海外広布
パナマ広布

パナマ地図H15.8.16
面積:7万5,517k㎡(北海道よりやや小さい)
人口:330万人
住民:メスティーソ70%、黒人14%、白人9%、クナ、チョコ、グアイミーなどの先住民7%
言語:スペイン語(公用語)、ほかにクナ語など先住民の言語がある


【国土世間】
 パナマ運河で有名なパナマ共和国。車でわずか1時間半も走れば運河が結ぶ太平洋、大西洋の両方を見られる。
 アメリカ大陸がもっとも狭まる地に位置したパナマは、スペイン植民地当初から「世界の十字路」と呼ばれ、交通の要衝として栄えた。
 20世紀初め、輸送の重要地としてパナマに注目したアメリカの支援でパナマ共和国として独立、アメリカはパナマ運河を建設した。
 そして1999年12月31日パナマ運河とその両岸にまたがる広大な土地がアメリカから、パナマ共和国に返還された。独立以来、初めて国土が統一され、これにより、パナマは大きく変貌してゆく時を迎えた。
 パナマには運河だけでなく、スペイン植民地時代の都市遺跡と、中米一の規模を誇る高層ビル群が共存し、また、パナマ・シテイから車で1時間程の所には熱帯雨林の原生林が広がるなど、多彩な面がある。(『大白法』H15.8.16)

<パナマ布教所>
 パナマ布教所は、平成14年9月に開所し、昨年3月にパナマ市内の中心地北東部に移転新築された。
 信徒はパナマ国内の他に、メキシコ、コロンビア、ニカラグア、ドミニカに住んでいる。(『大白法』H23.4.16)


【広布の歩み】

2011年
・パナマ布教所が寺号(立正山 大廣寺)を公称し、板御本尊入仏法要が第68世御法主日如上人猊下の大導師で奉修された(9月)


2010年
・パナマ共和国の首都パナマ市において、パナマ布教所移転新築落慶法要が盛大かつ厳粛に奉修された(3月28日)。


2003年
・日本から5名の御僧侶と10名の法華講員の参加を得て、470名の大結集のもと10周年を記念する記念総会(6月)。

・布教所の開設から1年、さらに充実した施設へと場所を移して、あらためてパナマ布教所の移転法要が尾林海外部長の導師によって挙行された(9月)。


2002年
パナマ布教所がオープン。
・宗旨建立750年慶祝海外信徒総登山には、パナマ・コロンビア・ドミニカから55名の参詣が叶(かな)った。


2001年
・常駐の御僧侶をパナマに迎える(10月)。


1996年
・非営利の現地法人「日蓮正宗テンプル・パナマ」を設立。


1993年
・パナマ共和国で、SG1組織に疑問を抱いた6人の幹部メンバーが、勇気を持って脱会。

・30名の結集で、第1回の法華講ミーティングを実施(6月)。


1960年頃
・パナマ人と結婚して当地にやってきた一信徒が、パナマに駐留していたアメリカ軍基地内で、日本人妻達と小さな座談会を行なうようになり、さらに、それ以後、現地パナマ人に対する折伏も進み、多くの正宗信徒が誕生していった。


インデックス
誓願達成し迎えた御親修/『大白法』H23.11.16

立正山大廣寺 寺号公称・板御本尊入仏法要/『大白法』H23.9.16

パナマ布教所(新築移転)落慶法要/『大白法』H22.4.16

パナマ広布の大功労者 ルイサ・広子・野村さんの葬儀に参列して/『大白法』H18.2.16

大幹部の脱会で多くの会員が正法に帰伏/『慧妙』H15.10.16

活動リポート/『大白法』H15.8.16

信徒組織発足10周年記念法要ならびに記念総会/『大日蓮』H15.8



パナマ布教所(新築移転)落慶法要

―新布教所落慶の喜びを広布前進へ―
(『大白法』H22.4.16)

 3月28日、パナマ共和国の首都パナマ市において、パナマ布教所移転新築落慶法要が盛大かつ厳粛に奉修された。
 これには、日本より海外部長・漆畑行雄御尊師、同主任・井尻執道御尊師が出席し、アメリカよりパナマNST(パナマ日蓮正宗寺院)書記で妙法寺住職・高野泰信御尊師、妙説寺住職・中本代道御尊師が出席された。また、パナマ全土から420名の信徒が勇躍参集し、新布教所の門出を祝福した。
 法要は、午前10時半より漆畑海外部長の導師のもと、献膳、読経・唱題と如法に執り行われた。
 式の部に移り、井尻主任の経過報告に続いて、パナマ信徒のアイダ・レモン氏、高野御尊師よりそれぞれ祝辞が述べられたのち、漆畑海外部長より、「日々の唱題の功徳をもって折伏を実践していくならば、必ず目標を成就することができる。本日より僧俗和合の絆をさらに深め、当地に正法をますます弘教していくよう、心より念願いたします(趣意)」との祝辞並びに指導激励があった。
 最後に布教所責任者・舟橋信清御尊師より、丁重な謝辞とさらなるパナマ広布へ邁進する旨の決意が披瀝され、その後、参詣者全員による記念撮影が行われた。
 小憩の後、パナマ信徒有志により、民族舞踊(ティピコ)が披露され、僧俗一致の和やかな雰囲気の中、「広布の青嵐(かぜ)」を日本語で合唱し、法要の一切はとどこおりなく終了した。
 パナマ布教所は、市内の中心地北東部に位置し、複数の路線バスが通る交通至便の地にある。土地面積約181坪、鉄筋コンクーリート地上2階・半地下1階建ての建物で、1階に約120坪・イス席で約250名収容の本堂をはじめ、ロビー・会議室・事務室・受付等を備えている。

[画像]:パナマ全土から多数の信徒が参集、盛大な法要となった

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パナマ広布の大功労者 ルイサ・広子・野村さんの葬儀に参列して

(宝器寺住職・山崎信理御尊師『大白法』H18.2.16)

パナマ広布の功労者であるルイサ・広子・野村さんの葬儀に参列された初代パナマ布教所責任者・山崎信理御尊師より、パナマ広布のために尽力された故人の功績と信心を偲ぶ追悼記が寄せられたので掲載いたします。

 平成18年1月15日午前6時半、朝の静寂が電話の呼び出し音によって切り裂かれ、私の心は不安に襲われました。急いで受話器を取ると、パナマ広布の大功労者、ルイサ・広子・野村さんの訃報を告げる、妹さんからの電話でした。
 私がパナマ担当責任者としてパナマに赴任したのは、平成13年10月のことです。予定していたパナマ布教所の建設が種々の理由により停滞し、その状況打開のための赴任でした。
 ほとんどの信徒が現地パナマ人である中、野村さんは数少ない日本人で、かつてパナマ広布の1粒種として、ご主人と二人三脚で多くのパナマ人を大聖人の仏法に導いた人でした。まさに激闘に次ぐ激闘の人生で、平成11年に晴れてアメリカのロサンゼルス・妙法寺信徒となられ、法華講員の一員として新たなスタートを切られたのです。
 野村さんの存在は、僧侶常駐を実現させる大きな要素の1つでした。スペイン語に堪能な僧侶は皆無に等しく、私自身、スペイン語の挨拶さえ知らない状況での心細い赴任でした。しかし、野村さんのおかげでパナマでの生活をスタートすることができたのです。
 それ以来、布教所開所に向けた努力が始まりました。赴任当初は、信徒事務所に通いながらの活動です。早期に開所すべく1日に2ヵ所、3ヵ所と市中を野村さんと一緒に物件を探し回ったおかげで、あっという間に市内ほとんどの場所に1人で運転して行けるようになりました。現地メンバーにも、「レベレンド(御尊師)、よく道を御存知ですね。まるでパナマ人のように」とよく言われたものです。
 平成14年、宗旨建立750年の記念すべき佳節の年に、賃貸物件でパナマ布教所を開設しましたが、賃貸である以上、家賃がかかります。そのことは、パナマ布教所の経済的基盤を確実に削っていくことを意味します。


【野村さんの尽力で新布教所を開設】
 人生の全てをパナマ広布に注いでこられた野村さんは、私財をなげうって新布教所購入に尽力されました。しかしこの事実は、野村さんの希望により広く公表されることはありませんでした。そして平成15年、野村さんの赤誠の御供養により購入された不動産に新布教所を移転し、責任者の住居も併設したパナマ広布の拠点が出来上がりました。今もパナマのほとんどのメンバーは、野村さんの御供養であることを知りません。
 また僧侶の通訳として、布教所での諸法要や座談会などの会合、個人指導、そして地方出張や国外出張に至るまで、常に僧侶の陰にあって、まさに我が身を賭しての御奉公をなさいました。ある時の地方出張では、バスターミナルで食べた朝食が悪かったのか、2人してお腹を壊して、「エメルヘンシア(緊急事態)!」とバスを停めたこともありました。
 今回、野村さんの写真を探しながら、野村さんがほとんど写真に写っていないことに改めて気がつきました。このことは、「法華講員としての信行は、裏方であっても精一杯させていただく」という信心姿勢を如実に語るものだと思います。
 SGI脱会直前の野村さんは、地元の学会が流したデマによって学会組織より非難中傷を受け、さらに御主人の突然の死去に遭い、茫然自失といった状態でした。この辺りの事情は、かつて平成12年8月1日号の『大白法』に体験談を投稿されておりますので、是非ご一読いただきたいと思います。
 しかし、法華講員となられてからの野村さんは、息を吹き返したように信心活動に邁進され、僧侶居住の新布教所開設という大事業を成し遂げられたのです。野村さんの物心両面にわたる協力がなければ、僧侶赴任から2年という短期間にはとても成し得なかったことです。
 今回、御法主日如上人猊下には格別の御慈悲を垂れ給い、野村さんに「弘宣院妙広日修大姉」との尊号を御下賜くださいました。そして海外部長・漆畑行雄御尊師の代理として、また初代パナマ布教所責任者として葬儀に参列させていただきましたことに感謝の気持ちでいっぱいです。


【葬儀に参列のためパナマヘ向かう】
 成田空港を出発してから約20時間後の、現地時間16日午後10時、懐かしのパナマ空港に着陸しました。かつて何度も経験したように左翼側にパナマシティのイルミネーションが輝き、右翼側には漆黒の太平洋が広がっていましたが、満月にほぼ近い月の光で海の水面(みなも)が輝いていました。
 かつてパナマに常駐していたとき何度も体験した空港到着でしたが、違っていたのは、民営化によって綺麗に改装中の空港ビルと、出迎えで待っているはずの人が、今はもういないことでした。「日本はいかがでしたか?」あの張りのあるお声が今にもしそうな、そんな錯覚にとらわれました。
 17日午後4時、パナマ布教所に到着し、野村さんの2人の子供、ユリコとマルコ(パナマでは親しければ親しいほどファーストネームに敬称をつけません)に対面しました。日本から必死でお悔やみの言葉をスペイン語で練習して行ったのですが、彼らの顔を見たとたん頭の中が真っ白になり、ただただ抱き合うのが精一杯でした。救われたのは、野村さんの気丈な性格を受け継いで、2人がとてもしっかりしていたことです。
 野村さんは、本堂御宝前の反対側にしつらえられた祭壇に置かれた遺影の中で微笑みを湛(たた)えられ、既に荼毘(だび)に付されて小さな箱の中に納められていました。
 葬儀は、ロサンゼルス・妙法寺住職の高野泰信御尊師も列席されて、第2代パナマ布教所責任者・佐々木信華御尊師の導師で執り行われ、読経・焼香・引導・唱題と如法に進められました。式の部では、はじめに漆畑海外部長のメッセージを私がスペイン語で代読、引き続き私の弔辞、そして高野御尊師の挨拶があり、最後に遺族を代表してマルコから謝辞が述べられ、とどこおりなく終了しました。葬儀には多くのメンバーが駆けつけ、本堂からあふれておりました。
 中にはSGIメンバーの姿も見受けられましたが、かつて野村さんから受けた恩に報いたいのか、きちんと合掌して唱和する人も多くいました。もちろん、とても人間として恥ずかしい不遜な態度の人もおり、葬儀という厳粛な場における彼らの常識のなさには、ほとほとあきれるばかりです。
 しかし、パナマで日蓮大聖人の仏法に縁できた人は、結局のところ全て野村さんのパナマでの信心活動が原点となっているわけであり、全ての人が野村さんの縁に連なっていることになります。パナマ人に大聖人様の仏法を伝えたのは、池田大作でも、SGI組織でもありません。約40年前に言葉も判らずパナマに移住した1人の信心厚き地涌の友の存在があったればこそなのです。
 少憩の後、御宝前に向きを変え初7日法要が奉修されました。御宝前に向かって唱題しながら、天井や壁、フロアーに柱にエアコン、音響設備などの備品に至るまで、野村さんと話し合って1つひとつ揃えながら作らせていただいた法城に思いを馳せました。時には野村さんやメンバーと一緒に壁のペンキ塗りもしましたし、水漏れが起きてたいへんな思いをしたり、布教所の使用許可がなかなか下りずにヤキモキしたことなど、野村さんとの思い出が走馬燈のように駆け巡りました。
 終了後はユリコ、マルコを囲んで野村さん追悼の食事会が行われ、彼らも時折冗談を言い合って笑顔も見せていましたので、少しほっとしました。ご主人との出会いによってパナマに渡られて以来、パナマ広布の道をひた走ってこられた野村さん。その大きな包容力のように、ついにパナマに骨を埋めた彼女は、パナマの空と土と海と一体となり、これからもずっとパナマを、そしてパナマの広布の進展を見守り続けていかれることでしょう。
 野村さんのご遺骨は、4月に息子のマルコが登山し、総本山に納骨する予定となっており、彼にとっては16歳の時に御登山して以来、実に18年ぶりの御登山となります。そして日本の妹さんによって、日本の墓地にも埋葬されることになっています。


【パナマ広布の情熱引き継ぐ友が数多】
 葬儀のあと、メンバーとの会話の中で印象的だったことがあります。それは「SGI時代、セニョーラ広子は自分たち末端信徒にとって、遠い雲の上の存在でした。それが法華講員となってからは、常に一緒に唱題し、とても身近な存在となったことが本当に嬉しかった」というものでした。信心する者同士、本来垣根などあろうはずがありません。晩年を、法華講員となったことでメンバーと真に融和し、一緒に勤行・唱題し、そしてパナマ初の僧侶常駐と布教所開設という大きな功績を残されたことを、野村さん御自身も、今は大聖人様に愛でられて悦んでおられることと確信します。
 野村さんの最後の願いは、御法主上人猊下をパナマにお迎えし、布教所を寺院へと昇格させていただくことでした。残念なことに、生前この願いを実現することはできませんでした。しかしながら現在、パナマには、ルース・トレスさんを中心に信心厚き地涌の友が数多く所属しています。御法主上人猊下のパナマ御下向と寺院への昇格は、野村さんに限らずパナマ全メンバーの悲願でもあります。今回の野村さんの逝去を受けて、何としてもこれを実現させるんだと、固く誓ったものと思います。
 葬儀から1日置いて、いよいよパナマを離れる時が来ました。早朝にもかかわらず、出張があったユリコは来られませんでしたが、マルコが空港まで見送りに来てくれました。ようやく落ち着いて話すことができました。搭乗の時間が近づき、待合室を出る時、再び抱き合って日本での再会を約しました。
 1年半ぶりのパナマ訪問で、変わらぬメンバー皆さんの姿に、こちらが勇気づけられた次第です。野村さん亡き後も一層、異体同心し、佐々木責任者の御指導のもと、パナマ初の、そして中米初の寺院昇格と、パナマ広布にさらに邁進していかれることを念願し、パナマ広布の大功労者であるルイサ・広子・野村さんの追悼の記録とさせていただきます。


▲パナマ布教所で行われた野村さんの葬儀


▲御僧侶がパナマを訪問された折には、野村さんが通訳としても活躍した(右から5人目が野村さん)

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中南米(パナマ布教所)

―大幹部の脱会で多くの会員が正法に帰伏―
―僧俗が団結し「世界の十字路」に広布の拠点―

(『慧妙』H15.10.16)

 パナマといえば、誰しもが思い出すのは、パナマ運河とノリエガ将軍であろう。池田大作とよしみを通じていた彼は、今はアメリ力で投獄生活を送っている。
 そのノリエガ将軍の別荘敷地内にあったといわれる、池田の名を冠した展望台は、一般人の立入を禁じた場所であったために、パナマ国内ではその存在すら知られることもなく、アメリカ軍の空爆によって灰燼(かいじん)に帰し、今は跡形もない。
 パナマ共和国の面積は北海道とほぼ同じ程度ではあるが、パナマ布教所が担当する地域は、メキシコやドミニカといった中米諸国全土と、コロンビアなど南米のエリアまで含む、広大な地域である。
 南北アメリカ大陸を結ぶ地峡にあり、太平洋と大西洋を運河で結び、全世界の交通の要衝として世界の十字路と評されるパナマ共和国―。この国に日蓮大聖人の仏法が伝わったのは、日本が東京オリンピックで涌(わ)いた昭和30年代後半のことであった。
 当時、パナマ人と結婚して当地にやってきた一信徒が、パナマに駐留していたアメリカ軍基地内で、日本人妻達と小さな座談会を行なうようになり、さらに、それ以後、現地パナマ人に対する折伏も進み、多くの正宗信徒が誕生していったのである。
 その後、平成の世となり、一連の創価学会の大謗法が表面化した際、スペインにおいては、いち早く海外部指導のもとに信徒組織の構築が進んだ。これに慌(あわ)てたSGIは、同じスペイン語圏から、パナマ信徒数名をスペインに派遺、SGI組織の建て直しに協力させることにした。しかし、彼らの思惑とは逆に、これによってパナマ信徒はスペインSGIの崩壊を目(ま)の当たりにしてしまった。
 そして、SGIの指導に疑問を抱(いだ)いたパナマ信徒の有志6名が、アメリカの正宗寺院と連絡を取り、正法に帰依(きえ)していったのである。
 その後、アメリカ・ロサンゼルスの妙法寺に所属した信徒たちは、平成5年6月、30名の結集で、第1回の法華講ミーティングを実施(今年はそれから、ちょうど10年の節目に当たり、本年6月、日本から5名の僧侶と10名の法華講員の参加を得て、470名の大結集のもと10周年を記念する記念総会を行なったばかりである)。
 正しい信仰に目覚めた同志の折伏の意欲は、誓願を悉(ことごと)く成就(じょうじゅ)させていった。
 平成8年には、非営利の現地法人「日蓮正宗テンプル・パナマ」を設立して、法的基盤を整えた。そして、いよいよ平成13年、布教所開設の事業が進んでいった。
 開設予定地付近住民の理解を得て、関係省庁の工事仮許可も受け、布教所への改築工事に着手したものの、、正式の許可が発行される直前、事件は起きた。
 今までまったく反対していなかった付近往民から、工事差し止めの陳情書が当局に送られたのである。まさに寝耳に水である。
 御多聞に漏(も)れず、何者かによって日蓮正宗を誹謗(ひぼう)する情報が流されたためである。
 これによって日蓮正宗のパナマ広布を嫉(ねた)む者の謀略は、見事に成功したかに思われた。
 しかしながら、海外部は、布教所の開設は先送りとし、この難局を打開するために、平成13年10月、急遽(きゅうきょ)、担当僧侶をパナマに常駐させ、現地信徒と結束して、事に当たることとしたのである。
 まさに変毒為薬というべきか、長年、僧侶の常駐を願ってきたメンバーにとって、天にも昇る喜びであった。
 常駐の担当僧侶が派遣されるや、パナマに離脱僧が出没するなど、対抗措置を講じる動きが見え始めた。
 翌14年の6月には、地元有力紙に、担当僧侶の住居写真とともに、日蓮正宗がカルト教団であるという誹謗記事が掲載される、という情報が入り、即座に現地信徒の名で抗議文を送った。その結果、誹謗記事と抗議文が並んで掲載された。
 続いて8月には全面カラー記事で、日蓮正宗が日本の伝統的仏教教団であり、宗旨建立750年を約半年にわたって慶祝していることが報じられた。記事には完成を控えた奉安堂の写真や、御影堂で御説法中の御法主上人の写真、海外各国のプラカードを持って登山しているメンバーの姿が掲載されていた。
 これに誰よりも驚いたのは、現地正宗僧俗であり、今もって、なぜ、このような正しい報道がなされたのか明らかとなっていない。これまた変毒為薬の現証であっただろう。
 そして同平成14年9月には、宗旨建立750年の慶びに包まれる中、パナマ布教所が正式にオープン。まさに僧俗一致の功徳により難局を打開しての待望の法城の誕生となり、その慶びの醒(さ)めやらぬ中、秋に行なわれた宗旨建立750年慶祝海外信徒総登山には、パナマ・コロンビア・ドミニカから55名の参詣が叶(かな)ったのである。
 布教所の開設から1年を経過した本年9月、さらに充実した施設へと場所を移して、あらためてパナマ布教所の移転法要が尾林海外部長の導師によって挙行された。布教所とはいえ、日本の寺院1箇寺と全く遜色(そんしょく)ない法城として新しいスタートが切られたばかりである。
 僧俗一致異体同心の功徳によって、多くの変毒為薬を経験しながら、正法広布へ邁進(まいしん)するパナマの僧俗。
 その信心の確信と広布への情熟が、世界の十字路の呼び名にふさわしく、この国から全世界に波及していかんことを念ずるものである。

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活動リポート'03

―脱会から10年、勇気と確信の道のり―
―広布への折伏はパナマ全土に―

(『大白法』H15.8.16)

 今回は、その最初の6人の1人、入信以来、病苦と闘いながら30回以上の登山参詣と、多くの友を正法に導いてきたアイダ・デ・レモンさんに焦点をあてた。
 昨年はパナマ市内の北西部、わずか11世帯のトクメン地区の責任者として、折伏目標5世帯のところ12世帯の成果をあげた。今年からパナマ全体の折伏推進委員長としてその活動範囲を広げ、大西洋に面したコロン市の地区責任者も兼任している。
 毎朝、自分で車を運転して、布教所の早朝勤行への参加を欠かさない。自分に厳しく、
他人には分け隔てなく優しくも厳しく接する、パナマ布教所のまさに模範的な信徒の一人である。

◇◇
〈Q〉入信のいきさつを教えてください。
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〈レモン〉はい、1974年、36歳のときに折伏されました。そのとき、健康上の問題、経済苦、家庭の問題などを抱えていました。
 11歳のときに進行性高血圧症と診断されてから入退院を繰り返し、なんとか生きているという状態でした。ある日、偶然行き合わせた初老のご婦人がとても健康そうに歩いていたので話をしてみると、彼女は「南無妙法蓮華経」の信心をしているということで、勧められるままにSGIの会館に行き、入信を決意しました。病苦を乗り越えたい一心でした。
〈Q〉その後、病気はどうなったのですか?
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〈レモン〉完治したわけではありませんが上手にコントロールできるようになりました。余命6ヵ月と言われたときは、東洋の変な信心をしているからだと周りの人からさんざん莫迦にされました。それでも皆を折伏したので、血迷っていると思われていたようです。6ヵ月しても死なない私に周囲の目が変わり、私を担当していた2人の看護師も入信、今も一緒に信心をしています。
〈Q〉当時の活動状況はどうでしたか?
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〈レモン〉御本尊様を主人の許可を得て我が家にお迎えしてからは毎日、勤行、最低3時間の唱題を実践し、お仏壇の周りをきれいにするよう心がけました。自身の信心の表れだからです。
 はじめから家族の理解が得られたわけではありませんが、家族を含め多くの人を折伏しようと努めた結果、『上野殿御返事』の「かくれての信あれば、あらはれての徳あるなり」との御文を実感できるように、子供たち、自分の子同様に愛している主人の先妻の子供たち、母、2人の兄弟、叔父、さらに多くの友人を入信させることができました。辛いこともありましたが、私を勇気づけてくれる御書を見つけると書き写して何度も読み返し、乗り越えてきました。『崇峻天皇御書』の、「世間のす(過)ぎえぬやうばし歎いて人に聞かせ給ふな。若しさるならば、賢人にははづ(外)れたる事なり」(御書1173頁)との御金言をよく覚えています。
〈Q〉パナマでSGIから脱会した最初の6人のうちのお一人だそうですが?
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〈レモン〉1989年から1992年の間、自分が少しずつ真の日蓮正宗の仏道修行から離れていたことに気がつきました。1991年の5月、幾多の障害を乗り越えて日本に行ったにもかかわらず、総本山に参詣できませんでした。理由を創価学会に聞くと、「大石寺にはもう何度も訪問したから」と言うばかりでした。
 そして1993年、パナマ本部指導部員の役職を辞任し、19年間所属したSGIを脱会しました。
 日蓮正宗に再入信したのち、1993年6月12日には、尾林海外部長様、妙法寺御住職・高野御尊師のご尽力によりパナマ法華講の第1回総会が開催され、私たちは再スタートを切ったのです。そして今年6月14・15日に、日本から多くの御僧侶をお招きして、その10周年をお祝いする行事を終えたばかりです。
 一昨年には常駐僧侶として山崎信理御尊師とそのご家族をパナマにお迎えし、昨年は念願の布教所もオープンできました。
〈Q〉昨年、地区5世帯の折伏目標に対し、12世帯の成果でしたね。どのように活動されたのですか?
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〈レモン〉第一には唱題でした。できる限り多く唱題し、地区の副責任者にも常に御本尊様に向かうように激励しました。それから、いつもこの仏法についてのパンフレットを持ち歩いて事ある毎に活用しました。どのような態度で御本尊様に接するべきかを常に訴えてきたところ、いつの間にか折伏が成就していました。とにかく無我夢中でした。
〈Q〉日本に比べて仏法に対する基本的な理解が乏しいと思いますが?
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〈レモン〉やはりキリスト教の国ですから、その害毒だと思えることが多々あります。人々はその影響で怠慢な一面があり、また、因果の理法を理解させることがとてもたいへんですね。
 すべては神の御心にあり、すべてが神の恵みという考え方が浸透しているため、入信しても御本尊様が功徳を与えてくれると勘違いし、努力しない人が多いのも問題です。そういう人たちには、忍耐強く折伏することを心がけています。
〈Q〉今年から、パナマ布教所の折伏推進委員長になられましたね。
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〈レモン〉メンバーや新来者に対して、「一緒に信心しましょう、一緒に御題目を唱えましょう」と言っています。粘り強く折伏してい
れば、必ずチャンスを得られますから、それを逃さないことです。どんなことがあっても誓願を達成する決意、たとえこの命が尽きて
も来世まで誓願を持っていって必ず達成させようという覚悟を持っています。
 「『立正安国論』正義顕揚750年」の佳節には、「パナマ信徒100名での登山」の誓願を達成したいと思います。
〈Q〉ありがとうこざいました。最後に日本の方々へのメツセージがありましたら、お願いします。
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〈レモン〉はい、私は来世もパナマの広宣流布のために働き、死ぬまで御本尊様と共にありたいと思っています。
 日本の皆さんには、大御本尊様の間近で信心できる福運を自覚し、総本山大石寺と御法主上人猊下を間近でしっかり外護していただきたいと思います。

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パナマ共和国パナマ市
パナマ信徒組織発足10周年記念法要ならびに記念総会

(『大日蓮』H15.8)

 本年、独立100周年に湧くパナマ共和国。その首都パナマ市において、6月14日・15日の両日、パナマ信徒組織発足10周年を記念する法要ならびに総会が厳粛かつ盛大に行われた。
 この催しには、遠く日本から4名の御僧侶、10名の法華講員が出席した。
 10年前、たった6名の勇気あるメンバーがSGI(創価学会インタナショナル)を脱会。最寄りの寺院といっても空路10時間もかかるアメリカ・ロサンゼルス妙法寺に所属し、総本山を渇仰し、日本では想像もつかない労苦を重ねながら、互いに連携し、励まし合い、正しい信心を持続。同年6月12日には、30名の結集をもって第1回の会合が開催されるまでに成長した。その後も脱会者は相次ぎ、2001年10月には、常駐御僧侶として山崎信理師を迎え、翌2002年の宗旨建立750年の意義ある年にはパナマ布教所が開設され、山崎師が正式に責任者として就任。その後も順調な発展を遂げ、本年10年目の大きな節目を迎えたものである。
 14日、日本から到着した参加者は長旅の疲れを癒(いや)す間もなく、早速、12地区ある市内の信徒宅を2班に分かれて訪問し、地域別交流会に出席した。交流会には延べ140名が参加。自己紹介に続いて信心の喜びあふれる体験発表や活発な質疑応答等が行われた。短時間のうちに旧知の間柄のような親近感が生まれ、相互の距離は一気に縮まった。
 午後5時からはパナマ布教所に場所を移して、信徒組織発足10周年記念法要が奉修された。法要は、山崎布教所責任者の導師により、献膳、読経、唱題と如法に奉修されたあと、式の部に移った。
 初めに、信徒を代表してルース・A・トレスさんが歓迎の辞を述べ、来賓御僧侶を紹介。次いで北九州市小倉南区の法貴寺住職・早川検道師より尾林日至海外部長からのメッセージが、また同県行橋市の要言寺住職・園田司道師よりロサンゼルス妙法寺住職・高野泰信師からのメッセージが代読されたのち、同県筑後市の諦聴寺住職・近藤恒道師より祝辞が述べられた。
 最後に、山崎布教所責任者より参列の各位に対して丁重なる謝辞が述べられたのち、記念撮影が行われ、法要は滞りなく終了した。
 翌15日午後3時からは、場所を市内の会場に移し、「異体同心」のテーマのもとに盛大な記念総会が開催され、470名余りが結集した。
 総会は2部構成で、第1部はプロローグとして、総本山大石寺の紹介ビデオが放映された。初めて荘厳な総本山を見る参加者の多くは、食い入るように画面を見詰めていたが、その姿は実に印象的なものであった。
 続いて東京都府中市の大修寺支部の鼓笛隊から贈られた「唱えてゆこう妙法を」を演奏したビデオに合わせて、メンバーの有志と少年部がスペイン語で合唱した。
 続いて、信徒を代表してアイダ・デ・レモンさんが歓迎の辞を述べたのち、大修寺住職・国島道保師より「日蓮正宗の御本尊」、宮崎県高岡町の寿正寺住職・柏熊信乗師より「本宗信仰の功徳」と題して、それぞれ記念講演が行われた。
 小憩をはさんで第2部は、伝統舞踏や詩の朗読、経過報告、さらに少年部によるダンスや青年部の「熱原法難」の劇などが多彩に披露され、それらの熱演を通して「法華講精神」を強くアピール。また婦人部による「行橋音頭」には、日本からの来賓が盛んな拍手を送っていた。
 次いでデイカ・ホウさんの体験発表、ヤングミセス部のダンスメドレー、、ミリアム・マリーンさんの決意発表、パナマ民族衣装をまとったメンバーによる「ビバ・パナマ」の踊り、パナマの地方都市から参加した女子部中学生による「君がパナマ人だと感じるなら」の熱唱と続き、場内のボルテージは最高潮に達した。
 大きな盛り上がりを見せるなか、出演者全員が舞台に上がり、会場が一体となり、スペイン語で「地涌讃徳」を合唱し、感動の輪が大きく広がった。
 最後に山崎布教所責任者が謝辞を述べたあと、記念撮影をもって記念すべき総会は大成功裏に終了した。
 なお、今回の総会には、多くのSGIメンバーを含む200名近い新来者が参加。パナマの法華講員はわずか30名などと悪宣伝するSGIの情報を真に受けていた彼らにとって、ビデオを通して見る総本山の真実の姿や、パナマ布教所信徒の麗しい異体同心の団結の姿は、大きな驚きであったに違いない。
 17日は午後6時からパナマ布教所において全体交流会が実施された。日本からの参加者は、遠隔地パナマの地にも確実に妙法が根を張り、地涌の同志が活動していることを目の当たりにした喜びと驚きを口々に語っていた。
 続いてパナマ信徒2名による決意発表のあと、柏熊師が挨拶に立ち、「2009年・『立正安国論』正義顕揚750年」における地涌の友の倍増へ向けてカ強い決意を述べてメンバーを激励した。参加者は、互いに総会の喜びと貴重な交流体験を活かして、一層、飛躍することを誓い合った。
 最後に山崎布教所責任者が丁重な謝辞で締め括り、一連の行事はすべて滞りなく終了した。
(石橋頂道記)

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