昭和54年(52年路線破綻)、平成2年(破門の発端)は、総体革命実現への節目(宗門支配、独立)の年だった!!


【「7つの鐘」構想】S33.
戸田会長逝去直後の総会で、当時参謀室長だった池田大作は「広宣流布をめざして」という題名のもと、過去から未来にかけての創価学会の道筋を、7年ごと、7つの段階に分けて意義付ける「7つの鐘」構想をぶちあげた。牧口、戸田時代の歴史を第1から第4の鐘とした上で、昭和40年までを第5の鐘、同47年までを第6の鐘の時代とし、昭和54年に7つの鐘を打ち鳴らし、広宣流布を実現すると予言→昭和54年までに広宣流布達成すると予言していた池田大作氏としては、何としても正本堂=御遺命の戒壇、という意義づけがしたかったのである。そして、広宣流布が達成して以降は、折伏を表に出さずに、文化運動を中心にして活動しようとしたのであろう。



【「第7の鐘」後の構想】S41.5.3
池田は、この「7つの鐘」構想に続けて、次のような詳しい構想も開陳している。

◆(※7つの鐘の終了で)そこで広宣流布の1つの目標に到達しますが、そんなにむりする必要はない。それで、その昭和54年から、もう11年目までをみると、その11年目が正応3年10月12日、今の日蓮正宗総本山大石寺が創立されてから、ちょうど7百年目に当たります。(中略)それで、その年は、また不思議に、戸田会長の33回忌になります。師匠の追善供養を33回忌まですれば最高なのです。またその年は、私が会長に就任して満30年目です。(中略)そういうようなわけで、昭和54年から11年目の昭和65年、西暦1990年、この年を目標にして広宣流布の大総仕上げにかかりたい―こう決意している次第であります。
 なお、この年になりますと、それまでに参議院の選挙は8回になります。また、衆議院の選挙も、最低10回ぐらいはあるでしょう。したがって、公明党も、その時までに非常に力がつくのではないかと考えます。また、折伏も、1千万の基盤は、すでに第7の鐘で、昭和54年できあがれば、65年までには、さらに4、5百万世帯ぐらいまではいくのではないかと考えられます。これはあくまでも話として聞いていただきたいのですが、1千5百万世帯になれば、いまの日本の世帯数は、2千4百万世帯ぐらいですから、ゆうに半分以上を占めることになります。そうなれば"舎衛(しゃえ)の三億"の方程式は、事実上間違いなく、それ以上の結果になることは明らかです。」(『聖教新聞』S41.5.4)
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 すなわち、昭和54年から11年後の昭和65年(実際には改元して平成2年)に「広宣流布の大総仕上げ」をなし遂げる、というのである。
 「広宣流布の大総仕上げ」といえば聞こえはいいが、先にも述べたとおり、池田のいう広宣流布とは天下盗りの異名に他ならず、平成2年を期して、宗門を支配下に置き、国政においても公明党の勢力が増して、国家の政策を左右できるまでになることを目指しているのである。
 こうした計画が創価学会内部に存在していた以上、「C作戦」云々といった宗門への疑難自体が、創価学会の目標遂行の必要からデッチ上げられた疑難にすぎないことが、容易に理解できよう。
 このように平成2年の「大総仕上げ」に向け、創価学会は周到に学会員の洗脳を計っていたが、同時に、宗門に対しての攻撃準備も、着々と進められていた。
 そして、その準備が済んだ、と踏んだのであろう。池田は、いよいよあからさまな宗門批判に及んだ。それが「11.16スピーチ」に端を発する、第2次創価学会問題であった。(『慧妙』H22.12.16)


▲第29回本部総会を報じる『聖教新聞』S41.5.4(『慧妙』H22.12.16)



【山崎・八尋文書(昭和49年4月12日付)】
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◆本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについて2とおり考えられます。1つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向こう3年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固めるという方法です。本山管理に介入することは火中の栗をひろう結果になりかねない危険が多分にあります。しかし私の考えでは、本山、正宗は、党や大学、あるいは民音以上に、学会にとっては存在価値のある外郭と思われ、これを安定的に引きつけておくことは、広布戦略の上で欠かせない要素ではないかと思われます。こうした観点から、後者の路線ですすむしかないように思われます。そのための布石としては
<1>本山事務機構(法人事務、経理事務)の実質的支配
<2>財政面の支配(学会依存度を高める)
<3>渉外面の支配
<4>信者に対する統率権の支配(宗制・宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立等)
<5>墓地、典礼の執行権の移譲
<6>総代による末寺支配
が必要です。これらのことは機会をとらえながら、さりげなく行うことが必要であり今回のことは<1>、<2>、<3>を確立し 更に<4>まで確立できるチャンスではあります。いずれにせよ、先生の高度の判断によって決せられるべきと思いますのでご裁断をあおぐ次第です。
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[画像]:「山崎・八尋文書」(昭和49年4月12日付)
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●そもそも、この報告書は、池田大作が、「国際センター」「世界会議」の準備のため、南北アメリカに1ヵ月にわたる旅行に出かけた同年3月7日、私に、「帰ってくるまでにまとめておけ!!」と命令したのを受け、帰国の1日前、4月12日に、第1庶務に提出したものである。その後の経緯をみれば、この報告書に記されたとおりの手順で"宗門支配"の謀略(ぼうりゃく)が進められていったことは明らかである。(元学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H15.11.1)
●この「山崎・八尋報告書」というのは、私が主に内容を考え、当時私の部下ともいうべき立場にあった、八尋頼雄氏(現副会長、本部事務局長、池田大作秘書等、枢要〈すうよう〉な地位にあり、私が法学委員会で育成した弁護士です)に整理させ、書かせたものです。筆跡は八尋氏の直筆です。(元学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.6.1)



【北條文書(「本山の件」昭和49年5月10日付)】
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・9日の本山お目通りの際、猊下の話は大へんひどいものでした。之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした。……広布の上に重大障害となりまた宗門僧侶等の問題の一切の根源がここから出ていると感じました。

・(池田)先生が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえす残念です。 広宣流布など全く考えていない。自分達の私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足、という風にしか考えられません。 学会が生きぬいてゆく為には、相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか、いづれにせよ、先生の最大のご苦心にふれる思いで決意を固めました。
(昭和49年5月10日・北條浩副会長/『フォーラム21』H15.8.1)
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要するに、日蓮正宗を支配するための戦略を、日達上人に拒否され、批判されたことに腹を立て、「信心がない」「ひどい」などと日達上人を非難しているのである。


 「総体革命」とは、学会員を社会のあらゆる分野に送り込み、池田自身が国家を支配する思想であり活動である。池田大作は権力志向の強い人で、総体革命の発想は会長就任前から抱いていたそうである。
 昭和33年の「7つの鐘」と昭和41年の「広宣流布の大総仕上げ」構想そのものは、純粋に広布の拡大を目指した宗教的指針だとも言える。これは広く会員に示されたものであるから当然である。しかし、宗門の信徒団体であったから学会の興隆が、そのまま広布の進展に繋(つな)がるし、総体革命の側面からみれば、天下盗りの進展にもなる、という2面性を持っているのも事実である。
 その意味では、会員向けの「7つの鐘」「広宣流布の大総仕上げ」構想は、そのまま総体革命実現のための構想ともなり得たのである。
 一方、学会による宗門支配乃至独立の構想が出たのは昭和49年である。独自の教義も本尊も持たない信徒団体が独立することに如何なる宗教的正当性があるのかは、はなはだ疑問である(日蓮正宗の信心に功徳があるなら離反すべきではないし、そうでないなら信心を捨てて解散すればよろしい)。もし、学会の独立に思想的一貫性があるとすれば、それは宗教的信念ではなく、総体革命の実現という観点であろう。
 つまり、学会による宗門支配乃至独立の構想は、信徒団体の発想ではなく、天下盗りを目指す団体の発想―つまり総体革命実現のための策謀と考えれば頷(うなづ)ける。
 しかして、第7の鐘の年である昭和54年に向けて、正本堂の意義付けを中心に、池田の慢心が露呈。さらには昭和52年路線終結にあたって反省懺悔してみせ、池田による院政は敷かないと約束しておきながら、「広宣流布の大総仕上げ」の年である平成2年に池田自身が不遜な宗門批判のスピーチを行ったことは、総体革命と、そのための宗門支配乃至独立の構想が生き続けていたことを示す。このことは、昭和33年以来の「7つの鐘」と「広宣流布の大総仕上げ」構想そのものが、当初から総体革命―学会の勢力拡大と国家権力掌握―のために計画されたもので、宗門だけではなく一般会員をも騙(だま)していた―そう思われても仕方ないのではないか。
 かくして"池田創価学会は、当初より宗教の仮面を被った天下盗り団体であった"と、宗門側から批判されることになるのである。多くの"純粋な"会員からみれば、荒唐無稽な悪口にも思えるかもしれないが、少なくとも池田とその側近は、この批判を甘受しなけばならないのではないか。

 広宣流布の暁に国主が戒壇を建立するというのは日蓮大聖人の御指南である。これが「国立戒壇」という発想を生み、国立戒壇建立のためには政界進出が必要―戸田会長はこのように考えていた。だから、学会による政界進出と布教拡大は表裏一体であり、このことについて、少なくとも戸田会長時代には宗門側からの批判はなかったのではないか。
 そのために、総体革命的発想が戸田会長時代にも見られるが、戸田会長と池田との根本的な相違点は、戸田会長が戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈を絶対的に信じていたのに対して、池田は当初から信心希薄な上に権力欲が強かった、ということであろう。それがために池田の場合は、衆生に大御本尊を信じさせるための広宣流布であり戒壇建立であることが理解できず、戒壇建立と政界進出という目的と手段の関係が、いつのまにか(あるいは当初から)逆転してしまったといえよう。(法蔵)