(『大白法』H20.12.1)
【日鎮上人の御影堂建立】
総本山第17世日精上人がお書きになった『富土門家中見聞(家中抄)』の「日鎮伝」に、
「大永二壬午年伽藍を建立す、所謂(いわゆる)本堂、御影堂、垂迹堂、諸天堂、惣門等なり(中略)鎮師諸堂を建立する帳之レ有り」
とあるように、大永2(1522)年第12世日鎮上人によって諸堂宇と共に新たに御影堂が建立されています。第14世日主上人の代、天正年間に記された総本山の境内図には、「本堂」の西側に「御影堂」が記されており、この御影堂が日鎮上人によって建立された御影堂と考えられ、現在の二天門(中門)の周辺に建てられていたと伝えられています。
[画像]:総本山第14世日主上人筆録 大石寺境内図 天正年間 総本山大石寺蔵=宗門最古の大石寺境内図。現在の塔中の原形が伺える。本堂の西側に御影堂が記されている
【日精上人代の御影堂建立】
さて、『家中抄』によると第16世日就上人の代にも御影堂が建立されたと示されています。しかし、寛永8(1631)年、大石寺は火災に見舞われ諸堂宇を失い、この時に御影堂も焼失してしまいました。御当職であった日就上人は再建のために尽力されましたが、寛永9年2月に御遷化されたため、その後を承継あそばされた第17世日精上人によって本格的な復興が行われました。
そして、日興上人・日目上人第300回遠忌の年、寛永9(1632)年11月15日、日精上人が願主となり、阿波徳島藩主・蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)公の夫人・敬台院の寄進によって新たに建立されました。これが現在の御影堂です。
この造営には甲州下山(現在の山梨県身延町)の大工・石川与十郎家次が大工棟梁の任に当たり、相当数の人員を要して建設されました。
「大石寺御堂建立諸檀方人足合力之覚」
には、この御影堂建立に際し、大石寺の住所である上条の687人、下条の238人をはじめ、延べ7千213人の人足を動員したことが記されています。
なお、伝承の中には江戸浅草鳥越(現在の東京都台東区)の法詔寺にあった本堂を移築したとも言われています。
また先の大石寺境内図にあるように、日鎮上人代に建立された御影堂の横に本尊堂(本堂)があるように、新たな御影堂は本尊堂と御影堂の要素を併せ持った意義を有するものと拝せられます。御影堂の「棟札」によると、この建物は当初「本門戒旦本堂」との名称で造られており、その後も江戸後期に至るまで、「御影堂」「本堂」「大堂」の呼称がありました。第66世日達上人は、
「御影堂と称する所に日精上人の時代は戒壇の御本尊様を祭り、本堂と称していたわけです。つまり、これまでは本堂と御影堂が並んで建っていたのですが、日精上人の時には御影堂と本堂を一所にして今の大きな御堂を建てたのでしょう。そして戒壇の御本尊様を安置して、その前に御影様を安置せられたのでありましょう」(『大石寺諸堂宇建立と丑寅勤行』20頁)
と御指南されています。
御影堂内陣の御宮殿は造営から3年後の寛永12年7月、井出伝右衛門とその子息・与五右衛門尉が願主となって造立されたものです。
また現在、御影堂に安置されている御本尊様は延宝7(1679)年2月13日、当時御隠尊であった日精上人の御聖意により造立彫刻されました。この御本尊様の下部には日精上人の添書があり、
「深見広信 之を彫刻す。願主□本市左右衛門 江戸下谷常在院(現在の東京都豊島区常在寺)之講衆中敬白」
と記されています。
この御本尊様は宗祖大聖人の御本尊様を模刻した御本尊様で、その際に本門戒壇の大御本尊様は御宝蔵に御遷座されたものと拝されます。
御影堂は、総本山内の最古の建造物です。堂内の彫刻は創建当時そのままであり、江戸時代の代表的建造物として、昭和41年3月22日、内陣の御宮殿と共に静岡県の有形文化財に指定されています。
【日精上人と敬台院】
第17世日精上人は、宗開両祖以来の血脈を継承され、御法主上人として、門下の教化育成、『日蓮聖人年譜』や『富土門家中見聞』といった布教興学のための著述、御影堂をはじめとする諸堂宇の整備建立など、宗門の復興に多大な業績を残されました。中興の祖・第26世日寛上人が日精上人の謦咳(けいがい)に触れて出家得度を志されたことや、第48世日量上人が『続家中抄』に、
「諸堂塔を修理造営し絶を継ぎ廃を興す勲功莫大なり、頗る中興の祖と謂ふべき者か」
とその御功績を称えられていることからも、このことはよく拝されるでしょう。
さて、日精上人が書写された御影室の棟札には、
「大施主 松平阿波守忠鎮公之御母儀 敬台院日詔信女敬白 日精養母也」
と示されています。日精上人は御影堂を寄進した敬台院を「養母」と記しており、これより日精上人と敬台院の親密さを伺うことができます。
この敬台院は徳川家康の長男・信康の娘と古河藩主・小笠原秀政との間に生まれた人で徳川家康、織田信長の曽孫に当たります。家康の養女となって、慶長5(1600)年、9歳の時に蜂須賀至鎮に嫁ぎました。その後、縁あって日精上人に深く帰依され、大石寺御影堂の建立寄進の他に、元和9(1623)年の江戸鳥越・法詔寺建立、寛永14(1637)年の大石寺朱印状下附の実現、寛永15年の総本山二天門の建立、日精上人の公儀年賀における乗輿の免許、寛永15年の大石寺基金700両の寄進、寛永19年の「細草檀林」設立に当たっての支援、正保2(1645)年法詔寺を阿波徳島に移して敬台寺を創立するなど、総本山の復興をはじめとする宗門の興隆のために多大な外護をされました。御影堂の裏手には娘の芳春院の正墓と共に敬台院の2つの供養塔があります。その1つは生前に建てられた逆修塔と呼ばれるもので、その石塔の建立日として御影堂建立の翌年に当たる「寛永十年六月十五日」との日付が刻まれており、その功績を称えて建立されたものと拝されます。
現在の御影堂は、唯授一人の血脈相承をお受けになったお立場より、『日興跡条々事』の条文を堅く護られんとされた日精上人の御意志と、その御化導を助けるべく、赤誠の御供養をもって外護された敬台院との僧俗一致・異体同心のお姿の象徴ともいうべき堂宇なのです。
御影堂の概要
―御影堂大改修工事レポート@―
(『大日蓮』H20.4)
波多野純建築設計室
波多野純
佐藤信芳
北嶋一男
【はじめに】
総本山大石寺御影堂大改修工事は、総本山総合整備事業の一環として行われている工事です。私どもは、大改修工事における解体調査、組み立て再建のための設計および監理という立場で協力をさせていただいております。その立場から、御影堂大改修工事とはどのような工事なのか、また、建築に関する色々な事柄を、何回かに分けて御報告させていただきます。
今回は御影堂大改修工事レポートの初めとして、「御影堂」という建物の概要についてお話しいたします。
1.御影堂の歴史
御影堂は、三門からまっすぐに参道を登った正面に建っている、総本山大石寺の歴史を伝える重要な建物であります。その建物としての歴史を『日蓮正宗富士年表』(富士学林発行)より抜粋しますと、
大永2年(1522) 御影堂・総門等を建立し結構を整う
寛永9年(1632) 敬台院殿日詔、御影堂を寄進
延宝7年(1679) 御影堂本尊(宗祖本尊模刻)造立
元禄13年(1700) 修築の落慶法要が行われる
明和元年(1764) 大香炉の造立
天保11年(1840) 大鈴・青蓮鉢の造立
明治30年(1897) 御影堂営繕事務所を設置
明治35年(1902) 御影堂営繕落慶法要が行われる
昭和31年(1956) 青蓮華鉢を再鋳する
昭和41年(1966) 御影堂・三門、静岡県指定有形文化財になる
昭和46年(1971) 御影堂大修復する
この年表からも、その歴吏はたいへん古いことが解ります。また、建物の周囲を巡らしている縁側の四隅や正・背面の木製の階段-階(きざはし)-にある柱の上に取り付けられている青銅製の金物-擬宝珠(ぎぼし)-には、元禄13年に修築落慶法要が行われたことを裏付ける寄進者の刻銘と年紀「元禄十二己卯歳四月八日」が刻まれています(写真1)。
これらから見ても、御影堂が江戸時代前期における仏教本堂の形式を伝える貴重な建物であることが解ります。
[写真1]:擬宝珠の刻銘
2.建物の概要
平面規模は、御影堂の正面側が間口(桁行)7間-83尺2寸2分(25m22cm)、側面側が奥行き(梁間)7間-76尺5寸(23m20cm)の、ほぼ正方形です(図1)。
屋根の形状は、寄棟(よせむね)屋根の上に切妻(きりづま)屋根を載せた入母屋造(いりもやづくり)と呼ばれる屋根です(図2)。
正面と背面には、その屋根の一部が突き出して雨から参詣者や階(きざはし)を守るための向拝(「ごはい」または「こうはい」と読み、御影堂の場合は2ヵ所ありますので、正面を「表向拝」、背面を「裏向拝」と呼んでいます)が付いています。また、正面の向拝には、中央部分が、凸型に盛り上がっている屋根-唐破風(からはふぅ)-が付き、建物の品格を調えています(写真2・3)。
屋根の葺き方は、銅瓦葺き(どうがわらふき)と言います。これは、石之坊の「常唱堂」の本瓦葺き(ほんがわらふき)のように銅板で見せる葺き方です。建物の高さは、表向拝の礎石、古建築用語では礎盤(そばん)から大棟までが76尺(23m)です。
軒回りは、寺院建築特有の深い軒となっていて、その軒を支え、屋根の荷重を柱に伝える働きをする「組物(くみもの)」と呼ばれる構造となっています。
また、この組物がいくつ重なるかを「手先(てさき)」と言います。御影堂の場合は、壁面から3つせり出しているので「三手先斗栱(みてさきときょう)」に二重支輪(にじゅうしりん)、二重尾垂木(にじゅうおだるき)で二軒(ふたのき)となっています(図3)。軒の出は、7尺3寸(2m20cm)です。
建物周囲には、縁側を巡らし、その先端に高欄(手摺り)を載せています。また、表向拝および裏向拝には、木製の階段-階(きざはし)-が取り付けられています。
出入り口は、正面の5つの柱間、東・西面の4つの柱間、背面の中央には、扉のデザインが格子状で丁番によって折り畳められる両折桟唐戸(もろおれさんからど)が建て込まれています。また、正面と東・西面の窓には五角形の細長い板の入った連子格子(れんじこうし)が建て込まれています(写真4)。
内部は、手前に「外陣」(げじん)、中央に「内陣」(ないじん)、その両側に「脇陣」(わきじん)、後ろに「後陣」(こうじん)という構成になっています。また、内陣の奥側には4つの柱-四天柱(してんばしら)-に囲まれた中に須弥壇があり、その上には厨子(宮殿)が置かれた「内々陣」(ないないじん)となっています(写真5)。
天井は、外陣と東・西脇陣が化粧の垂木(たるき)を並べた「化粧軒裏」、内陣と内々陣が、棹縁(さおぶち)を格子状にし、天蓋(てんがい)部分や厨子上部をさらに一段上げた「折上げ格天井(おりあげごうてんじょう)」となっています(写真6)。
天井の高さは、内陣部分で床から20尺(6m)、柱の太さは、直径1尺4寸6分〜2尺(44.2〜61p)です。
[図1]:御影堂平面図
[図2]:屋根の模式図
[写真2]:御影堂正面
[写真3]:表向拝の唐破風
[図3]:御影堂の軒
[写真4]:連子格子と桟唐戸
[写真5]:内々陣
[写真6]:内陣の折上げ格天井
【おわりに】
今回は、連載の最初ということなので、御影堂の概要について簡単に御報告いたしました。次号では、年表にも記載されている御影堂の過去の修理状況について、大改修工事前に建物の状況を把握するために行った事前調査により建物から判明した、当時の修理内容と現在の破損状況について御報告いたします。
<大改修工事進捗状況@>
御影堂の大改修工事は、平成18年2月より建物全体を覆い被(かぶ)す「素屋根(すやね)」の建設から始まり、「素屋根」は同19年12月に完成しました。この「素屋根」は、解体工事によって建物本体の屋根が取り外されてしまうので、建物内部に雨水が入らないようにするために設けられるものです。その後、同20年1月から本格的に建物本体の解体工事が始まりました。
現在、屋根に葺かれた銅板がほとんど取り外され、大鬼板や隅(すみ)鬼、降(くだ)り鬼の降し、外周部の腰長押と腰壁板および縁の高欄部材の取り外しが終わりました。
そのほかに各建具が取り外され、畳の3分の2も撤去しました。また、天蓋と厨子(宮殿)は、新たに建設した保管倉庫へ移設しました。
今後も引き続き、調査・実測や番付札の取り付け、屋根部材の大棟、隅棟、降り棟の箱棟、瓦棒や野地板の取り外し、床組部材の床板・根太・大引の取り外し、内部造作部材の内法長押・鴨居などの取り外し等の工事を行う予定です。
[画像]:素屋根の建設
[画像]:屋根銅板取り外し完了
[画像]:高欄部材の取り外し
当号より御影堂大改修工事レポートを連載するに当たり、執筆者である波多野純氏の経歴について紹介いたします。
大日蓮編集室
波多野純(はたのじゅん)
日本工業大学教授 工学博士
一級建築士第95421号
略歴
昭和21年(1946) 神奈川県に生まれる
昭和52年(1977) 日本工業大学工学部講師となる
昭和53年(1978) 波多野純建築設計室を設立
昭和61年(1986) 日本工業大学工学部助教授となる
平成3年(1991) 日本工業大学工学部教授となる
主な作品と受賞
昭和58年(1983) 江戸橋広小路復原模型(千葉県・国立歴史民俗博物館)
平成2年(1990) 国史跡足利学校復原(栃木県)
平成5年(1993) 日本橋原寸復原、両国橋西詰復原模型(東京都・江戸東京博物館)
平成10年(1998) 「江戸城U(侍屋敷)」で、建築史学会賞
同年 ネパールの仏教僧院イ・バハ・バヒの保存修復で、日本建築学会賞、アルカシア賞
平成11年(1999) 仙台芭蕉の辻復原模型(宮城県・東北歴史博物館)
平成12年(2000) 国史跡桜町陣屋跡建物解体修理工事(栃木県)
同年 国史跡出島オランダ商館跡建造物復原(長崎県)
平成16年(2004) 県史跡佐賀城本丸建物復原(佐賀県)
平成17年(2005) 日本工業大学神田キャンパス(東京都)
主な著作
「復原・江戸の町」
「江戸名所図屏風の世界」(共著)
「The Roya1 Bui1dings & Buddhist Monastries of Nepa1」(共著)など