一器に写すが故に師弟体一・三宝一体」(『三宝抄』)であると仰せられているのであるから、「一器の水を一器に移す」(『文底秘沈抄』)御歴代上人をも三宝一体であると仰せられていることは明々白々である。
 日寛上人が『三宝抄』と『文底秘沈抄』に「一器の水」と述べられた文意は、どちらも御本仏大聖人の血脈法水について示されたものである。すなわち御歴代上人が御内証に受け継がれる血脈法水には勝劣・区別はないのであり、その意義において、御歴代上人においても「三宝一体」と拝することが日寛上人の御意なのである。「三宝一体」の義が『六巻抄』に明文として示されていないといっても、この『三宝抄』の御指南と『文底秘沈抄』の御指南は同じ趣旨であり、〝最晩年に完成された再治本の『六巻抄』に、そのような主張は、どこにもみられない〟という汝の言は誣妄(ふぼう)である。(『大白法』H17.11.1)


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>むしろ『当家三衣抄』の最後の所で、日寛上人は、宗門の三宝を論ずるとともに、「行者謹(つつし)んで次第を超越する勿(なか)れ」との誡めの言葉を残されている(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
>これは、「法主即日蓮」の義などに基づく「法主信仰」を、上人が否定されていた証左である(同)
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●南無仏・南無法・南無僧とは、若し当流の意は、(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師。此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云云。(第26世日寛上人『当家三衣抄』)
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汝が引く文の前には、「※上記●」と示されている。したがってこの文は、本宗の信仰において三宝を念ずることを御教示されたものであり、中において、日興上人、日目上人以来の御歴代上人を僧宝として拝すべきことを明確に御指南されるとともに、行者即ち本宗僧俗は、仏法僧の三宝を拝するという「次第」を越えてはならないとの意である。その「次第」を越えたならば、成仏の妨げとなる。汝の引くところの「行者謹んで次第を超越する勿れ」の御指南は、かえって宗祖大聖人以来唯授一人の血脈を承継され、尊信すべき血脈付法の御法主上人を、能所の「次第」を越えて蔑ろにする汝らのごとき邪義を厳しく誡められたものである(『大白法』H17.11.1)。



【昔の学会指導】
◆本宗における厳粛なる法水瀉瓶唯授一人の血脈は、法統連綿と、代々の御法主上人に受け継がれて、今日に至っております。あくまでも、御本仏は、日蓮大聖人であらせられ、唯我与我の御法主上人の御内証を、大聖人と拝すべきなのであります。私がごとき者を、かりそめにも、本仏などと、言うことはもちろん、思ったりすることも謗法なのであります(池田大作『大白蓮華』S54.6・16頁)


 『御本尊七箇之相承』には、
 「代々の上人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典379頁)
と仰せられ、唯授一人血脈付法の御歴代上人方を日蓮大聖人と拝し、その時代における大聖人の代理者と仰ぐべきことをお示しくださっている。また、35世日穏上人は、先師日元上人より御相承を受けられた際の模様を、次のように御教示せられている。
 「元師いわく『日蓮が胸中の肉団に秘し隠し持ちたもうところに、唯以一大事の秘法を、ただ今、御本尊並びに元祖大聖人・開山上人御前にして、三十五世日穏上人に一字一問も残さず悉く付嘱せしむ。謹んで諦聴あるべし』とて、すなわち一大事の秘法御付嘱あり。並びに開山日興上人・日目上人・日有上人等御箇條の條々、残さず御渡しあってさて元師のいわれるよう、『この秘伝、胸中に納めたもう上は、日蓮・日興・日目乃至日因上人・日元その許、全体一体にて候。なかんずく日穏には、当今末法の現住・主師親三徳兼備にして、大石寺一門流の題目は皆、貴公の内証秘法の南無妙法蓮華経と御意得候え』との御言葉なり。」
さらに、日寛上人編『当家御法則』にも、
 「末法の本尊は日蓮聖人にて御座す也、然るに日蓮聖人御入滅有りて補処を定む、其の次々々に仏法を相属す、当代の法主の処に本尊の体有る可きなり、此の法主に値うは、聖人の生まれ替りて出世し給う故に生身の聖人に値遇し結縁す」(『研究教学書』9巻740頁)
と示されているが、要するに、何時いかなる状況にあろうとも、富士大石寺の御歴代上人の門流となり通し、けっして離反せぬことこそ、本師日蓮大聖人の御意に適った師弟相対の姿であり、正しく血脈の流れ通う筋目なのである。顕正会員は、浅井を信ずる前に、これら大聖人・御歴代上人の御教示を伏して信ずべきであろう。
 なお、浅井は、前掲の『御本尊七箇之相承』の御文の文意について、「よく読んでみれば、法体の付嘱を受けたもうた嫡々代々の上人が書写された御本尊は、ことごとく即戒壇の大御本尊、即日蓮大聖人の御魂と信ぜよとの御意にすぎない」などと述べている。しかるに、浅井のいう、御歴代書写の御本尊に約して即日蓮大聖人の御当体と信ぜよ、との文意は、『七箇之相承』の次上の文に、すでに
 「日蓮と御判を置き給う事如何。師の日わく、首題も釈迦・多宝も上行・無辺行等も普賢・文殊等も舎利弗・迦葉等も梵・釈・四天・日月等も鬼子母神・十羅刹女等も天照・八幡等も悉く日蓮なり(長文ゆえに中略)本尊も書写の事、予が顕わし奉るが如くなるべし。若し日蓮御判と書かずんば天神・地神もよも用い給わざらん」(聖典379頁)
と示されているのである。このことを踏まえ、虚心坦懐に拝するならば、
 「日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給う事如何。師の口わく、深秘なり、代々の上人悉く日蓮なりと申す意なり」(同頁)
との御文は、御本尊を書写あそばす嫡々御歴代上人の位に約して日蓮大聖人と仰ぐべき文意であること、天日を見るがごとく明々白々ではないか。苦しい言い逃がれは、所詮、無理というものである。
 また、浅井の息子の克衛にいわせると、前に引用せる『当家御法則』について、「この書の題号は『抜書雑々集』であって、これを『当家御法則』などと称するのは大誑惑で、切腹ものだ」そうであるが、この書を謹写せられた29世日東上人は、題号を『当家御法則』と御認めになっておられる。克衛のいう『抜書雑々集』というのは、じつは、同書の副題にあたるものなのである。また、克衛は、ここに同書から引用した一節も、「日寛上人の文ではなく左京日教師の文であって、日寛上人はこれを破折のために引用されたのである」と強弁するが、克衛は何か夢でも見ているのではないか。いったい、どこに日寛上人がこの文を破しておられるというのか。左京日教師の書中の文とはいえ、これが本宗の信条にも相適う内容である故に、日寛上人が自在に用い、しかも肯定的な意味に構成されているのだから、むしろ、この文は日寛上人の御教示と仰いで、なんら、さしつかえない筈である。笑うべき思いつきはやめるがよかろう。
(「摧破異流義考」昭和63年10月『暁鐘』別冊号)





〝尊信の対象となる僧宝は日興上人御一人である〟との謬義を破す

(日蓮正宗青年僧侶邪義破折班『大白法』H17.12.1編集)

宗門において尊信の対象としての僧宝は、日寛上人が「久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり」(『当流行事抄』)と仰せのように、あくまで日興上人ただお一人である。(『新・教宣ハンドブック』H16.11.28)


【三宝安置のあり方】
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(『三宝抄』は)「法宝を以て中央に安置し仏及び僧を以て左右に安置する」「仏宝を右の上座に安置し僧宝を左の下座に安置し」云々と、三宝安置のあり方が長々と論じられている(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
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三宝一体を御指南される『三宝抄』に別体三宝の御本尊奉安形式が述べられていることを唯一の根拠に、何が何でも「三宝一体」として拝するのは日興上人までであるとこじつけるのである。まさに『三宝抄』の脈絡を無視した詭弁というほかはない。

●所謂僧宝は日興上人を首(はじめ)と為す、是れ則ち秘法伝授の御弟子なる故なり。(第26世日寛上人『三宝抄』/『歴全』4-385頁)
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等と仰せられ、全般を通じて日興上人は僧宝の上首であり、さらにまた僧宝たる理由が「秘法伝授の御弟子」つまり唯授一人の血脈相承にあることの上から、それ以下の血脈付法の御歴代上人をも僧宝であるという意義が明示され、その趣旨は一貫しているのである。

 汝は〝三宝安置のあり方が長々と論じられ〟などと文章量を理由にして僧宝は日興上人お1人に限ると主張しているが、法義を判定する上で重要なのは文義であり、量が問題でないことは小学生でも知っていることである。
 『三宝抄』に別体三宝の御本尊奉安形式に触れられるのは、内体に約して「三宝一体」ながら外相に約して「任運勝劣」の意義が具わる例として述べられたのである。従って日寛上人は、汝の言う如く、内体に約する「三宝一体」の語を、御歴代上人を外して日興上人にのみ限定されているのではない。日寛上人は別体三宝において、御本尊に向かって、左右対称に仏(大聖人)と僧(日興上人)が安置されていても、そこに差別があるという意義を「右尊左卑」等の国風や、南北などの向きによって、左・右に上座・下座の区別が自ずと具わることを述べられたのである。


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歴代法主が『三宝抄』に説く三宝一体の僧宝に含まれる、と本気で思うのなら、大石寺の宝前に、67人の法主の「御影」をずらりと並べて拝みなさい(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
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 日蓮正宗における御本尊の奉安形式においては、一体三宝、別体三宝等があるが、これらは開合の相異であり、一体の御本尊の中にも、人法の御本尊と三宝の全てが具わるのである。しかるに、特に御本尊に具わる三宝の意義を開けば、御本尊の左右に大聖人、日興上人の御影を安置する別体三宝となるのであり、日寛上人が「所謂僧宝は日興上人を首と為す」と御指南される如く、別体三宝の場合、根本の僧宝たる日興上人の御影を御安置し帰命する意義の中に、それ以下の御歴代上人に帰命する意義も含まれるのである。故に本宗においては、本尊奉安形式の如何に関わらず、御宝前に於いては必ず日目上人以下の御歴代上人に対しても、南無し奉り、御威光倍増乃至御報恩謝徳の御観念を申し上げるのである。
 汝が〝67人の法主の「御影」〟などと悩乱の言を述べるのは、汝がすっかり大石寺門流の信仰を捨て去り、学会の売僧になりさがって改悪された観念文によって日夜に邪行を行っているからである。また〝67人〟とは総本山第67世日顕上人に対する誹謗の意味で言っているのであろうが、総本山の系譜は御本仏宗祖大聖人を初祖とし、67世を数えているのであり、汝の言は御当代日顕上人を非難するのみならず、御本仏大聖人に対しても〝ずらりと並べて拝みなさい〟などと愚かしい悪態をつき、冒涜しているのである。

大石寺の宝前に、67人の法主の「御影」をずらりと並べて拝みなさい
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こんなことを真面目に考えるとは、頭がどうかしているとしか思えない。この論理だと、勤行での御観念文(3座)でも、歴代上人の御名前をすべて念じなければならなくなる。しかし、実際にはそうなってはいない。そうなっていないけれども御名前が挙げられていない方々も供養の対象になっている。それと同じである。(法蔵)


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同じく法水写瓶の表現が使われていても、『三宝抄』では信仰対象として安置すべき僧宝が、『文底秘沈抄』では法義継承面での大石寺の正統性が、それぞれ論じられている。2つの議論は、次元の異なる話なのである(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
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●所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり故に一念三千即自受用身と云い、又十界互具方名円仏と云うなり。亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也(第26世日寛上人『三宝抄』/『歴全』4-392頁)
●今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し(第26世日寛上人『文底秘沈抄』)
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 との御指南において、「一器の水を一器に」との「法水写瓶」の意義が、大聖人から日興上人までと、それ已下の御歴代上人とで〝次元の異なる話〟などと主張する汝こそ、この明らかな日寛上人の文意に背いて三宝義に迷惑し、日寛上人を冒涜する不徳漢である。
 汝の『三宝抄』に対する理解が先に述べる如くに誤謬である以上、『三宝抄』『文底秘沈抄』ともに、御歴代上人が承継遊ばされる血脈法水が大聖人の御内証の法水と寸分違わないこと、またその意義において三宝一体を志向された御指南であることは明々白々たる事実なのである。



【僧宝の一分】
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日寛上人は、『三宝抄』の中で「予が如き無智無戒も僧宝の一分なり」と述べられている。御自身を「僧宝の一分」とされたことは、教義の根幹にかかわる以上、単なる謙遜の表現ではない(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
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汝の言う如く〝御自身を「僧宝の一分」とされたことは〟〝単なる謙遜の表現ではない〟ならば、御自身の真実を述べられた御指南と拝するのが当然である。すなわち『三宝抄』の「予が如き無智無戒も僧宝の一分なり」との御指南を素直に拝せば、「日寛が如きは無智であり無戒のものであるけれども、大聖人よりの唯授一人金口嫡々の血脈相承をお受けした以上は僧宝の一分である」と御自身の自覚を披瀝(ひれき)遊ばされた御指南であることが明白である。つまり、「予が如き無智無戒」とは御謙遜遊ばされた表現であるが、「僧宝の一分なり」とは真実を述べられた言辞と解するのが正しい拝し方である。このような簡単明瞭な御指南も理解できぬ汝の読解能力は、極めて低いものと言っておく。(『大白法』H17.12.1)


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大聖人の究極の教えが日寛教学を通じて公開されている現代では、すべての信仰者が〝僧宝の一分になりうる〟存在である。(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
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 汝は〝大聖人の究極の教え〟などと抽象的な言辞を用いているが、要するに、汝らは、従来それが三大秘法義であると主張している。しかし、これまでにも何度も教えたように、三大秘法義の実体とは、日寛上人が『文底秘沈抄』に、「一器の水を一器に移す」と御指南の「蓮師の心月」であり、唯授一人金口嫡々の法体である。この法体は大聖人以来、代々の上人の胸中の肉団に秘して持たれるところであり、文書によって〝公開〟されるような次元と異なる御内証の深義であることが、邪信邪念の汝にはどうしても領解できぬらしい。このことが領解できなければ、汝らが〝僧宝の一分になりうる〟ことなど絶対にないのである。而るに汝が、〝今の私たちは、信仰の本質的次元において、法主とまったく対等な立場にいる〟などと述べることは、身の程を弁えぬ逆(ぎゃく)路迦耶陀(ろかやだ)の慢言であると断ずる。
 ここで汝に教えておく。我らが僧宝の一分に成りうるか否かは、御法門の公開未公開によるのではない。大聖人よりの唯授一人金口相承により大聖人の御法魂を御内証に具えられた御法主上人に信伏随従して、正しく信仰に励むか否かにある。したがって、その筋道を無視して、〝すべての信仰者が〝僧宝の一分になりうる〟存在〟などではけっしてないのである。さらにいえば、本宗の僧俗は、御仏意に適った正しい信仰を実践しているゆえに、〝僧宝の一分になりうる〟存在ではあるが、血脈付法の御法主上人に背逆する汝ら創価学会員は、〝僧宝の一分になりうる〟道理など微塵もないことを告げておく。(『大白法』H17.12.1)



【本尊書写】
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●今「受持」とは即ち是れ偈の中の総体の受持なり。故に五種の妙行に通じ、五種の妙行を総するなり。然るに今、受持正しく信心口唱に当たるとは、信心は即ち是れ受持が家の受持なり。口唱は即ち是れ受持が家の読誦なり。当に知るべし、受持が家の受持読誦は此れ即ち自行なり。今自行の観心を明かす故に但自行の辺を取るなり。解説書写は化他を面と為す故に之を論ぜず。解説は知んぬべし。本尊書写豈化他に非ずや。(第26世日寛上人『観心本尊抄文段』)
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日寛上人は、あくまで法主を修行者と考えられた。それは、上人が『観心本尊抄文段』の中で、法主の本尊書写を、「受持」という信心修行の位における書写行、とされたことからも明らかである(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
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 汝の言は、能所を混乱した邪義というほかはない。
 この御指南は、下種仏法における五種の妙行を示されたものであるが、本尊書写の部分は御法主上人に限られるのであり、能化たる御法主上人の本尊書写は化他行に当たるとの意である。すなわち御法主上人がその御内証の法体を、一切衆生の信心の対境として御認(したた)め遊ばされる御本尊書写は、能化における化他行の意義が存するとの御指南である。したがって、この「本尊書写豈化他に非ずや」の御指南を、所化の修行と同等の〝「受持」という信心修行の位における書写行〟と解釈することは大間違いであり、摧尊入卑の邪言である。汝の主張は、あくまで御法主上人を「僧宝」「能化」から外し、「所化」に属させたいが為にする邪悪な欺誑であると断ずる。(『大白法』H17.12.1)



【大聖人の御指南】
1●皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が・中程は信心もよはく僧をも恭敬せず供養をもなさず・自慢して悪見をなす、これ恐るべし恐るべし、始より終りまで弥信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん、(『新池御書』全集1440頁)
2●何としても此の経の心をしれる僧に近づき弥法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし。(『新池御書』全集1440頁)
3●願くは今度人間に生れて諸事を閣ひて三宝を供養し後世菩提をたすからんと願へどもたまたま人間に来る時は名聞名利の風はげしく仏道修行の灯は消えやすし、無益の事には財宝をつくすにおしからず、仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事これただごとにあらず、地獄の使のきをふものなり寸善尺魔と申すは是なり(『新池御書』全集1440頁)
4●貴僧・高僧には依るべからず、賎き者なりとも此の経の謂れを知りたらんものをば生身の如来のごとくに礼拝供養すべし是れ経文なり(『新池御書』全集1441頁)
5●末代の衆生は法門を少分こころえ僧をあなづり法をいるかせにして悪道におつべしと説き給へり、法をこころえたる・しるしには僧を敬ひ法をあがめ仏を供養すべし、今は仏ましまさず解悟の智識を仏と敬ふべし争か徳分なからんや、後世を願はん者は名利名聞を捨てて何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし、是れ正く経文なり。(『新池御書』全集1443頁)
6●此の僧によませまひらせて聴聞あるべし、此の僧を解悟の智識と憑み給いてつねに法門御たづね候べし、(『新池御書』全集1444頁)
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上記は、すべて同じ御手紙である。1●~5●の「僧」が大聖人に限定されないことは、6●の「此の僧」が大聖人の命によって派遣された弟子であることから明らか。ここでは「仏法僧」つまり三宝の1つである僧宝を、御僧侶(別付嘱の方に限らない)としている。それでも「生身の如来のごとくに礼拝供養すべし」「生身の如来の如くに敬ふべし」と仰せである。成程、松岡某の言うように"安置すべき"僧宝は日興上人お1人かも知れない。しかし"信仰対象"として「生身の如来のごとくに礼拝供養」し「敬ふ」べきは、正師の下で出家された御僧侶全体なのである。(法蔵)



【日寛上人を正師と仰ぐ者へ】
"御書根本""大聖人直結"と主張する創価学会にあって、御書の文証も示さずに日寛上人の御指南を無条件に挙げる者は、同師を正師と仰いでいるはずである。ならば、同師の御指南すべてについても正師の言として仰ぐべきである(そうでなければ、学会の立場をよくするために日寛上人を利用しているに過ぎない)。そこで汝に確認する。

●三大秘法随一の本門の戒壇の本尊は今富士の山下に在り、故に富士山は即ち法身の四処なり、是れ則ち法妙なるが故に人尊く、人尊きが故に処貴しとは是れなり。(第26世日寛上人『文底秘沈抄』)
●根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、(中略)既に是れ広布の根源の所住なり、蓋ぞ本山と仰がざらんや。(同)
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①本門戒壇の大御本尊まします総本山が法身の四処であり、広布の根源であると仰せられている。汝はこの御指南を死守するや否や、明確に返答せよ。

●今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや、是の故に御心今は富山に住したもうなり。(第26世日寛上人『文底秘沈抄』)
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②大聖人の清浄なる血脈法水が4百余年の間、日寛上人まで厳然と御歴代上人によって伝持されており、大聖人のお心は大石寺に住されていると仰せられている。汝はこの御指南を死守するや否や、明確に返答せよ。

●南無仏・南無法・南無僧とは、若し当流の意は、(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師。此くの如き三宝を一心に之れを念じ(第26世日寛上人『当家三衣抄』)
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③信仰の筋目の上から、御歴代上人を僧宝と仰ぐべきことを御指南されている。汝はこの御指南を死守するや否や、明確に返答せよ。

●若し法華経の謂(いわれ)を知らざれば法華も仍(なお)これ爾前の経なり(乃至)若し本門の謂を知らざれば本門は仍これ迹門なり(乃至)若し文底の謂を知らざれば文底は仍これ熟脱なり(乃至)若し文底の謂れを知れば熟脱も即ちこれ文底の秘法なり(乃至)問う、若し爾らばその謂は如何。答う、宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
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④法華経だけでなく、文底下種仏法も相伝(釈尊→上行菩薩=大聖人→日興上人→日目上人→)によって正しく知ることができると御指南されている。汝はこの御指南を死守するや否や、明確に返答せよ。

これら日寛上人の明文に対する学会の背逆大謗法が明らかな以上、汝が今後、日寛上人の御指南を悪用し、〝日寛上人の正統教学を受け継ぐ創価学会〟などと欺瞞することは絶対に許されない。





維摩経について


維摩経にいわく「阿耨多羅三藐三菩提心を発せば、是即ち出家」とあり、出家自体には功徳も利益もなく、無上の仏法を求めて実践する人を「僧」というのである。

大聖人は維摩経を引用されているが、当該御文は用いられていない。

・維摩経は爾前権経であり、方便の教えである。
・爾前権経といえども、法華経(三大秘法)の証明のために引用する場合もあるが、正法の義に反するものは用いない。
・既に大聖人の御指南において、僧俗に差別のあることが明らかである以上、それに反する文証は用いない。




【方便教を用いる理由】
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>薬師経に云く「自界叛逆難」と是れなり。
>仁王経に云く「聖人去る時は七難必ず起こる」云云。
>金光明経に云く「三十三天各瞋恨を生ずるは、其の国王悪を縦(もしいまま)にし治せざるに由る」等云云。日蓮は聖人にあらざれども、法華経を説の如く受持すれば聖人の如し。又世間の作法兼ねて知るによて、注し置くこと是れ違ふべからず。現世に云ひをく言の違はざらんをもて、後生の疑ひをなすべからず。(佐渡御書)
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これらを用いておられる大聖人を否定するのかい?
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●総じて一代聖教を大に分つて二と為す一には大綱二には網目なり、初の大綱とは成仏得道の教なり、成仏の教とは法華経なり、次に網目とは法華已前の諸経なり、彼の諸経等は不成仏の教なり、成仏得道の文言之を説くと雖も但名字のみ有て其の実義は法華に之有り、伝教大師の決権実論に云く「権智の所作は唯名のみ有て実義有ること無し」云云、但し権教に於ても成仏得道の外は説相空しかる可からず法華の為の網目なるが故に、所詮成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す、法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり、其の上法華経にて実義有る可きを爾前の経にして名字計りののしる事全く法華の為なり、然る尤も法華の証文となるべし。(『観心本尊得意抄』全集972頁~)
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爾前権経といえども、法華経(三大秘法)の証明のために引用する場合もあるが、法華経(三大秘法)の義に反するものは用いない。



【方便教の解釈】
●爾前は迹門の依義判文・迹門は本門の依義判文なり、但真実の依文判義は本門に限るべし(『十章抄』全集1274頁)
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経文を解釈する場合は、その文にとらわれるのではなく、より高い経典に説き示された義によって解釈しなければならない。

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般泥洹経に云く「当来の世仮りに袈裟を被て、我が法の中に於て出家学道し、懶惰懈怠にして此等の方等契経を誹謗すること有らん。当に知るべし此等は皆是れ今日の諸の異道の輩なり」等云云。此の経文を見ん者自身をはづべし。今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは、是れ仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり。(佐渡御書)
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↑これって君んとこのハゲがしっかり見んとあかん御文でんなぁ~ハッハハハハー
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出家が僧宝といっても、所持する法が正しいことが前提である。これは、邪宗の僧を破折する御文であって、僧侶の存在自体を否定したものではない。



【引用部分以外の正否】
●其の故は世間の浅事すら展転多き時は虚は多く実は少し。況や仏法の深義に於てをや。如来の滅後二千余年の間、仏法に邪義を副へ来り、万に一も正義無きか。一代の聖教多分は誤り有るか。所以に心地観経の法爾無漏の種子、正法華経の属累の経末、婆沙論の一十六字、摂論の識の八九、法華論と妙法華経との相違、涅槃論の法華煩悩所汚の文、法相宗の定性無性の不成仏、摂論宗の法華経の一称南無の別時意趣、此等は皆訳者人師の誤りなり、此の外に亦四十余年の経経に於て多くの誤り有るか。設ひ法華・涅槃に於て誤有るも誤無きも、四十余年の諸経を捨てて法華・涅槃に随ふべし。(『開目抄』全集45頁)
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大聖人は心地観経、法華論等について「皆訳者人師の誤り」が存在すると仰せである。それでも以下のように、これらを文証として引用されている。このことから分かることは、文証として用いられているからといって、引用以外の部分まで正しいとはいえない、ということである。

心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」等云云(『開目抄』全集231頁)

●南岳天台既に天親・竜樹の論に依て合説の意を判釈せり、所謂法華論に云く(『当体義抄』全集515頁)

●其の身は無智無行にもあれかみをそり袈裟をかくる形には天魔も恐をなすと見えたり、大集経に云く「頭を剃り袈裟を著くれば持戒及び毀戒も天人供養す可し則ち仏を供養するに為りぬ」云云、又一経の文に有人海辺をとをる一人の餓鬼あつて喜び踊れり、其の謂れを尋ぬれば我が七世の孫今日出家になれり其の功徳にひかれて出離生死せん事喜ばしきなりと答へたり、されば出家と成る事は我が身助かるのみならず親をも助け上無量の父母まで助かる功徳あり、されば人身をうくること難く人身をうけても出家と成ること尤も難し(『出家功徳御書』全集1251頁)
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出家の功徳について大聖人は、維摩経ではなく大集経を用いておられる。このことから分かるように、維摩経の他の部分を文証として引用されているからといって、維摩経全体が正しいとは限らない、ということである。



【謗法者の著書も引用】
●日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となづく、又天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり。(『撰時抄』全集286頁)
●謗法に上中下雑の謗法あり慈恩・嘉祥・澄観等が謗法は上中の謗法か(『顕謗法抄』全集458頁)
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大聖人は慈覚・慧心を「伝教大師の師子の身の中の三虫」、慈恩を「謗法」とされている。それにもかかわらず、以下のように各師の著書を引用されている。このことから言えることは、文証として用いているから著者が正しい、とは言えないということである。

●問うて云く二乗成仏之無ければ菩薩の成仏も之無き正き証文如何、答えて云く(中略)慈恩の心経玄賛に云く「大悲の辺に約すれば常に闡提と為る大智の辺に約すれば亦当に作仏すべし、宝公の云く大悲闡提は是れ前経の所説なり前説を以て後説を難ず可からざるなり諸師の釈意大途之に同じ」文、(中略)慈覚大師の速証仏位集に云く「第一に唯今経の力用仏の下化衆生の願を満す故に世に出でて之を説く所謂諸仏の因位・四弘の願・利生断惑・知法作仏なり然るに因円果満なれば後の三の願は満ず、利生の一願甚だ満じ難しと為す彼の華厳の力十界皆仏道を成ずること能わず阿含・方等・般若も亦爾なり後番の五味・皆成仏道の本懐なる事能わず、今此の妙経は十界皆成仏道なること分明なり彼の達多無間に堕するに天王仏の記を授け竜女成仏し十羅刹女も仏道を悟り阿修羅も成仏の総記を受け人・天・二乗・三教の菩薩・円妙の仏道に入る、経に云く我が昔の所願の如きは今者已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむと云云、衆生界尽きざるが故に未だ仏道に入らざる衆生有りと雖も然れども十界皆成仏すること唯今経の力に在り故に利生の本懐なり」と云云。(『爾前二乗菩薩不作仏事』全集425頁)

慧心僧都の一乗要決の下に云く「仏既に説いて言く法華真実なり前は未だ真実を顕わさず何ぞ強ちに仏教に背いて法華の怨嫉と為るや」云云(『釈迦一代五時継図』全集638頁)





『当流行事抄』の「久遠元初の僧宝」について


【久遠元初の結要付嘱】
久遠元初の結要付属は日蓮今日寿量の付属と同意なり(『百六箇抄』全集865頁)
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この文により、久遠元初においても結要付嘱が存在したことは明らか。

結要付嘱豈僧宝に非ずや。久遠元初は仏法の根本なり、故に根本を信ずと云うなり。(中略)久遠元初の仏法僧は則ち末法に出現して吾等を利益し給う。(第26世日寛上人『当流行事抄』)
●久遠元初の法宝とは即ち是れ本門の大本尊是れなり。(中略)久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり。(中略)豈開山上人の結要伝授の功に非ずや。(第26世日寛上人『当流行事抄』)
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『当流行事抄』によれば結要付嘱を受けた方こそが僧宝である。日興上人は久遠元初において御本仏より直接付嘱を受けられたが故に、とくに「久遠元初の僧宝」と申し上げるものと拝する。


【末法出現の僧宝】
●僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず(『四恩抄』御書268・全集938頁)
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正法伝授(結要伝授)という僧宝の使命からすれば、末法と同様、久遠の昔においても日興上人が受持された法は、嫡弟に付嘱されたのである。

●答う、諸流は但在世の三宝を知って未だ末法の仏法僧を知らず、然も亦共に本未有善を許す。下種の三宝は惑耳驚心す、今明文を引いて不信の闇を晴らさん。経(寿量品)に曰わく、時我及衆僧倶出霊鷲山等云云。時とは即ち末法なり、我とは即ち仏宝なり、及とは即ち法宝なり、衆僧豈僧宝に非ずや此くの如き三宝末法に出現するが故に時我及、倶出と云うなり(第26世日寛上人『当流行事抄』)
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 これは、「久遠元初の三宝が末法に出現する証は何か(取意)」という問いに対する答えである。「久遠元初の仏法僧は則ち末法に出現」(『当流行事抄』)するのであるが、日寛上人は、その文証として寿量品の「時我及衆僧倶出霊鷲山等」を挙げられた。そのうち僧宝の衣文は「衆僧」である。しかし、単純に考えれば「衆僧」とは1人ではない。
 末法において大聖人→日興上人→日目上人→と仏法が相伝(結要付嘱)されたように、久遠の昔においても仏法は複数の僧宝によって伝持されたはずである。だからこそ、久遠においても僧宝は複数存在したはずであり、その意味から経文には「衆僧」となっているのではないか。

日興上人は久遠元初に御本仏より直接法を付嘱(結要付嘱)された唯一の方である。だから日興上人を「久遠元初の僧宝」と申し上げる。しかし、末法においてそうであったように、久遠の昔においても仏法は僧から僧へ伝持されたはずである。すなわち日興上人を僧宝として尊信奉る根拠である「結要伝授の功」は日興上人に限らない。日興上人は「随一」の僧宝であって「唯一」の僧宝ではないのである。

[三宝]さんぽう=仏教徒が尊敬し供養すべき3つの宝のこと。仏宝・法宝・僧宝をいう。(中略)僧宝とは法を習学し伝持していく弟子をいう。(『新版仏教哲学大辞典』初版)
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僧宝には重々の総別がある。しかし、僧宝である以上、いずれも「仏教徒が尊敬し供養すべき」「宝」である。その中でも特に日興上人を随一とする結要付嘱の方は、仏法の枢要を別付嘱された方であり、仏様と内証一体の方であるから、格別に尊信申し上げるべきである。

●問う、三宝に勝劣ありや。答う、此れ須(すべか)らく分別すべし、若し内体に約さば実に是れ体一なり。所謂法宝の全体即即ち是れ仏宝なり。故に一念三千即自受用身と云い、又十界具足を方に円仏と名づくと云うなり。亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也(第26世日寛上人『三宝抄』/歴代上人全書4-392)

●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(『御本尊七箇相承』/『富要』第1巻32頁)





珍妙な会館寺院の開院

―「脱落僧」は「在家僧」で「学会員」」―
―脱落僧持て余す学会の現状を象徴―

(『慧妙』H18.5.1)

 4月2日付の『聖教新聞』(2面)に、相変わらず珍妙な記事が掲載された。僧侶不要を叫ぶ創価学会が、「法宣山光泉寺」という会館寺院なるものを東京台東区に開院したというのだ。
 全国で20番目、東京では初の会館寺院だという。
 しかも、その会館寺院の住職(?)は、総本山から逃げ出して日蓮正宗僧侶の資格を失い、それでいて僧形(そうぎょう)をして学会に飼われている石田演道。そんな情けないニセ僧侶が住職とは、とんだお笑いぐさだ。そんな偽者に法事を頼む会員は、哀れとしか言いようがない。
 その会館寺院なるものだが、今後は学会員による理事会により運営されるらしい。つまり、石田演道は、住職とは名ばかりの、学会の操(あやつ)り人形にすぎない。もっとも、日蓮正宗の根本命脈たる唯授一人血脈を牽き誹毀(ひき)讒謗(ざんぼう)し擯斥(ひんせき)となった邪僧には、それが似合っているのかもしれぬが―。
 さて、先日、田原総一朗氏と創価学会会長・秋谷栄之助との対談記事が某誌に掲載されていたが、そこに、
 「〈秋谷〉権威はなんだということをいろいろ考えてみますと、知識の独占ということが大きいんですよね。坊主は、お経をあげられる。そういう意味から死んだときに成仏させられる。教義もある程度説法できる。民衆はそれを聞いている。そういうところで坊主の権威があったわけです。ところが、創価学会は自分でお経をあげられるようになった。それから教義もみんな勉強してしまった。だから、そういう権威が通用しなくなったわけです。すると、それをなんとか無理矢理押さえつけようとする宗教、大石寺(日蓮正宗大本山)と別れた原因……」(『オフレコ』第2号
とあった。
 秋谷は、平成2年以降の創価学会の謗法逸脱路線を正当化しようとしているのだが、いくら相手が、素人の田原氏だからといっても、あまりにも事実とかけ離れた主張である。
 まあ、それはさておき、この秋谷の発言は、ある意味おもしろい。昭和52年における第1次謗法逸脱問題の時分から、創価学会は、「僧侶不要」を叫び、「学会の会館が現代の寺院である」などと会員達を洗脳してきた。まさにそれと軌を一にする発言である。
 にもかかわらず、一方では、会館寺院を開設し、ニセ住職を居住させているのである。近年の学会の主張やこの秋谷の発言によれば、単なる会館を造ればよいわけで、もとより会館寺院など不要であり、僧侶も不要なはずである。学会は、この大矛盾をどう説明するのか。
 結局、末端の会員の中には、在家主導の葬儀や法事に疑問を持っている者もいるため、それらの者達の学会離れを防ぐために、学会は、僧形をしているだけのニセ僧侶を利用しているにすぎない。
 しかも、石田演道らと同じ脱落僧の1人である松岡幹夫(雄茂)などは、「離脱僧も学会員もともに『在家僧』の意義を有する」と言いながら、「私は剃髪(ていはつ)以来、一貫して"僧にして俗"の在家者である。僧俗両面の意義を有する『在家僧』の立場であることは、昔も今も変わりはない」と述べるなど、支離滅裂である。それなら最初から出家剃髪しなければよかったのであり、じつに調子が良く、薄汚ない連中ではある。
 日蓮大聖人は、『四恩抄』に、
 「仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず」(御書268頁)
と説かれているが、文底下種の仏法は、今日、大聖人・日興上人よりの唯授一人の血脈を承継あそばされる代々の御法主上人によって、正しく伝えられている。また日蓮正宗の御僧侶は、御法主上人に信伏随従し、令法久住のために、分々の御奉公をしているのである。
 これに対し、いくら形だけ僧侶の格好をしていても、日蓮正宗の僧侶でない者は、下種三宝の中の僧宝の一分に当たる資格など全くない。つまり、脱落僧による葬儀や法事は、堕獄必定の邪師による、大謗法の悪行なのだ。
 このことを、何も知らぬ学会員に知らしめるべく、しっかりと折伏を行じていかねばなるまい。

[画像]:会館寺院なるものを開院した報じる『聖教新聞』(H18.4.2)





三宝について

―仏・法・僧は本質的には一体―
―日興上人に連なる御歴代も「僧宝」―
(『慧妙』H15.7.1)

 池田創価学会の邪義・異流義化は、いっそう顕著(けんちょ)になってきている。
 とくに、『創価新報』『大白蓮華』『聖教新聞』等に見られる、学会教学(狂学)のデタラメぶりには、呆(あき)れ返るばかりである。
 おそらく、今後はこの路線で、会員を教育(洗脳)していこうというのだろう。
 そこで新シリーズとして、昨今の学会機関紙誌の中から邪な解釈の仏法用語を拾い上げ、その邪義を破しつつ、大聖人の仏法の正義を平易に示していくことにする。
 初回の今回は、「三宝」について。
◇ ◇ ◇
 学会は、「三宝」について、
 「仏教徒が敬(うやま)うべき仏宝・法宝・僧宝の『三宝』。それぞれ、仏宝とは日蓮大聖人、法宝とは大御本尊、僧宝とは日興上人のことをさす
としている。そして、宗門の御能化方が「御法主上人猊下の御内証は戒壇の大御本尊と不二の尊体」と述べたことを挙げて「これでは日顕(上人)が御本仏と肩を並べる仏宝となってしまう」とか、「日寛上人が『当流行事抄』の中で仰せのように、僧宝は日興上人ただお一人のことである」等といっている。
 そもそも三宝とは、衆生を救うべく世に出生された「仏」と、仏が覚知し世に説かれた「法」、そして、その法を後々の世に護(まも)り伝えていく「僧」の三つをいうが、この仏・法・僧の3つが揃(そろ)って、はじめて衆生を利益し世を救済することができるので、世の宝として尊崇(そんすう)するのである。
 すなわち、この宇宙間にどのような素晴らしい法が存在していたとしても、それを覚知して世に説かれる方がおられなければ、誰人もその恩恵をこうむることはできない。ゆえに、まず、仏を宝と尊崇するのである。
 また、仏の説かれる法の功徳によって、一切衆生は苦悩から救われ、成仏の境涯を得ることができるのだから、法を宝として尊崇するのである。
 そして、この仏と法が世に出現しても、これを正しく習い伝えていく僧がおられなければ、仏法は後世へ伝わることなく断絶してしまうので、僧を宝として尊崇するのである。
 次に、この三宝の各々の関係についてであるが、『涅槃経』には、
 「三宝を分別すべからず
と説かれ、日蓮大聖人も
 「三宝一体
と仰せられているように、三宝は、本質的には一体の関係となっている。
 つまり、まず仏とは、宇宙の根源の法を覚知された方のことで、法を覚知しておらなければ仏とは申せない。
 また、法といっても、これを覚知して世に説き出だす方(仏)がおられなければ、その存在は土中に埋もれた金と同様、存在しないに等しい。
 ゆえに、法あっての仏、仏あっての法であり、両者は一体となっていることが解る。
 次に僧とは、仏が覚知した法の一切を譲り受け、仏の後継者(代理者)として後世に伝持していく方をいうが、後継者・代理者という意義からいけば、僧は仏の立場を引き継ぎ、仏と連なる一体の立場になった方である、といえる。
 以上のことから、三宝は、形は異なれども本質的には一体、と仰ぐのである。
 しかして、日蓮大聖人の仏法における三宝の立て方は、第26世日寛上人が
 「南無仏・南無法・南無僧とは、若し当流の意は、
…南無日蓮大聖人師。
…南無本門戒壇の大本尊。
南無日興上人師、…日目上人師、嫡嫡(ちゃくちゃく)付法歴代の諸師。
 此くの如き三宝を」云々(『当家三衣抄』)
とお示しのとおり、
仏宝-御本仏日蓮大聖人
法宝-大聖人御所顕の大曼茶羅御本尊
僧宝-血脈付法の日興上人、以下、御歴代上人
となる(日寛上人の『当流行事抄』の中では、僧宝を要約して、第2祖日興上人の御名を代表として挙げられているが、『当家三衣抄』では右のごとく、御歴代上人まで挙げられているのであるから、僧宝を日興上人のみに限定することはできない)。
 さて、以上のことから考えると、御法主日顕上人は、日興上人・日目上人等の御歴代に連なる僧宝のお一人であり、三宝は一体の関係にあるのだから、これを云々する学会の批判は、故なき誹謗(ひぼう)でしかない。
 また、「日顕(上人)が御本仏日蓮大聖人と肩を並べる仏宝となってしまうではないか」という非難については、法を自解仏乗(じげぶつじょう=人から教えられることなく、自ら悟ること)されたのが仏宝、その法を仏から教えられ、そのとおりに受け継がれたのが僧宝であって、仏宝と僧宝の立場は立て分けられている。そして事実、宗内の誰人も御法主上人を仏宝と言ってなどいないので、学会の非難は、まったくの的はずれ、ためにする悪口である。
 さらに、学会は、日寛上人の『当流行事抄』の仰せのみを挙げて、「僧宝は日興上人のみ」と強調するが、同じ日寛上人の『当家三衣抄』の御指南はいかに拝するのであろうか。
 また、基本的なことをいえば、僧宝とは、仏法を後々の世まで習い伝えていく方のことであるから、もし、あくまでも"僧宝は日興上人のみ"というなら、大聖人の仏法は日興上人までで断絶してしまった、ということになってしまうではないか。
 いずれにしても、池田本仏論によってニセ仏を立て、法宝である戒壇の大御本尊から離反してニセ本尊を作製し、僧宝を日興上人のみとして他の御歴代上人を否定する学会は、三宝破壊の大謗法に他ならない。
 私達法華講員は、三宝の意義を正しく拝し、尊信して、誤りなく仏道修行に励んでまいりたいものである。





創価学会の三宝破壊を破す①

―池田自ら掲げた邪説"池田本仏論"―
―日蓮大聖人さえ見下す大謬論―
(『慧妙』H16.7.1)

 創価学会の誤りを挙(あ)げようとすれば、枚挙にいとまがありませんが、何と言っても、その根本的な誤りは、"三宝破壊の大謗法"であります。
 こう言えば創価学会は、「破壊なんてとんでもない。学会は昔も今も、きちんと三宝を立てている」とでも言うのでしょうが、その学会の立てている三宝が、じつは、日蓮大聖人の仏法における三宝義を破壊する大謗法なのです。
 以下、学会の立てる三宝(仏・法・僧)について、その誤りを糾(ただ)します。

<創価学会の"仏"とは>
 第1に"仏(仏室)"ですが、日蓮正崇26世日寛上人は、
 「久還元初の仏室豈(あに)異人ならんや、即ち是れ蓮祖大聖人なり。(中略)豈末法の仏宝に非ずや」(『当流行事抄』六巻抄196頁)
と仰せられ、久遠元初の御本仏日蓮大聖人を末法の仏と仰ぐべきことを示されています。
 そして、現在の創価学会の会則にも、いちおう
 「この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ」云々
と、あたかも日蓮大聖人を仏として尊崇しているかのような文は見えますが、これはあくまでも学会のタテマエであって、ぞの本音は別のところにあります。その点を明らかにしていきましょう。

 まず池田大作は、かつて
 「こういう大勢の学会人がいても、将来、将来といってもこれはいつのことになるかわかりませんけれども、経文が、また仏が出て説かれる時には、"創価学会仏"という仏の名前で(経文に)出る、と。"威音王仏(いおんのうぶつ)"とかいろいろあるでしょう。そういう立場で"創価学会仏"という仏になる。(中略)<※「蔵音王仏の威音王という名前も、今で考えれば、創価学会というような名前で、当時あったと考えてよいわけですか」との質問に答えて>そういう代表の仏の人物がいた、とも言えるし、ひとつは教団があった、とも言えるのです」(昭和38年10月18日)
と述べ、創価学会という教団(もしくは、それを代表する人物)こそが仏であり、それは、未来の別な時代に仏が現われて経を説くときには、「創価学会仏」という名で経文に載(の)るだろう、と宣言しています。
 これは、創価学会という教団そのものを仏と見立て、その実、学会を代表する人物こそが仏である、としたものです。
 さらに池田は、
 「詮ずるところ、戸田は、いつか牧口という一人の不世出の教育者に、『主』『師』『親』を見いだし、純真に仕(つか)えたのである」(『人間革命』第2巻269頁)
 「夫妻にとっては、(戸田は)主人であり、師匠であり、親でもある……生涯にわたる人生の師であるからだ」(『随筆人間革命』59頁)
 「我々は戸田先生を主人とし、師匠とし、親として……」(昭和35年1月22日)
等と述べ、また学会機関誌にも
 「今日本を、そして世界を守る池田先生のみ、現在において主徳を備えていらっしゃる。(中略)
 私達の師匠池田先生のみ師徳兼備(けんび)でいらっしゃる。(中略)
 われわれ学会員の幸せを祈ってくださる池田先生こそ親徳具備(ぐび)でいらっしゃる
」(『大白蓮華』6602「講師筆記試験優秀答案」)
と載せて、学会を率いてきた牧口・戸田・池田(なかんずく現在においては池田のみ)が主師親三徳を兼備する、と立てました。
 しかし、「主師親三徳」とは、本来、
 「仏は人天の主、一切衆生の父母なり。而(しか)も開導の師なり」(御書628、全集1350頁)
 「日蓮天上天下一切衆生の主君なり、父母なり、師匠なり」(御書1710、全集879頁)
と仰せのように、一切衆生の尊崇すべき仏が具える御徳のことであり、末法において、これを具える仏とは日蓮大聖人であられます。
 それを、池田大作のみが主師親三徳を具備する、というならば、それは池田本仏論であり、本来の主師親たる御本仏日蓮大聖人を押しのけて別な仏を立てる大謗法であります。
 また池田は、
 「この若い革命家の『妙法への帰命(きみょう)』という理念は、具体的な実践でいうならば、希有(けう)の師への帰命、すなわち『戸田城聖への婦命』でなければならぬ」(『人間革命』第3巻182頁)
と述べ、さらに最高幹部達に
 「まさしく、現代における"人"への帰命とは師匠への帰命であり、池田会長への帰命となる」(『ひのくに』昭和50年第10号)
等と指導させ、池田大作に帰命すべきことを説きました。
 しかし、「帰命」とは、
 「一切の仏の始めは南無と申す。南無と申すは月氏の語、此の土にては帰命と申すなり」(御書1672、全集1299頁)
 「帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり」(御書1544、全集1596頁)
 「南無と申すは敬ふ心なり、随ふ心なり」(御書490、全集1421頁)
 「南無とは梵語(ぼんご)なり、此には帰命と云ふ。帰命に人法之(これ)有り。人とは釈尊に帰命し奉るなり、法とは法華経に帰命し奉るなり」(御書1719、全集708頁)
等と仰せのごとく「南無」のことであり、仏に対する絶対的な尊信・随順を意味する言葉です。そして、我々が南無(帰命)すべき対象とは、人は御本仏日蓮大聖人(久遠元初の釈尊)、法は南無妙法蓮華経の大曼茶羅(文底下種の法華経)という、人法一箇の御本尊に他なりません。
 しかるを、「妙法への帰命すなわち希有の師(戸田、現在においては池田)への帰命」などと言ったら、それは、池田大作を仏として信仰することであり、まごうことなき池田本仏論であります。
 この他、池田が述べた
 「仏さまはウソをつかない、と信じます。また、会長先生もウソはつきません。仏さまです」(昭和33年9月14日)
 「戸田先生は仏さまであられます」(昭和35年4月1日)
等の指導、また、学会機関誌に載せた
 「仏と等しくならしむ、とは、学会員として、会長の身に三業(さんごう)に等しくならしむ、と拝すべきであろう」(『大白蓮華』6301「教授試験模範解答」)
等々の記事をはじめ、学会が池田を仏と立てる証拠はいくらでも挙げられます。
 ここまで明白な誤りを指摘されれば、普通は気付けそうなものですが、愚かな学会員たちは、
 「池田センセーが仏で何が悪い!?大聖人は『法華経を持つ者は必ず皆仏なり』(御書1047、全集1382頁)と仰せである。一切衆生が仏界をもっており、その上、お題目を唱えている者は全て仏なんだから、池田センセーも仏でよいではないか!!
などという詭弁(きべん)で言い逃がれようとするのです。
 しかし、前に挙げてきた、池田本仏論の証拠ともいうべき数多(あまた)の文言は、"会長も一切衆生の一人として仏"などというものではなく、"一切衆生の中でも、会長こそ、他から絶対的に尊信されるべき仏"という意味であって、これは、まさしく学会が、池田大作を信仰の対象たる"本仏"と仰いできた事実を示すものであります。
 これを、より鮮明にして、御本仏日蓮大聖人をも下して我れ尊し、との本音を述べたのが、池田大作の
 「『全世界に広宣流布せよ』との仏の未来記を実現しているのが、我が創価学会である。学会がなければ、法華経も、また御書も、ことごとく虚妄(こもう)となってしまっただろう」(『創価新報』H16.1.21)
とのスピーチであり、また秋谷栄之助の
 「創価学会が出現しなかったならば、日蓮大聖人の未来記は虚妄になっていた」(『聖教新聞』H16.1.21)
との指導でありましょう。
 これらは、日蓮大聖人が
 「日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人、多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり。仏滅後二千二百二十余年が間、一閻浮提(いちえんぶだい)の内に仏の御言を助けたる人但(ただ)日蓮一人なり」(御書1379、全集1190頁)
と仰せられ、大聖人が出現して勧持品(かんじほん)二十行の偈(げ)を身読・実証されなかったら、釈尊の未来記(予言)は虚妄になった、と断ぜられたことになぞらえ、述べた指導であります。
 しかし、右に挙げた御金言は、大聖人が現に釈尊を凌(しの)ぐ久遠元初の御本仏であられるからこそ、本仏・迹仏という勝劣を踏まえて仰せられたものです。この大聖人の口まねをして、あたかも創価学会(なかんずくそれを率いる池田大作)が出なければ大聖人は虚妄の仏となっていたかのような説(つまり、大聖人も池田大作によってこそ存立する、という意味)を主張することは、まさに、大聖人を迹仏(劣)と下し池田大作を本仏(勝)とする池田本仏論に他なりません。
 身の程知らずも甚だしい大慢心ではありませんか。
 以上で明らかになったように、創価学会では、現在における"仏"は池田大作である、と立てており、これは、久遠元初即末法下種の仏である日蓮大聖人を押し倒すものであり、仏宝の義を破壊する大謗法です。
 「かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし」(御書1066、全集919頁)
との戒めを恐れるべきでありましよう。
(以下次号)





創価学会の三宝破壊を破す②

―戒壇の大御本尊こそ末法適時の「法」―
―御本尊離れて「久遠元初の法」はない―
(『慧妙』H16.7.16)

<創価学会の"法"とは>
 第2に"法(法宝)"ですが、26世日寛上人は、
 「久遠元初の法宝とは、即ち是れ本門の大本尊是れなり」(『当流行事抄』六巻抄197頁)
 「南無法、(中略)南無本門戒壇の大本尊」(『当家三衣抄』六巻抄225頁)
と仰せられ、日蓮大聖人が弘安2年10月12日に建立された本門戒壇の大御本尊こそが末法適時の法であることを示されています。
 ところが、現在の創価学会会則では、従前の、「日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」という文言を削り取って
 「一閻浮提(いちえんぶだい)総与・三大秘法の大御本尊を信受し」云々
とだけ述べ、その本尊が具体的に何を指すのか、故意に抽象的な表現に変更(平成14年4月1日に改訂)しているのです。
 さらに池田大作は、"識者の声"を紹介する、として
 「その折、私(識者)は、『究極に求められるものは何でしょうか』と(池田に)質問しました。おそらく『板曼荼羅(いたまんだら)の御本尊』と答えられると思っておりましたが、しかし、名誉会長は『久遠元初の法です』と答えられたのです。(中略)このことから、名誉会長が、永遠の根源を求めておられ、板曼茶羅に偏狭(へんきょう)にこだわっておられないことに、非常に感動し、創価学会の普遍性と、発展の因を見た想いでした」(平成5年5月3日)
等と述べ、永遠の根源は「板曼荼羅(日蓮大聖人の建立された御真筆御本尊のうちで、板に彫刻されたのは本門戒壇の大御本尊のみ)」ではなく「久遠元初の法」である、としています。
 うかつに聞くと、通り過ごしてしまうかもしれませんが、これは大きな誤りです。すなわち、
 「仏世(ぶっせ)すら猶(なお)人を以て法を顕はす」(『持妙法華問答抄』御書298、全集465頁)
 「法自(おの)づから弘まらず、人、法を弘むるが故に人法ともに尊し」(『百六箇抄』御書1687、全集856頁)
等と示されるように、久遠元初の法といっても、それを覚知して説き出される御方(むろん御本仏日蓮大聖人)なくしては、誰一人として、その相貌(そうみょう)を見ることも、その尊さを知ることもできないのであり、それを大聖人が、我々末法衆生に感見のできる当体として顕(あら)わしてくださったのが本門戒壇の大御本尊(他の曼茶羅御本尊はそのお写しです。
 したがって、本門戒壇の大御本尊を離れて、「久遠元初の法」を論じても、それは有名無実の観念的妄想であり、大聖人の悟られた法とはまったく異なる麁法(そほう)となってしまうのです。
 なお池田は、前の"識者の声"なるものを挙(あ)げた後に、こう続けました。
 「やっぱり、曼荼羅はいつかなくなっちゃう。物体だから」(録音テープより)
と。同種の発言は他にもあります。
 「本門戒壇・板御本尊、何だ!寛尊は『信心の中にしか本尊はない』と。ただの物です!」(平成5年9月7日・録音テープより)
 呆(あき)れるではありませんか。池田は、久遠元初即末法下種の法宝たる本門戒壇の大御本尊を「ただの物」呼ばわりして軽賎(きょうせん)しているのです。軽善(きょうぜん)謗法も極まれり、といえましょう。
 そもそも大聖人は、
 「文字は是一切衆生の心法の顕はれたる質(すがた)なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相(そう)する事あり。凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり。然れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり」(『諸宗問答抄』御書36、全集380頁)
と仰せですが、仏が文字をもって顕わされた曼荼羅御本尊は、仏の悟られた法(心法)を形(色法)の上に顕わされた、仏の色心不二の当体であります。
 それを「物体だ」「ただの物だ」と言うのは、曼茶羅御本尊を仏の御当体と拝する信心を失った者の発言であり、いかに言い訳をしても、これは本門戒壇の大御本尊を否定する大謗法に他なりません。
 なおまた、「いつかはなくなっちゃう。物体だから」などというのも余計な心配というもので、大聖人が
 「仏宝・法宝は必ず僧によりて住す」(『四恩抄』御書268、全集938頁)
と仰せのように、そのため(仏法久住のため)の備えとして僧宝がおわすのです。
 そのことは、かつて池田自身が
 「かりに御本尊も、一見すればたしかに物体であり、なくなる場合もあるようにみえるが、代々の御法主上人が、かならず御本尊の御図顕をなさってくださる。絶対の法が残されるのである」(『広布と人生を語る』第4巻216頁)
等と語っていたのですから、知らないとは言わせません。
 要するに、邪心をもって戒壇の大御本尊を否定したい現今の創価学会にとっては、何としても「いつかなくなっちゃう」ことにしたいのでしょうが、末法下種の僧宝を戴(いただ)く日蓮正宗においては、大御本尊は不滅に久住するから心配は無用なのであります。
 いずれにせよ池田創価学会が、久遠元初即末法下種の法宝たる本門戒壇の大御本尊を否定して、実体不明瞭な「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」や、観念的妄想にすぎない「久遠元初の法」とやらを、根源の"法"と立てたことは、まぎれもなく法宝の義を破壊する大謗法であります。

<創価学会の"僧"とは>
 第3に、"僧(僧宝)"ですが、そもそも大聖人は、僧宝の意義について
 「仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。譬(たと)へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく『五箇(こか)の五百歳の後に、無智無戒なる沙門(しゃもん)を失(とが)ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明(とうみょう)を滅(めっ)せんと思へ』と説かれたり」(『四恩抄』御書268、全集938頁)
と仰せられ、仏の説かれた法を習い伝えていくのが僧であり、仏宝・法宝は僧によって世の中に久住する、と明かされています。しかして、26世日寛上人は、
 「久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり。仏恩甚深(ぶっとんじんじん)にして法恩も無量なり。然りと雖も若し之れを伝えずんば則ち末代今時の我等衆生、曷(なん)ぞ此の大法を信受することを得んや。豈開山上人の結要伝授(けっちょうでんじゅ)の功に非ずや」(『当流行事抄』六巻抄197頁)
 「南無僧とは、(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首(そうかんず)、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師」(『当家三衣抄』六巻抄225頁)
と仰せられ、日蓮大聖人より仏法の深義を直授相承された2祖日興上人をはじめ、大聖人の仏法を代々習い伝えられた3祖日目上人等の御歴代上人を、久遠元初即末法下種の僧と仰ぐべきことを示されておます。
 ところが、これに対し創価学会では、いちおう日興上人だけは僧宝として仰ぐかのようなことを言いながら、一方で、
 「日蓮大聖人直結の創価学会」(『大白蓮華』昭和52年2月号)。
などと称してきました。
 自分たちが日蓮大聖人に直結しているというのなら、大聖人から今日まで仏法を習い伝えてこられた日興上人以下御歴代上人は不要、ということになってしまいます。そして事実、池田大作は、
 「大聖人が大御本尊を残されて入滅された後は、いったい誰が地涌の菩薩として広宣流布を進めていくのであろうか―こういう疑問が生ずる。ここに戸田前会長の、大聖人の御入滅700年後の出現が、重大な意義をもってくる」(『広布第2章の指針』第10集)
などと述べ、また機関紙にも
 「今日における『僧宝』つまり仏法実践者の組織としては創価学会がある」(昭和49年5月27日付『聖教新聞』)
等と書かせました。要するに、大聖人御入滅700年後に出現した創価学会こそが、大聖人の仏法を世に伝える僧宝である、というのです。
 こうした池田大作の本音を踏まえ、現在の創価学会会則には、
 「戸田2代会長は(中略)人間革命の理念を掲げて、日蓮大聖人の仏法を現代に蘇生(そせい)させた
と述べられています。つまり、大聖人の御入滅後、いったん仏法は滅びてしまったけれども、700年後、僧宝たる創価学会が出て仏法を蘇生させた、という意味で、これは2祖日興上人以来の日蓮正宗の正法伝持を全面否定する暴言であります。
 そもそも日蓮大聖人は、
 「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり」(『身延相承書』御書1675、全集1600頁)
 「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり」(『池上相承書』御書1675、全集1600頁)
と、日興上人を御入滅後の第2祖と定めて、これに違背する者は謗法であると固く戒められ、さらに26世日寛上人は、
 「而して後、法を日目に付し、日目亦(また)日道に付す、今に至るまで四百余年の間(あいだ)、一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し」(『文底秘沈抄』六巻抄65頁)
と、大聖人からの法は、日興上人から日目上人・日道上人等の御歴代上人へと、そのまま断絶なく伝わって今に至っている、と仰せられています。
 しかるに、「大聖人直結の創価学会」だの「創価学会が僧宝」だのと立てることは、この日興上人以来の法脈を否定する、僧宝破壊の行為となります。それは、まさに大聖人の戒められた「非法の衆」であり、「仏法の大灯明を滅せん」とする大謗法に当たるのであります。

 以上、縷々(るる)述べてきましたが、創価学会の"三宝破壊の大謗法"は明らかです。日蓮大聖人は、
 「若し謗法ならば、亡国堕獄疑ひ無し。凡(およ)そ謗法とは謗仏・謗僧なり。三宝一体なる故なり」(『真言見聞』御書608、全集142頁)
と仰せですが、三宝破壊の大謗法を犯している創価学会の会員は堕地獄必定であり、また、このような団体が日本最大の宗教団体として、政権中枢にまで入り込んでいる以上、日本の国土に三災七難がうち続くことも必定なのであります。
(つづく)





僧宝論(仮題)

―「僧宝は血脈付法の日興上人のみ」!?―
―血脈伝持の御歴代上人に僧宝の義―
(『慧妙』H14.7.16)

<学会の邪説>
************************************************************
宗門は、三宝について、「法宝は大御本尊、仏宝は日蓮大聖人、僧宝は日興上人以下歴代法主」としているが、正しくは「僧宝は第2祖日興上人」のみであって、それ以下の歴代法主を加えるのは誤りである。もし、僧宝に歴代法主を加えるとすれば、それは総じての立場であり、そのときは日蓮大聖人の仏法を信じる我々学会員も僧宝なのである。
------------------------------------------------------------
<破折>
―僧宝の意味―
 僧宝とは、仏の代理者あるいは後継者として、仏の説かれた法を伝承・護持し、世に弘通していく方のことであり、その重大な役割について、『四恩抄』には
●僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。譬(たと)へは薪(まき)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝(つた)はるべからず(御書268、全集938頁)
 また、日寛上人の『当流行事抄』には
●仏恩(ぶっとん)甚深(じんじん)にして法恩も無量なり、然りと雖(いえど)も若し之れを伝えずんば則(すなわ)ち末代今時の我等衆生、曷(なん)ぞ此の大法を信受することを得んや(『聖典』951頁・『富士宗学要集』第3巻214頁)
と仰せである。
 すなわち、仏宝・法宝は三世常住である、といっても、僧宝があってはじめて世に久住し、万年の衆生を済度せられるのである。
 ゆえに日蓮大聖人は、御入滅後の令法久住を鑑(かんが)みられ、唯授一人の血脈相承をもって、第2祖日興上人に法体と仏法のすべてを委ねられ、僧宝の任を与えられたのである。
 しかして、その任は、日興上人より3祖日目上人へ、日目上人より4世日道上人へと受け継がれ、さらに代々の上人を経て、現67世日顕上人に受け継がれているのである。
 学会が主張するごとく、「僧宝は日興上人のみ」とするならば、前(さき)の『当流行事抄』に「之れを伝えずんば則ち末代今時の我等衆生、曷ぞ此の大法を信受することを得んや」と仰せのとおり、日興上人が御遷化された時点で、仏法は断絶して、後世に伝わらなくなってしまうことになるではないか
 しかるを、大聖人御入滅後、また日興上人御遷化の後、現在に至るまで大聖人の仏法が清浄に持たれてきたのは、御歴代上人によって受け継がれてきた故であり、これこそが僧宝の義なのである。
 したがって、道理の指し示すところ、日興上人を筆頭とする御歴代上人方すべてが僧宝にあたることは、申すまでもない。

―僧宝の拝し方―
 さて、この僧宝について、、もう少し詳しく述べておこう。
 日興上人以下、御歴代上人が僧宝であられることは、以上のとおりであるが、日蓮正宗宗規には
血脈付法の人・日興上人をもって僧宝とする(日蓮正宗宗規)
と定められ、また日顕上人猊下も
●基本においては、日興上人をもって僧宝の随一として拝するわけであります。そういうところからするならば、歴代法主ほ僧宝以下の立場(第67世日顕上人・昭和58年3月31日)
と述べられ、「僧宝は日興上人である」旨を御教示されている。
 これをどのように拝すべきであろうか。
 順を追って説明すると、まず、「僧宝」とは、単なる客観的概念ではなく、「宝として尊ぶ」という信仰上の尊信の対象である。
 信仰上の尊信とは、自ら身を低くして、下から上を仰いで尊ぶことであるから、もし、自らを宝である、としたならば、そこには信仰そのものが成立せず、かえって憍慢(きょうまん)謗法に堕することになる。
 ゆえに、それぞれの立場における信仰・尊信に約していえは、信徒の立場からは、2祖日興上人以来の御歴代上人方および正法の護持伝承に励む本宗御僧侶方を、次に御僧侶方の立場からは、日興上人以来の御歴代上人方を、そして御歴代上人の立場からは、御本仏日蓮大聖人から直授相承を受けられた日興上人を、それぞれ僧宝と仰ぎ尊ぶことが、正しい在り方となるのである。
 すなわち、日蓮正宗宗規に定められる「日興上人をもって僧宝とする」とは、上一人の御法主上人から下全僧俗までを含む全日蓮正宗として僧宝を仰ぐ場合の表現であり、同じく日顕上人の御教示は、御法主上人としての立場で僧宝を仰いだ場合の表現である。
 したがって、これをもって一般の僧俗が、僧宝を2祖日興上人のみに限定し、「それ以下の歴代法主を加えるのは誤り」などと称するのは、まったく仏法の筋道のわかっておらない大きな間違いである。
 また、「歴代上人が僧宝ならば自分たち学会員も僧宝」などというのは、自ら「自分たちは宝だ、尊信しろ」と言っているようなもので、憍慢謗法の謗(そし)りは免(まぬが)れない。

―創価学会の三宝観の変遷―
 最後に、三宝について、創価学会は、かつてどのように指導し、それがどのように変わってきたか、見てみよう。
 この変遷の激しさを見れは、創価学会の三宝観がいかにいい加減で、でたらめであるかが理解できよう。
仏法に三宝というものが説かれている。いうまでもなく仏法僧の三宝であるが、この「僧宝」が間題なのである。「僧宝」と言っても僧侶を意味するのではなく、社会の中で実践し法を正しく伝持する人々のことである。(中略)今日における「僧宝」つまり仏法実践者の組織としてほ創価学会があり・・・(『聖教新聞』昭和49年5月27日付)
 これは『聖教新聞』のコラム「名字の言」に掲載されたもので、創価学会自らを「僧宝」と僭称する憍慢謗法の発言である。

 この憍慢発言について、昭和52年路線の折、宗門から誤りを指摘され、訂正した際の指導が、次の3つである。

◆ここで「僧宝」とは、今日においては日興上人よりの唯授一人の法脈を受けられた御法主上人猊下であられる。(『聖教新聞』昭和53年2月26日付・池田大作指導)

◆「僧宝」とは、正宗においては第2祖日興上人のことであり、また会長(※池田大作)も発言しているごとく、唯授一人の血脈を受けられた御法主上人貌下であらせられる。したがって、この正宗教義の根本となる僧宝と、信心実践面での和合僧ということについては、絶対に混同するようなことがあってはならない。また、広義においても、学会を「僧宝」という言い方はしてはならない。(昭和53年6月30日付・「教学上の基本間題について」)

◆正法を正しく継承伝持あそばされた血脈付法の日興上人を随一として、歴代の御法主上人、広くは、御法主上人の法類である御僧侶の方々が僧宝なのです。
 大聖人が「仏宝法宝は必ず僧によりて住す」と仰せのように、仏恩も法恩も広大であり、甚深でありますが、その仏法を正しく伝持してこられた方々がいなかったならは、現在の私たちに、御本尊を受持して、希望と確信に満ちた人生はありえないのです。
 僧宝がいかに尊く大事な存在であるかを知り、尊敬と感謝と報恩の信心をもって御僧侶を敬い、僧俗和合の姿で広宣流布に邁進していくことが肝要です。
 この末法の三宝を正しく信受していくことが、真の信仰であり、それ以外の三宝に執着することは謗法となるのです。(『大白蓮華』昭和54年11月号・「教学教典」)

 ご覧のとおり、「僧宝は御歴代上人」とし、「創価学会を僧宝と称してはならない」「日蓮正宗以外の三宝に執着することは謗法」と、明確に言い切っているではないか。
 それが、平成3年以降になると、次のように変わる。

厳密にいえば、歴代の法主は僧宝以下の立場。(『聖教新聞』平成3年9月10日付・池田指導)
仏法の基本である「三宝」は、歴代上人が御指南されているように、「法宝」は御本尊、「仏宝」は日蓮大聖人、「僧宝」は日興上人であり、三宝が相即する御本尊を拝し奉るのが、私たちの信心である。また日達上人が「代々の法主が日蓮大聖人ではない」と御指南され、歴代法主は僧宝以下の立場であることは明らかである。(『聖教新聞』平成3年9月30日付・秋谷指導)

 以上に見てきたように、創価学会の三宝観はコロコロと変遷しており、時には「学会こそ僧宝」と言い、その誤りを指摘されるや、あわてて、「御歴代上人こそ僧宝」と言い直す。ところが、平成3年以降、日顕上人をはじめとする御歴代上人に対する誹謗が「僧宝」誹謗にあたることを指摘されるや、今度は「歴代法主は僧宝ではない」などと言い出す始末。
 これほど無定見、無節操な僧宝観はあるまい。
 そもそも、三宝は宗旨の根幹であって、これがコロコロ変わっては、教義そのものが変遷していることと同じである。
 それを、その時々の都合次第でいかようにも変遷させるのだから、その意味でも創価学会は、「三宝破壊」の大罪を犯し続けている、といえるのである。





「三類の強敵」は大聖人の為に説かれた


 池田センセーが僭聖増上慢でないのであれば、宗門を迫害する僭聖増上慢は誰か?もし、いないのであれば、宗門が法華経の行者ではない証拠である。
 一方、学会には宗門という僭聖増上慢がいる。これは池田センセーが法華経の行者である証拠である。


【法華経の行者には三類の強敵が競い起こる】
●我が身の法華経の行者にあらざるか、又諸天・善神等の此の国をすてて去り給えるか・かたがた疑はし、而るに法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く「諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う」等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ、「悪世の中の比丘は・邪智にして心諂曲」又云く「白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如し」此等の経文は今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば世尊は又大妄語の人、常在大衆中・乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く「数数見擯出」等云云、日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり、例せば世尊が付法蔵経に記して云く「我が滅後・一百年に阿育大王という王あるべし」摩耶経に云く「我が滅後・六百年に竜樹菩薩という人・南天竺に出ずべし」大悲経に云く「我が滅後・六十年に末田地という者・地を竜宮につくべし」此れ等皆仏記のごとくなりき、しからずば誰か仏教を信受すべき、而るに仏・恐怖悪世・然後末世・末法滅時・後五百歳なんど正妙の二本に正しく時を定め給う、当世・法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん(『開目抄』全集202頁~)

●妙法蓮華経勧持品第十三「(中略)仏の滅度の後・恐怖悪世の中に於て我等当に広く説くべし諸の無智の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん我等皆当に忍ぶべし、悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるをこれ得たりと謂い我慢の心充満せん、或は阿練若に納衣にして空閑に在り自ら真の道を行ずと謂いて人間を軽賎する者有らん、利養に貪著するが故に白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如くならん是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若に仮りて好んで我等の過を出ださん、濁世の悪比丘は仏の方便・随宜所説の法を知らずして悪口して顰蹙し数数擯出せられん」と云云。
 文句の八に云く「初めに一行は通じて邪人を明す即ち俗衆なり、次に一行は道門増上慢の者を明す、三に七行は僣聖増上慢の者を明す、故に此の三の中初めは忍ぶ可し次は前に過ぐ第三は最も甚し」と云云。(『上行菩薩結要付属口伝』全集538頁~)


【法華経は大聖人が「末法の初の法華経の行者」であること示すために説かれた】
1●問うて云く法華経は誰人の為に之を説くや、答えて曰く方便品より人記品に至るまでの八品に二意有り上より下に向て次第に之を読めば第一は菩薩・第二は二乗・第三は凡夫なり、安楽行より勧持・提婆・宝塔・法師と逆次に之を読めば滅後の衆生を以て本と為す在世の衆生は傍なり滅後を以て之を論ずれば正法一千年像法一千年は傍なり、末法を以て正と為す末法の中には日蓮を以て正と為すなり、問うて曰く其の証拠如何、答えて曰く況滅度後の文是なり、疑つて云く日蓮を正と為す正文如何、答えて云く「諸の無智の人有つて・悪口罵詈等し・及び刀杖を加うる者」等云云(『法華取要抄』全集333頁~)
2●疑つて云く何を以て之を知る汝を末法の初の法華経の行者なりと為すと云うことを、答えて云く法華経に云く「況んや滅度の後をや」又云く「諸の無智の人有つて悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん」又云く「数数擯出せられん」又云く「一切世間怨多くして信じ難し」又云く「杖木瓦石をもつて之を打擲す」又云く「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉・鳩槃荼等其の便りを得ん」等云云、此の明鏡に付いて仏語を信ぜしめんが為に、日本国中の王臣・四衆の面目に引き向えたるに予よりの外には一人も之無し、時を論ずれば末法の初め一定なり、然る間若し日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん(『顕仏未来記』全集507頁)
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1●では、法華経が大聖人の為に説かれた証拠として「況滅度後」「諸の無智の人有つて・悪口罵詈等し・及び刀杖を加うる者」の御文を挙げている。一方、2●では、大聖人が「末法の初の法華経の行者」である証拠として「況んや滅度の後をや」及び「諸の無智の人有つて悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん」等の御文を挙げている。要するに法華経は大聖人の為に説かれたのである。何を説かれたかといえば、大聖人が「末法の初の法華経の行者」であることを説かれたのである。


【三類の強敵は末法の初めに出現する】
●勧持品に云く「唯願くは慮したもうべからず仏滅度の後恐怖悪世の中に於て我等当に広く説くべし、諸の無智の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん我等皆当に忍ぶべし、悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん、或は阿練若に納衣にして空閑に在つて自ら真の道を行ずと謂つて人間を軽賎する者有らん利養に貪著するが故に白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるることを為ること六通の羅漢の如くならん、是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若に仮て好んで我等が過を出さん、常に大衆の中に在つて我等を毀らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん、濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其身に入つて我を罵詈毀辱せん、濁世の悪比丘は仏の方便随宜の所説の法を知らず悪口し顰蹙し数数擯出せられん」等云云(『開目抄』全集224頁)
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これは法華経の行者が被るとされる難を三類の強敵として示された部分である。このうち「悪口罵詈」「刀杖を加うる」「数数擯出」を全て身読された方は、大聖人以前は勿論、滅後現在に至るまで大聖人以外に存在しない。このことからも経文に示される三類の強敵による難と、それを被る法華経の行者とは、別して大聖人お一人に該当するのである。

●過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、今の勧持品は未来は不軽品為る可し、其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為る可し、一部八巻・二十八品・天竺の御経は一由旬に布くと承わる定めて数品有る可し、今漢土日本の二十八品は略の中の要なり、正宗は之を置く流通に至つて宝塔品の三箇の勅宣は霊山虚空の大衆に被らしむ、勧持品の二万・八万・八十万億等の大菩薩の御誓言は日蓮が浅智には及ばず但し「恐怖悪世中」の経文は末法の始を指すなり(『寺泊御書』全集953頁~)
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「恐怖悪世中」を含む勧持品こそ、末法の法華経の行者が被る難を示された経文である。「『恐怖悪世中』の経文は末法の始を指すなり」とあるように、法華経の行者を迫害する三類の強敵は別して「末法の初め」に出現するのである。

・三類の強敵は別して末法の初めに出現し、法華経の行者・大聖人お一人を迫害する
・総じていえば、大聖人の弟子檀那も法華経の行者である。そのために、弟子檀那も三類の強敵が競い起こる場合がある。しかし、常に経文どおり三類の強敵がすべて一時に起こるとは限らない。



・だから、ある時代に僭聖増上慢が見当たらないからといって、(総じての)法華経の行者が存在しない証拠とはならない。

●凡(およ)そ法門に於(おい)ては総別の二義があるのでありまして此れを忘れると地獄へ堕ちることになります。日蓮大聖人は「総別の二義を違へば成仏思ひもよらず」と仰せられてありますが、此れは行人(ぎょうにん)の最も心ををくべきところであります。法華経の行者は大聖人唯御一人だけで末法の仏も大聖人であります。総じて申せば妙法を信受する程のものは行者といへますが別して逆縁の衆生でありまして順逆の分別は行功によるところであつて畢竟(ひっきょう)御一人の仏に対しては凡夫であります。かへすがへすも此のところが根本でありまして、その御本尊を信受し奉る上の修行が題目になるのであります。既に仏身地であらせられる大聖人の建立し玉ふ大曼荼羅を信受し持ち奉ることが肝要でありまして、此れ以外は皆偏見であり邪道であります。(第65世日淳上人『日淳上人全集』982頁~)