戦争翼賛の歴史を糊塗する池田創価学会

―牧口・戸田は「忠君愛国」を説き「戦勝」を期す―
―学会が弾圧された理由は「治安維持法違反」―
―独自の"神札観"が「神宮・皇室の尊厳冒涜(ぼうとく)」の罪に―

(『慧妙』H23.7.1ほか)

 創価学会は、自らが生粋(きっすい)の"反戦・平和の団体"であるかに標榜(ひょうぼう)する。
 その根拠とされるのが、昭和18年7月に、初代会長・牧口常三郎、理事長・戸田城聖(後に第2代会長)等の主要幹部が治安維持法違反ならびに不敬罪で逮捕され、牧口は獄死、戸田も昭和20年7月3日に仮釈放となるまで投獄されていた、という「事実」。これをもって創価学会は、"戦時中、弾圧を受けたにも拘(かか)わらず、「反戦・平和」の主張を貫(つらぬ)いた"と主張するのである。
 だが、創価学会は戦時中、本当に"「反戦・平和」の主張を貫いた"のか―。
 太平洋戦争の開戦から70年目となる本年、その「7月3日」を迎えるにあたり、戦時中の創価学会の実情を再検証する。



【著述に明らかな牧口氏の軍国思想】
―入信前も入信後も覇権主義唱える―
************************************************************ 牧口会長が日露戦争の前年に発刊した『人生地理学』で、人類は「軍事的、政浴的、経済的な競争」という「戦争の文化」の段階から、「人道的な競争」という「平和の文化」の段階へ、断じて進んでいかねばならないと強く主張したことは、有名である(『フェイク』第633号)
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◆若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(『地理教授の方法及内容の研究』T5/『牧口常三郎全集』第4巻273頁/『慧妙』H17.11.1)
◆我国の主権は、即ち万世一系の天皇にましまして、吾々国民から言へば上に万世一系の皇室を戴(いただ)き奉(たてまつ)るのである(『地理教授の方法及内容の研究』T5/『牧口常三郎全集』第4巻277頁/『慧妙』H17.11.1)
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 牧口氏は、大正5年に著(あら)わした『地理教授の方法及内容の研究』で、"外敵"に対する防御のみならず、日本の権勢拡大のためにも弱い国家に対して「力」を使え、と力説し、我が国の主権者は天皇・皇室であることをしっかりと教え込め、と訴えているのだ。
 創価学会としては、牧口氏は日蓮正宗に入信する以前から、もともと平和主義者であった、ということにしたかったのであろうが、それはあまりにも無茶というものである。



【牧口学会の実態】
 創価学会は、初代会長・牧口常三郎が著(あら)わした『創価教育学体系』第1巻の発行日が「昭和5年11月18日」となっていることから、この日を「会発足の日」としている。
 しかして創価教育学会は、会の発足に当たり、11人の顧問を置いているが、この中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄、台湾総督・太田政弘、といった面々も名を連(つら)ねている(『牧口常三郎全集』第8巻421頁)のだ。いったいどこに、軍人を顧問に戴(いただ)く"反戦・平和の団体"があろうか
 その創価教育学会が、昭和15年4月30日に第2回総会を行なった際に使用した会場は、何と、九段の軍人会館(現在の九段会館)であった。"反戦・平和の団体"が、「軍人会館」で総会を開く―これまた前代未聞(ぜんだいみもん)であろう。
 創価教育学会が、、当初から反戦・平和を唱え、天皇制を批判していたのなら、軍人や植民地支配の最高責任者に顧問就任を要請するはずなどなく、また軍人らも、要請されたとしても、それを承(う)けようはずがない。
 この事実をもってしても、創価教育学会が反戦・平和の団体であった、というのが、大ウソであることがわかる。(『慧妙』H17.11.1・『慧妙』H23.7.1)

だが、これらは、どちらかというと些末(さまつ)な問題である。一番重要なのは、創価教育学会の中で、実際にどのような指導がなされていたか、である。

◆我々は天皇陛下の御為に、1人でも多く折伏し、実行を以て示さねばならぬ(「目的観の確立」『牧口常三郎全集』第10巻8頁)

◆東亜共栄圏乃至世界列国にこれからの新秩序の中核として吾等が実証によってこゝに提供せんとする最高価値の大善生活法は、人生の理想として何人も渇望する所のものであり、仏教の極意たる成仏法こそ之に応じた妙法であり、又「惟神(かんながら)の道」の真髄も之でなければなるまい。所謂(いわゆる)皇道精神もこれ以外にあるべきはない(「大善生活法の提唱」『牧口常三郎全集』第10巻9頁)

◆大善生活は個人主義生活や独善主義の生活ではなく、まして臆病なる寄生主義の生活でもなくて、勇敢なる全体主義の生活なることが解るであらう。全体主義とはいへ己を忘れるが為に、云ふべくして行はれないやうな空虚なる偽善生活ではなく、自他共に共栄することによって初めて、完全円満なる幸福に達し得る、真実なる全体主義の生活のことである。全体のためと共に、各個人にもその所を得しめる皇道精神の理想と一致することが知れるであらう(「大善生活法即ち人間の平凡生活に」『牧口常三郎全集』第10巻14頁)

◆戦場に於ては悉(ことごと)く大善生活法の実践であり、それによってのみ勝利が得られ、これがなくしては必ず惨敗をするのである(「大善生活法即ち人間の平凡生活に」『牧口常三郎全集』第10巻18頁)

◆大臣も知事も他の百官も権力に於いては悉く、天皇陛下の大御稜威(みいつ)に摂(せっ)せられる。故に一切の政治機関のあらゆる権力は悉く、天皇陛下の統治権の発動に過ぎない(「大善生活法の実践」『牧口常三郎全集』第10巻18頁)

◆「皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る」といふ剣道の真髄を、実戦に現はして国民を安堵(あんど)せしめられるのが、今回の日支事変及び大東亜戦争に於て百戦百勝の所以(ゆえん)である。それは銃後に於けるすべての生活の理想の要諦でもある(「大善生活実験証明の指導要領」『牧口常三郎全集』第10巻129頁)
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 これは、昭和17年5月17日に行なわれた創価教育学会第4回総会の様子を記録した『大善生活実証録』の巻頭に載(の)った、「大善生活実験証明の指導要領」と題する牧口常三郎の文章である。
 一目瞭然(いちもくりょうぜん)。牧口は"反戦・平和"を説くどころか、銃後の国民も、敵殲滅(せんめつ)のためには、我が身も省(かえり)みぬ戦いを繰り返している最前線の兵士に傲(なら)い、「肉を切らして骨を切る」と決意して行動することが肝要、つまり"自己犠牲を厭(いと)わず国に尽くせ"と指導していたのである。(『慧妙』H23.7.1)

 そして、会合を開くにあたっては宮城を遥拝(ようはい)し、軍歌を高唱していたのである。
 これらのことから、創価教育学会は、とくに反戦・平和の団体などと呼べるものではなく、実際は、天皇を国主と仰ぎ、その下に「大善生活法」に基づく全体主義社会を築こうとした、むしろ戦争翼賛の団体であったことがわかろう。(『慧妙』H17.11.1)

 どう贔屓目(ひいきめ)に見ても、"反戦・平和の想い"は、そこにない。
 もっとも、当時の日本においては、政府が「皇国の国是は八紘(はっこう)を一宇(いちう)とする肇国(ちょうこく)の大精神に基(もとづ)き、世界平和の確立を招来することを以て根本とし、先(ま)づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする、大東亜の新秩序を建設する」とした「大東亜共栄圏」構想を打ち出していた。つまり、"日本国の思想・信条に基づき、世界を平定し、統合する"ことを最終目的に、"まずは東アジアを欧米列強による支配から開放し、アジア民族の共栄を目指す"「聖戦」を遂行(すいこう)する、としていたのである。
 しかも、徹底した言論統制により、海外の情勢や戦争の実態などを一般国民が知ることは非常に困難であったから、この価値観は、ほぼ日本国民が共有するものとなっていた。よって、牧口のように、"聖戦を完遂(かんすい)するため、自己犠牲の精神を発揮して挙国一致で臨(のぞ)め"と訴えるのは、日本国民として、なかんずく団体の長として人々を指導する立場にあれば、むしろ当然至極の主張だった、といえよう。(『慧妙』H23.7.1)


▲昭和16年、東京・銀座を行進する海軍陸戦隊。それを笑顔で見物する人だかりに、当時の日本国民の意識が現われている(写真提供=共同通信社)



【弾圧の理由】
◆万世一系の御皇室は二元的であって、今上陛下こそ現人神(あらひとがみ)であらせられる。(中略)吾々国民は国法に従って天皇に帰一(きいつ)奉(たてまつ)るのが、純忠だと信ずる。天照大神のお札をお祭りするとかの問題は万世一系の天皇を二元的に考へ奉る結果であつて、吾々は現人神であらせられる天皇に帰一奉ることによつて、ほんとうに敬神崇祖(けいしんすうそ)することが出来ると確信するのである。また、これが最も本質的な正しい国民の道だと信ずる次第である(昭和17年11月22日開催の第5回総会終了後の座談会における牧口発言)
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日蓮正宗の教義からも遊離した特異な考え方により、会員宅などから伊勢神宮の神札等を排除した。それが、「治安維持法」の
 「第7条 国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜(ぼうとく)スベキ事項ヲ流布スル事ヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ無期又ハ4年以上ノ懲役(ちょうえき)ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ1年以上ノ有期懲役ニ処ス」
との条文に抵触すると見なされて逮捕・投獄されたというのが、創価教育学会に対する弾圧の真相である。けっして"反戦・平和"を訴えて弾圧されたわけではない。(『慧妙』H23.7.1)

●昭和十六年五月十五日改正治安維持法施行後も前記目的を有する同会の会長の地位に止まりたる上、同会の目的達成の為(中略)昭和五年頃より昭和十八年七月六日頃迄の間、東京市内其の他に於て同市王子区神谷町三丁目千三百六十四番地岩本他見雄外約五百名を折伏入信せしむるに当り、其の都度謗法罪を免れんが為には皇大神官の大麻を始め家庭に奉祀する一切の神符を廃棄する要ある旨強調指導し、同人等をして何れも皇大神宮の大麻を焼却するに至らしめ、以て神宮の尊厳を冒涜(ぼうとく)し奉る所為を為したる等諸般の活動を為し、以て神宮の尊厳を冒涜(ぼうとく)すべき事項を流布することを目的とする前記結社の指導者たる任務に従事したると共に、神宮に対し不敬の行為を為したるものなり(「創価教育学会々長牧口常三郎に対する起訴状」/『牧口常三郎全集』第10巻252頁〜)



【戸田「戦争では勝ちたかった」】
 さらに、戦後の戸田城聖の発言を検証してみよう。
◆戦争では勝ちたかった。負けるとは思っていなかった。私の今もっている信念は、当時はなかった。私には教学もなかったし、勉強もしてなかったからなんだ。初代会長は勝つといっていた。(学会の)教線が伸びたのは日本の戦勝と一致していたし、学会の弾圧と敗戦への方向が一致一し、初代会長の獄死と共に本土空襲がはじまったので、その結びつきは考えた。(小口偉一編『宗教と信仰の心理学』)
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 これは、心理学者・小口偉一氏と面談する中で戸田が述べた言葉だが、戦時中の戸田もまた、他の多くの日本人と同様、中・米・英・蘭との戦争それ自体を「悪」だと思ってはおらず、また皆と同様に、戦争に勝ちたいと願っていたのだ。
 それは、戸田の自著『人間革命』(精文館発行)によっても裏付けられる。
 戸田自身を「巌(がん)」という名で登場させた同書には
◆対支問題の解決には、われわれが支那大陸の地下工作にまで乗り出そうではないか!
 勿論(もちろん)、巌の全財産は、この運動に提供する(戸田城聖著『人間革命』精文館発行)
◆牧田城三郎(※牧口常三郎)先生は国家諌暁(かんぎょう)を思い立たれ、自分は学会幹部を集めて、救国の一大折伏戦や、支那大陸への潜行運動などを展開しようとしたが、それは飽(あ)くまでも、日本を負けさせたくないからであって(同上)
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といった記述が散見される。これはまさに、身命を賭(と)してでも日本を勝利に導きたかった、という、戸田自身の当時の"愛国心"を吐露(とろ)したものであろう。
 ただし戸田は、前述のように「私の今もっている信念は、当時はなかった」と語っている。これはすなわち、小口氏と面談した時点(おそらく昭和30年のことと思われる)においては、過去の間違った愛国思想を反省すると共に、戸田の中において反戦思想が明確になっていたことを意味しよう。
 自らのあり方に修正すべき点があれば、その旨(むね)を明言した上で、堂々と修正すればよい。それが真摯(しんし)な態度というものだ。
 戸田は、けっして大きな声ではなかったが、過去の自分の考えが間違っていたことを吐露した。そしてその後、あの三ツ沢競技場での「原水爆禁止宣言」を行なったのである。

 以上が真相であるが、池田大作が率(ひき)いる現在の創価学会は、過去を糊塗(こと)し、あたかも学会が徹頭徹尾、「反戦・平和」という道を歩んできたように主張し続けてきた。
 これはむしろ、戸田の真摯な姿勢に泥を塗る、師敵対の行為であろう。
 心ある学会員よ、この事実を具(つぶさ)に見よ。そして、洗脳から目を醒(さ)ますべきである。


▲戸田の三ツ沢競技場での反核宣言は、戦時中の軍国主義への加担に対する反省からなされたものだった!?



【資質が疑われるナポレオオン礼讃】
 ちなみに、去る10月25日付の『聖教新聞』の1面を大々的に飾ったのは、11月3日より東京富士美術館で開催される「栄光の大ナポレオン展」の紹介記事。そしてそこには「英雄の生涯を彩る文化の光」の文字が―。
 たしかに、ナポレオンは立志伝中の人物であり、また「英雄」には違いない。
 だが、その「英雄」というも、所詮は軍人としての非凡さを称える呼称であって、侵攻された側、例えば、ゴヤの絵で有名なマドリードの虐殺の犠牲となったスペイン民衆、あるいは、ロシア遠征によって尊い命を落とした数十万名のロシア・フランス両軍兵士や巻き添えになった市民にとって、ナポレオンは残虐な「侵略者」であり、冷酷な「独裁者」以外の何者でもなかったのである。
 しかれば、少なくとも、「反戦・平和」を唱える者にとって、ナポレオンは、たとえどのような理由を付けようとも、賞賛の対象にはなり得ない。
 ところが、創価学会なかんずく池田大作は、再三再四、ナポレオンを賞賛。東京富士美術館等で何度も「大ナポレオン展」を開くばかりでなく、これを全国各地で(例えば8月には長崎で、10月には神奈川で)開催してきているのである。
 このことからも、池田創価学会が唱える「反戦・平和」が、単に名目だけのものであることが窺(うかが)われよう。
 そして何より、御法主日顕上人猊下をはじめ「学会の敵」と見なした者を、徹底的に罵倒(ばとう)し、執拗(しつよう)に攻撃する姿勢に、牧口氏の時代から、創価学会内に連綿と受け継がれてきた体質が、よく現われているではないか。
 創価学会は、その成立の昔から今に至るまで、「反戦・平和」などとは、およそほど遠い団体だったのである。(『慧妙』H17.11.1)