存在しない「C作戦」

―52年路線当時、すでに宗門離脱が視野に―
―用意周到、会員には"宗門から切られた"と―

(『慧妙』H16.2.1ほか編集)


 C作戦とは、創価学会側の言い分に出てくるもので、平成2年の創価学会問題の大きな要素となった、でっち上げによる謀略(ぼうりゃく)報道。その内容は「学会の発展を妬(ねた)んだ宗門が、平成2年の夏、学会を切るために『C(カット)作戦』を練り上げ、その計画通りに池田名誉会長を総講頭から罷免(ひめん)し、学会を破門にした」とかうもの。
 これは、創価学会が長年抱いていた「日蓮正宗からの独立」という野望を成し遂げるための、狡猾(こうかつ)な謀計(ぼうけい)であり、学会員に「宗門が悪、学会は善」と印象づける最大の大博打(ばくち)であった。
 もとより正法信仰の形態は、宗祖以来の法を護持し衆生を導(みちび)く僧と、その護持された法を伝える僧に従(したが)って敬虔(けいけん)に信心に励む信徒、という綱格であり、これは古来から不変である。
 しかしながら学会は、それを逆手(さかて)にとって、「宗門の権力の下に、学会は隷属(れいぞく)させられていた」というポースをとり、自ら権力に立ち向かうヒーローを演じたのである。
 この謀略の狙(ねら)いは、創価学会の内外に「宗門は権威権力を使い一方的に学会を切った」「学会は被害者だ」という被害者意識を植え付け、さらに「宗門が学会の発展に嫉妬(しっと)して池田名誉会長の総講頭職を罷免し、さらには創価学会を破門した」と、あたかも宗門が狂乱したかのごとき宣伝を世に広め、日蓮正宗の世間的信用と名誉を失墜(しっつい)させるところにあった。また、学会の内部に対しては、総本山、延(ひ)いては戒壇の大御本尊への渇仰恋慕(かつごうれんぼ)の念を断ち切らせ、宗門への帰伏を最小限に食い止めようとしたのである。(『慧妙』H23.7.1)

************************************************************
>1990年(平成2年)は、大石寺の開創700年ということで、9月には慶祝の文化祭を地元・静岡の青年部が中心になって盛大に行なった。その準備のさなかに、日顕(上人)らは、文京区西片にある大石寺の東京出張所(7月16日)や、本山の大書院(7月18日)で、いわゆる「C作戦」と呼ばれる学会破壊の謀議を重ねていたのである。
>秋谷会長に対して、日顕(上人)が「憍慢(きょうまん)謗法だ!」と怒鳴りつけたのは、本山での謀議の3日後の7月21日のことである。(池田大作『聖教新聞』H15.11.28)
------------------------------------------------------------
【宗門支配、独立構想】
<52年路線と収束>
 まず、結論から言えば、もちろん、宗門には「C作戦」(Cとは、学会をカット=切る、の意)など、もとより存在していなかった。
 むしろ、学会のほうにこそ、正本堂建立後の昭和49年頃から、「学会が宗門を支配する。それが叶わなければ、宗門から独立する」という構想があったのである。

●本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後、どのように処理していくかについて、2とおり考えられます。  1つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから学会に火の粉が降りかからない範囲で、つまり、向こう3年間の安全確保をはかり、その間、学会の関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま1つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて、背後を固めるという方法です。本山管理に介入することは、火中の栗をひろう結果になりかねない危険が多分にあります。  しかし、私の考えでは、党や大学、あるいは民音以上に、学会にとっては、存在価値のある外郭(がいかく)と思われ、これを安定的に引きつけておくことは、広布戦略の上で欠かせない要素ではないかと思われます。こうした観点から、後者の路線で進むしかないように思われます。(S49.4.12『山崎・八尋文書』

●長期的に見れば、うまく別れる以外にないと思う。本質は、カソリックとプロテスタントのような違いである。戦術的には、すぐ決裂状態になることは避(さ)けて、早瀬理事とのパイプ(山崎・八尋が話し易〈やす〉い関係にあります)を太くするとか、当面、G(※猊下の御事)の異常心理をしずめ、新しい進路を開きたいと考えます。(但〈ただ〉し、やる時が来たら、徹底的に斗〈たたか〉いたいと思います。)(昭和S49.6.18『北条報告書』「宗門の件」)

(学会が)会計を、大石寺の会計を調べるという。大石寺も宗教法人で、その年その年に税務署へちゃんと会計報告してとおっておる。それにも拘わらず、また第三者が来て会計報告まで調べるというのは、どうも私には意味がとれない。その時に北條(浩=後に4代会長)さんが言うには、もし調べさせなければ手を分かつ、おさらばする、とはっきり言ったのです。
 私はびっくりしました。こういう根性じゃ、これは駄目だと。会計を見せなければ自分らは正宗から手を切るというのである(第66世日達上人・指導会の砌S49.7.27)

●(学会は)まるで本宗が謗法の寺のごとく言っておる等々、(池田大作に対し)皆、指摘しまして、「これじゃ収まりはしない、若い僧侶達が学会と手を切ると言っておる。私が押さえておるが、いよいよ手を切るならば、宗会も開いて、はっきりしなければならんと思っておる」と言いました(第66世日達上人・S53.2.9・時事懇談会/『慧妙』H16.10.16)
-----------------------
この時は、当時の御法主であられた日達上人が、「学会が出ていくというなら、それはそれで仕方がない。宗門は、たとえ小さくなったとしても、大聖人の仏法をお護りしていく」(趣旨)との御決意で毅然と対処され、結果、学会が宗門に謝罪して、問題はいちおう収束されたのである。

以後、宗門は、学会の反省を信用し、大きな心で見守り続けてきた。しかし、学会は、その陰で「宗門支配か、もしくは独立」という機会を窺(うかが)い続けていたのである。

●十年前は堂々とできなかった。一言も言えなかった。それで失敗しましたんで、今度は堂々とやっている。(H3 森田理事長)
-----------------------
このように見てくると、学会は「C作戦があった」と叫んでいるが、その実は、学会のかねてからの願望で宗門から独立したかったことがよく分かる。つまり52年路線の反省などは、全くの猿芝居だったことが証明されるのである。(『慧妙』H23.7.1)



【野望の再燃】
それが表面化したのは、「総仕上げの年」と銘(めい)打った平成2年であった。その年の春頃から、学会内部での池田大作のスピーチに露骨な宗門批判が混じるようになり、それがやがて、心ある多くの学会員からの手紙や電話で宗門側の耳にも届いてきた。

<7.16東京出張所>
 事態を憂慮した宗門側は、7月17日に予定されている宗門・学会の連絡会議で学会の真意を問うことにし、事前にその準備をした。
 池田スピーチの「文京区西片にある大石寺の東京出張所(7月16日)」とは、まさに、その打ち合わせの時を指す。
 しかし、宗門側は、あくまでも学会を信頼する上から、事の真偽を確認しようとしていただけであり、この時点で"学会を切る"などという話になるはずもなかった。


<7.17連絡会議>
ところが、その情報が事前に漏(も)れたらしく、連絡会議の当日、学会側は席に着くやいなや、「本日は、宗門に対して日頃思っていることを言わせていただく」(会長・秋谷栄之助)と切り出し、学会幹部が口々に、日顕上人貌下に対する言い掛かりや末寺に対する批判・悪口を、皆で一方的にまくしたててきたのです。そして、言うだけ言うと、宗門側には一言の反論も質問も許さぬまま、秋谷以下の学会幹部は「今日はこれまで!」と言って一斉に立ち上がり、呆気(あっけ)にとられる宗門の役僧方を尻目に、サッサと帰ってしまいました。


<7.18大書院>
 この、学会側の傲慢不遜(ごうまんふそん)な態度に驚いた宗門側は、翌日、総本山において、日顕上人御臨席のもと、今後の学会への対策を協議するために会議を開いた。
 振り返ってみれば、学会は、あの"昭和52年路線"の時に、「長期的にみれば(宗門と)うまく別れる以外にない」(北条文書)との考えのもと、日達上人を威圧したり、末寺住職を吊し上げたりといった、卑劣な行為を平然と行なった団体である。このような団体を正していこうとすれば、最悪の場合は、彼らが自ら宗門から離れていってしまうことも覚悟して、事に当たっていかなければならないであろう。
 こうしたことが論議された後、会議の結論としては、「学会に言うべきことを言うためには、まず宗門として自らの姿勢を正し、反省すべきは反省して、綱紀自粛(こうきじしゅく)を徹底すべきである」とし、学会への対応については「当分、様子を見る」ということに決定されたのである。
 これが、池田の言う「本山の大書院(7月18日)」での会議の真相であり、「学会破壊の謀議」どころか、宗門は、この期に及んでなお、学会からの言い掛かり批判すらも自らの反省材料にして、その上で、あくまでも学会を善導し続ける方針だったのである。
 ところが学会は、この会議に出席していたある僧侶のメモ書きに「C作戦」という言葉があると言って、「学会を切るための『C作戦』は、この会議で立案された」と宣伝したのです。しかし、学会が入手したというメモ書きには、その僧侶が「それでは、この作戦はG作戦だ」と述べたことに対し、猊下が「GではなくてC」だと言われた、ということが記されているにすぎません。
 実際にそのとおりに猊下が言われたかどうかも、個人のメモの中の表現ですから定かではありませんが、仮に、その御発言があったとしても、それは会議の流れの途中で出てきた、「最悪の場合、手を切る(C)という事態になることも覚悟して」という意味にすぎませんから、それをもって、この会議が「宗門が学会を切るための作戦会議」であった証拠、と言うのは、あまりにも牽強付会(けんきょうふかい)が過ぎております。


<7.21お目通り>
 さて、次に、池田が「秋谷会長に対して、日顕(上人)が『憍慢(きょうまん)謗法だ!』と怒鳴りつけた」という7月21日のお目通りであるが、これも全く事実に反する。事実は、次のとおり。
 この日は、総本山での学会の夏期講習会に伴い、池田・秋谷の両名が日顕上人にお目通りした。
 その席で種々の会話がなされたなか、日顕上人は秋谷に対し、先の連絡会議において日顕上人の御発言を封じようとするかの内容があったことを取り上げられ、直接、御注意された。そうしたところ、秋谷が反省の色も見せないで抗弁してきたので、日顕上人は、連絡会議での"御法主の発言封じ"について、「それは憍慢(きょうまん)謗法ですよ」と諭されたのである。
 ところが、それが池田の手に掛かると、後先の説明を抜きに、「『憍慢(きょうまん)謗法だ!』と怒鳴られた」という話になるのだから、呆れてしまうではないか。
 もっとも、いつも自分が敬われていなければ気がすまない池田大作としては、自分の憍慢(きょうまん)をずばり指摘されたような気がして動転し、前後を忘れてしまったのかもしれないが。



【「C作戦文書」】
 なお、学会は、このメモ書きを持ち出す前から、『C作戦文書』なる出所不明の怪文書を挙げて、宗門が学会を切るために作った計画書だと、大騒ぎしていました。そして、その怪文書にある「C作戦」の語と、前述メモ書きにある「C」の語が一致しているから、「C作戦」は宗門の立案だということが証明された、というのです。
 しかし、これは、非常にバカバカしい決めつけです。
 言葉が一致したのは、7月18日の会議で「C(作戦)」という言葉が出た、ということを漏れ聞いた人が、その言葉を使って、いかにもそれらしい作戦文書に仕立て上げ、創価学会幹部に送り付けてからかったためである、ということが、ほぼ判明しています。
 いずれにしても、この怪文書(C作戦文書)に記された計画は、平成2年7月19日以降の実際の宗門の動きとも全く異なっており、会議の当事者でもない人物が勝手に作った怪文書だということは、誰の目にも明らかであります。
 また、平成3年11月に学会が宗門より破門された時、会長・秋谷栄之助が、「魂の独立記念日、おめでとう」と全国の学会員に祝辞を述べていることは、まさに学会の側が計画どおりに宗門から離れていった、ということを、雄弁(ゆうべん)に物語っているといえましよう。(『慧妙』H16.10.16)

[画像]:「C作戦文書」(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS080212)

被告(脱落僧・吉川雄進)は、右対立状態に至った原因は、原告(日蓮正宗宗門)の画策実行した「C作戦」と呼ばれる作戦にある旨(むね)、主張し、(中略)右主張に沿う部分(前述のメモ書きやC作戦文書)があるが、これらは、いずれも一方的な陳述(ちんじゅつ)の類(たぐい)であり、その内容も客観的根拠に乏(とぼ)しく、また、これらを補強しうる的確な証拠もないから、右証拠から直(ただ)ちに被告の右主張を認めることはできない(長野地裁松本支部・H11.4.21判決=日蓮正宗と脱落僧との間で行なわれた"善興寺明渡訴訟"『慧妙』H16.10.16・H21.12.16)

/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_
(『大白法』H16.4.1ほか)

●今、ここではっきり言っておきます。「C作戦」などということを、考えたこともなければ、実行したこともありません。このことを皆さん方、はっきり覚えておいてください。ただ、宗門は、平成2年7月の連絡会議から表面化した今般の学会問題において、色々な経過から結局は現在のような形になりましたけれども、そこに至る宗門の一つひとつの対応は、すべてが正しい対応だったと思っております。そこにおいては、初めから「C作戦」というような計画を立て、学会をどうこうするという考え方は全くなかったということを、この際、はっきり申し上げておきます。(第67世日顕上人『大日蓮』9302号61頁)

●このような議論のなかで、あるいはCだとかC作戦だとかいうような言葉が出たかも知れません。しかし、それはあくまでも学会を正しく教導していく、(中略)宗門側から積極的に切るとか、別れるという意味では、けっしてありません。(中略)ですから、何箇条かの内容を持つ、いわゆるC作戦といわれるようなものは、宗門方針としては、あとにも先にも全く存在しないということを、ここに改めて、はっきりと申し上げておく次第であります。(藤本総監の報告『大白法』H6.1.16/『慧妙』H20.2.16)

 平成2年末以降の宗門の創価学会問題に対する対処を見れば、宗門に「C作戦」などなかったことは一目瞭然である。宗門は、平成2年12月27日、臨時宗会を開催し、予て懸案であった本宗の宗規の一部を改正し施行した。その付則の、
●従前法華講本部役員の職にあった者は、その資格を失なう。(院第1964号)
-----------------------
との規定によって、法華講連合会の委員長・副委員長を含め、池田大作、並びに創価学会幹部の法華講本部役員は、一旦資格を喪失したのである。しかし、池田大作らが、昭和52年創価学会謗法路線の折の御先師日達上人に対するお詫びを忘れず、真摯(しんし)な反省懺悔と本宗の信仰を正しく受持する姿勢があれば、総講頭・大講頭に再任される可能性は十分にあったわけである。宗門は池田大作に対して、懲罰をもって処したわけでもなければ、解任したわけでもなかったのである。
 ところが、平成3年正月からの創価学会の宗門批判は、これが信徒団体はおろか、人間界の衆生の言葉かと耳目を疑うような、悪口雑言・罵詈讒謗の連続であった。宗門としては、懺悔並びに復職の機会を充分に与えたにもかかわらず、貴殿(※斉藤克司教学部長)ら創価学会は、敢えてこの宗門の慈悲による猶予を逆手にとり、この時とばかりに「宗門は、池田名誉会長の首を切った」等と末端の会員に虚偽の情報を流し、宗門の慈悲の教導を全く無視する行動に出たのであった。
 そのような会員に対する洗脳により、宗門や御法主日顕上人の信用を失墜させると同時に、創価学会の独立旗挙げ計画も止むなしと末端の学会員に思い込ませるためにデッチ上げられたのが、大嘘の謀略「C作戦」≠フ実態なのである。
 しかして、昭和52年路線直後に発覚した北条文書・山崎八尋文書に見られる創価学会大幹部の邪悪な発言の真意を、平成2年以降の状況から立ち返って考えれば、今回の問題が創価学会による謀略(昭和52年逸脱路線で頓挫した独立計画)であることは自ずから明らかであろう。
 貴殿は日顕上人や宗門が「C作戦」を計画したと言い張るその根拠を提示すべきである。もし提示できなければ、「C作戦」は創価学会の策謀であったことを認めたものと断じ、宗門機関誌『大日蓮』並びに法華講連合会機関紙『大白法』に改めてその旨を公表することを告げておく。


▲創価学会は「C作戦」報道を繰り返し、学会員に"被害者意識"を植え付けた(『慧妙』H23.7.1)