(『慧妙』H25.5.1)
【自らの変遷をごまかす改訂】
池田大作の著書『人間革命』の改訂第2版が、本年初頭から続々と刊行されている。
第2版冒頭の「文庫版発刊にあたって」によると、"この20年ほどの間で宗開両祖に違背(いはい)し、腐敗・堕落(だらく)してしまった宗門が、仏意仏勅の創価学会の崩壊を企(くわだ)て、仏法破壊の元凶と成(な)り果てた今、『人間革命』を全集に収録する際にも、その点を考慮すべきではないか"という学会内部からの問題提起を受けて、池田大作が推敲(すいこう)したものだという。
もともと『人間革命』は虚偽(きょぎ)や欺瞞(ぎまん)に満ちていたが、第2版で何がどのように変わったのか、第1巻から第3巻までの新旧版を比較してみたところ、主に以下の諸点について、徹底的な改悪がなされていることが分かった。
@大石寺の「大御本尊」の「大」の字を削除し、他の一切の御本尊と同等の「御本尊」という表記に言い換(か)える
A大石寺の大御本尊が特別であることを形容した修飾成分(一閻浮提〈ちえんぶだい〉総与の、三大秘法の、文底独一本門の)をすべて削除
B日蓮正宗が大聖人の唯一の嫡流(ちゃくりゅう)であることを示す記述や表現をすべて削除
C第3代以降の御歴代に対する尊称「上人」を削除し、呼び捨てにする
D護法と弘教に挺身(ていしん)した歴代猊下の事跡記述をほとんど削除
E大石寺が富士山麓に立地している意義や、境内の荘厳を讃(たた)える表現をすべて削除
F宗門の伝統的儀式に関する詳細記述をすべて削除
G「入信」をすべて「入会」と書き換え
H個別の邪宗・邪教の害毒性を攻める表現を削除
I本紙等が指摘した小説『人間革命』の嘘(うそ)や矛盾(むじゅん)の糊塗(こと)
これらの改悪は、宗門から破門され、根無し草として流浪する池田創価学会の哀れな姿を、如実(にょじつ)に反映している。
【学会は想定外の破門で混乱した】
破門後の創価学会は、「創価ルネサンス」とか「魂(たましい)の独立を勝ち取った」などと聞こえのよい言葉で体裁を繕(つくろ)っているが、それらのフレーズは"独立"や"改革"のための大義名分や理論構築が十分にできていて、満を持して反旗を翻(ひるがえ)した者が言う台詞(せりふ)である。実際は、池田創価学会は理論構築も心の準備もできていないまま宗門から破門され、周章狼狽(しゅうしょうろうばい)し混乱していたのである。それは学会の御用学者・宮田幸一氏の次の述懐(じゅっかい)からも明らかである。
◆第2次宗門問題は準備無しで起こったようで、対策室でもどのように教義的に創価学会を正当化するかについては、そもそも日蓮正宗の教義については殆ど知らないスタッフばかりだったので、まだはっきりとはしていなかった。そのうち『聖教新聞』で日有の『化儀抄』を使って「法体の血脈」と「信心の血脈」の論争を始めた。私は、法主を中心にした日蓮正宗の体制を作ったのが日有であり、彼の書いた『化儀抄』には圧倒的に日蓮正宗にとって都合のよい部分が多いのだから、そんな資料を使って教義論争をしても敗北するだけだ……(宮田幸一氏のHPより)
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そこで仕方なく御用学者を総動員し、かつて自分達が破折したはずの邪宗による日蓮正宗誹謗(ひぼう)論法を、無節操に受け売りするなどして、宗門誹謗と自己正当化に血道を上げ始めたのである。
【破門後の本尊問題が深まる】
また、本尊に関しても、宗門と敵対した後の会員への本尊下付について予(あらかじ)め対策が練られていたわけではなく、破門が避けられない事態になってから慌(あわ)てて下付用本尊のオリジナルを血眼(ちまなこ)になって探し始めた、という始末であった。その点も前述・宮田氏が以下のように証言している。
◆日蓮正宗との非妥協的な対立が避けられないということが明らかになると、多くの会員の自宅にある日顕の本尊をどうするかということが問題になり、学会独自の本尊を作成しようとなった
◆多くのスタッフは教義とは無関係に日蓮の曼荼羅(まんだら)を欲しがっていた。それで実際に候補になりそうな本尊を探したところ、あるにはあったが、模刻本尊で、当然オリジナルの本尊は別のところにあるから肖像権の問題があり使用できそうになかった。もう少し準備期間があれば、創価学会の財力に物を言わせて、日蓮筆の曼荼羅を何らかの手段で購入するか、肖像権を購入することはできたと思われるが(中略)、なにせ突発事故みたいなものだから、泥縄式に探すしかなかった。それで次善の策として日興筆の本尊を探すと栃木浄円寺に日興筆の曼荼羅があったという情報が伝えられた。これは『日興上人御本尊集』にNo.223と表示されている本尊だが、そこには写真版も図版も記載されていず、未調査の曼荼羅とされている。ところがその後の情報では、御厨子(ずし)に入れるときに、御厨子が曼荼羅よりも小さかったために、曼荼羅の上部が一部分切り取られていて、どうも本尊として使用するには具合いが悪いということのようで、この話も立ち消えになった。その後の経過は知らないが、最終的には日寛の曼荼羅を使用することになった。(宮田幸一氏のHPより)
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「創価学会の財力に物を言わせて」とか「泥縄式」と素直に白状している箇処が笑えるが、現在、学会員が拝んでいる本尊は、とにかく「何でもいいから探せ」と命令されて闇雲(やみくも)に物色した挙(あ)げ句、ようやく入手した御本尊がコピー元になっており、それを複写し修正加工しただけの、値打ちの全くない代物(しろもの)なのである。かつて小樽問答で池田らが身延のお土産本尊を嘲笑(ちょうしょう)したことがあるが、それと変わらぬニセ本尊(魔札)であることを学会員は知らなければならない。
こうした、池田創価の破門直後の狼狽ぶりと、泥縄式本尊作成の顛末(てんまつ)を見ると、「創価ルネサンス」だの「魂の独立を勝ち取った」だのという美辞麗句(びじれいく)が、いかに鼻白(はなじろ)む負け惜しみであったかが分かる。
そしてそれ以後も、破門された腹癒(はらい)せのために根拠なき宗門誹謗や訴訟を繰り返し、一方で、相次ぐ脱会者を食い止めるために池田のカリスマ性強化が必要と勘違いしたのか、池田偉人化を目論(もくろ)んで名誉称号の乱獲、自己宣揚に明け暮れるなど、無価値な目的のために時間と労力と資力を費やしてきたのが、池田創価のこの20年であった。
【未だに教義の構築ができぬ学会】
7百年の伝統宗教たる日蓮正宗のバックボーンを失い、新興宗教団体に堕した創価学会としては、その20年という長い時間を使って、(日蓮正宗教義に依存しない)完全に新しい教学理論体系を構築しようとしたのだろうが、允可(いんか)なきニセ本尊を正当化しうる新たな本尊論や三大秘法論など、確立できようはずがなかった。そこで御用学者に命じて試論させてはみるものの、悉(ことごと)く宗門に論破され、二の句が接げないという体たらく。猊座への難癖(なんくせ)や僧侶・寺院不要論も論拠なき感情論に終始したものであった。
そもそも日蓮正宗の教義や化儀を否定することは、戸田城聖会長指導の否定につながり、池田の愛唱スローガン"師弟不二"に抵触するため、如何(いかん)ともしがたかった、というのが実情であろう。
そんな状況であるから、教学書を兼ねる『人間革命』を今般改訂するからとて、そこに新たな学会流の新教学理論を組み込むことなどできようはずがないのである。
かくして、小説『人間革命』の改訂にあたって池田(のブレーン)が思いついた方針が、冒頭に列挙した怒涛(どとう)の削除作戦である。あからさまな宗門否定や教義上の新見解は戸田指導と矛盾するために書けない。かといって宗門の重要性や正統性を強調した記述をそのまま残すと、現学会の主張と矛盾する。そこで苦肉の策として、原作から矛盾要素を削除(隠蔽〈いんぺい〉)したり姑息(こそく)に言い換える、という狡猾(こうかつ)な方法を採(と)ったのであろう。
しかしその結果、重要要素を無秩序に削除したため、創価学会の教義的独自性が失われ、他の日蓮系邪宗と区別がつかなくなってしまった。また、冒頭の@Aの改悪点に至っては創価学会の現会則や学会版勤行要典の祈念文とも整合性が取れていない。こうしたことに池田は気づいていないようだ。
本紙は今後、冒頭に列挙した改悪項目について具体的に挙例・分析し、徹底批判していく。
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第2次創価学会問題は、池田の11.16慢心スピーチが発端である。池田には、52年路線のときから宗門支配乃至独立の野望があったことは間違いない。しかし、少なくとも公式的には日蓮正宗の信徒団体を自認し、唯授一人の血脈と大御本尊の重要性を会員に指導していたのであるから、宗門支配乃至独立の野望を、大幹部といえども不用意に漏らすことはできなかったであろう。11.16慢心スピーチが独立のための計画的なものであったとしても、そのことを知っていた者は、側近中の側近に限られていたのではないか。
あるいは、池田が感情的突発的に慢心スピーチをし、そのことが宗門で問題になっても、池田の意向で謝罪せず、そのまま突き進んで破門になってしまったとも考えられる。その場合でも、学会総体の意思はともかく、池田自身には独立して自由に活動したいという強い思いがあったに違いない。(下記●)
いずれにせよ、日蓮正宗の信徒団体を自認し、唯授一人の血脈と大御本尊の重要性を何度も会員に指導していた学会としては、いくら時間があったとしても、宗門からの破折を跳ね返すことができる理論など構築できるはずがなかったのである。52年路線の失敗を経験した池田らが、そのことを知らないはずはないと思うのだが。(法蔵)
●(※平成2年)10月13日には大石寺開創700年の慶讃大法要が行われ、私はこの時の「慶讃文」で、(中略)本門寺の公称は未来だということを言ったのです。この時の池田大作は、怒りたくても怒れないような、なんとも言えない顔をしておりました。大客殿では、私はちょうど東を向いているから見えたのです。そのあと彼も出てきて挨拶したけれども、その時の顔はなんだか見ていられないような顔でした。
(中略)池田は、おそらくあの大石寺開創700年慶讃大法要の時に、この私が「大石寺を本門寺と改称したい」とか、「改称する」と言うことを期待していたと思うのです。それなのに「未来のことだ」と言ったものだから、怒ったのでしょう。(中略)
つまり、君達も知っているように「11.16」という話があるでしょう。これは、この平成2年の11月16日のことです。この年の10月13日に大石寺開創700年の慶讃大法要で私の「慶讃文」を聞いて、池田は怒って、「よし、それならば日顕のやつをやっつけてしまえ」ということで私を誹謗したのが、約1ヵ月後の「11.16」の発言なのであります。(第67世日顕上人『大日蓮』H16.12)
―自らの変節に合わせて書き換え―
(『慧妙』H25.7.1編集)
小説『人間革命』の今般の改訂理由を、「この20年ほどの間で宗開両祖に違背(いはい)し、腐敗、堕落してしまった宗門が、仏意仏勅の創価学会の崩壊を企(くわだ)て」云々などと、御宗門のせいにしているが、この20年の間に変質したのは明らかに創価学会の方である。それは、彼らが"学会の正史"と自賛する『人間革命』の内容(戸田会長時代の創価学会)と現今の池田創価の姿を比較すれば、誰にでも分かることだ。
言い換えれば、『人間革命』(旧版)は今の池田創価を破折するための材料の宝庫である。それゆえに池田創価学会は、『人間革命』を自らの変節、変質に合わせた内容に書き換え、自縄自縛(じじょうじばく)から逃れたかった。これが今般の改訂の主な動機であろう。
「書き換え」の具体例を見てみよう。書き換えと言うより、不都合箇所の隠蔽(いんぺい)である。
【総本山・大御本尊への渇仰心を遮断】
例えば下記は象徴的な隠蔽例である。日興上人の身延離山の説明文中の一節である。
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かくて、大石が原に広布の基盤がなるや、その建設は、誠に目覚(めざま)しいものがあった。また法灯連綿として、一器の水を一器に移すようにして、以来676年の歴史を有するのである。
常寂光土―
霊鷲山―
いまや一閻浮提(いちえんぶだい)総与の大御本尊まします富士大石寺こそ、まさしく世界の聖地となったのである。(第1巻P333)
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この部分は改訂版ではすべて削除されている。大石寺の大聖人嫡流(ちゃくりゅう)としての正統性、法水潟瓶(ほっすいしゃびょう)されてきた源遠長流(げんのんちょうりゅう)の宗門史、「一閻浮提総与の大御本尊」「世界の聖地」等、いずれもかつては創価学会が積極的に語ってきたものだが、今では悉(ことごと)く学会員に見せたくない記述であるからだ(見せると、総本山や大御本尊への郷愁〈きょうしゅう〉や憧憬〈しょうけい〉が芽生える可能性がある)。
改訂版におけるこうした隠蔽は枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がない。
特に大御本尊の「大」の字の省略は徹底を極めている。次の例もしかり。戸田会長指導の一節である。
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凄(すご)い大御本尊様が、わが国に7百年前から厳存していたのです。しかし、ほとんどの人がこれを知らなかった(第2巻P41)
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変↓節
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このようなすごい御本尊様が、厳存しているにもかかわらず、ほとんどの人が、これを知らなかった(改訂版第2巻P51)
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弘安2年の本門戒壇の大御本尊を意味する「大御本尊」と、一般の御本尊とでは、もとより異なり、峻別(しゅんべつ)されなければならない。第26世日寛上人曰(いわ)く
●本門戒壇の本尊は、まさにこれ総体の本尊なるべし。これ則ち、一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は、まさにこれ別体の本尊なるべし。これ則ち、面々各々の本尊なるが故なり。(第26世日寛上人著『観心本尊抄文段』)
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戸田会長も
◆御本尊には違いがあります。仏法の上の分身散体(ふんじんさんたい)ということがあります。(中略)それぞれ違うのです(質問会回答)
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と指導している。
師匠の指導は一文一句違わず後世に伝えるのが弟子の務めだと思うのだが、師匠戸田の重要指導を、上記のごとく改竄(かいざん)して恥じぬ池田の座右の銘が「師弟不二」とは笑止である。
師敵対してまで大御本尊の「大」の字を削除したり、大御本尊の特別性を形容する「本門戒壇の」や「一閻浮提総与の」を削除している池田の改訂意図については、後日発売になるであろう改訂版第9巻の「小樽法論(身延との法論)」の章を待って改めて考察する。
【宗門が立派に見えぬよう腐心】
さて、池田は、大御本尊を軽く扱う一方で、宗門の歴史的功績や存在価値を矮小(わいしょう)化するために、護法に挺身(ていしん)してこられた御歴代の事跡や宗門史に関する記述についても徹底的に削除し、宗門や御歴代が立派に見えないように腐心(ふしん)している。
例えば旧版における以下の記述。戸田氏が釈放されて堀米尊師(後の日淳上人)と再会する場面の一節である。
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後世の歴史家は、この昭和の最大の法難にあたって、勇敢に弾圧と戦った人は、2人いたというだろう。1人は、日蓮大聖人の法水を、微塵(みじん)も汚(けが)すことなく護(まも)りきった、本山側の堀米尊師―と。1人は、最大の講中である創価学会側の戸田城聖その人である―と。
ともかくも、やがて、世界人類を救済しゆく最高無二の大宗教は、この2人によって、7百年以来の危機を切り抜けたのである。(第1巻P184)
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この部分が改訂版では跡形もなく削除されている。
前後の脈絡も考えずに闇雲(やみくも)に削除し、文脈調整もしていないため、改定版に残った以下のくだりが無意味に浮いてしまう結果となった。
「2人は、互いに抱擁(ほうよう)するような姿で、戦友のように固く握(にぎ)り合った。
2人の間には、語るべき多くのことが、あふれていた。」
このシーンは上の弾圧史が語られて初めて演出として意味を持つのだが、池田(のブレーン)はそこまで気づかなかったようだ。
この御歴代矮小化操作は、池田がもっとも世話になった日達上人にまで及ぶ。
旧版での記述
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堀米尊師を導師として、今、牧口会長の1周忌法要は進んでいった。尊師の左脇に、唱題しておられた細井精道尊師こそ、第66世の現日達猊下であられる。戦時中の宗門厳護の戦さには、堀米尊師の身に影の添うがごとく活躍され、堀米尊師の御登座の下にあっては、宗務総監として、宗門の要となって、今日の大宗門への、発展の原動力となられた方であった。ただ、不思議というほかはない。(第1巻P194)
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これも改定版では全削除となっている。全くもって不知恩の極みである。
ただ例外的に、堀日亨上人については、上人の碩学(せきがく)を讃える旧版の記述がかなり残されている。
しかし、これは日亨上人を衷心(ちゅうしん)から無条件に賛美するものではなく、日亨上人が創価学会版御書全集の編者であられ、その御書全集を権威付けるために、そうすることが必要であったからだと思われる。
その証拠に、日亨上人の御著書である『富士宗学要集』や『富士日興上人詳伝』の内容に言及した箇所では、旧版にあった学会に都合の悪い学説は悉く削除されたり、切り文引用で歪曲(わいきょく)されている。学会のご都合主義は大恩人・日亨上人にまで及んでいるのである。
以下は、切り文歪曲の一例である。
旧版で引かれていた日亨上人の記述は、大石寺の富士山麓立地の意義を語った以下のようなものであった。
身延よりも富士山こそが仏法厳護の聖地として相応しく、大聖人の悲願達成のための法城建設地として、富士山麓を選ばれた日興上人の選定を「絶妙」と賛嘆された箇所である。
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猿叫ぶ甲峡の身延のみ、かならずしも霊山浄土ならんや、天下を俯瞰(ふかん)する広大の富嶽(ふがく)が、むしろ有縁の地にあるにあらずや。(中略)厳護の法城をただちにここに築きて、広布の道場を厳浄し、大聖の悲願を満足せしむるこそ、仏恩報謝の直道。本門弘通の導師の取るべき絶妙の手段にあらずや。(第1巻P331)
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変↓節
(改訂版)
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宗門の碩学といわれた59世法主・堀日亨は、その著『富士日興上人詳伝』に、「猿(ましら)叫ぶ甲峡(こうきょう)の身延のみ、かならずしも霊山浄土(りょうぜんじょうど)ならんや」と述べている。そして「人清ければ法清し、法清ければ所また清かるべし」と断言している。まさしく、その通りである。常寂光土とは、その住する人の一念によって決まるのである。
日蓮大聖人も、『法華文句』の「法妙なるが故に人貴し。人貴きが故に所尊し」との文を引いて指導されている。つまり、最高の法を持ち、実践しているからこそ、その人が貴いのであり、人が貴いから、その人が活躍する場所も尊い―ということである。(改訂版第1巻P378)
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池田は、その原文から一部のみを切り文引用し、日亨上人の原意を捻じ曲げて、本山不要論ともいうべき妄説を展開しているのである。霊山におられる日亨上人も、さぞやお嘆(なげ)きであろう。
(つづく)
[画像]:『人間革命』(旧版)では、『富士日興上人詳伝』を引用して日蓮正宗を顕揚していたが―
(『慧妙』H25.8.1)
破門前の創価学会は、折伏の際などに他の新興宗教と差別化するために、日蓮正宗7百年の清流をブランドとして積極的に利用してきた。当然、小説『人間革命』でも、正宗の崇高(すうこう)な歴史事績が随所にちりばめられており、学会員読者は、それらを通して学会員(日蓮正宗信徒)であることの誇りと確信を得ていた。
ところが今般の改訂では、日蓮正宗の歴史をいかに崇高に見せないようにするか、という点に心血(しんけつ)が注(そそ)がれている。かといって、宗史に関する旧版の記述を調整する、などの巧智(こうち)を働かせるわけではなく、記述そのものを跡形もなく消し去るという、能のない粗暴(そぼう)な"改訂"しかできていない。文筆家としての池田(のブレーン)の非才ぶりが見えて、何とも哀(あわ)れである。
なおまた、日蓮正宗の崇高な歴史事績を削除する一方で、宗門における歴史上の出来事を利用し、悪意あるレトリックで、宗門や歴代猊下を貶(おとし)めるための印象操作を行なっている例がいくつかある。
その1つが客殿焼失に関するくだりだ。
第2次大戦末期、軍部の横暴によって大石寺の建物が徴用(ちょうよう)され、大勢の部外者が我が物顔で境内闊歩歩(かっぽ)する異常な状況下で、大坊から出火し、客殿に延焼して全焼させた、という事件である。
改訂版ではこの事件に関し、3点の、悪意に満ちた決め付けや印象操作がなされている。
(1)大石寺の建物が軍事徴用された経緯の改竄
旧版では、軍部による強制徴用であった、とのニュアンスで書かれていた。以下に引用する。
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18年7月―中部勤労訓練所という、徴用工訓練のための機関が、大坊の書院(2百畳敷き)を利用しはじめた。神道(しんとう)に毒されていた指導者達は、此の書院に神棚を造り、天照大神を祀(まつ)ってしまった。
総本山の宗務院は、当局者に、厳重に抗議をした。ところが、宗教に無智な彼等は、権力者としての思い上がりから、てんで取りあおうとはしなかった。
宗務院は、再三に亘(わた)って、日蓮正宗の教義を懇切(こんせつ)に説き、神棚の撤回(てっかい)を迫(せま)った。すでに毒気深入(どっけじんにゅう)している彼等は、国家が借りた建て物である、との一点張りで、どう使おうと、差し支(つか)えなし、と威嚇(いかく)さえして来る始末であった。
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変↓節
ところが改訂版では、
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折しも戦時下の軍部政府は、人員収容のために便利な大石寺の建物に目をつけた。国神道に追従した宗門は、大石寺を軍部政府の国家総動員の拠点として、積極的に提供した。(改訂版 第1巻P299)
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と、宗門が大石寺を軍部に積極的に提供した、と書き殴(なぐ)っている。
創価は破門後、宗門誹謗(ひぼう)キャンペーンで、宗門が戦争推進に積極加担(かたん)したかのような中傷を執拗(しつよう)に繰り返してきたため、改訂版でも軌を一にしたのであろうが、大石寺を「積極的に提供した」ことを裏付ける根拠も示しておらず、宗門誹謗のための、悪意ある歴史改ざんであることは言うまでもない。
(2)出火原因に関する印象操作
旧版では、
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客殿の大火は、この対面所から、出火した。幹部の失火か、朝鮮兵の幹部を怨(うら)んでの放火か。戦時中のことで、原因不明のまま、うやむやに葬(ほうむ)られてしまった。ともあれ、究極の原因は、国家権力者の、総本山に対する大謗法(ほうぼう)から起こったことは、言うまでもない―(旧版第1巻P258)
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と、出火の直接的原因は不明としつつも、究極の原因は国家権力者の謗法であった、としている。
変↓節
それが改訂版では、次のように変えられている。
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客殿の大火は、この大坊の対面所裏から出火した。所化の火の不始末か、農耕隊幹部の失火か、戦時中のことで、原因不明のまま、うやむやに葬られてしまっている。(改訂版第1巻P300)
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なんと、推測できる出火原因として、もとの「朝鮮兵の幹部を怨んでの放火か」が削除され、代わりに「所化の火の不始末か」が追加されているのだ。原因不明という大前提があるにも拘(かか)わらず、大石寺側に責任があったかのように印象操作すべく「所化の不始末」を推測項目として、あえて追加したのだろうが、印象操作の手法があまりにも露骨(ろこつ)すぎて、開(あ)いた口が塞(ふさ)がらない。良識ある歴史小説家の筆法でないことだけは確かだ。
(3)日恭上人の御遷化に関する記述の大幅削除
旧版では3ぺージに亘って、焼亡した客殿とともにその身を殉(じゅん)じた日恭上人の雄姿が描(えが)かれている。
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2、3人の僧侶も、焼け跡に飛び込み、階段へと駈けていった。焼けただれた管長室には、第62世日恭猊下が、おいたわしくも、身を火焔(かえん)に自ら焼き、端座(たんざ)したままの姿であられたのである。
しかも、正装であり、袈裟(けさ)をかけた、お姿である。そして、一閻浮提(いちえんぶだい)総与の大御本尊を御安置した、御宝蔵の方に向かっていた。
猊下はお逃げになることは、いくらでも出来たのである。その証拠に、数百人の罹災者(りさいしゃ)のなかで、負傷者は1名もなかった。
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そして、これに続き、国家権力の強圧の下に、身延との合同が実行されようとしていた折、猊下が文部省に赴(おもむ)き「合同、不承知」と厳然と宣言して帰られた、という史実を紹介し、次のように結んでいる。
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―日蓮大聖人の、正法正義を継承する本宗は、断じて、邪法邪義たる身延をはじめ、いかなる宗とも、絶対に合同はせぬ―と。
その毅然(きぜん)たる態度、迫力に、役人は驚いた。なおも猊下は、―たとい今、頸(くび)を切られてここに死すとも合同せず―と叫(さけ)ばれて、ここに正宗の法水を護(まも)り抜かれて帰られた。じつに、日蓮大聖人の、幕府権力に対決した時のお姿が、そのまま拝されるのである。(旧版第1巻P263~265)
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変↓節
ところが改訂版では、上記を含む3ぺージ分の記述がごっそり削除され、以下の2行が書かれているだけだ。
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2、3人の僧も、焼け跡に飛び込んでいった。そこには、第62世の法主・日恭の遺体があった。(改訂版第1巻P304)
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かつて創価の御用怪文書『地涌』『フェイク』や『創価新報』などで、日恭上人の御遷化(せんげ)に関して、
◆火事のため大奥2階の床が焼け落ち、日恭(上人)は1階に落ち、意識のあるまま竈(かまど)に嵌(は)まり込み、逃げるに逃げられないまま焼け死んだと思われる。上半身のみ焼け、下半身と腹わたが残った死体が、そのことを物語っている(『地涌からの通信』歴史編)
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などと、客観的根拠を何1つ示すことなく、邪推(じゃすい)のみで日恭上人の御遷化の様子を悪(あ)し様(ざま)に仮構(かこう)し、学会員を誑(たぶら)かしてきた。それに対し、宗門および法華講側が完膚(かんぷ)なきまでに破折し尽くした。
そして今般、改訂版を見ると、上記怪文書の内容は微塵(みじん)も反映されていない。要するに、あれら怪文書の記述は、根拠なき完全なデッチアゲであったと、池田自ら証明したということだ。怪文書作成班の落胆(らくたん)振りはいかばかりであろうか。
[画像]:旧版では日恭上人の御事跡を紹介し、称えていたのだが―
【邪宗に対する御都合主義的な配慮!】
この他にも、改訂版における宗門史の削除や改ざん、印象操作の例は枚挙(まいきょ)に遑(いとま)がないが、それは次回以降に譲(ゆず)るとして、最後に今回の参院選に因(ちな)んで、『人間革命』改訂版における政治や他宗に関する記述での不可解な書き換えを、いくつか取り上げてみたい。
旧版では新興宗教の教団を半特定した上で強烈な破折が行なわれていた。"半特定"というのは、教団名は「S教団」「T教」などとイニシャル表記ではあるものの、記述中の教祖名(仮名)や教団出版物の名などから、それがどの教団であるかが読者に簡単に推定できるようになっていた、という意味だ。
しかし改訂版では、教団名のイニシャル表記すらなくなり、また記述内容にも配慮がなされているため、具体的な教団を推定することが難(むずか)しくなっている。これでは学会員読者は、学会がこれまでどのような教団と闘(たたか)ってきたのか皆目分からず、改訂版は「学会の正史」としては読者に不親切な史料になっているわけだが、おそらくこれは、学会の組織防衛のための政治的配慮によるものと思われる。
かつて非自民勢力による新進党政権に公明党が参加していた際(1994年)、自民党議員有志や宗教団体代表者らが結成したいわゆる「四月会(創公の政教一致を批判する連合体)」から、創価公明は猛烈な批判攻撃を受け、結果、新進党崩壊につながった。それに懲(こ)りた創価学会は、翌1995年にSGI憲章で「他宗教の尊重」を打ち出し、他宗教への敵意がないことを示す必要に迫られた。恩師戸田城聖の「(邪宗への)追撃の手を緩(ゆる)めるな」の遺訓よりも、目先の三障四魔からの逃避(とうひ)を優先したのである。
かくして『人間革命』からは、新興宗教教団を特定した破折の記述はなくなり、「邪宗」の語句すら消えた。さらに、伝統宗教の破折規範である「四箇の格言」の10ぺージに亘る詳細解説も消えた。人目につかぬ巻末の備考欄に、わずかに残るのみである。
また戸田が創価学会の究極の目標として叫び続けた「王仏冥合(みょうごう)」の4文字も政教一致批判を恐れてか、ほとんど消されている。わずかに残っている「王仏冥合」の記述も、政教一致批判への言い訳として存在するのみである。
そこでは「王仏冥合」の出自である『王法仏法に冥じ、仏法王法に合して…』の御文を引きつつ「王法とは広義の意味での文化といえる」などという珍説が展開され、政治色を極力薄めようとしている。もとより、この珍説は戸田の
「王法とは一国の政治、仏法とは一国の宗教を意味する(S31.8『大白蓮華』巻頭言)」
という指導から逸脱(いつだつ)している。
折伏、破邪顕正の文字は躍れど、破邪すべき「邪」。の具体像も示さず、顕正すべき「正」の実体(三宝)も知らせず、この『人間革命』改訂版は、新世代の学会員らにいったい何を学び取れというのだろうか。
―改訂で"不都合な真実"を隠蔽―
(『慧妙』H25.9.1)
小説『人間革命』では、ストーリーの時代背景を描(えが)くため、当時の社会情勢や国際情勢に関する解説が辟易(へきえき)するほどの頁数を割(さ)いて記述されているが、そうした歴史記述の中に、"日中国交回復の立役者"と自惚(うぬぼ)れる池田大作がどうしても消し去りたかった表記があった。それは20数箇所にわたって存在する「中共」という2文字の蔑称(べっしょう)だ。
「中共」は中国共産党の正式略称であるが、彼らが建国した中華人民共和国を指して「中共」と呼ぶ場合は蔑称となる。
中華人民共和国は1949年に成立した。しかし日本政府(岸-佐藤政権)は、20年以上の長きにわたって同国を正式国家として承認せず、敵対的態度を取っていた。
そして、同国を呼称する場合も、「中国共産党が不当に支配している国」というネガティブな意味合いと、反共感情を込めた「中共」の2文字を用(もち)いていたのである。朝日新聞を除く大新聞もこの"公式蔑称"を用いて中国関連記事を書いていた(ちなみに、今日この「中共」は放送禁止用語に指定されている)。この状況は日中国交回復が実現する1972年まで続いた。
一方、そうした政府見解に反して、新中国(中華人民共和国)を正式国家として認め、国交回復運動に携(たずさ)わっていた日本の友好人士が少なからずいたが、彼らは同国を呼称する際に「中華人民共和国」あるいは「中国」と呼ぶのが常で「中共」と蔑称することなどあり得なかった。
『人間革命』第5巻(1969年出版)で「中共」という蔑称を抵抗なく連呼していた池田大作は、当然、後者の友好人士群には属さない。
「中共」呼ばわりの例は、『人間革命』だけに留(とど)まらない。学会内スピーチにおいても、聖教新聞紙上においても、中華人民共和国を指して「中共」と呼称・表記した例は多数ある。これについては、後で証拠として引用する。
【反中国思想があった創価学会】
創価学会が中国側と初めて接触したのは1966年のことである。
それも、学会側から積極的に接触したものではなく、中国(周恩来)が日本に中国を承認させるべく、学会・公明勢力を取り込もうと、工作員を使って学会にアプローチしてきた結果であった(当時、周恩来は世界各国でこうした人心獲得工作を行なっていた)。
当時、中国を「中共」と呼ぶほどの親台湾派であった池田創価学会は、突然の中国側からの接近に戸惑いつつ、恐る恐る中国側との初接触に臨(のぞ)んだのである。『新人間革命』13巻「金の橋」には次のように書かれている。
「どうしても警戒心を拭(ぬぐ)いきれません。共産主義国では、宗教を否定的に見ているにもかかわらず、なぜ、学会と交流を希望するのか疑問です。何か、別の意図があるように思えます。」(『新人間革命』第13巻P33)
これは伸一(池田)の偉(えら)そうな指導が語られる前振りとして置かれた"青年部の戸惑(とまど)い"であるが、おそらく当時の池田自身の戸惑いそのものを吐露(とろ)したものであろう。
そして、中国側から説得されて、ようやく「日中友好」バスに乗り込んだのであるが、こうした経緯(けいい)からみると、池田の日中友好事始めは1966年ということになる。「日中国交正常化提言」のわずか2年前である。
ところが、近年、池田大作は著作やスピーチを通して、"池田や学会の日中友好姿勢は1968年の「日中国交正常化提言」から突如始まったものではなく、学会創立以来ずっとそうであった"かのように印象操作している。例(たと)えば以下のような具合いである。
◆私は戸田先生の弟子です。戸田先生も、また牧口先生も、日中友好を念願しておられた。私は、師匠の心の苦しみを知っています。(中略)私の『日中国交正常化提言』は、あらゆる障害を突破して、両国の青年のため、未来の友好を開きゆく、生命を賭(と)した挑戦であった。
この思いはまた、私の青春時代からの信念でした。若き日より私は、中国をはじめ全世界に、絶対の信頼の「金の橋」をつくりはじめたのです。(延安大学「終身教授」称号授与式『聖教新聞』H20.5.13)
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中国延安大学からの来賓を意識して、"日中友好の信念の人―池田大作"を自己アピールしたスピーチであるが、よく臆面(おくめん)もなくこのような嘘(うそ)が語れるものである。
まず、牧口の「日中友好」観。彼にもし善隣友好の志(こころざし)があったとすると、創価教育学会の学会歌に、以下のようなキナ臭(くさ)い歌詞を含めたりはしないだろう。
◆八紘一宇(はっこういちう)肇国(はつくに)の御理想、今全く地球をつつむ(創価教育学会 生活改善同盟の歌)
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この中の「八紘一宇(全世界を統一し、一家のように和合させる)」とは、軍部の海外侵略を正当化するスローガンであり、善隣友好の対極にある思想である。牧口は軍部に阿(おもね)って唯々諾々(いいだくだく)とそれを学会歌に取り入れたのである。
次に、戸田の"日中友好"観であるが、戸田はそもそも中華人民共和国を正式国家として認めていなかった。むしろ敵対意識をもっていた。以下の戸田会長就任スピーチ(1951年)がその証拠である。
◆いま大陸は、中共勢力の席捲(せっけん)するところとなり、また朝鮮にあっては世界の兵力集まっての戦乱であります。(『戸田城聖全集』第3巻)
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このスピーチは旧版『人間革命』の第5巻にも引用されていたが、「中共勢力の席捲するところとなり」の部分が新中国を否定、敵視するニュアンスであるため、改訂版では上記の文言を以下のように書き換えて、ごまかさねばならなかった。
◆今日、中国大陸では、いまだ混迷の様相を呈し、また、朝鮮半島にあっては、世界の兵力集まっての戦乱であります。(改訂版5巻P17)
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前述の池田スピーチを聞いて感心したであろう延安大学の来賓が、もし日本語読解力があり、この旧版『人間革命』の第5巻を読んだら驚くに違いない。
延安といえば、かつて中国革命の根拠地であり、革命聖地と呼ばれていた地である。そこから来た賓客が、「中共勢力の席捲」という戸田発言や、それに続く池田の怒涛(どとう)の「中共」表記を見たならば、「終身教授」称号を返せ、と言いたくなるかもしれない。
【池田も再三にわたり中国を侮蔑】
さて、前述の池田スピーチ中、池田が若いころから日中友好に取り組んでいたかのように印象操作している、以下の自己宣揚フレーズ、
◆(日中)両国の青年のため、未来の友好を開きゆく、……この思いはまた、私の青春時代からの信念でした。
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これもまた、彼の過去の言動と矛盾(むじゅん)しており、己れを美化した妄想を現実のように語る池田得意のレトリックである。
ここで、昔の池田の対中認識はどのようなものであったか、それを窺(うかが)い知る聖教記事があったので挙例(きょれい)しておく。
まず、会長就任直前の総務時代の池田発言。蔑称を用いて中国をジョーク・ネタに使っている。
◆2、3日前、イギリスの大使館の人が話を聞きにきました。4、5日前にはアメリカ大使館からも本部へきました。もうじき、ソ連と中共からもくることになっている。(笑)(S34.7.10)
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次に、池田会長就任後の『聖教新聞』に発表された、海外在住学会員の統計報告。報告者は森田理事であるが、当時の創価(池田)の対中認識が明確に見て取れる。
◆…、第4位中華民国 45世帯、第5位大韓民国 36世帯、…第8位中共 10世帯、第9位朝鮮民主主義人民共和国 4世帯、…(S35.8)
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笑い話のネタに使われ、在外学会員リストに正式国名も載(の)せない。これが当時の池田創価における対中意識だったのである。さらに、当時の会員向け指導の中でも「中共」の語が飛び交っている。
◆中共などは何年来の大飢饉(ききん)です。やはり東洋広布の前提でしょう。(S36.4.22 中国総支部幹部会・土木殿御返事講義)
◆私どもの祖国は日本です。祖国ソ連でもなければ、祖国中共でもなければ、祖国アメリカでもありません。私どもの祖国は日本でしょう。(S37.6.2 中国総支部地区部長会・一昨日御書講義)
◆アメリカは、どんどん北ベトナムを空襲している。そのうちに中共も原爆を持って、どう応酬(おうしゅう)するかもしれない。(S40.5.28 倉敷会館入仏式・諸法実相抄講義)
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そして、こうした侮蔑(ぶべつ)意識が、『人間革命』第5巻「戦争と講和」の章にある20数箇所もの「中共」という蔑称表記に集大成されていくわけだが、これらは、近年池田が語っている"青春時代からの日中友好の信念"云々という自己宣揚が、全くの虚言であることを証明して余りある。"青春時代から日中友好の信念"を持っていた人間が、相手国の正式国名を避(さ)けて、不快な蔑称で呼ぶようなことはすまい。
『人間革命』第5巻に散りばめた「中共」という蔑称を、改訂版ですべて「中国」と書き換えたのは、そうした矛盾や過去の己れの不見識を隠蔽(いんぺい)するためだった、と言ってよい。
この「中共」問題については、他にも言及したいことがあるが、紙幅の都合で機会を改める。
[画像]:"日中友好の立役者"のはずの池田は、かつて中国を「中共」と蔑んでいた!
(『慧妙』H25.10.1)
【恩師の発言さえ改竄した池田】
現在9巻まで出ている改訂版『人間革命』を旧版と比較してみると、旧版に百数十箇所あった「大御本尊」という表記が、改訂版では、ほとんど「大」の字が省(はぶ)かれて「御本尊」と言い換えられているか、あるいは「大御本尊」という語句を含む段落がまるごと削除されている。それが師匠戸田会長のスピーチであろうと容赦(ようしや)をしない。
言い換え例を示すと、以下のような具合いである。戸田会長スピーチの一部だ。
●このような、凄い大御本尊様が、わが国に7百年前から厳存していたのです。しかし、ほとんどの人がこれを知らなかった。(旧版・2巻P41)
改↓悪
◆このようなすごい御本尊様が、厳存しているにもかかわらず、ほとんどの人が、これを知らなかった。(改訂版・2巻P51)
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言うまでもなく、「大御本尊」は、大聖人が弘安2年10月12日に御建立なされた"戒壇の大御本尊"を意味する尊称である。総・別の視点を変えれば、「大御本尊」と「御本尊」は互換できる場合もあるが、上記の場合、話者である戸田理事長は大御本尊を念頭において語っているのであるから、弟子池田が勝手に「大御本尊」の「大」の字を外すのは、大御本尊を敬慕(けいぼ)する師匠の心情をも無視した、不遜(ふそん)な改竄(かいざん)であるといえよう。
次の例は「大御本尊」という語句を含む段落を丸ごと削除した例である。同じく戸田スピーチの一部である。
●この要求、欲求を満たしうるものが、実はわが日蓮正宗の大哲学なのであります。その根本が大御本尊様なのであります。(旧版・2巻P41)
戸田指導は『人間革命』に無数に引用されているが、その中に数多く登場する「大御本尊」の語句は、弟子池田によってほとんど「大」の字が削られてニュアンスが変えられ、あるいは全削除される、という被害を蒙(こうむ)っているのである。とんだ師弟不二である。
【「御開扉」の追憶も全て切り捨て】
池田は学会員読者に戒壇の大御本尊への渇仰(かつごう)心が芽生えるのを恐れて、ひたすら「大御本尊」の語句を隠そうとしたわけだが、字面上の工作だけに止まらず、総本山に登山して大御本尊にお目通りするという、信徒としての最高の福運と功徳についても、学会員の意識が向かないように腐心している。
まず、全巻にわたって頻出(ひんしゅつ)する「御開扉」「お目通り」という語句をすべて削除することから始まり、人生の重要な節目に御開扉を受けた学会幹部たちの興味深いエピソードなどを悉(ことごと)く削除した、例えば、次の2例。
●18年の1月2日、正月登山の折、彼は御開扉をうけ、大御本尊に渾身(こんしん)の祈りを込めた。そして、唱題の間、いくたびとなくひれ伏して願った。(旧版・3巻P97)
〔※上は、泉田(後の小泉理事長)が戦時中、ニューギニアに出征する直前のエピソード〕
改↓悪
◆彼は、御本尊にひれ伏すようにして願った。(改訂版・3巻P117)
〔※改訂後の記述だと、泉田は自宅の仏壇前にひれ伏した、としか読めない〕
●〔※伸一(池田)と峯子(白木かね)の結婚式の後〕2人は翌日、総本山の大御本尊にお目通りし、新婚の旅に立った。(旧版・6巻P164)
改↓悪
◆2人は、挙式の翌日、新婚の旅に立った。(改訂版・6巻P166)
〔※新婚の2人が楽しく登山し、希望に満ち溢(あふ)れて大御本尊にお目通りしたであろうに、今となっては隠し通したい思い出ということか〕
[画像]:戒壇の大御本尊から会員を引き離そうと企てる池田は、自らの新婚旅行についての記述にまで改竄を加えた(右が旧版、左が改訂版)
さらに、登山と御開扉の意義を語る以下の戸田指導は、池田にとって、現学会員の目に絶対触れさせてはいけないもののようだ。改訂版では全て削除されている。
●信心の要諦(ようてい)は、なんといっても登山にある。親しく大御本尊様にお目通りし、拝まなければ本物の信心にはなれない。
こんなありがたい御本尊様を拝させていただけることは、人生の最高の幸せだ。できるだけ多くの会員を、登山させる計画を立てる時期がきたようだ。(旧版・6巻P257)
-------------------
"大御本尊様への車引き"を自認していた戸田城聖のこの正論と、現池田創価の以下の妄言を比べると、池田の師敵対、師弟不一(ふいつ)ぶりがよくわかる。
◆分身散体(ふんじんさんたい)の意義に照らして、弘安2年の大御本尊を書写した御本尊を正しい信心で受持することは、そのまま大御本尊の受持になります(中略)したがって、各家庭安置の本尊を拝することが、そのまま大御本尊を信受することになります。(H14.3.28 全国総県長会議での「会則」「規則」の改変についての斉藤教学部長の説明)
-------------------
そもそも、現学会員に配布されている本尊は"弘安2年の大御本尊を書写した御本尊"などではなく、離脱僧の寺院にあった日寛上人の一機一縁の御本尊を複写変造したものである。そのような偽(ニセ)本尊に分身散体の功力など届くわけがないのである。
【池田は「本門戒壇大御本尊」を目の仇に】
さて、冒頭で、「改訂版では“ほとんど『大』の字が省かれて『御本尊』と言い換えられている」と「ほとんど」と書いたが、一部例外がある。法義がらみの文脈では「御本尊」と言い換えているのだが、法義と関係のない、ストーリー展開上、大御本尊の実物を指し示す必要のある箇所では、旧版での「大御本尊」が改訂版でもそのまま引き継がれているようだ。いちおう挙例しておく。
「僧たちは、二手に分かれ、一組は真っ先に、客殿に飛び込んでいった。ほかの一組は、宝蔵に集合した。大御本尊を守るためである。」(改訂版・1巻P300)
「今、大御本尊のもとに集い合った同志というわけだよ。」(改訂版・3巻P160)
「ぼくらに謝ろうとしないのは、わかる。だが、御宝蔵の前へ行ってもらって、大御本尊様に対してなら、いくらなんでも謝るのではないだろうか。」(改訂版・6巻P85)
「今日のよき日に、新しい御書を大御本尊様の御前に、お供えすることができた。」(改訂版・6巻P120)
「数百年の間、大御本尊の参拝は、これまでの宝蔵で事足りてきた。」(改訂版・9巻
P249)
このような例を見ると、池田に戒壇の大御本尊に対する畏敬(いけい)の念が僅(わず)かながらも残っていた、と善意に解釈してあげたくもなるが、次の削除例を見ると、そうした気持ちも霧散(むさん)する。
●〔※日蓮大聖人立宗7百年祭の式典を描写したくだりで〕つづいて、御僧侶がたに厳護された、本門戒壇の大御本尊が、静かに堂内の中央に安置されると、ただちに、第1回の御開扉が開始された。(旧版・6巻P58)
-------------------
7百年祭の一番の佳境(かきょう)とも言えるこのシーンが、改訂版では、前後文もろとも削除されてしまっているのだ。
大御本尊の遷座(せんざ)というシーンは、前述した"大御本尊の実物を指し示す必要のある箇所では「大御本尊」と表記する"という池田基準に合致しているはずだが、池田がこのシーンそのものを削除したのはなぜか。上文を具(つぶ)さに見てみると、池田が引っかかったのは「本門戒壇の大御本尊」という語句であることがわかる。この語句は池田が20年来、目の仇(かたき)にしているものだ。
破門された創価学会が新会則を制定した際、旧会則や規則における法義に関する記述を大幅に削除した。その削除したうちの1つが「本門戒壇の大御本尊」という語句だったのである。
ここで新旧会則における主な変更箇所を見てみよう。
(旧会則)
「第3条…日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊を根本…」
(旧規則)
「本門戒壇の大御本尊を本尊とし…」
改↓悪
(新会則)
「第2条 この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し、日蓮大聖人の御書を根本として、日蓮大聖人の御遺命たる一閻浮提広宣流布を実現することを大願とする。」
これらの変更は、日蓮正宗からの脱却を目指したつもりのようだが、旧会則から「日蓮正宗総本山大石寺」「弘安2年10月12日」「本門戒壇の大御本尊」という具体性のある文言をはずし、「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」などという抽象的で曖昧(あいまい)な語句におきかえたため、非常に分かりにくくなっている。「一閻浮提総与」は御書にもない語で後人の造語であるが、「世界中の人々に与えた」という意味の修飾語でしかなく、「三大秘法」は日蓮系の他門流でも使用される用語であるため、それらを「大御本尊」に冠してみたところで、創価学会の教義や本尊の独自性や具体像はまったく見えてこない。
創価学会がなしえたのは正宗からの組織的独立のみであり、教義や本尊については、いまだ日蓮正宗からの借り物のままである、というべきだろう。そして、この20年、新教学体系の構築に勤(いそ)しむでもなく、宗門誹謗(ひぼう)に明け暮れて、無為(むい)に過ごしてきたというのが実情なのである。