創価学会破折
52年路線
▲自らの非を認めたこともあった池田大作(昭和54年4月24日の会長辞任記者会見で)
※懺悔(さんげ)する 裏で瞋恚の 二枚舌
※御仏(みほとけ)に 誓いしことも 独立の 時間稼ぎの 猿芝居
▲第1次教義逸脱について謝罪した池田大作(昭和54年4月24日・会長辞任の記者会見)(『大白法』H16.2.1)=この謝罪は何だったのか。後の池田発言等をみれば、この謝罪は単なるポーズであり、内心は宗門に対する憎悪と復讐心で満ちていたことが分かる。↓
◆
50周年、敗北の最中だ。裏切られ、たたかれ、私は会長を辞めさせられ、ね。もう宗門から散々やられ(池田大作・H2.11.16/『大日蓮』号外H3.1.25)
◆
十年前は堂々と出来なかった。一言もいえなかった。それで失敗しましたんで、今度は堂々とやっている(森田理事長・H3.3.18・杉並ビクトリー勤行会)
破門の経緯(「11.16」以前)
【第1次教義逸脱問題(52年路線)】
1.「7つの鐘」構想と広布第2章
戸田会長逝去直後の総会で、当時参謀室長だった池田大作は「広宣流布をめざして」という題名のもと、過去から未来にかけての創価学会の道筋を、7年ごと、7つの段階に分けて意義付ける「7つの鐘」構想をぶちあげた。牧口、戸田時代の歴史を第1から第4の鐘とした上で、昭和40年までを第5の鐘、同47年までを第6の鐘の時代とし、昭和54年に7つの鐘を打ち鳴らし、広宣流布を実現すると予言した。
◆日蓮正宗は第1章をここに終わり、本日より第2章に入ったわけであります。あくまでも、民衆のために-。(池田大作・正本堂完工式『聖教新聞』S47.10.2)
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昭和54年までに広宣流布を達成すると予言していた池田大作としては、何としても正本堂=御遺命の戒壇、という意義づけがしたかったのである。そして、戒壇建立以降は、折伏を表に出さずに、文化運動を中心にして活動(広布第2章)しようとしたのであろう。
●一昨年(昭和47年)の秋くらいから、去年を通じ今年(昭和49年)の春にかけて、学会の宗門に対する態度と申しますか、いろいろ僧侶に対して批判的であり、また、教義上においても、我々から見て逸脱していることが多々あるように思われます。
それは世間の友好のため、広宣流布のため、という目標によってそうしておると聞きますけれども、そのままにしておいたんでは、それは大問題になりはしないか。終いにおいて取り返しのつかないことになりはしないか。(第66世日達上人S49.7.27)
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このお言葉から拝せられるように、正本堂建立以降に池田が推し進めた路線は、創価学会を主とし日蓮正宗を従とする本末転倒の関係の構築であり、さらに、日蓮正宗を排除した独立路線の確立であった。それが、池田が唱えた「第2章」の意味だったのである。
<1>広宣流布達成への執着
◆私が御法主上人猊下様、大聖人様に、不開門を開いて、このように広宣流布致しましたと、猊下をお通し申して、一閻浮提総与の大御本尊様に報告することが、究極の広宣流布の暁の、その意義なのであります(『聖教新聞』昭和40年7月26日)
<2>戒壇建立への執着
◆国立戒壇の建立は、日蓮正宗の願望であり、また会長先生の、創価学会の目的でございます(『聖教新聞』昭和33年12月12日)
◆大聖人の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所とも言うべきどうしても通らなければならないのが、創価学会の選挙なのでございます(『聖教新聞』昭和34年5月8日)
昭和40年から47年までは、「正本堂建立」と、「不開門を開くまで!!」をスローガンにして、「広宣流布・王仏冥合の実現」と、その時に備えての「総本山および宗門の整備拡充」を大義名分とした。
そして、自らの"天下盗り"の野望を、「広宣流布・王仏冥合達成」という宗教上の目的にスリ替えてカムフラージュし、350億円を集めて行った正本堂建立と百ヵ寺建立によって、自分が、いかにも献身的に"日蓮正宗の外護の任"に当たっているかを誇大に宣伝した。(『慧妙』H16.2.16)
2.池田本仏論
・池田大作は、"大聖人御遺命の戒壇を池田が建立した、池田こそは三大秘法完結のために出現した御本仏である"として、自らの"本仏化"をはかる演出と売名をはかったのである。(『慧妙』H16.2.16)
◆創価仏法の原点は、いうまでもなく戸田前会長の悟達にあります(『てい談法華経の展開』)
◆戸田城聖への帰命(『人間革命』第3巻)
◆妙法の世界は感応妙の世界なんだよ~信心の究極は感応妙だ~学会員のあの人達の一念が私にはよくわかるんです。(中略)感応妙だよ(幹部向け出版物『前進』昭和43年11月)
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「感応妙」とは、御本仏と衆生の感応が深妙であることを明かした語である。池田大作は、この「感応妙」を乱発して、自分と感応する会員だけに福運がつくと説いた。
◆皆さん方に題目を送ります。皆さん方もしっかり題目をあげてほしい。送信機がいくら立派でも、受信機が壊れていてはだめだ(『前進』昭和44年10月)
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唱題の対境であるべき御本尊は、池田大作にとって彼と会員との仲立ちに過ぎないのである。つまり池田大作が発した題目を会員が受けてそれに感応するというのならば、御本尊はすでにいらないことになる。
◆私を離れて、いくら戦ってもダメだ。私と境智冥合していなければ、異体同心とはいえない(『前進』昭和40年7月)
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これでは、池田大作は完全に御本尊に成り代わっている。
◆一つの和合僧としての団体をですね。それ自身が生命体として、もう「創価学会」という一つの団体の標示になったわけですから「創価学会仏」というふうにいわれるであろうと、こういう意味なのです。ですから、威音王仏の眷属は何十万人、何百万人、何億万人あったと考えられるのです。「威音王仏会」という会であったかもしれないですね。(中略)創価学会仏というひとつの分子ともいえるし、それから、ひとつの細胞ともいえるし、また一貫したひとつの仏子ともいえます。その和合僧団が創価学会であると(『聖教新聞』昭和37年11月3日)
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こうした創価学会自体を仏とみなす発想が組織の絶対化を促進し、加えて、その組織の上に君臨する池田大作を本仏化させた。
◆白檀の数珠の大玉に、「常」「城」「大」と刻み込ませたものを、それぞれ、牧口門下生、戸田門下生、池田門下生の首脳達に与えた。(『慧妙』H16.2.16)
◆大聖人・日興上人のマネをして"弟子分帳"を作り、幹部の名前を記入し、造反した者の名前には線を引いて、「叛(そむ)きおわんぬ」と書く。すると、その者達は地獄に堕(お)ちて、2度と人間に生まれない、などと言って脅(おど)した。また、「弟子証」を発行した。(『慧妙』H16.2.16)
●この末法万年において大聖人様以外に、御本仏はいないのであります。(中略)
最近、ある所では、新しい本仏ができたようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります。(中略)
法華講は、どこまでも、法華講の道を保ち、本山ならびに自分に寺院と運命を共にする信心を堅く持っていただきたいと、今日はこの席からお願いする次第でございます(第66世日達上人・昭和49年4月25日、法華講総登山の砌)
3.血脈の否定
◆血脈相承といえば、よく既成宗教などに見られるように、神秘的に高僧から高僧へ、甚遠甚深の儀式を踏まえて流れるものと思われがちであります。事実、最蓮房もそのように思っていたに違いない。しかし、大聖人の仏法の本義はそのようなところにあるのではない。我が己心の厳粛な信心の中にこそあるといわれているのです。
大聖人の生命にある生死一大事の血脈を、私たちはどうすれば相承できるか。大聖人ご自身はすでにおられません。だが、大聖人の人法一箇の当体たる御本尊を残してくださっております。この御本尊から生死一大事の血脈を受けるのでありますが、それは剣道の免許皆伝の儀式のような、学校の卒業証書のような、そうしたものがあるわけではない。ただ、唱題という方程式によって、大御本尊の生命を我が生命に移すのです。(池田大作『生死一大事血脈抄講義』/『大白蓮華』昭和52年6月号)
●ここでは既成宗教に血脈があることを述べ、かつ大聖人の仏法の本義はそんなところ(高僧から高僧への血脈相承)にあるのではないと論じられているが、それは日蓮正宗に血脈相承があることを否定することともとれますが、その意味なのですか。他宗でも血脈ということは言うが血脈相承とは言いません。また、法体の血脈相承と生死一大事の信心の血脈とはその意味に違いがあります。(宗門からの質問・「6.30」で発表)
4.日蓮正宗支配と独立
<創価山立宗寺>
◆三多摩に菩提寺を作りますよ、日本一のお寺を作る。3百年前の様式で作る。創価山立宗寺で、萩をずっと植えて、月をあびながら、生きるための永遠のために懇談しましょう(池田大作・第60回社長会S47.4.18/『慧妙』H17.11.1)
◆大学(創価大学)の近くに数万坪の土地を買って数十億。牧口児童会館とか、戸田記念館……世界の本部にする。公会堂、講堂、地方の人がもう何千人でも泊れる恒久的な本部、広宣流布の本山をつくっておきたい。会員から応援してもらって。これでほぼ日本の機構が確立。本山は坊さん、どうしようもない。学会は別法人。見事なものをつくりたい(池田大作・第1回中央会議S50.6.16/『慧妙』H17.11.1)
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実際、既存の創価大学敷地と合わせ、極めて広大な用地を八王子に取得しています。「創価山立宗寺」とは意味深な名称ですが、要は「名は体を表わす」と言われるとおり、一宗一派を旗揚げ(立宗)し、ここを創価王国の本山・本拠地にしようという構想を、そのまま名称としたものに他なりません。
<昭和49年4月30日の連絡協議会>
―僧侶の任命権・海外布教権の譲渡を要求―
東京・向島にある日蓮正宗寺院・常泉寺で、日蓮正宗と創価学会の連絡協議会が開催された。日蓮正宗側から宗務総監以下の宗務院執行部、そして創価学会からは池田会長以下の首脳が出席する。創価学会から日蓮正宗側に提示された「連絡会議議題」には、日蓮正宗と創価学会の関係を大きく左右する次のような重大な案件が記載されていた。
◆学会提示の「連絡会議議題」(昭和49年4月30日・連絡協議会/『フォーラム21』H15.8.1)
1.日蓮正宗国際センター
2.日蓮正宗インターナショナル
3.ミニスターの件
4.海外寺院の件
5.本山土地の問題
6.正本堂記念資料館、休憩所
7.天母(あんも)山郷土資料館
8.総坊売店拡張計画
9.洗衣(かんね)堂の使用
10.正本堂久遠の灯
11.正本堂手荷物預り所
12.正本堂電気設備関係保守契約
13.妙蓮寺記念碑の件
このうち問題となったのは、海外布教に関する1~4の「議題」だった。というのもそこには、およそ日蓮正宗側が飲めるはずもない次のような創価学会側の要求が記載されていたからである。
◆創価学会側の要求事項(昭和49年4月30日・連絡協議会/『フォーラム21』H15.8.1)
1.(財)日蓮正宗国際センター
7月に発足したい。
役員人事、別紙の通り。
世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存する書面を頂きたい。
(別紙)財団法人国際センター
会長 池田先生 名誉総裁 日達猊下
理事長 森田一哉 参与 早瀬日慈
専務理事 原田稔 々 藤本栄道
常務理事 細谷昭 々 北條浩
理事 桐村泰二 々 和泉覚
監事 竹内重郎 々 原島嵩
八矢英世 々 持永利之
羽吹栞
森田修平
八尋頼雄
監事 小野康
森謙
2、日蓮正宗インターナショナル
第1回国際会議、来年1月グワム島で開く。事務局をロサンゼルス(エチワンダ)におく。
3.ミニスターの件
原案(書状)提出
日蓮正宗国際センター会長 来年発表してからは、日蓮正宗インターナショナル会長より授与
4、海外寺院の件
サンフランシスコ(西岸山 妙信寺)
シカゴ (大米山 妙行寺)
いずれもコミュニティセンターの一部を以て充当する。
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一読して、日蓮正宗を信徒団体である創価学会の風下に置こうと企図していることが読みとれる。なかんずく1項にある「世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存する書面を頂きたい」や、3項の「ミニスター(僧侶)を日蓮正宗インターナショナル会長より授与」とは、日蓮正宗の海外布教権や僧侶の任命権を池田会長が掌握するということであり、実質的に創価学会が日蓮正宗を支配、統括することを意味している。
<山崎・八尋文書(昭和49年4月12日付)>
◆本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについて2とおり考えられます。1つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向こう3年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固めるという方法です。本山管理に介入することは火中の栗をひろう結果になりかねない危険が多分にあります。しかし私の考えでは、本山、正宗は、党や大学、あるいは民音以上に、学会にとっては存在価値のある外郭と思われ、これを安定的に引きつけておくことは、広布戦略の上で欠かせない要素ではないかと思われます。こうした観点から、後者の路線ですすむしかないように思われます。そのための布石としては
<1>本山事務機構(法人事務、経理事務)の実質的支配
<2>財政面の支配(学会依存度を高める)
<3>渉外面の支配
<4>信者に対する統率権の支配(宗制・宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立等)
<5>墓地、典礼の執行権の移譲
<6>総代による末寺支配
が必要です。これらのことは機会をとらえながら、さりげなく行うことが必要であり今回のことは<1>、<2>、<3>を確立し 更に<4>まで確立できるチャンスではあります。いずれにせよ、先生の高度の判断によって決せられるべきと思いますのでご裁断をあおぐ次第です。
[画像]:「山崎・八尋文書」(昭和49年4月12日付)
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そもそも、この報告書は、池田大作が、「国際センター」「世界会議」の準備のため、南北アメリカに1ヵ月にわたる旅行に出かけた同年3月7日、私に、「帰ってくるまでにまとめておけ!!」と命令したのを受け、帰国の1日前、4月12日に、第1庶務に提出したものである。その後の経緯をみれば、この報告書に記されたとおりの手順で"宗門支配"の謀略(ぼうりゃく)が進められていったことは明らかである。(山崎正友=元学会顧問弁護士『慧妙』H15.11.1)
<北條文書>
―本山の件(昭和49年5月10日付)―
・9日の本山お目通りの際、猊下の話は大へんひどいものでした。之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした。……広布の上に重大障害となりまた宗門僧侶等の問題の一切の根源がここから出ていると感じました。
・(池田)先生が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえす残念です。 広宣流布など全く考えていない。自分達の私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足、という風にしか考えられません。 学会が生きぬいてゆく為には、相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか、いづれにせよ、先生の最大のご苦心にふれる思いで決意を固めました。(昭和49年5月10日・北條浩副会長/『フォーラム21』H15.8.1)
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要するに、日蓮正宗を支配するための戦略を、日達上人に拒否され、批判されたことに腹を立て、「信心がない」「ひどい」などと日達上人を非難しているのである。
―宗門の件(昭和49年6月18日付)―
・広布の前途を大きく開いて帰国された先生に、このような報告を申上げることは洵(まこと)に残念なことであり、且つ申訳ない限りでありますが、報告を怠(おこた)って、ご判断をあやまらせては、より以上重大なことと思い、中西、秋谷、山友と相談の上、ご報告申上げます。また、私たちなりに検討しました対策もしたためますので、ご指示賜(たまわ)りたく。その上で、私ども、いかなる事なりとも斗う所存です。かねて先生の仰言っておられた通り、私たちの到底想像することの出来ない、みにくい姿であります。いずれにしても私たちは断固たたかいぬく決心です。
・G(※日達上人を指す)の心理は、一時的なものではない。今こんな発言をしたら、宗門がメチャメチャになってしまうことも考えないのではないか。困るのは学会だと思っているのだろう。 宗門は完全な派閥で、Gと総監とは主導権争いになっているのではないか。 長期的に見れば、うまくわかれる以外にないと思う。 本質は、カソリックとプロテスタントのような違いである。 戦術的には、すぐ決裂状態となることは避けて、早瀬理事とのパイプ(山友、八尋が話し易い関係にあります)を太くするとか、当面、Gの異常心理をしずめ、あたらしい進路を開きたいと考えます。 但し、やる時がきたら、徹底的に戦いたいと思います。(昭和49年6月18日・北條浩副会長/『慧妙』H16.9.1)
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これは、日達上人が創価学会の池田本仏論などの誤りを破折され始めたことに対し、反発した北條・秋谷ら首脳陣が対策を相談し、池田宛に報告したものです。(『慧妙』H16.9.1)
※創価学会員は、「創価学会は日蓮正宗を護ってきた」と信じこまされているが、実際には、御先師の代から日蓮正宗に圧力をかけ続け、時の御法主上人猊下を悩まし続けていたのである。
<「日蓮正宗国際」センター>
●(※国際センター構想について)日蓮正宗から切り離してやるならよい。(そうでなければ)海外住職も引き上げる(第66世日達上人・昭和49年5月9日/『フォーラム21』H15.8.1)
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5月9日に北條副会長、山崎正友創価学会顧問弁護士が、日蓮正宗総本山・大石寺に登山し、日達上人にお目通りした際、日達上人は、国際センター問題について、創価学会の姿勢を厳しく批判したのだった。
●先月の中頃(※5月9日?)でしたか、北條副会長ならびに山崎弁護士が来られました時に、私は申し上げました。
その時、国際センターを造ると、日蓮正宗国際センターを造るに当たって、創価学会と日蓮正宗との真ん中に、もう1つ上に日蓮正宗国際センターというものを造る、という趣旨で来られました。私ははっきり断りました。
日蓮正宗は日蓮正宗として1つの宗教法人である。大聖人様の遺命によって広宣流布を全うしなければならない、ただ1つの宗旨である。それを、その上に1つ、日蓮正宗国際センターというものができるとなれば、正宗としては、その上に1つ、また被宗教法人ができる(ということになる)。我々は被宗教法人の下についていくんだから意味が無くなってしまう。
日蓮正宗としての意味が、また御戒壇の大御本尊をお守りしているというのも、今度はできなくなってしまう。その上の宗教法人においてどうとかこうとか言われたらば、こっちもその下につくんだから何ともする事ができなくなる。その意味の上からはっきりと断りました。
どこまでも日蓮正宗は、たとえ小さくてもよろしいから、大聖人の教義を守っていきます。また、今、皆様方のお陰で大きくなっておるけれども、(たとえ)もっともっと小さくなっても、どなたか、また、大きく手伝いをしてくれる人が(いつか)あるかもしれない。だから、私はどこまでも大聖人の仏法を守る、と言って、はっきり日蓮正宗の上につく日蓮正宗国際センターというものを、私は、否定といいますか、お断りしたわけでございます。
それから端を発して、そのあと、最近の1年か2年かにわたるところの学会のいろいろな教義の違い、謗法のあり方ということを申し上げました。で、ついにそのために2人(北條・山崎正友氏)は帰っていきました(第66世日達上人S49.7.27)
[動画]:創価学会 離反の真相6=52年路線 日達上人お言葉
<総代による末寺支配>
●それは去年、おととしあたりから、総代会議というものを東京でやっています。学会で。その時には―皆な君たちは知らないかも知れないが―君達の悪口を皆な言っているんだ。みんな一々悪口を報告させてやっている。詳しく言ったら大変になる。それだから他の総代も、まるで自分らが何とかすれば、住職なんかどうにでもなるんだ、という頭になっちゃった。大変な間違いですよ。
総代は、それは住職の委任に依ってやる。住職がこの人を総代にしてくださいと言って出すからして総代になる。それを、逆に今度は、総代の方が住職の任免権を持っているというような、とんでもないことになりますね。そういうふうにだんだん変になっていった(第66世日達上人 昭和49年7月27日指導会の砌)
●総代による末寺支配は、創価学会が最も力を入れたことであり、宗務院に対して、各末寺に、必ず2名以上の学会員総代(責任役員)を置かせるよう要求し、一方で、総代に対し、宗教法人法をタテに、寺の運営に干渉することを教育した。 このような作戦に則り、池田大作の指揮のもと、正本堂完成後の創価学会は、用意周到かつ陰険極まりないやり方で、日蓮正宗の支配に乗り出したのである。 "南無妙法蓮華経"の商標登録や、正本堂について、数十種類もの意匠登録を行なったのも、その一環である。
<本山事務機構の支配>
●(学会が)会計を、大石寺の会計を調べるという。大石寺も宗教法人で、その年その年に税務署へちゃんと会計報告してとおっておる。それにも拘わらず、また第三者が来て会計報告まで調べるというのは、どうも私には意味がとれない。その時に北條(浩=後に4代会長)さんが言うには、もし調べさせなければ手を分かつ、おさらばする、とはっきり言ったのです。
私はびっくりしました。こういう根性じゃ、これは駄目だと。会計を見せなければ自分らは正宗から手を切るというのである(第66世日達上人 昭和49年7月27日指導会の砌)
5.僧侶(僧宝)軽視
<1>僧俗平等
◆上だの下だのという考え方は封建道徳の遺物であり、大聖人の仏法は、そんな偏見はまったく入る余地のないものと考える
『御義口伝』を拝してもわかるように「日蓮等の類い」という言葉のなかに、すべてを包含している。そこには、僧だの俗だのという差別観は、微塵もない。増して上下の立て分けなど、絶対にあってはならないだろう(池田)(池田大作・原島嵩著『御書と四条金吾』=昭和48年頃)
◆"独立戦争"に備えて、準備をしていたのが、昭和50年から51年の間であった。 池田大作は、また、宗門の分断を策し、宗務院役僧や内事部役僧達に対し、下にも置かぬもてなしをし、御供養をした。「栄光会」なるグループを作って、将来、宗門の中心となると見られた若い僧侶達を入れ、池田大作が直接指導しようとした。 一方、学会出身の僧侶や学会シンパの僧侶達のグループを作り、「池田本仏論」「学会中心論」を吹き込み、いざという時には創価学会に付いて忠義を尽くすよう、徹底して教育した(後に、「栄光会」の僧侶は、宗門僧侶としての信念から"反学会"を鮮明にしたが、後者の中からは、平成3年の創価学会破門後、宗門を離脱して創価学会に養われる道を選ぶ脱落僧が出た)。(山崎正友『慧妙』H16.12.16)
◆昭和52年に入ると、池田大作は、元旦から宣戦布告を行なうとともに、次々と攻撃の手を繰り出した。(中略)寺院僧侶不要論をブチ上げた後、日頃、創価学会に対して批判的な、日達上人のお弟子達を、青年部が集団で吊し上げ詫び状を書かせる、という暴挙に出た。野崎勲・原田稔らの指揮のもと、青年部幹部が、御僧侶を学会本部に呼び付け、あるいは会館や寺院で、吊し上げた。汚ない言葉で罵(ののし)り、大声で怒鳴りつけ、辱(はずかし)め、それでも頭を下げない御僧侶に対しては、「お前が謝らないなら、総本山へ大挙して押しかけ、猊下を吊し上げるぞ!!」と脅した。
竹岡誠治(共産党宮本委員長宅電話盗聴事件の実行犯)らは、情報の取りまとめ役として係わっていたが、吊し上げに立ち会った感想を、私に、「これで、宗門と学会の間は決定的に壊れたなと思った」と語った。ここまで辱められては、もはや人間として絶対に許せないだろうと思われる吊し上げを、たくさんの御僧侶に対して行なったのである。後に、吊し上げを受けた僧侶達のほとんどが「正信会」に走った。「正信会」ができる原因も、じつはこの時、創価学会が播(ま)いたのである。(山崎正友『慧妙』H16.4.16)
●末代の衆生は法門を少分こゝろえ、僧をあなづり、法をいるがせにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。(中略)何(いか)に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。(『新池御書』全集1443頁)
●所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合はせ是非を決せしめば、日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り、我が弟子等、出家は主上・上皇の師と為り、在家は左右の臣下に列ならん(『諸人御返事』全集1284頁)
<2>寺院不要
◆大聖人が生涯、一寺ももたれなかったということは、これまでの寺院の権威の座を、たたき破られたのだと私は思う(中略)
寺院が令法久住を忘れて形式や権威に堕せば、大聖人のご精神に反する(中略)
時代の推移とともに、現代は学会の不惜の転教折伏があって、寺院は折伏のうえの儀式の場といってよい。ともかくわれわれは、社会や不幸の人々のために尽くさなければならない。僧は信徒を守ることが第一義となろう(池田大作・原島嵩著『御書と四条金吾』=昭和48年頃)
◆学会の会館、研修所もまた「近代における寺院」というべきでありましょう(昭和52年1月の池田の講演『仏教史観を語る』)
◆儀式だけを行ない、我が身の研鑚もしない、大衆のなかへ入って布教をするわけでもない既成の寺院の姿は、修行者の集まる場所でもなければ、ましてや道場であるわけは絶対にない(『大白蓮華』昭和52年3月号25頁)
◆全国各地に、会館や研修道場を建てまくったのは、各地の会員が寺に行けなくなった場合を想定して、これに代わる施設を作る、という意図であった。(『慧妙』H16.12.16)
<3>儀式の執行、化儀の改変
・『仏教史観を語る』と題する講演以降、寺院での法要よりも会館での行事を優先させるようになる。
◆会員が寺院に行くのを阻止するため、会館で七・五・三や結婚式などの行事・儀式・法要、勤行会をさかんに行い、寺院から典礼を行う機会を奪うことを企(たくら)んだ。寺院がなくても、創価学会だけでやっていけるように、との布石である。(『慧妙』H16.2.16)
◆"教師"が学会で任命され、会館には山号がつけられ、(中略)それぞれの会館で、寺院で行なうのと同じような儀式が営まれたのです。あるいは「慧光照無量」として、亡くなった人に、池田自ら"妙"の一字を書き、これでこの人は成仏したと語り、さらに発展して塔婆供養のかわりに、「慧光照無量」として各人が亡くなった人の名簿を提出し、(中略)春秋彼岸の法要も会館で行ない、寺院への流れをストップさせたのです。「形式は必要ない」といい、寺院の儀式を否定しておきながら、学会独自の儀式を行なうのですから、ずる賢いといわざるをえません。(原島嵩『妙教』H12?)
[画像]:「秋季彼岸法要入場券」=会館で、寺院で行なうのと同じような儀式が営まれた。
[画像]:「慧光照無量」=塔婆供養のかわりに、「慧光照無量」として各人が亡くなった人の名簿を提出し、広布基金を御供養として出す。
◆御観念文を改ざんした経本や、数珠を勝手に作り、開眼の御祈念も経ずに販売した(『慧妙』H16.2.16)
◆東京都目黒区にあった、"目黒文化会館"を、御本尊ごと「財団法人公明協会」を経て「有限会社拾伍」に売り払い、営利目的の結婚式場とした(『慧妙』H16.2.16)
◆墓園、葬儀会社を作り、儀式や葬儀を僧侶なしで古参幹部にやらせた。(『慧妙』H16.12.16)
<4>財務
◆昭和50年から、池田大作は、宗門にも世間にも内緒で、"特別財務"を集めはじめた。それが、3年足らずで600億円を超える額となり、池田大作は有頂天(うちょうてん)になった。(『慧妙』H16.10.16)
◆"特別財務"は、日蓮正宗と戦争を始めるに当たっての"軍資金"集めの意図を含んでいた。(中略)また、全国各地に、会館や研修道場を建てまくったのは、各地の会員が寺に行けなくなった場合を想定して、これに代わる施設を作る、という意図であった。(中略)特別財務にはまた、会員から搾(しぼ)れるかぎり搾り取って、会員が日蓮正宗寺院に"御供養"することを防ごこう、とする目的があった(『慧妙』H16.12.16)
・昭和52年1月に池田大作は『仏教史観を語る』と題する講演で、在家でも供養を受けられると主張。これ以降、学会の会館では「供養」と称して広布基金が集められるようになる。
●末代の衆生は法門を少分こゝろえ、僧をあなづり、法をいるがせにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。(中略)何(いか)に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。(『新池御書』全集1443頁)
<5>『仏教史観を語る』
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◆近くは末法の御本仏日蓮大聖人も、一生涯、既成仏教のような寺院は持たれなかった。お亡くなりになるまで草庵であります。折伏弘教の指揮をとられ、また自ら布教のために歩く拠点としての庵室を持たれたのみであります(昭和52年1月の池田の講演『仏教史観を語る』)
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●今朝の聖教新聞(『仏教史観を語る』)を読まれて承知していることと思うが、最近、宗門と学会の間に冷たい隙間風が吹いてきた感じで困ったことである。
宗門としては今後向こうがどう出てくるか静観していこうと思う。寺としては、参詣に来る人を大切にし、信仰をすすめ、法門を説いていってもらいたい。また、相手が何を言ってきても、腹を立てないようにしてほしい。今のところ北陸方面では大分影響が出てきているようだが、大都会では、いまだそう影響は出ていない。
700遠忌の計画も練り直さなくてはならないかもしれない。昭和54年が学会の創立50周年に当たる。これを契機にどういう展開になるか判らぬが、この3、4年、静観していく。将来、学会と訣別することになるかも知れぬが、その時はその時で、去る者は追わず来る者は拒まぬつもりだ。そしてクルミのごとく、堅くジッと古来の正宗の形を守っていこう。その時こそ我々は、自分のもつ力を最大に発揮し、折伏して大きくしていこう(第66世日達上人・昭和52年1月17日)
・日達上人は、(※昭和52年)3月下旬、"根性"のありそうな僧侶達に決意を打ち明けられた。これらの僧侶達は、御講などで学会批判の口火を切り、学会幹部達に脱会を働きかけた。活動はじわじわと拡がり、2月に吊るし上げられた僧侶達をはじめ、若い僧侶達が次々と参加していった。(『慧妙』H16.10.16)
・宗門の機関誌の1つ『蓮華』誌に、反論の論文が掲載された。それは『池上相承書』の、「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり、背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり」(全集1600頁)との御文を挙げて、「大聖人が、生涯庵室に住せられ、寺院を持たれなかった、との説は誤りである」とするものであった。
・池田の講演に対する真っ向からの批判に激怒した池田は、側近に命じて反論の論文を書かせた。
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◆だがこれ(『池上相承書』=筆者)以外に大聖人が「久遠寺」の呼称を使われているのはどこにもない。せいぜい大聖人滅後2年たって謗法に堕した波木井実長が日興上人にあてた消息に出てくるくらいだ。また、大聖人が寺を建てよといわれた御書が一つでもあろうか(『前進』S52.8)
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・こうした傍若無人な学会側の所論に対して、御先師日達上人は、教師講習会の席上、「『日蓮大聖人の寺院観』浜田憲司氏に答う」と題して、次のように破折を加えられた。
●大聖人の寺院観について、『前進』8月号の教授浜田憲司氏にお答えいたします。(中略)浜田氏はたいへんお怒りのようですから、私はこの席を借りてお答えいたします。
浜田氏は、大聖人が「身延山久遠寺」と寺号を称せられたことを、「世は多造塔寺堅固へと逆転したのかといぶかしく思い、・・・・・・」
と申されているが、大集経の多造塔寺堅固とは釈尊仏法においての思想ではないでしょうか。大聖人の仏法は、釈尊の仏法の白法隠没の次に、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経が広宣流布するのではないでしょうか。『撰時抄』をご覧くださればお分かりでしょう。
その大聖人の仏法が広宣流布するためには、寺塔を造ったところで不思議はないでしょう。また、造ることは当然であります。
池田会長が正本堂を建立したのは、そのためではないのですか。それとも浜田氏は、これを"多造塔寺堅固"と申されるのですか。
また、
「大聖人が寺を建てよといわれた御書が一つでもあろうか」
とのお言葉ですが、それなら文永10年8月3日、佐渡における大聖人が、『南部六郎三郎殿ご返事』に、
「但し仏滅後二千余年三朝の間数万の寺々之有り。然(しか)りと雖も本門の教主の寺塔、地涌千界の菩薩の別に授与したまふ所の妙法蓮華経の五字未だ之を弘通せず。経文には有って国土には無し、時機の未だ至らず故か」(全集1372頁)
と仰せあるのは、どう解釈すベきでしょうか。
また、『宝軽法重事』に、
「一閻浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる堂塔いまだ候はず。いかでかあらわれさせ給はざるベき」(全集1475頁)
とありますが、これも大聖人が寺を建てるなとおっしゃった、と解すべきですか。(第66世日達上人『蓮華』S52.9)
・日達上人は、これに続いて御書の御文を的確に挙げられ、浜田論文の裏に潜む池田の邪義を完膚無きまでに粉砕されている。
池田の魂胆は、単に寺院の有無に限らず、日蓮正宗の宗旨の根本たる二箇相承の否定にあった。これについても、日達上人は、次のように諭(さと)されている。
●浜田憲司氏よ、貴下は内心は二箇の相承を否定せんとしておりながら、表面に会長(池田)の名前を引き出して、まるで会長が二箇の相承を否定しているかのように世人に印象付けさせ、しかも、私どもが会長の講演にけちをつけているかのごとき感じを世人に与え、正宗僧侶と創価学会員を反目せしめようとする。このようなずるがしこいことは、やめてほしいものです。(第66世日達上人『蓮華』S52.9)
・もとより、この論争自体が、日蓮正宗の宗旨の根本すらも破壊せんとした、池田の邪念から発したものであれば、この日達上人の破折は、そのまま池田への破折であった。
にも拘わらず日達上人は、ここまで、他田の威信を傷つけないよう、配慮を賜(たま)わったのである。こうした日達上人の大慈悲をいただきながら、池田大作は、その後も長く反省の色を示さず、既定の路線「52年路線」を推し進めていくことになる。無慙無愧な池田に率いられた創価学会員の不幸は、ここから、いや増していくのである。
なお、論争の起点となった『前進』は、その翌月、9月号で「二箇相承に思う」と題し、辻武寿の名で、不十分ながら内容の訂正が出され、この号をもって廃刊となった。
すなわち、創価学会・池田大作の全面敗北で幕を閉じたのである。
6.御本尊模刻
<1>学会本部安置の御本尊
◆入仏式は会長(池田)の唱導で方便品・自我偈の読経・唱題の声が和するなか、これまでの紙幅の御本尊は北條浩理事長、森田康夫本部事務総長らの手によって収納され、そのあと、板御本尊に参加者はお目通り。これにより「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の常住御本尊は、永遠不滅の義を刻みつつ本部にご安置されたわけである。(『聖教新聞』S50.1.4)
・実はこの時点で、この板本尊は模刻の許可を宗門からいただいていなかったのである。口頭による願いの後、正式な御本尊御下付願いを出すのが当然であるにもかかわらず、これを無視し、勝手に板本尊を造ってしまったのである。
しかも、学会が行ったのは、紙幅の御本尊を写真に撮って模刻する行為であり、これでは1体の御本尊から2体の御本尊ができてしまうのであるから、御本尊の複製・偽造ともいってよい。
このような、日蓮正宗の厳格な宗風を無視した学会であったが、御先師日達上人は、一応口頭で許可したことであるからと、この御本尊1体についてのみ、模刻を認められた。
そして、昭和52年11月7日、日達上人が正式に御允可あそばされ、学会創立47周年記念と併せ、改めて開眼入仏法要を営まれ、決着をつけられたのである。
<2>勝手に作られた7体の模刻本尊
・創価学会が、日達上人に板御本尊の申し出をしたのは、昭和49年9月2日のこと。後にも先にも、この1回のみであった。
しかし、その後の昭和53年正月、学会御本尊の模刻にかかわってきた仏師・赤沢朝陽の社長が、自らの罪の深さに恐れおののいたのであろう、日達上人にお目通りした折り、「多数の本尊を池田の依頼で模刻した」と報告したことから、先の「大法弘通」の御本尊以外にも、多数の御本尊が勝手に模刻されていた事実が明らかとなった。
Ⅰ 賞 本門事戒壇正本堂建立 昭和49年1月2日
Ⅱ 創価学会 関西本部 昭和30年12月13日
Ⅲ 創価学会 文化会館 昭和42年6月15日
Ⅳ 創価学会 会長室 昭和42年5月1日
Ⅴ 創価学会 ヨーロッパ本部 昭和39年12月13日
Ⅵ 日蓮正宗 アメリカ本部 昭和43年6月29日
Ⅶ 御守御本尊 昭和26年5月3日
[画像]:模刻された御本尊(『慧妙』H14.3.1)=未許可ゆえに、宗門に"取り上げ"られた模刻板本尊
[画像]:模刻された御守御本尊(『創価学会の光と影』)=池田大作個人に与えられた御本尊で、本来は身に所持すべき御守御本尊を、板に模刻し、東北研修所に安置して、自分の身代わりと称して拝ませようとした。その他に7体(※後に認可された学会本部の御本尊1体を含む)の御本尊を模刻したが、その中には、日付を自分の誕生日に変えた変造模刻御本尊もある。自分を本尊と同格にしようとしたことは明らか。
・池田は、同年9月2日の宗門との連絡会議での席上、7体の模刻本尊の処理について、日達上人に「どのように対処したらよいか」とお伺いした。
この時、日達上人は“そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっておけ”という旨の御指南をされたという。
しかし、このような厳しい御指南を、創価学会が会員に示せるはずもなく、学会が聖教新聞に掲載した記事は、次のような驚くべきスリカエであった。
◆本部として謹刻させていただいた数体の御本尊について御指南を仰ぎ、猊下よりすべて学会本部に宝物としてお収めくだされば結構ですとの御指南があった。(『聖教新聞』S53.9.3)
◆総本山大石寺こそ、信仰の根本道場である。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はない。不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げた(辻副会長『聖教新聞』S53.11.8要旨/<宗門>WS)
7.逸脱認めた「6.30」の記事
●私のたてまえとして、今まで学会と仲良くやってきた。今後も、仲良く手を握って広宣流布に向かっていく、ということが良いけれども、それはたてまえとしてはそうでありたい。しかし、私個人の心からいけば、それはどうしても、ちょっとまずいことがあれば、いちいちケンカをしているよりも、いっそ別れて、自分らで、小さくてもいいから、昔みたいに小さくなってもいいからやっていくと、そういう心では思っている。(第66世日達上人・昭和53年2月22日・第2回時事懇談会の砌)
・このお言葉が懇談会の基調となり、真剣な討議が繰り返された後、昭和53年6月19日、宗門として、創価学会の教義上の誤りを指摘することになり、文書を学会に送付した。
その内容をみると
Ⅰ 戸田会長の悟達・創価仏法の原点
Ⅱ 血脈・途中の人師論師・大聖人直結
Ⅲ 人間革命は御書
Ⅳ 帰命・主師親三徳・大導師・久遠の師
Ⅴ 寺院と会館を混同・寺軽視
Ⅵ 謗法容認
Ⅶ 供養
Ⅷ 僧俗
Ⅸ その他
・これに対して学会から、これまで逸脱してきた路線を改め、日蓮正宗の教義を遵守する旨の回答を寄せてきた。これが『教学上の基本問題について』と題する文書で、『聖教新聞』紙上で発表されたのが昭和53年6月30日であったことから「6.30」とも呼ばれている。
●ただ今回の回答では、まだ満足しない人があるだろうけれども、だいたい、この線で了解を願いたいと思います。そして今後、あらためて進んでいこうと思います。
また、それが3年先、5年先にどう変わっても、それは我々の責任ではないんだから、皆の考えにおいてどう取っても結構だけれども、最近の問題は、この辺で納めてもらいたいと思います。(第66世日達上人・昭和53年6月29日・教師指導会の砌)
8.お詫び登山(「11.7」)
・「6.30」以降の昭和53年9月に前述の「本尊模刻事件」が露見してしまい、宗門どころか、学会内部でも大問題となり、脱会者も続出する騒ぎとなった。そこで、学会は事態を収拾すべく宗門側と会談を重ねた結果「創価学会創立48周年記念代表幹部会」を、11月7日に総本山で開催することになった。これが、創価学会が初めて宗門に公式に謝罪した、通称「お詫び登山」である。昭和53年11月7日に開催されたことから「11.7」とも称される。
◆私ども創価学会といたしまして、以下の2点を率直に認めるものであります。すなわち、第1に、学会のここ数年の指導、進み方、教学の展開のなかに、正宗の信徒団体としての基本がおろそかになっていたこと。第2に、昨年のような学会の行き方は行き過ぎがあったこと、以上の2点を私ども学会は、とくに我々執行部は、深く反省するものであります。(北條浩理事長『聖教新聞』S53.11.8)
◆まず第1に、戒壇の大御本尊根本の信心に立ち、総本山大石寺こそ、信仰の根本道場であることを、ふたたび原点に戻って確認したいのであります。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はありません(辻武寿副会長・同上)
◆唯授一人・血脈付法の猊下のご指南に従い、正宗の法義を尊重してまいりたいと思います。『身延相承書』に『血脈の次第 日蓮日興』とありますごとく、日蓮大聖人の法体、御法門は、すべて現法主日達上人猊下に受け継がれております。ゆえに創価学会は広布を目指し、社会に仏法を弘通、展開していくにしても、その大前提として、猊下のご指南に、いっさい従っていくことを、忘れてはならないのであります。(辻武寿副会長・同上)
●もっとも頼るべき信徒が寺院を非難中傷し、圧迫するようなことがあれば、僧侶はまことに悲しい思いをいたして、否応なく反論しなくてはならないのであります。こうした言動は破和合僧であり、正宗の法義にももとる行為であると指摘せざるをえないのであります。(第66世日達上人・同上)
●大聖人以来、700年間守り続けてきた伝統と教義の根本はあくまで守り伝えなくてはならないのであります。これをふまえなかったならば仮にこれからいくら勢力が増しても、広宣流布は見せかけのものであったか、との後世の批判を免れることはできないのではないか、と心配いたします。(第66世日達上人・同上)
9.池田の引責辞任
・「お詫び登山」以降も池田創価学会の路線は改まることはなかった。表面的には、お詫びに見えるような最低限の姿をとりつつ、会員に対する本音の指導では、徹底した反宗門感情を植え付けていったからである。
●よく、お寺にお参りすると、「寺信心」だといって悪口を言う人がございますが、そういうことは間違いでございます。(中略)今日の人が、わからないで「お寺に行くから悪い」とか「お寺信心だ」などと悪口を言うのは、むしろその人たちは、仏法を馬鹿にした謗法の行為と考えてさしつかえないのでございます。いかなる人が、どういう理屈を言おうとも、正しい仏教を勧め正しい御本尊を拝している人の悪口を言うことは、もっとも悪いことであり、謗法でございます。(第66世日達上人・昭和53年11月23日・讃岐本門寺御会式お目通りの砌)
・諸々の教義逸脱も、真相を知らされることはなかったから、創価学会の謗法路線に気づくこともなかった。ただ、宗門と学会との間に事務的な行き違いがあった、と認識していた学会員も多かったし、そのように指導した学会幹部も多くいたのであった。
・このような状況下、またも学会首脳が宗門誹謗の発言をした。御宗門は、この発言記録を入手し、さっそく質問書を学会に送付した。だが、学会から返ってきた答えは、反省のかけらも見られない、不誠実なものだったのである。ここにおいて御宗門は、次のような、最後通告ともいえる勧告書を学会に送付した。
●拝復
昭和54年3月24日付、貴簡拝見致しました。
貴回答は、当局の質問に対する御回答としては、遺憾乍ら、貴会中枢幹部諸氏の信心と英知と勇断を信頼した当局に対し、充分なる満足を与えるものではございません。
当局と致しましては、貴会の従来の宗門外護の成果を認識した上で、之を無に帰せしむることを虞(おそ)れて充分なる配慮を以って猛省を促した積もりでございます。
徒にお為めごかしの小策を弄する前に、胸に当てるべき手を御宝前に合掌して冥の照覧を恐れて下さい。『正直以本』こそ信仰の原点です。
願わくは、素直な信仰者としての姿勢に立って、事実を厳しく省察の上、今一度当局よりの3月13日及び同月15日付各質問状を逐条吟味し、明確にして正鵠を射た回答を文書を以って可及的速やかに御送付下さい。
徒に言葉尻を追ったり、問題意識を転換したり、事実を歪曲する等従来の経緯を反復するの愚を踏襲せんか、当局には、もはや之に応じて兎毫(とごう)を染める暇も必要もないことを稟告(ひんこく)致します。
敬具
・この勧告書に対し、学会は「北條理事長談話」を発表したが、全ての責任を末端組織に転嫁した、白々しいものであった。御宗門では、池田大作の総講頭罷免について、臨時宗会まで開催されて論議が行われ、また法華講連合会も、池田大作に対し「法華講総講頭辞任勧告書」を送付するに及んだ。
・事ここに至って、創価学会としても、最終的な決断を下さざるを得なくなったのである。それは、池田大作の総講頭辞任と創価学会会長の辞任という、この時の学会に可能な最後の決断であった(法華講総講頭の『辞任願』は昭和54年4月26日付)。
◆ここ数年の宗門と学会との関係については、昨年6月30日『教学上の基本問題について』を発表し、同11月7日には代表幹部会を開き、恒久的な和合への学会としての基本路線を確認した。以来今日まで6ヵ月の期間、こうした基本精神の徹底をはかるべく努力してきた。この徹底も一段階を経て、会長は過去に一切の経過の責任をとって、辞任を申し出ることになったものである。(『大白蓮華』S54.6)
◆この際、会長辞任とあわせて、私(池田大作)は22日、御法主日達上人猊下に法華講総講頭に辞任を申し出ました。これは、近年、御宗門との関係で、皆様に多大なご心労をおかけし、御法主上人猊下の御宸襟を悩まし申し上げたことに対し、過去の経過の一切の責任をとらせていただくものであります(『聖教新聞』S54.4.25)
●この『辞任願』を持ってまいりまして、ですからこちらでも宗規に則って、総講頭を辞任した場合は名誉総講頭を置く、という規定のもとに、名誉総講頭の名前を贈っておきました。
それから、さっそく向こうで、26日には学会の規則も作り、また自分も会長をやめて、すぐに北條氏を次期会長としてあがるようにする。そういうわけだ、会長もその方面のほうを解決したと、まあ、会長をやめて一切の責務を退くと、今後そういうことに口を出さないし、学会のことに口を出さない。また、常に噂される“院政”というようなことを絶対にしないということを表明しておりました。宗門としては、それで一応解決したものと思っております。(第66世日達上人・昭和54年4月28日・教師代表者会議)
●この数年間、まことに残念な出来事が続き、混乱を招きましたことは、悲しいことでありました。幸いにして前会長(池田)の英断と、心ある人々の努力により、再び秩序の回復に向かい、晴ればれと今日の天気のごとく明るい出発ができることは、まことに喜ばしいことであります。(中略)
どうか今後は、信徒団体としての基本は忠実に守り、宗門を外護していただきたいのであります。そのうえで自主的な指導と運営で、伸びのびと御活躍を願いたいのであります。(第66世日達上人・昭和54年5月3日・第40回本部総会)
◆本宗における厳粛なる法水瀉瓶唯授一人の血脈は、法灯連綿と、代々の御法主上人に受け継がれて、今日に至っております。あくまでも、御本仏は日蓮大聖人様であらせられ、唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべきなのであります。私がごとき者を、かりそめにも、本仏などと、言うことはもちろん、思ったりすることも謗法なのであります。(中略)
次に、松野殿御返事には「在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり。それも経文の如くならば、随力演説もあるべきか」と申されておられる。
ここで「僧」とは、僧形であられた御本仏・日蓮大聖人であらせられ、私ども在家の身は、御本尊に南無し奉り、御僧侶を通して、日蓮大聖人に御供養申し上げることが肝要なのであります。
また、たびたび申し上げてまいりました点ではありますけれども、僧俗和合でなければ、広宣流布というものは絶対にできないということであります。これは、創価学会の大原則であり、愛宗護法の精神は、すなわち学会精神の第一義であると銘記されたいのであります。(池田大作・第40回本部総会・『聖教新聞』昭和54年5月4日)
・この挨拶中、第1段は、池田自らが唱えてきた「池田本仏論」への総括であり、第2段は、「在家でも供養が受けられる」とした主張の否定、また第3段は、創価学会の独立を目して展開された在家主義路線への総括である。
・今般の問題を契機に設けられた「最高教導会議」が5月7日に開けれ、この会議では、学会側から会員への徹底事項として、次の3点が示された。
◆1、日蓮正宗の教義に基づき、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、唯授一人血脈付法の御法主上人猊下を尊崇し、篤く三宝を敬う。
2、総本山並びに日蓮正宗寺院を外護し、御僧侶を尊敬する。礼節を弁え、非礼な言動があってはならない。また、法華講、檀徒の方々に対しても、同じ日蓮正宗信徒として仲良く協力しあっていきたい。
3、謗法厳誡は日蓮正宗の規範である。したがって社会に展開する活動にあっても、祭礼や神社の寄付等について謗法厳誡をゆるがせにしてはならない。
●それについて宗門の方も、それだけの大きな腹をもって、学会を受け入れて進んでいくのが当然かと思いまして、向こうの出方を待つ、すなわちこれから先、どういうふうにしていくかを待つつもりであります。実際に新しい学会の執行部ができたことに準じて、学会がどういうふうに宗門と仲良く僧俗和合していくか、ということを見なければならないと思います。学会が正しく日蓮正宗の教義を守り、正しい信心をして、また、世間の人を折伏していくのならば、我々はそれに準じてどこまでも学会を守り、学会を信徒団体として受け入れていかなければならないのでありますから、ここにしばらく様子を見なければならないと思うのであります。(中略)学会にいまだに間違ったことがあるのならば、宗務院、内事部のどちらにでも言ってきてくだされば、それを向こうに注意して、改めさせていくつもりであります(第66世日達上人・昭和54年5月29日・寺族同心会の砌)
【日顕上人時代】
1.日顕上人の御登座と学会への対処
・昭和54年7月22日、日達上人が御遷化され、日顕上人が後継として御登座された。
●創価学会に対する基本的な態度は、前法主日達上人が示された規定の方針といささかも変わるものではない。(中略)
我々正宗僧俗は、いたずらに過去の行きががりにこだわり、内輪同士で反目しあい、世間の嘲笑の的となる愚は避けなければならない。そして今や、互いに励まし合い、助け合い、異体同心の上、外に向かって謗法不信の人々の慈折教化に全力を注ぎ、もって一天広布の願業に邁進すべき時である。
もちろん、もし眼前に同信の人々の謗法行為を見聞した場合においては、即座に厳然と破折し善導すべきである。また、そこに何らかの複雑な問題を含むときには、宗務院に報告して善処を委ねるなり、あるいは地方協議会の機関に諮る等の道を講ずべきである。
創価学会にあっては、6.30、11.7につき、さらに全会員が充分にその経緯と意義内容を理解し納得するよう、意を尽くして説明徹底することを怠ってはならない。
すなわち、そのためには、過去において正宗の化儀化法から逸脱していた部分を明確にし、また、そのような指導を行ったことについて率直に反省懴悔し、再び過ちを繰り返さぬことを誓う姿勢を忘れてはならない(院達第18号・昭和54年10月8日/『大白法』S54.10.16)
・このように、道理に基づいた慈悲の教導を御指南される日顕上人猊下に対し、後に「正信会」と自称する僧侶の一群は、日顕上人猊下までも非難する姿勢を見せていた。
こうした一群に対しても、日顕上人猊下は、噛んで含めるように次のような御指南を下された。
●先日、ある14、5人の人と話をする機会がありました。それはいわゆる"檀徒"の引率者の人達です。
そのときにいろいろな話もしましたけれども、その中で「とにかく猊下、学会は直りませんよ。直らないのではないですか」という発言がありました。私は言下に「そんなばかなことがあるか。直さなければいけないんだ」ということを申しました。御本尊様を持って拝んでいる人達に対して「あれはもう直らない」。こんな無慈悲な話は、私はないと思う。しかも僧侶です。
親だったら、子供が重病で、医者が首をひねって「もうだめかもしれない」と言っても、親は「何としても助けよう」と思う。それこそ信心している人は、御本尊様に何百遍もお題目を唱えますよ。それにも増して、仏者として本当に人を救って行こうとすれば、悪いところは何としても、どんあことをしても直していかなければならない、ということこそ必要だと思います。(中略)
ですから私は言うのですが「もしも信仰的に創価学会が独立するというのならば、独立してもらえばよい」ということです。そのときには我々は、法主が陣頭に立って、徹底的に創価学会の全体を折伏して、改めて大折伏戦を日蓮正宗から展開すればよい。そのときは、多くの人が、ただちに改めて日蓮正宗に入ってくるでしょう。(第67世日顕上人・昭和54年10月10日・全国宗務支院長会議の砌)
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先の院達ならびにお言葉に見られるように、日顕上人は御登座の当初から創価学会を無条件に許されていたのではなく、あくまでも創価学会の反省を信じられての上のことであった。
2.恩師の23回忌に思う
・御先師日達上人の跡を継がれた御当代日顕上人猊下は、御先師の遺志を継承され、内外に噴出する創価学会批判から学会を守られ、善導を旨として、御宗門を統率あそばされた。
しかし、こうした大慈悲をもって教導される日顕上人猊下の御指南に背き、自ら「活動家僧侶」を自認する一部僧侶たちは、激情に駆られたまま、学会攻撃の矛先(ほこさき)を収めようとしなかった。
このような状況下、池田大作は、戸田城聖2代会長の23回忌にあたって、「恩師の23回忌に思う」という所感を発表した。
◆創価学会が急速に拡大し、膨大(ぼうだい)化した結果、とくに近年、現実社会への対応に目を向けるあまり、信徒として、もっとも大切な御宗門との間に、さまざまな不協和を生じてしまったことは、まことに残念なことであります。
この問の問題について、当時、その責任の立場にあった私として、懺悔(ざんげ)すべきは懺悔し、真情は真情として述べさせていただきたいと思うのであります。・・・
近年の、宗門との間題が、昭和47年、正本堂建立以降の、学会の広布第2章の進み方の基調と、そのうえで私が展開した、昭和52年の一連の指導に、発端の因があったことは事実であります。・・・
しかし、そのなかには、たしかに創価学会中心主義的な独善性もあり「学会が主、宗門が従」というような状況もありました。その結果、宗門の一部御僧侶に、この方向が、学会が独立を企図しているのではないか。との疑念を生ぜしめ、また、会内にいわゆる『北條文書』などのような感情的な議論のあったことは、まことに申し訳なく思っております。
もとより、日蓮正宗総本山を離れて、創価学会は、永久にありえないのであります。信仰の根本は、本門戒壇の大御本尊であり、創価学会は、それを民衆に知らしめる折伏の団体であるからであります。・・・
ただ、私が、恩師の『創価学会の歴史と確信』の理念、方向性を実践した延長とはいえ、その深き意志も解せず、僧侶、寺院の役割を軽視し、その結果、御宗門に対し、主客転倒の風潮を生んだことは、我が身の信心未熟のゆえの慢と、大御本尊に心より懺悔申しあげるものであります。・・・
この点、御書の拡大解釈や逸脱については、すでに『6.30』(教学上の基本問題について)に指摘されております。ここで反省し、確認された事項は、今後とも絶対に踏み違えてはならない重要な規範であります。したがってこの徹底を怠ってはならないし、また、正宗の正法正義を正しく学んでいくことは、世々万代にわたる肝要と深く自覚しなけれはなりません。・・・
申すまでもなく、末法の御本仏は日蓮大聖人ただお一人であらせられ、また、代々の御法主上人は、唯授一人、その遣使還告のお立場であらせられると拝し、尊崇申し上げるものであります。
私どもは、瞬時たりとも、この原点を忘れては信心の筋道を違えることになってしまいます。・・・
また、今日の種々の問題も、私の指導性の不徳の致すところであり、多くの会員信徒に多大なご迷惑をおかけし、ご心労わずらわしたことについても、御本尊に深くお詫びの合掌をさせていただいている日々でもあります。
ともあれ学会は、絶対尊崇の本源たる本門下種人法一箇の御本尊、宗祖大聖人に対し奉る信仰を根本とし、永遼に代点の御法主上人猊下を仏法の師と仰ぎ奉り、強き広宣流布の戦士たる誇りも高く、さらに、日蓮正宗の信徒として、いっそうの外護の任を全うしてまいる決意であります。・・・(池田大作『恩師の23回忌に思う』/『聖教新聞』S55.4.2)
3.正信会の活動と日顕上人の対応
・お為ごかしの反省を口にしながら、その実、何も反省しない学会の体質に猛反発した僧侶の一群が、後の自称正信会(昭和55年7月4日結成)である。
彼らは、日顕上人猊下が制止せられたにも(『宗内檀徒の皆さんへ』)かかわらず、創価学会追及の矛(ほこ)を収めず、ついには、開催の中止を命じられていた第5回檀徒大会を強行した。檀徒を巻き添えにしての開催は、『化儀抄』の
「門徒の僧俗の中に人を教えて仏法の義理を乖背(けはい)せらるる事は謗法の義なり。五戒の中には破和合僧の失(とが)なり、自身の謗法より堅く誡むべきなり」(聖典983頁)
との御制誡に背くものであり、まさしく謗法である。
御宗門においては、これらの僧侶を、罷免(ひめん)、降級、停権、譴責(けんせき)等の処分に付されたのであった。
ところが、彼ら正信会は、「創価学会こそ謗法であり、その謗法を責めることは大聖人の御精神である。にもかかわらず、自分たちが謗法扱いされるのは承伏できない。謗法の学会を責めない日顕上人は日和見主義だ」と、処分に不服を鳴らすのみならず、日顕上人猊下への反抗の度合いを強めていった。
彼らの大半は末寺住職であったが、彼らは宗門から通達された内容を、寺院所属の信徒達に知らせない等の姑息(こそく)な手段を弄(ろう)していた。それ故、所属信徒たちの多くは、何ら事実を知ることなく、彼らに同調してしまったのであった。
日顕上人猊下は、御自ら『宗内檀徒の皆さんへ』と題する小冊子を認(したた)められ、それを檀徒各位に送付せられた。
●私は一宗統率の責任ある立場にあって、現在の混乱した状況に対し、たいへん憂慮しております。ことに、近年の一連の経緯のなかで創価学会から脱会し、直接末寺に所属して住職の指導のもとに信心に励もうとしている皆さん方のなかに、不安定な気持ちで毎日を過ごし、本来の信心修行に精進できない姿が多く見られることに、心を痛めています。
そこで、現状を正しく認識し、宗門の方針をよく理解したうえで、一日も早く落ち着きを取り戻して、自行化他の信心に励まれることを願い、一文を草(そろ)する次第です。
私は登座以来、この間題について皆さんに納得いくよう、機会あるごとに、たびたび述べてきました。(中略)しかし、残念なことに、あくまでも自分の考えを中心にしていこうとする一部の往職は、自分に都合の悪い内容については、これを手元に止めたままにして皆さんに伝えなかったり、いろいろな宗門の機関紙誌の購読中止を勧めるなどの方法で統制して、今日に至りました(第67世日顕上人『宗内檀徒の皆さんへ』)。
・学会と同様に、正信会も、所属の信徒らに情報遮断して真実を伝えず、自らに都合よく歪曲した情報で寺院離れを防いでいた。それ故、それら寺院の頭越しに、直接、信徒に呼び掛けられた、と仰せられているのである。
次に、正信会僧侶らが疑難を投げつけている「創価学会の謗法是正」について、日顕上人猊下は、理を尽くして説明されている。
●たしかに、ここ数年前から、創価学会には本宗の化儀化法の上から見て種々の逸脱や行き過ぎが目立ってきました。これは本年(昭和55年)1月26日の第4回全国檀徒大会の折り、詳しく述べたとおり、末曽有の本尊流布の大業を行なったことに付随して起きた、凡夫の増上慢がもとになっているものと思われます。その起因が広布実現を念願するあまりのこととはいえ、非は非として改めなくてはなりません。そこで、先師日達上人が、率先してその誤りを指摘し、学会も池田前会長をはじめ、執行部の人々は猊下の御指南に従い奉ってそれを改め、さらに是正の徹底のため努力を傾けております。
したがって、現在において、いまだに『学会は大謗法の団体である』とするのは大きな誤りであります。(中略)『大逆なれども懺悔すれは罪消えぬ』との仰せがあるように、たとえ、どのような謗法を犯したとしても、心からそれを改悔(かいげ)し、戒壇の御本尊を根本に仏道修行に励むならぱ、罪は消えるのであります。(第67世日顕上人『宗内檀徒の皆さんへ』)。
・かくのごとく、日顕上人猊下は、法門の道理の上から、いちおう、学会を許されたのであった。
次に、自称正信会の者共がいう「日達上人は学会の謗法を責められたのに、現猊下は学会の謗法を容認している」との批判について、歴史的事実の上から、次のように諭されている。
●前述のとおり、先師日達上人が一時の学会の謗法行為を指摘されたのも事実であります。また、日達上人の御指示に従って学会の過ちを是正しようとした人々の行為も、御仏智に従った行動であったと思います。しかし、その指摘を受けた学会が、率直に反省して是正を誓い、その徹底のために努力をしていることも事実であります。それ故に、日達上人は昨年4月末、池田氏の辞任を契機に、宗内の正信覚醒運動など学会批判行為を厳重に禁止して、はっきりとけじめをつけられました。(中略)また、全国檀徒新聞の『継命』にしても、たしかに日達上人の命名により発刊されはしました。しかし、その後まもなく、紙面の内容が上人の御意志に反する、学会の過去のことを批判するものであったため、上人の命により同年6月16日付の院達で、同紙の編集者を戒めておられます。(中略)
これが日達上人の御真意であります。(中略)したがって、現在、正信会などというグループを作って宗門の意に反抗して学会を攻撃したり、宗内の問題を意図的に外部へ流したり、果ては法主を誹謗するような行動をとっている僧侶や、それに付き従っている一部の檀徒の人は、勝手に日達上人のお心を歪(ゆが)めてとらえているのであり、ひいては、大聖人の仏法の本義、血脈の仏法に違背した謗法の姿といえるのであります。(第67世日顕上人『宗内檀徒の皆さんへ』)。
・次に、創価学会の善導に関するお言葉を拝したい。
●今年に入ってからも、池田名誉会長は4月2日、機関紙上において過去のいろいろな面を総合的に含み、要点をくくって根本的な反省をしております。これは深い信心のうえから発した、仏祖三宝への懺悔と思われます。(中略)
もちろん、学会は大きな組織であり、今回の問題が一般会員にまで完全に浸透しているとは思われない姿も見受けられます。
したがって宗門としては、今後いよいよその徹底を促していかなくてはなりませんし、現在および将来に向かって再び学会が過ちを犯すことのないよう、意を用いていくのもまた当然であります。ゆえに、このところに宗門全僧侶が一結していくことを切に望んでおります。(第67世日顕上人『宗内檀徒の皆さんへ』)。
・今日、こうした日顕上人猊下の御慈悲溢(あふ)れる善導を嘲(あざ)笑らかのよらに、誹謗を繰り返す創価学会であるが、この「宗内檀徒の皆さんへ」を読み直すならは、日顕上人猊下が創価学会を護り育てるためにどれほど御苦心されたかが、誰にも理解できよう。
*この文書は、主に『慧妙』紙の内容などを編集、掲載させて頂いたものであります。
52年路線について(仮題)
(第67世日顕上人『富士の法統』妙教編集室48頁~)
【池田の代で変質】
創価学会は、だんだんと変質してきました。
私は、戦前牧口会長とも3度ほど会って話もしております。戸田会長とはそれ以上の知り合いでした。池田などが入信する前から創価学会のことはいろいろと知っています。
私は戸田会長は、教義上、やはり宗門の古来のあり方、古来の教義、そして血脈相承による仏法の継承とそれに基づく信条、信じ方というものは、それはやっぱり、正しいものがあったと思っているのです。私はそのように感じるのです。しかし、そこから逸脱してしまったのが池田なのです。
【学会中心の法門解釈】
池田は、ある時期から「創価仏法」ということを言い出したでしょう。あれがそもそもおかしい。これについて宗門が、学会の教義的、思想的な誤りを責めたけれど、あれはその点においては正しかったと思うのです。それと、池田は、「妙法こそ、大宇宙を貫く根源の法」などといって、大聖人様が御本仏として人法一箇であらせられるのに、大聖人様以外に別に法が存在しているような意味に取れる変なことを言ってみたり、また牧口・戸田・池田が久遠の師弟であるようなことまで言っていました。本来、大聖人様と日興上人の関係に対して申し上げることを、自分たちに当てはめるようなことを言っていたのです。要はね、宗門の法義を自分たちの所に持ってきたいのだよ。そればかりか、そっちの方がむしろ中心のようにしたかったのでしょう。このようなところが池田大作の根本的な逸脱であり、背反の元になっている思想的なあり方であったと思うのだね。それが1つです。それから、「人間革命は現代の御書だ」なんていうことも言っていました。池田ごとき凡夫が自らを大聖人様と比肩する、思い上がりもはなはだしい邪義宣伝です。
【正本堂の意義付けと池田の憍慢】
正本堂に関しては、要するに「三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇は我々が造るのだ」という考えがあり、大分前から「広宣流布は我々学会の手で」というキャッチフレーズがありました。私は、それはあくまで、広布に対する純粋な使命感としての言葉で、広宣流布を未来に向かって永遠に進めていく団体が創価学会なんだと、そこまでならば自然の形で、当時は良いと思っていたのです。けれども、もっと具体的に、正本堂が広布の達成である「一期弘法抄・三大秘法抄における事の戒壇なんだ」という考え方が池田の中に出てきたのです。特に正本堂着工大法要における池田の発言は、まさしく、全文ではないが三大秘法抄の文を挙げて、この正本堂が事の戒壇であると言っているのです。ですから池田は、正本堂は一期弘法抄・三大秘法抄の本門の戒壇であると、はっきりと宣言していたわけだね。だから、その意味において非常に驕(おご)り高ぶった、自分中心の考えがあって、つまり池田は、大聖人様の仏法の一切を創価学会がやり切ってしまって全部終結したと、広宣流布を完成させたのは自分だと言いたかったわけですね。
しかし、考えてみればこれは大変なことなんだ。大聖人様は、「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながる(流布)べし」と説かれ、また、御義口伝にも「末法万年まで利益する」ということを仰せになっている。それであるにもかかわらず、「これで終わった」ということになって、大聖人様の一期弘法抄・三大秘法抄に示される戒壇の深義、事の戒法というものが、正本堂を建立することによって全部でき上がったならば、将来における大聖人の、根本的な御遺命の戒壇建立の意義も何もなくなってしまう。もっとも池田大作は、恐れ気もなく、「戒壇建立なんていうものは形式の形式、従の従にすぎない」などと放言して、大聖人の仏法を軽しめていたからね。大聖人様の三大秘法の一番根本の御指南を、自分勝手に踏みにじる、無類の憍慢(きょうまん)、計我、浅識の大謗法者と言えますね。私は、やっぱりそういう点からも、池田の狂った指導により、大変に大きな間違いを創価学会全体が犯してきていると思うのです。
ただ、この前も教師講習会で戒壇問題に対して申し述べたことなのだが、一時はあの創価学会の勢いの中に、宗門がみんな巻き込まれていた形もあったのだよ。私も教学部長の時代に、創価学会が宗門全体を呑み込んでしまうような勢いの形があって、そのなかで、彼らに影響されたような形の発言をしたこともあったと思う。日達上人もある意味においては、創価学会を善導していくために、彼らがあまりにも思い上がってはいるが、良い意味でも悪い意味でも、正本堂を建立するという目標に向かって盛り上がっていた中で、彼らに対し、ここまで広布を前進させてきたということに対して、喜びを与えるという意味で、世界悉檀・為人悉檀を用いて「大聖人様の仏法が広宣流布されつつある」という意味のご発言を、ごく稀ではあるが、されておられる。但し一番根本のところでは、きちっとけじめはつけておられました。
これも教師講習会でも話したと思うが、正本堂が完成した後、創価学会が日達上人に賞与御本尊の下付を願い出たのです。池田はその裏書きに「正本堂は大聖人の御遺命の戒壇である」とお書き下さいと願ってきたのです。池田はそのように、日達上人に、この裏書きが将来の証拠となるように書かせたかったのですが、日達上人は「御遺命の事の戒壇に準じて」とお書きになって彼らの慢心を挫(くじ)かれたのです。この「準じて」ということは、そのものずばりではないということですよね。ですが、彼らはあくまでも正本堂を本門の戒壇そのものとしたかったのですね。彼らは「正本堂建立を、三大秘法抄に示される大聖人の御指南を実現し、意義においても達成したもの」と言いたかったのだけれど、日達上人並びに宗門の反対にあって、それができなかったから、本門寺の額をあげる(広宣流布が達成される)時でないにもかかわらず、正本堂こそが、広宣流布の暁の戒壇堂になるのだというところに池田は固執したわけですね。ですから当時学会の考え方に宗門を従わせるようにいろいろな強圧があったのです。以上のような経緯があって、正本堂に対してはご存知のような定義(※正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇)ができあがったのですね。
しかし、根本のところで日達上人が池田のわがまま、謗法を許されないため、日達上人に対しての怨念が強くなっていったと思います。それらが種々の宗門批判や教義逸脱となって、昭和51、2年ころ顕著になったのでしょう。
52年路線は学会独立路線
(原島嵩『妙教』H12?)
昭和52年路線は、動機がどうであれ客観的にみれば、創価学会が独立してもよいほどの状態だったのです。
たとえば"教師"が学会で任命され、会館には山号がつけられ、さらに日蓮大聖人直結の、牧口初代会長、戸田2代会長、池田大作へと流れる師弟血脈が語られ、かつ、それぞれの会館で、寺院で行なうのと同じような儀式が営まれたのです。あるいは「慧光照無量」として、亡くなった人に、池田自ら"妙"の一字を書き、これでこの人は成仏したと語り、さらに発展して塔婆供養のかわりに、「慧光照無量」として各人が亡くなった人の名簿を提出し、広布基金を御供養として出すなど、さながら独立教団の様相を呈していました。こうして春秋彼岸の法要も会館で行ない、寺院への流れをストップさせたのです。「形式は必要ない」といい、寺院の儀式を否定しておきながら、学会独自の儀式を行なうのですから、ずる賢いといわざるをえません。
なぜこのような宗門への敵対感情をむき出しにしていったのでしょうか。それは、様々な角度からいえるでしょうが、この世に自分以上の存在があることは許せないという池田大作の独善が、そのような行動に走らせてしまったことに根本原因があると思います。現在の暴走は、52年路線以上です。しかし、根っこは、池田の独善と思い上がりに端を発している点で共通しています。指導者の誤りほど恐ろしいものはありません。
総代会で偽りの宗門批判(仮題)
―学会を批判する若手僧侶への憎悪―
(山崎正友『慧妙』H15.8.1)
すでに私達の行なった会計調査で、総本山にも宗務院にも、余分な財力など全くないことは明らかになっており、池田大作もこれについて充分知っていた。
それでも、池田大作は、「貌下の下には、僧侶や信者から御供養が集まり、莫大(ばくだい)な"お手元金"がある」
「寺は、儲(もう)かって仕方がないはずだ。坊主は、二号を抱えたり、贅沢三昧(ぜいたくざんまい)の暮らしをしている。
学会員が、貧しい生活に耐え、必死に折伏しているのに、坊主は何もせず、のうのうと贅沢に暮らしている。学会を食い物にしているのだ!」
などと言って、宗門に対する経済封鎖を強め、その上さらに、お金を搾(しぼ)り取ろうとしたのである。
昭和48年11月27日の総代会(学会員の総代を本部に集めて行なった)の記録を見ると、池田大作は、宗門に対する"こわもて"路線について、
「言論問題あたりから、若い僧侶が威張っている。若い僧侶は大金を持ってバーへ行って、皆さん方(総代)を顎(あご)で使って、こんな姿勢があるか。本山の坊さん、金を一杯持って、それで出せ出せとは嘆(なげ)かわしい。日蓮悪宗になる。腹黒すぎる。それで立ち上がつた。」
「本山は生意気になった。残念ですが、傲慢(ごうまん)になった」
「若い坊さんは出世が早い。広宣流布など考えていない」
「法華講は、新しい寺の支部結成は差し控(ひか)えていただく。坊さんは法華講が使いやすい。そうなると、こちらとの関係がまずくなる」
「今の大宣寺関係は皆、信心がない。嘆かわしいと言っている。何が何だかわからない。天狗だ」
等々と、言いたい放題に宗門批判を行ない、自らの行為を正当化した。
しかし、僧侶の素行(そこう)については、具体的な事実の指摘など全くなく、また、総本山から創価学会に"金を出せ"などと要求されたことも1度もない。
そもそも、寺院が信者の外護(げご)によって存続するのは、当然のことであり、信者が奉仕することなくして、寺院はありえない。
そして、創価学会が出現する以前から法華講は存在し、僧侶と在家は"水魚(すいぎょ)"の交わりを維持し、僧俗和合して日蓮正宗を今日まで守り続けてきたのである。
こうした事実を根底から否定するような、池田大作の本意はいったい奈辺(なへん)にあったのか。
池田大作は、要するに言論問題以後、宗門の、主に若い僧侶達が、創価学会の在(あ)り方に批判的であり、また、宗門が、必ずしも池田大作の言いなりに従わないことへの怒りを、このような形でぶちまけたに過ぎない。
ことに、当時、日達上人の直弟子方の、在京での養成機関のような存在であった大宣寺と、その在勤者に対し、八つ当たりしたわけである。
さらに、昭和49年正月2日、創価学会代表を引き連れ、御法主上人猊下に年賀の挨拶をし、食事をいただく席で、池田大作は、
「本山の御僧侶が、地元で豪遊し、問題を起こしている。評判が悪い。注意していただきたい」
と申し入れた。
日達上人は、顔を真っ赤にされて、
「それは、事実ではない。そんな僧侶は、本山にはいない。ためにする中傷です」
と否定された。
すると、池田大作は開き直り、態度を改めて、傲然(こうぜん)と言い放った。
「猊下、そんな言い方はないでしょう。それはいけませんよ。私は、良かれと思って忠告申し上げている。私の言ったことは事実だ。検察庁でも話題になっている。ここに、検事達も来ている。」
池田大作は、法学委員会出身検事で、静岡地方検察庁富士支部勤務の会田宣明検事に対し、
「会田君、そうだな!!」
と証言を強要した。
会田検事は、顔色を変え、苦しげに下を向きながら、小さな声で「ハイ」と答えた。
だが、この前日、会田検事が実際に池田大作に話した内容というのは、
「学会員の犯罪が多く、彼らは、取り調べにあたって刑を軽くしてもらおうとして"自分は学会の信仰を一生懸命やっている"と言う。そのことが、創価学会のイメージを悪くしている」
ということであって、"僧侶の素行"云々などではなかった。
会田検事としては、池田大作にたてつくわけにはいかず、やむをえず「ハイ」と答えたが、そのことが長い間、会田検事の心にわだかまり続け、活動に精彩を欠いた。
要するに、池田大作の一連の行為は、正本堂落成以後、日蓮正宗を完全に自身の支配下へ置こうとするためのものだったのである。
そのため、創価学会員をけしかけて、寺院への参詣減少、経済封鎖を行ない、宗門の経済力を奪(うば)おうとしたわけである。
その邪魔になる、従来の"法華講"を押さえ込もうと、さまざまな手段も試みた。
そうして、周囲を固めた上で、池田大作は
「猊下より、俺の方が上だ」
と誇示すべく、ことさら御法主上人に無礼を働いたのである。
特別財務(仮題)
(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H16.10.16ほか)
昭和50年から、池田大作は、宗門にも世間にも内緒で、"特別財務"を集めはじめた。
それが、3年足らずで600億円を超える額となり、池田大作は有頂天(うちょうてん)になった。
正本堂の御供養金355億は、建前上、宗門に御供養される性質のものだったから、その使途は制限された(それにもかかわらず、池田大作は、何かと口実を設けて、それを宗門の、自由にさせなかった)。
しかし、特別財務の600億円は、池田創価学会として、全て自由に使える金である。池田大作は、さらに特別財務を800億円集める計画を立て、各地方に割り当て、尻を叩(たた)いていた。
【宗門攻撃の"軍資金"】
昭和50年から始めた"特別財務"は、日蓮正宗と戦争を始めるに当たっての"軍資金"集めの意図を含んでいた。万一、会員が動揺し、脱会者が出るようになったら、金集めどころではなくなるから、念のため集めておこうというもので、後に、破門される平成3年の直前にも、同様の激しい金集めが行なわれた。
また、全国各地に、会館や研修道場を建てまくったのは、各地の会員が寺に行けなくなった場合を想定して、これに代わる施設を作る、という意図であった。後に、池田大作は、「仏教史観を語る」(昭和52年1月)で、
「会館は現代の寺院である」
と宣言したが、これは、会員に
「寺には行かなくてよい。会館に来ればよい」
と呼びかけるものであった。
こうして、"代用品"を用意した上で、「寺院封鎖」を行なったのである。
特別財務にはまた、会員から搾(しぼ)れるかぎり搾り取って、会員が日蓮正宗寺院に"御供養"することを防ごう、とする目的があった。(『慧妙』H16.12.16)
【違法開発】
こうして「日本一の金持ち」気分にひたった池田大作は、日本中、所かまわず土地を買い漁(あさ)り、会館・文化会館を建てた。また、温泉地・観光地の物件を買い漁り、"研修所"という名目で、温泉付き"別荘"を建てた。
池田大作は傲(おご)り高ぶり、油断しきっていた。
そのため、昭和52年4月、民社党から国会に提出される質問趣意書の写しが送り付けられた時、
「土地取得や開発行為に違法がある。宗教施設の名目で、実態は、保養所や池田大作の豪華専用施設が作られている」
等と指摘されると、一度に肝(きも)を冷やされた。
5月初めから、北條浩理事長を中心に特別プロジェクトチームを組み、公明党議員、弁護士、公認会計士、学会本部建設局及び経理局を動員して、全国の研修所・会館・文化会館その他の取得不動産の総点検が行なわれ、特別財務の集計と使途の総点検が開始された。
驚いたことに、600億円もの集金とそれを使う作業は、池田大作の直接指揮のもと、各地の担当副会長・幹部・建設局が行ない、北條理事長以下首脳は、後から法人上の手続きをとり、形を整えるだけで、実態をほとんど知らなかったのである。私達専門家グループさえ、ツンボ桟敷(さじき)に置かれていた。
そして、調査の結果、恐るべき実態が明らかとなった。
池田大作が、600億円を使って買い漁り、建てまくった不動産と建物は、法と常識を全く無視した、文字どおり"やりたい放題"であったことが判明したのである。
例えば、北海道・根室の"別海研修所"(当時)では、国定公園内の防風保安林を、無断で違法に伐採(ばっさい)していた上、誤って、隣地の町有林を伐採していた。
大沼・十和田・箱根といった従来からの研修所にも、無許可で、勝手に巨大な石碑を建てたり建物や庭園を造(つく)っていた。
和歌山県白浜では、温泉ホテルを10億円(当時)かけて買い取っていた。文字どおりのレジャー施設であった。
愛知県渥美半島の渥美研修所は、県が"保養施設専用地域"に地域指定し、払い下げを行なった土地を、公明党議員の働きかけで創価学会が買い入れ、「会員がレジャーを楽しみ保養するための施設を作る」という申請書を提出して建ててしまった。しかも申請書は、創造社の社員が、代表役員である北條浩理事長の印を偽造(三文判を使って)した文書であった。
中でも圧巻なのは、"霧島研修所"だった。
地元の役人を懐柔(かいじゅう)して許可を取り、それを何十倍にも拡大して自然破壊を実行した。
"人間が通れる遊歩道"が、いつの間にか"自動車道"に化けた。
「九州広布の碑」という巨大な塔を作り、周囲を公園にして、広範囲にわたって山肌を切り崩した。
国立公園内の温泉湧出地である上、活火山帯の中で、あちこち噴煙や蒸気が噴(ふ)き上がり、雨が降ると一夜で地形が変わるという土地に、危険を承知で乱開発を行なっていた。
乱開発は、池田大作が"創価学会の本山を作る"と意気込んでいた八王子地区でも、大々的に行なわれた。
池田大作は、後に講演の中で
「環境を破壊する者は人類の敵である」
と言っているが、自らに"人類の敵"のレッテルを貼(は)ったのである。
さらに、これら会館や研修所には、池田大作の、贅(ぜい)を尽くした"専用施設"が軒並み作られた。
その実態については、これまで多く語られているので、ここでは省略する。
こうした"違法行為""違法開発"を隠ぺいするための"原状回復作業"が、その後2年にわたって突貫作業で行なわれた。
建造物は壊され、あるいは地下に埋められた。
専用施設には「恩師記念室」の看板を掲(かか)げ、豪華な調度品はあちこちに分散して隠し、かわりに牧口・戸田会長らの模造品の遺品を形ばかり並べた。
これらの作業は、マスコミに漏(も)れないよう、極秘裏に行なわれた。
その一方で、民社党に対し、国会質問は止めてくれと、必死で働きかけた。
切り札は"学会票"だった。
民社党候補に対し、学会票を貢(みつ)ぎ物に差し出す。ということで、何とか国会質問はくい止めた。"公民選挙協力"は、この時から始まった。
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〈小川(元学会広報部副部長)〉私は、池田の「仏法史観を語る」の中の、1つの重要なキーワードである、維摩詰を譬えにした"在家も供養を受けられる"という指導に絡んで、特別財務の担当を命じられました。それで、今、考えるとたいへん申し訳ないことをしたと思うんですが、とてつもない金額を集めたんですよ。
それは、前年までとは打って変わった異常なまでの集め方で、私は大分と熊本を担当したんですが、福島源次郎さん(当時副会長、学会本部長)に「小川君、ちょっと熊本へ行ってくれ」と言われて行ってみたら、県幹部以下みんな冴(さ)えない顔をしている。なぜだろうと思って聞き出してみると、支部ごとに相当な割り当てがきている、というんです。
それじやダメだ、ということで福島さんにかけ合い、全権を委任してもらって、あくまでも"御供養の精神で"ということを前面に押し立てていったんです。
〈小多仁(元学会本部職員)〉私は学会本部の連絡局に親しくしていた人間がいたものですから、よく出入りしていたんですが、その当時、運絡局には凄(すさ)まじい数の苦情が入っていて、当時の局長が「上田の奴はどうしようもないな。こんなことをしていたら組織が潰(つぶ)れるぞ!」と怒り心頭だった。
というのは、上田雅一が第2東京の特別財務の指揮官をしていて、そのやり方が荒っぽかったんです。"あの支部ではこれだけいった""この支部ではこれだけになった"と、どんどん煽(あお)るんです。だから苦情が多くて当然なんですが、それだけやるものだから、第2東京はズバ抜けて数字がよかったんです。
それで上田が池田大作からお褒(ほ)めの言葉をいただいた。すると、あれだけ怒り心頭だった連絡局長が沈黙してしまいましたよ。
もっとも、上田は池田とツーカーだったから、むしろ、池田が上田を通して組織全体を煽っていた、とも考えられますが。
〈小川〉私も、組織全体に向けては"御供養の精神で"ということを前面に出していきましたが、県幹部に対しては、"(金を)持っている人のところへ行って個人指導し、大口を取ってこい"とハッパをかけましたよ。そうしないと、とてもノルマを達成できませんでしたから。
言論弾圧問題の後、透明性を高めるということで、創価学会が1度、本部幹部会で学会予算を公表したことがありましたが、その金額は約75億円でした。戸田会長の時代からの手法での金集めは、その程度が限界だったろうと思います。
ところが、この年の特別財務では、大分で15億、熊本で20億、佐賀で9億集めてしまった。3県分で以前の年間予算の半分以上の金額を集めてしまったんですよ。全国ではいったいどれだけの金額が集まったことか――。ことによると1千億の大台に乗ったかも知れません。"御供養"という言葉がいかに絶大な力を持っているかが、よくわかります。
〈小多仁〉池田は、やはり正本堂御供養に味を占めたんでしょうね。
〈小川〉そうですね。大客殿の御供養で旨(うま)みに気付き、正本堂御供養で完全に味を占めたのでしょう。なにしろ、31億の目標に対して、フタを開けたら355億も集まってしまったのですから。
(『慧妙』H19.11.1)
栄光会・伸一会
―周到に準備して"作戦"を実行―
―「第2の身延離山だ」と野崎勲―
(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H16.12.16抜粋)
昭和52年に開始された日蓮正宗攻撃は、池田大作が、昭和49年頃から、用意周到に練り上げた計画に基づくものであった。
昭和49年、日達上人は、池田大作の横暴と、日蓮正宗支配を目論(もくろ)んだ「国際センター」の押しつけに対し、もはやこれまでと、いったん創価学会との"絶縁"を決意された。
池田大作は、この時、元妙信講(顕正会)の攻撃や幹部の造反などで足元を揺さぶられていたため、日達上人の前に膝(ひざ)を屈して謝り、何とか関係を修復した。
しかし、それは表面上のことで、内心では、この時の屈辱(くつじょく)をしっかりと根に持ち、
「あとで必ず報復してやる」
と、復讐(ふくしゅう)の炎を燃やし続けていたのである。(中略)
しかし表向きは、妙信講(顕正会)対策や、保田妙本寺問題、松本勝彌らによる御供養返還運動や訴訟に対応するため、あくまでも良好な関係を装いながら、"独立戦争"に備えて、準備をしていたのが、昭和50年から51年の間であった。
池田大作は、また、宗門の分断を策し、宗務院役僧や内事部役僧達に対し、下にも置かぬもてなしをし、御供養をした。「栄光会」なるグループを作って、将来、宗門の中心となると見られた若い僧侶達を入れ、池田大作が直接指導しようとした。
一方、学会出身の僧侶や学会シンパの僧侶達のグループを作り、「池田本仏論」「学会中心論」を吹き込み、いざという時には創価学会に付いて忠義を尽くすよう、徹底して教育した(後に、「栄光会」の僧侶は、宗門僧侶としての信念から"反学会"を鮮明にしたが、後者の中からは、平成3年の創価学会破門後、宗門を離脱して創価学会に養われる道を選ぶ脱落僧が出た)。(中略)
池田大作は、さらに、日蓮正宗攻撃にあたって周到な計画をめぐらせた。
行動部隊として青年部のエリートを集めた"伸一会"を作り、野崎勲副会長の直属下に置いた。いわゆる"輸送班"等の青年部組織も、正宗攻撃のために訓練した。
昭和51年暮、組織の立て直しが成功して、公明党が総選挙で大勝した後、池田大作は
「いよいよ、宗門をやる」
と宣言、一握りの首脳を集めて作戦を立てた。
その後、野崎勲は、"伸一会"メンバーを集め、
「いよいよ宗門と一戦交える。"第2の身延離山"となることも覚悟して、徹底的にやる」
と宣言し、僧侶に対する"吊るし上げ"を開始したのである。
その際、
「地域の学会組織には絶対知らせるな、親にも女房にも言うな。極秘でやる」
どクギを刺した。
会員達が動揺することや、マスコミに騒がれることを警戒し、極秘裏のうちに、日達上人を追い落として傀儡法主を立て、反学会僧侶を残らず粛清(しゅくせい)して、日蓮正宗を「創価学会典礼部」とし、御法主上人を「創価学会のための御本尊書写係」にしてしまおうと、行動を開始したのである。
「仏教史観を語る」の狙(ねら)い
(原島嵩『妙教』H12?)
さて、昭和52年の1月15日、関西の戸田記念講堂において、有名な「1.15講演」(『仏教史観を語る』)がなされました。
その趣旨は、第1に在家でも供養が受けられること、第2に創価学会が、在家、出家の両義を兼ねること、第3に会館が近代の寺院であること、の3つの内容から成り立っております。この講演が、会内的にも社会的にも、創価教団という一種の独立した在家集団を作る印象を与えたことは事実です。またこの講演がきっかけとなって、総本山や寺院参詣は大幅に縮小され、会館へ会館へと流れができてしまったことはまぎれもないことであり、広布基金を御供養の名のもとに集めることになったのですから、その歴史的経過の中にあって、いくら弁明しても、同講演の占める比重は大きいものがあります。
この講演は、創価学会のシンパには評価された面もありますが、その内実は、やはり宗門を敵対視してなされたものです。日達上人の弟子の一人が学会の信仰のあり方を論文で問うたことに対して、池田は烈火のごとく怒り、私たちに、1月15日に「会館は近代の寺院」と発表するから、その原稿を大至急つくれと命じたものだったのです。どんなに表面的には進歩的なポーズをとろうとも、それが真相です。
この講演に対して、日達上人がどれほど悩まれたか、私は後に宗門文書(宗務院と学会の記録文書)で知りました。"日蓮正宗は小さくなってもいい、日蓮正宗だけは純粋に守りたい"ともらされていました。
そのころ、池田大作は、青年部を使って日達上人の弟子方を次々と吊し上げ、詫び状をとっていったのです。日達上人に対しても"日達上人は婦人に弱い"といって、婦人部のなかで身内に僧侶のいる人を使って問詰させたのです。
また、「1.15講演」から数日後、第4回伸一会(池田の弟子からよりすぐって形成された後継者グルーブ。伸一の名は、池田のペンネーム)において、
「大聖人の場合は人数も少なかった。時代も違う。弟子も少なかった。信者も少ない。そういう意味からいえば楽である。我々の場合には時代は激動である。そしてマスコミもある。陰険な人間ばかりである。しかし一代で終わらない。大聖人の場合には一代で一応終えられた。我々の場合にはなおさらズーッと延長、拡大していかなくてはならない」(内部文書)
と語っているのです。
自分が日蓮大聖人にとって代わり、それ以上の存在として君臨しようとする意図は明白です。それにしても日蓮大聖人と自分を比較して、「大聖人の場合は楽である」などとよくもぬけぬけと言えたものです。大聖人は、竜の口の法難、佐渡流罪をはじめ、大難の連続であられました。池田が、どんな大難を受けたというのでしょうか。しかも、「一応」とはいうものの、「一代で終えられた」というのは日蓮大聖人の末法万年尽未来際にわたる一切衆生の御化導を否定したものです。また開祖・日興上人の御事跡をもないがしろにするものです。さらには日蓮正宗700年の法水と伝統をも否定するものです。
同年2月16日、日蓮大聖人御生誕記念勤行会の席上、池田大作は、『日興遺誡置文』(日興上人が後代のために26か条の御遺誡をのこされた)の「一、富十の立義聊かも先師(日蓮大聖人のこと=筆者註)の御弘通に違せざること」等の文を引用して「大聖人直結、御書直結」を語り、「途中の人師、論師が根本ではない」と講演しましたが、この原稿も、池田が骨子を私に語り、それをもとにつくったものです。後に、御宗門からの「途中の人師、論師とはだれを指すのですか」という質問に、私たちは非常に困ったのです。歴代の御法主上人のことではないというわけにもゆかず(実際には歴代御法主上人を指しているのですから)、やむなく「この人師、論師は唯授一人血脈付法の御法主上人猊下の御内証のことではない」として、「の御内証」という言菓を入れてだれを指すのかは明確にしなかったのです。しかし、これは明らかに、後に苦心のすえ御法主上人の立場、言動と、その内証の法水を立て分けたとはいえ、当時は大聖人直結ということで、御法主上人の血脈を否定、もしくは軽視せしめ、どこまでも創価学会を人聖人からの"信心の血脈"を受けついだ主流にすえようとしたことは間違いありません。
[画像]:池田大作の記念講演『仏教史観を語る』について報じる『聖教新聞』(S52.1.17)=昭和52年、池田はまず、創価学会の元旦勤行の場で、続いて『仏教史観を語る』の中で、「僧侶・寺院不要論」「創価学会至上論」を展開し、事実上の独立宣言をした(『慧妙』H17.12.16)
第1回広布会(仮題)
―昭和52年、総代集め「広布会」開催―
―池田が語った無慙(むざん)な宗門誹謗の数々―
(元学会本部職員・小多仁伯『慧妙』H16.7.1~H16.9.1編集)
(昭和52年1月20日)"第1回広布会全国集会"が、関西総合研修所で開催され、以後、全国の方面・県組織、壮年部・婦人部・青年部等へ、創価学会の独立路線を徹底していった。
この広布会とは、全国の日蓮正宗寺院で総代をしている学会員を対象に行なわれた会合である。その広布会で池田大作は、御法主上人猊下をはじめ、宗門御僧侶に対する無慚(むざん)きわまりない誹謗(ひぼう)・中傷を、延々と3時間にわたるスピーチによって繰り返したのである。
[画像]:第1回広布会全国集会について報じた『聖教新聞』(S52.1.21)=しかし、池田スピーチの内容は1行も紹介されなかった
[画像]:第1回"広布会全国集会"での池田大作スピーチを全て記録した原稿=その原稿用紙には、「聖教新聞社原稿用紙」と印刷されており、タイトル名は「昭和52年1月20日 広布会 関西・白浜」と記され、表紙の頭に"スミ""重"の文字もあるように、かなり重要な内容であることが分かる。
【独立指向の「広布会としての5項目」】
「第1回広布会全国集会」の中で発表された、根幹となる方針に、「広布会としての5項目」というものがある。池田大作は、これを徹底することにより「創価学会の独立路線」を明確にしたのであった。
<広布会としての5項目>
1.大聖人御遺命の広宣流布の使命に生きよう
2.寺院とは不離不即を原則に
3.連絡・報告は正確かつ速やかに、本部と直結しよう
4.会員を守るため、責任役員の立場を生かせ
5.僧侶の堕落(だらく)を許すな、寺の世話役になりさがるな
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この5項目は、秋谷副会長(当時)が発表した。それに際して池田大作は、次のように嘯(うそぶ)く。
◆ほんとうに困ったものだと、恐ろしいと、こわいと、こういうふうに何十年、牧口会とか戸田会とか、大勢、みんな慨嘆(がいたん)していた。ずーと知っているから過去を、あのー過去から現在を。それで、今日、お集まりの皆さん方は信頼できる方々であって、この点もどうか腹に含めていただいて、副会長等々で、いちおう、その、発表はできないけれども、5項目をどうしても言わせてくれと、こういう意味で、いちおう、よろしいですか(ハイ)。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
【池田の宗門誹謗スピーチ】
この"広布会"における池田大作の講演は、過去の講演の中でも突出した宗門攻撃に満ちており、池田の代表的な宗門批判スピーチとして、歴史に残るものになるであろう。
今回、この池田スピーチの原稿が表面化したことで、創価学会の謗法路線が、当時すでに、これほど酷(ひど)いところまで進んでいたことを知り、驚きを禁じえない。
これらの池田スピーチは、その後、御法主上人猊下に対する誹謗(ひぼう)・中傷ヘエスカレートしていき、さらに宗門御僧侶への恫喝(どうかつ)、詫び状攻撃へと転化していったのである。
この時の実行部隊は、野崎勲と原田稔が指揮をとり、創価班全国委員長の竹岡誠治(ヤフーBB事件の実行犯)らが、御僧侶方のスキャンダルの情報収集にあたったり、寺院攻撃などの謀略(ぼうりゃく)を実行していったのである。
◆これは新聞には出しません。また、なんだかんだ、始まるから。なにがあっても、こちらが大きいしね。信者なもんだから、内外ともに悪くされてしまう。そういうようなことをされないように、うまくやってくださいよ。損しちゃうから。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
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池田の腹黒い本性があからさまに出ている内容である。学会員総代たちを"先兵"にして、全国の寺院に揺さぶりをかける意図が明々である。それにしても、"腹に含めておいてくれ"とか"『聖教新聞』には出せない"とか"うまくやってください。損しちゃうから"などという言い草は、悪事を謀(はか)る黒幕のようであり、また、裏社会に暗躍する盗人の親分のようでもある。
◆これは、戸田先生の遺言なんです。いわゆる、寺信心がいけない、と言ったでしょう。寺信心、あのう、坊主におせじ使ってね、寺信心になってしまうと、もう折伏ができなくなってしまう。幹部の言うことを聞かなくなってしまう。信心が濁(にご)ってきちゃう。広宣流布を忘れちゃう。そこにもう、(寺の)家来になったみたみたいになった場合には、もうその人は浮かばれないよ。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
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こうした池田の発言の真意は、寺院に参詣していくと、創価学会の謗法路線がバレバレになってしまうから、どうしても参詣を止めたいのだ。
信仰者が寺院に参詣することは、個人の信仰の発露(はつろ)である。それを、"寺信心"と揶揄(やゆ)し"不離不即"と足枷(あしかせ)する創価学会は、もはや信心を切磋琢磨(せっさたくま)する団体ではなく、会員をマインドコントロールするカルト教団、そのものである。
<広布会の目的>
◆お寺と総代、僧侶と信者との関係をきちっとしておきたい(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
<幹部の進言によって開催>
◆強く、副会長等のお話や県長級のお話やその他、本部の部長級からも再三となく進言がありまして"わかりました"じゃあ、総代の方々にもお集まり願いまして、これからのことをよく協議しながら理想的なものを作ろう(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
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池田は"副会長の誰々が言っている""県長や幹部が言うには""婦人部がこのことで泣いている"等々の言い訳をくりかえしながら、池田自身が「やむをえず、この僧俗一致問題を取り上げた」ように、装うのである。
◆じつは、2、3年来から、もっと前から、もっと延長すれば戸田先生時代から、この問題、すなわち、お寺との問題について、いろいろなことがこざいました。私は最大限に、こちら側が悪い、といってどんな報告があっても、学会側の方に非があるとして、私は厳しく抑え、そして、いざこざがないように、最善の努力をしてまいりました(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
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池田は一方では、青年部に対し、宗門をどんどん追い詰めろ!と檄を飛ばしているのである。"学会側の方に非"とカッコつける池田大作。―ああ!ヘドが出そうだ!―
◆しかし、将来、将来を考えた場合に、私からこういうことは言いたくないけれども、きょうは、何を話してもいいですね。みなさん方を、信頼していいですね。誤解しないでくださいね。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
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池田は"私からこういうことは言いたくないけれども・・・"と言い訳するのが得意だった。
◆これは新聞には出しません。また、なんだかんだ、はじまるから。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
◆みなさん方は、信頼できる方々であって、この点もどうか腹に含めていただいて……(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
◆うまくやってくださいよ。損しちゃうから。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
◆学会のヤツらは、バカばかりだと、こう言っているのです。陰では全部そうですよ。「学会のヤツらは」なんですよ。「バカばかりだから」と、こう言のですから。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
◆ハタチ前後(注・所化さんのことらしい)のヤツらや、30前後の連中に、ねえ、いいようにばかにされたら・・・(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
◆東本願寺より(※日蓮正宗の方が)悪いんじゃないかって! (池田大作/第1回広布会S52.1.20)
◆どんなにしたって、最後は、お世辞だけ使ってね、すってんてんになるだけですよ。だから法華講が伸びないのです。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
◆銀行ですね。銀行、なんにもくれないんでしょう。ただ、もっていくだけでしょう、銀行。寺は銀行だ。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
◆学会の悪口をいっぱい言ったことが、本山に忠誠を作ったことだと言われる。小さい、小さい。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
これが、広布会の池田スピーチ内容の、ごく一部を記したものである。さらに"広布会"では、激しい、口汚ない誹謗・中傷が繰り返されているのである。池田大作は、学会員「総代」たちに、「法主は権威主義」「僧侶は堕落」というイメージを、どのようにしたら植え込めるか、計算して巧妙に聞く者を誘導しているのである。
僧侶吊し上げ(仮題)
―「伸一会」は52年路線の実働部隊―
(『慧妙』H19.11.1)
〈小多仁(元学会本部職員)〉「妙観会」に対抗する形で結成された「伸一会」が、いわば満を持して動いたのが、いわゆる「52年路線」の時の、宗門御僧侶の吊し上げですよね。
じつは私も、原田と野崎が学会本部に御僧侶を呼びつけ、恫喝(どうかつ)する現場に立ち会ったことがあるんです。
原田と野崎が「今から見本を示すから、よく見ておけ」というものですから、いったい何が始まるのだろうと思っていたら、となりの部屋で御僧侶を恫喝しはじめたんです。その様子はテープに録音されていて、そのテープを池田大作のところに持って行き、指導を受けるのだと言っていました。つまり、御僧侶の吊し上げは、1から10まで池田の指示で行なわれていたんですよ。
私は御僧侶を罵倒(ばとう)する声を聞いて"なんて莫迦(ばか)なことをやってるんだろう"と思い、後で野崎に食ってかかったことを覚えてますよ。
〈小川(元学会広報部副部長)〉私は御僧侶の吊し上げには関わらなかったので実際のところはよく判りませんが、池田大作は、昭和52年1月15日の関西戸田記念講堂での「仏法史観を語る」という講演を通して、日蓮正宗に宣戦布告しました。
もっとも、その時は誰も、あれが宣戦布告だとは、捉(とら)えていなかったのではないでしょうか。もちろん私も、全くそのようには考えていませんでした。
その後、1月20日に学会幹部を白浜研修所に集め、池田が原田・野崎に御僧侶吊し上げを命じたのです。
謗法経本作成(仮題)
―「大聖人門流」失格の化儀改変―
(『慧妙』H19.10.1抜粋)
昭和52年、創価学会は三座の御観念文を改変し、ここに牧口・戸田両会長への報恩感謝の一文を挿入しようと企(くわだ)てました。
それをお知りになった日達上人は、「それでは本宗の三宝が改変されてしまう」として阻止され、その上で「両氏の追善供養を全員にさせたいのなら、両氏の追善供養を書いた紙でも経本にはさませて、五座の回向で行なわせたらどうか」と御指南されました。
ところが創価学会は、その御指南に従うかのようにみせながら、創価学会版の経本を作成し、四座の御観念文の間に創価学会の興隆を祈念する文を付け加えたばかりか、五座では牧口・戸田両氏に対して「死身弘法・御報恩謝徳の御為めに」と、追善供養ならぬ御報恩謝徳の文を加えてしまったのです。
日蓮正宗においては、御歴代上人でないかぎり、たとえ高僧であっても「擬報恩謝徳」という表現に留めていますので、在家信徒に対して「御報恩謝徳」などという祈念を行なうことは、増上慢の極(きわ)みであります。
この、御観念文の改変という謗法行為に対し、日達上人は、創価学会版経本の回収を命じ、それと同数の大石寺版勤行要典を創価学会に寄贈されて
「向こう(学会版経本)が謗法だから、それをやめさせて、正しいものを渡した。学会が正宗の要品でないものを使っていたから、それをやめさせて、正しい正宗の経本を与えた」(昭和54年5月29日の御指南の趣意)
と、創価学会の経本は謗法である、と断じられたのです。(中略)
そもそも、勤行を含めた本宗の化儀は、御歴代上人の権能に収まる事柄であり、時の御法主上人が、正法正義に照らし、時に応じて裁定なさるものです。
それを完全に無視したこの時点で、創価学会は日蓮正宗との完全訣別(けつべつ)の姿勢を明確にしたわけです。
[画像]:謗法経本作成=創価学会が第1次教義逸脱問題を起こしたときに作成した謗法経本
意を決した宗門、学会批判を公然化(仮題)
(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H16.10.16)
日達上人は、(※昭和52年)3月下旬、"根性"のありそうな僧侶達に決意を打ち明けられた。これらの僧侶達は、御講などで学会批判の口火を切り、学会幹部達に脱会を働きかけた。活動はじわじわと拡がり、2月に吊るし上げられた僧侶達をはじめ、若い僧侶達が次々と参加していった。
7月頃、日達上人から、私に直接電話が架かって来る。
「山崎さん、見てくれましたか。いよいよ始めますよ。」
この頃、若手僧侶が『蓮華』誌上で、公然と創価学会批判の論文を発表し、それをきっかけに、僧侶達の創価学会批判は、一挙に公然化した。
これに対し、創価学会は、"背腹"から攻撃を受ける形になり、3月までの強気な姿勢を放棄せざるを得なかった。
池田大作は、宗務院役僧を通じて日達上人に
「『前進』を廃刊する(幹部向けの小冊子『前進』で、池田大作は、この誌上で宗門攻撃を続けてきた)。寺院を建立寄進する。
700遠忌も近いが、創価学会は全面協力する。従来どおり御奉公を続けるから、何とか若手僧侶の創価学会批判を止めさせてほしい」
と泣きついた。
しかし、池田大作は、宗門に対しては、まだタカをくくり、見くびった気持ちがあり、口先でごまかしながら、"創価学会独立路線・永久路線"を推(お)し進めようとしていた。
2月・3月の攻撃で勝ち取った宗門に対する支配力を維持しつつ、口先でごまかし、批判を食い止めようと"アメと鞭(むち)""謝罪と恫喝(どうかつ)"を繰り返した。
しかし、もはや池田大作の権謀術数(けんぼうじゅっすう)は、日達上人にも僧侶達にも通じなくなっていた。
日達上人は、創価学会との訣別も視野に入れた上で、僧侶達の創価学会批判を放任された。
僧侶達の多くも、
「一度始めたらもう引けない。引いたら後で粛清(しゅくせい)される。誰が何と言っても、たとえ猊下が言われても、もう学会攻撃を止めない」
と腹を決めてかかっていた。
6.30「教学上の基本問題について」の真相
(『慧妙』H18.1.16)
【宗門の質問状で気付いた過ち】
―池田以下首脳は面従腹背―
〈山崎〉それにしても、昭和52年から55年にかけては、お互い、辛(つら)い、厳しい毎日でしたね。
〈原島〉そうですね。私にとっては、昭和53年6月19日に御宗門から創価学会に宛てて「教義違背についての質問状」が送られ、これに対する回答である同年6月30日の『聖教新聞』に掲載された「教学上の基本問題について」の作成を命じられた時が、事の始まりでした。
池田大作が、昭和52年に、宗門に対して横暴極まりない仕打ちをし、御宗門側から反撃を受けたことについては、池田大作が自ら対処すべきだと、私はやや傍観的な気持ちでした。
しかし、御宗門から来た質問状を拝見した時、じつは、創価学会の"謗法化"に、私自身が、いかに大きく関わっていたかに改めて気付き、愕然(がくぜん)としたのです。
池田大作に命じられ、その意を受けて、そうするしかない立場にあったとはいえ、"創価教学"という謗法の体系を作り出すにあたって、私は、じつに大きな働きをしてしまいました。そのことの罪深さを思った時、私は、目の前が暗くなりました。
父が死の直前、池田大作と創価学会の暴走を見ながら、ただ懊悩(おうのう)していた姿が脳裏に浮かびました。
これは、学会として真摯(しんし)に受け止め、率直に対応し、詫(わ)びなくてはならない、と決意しました。そうしなくては学会は滅亡してしまうし、そうすることが、池田大作や学会員が真に救われる道なのだ、と思ったのです。
しかし、池田大作及び、これに迎合する首脳達の考えは違いました。
「宗門からの要求には"従うふり"をして、坊主達をなだめろ。しかし、学会としては、1歩も退(ひ)くな。特に、会員達には、宗門から咎(とが)められ謝(あやま)った、と受け取られぬよう、うまく対応せよ」
ということを厳命されたのです。
それ以前、昭和52年夏頃から、池田大作は私に
「和戦両用の備えをしておけ。当面、従うフリをしても、いざとなったら、徹底的に戦う。だから、宗門の教学に対する破折を準備しておけ」
と命じ、青年部には、
「坊主のスキャンダルを集めておけ」
と指示していました。
ですから"いつでも戦えるが、当面は頭を下げるフリをしてやり過ごせ。所詮坊主に何が判るか!"というのが池田大作の本音だったのです。
〈山崎〉それで、あのような、あいまいな内容の回答になったのですね。
【日達上人に対し平身低頭した池田】
―一方では宗門への回答を骨抜きに―
〈山崎〉池田大作は、御宗門内に「この際、学会とは手を切れ」という強硬意見が高まったのを知り、同年3月に日達上人にお目通りし
「どのようなお叱(しか)りをも、謹んで受け、御指南どおり明確に改めます。ですから、どうか、"手を切る。ことだけはしないでください」
と平伏して泣きつきました。
それで、日達上人は学会と"手を切る"宣言は思い止まられ、代わりに創価学会の教義上の逸脱を糺(ただ)されるため、宗務院に「質問状」をまとめさせ学会に送られたのです。
池田大作は、これに対し、
「『聖教新聞』1面に、それとわかる見出しで、謝罪と訂正を大きく掲載します」
と約束し、そのことを、私から、日達上人にお伝えし、また、当時、学会批判に猛(たけ)り狂っていた"活動家僧侶"達に伝え、説得しました。
それで、日達上人も、僧侶方も、
「それならば、許しましょう」
と見守っていたのです。
ところが、6月30日付の『聖教新聞』では、1面どころか4面に、「教学上の基本問題について」という、訳の分からない、謝罪・訂正とはほど遠い見出しをつけ、しかも内容は、
「僭越(せんえつ)にならないよう注意したい」
「表現自体は避けるようにしたい」
「他意がないことを明らかにしておきたい」
と、あいまいなものでした。
これでは、学会として教義の誤りを訂正する、というような表現ではなく、会員には何が何だかわからないものでした。
その翌日、当時の光久主任理事から電話で、日達上人が
「こりや、いったい何だ。これでは若い僧侶が収まらないかもしれないぞ」
とおっしゃった旨(むね)、伝えられました。
〈原島〉私が作った回答案は、もっと率直に謝り、訂正する内容でした。
それを、秋谷副会長(当時)らが、さらに骨抜きにし、"ツルツルでとっかかりのない"、会員には意味がよくわからない内容に仕上げたのです。
そして、『聖教新聞』での扱いも4面で、会員には"謝罪・訂正"と取られない扱いとなったのです。
〈山崎〉謝罪・訂正を会員に知らせず、ただ御宗門を何とかごまかしてなだめようという、まことに虫の良いその場凌(しの)ぎを目論(もくろ)んだわけですね。
〈原島〉文案と『聖教』での扱いは、
「山友には知らせずにやってしまおう」
ということになりました。山崎さんが知ったら、絶対反対されるとわかっていたからです。
【日達上人の御指南で正信に覚醒】
―真に「学会を守る」決意固める―
〈山崎〉私は、原島さんや野崎勲らに、日達上人のお言葉を伝え、
「君達は学会をつぶす気か」
と糾問(きゅうもん)しました。
原島さんは、
「申し訳ない。私は、池田先生に"たとえ地獄に行こうと弟子として付いていく"と誓って、弟子第1号になった。その命令には背けない。しかし、何としても池田先生を守りたい。生命に替えてもお守りしたい。君も、池田先生の弟子だろう。一緒にお守りしよう。何とか宗門をなだめてください」
と言いましたね。
〈原島〉ええ。そのとき山崎さんは、じっと私の目を見つめ、
「私も、池田先生と学会を守るつもりで働いている。しかし、私は、日達上人から、昨年2月、
『師匠が地獄に堕(お)ちてもついていく、というのは誤りです。正法をもって諌(いさ)め、師匠を地獄に落とさないようにするのが真の弟子であると、大聖人も仰せられています』
との指南を受けました。そして、
『謗法を犯した池田先生を地獄行きから救うのは、弟子であるあなた達の役目ではないか』
と諭(さと)され、以来、その決意で行動しています。原島さんはどう思いますか」
と切り返しました。
あの時はまいりましたよ。山崎さんから、御法門上の指摘を受けたのは初めてでしたから。
〈山崎〉原島さんは、あの後、私に
「君の言ったことは正しい。これまで私は勇気がなかった。しかしこれからは、信仰の根本に立ち返って、池田先生と学会を真に守る。君も、どうか、猊下の御指南のとおり、学会を救ってください。私も及ばずながら、協力する」
と言いました。
以来、原島さんの姿勢は変わりましたね。
〈原島〉そうですね。しかし、池田大作は、すぐに私の微妙な変化に気付いて、対宗門、対山崎さんの担当から私を遠ざけました。
〈山崎〉一方、野崎勲は
「山崎さんの言うことは正論だ。しかし、これ以上学会に引くように主張したら、私も原島さんも潰(つぶ)される。学会は壊(こわ)れてしまう。いずれにせよ壊れるなら、私は池田先生と心中する。これから私自身は、思い切って方向転換し、"タカ派"になる。心得ていてください」
と言いました。結局、彼は学会中心主義から抜け出せず、会内での保身に走ったのです。一昨年、60歳の若さで死にましたが、すでに学会からは忘れ去られていますね。哀(かな)しいものです。
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【「教義違背についての質問状」】
●私のたてまえとして、今まで学会と仲良くやってきた。今後も、仲良く手を握って広宣流布に向かっていく、ということが良いけれども、それはたてまえとしてはそうでありたい。しかし、私個人の心からいけば、それはどうしても、ちょっとまずいことがあれば、いちいちケンカをしているよりも、いっそ別れて、自分らで、小さくてもいいから、昔みたいに小さくなってもいいからやっていくと、そういう心では思っている。(第66世日達上人・昭和53年2月22日・第2回時事懇談会の砌)
・このお言葉が懇談会の基調となり、真剣な討議が繰り返された後、昭和53年6月19日、宗門として、創価学会の教義上の誤りを指摘することになり、文書を学会に送付した。
その内容をみると
Ⅰ 戸田会長の悟達・創価仏法の原点
Ⅱ 血脈・途中の人師論師・大聖人直結
Ⅲ 人間革命は御書
Ⅳ 帰命・主師親三徳・大導師・久遠の師
Ⅴ 寺院と会館を混同・寺軽視
Ⅵ 謗法容認
Ⅶ 供養
Ⅷ 僧俗
Ⅸ その他
【「教学上の基本問題について」】
・これに対して学会から、これまで逸脱してきた路線を改め、日蓮正宗の教義を遵守する旨の回答を寄せてきた。これが『教学上の基本問題について』と題する文書で、『聖教新聞』紙上で発表されたのが昭和53年6月30日であったことから「6.30」とも呼ばれている。
[資料]:『教学上の基本問題について』(『聖教新聞』S53.6.30)=52年路線における創価学会よりの回答
●ただ今回の回答では、まだ満足しない人があるだろうけれども、だいたい、この線で了解を願いたいと思います。そして今後、あらためて進んでいこうと思います。
また、それが3年先、5年先にどう変わっても、それは我々の責任ではないんだから、皆の考えにおいてどう取っても結構だけれども、最近の問題は、この辺で納めてもらいたいと思います。(第66世日達上人・昭和53年6月29日・教師指導会の砌)
日達上人が学会破折(仮題)
―妙観会の砌―
(『大白法』S54.4.3号外/<妙音>WS)
本日は、第18回妙観会を催しましたところ、寺務の多忙であるにもかかわらず、地方の遠い所から大勢御参集下さり、又総監、教学部長もわざわざ登山して御参集下さいまして、まことに有り難うございます。
最近ことに学会と宗門との間に色々いきさつがございます。決して我々宗門としては、学会をつぶそうとか、学会をどうこうしようという、そういう心でやっておるのではなくして、長い間において学会が、宗門の法義の上において間違ってきてしまった、それを指摘して何とか直して、昔の純粋なる信心のもとに立ち直ってもらいたい、と思うが故でございます。
なるほど長い間学会は、よく宗門のために尽くして下さいました。その功績は大きいのであります。しかし、功績が大きいからといって、教義が間違い、宗門から逸脱してしまえば、これは何にも役に立ちません。ただそういうふうに間違いを起こしてもらいたくないが故に、ただいまのように色々のことを指摘して、学会を何とかして立て直してもらいたいと思ってやっておるのであります。
若い人達が結束して、結束といえば語弊が有りますが、とにかくそういうような形になって、学会の間違ったことを指摘しているというのは、せっかくの功績を、長い間宗門に尽くした功績を無にさせたくないが故にやっておるのであります。ただおもしろ半分、あるいは自分の檀徒を増やすがために、とやかく言うのではありません。そのことを一般の寺院の方々にも了承していただきたい。又学会の会員、あるいは檀徒になった方、あるいは法華講の人々も、それを了承してもらいたいと思うのであります。
今後も間違ったことが有れば、どんどん指摘します。今でも、色々間違ったことが内事部で分かれば、内事部においてどんどん質問をするというように、盛んにやっております。そうしてこそ、はじめて大聖人の弟子・檀那として、日蓮正宗がもり立っていくのではないか、と私は考えております。
なるほど学会では、「池田会長本仏などということを言った覚えは無い、学会ではそういうことは無い」と、こう言っております。しかしながら考えてみますと、一番初めは昭和50年前後でしたか、『火の国』という小冊子を学会のある一部の人で作った。その本に明らかに「会長が仏様である」ということを述べておりました。又、もっと古くは、最近分かったのですけれども、既に昭和38、9年ごろから「会長が仏だ」という話は出ておるんです。それを我々は知らなかった。
なぜ知らなかったかというと、あの時分はよく地方のブロックに行って、学会の若い人、あるいは教授になった人、あるいは教授補という人が御書の講義をして歩いております。その内のある地方に行って、こういうことを言っておるんです。これは最近分かったことで、私もびっくりしておるんでございます。
そのことは『曽谷殿御返事』に「是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず」(全集1055頁)これはだれでもよく引用する御文であります。
その解釈に、「総とは一往血脈相承なり、再往は池田会長で、信心の大師匠である」と、こういう解釈をしておる。それはもう昭和38、9年のことです。こんなことを我々は少しも知らない。そのような地方のブロックヘ、若い人が教授と称して行って、こういうことを一生懸命に言って、会員の頭に入れてしまった。
総別二義の意義ということは、そんなところにもっていくもんじゃない。一往だとか再往だとかという言葉を使って、我々の言う仏教用語をうまく利用して、とにかく一往は血脈相承だと言う。何で総が血脈相承か、おかしくてしようがない。又「再往は池田会長で、信心の大師匠」だと言う。そういうところから、「池田会長が血脈相承を承(う)けている。学会に血脈が有る」などと言い出してしまう。
あるいは『新池御書』に、「何としても此の経の心をしれる僧に近づき弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし」(全集1440頁)という御文があります。
その解釈に、「これについて700年前は大聖人、現在でいえば会長池田先生」、こう解釈している。「此の経の心をしれる僧」は大聖人、現在においては池田会長であると言う。それでは結局、池田会長は現在における大聖人ではないか。そういうことを昭和38、9年のころにブロックでやっておったんです。
それを、我々は愚にして知らなかった。まことに残念であります。昭和38、9年のころからもう既に16、7年に及ぶ。その間に積み重ねてきた教義の間違いというものは、一朝一夕に直そうといっても中々できない。だから今この紛争が起きておるんです。これはどうしても、僧侶は腹を決めて、教義の間違ったところをしっかりと指摘し、又自分もしっかりと指導していかなければならない。
それには、僧侶は宗門の宗学をきちんと身に付けていかなければならない。もちろん一般仏教というものをしっかり身につけて、そしてしっかり寺を守り、信徒を指導していかなければならない。昔みたいに、御利益が有るとか無いとか、そんな枝葉のことを言っているのではない。又そういうことで指導しておる僧侶も有るやに聞いておりますが、そんなくだらないことを言ってはいけない。根本の仏教学というものをしっかり身に付けて頂きたい。
昔は仏教学というものは、立正あたりでは中学のときから教えておりました。立正中学では『立正安国論』の講義なんかもやっておりました。もっとも今は大学に行かなければ、そんな講義なんか無いけれども。だから昔の人は一般仏教ということは、はっきり頭に入っていますが、今はそうはいかない。だからこれからでも大学へ行って、そういう講義が有れば、何宗によらず仏教学というものを腹に据えて、そして更に本宗の教学を、その上にきちんと身に付けて頂きたい。
どこまでも、たとえ会長(※池田大作)であろうが副会長であろうが、間違ったことを言ったならば、どんどん指摘していかなければ、これからは日蓮正宗の僧侶ではない、ということを覚悟していって頂きたい。いやしくも妙観会に籍を置く者は、その精神でやって頂きたい。ただ上っ面の、けんかをするなとそういうもんではなくして、根本はここに有る、という精神でやって頂きたいと思います。
又、学会が昔よく宗門に尽くしてくれたその恩に報いるためにやるのである。“白烏の恩を黒烏に報ずべし”、まったその通りである。我々はどこまでも正しい法をもって人を導き、人々に教えて、宗門を守っていこうという精神を妙観会の若い人は心に染めて頂きたい。
これからは皆様方の宗門となっていく。どうかそのつもりで更に一層勉強し、一層信心を深めて宗門を守って頂きたい。今回はそれを皆様にお願いして今日の挨拶とします。ありがとうこざいました。
総講頭・池田大作に辞任を勧告
―法華講連合会―
(『大白法』S54.4.3号外/<妙音>WS)
昭和54年3月31日、日蓮正宗法華講連合会緊急理事会において左の如く決議致しました。
決 議
「池田大作氏はその責に耐えないことを自覚し、日蓮正宗法華講総講頭を辞任されるよう勧告致します」
理 由
近年創価学会におきましては、日蓮正宗教義からの逸脱が多くみられ、宗門からの厳しい御指摘により、昨年11月7日全国教師総会(併・創価学会代表幹部会)を日蓮正宗総本山大石寺大講堂において開催し、日蓮正宗教義からの逸脱を詫び、誤りの訂正を約束されました。
法華講連合会におきましても、機関紙『大白法』青年部機関誌『慧燈』及び有志の手による『蓮華87号の正しい読み方資料』等により、貴会の教義上の誤り、歪曲を指摘し、貴会が1日も早く教義上の逸脱を訂正し、立ち直られんことを祈り微力ながらも尽力して参りました。
しかるに、数ヵ月を経過した現在、何ら今日まで教義の誤りの修正を会員に徹底して知らせることもなく、未だに宗門を騒がせ、その収拾がなされないのみか、学会幹部による最近の言動をみるとき、一向に教義上の逸脱に対する反省がなされていないのが現状であるので、このままの状態では謗法であるとみなさざるを得ません。
御法主上人猊下は当日のお言葉の中で「今日、私が申し上げたことを、ここに確認された学会の路線が正しく実現されるということの上で、これまでのさわぎについてはすべて此処に終止符をつけて」云云、と仰せられており、御法主上人猊下の御心に添った路線が正しく実現される方向を未だに示さないことは誠に遺憾であります。
如何なる時、如何なる場合においても、御法主上人猊下の御言葉を仏の金言として受け入れていくことが古来日蓮正宗信者の道であります。
御法主上人猊下の御心をないがしろにすることは、もはや信者の道を逸脱していると申せます。この点に大いに眼を向け、心を留め深く思いを致すべきであります。
また、当日貴殿は「これまで、いろいろな問題について行き過ぎがあり、宗門をお騒がせし、また、その収拾にあたっても不本意ながら十分な手を尽せなかったことは、総講頭の立場にある身としてこの席で深くおわびいたします」と発言されておりますが、これまでの誤りは創価学会としての誤りであり、私達法華講員には何等関知しないところであります。
しかるに総講頭として詫びられたことは、その中に私達法華講員も含まれ全く不名誉にして残念至極であり、これ以上私達は池田総講頭の傘下にあることに忍びがたいものがあります。
この際貴殿には、現在に至るも創価学会の体質を変えることのできないことについて十分な責任を感じ、総講頭の責に耐えないことを理解すべきであります。
以上により、法華講連合会理事及び幹事全員の署名により貴殿の総講頭の辞任を勧告致します。
昭和54年3月31日
東京都墨田区吾妻橋1の14番11号
日蓮正宗法華講富士会館
日蓮正宗法華講連合会
委員長 佐藤悦三郎 [印]
理事(北海道地方部長) 田中一雄 [印]
理事(東北地方部長) 大塚万九郎 [印]
理事(東京地方部長) 岩瀬正勝 [印]
理事(東海地方部長) 村松堅二 [印]
理事(中部地方部長) 清水賢 [印]
理事(関西地方部長) 中野功 [印]
理事(四国地方部長) 石井茂 [印]
理事(九州地方部長) 藤野與平 [印]
幹事 小島富五郎 [印]
幹事 松島晃靖 [印]
幹事 平沢幹男 [印]
幹事 渡部俊雄 [印]
幹事 住中信和 [印]
幹事 小山一郎 [印]
幹事 三宅忠雄 [印]
幹事 倉持治子 [印]
幹事 山本正雄 [印]
東京都新宿区信濃町十八
創価学会本部内
日蓮正宗法華講総講頭
池田大作殿
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総講頭辞任勧告に至るいきさつ
(『大白法』S54.4.3号外/<妙音>WS)
昭和54年3月31日東京・富士会館において、法華講連合会緊急理事会が全国の理事・幹事参集のもと開催され、別項のように池田大作氏に対し、日蓮正宗法華講総講頭辞任の勧告が佐藤委員長ほか理事・幹事連名のもとなされ、4月1日第444号書留証明郵便物として浅草郵便局より同氏あて発送された。
これは、創価学会が年とともに特に本門戒壇の大御本尊及び血脈付法の御法主上人猊下を軽視する態度が大きくあらわれ、昨年11月7日以後においても一向に学会幹部による教義上の逸脱に対する反省がなされていないのが現状で、このままの状態では、謗法であるとみなさざるを得ないため、池田大作氏には法華講総講頭としてその責に耐えないことを自覚し、総講頭を辞任するよう本人あて勧告したものである。
創価学会の教義の逸脱のきざしは既に昭和38、9年頃からであり(別項妙観会における御言葉)、特にそれが目立って大きくなって来たのは、正本堂完成直後からである。
御法主日達上人猊下は、昭和53年2月9日の時局懇談会において「昭和47年に正本堂が建立せられたその直後から、非常に学会の態度がおかしくなってきた。大変僧侶も馬鹿にするし、また教義上においても非常に変化が多いように思う。その都度、私も種々な時にそれを指摘して、そういうことはいけない、日蓮正宗の教義と違うと指摘してきたつもりでございます」と仰せられ、それ以前と大変学会内部の指導が違ってきている旨を御指南されているのである。
昭和49年4月には池田会長自身、『大白蓮華』に「創価仏法の原点は、いうまでもなく戸田前会長の悟達にあります」と言い、日蓮正宗と異なる仏法を創価学会が創始し、大聖人の仏法を不要とするかのごとき認識を信徒に与え、また同年5月には『大白蓮華』に福島副会長は小説「人間革命」を通して師への帰命を叫んでいる。
小説「人間革命」には「この若い革命家の『妙法への帰命』という理念は、具体的な実践でいうならば、希有の師への帰命、すなわち『戸田城聖への帰命』でなければならぬことを、彼は知ったのである」と。すなわち師への帰命とは、戸田・池田会長に南無し拝ませることであり、創価仏法と言い、帰命と言い、まさに池田会長が人の仏となるのである。
昭和50年6月には、北風九州長は「ひのくに」で「久遠の師池田会長」と言っており、これは池田会長即大聖人ということになる。
このように一連の発言が創価学会々長および幹部によってなされているが、御法主上人猊下は昭和49年4月法華講連合会春季総登山会において「末法万年、尽未来際まで大聖人様の南無妙法蓮華経は、慈悲のために垂れ給うたのであります。ゆえに大聖人は末法尽未来際に至るまでの、久遠の仏様であります。それが我々の、日蓮正宗の教義であります。最近ある所では、新しい本仏が出来たようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります。もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とは言えません」と仰せられ、「大聖人様以外に本仏があるなどと言ったらばこれは大変なことである」と仰せられている。
特に昭和52年の元旦の会長あいさつ及び52年1月16日会長講演の「仏教史観を語る」の指導こそは、大々的に創価路線を引き始めたと言える。
すなわち「会館こそ現代の寺院」「在家の身であっても供養を受けられるという思想がある」「現代において創価学会は在家、出家の両方に通ずる役割を果たしている」とし、特に血脈相承について「血脈相承といえばよく既成宗教などにみられるように、神秘的に高僧から高僧へ、深遠甚深の儀式を踏まえて流れるものであると思われがちであります。……大聖人の仏法の本義はそんなところにあるのではない。我が己心の厳粛な信心のなかにこそあるといわれでいる」と歴代御法主上人猊下の唯授一人血脈相承を暗に否定している、そしてもはや「御本尊は全部同じである」とまで断言しているのである。
このような戒壇の大御本尊を軽視する考えは、上田副会長をして「登山は一生に一度でよい」とまで暴言を言わしむるに至っている。
以上は考えてみるまでもなく、謗法容認と断ぜざるを得ない。日蓮正宗は、700年来謗法厳誡を守ってきた。
御法主上人猊下は、「『願兼於業』ということがあるから、自分は謗法してもいいんだ、進んで謗法してもいいんだ、責任は自分にある。とんでもないことですね。『若し此の経を信ぜずして毀謗せば乃至其の人阿鼻獄に入らん』と、謗法ということは、正法の人の、正しい人の成仏の種か断ずることである。仏種を断ずることになる」と仰せられて謗法を厳誡し、正法流布に邁進することを願われている。
私達日蓮正宗法華講員は、本門戒壇の大御本尊と血脈付法の御法主上人猊下を根本とする態度を貫くことこそ、謗法厳誡に徹するものということができるのである。
このような創価学会の教義の逸脱に対し、宗内の青年御僧侶は全国的に立ち上がりをみせた結果、学会からの退会者相次ぎ、創価学会も徐々に後退せざるを得なくなり、53年6月30日聖教新聞の第4面に「教学上の基本問題について」と題して、宗門からの教義の誤りについての質問に対する解答が掲載されたのである。
しかし、その解答はいずれも極めて消極的で会長自身がその非を認めることはなかった。
遂に同年11月7日、創価学会創立48周年記念として代表幹部会が総本山において催され、池田会長をして「これまで、いろいろな問題について行き過ぎがあり、宗内をお騒がせし、また、その収拾にあたっても、不本意ながら十分な手を尽くせなかったことは、総講頭の立場にある身としてこの席で、深くおわびいたします」と言うまでに至ったのである。
御法主上人猊下は当日のお言葉の中で「今日、私が申し上げたことを、ここに確認された学会の路線が正しく実現されるということの上で、これまでのさわぎについてはすべて此処に終止符をうけて云云」と仰せられており、学会の誤りが正しく修正され、かつ、末端会員まで徹底され、正しく正信に目覚めるということを前提として、これまでのさわぎに終止符をつけることを仰せられたものである。
しかるに数ヵ月を経過した現在に至るも、何ら今までの教義の誤りの修正を会員に徹底して知らせることもなく、むしろ学会幹部の最近の言動をみるとき、一向に教義上の逸脱に対する反省がなされていないのが現状である。従って、このままの状態では、正に謗法であるとみなさざるを得ないのである。
また、総講頭が謝罪したといっても、創価学会の体質が従来通りである限り、私達法華講員としては、これまでの誤りは反省なきものとして創価学会の誤りとして認めるほかはなく、むしろ何ら関知せざる私達法華講員としては不名誉にして残念至極であり、これ以上池田総講の傘下にあることに忍びがたいものがある。
この際池田総講頭には、現在に至るも創価学会の体質を変えることのできないことについて十分な責任を感じ、総講頭の責に耐えないことを理解し、速やかに総講頭を辞任すべく、かくて前述のごとく3月31日の緊急理事会において総講頭辞任の勧告に及んだのである。
日達上人御指南
日達上人御指南
―日達上人は、学会を讃歎しつつも、厳しく指導されていた!―
(『慧妙』H14.5.16他)
【学会の邪説】
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平成2年暮、日蓮正宗は、突如、池田総講頭を罷免(ひめん)し、狂ったように学会の処分に乗り出した。そして平成3年には、ついに、仏意仏勅の団体である創価学会を破門にした。
これは、日顕(上人)が、会員からも慕われ、世界からも高い評価を得ている池田センセーに嫉妬(しっと)したことから起こったことである。
池田センセーに間違いがなかったことは歴代猊下がお認めであり、とくに、御先師日達上人は、創価学会ならびに池田センセーに深い理解を示され、多くの讃嘆の言葉を残されている。
この一事を見ても、学会の正しさがわかる。
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【破折】
創価学会は、平成3年の学会問題勃発以来、「日顕(上人)は悪い猊下、日達猊下は良い猊下だった」などと言いふらし、何もわからない学会員を欺(あざむ)き続けてきた。
しかし、学会の誤りは御先師日達上人の御代においてすでに存在し、日達上人からも厳しく叱られていたのである。以下、学会の誤りを破した日達上人のお言葉を紹介し、もって学会の言い掛かりを粉砕するものである。
<池田本仏論>
●最近あるところでは、新しい本仏ができたようなことを宣伝しておる、ということをうすうす聞きました。たいへんに間違ったことであります。もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とはいえません。そういう間違った教義を説く人があるならば、法華講の人は身をもってくい止めていただきたい。これが法華講の使命と心得ていただきたい。(法華講連合会春季総登山お目通り・昭和49年4月25日/『慧妙』H14.5.16)
●だれそれが仏であるという言葉も、この近所で聞かれるのであって、私は非常に憂慮しています。 なるほど、もし、だれそれが仏であるというならば、それは、我々は皆な全部仏であります。 それは理の上からそういうことになります。しかし、我々の宗教として信心するところの仏ではない。 たしかに凡夫が体の仏であるということは、御書にはっきり書いてあります。その体の仏をもって、どこまでも仏だと言いふらしていくならば、たいへん間違ったことになります。やはり末法の仏は、宗祖大聖人以外にはないのであります。(富士学林研究科開講式・昭和49年6月18日/『慧妙』H14.5.16)
●(九州の創価学会が出している『火の国』という新聞に)「人への帰命」ということを書いている。それに、「現在における人への帰命とは師匠への帰命であり、池田会長への帰命となる。また池田会長が大聖人の御書を寸分たがわず身に移し実践されていることから、必然的に考えてもそうなるのである」ということが書かれています。ちょっと今信心してない人が考えたならば、なるほどな、と感心するかもわかりません。しかし、これは本宗の教義とは大変間違っている。(富士学林研究科開講式・昭和50年6月27日/『慧妙』H14.5.16)
●「池田会長に法衣を着せれは即大聖人様だ」などと言う僧侶がいる。私はびっくりしました。先日、北海道の信者さんから手紙が来ました。その人は札幌の僧侶ではないけれども、このような僧侶がいます。まったく情けないではないか。さらに「自分は、会長が袈裟・衣を着たらそのまま大聖人であるから、もしも学会と宗門が手を切ったならば、私は学会の方に付きます」と言明しているそうです。まったく私は情けないと思います。今ここにいる人は、心当たりがあるのかないのか知らないけれども、そういう人がいるから日蓮正宗の教義がおかしくなってくるのであります。(昭和53年8月30日/『慧妙』H14.5.16)
●たとえば”仏とは生命なり”と、さっとやってしまう。なるほどな、と思うかもしれない。しかし、そう簡単なものではないですね。「心仏及衆生 是三無差別」といって、仏も衆生も心も、この3つは離すことのできない無差別のものであると、『華厳経』にすでに説いております。それをあっさり、仏とは生命なりとやってしまうと、たいへん分かりやすいような、結局、最後は分からない、ということになってしまうのであります。(『大日蓮』昭和53年11月号/『慧妙』H14.5.16)
●なるほど学会では、「池田会長本仏などということを言った覚えは無い、学会ではそういうことは無い」と、こう言っております。しかしながら考えてみますと、一番初めは昭和50年前後でしたか、『火の国』という小冊子を学会のある一部の人で作った。その本に明らかに「会長が仏様である」ということを述べておりました。又、もっと古くは、最近分かったのですけれども、既に昭和38、9年ごろから「会長が仏だ」という話は出ておるんです。それを我々は知らなかった。(第18回妙観会・昭和54年3月31日『大白法』S54.4.3号外)
●『曽谷殿御返事』に「是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず」(全集1055頁)これはだれでもよく引用する御文であります。 その解釈に、「総とは一往血脈相承なり、再往は池田会長で、信心の大師匠である」と、こういう解釈をしておる。それはもう昭和38、9年のことです。こんなことを我々は少しも知らない。そのような地方のブロックヘ、若い人が教授と称して行って、こういうことを一生懸命に言って、会員の頭に入れてしまった。 総別二義の意義ということは、そんなところにもっていくもんじゃない。一往だとか再往だとかという言葉を使って、我々の言う仏教用語をうまく利用して、とにかく一往は血脈相承だと言う。何で総が血脈相承か、おかしくてしようがない。又「再往は池田会長で、信心の大師匠」だと言う。そういうところから、「池田会長が血脈相承を承(う)けている。学会に血脈が有る」などと言い出してしまう。(第18回妙観会・昭和54年3月31日『大白法』S54.4.3号外)
●『新池御書』に、「何としても此の経の心をしれる僧に近づき弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし」(全集1440頁)という御文があります。 その解釈に、「これにつけて700年前は大聖人、現在でいえば会長池田先生」、こう解釈している。「此の経の心をしれる僧」は大聖人、現在においては池田会長であると言う。それでは結局、池田会長は現在における大聖人ではないか。そういうことを昭和38、9年のころにブロックでやっておったんです。(第18回妙観会・昭和54年3月31日『大白法』S54.4.3号外)
<血脈相伝>
●だから相伝によって、皆、諸君は師匠から教わり、先輩から教わってきておる。そのとおり身につけて、学んでゆくということがもっとも大切なのである。自分勝手な解釈で、御書を読んでもいろいろ解釈できる場合がある。(『大日蓮』昭和49年10月号/『慧妙』H14.5.16)
●「御抄を心肝に染め極理を師伝」すべきことは、二祖日興上人の御遺訓である。仏法を学び、大聖人の御書をよく拝することはできても、極理を師伝しなければ、とかく異義を構え異説に走りやすいので、大いに心に戒めなければならない。(『蓮華』昭和51年1月号/『慧妙』H14.5.16)
●和歌山県のある地方では「御本尊さえあればよいんだ。血脈なんかいらないんだ」と言って、一生懸命に説明して歩いている人がいるそうです。これはどういう考えでしょう。「御本尊さえ」という御本尊様は誰が認(したた)めるんです。当宗では、血脈なくして御本尊様を書写し奉ることはできない。もし、血脈などいらないというのならば、身延の人が書いた本尊でもよい、誰が書いてもよいではないか。 思い起こせば、小樽問答の時に、身延のある僧侶が「御本尊なんか誰が書いたっていいんだ」と平然として口走っておった。私はびっくりしました。この人は何ということを言うのだと。それでは、東本願寺や西本願寺の管長に御本尊を書いてもらって、ありがたく拝めるのか。御本尊様とはそんなものではないです。(第17回妙観会・昭和53年3月31日)
●「御本尊様だけあればよいんだ。血脈などどうでもよい」などと言うような信者ができてきたとするならば、非常に残念であります。 どうか諸君は、一生懸命に大聖人の仏法を守ってください。日蓮正宗の真義を、本当の教義をどこまでも守り、いかなる邪魔者があろうとも、たとえ信者が無くなっても、自分一人になっても日蓮正宗の教義を守る覚悟でいていただきたい。(『蓮華』昭和53年4月号/『慧妙』H14.5.16)
●さてそこで、もう一歩深く考えて、その信心といい、血脈といい、法水というところの法水は、どこから出てくるか、ということがもっとも大切であります。それは、我が日蓮正宗においては日蓮大聖人の御当体たる本門戒壇の大御本尊であります。ゆえに、大聖人の仏法を相伝しなければ、大聖人の仏法の血脈は流れないであります。 大聖人は『一代聖教大意』に、 「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書92、全集398頁)と申されております。また日寛上人は、「口伝にあらざれば知り難し、師資相承故あるかな」と申されております。師資相承とは師より弟子に相承することであります。(『大日蓮』昭和53年9月号/『慧妙』H14.5.16)
●『曾谷殿御返事』に、 「是には総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。」(御書1039、全集1055頁) これは誰でもよく引用する御文であります。その解釈に、「総とは一往は血脈相承なり。再往は池田会長で、信心の大師匠である」と、こういう解釈をしておる。(中略)総別二義の意義ということは、そんなところに持っていくもんじゃない。「一往」だとか「再往」だとかという言葉を使って、我々のいう仏教用語をうまく利用して、とにかく「一往は血脈相承」だという。なんで「総が血脈相承」か、おかしくてしようがない。また「再往は池田会長で、信心の大師匠」だという。そういうところから「池田会長が血脈相承を承けている。学会に血脈がある」などと言い出してしまう。(第18回妙観会・昭和54年3月31日/『慧妙』H14.5.16)
<僧侶不要論>
●在家が、自分らが勉強し、自分らが折伏することをもって「和合僧である」と宣伝しております。大いに我々は考えなければなりません。(中略) そして「僧侶はいらない」ということは、「自分らが僧侶である」ということで、結局、同じことになる。今、我々出家しておる僧侶がいらないと、廃止すれば、次の和合僧団の僧侶ができることになってしまう。何も変わりはない。ただ現実を破壊せんがために、これを言うのである。(第16回寺族同心会大会・昭和49年5月31日/『慧妙』H14.5.16)
●それは現在の出家の世間にいう僧は必要ない、という根本の精神があるがゆえであります。もしそうならば、大変なことになる。寺院もいらない。そういう思想は世間的には大いに宣伝されるかもしれませんけれども、一歩退いて本当に考えるときには、それは成り立つでしょうか。 また、大聖人の御書は信徒が対象であると、だから信徒が大聖人の仏法の中心をなすべきものであるという説があります。なるほど、大聖人は人々を教化せられておるのである。仏が教化するところに信徒に向かって法を説くのはあたりまえであります。 その説は、僧侶はいらないという根本の考えがあるということ、根本の底に針があるということを、思い致さなければなりません。 大聖人の御書に、ただ信徒だけが対象であるということをもし言うならば、それは大聖人滅後、5人の連中が唱えた説となってしまうのであります。(昭和49年5月31日/『慧妙』H14.5.16)
●昨年の暮、お寺の丑寅勤行へは行くな、という指令が出た。その時の指導方法を知っていますか。ある寺では、その本堂の御本尊様の前に立って幹部が「こんな所ヘノコノコ来たって何の役にも立たない」、と言った。 諸君はどういう考えでしょう、それを聞いて平気でいる人があるでしょうか。何のために御本尊を信心し、お題目を唱えている。 その御本尊の前に立って、「こんな所にノコノコ来ても何の役にも立たない」と言ったのですよ。私はそれを聞いて、非常に憤慨に耐えない。(『蓮華』昭和49年6月号/『慧妙』H14.5.16)
●信徒が、もし僧侶を、慢の心をもってばかにし、あえて、僧侶を亡き者にしようとする心がもしあるならば、それは信徒としての道を誤り、世の中を守り栄えさせていくという道を誤ってしまう、ということになるのであります。(『蓮華』昭和49年7月号/『慧妙』H14.5.16)
●僧侶を悪く宣伝するのは、実にもあれ、不実にもあれ、正法の人を謗るということは、やはり謗法の人となるのであります。(『大日蓮』昭和49年9月号/『慧妙』H14.5.16)
●今日の人が、わからないで「お寺に行くから悪い」とか「お寺信心」などと悪口を言うのは、むしろその人たちは、仏法を馬鹿にした謗法の行為、と考えてさしつかえないのでございます。いかなる人が、どういう理屈を言おうとも、正しい仏教を勧め正しい御本尊を拝している人の悪口を言うことは、もっとも悪いことであり、謗法でございます。(昭和53年11月23日/『慧妙』H14.5.16)
<52年路線>
●日蓮正宗の教義が、一閻浮提に敷衍(ふえん)していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります。 皆さまの今の時に、もし日蓮正宗の教義でもなく、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、けっして我々は喜ぶべきでもないし、大聖人がお喜びになるとは思いません。むしろ、日蓮正宗の精神がなくなってしまった、消滅してしまったということになるのであります。(富士学林研究科開講式S49.6.18/『慧妙』H14.5.16)
●戸田(城聖=2代会長)さんも亡くなり、大化城もでき大客殿もでき、昭和47年に正本堂が建立せられた。その直後から非常に学会の態度がおかしくなってきた。たいへん僧侶も馬鹿にするし、また教義上においても非常に変化が多いように思う。そのつど、私も種々な時にそれを指摘して、「そういうことはいけない、日蓮正宗の教義と違う」と、指摘してきたつもりでございます。(第1回時事懇談会・昭和53年2月9日/『慧妙』H14.5.16)
<破邪顕正>
●法華講はどこまでも、法華講の道を保ち、本山ならびに自分の寺院と運命を共にする信心を堅く持って頂きたいことを、今日はこの席でお願いする次第でこざいます。(『蓮華』昭和49年5月号/『慧妙』H14.5.16)
●もし日蓮正宗の御本尊を拝するならは、日蓮正宗の教義に従って、信心していかなければならないのであります。その信心を進めていくのが僧侶としての役目である。諸君の教師としての役目であります。 もし、それに反することを聞いたならば、どこまでもこれを破折して、日蓮正宗の信徒を養成していかなければならない。(富士学林研究科開講式・昭和49年6月18日/『慧妙』H14.5.16)
●この肝心の、大聖人の御当体であらせられる本門戒壇の大御本尊をないがしろにして、さきほどの『一生成仏抄』の講義のごとく、「自分自身の中に御本尊があるから、深く信心を発していくということは、我が生命の御本尊を涌現していくことである」というならば、それは身延の日蓮宗で言うごとく、自分自身の中に本尊があるから、自分は自分を拝めはよいということになる。そんなことが、本宗の教義でありうるでしょうか。 また、禅宗では「見性成仏」ということをいいます。すなわちこれは、禅の修行によって、自分の内心に仏性のあることを悟るということであります。もし、我々の中にある御本尊を涌現させるというならば、これは禅宗と同じことになってしまう。また、身延の日蓮宗と同じことになってしまうのであります。こういう考えの教学は、我が日蓮正宗においては、大いに慎まなければならないことであります。(昭和53年8月26日/『慧妙』H14.5.16)
●けっして我々宗門としては、学会をつぶそうとか、学会をどうこうしようという、そういう心でやっておるのではなくして、長い間において学会が、宗門の法義の上においで間違ってきてしまった。それを指摘して、なんとか直して、昔の純粋なる信心のもとに立ち直ってもらいたい、と思うが故でございます。なるほど、長い間、学会はよく宗門のために尽くしてくださいました。その功績は大きいのであります。しかし、功績が大きいからといって、教義を間違えて宗門から逸脱してしまえば、これは何も役に立ちません。(中略)それを、我々は愚にして知らなかった。まことに残念であります。昭和38、9年のころからもう既に16、7年に及ぶ。その間に積み重ねてきた教義の間違いというものは、一朝一夕に直そうといっても中々できない。だから今この紛争が起きておるんです。これはどうしても、僧侶は腹を決めて、教義の間違ったところをしっかりと指摘し、又自分もしっかりと指導していかなければならない。(第18回妙観会・昭和54年3月31日『大白法』S54.4.3号外)
●どこまでも、たとえ会長であろうが副会長であろうが、間違ったことを言ったならばどんどん指摘していかなければ、これからは日蓮正宗の僧侶ではない、ということを覚悟していっていただきたい。(『蓮華』昭和54年4月号/『慧妙』H14.5.16)
妙観会の砌(S54.3.31)
(『大白法』S54.4.3号外/<妙音>WS)
本日は、第18回妙観会を催しましたところ、寺務の多忙であるにもかかわらず、地方の遠い所から大勢御参集下さり、又総監、教学部長もわざわざ登山して御参集下さいまして、まことに有り難うございます。
最近ことに学会と宗門との間に色々いきさつがございます。決して我々宗門としては、学会をつぶそうとか、学会をどうこうしようという、そういう心でやっておるのではなくして、長い間において学会が、宗門の法義の上において間違ってきてしまった、それを指摘して何とか直して、昔の純粋なる信心のもとに立ち直ってもらいたい、と思うが故でございます。
なるほど長い間学会は、よく宗門のために尽くして下さいました。その功績は大きいのであります。しかし、功績が大きいからといって、教義が間違い、宗門から逸脱してしまえば、これは何にも役に立ちません。ただそういうふうに間違いを起こしてもらいたくないが故に、ただいまのように色々のことを指摘して、学会を何とかして立て直してもらいたいと思ってやっておるのであります。
若い人達が結束して、結束といえば語弊が有りますが、とにかくそういうような形になって、学会の間違ったことを指摘しているというのは、せっかくの功績を、長い間宗門に尽くした功績を無にさせたくないが故にやっておるのであります。ただおもしろ半分、あるいは自分の檀徒を増やすがために、とやかく言うのではありません。そのことを一般の寺院の方々にも了承していただきたい。又学会の会員、あるいは檀徒になった方、あるいは法華講の人々も、それを了承してもらいたいと思うのであります。
今後も間違ったことが有れば、どんどん指摘します。今でも、色々間違ったことが内事部で分かれば、内事部においてどんどん質問をするというように、盛んにやっております。そうしてこそ、はじめて大聖人の弟子・檀那として、日蓮正宗がもり立っていくのではないか、と私は考えております。
なるほど学会では、「池田会長本仏などということを言った覚えは無い、学会ではそういうことは無い」と、こう言っております。しかしながら考えてみますと、一番初めは昭和50年前後でしたか、『火の国』という小冊子を学会のある一部の人で作った。その本に明らかに「会長が仏様である」ということを述べておりました。又、もっと古くは、最近分かったのですけれども、既に昭和38、9年ごろから「会長が仏だ」という話は出ておるんです。それを我々は知らなかった。
なぜ知らなかったかというと、あの時分はよく地方のブロックに行って、学会の若い人、あるいは教授になった人、あるいは教授補という人が御書の講義をして歩いております。その内のある地方に行って、こういうことを言っておるんです。これは最近分かったことで、私もびっくりしておるんでございます。
そのことは『曽谷殿御返事』に「是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず」(全集1055頁)これはだれでもよく引用する御文であります。
その解釈に、「総とは一往血脈相承なり、再往は池田会長で、信心の大師匠である」と、こういう解釈をしておる。それはもう昭和38、9年のことです。こんなことを我々は少しも知らない。そのような地方のブロックヘ、若い人が教授と称して行って、こういうことを一生懸命に言って、会員の頭に入れてしまった。
総別二義の意義ということは、そんなところにもっていくもんじゃない。一往だとか再往だとかという言葉を使って、我々の言う仏教用語をうまく利用して、とにかく一往は血脈相承だと言う。何で総が血脈相承か、おかしくてしようがない。又「再往は池田会長で、信心の大師匠」だと言う。そういうところから、「池田会長が血脈相承を承(う)けている。学会に血脈が有る」などと言い出してしまう。
あるいは『新池御書』に、「何としても此の経の心をしれる僧に近づき弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし」(全集1440頁)という御文があります。
その解釈に、「これについて700年前は大聖人、現在でいえば会長池田先生」、こう解釈している。「此の経の心をしれる僧」は大聖人、現在においては池田会長であると言う。それでは結局、池田会長は現在における大聖人ではないか。そういうことを昭和38、9年のころにブロックでやっておったんです。
それを、我々は愚にして知らなかった。まことに残念であります。昭和38、9年のころからもう既に16、7年に及ぶ。その間に積み重ねてきた教義の間違いというものは、一朝一夕に直そうといっても中々できない。だから今この紛争が起きておるんです。これはどうしても、僧侶は腹を決めて、教義の間違ったところをしっかりと指摘し、又自分もしっかりと指導していかなければならない。
それには、僧侶は宗門の宗学をきちんと身に付けていかなければならない。もちろん一般仏教というものをしっかり身につけて、そしてしっかり寺を守り、信徒を指導していかなければならない。昔みたいに、御利益が有るとか無いとか、そんな枝葉のことを言っているのではない。又そういうことで指導しておる僧侶も有るやに聞いておりますが、そんなくだらないことを言ってはいけない。根本の仏教学というものをしっかり身に付けて頂きたい。
昔は仏教学というものは、立正あたりでは中学のときから教えておりました。立正中学では『立正安国論』の講義なんかもやっておりました。もっとも今は大学に行かなければ、そんな講義なんか無いけれども。だから昔の人は一般仏教ということは、はっきり頭に入っていますが、今はそうはいかない。だからこれからでも大学へ行って、そういう講義が有れば、何宗によらず仏教学というものを腹に据えて、そして更に本宗の教学を、その上にきちんと身に付けて頂きたい。
どこまでも、たとえ会長(※池田大作)であろうが副会長であろうが、間違ったことを言ったならば、どんどん指摘していかなければ、これからは日蓮正宗の僧侶ではない、ということを覚悟していって頂きたい。いやしくも妙観会に籍を置く者は、その精神でやって頂きたい。ただ上っ面の、けんかをするなとそういうもんではなくして、根本はここに有る、という精神でやって頂きたいと思います。
又、学会が昔よく宗門に尽くしてくれたその恩に報いるためにやるのである。“白烏の恩を黒烏に報ずべし”、まったその通りである。我々はどこまでも正しい法をもって人を導き、人々に教えて、宗門を守っていこうという精神を妙観会の若い人は心に染めて頂きたい。
これからは皆様方の宗門となっていく。どうかそのつもりで更に一層勉強し、一層信心を深めて宗門を守って頂きたい。今回はそれを皆様にお願いして今日の挨拶とします。ありがとうこざいました。
「山崎・八尋文書」「北條文書」
宗門支配・独立の画策と日達上人の対応
【山崎・八尋文書(昭和49年4月12日付)】
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◆本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについて2とおり考えられます。1つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向こう3年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固めるという方法です。本山管理に介入することは火中の栗をひろう結果になりかねない危険が多分にあります。しかし私の考えでは、本山、正宗は、党や大学、あるいは民音以上に、学会にとっては存在価値のある外郭と思われ、これを安定的に引きつけておくことは、広布戦略の上で欠かせない要素ではないかと思われます。こうした観点から、後者の路線ですすむしかないように思われます。そのための布石としては
<1>本山事務機構(法人事務、経理事務)の実質的支配
<2>財政面の支配(学会依存度を高める)
<3>渉外面の支配
<4>信者に対する統率権の支配(宗制・宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立等)
<5>墓地、典礼の執行権の移譲
<6>総代による末寺支配
が必要です。これらのことは機会をとらえながら、さりげなく行うことが必要であり今回のことは<1>、<2>、<3>を確立し 更に<4>まで確立できるチャンスではあります。いずれにせよ、先生の高度の判断によって決せられるべきと思いますのでご裁断をあおぐ次第です。
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[画像]:「山崎・八尋文書」(昭和49年4月12日付)
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●そもそも、この報告書は、池田大作が、「国際センター」「世界会議」の準備のため、南北アメリカに1ヵ月にわたる旅行に出かけた同年3月7日、私に、「帰ってくるまでにまとめておけ!!」と命令したのを受け、帰国の1日前、4月12日に、第1庶務に提出したものである。その後の経緯をみれば、この報告書に記されたとおりの手順で"宗門支配"の謀略(ぼうりゃく)が進められていったことは明らかである。(元学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H15.11.1)
●この「山崎・八尋報告書」というのは、私が主に内容を考え、当時私の部下ともいうべき立場にあった、八尋頼雄氏(現副会長、本部事務局長、池田大作秘書等、枢要〈すうよう〉な地位にあり、私が法学委員会で育成した弁護士です)に整理させ、書かせたものです。筆跡は八尋氏の直筆です。(元学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.6.1)
【連絡協議会(昭和49年4月30日)】
-僧侶の任命権・海外布教権の譲渡を要求―
・東京・向島にある日蓮正宗寺院・常泉寺で、日蓮正宗と創価学会の連絡協議会が開催された。日蓮正宗側から宗務総監以下の宗務院執行部、そして創価学会からは池田会長以下の首脳が出席する。創価学会から日蓮正宗側に提示された「連絡会議議題」には、日蓮正宗と創価学会の関係を大きく左右する次のような重大な案件が記載されていた。
◆学会提示の「連絡会議議題」(昭和49年4月30日・連絡協議会/『フォーラム21』H15.8.1)
1.日蓮正宗国際センター
2.日蓮正宗インターナショナル
3.ミニスターの件
4.海外寺院の件
5.本山土地の問題
6.正本堂記念資料館、休憩所
7.天母(あんも)山郷土資料館
8.総坊売店拡張計画
9.洗衣(かんね)堂の使用
10.正本堂久遠の灯
11.正本堂手荷物預り所
12.正本堂電気設備関係保守契約
13.妙蓮寺記念碑の件
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このうち問題となったのは、海外布教に関する1~4の「議題」だった。というのもそこには、およそ日蓮正宗側が飲めるはずもない次のような創価学会側の要求が記載されていたからである。
◆創価学会側の要求事項(昭和49年4月30日・連絡協議会/『フォーラム21』H15.8.1)
1.(財)日蓮正宗国際センター
7月に発足したい。
役員人事、別紙の通り。
世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存する書面を頂きたい。
(別紙)財団法人国際センター
会長 池田先生 名誉総裁 日達猊下
理事長 森田一哉 参与 早瀬日慈
専務理事 原田稔 々 藤本栄道
常務理事 細谷昭 々 北條浩
理事 桐村泰二 々 和泉覚
監事 竹内重郎 々 原島嵩
八矢英世 々 持永利之
羽吹栞
森田修平
八尋頼雄
監事 小野康
森謙
2、日蓮正宗インターナショナル
第1回国際会議、来年1月グワム島で開く。事務局をロサンゼルス(エチワンダ)におく。
3.ミニスターの件
原案(書状)提出
日蓮正宗国際センター会長 来年発表してからは、日蓮正宗インターナショナル会長より授与
4、海外寺院の件
サンフランシスコ(西岸山 妙信寺)
シカゴ (大米山 妙行寺)
いずれもコミュニティセンターの一部を以て充当する。
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一読して、日蓮正宗を信徒団体である創価学会の風下に置こうと企図していることが読みとれる。なかんずく1項にある「世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存する書面を頂きたい」や、3項の「ミニスター(僧侶)を日蓮正宗インターナショナル会長より授与」とは、日蓮正宗の海外布教権や僧侶の任命権を池田会長が掌握するということであり、実質的に創価学会が日蓮正宗を支配、統括することを意味している。
【日達上人とのお目通り(昭和49年5月9日)】
<「日蓮正宗国際」センター>
●(※国際センター構想について)日蓮正宗から切り離してやるならよい。(そうでなければ)海外住職も引き上げる(第66世日達上人・昭和49年5月9日/『フォーラム21』H15.8.1)
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5月9日に北條副会長、山崎正友創価学会顧問弁護士が、日蓮正宗総本山・大石寺に登山し、日達上人にお目通りした際、日達上人は、国際センター問題について、創価学会の姿勢を厳しく批判したのだった。
●先月の中頃(※5月9日?)でしたか、北條副会長ならびに山崎弁護士が来られました時に、私は申し上げました。
その時、国際センターを造ると、日蓮正宗国際センターを造るに当たって、創価学会と日蓮正宗との真ん中に、もう1つ上に日蓮正宗国際センターというものを造る、という趣旨で来られました。私ははっきり断りました。
日蓮正宗は日蓮正宗として1つの宗教法人である。大聖人様の遺命によって広宣流布を全うしなければならない、ただ1つの宗旨である。それを、その上に1つ、日蓮正宗国際センターというものができるとなれば、正宗としては、その上に1つ、また被宗教法人ができる(ということになる)。我々は被宗教法人の下についていくんだから意味が無くなってしまう。
日蓮正宗としての意味が、また御戒壇の大御本尊をお守りしているというのも、今度はできなくなってしまう。その上の宗教法人においてどうとかこうとか言われたらば、こっちもその下につくんだから何ともする事ができなくなる。その意味の上からはっきりと断りました。
どこまでも日蓮正宗は、たとえ小さくてもよろしいから、大聖人の教義を守っていきます。また、今、皆様方のお陰で大きくなっておるけれども、(たとえ)もっともっと小さくなっても、どなたか、また、大きく手伝いをしてくれる人が(いつか)あるかもしれない。だから、私はどこまでも大聖人の仏法を守る、と言って、はっきり日蓮正宗の上につく日蓮正宗国際センターというものを、私は、否定といいますか、お断りしたわけでございます。
それから端を発して、そのあと、最近の1年か2年かにわたるところの学会のいろいろな教義の違い、謗法のあり方ということを申し上げました。で、ついにそのために2人(北條・山崎正友氏)は帰っていきました(第66世日達上人・昭和49年7月27日)
<本山事務機構の支配>
●(学会が)会計を、大石寺の会計を調べるという。大石寺も宗教法人で、その年その年に税務署へちゃんと会計報告してとおっておる。それにも拘わらず、また第三者が来て会計報告まで調べるというのは、どうも私には意味がとれない。その時に北條(浩=後に4代会長)さんが言うには、もし調べさせなければ手を分かつ、おさらばする、とはっきり言ったのです。
私はびっくりしました。こういう根性じゃ、これは駄目だと。会計を見せなければ自分らは正宗から手を切るというのである(第66世日達上人 昭和49年7月27日指導会の砌)
【北條文書(「本山の件」昭和49年5月10日付)】
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・9日の本山お目通りの際、猊下の話は大へんひどいものでした。之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした。……広布の上に重大障害となりまた宗門僧侶等の問題の一切の根源がここから出ていると感じました。
・(池田)先生が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえす残念です。 広宣流布など全く考えていない。自分達の私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足、という風にしか考えられません。 学会が生きぬいてゆく為には、相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか、いづれにせよ、先生の最大のご苦心にふれる思いで決意を固めました。
(昭和49年5月10日・北條浩副会長/『フォーラム21』H15.8.1)
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要するに、日蓮正宗を支配するための戦略を、日達上人に拒否され、批判されたことに腹を立て、「信心がない」「ひどい」などと日達上人を非難しているのである。
【日達上人、学会を破折】
<池田本仏論>
●最近あるところでは、新しい本仏ができたようなことを宣伝しておる、ということをうすうす聞きました。たいへんに間違ったことであります。もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とはいえません。そういう間違った教義を説く人があるならば、法華講の人は身をもってくい止めていただきたい。これが法華講の使命と心得ていただきたい。(法華講連合会春季総登山お目通り・昭和49年4月25日/『慧妙』H14.5.16)
●だれそれが仏であるという言葉も、この近所で聞かれるのであって、私は非常に憂慮しています。 なるほど、もし、だれそれが仏であるというならば、それは、我々は皆な全部仏であります。 それは理の上からそういうことになります。しかし、我々の宗教として信心するところの仏ではない。 たしかに凡夫が体の仏であるということは、御書にはっきり書いてあります。その体の仏をもって、どこまでも仏だと言いふらしていくならば、たいへん間違ったことになります。やはり末法の仏は、宗祖大聖人以外にはないのであります。(富士学林研究科開講式・昭和49年6月18日/『慧妙』H14.5.16)
<僧侶不要論>
●在家が、自分らが勉強し、自分らが折伏することをもって「和合僧である」と宣伝しております。大いに我々は考えなければなりません。(中略) そして「僧侶はいらない」ということは、「自分らが僧侶である」ということで、結局、同じことになる。今、我々出家しておる僧侶がいらないと、廃止すれば、次の和合僧団の僧侶ができることになってしまう。何も変わりはない。ただ現実を破壊せんがために、これを言うのである。(第16回寺族同心会大会・昭和49年5月31日/『慧妙』H14.5.16)
●それは現在の出家の世間にいう僧は必要ない、という根本の精神があるがゆえであります。もしそうならば、大変なことになる。寺院もいらない。そういう思想は世間的には大いに宣伝されるかもしれませんけれども、一歩退いて本当に考えるときには、それは成り立つでしょうか。 また、大聖人の御書は信徒が対象であると、だから信徒が大聖人の仏法の中心をなすべきものであるという説があります。なるほど、大聖人は人々を教化せられておるのである。仏が教化するところに信徒に向かって法を説くのはあたりまえであります。 その説は、僧侶はいらないという根本の考えがあるということ、根本の底に針があるということを、思い致さなければなりません。 大聖人の御書に、ただ信徒だけが対象であるということをもし言うならば、それは大聖人滅後、5人の連中が唱えた説となってしまうのであります。(昭和49年5月31日/『慧妙』H14.5.16)
●昨年の暮、お寺の丑寅勤行へは行くな、という指令が出た。その時の指導方法を知っていますか。ある寺では、その本堂の御本尊様の前に立って幹部が「こんな所ヘノコノコ来たって何の役にも立たない」、と言った。 諸君はどういう考えでしょう、それを聞いて平気でいる人があるでしょうか。何のために御本尊を信心し、お題目を唱えている。 その御本尊の前に立って、「こんな所にノコノコ来ても何の役にも立たない」と言ったのですよ。私はそれを聞いて、非常に憤慨に耐えない。(『蓮華』昭和49年6月号/『慧妙』H14.5.16)
●信徒が、もし僧侶を、慢の心をもってばかにし、あえて、僧侶を亡き者にしようとする心がもしあるならば、それは信徒としての道を誤り、世の中を守り栄えさせていくという道を誤ってしまう、ということになるのであります。(『蓮華』昭和49年7月号/『慧妙』H14.5.16)
<52年路線>
●日蓮正宗の教義が、一閻浮提に敷衍(ふえん)していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります。 皆さまの今の時に、もし日蓮正宗の教義でもなく、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、けっして我々は喜ぶべきでもないし、大聖人がお喜びになるとは思いません。むしろ、日蓮正宗の精神がなくなってしまった、消滅してしまったということになるのであります。(富士学林研究科開講式・昭和49年6月18日/『慧妙』H14.5.16)
<破邪顕正>
●法華講はどこまでも、法華講の道を保ち、本山ならびに自分の寺院と運命を共にする信心を堅く持って頂きたいことを、今日はこの席でお願いする次第でこざいます。(『蓮華』昭和49年5月号/『慧妙』H14.5.16)
●もし日蓮正宗の御本尊を拝するならは、日蓮正宗の教義に従って、信心していかなければならないのであります。その信心を進めていくのが僧侶としての役目である。諸君の教師としての役目であります。 もし、それに反することを聞いたならば、どこまでもこれを破折して、日蓮正宗の信徒を養成していかなければならない。(富士学林研究科開講式・昭和49年6月18日/『慧妙』H14.5.16)
【北條文書(「宗門の件」昭和49年6月18日付)】
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・広布の前途を大きく開いて帰国された先生に、このような報告を申上げることは洵(まこと)に残念なことであり、且つ申訳ない限りでありますが、報告を怠(おこた)って、ご判断をあやまらせては、より以上重大なことと思い、中西、秋谷、山友と相談の上、ご報告申上げます。また、私たちなりに検討しました対策もしたためますので、ご指示賜(たまわ)りたく。その上で、私ども、いかなる事なりとも斗う所存です。かねて先生の仰言っておられた通り、私たちの到底想像することの出来ない、みにくい姿であります。いずれにしても私たちは断固たたかいぬく決心です。
・G(※日達上人を指す)の心理は、一時的なものではない。今こんな発言をしたら、宗門がメチャメチャになってしまうことも考えないのではないか。困るのは学会だと思っているのだろう。 宗門は完全な派閥で、Gと総監とは主導権争いになっているのではないか。 長期的に見れば、うまくわかれる以外にないと思う。 本質は、カソリックとプロテスタントのような違いである。 戦術的には、すぐ決裂状態となることは避けて、早瀬理事とのパイプ(山友、八尋が話し易い関係にあります)を太くするとか、当面、Gの異常心理をしずめ、あたらしい進路を開きたいと考えます。 但し、やる時がきたら、徹底的に戦いたいと思います。
(昭和49年6月18日・北條浩副会長/『慧妙』H16.9.1)
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この報告書は、「国際センター」により日蓮正宗を支配下に置こうとした池田大作の指示により、私と北條浩氏が日達上人にお目通りし、これを受け容れるよう説得を試みた際、日達上人から厳しくはねつけられたことを逆恨みして、北條氏が池田大作あてに提出したものです。(元顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.6.1)
これは、日達上人が創価学会の池田本仏論などの誤りを破折され始めたことに対し、反発した北條・秋谷ら首脳陣が対策を相談し、池田宛に報告したものです。(『慧妙』H16.9.1)
※創価学会員は、「創価学会は日蓮正宗を護ってきた」と信じこまされているが、実際には、御先師の代から日蓮正宗に圧力をかけ続け、時の御法主上人猊下を悩まし続けていたのである。
[動画]:創価学会 離反の真相6=52年路線 日達上人お言葉
「学会の言い訳」破折
―「北條文書」について/『聖教新聞』―
「長期にわたる本山管理の仕掛け」「海外布教権の確立」(「山崎・八尋文書」S49.4.12)
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「(財)日蓮正宗国際センター」「世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存」「(ミニスターの件については)日蓮正宗インターナショナル会長より授与」(連絡協議会S49.4.30)
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「日蓮正宗から切り離してやるならよい」「私ははっきり断りました」(日達上人/S49.5.9のお目通りのこと)
↓
「9日の本山お目通りの際、猊下の話は大へんひどいものでした。」「相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか」(「北條文書」S49.5.10)
↓
「長期的に見れば、うまくわかれる以外にない」(「北條文書」S49.6.18)
一連の流れを見れば、「山崎・八尋文書」の「長期にわたる本山管理の仕掛け」「海外布教権の確立」の一環として「(財)日蓮正宗国際センター」があったことは明らか。しかし、学会の野望を見抜かれた日達上人に拒否されたために「日蓮正宗から切り離してやる」ことに変更。これに憤慨した北條が「長期的に見れば、うまくわかれる以外にない」と結論するに至ったのである。
<北條文書>
◆本山の件
・9日の本山お目通り際、猊下の話は大へんひどいものでした。之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした。……広布の上に重大障害となりまた宗門僧侶等の問題の一切の根源がここから出ていると感じました。
・(池田)先生が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえす残念です。……学会が生きぬいてゆく為には、相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか、いずれにせよ、先生の最大のご苦心にふれる思いで決意を固めました。(昭和49年5月10日・北條浩副会長/『フォーラム21』H15.8.1)
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要するに、日蓮正宗を支配するための戦略を、日達上人に拒否され、批判されたことに腹を立て、「信心がない」「ひどい」などと日達上人を非難しているのである。
◆宗門の件
・かねて先生の仰言っておられた通り、私たちの到底想像することの出来ない、みにくい姿であります。いずれにしても私たちは断固たたかいぬく決心です。
・長期的に見れば、うまくわかれる以外にないと思う。本質は、カソリックとプロテスタントのような違いである。
・戦術的には、すぐ決裂状態となることは避けて、早瀬理事とのパイプ(山友、八尋が話し易い関係にあります)を太くするとか、当面、G(注=猊下の略)の異常心理をしずめ、あたらしい進路を開きたいと考えます。但し、やる時がきたら、徹底的に戦いたいと思います。(昭和49年6月18日・北條浩副会長/『フォーラム21』H15.8.1)
<「北條文書」について>
[画像]:「北條副会長(当時)の文書について」(『聖教新聞』)
【問】最近、昭和49年当時の北條副会長(当時)の文書のことが取りざたされていますが、どういうことなのでしょうか。
【答え】いわれているところの文書は、49年5月10日付及び同年6月18日付のことだと思われますが、これは北條副会長が、当時の日達上人猊下にお目通りした折りの記録並びにこれに関連した感想等を記したものです。
ご存知のように、昭和47年10月の正本堂完成を機に、広布の舞台は急速に海外へ広がり、これら海外各国のメンバーに対する種々の援助が必要になってきました。
このため、日蓮正宗創価学会の海外における活動支援のための機関とし、財団法人「日蓮正宗国際センター」の設立の準備が進められておりました。
これらの経過については、その都度、御宗門にはご報告し、49年4月には、資産の寄付書、財団法人の名称に"日蓮正宗"を使用してよい旨の承諾書等もいただいたのであります。
一方、北・南米、欧州、東南アジア等の代表が一堂に会する「世界日蓮正宗会議」の開催の準備も進められておりました。
しかし、宗門の一部に「国際センター」を日蓮正宗と創価学会を包括する上部団体としてつくり、会長がその最高責任者になるのではないかとの誤認識があり、猊下も北條副会長のお目通りの席上、そのようなお言葉がありました。
北條副会長も、猊下の思いもよらぬお言葉に驚き、再度ご説明しましたが、その他の問題を含め、ことの成り行き上、感情的になったなかでのお目通りになったようであり、そのことが記述された文書であります。
その後、訪中から帰国した池田会長(当時)は、早速、日達上人猊下にお目通りし「国際センター」等の問題について再度にわたり縷々(るる)ご説明申し上げ、猊下におかれても、全面的に御理解いただくとともに、8月4日のお目通りでは「国際センターと世界日蓮正宗会議の件はよく分かりました。国際センターの名誉総裁の推戴についても了承しました。グアムの世界平和会議に招待されればまいります」とのお言葉を賜り、翌50年1月26日のグアム島の会議にはご出席されIBL名誉総裁にもお就きいただいたのであります。
したがって、この問題は、49年当時すでに解決している問題なのであります。
また同文書の中に「分離」うんぬんの論議が述べられておりますが、一時的、感情的な意見であり、もとより学会としての公式な意見、方針ではなく、当時、池田会長からも戒められたところであります。
この点については、日顕上人にも経過をご説明申し上げるとともに一時的、感情的にせよ、こうした問題があったことについては、お詫び申し上げました。また、今後とも創価学会は永遠に日蓮正宗を外護し、代々の御法主上人猊下に赤誠のご奉公をお誓い申し挙げました。
(『聖教新聞』)
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49年5月10日付及び同年6月18日付のことだと思われますが、これは北條副会長が、当時の日達上人猊下にお目通りした折りの記録並びにこれに関連した感想等を記したものです
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学会として公式に、「北條文書」の存在と内容については認めたのである。
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しかし、宗門の一部に「国際センター」を日蓮正宗と創価学会を包括する上部団体としてつくり、会長がその最高責任者になるのではないかとの誤認識があり、猊下も北條副会長のお目通りの席上、そのようなお言葉がありました。
北條副会長も、猊下の思いもよらぬお言葉に驚き、再度ご説明しましたが、その他の問題を含め、ことの成り行き上、感情的になったなかでのお目通りになったようであり、そのことが記述された文書であります。
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「山崎・八尋文書」が書かれた直後の昭和49年4月30日の連絡協議会には、「山崎・八尋文書」でいうところの「本山管理の仕掛け」と同様の内容が、「連絡会議議題」として学会側から宗門側に対して提示されている。
このうち問題となったのは、海外布教に関する1~4の「議題」だった。というのもそこには、およそ日蓮正宗側が飲めるはずもない創価学会側の要求が記載されていたからである。中でも「(財)日蓮正宗国際センター」については、「世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存」、ミニスターの件については「日蓮正宗インターナショナル会長より授与」などと書かれていたのである。これは、日蓮正宗の海外布教権や僧侶の任命権を池田会長が掌握するということであり、実質的に創価学会が日蓮正宗を支配、統括することを意味していることは明らかである。
しかも、この連絡協議会には、池田会長以下の首脳が出席していたのであるから、池田大作の承諾のもとに「本山管理の仕掛け」(「山崎・八尋文書」)の一環として、「(財)日蓮正宗国際センター」等の構想があったことは明白である。
●先月の中頃でしたか、北條副会長ならびに山崎弁護士が来られました時に、私は申し上げました。その時、国際センターを造ると、日蓮正宗国際センターを造るに当たって、創価学会と日蓮正宗との真ん中に、もう一つ上に日蓮正宗国際センターというものを造る、という趣旨で来られました。私ははっきり断りました。日蓮正宗は日蓮正宗として一つの宗教法人である。大聖人様の遺命によって広宣流布を全うしなければならない、ただ一つの宗旨である。それを、その上に一つ、日蓮正宗国際センターというものができるとなれば、正宗としては、その上に一つ、また被宗教法人ができる(ということになる)。我々は被宗教法人の下についていくんだから意味が無くなってしまう。日蓮正宗としての意味が、また御戒壇の大御本尊をお守りしているというのも、今度はできなくなってしまう。その上の宗教法人においてどうとかこうとか言われたらば、こっちもその下につくんだから何ともする事ができなくなる。その意味の上からはっきりと断りました。(第66世日達上人S49.7.27)
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国際センターについては、日蓮正宗の上位団体となるか否かが最大のポイントである。その点について日達上人が北條に直接問い質したのである。その結果「創価学会と日蓮正宗との真ん中に、もう一つ上に日蓮正宗国際センターというものを造る」という認識を持たれたのである。話としては単純であり、これを「誤認識」するとはとても考えられない。"死人に口なし"とはよく言ったものである。ただし、学会としては「本山管理の仕掛け」であることを気づかれないように説明したはず。だから、北條らは"のらりくらり"と本心・本質をぼかした曖昧な表現に終始したことは考えられる。
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その後、訪中から帰国した池田会長(当時)は、早速、日達上人猊下にお目通りし「国際センター」等の問題について再度にわたり縷々(るる)ご説明申し上げ、猊下におかれても、全面的に御理解いただくとともに、8月4日のお目通りでは「国際センターと世界日蓮正宗会議の件はよく分かりました。国際センターの名誉総裁の推戴についても了承しました。グアムの世界平和会議に招待されればまいります」とのお言葉を賜り、翌50年1月26日のグアム島の会議にはご出席されIBL名誉総裁にもお就きいただいたのであります。
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●(※国際センター構想について)日蓮正宗から切り離してやるならよい。(そうでなければ)海外住職も引き上げる(第66世日達上人・昭和49年5月9日/『フォーラム21』H15.8.1)
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5(※6?)月9日に北條副会長、山崎正友創価学会顧問弁護士が、日蓮正宗総本山・大石寺に登山し、日達上人にお目通りした際、日達上人は、国際センター問題について、創価学会の姿勢を厳しく批判したのだった。「全面的に御理解」とは、池田自身が、これまでの主張を"後退"させ「日蓮正宗から切り離してやる」ことに同意した結果であろう。
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同文書の中に「分離」うんぬんの論議が述べられておりますが、一時的、感情的な意見であり、もとより学会としての公式な意見、方針ではなく、当時、池田会長からも戒められたところであります。
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「山崎・八尋文書」が書かれた直後の昭和49年4月30日の連絡協議会には、「山崎・八尋文書」でいうところの「本山管理の仕掛け」と同様の内容が、「連絡会議議題」として学会側から宗門側に対して提示されている。
このうち問題となったのは、海外布教に関する1~4の「議題」だった。というのもそこには、およそ日蓮正宗側が飲めるはずもない創価学会側の要求が記載されていたからである。中でも「(財)日蓮正宗国際センター」については、「世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存」、ミニスターの件については「日蓮正宗インターナショナル会長より授与」などと書かれていたのである。これは、日蓮正宗の海外布教権や僧侶の任命権を池田会長が掌握するということであり、実質的に創価学会が日蓮正宗を支配、統括することを意味していることは明らかである。
しかも、この連絡協議会には、池田会長以下の首脳が出席していたのであるから、池田大作の承諾のもとに「本山管理の仕掛け」(「山崎・八尋文書」)の一環として、「(財)日蓮正宗国際センター」等の構想があったことは明白である。
◆先生が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえすも残念です。広宣流布など全く考えていない、自分たちの私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足という風にしか考えられません(「北條文書」5月10日付)
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「先生が前々から見抜いておられた本質」とあることから、「北條文書」以前から、池田自身が「広宣流布を僧俗一体になって進める気のない日蓮正宗の本質に、創価学会首脳が業を煮やしていた」(「山崎・八尋文書」)ことが明らかである。このような池田の意向に沿った形で宗門支配は画策されたのである。それを日達上人に阻まれたために「『分離』うんぬん」の発言となったのであろう。
◆まさしく、現代における”人”への帰命とは師匠への帰命であり、池田会長への帰命となる(副会長『ひのくに』昭和50年第10号)
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福島源次郎元副会長は、このような発言をして問題となり、クビになった。彼は、日蓮正宗の御本尊や、唯授一人の血脈を否定した訳ではない。これに対して北條の「長期的に見れば、うまくわかれる以外にない」という発言は、日蓮正宗の御本尊や法統から離れることを意味するものであり、福島発言以上の、重大な謗法である。それでも池田は彼を処分するどころか、その後も重用し理事長、更には会長にまでした。このような池田の態度をみる限り、北條の「『分離』うんぬん」の発言が、池田の意向に沿うのもであったことは明らかであろう。
「『地涌』の屁理屈」破折
道路問題、土地問題を契機に、創価学会が本山改革
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「道路問題、土地問題」は単なる事務処理上の問題。学会による「本山管理の仕掛け」(「山崎・八尋文書」)と結ぶつけるのは無理。
提案は、池田会長(当時)によってはっきり不採用にされている
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「不採用」となったのは、日達上人がキッパリと拒否したから。「先生が前々から見抜いておられた本質」(「北條文書」)とあるように、宗門支配の画策は、池田の意向に沿ったもの。
「北條文書」などに接しても、宗門外護の姿勢は変えなかった
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「北條文書」の以前も以後も、僧侶・寺院を軽視する言動を繰り返していた。
「長期にわたる本山管理の仕掛け」「海外布教権の確立」(「山崎・八尋文書」S49.4.12)
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「(財)日蓮正宗国際センター」「世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存」「(ミニスターの件については)日蓮正宗インターナショナル会長より授与」(連絡協議会S49.4.30)
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「日蓮正宗から切り離してやるならよい」「私ははっきり断りました」(日達上人/S49.5.9のお目通りのこと)
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「9日の本山お目通りの際、猊下の話は大へんひどいものでした。」「相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか」(「北條文書」S49.5.10)
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「長期的に見れば、うまくわかれる以外にない」(「北條文書」S49.6.18)
一連の流れを見れば、「山崎・八尋文書」の「長期にわたる本山管理の仕掛け」「海外布教権の確立」の一環として「(財)日蓮正宗国際センター」があったことは明らか。しかし、学会の野望を見抜かれた日達上人に拒否されたために「日蓮正宗から切り離してやる」ことに変更。これに憤慨した北條が「長期的に見れば、うまくわかれる以外にない」と結論するに至ったのである。
<資料参照>
・『地涌』第337号
・「山崎・八尋文書」(昭和49年4月12日付)
・「連絡会議議題」(昭和49年4月30日連絡協議会)
・「北條文書」(昭和49年5月10日付/昭和49年6月18日付)
<北條文書>
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>この「北條文書」についての創価学会側の立場を理解するには、先師日達上人の発言に触れなければならない。しかしここでは、これを省く。詳細を知りたい人は、「北條文書」全文を読むことが一番だ。
>先に述べた当時の状況、「北條文書」の全文を読めば、日顕一派の解説がいかに事実と反した意図的なものであるか、誰でも納得できるだろう。(『地涌』第337号)
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思わせぶりな言い方をしているが、『地涌』掲載のホームページにも、その他の学会側ホームページにも、「北條文書」の全文は掲載されていないようである。「全文を読むことが一番だ」というのであれば、「しかしここでは、これを省く」などといわずに、積極的に掲載すべきである。それをしないのは、大した内容ではないからであろう(笑)。
<道路問題・土地問題>
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今日の事態に至っても、日蓮正宗の社会的不正や不祥事について、創価学会側はほぼ沈黙を守っている。そのことすらわからず、日顕らは創価学会を誹謗しているのである。だが今号では、時代背景を説明するために、総本山大石寺の「社会的不正・疑惑事件」に触れなければならない。そのことをあらかじめ述べておく。(『地涌』第337号)
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創価学会の社会的不正や不祥事については枚挙に暇がない。とくに組織犯罪や、違法を承知で行う組織の為の犯罪は、創価学会とオウム真理教の"お家芸"であることは周知の事実である。
それはともかく、創価学会が「日蓮正宗の社会的不正や不祥事について」「沈黙を守っている」など、誰が信じるというのか(爆笑)。連日のように、機関紙において無いことまでデッチ上げて宗門を誹謗し、些細なことでも取り上げて訴訟を起す。それが創価学会の宗門に対する行動の実態である。
そのような学会がもし、「北條文書」作成当時の「日蓮正宗の社会的不正や不祥事について」「沈黙を守っている」とするならば、その理由は2つしかない。1つは、その「社会的不正や不祥事」に学会が主体的に関わっている場合である。他の1つは、事実無根か「社会的不正や不祥事」などと騒ぐほどのことではない場合である。
いずれにせよ、当該『地涌』の記事をみる限り、客観的事実については、『地涌』筆者が勝手に書きなぐっているだけで、情報源が具体的に明示されていない。これでは、学会がウソばかり書くといって嫌う週刊誌顔負けの、杜撰な記事というほかない。まったく信憑性に欠けるものである。信じてもらいたければ、情報源を明示すべきであろう。
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>「山崎・八尋文書」の1ページ目から2ページ目に、次のような記述がある。
「今回の道路問題、土地問題は、よほどこたえたとみえて、改革には、本山も覚悟をきめてとりくむつもりのようです。ことに早瀬理事が積極的で、自分は6年間、苦しみながらこの機会を待っていた。今思い切ってやらなければやるときがない。今まで何度云ってもうんといわなかった猊下が、やっと折れたのだから、気の変わらぬうちに、進めたいと思っており、自身で宗教法人法の勉強もしています。宗制宗規、本山規則の改正も辞さないとの考えを述べておりました」
>「山崎・八尋文書」からは、「道路問題、土地問題を契機に、創価学会が本山改革に乗り出そうとしていた。ところが僧侶側は僧俗一致して広宣流布を進めようとの気持ちがなく、僧の権益のみにこだわっていた」(要旨)という当時の状況が浮かび上がってくる。「山崎・八尋文書」は、広宣流布を僧俗一体になって進める気のない日蓮正宗の本質に、創価学会首脳が業を煮やしていた――そうした時代背景の中で書かれたものだった。(『地涌』第337号)
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「道路問題、土地問題を契機に、創価学会が本山改革に乗り出そうとしていた」というが、「道路問題、土地問題」と「長期にわたる本山管理の仕掛け」(「山崎・八尋文書」)との関係は、はなはだ曖昧である。そもそも、「道路問題、土地問題」は、事務処理上の問題であり、『地涌』の記述が正しければ「弁護士も雇わず、村の司法書士に任せていた」(『地涌』第337号)ために起った問題である。『地涌』自身が「総本山側の法的処理のミス」(同)と指摘しているとおり、故意による悪質な犯罪などではないのである。それならば、顧問弁護士を持てばすむ話ではないか。それがどおして、「本山とはいずれ関係を清算せざるを得ない」(「山崎・八尋文書」)「長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固める」(同)などという考えになるというのか。いかに考えても論理に飛躍があるし、信心の上から言えば、明らかな謗法である。
従って「早瀬理事が積極的」だという「改革」についても、「山崎・八尋文書」が指摘するようなもの、即ち、学会が「本山管理」をするようなものではないことが明らかである。
むしろ学会は「道路問題、土地問題」を契機として、「早瀬理事が積極的」という行政上の「改革」に便乗・利用する形で、宗門支配を企てたと考えるのが妥当である。
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だが、この告発騒ぎは、創価学会側が富士宮市に対し公民館を寄付するなどの地元貢献の積極姿勢を示すことでなんとか収まった。同48年7月26日には告発は取り下げられた。告発後、およそ1ヵ月後のことであった。(『地涌』第337号)
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「日達上人は、どのように言い逃れても罪をまぬかれることのできない状況にあった。」(『地涌』第337号)「日蓮正宗はテンヤワンヤの大騒ぎ、地に足のつかないありさまであった。もちろん、創価学会側もこの青天の霹靂ともいえる事件に肝をつぶした。」(同)といいながら、「富士宮市に対し公民館を寄付」することによって「告発は取り下げられた」という。学会が公民館の建設にいくら支払ったかは知らないが「公民館」というからには、大きな建物ではなさそうである。それはともかく、いくらかの金銭を支払っただけで問題が「1ヶ月」で解決してしまうというのだから、この「道路問題、土地問題」、『地涌』が騒ぐほど大した問題ではなかったようである。
しかも、問題となった「富士宮市の市道を無断で占拠し使用」(同)「農地転用の法的処理」(同)について、結局どのような結果となったのかについては一切記述がない。おそらくは、「無断で占拠し使用」していたという「市道」は、改めて市の許可を得て使用することができたのであろう。「農地転用の法的処理」についても、その後に行われたのであろう。
すなわち、これらは全て、"道路使用の申請""農地転用の申請"という事務的処理さえ行っておれば、本来、認められた事柄であって、悪質な違法行為などと呼べるものではなかったことが推測される。
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>ところが、告発騒ぎが収まっても、解決されない大きな謎が残った。総本山大石寺の厳秘である土地台帳一式の写しが、なぜ流出したのかという謎である。
この当時の日達上人の側近は、反日達上人派の僧侶が当代法主を陥れるために機密漏洩したと最終的に判断したようだ。広宣流布を考えない僧侶たちの足の引っ張りあいが、告発騒ぎとして外部に噴出したのだった。
巻き添えとなった創価学会側は憤懣やるかたないものがあった。膨大な正本堂御供養をしたあげく、創価学会会長が刑事告発をされた。
>創価学会首脳が宗門改革に対し悲壮な決意をしたのは無理のないことであった(『地涌』第337号)
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「土地台帳一式の写しが、なぜ流出したのか」というが、どの土地が誰の所有か、などという情報は、行政側が掌握しているはずであるし、情報自体は簡単に手に入るはずである。また、当然、農地か否かについても、行政側にその情報が存在するものである。「判断したようだ」などと勝手な推測をもとに「僧侶たちの足の引っ張りあいが、告発騒ぎとして外部に噴出したのだった」という断定的な結論を導き出すのは、牽強付会の戯論である。
「創価学会首脳が宗門改革に対し悲壮な決意をしたのは無理のないことであった」というが、「悲壮な決意」をしたというには、この「道路問題、土地問題」、あまりにも些細なことであり、これを宗門支配の動機と結び付けるには「無理」があるようだ(爆笑)
◆先生が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえすも残念です。広宣流布など全く考えていない、自分たちの私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足という風にしか考えられません(「北條文書」5月10日付)
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「先生が前々から見抜いておられた本質」とあることから、「道路問題、土地問題」以前から、池田自身が「広宣流布を僧俗一体になって進める気のない日蓮正宗の本質に、創価学会首脳が業を煮やしていた」(「山崎・八尋文書」)ことが明らかである。このような池田自身の意向を北條や山崎氏は知悉していたが故に、偶々起った「道路問題、土地問題」を学会主体の「宗門改革」=「本山管理の仕掛け」に結び付けた報告書を池田に提出したのであろう。
<本山支配の仕掛け>
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総本山側の会計処理、法人事務処理を広宣流布推進の上から親身になって心配し、書類を点検している創価学会側に対し、お金をいくら持っているか調べているのではと邪推するありさまであった。(『地涌』第337号)
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「広宣流布推進の上から親身になって心配」している者が「本山とはいずれ関係を清算せざるを得ない」(「山崎・八尋文書」)「長期的に見れば、うまくわかれる以外にない」(「北條文書」)などと考えるはずがない。「お金をいくら持っているか調べているのではと邪推」というが、宗門は独立法人として税務処理をしているのだ。それをわざわざ別法人の、しかも信徒団体が大石寺の会計を調べるというのだから、邪推されても仕方あるまい。
「総本山大石寺の法的処理がズサンであったた」(『地涌』第337号)などというが、宗門が税務処理上の問題で、告発・起訴されたなどということは一度もない。むしろ学会こそ、墓苑事業に関わることで脱税事件を起したではないか。それだけでない、共産党委員長宅盗聴事件(裁判所が組織犯罪と認定)や、言論出版妨害事件を組織的に引き起こし、世間から顰蹙を買った。"他人"のことを「親身になって心配」する暇があったら、自己管理を徹底すべきであったのだ(笑)。しかし、共産党委員長宅盗聴事件の資金援助をした責任者が「北條文書」の筆者であってみれば、「自己管理を徹底」させることなど不可能であるが。
●(学会が)会計を、大石寺の会計を調べるという。大石寺も宗教法人で、その年その年に税務署へちゃんと会計報告してとおっておる。それにも拘わらず、また第三者が来て会計報告まで調べるというのは、どうも私には意味がとれない。その時に北條(浩=後に4代会長)さんが言うには、もし調べさせなければ手を分かつ、おさらばする、とはっきり言ったのです。私はびっくりしました。こういう根性じゃ、これは駄目だと。会計を見せなければ自分らは正宗から手を切るというのである(第66世日達上人 昭和49年7月27日指導会の砌)
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「もし調べさせなければ手を分かつ」これは「北條文書」の内容と一致する。「広宣流布推進の上から」実施したはずの会計調査だというのに、それができなければ、「手を分かつ」というのであるから、まったく本末転倒である。ここに明らかなように、池田学会の目指す広宣流布とは日蓮正宗の法統とは無関係に展開されているものだったのである。これは、戸田会長の指導や、池田学会が公式に表明していた指針とも相違する。つまり、池田学会による"広布"は、裏と表、本音と建前を巧妙に使い分けて宗門や一般会員を騙して行われてきたのである。そして、学会による"宗門支配"とは、"裏"であり公表できない"本音"のレベルにおける"学会流広布"上の戦略だったのである。
◆本山維持はわれわれの責任であるが、今後の財政を明確にするために、本山当局においては、決算報告書を提示すべきである。(中略)増上慢の講頭が、決算報告書云々といった時、ついに彼(※戸田城聖)は立ち上がった。その声は怒りに燃えていた。
「出し甲斐があるようにしろとは、いったい何ですか。決算報告があれば、いくらでも金が集まるというのですか。使途不明だから、金を出すのがいやというのですか。700年来、宗門の歴史上、こんなことは聞いたことがない。(中略)御供養は、我々信徒の真心だけです。その他に何もない。
問題は、真心こめて御供養申し上げる-ただそれだけではないか。それを、御僧侶がどうお使いになろうと、我々信徒には関係のないことだ。仮に、その御僧侶が浄財を、とんでもないことに使ったとしても、我々の関知するところではない。その方に、大聖人のお叱りあるは必定です。御供養はかくあるべきものと、私は思うのです。(戸田会長の言『人間革命』第3巻「結実」)
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大石寺の会計調査をしようとした学会は、「決算報告書を提示すべきである」と本山に詰め寄った「増上慢の講頭」以下である。北條は、副会長の身でありながら日達上人について「信心そのものを疑いたくなるほどひどいもの」(「北條文書」)と誹謗しているが、ひどいのは北條の信心である。さらに、このような発言をした北條を処分するどころか、彼を重用し続け理事長、会長にまで取り立てた池田の信心は、もっとひどい。
●戸田先生は「御供養は信者の義務である。信者は御供養することが、仏様に御供養することがもっとも大切なのである。それを僧侶が何に使うかということは必要ない、もし悪いことに使えば僧侶が罰をうけるのである。信者はご供養することに功徳があるのだ」ということを大きな声でいわれました。(第66世日達上人『大日蓮』S48.10/『慧妙』H15.2.1)
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世界広布推進のために設立されようとしていた「財団法人日蓮正宗国際センター」について、日蓮正宗を包括し下に置くために創価学会側がつくっていると、これまた邪推し設立に反対したのだった。(『地涌』第337号)
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「山崎・八尋文書」が書かれた直後の昭和49年4月30日の連絡協議会には、「山崎・八尋文書」でいうところの「本山管理の仕掛け」と同様の内容が、「連絡会議議題」として学会側から宗門側に対して提示されている。
このうち問題となったのは、海外布教に関する1~4の「議題」だった。というのもそこには、およそ日蓮正宗側が飲めるはずもない創価学会側の要求が記載されていたからである。中でも「(財)日蓮正宗国際センター」については、「世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存」、ミニスターの件については「日蓮正宗インターナショナル会長より授与」などと書かれていたのである。これは、日蓮正宗の海外布教権や僧侶の任命権を池田会長が掌握するということであり、実質的に創価学会が日蓮正宗を支配、統括することを意味していることは明らかである。
しかも、この連絡協議会には、池田会長以下の首脳が出席していたのであるから、池田大作の承諾のもとに「本山管理の仕掛け」(「山崎・八尋文書」)の一環として、「(財)日蓮正宗国際センター」等の構想があったことは明白である。
<池田の責任>
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>まず、知っておかなければならないのは、当時の宗門と創価学会の関係が相当ギクシャクしていたということである。だが、このような状況下にあっても、この山崎提案は、池田会長(当時)によってはっきり不採用にされている。
>山崎正友の創価学会首脳への提案は却下されたのだ。(『地涌』第337号)
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●先月の中頃でしたか、北條副会長ならびに山崎弁護士が来られました時に、私は申し上げました。その時、国際センターを造ると、日蓮正宗国際センターを造るに当たって、創価学会と日蓮正宗との真ん中に、もう1つ上に日蓮正宗国際センターというものを造る、という趣旨で来られました。私ははっきり断りました。日蓮正宗は日蓮正宗として1つの宗教法人である。大聖人様の遺命によって広宣流布を全うしなければならない、ただ1つの宗旨である。それを、その上に1つ、日蓮正宗国際センターというものができるとなれば、正宗としては、その上に1つ、また被宗教法人ができる(ということになる)。我々は被宗教法人の下についていくんだから意味が無くなってしまう。日蓮正宗としての意味が、また御戒壇の大御本尊をお守りしているというのも、今度はできなくなってしまう。その上の宗教法人においてどうとかこうとか言われたらば、こっちもその下につくんだから何ともする事ができなくなる。その意味の上からはっきりと断りました。(第66世日達上人S49.7.27)
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6月に北條副会長、山崎正友創価学会顧問弁護士が、日蓮正宗総本山・大石寺に登山し、日達上人にお目通りした際、日達上人は、国際センター問題について、創価学会の姿勢を厳しく批判したのだった。
「不採用」となったのは、日達上人がキッパリと拒否したからである。その証拠に「山崎・八尋文書」が書かれた直後の昭和49年4月30日の連絡協議会には、「山崎・八尋文書」でいうところの「本山管理の仕掛け」と同様の内容が、「連絡会議議題」として学会側から宗門側に対して提示されていたのである。
しかも、この連絡協議会には、池田会長以下の首脳が出席していたのであるから、池田大作の承諾のもとに「本山管理の仕掛け」(「山崎・八尋文書」)の一環として、「(財)日蓮正宗国際センター」等の構想があったことは明白である。
◆まさしく、現代における”人”への帰命とは師匠への帰命であり、池田会長への帰命となる(副会長『ひのくに』昭和50年第10号)
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福島源次郎元副会長は、このような発言をして問題となり、クビになった。彼は、日蓮正宗の御本尊や、唯授一人の血脈を否定した訳ではない。これに対して北條の「長期的に見れば、うまくわかれる以外にない」という発言は、日蓮正宗の御本尊や法統から離れることを意味するものであり、福島発言以上の、重大な謗法である。それでも池田は彼を処分するどころか、その後も重用し理事長、更には会長にまでした。このような池田の態度をみる限り、「北條文書」「山崎・八尋文書」が、池田の意向に沿うのもであったことは明らかであろう。
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池田会長は、この「北條文書」などに接しても、宗門外護の姿勢は変えなかった。このような状況後も、あくまで僧俗和合を進め、日蓮正宗僧侶が自覚を高め、広宣流布への情熱をいっそう確かなものとするよう、腐心されていたのである。(『地涌』第337号)
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◆大聖人が生涯、一寺ももたれなかったということは、これまでの寺院の権威の座を、たたき破られたのだと私は思う(中略)
寺院が令法久住を忘れて形式や権威に堕せば、大聖人のご精神に反する(中略)
時代の推移とともに、現代は学会の不惜の転教折伏があって、寺院は折伏のうえの儀式の場といってよい。ともかくわれわれは、社会や不幸の人々のために尽くさなければならない。僧は信徒を守ることが第一義となろう(池田大作・原島嵩著『御書と四条金吾』=昭和48年頃)
◆儀式だけを行ない、我が身の研鑚もしない、大衆のなかへ入って布教をするわけでもない既成の寺院の姿は、修行者の集まる場所でもなければ、ましてや道場であるわけは絶対にない(『大白蓮華』昭和52年3月号25頁)
[画像]:「秋季彼岸法要入場券」=会館で、寺院で行なうのと同じような儀式が営まれた。
[画像]:「慧光照無量」=塔婆供養のかわりに、「慧光照無量」として各人が亡くなった人の名簿を提出し、広布基金を御供養として出す。
★以上のように、池田学会は、「北條文書」の以前も以後も、僧侶・寺院を軽視する言動を繰り返していたのである。「宗門外護の姿勢は変えなかった」など、まったくの事実誤認である。
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のちに信心がまったく狂ってしまう山崎正友が、日蓮正宗に「広宣流布という宗教的使命感は感じられず」と記述していることは注目に値する。このとき、すでに山崎は、僧侶たちが自分たちの繁栄しか考えていないと喝破している。(『地涌』第337号)
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『地涌』の主張によれば、当時の山崎氏は正しい信心を有していたことになる。この当時、池田大作も、山崎、八尋両氏を処分するどころか、彼等の主張に沿って連絡協議会に議題を提出していることからして、『地涌』と同様の考えであったのであろう。
しかし、正しい信心をしている者が、「本山とはいずれ関係を清算せざるを得ない」(「山崎・八尋文書」)などと考えるだろうか。日蓮正宗「本山」の歴代上人にのみ、大聖人の仏法の一切が相伝されているとするのが、宗旨の根本義である。であるならば、本山からの独立を主張することは、正統仏法からの離脱を意味するものであり、血脈断絶を意味することに他ならない。このことは、牧口会長や戸田会長の指導からも明らかである。
◆我々は決して寺を遠のけとは言はない。寺を離れたら原理を失うことになり日蓮正宗でなくなる。是だけが正宗で他はすべて邪宗であります。(『牧口常三郎全集』第10巻145頁)
◆誰がなんと言おうと、誰がどうあろうと、私は総本山に御奉公の誠を尽くし、猊下に忠誠を尽くし、広宣流布のため、今こそ死身弘法の実践を、この佳き日に誓うものであります(戸田会長の言『人間革命』第3巻「結実」)
◆御本山へ尽くすことはあたりまえのことなんだからね。それが自慢のようになっては、もう、信者としては資格がない(『戸田城聖全集』第4巻237頁)
◆どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、私は水谷猊下にお仕えしてきたのと、いささかも変わりわない。新猊下を大聖人としてお仕え申し上げ、広布への大折伏にまっすぐ進んでいくだけである。(昭和31年1月29日『戸田城聖全集』第3巻236頁)
「北條文書」―『地涌』の屁理屈
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/09/337.html
(『地涌』第337号)
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1991年12月3日
池田名誉会長は僧俗和合をめざし忍耐強い努力をしてきた
その歴史的事実を日蓮正宗全僧侶はいま認めるべきである
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日顕および総監・藤本日潤名で創価学会側に送りつけてきた「創価学会破門通告書」には、次のように書かれた箇所がある。
「創価学会における、たび重なる巨額の金銭不祥事にまつわる社会的不正・疑惑事件は、創価学会自体が、宗教法人としての資質や責任を厳しく問われる、反社会的実態を露呈したものであります。これは、同時に、本宗の社会的信用に著しく傷を付け、広宣流布への大きな障害となっております」
創価学会側の外護によって、これまで守られてきたことも忘れ、ずいぶんと勝手なことを言うものだ。
今日の事態に至っても、日蓮正宗の社会的不正や不祥事について、創価学会側はほぼ沈黙を守っている。そのことすらわからず、日顕らは創価学会を誹謗しているのである。
だが今号では、時代背景を説明するために、総本山大石寺の「社会的不正・疑惑事件」に触れなければならない。そのことをあらかじめ述べておく。
「創価学会破門通告書」の先に紹介した文につづき、「山崎・八尋文書」(昭和49年4月12日付)、「北条文書」(昭和49年6月18日付)を紹介している。なお、これらの文書は、山崎正友が造反時に、創価学会に独立の下心ありと喧伝し、宗門僧侶を煽るために持ち出したものである。
しかし、
これらの文書が書かれた当時の状況を知れば、このような「山崎・八尋文書」が、なぜ書かれたかが充分、納得できるはずである。
日顕一派は「創価学会破門通告書」に関する記者会見で、これらの文書を記者に配り、創価学会はかねてから独立の意志があったと主張した。山崎正友の謀略の延長線上で創価学会攻撃をしているのだ。
さて「山崎・八尋文書」の中には、
「本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについて二とおり考えられます。一つは、
本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向う3年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、
長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固めるという方法です。本山管理に介入することは、火中の栗をひろう結果になりかねない危険が多分にあります」
などの記述がある。
まず、知っておかなければならないのは、当時の宗門と創価学会の関係が相当ギクシャクしていたということである。だが、このような状況下にあっても、
この山崎提案は、池田会長(当時)によってはっきり不採用にされている。
また「山崎・八尋文書」となっているが、八尋頼雄弁護士は山崎の書いたものを清書したにすぎない。もともとの山崎手書きの原文は、山崎正友の恐喝事件裁判で裁判所に提出されており、八尋弁護士が単に清書役であったことは、公的に確認されている。
繰り返すようだが、この
山崎正友の創価学会首脳への提案は却下されたのだ。
それでは、この「山崎・八尋文書」は、どのような時代背景で書かれたのだろうか。これを知ることは、先に記した「宗門と創価学会の関係が相当ギクシャクしていた」という表現を理解することでもある。
「山崎・八尋文書」の1ページ目から2ページ目に、次のような記述がある。
「
今回の道路問題、土地問題は、よほどこたえたとみえて、改革には、本山も覚悟をきめてとりくむつもりのようです。ことに早瀬理事が積極的で、自分は6年間、苦しみながらこの機会を待っていた。今思い切ってやらなければやるときがない。今まで何度云ってもうんといわなかった猊下が、やっと折れたのだから、気の変わらぬうちに、進めたいと思っており、自身で宗教法人法の勉強もしています。宗制宗規、本山規則の改正も辞さないとの考えを述べておりました」
この文で判明することは、「道路問題、土地問題」があり、それを受けて本山の改革が進められようとしていた当時の事情である。それでは、「道路問題、土地問題」とはなにか。それを解説する前に、「山崎・八尋文書」の次の記述を読んでもらいたい。
「要するに、本山と学会と一体不二の体制になって、広宣流布という宗教的使命感は感じられず、むしろ、寺の維持、僧侶という職域の維持ということに徹しているのではないかとの印象を受けます」
のちに信心がまったく狂ってしまう山崎正友が、日蓮正宗に「広宣流布という宗教的使命感は感じられず」と記述していることは注目に値する。このとき、すでに山崎は、僧侶たちが自分たちの繁栄しか考えていないと喝破している。
山崎正友が後年、宗門と創価学会とを離間することができたのも、日蓮正宗僧侶に対して幻想を持たず、堕落した僧侶の本質を正確に見抜いていたことによるものと思われる。
山崎は、当時、部下の一人に、次のように話していたという。
「日蓮正宗の坊さんは、信徒が勤行したり、教学を研鑚することなど願ってはいない。そんなことをされると坊さんは困るんだ。自分たちだけが御経を読むことができ、教学も独占したいんだ。信徒は知らしむべからず、由らしむべしと考えている。そのほうが、御供養をもらいやすいだろ。坊さんの考えていることは、威張ることと、金だけだよ」
山崎は早くから、今日、宗門問題として噴出している僧の暗部を見抜いていたのである。だが、山崎の勘違いは、そのことをもって信仰そのものをナメてかかったことだ。堕落した僧の本質を見て、それが日蓮大聖人の仏法の本質と思い、勘違いしてしまった。そして、金と女に転落していったのである。
話を戻そう。「山崎・八尋文書」からは、「
道路問題、土地問題を契機に、創価学会が本山改革に乗り出そうとしていた。ところが僧侶側は僧俗一致して広宣流布を進めようとの気持ちがなく、僧の権益のみにこだわっていた」(要旨)という当時の状況が浮かび上がってくる。
「山崎・八尋文書」は、広宣流布を僧俗一体になって進める気のない日蓮正宗の本質に、創価学会首脳が業を煮やしていた――そうした時代背景の中で書かれたものだった。
それでは、「山崎・八尋文書」にある「道路問題、土地問題」とはなんだろうか。創価学会側が、本山改革をしなければ広宣流布がおぼつかない、とまで思い詰めた問題とはなにか。
前出の2つの文書が書かれた前年の昭和48年6月21日、富士宮市議会の上杉三郎副議長、内藤寛前富士宮市議、渡辺春雄(いま有名になっている富士宮半野地区の法華講員)は、細井日達管長と池田大作創価学会会長を富士宮署に告発した。
告発の内容は、正本堂建設にあたって
富士宮市の市道を無断で占拠し使用しているということであった。告発状によれば、それは「道路法第99条違反、刑法第235条の2(侵奪罪)」にあたるというのである。
この告発は、『毎日新聞』の静岡版および地元紙に報道された。管長が告発されたのだから
日蓮正宗はテンヤワンヤの大騒ぎ、地に足のつかないありさまであった。もちろん、創価学会側もこの青天の霹靂ともいえる事件に肝をつぶした。
創価学会側にしてみれば、土地や道路の処理は、総本山大石寺が一手におこなっていたので安心しており、まさか、そのような法律違反をやっていようとは夢にも思っていなかった。池田創価学会会長は、
総本山大石寺の法的処理がズサンであったために巻き添えで告発されたのである。
考えられないことだが、正本堂建設事業に関するあれだけ広大な土地の処理をするのに、
総本山大石寺は弁護士も雇わず、村の司法書士に任せていた。その司法書士が小手先で違法な処理をしていたのだ。
ともあれ、大石寺代表役員である日達上人は、どのように言い逃れても罪をまぬかれることのできない状況にあった。創価学会側は、全力をもって宗門を外護するため、なかんずく日達上人を助けるために、総本山大石寺の地元対策に入った。
ところが、地元の実情を調べる過程で大変な事実が判明した。告発の中心者である上杉副議長が、厳秘であるはずの総本山大石寺の土地台帳一式の写しをすべて持っていたのだ。
しかも、
総本山側の法的処理のミスは道路に関することだけでなく、
農地転用の法的処理でも重大な違法行為をしていたのである。
上杉副議長は土地台帳に基づき、どの土地がどのように違反しているかを詳しく知っていた。上杉副議長らは、市道占拠につづいて農地法違反などでも告訴することすら考えていたという。大石寺代表役員である日達上人は、法的責任をまぬかれる術もなかった。
だが、この告発騒ぎは、
創価学会側が富士宮市に対し公民館を寄付するなどの地元貢献の積極姿勢を示すことでなんとか収まった。同48年7月26日には告発は取り下げられた。告発後、およそ1ヵ月後のことであった。
ところが、告発騒ぎが収まっても、解決されない大きな謎が残った。総本山大石寺の
厳秘である土地台帳一式の写しが、なぜ流出したのかという謎である。
この当時の日達上人の側近は、反日達上人派の僧侶が当代法主を陥れるために機密漏洩したと最終的に判断したようだ。広宣流布を考えない僧侶たちの足の引っ張りあいが、告発騒ぎとして外部に噴出したのだった。
巻き添えとなった創価学会側は憤懣やるかたないものがあった。膨大な正本堂御供養をしたあげく、創価学会会長が刑事告発をされた。しかも、その原因は、総本山大石寺による法的手続きの怠慢と無知、そして引き鉄となったのは、広宣流布を忘れた僧侶たちの足の引っ張りあいだった。
日蓮大聖人の御遺命である広宣流布成就のためには、どんなことがあっても宗門改革をしなければならない――そうしなければ広宣流布を推し進める途上で、どのような障魔が出来するかもしれない――創価学会首脳が宗門改革に対し悲壮な決意をしたのは無理のないことであった。
だが、いざ宗門改革を進めようにも、僧侶側は広宣流布よりも自分たちの立場や権益のみを考え、反発するだけだった。そして、時の移ろいとともに、宗門は「道路問題、土地問題」に対する深刻な総括すらも忘れ去ってしまった。
それどころか、
総本山側の会計処理、法人事務処理を広宣流布推進の上から親身になって心配し、書類を点検している創価学会側に対し、お金をいくら持っているか調べているのではと邪推するありさまであった。
こうした一連の宗門側の対応に創価学会側は心底、落胆し、憤りも感じたようである。そのうえ、
世界広布推進のために設立されようとしていた「財団法人日蓮正宗国際センター」について、日蓮正宗を包括し下に置くために創価学会側がつくっていると、これまた邪推し設立に反対したのだった。
創価学会首脳は、広宣流布よりも僧の立場や利益ばかり考えている宗門に失望した。「北条文書」は、そのような流れの中で書かれたのである。
「創価学会破門通告書」は、「創価学会首脳が、宗門支配という恐るべき陰謀を企てていたことが、明記されているのであります」と記述し、「北条文書」の次の箇所を引用紹介している。
「長期的に見れば、うまくわかれる以外にないと思う。(中略)やる時がきたら、徹底的に斗いたいと思います」
そして重ねて、「宗門から独立せんとする謀計が記されております」と強調しているのである。
この「北条文書」についての創価学会側の立場を理解するには、先師日達上人の発言に触れなければならない。しかしここでは、これを省く。詳細を知りたい人は、「北条文書」全文を読むことが一番だ。
この「北条文書」(6月18日付)に先立ち、5月10日付でも「北条文書」が書かれている。それには宗門について次のように書かれている。
「
先生が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえすも残念です。
広宣流布など全く考えていない、自分たちの私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足という風にしか考えられません」
当時、北条理事長が広宣流布に対する情熱の故に、どれほど宗門に対し義憤を抱いていたかが知れようというものだ。その日蓮大聖人の御遺命達成に向けての熱誠の故に、北条理事長が激して書いたこの「北条文書」をことさらに取り上げ、日顕一派は「宗門から独立せんとする謀計が記されております」と解説しているのだ。
先に述べた当時の状況、
「北条文書」の全文を読めば、日顕一派の解説がいかに事実と反した意図的なものであるか、誰でも納得できるだろう。
なお池田会長は、この「北条文書」などに接しても、
宗門外護の姿勢は変えなかった。このような状況後も、あくまで僧俗和合を進め、日蓮正宗僧侶が自覚を高め、広宣流布への情熱をいっそう確かなものとするよう、腐心されていたのである。
池田会長の僧俗和合して世界広布に臨もうとの意欲は、翌年(昭和50年)1月26日、グアムにおける第1回世界平和会議の開催、国際仏教者連盟の発足という形で結実した。この世界広布史上記念すべき会合には、日達上人が御臨席され、世界51ヵ国の代表が集い寄った。このとき、池田会長が推挙されSGI会長に就任したのである。
昭和49年当時の宗門側の無理解による宗門と創価学会の軋轢は、池田会長の僧俗和合を希求する粘り強い戦いによって見事に克服されたのであった。この池田会長の僧俗和合を求める姿勢は、昭和52年に発する宗門と創価学会との軋轢修復においても変わらなかった。
日顕一派は、「創価学会破門通告書」に「池田氏は、過去にも、あろうことか何体もの板御本尊を、勝手に模刻するという大罪を犯しております」と書いている。
本尊模刻問題については先師日達上人が、「今後は創価学会の板御本尊のことに関しては、一切論議を禁止する」と御指南されている。日顕と藤本は、ここでも先師に敵対しているのだ。
当代法主と総監がウソまでついて池田名誉会長に汚名をかぶせるのであれば、真実の一端を書かなければならない。黙して語らぬことは、天魔の勢いを増し、仏子らを惑わすことになるからだ。だが、多くは語るまい。池田名誉会長の、先師日達上人に対する思いと、能忍の心を損ねることを慮るからである。
日顕および藤本は、池田名誉会長が「板本尊を、勝手に模刻するという大罪を犯しております」と決めつけているが、紙幅の御本尊から板本尊をつくったのはほかでもない、日蓮正宗唯一の仏師である「赤澤朝陽」である。
この「赤澤朝陽」には、御謹刻当時、日達上人が直接、電話を入れられ進捗状況まで聞かれている。なにをもって日顕らは「勝手に模刻」したと言っているのだろうか。
なお当時、聖教新聞社の地下で写真を撮って、それを板に貼りつけ創価学会側で彫ったなどといったことが、まことしやかに週刊誌などで報道されたが、一切デタラメである。
このとき、模刻されたという御本尊は、問題にされたあとで総本山に運ばれ、奉安殿に納められている。その事実がなにを物語るか、よくよく考えてみることだ。ニセ本尊であれば、奉安殿に納められることなどない。もっとも、日顕も藤本も事の真相を知っていて、池田名誉会長を讒謗することを平気で書いているのだ。
この「創価学会破門通告書」の「模刻」についての文を見て、宗内のある僧は真実を知る者として、「先師日達上人をかばわれた池田名誉会長の気持ちがわからないのか。情けないことだ」と述べていた。
昭和48年の正本堂にまつわる道路・農地の問題、本尊模刻の問題。これらの諸問題を克服して、まがりなりにも僧俗和合が保たれてきたのは、池田名誉会長の忍耐と衆生済度にかける情熱の故である。日蓮正宗僧侶は、恩讐の壁を乗り越え、この厳粛なる事実を受け入れるべきである。
日蓮正宗の隷属を策謀した池田
―「国際センター」「富士美」を次々手中に―
―包括法人を設立して日蓮正宗をも狙う―
(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H15.10.1)
池田大作は、御法主日達上人を大衆の面前で辱(はずかし)めた後、早瀬総監を呼びつけて「13億5千万円は必ず出す」という一筆を書かせた。
数日後、総本山のプレスセンター応接室に、御僧侶の代表が数億円を持参し、「有志が集めたもの」として、池田大作に差し出した。
同席した私が見ている前で、池田大作はイヤミをいろいろと言った上で「趣旨とはいささか違うが、ひとまずお預かりしておく」と言って収(おさ)めた。
昭和49年に入ると、池田大作は、「日蓮正宗国際センター」の財団法人化を進めた。
正本堂御供養金を使って、金に飽(あ)かせて作った千駄ヶ谷の国際センターの土地・建物、そして富士美術館を、池田大作は、財団法人化し、その役員に学会幹部を宛(あ)てることで、手中に収めたのである。
「日蓮正宗国際センター」は、本来は「創価学会国際センター」のはずであった。
だが海外各国では、創価学会に対する拒否反応が強かったので、例えば、"ニチレンショウシュウオブアメリカ"というように、日蓮正宗の海外組織のようにカムフラージュした。その結果、それら諸国の団体をとりまとめる「国際センター」も、「日蓮正宗国際センター」という名称になったのである。
ちなみに、富士美術館は、日達上人が、広宣流布の暁に宗教的には無意味となる、仏像や仏教美術品等を収納し、展示する"垂迹堂(すいじゃくどう)"として、正本堂の脇に建てることにされたのである。
池田大作は、これをも"財団法人化"して乗っ取り、金に飽かせて買い集めたガラクタを収納・展示し、自己宣伝のための道具に用いているのである。
国際センターも富土美術館も、このようにして、正本堂御供養金の中から池田大作がくすね盗ったものである。
池田大作は、"日蓮正宗国際センター"に"日蓮正宗"という名前がついていることを奇貨とし、これを、日蓮正宗支配の手段として用いようと考えた。
そして、「世界日蓮正宗会議」を作り、自らがその総裁ないし議長に収まり“御法主上人は"名誉職"に祭り上げておく。そして、この「世界日蓮正宗会議」の中に、世界各国の団体と共に、日本創価学会のみならず日蓮正宗も加える、というのが池田大作の構想であった。
つまり、自分が「世界日蓮正宗」のトップに座り、日蓮正宗をもその傘下に置くことで、これを支配下に置こうとしたのである。
「日蓮正宗国際センター」(財団法人)は、それを実質的に支える事務機構であり、かつ、世界各国の法人の財産を支配することになる。
そして、この"世界会議"ないし"世界センター"に、各国における"聖職者"つまり"海外僧侶"の任免権を持たせる。
併(あわ)せて、海外寺院も、各国の日蓮正宗法人(実質は創価学会)に帰属させる。
このようにして、海外を創価学会が完全に掌握(しょうあく)するとともに、海外で任命された"聖職者(僧侶)"を国内に逆輸入することによって、創価学会は、自前の僧侶や寺院をどんどん造れることになる。
このような、恐るべき"陰謀"を内包した「国際センター」及び「世界会議」の具体案の承認を、池田大作は、「世界広布のため」と称して日達上人に強引に迫(せま)った。
しかし、さすがに日達上人は、池田大作の下心を見抜いておられ、首をタテに振ろうとされなかった。それ故、宗務院も、ただ受け流すばかりでラチが明かない。
業を煮やした池田大作は、北条浩と私に、日達上人との直談判を命じた。
私と北条浩は、5月9日、総本山に赴(おもむ)き、大奥の対面所で日達上人に承認を迫った。
その際、御法主上人は、はっきりと拒絶され、その理由を明確に述べられた。
「国際センターと日蓮正宗は関係ない。参加しない。学会が勝手にやられたら良いでしょう」
「誘法の輩(学会員を指す)がいくら増えても仕方がない。」
けんもほろろに拒絶された御法主上人は、腹をくくっておられたと見えて、さらに続けられた。
「法主という立場で、大衆の面前で(池田から)小僧みたいに怒鳴りつけられては、立場がない」
「帳簿のつけ合わせと称して、本山の金を調べているが、無いものはない」
「青年部が浅間神社のドブさらいをしているが、潤井川の清掃でもしたらどうか」
「宗門は小さくなっても良い。伝統法義を守ってやって行く。」
北条浩と私は、這々(ほうほう)の体(てい)で引き下がった(もっとも、日達上人は、私に対しては、"あんたは、本山のためによく尽くしてくれている。しかし、本部の経理の連中がよくない。と言い、一方で北条浩に対しては、"あんたは池田会長の弟子だから、私が怒鳴られているのを見て面白いでしょう。等と突き放された。その後、私が、宗門との交渉役に抜てきされたのは、池田大作がこの話を聞いて、私なら日達上人に受けが良く、話が通じるだろう、と考えたからに他ならない)。
北条浩は、帰りの車中で、憤懣(ふんまん)やるかたない様子であったが、本部に帰って、池田大作宛に報告書を書いた。「北条報告書」といわれるものがこれである。以下、引用する。
「9日の本山お目通りの際、貌下の発言は大へんひどいものでした。此れが貌下かと疑うほどひどいものでした。反論はその都度しましたが、話のすじはわかっても感情的に思い込んでいるという所があり、広布の上に重大な障警となり、また宗門僧侶の問題の一切の根源がここから出ていると感じました」
と、まず全般的な感想を述べ、次に日達上人の「問題発言」として4項目を挙げて、コメントを付けている。その上で結論として
「(貌下は)広宣流布などまったく考えていない。自分たちの私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足という風にしか考えられません。学会が生きぬいてゆく為には、相手に信心がないのなら、うまく使ってゆくか、徹底的に斗って学会の旗を守って死んでゆくか、いずれにせよ先生の最大のご苦心にふれる思いで、決意を固めました。 」
なお、この時の"お目通り"には、当時の、阿部教学部長(現・御法主日顕上人)及び藤本庶務部長(現・総監)が同席され、庶務部長がメモ書きされた記録が、宗門側にも残されている。
それによると、御法主日達上人が、
「アメリカでは、寺もいらない、僧侶もいらないとなってきている」
「日蓮正宗とは別個に、学会として作ればよい」
「正宗は小さいままでけっこうだ」
「教義は、どんなことをしても守らねばならぬ。国際センターのことは、学会だけでやったらよいでしょう」
「謗法が加わるとおさまりがつかなくなる」
等と述べられたことが記録されている。