創価学会破折
「小樽問答」


「小樽問答」でジレンマに陥った改訂版/『慧妙』H25.11.1ほか

「小樽問答」にまつわる正宗誹謗を破す/『慧妙』H22.3.16

55年目に検証する「小樽問答」の真実!/『慧妙』H22.3.1

「宗門は小樽問答から逃避」!?/『慧妙』H17.6.1




「小樽問答」にまつわる正宗誹謗を破す

―「宗門が学会に助け求め敵前逃亡」だって!?―
―日蓮正宗の破邪顕正の歴史は赫々!―
―戸田会長も"宗門から学ベ"と督励―

(『慧妙』H22.3.16)

 創価学会が"学会の正義を社会に証明"したとする小樽問答―。
 しかしその実態は、真の法論とも呼び難(がた)い、恥ずべき内容を含んでいたことを前号で検証した。
 しかるに池田大作は、この小樽問答を今日の宗門誹謗(ひぼう)に利用して、
 「本来なら、日蓮正宗の宗門自らが、日興上人の仇(あだ)を討つために、勇んで戦いの先陣を切るべきである。
 ところが、宗門には、戦う気概(きがい)など微塵(みじん)もなかった。それどころか、戸田先生を学会本部に訪ね、平身低頭、助けを求めてきたのだ。
 情けない『敵前逃亡』であった
」(「随筆人間世紀の光」=『聖教新聞』平成17年3月22日付)
などと言い放ち、学会メディアもこれに追従している。
 だが、池田学会にとってはまことに気の毒なことだが、日蓮宗各派の邪義はすでに、日蓮正宗によって明治期にはほぼ破折され尽くしていたのであり、日蓮正宗が創価学会に助けを求める必要など、微塵もなかったのである。それどころか、日蓮正宗によってなされた破折を、学会が後から学んで、小樽問答のバックボーンとしていたことが明らかである。
 恥知らずな学会の宣伝を破す。


【他門流を悉く破した日蓮正宗】
―学会はその教義を用いただけ―
 大石寺門流(日蓮正宗)と他門流との間の法論は、枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がない。特に江戸時代末期から明治期にかけては、全国各地で頻繁に法論が行なわれたが、中でも代表的なものは、江戸時代末期の「砂村問答」、明治に入っての「両山(霑志)問答」、それに「横浜問答」であろう。
 「砂村問答」とは、江戸・目黒在住の大石寺信徒、永瀬清十郎と、本迹一致派(身延派)の複数の強信者との間で、数回にわたって行なわれた問答の総称。
 一連の問答では
 「本迹の勝劣
御魂魄(こんぱく)の身延不在
造像の誤り
本尊問答抄の正意
大聖人正意の本尊
大聖人正意の法衣
一部読誦の当否
日興上人への相承
人法一箇の深義
身延貫首の念仏推奨
身延一山謗法の現証」
等について論議がなされたが、それらは逐一、永瀬清十郎が完膚(かんぷ)無きまでに破折した。
 「両山(霑志)問答」とは、総本山第52世・日霑上人と、北山本門寺第34代住職・玉野日志との間で書面をもって交わされた問答のこと。
 この問答で日霑上人は、
 「本門寺寺号の所以『日興跡条々事』への疑義
本門戒壇の大御本尊への疑義
大聖人御遺骨への疑難」
などについて、日志を徹底的に論破・破折された。
 「横浜問答」とは、明治15年(1882年)に、横浜の富士派(大石寺)本門講と、身延一致派の流れを汲(く)む蓮華会(会長・田中巴之助=後に「国柱会」を設立した田中智学)との間で行なわれた、書面をもっての教義論争。
 当初は、
 「本尊論
下種僧宝論
修行論」
についての本門講からの問いかけで始まった論争は、やがて
 「本仏論
本尊論
仏宝論」
に絞られていった。
 論理明快なる本門講側の答弁書に対して、蓮華会側の弁駁(べんばく)書の内容は次第に支離滅裂となり、結局、本門講の6回目の質問に対して、蓮華会はついに弁駁書を返せなかった。
 そのため本門講は、約定違反を明記した処断書を蓮華会側に送り、問答の終局を宣言。
 これに対し、蓮華会会長の田中はにわかに行方をくらましてしまい、問答は本門講の勝利に終わったのである。
 このほか、明治8年(1875年)には、大阪蓮華寺講頭・森村平治等が要法寺末・蓮興寺と^また同年には、堺・本伝寺本立講が日蓮宗一致門流・妙見朋友講と、明治9年(1876年)には、京都住本寺信徒・加藤廉三が日蓮宗妙法寺・日庸と、明治16年(1883年)には、大阪蓮華寺信徒・荒木清勇が法華宗八品派と、(荒木は、明治18年〈1885年〉にも、一致派・畠山弥兵衛と)、明治20年(1887年)には、久留米霑妙寺・佐野広謙尼(妙寿日成尼)が身延派・頂妙寺の僧と、明治23年(1890年)には、御隠尊第53世日盛上人が身延派・清水梁山と、明治26年(1893年)には、京都住本寺信徒・加藤道栄が要法寺塔中真如院・矢田志玄と、それぞれ法義論争を行ない、相手を論破している。
 さらには、こうした実際の法論だけでなく、他門流各派の主張を整理し、これに適切な破折を加えた破折書も出版されている。すなわち、明治30年に発行された『宗内通俗問答大意』である(現在、暁鐘編集室より『現代語訳・宗内通俗問答大意』として発刊)。
 その著者は、富士本智境尊師(広布院日奘贈上人)。師は、
 「(明治10年、20歳の時)浄土宗と戦える久代問答には30人を帰伏せしめ、翌11年には身延派妙法寺日庸と法論して、同寺檀徒総代を合む10人あまりを帰正せしむ。また念仏の本田久助と丹波篠山にて法論を戦わす」(『妙光寺史』)
等々、若年より折伏弘教に尽力された方であるが、信徒より「自利利他のために宗内(※日蓮門流内全般の意)の法義邪正易解の冊子を得て、入門得道の階梯(かいてい)となさん」との要請を受け、同書を著わしたもの。
 同書は、一致派はもとより、勝劣派の各門流(日隆門流・日什門流・日陣門流・日真門流)の邪義も網羅(もうら)して、それを
 「本迹一致の所立を論ず
観心一致の所立を論ず
八品派の所立を論ず
八品派三途不成の邪義を論ず
一品二半の所立を論ず
寿量一品の所立を論ず
法華経一部の読不を論ず。併せて時刻相応の宗祖正意の読誦を弁ず
正助二行の要否を論ず
造像の謗法を論ず。併せて末法適時宗祖正意の本尊を弁ず
身延山謗法を論ず。併せて日興上人身延離山の原因を弁ず
師資相承を論ず
内証仏法血脈相承を論ず
経巻相承を論ず
血脈相承の有無を論ず
日朗譲状の妄誕を論ず
本尊書写の正否を論ず
黒衣の謗法を論ず。併せて宗祖正意の法服を弁ず
録内録外の用否を論ず
菩薩号の不可を論ず」
の19章に分け、それぞれ問答形式で破折したもの。平易な文章で、初信の者にも解りやすい一書である。
 また、後年になって聞かれるようになった「佐渡始顕の本尊」と本門戒壇の大御本尊との優劣論議も、「小樽問答」以前に、日淳上人が著書『日蓮大聖人の教義』の中で破折されているなど、小樽問答において、身延側が主張した邪義は、そのほとんどがすでに日蓮正宗によって破折済みで、学会もこれらを学んで身延破折にあたったことが明らかである。
 したがって、日蓮正宗にとって「敵前逃亡」しなければならぬ理由など、1つとしてなかった、と言っているのである。


【学会が『宗内通俗問答大意』を再刊】
―戸田会長も「きわめて有意義な書」と―
 さて、「小樽問答」から2年後の昭和32年、創価学会は、すでに絶版となっていた『宗内通俗問答大意』(前出)を再版した。
 しかして、創価学会2代会長・戸田城聖はその「再版の序」に
 「明治30年に発刊された『宗内通俗問答大意』をここに再版し発行することになった。
 日蓮宗と称する各派の多い中で、7百年にわたり真に正法正義を伝承してきている正統嫡流(ちゃくりゅう)は、独りわが日蓮正宗大石寺なることは、今さら問答・論議の余地のないところである。しかるにわが創価学会が広宣流布の途上における大闘争を展開しつつある今日、明治の初年からどのような論争が行なわれつつあったかを知るのもまた有意義であり、さらに本書は宗義の奥底を各方面にわたって問答の形で詳述している。日蓮正宗の教学の大綱を知る上にもきわめて有意義であると信ずる。
 よって教学部長小平芳平君に命じて、若干の註釈を加え、漢文体のところはすべて述べ書きにして、再版することにした。教学部員を始め会員諸氏が本書を手にして、正宗教学の大綱を把握(はあく)されるよう願うものである」
と記している。
 つまり戸田城聖は、「小樽問答」について、"学会の正義を社会に証明"した、などと慢心したわけではなく、むしろ、日蓮正宗が行なってきたこれまでの問答をいっそう謙虚(けんきょ)に学ぶ必要性を痛感し、同書の再版を命じ、会員に対し、同書をもって研鑽(けんさん)に励むよう督励(とくれい)しているのである。
 その「師」の心を忘れたのか、日蓮正宗が「敵前逃亡した」などと嘯(うそぶ)き、あたかも学会の独自の教学力で身延を破折したかのごとく喧伝(けんでん)する池田大作は、恥知らずの大悪人である。


▲『宗内通俗問答大意』(創価学会発行のものと、暁鐘編集室発行の『現代語訳』)





55年目に検証する「小樽問答」の真実!

―「宗門が逃げた」とは見当違いの悪口―
―真の法論とは呼び難い恥ずべき実態―
―「小樽問答」はまさに学会の独善的体質を証明―

(『慧妙』H22.3.1)

 3月11日は、昭和30年、北海道・小樽において、創価学会と日蓮宗との間で論争が交わされた日。創価学会では、これを「小樽問答」と称し、この論争によって"学会の正義を社会に証明"した(?)、としている。
 また、この論争に関して創価学会は近年、"宗門が法論から逃避したため、代わりに創価学会が受けて立った"などと喧伝(けんでん)している。
 だが、当時の資料を詳細に検討すれば、これらの主張がとんでもないマヤカシであることがハッキリと浮かび上がる。
 本年は、「小樽問答」が行なわれて55年という節目の年。そこで本紙は改めて、「小樽問答」とはいったい何であったのかを、当時の音声資料や学会の出版物に基づき、綿密に検証する。


【これで「学会の正義を証明」!?】
―呆れるばかりの権謀術数の数々―
 昭和30年3月11日に、創価学会と身延日蓮宗との間で行なわれた「小樽問答」--。
 創価学会では、この問答によって学会の正義を社会に証明した、と、盛んに喧伝するが、音声資料や出版物を調べれば調べるほど、浮かび上がってくるのは、うす汚ない権謀術数(けんぼうじゅっすう)の数々と、学会の不正直な姿ばかり。以下にそれを羅列(られつ)する。
 まず初めは、入場者数。そもそもこの問答、当初の取り決めでは、入場者数は学会側・身延側とも同数とし、会場内も、演台に向かって右半分が学会側、左半分が身延側と決められていた。
 ところが学会側はこれを無視。学会側の席を埋め尽くしただけでは足りずに、身延側から抗議があったにも拘(かか)わらず、身延側の後ろ半分も学会員で占拠してしまったのである。
 その結果、入場者数は、学会側の約750名に対し、身延側は約300名と、著しく不均衡(ふきんこう)な数字となり、身延側に精神的な圧迫を加えることに成功した。
 そして、いざ討論となると、学会側の司会役を務めた池田大作が、事前の取り決めの甘さにもつけ込み、司会の立場を越えた行為を繰り返した。これは当時の音声記録に明らかだ。
 池田は、身延側の登壇者が言葉に詰まったかと見るや、間髪(かんぱつ)入れずに「講師の方はどんどんお話しになってください」「講師の方は続行してください」「あと1分30秒です」「あと1分」「あと30秒」と、登壇者をせかして揺さぶる。
 さらには、身延側登壇者の発言を半ば強引に中断させる、学会側登壇者の説明不足に対する場内質問者の不満の弁を強引に押さえ込む、といったことも行なった。
 また、採決についての取り決めが曖昧(あいまい)だったことにつけ込み、身延側司会者の抗議をよそに、「身延派の先生が文証を出した、と思った方は立ってください」「この問題に対して、長谷川先生(身延側講師)の質問に対して小平先生が答えていないという方はお立ちください」と、最初から数の少ない身延側を相手に多数決の形を取って、身延側の敗北を脚色し、最後には、これまた身延側司会者の抗議をよそに、学会側に身延の管長への人身攻撃を行なわせた上で、勝手な勝利宣言を行なっているのだ。
 そもそも中立であるべき司会役が、これほど一方的な仕切りをして、よいはずがあるまい。
 だが、池田は、学会側がしきりに飛ばすヤジで場内が騒然となっていることを背景に、身延側を押し切ってしまったのである。
 音声資料の最後は「万歳」の声と学会歌の高唱で終わっているが、これが"学会の正義を社会に証明"した姿だとすれば、とんだ"正義"があったものだ。
 これはむしろ、学会の独善的で横暴な体質を、歴史上に証明した姿、というべきだろう。


【"日蓮正宗あってこそ"の学会】
―論争の不備を日達上人が補足―
 さてここで、「小樽問答」の発端と、その経緯を見てみる。
 「小樽問答」は、創価学会員・谷紀恵子の折伏した竹森某が脱会し、日蓮宗に帰伏した問題に絡んで、谷ら学会婦人部3人と、日蓮宗・妙龍寺佳職ら2人との間で論争が起き、その際、3月に御法主上人が北海道に御親教されることを聞き及んでいた谷が、相手の誘いに乗る形で"御法主上人御一行が来道されるので、その際、日蓮宗と日蓮正宗との間で法論を行ない、雌雄(しゆう)を決すべし"と応じたことに端を発する。そしてこの事実は、創価学会本部と宗務院に伝達された。
 これを受けて3月4日、創価学会会長の戸田城聖と、宗務院の細井庶務部長・早瀬教学部長との間での話し合いがもたれ、戸田はその場で、学会員がそのきっかけを作ったことでもあり、また、法義論争に対する絶対的な自信から、猊下の御親教で多忙を極める御宗門のお手を煩(わずら)わせるまでもない、と、法論は一切、創価学会で引き受けることを申し出た。
 すなわち、戸田城聖が『小樽問答誌』に
 「当日は日蓮正宗法主水谷日昇上人が北海道御親教の途路、小樽へ立ち寄られる日である。両尊師の御心配も当然のことである。そこで私は事重大でもあるし、かつはまた信仰も哲理もない似非(エセ)日蓮宗身延山が法論をしかけるのは片腹痛いと思った。そこで即座にこの法論は私がお引き受けいたしますから心おきなく法主上人のお供をしていただきたいと申し上げた」
と書いているように、である。
 ところが創価学会では、近年これを、宗門が、御法主上人御一行の小樽入りの日程を、11日から10日に変更したことを奇貨として「法論から逃げた」「早瀬(教学部長)が戸田先生のもとを訪れ"助けてください"と泣きついた」等と喧伝している。
 だが、宗門側には、身延との法論自体を逃避せねばならぬ理由など1つもない。何故ならば、身延各派との法論は過去に何度も行なわれており、彼らの邪義の悉(ことごと)くが、すでに日蓮正宗によって破折され尽くしていたからである。
 それに、そもそも創価学会が「小樽問答」の中で主張した教義的内容は、全て、日蓮正宗の教義に依(よ)ったものである。与えて言っても日蓮正宗の「代弁者」に過ぎない創価学会に、恩着せがましく言われる筋合いは、毛頭ないのである。
 それより何より、当日、司会として問答を仕切った池田大作自身が、再版された『小樽問答誌』の「序」において
 「とくに奇しくも、日達上人(当時、庶務部長)が、この小樽問答に臨(のぞ)まれておられたのである。しかも質問者の1人として、学会と一体となり闘魂あふれるお姿で身延側講師を徹底的に追及されたのであった。私は学会側司会者として、その時、指名させていただいたのであるが、まことに勇気百倍の思いであり、永遠に忘れえぬ感激の一瞬であったことを申さずにはいられない」
と述べていることからも、日蓮正宗という後ろ盾(だて)があってこその創価学会だったことが窺(うかが)い知れるではないか。
 しかして細井庶務部長(後の日達上人)は、『小樽問答誌』に掲載された「小樽問答見聞記」と題した一文の中で、「小樽問答」に立ち会うことになった経緯を、次のように語っておられる。
 「私は法主日昇上人・北海道御親教の随行として札幌の日正寺にいたとき、小樽公会堂で、わが創価学会と身延日蓮宗の公開問答が行なわれることを知って、暇(ひま)を得て、八木、中村両師と数尺の積雪の中を歩いて、小樽公会堂に聴衆のひとりとして列席して、問答のありさまを親しく見聞することができた。」
 すなわち細井庶務部長は、日昇上人から「暇」すなわち許可をいただいて、問答の現場に出向いたわけであり、言い換えるなら、いざという時には創価学会に助太刀できるよう、日昇上人の御意のもとに参加した形だったわけである。
 そして、細井庶務部長は実際に、身延側講師に対する質問という形で創価学会に加勢したのだ。
 なお、細井庶務部長は同文の中で、創価学会側講師の弁論に補足説明を加えておられる。
 ことに、身延側講師が『御本尊七箇相承』の記述を引用し、"「仏滅後二千二百三十余年」と書け、とあるのに、戒壇の御本尊には「仏滅後二千二百二十余年」とあるからおかしい"と主張したことに対し、学会側講師が何ら反論しなかったことにつき、
 「本尊七箇の相承は弘安5年で仏滅後二千二百三十余年(大聖人の御計算で弘安4年が仏滅後二千二百三十年にあたる)となるから、以後の本尊は三十余年と書けとあっても、戒壇大御本尊は弘安2年であるから二十余年とおしたためになってあって正しいではないか」
と、簡便かつ理路整然と破折されているのである。
 つまり、学会側講師がなした弁論のみでは全く不足で、細井庶務部長、すなわち日蓮正宗から見れば、「小樽問答」を記録として残すからには、反論の余地なきよう、きちっと補足しておく必要があった、ということ。要は、その場の勢いでは勝ったものの、冷静な視点で点検すれば、創価学会の主張だけでは完全ではなかった、ということだ。
 日蓮正宗の「代弁者」たる創価学会は、姑息(こそく)な策略によって作り上げた場の空気だけで「完全勝利」を主張してきたものの、心静かに調べてみれば、十分な代弁すらできていなかった--以上が「小樽問答」の実態である。
 にも拘わらず、「小樽問答」で「学会の正義を社会に証明」したと言い、あろうことか日蓮正宗を「法論から逃げた」「学会に泣きついた」と謗(そし)る創価学会の不正直さには、ホトホト呆(あき)れ返るしかない。
 学会員諸氏よ、あなた方はまだ、こんな創価学会を信じきっていくのか!?


▲創価学会が発行した『小樽問答誌』(写真は再版本)。法論の大勝利を謳うが、よくよく検証すれば、それは学会流の権謀術数で勝ち取ったものだった





「宗門は小樽問答から逃避」!?

―史実を全く改竄(かいざん)した池田―
(『慧妙』H17.6.1)

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 (小樽問答の際)宗門には、戦う気概など微塵もなかった。それどころか、戸田先生を学会本部に訪ね、平身低頭、助けを求めてきたのだ。
 情けない「敵前逃亡」であった。
 折伏の大将軍たる先生は、瞬時に決断された。
 「この法論は、私が引き受ける!」
 小樽問答――それは「正法正義の日興上人の門流」と、「大聖人に師敵対してきた五老僧の末流」との対決であった。(中略)
 愚劣な日顕(上人)一派は、この大聖人、日興上人に直結する創価学会に敵対した。まさに、民衆救済の使命を捨てた「五老僧の末流」でもあることを、自ら証明していったのである。
(「随筆・人間世紀の光」『聖教新聞』H17.3.22)
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 宗門が「小樽問答」から逃げた、と宣(のたま)う池田大作――。しかし、その池田が書いた、会内で"現代の御書"とまで称される『人間革命』(第9巻)には、
 「法論は(※創価学会の)小樽班の責任ですでに誓約されていることがわかり、(中略)戸田は両尊師(※細井庶務部長・早瀬教学部長=いずれも当時)に、法論は戸田が引き受けます。心置きなく猊下の(※北海道御親教の)お供をしていただきたいと、即座に申し上げた」
とある。すなわち戸田会長は、"創価学会が受けた法論である以上、お山を煩(わずら)わすまでもなく、創価学会で受けて立つ"という、当然至極の決断をしただけのこと。
 それでも、細井庶務部長(後の日達上人)は、法論のことを心配されて、わざわざ法論会場の小樽公会堂に足を運ばれている。そしてそのことも、『人間革命』(第9巻)に、
 「右側(※学会側)の聴衆のなかほどに、袴をつけた和服姿の細井尊師がいた。この日一般聴衆にまじって、2人の尊師を引き連れて来場されていたのである」
と明記されているのだ。
 しかも池田は、この法論の顛末(てんまつ)を記した『小樽問答誌』において、
 「日達上人が、この小樽問答に臨(のぞ)まれておられたのである。しかも質問者のひとりとして学会と一体となり闘魂(とうこん)あふれるお姿で身延側講師を徹底的に追及されたのであった。私は学会側司会者として、その時、指名させていただいたのであるが、まことに勇気百倍の思いであり、永遠に忘れえぬ感激の一瞬であったことを申さずにはいられない」
と述べていたのである。
 これら従前の記述と、このたびの『聖教』所載の記述を比べてみると、まったく天と地ほどの自語相違を生じていることがわかろう。
 池田大作が、何の良心の呵責(かしゃく)もなしに、これをなしたとすれば、池田は『ジキル博士とハイド氏』のような二重人格者か、重度の精神分裂病、さもなくば老人性痴呆(ちほう)を発症しているとしか思えない。"迷医"高山直子センセーの診断を受けた方がよいのではないか!?