葬儀に対する学会員遺族の訴えを棄却

―齋藤栄順師の勝訴が確定!―
―繰り返された宗門攻撃の策謀を粉砕
―5年も前の葬儀の"香典寄こせ"―
―故人の遺志無視した学会員遺族―

(『慧妙』H26.2.16)

 富士宮市の学会員Tが、宗務院庶務部長を務める齋藤栄順尊師を相手取り、不当利得(齋藤尊師が喪主を務めたTの姉にあたる法華講員の葬儀に際し、集まった香典の中から永代回向料及び僧侶御供養料を支出したこと)の返還を求めた訴訟に対し、一昨年12月26日、静岡地方裁判所は、学会員の控訴を棄却。その後、学会員からの上訴はなく、このたび齋藤尊師の勝訴が確定した。
 この事件の顛末(てんまつ)は、次のとおり。
 平成19年1月、学会員Tの姉にあたり、壽命寺(静岡県富士宮市)の副講頭や静岡北地方部の幹事を務めるなどしていた女性が逝去(せいきょ)した。
 この女性は生前、親族に創価学会員が多いことから、自身の葬儀が学会葬で行なわれることを懸念して、当時、壽命寺住職であった齋藤栄順尊師に、日蓮正宗による葬儀の執行を願い出て、齋藤尊師もこれを了解されていた。
 それ故、齋藤尊師は女性の逝去を受け、約束どおり葬儀の一切を主宰され、葬儀費用、故人の永代回向料及び会葬僧侶への御供養については集まった香典で賄(まかな)い、不足分については斎藤尊師側が負担して、葬儀の一切を滞りなく終了したのであった。
 ところが、それから5年もの月日が流れた一昨年3月、『創価新報』(H24.3.7)に突如、
「庶務部長・斉藤栄順に『非常識』と地元市民も激怒」「卑劣極まる香典持ち去り」
との見出しが躍った。
 それは件(くだん)の学会員Tの「証言」により、齋藤尊師を悪し様に罵(ののし)ったものであった。
 その中でTは、
 「姉が亡くなり、遺族として真心の『友人葬』で弔(とむら)おうと思っていた矢先でした。
 斉藤と斉藤の女房が、喪主である私や遺族の意向を無視して、寿命寺で葬儀を強行し、香典も持ち去っていきました。
 信じがたい横暴でした。参列した方に御礼をしたかったので、せめて、香典帳や香典袋だけでもと思い、斉藤に要求しましたが、結局、それも出しませんでした。
 本当に良識のかけらもありません」
などと、事実に反する「証言」をなしたのである。
 そればかりかTは、齋藤尊師が「日蓮正宗による葬儀を強行し、さらに香典を取得して、その中から永代回向料及び僧侶御供養料を支出したのは不当」(主旨)だとして、賠償を求め、富士簡易裁判所に提訴したのである。
 このTの訴えに対し富士簡裁は平成25年6月28日、"齋藤尊師と原告(学会員T)の姉は信仰を通じて親しい関係にあり、しかも日蓮正宗と創価学会とは相対立する関係になっていたことから、同人は生前から原告ではなく齋藤尊師に葬儀の主宰を依頼していたもので、現に同人の葬儀は、香典の会計処理も含め、すべて齋藤尊師が喪主として主宰したものであること、加えて原告が葬儀の5年後になって初めて異論を述べ始めたことからしても、原告が葬儀主宰者たる喪主であったことは認められず、香典に対する権利もない"として、原告の請求を退けたのである。
 これを不服としたTは静岡地裁に控訴。しかし、静岡地裁も富士簡裁の判断を維持し、「納められた香典が帰属するのは、葬儀主宰者」であり、「葬儀主宰者か否かは、実際の葬儀の準備状況、実施状況から実質的に判断されるべき」としたうえで、「控訴人(学会員T)は、5年余にわたり、被控訴人(齋藤尊師)による会計処理について異議を述べず、これを事実上黙認していた」ことも踏まえ、「自己の責任と計算において、葬儀を準備し、手配等して葬儀を挙行した葬儀主宰者は、被控訴人(齋藤尊師)であると認めるのが相当である」として、昨年12月26日、Tの控訴を退けた。
 これに対しTは、上訴期限を迎えても上訴せず、よって静岡地裁の判決が確定し、この裁判は齋藤尊師の全面勝訴で終結したのである。
 となれば、『創価新報』(H24.3.7)の記事は明らかな「誤報」ということになり、『創価新報』を発行している創価学会には、誤報によって齋藤尊師の名誉を著しく毅損(きそん)したことに対する謝罪はもちろんのこと、誤報に至った経緯を検証し、責任の所在を明らかにする責務があろう。
ところが創価学会は、齋藤尊師に対し謝罪するどころか、直近の『創価新報』(H26.2.5)で、敗訴の事実も告げぬまま、一方的な主張を並べ立ててきた。
 すなわち、「遺族に対して強硬な姿勢で寺での葬儀を要求したのである」「『僧が上、俗が下』が宗是の日顕宗である。Tさんは、香典に関して、即座に齋藤(尊師)を問いただせる立場になどなかった」等々、ことさら齋藤尊師を"強者"、遺族のTを"弱者"と位置付けて、あたかも"強者"が"弱者"を蹂躙(じゅうりん)したかに書き殴ったのである。
 これでは司法の下した判断を頭から無視するものではないか!


【今も音も"弱者"になりすまして喧伝】
―「コーヒーカップ骨壷事伜」は典型―
 そもそも創価学会はこれまで、その言葉の響きから、思わず同情を誘う「遺族」をキーワードに、日蓮正宗に対し、たびたび、謀略を仕掛けてきた。中でも代表的なのは、平成4年に起きた「コーヒーカップ骨壷事件」である。
(中略)


【学会報道を盲信する会員を救え!】
―破邪頭正の折伏実践こそ我らの役目―
 このようにして、2つの事件の顛末を比べてみると、創価学会の謀略体質と、日蓮正宗を貶(おとし)めんとする時の手口が、20年前も今も、全く変わっていないことがよくわかる。
 すなわち、日蓮正宗から被害を被(こうむ)った、と主張し、訴えを起こすのは決まって学会員で、創価学会自体が自ら進んで矢面に立つようなことはしない。
 しかして、まず『創価新報』等の機関紙誌をフル活用し、"弱者"たる学会員が、"強者"たる日蓮正宗からいかに苦しめられたかを、虚実取り混ぜ、針小棒大に大宣伝する。
 その後、"義憤に駆られた"学会員が訴訟を起こし、まかり間違って勝訴判決を得ると、またまた『創価新報』等が大宣伝。
 ところが、敗訴となろうものなら、それまでの大騒ぎはどこへやらで、「不当判決だ」と主張することもなく敗訴の事実を隠蔽(いんぺい)してしまう―これがこれまでの創価学会の手口であった。
 今回も"負け犬の遠吠え"よろしく騒ぎ立てているが、果たして今後、「敗訴」、それもTが上訴を断念した、という、実質的にTが自ら負けを認めた事実を報ずるかどうかが見物である。
なおまた、学会機関紙誌は真実しか報道しない、と思い込まされている多くの学会員は、欺瞞(ぎまん)報道に対して何の疑いも抱かぬばかりか、それが繰り返されるごとに、さらに日蓮正宗こそが「悪」だと信じ込んできた。
 こうした悪循環を断ち切る術(すべ)はただ1つ、我々法華講員が、彼ら学会員を折伏していくしかない。
 また、創価学会をこれ以上増長させないためには、世間に対しても、およそ宗教法人としての適性を失ってしまった創価学会の本性を知らしめていくことが必要である。
 その使命の重大さをしっかりと弁(わきま)え、日々、破邪顕正・折伏の闘いを進めていこうではないか。

[画像]:学会員Tの手記を載せた『創価新報』(H24.3.7)。いつものように『創価新報』が策謀の口火を切ったが、司法の判断で目論見は潰えた