創価学会破折
牧口常三郎の実像



牧口会長は「正法を守った」のか!?/『慧妙』H25.7.16
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戦争観・天皇観
関連年表

戦争観

特高警察に人脈もっていた牧口会長/『慧妙』H24.9.1
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僧侶軽視・血脈軽視
僧侶軽視、血脈軽視の独善体質

宗門を悩ませた牧口会長の独善性/『慧妙』H6? ------------------------------------------------------------
価値論
日顕上人による『価値論』批判

牧口『価値論』への哲学的批判/梅原猛著『創価学会の哲学的宗教的批判』/『美と宗教の発見』筑摩書房

軸足を価値論に置いたための流転/『慧妙』H24.3.1

学会異流義化の「原点」/『慧妙』H24.2.1

『価値論』の本末顛倒(てんとう)と日淳上人への誹謗/『慧妙』H18.3.1




牧口常三郎関連年表


<明治4年>
・6月6日 新潟県柏崎市にて渡辺長松・イネの長男として出生。のちに親戚の牧口善太夫の養子となる。(『慧妙』H24.2.1)


<明治26年> 小学校の教師となり、名を常三郎と改名する。(『慧妙』H24.2.1)


<明治35年> 地理学者の志賀重昂に師事し薫陶(くんとう)を受ける。志賀は国粋主義者としても知られるが、その影響もあってか牧口氏は、南朝天皇を正統として新たな皇道を教育せんとする大日本皇道立教会に参加した、といわれている。(『慧妙』H24.2.1)


<明治36年> 『人生地理学』を発刊
●同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。(<SOKAnet>WS051127)
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しかし、大正時代に入ると、天皇中心の国家観を持つようになり、戦争翼賛発言が目立つようになる。


<大正1年>
●わが国においては国および国の首長たる天皇は、まったく同心一体と申すべきで、君に忠を尽くすのはすなわち国を愛する所以であるということを十分子供に了解させておかなければなりません(牧口常三郎「教授の統合中心としての郷土科研究」T1/『フォーラム21』H14.3.15)
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この国家観は入信後も変わらなかったようである。


<大正3年頃> 大日本皇道立教会(南朝を正統として両統の融和を計ることを目的として大正3年に設立された団体)で活動(<芳野朝廷研究会>WS)
[画像]:大日本皇道立教会のメンバー


<大正5年> 『地理教授の方法及内容の研究』を著す
●若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(「地理教授の方法及内容の研究」『牧口常三郎全集』第4巻273頁/『慧妙』H17.11.1)


<大正5年頃> 国柱会創始者の田中智学の講演会に何度も出席し聴講していた。
 大正13年に発行された田中智学の三男である里見岸雄著『法華経の研究』には、「日蓮上人においては、本尊は…価値創造である」(P101)とあるが、牧口氏がこの書籍を手にした可能性は高く、また「創価」の名の由来となったとも考えられる。(『慧妙』H24.2.1)


<昭和3年>
・6月 東京・常在寺所属の信徒で、後に直達講の講頭となる三谷素啓氏の折伏によって、57歳で日蓮正宗に入信。(『慧妙』H24.2.1)

・秋 後の戸田城聖2代会長も、三谷氏の折伏で入信(『慧妙』H18.3.1)
●(牧口氏入信の動機について)貧困と、子供達を次々に病没させたことにあるのだろう(柳田国男著『牧口君入信の動機』/『慧妙』H18.3.1)


<昭和5年>
・2月18日 「創価教育学会」を設立。(『慧妙』H24.2.1)

・11月18日 『創価教育学体系』第1巻を発刊する。のちに11月18日が学会創立の日とされるが、これはこじつけで、実際には2月18日である。(『慧妙』H24.2.1)


<昭和6年>
●創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁/『慧妙』H17.11.1)

・3月 『創価教育学大系』第2巻を発刊して、この中で、以前から構想を暖めていた『価値論』を発表
◆百年前及び其後の学者共が、望んで手を着けない『価値論』を私が著はし、而かも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て自分ながら驚いて居る、これ故三障四魔が紛起するのは当然で経文通りです(牧口常三郎『獄中書簡』/『慧妙』H18.3.1)
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 すなわち、牧口氏にとっての『価値論』とは、あたかも釈尊入滅後の智者達が、知ってはいても説き弘(ひろ)めようとしなかった文底下種妙法のような、哲学の最高峰にあたる"教"であり、これを"行"ずる実践形態として法華経の信仰を結び付けることにより、万人の生活上に『価値論』で説く価値(大善生活)が"証"される、それほどの『価値論』を説き顕(あら)わしたのだから、三障四魔が紛然と競(きそ)い起こるのは当然、というのです。
 これでは、日蓮正宗の信仰は『価値論』のために利用されているようなもので、全くの本末顛倒(ほんまつてんとう)という他ありません。また、この牧口氏の論法では、行き着くところ、『価値論』こそが衆生済度(さいど)の教であることになりますから、さしずめ、それを説いた牧口氏の立場は"教主"であり"末法救済の大導師"であるということになってしまいます(事実、かの52年路線の時には、池田大作が牧口氏を「先師」「大導師」と呼称して本仏大聖人に匹敵させ、大問題となりました)。
 結局、この『価値論』と仏法との混同が牧口氏の信仰を歪(ゆが)め、それが後の創価学会異流義化の温床になった、といえるでありましょう。(『慧妙』H18.3.1)


 さて、こうした異質な思想をもつ牧口氏は、氏の教化親(きょうけおや)であり直達講の講頭であった三谷素啓氏と相(あい)容(い)れなくなり、三谷氏との間で何回か激論を交わした末、牧口氏は三谷氏と絶交することとなります。
 これにより、牧口氏はそれまでの同志達と袂(たもと)を分かって、東京中野・歓喜寮(後の昭倫寺)へ参詣し始め、以後、歓喜寮(※住職は堀米泰栄尊師=後の第65世日淳上人)を事実上の所属寺院とするようになりました。(『慧妙』H18.3.1)


<昭和12年>
・夏 創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)

 昭和12年の夏、創価教育学会発会式(会長=牧口氏、理事長=戸田氏)を境として、堀米尊師に反抗するようになったのである。
 その原因は、当時の僧侶・信徒の証言によると、牧口氏が、「在家団体・創価学会」の設立を堀米尊師に申し出たところ、堀米尊師がこれに危惧(きぐ)を感じて許されなかったため、やむなく牧口氏は、教育を研究していく団体という名目で「創価教育学会」を発会、この際の確執が師に対する反抗の原因となった、といわれている。
 実際、『創価学会年表』によれば、これまで歓喜寮で開いていた会合を、この時期から開催しなくなっている。  この一件から推(すい)するに、創価教育学会の発会を巡る堀米尊師との確執は、そうとう根深かったと考えられる。(『慧妙』H24.3.1)


<昭和16年>
・11月
●北九州に牧口が指導に出かけた時、会場には特高刑事が臨検し、神社問題が質問された。その時は牧口の指導によってうまく解決(『牧口常三郎全集』第10巻362頁)


<昭和17年>
・1月
●警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分『牧口常三郎全集』第10巻371頁)

・5月 軍部の圧力により「価値創造」は第9号をもって廃刊(『牧口常三郎全集』第10巻79頁)

・5月17日 創価教育学会第4回総会

・11月 創価教育学会第5回総会

・11月16日 学会幹部十数名で堀米尊師を取り囲んで行なった、学会の指導方針を巡(めぐ)る押し問答(『慧妙』H24.3.1)
 こうして、堀米尊師との関係が悪化したことから、牧口氏は会員が所属寺院の歓喜寮に近づくことを禁止するようになり、これを破(やぶ)った者(三ツ矢孝氏・木村光雄氏等)に対しては、烈火のごとく叱(しか)りつけた。 (『慧妙』H24.3.1)


<昭和18年>
・牧口氏と堀米尊師は完全に決裂する。
●牧口氏は所属寺院の歓喜寮主管堀米泰栄師と議論し、「もう貴僧の指導は受けない」と席を蹴(け)って退去し、本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率(ひき)いられる創価教育学会は茲(ここ)で日蓮正宗と縁が切れ、後に戸田氏が宗門に帰参してからも、学会は寺院を離れた独自の路線をとることになった(「直達講」副講頭の竹尾清澄氏著『畑毛日記』/『慧妙』H24.3.1)
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 創価教育学会結成から13年、発足してからわずか6年足らずにして、信仰上、日蓮正宗とは断絶に近い状態に陥(おちい)っていたのである。
 だが、堀米尊師の側では、このような牧口氏率いる創価教育学会に対しても再起の道を残しておられ、その気があれば元の所属寺院である常在寺へ戻れるように手配をされていた。

・4月 学会幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕

・5月
●牧口は、天照皇太神宮の大麻(神札)などを取り払い焼却することが神社等に対する不敬罪にあたるとして、警視庁と東京・中野警察署に出頭を命じられ取調べを受けた(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)

・6月
●東京・中野の一学会員が、子供を亡くして悲しみの底にあった近所の家に行き、頭から「罰だ」と決め付けたため、怒った相手から訴えられる(※信仰に関わる最初の逮捕=陣野忠夫、有村勝次)(『慧妙』H6?)

・6月初旬 本山での神札指導
●学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(『富士宗学要集』第9巻431頁)

・7月6日 牧口、逮捕
●牧口常三郎外5名を検挙し取り調べを進めたる結果、更に嫌疑濃厚と認めらるる寺坂陽三外4名を追検挙し引き続き取り調べ中なり。(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)


<昭和19年>
・9月6日
●堀米先生に、去年堀米先生を「そしった」罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。「法の師をそしり」し罪を懺悔しつつ「永劫の過去を現身に見る」と言っております、と(戸田城聖『獄中書簡』S19.9.6妻あて/『慧妙』H18.3.1)
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牧口会長による日淳上人誹謗を懺悔


<昭和20年>
・7月5日
●足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)





牧口常三郎の戦争観

<天皇制>
一般人以上に天皇への忠誠を大切にし、天皇と国家は一体と考えていた。感謝のための神社参拝を容認し、天皇は現人神などとする邪義を展開。神札については、当初は撤去焼却していたが、本山の指導に従い、柔軟に対応しようとする。逮捕後は、国法遵守を一層明確にする。

<戦争観>
侵略戦争である15年戦争(特に太平洋戦争)の最終局面を『立正安国論』で説く他国侵逼難と捉え、その原因は謗法であると主張。しかし、その一方で、日本の海外派兵、参戦を容認。戦勝を願い、戦勝のためには国家諌暁が必要だと考えていた。ただし、国家諌暁の事実はなく、逮捕後は「国法にはどんなにでも服従する」と。



【関連年表】

【池田学会、歴史を捏造】

【天皇中心主義】

【戦争翼賛する牧口学会】

【「国家諌暁」への執着と世相無視の行動】
<国家諌暁>
<世相を無視し宗熱に突喊(とっかん)し官憲の横暴を徴発した牧口学会>
<訊問調書>
<戦争翼賛は組織擁護の方便?>
<検閲について>

【柳田國男の証言】

【『人生地理学』】

【『立正安国論』と平和主義】
<戦争反対と「立正安国」は次元が違う>
<第65世日淳上人>

【戯論粉砕】

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【関連年表】
・1903(M36) 『人生地理学』を発刊
●同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。(<SOKAnet>WS051127)
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しかし、大正時代に入ると、天皇中心の国家観を持つようになり、戦争翼賛発言が目立つようになる。

・1912(T1)
●わが国においては国および国の首長たる天皇は、まったく同心一体と申すべきで、君に忠を尽くすのはすなわち国を愛する所以であるということを十分子供に了解させておかなければなりません(牧口常三郎「教授の統合中心としての郷土科研究」T1/『フォーラム21』H14.3.15)
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この国家観は入信後も変わらなかったようである。

・1914(T3)頃 大日本皇道立教会(南朝を正統として両統の融和を計ることを目的として大正3年に設立された団体)で活動(<芳野朝廷研究会>WS)
[画像]:大日本皇道立教会のメンバー

・1916(T5) 『地理教授の方法及内容の研究』を著す
●若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(「地理教授の方法及内容の研究」『牧口常三郎全集』第4巻273頁/『慧妙』H17.11.1)

・1925(T14) 治安維持法

・1928(S3)6. 日蓮正宗に入信。続いて戸田も牧口の紹介で入信(『牧口常三郎全集』第10巻78頁)

・1930(S5)11.18 「創価教育学会」(創価学会の前身)を創立(<SOKAnet>WS)
●創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁/『慧妙』H17.11.1)

・1931(S6) 満州事変(15年戦争開始)

・1935(S10) 牧口会長、自身が折伏した元マルクス主義者を特高警察のもとへ連れて行き「今後、法華経の信仰に励み、国家有為の青年となるから御安心ください」と紹介(記事参照

・1937(S12) 日支事変

・1941(S16)11.
●北九州に牧口が指導に出かけた時、会場には特高刑事が臨検し、神社問題が質問された。その時は牧口の指導によってうまく解決(『牧口常三郎全集』第10巻362頁)

・1941(S16)12.8 太平洋戦争開始

・1942(S17)1.
●警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分『牧口常三郎全集』第10巻371頁)

・1942(S17)1.6 大都市配給制実施(『富士年表』)

・1942(S17)4.18 米B25爆撃機13機日本本土を初空襲(同)

・1942(S17)5. 軍部の圧力により「価値創造」は第9号をもって廃刊(『牧口常三郎全集』第10巻79頁)

・1942(S17)5.17 創価教育学会第4回総会

・1942(S17)11. 創価教育学会第5回総会

・1943(S18)4. 学会幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕

・1943(S18)5.
●牧口は、天照皇太神宮の大麻(神札)などを取り払い焼却することが神社等に対する不敬罪にあたるとして、警視庁と東京・中野警察署に出頭を命じられ取調べを受けた(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)

・1943(S18)6.
●東京・中野の一学会員が、子供を亡くして悲しみの底にあった近所の家に行き、頭から「罰だ」と決め付けたため、怒った相手から訴えられる(※信仰に関わる最初の逮捕=陣野忠夫、有村勝次)(『慧妙』H6?)

・1943(S18)6.初旬 本山での神札指導
●学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(『富士宗学要集』第9巻431頁)

・1943(S18)7.6 牧口、逮捕
●牧口常三郎外5名を検挙し取り調べを進めたる結果、更に嫌疑濃厚と認めらるる寺坂陽三外4名を追検挙し引き続き取り調べ中なり。(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)

・1943(S18)10.15 従来の建物・施設疎開に加えて、建物疎開に伴う人員疎開対象地区として京浜、阪神、名古屋及び北九州が重要都市に定められた。(『牧口常三郎全集』第10巻328頁)




【池田学会、歴史を捏造】
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国家が強権で民衆をおさえこんだ時代。創価学会牧口(常三郎)初代会長は、国家主義にかたよらない、世界市民の育成を訴えた。侵略戦争に反対し、信教の自由のために苦闘した。そのため、牧口会長と戸田(城外)理事長(当時)は不当にも逮捕され投獄(1943年)。牧口会長は1944年11月18日、獄中に殉じ、1945年7月3日、戸田理事長は衰弱した体で豊多摩刑務所を出獄。壊滅させられた創価学会の再建に歩み出した(『SGIグラフ』H11.5/『フォーラム21』H14.3.15)
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牧口や戸田が不敬罪や治安維持法違反で逮捕されたことは事実だが、その理由を「国家主義にかたよらない、世界市民の育成を訴えた。侵略戦争に反対し、信教の自由のために苦闘した」ことによると主張することは、真っ赤なウソであり、歴史の偽造以外のなにものでもない。




【天皇中心主義】
●わが国においては国および国の首長たる天皇は、まったく同心一体と申すべきで、君に忠を尽くすのはすなわち国を愛する所以であるということを十分子供に了解させておかなければなりません(牧口常三郎「教授の統合中心としての郷土科研究」T1/『フォーラム21』H14.3.15)
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ここには「国」に優先して「個」を大事にし、国家よりも子どもの幸せを優先するという考えは微塵もみられない。

●我国の主権は、即ち万世一系の天皇にましまして、吾々国民から言へば上に万世一系の皇室を戴(いただ)き奉(たてまつ)るのである(T5「地理教授の方法及内容の研究」『牧口常三郎全集』第4巻277頁/『慧妙』H17.11.1)
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我が国の主権者は天皇・皇室であることをしっかりと教え込め、と訴えているのだ。

●我々は天皇陛下の御為に、1人でも多く折伏し、実行を以て示さねばならぬ(S16.7「目的観の確立」『牧口常三郎全集』第10巻8頁)

●東亜共栄圏乃至世界列国にこれからの新秩序の中核として吾等が実証によってこゝに提供せんとする最高価値の大善生活法は、人生の理想として何人も渇望する所のものであり、仏教の極意たる成仏法こそ之に応じた妙法であり、又「惟神(かんながら)の道」の真髄も之でなければなるまい。所謂(いわゆる)皇道精神もこれ以外にあるべきはない(S16.8.20「大善生活法の提唱」『牧口常三郎全集』第10巻9頁)
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[惟神の道]かんながら-のみち=神代から伝わってきて、神のみこころのままで人為の加わっていない道。神道(しんとう)。〔近世、国学者が用いたことに始まる〕(『大辞林』)

●大臣も知事も他の百官も権力に於いては悉く、天皇陛下の大御稜威(みいつ)に摂(せっ)せられる。故に一切の政治機関のあらゆる権力は悉く、天皇陛下の統治権の発動に過ぎない(S16.12.5「大善生活法の実践」『牧口常三郎全集』第10巻18頁)

1●万世一系の御皇室は一元的であって、今上陛下こそ現人神であらせられる。即ち天照太神を初め奉り、御代々の御稜威は現人神であらせられる今上陛下に凝集されているのである。されば吾々は神聖にして犯すべからずとある「天皇」を最上と思念奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。「義は君臣、情は父子」と仰せられているように、吾々国民は常に天皇の御稜威の中にあるのである。恐れ多いことであるが、十善の徳をお積み遊ばされて、天皇のお位におつき遊ばされると、陛下も憲法に従い遊ばすのである。即ち人法一致によって現人神とならせられるのであって、吾々国民は国法に従って天皇に帰一奉るのが、純忠だと信ずる。(S17.11『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻363頁)
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「人法一致」などという語をつかって、宗義にはない思想を展開してまで、皇国思想におもねる。

2●吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(S17.11第5回総会「大善生活実証録」『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
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"感謝のためなら神社に参拝してもよい"これが牧口会長の指導でした。
[参拝]=神社・寺にお参りして拝むこと(『新明解国語辞典』第4版)

学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと(戸田城外=城聖「通諜」S18.6.25)
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文面を考えたのは戸田理事長(当時)である。しかし、「天皇中心主義」という語は、大日本皇道立教会なる団体に所属するなど、天皇制に対して深い思い入れのあった牧口会長が口にしていたものであろう。この語は牧口会長の造語ではなく、「当時の右翼のなかでも、最も過激な数団体のみが使った」(『地涌』第61号)そうであるが、当時大石寺に参篭したこともあるという極右団体も使っていたのかも知れない(<「通諜」問題総括>参照)。↓

極右の朝日平吾も大石寺に参篭したことのある人である。 また他面、牧口氏の側にも次のような事情があったことが、ご隠尊と山峰氏のお話から感じられた。・・・(元直達講副講頭・竹尾清澄『畑毛日記』/『慧妙』H6?)
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朝日平吾は大正時代の人であるが、牧口氏の入信が昭和3年であるから、あるいは入信前(内得信仰時代またはそれ以前)に、折伏親の三谷素啓氏らを通じて交流があったのかも知れない。上記記述は、別のテーマ(牧口氏らが日淳上人を誹謗し、宗門と疎遠になった経緯)で紹介された『畑毛日記』の記事の端っこに偶々掲載されたものでる。そのため残念ながら、前段の内容は不明である。しかし、「極右の朝日平吾も大石寺に参篭・・・また他面、牧口氏の側に」とあるから、朝日平吾についての記述は、牧口氏との関連で書かれたことは間違いない。


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>問 王仏冥合一天四海帰妙法と云ふ事は、上は 陛下より下国民に至る迄で日蓮正宗の本尊に帰依することなりや。
答 左様であります。
(「訊問調書」『牧口常三郎全集第10巻』201頁)
>天皇陛下も凡夫であって(中略)間違ひも無いではない。
(「訊問調書」『牧口常三郎全集第10巻』203頁)
>日本国民は 陛下に忠義を尽すのが臣民道であると考へます。之は私が法華経の真理から左様に悟って居るのであります。
(「訊問調書」『牧口常三郎全集第10巻』203頁)
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ここに書かれていることは、仏法の正義から逸脱しているようには思われない。これが、牧口会長の真意であると信じたいところである。が、しかし、逮捕前に公式の出版物で表明した天皇観(1●2●)は、仏法上の邪義が含まれている。これを、どう解釈するか。

[解釈1]=組織防衛のために1●2●のような邪義を方便として展開、訊問調書では本心を述べた。
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戦後の創価学会が主張する牧口像="身命を賭して国家諌暁しようとし、最後まで神札拒否を貫いた"という主張と完全に矛盾する。また、組織防衛のために方便を駆使したというのなら、逮捕されても同様の主張をするはずである。そうでなければ、さらに逮捕者が拡大することになり、解散命令が出ないとも限らないからだ。解散命令が出なかったこと自体、訊問調書が宗義書に基づいて書かされたことを示唆する。

[解釈2]=組織防衛のために1●2●のような邪義を方便として展開。宗義書等が押収されていたから、その内容に沿った訊問調書が強制的に作成された(牧口会長自身の筆答であることを否定するものではない)。
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戦後の創価学会が主張する牧口像="身命を賭して国家諌暁しようとし、最後まで神札拒否を貫いた"という主張と完全に矛盾する。

[解釈3]=1●2●の邪義は本心。訊問調書については、宗義書等が押収されていたから、その内容に沿って強制的に作成された(牧口会長自身の筆答であることを否定するものではない)。
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この場合は、牧口会長の信念は貫かれた可能性を否定できない。しかし、その信念は仏法から逸脱していたことになる。

[解釈4]=1●2●の邪義は本心。訊問調書の内容も本心。
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この場合は、牧口会長の信念は貫かれた可能性を否定できない。しかし、その信念は仏法から逸脱していたことになる。

★上記の解釈のうち、[解釈1]または[解釈2]が真実に近いと思われる。牧口会長が、日蓮正宗の本尊に帰依しなければ真実の幸福は得られないと考えていたことは、逮捕前の氏の主張からも明らかである。。頑なな神札拒否や性急な国家諌暁の主張は、その強い信仰心の現れと思われる。しかし、天皇の解釈については組織防衛のあまり、邪義を展開。頑なな神札拒否については、本山の指導後より柔軟となり、逮捕後の獄中書簡では、国法遵守の気持ちが一層明確に表明されている。すなわち、国家諌暁の主張は、宗門の指導後、一時的な反発もあったようであるが、結局撤回されたのである。

●我々は決して寺を遠のけとは言はない。寺を離れたら原理を失うことになり日蓮正宗でなくなる。是だけが正宗で他はすべて邪宗であります。(S17.5.17「大善生活実証録」『牧口常三郎全集』第10巻145頁)

●皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱いなき様充分注意すること(戸田城外=城聖「通諜」S18.6.25)

●国法にはどんなにでも服従すると言ふのだから、心配はいらない。(牧口「獄中書簡」S19.3.16/『牧口常三郎全集』第10巻288頁)

●御上の事は何んでも従ふ(牧口「獄中書簡」S19.3.27『牧口常三郎全集』第10巻405頁)




【戦争翼賛する牧口学会】
●若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(T5「地理教授の方法及内容の研究」/『牧口常三郎全集』第4巻273頁)
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"外敵"に対する防御のみならず、日本の権勢拡大のためにも弱い国家に対して「力」を使え、と力説

●創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁/『慧妙』H17.11.1)
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創価教育学会が、、当初から反戦・平和を唱え、天皇制を批判していたのなら、軍人や植民地支配の最高責任者に顧問就任を要請するはずなどなく、また軍人らも、要請されたとしても、それを承(う)けようはずがない。

●最近、文部省が軍事訓練を課したるは、近ごろの大できである。……何という、今の非常国家に適切の忠告であろう(牧口常三郎「『光瑞縦横談』と教育・宗教革命」S11/『フォーラム21』H14.3.15)
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「軍事教練」の義務化を賞賛する牧口に、軍国主義に反対する思想があったとはとうてい言えない。牧口会長は、戦争に反対するどころか、教育の分野においても戦時下に即した対応の必要性を認めていたのである。

●大善生活は個人主義生活や独善主義の生活ではなく、まして臆病なる寄生主義の生活でもなくて、勇敢なる全体主義の生活なることが解るであらう。全体主義とはいへ己を忘れるが為に、云ふべくして行はれないやうな空虚なる偽善生活ではなく、自他共に共栄することによって初めて、完全円満なる幸福に達し得る、真実なる全体主義の生活のことである。全体のためと共に、各個人にもその所を得しめる皇道精神の理想と一致することが知れるであらう(S16.10.20「大善生活法即ち人間の平凡生活に」『牧口常三郎全集』第10巻14頁)

●戦場に於ては悉(ことごと)く大善生活法の実践であり、それによつてのみ勝利が得られ、これがなくしては必ず惨敗をするのである。(S16.10.20「価値創造」第3号/『牧口常三郎全集』第10巻18頁)

●(※宮城遥拝・黙祷の後、野島辰次理事「開会の辞」)大東亜戦開始以来の戦果は、法華経の護持国家なればこそであります。昨夜のラヂオ放送の如き余裕下に、今日総会を開くのは感激の極みであります(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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大東亜戦争(太平洋戦争)で赫々たる戦果があがっているのは、日本が法華経の護持の国であればこそであり、勝利の戦果を聞く時に総会を開催することは感激の極みだというのである。宮城遥拝に次いで首脳幹部が大東亜戦争の戦果を賞賛する。ここには侵略戦争に反対したという事実も、軍国主義に抵抗した事実も全く見あたらない。あるのは侵略戦争に迎合協力する体制翼賛団体としての創価教育学会の姿だけである。

●(※戸田理事長が披露した歌=幹部会員・四海民蔵作詩)男だ 日本人だ 日蓮正宗の信者だ 栄光ある生活改善同盟の戦士だ 大君のかがやく御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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「大君の御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む」とは、大東亜共栄圏の建設を目指した軍部政府のアピールそのものである。

●(※岩崎洋三理事)我々は大東亜戦争を戦ひ取っている、日本帝国の銃後の一員として課せられた一大使命を発見する者であります。産業報国が然り、職域奉公が然り貯金報国が然り簡素の生活が然り、而し斯る一通りの事に依って銃後の使命足れりとする創価教育学会の会員が万一ありとすればそは誤れるの甚しき物であります。然らば我等の使命は何ぞや。折伏之のみであります。折伏に於て此の幸福の生活を世間に延しひろめて、不安と疑と嫉妬と排斥ときづなと権謀の世界の消へ去った時こそ、たとへ何年でも大東亜共栄圏を戦ひ取る迄がんばり抜く銃後が築かれるのである(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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八紘一宇の思想に基づく大東亜共栄圏を建設するために、通り一遍の協力のみならず、「大東亜共栄圏を戦ひ取る迄がんばり抜」ける優秀なる「銃後の民」を築くのが、創価教育学会員の一大使命だというのである。創価教育学会の実態が、創価学会の言う「侵略戦争に反対」する「反戦・平和の団体」ではなく、軍国主義体制に迎合する体制翼賛団体であったことは、第4回総会での一連の幹部発言に照らせば明瞭である。

●「皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る」といふ剣道の真髄を、実戦に現はして国民を安堵(あんど)せしめられるのが、今回の日支事変及び大東亜戦争に於て百戦百勝の所以(ゆえん)である。それは銃後に於けるすべての生活の理想の要諦でもある(S17.5「大善生活実験証明の指導要領」『牧口常三郎全集』第10巻129頁)

●(※理事の1人)いまや、島国日本が北はアリューシャン群島方面より遥(はる)かに太平洋の真ん中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、さらに南洋諸島を経て西は印度洋からビルマ支那大陸に、将又(はたまた)蒙疆満州に至るのは広大な戦域に亘り、赫々たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問わず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐らくが戦場精神によって一丸となり、只管(ひたすら)に目的達成に邁進しつつある(創価教育学会第5回総会『大善生活実証録』S17.12.31発行)
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[聖戦]=宗教的に神聖とみなされる目的のために戦われる戦争。また、正義の戦い。(三省堂『大辞林』第2版)

●(※牧口会長)森田君、しっかりやってきて下さい。日本の民族は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、搭乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。(中略)この大東亜戦争は、1年の後か、2年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有り難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺身するから、森田君は御本尊様に一切お委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)
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これは、終戦後に出版されたものである。戦後の日本社会は反戦・平和思想が広く浸透しており、創価学会もその時流に乗り、反戦・平和を前面に掲げて活動している。そのような中で、池田学会は自己正当化のために"牧口会長は反戦論者であった"かのように喧伝している。しかし、戸田会長は、そのようには牧口会長のことを描いてはいなかったのである。戸田会長が描く牧口会長は「日本の民族は勇敢」であるから「米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させた」と、国粋主義者のような言動をとり、出征する会員に対して「前線で悔いのない働き」をするように激励していたのである。これは、終戦後の反戦思想の普及した時代に書かれたものであり、決して"会員擁護のための方便"などではない。

●(※牧口会長)国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)

●洋三(牧口会長の三男、享年38歳)戦死の御文、(中略)病死にあらず、君国のための戦死だけ、名誉とあきらめ唯だ冥福を祈る(「獄中書簡」『牧口常三郎全集』第10巻300頁)
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これを、家族を守り検閲を逃れるための方便とすることはできない。なぜなら、牧口氏の他の獄中書簡には戦争翼賛、皇国讃歎の記述はないからである。つまり、一々君国賛美の記述がなくても検閲は通っていたのである。そもそも妻子を守るために真意を隠すような態度で「反戦思想を貫いた」などといえるのか?




【「国家諌暁」への執着と世相無視の行動】
<国家諌暁>
●(※日恭上人より)予(※日亨上人)が池袋の蟄窟(ちっくつ=ひそかに住んでいる場所)に駕を枉げて(がをまげて=貴人がわざわざ来訪する)国諌の御相談があった、此頃は大東亜戦の最中で危機非常の時とて東西の真俗に古例に倣つて国諌を成し遂げ法力を以て国家を磐石たらしむべき説が蜂起したので、東京の一部の真俗よりの熱願に酬(こた)へての最後の手段の御相談であった。予は宗開両祖伝統の国諌の対所は時の国権の実権者であって、皇帝でも無く将軍でも無い執権でもない、国家の棟梁として平左衛門尉如き下級官吏までも時に取っては敵手(あいて)とされた。此点を考慮なされ先ず第一に御自身に全責任を負はれ門下の何人も力にしてはならぬ、安政度の霑上の国諌ぶりをも引いて懇談した事で、要するに激越に御奮起を催したが此の盛挙は取り止めになった道程は聞かないが但或方面の低級な御信者の中には池袋の隠居は国諌は嫌ひぢやげな先聖に背く怪(けし)からぬ悪魔であるとかの聲(こえ)がしたとの事、尤(もっと)も宗門の表面から隠れて居(お)る足の無い亡者であるから此の曲批を不問に付した(第59世日亨上人著『日恭上人伝補』29頁〜/『大白法』H6.7.1ただし下線部はwt:21966による)
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 国家諌暁が取り止めになったことについて「国諌は嫌ひぢやげな先聖に背く怪(けし)からぬ悪魔である」と批判した信者を指して「低級な御信者」と批判されている。一往これは、国諌に賛成であった日亨上人への批判であったから、このように評されたと考えられる。
 一方、『日恭上人伝補』が、日恭上人の御徳を宣揚するために認められた書であることを考えれば(下記●)、日亨上人が、国諌中止(延期)を批判されるはずはないし、事実、批判されていない。むしろ、国諌は御法主上人御自身が「全責任を負はれ」行うことで、「門下の何人も力にしてはならぬ」というお考えであったのだから、国諌の時期についても御法主上人の責任においてお決めになることに全く異論はなかったはずである。
 このことからすれば、「低級な御信者」云々との批判は、再往、御法主上人の決定に口を挟(はさ)む者への言ともいえるのではないか。
 ところで、国諌中止(延期)を批判した「低級な御信者」って、もしかして牧口会長?

●此の筆は傳補と名けてお弟子方の本傳の補充にとしたが、出来上がれば全くの随筆である。それも遺弟方と屡熟議の上に執るべき豫定の所を極度交通に便宜を失してその機会を一回も得ず獨断に成し終りて、某人に内示したるに、始めの三四頁を見了って此は丸で御隠居の回顧録のやうで恭尊への記事が少ない。法兄賛美の御筆も却って皮肉に見る人も有って御真意を曲解する者ありはせぬかと案ぜらるるとの伴語があった。鳴呼難いかな難いかな拙筆では意を尽し得ぬ、願くば虚心坦懐以て愚の真情を汲み取られたし。更に実情を顧りなせば法兄は本性に性徳に秀いで、功まず飾らず努めずして常に獅子遊戯三昧なり。(第59世日亨上人『愚跋』47頁/wt:22076)
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これは『日恭上人伝補』を読んだ方が、日恭上人への評価を曲解することを恐れた日亨上人の御言葉だということです。

●(昭和18年)牧口会長は今こそ国家諌暁の時であると叫ばれ、総本山の足並みも次第に此に向つて来たが、時日の問題で総本山からは、堀米部長(日淳上人)がわざわざ学会本部を来訪なされ、会長及び幹部に国家諌暁は時期尚早であると申し渡されたが、牧口会長は「一宗の存亡が問題ではない、憂えるのは国家の滅亡である」と主張なされた。(『富士宗学要集』第9巻430頁)
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「国家諌暁は時期尚早」とは、日亨上人の御意見を伺った日恭上人が、日淳上人と御相談の上、決定されたことであろう。この決定に不服であった牧口会長は「なにを恐れているのか知らん」(下記●)と言ったそうだが、「世相を無視」(下記3●)し平気で「官憲の横暴を徴発」(3●)する氏らしい発言ではある。

●一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖聖人のお悲しみを、恐れるのである。いまこそ、国家諫暁の時ではないか。なにを恐れているのか知らん(牧口常三郎『戸田城聖全集』第3巻所収「創価学会の歴史と確信」)
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これは、昭和18年6月初旬の発言とされるものである。「一宗が滅びることではない」とは、どういう意味か?もし、戒壇の大御本尊と血脈の断絶を意味しているとすれば、本末転倒の暴言であろう(<四悉檀と御法主の教導>参照)。

●牧口が宗門をあげての「国家諌暁」を願った時、総本山では文部省から、思想統一政策の1つとして、全日蓮宗の統合合併策を強要されていた。そして宗門の一部には、この身延との統合案に迎合する悪侶も出ていたのである。これらの節操のない僧侶が、時の軍部と手を握ったため、宗門は紛糾せざるを得なかった。 国家諌暁の断行には、第1に宗門の内部の意志の統一が必要であることは、いうまでもない。宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。宗内の獅子身中の虫ともいうべき一派は、水魚会と称する背後の軍部勢力と結託していた。これらが、文部省の宗教政策を牛耳りつつあったのである。そのため正宗の僧侶達は、国家の危機より、宗門の7百年来の未曾有の危機を克服することに懸命であった。(『人間革命』第3巻「渦中」)
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池田自身、当時の宗門の置かれていた状況を「宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。」としていた。一信徒の牧口と、宗門全体の信徒の信心と法体を守るべき立場とでは、自ずから考えや行動の視点が異なるのである。


<世相を無視し宗熱に突喊(とっかん)し官憲の横暴を徴発した牧口学会>
3●顧(かえり)みるに法難の起こる時、必ず、外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発ありて其の端を発し、内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の門徒ありて、(内外の)両面より官憲の横暴を徴発(ちょうはつ)するの傾き多し。本篇に列する十余章(の法難も)皆、然らざるはなし(第59世日亨上人著『富士宗学要集』第9巻247頁)
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国家諌暁に賛成であった日亨上人も、個々の僧俗が勝手に「世相を無視」し「官憲の横暴を徴発」するような行為に対しては否定的であったことは「似非信行の門徒」という語から容易に分かることです。

●客年(※昭和17年)1月頃以降警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者ありて、皇大神宮に対する尊厳冒涜竝に不敬容疑濃厚となりたる為同庁に於て、本月(※7月)7日(※昭和18年7月6日逮捕。7日、警視庁に護送)牧口常三郎外5名を検挙し取り調べを進めたる結果、更に嫌疑濃厚と認めらるる寺坂陽三外4名を追検挙し引き続き取り調べ中なり。(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)
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謗法払いのために、敢えて神札や仏壇を焼く必要はない。「夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起」などは、戦時下でなくとも非常識な、法を下げる行為であろう。また、謗法払いは、本人や家族が充分納得した上で行うべきものである。それが実行できておれば神札不敬があったとしても、警察への投書などによって社会問題化することもなかったであろう。学会弾圧は、社会常識、庶民感情を無視した強引な布教の結果、一般庶民を敵に回したために惹起した自業自得の"災難"だったのである。

昭和18.4頃 学会幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕。

昭和18.6.5 東京・中野の一学会員が、近所の人の子供が死んだのを、頭から「罰だ」と決めつけて折伏しようとしたことで、怒った相手から訴えられ、特高警察に逮捕・拘留されるという事件が起きた。 特高では、この事件を機に、かねてマークしてきた創価教育学会を一気に壊滅(かいめつ)せしめる意志決定をし、逮捕した学会員を厳しく取り調べて、学会弾圧の「罪状」を作成にかかったのである。(『慧妙』H13.8.16)
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学会弾圧の契機は、神札不敬ではなく、人情を無視した非常識な「罰論」であった。


<「訊問調書」>
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逮捕後も、安国論を示しながら「現在の日支事変や大東亜戦争等にしても其の原因は矢張り謗法國である処から起きて居ると思ひます。故に上は陛下より下國民に至る迄総てが久遠の本仏たる曼荼羅に帰依し、所謂一天四海帰妙法の國家社會が具現すれば、戦争飢饉疫病等の天災地変より免れ得るのみならず、日常に於ける各人の生活も極めて安穩な幸福が到来する」と言われた。仏法教義のことがあるため、「訊問調書」は牧口先生自ら調書を書くのを手伝われたこともわかっている。
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 もし、特高刑事の前で、政府による戦争行為を批判したのであれば、それ自体が大問題視され、当然、起訴状にもその事実が記載されていたであろう。しかし、実際には、起訴状には牧口会長が反戦論者であることを示す記述は一切ない
 このことからも分かるように、「現在の日支事変・・・」の発言は、戦争批判ではないと考えるべきである。戦争によって多くの死傷者が出ることは不幸なことであり、戦争がないにこしたことはない。それについては時の政府とて否定しなかったであろう。日支事変や大東亜戦争も、多くの死傷者を出したという点では、不幸なことである。だからこそ仏法も戦争を三災七難の中に含めているのである。そのような不幸な戦争をしなければならなかったことは止むを得ないこととはいえ、その原因の元を糺(ただ)せば謗法にある、というのが牧口会長の見解である。その辺のニュアンスは刑事には伝わっていたはずであり、だからこそ、取り立ててこの発言を問題視しなかったのである。
 ところで、『立正安国論』を示して日支事変や大東亜戦争の原因が謗法であると主張したとあるが、これは少々おかしいのではないか。『立正安国論』に示された戦争に関する難といえば、他国侵逼難である。この難は、他国から侵略されるというものである。だから、牧口会長が、自国から進んで他国へ侵攻した日支事変や大東亜戦争をもって他国侵逼難と捉えていたとすれば、事実誤認というべきであろう。

●三災七難すでに現れ、ついに未だかつてなき他国侵逼の大難も、厳然と現れたことは、御承知のとおりです。(戸田城聖発言S23.11.12『人間革命』第3巻「結実」)
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太平洋戦争を含め、満州事変以降のいわゆる15年戦争は、明らかに日本軍から仕掛けた侵略戦争であった。それでも形勢逆転し本土空襲、無条件降伏による連合軍の日本上陸という事態を他国侵逼難と捉えている。

●「皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る」といふ剣道の真髄を、実戦に現はして国民を安堵せしめられるのが、今回の日支事変及び大東亜戦争に於て百戦百勝の所以である。それは銃後に於けるすべての生活の理想の要諦でもある。(『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻129頁)

吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(中略)今上陛下こそ現人神であらせられる(S17.11第5回総会『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
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"感謝のためなら神社に参拝してもよい"これが牧口会長の指導でした。
[参拝]=神社・寺にお参りして拝むこと(『新明解国語辞典』第4版)


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検挙され訊問を受けた創価教育学会幹部など、種々の証言によると、この訊問調書の供述は牧口自身の筆答が大半であることが判明している。(『牧口常三郎全集』第10巻184頁)
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「訊問を受けた創価教育学会幹部」「種々の証言」とは誰なのか?同書の発行・編集者が学会とは無関係の者であれば、信用するところであるが、学会関係者が発行・編集しているから、具体的に証言者及び証言内容を示さない限り信憑性は低い。また、この記述を信用したとしても「牧口自身の筆頭」は「大半」である。残りの部分は官憲が作成したことになる。そうであれば、難解な純粋教義に関わることについては牧口会長に書かせ、神札不敬など起訴事実にかかわる部分は官憲が作文したと考えるのが自然である。また、既に宗義書が押収されていたから、その内容に沿った供述を筆答させられたのであろう。

4●取調官があんまりひどいデッチ上げをいうので「そんなバカなことはない」と食ってかかろうものなら両手を背中までもっていって後手にしばる、足もしばって転がしてしまう。口にはゴムでつくった丸い猿ぐつわをくわえさせられて、しめつけられる。物も言えない・・・。ところが向こうの机の上にはちゃんと質問書ができているんですね。(中略)こちらの言い分も聞かないで、どんどん書いていっちゃう(中略)取調官は書くだけ書いてしまうと、「きょうはこれで終わりだ。えらかったろう。ちょっとこれにハン押してくれ」。ハン押せったって、大国さんは手をくくられている。そうすると印肉をしばられている後の手へ持ってくるんです。あおむけに転がされているのを今度は裏がえしにしてうつぶせにして、上になった手の指に印肉をもっていってぴしゃっと引っ付ける。それで自分がちゃんと印を押したことにされてしまった、というんだからひどいもんです。署名の字も大国さんに名前を何枚も何枚も書かせ、それをもってあとで特高が調書を間にはさんで、なぞる。これで、自分が書いたことになる。(大本事件・徳重高嶺『宗教弾圧を語る』岩波新書12頁〜)
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訊問調書は、逮捕を正当化するために、容疑事実を裏付けるように官憲によって"作文"されていたのです。

[資料]:牧口常三郎に対する起訴状


<戦争翼賛は組織擁護の方便?>
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既に特高は、創価教育学会の総会にも監視に表れるようになり、第5回総会ごろにはほとんどの会合が監視下になった。牧口初代は個人活動の思想家ではない。当時数千人に及んだ民衆を組織した運動の責任者であり、主導者であった。内外からできえる限り会員を守り、なおかつ運動の目的を遂げなければならなかったのである。よって時と場合において韜晦(とうかい=才能や学問をつつんであらわさないこと)せざるを得ない
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 これは、『創価学会の歴史と確信』で描かれた牧口会長像に大いに反するではないか。同書をはじめとして戦後の創価学会による牧口像は、国家諌暁を声高に叫び、死をも厭わずに国家権力に対峙したというものである。そのような牧口会長が「内外からできえる限り会員を守り」、「時と場合において韜晦」したというのであれば、氏は一体、本気で国家諌暁をする気があったのか、疑わしいという他ない。まさに"あちらが立てれば此方がたたず"である(笑)。
 牧口会長にとっての国家諌暁の動機は太平洋戦争に勝って日本を救うことであった。そうであれば、氏には時間的猶予などなかったはずである。また、国家諌暁すれば、組織全体に大難が降りかかってくることは誰の目にも明らかなことである。それなのに、既に配給制が実施され、本土空襲も始まったという時期に、弾圧回避の戦争翼賛発言をしていたのである。こういう態度の人を普通、反戦論者・平和主義者などとは言わない。なぜなら、一般庶民でも陰では"戦争はいやだ""このままでは日本は負けるだろう"くらいのことは言っていたからである。陰では反対していても、決して公言はできなかったのが普通の人々の態度だったが、牧口会長も普通の人々と大同小異だったということになろう。

●最近、文部省が軍事訓練を課したるは、近ごろの大できである。……何という、今の非常国家に適切の忠告であろう(牧口常三郎「『光瑞縦横談』と教育・宗教革命」S11/『フォーラム21』H14.3.15)
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「軍事教練」の義務化を賞賛する牧口に、軍国主義に反対する思想があったとはとうてい言えない。

●戦場に於ては悉(ことごと)く大善生活法の実践であり、それによつてのみ勝利が得られ、これがなくしては必ず惨敗をするのである。(S16.10.20「価値創造」第3号/『牧口常三郎全集』第10巻18頁)
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これは、ほかならぬ牧口会長自身の言葉である。しかも太平洋戦争勃発前の記述である。

国法にはどんなにでも服従すると言ふのだから、心配はいらない。(牧口常三郎「獄中書簡」昭和19年3月16日/『牧口常三郎全集』第10巻288頁)
御上の事は何んでも従ふことで検事様との間はなごやか(牧口常三郎「獄中書簡」S19.3.27『牧口常三郎全集』第10巻405頁)
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「国法にはどんなにでも服従」「御上の事は何んでも従ふ」と獄中書簡で綴った牧口会長であるが、「創価学会の歴史と確信」で述べる意気軒昂な牧口像との相違が明白である。ここには、一番弟子が語った牧口氏の「確信」の片鱗も見られない。


<検閲について>
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 戦前・戦中に発行された牧口先生の古い文献に基づいて「学会も謗法を容認した」「学会も戦争賛美した」との正宗サイドの主張ですが、戦前・戦中の「検閲」を経て発行された出版物の資料としての取り扱いを知らない、ド素人の主張ですね。というよりも『慧妙』編集子はド素人の法華講員を欺くために意図的にやっているのでしょうな。(中略)  そもそも、この時代に「出版物として発行された」という事実は、「国家権力の主張に反しないように検閲された」ということと同義なのです。その上で、創価教育学会を含めた各団体は「出版する」という目的を達成するために、あえて国家主義的な表現を使いながら、言葉の奥に主張を込めるような工夫していたのです。
 その点を全く勘案せず、出版された文字のみを「まんま」で捉え、判断の対象とすることは、「いかに国家権力が検閲を行ったか」の事実検証には役立つでしょうが、その団体がいかなる思想、行動を取ったかという判断の基準にはならないのです。
 これは、戦前・戦中の公式文書、出版物を読む上での、ジャーナリズム、学術界における常識です。
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創価教育学会の目的は、大聖人の仏法流布にあるはずである。そうであれば、「あえて国家主義的な表現を使い」戦争賛美の主張を展開する必要などないはずである。

●若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(T5「地理教授の方法及内容の研究」『牧口常三郎全集』第4巻273頁/『慧妙』H17.11.1)
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これは、治安維持法が成立する前(大正5年)の出版であるから検閲に対する配慮などなかった頃の主張である。牧口氏が武力をもって外交問題を解決しようと考えていたことが分かる。

「『出版する』という目的」は、広く会員以外の者にも読んでもらうことであろう。しかし、【戦争翼賛する牧口学会】で紹介されたような事実や主張に接した当時の人々が、"牧口会長は平和主義者"だと思っただろうか?答えはノーである。100人が100人中、牧口会長のことを戦争翼賛者だと感じたことであろう。つまり「国家主義的な表現を使いながら、言葉の奥に主張を込めるような工夫」などなかったのである。そうであれば、仮令検閲下であったとしても氏の主張内容は、決して"反戦論者""平和主義者"のそれではないのである。

「戦前・戦中の公式文書、出版物を読む上での、ジャーナリズム、学術界における常識」などというが、牧口会長を"反戦論者""平和主義者"と評価する人は、学会関係者だけだろう。戦時下に戦争に反対し平和主義者と評価された人で、牧口会長のような戦争賛美の主張を残した人があったのだろうか。

●(※牧口会長)森田君、しっかりやってきて下さい。日本の民族は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、搭乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。(中略)この大東亜戦争は、1年の後か、2年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有り難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺身するから、森田君は御本尊様に一切お委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)
●(※牧口会長)国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)
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 戦後の日本は反戦思想が広まり、それに呼応するかのように、創価学会も反戦を掲げていた。戸田城聖著『人間革命』は、検閲のない戦後になって出版されたものであるが、それでも戦時下の牧口会長を反戦論者のようには描いていない。それどころか、信心を根本として戦争に勝つことを願っていたように描かれているのである。
 戸田氏は牧口会長の一番弟子であったから、牧口会長のことは他の人(学術関係者を含め)以上に詳しかったはずである。また、戦後の創価学会の反戦・平和路線と、牧口氏が初代会長であったことを考えれば、池田学会がそうであったように、多少なりとも脚色して牧口会長が反戦論者であったかのように描いても不思議ではない。それにも拘らず、牧口会長が戦勝を強く願っていたように記述したことは、相当信憑性があるというべきである。

・牧口会長が国家諌暁をしたという事実はない。もし、特高刑事の質問に答えたことをもって国家諌暁だと言うのであれば、大笑いである。

国家諌暁をして逮捕されたのではなく、戦争翼賛の言辞を弄したり、神社参拝容認ともとれる指導(2●)をして弾圧を回避しようとしたが、以前行った神札破却等のために逮捕されてしまったのである。

・訊問調書に記述された謗法厳戒の主張も、押収された宗義書をもとに検事等が作文した可能性が高い。(4●)

・起訴状をみる限り、当時の戦争に反対したという事実はない





【柳田國男の証言】
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 今度の戦争に入つて間もなく、牧口君は一晩若いのを連れて話しに来て、泊り込んで行つたが、私は大した印象もうけなかつた。それにあれの哲学のシステムが少し違つてゐると思つたので、深入りしても役に立たないと思ひながら、一緒に話して泊つたのが最後であつた。若い者を用(つか)って熱心に戦争反対論や平和論を唱えるものだから、陸軍に睨(にら)まれて意味なしに牢屋に入れられた。妥協を求められたが抵抗しつづけた為め、牢の中か、又は出されてか直ぐかに死んでしまった。宗祖の歴史につきものの殉教をしたわけである。
 その時はまだ宗派がこんなに盛んではなく、30人ばかりの青年が法華を信じつつ愛国運動を続けている程度であった。(中略)宗祖となるには牧口君は少し不適当で、それほど深い信仰ではなかったから、物足りなかったと思ふ。本も沢山読んでいたわけではなかった。
(『定本柳田國男集』別巻第3=筑摩書房:絶版463頁)
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<昭和6年頃の記憶>
◆その時はまだ宗派がこんなに盛んではなく、30人ばかりの青年が法華を信じつつ愛国運動を続けている程度であった。
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●発会時には、数十人にすぎなかった会員が、15年には500人を超え、翌16年には、3千人に達した。(『創価学会40年史』/『牧口常三郎全集』第10巻50頁)
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「30人ばかりの青年が法華を信じつつ愛国運動を続けている程度」とあるから、牧口会長らが「一晩若いのを連れて話しに来て、泊り込んで行つた」のは、創価教育学会の発会当時、即ち昭和5年頃であったことが分る。とすれば「今度の戦争に入つて間もなく」という「今度の戦争」とは太平洋戦争のことではなく15年戦争(昭和6年の満州事変勃発から昭和20年の太平洋戦争終結までの一連の戦争)のことである。

[15年戦争]=教科書では、「15年も続いた戦争」と書いてありますね。第2次世界大戦の終了が1945年ですから、1931年から1945年のことを15年戦争と呼びます。(<シリウス(静岡教育サークル)>WS)

[資料]:15年戦争史


<「戦争反対論や平和論」云々について>
●1903年(明治36年)に発刊したのが『人生地理学』です。「人生」すなわち人間の生活と「地理」の関係から世界を見つめた意欲作でした。同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。(<SOKAnet>WS051127)
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 この記述どおりだとすれば、確かに明治36年頃の牧口会長には反戦意識があったようである。しかし、大正5年の『地理教授の方法及内容の研究』では「日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ」(『牧口常三郎全集』第4巻273頁/『慧妙』H17.11.1)とも述べている。その後も史料を見る限り、反戦どころか一貫して戦争翼賛的言動が続いている。これをどうみるか。
 牧口会長の戦争観に変化がないとすれば、『人生地理学』の思想は一種の理想論または目標であって、現実の戦争を無条件で否定したものではなかったといえよう。
 戦争観に変化があったとすれば、反戦思想から戦争翼賛への転向である。

・大正時代以降、牧口会長自身の著作物に戦争翼賛的言辞は数多く見られるが、反戦的言辞は見当たらない。
・牧口会長が熱心だったのは謗法払いと折伏、さらに国家諌暁による戦勝である。これについては戦後の戸田会長の記述からも明らかである。
・そのような牧口会長が、創価教育学会設立以降、折伏ではなく「戦争反対論や平和論」を「若い者を用(つか)って熱心に唱える」とは考えられない。
・もし柳田の記憶が正しいとすれば、昭和6年当時に柳田の前では、話しの流れの中でたまたま、かつて『人生地理学』で述べたような理想論を吐露したのであろう。しかし、戦線が拡大し、思想統制が厳しくなると一貫して戦勝を願うようになる。


<自身の記憶と獄死した事実を結び付けて誤った結論を出す>
◆戦争反対論や平和論を唱えるものだから、陸軍に睨(にら)まれて意味なしに牢屋に入れられた。
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●軍国主義の横暴と、時の警視庁の小役人の愚癡蒙昧から、ついに牢死(『人間革命』第2巻「車軸」)
●検察当局は、学会幹部の一斉検挙の機会を、虎視眈々(こしたんたん)と狙っていた。そして、神道を蔑視する言動を理由に、ついに学会を反国家的な団体として決めつけていったのである。(『人間革命』第3巻「渦中」)
●生れ故郷といつてよい兵庫県の代表日刊紙たる神戸新聞の懇請により、33年1月9日から、9月14日まで、200回にわたる「故郷70年」が連載されることになつたわけであります。(嘉治隆一「『故郷70年』の成り立ち」/『定本柳田國男集』月報34)
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『定本柳田國男集』別巻第3は昭和33年1月9日から、9月14日まで『神戸新聞』に連載された「故郷70年」を収録したものである。昭和33年といえば牧口会長が死去してから10年以上になる。創価学会は戸田会長の最晩年であり、世帯数も約30万世帯(公称)と飛躍的に拡大している。「その時はまだ宗派がこんなに盛んではなく」という記述から明らかなように、当該記事は、昭和33年に15年以上昔のことを思い出して書かれたことが分る。しかしながら、「戦争反対論や平和論」については、現存する牧口会長自身の著書からは証拠がない。むしろ、戦争には肯定的で勝利を願っていたという証拠さえ存在する。戦後に書かれた戸田城聖著の『人間革命』にさえ好戦的な牧口会長らの発言が掲載されているのである。このことから分るように、「戦争反対論や平和論」「陸軍に睨(にら)まれて」云云というのは、戦後になって得た情報であろう。自身が見聞した昭和6年頃の記憶と戦後になって知った事実(牧口会長が思想犯として獄死)をつなぎ合わせて、誤った推測をしたものであろう。

●柳田の文は、創価教育学を「創価経済学」と記すなど誤りもある(『仏教者の戦争責任』70頁)
●私は前からなかなか関係が深かったから『価値論』といふ本に序文を書いているが、創価学会そのものは私にはよく分らない。若い者を引立てることが好きで、師範学校で教へたお弟子たちを大変可愛がつたりするのが1つの特徴であった。(『定本柳田國男集』別巻第3=筑摩書房:絶版187頁)
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柳田にとって創価学会はさほど興味があったとは思われない。会の名前を平気で誤記するくらいなのだから、15年以上も前に私的に交わした会話を正確に記憶していたとは考えにくい。

●(※牧口会長)森田君、しっかりやってきて下さい。日本の民族は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、搭乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。(中略)この大東亜戦争は、1年の後か、2年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有り難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺身するから、森田君は御本尊様に一切お委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)
●(※牧口会長)国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)
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 戦後の日本は反戦思想が広まり、それに呼応するかのように、創価学会も反戦を掲げていた。戸田城聖著『人間革命』は、戦後になって出版されたものであるが、それでも戦時下の牧口会長を反戦論者のようには描いていない。それどころか、信心を根本として戦争に勝つことを願っていたように描かれているのである。
 戸田氏は牧口会長の一番弟子であったから、牧口会長のことは柳田國男以上に詳しかったはずである。また、戦後の創価学会の反戦・平和路線と、牧口氏が初代会長であったことを考えれば、池田学会がそうであったように、多少なりとも脚色して牧口会長が反戦論者であったかのように描いても不思議ではない。それにも拘らず、牧口会長が戦勝を強く願っていたように記述したことは、相当信憑性があるというべきである。

●(※宮城遥拝・黙祷の後、野島辰次理事「開会の辞」)大東亜戦開始以来の戦果は、法華経の護持国家なればこそであります。昨夜のラヂオ放送の如き余裕下に、今日総会を開くのは感激の極みであります(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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というように、学会もおおいに喜んでいた。そんな状況下で、牧口会長が時局批判などするはずがないのだよ。大戦の詔勅が下され、日本軍が勝利している時期に、もし牧口会長が柳田翁に戦争反対をぶっていたら、翁が「私は大した印象もうけなかつた」というはずがないではないか。とんでもないことをいう、と強く印象に残っているはずだ。が、翁はそうはいっていない(宵待草)

[資料]:牧口常三郎に対する起訴状




【『人生地理学』】
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1903年(明治36年)に発刊したのが『人生地理学』です。「人生」すなわち人間の生活と「地理」の関係から世界を見つめた意欲作でした。同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。(<SOKAnet>WS051127)
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<平和論の歴史>
ストアの人々の平和論は、一切の人類は1つの神から出て平等であり、神の前に同胞であるという考えから出発し、人間同士の反目や戦争を非合法のものだとして平和論を打ち立てました。(『世界国家』S27.1/<国際平和協会>WS)

●ゲルマン諸民族の建国や西欧諸国の形成となり、近世諸民族の自覚と対立は、前のような、あこがれや武力では到底世界の恒久平和も期待できないことを知らしめました。そして平和を望む人々は、武力や政治力によらず、宗教的権威によって平和を招来しようと考えるようになりました。ルネッサンスの哲学者カムバネラの提唱した神政的平和論がこれです。(同)

●17世紀の初め頃、アンリ4世は、ヨーロッパだけではありましたが、一種の国際連盟の構想を立てました。これが世界平和機構の最初のものといえましょう。
 アンリ王の案は、凡てのヨーロッパのキリスト教諸国が連合して普遍的キリスト教共和国を組織し、さらに最高国際裁判所を設置して国際紛議を裁判しようというのでした。もっとも、アンリ王の案は机上のプランにとどまり、その実現は見ませんでしたが、今日の国際連合が300年前既にこの王のプランによって芽を出していたということは、注目されねばなりますまい。それのみならず、それから間もなく起こった30年戦争(1613−48年)が終わり、ウェストファリアで講和が締結さられる時、この考えが幾分取り入れられ、諸国の協同の最初の試みがなされたのでした。(同)

●1693年、クェーカーの指導者ウィリアム・ペンによって一石が投ぜられました。彼は『欧州平和の展望』と題する一書を著し、国連思想と、クェーカーの平和主義とを結び付けて、平和は正義を通じて保たれると説き、個人がその国の政府の法治に服するように、政府はそれよりも高次な政府の法治に従うべきであるとして、国際連盟的な機構を欧州に組織せしめようとしたのでした。当時、英国はルイ14世の治下で、侵略戦争を行っている最中でしたので、ペンのこの議論は一大風雲を巻き起こしました。(同)

サン・ピエールによって唱道されたヨーロッパ永久平和論です。(中略)ピエールの説いたところは、ヨーロッパのキリスト教世界は元来「1つの世界」を形成しているわけなのであるから、ヨーロッパ諸国の間に「公法」を作り、お互いにこれを遵奉して行けば平和は保たれる筈であり、またそうして平和を保って行くべきである――としたもので、一大同盟を組織し、常設の会議を開き、調停及び仲裁により紛争や戦争を未然に防止しようというのでした。このピエールの平和草案は、大きなセンセーションをヨーロッパに巻き起こし、殊にジャン・ジャック・ルソーが、これを祖述して広く宣伝したので、一層有名となり、国際機構の問題は、もはやユートピアや、あこがれではなく、現実の問題として取り扱われるようになったのでした。そして、このピエールの平和論が、後に述べるカントの永久平和論を生む基礎となり、国際連盟はいよいよ胎動を始めることになるのです。(同)

●『永久平和のために』は1795年、ケーニヒスベルクで出版された。三批判書を完成させた晩年のカントの関心は、宗教や政治や歴史や具体的な諸義務の規定などに向けられていった。既に71歳に達していたカントが、永久平和の実現を念じて公表した著作である。執筆の直接の動機となったのは、1795年にフランスとプロイセンの間で締結されたバーゼル平和条約に対する不信であったと思われる。フランス革命から6年、まだ混乱の最中にあったフランスは、対外戦争においても和平を求めざるをえない状態にあった。一方のプロイセンにおいても、ロシアとオーストリアのポーランドをめぐる進出に気が気でなく、フランスと戦争をしている余裕はなかった。そういった両国の事情からバーゼル平和条約は結ばれたのだが、なぜカントがこの条約に対して不信の念を抱いたかというと、戦争を永久に終わらせるような条約では決してなく、秘密条項を含む欺瞞的平和条約だったからである。
 カントは人間の尊厳に基づいて永久平和論を主張している。「汝の意思の格率(個人の行為を決定する原理)が同時に普遍的立法の原理に妥当し得るように行動せよ」カントの言葉であるが、人間は自分の快楽の方向に進んでしまうと彼は知っていた。これは自然な傾向ではあるが、人間である以上は理性的に立ち向かわなくてはならない。自分の理性によって立てた道徳法則に自発的に従うことをカントは「自律」と呼び、自律の状態において人間は真に自由であるとした。またカントは自律の能力を持つ自由の主体を「人格」として、道徳的な自律を持てる存在である人間には尊厳があると説いた。尊厳がある以上、人間は常に「目的」として扱われるべきで、「手段」ではありえない。つまりカントにとって人間を手段として扱う戦争は、国家間、個人間、大小に関わらず道徳上、悪であった。戦争は、目的そのものである人間の尊厳を壊し、自由を損なう。したがって、「戦争はあるべからず」というのが実践理性の絶対的命令なのである。戦争のない永久平和は人間の到達すべき義務であるから、人間は努力しなくてはならない。有限な人間にとっての永遠の課題である。永久平和へのこの努力はカントにとって、人類の福祉とか、世の功利のためとか、あるいは博愛主義に基づくといったものではなくて、実践理性に基づく人間の無条件的な義務そのものであったのである。(京都産業大学文化学部国際文化学科・深尾光恵『カントの平和論とその現代的意義』

平和論自体は牧口会長以前にも数多く世に提出されていた。これらの平和論は、現実に起こっている戦争を制止し、平和世界を構築しようとする熱意が感じられる。一方、牧口会長および創価教育学会の場合は、戦争を悪だとはしながらも日露戦争や15年戦争といった、現実に自国が直面した戦争を真っ向から否定し行動するというものではなかった。それどころか、戦争を翼賛する言動が数多く残されている。これをどう解釈するか。


<転向>
1903年(明治36年)に発刊したのが『人生地理学』です。
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 一般に知られている牧口会長および創価教育学会の戦争翼賛発言は、昭和11年以降のものである。日露戦争直前とはいえ、国家による締め付けが緩いときには吐けた理想論も、だんだんと思想統制が厳しくなると、転向して戦争翼賛者となったということか。
 同書は入信前の著書である。氏に好意的に考えるならば、入信して大聖人の仏法の偉大さを知り、反戦を直接叫ぶよりも、折伏によって広布を進める方が真の平和構築への近道であると悟ったのか。その場合には、大聖人門下としては立派な心掛けではあるが、一般にいう"反戦思想家"ではなかったことになる。

◆日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。
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●(※牧口会長)森田君、しっかりやってきて下さい。日本の民族は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、搭乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。(中略)この大東亜戦争は、1年の後か、2年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有り難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺身するから、森田君は御本尊様に一切お委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)
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これは、終戦後に出版されたものである。戦後の日本社会は反戦・平和思想が広く浸透しており、創価学会もその時流に乗り、反戦・平和を前面に掲げて活動している。そのような中で、池田学会は自己正当化のために"牧口会長は反戦論者であった"かのように喧伝している。しかし、戸田会長は、そのようには牧口会長のことを描いてはいなかったのである。戸田会長が描く牧口会長は「日本の民族は勇敢」であるから「米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させた」と、国粋主義者のような言動をとり、出征する会員に対して「前線で悔いのない働き」をするように激励していたのである。これは、終戦後の反戦思想の普及した時代に書かれたものであり、決して"会員擁護のための方便"などではない。


<戦争翼賛と『人生地理学』は矛盾しない!?>
 牧口会長は『人生地理学』で「世界は『軍事的競争』『政治的競争』『経済的競争』の時代から『人道的競争』の時代へと移らねばならない」と考えた。しかし、彼にとって「人道的競争」の時代へ移る方法は教育であり後には宗教であった。だから、現実に直ちに「軍事的競争」を否定するものではない。
 そう考えれば牧口会長が「世界市民を志向」し、「人道的競争」の時代を求めたことは一種の理想論(あるいは教育改革と宗教改革の徹底によって遠い将来に実現する目標)であり、国策に従って直面する戦争に翼賛することとは、必ずしも矛盾しない、といえるかも知れない。

●本当の八紘一宇とは「世界の人全てと仲良く暮らしましょう」と言う理想だったのです。決して世界征服を企む邪悪な日本軍の陰謀の合い言葉などではありません。(中略)当時の世界情勢が白人絶対主義、帝国主義全盛であったことを考えると、かなり革新的思想だったのではないでしょうか?ですから、本当のところは日本人が当時の世界で、白人絶対主義に対抗する為には、「アジア人の団結を謳うことで、少しは白人社会に対するバランスが取れるのかもしれない」という、当時の進歩的文化人達の理想とする少々甘ちゃん的発想であったのです。しかし輝く理想も厳しい現実の前に他聞(ママ)に難儀したようではありますが、その理想が生かされたのがインドネシアの今村均将軍の解放政策であったりする訳です。(アーモンド<道徳・教育・何でも会議室>WS000310投稿)

●40年に発足した第2次近衛文麿内閣は、「基本国策要綱」で「皇国の国是は八紘一宇とする肇(ちょう)国の大精神に基(もとづ)き世界平和の確立を招来することを以(もっ)て根本」とするとうたい、「皇道の大精神に則(のっと)りまづ日満支をその一環とする大東亜共栄圈の確立をはかる」(松岡外相の談話)ことをめざしました。(『しんぶん赤旗』H11.11.11)

●抑々世界各國ガ各其ノ所ヲ得相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ
然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス
大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス(「大東亜共同宣言」1943=S18.11.6/フリー百科事典『ウィキペディア』051127)

●(※戸田理事長が披露した歌=幹部会員・四海民蔵作詩)男だ 日本人だ 日蓮正宗の信者だ 栄光ある生活改善同盟の戦士だ 大君のかがやく御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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「大君の御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む」とは、大東亜共栄圏の建設を目指した軍部政府のアピールそのものである。

 『人生地理学』で述べる反戦的思想は、一種の理想・目標であり「軍事的競争」(同書)を直ちに否定するものではない。牧口会長にとっては、「八紘一宇」「大東亜共栄」のスローガンのもとに進められた戦争は「大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放」(「大東亜共同宣言」)するのための緊急措置であり「世界平和ノ確立ニ寄與」(同)するための止む終えない措置であった。むしろ、国家諌暁によって戦争に勝てば一気に「人道的競争」(『人生地理学』)の時代への道が拓かれると考えていた。
 このように考えれば、牧口会長や彼の組織が行った戦争翼賛の言動と、『人生地理学』との間に矛盾はなかったことになる。
 しかし、この場合には当然、牧口会長を一般的意味での"反戦思想家"と規定することはできない。


<転向>したにしろ<戦争翼賛と『人生地理学』は矛盾しない>にしろ、牧口学会が戦争翼賛的発言を繰り返していたことは事実である。それは、公式な場所だけではなく、官憲のいない私的な会話においてもそうであった。そうであれば、氏がいかに"立派な"反戦平和論を述べていたとしても、反戦思想家ということはできない




【『立正安国論』と平和主義】
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>牧口初代は入信4年後発刊の『創価教育学体系』で、「日蓮聖人が当時の世相を経文に照ら合せて、その毫も違わないのに驚き『立正安国論』を著わし、一世を警醒して帰趣を明らかにせられたのであるが、正に現代迄をも痛烈に警められて居るのには更に驚異せざるを得ないではないか」と安国論に注目されていたことを示されているが、昭和18年の春ごろから学生対象に安国論の講義を始められて逮捕直前まで続けられ、「立正」による「安国」を訴えられている。

>牧口先生は、真っ直ぐに『立正安国論』を実践されたのであり、「立正」によって平和の方向、「人道的競争形式」に導かんとされたのである。
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 『立正安国論』の主旨は、その名の示す通り、「立正」すなわち正法を打ち立てることによって「安国」すなわち安寧な国家を実現できるというものである。
 たしかに仏法では三災七難の中に他国侵逼難や自界叛逆難が含まれている。国内問題であれ、外国との問題であれ、武力による争いは多くの死傷者を生み出すものであり不幸の最たるものである。しかしてそのような不幸の原因は、主権者や国民が正しい仏法を信じないところにある。

●人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり、傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや、如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには(『立正安国論』全集24頁)
●国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回(めぐ)らし忩(いそい)で対治を加えよ、所以は何ん、薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり(『立正安国論』全集31頁)
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要するに、『立正安国論』が我々に求める実践内容は、正法の弘通にある。正法が弘通すれば、国民個々の一生成仏も実現し、自ずから国家社会も種々の災難から免れるということである。反戦・平和の徹底および実現は仏法流布の目的の一部であるが、すべてではない。究極的目的は全生命の成仏であり、法界全体の仏国土化である。


<戦争反対と「立正安国」は次元が違う>
 戦争反対のための政治的文化的言論や行動は世法の問題であり、仏国土達成のための正当な手段ではなく、『立正安国論』で示された「安国」実現のための具体的手段ではない。もし、牧口会長が戦争反対を座談会で主張していたとすれば、手段を誤った言動であったというしかない。
 日蓮大聖人の御書には、戦争が仏法上の災難(三災七難)であるという主張はあっても、個々具体的な戦争反対の主張をされたことはない。かの蒙古が襲来したときにさえ、戦争回避の具体策は一切提示されてはいない。むしろ、真言による蒙古調伏の祈祷を制止され、正法によるべきことを主張されている。

●皆人立ち帰る程に六郎左衛門尉も立ち帰る一家の者も返る、日蓮不思議一云はんと思いて六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云くいつか鎌倉へのぼり給うべき、かれ答えて云く下人共に農せさせて七月の比と云云、日蓮云く弓箭とる者は・ををやけの御大事にあひて所領をも給わり候をこそ田畠つくるとは申せ、只今いくさ(戦)のあらんずるに急ぎうちのぼり高名して所知を給らぬか、さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし、田舎にて田つくり・いくさに・はづれたらんは恥なるべしと申せしかば・いかにや思いけめあはててものもいはず、念仏者・持斎・在家の者どもも・なにと云う事ぞやと恠しむ。(『種々御振舞御書』全集918頁)
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これは自界叛逆難(二月騒動)を予知された大聖人が、六郎左衛門尉に対して、"戦(いくさ)が起こるのだから急いで鎌倉へ上り、名をあげなさい"と助言されているところである。当時の武士にとっては、戦において力を発揮することが名誉である。"戦争で活躍しなさい"などと言うことは、決して反戦論者の言とはいえない。また、仏法は戦争を三災七難の1つに挙げている。つまり、戦争のない国土をつくることと戦争に反対することとは、全く次元が異なるのである。言い換えれば、いくら戦争反対と叫び行動したとしても、真の平和は実現しないというのが仏法の見解である。だからこそ大聖人は、その時代の社会的価値観を尊重されながら仏法を弘通されているのである。

●今日蓮は去ぬる建長五年〔癸丑〕四月二十八日より今年弘安三年〔太歳庚辰〕十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり(『諌暁八幡抄』全集585頁)
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『立正安国論』の精神とは「妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ」ことであり、戦争反対を叫ぶことではない。


<第65世日淳上人>
・昭和10年10月には堀米御尊師(第65世日淳上人)が『大日蓮』に、「立正安国論」と題して同書の講義をされている。(『日淳上人全集』113頁参照)

●大聖人の御遺文の中に時節柄不穏当と認められる箇所があるとして、此れを削除すべしとの問題があって、その是非の論議が行はれてをるが如くである。(中略)大聖人御一代の御主旨は何んであらせられたか。いふ迄もなく正法国家として真の日本の面目を堅持せしめ、真浄国土の顕現を計るにあらせられたのである。(「御書削除の問題について」『大日蓮』S11.12/『日淳上人全集』147頁)
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戦時下、御書削除の声に対する反論として認められたのが同書である。その中で簡単ではあるが「大聖人御一代の御主旨」として『立正安国論』の主旨が明確に述べられてある。このことからも分かるように、『立正安国論』を初め、大聖人の仏法は、単に個々の戦争を否定するといった短絡的な思想ではないのである。

※以上のように、『立正安国論』の講義をされたからといって反戦論者だという証拠にはならない。そのことは、戦時下に政府によって不適当とされる御書の御文が削除されたが、その中に『立正安国論』が入っていなかったことからも明らかである。




【戯論粉砕】
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牧口初代は既に昭和15年には政党関係者の会合に出席し、軍国思想・教育を批判していることがわかっている。(fb)
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根拠がない。


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当時の会員は座談会で牧口先生が戦争に反対されていることをはっきりと言われていたことを証言している。そして戦時下でも240回以上も座談会は開催されている。
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 もし、牧口会長が戦時下において、未入信者や入信間もない者の前において戦争反対を主張していたらどうなっていたであろうか。直ちに通報され当局に逮捕されていたであろう。しかしながら、牧口会長の罪状を記した起訴状にさえ反戦論者であったことを示す記述は一切ない。
 これらのことからも明らかなように、柳田國男のような伝聞または不確かな記憶は別として、牧口会長が反戦論者であったという客観的証拠はないのである(『人生地理学』、「訊問調書」については前述)。





『価値論』の本末顛倒(てんとう)と日淳上人への誹謗

(『慧妙』H18.3.1ほか)

 牧口常三郎氏は、昭和3年6月、東京.常在寺所属の信徒で直達講講頭であった三谷素啓氏の折伏によって、57歳で日蓮正宗に入信しました(同じ年の秋、後の戸田城聖2代会長も、三谷氏の折伏で入信)。
 牧口氏入信の動機について、柳田国男は、「貧困と、子供達を次々に病没させたことにあるのだろう」(『牧口君入信の動機』)と述べています。
 入信後の牧口氏は、昭和5年11月に「創価教育学会」の名で『創価教育学大系』第1巻を発刊(この日が後に"学会創立の日"とコジツケられた)、
 翌6年3月には同『大系』第2巻を発刊して、この中で、以前から構想を暖めていた『価値論』を発表したのです。
 この『価値論』について、牧口氏は、後の獄中書簡の中で、
 「百年前及び其後の学者共が、望んで手を着けない『価値論』を私が著はし、而かも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て自分ながら驚いて居る、これ故三障四魔が紛起するのは当然で経文通りです」
などと、驚くべき評価をしています。
 すなわち、牧口氏にとっての『価値論』とは、あたかも釈尊入滅後の智者達が、知ってはいても説き弘(ひろ)めようとしなかった文底下種妙法のような、哲学の最高峰にあたる"教"であり、これを"行"ずる実践形態として法華経の信仰を結び付けることにより、万人の生活上に『価値論』で説く価値(大善生活)が"証"される、それほどの『価値論』を説き顕(あら)わしたのだから、三障四魔が紛然と競(きそ)い起こるのは当然、というのです。
 これでは、日蓮正宗の信仰は『価値論』のために利用されているようなもので、全くの本末顛倒(ほんまつてんとう)という他ありません。また、この牧口氏の論法では、行き着くところ、『価値論』こそが衆生済度(さいど)の教であることになりますから、さしずめ、それを説いた牧口氏の立場は"教主"であり"末法救済の大導師"であるということになってしまいます(事実、かの52年路線の時には、池田大作が牧口氏を「先師」「大導師」と呼称して本仏大聖人に匹敵させ、大問題となりました)。
 結局、この『価値論』と仏法との混同が牧口氏の信仰を歪(ゆが)め、それが後の創価学会異流義化の温床になった、といえるでありましょう。
 さて、こうした異質な思想をもつ牧口氏は、氏の教化親(きょうけおや)であり直達講の講頭であった三谷素啓氏と相(あい)容(い)れなくなり、三谷氏との間で何回か激論を交わした末、牧口氏は三谷氏と絶交することとなります。
 これにより、牧口氏はそれまでの同志達と袂(たもと)を分かって、東京中野・歓喜寮(後の昭倫寺)へ参詣し始め、以後、歓喜寮を事実上の所属寺院とするようになりました。
 当時の歓喜寮御住職は堀米泰栄尊師=後の65世日淳上人であられ、当初のうちこそ、牧口氏は上人の指導に従って信仰に励んでいくかのように見えましたが、昭和12年夏の創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)をはさんで、にわかに上人に反抗しはじめたのです。
 それは、牧口氏が、「在家団体・創価学会」の設立を上人に願い出たところ、上人がこれに危惧(きぐ)を感じて許可されなかったため、やむなく牧口氏は、教育を研究していく団体という名目で「創価教育学会」を発会、この際の確執が上人に対する反抗の原因となった、といわれています(当時の僧侶、信徒の証言)。
 実際、『創価学会年表』によれば、牧口氏等は、この時期、それまで歓喜寮で開いていた会合をピタリと止めてしまっており、このことが上人との関係険悪化を裏付けています。
 この時の牧口氏は、よほど日淳上人に反発を覚えたのでしょう、会員達を使って、上人に対する誹謗(ひぼう)・罵倒(ばとう)・吊し上げまで行なったのです。その事実は、当時の会員の証言や、覚え書きによって伝えられるところです。
 なおまた、古くからの信徒で直達講副講頭を務めていた竹尾清澄氏(故人)も、59世堀日亨上人から伺(うかが)ったこととして、
 「牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師(後の日淳上人)と論議し、『もう貴僧の指導は受けない』と、席を蹴(け)って退去」(『畑毛日記』)
した、という出来事を記録に残されています。
 こうして、上人との関係が険悪化したことから、牧口氏は、所属寺院である歓喜寮に会員が近付くことまで止めるようになり、これを破った者(三ツ矢孝氏・木村光雄氏等)に対して烈火の如く叱(しか)りつけました。
 以上のような事実は、戸田理事長(後の2代会長)の獄中書簡にも、
 「堀米先生に、去年堀米先生を『そしった』罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。『法の師をそしり』し罪を懺悔しつつ『永劫の過去を現身に見る』と言っております、と」(昭和19年9月6日、妻あて)
とあって、牧口氏の1番弟子であった戸田理事長自らが、自身の投獄は日淳上人を誹謗した罰である、として懺悔していることからも明らかです。
 こうして牧口氏の率(ひき)いる学会は、所属寺院たる歓喜寮と信仰上の断絶を生じていきました。そして、同時にそのことは、"本宗の信徒は総(すべ)て各寺院住職のもとに所属して信仰に励む"ことが原則である日蓮正宗からも、疎遠になっていくことを意味していたのです。
 前出の、竹尾氏が日亨上人から伺った話の次下には、
 「本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ」
とまで述べられており、牧口氏等は、この時、信仰上では日蓮正宗とほぼ絶縁に近い状態になってしまったものと思われます。
 とはいえ、日蓮正宗は慈悲を旨(むね)とする宗であります。そのような不遜(ふそん)な牧口一派に対しても、日淳上人は、信仰上、再起する道だけは残しておこう、と思(おぼ)し召され、牧口氏等にそのつもりがあれば元の所属寺院・常在寺へ戻れるよう、手配なされたのでした。
以上(『慧妙』H18.3.1)

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65世堀米日淳上人はどれほどに、慈愛の込められたお言葉で牧口会長を賞賛されたのを知らないのか。『日淳上人全集』より引用する。

◆牧口先生は、非常に慈悲の深い方でありましたが、このことは先生が、日蓮聖人の御書に、涅槃経の文をお引きなされた「慈なくして詐(いつ)はり親しむは、是れ彼が、怨(あだ)なり」といふ点を常に、口にせられたがこれは先生が、自らの境地を端的に表現するものにして余ほど感じて居られたやうでありました。

◆(牧口)先生は非常な慈悲心と厳格さとを以て他に対せられた

◆牧口先生の折伏のことでありますが、折伏といへば先生、先生と言へば折伏のことと、ことほどさように、先生と、折伏とは、重要なものでありますが、これはいふ迄もなく深く大きな慈悲心を持たれた先生が、思ひやりの止むに止まれぬ心からの救済の現われでしかも真実に、しかもも忠実でありなほかつあの厳格が、折伏の形をとられたのであります

◆私は(牧口)先生が、法華によつて初めて一変された先生でなく、生来仏の使であられた先生が、法華によって開顕し、その面目を発揚なされたのだと、深く考へさせられるのであります。そうして先生の姿にいひしれぬ尊厳さを感ずるものであります。先生には味方もありましたが、敵も多かつたのであります。あの荊(いばら)の道を厳然と戦いぬかれた気魄(きはく)、真正なるものへの忠実、私は自ら合掌せざるを得なくなります
(wt)
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牧口会長が謹厳実直にして信念の強かったことは、私も認めるところである。日蓮正宗に対する信仰心も強盛であった。しかし、一面、負の部分もあった。すなわち、摧尊入卑の教学(価値論に代表される)や、御僧侶への尊敬の念が希薄であったことである。特に、日淳上人を誹謗した罪は大きい。しかし、

@日淳上人に対する誹謗については、"一心同体"の弟子・戸田氏が、懺悔されている(下記1●)。しかも、その弟子である戸田城聖氏は、御法主上人に信伏随従され、大折伏を展開された。過去に謗法があっても、懺悔し、さらに現在、信心に励んでいる者に対して、過去の謗法を論(あげつら)うことは、あるべきではない。

A摧尊入卑の教学については、弟子であり、創価学会の後継者である戸田氏が、軌道修正した(下記2●)。

B牧口会長は、日蓮正宗の信徒として一生を終えた方である。

C創価学会が、信徒団体として折伏戦に励んでいる時に、初代会長の信心の正の部分を強調することは、学会員の信心にとってプラスとなる。

以上の理由によって、日淳上人は、敢えて牧口会長を讃歎されたものと拝する。要するに、牧口会長の信心には、素晴らしい正の部分もあったが、負の部分もあった。しかし、負の部分については戸田氏が懺悔し、さらに後継会長として(牧口会長の名誉を傷つけないように)軌道修正し、模範の信徒団体たらんとしたのである。この戸田会長の心情を汲み取られた上で、日淳上人は、牧口会長の正の部分を強調されたものと拝する。

日達上人や日顕上人も52年路線当時は、池田大作や学会を厳しく糾弾されていた。しかし、池田が反省懺悔してからは、学会を擁護され、過分とも思えるほどの評価を与えられている。つまり、ある時点で正の評価があったことをもって、過去に負の実態がなかったことの証拠とはならないのである。


<日淳上人誹謗>
●(※第59世堀日亨上人から伺(うかが)ったこととして)牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師(後の日淳上人)と論議し、「もう貴僧の指導は受けない」と、席を蹴(け)って退去(直達講副講頭を務めていた竹尾清澄著『畑毛日記』/『慧妙』H18.3.1)

◆「過去十年来の結果に於て創価教育学会の信仰指導には何等の弊害はなかつた。但し将来は弊害がありそうである。」とは堀米尊師が昭和十七年十一月十六日、学会本部に於ける幹部十数人の面前に、数回の押問答の末に、漸く断言されたものである。
 従来本会の指導に対して多少の非難誹謗をするものがあつたらしく、又大した好感も持たれぬ様子であり、新しい信者が学会員の折伏によつて続々入信するのに対して、未だ曾つて一言の注意も、忠言も、はた感謝の辞も聞いたこともなかつた上で、斯かる断言を聞いたのは吾等の無上の安心とする所である。「愚人にほめられたるは第一の恥なり」といふ宗祖大聖人の仰をかしこむ吾々は、これこそ日蓮正宗の法義を正しく実践しようと念願して来られた結果と思へば、将来はともかく、今までのみではこれ以上の満足はないとするのである。(『大善生活実証録-第5回総会報告-』/『牧口常三郎全集』第10巻180頁)
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日淳上人は「創価教育学会の信仰指導」について「将来は弊害がありそうである」と「断言」された。これに対し牧口会長は「愚人にほめられたるは第一の恥なり」という御書を引用して「斯かる断言を聞いたのは吾等の無上の安心とする所である」とまで言っている。まるで日淳上人が「愚人」であるかのような言い草であり、増上慢としか言いようが無い。これは、当時の牧口会長が日淳上人を快く思っていなかった証拠である。


<戸田会長の懺悔>
1●堀米先生に、去年堀米先生を「そしった」罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。「法の師をそしり」し罪を懺悔しつつ「永劫の過去を現身に見る」と言っております、と(戸田城聖『獄中書簡』S19.9.6妻あて/『慧妙』H18.3.1)

●足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)
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会話内容から考えて、上記『人間革命』での堀米尊師(日淳上人)との再開の場面と同じときのものであろう。


<戸田会長の牧口観>
●彼(戸田)の活動が、実は空転していたとさえ思えてならない。彼はまだよい。先師牧口にいたってはまったくの空転に終わったとさえ、時に思われた。彼の反省は深かった。(『人間革命』第5巻「随喜」の章)
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独りよがりの「謗法厳戒」で、組織を空転させてしまった罪は大きい。

●〔野島〕「あなたは真木(※牧口)先生の1番弟子であり、私も第何番目かの弟子の1人である。弟子として、私は真木先生の教えを忠実に守っていきたいし、また学会の正しい発展を願うことでは、敢えて人後に落ちない熱意を持っているつもりである。ところで先頃の学会の検挙のことを、あなたは一体どういうふうに考えているんですか、どうしてあの事件があんなに拡大し、あんなに長引き、そのあげくに、真木先生の獄死ということになったのでしょうか。これについて、あなたは反省してみたことがありますか。(中略)
〔戸田〕それは2通りに考えられると思いますよ。その一応は、学会が発迹顕本の時になっていたのだということ。それからもう1つ、二応としては、真木先生が御自分の学説に重きを置いた結果、法華経をむしろその手段のように扱ったということ、御書に摧尊入卑という言葉がありまして、その摧尊入卑の罰とか罪とかいう言葉はないが、つまりそれに当たるのだと思う。学会の行き方としては、価値論から法華経へ、法華経から御本尊へというのでなければならないと思いますね」(野島辰次=牧口門下で創価教育学会の理事を務めていた『我が心の遍歴』/『慧妙』H15.2.16)

2●牧口の価値論から入った、大善生活を思うとき、そこには、彼独特の、倫理的臭味を帯びてくる。さらに、大善生活の実践のために、大御本尊を仰ぐ時、大御本尊は、価値論の範疇に入ることになってしまう。−ここに摧尊入卑のきらいが影となって射して来るようだ。戸田は、出獄以来、ひとまず価値論を引っ込めた。そして、南無妙法蓮華経そのもの自体から出発したのである。それは、幾多の苦難の歳月を経て、身をもって体験した確信からであった。 彼は、価値論を、現代哲学の最高峰であるとは思っていた。・・・しかし、大聖人の大生命哲学からするならば、時に「九重の劣」とすら思えた(『人間革命』第1巻)
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戸田理事長は、2代会長として学会再建に着手したが、まず牧口氏の根本的誤りを払拭すること(それも、師たる牧口氏の遺徳を傷付けることなく、むしろ顕彰しながら行なう)に心を砕いた。その事実は、若かりし頃の池田大作が、迂闊にも『人間革命』第1巻の中に、次のように(2●)描写してしまったことからも明らかである。(『慧妙』)





宗門を悩ませた牧口会長の独善性

―自ら宗門を離れた歴史は明らか―
(『慧妙』H6?)

『新報』(8月3日付)は、渡辺日容(慈海)尊能化著『日恭上人の御師範』を基に、次のように述べている。
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 昭和18年2月のこと、日蓮正宗の当時庶務部長であった渡辺慈海氏のもとに静岡県富士地区特高課から呼び出しの電話があった。渡辺氏が署へ出頭してみると、幸いにもその特高課の課長は同氏の旧友であった。その課長は渡辺氏に「静岡県庁特高課で聞いたことだが、日蓮正宗に不敬罪の嫌疑がかけられており近く手入があるらしいぞ」と注意した。
 渡辺慈海氏はさあ一大事だと、当時の鈴木日恭法主に報告。そして法主の命で上京した。時の官界権威者(元内閣書記官長)であり数年前から正宗信徒になっていたE氏に頼んで警視庁へ事の真偽を照会してもらうためである。E氏は警視庁の官房主事A氏に万事、手配をした。渡辺氏が車をとばし、警視庁を訪ねると、A氏への直々の面会を許可された。A氏は渡辺氏から委細を聞くと、同庁内の第2特高課長を呼び出し、真相を質(ただ)した。
 はたせるかな、日蓮正宗の不敬問題は調査中であった。大石寺信者である創価教育学会々員末梢(まっしょう)の人の苛烈な他宗破折や神道攻撃、公衆の面前での神札破棄などの行動に"不敬"があるとして、これらが告訴されたことによるものであった。そのために学会本部や大石寺管長の取り調べ、全国4、5ヵ所に司直の手が入ることになっていることが明瞭になった。
 そこで渡辺氏は第2特高課長に、学会と正宗の関係を説明し、「会員のなかに脱線的な分野もあって苛烈な折伏をすることは日蓮正宗の本山が直接知らないことであり、また正宗の純信者や末寺には不敬の行為は絶対にない」と力説した。そこへ官房主事A氏から「日蓮正宗本体が不敬でもなさそうだ。ここにはE閣下など多数の信者もあることじゃ、一部反対者の告訴のみで、戦時中管長召喚など穏かでないよ、本山の動揺のみか日本の問題だから、根拠も薄弱のようだ、君やめといたほらがよいよ」と口添があった。警視庁官房主事に言われて、さすがの第2特高課長も平身低頭、その場で卓上電話をとって静岡県庁特高課へ取消命令を下した--。(『新報』)
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渡辺氏は"不敬"行為をやめない学会員は「日蓮正宗の純信者」ではないかのごとくいい、学会の熱心な折伏は「日蓮正宗の本山が直接知らないこと」であるといって、学会の行動と日蓮正宗本体との関わりを完全に否定している。そこには、自らに火の粉がふりかかるのを恐れる自己保身の体質が歴然である(『新報』)
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 どうやら学会は、自らを「謗法厳誡にして神札を峻拒(しゅんきょ)した健気(けなげ)な信徒団体」であるとする妄想から、いまだに抜けきれておらぬようだが、実際は、当時の学会は、けっして「純信者」などとは言い切れない状態だったのである。
 直達講(講頭・三谷素啓氏、牧口氏も同講に所属していた)の副講頭であった竹尾清澄氏は、当時の牧口氏の信仰を次のように記している。
 「牧口氏は(中略)利善美の理論などを説き、畑毛を中心に左右の山地を取り入れた一大仏都建設の構想などを述べていたそうであるが、是は全く日蓮正宗を無視する異流と云わざるを得ない。牧口氏はあれだけの学識がありながら、仏法上の総別ということになると、どうも認識が浅いような所が見られた。」
 こうした「日蓮正宗を無視する異流」の信仰を持つ牧口氏であったが故に、「この日本の大戦争を勝たせるためには、どうしても広宣流布しなければ勝てっこはない。まずこの時こそ、天皇陛下が自ら目覚められて、尊い御本尊を拝まなくてはならん」(妙悟空著『人間革命』)と、戦争勝利のための信仰を主張するようになるのである(本紙第17号参照)。
 そして、その主張・行動の延長が、「脱線的な」「苛烈(かれつ)な折伏」を引き起こすのである。
 事実、昭和18年6月5日、東京・中野の一学会員が、子供を亡くして悲しみの底にあった近所の家に行き、頭から「罰だ」と決めつけたため、怒った相手から訴えられる、という事件が起き、これを契機(けいき)に学会弾圧が始まっている。この模様は『富士宗学要集』第9巻にも記録されており、小平芳平・元教学部長自身が、かかる「脱線的な」行為を「行き過ぎ(罰論)」と表現しているのである。
 さらに、渡辺尊能化が「本山が直接知らないこと」とした事情は、前掲の竹尾氏の記録に明らかである。そこには、
 「牧口氏の所謂(いわゆる)不敬罪事件について、私は宗務当事者が特高課の追及を恐れ、また特高課が宗門の介入により事件の拡大するのを好まず、牧口氏だけの問題として処理する結果となったものと考えていた。(中略)牧口氏の側にも次のような事情があったことが、ご隠尊と山峰師のお話から感じられた。
 牧口氏は所属寺院の歓喜寮主管堀米泰栄師(後の日淳上人)と議論し、『もう貴僧の指導は受けない』と席を蹴って退去し、本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は茲(ここ)で日運正宗と縁が切れ、(中略)この様な状勢の中で、天照太神に対する牧口氏の不敬事件は、個人の問題として取り扱われ」
と記されている。
 すなわち創価教育学会は、牧口氏独自の異流義と、師に背く傲慢(ごうまん)な信仰態度によって、自ら宗門より離れていったのである。
 このような牧口氏の率いる学会が、「脱線的な」「行き過ぎ」た「苛烈な」布教を行なったとしても、「日蓮正宗の本山が直接知らないこと」として扱われることは、むしろ当然であった。
 なお、『新報』は、戦時中、「神本仏迹(しんぽんぶっしゃく)論」を唱えた某師と日恭上人の間に交わされた往復文書中、日恭上人の第4信に、「宗祖を本地と云ひ、天照大神を垂迹などと云へば不敬に渡る事ゆえ、言ふべからざる事と存侯」とあるのを取り挙げて、「仏本神迹説は不敬となるから、今後は言わないことを明言している」と非難しているが、これは切り文である。
 その前段には、次のようにある。
 「是等(※仏本神迹論)は第一義の法門にして、世間悉檀(せけんしつだん)、所謂(いわゆる)日本の国体より君臣の義よりすれば、天照大神は御皇室の御先祖、日蓮聖人は御臣下に在(ましま)す故に宗祖を本地と云ひ、天照大神をし垂迹など云へば不敬に渡る故に…。」
 すなわち、当時の時局や人々の機を考えて、無用の反発を生むことのなきよう、第一義悉檀で「仏本神迹」を表にするのではなく、世間悉檀の上から衆生教化を目されていたことが明らかである。
 また、この往復書簡を通読すると、某師は日恭上人に、わざと「神本仏迹説は邪義」と言わせることに腐心していた形跡がうかがわれる。つまり、書簡は私信ではあっても、某師の裏には軍部が控えており、わずかでも不敬にあたる言説があれば、弾圧、ひいては宗門断絶の危険性があったということであり、日恭上人はこの罠(わな)にも似た策謀を、四悉檀を駆使して巧みにかわされているのである。
 こうした、日恭上人の筆舌に尽くせぬ御苦労があって、今日、我々が妙法を信受できるのであり、多くの民衆が成仏の境界を享受(きょうじゅ)できるのである。
 後年、2代会長戸田城聖氏は、某師に向かい、
 「あなたの神本仏迹論を、潔く謝罪しなさい。私に謝れとはいわん。御本尊様にお詫び申し上げるのです。そして、いまは亡き日恭猊下と、初代牧口会長の霊に謝るのです」(『人間革命』第6巻)
と呵責したそうだが、大法を護持しぬかれた日恭上人を誹謗する学会こそ、この呵責(かしゃく)を我が身に引き当て、真摯(しんし)に受けとめるべきであろう。