「法主本仏論」「法主絶対論」破折

(『慧妙』H14.8.1ほか)

・御法主上人の処に、金口嫡々血脈相承に基づく御本尊の御内証の法体が伝持遊ばされている
・法主信仰≠ネどと、あたかも御法主上人個人が信仰の対象であるかのような義は、もとより本宗には存在しない


 この問題は、宗内の尊能化と学会古参幹部による往復文書に始まる。
 平成3年7月21日、和泉覚を代表とする学会古参幹部4名より、早瀬日慈重役はじめ各尊能化に対し、抗議とも陳情とも察しかねる奇怪な書面が送付された。この書面に対して、各尊能化は、本宗本来の信仰の筋道と、信徒としての正しい信心のあり方の上から、池田大作をはじめ学会首脳の誤った考え方を5点に括(くく)って指摘し、一刻も早く反省・懺悔(さんげ)するように、との教導の書面を送付された。
 この中で、各尊能化は、創価学会の誤りの一番の元が、宗旨の根本たる唯授一人血脈に対する尊崇(そんすう)の念の欠如、不信より起こった三宝破壊にあることを重視し、厳しく教訓された。
 ところが無慙無愧(むざんむき)の学会首脳は、日蓮正宗を陥(おとしい)れんがために、この「能化文書」を切り文して、作為的に「法主本仏論」なる語を創り上げたのである。(『慧妙』H25.4.16)


【「法主絶対論」「法主信仰」?】
>「法主絶対論」「法主信仰」だ
>法主本仏論は左京日教師が言い出した



【能化文書】
―「法主は大御本尊と不二の尊体」?―
>法主を御本仏日蓮大聖人に並べる「法主本仏論」ともいうべき大変な邪義である
>"法主の内証が御本尊や大聖人と一体不二"などという御書は、御書のどこにも存在しない



【「血脈」とは「信心」のこと?】
>「血脈」とは「信心」のこと
>「血脈此れより外に全く求むることなかれ」
>「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」
>「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり」



【「法主の所に本尊の体有るべきなり」】
<左京日教師>
>日鎮法主の補佐役として活躍
>「当代の法主の所に本尊の体有るべきなり」「法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ」
>「法主が体で、御本尊は用」


<日寛上人の"真意">
>『当家法則文抜書』は「抜書」であり、殊更に何かを主張した論書ではない
>後世の門人に伝え残そうとされたのは、ひとえに『六巻抄』であった
>『六巻抄』に直接示されていない教義は日寛上人の本意ではない
>『六巻抄』のどこに、歴代法主の内証を「本尊の体」とするような教義があろうか
>「法主信仰」につながり、正統教学を混乱させる教えは用いない、との日寛上人の姿勢
>最晩年に完成された再治本の『六巻抄』に、そのような主張は、どこにもみられない
>「行者謹んで次第を超越する勿れ」



【「法主は生身の釈迦日蓮」】
>「法主は生身(しょうしん)の釈迦(しゃか)日蓮」
>「いかなる法主でも無条件に崇拝せよ」




【昔の会長指導】

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【「法主絶対論」「法主信仰」?】
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日顕宗が終始、主張しているのは、"法主は絶対であるから、ともかく法主に従え"という、いわば「法主絶対論」「法主信仰」である(『創価新報』H17.3.16)
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 「法主絶対論」などという言葉自体、日蓮正宗の書物のどこにも出ていないし、御指南にもない。
 学会で言う「絶対」とは何を意味するのであろうか。もし全知全能の創造神のような完全無欠の絶対的無謬性を指しているのであれば、「否」といえよう。事実、御本仏大聖人様でさえ、示同凡夫のお立場から、まれに御文字の間違いをされている。
 同様に御法主上人にも、臨時の御失錯(しっさく)はおありになるといえる。しかし、大聖人の御内証(内心の悟り)をそのまま受けられているが故に、仏法に違背して己義を構えるなどということは「絶対」にない。(<『日興遺誡置文』>参照)

 また、「法主信仰」なるものも、日蓮正宗には存在しない。
 創価学会がまだ日蓮正宗の信徒団体であったずっと前から、日蓮正宗の信仰は、御法主上人の御指南を通じて、大御本尊を信仰する、と定まっていた。
 今日においても、その原則は何ら変わっていない。それが「法主信仰」などでないことは、言うまでもなかろう。(『慧妙』H17.4.16)

そもそも、時の御法主は、26世日寛上人の『文底秘沈抄』(六巻抄69頁)に明らかなように、末法万年の総貫首(かんず)であり一閻浮提(いちえんぶだい)の座主、いわゆる現時における大導師なのであるから、今さら、学会が主張するごとく、自らを本仏と崇(あが)めさせたり、絶対服従を強(し)いる必要性など、全くない御立場なのだ。(『慧妙』H23.4.16)

 いまさら論ずるまでもなく、本宗の信仰は下種三宝に対する信仰である。御法主上人が僧宝にましますことは、唯授一人金口嫡々血脈相承によって御本仏日蓮大聖人の御内証すなわち御本仏の悟りを伝持されているからである。この御法主上人が所持される日蓮大聖人と不二の御内証すなわち御法体を尊信申し上げるところに、御法主上人に対する信順の実義が存するのである。決して日蓮大聖人・御本尊の御内証を離れて御法主上人個人に対して信仰を立てるなどということではない。
 それが証拠に御法主日顕上人猊下の御書写の御本尊の中尊は、すべて日蓮大聖人日興上人以来の御歴代上人と同じく南無妙法蓮華経日蓮とお認(したた)めである。どこに南無妙法蓮華経日顕と御書写された御本尊があるか。あったら出してみよ。また日蓮正宗の僧俗は皆、南無妙法蓮華経と唱題している。誰が南無日顕上人・南無日顕上人と唱題しているか。
 しかるに創価学会では池田大作を思い浮かべて唱題していると聞く。また日蓮大聖人等下種三宝よりも池田大作を尊崇し狂信しているではないか。このような創価学会の信仰のありかたこそ個人崇拝の典型であり、その実態は池田信仰である。汝が法主信仰≠ネどと述べて、本宗の下種三宝に対する信仰を歪曲誣告(ぶこく)することは、創価学会の池田信仰を隠し、宗門誹謗の邪義を構築するために意図的に行っているのであって、まさに大謗法である。(『大白法』H17.10.1)


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(法主本仏論は)じつは要法寺系の帰伏僧である左京日教師らが言い出したことであり、本来の正統教義ではない
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 もとより、宗門史上において、御歴代上人への信順の姿勢が一貫したものであることはいうまでもない。
 ある時代における文献に、御法主上人への信順を説く文言がなかったからといって、その時代の大石寺に、御法主上人に対し信伏随従する信仰がなかった、と邪推すること自体、まったくの見当違いである。
 とくに、宗門上代の文献はほとんど残っておらず、文献に記された内容のみで、当時の状況を判断することなど、とうていできないのである。
 ともあれ、過去の学会がそうであったように、大石寺では、基本的信条として、御法主上人の御内証を大聖人と拝し、信順してきた。この信条には、根本的な御指南として、『二箇相承』や『御本尊七箇之相承』の金文が厳然として存在するのであり、それが宗開両祖以来、不変の教義である。よって、当然ながら、後世に流入したものなどではない。(『慧妙』H18.1.16)





【能化文書】
―「法主は大御本尊と不二の尊体」?―
学会が、このような邪難を構築する上での元としているのは、以前、本宗の能化各位が創価学会の古参幹部宛(あ)てに送られた文書である。
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●本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人であります。…なせならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります。したがって、この根本の2つに対する信心は、絶対でなければなりません(『能化文書』)
●本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人がその内証において、一体不二の尊体にまします(同)
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 平成3年、宗門の能化(のうけ)と創価学会古参幹部との往復文書の中で、能化側は、"法主は大御本尊と不二の尊体である"と言い、”この法主と大御本尊の根本の2つに対する信心は絶対でなければならない”と言っている。また、"本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人が、その内証(ないしょう)において、一体不二の尊体にまします"とも述べている。
 このように、法主を”御本尊と一体不二である”とか”信仰の根本とする”というのは、法主を御本仏日蓮大聖人に並べる「法主本仏論」ともいうべき大変な邪義である。
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 そもそも、能化文書に述べられていたのは、
 「本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人の御法主上人であります。具体的には、御法主上人の御指南に随従し、御本尊受持の信行に励むことが肝要です。なぜならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二
の尊体にましますからであります。したがって、この根本の2つに対する信心は、絶対でなければなりません」
という内容であり、これは本宗の正義そのものである。
 学会は、この中の「唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします」の一言を捉(とら)えて、「法主は大御本尊と一体不二であるから法主を信仰の根本としろ、という"法主本仏論"だ」とねじ曲げたのだが、一読してわかるように、そのようなことは誰も言っていない。
 そもそも、「唯授一人の血脈の当処」とは、宗祖日蓮大聖人から、第2祖日興上人以来の御歴代上人方に伝わる、唯授一人・血脈相承の法体(※法の本体そのもの)のことである。
 しかして、その法体とは
法体とは南無妙法蓮華経なり(御書P1721)
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とあるように、大聖人が久遠元初に御悟(さと)りになった南無妙法蓮華経の極意、甚深の内容である。
 この法体と御本尊との関係は、
●日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし(御書P685)
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と示されているように、南無妙法蓮華経の法体を御図顕あそばされたのが御本尊である。
 しかして歴代の御法主上人は、唯授一人の血脈相承によって伝えられた法体を、大聖人に代わって、御本尊として書写あそばされているのである。
 したがって、御法主上人に伝わる唯授一人血脈の法体と、戒壇の大御本尊が不二の尊体であることは、いうまでもない。
 能化文書で述べられているのは、まさに、このことなのである。
 ところで、創価学会は「本仏」の意味を解(わか)っているのだろうか。
 「本仏」とは、余仏の存在しない久遠元初において、無師独悟(師を持たずに一人で悟ること)・自解仏乗(誰からも教わることなく自ずから悟ること)された御方のことであり、その御方が末法日本国に日蓮大聖人として再誕されたのである。
 これに対し、第2祖日興上人以来歴代の御法主上人は、御本仏が悟られた法体を譲り与えられ、護持あそばされている立場である。したがって
●法妙なるが故に人貴し(御書P1569)
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の道理で、大聖人に連なる無上位には登られるが、歴代御法主上人と御本仏との差異は厳然としているのである。
 学会は、こうした明確な立て分けも知らず、ただ、御法主上人を誹謗(ひぼう)できればよいとばかりに、かような邪説を吐(は)き散らしているのだが、こうした疑難をなすこと自体、仏法への無知をさらけ出すものでしかない。お粗末(そまつ)この上ない話である。
 そもそも、血脈相承を受けられた御法主上人が僧宝であられることはいうまでもなく、されば、『真言見聞』に
●凡(およ)そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり(御書P608)
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とあるとおり、法宝たる戒壇の大御本尊、仏法たる御本仏日蓮大聖人、僧宝たる御歴代上人方は、理の示すところ、まさに一体である。
 三宝一体とは、まさに本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人が、その内証において、一体不二の尊体にましますということである。外相においては、仏法僧は別体であり、歴代の御法主上人が、ただちに御本仏大聖人でないことは当然だが、しかし、御所持あそばす唯授一人金口相承の当処は、まさに人法一箇の御尊体なのである。
 したがって、第26世日寛上人は
●もし内体に約さばじつに是れ体一なり。所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり、故に一念三千即自受用身と云い、又十界具足を方に名づけて円仏と云うなり。亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体なり(『歴代法主全書』4巻P392)
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と、内証の上から、本宗の三宝は一体不二であることを仰(おお)せである。また、『御本尊七箇之相承』の、
●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給う事如何。師の曰わく、深秘なり、代々の上人悉く日蓮なりと申す意なり(聖典P379)
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との御相伝も、大聖人より血脈相承あそばされた、その御内証の血脈の法体に約して示されたものである。すなわち、「代代の聖人」の「唯授一人の血脈の当処」が「悉く日蓮なり」との御意である。
 この内証と外用の立て分けについて、第31世日因上人は、下種三宝に約して、
●日興上人已下の代々も亦爾(しか)なり、内証に順ずる則(とき)んば仏宝也、外用によれば則ち僧宝なり(宝暦4年10月17日の御消息)
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と御教示されている。
 大聖人以来、御歴代上人方が一貫して正義を述べられていることは明々白々ではないか。
 以上のような明らかな御教示と道理があるにもかかわらず、創価学会は、どうにかして自分達を正当化するために、本宗の血脈を誹謗するのであろう。このような邪智の輩(やから)であるから、すり替え・捏造(ねつぞう)もお手のものなのである。(『慧妙』H25.4.16)

 かつては創価学会も
 「仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲しむべきことである。これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人の仏法を信解していない証左(しょうさ)なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえないのである」(『広布と人生を語る』第3巻294頁)
と指導してきたのではないか。
 この「血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえない」との言は、表現は違えど、能化文書の内容とまったく同義である。
 にもかかわらず、これを「法主本仏論」だなどと誹謗して平気でいることは、「真の日蓮大聖人の仏法を信解していない証左」どころか、頭破七分の現証というべきであろう。(『慧妙』H14.8.1)(<内証相伝>参照)


 この学会の愚劣な考えは、内証と外用を、悪質な作意をもって混同させていることによる。
 「唯授一人の血脈の当処」とは、宗祖日蓮大聖人から第2祖日興上人に唯授一人の血脈をもって相伝された仏法の一切が在すところであり、それは代々の法主上人にそのまま伝えられている。この「血脈の当処」こそ、歴代法主上人が御本尊を書写される御境界であり、法主上人の御内証と拝すべきなのである。(『大白法』H18.2.1)

●大聖人様が広宣流布の時の大導師日目上人様として、第3代を継いで現われたのが猊座であります(中略)そこが大聖人様のお席である。だから大聖人様は、あの席に常に生れ替っている(第66世日達上人『日達上人全集』2-3-320頁/『大白法』H18.2.1)
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と、法主上人の御内証について御指南あそばされ、その一方で、

●法主が大聖人様の代わりだと、即座にこういうことを言うと、外から非難されますから、よくその点に注意していただきたい(第66世日達上人『日達上人全集』2-5-451頁/『大白法』H18.2.1)
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と、法主上人の外用についての御教示もされている。



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しかし、"法主の内証が御本尊や大聖人と一体不二"などという御書は、御書のどこにも存在しない
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御書に大聖人の仏法の全てが書かれている、と考えていること自体、無知をさらけ出しているという他ない、例えば、大聖人が久遠元初の本仏の再誕であることや、戒壇の大御本尊の存在自体も、御書の面(おもて)には直截的に述べられていない。したがって、血脈の当処についての深義についても、述べられていないことは当然である。(『慧妙』H18.1.16)

なお、御法主上人個人が信仰の対象そのものでないことについて、少々長くなるが、『日蓮正宗要義』の「三宝」の項には次のように述べられている。

 奉安の形式よりいうならば、一体三宝と別体三宝の別が存する。
 一体三宝とは血脈付法の上の大曼荼羅(まんだら)一体を奉安する形式であり、一幅の大曼荼羅に法宝としての人即法の本尊、仏宝としての法即人の本尊、僧宝唯我与我血脈付法日興上人等の具(そな)わる意である。
 この一体について、大曼荼羅の直前に宗祖大聖人の御影を安置し、人と法、法宝と仏宝を分かったのが、総本山御影堂の奉安形式であるが、その意義からは一体に属しよう。
 また明らかに別体としての形式に分けられたのが、総本山客殿の奉安彩式で、中央に大曼荼羅を安置し向かって左に大聖人、右に日興上人の御影を安置して三宝とするのである。
 要するに別体とは、信仰帰敬(きぎょう)の対象として三宝の意義を顕わすために分かつのであり、我々が即身成仏を得る種子法体は、あくまで本門の大漫荼羅にあることを忘れてはならない。故に在家信徒の奉安形式では、本尊広布の時代相を考慮する時、一体三宝式が種々の面から適当と思われる。

(『日蓮正宗要義』初版S53.4.28

 すなわち、御影堂や客殿に御安置の宗祖や2祖上人の御影は、信仰礼拝の対象そのものでなく、信仰礼拝の対象はあくまで大漫荼羅御本尊にあることを述べている。ゆえに、御法主上人個人が御本尊と同等の信仰の対象であるはずがないのである。
 創価学会の教義の誤りを糺(ただ)し、日蓮正宗の信仰の筋目を知らない者に対して、慈悲の心をもって教導された能化各位の文書を、信心をもって拝することなく、逆に血脈誹謗の具に使うなど、仏罰を恐れぬ所行という他ない。(『慧妙』H18.1.16)





【「血脈」とは「信心」のこと?】
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大聖人は「血脈」とは「信心」のことであり、一切衆生に開かれていると仰せである。"法主だから特別"というような特権主義は存在しない(『創価新報』H17.3.16)
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 しかし、『一期弘法付嘱書』には
 「血脈の次第日蓮日興」(御書1675、全集1600頁)
と仰せられているが、「一切衆生に等しく血脈相承を」などとは仰せられていない。
 あくまで、大聖人と日興上人との唯我与我の御境界における別しての血脈、つまり唯授(ゆいじゅ)一人法体の血脈があり、そこを信ずるところに、総じて一切衆生に信心の血脈が流れるのである。
 この総別の二義を無視し、信心の血脈だけを独立して考えることこそ"根無し草"の血脈であり、邪義である。(『慧妙』H17.4.16)(<「大聖人直結」破折>参照)


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日蓮大聖人は「強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」(『生死一大事血脈抄』全集1338頁)と断じられ、信心根本の血脈観を明示された(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
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●信心血脈は付嘱相承の場合問題ではない。(中略)大聖人が仏法──最大深秘の正法と仰せ給ふ秘法、また末法には持ち難しと仰せ給ふ大法を唯信心だけで付嘱相承し給ふと考へるのは迂愚の骨頂ではないか。そういう顛倒の考へ方によって仏法の混乱があり、魔が跋扈するのである。(『日淳上人全集』1444頁)
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信心の血脈のみをもってよしとし、付嘱を疎かにするところに、仏法の混乱がある。(『大白法』H17.11.1)(<生死一大事血脈抄>参照)

◆御本仏日蓮大聖人の御内証そのものであられる南無妙法蓮華経の法体こそ、生死一大事血脈の究極であります。総別の二義でいえば「別して」の立場であります。申すまでもなく、この法体の血脈相承は「身延相承書」に「血脈の次第 日蓮日興」と仰せのごとく、第二祖日興上人にすべて受け継がれ、以後、血脈付法唯授一人の御法主上人が伝持あそばされるところであります。(中略)「総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず」の御金言に照らして、私達は「別して」の法体の血脈相承と「総じて」の信心の血脈を、明確に立て分けて拝していかなければなりません。(池田大作「生死一大事血脈抄」の会長講義改訂版3頁)
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血脈には、「法体の血脈」と「信心の血脈」という総別の二義が厳然と存することは、池田大作自らが言明している。『生死一大事血脈抄』の文をもって信心根本の血脈観を明示された≠ネどというのは、「別して」の法体の血脈相承を無視するものであって、これは大作の「講義」にも背く、汝の偏頗(へんぱ)な痴論(ちろん)である。(『大白法』H17.11.1)


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日興上人は「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(『日興遺誡置文』全集1618頁)と遺誡され、法主の権威を相対化された(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
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●衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧(くじ)くべき事。(『日興遺誡置文』御書1885、全集1618頁)
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との文と対比して拝すべきである。すなわち、仏法の正邪を判定し、状況に応じて衆義を摧くべき立場にあられるのはあくまで「貫首」すなわち御法主上人である。数を頼んで血脈を冒涜する創価学会こそ、「摧くべき衆義」に当たるのである。(『大白法』H17.11.1)(<日興遺誡置文>参照)


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日有上人は「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり」と述べ、「信心の血脈」という血脈の本義を語り残された(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
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●信心といい、血脈といい、法水というところの法水は、どこから出てくるかということがもっとも大切であります。それは、我が日蓮正宗においては日蓮大聖人のご当体たる本門戒壇の大御本尊であります。ゆえに、大聖人の仏法を相伝しなければ、大聖人の仏法の法水は流れないのであります。大聖人は『一代聖教大意』に「此の経は相伝に有らざれば知り難し」と申されております。また日寛上人は「口伝にあらざれば知り難し、師資相承故あるかな」と申されております。師資相承とは師より弟子に相承することであります。(『日達上人全集』2-5-592頁)
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この文に「信」「血脈」「法水」という言葉があるからといって、血脈相伝を無視した「信心の血脈」はあり得ない。「信心の血脈」も、根源は師資相承による唯授一人の血脈相承にあるのである。(『大白法』H17.11.1)





【「法主の所に本尊の体有るべきなり」】
<左京日教師>
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左京日教は若年の日鎮法主の補佐役として活躍した(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
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 室町時代の帰伏僧である左京日教師の行跡に関しては、現存文献も少なく、判然としない点が多々存するのが実状であるが、少なくとも日鎮上人の側近として活動された形跡は見あたらない。
 伝承によれば、日有上人より日鎮上人への御相承は文明14年である。左京日教師は文明13年頃に大石寺に帰伏したが、その直後の文明14年9月に日有上人の御遷化に遇っている。そして翌年には堺・調御寺、さらにその翌年には日向国(ひゅうがのくに)穆(むか)作(さ)においてその存在を確認することができるのである。もし日鎮上人の補佐役・後見人という立場であったとしたら、御登座された直後から早々と大石寺を離れ、その後も諸国を転々とすることなどあるはずがないのである。左京日教師は大石寺門流の僧侶としての立場において、誰しもがそうであるように時の御法主上人を支えられたことは確かであるが、日鎮上人の補佐役として活躍した≠ネどという事実はないのである。汝の不条理な戯論のために、史実を歪めることは許されざる愚行であることを指摘しておく。(『大白法』H17.10.1)


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●当代の法主の所に本尊の体有るべきなり(左京日教師『類聚翰(るいじゅかん)集(しゅう)私(し)』/『富要』第2巻309頁)
●法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ(同)
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>「法主即本尊」「法主即日蓮」の義を説いた文(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
>未熟な青年法主(※第12世日鎮上人)を支えるためか、日教はいくつかの著作の中で、ことのほか法主の権威を力説している。(同)
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これは、「御法主上人の御内証を大聖人と拝する」との大石寺に伝わる宗門古来の伝統教義を述べられたに過ぎないのであり、何も左京日教師が突然言い出した教義ではない。前述のごとく、宗祖大聖人、御開山日興上人、さらには、左京日教師が帰伏した当時の御法主上人であられた日有上人に、同様の御指南が存するではないか。左京日教師の言辞は日有上人より賜った伝統教義を拝した上で、信仰的見地から述べられたものである。(『大白法』H17.10.1)

『類聚翰集私』の当該御文においては、補処(ふしょ)を定めることと、それによる次第相続の意義を前提として述べられており、直ちに御法主上人が即御本尊であるとか、また大聖人であるなどという文意ではない。この文の正意は歴代の御法主上人が、唯授一人の血脈相承によって伝えられた法体を、大聖人・日興上人の御意志に基づき御本尊として御書写あそばされるのであり、御法主上人に伝わる唯授一人血脈相承の法体と、戒壇の大御本尊とが御内証の上に不二の尊体であるとの意義の上から、御法主上人に信順する信仰の筋目を述べられているのである。汝の法主即本尊%凾フ言は勝手な歪曲的解釈に過ぎない。(『大白法』H17.10.1)


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「本尊の体」を、御本尊よりも大石寺法主の内証に求めるならば、明らかに逸脱義である。日教は、「穆(むか)作(さ)抄(しょう)」に「閻浮第一の御本尊も真実は用なり」と述べている。ここでいう「御本尊」が、大聖人の顕された御本尊を指すとすれば、日教の本尊観は法主が体で、御本尊は用≠ニいうことになる。これは、本末転倒の「法主信仰」である。(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
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●信心薄短の者は臨終阿鼻を現ぜん一無間・二無間乃至十百無間疑ひ無しと云云大事なり、所詮は当代教主法主より外は本門の本尊は無シと此の信成就する時、釈迦如来の因行果徳の万行万善・諸波羅蜜の功徳法門が法主の御内証に収まる時・信心成就すると信ず可きなり、釈尊も八十入滅の命に替へて末代の衆生を利益あるべし、寿量品の御定めなれば、高祖聖人も我不愛身命とこそ御修行あれ、信心成就の趣きをば後生善処なれば現世安穏なり、閻浮第一の御本尊も真実なり用なり(『穆作抄』/『富要』第2巻253頁)
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 当文の趣旨は、高祖聖人の我不愛身命の御修行によって三大秘法を御建立あそばされ、その本仏内証の御境智を体となし給うのに対し、衆生化導の為に顕し給う御本尊は用に配するとの体用の法門が基本である。その処より血脈伝承の法体伝授により、本門の本尊といっても唯授一人の血脈相承を所持なされる御法主上人を離れては利益成就はないということを信仰的な筋目の上から述べられたまでである。すなわち衆生に対する実際の信仰教導の意義の上から「用」の言辞を使用されたのである。故になんら逸脱義≠ナも、本末転倒の「法主信仰」≠ナもないのである。
 事実、御法主上人には、戒壇の大御本尊の御内証が唯授一人の血脈相承として受け継がれているのであり、そこに絶対的な体があることは宗門古来の伝統教義である。
 ことに、大聖人真筆の御本尊であっても御法主上人に背反し、相伝の深義に背く他門流の本尊には、義が事の戒壇に当たる功徳はなく、信心の血脈と利益が成就しないのは当然である。左京日教師の記述は表現の相違はあるものの、大石寺の伝統教義を信仰的な立場から示されたものなのである。

◆富士大石寺にそむく謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがない(学会作成『折伏教典』340頁)
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かつては創価学会でも、「※上記◆」と解説し、たとえ大聖人の御真筆であっても大石寺の御法主上人から離れた御本尊には大聖人の心は宿らないと正義を述べていたではないか。異流義になりはてた汝らには今更まともな道理など通じるはずもないが、この解説と先の『穆作抄』の趣旨はほぼ同義なのであり、逸脱義≠ネどの言は汝の迷見迷眼によるものである。(『大白法』H17.10.1)




<日寛上人の"真意">
●仏法を相続して当代の法主の処に本尊の体有る可きなり(第26世日寛上人『当家法則文抜書』=左京日教師の文を引用/『研教』9-740頁)
●法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ(同)
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『当家法則文抜書』は「抜書」であり、殊更に何かを主張した論書ではない(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
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 この『当家御法則文抜書』には、抜粋された要文に続き、「大貳(だいに)云く」(※「大貳」とは日寛上人御自身の阿闍梨号)として私註を加えられ、日寛上人御自身の教学的見解を述べられた箇所も多く拝せられるのである。さらに註の中には、
 「予が末法相応抄の如し」(『研教』9-757頁)
と記されているように、明らかに他人の閲覧を想定された御配慮をされており、これ以外にも随所に同趣旨の御教示をされている。
 同書は日寛上人が御自分の法門研鑽のために要文を抜粋され、御自身の要文集として御所持遊ばされたことはいうまでもないが、さらには日寛上人の御弟子方はもちろんのこと、後世の弟子の教学研鑽に資するために同書を残されたことは明らかである。(『大白法』H17.11.1)


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日寛上人が後世の門人に伝え残そうとされたのは、ひとえに『六巻抄』であった(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
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この『当家御法則文抜書』の文献としての価値を意図的に下げることで、そこに抜書された文言の有する重要な意義をもすべて葬り去ろうという魂胆であろう。同書は当家以外の他門の文献の引用も見られるが、なにより日寛上人が「抜書」として重用されていたものであり、その中には数多くの尊い日寛上人の御教示が存在するのである。よって汝ごときが、同書の文献としての価値全体を備忘録の類≠ネどと軽々しく評価することは、日寛上人に対する不遜(ふそん)極まりない冒涜に他ならない。(『大白法』H17.11.1)


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『六巻抄』に直接示されていない教義は日寛上人の本意ではない(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9=取意)
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『六巻抄』が日寛上人の主要な御著述であることは勿論であるが、一々の御法門に関していえば、『六巻抄』に述べられていないことをもって日寛上人の重要な教学ではないなどと軽々に論ずることは誤りである。数多(あまた)ある日寛上人の御著述に説かれる法義内容のすべてを尊い日寛上人の教学であると拝することが正しい教義研鑽の姿である。(『大白法』H17.11.1)


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>日寛上人は、宗門の〈伝統〉に「法主即本尊」「法主即日蓮」の義があることを承知のうえで、最も大事な『六巻抄』の内容からそれを除外されたのである(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
>『六巻抄』のどこに、歴代法主の内証を「本尊の体」とするような教義があろうか(同)
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●倍(ますます)先師の旧業を継ぎ更に一塵の汚れ有ること無し。而して後、法を日目に付し、日目亦(また)日道に付す、今に至るまで四百余年の間(あいだ)一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月(しんげつ)豈(あに)此に移らざらんや(第26世日寛上人著『文底秘沈抄』)
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 この御教示に明らかなごとく、「血脈の次第日蓮日興」に始まる唯授一人の血脈相承により、御本仏の御魂魄は、日興上人より日目上人、日道上人と次第して、現法主の68世日如上人猊下の御内証へと相伝されている。もちろん、自解仏乗(じげぶつじょう)の御本仏は日蓮大聖人ただお一人に限られるが、その御魂魄を、内用12箇条の唯授一人の血脈相伝により御内証に具えられるのである。
 ゆえに、御歴代上人の御内証に伝えられているのは、御本仏の御魂魄なのであるから、強いて言えば、「法主内証相伝本仏義」になろう(むろん、それは学会の言う"法主本仏論"とは似て非なるものである)。(『慧妙』H23.4.16)
 この御教示を刮目して見よ。これは『当家御法則』の以下の文と同義の御教示であり、除外≠ネどなされていないのである。

●末法の本尊は日蓮聖人にて御坐すなり。然るに日蓮聖人御入滅有て補処を定む、其(そ)の次々々(つぎそのつぎ)に仏法を相属して当代の法主の処に本尊の体有るべきなり、此の法主に値ふは聖人の生れ替りて出世し給ふ故に、生身の聖人に値遇し結縁して師弟相対の題目を声を同く唱へ奉り(『当家御法則』/『研教』9-740頁)


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>じつは、日寛上人は、『類聚翰集私』が誰の作なのか分からず、宗門の教義規則=『当家御法則』の集成として認識され、抜き書きをされた。『類聚翰集私』を日教の作と断定したのは、近代の堀日亨上人であり、江戸時代の宗門人は知る由もなかった(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
>たとえ歴代先師の指南であっても、「法主信仰」につながり、正統教学を混乱させる教えは用いない、との日寛上人の姿勢がうかがい知れよう(同)
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 あたかも日寛上人が御法主上人の御内証に関する御指南をすべて除外≠ウれたかのようにいっている。
 日寛上人は、抜き書きされた『当家御法則』の文が、『類聚翰集私』中にあることを御存知であったかどうかは不明であるが、もし御存知でなかったとしても、この内容は大石寺の伝統教義であると認識されていたのである。(『大白法』H17.11.1)

●代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。(『御本尊七箇之相承』/『聖典』379頁)
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そもそも、御法主上人を信順すべき旨の信条は、歴代先師の指南∴ネ前に大聖人の『御本尊七箇之相承』に御教示が存在するのである。日寛上人は御著述中において、『御本尊七箇之相承』を度々引用なされていることからも明らかなように、当然この「代代の聖人悉く日蓮」との御指南を大聖人の御金言として拝していたのであり、汝の疑難は完全な的外れである。(『大白法』H17.11.1)

●手続(てつぎ)の師匠の所は、三世の諸仏高祖已来代代上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云うなり(左京日教師と同時代の日有上人の『化儀抄』/『聖典』974頁)
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この代々の御法主上人の所に宗祖の御法魂が在すとの御指南は、『当家御法則』の文と同意義である。よって『当家御法則』の文に示された、御法主上人の御内証を「本尊の体」と拝するのは大石寺の伝統教義であり、日寛上人が要文として抜書された意味もここに存するのである。(『大白法』H17.11.1)

●(左京日教師の『類聚翰集私』について)類聚翰集私卜名ケタルカ、即チ宗祖ノ書翰ヲ類聚セシ私集ノ意ナルカ(第59世日亨上人『自然鳴』T4.7・5頁)
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同書は当時大石寺に伝承されていた宗義を集め、それらについて私見を述べたものである。しかもこの『類聚翰集私』には、当時は容易に披見することのできなかった日有上人の『化儀抄』の引用も見られ、左京日教師が大石寺の伝統教義の薫陶を受け、それを自らの解釈として述べられたのが『当家御法則』の文であると考えられるのである。したがって『当家御法則』の文が左京日教師の『類聚翰集私』の文であったとしても、この文を御覧になった日寛上人は大石寺の伝統法門を伝える要文としての意義をお認めになられ、書き抜きされたものと拝する。(『大白法』H17.11.1)

 いずれにせよ「御本尊の体」が唯授一人血脈相承によって当代の御法主上人の御内証に伝承されていることは大石寺に伝わる伝統教義であり、この事実はいかなる邪難があろうとも微動だにしないのである。
 汝の思惑は、単に御歴代の御法主上人の内証を大聖人と拝する教義を否定せんとするところにある。この邪論を正当化するためには、『当家御法則』の文の存在が邪魔になるのであり、汝はこれを無意味なものにするために無理な策を種々に弄しているにすぎない。(『大白法』H17.11.1)


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>日寛上人は、ご自身が相承を受けられた後でも、歴代法主だけは本仏と一体である、などと決して説かれなかった(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
>最晩年に完成された再治本の『六巻抄』に、そのような主張は、どこにもみられない(同)
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●若し内体に約せば実には是れ体一なり。所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり故に一念三千即自受用身と云い、又十界互具方名円仏と云うなり。亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也。(第26世日寛上人『三宝抄』/『歴全』4-392頁)
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 「三宝一体」の意義が説かれている。後にも述べるが、「三宝一体」である故に、日興上人のみならず、歴代の御法主上人の御内証は、御本仏大聖人と一体である。
 この『三宝抄』は、日寛上人が第27世日養上人に血脈相承せられて御隠尊となられた後の享保7年(1722)の御著述である。ゆえに日寛上人は、ご自身が相承を受けられた後でも、歴代法主だけは本仏と一体である、などと決して説かれなかった≠ネどという汝の言が、事実に相違する虚言であることは明らかではないか。

●今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し(第26世日寛上人『文底秘沈抄』)
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 日寛上人は「一器の水を一器に写すが故に師弟体一・三宝一体」(『三宝抄』)であると仰せられているのであるから、「一器の水を一器に移す」(『文底秘沈抄』)御歴代上人をも三宝一体であると仰せられていることは明々白々である。
 日寛上人が『三宝抄』と『文底秘沈抄』に「一器の水」と述べられた文意は、どちらも御本仏大聖人の血脈法水について示されたものである。すなわち御歴代上人が御内証に受け継がれる血脈法水には勝劣・区別はないのであり、その意義において、御歴代上人においても「三宝一体」と拝することが日寛上人の御意なのである。「三宝一体」の義が『六巻抄』に明文として示されていないといっても、この『三宝抄』の御指南と『文底秘沈抄』の御指南は同じ趣旨であり、最晩年に完成された再治本の『六巻抄』に、そのような主張は、どこにもみられない≠ニいう汝の言は誣妄(ふぼう)である。


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>むしろ『当家三衣抄』の最後の所で、日寛上人は、宗門の三宝を論ずるとともに、「行者謹んで次第を超越する勿れ」との誡めの言葉を残されている(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
>これは、「法主即日蓮」の義などに基づく「法主信仰」を、上人が否定されていた証左である(同)
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●南無仏・南無法・南無僧とは、若し当流の意は、(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師。此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云云。(第26世日寛上人『当家三衣抄』)
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汝が引く文の前には、「※上記●」と示されている。したがってこの文は、本宗の信仰において三宝を念ずることを御教示されたものであり、中において、日興上人、日目上人以来の御歴代上人を僧宝として拝すべきことを明確に御指南されるとともに、行者即ち本宗僧俗は、仏法僧の三宝を拝するという「次第」を越えてはならないとの意である。その「次第」を越えたならば、成仏の妨げとなる。汝の引くところの「行者謹んで次第を超越する勿れ」の御指南は、かえって宗祖大聖人以来唯授一人の血脈を承継され、尊信すべき血脈付法の御法主上人を、能所の「次第」を越えて蔑ろにする汝らのごとき邪義を厳しく誡められたものである。

◆唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべきなのであります。(池田大作『聖教新聞』S54.5.4)
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池田大作が「※上記◆」と述べていたように、御法主上人の御内証は大聖人と一体であると拝すべきなのである。

●たしかに本宗信徒の立場からは、歴代法主の内証を大聖人様と拝することが、信仰上、大切でありますが、そこには三宝における内証と外用等の甚深の立て分け、筋道があるのです。(中略)しかし、それと学会が論難する「法主即大聖人」や「法主本仏」などとは、筋道も意義も異なるのであり、そのようなことは全く宗門には存在しておりません。存在していないにもかかわらず、さも存在している如く誣告するのが、創価学会の卑劣なやり方であります。(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』245頁)
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ただし、法主即日蓮∞法主信仰≠ネどと、あたかも御法主上人個人が信仰の対象であるかのように述べる汝の義は、もとより本宗には存在しない。したがって日寛上人が「法主信仰」を∞否定され≠驍アとなど、あり得ないのである。





【「法主は生身の釈迦日蓮」】
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日顕(上人)は平成9年(1997年)8月、本山での坊主の集まりで「法主は生身(しょうしん)の釈迦(しゃか)日蓮であるから、誹謗すると地獄(じごく)に堕(お)ちる」などと述べている(『大白蓮華』H14.8・109頁)
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 しかし、創価学会が日顕上人の発言として取り上げている部分は、平成9年の教師講習会で、法詔寺(ほうしょうじ)日感(にちかん)師が信徒に宛(あ)てた書状を日顕上人が紹介し、読み上げられたものであり、日顕上人御自身の御発言として仰(おお)せられたものではないのです。
 日感師はその書状の中で、
 「大石寺事(こと)は金口(こんく)の相承(そうじょう)と申す事候(そうらい)て、是(こ)の相承を受くる人は学不学によらず、生身の釈迦日蓮と信ずる信の一途(いっと)を以(も)って、末代(まつだい)の衆生に仏種(ぶっしゅ)を植えしむる事にて御座(ござ)候(そうろう)」(『続家中抄』/『聖典』765頁)
と述べています。ここで日感師は、御法主上人の御内証(ないしょう)には、御本仏日蓮大聖人の法脈(ほうみゃく)がそのまま流れており、その御内証を「生身の釈迦日蓮と信ずる」ことが本宗信仰の肝要(かんよう)であると説いているのです。
 この日感師の言葉は、日蓮大聖人の『百六箇抄』の、
 「上首(じょうしゅ)已下(いげ)並びに末弟(まってい)等(ら)異論(いろん)無く尽(じん)未来際(さい)に至(いた)るまで、予(よ)が存日(そんじつ)の如(ごと)く、日興が嫡々(ちゃくちゃく)付法(ふほう)の上人を以て総貫首(そうかんず)と仰(あお)ぐべき者なり」(御書1702、全集869頁)
との御教示や、『御本尊七箇相承』の、
 「代代の聖人(しょうにん)悉(ことごと)く日蓮なりと申す意(こころ)なり」(『富士宗学要集』第1巻32頁)
との御教示にもとづいたものにほかなりません。
 創価学会は、御法主上人の御内証に随順(ずいじゅん)するという本宗の教義信仰を、ありもしない「法主本仏」「法主絶対」にこじつけているのです。
 また、御内証に「生身の釈迦日蓮」の尊(とうと)い命が流れている御法主上人を誹謗する者が、無間地獄(むけんじごく)に堕(お)ちることは当然です。このことを日感師は、
 「若(も)し身の能徳(のうとく)を以(も)って貫首(かんず)と定(さだ)めば学者を信じ非(ひ)学者を謗(ぼう)して仏種を植(う)えざるのみならず、謗法(ほうぼう)の咎出来(とがしゅったい)して無間地獄に入り候わんこと云云」(『聖典』765頁)
と述べているのです。
 この日感師の文言(もんごん)のどこが法義(ほうぎ)的に間違(まちが)っているというのでしょうか。
 日顕上人は、常に日蓮正宗の僧俗に対して、御本仏は日蓮大聖人であり、その御当体(とうたい)にまします本門戒壇(かいだん)の大御本尊への信仰を深めるよう御指南(しなん)あそばされています。
 そもそも、日蓮大聖人の仏法を、代々の御法主上人を経(へ)て継承(けいしょう)されたお立場にあられる日顕上人が、血脈根源(こんげん)の師(し)である日蓮大聖人を差(さ)し置(お)いて、「自分は本仏である」とか「法主は絶対である」などといわれるはずがないではありませんか。
 しかも、このときの講習会において、日顕上人は、
 「私はけっして日顕が、日蓮大聖人様だなんて、一遍(いっぺん)も言ったことはない
と明言されているのです。
 むしろ、池田大作を「永遠(えいえん)の指導者」といって、教祖(きょうそ)に祭(まつ)り上げている創価学会こそ、「池田本仏」「池田絶対」を唱(とな)える邪教(じゃきょう)集団というべきなのです。(『折伏教本』256頁〜)


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日感は、大石寺の有力檀家に日舜への無条件の服従を説き勧める。若年の日舜を軽々しく思ってはならない。どんな僧であっても相承を受けた人は生身の釈迦日蓮である。これが、開山・日興上人の御本意であり、大石寺一門の信徒の肝要なのである≠ネどと述べた手紙を、日感は4人の有力檀家に宛てて送っている。これは、いかなる法主でも無条件に崇拝せよ、と檀家に強要するもので、まさしく「法主信仰」と呼ぶしかない。そもそも日感は、大石寺ではなく要法寺出身の僧である。その日感が、「法主信仰」を日興上人以来の大石寺の(伝統)に仕立て上げてしまったのである(脱落僧・松岡雄茂『大白蓮華』H17.9)
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●背く在家出家共の輩は非法の衆たるべき(『池上相承書』御書1675、全集1600頁)
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大聖人は2祖日興上人に血脈相承を遊ばされるに際し、「※上記●」と日興上人に背く僧俗が大聖人に対し奉る背逆・非法であると厳戒され、

●手続の師匠の所は、三世の諸仏高祖已来代代上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし(『聖典』974頁)
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第9世日有上人は、「※上記●」と、御歴代上人の御身には御本仏大聖人の御内証がもぬけられ、宿られるのであるから血脈付法の「我に信を取るべし」と御指南されている。

 法詔寺日感師は大石寺と要法寺の通用が既に確立された中で出家し、その書状も大石寺と要法寺の通用開始から60年を経て出されたものである。即ち日感師は大石寺の伝統や法義を充分理解し、その上で若年で御登座された日舜上人のお立場を気遣われ、「大石寺は金口の相承と申す事候て、是の相承を受く人は学不学に寄らず生身の釈迦日蓮と信する信の一途を以て末代の衆生に仏種を植えしむる」と大石寺門流の立場から大石寺の教義信条を指導したのであり、汝の日感が、「法主信仰」を日興上人以来の大石寺の(伝統)に仕立て上げ≠スとの言は、事実を無視した言いがかり以外の何ものでもない。
 以上述べた如く、御法主上人への信伏随従は大聖人、日興上人以来の宗是たることは赫々たる事実であり、汝が如何にあれこれ邪智を廻らしても、厳然たる本宗の血脈は絶対に否定できないのである。(『大白法』H17.10.1)





【昔の会長指導】
◆どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、わたしは水谷猊下にお仕えしてきたのと、いささかも変わりはない。新猊下を大聖人としてお仕え申しあげ、広布への大折伏にまっすぐ進んでいくだけである(『戸田城聖全集』第3巻P236)

◆御法主上人猊下に対しては、御法主上人猊下こそ経文に説かれている遣使還告(けんしげんごう)のお立場、すなわち大聖人様と拝してお仕え申し上げていくことでありました。これが唯一の学会精神であります(池田『会長講演集』第4巻P145)
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"唯一"の学会精神であるとまで言っているではないか。御本尊を根本として敬うことと、時の御法主上人を大聖人と拝してお仕え申し上げることは、宗門古来からの不変の信条であり、もともと「学会精神」でもあったのである。(『慧妙』H26.3.1)

◆本宗における厳粛なる法水潟瓶唯授一人の血脈は、法灯連綿と、代々の御法主上人に受け継がれて、今日に至っております。あくまでも、御本仏は、日蓮大聖人様であらせられ、唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべきなのであります。私がごとき者を、かりそめにも、本仏などと、言うことはもちろん、思ったりすることも謗法なのであります(池田大作『大白蓮華』S54.6P16/『慧妙』H23.12.1)

◆唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべきなのであります。(池田大作『聖教新聞』S54.5.4)

◆遣使還告(けんしげんごう)であられる御法主上人猊下は、日蓮大聖人様であります(『会長講演集』第10巻P43/『慧妙』H23.4.16)