創価学会破折
血脈相承否定破折

法主位の継承、したがって法門深々の御相承はもったいなくも御本仏宗祖日蓮大聖人より御開山日興上人にたまわられて以来、清浄の法水連綿として現在64代に及び、この大事あるがゆえに、末法の一切衆生は本因下種仏法の大利益を受けることができるのであって、いつ、いかなるお方が御登座あられようとも、それはすべて御仏意によるゆえに、信徒たる者は、ひたすらけいけんなる信心をもってこれに従い、これをお迎え申し上げるのが当然なのである。(中略)法位継承は手続きがいかにあろうと御仏意である以上は、信徒たる者は、これくらいの心構えをもって法を護るのが当然ではなかろうか(『聖教新聞』社説S31.1.29/『慧妙』H15.12.16)
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当時、御当職であられた64世日昇上人の御隠退の報に接した戸田会長の談話を受けて、『聖教新聞』が社説として報道した記事である。ここにも、日蓮正宗の血脈法水によって、本因下種仏法の大利益を受けることができること、また信徒として御相承をどのように拝するのか、という正しい姿勢が示されている。




創価学会員の皆さんへ/『慧妙』H20.6.16
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歴代上人誹謗
歴代上人への血脈相承否定破折

『法主詐称』破折2/座談会『大白法』H16.3.1

『法主詐称』破折1/座談会『大白法』H16.2.1

要法寺の出身の僧が次々と猊座についた/『地涌』H3.5.5

血脈相承について/<nbのページ>WS
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日如上人誹謗
「偽装相承」との誹謗を破す/『大白法』H18.3.16

日如上人への御相承誹謗破折/『慧妙』H18.2.1
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日顕上人誹謗
日顕上人への血脈相承否定破折

「相承はあった」と正信会幹部/『慧妙』H16.5.1

創価学会・憂宗護法同盟を破折する3/座談会『大白法』H15.12.16
創価学会・憂宗護法同盟を破折する2/座談会『大白法』H15.11.1
創価学会・憂宗護法同盟を破折する1/座談会『大白法』H15.10.1

禿人の浅智はもはや破綻/『大白法』H15.12.1

憂宗護法同盟破折/『大白法』H15.11.1

〝御相承箱〟に拘る創価学会の臆説を破す/『慧妙』H15.8.16

血脈相承否定を破す3/『慧妙』H14.8.1
血脈相承否定を破す2/『慧妙』H14.7.16
血脈相承否定を破す1/『慧妙』H14.6.1

血脈相承・裁判所の見解/H14.2.22
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山崎問題
真実・甚深の正法に帰伏!!/『慧妙』H15.10.16



創価学会員の皆さんへ

―血脈否定を厳しく弾劾していた池田指導―
(『慧妙』H20.6.16)

 創価学会が日蓮正宗から破門されて、はや15年の年月が流れました。その間、学会では、機関紙誌や怪文書、会合や口コミ等を使って、67世日顕上人の悪口中傷を流し続けてきました。あげく、"日顕上人は血脈相承を受けていない"などと、まるで見てきたような嘘まで言い、はては"68世日如上人はニセ法主2世だ"などと言いだすしまつでした。
 なぜ、学会がそんな恐ろしいことを宣伝したか、といえば、狙いはただ1つ、学会員の心を、日蓮正宗なかんずく総本山に向けさせないためです。つまり、創価学会が池田大作を絶対者とする集団として存続していくためには、日蓮大聖人の仏法を正統に継承する総本山や御法主上人の存在が邪魔でしょうがなかった、ということです。
 学会による「嘘も百遍言えば、本当になる」(池田大作氏の言)式の宣伝は、全国津々浦々の学会員をみごとに洗脳しました。そして今、多くの学会員が、内心では「学会はだんだんおかしくなっている」と気づきながら、それでもなお、悪宣伝によって植え付けられた御法主上人批判が脳裏に焼き付いているために、総本山に戻れないでいるのです。あなたも、その1人ではありませんか。
 しかし、冷静に考えてみてください。日顕上人に日達上人からの御相承がなかったなら、どうして、日蓮正宗の信徒団体だった頃に、創価学会は日顕上人御書写の御本尊を拝んでいたのでしょうか。どうして、それで功徳をいただいてきたのでしょうか。
 そもそも、日顕上人への御相承については、池田さん自身も、

◆大聖人御入滅の後、唯授一人・血脈付法された第2祖日興上人は、大聖人の広大無辺の大仏法を、いささかも違えることなく、令法久住されることに無量の辛労をつくされた。以来、法灯連綿と730年の間、厳護されてきた法水は、御当代御法主日顕上人猊下に受け継がれておられる。御法主上人の御説法を拝しながら正しく信行に邁進しゆくことが大切なのである(『広布と人生を語る』第3巻297頁)
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等と、随処で明言していました。それを、今になって、「じつは相承を受けていない」等と平気で言ってのけ、悪口罵倒し続けているのですから、無節操極まりないではありませんか。
 しかも、以前の池田さんは、血脈否定の輩について、

◆現代においては、いかなる理由があれ、御本仏日蓮大聖人の「遣使還告」であられる血脈付法の御法主日顕上人猊下を非難することは、これらの徒と同じであるといわなければならない。批判する者は、正法正義の日蓮正宗に対する異流であり、反逆者であるからである(同第1巻230頁)
◆日達上人御遷化の後、御当代御法主上人を非難している徒がいる。私は命を賭して猊下をお護り申し上げる決心である。彼らは、以前には、総本山が根本であると私どもを叱咤しておきながら、いまは手の平を返して、みずからがその根本を破壊しているのである。言語道断もはなはだしい(同第3巻143頁)
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と、まるで現在の学会の所業を破するかような指摘をしていたのです。
 池田さんは、「御法主上人猊下様は遣使還告で、日蓮大聖人様と拝し奉るのです」(『巻頭言・講義集』第3巻184頁)と知っていたからこそ、「命を賭して猊下をお護り申し上げる」と述べたのではありませんか。それを今では悪口のかぎりを並べているのですから、まさに、「言語道断」ですね。
 このような二枚舌男のいうことに振り回されて、自らも血脈誹謗の大重罪を犯していては、本当に取り返しがつきません。さあ、今すぐ脱会して、正法正師のもとに帰伏しましょう。





歴代上人誹謗

歴代上人への血脈相承否定破折


1●僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず(『四恩抄』御書268、全集938頁)
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仏滅後、仏法を正しく伝えるのは僧の役目であり、僧宝と言われる所以である。僧宝が日興上人御一人に限られるのであれば、日興上人以降、仏法が断絶したことになってしまう。


<上行菩薩への別付嘱=歴代上人への相承>
●二仏並座・分身の諸仏集まつて是好良薬の妙法蓮華経を説き顕し釈尊十種の神力を現じて四句に結び上行菩薩に付嘱し給う(中略)秘す可し秘す可し唯受一人の相承なり、口外すべからず(『御義口伝』全集783頁)
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「唯受一人の相承なり」と仰せである。つまり、結要付嘱が、別して上行菩薩への唯我一人の付嘱だからこそ、わざわざ「口外すべからず」と日興上人御一人へ御指南されたのである。

●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。(中略)背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり(『池上相承書』全集1600頁)
●日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、(中略)血脈の次第 日蓮日興(『身延相承書』全集1600頁)
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もし、結要付属に総別がないのであれば、大聖人は日興上人御一人を付弟とし、「背く在家出家共の輩は非法の衆たるべき」とは仰せにならなかったであろう。また「血脈の次第」とは、この血脈に順序・次第があるということである。もし、血脈に総別がないのであれば、大聖人滅後も含めて全ての門下が平等に血脈を受けられるのだから順序・次第が存在するはずがないし、日興上人への付嘱をわざわざ文書によって証明する必要もない。唯授一人の血脈だからこそ順序・次第が存在するのである。

●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
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「塔中及び蓮・興・目」とあるように、塔中における上行菩薩への別付嘱が、末法においては唯授一人血脈相承として歴代上人に伝わっている

★地涌の菩薩への結要付嘱に総別がある。別付嘱とは上行菩薩1人への付嘱であり、これが末法においては唯授一人の血脈相承である。


<相承の文証なくとも厳然>
●祖師より興師へ御付嘱亦是れ三大秘法なり。興師より目師へ御付嘱も亦是れなり。(中略)目師より代々今に於て、二十四代金口の相承と申して一器の水を一器にうつすが如く云々(第26世日寛上人『寿量品談義』/『富士宗学要集』第10巻131頁)
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歴代上人の相承について、一々授与者の証明(文証)が存在する訳ではない。それでも、何の混乱もなく相承は行われてきたのである。

●(※第26世日寛上人から第28世日詳上人への御相承について)晨朝(しんちょう)密かに学頭詳公(※日詳上人)を招き、金口嫡嫡の大事を伝付し没後の事を遺杔す(第48世日量上人『続家中抄』/『富士宗学要集』第5巻278頁)
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「密かに」とあることからも、相承の儀が公開されなかったことが明らかである。これはまさに、第66世日達上人から第67世日顕上人への御相承と同じである。すなわち、相承の儀が公開されなくても、何の混乱もなく相承はなされ、日詳上人がその後の宗門を貫首として統率されたのである。もし、この時代に学会がいたなら、さぞかし、日詳上人も"詐称法主"の汚名を着せられていたことであろう。

2●但し直授結要付嘱は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付嘱せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(『百六箇抄』全集869頁)
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 第59日亨上人は「後加と見ゆる分の中に義において支語なき所には一線を引き」(『富士宗学要集』第1巻25頁)とあるごとく、史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのである。後加文だといって無視する学会だが、少なくとも日亨上人の御指南であると考えるべきである。
 学会による歴代相承否定の根拠は、多くは『富士宗学要集』を初めとする日亨上人の著作に求められている。しかしながら、当の日亨上人が、ご自身の見解と合致するとして明確に「異論無く尽未来際に至るまで」「日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき」と仰せなのである。著者・編者の意図を曲解した我田引水の批判は厳に慎むべきである。

★学会の"法論オタク"達の中には、歴代上人相承の文証が不明確なことをもって、血脈が断絶しているかのように疑難する者がいる。しかしながら、宗内において唯授一人の血脈相承の存在と重要性が徹底されて以降は、一々師が弟子への相承を第三者に証明する必要はない。付弟一人が貫首となり、一宗を統率されている姿そのものが、唯授一人の血脈相承がなされた何よりの証拠である。だからこそ、宗門700年以上の歴史の中にあって、付弟が御登座されたその時点で、血脈相承に疑義を唱えた者は1人としていなかったのである。血脈に疑義を唱える者達は、決まって、御登座から何年何十年も経過したあとで、自己の立場を正当化するために疑義を唱えるのである。そのような者は、仮に師による直筆の証明があったとしても、偽書であるといって血脈を否定したであろう。五老僧の門流がそのよい例である。

仏滅後の仏法は僧宝によって伝持される(1●)のであるが、大聖人の仏法は日興上人以来の唯授一人の血脈によって相伝されているのである。この唯授一人の血脈相伝が断絶したと主張する創価学会は、大聖人の仏法が断絶したと主張しているのと同じである。つまり、学会は、これ以上ない仏法破壊の大謗法を犯しているのである。


<日淳上人の御指南について>
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淳師「相承とは相ひ承けるといふことで師の道をその通り承け継ぐことであります。それでこれを師資相承と申します。既に師の道を承け継ぐのでありますから必ず師の証明がなければなりません。弟子が勝手に承継したといってもそれは相承ではないのです。」
日顕が勝手に承継したといってもそれは相承ではないのです、わかりる? (wt:4920)
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 相変わらず、学会"法論オタク"は、文証の出所を明示しません。これでは、切り文であっても分かりません。しかしながら、「師資相承」について御指南された上記御文は、却って学会の主張する「大聖人直結」を明確に破折されていることは明らかである。このことに、この学会員は気づいているのでしょうか(笑)。自分達を破折している御文を臆面もなく、宗門破折に持ち出す学会は、主張の整合性などおかまいなしなのです。とにかくその場さえ勝てばよい、という形振り構わない実に哀れな団体になってしまったようです。
 尚、上記「師の証明」とは、受者たる付弟への証明であって、必ずしも、第三者への証明ではない。学会のように、師に無断で、あるいは師を捨てて(捨てられて?)「勝手に」大聖人から「承継した」と誇称することを誡められたのであろう。↓

●此の師弟の相対的の関係に於て、仏法を拝するといふのが仏法の極意であります(中略)若し此れ等のことを考へずに仏法を論ずるならば、最早仏法ではないと言ふべきであります。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1153頁)

当該御文の出所が不明なので、さらに日淳上人の同様の御指南を引用して説明しましょう。

●仏法は伝法相承のことを重んずるが此れは能伝の人正しからざれば所伝の法又正しからざるによるが故である。(中略)教法を尋ねずとも伝法相承の跡を尋ぬれば法の帰趣を察することができる。他山諸門を見るに此の伝法相承の跡が甚だ曖昧である。或は後代の凡師の己義己見によって建つるところにより或は我情によつて誇称するの類を出でない。此れその法の濁り乱るる因由である。黄河の水は常に濁ると聞くが水は自ら濁るものでなく流れに沿ふて濁る。清浄なる法器を求めて法を付する所以も実に此にある。蓋(けだ)しいづれの世にも天魔が聖を装ふて法を破ることが多い。相承の大儀が公明正大厳密に行はるるは此れが為である。(中略)(※塔中相承、『身延相承書』、『池上相承書』を挙げた後)此れ聖祖付法の大儀を重んぜられ此れによって天魔の法を破る隙なからしめ給はんとせられたのである。三世の諸仏の施化は始終整備して毫末も欠くるところなく炳焉(へいえん)として具足している。 此くの如き厳然たる証明があって御滅後の衆生少しも付法の師に迷うところがない筈である。他山門徒諸士他はさてをいても此の御相承の御跡を尋ね此れに帰一して正法を立てなければならぬ。(第65世日淳上人『大日蓮』S6.4/『日淳上人全集』4頁~)
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・「仏法は伝法相承のことを重んずる」これこそ、相承を否定して"大聖人直結"を主張する学会が謗法である文証である。
・「他山諸門を見るに此の伝法相承の跡が甚だ曖昧である」とし、塔中相承、『身延相承書』、『池上相承書』を挙げている。このことからも分かるように、日蓮正宗に伝わる唯授一人の血脈の正当性を示した御指南である。
・「此の御相承の御跡を尋ね此れに帰一して正法を立てなければならぬ」とあるから、大聖人→日興上人→と続く血脈相承は、少なくとも当該記事の書かれた昭和6年までは、不断に存続していたことになる。しかしながら、それ以前においても、相承についての「厳然たる証明」のない場合はたくさんある。とくに、直接の授与者による書付などは、残っていない場合が多い。そのことは、当然、日淳上人も御存知だったはずである。このことからも分かるように、上記御文は、他宗他門に対して日興上人→日目上人→と続く門流こそが、正統であることを示したものである。
・「聖祖付法の大儀を重んぜられ」とあるように、「公明正大厳密に行は」れた「相承の大儀」とは『身延相承書』、『池上相承書』に示された大聖人から日興上人への相承である。
・「聖祖付法の大儀を重んぜられ」た理由は「天魔の法を破る隙なからしめ給はんとせられた」からである。すなわち、大聖人から続く血脈について、"相承はなかった"と主張する学会はまさに「法を破る」「天魔」である。


<日亨上人の御指南について>
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 日亨上人はかつて、相承の権威は「実人」にあるのか、「型式」にあるのかという問題提起をされた。そして、実際に相承を受けて猊座に登った体験の上から、相承の形式よりも、実人にこそ権威があるというのが日亨上人の答えだったと拝察する。そして、その「実人」たることの究極の要件は「信心」である。それは、日亨上人の次の言葉に明らかであろう。
 「口決相承等というものは信仰の賜じゃよ。信仰もなく学も行もない貫首がいったい、何を伝授するというのか」「口伝なるものは完器にして始めて可能なんじゃ。破器・汚器の者であれば、猊下と雖も何にもならん」「猊下というものは、法の取継に過ぎんのじゃよ。嘘をつく者、如才ない者は論外だよ」
 実にうなずける一言一言である。(斉藤克司・創価学会教学部長)
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 日亨上人が相承の「形式」・「実人」等について考察されたのは、後にも先にも御登座前の大正12年4月に『大日蓮』に発表された論文『血脈相承の断絶等に就いて史的考察及び弁蒙』の1度だけであり、〝相承を受けて猊座に登った体験〟を語った、などというのは全くもって虚言・欺瞞である。このように恥も外聞もなく、子供だましの嘘を平気で言う者が「創価学会教学部長」なのだ。御法主日顕上人に対し、かかる駄文を送りつけ邪難するとは、まさに笑止千万である。身の程を知れと呵しておく。
 さらに、その他にも貴殿は、日亨上人が述べられたとするいくつかの出所不明の〝言葉〟なるものを挙げている。貴殿らのように卑怯・虚言をお家芸とする者共の引用の〝言葉〟は、怪しいものである。これらの〝言葉〟が本当にあったというのなら、その〝言葉〟の出所を明らかにすべきである。おそらく日亨上人は、「血脈相承の根本は信である」ということは述べられたかもしれないが、これほど貴殿らに都合のよい〝言葉〟を述べられるわけがないのだ。(『大白法』H16.6.16)

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日亨上人が昭和26年に身近にいた僧侶に「柱師が知っておられるほどの相承は、ワシはすでに知っておる。何も3千円で相承をわざわざ買う必要などない、だから3千円の相承はワシには必要ないと突っぱねた」と発言された(離脱僧著『法主詐称』)
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〈八木〉 謹厳な日亨上人が、そのような不謹慎極まる発言をされるはずはないね。この連中は日亨上人が御存命でないのをいいことに何でも言いたい放題だね。もし日亨上人が言われたとすれば、「宗門として3千円を日柱上人に差し上げる件は、あくまで御隠居料としてであって、御相承に対する対価などではない」という意味ではなかったのかな。
〈司会〉 そう思います。大正15年3月8日の日柱上人から日亨上人への御相承の儀式は、大石寺客殿において厳粛に執り行われたことが記録にも明らかです。(『大白法』H16.3.1)

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>日柱上人は堀上人に伝えるべきものは何もなかった(離脱僧『法主詐称』)
>昭和26年の冬に、日亨上人が日柱上人を「信仰もなく学も行もない、親分・子分の関係を強いているヤクザの貫首」と批判した(同)
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この発言もまったく日亨上人の御言葉とは考えられないね。それというのは、日亨上人は昭和2年11月20日に宗内僧俗に対し、管長辞職の経緯につき告白されているが、その中で、日柱上人については、「大正4年に日柱師を学頭に推挙するの主動者となりてより同12年に58世の猊座に上らるまで直接に間接に力めて障碍なからしむるやうにした」と述べられているからだよ。この御言葉は日亨上人の日柱上人に対する信頼と評価を示していることは当然だよ。もし日柱上人が本当に「信仰もなく学も行もない、親分・子分の関係を強いているヤクザの貫首」のような方であったのならば、日亨上人ほどの正義感の強いお方が、自ら中心となって日柱上人を学頭に推挙されたり、さらにそれだけではなく、種々助力なさるはずなどないではないか。(菅野日龍御尊能化『大白法』H16.3.1)

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>日亨上人が51世日英上人の言葉を引き合いに出して、「嘘つきの法主は論外」と語った(離脱僧『法主詐称』)
>日亨上人が「いずれそのうち、平僧や信徒を迫害しぬく猊下も出てくることだろうよ」と仰せられた(同)
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これもいい加減な伝聞に過ぎないわけだ。悪意でねじ曲げた内容だから、仮に日亨上人に何らかの発言がおありだったにせよ、最早、日亨上人の仰せとは到底言えるものではないと思うよ。まして日亨上人が「いずれそのうち、平僧や信徒を迫害しぬく猊下も出てくることだろうよ」と仰せられたなどということは、前の例と同じで絶対に有り得ないね。堀上人にかこつけて、まさに創価学会が言いそうなことだよ。(早瀬日如御尊能化『大白法』H16.3.1)


<大御本尊受持が血脈相承の証拠>
―法体相承とは大御本尊相承―
●日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり(全集1600頁)
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御本仏大聖人の血脈とは、「日蓮一期の弘法」である。 しかして、この「日蓮一期の弘法」を何と拝するか。禿人および創価学会の言い分では、これを「御相承箱」と言い張らねば理が通るまい。しかしながら、そんなことはない。

3●応に知るべし、「日蓮一期の弘法」とは、即ち是れ本門の本尊なり(第26世日寛上人『依義判文抄』)

●日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊は日目に之を相伝す(『日興跡条々事』)
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元弘2年(1332年)11月10日、日興上人が87歳の時(『新版仏教哲学大辞典』初版1360頁)

―大御本尊受持の方こそ金口相承の方―
●依て座替と号す日興より日目嫡々相承手続支証の大曼荼羅なり(日興上人筆座替大本尊/『富士宗学要集』第5巻336頁)
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「日興より日目嫡々相承」とあるように、この座替御本尊こそが、金口相承の証拠である。正応3(1290)年、日目上人31歳のことである。上記『日興跡条々事』で大御本尊を相伝されたのが元弘2(1332)年であるから、それよりも40年以上前のこと。このことからも、唯授一人の血脈相承に法体(大御本尊)相承と法門(金口=法水)相承のあることが分かる。

祖師より興師へ御付嘱亦是れ三大秘法なり。興師より目師へ御付嘱も亦是れなり。(中略)目師より代々今に於て、二十四代金口の相承と申して一器の水を一器にうつすが如く云々(第26世日寛上人『寿量品談義』/『富士宗学要集』第10巻131頁)
●而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し(第26世日寛上人『文底秘沈抄』/『富士宗学要集』第3巻94頁)
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「三大秘法」とは大御本尊のことである(3●)。一方「金口の相承」「清浄の法水」とあるように唯授一人の血脈相承には法門(法水)相承が存在するのである。

●唯授一人嫡々血脈相承にも別付、総付の二箇あり。その別付とは則ち法体相承にして、総付とは法門相承なり。而して法体別付を受けたまいたる師を真の唯授一人正嫡血脈付法の大導師と云うべし(中略)而して別付の法体とは則ち吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是なり(第56世日応上人著『弁惑観心抄』211頁/『大白法』H15.12.1)
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本門戒壇の大御本尊が厳然と総本山大石寺にましまし、これを歴代代上人が格護されてきた現実こそ、歴代上人が大聖人以来の唯授一人血脈相承を御所持あそばした、最たる証拠である。尚、ここでは法門相承を「総付」とされているが、金口嫡々・唯授一人の法水の血脈相伝のことではない。(<血脈相伝の体>参照)

★唯授一人の血脈相承には法体(大御本尊)の相承と法門(金口=法水)の相承がある。だから大御本尊が相伝されたこと自体が、法門(金口=法水)相承の証拠である。

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唯授一人の血脈に就いて。学会員は唯授一人の血脈相承というような神秘的に高僧から高僧へと続く相承など信用出来ない。
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抑も、仏法の相伝というものは唯仏与仏の境界であり、凡夫の知り得ぬ内証である。凡夫のいとも簡単に理解出来るのであれば仏法では無く、凡夫法ではないか。

●終ニ不(下)自言(二)我眞ノ阿羅漢(一)。泄(二)(※モラス) 佛ノ密因(一)輕言(中)末學(上)。唯除(三)命終陰有(二)遺付。(『注法華経』法蔵館蔵版・上巻・400頁)
【通釈】=終(つい)に自(みずか)ら我れ眞の菩薩、眞の阿羅漢と言ひて佛の密因(みついん)を泄(もら)して 軽々しく末学のものに言わず、唯(ただ)命終の時陰(ひそ)かに遺付(いふ)するあるを除く

●『摩訶止観』には、付法蔵の24人を挙げ、この相伝は金口の唯授一人であることを述べられている。(『国訳一切経』諸宗部3・14頁)

●問ふて云はく、法華宗の法門は天台・妙楽・伝教等の釈をば御用ひ候か如何。答へて云はく、最も此の御釈共を明鏡の助証として立て申す法門にて候。(『諸宗問答抄』御書30頁、全集375頁)
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釈尊・天台に倣い、仏教の伝統として令法久住の化儀として、唯授一人の付法蔵である日興上人に血脈相承をされたのである。

●恵果和尚は大日如来よりは七代になり給ふ。人はかはれども法門はおなじ。譬へば瓶の水を猶瓶にうつすがごとし。大日如来と金剛薩捶・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法との瓶は異なれども、所伝の智水は同じ真言なり。(『本尊問答抄』御書1276頁、全集367頁)
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以上は真言を例に取っているが法水写瓶の思想が明確に出ている御書である。

●器は我等が心身を表はす。我等が心は器の如し。口も器、耳も器なり。法華経と申すは、仏の智慧の法水を我等が心に入れぬれば、或は打ち返し、或は耳に聞かじと左右の手を二つの耳に覆い、或は口に唱へじと吐き出だしぬ。譬へば器を覆するが如し。(『秋元御書』御書1447頁、全集1071頁)
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衆生の一心を器に譬えられているのである。

以上の如く結論として、日蓮正宗で立てる唯授一人の血脈相承とは、釈尊・天台智者大師の前例に見られるごとく、日蓮大聖人から日興上人に相伝された、一器の水を一器に写瓶するように相伝された仏教の伝統であり、正法を正しく相続する為の化儀なのである。



<稚児貫主>
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宗門の『富士年表』によれば、12世の日鎮上人は14歳、13世の日院上人に至っては10歳で登座している。10歳といえば、小学校4年生。そんな子どもにも、大聖人の法魂が宿っていたというのか。(『創価新報』H18.9.20または10.4)
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 結論から言えば「しかり」。
 慣用句にも「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」とあるように、大成する人は、若年であっても、すでにその才気を漂(ただよ)わせているものである。
 また、仏法でも「生智の妙悟」と説かれるように、若年で猊座に登られた方々は、しかるべき御命と因縁を持ってお生まれになり、若年期においても、将来の宗門を背負って立たれる才気に満ちた、まさに大聖人の法魂を継がれるにふさわしい方々であったに違いない。(『慧妙』H18.11.1)

―第12世日鎮上人―
◆12世日鎮上人は、幼い年齢で血脈相承を受けました。血脈相承を受けた年齢については3説があります。「4才」「10才」「16才」です。(<nbのページ>WS)

●釈の日鎮、俗姓知らず下野ノ国ノ人たり、十六歳にして付属を受ケ明応三年甲寅十月十九日富士を発して東国に下向するなり(第17世日精上人著『家中見聞下』/『富要』第5巻257頁)

●第12代日鎮上人は、文明4年、16歳で血脈相承をうけられているので、日有上人が御入滅の時は、ちょうど26歳であった。(第66世日達上人著『(略解)有師化儀抄』22頁)

●日鎮上人は14歳で日有上人から御相承を受けられたわけだが、法体の御相承については、年齢のお若いことは何も問題ではないし、御法門についても、よく少年の神童ぶりがニュースの紙面を賑わす例もあるように、優れた知性と能力をお持ちであられたことを否定はできない。まして当時は南条日住等の補佐役もいたことだし、何よりも日鎮上人はその後45年もの長きに亘り、宗門を董(とう)されたことが、お若い頃から御法主上人とされての優れた器の御方であられたことを雄弁に証明していると思うね。(八木日照御尊能化『大白法』H16.2.1)


―第13世日院上人―
◆日院上人が日鎮上人から血脈相承を受けた年齢については、諸説があります。「13才」「20才」「32才」などです。堀上人は苦労して会通をつけられ「32才説」にこぎつけられています。そして「決してバカにされるような稚児貫主じゃない」と言われています(<nbのページ>WS)

●良王殿(※後の日院上人)の事幼少の御方に御座候、然(しか)りと雖(いえど)も信心御志候て勢仁(成人か)致され候はゞ当時の世間仏法とも御渡し本末の僧俗ども仰ぎ申さるべく候、仍(よっ)て後日の為め件(くだん)の如し(『富士宗学要集』第8巻35頁)
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 12世日鎮上人は、日院上人に相承される約1年前に、後の日院上人を指して、「●」と、幼少ではあっても、信心の志(こころざし)の深い良王殿(日院上人)こそが、大石寺を背負っていくべき御方であることを、大石寺に有縁の人々や檀信徒に向け、宣せられているのである。
 しかして、これを受けた当時の僧俗も、若年の日院上人をしっかりとお支えし、介添え申し上げ、本宗の唯授一人の血脈は絶えることなく護持されて、御当代・68世日如上人まで連綿と伝わってきているのである。その厳然たる事実の前には、『新報』編集子の邪難など、何の意味もなしておらない。(『慧妙』H18.11.1)

◆[日院上人]=当時、良王童といわれ幼少であったが、信心強盛であったことが、日鎮上人附弟状に記されている(『新版仏教哲学大辞典』初版第2刷1320頁)
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第13世日院上人に法を附属されたのが第12世日鎮上人。アメリカなどでは、十代前半にして大学に合格してしまう天才もいる。そこまででなくとも、幼少にして利発な方もいたであろう。まして、仏法は以信代慧である。純粋に御本尊を信じている者であれば、幼少であっても立派な法器というべきである。

●釈の日院、俗姓等日鎮伝に出づ、出家して右京と号す、十三歳にて富士に登り当家を習学す、十七歳にして相州土屋に往て台家を受く、又武州仙波に往イて実海の座下に於て広く修学す。
富士に帰り大石寺に往する六十年なり、其ノ間常に題目を唱ふ一生三衣身を離さず云云、七十に及ひ中風を患ふ終に天正七己卯七月六日没す行年七十二歳。(第17世日精上人著『家中見聞下』/『富要』第5巻258頁)
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 さて、日鎮上人が御自身の後嗣(こうし)を選ぶについては、土佐国幡田(はただ)の庄まで遊化され、吉奈図書助(ずしょのすけ)高国の13歳の子息という、地位・家柄ある人を付弟として出家せしめ、後に第13世日院上人とされています。
 出家された日院上人は、17歳で相州土屋の檀林で天台学を学び、また武州仙波檀林では実海の許(もと)で更に修学を積まれた後に、日鎮上人より相承を受け登座されています。(榎木境道著『富士門流の歴史 重須篇』124頁)


●請う、妄弁者よ、もし我が山に、万に一にも要山(要法寺)または某山のごとく、唯授一人・金口嫡々の相承なかりせば、(中略)底師(第11世日底上人)は若年の鎮師(12世日鎮上人)に伝うるの必要あらんや。(中略)これ一時の衰退を徴するに似たりといえども、かえって唯授一人・金口嫡々相承の現存せる一つの実証とするにたるべし(第56世日応上人/『慧妙』H9.11.16)
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若年の御法主を選定しなければならなかったということは、当時の御宗門が衰退して人少であったことを窺わせるが、かえって、そのような状況下にあっても、どうしても後世に伝えなければならない法体相承が、厳然として富士大石寺に存在することを証明している、といえるのである。

★法体相承が大御本尊の伝持だけであるならば、わざわざ、若年の御法主を選定する必要などない。

●「児」とはちごとよむ童子にして寺院の召使なり、当時一般の寺院に童体の弟子あり、召し使はれながら修学を励みて後に剃髪出家す、中には十七八歳まで児姿なるあり、此の児の中に俗性高貴なるは・非常に喜ばれ殊に容色学才あるは・一山の珍重する所にして・此が争奪の為に干才を交へたる事珍しからず(第59世日亨上人著『有師化儀抄注解』/『富士宗学要集』第1巻122頁)
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大石寺派の僧侶というのは、頭脳明晰であることは当然であり、容姿も勝れ、顔立ちも良い方が尊ばれたものである。天下の師範たる資格であるのだ(<清流山荘>WS)。

●法華経では、竜女は8歳で即身成仏しているのである(同)。


―第67世日顕上人御指南/H4.8.28全国教師講習会―
 「9世日有上人(18歳)、12世日鎮上人(14歳)、13世日院上人(10歳)、14世日主上人(19歳)が、いずれも年少で付嘱をうけていること
と、問題にしているわけです。特に、10歳という年齢では何も判りはしないではないかという考えがあるのでしよう。
 これは、先程も申し上げたように、金口から金口ヘ嫡々相対の上に直接、話をし、その場において信解が得られなければ相承ではないというように短絡的に考えるから、このような質問が出てくるのです。本来ならば、御相承ということに関して、他の人は漏れ聞くこともできないのでありますから、この質問がもっともだと思う人こそ誤りであって、基本的には、やはり未来永劫にわたる御仏意の貫きということを考えていただきたいと思います。
 さらに申し上げれば、時代背景として稚児貫首ということが行われた時代があるのです。老僧、あるいは分別のある僧侶はいくらでもいたのでありますが、わざわざ稚児を選んで次の貫首に定めるという、そのような宗門伝承の在り方が存した時代があるのです。
 したがって、宗門の集団全体がそのような考えでいるわけですから、その稚児貫首が、「汝こそ法主となるのだぞ」との始めにおける上人の言を根本として成長する過程において、法門の学習とともに、法主たる自覚のもとに先師の金口の言辞を元に金紙を拝しつつ、この場合は相承の内容において金口が金紙に代わる意味も一部、存するわけで、また、古来の法に詳しい老僧からの話を聞きつつ、真に法を正しく伝えていくという、このような介添え人をも含めての相承の在り方も存したわけです。
 しかし、そこには金口を元とする金紙が厳然として存し、その金紙の内容にまた、金口の意義における厳然たる伝承が存するという上からの稚児貫首という在り方であったのです。それを宗門の僧団全体が考え、支え、血脈を伝持していくという時代状勢であったわけです。
 ですから、そのような時代背景、状況、慣習等を全く無視して、まして僧侶でもない、また、信心で拝することもできないような創価学会の在家の人間の考えで、唯授一人の血脈相承の内容について、「これは10歳だから、相承が伝わるというのはおかしいではないか」と質問してくるのは、信を見失った全くの見当違いであり、謗法なのです。その辺のところを皆さん方もしっかりと信解していただきたい。必ず血脈は伝持されているのであります。



<第8世日影上人への付嘱>
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4●(※日影上人が)会津実成寺に住居すの時 日時上人御遷化なり、之によって日阿代官として当山大坊に居住して日影上人を請す、然るに会津雪国にして翌年応永十四年四月御登山なり、日阿代官老衰病に遭い応永十四年三月十日遷化なり、此に於いて天台御相承等柚野の浄蓮に伝えて日影上人に授与す (第31日因上人『有師物語聴聞抄佳跡』/『富士宗学要集』第1巻222頁)
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第6世日時上人が御遷化の時、第8世日影上人は会津に居られた。だから、第7世日阿上人が代官された。御遷化前に血脈相承が内付されていたことを否定するものではない。その証拠に、柚野某が仲立ちしたという相承は「天台御相承」であって、文底下種仏法の血脈ではないのである。

●1404(応永11)5.1 日時 日影に法を内付し本尊を授与(8-193・宮城上行寺蔵本尊脇書・聖744)(『富士年表』)
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御遷化のとき、師のもとにいなくても、それ以前に相承を受けていたのである。

●釈の日影、俗姓は南条なり、日時に随順して法華を習修し又御書を聴聞す故に当家に於いて精(くわ)しきなり、殊に道心益深くして昼夜誦経、四威儀に題目を唱ふ(第17世日精上人『家中抄下』/『富士宗学要集』第5巻255頁)


<第9世日有上人への付嘱>
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●影公大衆に語って云く血脈を伝ふべき機なき是我が悲嘆なり、終に応永二十六年己亥病気の時油(柚)野浄蓮に血脈を授けて云く、下山三位阿闍梨日順は血脈を大妙に伝ふ其の例なきに非ず、公白衣たりと雖も信心甚だ深き故に之を授く伝燈を絶えざらしめよと教示して、八月四日没したまふ。(第17世日精上人『家中抄下』/『富士宗学要集』第5巻255頁)
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 「油(柚)野浄蓮に血脈を授け」とあるが、日精上人は「血脈」という語を広い意味で捉えており、必ずしも唯授一人の金口相承ではない。実際、当時、歴代上人への相承には、金口相承以外にも種々の相伝書があったようであり、その一部が現在、複数の相伝書(『御本尊七箇相承』など)として公開されているのであろう。(<『家中抄』と血脈>参照)
 また、日精上人の著書には俗説をそのまま書き残したものが多く、そのまま信用することはできない。日精上人御自身も、その点は認められている(下記6●)。また、第31世日因上人は上記記述について、「恐くは時人の口伝を記するものか」(下記5●)と疑問視されている。第59世日亨上人も「惑説」と一蹴されている。↓

●柚野浄連の事本師何に拠りて此惑説を為すか(第59世日亨上人『家中抄下』/『富士宗学要集』第5巻255頁)

●油野浄蓮という人は日有上人に関係の深い人であった。ですけれどもね、その年代が、日有上人の晩年に、油野浄蓮がいたんですからね。ですから、その浄蓮に影師が血脈を伝えるとなると年代があわない。(第59世日亨上人『大白蓮華』S31.11/青年僧侶邪義破折班H17.6.7)

5●精師家中抄日影伝記には(乃至)血脈を伝うべき器なき故に柚野の浄蓮に血脈を授く、下山日順血脈を大妙に伝うるに例す、此則白衣なりと雖深信の故に之を授け御弟子日有をして御成人の時を待たしむるか(乃至)今私に之を案するに初説を実義となすべきか精師の記恐くは時人の口伝を記するものか(第31日因上人『有師物語聴聞抄佳跡』/『富士宗学要集』第1巻222頁)
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「初説を実義となすべき」という「初説」とは、上記4●のことである。

●応永27(1420)年4.15 日有、黒須野妙法寺本尊(宗祖本尊模刻)造立(8-194・同寺蔵)(『富士年表』H2)
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日影上人が御遷化あそばされた応永26年8月のわずか8ヵ月後に日有上人が脇書きをなさった御本尊が存するのだから、日影上人から日有上人へ御相承があったとみて差し支えない。日亨上人もその御本尊の脇書きに「大伴浄蓮」なる名が見えることにより、後世に「柚野浄蓮へ相承」云々の伝説となったのであろうと推測されている。(『大白法』H16.2.1)

●釈の日有、俗姓は南条、日影の弟子なり、幼少にして出家し師の訓育を受け法華を習学し又御書を聴聞す。(第17世日精上人『家中抄下』/『富士宗学要集』第5巻256頁)
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(柚野浄連の事が事実だとしても)日影上人は「切紙」などの「血脈」を柚野浄連に預けた前後に、金口相承を直接日有上人に授けたと考えるべきである。(<『家中抄』と血脈>参照)

6●然るに祖師の伝文不同なきには非ず、日順の血脈抄極略にして未だ窺ひ測りやすからず、日時(※日道)三師の伝はわずかに一二の行業をあげて未だ詳審ならず、日辰祖師伝は多くは西山の説を記して御筆に違する事あり亦富士五所の所伝にすこし差会あり。
 是れに繇(よ)って予寛永庚辰の春、日瑶中陰のうち別に報謝の儀なく此の三伝を集めて一巻として報恩謝徳の一分に擬したてまつりき、其の後御筆本尊并びに遺弟の書籍記文等を拝見するに諸伝相違の事甚だ多く亦諸書に載せざる行相幾許(いくばく)ぞや、爰を以て今御筆を先として遺弟の記文取るべきものは之を録し諸伝の善説には之に順し、善ならざるは頗るために改め易へ次第前後をたゞす、猶恨むらくは御筆記文は多く天下の大乱に散失し或は国々門徒へ持参し所伝の法門は住侶闕減に習ひ失ひ唯見聞の及ぶ所、纔(わずか)に之を記録して未だ精密ならざるなり、豈罄(むなし)く興師の道を尽すにたらんや、庶幾(こいねがわく)は所所散失の御筆並びに本尊・記文等見聞にしたがって之れを記して其の欠を補い給わば是れ吾がねがう所なり(第17世日精上人『家中抄上』/『富士宗学要集』第5巻180頁)
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「遺弟の記文取るべきものは之を録し諸伝の善説には之に順し、善ならざるは頗るために改め易へ次第前後をただす」とあることから、『家中抄』の編集態度は、引用であってもある程度は日精上人の本意が表れていることが分かる。しかしながら、「唯見聞の及ぶ所、纔(わずか)に之を記録して未だ精密ならざるなり」「欠を補い給わば是れ吾がねがう所なり」とあるように未だ正確ではなく、後世の補正を求められている
 「此の三伝」とは「日順の血脈抄」「日時(※日道)三師の伝」「日辰祖師伝」のことか。当該御文は日興上人伝の末文であり『家中抄上』の末文である。「然るに祖師の伝文不同なきには非ず」から始まる文である。このことから、日興上人の伝に関する記述であることは明らかである。従って狭義には『家中抄上』=日興上人伝、の編集態度である。
 しかしながら、「御筆本尊并びに遺弟の書籍記文等を拝見するに諸伝相違の事甚だ多く亦諸書に載せざる行相幾許(いくばく)ぞや」という状況は他師に関する資料についても同様のはずである。そのことは、日目上人や日尊師などについて書かれた「日辰祖師伝は多くは西山の説を記して御筆に違する事あり」とあることからも容易に推測できる。であればこそ、日亨上人も上記跋文が『家中抄』全体に及ぶものであるとの考えから、「本師の跋文に合ふもの」として『家中抄』全巻に亘って天註を加えられたのである。↓

●天註に批訂する所あり、先師に対して恐れありと云へども却って是れ本師の跋文に合ふものにして、地下の冥諾を受けんこと必せり、但し中下巻には此事を贅せず(第59世日亨上人/『富士宗学要集』第5巻180頁~)

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56世日応上人がこれに関して、在家相承でも何ら問題ないとしている。(『法主詐称』)
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これは万々が一、柚野浄蓮への御相承ということが仮にあったとしても、それで本宗の血脈相承が途絶えたことにはならないということを強調されたものと拝すべきだね。特に創価学会が鬼の首でも取ったかのように「日応上人が血脈は在家に相承してもよいと言った」と言うのけまったくの誤解だよ。たしかに相承すべき相手がなければ、俗男俗女であってもよいと述べられ、柚野浄蓮は白衣(在家)であったとされている。それは何としても日蓮正宗の血脈法水を絶やしてはならぬが故の仰せだが、ただし、もし在家の浄蓮が本当に相承を受けるとすれば、それは当然出家した後でなければならぬとの意味を、「浄蓮の新発意」とのお言葉で示されているんだよ。要するに緊急やむを得ぬ場合は、信心のある者を出家せしめてでも、血脈相承を継がせなければならないとの意味であり、絶対に日蓮正宗の血脈法水が途絶えることはないことを仰せられた御指南と拝すべきことは言うまでもないね。(早瀬日如御尊能化『大白法』H16.2.1)


<第15世日昌上人への付嘱>
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日主上人から日昌上人への御相承について、代官の寂日坊への「死活相承」の話があった。(『法主詐称』)
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●これは取るに足りないまったくの誤伝です。日昌上人のお筆による、日主上人から日昌上人への御相承が厳然と行われたことを証明する確実な史料が、現に小金井蓮行寺に存在していることを日亨上人が仰せられているね。(藤本総監『大白法』H16.2.1)


<第16世日就上人への付嘱>
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●慶長十二年昌公病気の時付嘱を定めんと欲し書状を日就に賜ふ、師匠の日賙(しゅう=「貝」+「周」)の云く師弟合して本末相承を継く冥慮に相叶ふ者か、即日賙領承して返札を賜ふ、堅約以後猶昌公在位なり、元和年中終焉の後、同年四月二十三日入院し理境坊日義に随ひ相承を継ぐ(第17世日精上人『家中抄下』/『富士宗学要集』第5巻260頁)
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 この資料を見る限り、第16世日就上人は、第15世日昌上人御遷化後に御登座されたことになる。しかしながら、血脈相承に対して疑義を差し挟む者は当時からいなかったようである。
 「昌公病気の時付嘱を定めんと欲し書状を日就に賜ふ」とあるから、御病気になる以前から日昌上人は日就上人と面識があられたのであろう。さらに「堅約以後猶昌公在位なり」とあるから、付弟が日就上人に定まってからも、日昌上人は御健在であられたのである。以上のことから推察するに、御登座は師の滅後であっても、内付という形で相承が行われていたのである。だからこそ、当時、血脈に疑義を差し挟む者はいなかったのである。
 ところが、学会の"法論オタク"は、400年近くも後になって、この相承を疑難しているのだから呆れてしまう(溜息)。尚、この時の相承は、師の滅後に付弟が御登座したこと、相承が内付という形で行われたこと、という点において第66世日達上人から第67世日顕上人への御相承と同じである。
 「理境坊日義に随ひ相承を継ぐ」の記述であるが、日精上人のいう「血脈相承」とは文書化されたものであり、必ずしも唯授一人金口相承のことではない。(<『家中抄』と血脈>参照)

●法を日道に付す所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はゞ内用(証)外用金口の智識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり其の器に非ずんば伝えず(第17世日精上人『家中抄中』/『富士宗学要集』第5巻216頁)
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ここでいう「甚深の血脈」とは「金口の智識なり」とあるように、これこそ日寛上人仰せの金口相承である。金口相承については「其の器に非ずんば伝えず」と断言されている以上、理境坊日義が継いだという「相承」と金口相承は別物であると考えるべきである。

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堀上人は「理鏡坊日義相承預りの事実」として、18世日盈上人が書き残した「寂日坊日義が血脈相承を預かり相伝をした」という文書を紹介して、15世日昌師の臨終に日就師が間に合わずに、理鏡坊日義が相承預かりをした事実について、「この点において血脈断絶法水壅塞の形ありといわばいえるが、相承の内容に立入りて見るとき、御相承は、殊に金口嫡々のは授受の型式作法に権威ありや、御当人に権威ありやという問題が起こるべきであろう。しかして法式と実人とは何れが主なりやということを決定してかかる時、若し実人に適確の権威あらば授受の作法はこれを結成するの型式に過ぎざるから、就師のやうな場合でも、血脈断絶法水壅塞の不都合は無いわけである。若し然らずして作法のみ大権威存在して実人は何人でも宜いということならば、この場合の如きは血脈断絶の悲事となるわけである。また作法にも実人にも相互に権威あり法人映発して法主の大器を作るという事ならば、この場合は少なくも法水一次枯渇の状を呈する不祥事となるであろう。」(血脈相承の断絶等に就いて史的考察及び辨蒙)と述べられています。(sf:1719)
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これは、第15世日昌上人が御遷化された際、第16世日就上人への御相承を理境坊日義師が預かったとの説があることについて、日亨上人(※御登座前)が、
●血脈断絶法水雍塞の形ありと云はゞ云へるが、相承の内容に立入りて見るとき、御相承は殊に金口嫡々のは授受の型式作法に権威ありや、御当人に権威ありやと云ふ問題が起るべきであらう、而して法式と実人とは何れが主なりやと云ふ事を決定してかゝる時、若し実人に適確の権威あらば授受の作法は此を結成するのに型式に過ぎざるから就師のやうな場合でも、血脈断絶法水雍塞の不都合は無い訳である。若し然らずして作法にのみ大権威存在して実人は何人でも宜いと云ふ事ならば、此場合の如きは血脈断絶の悲事となる訳である。又作法にも実人にも相互に権威あり法人映発して法主の大器を作ると云ふ事ならば、此場合は少くも法水一時枯渇の状を呈する不祥事となるであらう。(第59世日亨上人「史的考察及び弁蒙」『大日蓮』大正12年4月号16頁)
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と述べられた中にある。このお言葉の前提として、日昌上人は御遷化の15年も前に日就上人に法を内付されているのであり、日昌上人と日就上人の間に血脈断絶などということはありえない。その上でちなみに、御相承に関して、法式(授受の形式作法)と実人(御当人)のどちらが主であるかという、議論をなされたのである。つまり日亨上人が御相承において「実人に権威がある」と仰せられたのは、たとえ御相承の儀式が無い場合でも、内付によって御相承を受けられる方の境界に実人としての適確の権威が具わっており、血脈断絶などということはない、という意である。(『大白法』H16.6.16)

●私の未決定の史論を盲信して濫りに此から割出した御議論を為さらぬやうに願ひたい(第59世日亨上人「史的考察及び弁蒙」『大日蓮』大正12年4月号10頁)
●此は局外者の抽象的の議論である。直に宗門教権の大事を批判すべき標準にはせぬが宜い。(同16頁)
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つまり信仰的次元においては、御相承の「形式」が大事か「実人」が大事かなどということは、全く議論の余地はない。

―第67世日顕上人御指南/H4.8.28全国教師講習会―
 このお言葉の底意は、「形としてはそういう形式・作法の在り方があるから、そういう在り方が存在する例を考えるならば、そのような形式として存在することは結構である。しかし、それがなければ血脈が伝わらないとか、断絶したというようなことではない」という意味を、敢えて反問の形で言われるところにあるのです。しかし、そこのところを、「相承は御仏意の上に、形式の有無にかかわらず伝承されている」と、もっとはっきりと仰せになっていただければ、疑問を持つ者も、より少なかったと思います。
 それから、「御当人に権威ありや」。これは、権威といってはおかしいかも知れないがその承けたところの意義において、おのずから当人の命のなかに生ずるものがあるのです。
 小乗に無表色という語があります。小乗仏教の倶舎七十五法の十八界のうちの色・声・香・味・触・法の六境中、法境のなかの部分的内容としての無表色であります。この無表色において、ある善や悪の表業を受ければ受けただけの地水火風の色法が未来から来たって、その善、あるいは悪、あるいは無記の内容として身内に成するということがあります。まして、大乗仏教の真実・最高の教えの血脈をお承けするという上から考えれば、尊い業による結果が身に当たって生ずることも、当然といえば当然であります。要するに、「日蓮 日興」の御相伝を拝しても、本当の意味の唯我与我、また、さらに言うならば、授受感応における深いお心というものがあるのです。
 特に、重大な意味を持つ代々上人の血脈を譲るというような場合には、幼いから疑わしいとか、最後にお会いになっていないから変だとか、あるいはこの形式がないから違うなどというような、凡眼凡智で量れるものでは絶対にないという次第であります。
 私の時にも、血脈相承の儀式がなかったなどと言う者もありましたけれども、今、けっしてそのことを弁護するつもりはないのです。ただ、形だけのところを見て、「あれがあった、これがなかったと言う、その短絡的な考え方は、本宗の法脈伝持に関しては間違っておるということ、大聖人様からの御仏意による御指南、御相承というものは厳然と伝わるのであるということを、特に血脈という問題が色々と誤って喧伝されておる今だからこそ、皆さんに申し上げておきたいのであります。(『大日蓮』平成4年10月号39頁)


<要法寺出身御法主>
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当時の大石寺の人材不足の状況については、おそらく現在と同様なレベルだったのでしょう。他山から法主をスカウトせざるを得なかった訳ですから。邪宗門も人材枯渇が著しいですね(sf)
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 成人した方が要法寺から大石寺に登られたのは、第15世日昌上人と第16世日就上人の2人だけである。あとの方は幼少期から大石寺に登り、大石寺が人材育成された方。「人材不足」が原因でなかったことは明らかである。むしろ、大石寺側としては要法寺を教導して宗勢を拡大しようという意図もあったのではないか。そのように考えられる背景としては、当時の要法寺が大石寺を「本寺」と仰いでいたことが挙げられる。そのことは『富士門家中見聞』という名の書に、要法寺の高僧の名が列せられていることからも分かる。
 現に日精上人の時代には、信教の自由が十分認められていなかったにも拘わらず、多くの寺院が帰伏している。そのために還って、法詔寺のように、化儀を理解していない檀那との間に軋轢が生じた、という負の部分もあったようである。この辺の複雑な状況を理解せずに、残された僅かな史料の文面のみに捕われると、学会のように、多くの疑問や矛盾(学会の主張に反する疑問点や矛盾点)を棚上げしたまま、日精上人や大石寺を短絡的に誹謗することになる。

(前略)天正15(1587)年、大石寺では日院上人を嗣いだ14世日主上人と、要法寺では日辰の後を嗣いだ日賙との間で、通用の申し合わせが整いました。
 日主上人は同年5月8日、大石寺重宝であった日目上人真筆御本尊に、奥書を加えた上で要法寺に授与され、翌年、要法寺よりは日興上人の御本尊が大石寺に納められています(『富要』第8巻199頁)。
 こうした経緯の後に、日主上人の後嗣として15世日昌上人が大石寺に晋山されました。日昌上人は京都要法寺で出家の後、下総国飯高檀林で修学された方でした。それより以後、23世日啓上人まで9代にわたる法主上人は、要法寺本末を縁として出家された方で、およそ百年間にわたって、大石寺の法燈を嗣がれる時代が続きました。(『富士門流の歴史 重須篇』392頁)

●師弟和合して本末相承を継ぐ、冥慮に相叶う者か(日賙より日就上人への書状)
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師(日賙)と弟子(日就上人)が揃って、本寺(大石寺)と末寺(要法寺)それぞれの相承を承けることは、大聖人の冥慮に叶うことであると、祝福した内容です。(『富士門流の歴史 重須篇』393頁)当時の要法寺は、大石寺の末寺という感覚であったのだ。

●それから9代。9代ですけれども、それは始めのうちはね、要法寺で、相當でき上つた人がきたです。後にはね精師以後はですな、精師そのものも、でき上つてきたんじやないのです。若いとき、きたのです。そして大石寺にきて、江戸へ出て、そして、偉くなつた。精師以前の人はですね、大石寺にきて大きくなるんでなくて、むこうから大きくなつた成人した人がきたんです。 精師以後の人は、みんな、大石寺にきて大きくなつた。所化できたのが多いですね。ですから要法寺からきたといつても、たゞその、身體をもらつただけです。(第59世日亨上人『大白蓮華』S31.11/『地涌』第125号)
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9代の間は要法寺から来られた方が大石寺の法主となられた。しかし、最初のお二方(第15世日昌上人と第16世日就上人)以外は、幼少にして大石寺に登られ、大石寺において修行されたのである。そうであれば、出身は要法寺であっても実質は"大石寺が生み育てた法主"である。

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<『家中抄』と血脈>
7●此の日産湯相承を記録す、同十日には本尊七箇相決并に教化弘教七箇の決を記し給ふ、十一日に本因妙抄を日興に付与し給ふ、其の文に曰く又日文字の口伝産湯口決の二箇は両大師の玄旨にあり、本尊七箇口伝は七面決を表す、教化弘教七箇伝は弘通する者の大要なり、又此の血脈并びに本尊大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の禀承唯授一人血脈なり、相構へ相構へ秘す可し伝ふ可し云云。誠に日興は多聞の士、自然に仏法の深義を解了せる故に仏法の大海水、興師の心中に流入するにより斯の如き甚深の血脈を禀承し給ふ(第17世日精上人『家中抄上』/『富士宗学要集』第5巻154頁~)
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「産湯相承」「本尊七箇相決」「教化弘教七箇の決」「本因妙抄」が「甚深の血脈」であることが分かる。しかし、唯授一人の血脈相承は、これら相伝書のみではなく、金口相承こそが根幹なのである(下記11●~16●)。

8●亦天王鎮守の神(たましい)と申すは祖師御相伝の秘書当家代々の秘書なり、日興日目相続して房州妙本寺に之れ有るなり。常随給仕の功と云ひ問答第一と云ひ旁々の勲功により甚深の血脈禀承したまふ(第17世日精上人『家中抄中』/『富士宗学要集』第5巻185頁)
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ここでいう「甚深の血脈」とは「秘書」とあるように文書である。金口相承ではない。第59世日亨上人は、「今無し」(頭注)と仰せである。

9●大聖より禀承の一紙血脈を以って日目に授く其文に云く。(中略)右二通の御血脈等とは日蓮、日興、日目御相承にして御正筆房州妙本寺に之れ有り(第17世日精上人『家中抄中』/『富士宗学要集』第5巻186頁)
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ここでいう「相承」とは文書のことであり金口相承ではない。また、下記10●の「切紙」とも違うようである。日亨上人は「此の文今無し」(頭注)と仰せである。

10●当宗嫡々法門相承どもを日道に付嘱す、其の外高開両師よりの相伝の切紙等目録を以て日道に示す、其の目録に云く。(第17世日精上人『家中抄中』/『富士宗学要集』第5巻213頁)
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「当宗嫡々法門相承」とは別に「高開両師よりの相伝の切紙等」が存在する。

●当家甚深の相承の事。全く余仁の一言半句も申し聞く事之れ無く、唯貫主一人の外は知る能わざるなり。(中略)又本尊相伝、唯授一人の相承なるが故に、代々一人の外、書写すること之れ無し。(第17世日精上人『歴全』第2巻314頁/『大白法』H16.6.16)
11●法を日道に付す所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はゞ内用(証)外用金口の智識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり其の器に非ずんば伝えず(第17世日精上人『家中抄中』/『富士宗学要集』第5巻216頁)
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ここでいう「甚深の血脈」とは「金口の智識なり」とあるように、これこそ日寛上人仰せの金口相承である。

12●(※日行上人は)日道の付嘱を受く其の時本尊を日行に授与す其の端書に云く「暦応二大才巳卯年六月十五日、日道在判日行に之を授与す一が中の一弟子なり」(已上此の本尊当山に在なり)、
13●又興目両師に従って血脈を禀承する等を日行に伝授す(相伝切紙等其外相伝書籍等手取引様示給書物等森殿に之を預け置く趣行公自筆状に見たり往見)、
14●行公此の付嘱を受け大石寺に住持し・・・(第17世日精上人『家中抄下』/『富士宗学要集』第5巻250頁)
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「日道の付嘱を受く」とは金口の相承である。この付嘱に関連して「相伝切紙等其外相伝書籍等」「手取引様示給書物等」という書籍が存在し、「森殿に之を預け置く」とある。金口の相承ではない。このことは、この切紙について日精上人御自身が、「当宗嫡々法門相承」ではない、と仰せになっていることから明らか(上記10●)。

★日精上人は唯授一人金口の相承以外の相伝書を「血脈」と称し、さらに相伝書の授受を「相伝」「相承」と仰せである。

日精上人のいう「血脈」とは文書化されたものを含んでおり、必ずしも唯授一人金口相承のことではない。油(柚)野浄蓮が第8世日影上人または第9世日有上人に伝えたという「血脈」「相承」もまた金口の相承ではない、と考えるべきである。

★日精上人自身、金口相承の他に相伝書のあることを認められている。しかも金口相承については「其の器に非ずんば伝えず」(11●)と断言されている。このような日精上人が、金口相承が在家等に伝えられたり、途中で断絶したという意味の記録を掲載されるはずがない。


15●祖師より興師へ御付嘱亦是れ三大秘法なり。興師より目師へ御付嘱も亦是れなり。(中略)目師より代々今に於て、二十四代金口の相承と申して一器の水を一器にうつすが如く云々(第26世日寛上人『寿量品談義』/『富士宗学要集』第10巻131頁)

16●仮令(たとい)、広布の時といへども別付血脈相承なるものは他に披見せしむるものに非ず(第56世日応上人・『弁惑観心抄』212頁/『創価学会のいうことはこんなに間違っている』212頁)


<昔の学会指導>
◆法主位の継承、したがって法門深々の御相承はもったいなくも御本仏宗祖日蓮大聖人より御開山日興上人にたまわられて以来、清浄の法水連綿として現在64代に及び、この大事あるがゆえに、末法の一切衆生は本因下種仏法の大利益を受けることができるのであって、いつ、いかなるお方が御登座あられようとも、それはすべて御仏意によるゆえに、信徒たる者は、ひたすらけいけんなる信心をもってこれに従い、これをお迎え申し上げるのが当然なのである。(中略) 法位継承は手続きがいかにあろうと御仏意である以上は、信徒たる者は、これくらいの心構えをもって法を護るのが当然ではなかろうか(『聖教新聞』S31.1.29社説/『慧妙』H15.12.16)
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当時、御当職であられた64世日昇上人の御隠退の報に接した戸田会長の談話を受けて、『聖教新聞』が社説として報道した記事である。ここにも、日蓮正宗の血脈法水によって、本因下種仏法の大利益を受けることができること、また信徒として御相承をどのように拝するのか、という正しい姿勢が示されている。





『法主詐称』破折1(仮題)

―新興宗教・創価学会 めざすは会長絶対化―
―血脈誹謗 重ねる数多の大謗法―
―御法主上人猊下の御心知らぬ哀れな学会員―

(『大白法』H16.2.1)

 昨年3回にわたり掲載してきた座談会では、総監・藤本日潤御尊能化をはじめ御出席の御僧侶方に、池田創価学会及びその走狗・憂宗護法同盟が悪書『法主詐称』や「創価新報」などで行っている、御法主日顕上人猊下の血脈相承への誹謗、本門戒壇の大御本尊への誹謗等に対して完膚無きまでに破折していただき掲載しました。
 引き続き今回は、御歴代上人への誹謗等に対して、徹底的に破折していただきました。

座 談 会 出 席 者
日蓮正宗総監・常泉寺住職 藤本日潤御尊能化
宗務院庶務部長・法道院主管 早瀬日如御尊能化
大石寺主任理事・妙泉坊住職 八木日照御尊能化
大宣寺住職 菅野日龍御尊能化
宗務院庶務部副部長・妙國寺住職 阿部信彰御尊師


<「法主絶対論の大嘘」こそ邪説>
〈司会〉 『法主詐称』で創価学会や憂宗護法同盟は、「法主絶対論の大嘘」とか、「狂的な『法主賛美論』」などと、日蓮正宗の血脈法水を口を極めて誹謗していますが、日蓮正宗の教義は今も昔もまったく変わりはないですね。
〈阿部〉 もちろんです。彼らが「法主絶対論」だなどとして、『法主詐称』中に取り上げている宗門側の発言とは次のような文章です。
 「日蓮大聖人の仏法は、唯授一人法体別付の血脈相承をもって、現御法主上人が御所持あそばされることは周知のことであります。したがって、御法主上人御一人が、本門戒壇の大御本尊の御内証をお写しあそばされる権能をお持ちになるのであります」(大日蓮 562号)
 「三宝一体とは、まさに本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人が、その内証において、一体不二の尊体にましますということであります」(『能化文書』平成3年9月)
〈早瀬〉 このような内容について、「日顕(上人)本仏論」だとか、「狂った坊主の戯言」などと誹謗するとは、とんでもないことを言う連中だ。ここで述べられている法門が「日顕(上人)本仏論」などでないことは当然だよ。それよりも日顕上人猊下の御登座当時、池田大作は本宗の血脈法水についていろいろと尊崇する旨の発言をしていたね。
〈八木〉 そう。血脈相承を尊重した池田大作の発言は枚挙に暇がないが、例えば昭和57年7月24日には(第1回関東会研修)、
 「日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた。御本尊を御認めあそばすのは、御法主上人御一人であられる。(乃至)広宣流布といっても、御本尊の御認めがなければできない。われわれは、あくまでも総本山根本、御法主上人厳護の信心で進んでまいりたい」(「広布と人生を語る」第3巻256頁)
と、唯授一人の血脈こそ本宗の信仰の根幹であると述べている。その同じ日蓮正宗の血脈を、現在は「狂った坊主の戯言」というわけだから、自語相違、支離滅裂もいいところだね。彼らの言葉を借りれば、自らが狂うと、正当な法門が狂って見えるのだな。
〈藤本〉 というより、御本尊の御書写が血脈相承の上の唯授一人の権能にましますことは、この池田大作の発言からも、池田自身や創価学会、憂宗護法同盟の者たちは当然熟知しているわけだね。その御本尊に関する相承書の『御本尊七箇相承』には、御法主上人の御内証について、「代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典379頁)と定められていることを彼らが知らぬはずはない。とすれば大聖人の仏法の根幹である血脈相承の意義を判りきった上での悪質卑劣な誹謗と言うよりほかはないね。
〈阿部〉 その通りですね。彼らが日蓮正宗の血脈相承には外用と内証のあることを充分に承知していたことを証明する池田大作の発言があります。次に掲げる、昭和54年5月3日の第40回創価学会本部総会の折の講演です。
 「本宗における厳粛なる法水瀉瓶唯授一人の血脈は、法灯連綿と、代々の御法主上人に受け継がれて、今日に至っております。あくまでも、御本仏は、日蓮大聖人様であらせられ、唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべきなのであります」(聖教新聞 昭和54年5月4日付)
と述べています、
〈菅野〉 そうだったね。この時は御先師日達上人が御出席なされた最後の総会だった。日達上人が御臨席あそばされた創価学会本部総会という公式な場においての発言だけに、この池田大作の言葉には決定的な重い意味があるね。それは池田大作も、昭和52年路線の謗法を反省して、きちんと本宗の下種仏法の本義に基づき、これを尊重していくことを日達上人猊下にお誓い申し上げた言葉だったからだよ。
〈藤本〉 この折の池田講演により、池田大作と創価学会は本宗の正しい法義を遵守することを日達上人にお誓いしたわけだが、正にこの発言の通りだね。「本宗における厳粛なる法水瀉瓶唯授一人の血脈は、法灯連綿と、代々の御法主上人に受け継がれて、今日に至って」いるわけであり、今になって創価学会が御歴代の日精上人や日恭上人を誹謗することは本当に無慙(むざん)であり恥じ知らずと言うよりほかはないよ。日精上人や日恭上人がおられたからこそ、唯授一人の血脈が今日まで流れ通っていることを、かつては池田大作も正しく信解していたわけだからね。
〈八木〉 そうなんですね。法体相承の上からは、『御本尊七箇相承』の御文のように、御法主上人猊下の御内証を大聖人と拝すべきことは当然だし、そのことは池田大作もよく判っていたわけだ。
〈早瀬〉 ただし、宗門の甚深の法門の上からはただその一面だけではない。御法主日顕上人猊下も三宝の意義を正しく拝することが大切と御指南あそばされているように、本宗の下種三宝には、法体と住持、外用と内証など重々の意義がある。内証の上からは三宝は一体だが、外用の上からは御歴代上人はあくまでも住持の僧宝の御立場であられると拝することが正しい法門の道筋だね。
〈菅野〉 そして御歴代上人のお立場は、御本尊の御書写以外は、通常は外用の住持の、僧宝の御立場において大衆を導かれるわけだね。当然のことだが、歴代上人のお立場におかれては、敢えて御内証の面を強調される必要はないからね。

〈司会〉 『法主詐称』では、今回、宗門側は創価学会を破門した頃から、突如、内証の法門を強調しだしたと誹謗していますが。
〈藤本〉 そんなことはまったくないね。先ほどの池田大作の「御法主上人ご内証」という言葉もある通り、宗内僧俗の折々の発言や著述等において、血脈内証の法門が述べられることも珍しくはない。ただし、あの平成3年当時のように、『能化文書』をはじめとして、御法主上人猊下の御内証の面を宗門がこぞって強調した場合、それがいかなる目的であり、いかなる時であったかを正しく認識せしめる必要はあるよ。まさに今日の創価学会のような三宝破壊の仏敵が現れた時にこそ、下種三宝を厳護し奉り、もってその仏敵第六天の魔王の悪謀を断破する目的のために御法主上人の御内証が強調されるわけだからね。
〈阿部〉 彼らは、このような御法主上人の御内証に関する法門は、教学部の水島副部長や原田主任が画策したように書いていますが、御歴代上人についての外用と内証の法門なら、わざわざ教学部に依頼せずとも、少なくとも本宗教師なら誰でも領解していることですね。
〈八木〉 まったくだ。『法主詐称』では、御法主日顕上人猊下に対して、「低俗な邪教の教祖を連想させるような"日顕(上人)生き仏論"」だとか、「新興宗教の教祖」や「オカルト」だとか、まさに愚かな僻見のオンパレードだが、すべて的はずれの悪辣な誹謗に過ぎないことが明白だね。


<所化対象の講義への非常識な悪口>
〈司会〉 次に彼らは福田毅道師の行学講習会での講義中における、『百六箇抄』の「立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」の御文の解釈について、宗祖日蓮大聖人、第2祖日興上人等を迹とし、当代の日顕法主を本とする「顕本仏迹論」だったなどと誹謗していますが。
〈藤本〉 まったく曲げに曲げ、柄のないところに柄をすげだ解釈というほかはない。当然だが福田君か『百六箇抄』の本迹勝劣について、「日顕上人が本で日蓮大聖人が迹」などと言うはずはないね。
〈阿部〉 その通りてす。宗門として行学講習生に対して行っだ調査では、「そのような発言はなかった」ことや、授業の結果として、本迹に関して、講習生は「そのような認識は持たなかった」との回答を得ています。
〈早瀬〉 それと、この件に関しては福田君本人からも宗務院へ報告書が提出されているはずだが。
〈阿部〉 はい。福田師が教学部へ提出した報告書において同師は、創価学会が言うような内容の講義をしたことはないと次のように明確に否定しています。
 「私は『大聖人が迹仏である』と講習生に向かって話した覚えはありません(中略)三宝と血脈について説明したとき、『我々の信心の上から、御歴代の御法主上人猊下は内証においては大聖人と一体不二と拝すべき』(中略)ということは言いました。そして、百六箇抄の『立つ浪・吹く風・・・』の文はそのことを示唆していると私は思いますと言いました」(要点抜書)
〈司会〉 『法主詐称』では、かつて池田大作も述べている御内証の法門を福田毅道師が述べたことに対し、「顕本仏迹論」などと誹謗するわけですが、それこそ彼らが本宗の信仰を失った証拠ですね。
〈藤本〉 たしかに、「立つ浪・吹く風」が現在の瞬間を本としている意義は当然のことだね。なぜなら、今のこの瞬間にこそ、御本仏日蓮大聖人の御法魂は、人法一箇の本門戒壇の大御本尊としてましますわけなのだからね。
〈八木〉 福田君はそのことは無論、自明の理とした上で、三宝一体の御内証の上から、御当代日顕上人猊下の仰せは大聖人様のお心を拝して御指南せられていることを述べたわけだ。「顕本仏迹論」などでないことは明白だね。
〈阿部〉 その通りです。福田師の発言は『百六箇抄』を講義することが目的ではなく、当該の文を用いて三宝一体を説明することにあったわけです。ただ福田師は、この授業の折の、総別の言葉の使い方に関しては、誤解を与える点があったと訂正しています。
〈菅野〉 そういう意味では、講義中に多少の誤りがあったのかもしれないが、所化の高校3年生らを対象とした行学講習会の講義において少しの誤りがあったとしても、本人も釈明し訂正すべきは訂正していることだし、福田師の講義をおおげさに「宗門公認の教説」だなどとする創価学会の言い分は、まったく噴飯ものの言いがかりにすぎないね。

〈司会〉 次に本門戒壇の大御本尊と血脈法水を信仰の根幹とする本宗の教義に対して、彼らは幼稚な権威主義、形式主義であり、あの水戸黄門ばりの「印籠教学」などと誹謗しておりますが。
〈藤本〉 何が「印籠教学」だ。本門戒壇の大御本尊と血脈法水は日蓮正宗の信仰の根幹です。その根幹に対して信仰を失い、卑劣な誹謗を繰り返しているのが彼らの情けない姿だね。
〈早瀬〉 宗教は理論や理屈ではなく信仰が根本でなければならないと思うが。我利我利の利己主義で信仰を失くした彼らの言い分が、極めて低次元の誹謗中傷になっていることは当然とは言いながら、浅ましい限りだよ。


<理不尽極まる宗規改正への邪難>
〈司会〉 また『法主詐称』では、日蓮正宗の宗規改正に対して、御法主日頭上人猊下の代に多いのは法主の権威の絶対化だとし、恐怖政治だの時代錯誤の独裁体制などと、これでもかと誹謗しておりますが。
〈藤本〉 宗規の改正は日蓮正宗が大聖人様の御法を末代まで正しく伝え、弘宣していくために、必要に応じて改正が行われるわけです。宗門全教師から選出された宗会議員による、厳正な審議を経て決定されるものであって、これを時代錯誤の独裁体制などと非難することは、まさに日蓮正宗宗会議員への冒涜(ぼうとく)と言うほかはないね。
〈阿部〉 宗制宗規の改正を改悪というのは、彼らが自分に不利だからというだけの勝手な理屈でしょうね。
〈早瀬〉 平成2年以後の宗規改正は、結果的には創価学会の宗門に対する不当な介入と干渉を防ぐことになったが、要は宗規改正の目的は大聖人様の御法をお護りするため以外にはないのだからね。
〈菅野〉 それにより、自らの宗門支配の野望が砕かれたことが、彼らにとって、悔しくて仕方がないための悪書だろうな。


<天台教学を曲げた筋違いな讒言(ざんげん)>
〈司会〉 次に『法主詐称』では、日蓮正宗が「法主絶対」だとし、その「絶対」の語を取り上げて、天台教義中の「絶待(ぜったい)」と関連づけて誹謗しているようですが。
〈藤本〉 まず「法主絶対」なんていうことは宗門では一切言っていない。だから、彼らの言い分はまったく意味のない言いがかりにすぎないね。
〈八木〉 そうですね。『法主詐称』では、妙楽の『釈籤(しゃくせん)』中の絶待開会の文として、「相待を以て示すべからず、絶待を以て示すべからず」等を挙げて、徹底した否定の後の「大肯定」が「仏法の『絶待観』の基本」だなどと述べている。
〈早瀬〉 そしてそれに対して、自己否定もせず、他の一切を否定する日蓮正宗の「法主絶対」は独善であり、無窮(むきゅう)に流浪し戯論(けろん)に堕すものと誹謗するわけだ。
〈菅野〉 ここで彼らの言う「大肯定」とは、邪宗との協調路線を歩む最近の創価学会の立場を擁護しているつもりだろうね。しかし、大聖人様は、法華経の絶待開会とは、一切の諸法をただ妙法一味に開く意味であり、開会の意味を取り違えて、念仏や真言の受持を許した天台宗の開会を悪として厳しく指弾あそばされているはずだね。
〈藤本〉 そう。末法においては人法一箇の本門戒壇の大御本尊と血脈法水、すなわち下種三宝のところに真の絶待妙が存するわけで、その日蓮正宗の教義の上から他の一切の宗派を謗法と断ずることは、独善でも戯論でもないよ。真実の絶待妙の上からの謗法破折となるわけだね。
〈阿部〉 要するに創価学会のような謗法容認のあり方は先程の天台宗の悪開会と同じで、大聖人様が厳しく破折されるところと言うべきですね。
一同 その通りだね。

〈司会〉 また続けて彼らは、御法主日顕上人猊下が平成3年1月に、
 「給句は一人になて日本国に流浪すべきみ(身)にて候」(御書730頁)
の御文を述べられた折のことにつき、「敗北の絶句」だなどと誹謗しておりますが。
〈藤本〉 あの折は正月の初登山で私も同席していましたが、「敗北の絶句」なんてとんでもない。長い年月、広宣流布をめざして折伏に励んできた多くの日蓮正宗信徒が、創価学会の虜(とりこ)になって不幸の道を歩むことを憐(あわ)れまれ、また身延を離山あそばされた日興上人の無念のお心を偲ばれてのお気持ちと拝したね。
〈阿部〉 『法主詐称』では、御法主上人猊下が腹心の部下に、「宗史から抹殺されるかもしれぬ」と語ったとか、その恐怖を払いのけるために予防線を張っているなどと虚言を弄して誹謗していますが、不自惜身命に徹された猊下ですから、仏法のためであれば、たとえ我が身がどうなろうと、そんなことに、くよくよ気苦労されるお方では決してありません。
〈早瀬〉 御法主上人猊下の深い覚悟のお言葉に対して、「日顕の落涙こそ・・・敗北の絶句」とは、彼らの境界の低さを物語って余りあるね。
〈八木〉 あの御法主上人のお言葉で宗内の皆がどれほど奮い立ったか。その後のわずかな離脱僧の裏切りを除き、僧俗が一丸となり、平成2年の3万総会から平成14年の宗旨建立750年・法華講30万総登山へと大発展した姿を見れば明らかだね。
〈菅野〉 『法主詐称』では、「宗門内で企図した『法主絶対化』の路線」などと言っているが、まったくのまやかしだな。日蓮正宗は「法主絶対化」ではなく、創価学会の押しつけの「会長絶対化」による「僧侶不用路線」を廃止して、僧侶と法華講員による真の僧俗一致の広宣流布に向けて前進を開始したわけだ。本当に有り難いことだね。


<日精上人への不知恩な誹謗>
〈司会〉 次に『法主詐称』ては、宗門の宗史書である『家中抄』や『続家中抄』を取り上げて、種々誹謗していますが。
〈八木〉 その第一が、総本山17世日精上人に対する誹謗だね。たしか、日精上人が敬台院との確執により、大石寺から江戸へ移り、下谷に常在寺を再建して住んだため、大石寺が無住になったとの批判だったかな。
〈早瀬〉 しかし、この『法主詐称』の批判には確実な根拠があるわけではないね。おそらく根拠は『続家中抄』の「日舜上人伝」あたりだと思われるが、『家中抄』や『続家中抄』は、当時の記録がたとえ不完全不正確であったとしても、それらを参考史料として用いざるを得ない状況の中で著されたと思われるからね。
〈阿部〉 『法主詐称』における創価学会側の批判は、その辺をよく調べないで、両伝記を受け売りしたに過ぎないわけですね。
〈藤本〉 そうだね、『法主詐称』では、日精上人が寛永14年の御登座後、遠からずして敬台院との間に確執を生み、大石寺を逃れて江戸に移り、常在寺を再建したと書いているが、精師の常在寺再建はそんな理由ではないと思うね。
〈菅野〉 そうですね。精師が常在寺を再建されたのは御登座翌年の寛永15年だが、この寛永15年には、大石寺は敬台院から七百数十両という多額の金子の御供養を受けており、またこの年の精師の江戸城への年賀には、敬台院の推挙で、輿(こし)による登城も許されている。常在寺は両者のそういう良好な関係の年に再建されたわけだから、敬台院と仲違(たが)いして、大石寺を逃げ出して建てたなどということは有り得ないね。
〈八木〉 日精上人は常在寺の建立により江戸の弘教を志されたものと思う。常在寺を拠点とする折伏弘教により、この頃、常泉寺本末を改宗せしめられたこともあるし、そういう点から考えれば、関東方面の弘教のために総本山をある程度留守にされたことはあったかもしれないが、少なくとも敬台院との不仲による大石寺退出が常在寺建立の動機だというのはたしかに違うと思うね。
〈阿部〉 また後年の常在寺での日精上人の御説法を聴聞して26世日寛上人も、出家得度をされました。その点を考えれば、日精上人の常在寺再建と江戸弘教がなければ、伊藤市之進であられた日寛上人に、自らの菩提寺である常在寺を紹介したある旗本の門番佐兵衛の日蓮正宗入信もなく、また伊藤市之進自身の得度もなかったことになります。ですから、日寛上人にとって日精上人は仏法上の師であり、かつ恩人なわけです。後代の私たちも、寛尊の恩を報ずべきことは当然ですが、同時に、日精上人の恩も当然報ずべきではないでしょうか。日精上人おられてこその日寛上人なのですから。それを日寛上人だけを讃えて、日精上人を徹底して誹謗する創価学会の考えは、かえって日寛上人のお心を無視し愚弄するものであり、また仏法の因縁も無視した恩知らずの外道の考えと言うべきですね。
〈早瀬〉 それはたしかにそうだね。日寛上人は『三宝抄』で、日興上人を下種の僧宝と仰せられた後に、爾来日目日道代々咸(ことごと)く是れ僧宝なり」と仰せだ。「代々咸く」の中には当然、17世の日精上人や、要法寺から登られた御法主上人も含まれている。創価学会のように日精上人を歴代から除けなどとは、どこにも仰せではないからね。
〈菅野〉 堀上人にも精師の事跡について、批判的な記述はおありになるが、創価学会のように除歴しろなどという不知恩なことは一切仰せではない。それどころか当然日精上人を御歴代上人と拝しておられるからね。
〈藤本〉 要するに創価学会が日精上人を誹謗することは越権もいいところであり、一体、何様のつもりだということになるね。
一同 まったくですね。


<血脈相承への卑劣な悪言>
〈司会〉 次に『法主詐称』では、12世の日鎮上人に対して、14歳で御登座の若年法主だと誹謗していますが。
〈藤本〉 これも『久保川論文の妄説を破す』の中で既に破折してあることだね。
〈八木〉 そうですね。日鎮上人は14歳で日有上人から御相承を受けられたわけだが、法体の御相承については、年齢のお若いことは何も問題ではないし、御法門についても、よく少年の神童ぶりがニュースの紙面を賑わす例もあるように、優れた知性と能力をお持ちであられたことを否定はできない。まして当時は南条日住等の補佐役もいたことだし、何よりも日鎮上人はその後45年もの長きに亘り、宗門を董(とう)されたことが、お若い頃から御法主上人とされての優れた器の御方であられたことを雄弁に証明していると思うね。

〈司会〉 さらに『法主詐称』は日主上人から日昌上人への御相承について、代官の寂日坊への「死活相承」の話があったとして、本宗の血脈相承を馬鹿にしていますが。
〈藤本〉 これは取るに足りないまったくの誤伝です。日昌上人のお筆による、日主上人から日昌上人への御相承が厳然と行われたことを証明する確実な史料が、現に小金井蓮行寺に存在していることを日亨上人が仰せられているね。
〈阿部〉 そんな重要なことは、創価学会や憂宗護法同盟側も判りきっているはずですね。それなのにわざわざ「死活相承」などと取り上げて誹謗に使用するとは、まったく卑劣極まりないですね。

〈司会〉 また『法主詐称』では、御当代日顕上人猊下のお話を「夢相承」などと言って誹謗していますが。
〈八木〉 これなどもまったくの言いがかりに過きません。なぜなら御先師日達上人は夢の中で御相承されたわけではない。昭和53年4月15日、厳然と総本山で御当代日顕上人に法を内付あそばされたわけだからね。
〈早瀬〉 日顕上人がなせ夢の話をなされたかと言うと、法界には不思議な御仏智の用きがあることの一例として、教学部長の任命をお受けになられた折の不思議な夢についてお述べになられただけで、とりわけ問題とすべきことなど何もないね。
〈阿部〉 夢の話をすることがいけないなら、創価学会は『産湯相承事』の霊夢も否定するんでしょうか。法界の不思議を否定するとは、『法主詐称』執筆者たちの考えは、当然ながら信仰者のものではなく、唯物論者そのものですね。


<日亨上人を愚弄する創価学会の言い分>
〈司会〉 次に『法主詐称』では、8世の日影上人が御遷化に際して適当な人物がいないため、在家の柚野浄蓮なる者に相承したとし、さらに56世日応上人がこれに関して、在家相承でも何ら問題ないとしているなどと誹謗していますが。
〈八木〉 まず日影上人から日有上人への御相承だが、記録が存在しないとはいえ、日影上人が御遷化あそばされた応永26年8月のわずか8ヵ月後、翌27年4月に日有上人が脇書きをなさった御本尊が存するのだから、日影上人から日有上人へ御相承があったとみて差し支えないと思うが。
〈菅野〉 その通りで、日亨上人もその御本尊の脇書きに「大伴浄蓮」なる名が見えることにより、後世に「柚野浄蓮へ相承」云々の伝説となったのであろうと推測されているね。
〈阿部〉 創価学会や憂宗護法同盟は、それが判りきっていて誹謗に用いるとは、日亨上人を愚弄していると言うほかないですね。
〈早瀬〉 また日応上人の御指南についても、これは万々が一、柚野浄蓮への御相承ということが仮にあったとしても、それで本宗の血脈相承が途絶えたことにはならないということを強調されたものと拝すべきだね。特に創価学会が鬼の首でも取ったかのように「日応上人が血脈は在家に相承してもよいと言った」と言うのけまったくの誤解だよ。たしかに相承すべき相手がなければ、俗男俗女であってもよいと述べられ、柚野浄蓮は白衣(在家)であったとされている。それは何としても日蓮正宗の血脈法水を絶やしてはならぬが故の仰せだが、ただし、もし在家の浄蓮が本当に相承を受けるとすれば、それは当然出家した後でなければならぬとの意味を、「浄蓮の新発意」とのお言葉で示されているんだよ。要するに緊急やむを得ぬ場合は、信心のある者を出家せしめてでも、血脈相承を継がせなければならないとの意味であり、絶対に日蓮正宗の血脈法水が途絶えることはないことを仰せられた御指南と拝すべきことは言うまでもないね。

〈司会〉 次に『法主詐称』は、52世日霑上人の3度の御登座について、大石寺に権力争いがあった証拠などと繰り返し誹謗していますが。
〈藤本〉 まったく邪推もいいところだと思うね。権力争いの中にいる人間は、世の中のすべてが権力争いのように見えるのだろう。日蓮正宗の御歴代上人は代々順序乱れずに血脈を承継あそばされることが理想だが、御歴代上人と雖も生身のお身体であられるし、さらに様々な事情もあられるのだから、止むを得ない緊急の場合には、御先師に再度、再々度御登座をいただくことも当然あるわけだよ。
〈菅野〉 その通りですね。日蓮正宗にとって何よりも大切なことは、血脈不断と広宣流布へ向けての宗勢の興隆にあるわけだから、その上から、御隠尊御当代了解のもとに、宗内の願いを受け再住、乃至再々住なされることがあっても何も不思議ではないね。
〈阿部〉 御高徳な日霑上人が、仏法興隆のため、宗内の求めに応じてやむを得ず再登座あそばされたことを、権力争いなどと、まったく許せぬ誹謗です。


<近世の御法主上人に対する無慙(むざん)な悪口雑言>
〈司会〉 『法主詐称』では、58世日柱上人の御退座に関して、60世日開上人、61世日隆上人を悪し様に誹謗しておりますが。
〈藤本〉 日柱上人の御退座の件は、これまでも創価学会や離脱僧らが、さんざん宗門に対する誹謗の材料として取り上げてきたことです。しかしこの件の真実は、日蓮正宗の血脈相承が清浄であることを証明しているのであって、彼らの悪口は上辺の姿だけを取り上げ、それを曲げて誹謗したものと言うべきだね。
〈早瀬〉 その通りですね。当時のことについては御法主日顕上人猊下より、平成4年の「全国教師講習会」において、
 「衆義が色々と出て、それを日柱上人が深くお考えあそばされた上で、ここは私が退いたほうが御法のためになるとの、自らの深い御思慮の上からの決断であったと拝するのであります」(大日蓮 560号)
と御教示賜っているように、血脈御所持の御立場として、御自らの御判断をもって御隠尊あそばされたのだから、けっして本宗の血脈の尊厳が損なわれたわけではないね。
〈阿部〉 歴史の進歩の上から見ますと、当時の日本は近代民主主義の濫觴(らんしょう)期で、未だ未熟な面があり、それが不消化を起こした不幸な例が宗門における日柱上人の御退座問題ではなかったかと思いますが。
〈八木〉 世法的にはそう見えるかもしれないね。しかし仏法から言えば、日興上人が御遺誡あそばされる「衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事」の意義の上からも、先ほどの御法主日顕上人猊下の御指南の通り、日柱上人は衆義の内容をよくよく思惟あそばされた上で、大聖人様の御法に照らし、また宗門のために、最善の方途としてその衆義を用いられたというべきではないかな。
〈菅野〉 そしてその結果、御退座を決意あそばされた上から、日柱上人は57世日正上人からお受けした血脈を、粛然と日亨上人に対して相承あそばされたわけです。その柱師のお心を拝すると、本当に有り難い。結局は日柱上人の御仏智を深く拝された大きなお心により尊い血脈法水が護られたわけだね。

〈司会〉 それに対し、『法主詐称』では、その日柱上人をはじめ、当時の宗門の大部分の僧侶の代表として60世日開上人を黒幕などと悪し様に誹謗しておりますが。
〈藤本〉 要するに彼らは日蓮正宗の血脈法水を破壊することが目的だから、そのためにはすべてを誹謗するわけです。日柱上人に対しても「評判の悪い法主」などと悪口の言い放題だね。しかし、上人は宗学においても他の学問においても傑出しておられたと伝えられており、宗内の皆が、今日まで日柱上人の尊いお心をけっして忘れていないことは、剛直な上人のお書きものが現在も歴史のある本宗の寺院に珍重されていることからも判るね。
〈早瀬〉 また日開上人が日柱上人御退座の策謀の黒幕だったなどとはまったくでたらめだね。たしかそんな策謀を本宗に反逆したある僧侶が目論んだことがあったとは聞いているが、日開上人がそんな策謀をなさるお方でないことは宗内に周知の事実だよ。
〈八木〉 そう。御先師日達上人も日開上人を「上人は資性篤実で、謹厳至誠の方」と追憶しておられるし、また日達上人が監修あそばされた日蓮正宗布教会編の『悪書板本尊偽作論を粉砕す』の中にも、「日開上人は性来非常に謙譲な御方であって、むしろ謙譲過ぎられると一般から言われていた方である」との記述があるね。創価学会が「天魔」などと口を極めて誹謗するのは、日開上人が御当代日顕上人猊下の実父であられること以外に何も理由はない。日顕上人への憎悪が日開上人へも向けられているわけだね。本当に許されないことだ。

〈司会〉 次に『法主詐称』では61世の日隆上人に対してもひどい悪口を並べていますが。
〈阿部〉 この日隆上人への悪口もまた、本当に許せない誹謗ですね。御当代日顕上人猊下には創価学会や自称正信会、顕正会などの日蓮正宗に反逆した異流義の者共から事実無根の誹謗を限りなく受けておられますが、日隆上人の場合も同様な状況にあったのでしょうか。
〈菅野〉 そうだね。日隆上人というお方は、かなり闊達な御性格であられ、56世日応上人の御信頼を受けて種々宗務行政にも携わられ、辣腕を振るわれたと聞くから、かなりの毀誉褒貶(きよほうへん)を受けられたようだ。
〈藤本〉 相手を貶(おとし)めるにはスキャンダルをでっちあげることが一番効果的なわけだからね。御当代日顕上人猊下に対する異流義の者たちの誹謗もまったく同様だが、要するに正法に敵対する者共は、卑劣な手段を用いて日蓮正宗にダメージを与えようと画策するわけだ。日隆上人も新聞記事などでそのような卑怯なスキャンダル攻撃をお受けになられたのだね。
〈八木〉 先に掲げた『悪書板本尊偽作論を粉砕す』の中には、この日隆上人誹謗記事の件についても、まさに隆師を葬るための誹毀讒謗を受けられたものであり、やがてそれが判明するであろうと述べられています。

〈司会〉 これらのことが判っていながら、御歴代上人を悪し様に罵る創価学会や憂宗護法同盟の者たちは、まさしく悪逆忘恩の徒輩と言うほかありませんね。





『法主詐称』破折2(仮題)

―創価学会・憂宗護法同盟を破折する―
―御相承の本義をねじ曲げる創価学会―
―不遜極まる血脈軽視の大謗法発言―

(『大白法』H16.3.1)

 昨年の本紙10月1日(630)号を皮切りに、これまで4回にわたって掲載してきた当座談会では、総監・藤本日潤御尊能化をはじめとする御僧侶方に御出席をいただき、創価学会・憂宗護法同盟による血脈相承への疑難・誹謗等に対して徹底的に破折していただきました。
 そして第5回の今回も引き続き、最終回として彼らの悪書『法主詐称』等における邪難を、完膚無きまでに徹底的に破折していただきましたので掲載いたします。

座 談 会 出 席 者
日蓮正宗総監・常泉寺住職 藤本日潤御尊能化
宗務院庶務部長・法道院主管 早瀬日如御尊能化
大石寺主任理事・妙泉坊住職 八木日照御尊能化
大宣寺住職 菅野日龍御尊能化
宗務院庶務部副部長・妙國寺住職 阿部信彰御尊師


<唯授一人の血脈相承への妄言>
〈司会〉 『法主詐称』では「唯授一人の血脈は、それを継承する法主一人の力、働きで維持厳護されてきたものではない」とか、「法主と当時の大衆(僧俗)が、ある時はせめぎ合い、ある時は補い合い、共同の連関作業として『唯授一人の血脈』を成立させてきた」などと述べておりますが。
〈八木〉 そのようなことは改めて言うまでもない、当然のことです。「せめぎ合い」などという彼らの言葉は誤りだが、仏法には師資という言葉がある通り、資には広く門下の大衆も含まれる。弟子である僧俗が、師の御法主上人をお資け申し上げ、僧俗異体同心して広宣流布・令法久住をめざすことが宗門本来の在り方なのだからね。
〈藤本〉 その通りだが、だからといって、創価学会一味のように、師の立場にあられる御法主上人と弟子の僧俗との関係を対等のように考えるのは不遜極まりないよ。日興上人が「血脈の次第 日蓮日興」の御相伝の上から、後代の門家一同に「極理を師伝し」と御遺誡せられる通り、大聖人の仏法の極理を師伝あそばされるお方はあくまでも唯授一人の御法主上人にあらせられるわけだからね。
〈阿部〉 特に彼らが現宗門に対して、「あらゆる時代を通じて実在した無数の相互の力関係を見捨て、切り捨ててしまった」などと、まるで宗門が過去の大衆(僧俗)を無慈悲にも見捨てたように非難することは、まったく道理にも史実にも合わない、でまかせの妄言ですね。
〈早瀬〉 その通りだよ。宗門は御法主日顕上人猊下の御指南のもと、大石寺開創700年から12年間の僧俗一致の精進により、宗旨建立750年法華講30万総登山を見事に達成することができたが、この広宣流布大前進の功績は、悠久750年の歴史を築いてきた日蓮正宗僧俗全員に帰することは言うまでもないね。むしろ宗門は過去の僧俗の功績を最大に顕彰していることになるわけだよ。彼らの恨みがましい「切り捨てた」との文言が、自分たち創価学会が破門されたことを指すのなら、これは日興上人の身延離山の御精神からも切り捨てられて当然だ。謗法厳誡正法護持に、末法万年の一切衆生の成仏がかかっているわけだからね。
〈菅野〉 それに関連することだけれども、戦後の宗門において、第2代会長・戸田城聖氏の指揮のもとに、創価学会が広宣流布に大きく貢献したことは否定できないが、その戸田会長は岡山妙霑寺の入仏落慶法要の折、総本山65世日淳上人に対して、「将来、もし学会が大きくなって、宗門に圧力をかけたり、あるいは内政干渉をするようなことがあったら、いつでも解散をお命じください」と申し上げている。この戸田会長の言からすれば、あの昭和52年度路線の謗法逸脱についての御先師日達上人に対するお詫びを無慙にも反故にし、その上、あろうことか御当代日顕上人猊下への血脈相承を否定して、下種三宝を破壊せんとした池田創価学会は自ら解散すべきであり、解散しないのだから破門されて当然だね。
〈八木〉 それと、宗門には創価学会が誹謗するような法主絶対などということはないし、御当代日顕上人猊下を現人神のように敬っているとか、宗内の僧侶が御法主上人の威圧を恐れ、盲目的に恭順の姿を装っているなどという批判も彼らが創作した大嘘だね。宗門は御法主上人猊下の御指南のもと僧俗一致、勇気凛々と「『立正安国論』正義顕揚750年」の佳節をめざして大前進していることが、顛倒した彼らには見えないのか、あるいは見えても悔しくて見えないふりをしているんだろうな。
〈阿部〉 次に『法主詐称』では、堀日亨上人が「血脈相承の断絶等に就いて史的考察及び弁蒙」(大正12年)の中で、「『信仰の対象』と『尊厳の対象』とを明確に区別されている」として、現在の宗門があたかもこれを混同しているかのように誹謗し、「『仏法と御本尊に対する信仰』と、『法主に対する尊厳』、この2つは混同してはならない」などと述べています。日亨上人の御文にはそのような文言は見当たりませんけれども、与えて論じても、宗門にそのような混同などありませんね。
〈藤本〉 言うまでもないね。前にも取り上げたが、池田大作の「あくまでも、御本仏は、日蓮大聖人様であらせられ、唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべきなのであります」(『聖教新聞』昭和54年5月4日付)との言葉の通りだよ。御歴代上人を単に「尊厳の対象」とするのは、歴代の御法主上人の僧宝としての外用のお立場を意味するものだな。それに対して、御本尊の法体の血脈相承を受けられた上での御法主上人の御内証の辺は三宝一体であり「信仰の対象」に含まれることは当然だよ。その辺の法門の立て分けが理解できないんだな。不信心の彼らには。
〈八木〉 御法主日顕上人猊下を「狂乱」などと、とことん罵詈讒謗する悩乱した連中ですから、その辺の甚深の法門を領解することは土台無理でしょうね。彼らは宗門が御法主上人の御指南のもと、一糸乱れず僧俗一致、広宣流布に邁進している状況が、悔しくて悔しくて仕方がないんだろうな。自業自得とはいえ哀れな者たちだよ。

〈司会〉 次に彼らは「血脈相承の本義」などと掲げて、日亨上人が血脈相承について何か問題を提起されたように述べていますが。
〈早瀬〉 彼らが言う日亨上人の御指南とは、先程話に出た「血脈相承の断絶等に就いて史的考察及び弁蒙」のことだね。しかし、日亨上人は決して血脈相承について問題があるなどとはされていない。むしろ逆にいろいろな考え方ができると挙げられた上で、それらは局外者の抽象的な議論であり、宗門教権の大事を批判すべき基準にしてはならないと制御されていたと思うよ。
〈菅野〉 たしかに日亨上人はその御指南の中で、15世日昌上人から16世日就上人への御相承についての例を考察されています。これは就師は昌師の御臨終に間に合わず、御相承の儀式は行われなかったが、昌師から就師への御相承は既に20年以上前の慶長12年に決められたことであり、以後就師は何度も大石寺へ登ったとされ、かかる法の内付の意義の上から、日亨上人は就師を「適確の権威」ある「実人」と呼ばれたものだね。そして次に御相承の儀式を法式と呼ばれ、法式は単なる形式に過ぎないのだから、昌師から就師への内付による御相承は、相承の儀式はなかったとはいえ血脈断絶にはならないとされているね。
〈八木〉 そう。日亨上人は、そこまで周到に血脈相承の意義を論証なされた上で、「作法にのみ大権威存在して実人は何人でも宜いと云ふ事ならば」と述べられ、御相承の儀式にのみ権威があるとするのなら昌師から就師への場合は血脈断絶になるとされ、そしてまた、血脈相承が、「適格の権威ある実人」と「御相承の儀式」の両方を不可欠とするものなら、昌師から就師への場合は法水が一時枯渇したことになるとも言われる。そして、その上で、このように考えること自体、局外者の議論、すなわち信仰のない外部の者の議論であり、宗門の教義の根本に対する批判に用いてはならぬとされているわけだね。
〈阿部〉 ということは、日亨上人は、本宗の血脈相承の根本的な要件は「適格の権威ある実人」にある、すなわち御先師からの実質的な付法こそが血脈相承の真義であると考えておられたことが明白ですね。
〈藤本〉 『法主詐称』では「嘘をついて登座した日顕は、その出発点からして『嘘人』である」などとし、信・行・学を怠れば、法主といえども「実人」から「嘘人」に転落するなどとして、御法主日顕上人猊下を誹毀讒謗しているようだが、御先師日達上人による御当代日顕上人への法の内付が厳然たる事実であることは、御法主上人の御指南はもとより、これまでに様々な立場の宗門の僧侶が証明しているし、さらには創価学会池田大作の御法主日顕上人に対しての10年間に及ぶ無数の尊重讃歎・信伏随従の言葉もこれを裏付けているね。したがって、日顕上人はまさに日亨上人仰せの「適格の権威ある実人」であられるわけだし、信・行・学の観点からも、彼らの言う「嘘人」などではなく、宗内随一の「実人」であられることは言うまでもないね。


<日亨上人の血脈観への冒涜>
〈司会〉 『法主詐称』ではさらに、日亨上人が昭和26年に身近にいた僧侶に「柱師が知っておられるほどの相承は、ワシはすでに知っておる。何も3千円で相承をわざわざ買う必要などない、だから3千円の相承はワシには必要ないと突っぱねた」と発言されたなどとしていますが。
〈八木〉 謹厳な日亨上人が、そのような不謹慎極まる発言をされるはずはないね。この連中は日亨上人が御存命でないのをいいことに何でも言いたい放題だね。もし日亨上人が言われたとすれば、「宗門として3千円を日柱上人に差し上げる件は、あくまで御隠居料としてであって、御相承に対する対価などではない」という意味ではなかったのかな。
〈司会〉 そう思います。大正15年3月8日の日柱上人から日亨上人への御相承の儀式は、大石寺客殿において厳粛に執り行われたことが記録にも明らかです。
〈阿部〉 さらに『法主詐称』では、日蓮正宗の血脈相承を誹謗して、日柱上人は堀上人に伝えるべきものは何もなかったとか、同じく昭和26年の冬に、日亨上人が日柱上人を「信仰もなく学も行もない、親分・子分の関係を強いているヤクザの貫首」と批判したとか述べていますが。
〈菅野〉 この発言もまったく日亨上人の御言葉とは考えられないね。それというのは、日亨上人は昭和2年11月20日に宗内僧俗に対し、管長辞職の経緯につき告白されているが、その中で、日柱上人については、「大正4年に日柱師を学頭に推挙するの主動者となりてより同12年に58世の猊座に上らるまで直接に間接に力めて障碍なからしむるやうにした」と述べられているからだよ。この御言葉は日亨上人の日柱上人に対する信頼と評価を示していることは当然だよ。もし日柱上人が本当に「信仰もなく学も行もない、親分・子分の関係を強いているヤクザの貫首」のような方であったのならば、日亨上人ほどの正義感の強いお方が、自ら中心となって日柱上人を学頭に推挙されたり、さらにそれだけではなく、種々助力なさるはずなどないではないか。
〈阿部〉 『法主詐称』で創価学会側が述べている日柱上人に対する日亨上人の激烈な悪口が、まったく事実と異なるでっち上げであることがよく判りました。両上人に対して本当に恥知らずな無慙なことを平気で行う連中ですね。

〈司会〉 『法主詐称』はさらに日亨上人が51世日英上人の言葉を引き合いに出して、「嘘つきの法主は論外」と語ったとして、御法主日顕上人猊下を誹謗する根拠としていますが。
〈早瀬〉 これもいい加減な伝聞に過ぎないわけだ。悪意でねじ曲げた内容だから、仮に日亨上人に何らかの発言がおありだったにせよ、最早、日亨上人の仰せとは到底言えるものではないと思うよ。まして日亨上人が「いずれそのうち、平僧や信徒を迫害しぬく猊下も出てくることだろうよ」と仰せられたなどということは、前の例と同じで絶対に有り得ないね。堀上人にかこつけて、まさに創価学会が言いそうなことだよ。
〈阿部〉 次に『法主詐称』で創価学会側は、先に出た日亨上人の「血脈相承の断絶等に就いて史的考察及び弁蒙」の冒頭に、「吾宗本山代々貫首の血脈相承と云ふ事が頗る高潮せられたり、又大に冷評せらる事があるやうである」と書かれていることにつき、これが堀上人の血脈についての見方の基本だとして、御法主日顕上人猊下を「破器」だの「汚器」だのとする誹謗に結びつけていますね。
〈八木〉 しかし彼らが御法主日顕上人が述べたとする「学や徳がなくても、相承を受けた者はみな生身の釈迦日蓮になる」などという御指南をお聞きしたことはないね。これは『続家中抄』の書状中の文言だよ。まったくいい加減なことを言う者たちだ。宗門の者なら誰でも『御本尊七箇相承』の「代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(日蓮正宗聖典379頁)の御相伝は領解奉っているし、それは御内証として拝すべきことも充分に領解している。過去の池田大作の発言の通りだよ。御法主上人が血脈相承につき御指南せられたとすれば、その御内証の意義を述べられたものであることは言うまでもないね。
〈阿部〉 また彼らは『法主詐称』で、日亨上人が、「口伝なるものは完器にして始めて可能」と述べたなどとして、京都・要法寺出身の御法主が9代、100年間続いたことを破器・汚器になぞらえて暗にその間は口伝がなかったように論じ、その後にお出ましになった日寛上人を完器とするのが日亨上人の見解であるとしておりますが。
〈藤本〉 それもまったくの誤りだよ。日亨上人は彼の「血脈相承の断絶等に就いて史的考察及び弁蒙」の中で、京都・要法寺から大石寺御歴代に登られた第16世日就上人について、「若し実人に適格の権威あらば授受の作法は此を結成するの型式に過ぎざるから就師のような場合でも、血脈断絶法水壅塞の不都合はない訳である」と述べられているね。すなわち日就上人について「適格の権威ある実人」と見なされているわけだ。もし破器や汚器だと思っておられれば、実人と仰せになるはずがないんだよ。


<御法主上人猊下を管理人とする邪論>
〈司会〉 次に『法主詐称』では二箇相承を挙げて、この2つの相承が日蓮大聖人の御相承の原点だとした後に、「法主は『一閻浮提総与』の御本尊の管理者」であるとして、御法主上人猊下を単なる大御本尊の管理人にすぎないように述べていますが。
〈菅野〉 二箇相承はたしかに日蓮大聖人の仏法を総括的に日興上人へ御付嘱あそばされた重要な相承書だが、『御本尊七箇相承』など、法体法義の重要な相承書は他にも存するわけで、二箇相承以外は御相承書としての意義を認めないという態度は誤りだね。
〈早瀬〉 また彼らはここで、日蓮正宗の御法主上人猊下を国宝を所蔵する博物館の館長と同列に見なして、「貫首とは、あくまで大法の流布を宗祖から預託された管領者に過ぎない」とか、「『弘通の大リーダー』であることが日蓮大聖人からの『相承』の原則」などとしている。要するに御法主上人猊下の僧宝としての外用のお立場のほかは認めないということだよ。「弘通の大リーダー」はまだしも、御法主上人を博物館の管理者のように言うのはまったく摧尊入卑だ。いったい、博物館の館長に国宝とまったく同じ価値を有する作品を作る能力があるのかと言いたいね。
〈藤本〉 その通りだよ。たしかに僧宝としての御歴代上人の重大な使命が令法久住にあられることは言うまでもないが、『御本尊七箇相承』に記される通り、御法主上人猊下の御内証の辺は日蓮大聖人と拝すべきことは当然のことです。だからこそ、本門戒壇の大御本尊の仏力法力を余すところなく具え給う御本尊を御書写あそばされるわけだからね。ただの管理人がそのような力を具えるはずはないね。

〈司会〉 次に『法主詐称』では、御法主日顕上人猊下に対して、「廃嫡処分」だ、「錯乱した嫡子」だなどと狂乱としか思えない暴言を吐いておりますが。
〈八木〉 彼らは「血脈の次第 日蓮日興」の『身延相承書』や、『原殿書』などを引いて、唯授一人の血脈の本義は「聖人の御義」であり、「本師の正義、本懐」であるとし、それに対して、宗門では「大聖人の仏法の化儀化法の一切の決定権は時の法主一人にある」とするのは、根本とすべき「聖人の御義」に反する法主絶対化だと批判するわけだね。
〈菅野〉 その彼らの考え方には大きな誤りがあると思う。それは根本の「聖人の御義」は一体誰が伝えたのかということだよ。いかに「聖人の御義」が尊くとも、邪宗身延派の五老僧やその大衆が預かれば、「謗法の汚泥にまみれた邪義」と化してしまったことは言うまでもないからね。
〈早瀬〉 そこに日興上人以来の宗門の血脈相承の尊さがあるわけだ。たしかに『日興跡条々事』に、
 「一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布
を待つべきなり」(御書1883頁)
と仰せのように、日目上人以下、御歴代上人のお立場は、宗門を統率し、総本山を管領して、広宣流布の時を待つという住持の僧宝のお立場を面とすることは当然だが、その一辺しか見ることができないのは不信心による痴煩悩というほかないよ。再往、大聖人の下種仏法における法体法義の一切を御相承あそばされる唯授一人の御内証から、御本尊を御書写あそばされるわけだし、また様々な時代における様々な事態に対応して、教義を裁定し、大衆を教導あそばされるところに血脈付法の御法主上人の尊いお役目がおありになるのだから、その全体的なお立場を拝することができず、これを法主絶対化などと誹謗するのは、創価学会が身延同然邪宗となった証明だね。


<我田引水の御書解釈>
〈阿部〉 次に彼らは『観心本尊抄』の、
 「当に知るべし、此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」(御書661頁)
との御文を挙げて、地涌の菩薩の働きとして、折伏は賢王の立場が主体となり、摂受は僧の立場が主体であるから、賢王と僧の二者は同格であるとし、むしろ折伏をして広布を推進する主体は在家なのだから、僧に含まれる唯授一人の血脈といえども在家と対等だと論じていますが、この御文についてこのような解釈をするとは、本当に莫迦につける薬はないと言うべきではないでしょうか。
〈菅野〉 というよりも、まったくの我田引水だね。彼らはすべて自分たちに都合のよいように御書を解釈するわけだよ。たしかこの御文について日寛上人は、『観心本尊抄文段』に「化儀の折伏」と定義され、涅槃経の仙予国王等の文を引かれて、未来に順縁広布を迎え、賢王が刀剣弓箭鉾槊等の武力をもって愚王を誡責する時のことを判じられた御文かと解釈なされていたね。
〈早瀬〉 その意義からすれば、未だ順縁広布の大闘諍の時とも言えない現在の段階で、この『観心本尊抄』の御文を勝手に解釈して、賢王は在家を意味するから信徒が中心となって折伏を行い、僧は出家のことだから摂受を行ぜよなどと単純に定義することは誤りだね。有徳王が悪王と戦い身命を捨てて覚徳比丘を守ったような賢王による折伏は未来のことなのだから、それまでは、いたずらにこの御文にとらわれることなく、僧俗ともに折伏に精進すべきだと思う。
〈藤本〉 その通りだね。大聖人様は『如説修行抄』に、
 「誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵来たらん事は疑ひ無し」(御書673頁)
と仰せだ。この「誰人にても坐せ」の中には、僧侶も信徒も含まれることは当然だよ。折伏についての御指南は他にもたくさんある。忘れてならないのは、大聖人様は僧俗弟子檀那に対して、大聖人様と同様に三類の強敵を呼び起こすほどの強折を行うように、「折伏して御覧ぜよ」と仰せられていることだね。
〈阿部〉 そしてその僧俗一同が行うべき折伏を、『観心本尊抄』では賢王による未来順縁広布の時に望んで、敢えて「摂受」と呼ばれているわけですね。とすれば、自分たちが賢王であるかのように論ずる創価学会一味の御書解釈は何ともいい加減で杜撰極まりないものです。もっとも彼らが何と自慢しようと、有徳王なら必ず護るべき覚徳比丘の宗門を、護るどころか反対に壊滅させよと叫んでいるのだから、創価学会は永遠に賢王にも有徳王にもなれないことは当然ですね。
〈八木〉 御法主上人猊下は去る昭和62年の『観心本尊抄』の御講義において、
 「正法を受持する者はすべて地涌の眷属でありますから、一人ひとりが『此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す』という御文を拝して、深く自他に対する正見をもって進むべきだと思うのであります」(『大日蓮』530号)
と御指南なされている。四菩薩の命は我々一人ひとりにも具すわけだから、我らは折伏弘通に際しては常に折伏と摂受の両面を心がけて前進すべきだと思うね。


<血脈相承に対する摧尊入卑>
〈司会〉 その通りだと思います。ところで彼らは、『日興跡条々事』に目師を「嫡子分」と表現していることを根拠に、血脈相承を家督相続に当てはめて述べていますが。
〈菅野〉 血脈相承を、嫡子が家督を相続することに準えるのは一見正しいように思えるが、やはり間違いだね。というのは、家督相続の要件は長男であるとか、財産管理能力であるとかいろいろあったと思うが、血脈相承はそうではない。大聖人が五老僧に相承なされなかったのは単なる世間的能力の問題ではなく、下種仏法に対する師弟相対の唯我与我の領解によるわけだ。血脈相承をもって付嘱される法体の伝持が、単なる世法的な財産の相続とはまったく違うところは、末法万年にわたり、ちょうど今回の創価学会問題のようなことがあっても、決して濁らせることなく清浄に伝えなければならないことだね。
〈早瀬〉 彼らは続いて、家財を浪費し、疲弊させ、崩壊の危機を招くようなら、嫡子であっても廃嫡されるように、創価学会を破門した御法主日顕上人は廃嫡されるべきなどと述べているね。しかし、かつての昭和52年度路線の折の反省懺悔と日達上人へのお詫びを無慙にも反故にして、再び反逆忘恩の徒となり、宗門への誹毀讒謗を繰り返して三宝壊滅を狙う創価学会が、破門処分を受けたのは当然のこととするのが日蓮正宗僧俗の一致した揺るがぬ見解だよ。
〈八木〉 彼らは愚かにも、怨嫉と憎悪に狂い、堕地獄の道を歩んでいるが、それに対し、宗門は「『立正安国論』正義顕揚750年」をめざして真の僧俗一致をはかり、奉安堂を建立して総本山を荘厳し奉り、広宣流布への道を隆々と大前進している。たしかに創価学会自体は永遠に宗門に戻れないが、一人ひとりの学会員は、当然だがいつでも日蓮正宗へ戻れるわけだ。創価学会の邪義を捨てる勇気さえあれば、法華講に入講して、晴れて総本山大石寺へ参詣し、本門戒壇の大御本尊に御目通りも叶うのだよ。元日蓮正宗信徒として広布に励んだ方々が、一日も早く正信に目覚めることを祈るばかりだね。
〈阿部〉 創価学会員や離脱僧たちは、御法主上人猊下へのくだらぬ悪口などいい加減にやめて、自分の足元をよく見た方がいいですね。そのうちぱっくり大きな口が開くだろうから。それが恐ろしければ、早く懺悔して、血脈付法の御法主日顕上人猊下に信伏随従し奉り、法華講員として一から清々しく仏道に精進すべきですね。


<「宗祖の血脈観」なるものの誑惑>
〈司会〉 『法主詐称』のねじ曲がった言い分もだんだん終わりに近づいてきましたが、ここで彼らは「宗派の血脈観」を徹底して解体し、「宗祖の血脈観」を回復するなどと壮語していますが。
〈八木〉 ここでの彼らの言い分は「正信会」久保川法章の「血脈二管説」と、「顕正会」浅井昭衛の「正統貫首再生論」を取り上げ、それぞれの要旨を紹介して、血脈が器用に2管に分かれたり、相承がいったん途切れても、正統な貫首が再生すれば血脈が再び蘇るなどという発想は、「相承」に宗教的絶対性を認める旧来の血脈観の域を一歩も出ていないと批判し、血脈と法財を分離させた創価学会側の血脈観こそ宗祖の血脈観だとするものだね。
〈阿部〉 要するに、目くそ鼻くそを嗤(わら)うの類ですね。「正信会」や「顕正会」の血脈観と「創価学会」の血脈観にどれだけの差があるというのでしょうか。我が儘勝手な邪信論者たちの言なのだから、それぞれ趣旨は違っても邪説に変わりはないと思いますね。
〈菅野〉 彼らの血脈観と称するものは、結局は先程の博物館の国宝と一緒で、大聖人の御法を法財と呼び、相承とはその法財の「申し送り・継承のあり方」に過ぎないとするものだね。すなわち宗祖の法財とは「仏の側」に属し、申し送りの在り方は「衆生の側」に属するとし、申し送りに不手際、ギクシャクが起きても、宗祖の法財そのものには何らの損減を与えるものではないと言うわけだ。
〈早瀬〉 しかし、そういう考え方は唯物主義に近いし、結論的には謗法になるな。なぜなら、もしそのように考えるとすれば、身延や池上にある法財、すなわち宗祖の真筆御本尊を拝んでもいいことになるからだよ。衆生の側に何があろうが、法財そのものには何の損傷もないと考えるわけだからね。
〈阿部〉 はい。たしかに彼らは、「血脈が切れた・切れてないなどの議論に血道を挙げるのは、実に愚かで、不毛の議論だ。相承の断不断は宗祖の法財とは無縁のものだ」と誹謗し、これが「宗祖の血脈観」だと誑惑しています。
〈八木〉 創価学会の者たちは長い間本宗の信心につきながら、いったい何を学んできたのか。信心の根本がまったく判ってないね。『三大秘法抄』には、
 「予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付けて留め置かずんば、門家(もんけ)の遺弟等定めて無慈悲の讒言(ざんげん)を加ふべし。其の後は何と悔ゆとも叶ふまじきと存する間貴辺に対し書き遺し候」(御書1595頁)
と仰せだが、これは三大秘法の法門を書き残しておかなければ、門家の遺弟等が必ず無慈悲の讒言を加えるであろうとの御文だね。では誰に讒言を加えるのか。言うまでもなく、大聖人滅後に血脈付法の日興上人がお立てになるところの三大秘法の法門に対する讒言であることは当然だよ。そう考えれば、「血脈の次第 日蓮日興」の唯授一人の御相承の甚深の意義が明らかに拝されるね。大聖人がどれほど日興上人への付嘱を重大にお考えあそばされたか。
〈藤本〉 その通りだね。大聖人の御法は万一誰も正しく受け継ぐものがおらず血脈が途絶えれば、この世から跡形もなく消え失せる危険も存したわけだよ。大聖人様が「其の後は何と悔ゆとも叶ふまじきと存する間」と仰せの通りだね。それを「相承の断不断は宗祖の法財とは無縁」などと、それこそとんでもない無慙極まる誑惑だね。
〈阿部〉 彼らの言う「宗祖の血脈観」などというものがいかに口からでまかせのいい加減なものであり、宗祖のお心を踏みにじる大謗法であるかが明確となりました。要するに彼らは、骨の髄まで利用信心、利用教学だということですね。
一同 まったくだね。
〈司会〉 藤本総監様をはじめ各御尊能化、御尊師には、御多忙のなか、昨秋以来、長期にわたり、邪教創価学会とその走狗憂宗護法同盟の邪義を徹底して破折する貴重な座談会をいただきまして、たいへんにありがとうございました。
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『法主詐称』では、最後に御法主日顕上人猊下に対する悪口誹謗を羅列しておりますので、編集室として、これに対して、まことに恐れ多いことながら御法主日顕上人猊下讃歎の辞を作らせていただきましたので掲載させていただきます。

<御法主日顕上人猊下讃歎の辞>
①宗旨建立750年法華講30万総登山達成・奉安堂建立による「広宣流布」の法礎建立
②六壺・客殿建立を始めとする総本山の荘厳整備
③創価学会の大謗法の徹底した破折と、その残滓の払拭
④全国寺院の法華講支部結成を始めとする日蓮正宗の機構充実
⑤血脈相承の御法主上人猊下を中心とした僧俗異体同心の確立
⑥富士学林に大学科の創設等、興学布教の充実
⑦世界広布の進展


僣越ながら、こうした点を讃歎申し上げ、「『立正安国論』正義顕揚750年」の大佳節における「地涌の友の倍増乃至、それ以上の輩出と大結集」を達成するために、御法主日顕上人猊下に信伏随従し奉り、僧俗一致の精進をお誓いするものであります。




$要法寺の出身の僧が次々と猊座についた(仮題)


第3章 法 脈 濁 乱
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/03/125.html
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第125号
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1991年5月5日
邪義を立てていた要法寺の出身の僧が次々と猊座についた
9代100年続いたこの史実を法主絶対論者はどう見るか
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 日蓮正宗の猊座に、他宗派であった要法寺出身の僧が連続9代にもわたって登座されたことは、今日の日蓮正宗の僧俗が刮目しなければならない歴史的事実である。
 前号で述べたように、要法寺系9代の最初の猊下となられた第15世日昌上人は要法寺より大石寺に来てわずか2年で猊座に登られている。
 この日昌上人が登座された1596年より、8代後の第23世日啓上人が遷座された1692年までの約100年間、京都・要法寺出身の僧が日蓮正宗の猊座に登られているのである。安土桃山時代に始まり、江戸時代までの長きにわたった。
 京都・要法寺はもともと、第3世日目上人の弟子である日尊が開いた上行院に始まる。日目上人は国家諫暁のために京都に向かわれる途上、美濃(岐阜県)の垂井で御遷化されたが、お供をしていた日尊は日目上人の遺志を継いでそのまま京に上り、天奏した。その後、日尊は京に留まり、上行院をつくる。
 ところが日尊は、その上行院に釈迦立像を安置し脇士として十大弟子を立てるなどして、日蓮大聖人の仏法に背いたのであった。
 この京都の上行院と、同じ京都の住本寺を合併して作られたのが要法寺である。この合併をおこなったのは広蔵院日辰で、『造仏論義』1巻、『読誦論議』1巻を著した。『造仏論議』には釈尊の仏像をもって本尊とすべきだと書かれている。また、『読誦論議』には、富士門流(日蓮正宗)が方便・寿量の2品を助行として読むことのみを許しているのに対して、法華経のすべての読誦もさしつかえないとの邪義を説いている。
 この広蔵院日辰の邪義こそ要法寺の教学の根幹となっているのだ。この邪義は『造読論』とも略称されている。
 広蔵院日辰は、『造仏論義』を著した1558年に、大石寺の第13世法主であった日院上人に対し、日興上人の流れを汲む各派の交流を申し込んだが、日院上人はこれを断られた。
 ところが、その次の第14世日主上人の代より、要法寺との交流が始まり、同寺より招かれた日昌上人は、大石寺に来てわずか2年で猊座に登られたのである。
 このことについて近代随一の碩学である堀日亨上人が、昭和31年11月号の『大白蓮華』誌上でインタビューに答え、次のように述べられている。
 「この大石寺の日主上人と、むこうの要法寺の、當時の貫首との關係が結ばつた。その關係を結んだ人はですね、粟田口の清という人が關係を結んだ。つまり粟田口の清という豪族が取りもつてですね、要法寺から入ることになつた」
 つまり日院上人が要法寺との交流を断わったにもかかわらず、次の日主上人は、粟田口の清という豪族の仲介で、要法寺から次の法主とした日昌上人を迎え入れたということである。
 「――それから、つづいてしばらく要法寺の人が……。
 堀上人 ええ、それから9代。9代ですけれども、それは始めのうちはね、要法寺で、相當でき上つた人がきたです。後にはね精師以後はですな、精師そのものも、でき上つてきたんじやないのです。若いとき、きたのです。そして大石寺にきて、江戸へ出て、そして、偉くなつた。精師以前の人はですね、大石寺にきて大きくなるんでなくて、むこうから大きくなつた成人した人がきたんです。
 精師以後の人は、みんな、大石寺にきて大きくなつた。所化できたのが多いですね。ですから要法寺からきたといつても、たゞその、身體をもらつただけです。
 ――ははあ、實際には、かせがなかつたわけですね。
 堀上人 ええ。それですから、學問なんかでもですね。一々要法寺流をもつてきたわけじやないですね。えゝでも、いくらか要法寺の弊害は残つたですね。それをすつかり改めたのが同じ要法寺出の日俊上人、あの人が要法寺から出ていながら要法寺の弊害をキレイに大石寺から洗つた人です。
 ――この日俊上人が、そういう佛像なんかを壊された。
 堀上人 ええ、佛像なんかをとつちやつた」
 注目されるのは日亨上人が、富士大石寺の流れに「要法寺の弊害は残つた」と明言されていることだ。
 要法寺出身の法主は、第15世の日昌上人に始まり、第16世日就上人(登座1607年)、第17世日精上人(登座1632年)、第18世日盈上人(登座1633年)、第19世日舜上人(登座1645年)、第20世日典上人(登座1652年)、第21世日忍上人(登座1673年)、第22世日俊上人(登座1680年)、第23世日啓上人(登座1682年)まで続く。
 当初の日昌上人、日就上人は、高僧をいわばスカウトしたもの、第17世日精上人以降は、所化の頃に富士大石寺に移り修行し登座されたものである。ただしその頃にはすでに、法主を含めた能化の者たちが要法寺系によって占められているのだから、邪義である要法寺の教学の影響はかなりのものだったと思われる。
 実際、所化の頃、要法寺より大石寺に移った第17世日精上人は、要法寺の広蔵院日辰の影響により、釈迦像の造立をおこなっている。法主自身が邪義を実践したのであった。
 いま創価学会を解体しようとする僧俗の輩は、法主絶対、法主無謬の論を立て、法主に「信伏随従」しないものは、日蓮大聖人の仏法に違背するとしている。
 たとえば理境坊(住職・小川只道)の法華講組織である妙観講から刊行されている『暁鐘』(1991年3月号)に、「大御本尊と血脈相承」という文が掲載されているが、その中に次のようなくだりがある。
 「時の御法主上人猊下が、大聖人御内証の法体の上から法門の御指南をされる」
 この表現は、要法寺系の法主が邪義をおこなった史実に相反する。ここに言われるような「大聖人御内証の法体」が法主にそのままあるならば、邪義を宣揚することなどあるはずがない。このような観念的な法主絶対論は、法主生仏論につながる幼稚な謬見である。法主がこの文のごとく尊極であって欲しいと思う願望と、現実とは違うのだ。
 まして同文中の、「日蓮大聖人を仏と仰ぎながら、その御内証の法体を相承された御法主上人の御身を見て云々するのは、大聖人の仏法がわかっておりません」、あるいは「されば、御法主上人の凡夫の御身を見て、これを軽んずる念を起こし、心底からの信伏随従ができない者は、じつに、示同凡夫の大聖人に対しても誹謗の者であると知らねばなりません」などといった記述は、現実ばなれした権威主義の最たるもので、日蓮大聖人の仏法が持つ、生命解放への躍動する力をも権威主義に取り込もうとするものである。
 それはともかく、先に引用した日亨上人のインタビューへの回答を読むにつけ、血脈の付嘱を受けられた当の日亨上人が、血脈にかかわる信徒の質問に平気で答えられていることに驚く。日亨上人の血脈観・法主観が、このような話を公にしてもさしさわりのないものだったことがうかがえる。
 同時に、いまの日顕上人らの権威主義は、本来の血脈観・法主観とはまったく無縁のものであることもよくわかる。しかも、かつては法主と信徒が血脈や相承について話せる気風が、日蓮正宗にもあったのである。果していまはどうであろうか。
 最後に、幻想たる観念的な血脈観に依るべきではないと指摘しておく。かかる幻想的な血脈観に依拠した法主絶対論をふりまわす前に、日蓮大聖人御在世より700年を経た今日、創価学会が出現し、戒壇の大御本尊様のもと、歴代会長を総大将とし地涌の菩薩が陸続と集いよっている現実に注目すべきである。
 700年の時のへだたりを超え、広宣流布を現実のものにするため、地涌の菩薩が仏法史上未曾有の折伏戦を展開している。これこそなによりの不思議である。ここに日蓮大聖人の大慈悲、仏法の偉大さを見るものである。




$血脈相承について(抜粋)


http://nakanihon.net/nb/ketumyaku.html

*6世日時上人と7世日阿上人の間、及び、7世日阿上人と8世日影上人の間
 この3上人は、室町時代を生きました。
 実のところ、日阿上人の事歴は不明であり、歴代への晋山年月日もはっきりはしておりません。しかし日有上人の筆になる「御歴代忌日表」という書物に「日阿上人三月十日」と記録されていますから、歴代に間違いはないようです。
 江戸時代初期頃の貫主であった17世日精上人が「富士門家中見聞」(通称家中抄)という書物を残されています。この書物は、日興上人を始めとして、上代の諸上人、及び大石寺18世日盈上人までの歴代上人の事歴を記録したものです。内容自体は虚実入り混じっていて、取るべき内容、捨てるべき内容があります。近年の学匠である59世日亨上人(以下、堀上人と呼ぶ)などは、辛辣にこの書物の内容を批判しています。が、それでも歴代の事歴を記した古書であるという点から資料的価値があり、捨てがたいのも確かです。
 この家中抄には、日阿上人について次のように述べています。
 「伝説によると、日阿上人は貫主の代官であって、正式な貫主ではないとのことだが、私(日精)には正式な貫主であったようにも思われる」と。
 江戸時代中期頃の貫主に31世日因上人がいます。この日因上人が「日有上人物語佳跡聴聞」(通称 物語抄・佳跡)という書物を著しています。この書物には、日阿上人について次のように述べています。
 「六世日時上人が血脈相承をされずに遷化された。そこで日阿さんが血脈相承をあづかり代官となって日影上人を招こうとした。が、日影上人が到着する前に日阿さんも遷化した。日阿さんは遷化前に柚野浄蓮という在家に血脈相承をあづけた。
 この柚野浄蓮が日影上人に血脈相承を渡した」
と。
 が、堀上人はこの説を一蹴されています。かといって真相はどうなのかという点については『阿師代官説も事実であろうけれども、有師の歴代記に載せてあれば法脈を受けた人に相違なしと見るべきである』というのみです。
 日阿上人が正式な貫主であったのか、それとも代官であったのか。日阿上人はいつどうやって日時上人から血脈相承を受けたのか。日阿上人はいつどうやって日影上人に血脈相承を授けたのか。この点については不明のままです。
 そうした真相問題以上に注目すべきは、17世日精上人にしても、31世日因上人にしても、あまりにもあっけらかんと血脈相承の断絶を語られているという点です。大石寺貫主自らが自門の不利を語っているのです。こうした態度は、阿部宗門にとっては驚天動地の思いでしょう。しかし、我々は、この点において、現阿部宗門教学とは大いに相違して、先師方の血脈相承観は、もっと大らかな認識であった事を知るのです。且つ、血脈相承の形式的断絶があっても、我が門流の血脈にはいささかの断絶もあり得ないと確信されていたことを知るのです。


*8世日影上人と9世日有上人の間
 この両上人は、室町末期から戦国時代を生きました。戦国の到来を告げた「応仁の乱」は日有上人の時代の出来事です。日有上人は長命で81才まで生きられました。宗門が発行している「富士年表」によりますと、日有上人が血脈相承を受けた年齢は20才前後となります。血脈相承を受けてから約60年間生きられたわけです。
 前出の家中抄には、日影上人から日有上人の血脈相承について次のように述べています。
 「日影上人が遷化する時、血脈相承を伝えるべき適当な人物がいないと日影上人は歎かれた。そして、柚野浄蓮という在家に血脈相承を授けた」と。
 つまり、この説に従うならば、日有上人は柚野浄蓮から血脈相承を受けたということになります。
 これについて、堀上人は、「日有上人はきっと日影上人から直接に血脈相承を受けられたに違いない。柚野浄蓮という人が日影上人と親密であって、若い日有上人をも補佐していたのだろう、そんな事情からこうした伝説が生じたのであろう。それを確認もしないで日精上人が漫然と筆にした」と、この説を退けられて、日精上人の軽率を責められています。
 しかし、かといって、堀上人は自説を立証できる文献を何も出されてはいません。要するに真相はヤブの中というところでしょう。日影上人と日有上人の間は不明というのが本当のところですが、日有上人が血脈相承を受けられたことに間違いはありません。


*9世日有上人と10世日乗上人・11世日底上人の間、及び日鎮上人の間
 これら上人方は戦国時代のまっただ中を生きられました。
 日乗上人と日底上人の事歴は全く不明です。家中抄には『伝を失った』とあります。ただ大石寺過去帳に両上人ともに「文明四年(1472)遷化」と資料が残っているだけです。
 日有上人の遷化年代には諸説がありますが、堀上人の説に従いますと「文明十四(1482)遷化」です。富士年表もこの説をとっています。
 そうしてみると、9世日有上人が血脈相承した10世日乗上人と、その日乗上人が血脈相承した11世日底上人は、日有上人より前に遷化されたことになります。12世日鎮上人を決定したのが、11世日底上人であったのか、それとも隠居の日有上人であったのかは定かではありません。
 10世、11世の歴代が遷化したのち、血脈相承を授ける適当な人物がいなかったのでしょうか、12世日鎮上人は、幼い年齢で血脈相承を受けました。血脈相承を受けた年齢については3説があります。「4才」「10才」「16才」です。いづれの説をとるにせよ幼年であることに変わりはありません。ですから他門は「稚児貫主」といってバカにします。幼年の日鎮上人を後見役として支えた人に南条日住がいます。この人は僧侶だったのか在家だったのかわかりません。この南条日住が日有上人の常々の仰せを記録して、指南書として日鎮上人にさしあげたのが「化儀抄」です。してみると、この化儀抄は相伝書の性格を持っています。
 幼年の日鎮上人が血脈相承を受けた時点で、血脈の奥義を極められたかどうか、わかりませんが、常識的に考えれば、無理であったろうと判断するのが自然でしょう。さればこそ、南条日住が後見をしたわけでもありましょうから。
 このことを思うに、日鎮上人が日底上人から血脈相承を受けたとすると、「現住から次住へ」と形式的に血脈相承の継続はされていますが、内容理解という点ではどんなものでしょうか。まあ、少なくとも『前猊下から次猊下にピシっと』と、威張れるようなものではなかったでしょう。
 また、日有上人から日鎮上人に血脈相承が行われたのだとすると、「隠居から次住へ」と血脈相承がされたことになります。血脈相承が継続したという点では何の問題もないことですが、厳密にいえば、隠居は現役ではないのですから、『前猊下から次猊下にピシっと』とは言い難いものがあります。


*12世日鎮上人と13世日院上人の間
 この両上人は、戦国時代を生きられました。
 日院上人が日鎮上人から血脈相承を受けた年齢については、諸説があります。「13才」「20才」「32才」などです。堀上人は苦労して会通をつけられ「32才説」にこぎつけられています。そして「決してバカにされるような稚児貫主じゃない」と言われていますが、失礼をかえりみず申し上げさせていただくならば、残りの他説を退ける根拠がうすく、あくまでも一学説の域を出ないことです。
 いづれにせよ、この日院上人の場合も、前記の日鎮上人と同じことが言えようかと思います。


*14世日主上人と15世日昌上人の間
 この両上人は、織豊時代から江戸時代のごく初期を生きられました。
 日主上人の時代、大石寺は極貧の状態にありました。この頃、日目上人の直弟子である日尊上人が開いた京都要法寺はたいそうに繁盛していました。
 以前、日院上人の時代に、この京都要法寺の大物僧侶である日辰という人が、日院上人に対し、大石寺と要法寺と手をつなごうと、誘いをかけにきたことがありました。日院上人は「大石寺は貧乏しているが、要法寺とは手をつながない、なぜなら、要法寺は釈尊像を造立して拝み、法華経二十八品を読んでいるからである、これは謗法である」と突き放しました。
 しかし日主上人の時代になると、何が理由なのかは不明ですが、西山本門寺の信者を仲介として、大石寺と要法寺は盟約を結び、大石寺貫主を要法寺から迎えるという事に決まりました。要法寺から晋山した貫主が15世日昌上人です。家中抄の説によりますと、「身延の僧侶が戒壇本尊を奪おうとして日主上人を誘惑した、誘惑に乗ってしまった日主上人は責任を感じて辞任した」のだといいます。
 日主上人は、血脈相承を持ったまま栃木県・蓮行寺に隠居しました。日昌上人は蓮行寺まで行って、日主上人から血脈相承を受けました。
 日昌上人は最初の要法寺出身者ということで苦労したようです。大石寺大衆が前住の日主上人を呼び戻そうとしたり、ストライキをして日昌上人に抵抗したからです。
 この後、16世・17世・18世・19世・20世・21世・22世・23世と、合計9代にわたり要法寺から大石寺貫主に晋山します。年数にすると約百年間になります。
 かって、「14世・日主上人と15世・日昌上人の間の血脈相承は断絶しているのではあるまいか」と疑う向きもありましたが、堀上人が断絶していないことを立証されました。


*15世日昌上人と16世日就上人との間
 この両上人は江戸時代初期の慶長・元和・寛永の頃を生きられました。江戸将軍でいいますと家康・秀忠・家光の時代です。
 日昌上人は、後継者として要法寺僧の日就上人を選びました。しかし、日昌上人は日就上人が大石寺に到着する前に遷化しました。そこで理境坊日義さんが日昌上人から血脈相承をあずかり、次の日就上人に渡したのです。これを「理境坊日義の預かり相承」といいます。
 ここにおいて、「前貫主から次貫主へ授受」もしくは「隠居から次貫主へ授受」という、貫主有資格者同士の直接主義的な授受形態は切れました。
 これについて、堀上人は次のような見解を示されています。
 「相承を、理境坊から日就上人が継がれたのを史実と見ざるをえないわけである」
とされた上で、
 「この一件において、形の上では、血脈が断絶した、法水がゆるやかになり・ふさがったと言えば言える。しかし、相承の内容に立ち入って見るとき、相承は、『授受の型式作法』が主か、それとも『受ける人』が主か、という問題が起こる。
 もし、『受ける人』が主であるとすれば、『授受の形式作法』は形式にすぎなくなるから、日就上人のような場合でも、不都合はない。『授受の形式作法』が主であるとすれば、『受ける人』は誰でもよいということになり、日就上人のような場合は、血脈断絶となる。
 『授受の形式作法』と『受ける人』の両条件がそろっていなければ血脈相承は成立しないとするならば、日就上人のような場合は、法水が一時的に枯渇した不祥事となる。」
 堀上人の意は、血脈相承を断絶から救うために、日就上人を是としたいのですから、「受ける人が主となる」と言いたいのでしょう。つまり、血脈相承は形式よりも、受ける人の能力・品位・信心の方が大事であると言いたいのです。
 日昌上人と日就上人の間の血脈相承は、貫主から貫主へと直接に伝わったわけではありませんから、「相承断絶」と表現されるわけですが、中間に理境坊日義をはさんだとはいえ、血脈内容は伝わっていますから、実質的な「血脈内容は不断」といえます。


*16世日就上人と17世日盈上人の間、及び、18世日精上人の間
 この3上人は、江戸時代初期の寛永年間を生きられました。日精上人に限っていえば、長命で、正保・慶安・承応・明暦・万治・寛文・延宝・天和の頃まで生きられています。
 日精上人も、日盈上人も要法寺出身者です。
 日就上人は、日盈上人と日精上人の2人に血脈相承を授けました。いわば、血脈相承の二重相承です。唯授一人ではなく唯授二人というところでしょう。富士年表でも貫主2人の存在を認めています。
 日精上人は寛永9年(1632)に、血脈相承を受けています。日盈上人が血脈相承を受けたのは、日精上人より前だったのか後だったのかは不明です。
 堀上人は、「どちらとも言えないが、日精上人より前に日盈上人が血脈相承を受けていたのではなかろうか」と想像されています。富士年表はこの逆で17世は日精上人・18世は日盈上人としています。
 血脈相承の順番はこちらへ置き、大石寺に晋山した順番からいいますと、家中抄によれば日盈上人の方がさきです。富士年表によれば日精上人の方がさきになっています。私は家中抄の説をとって、17世日盈上人、18世日精上人としておきたいと思います。
 寛永10年(1633)に日盈上人が大石寺に晋山し、17世を継ぎました。寛永14年(1637)に日精上人が大石寺に晋山し18世を継ぎました。
 日盈上人にしても、日精上人にしても、血脈相承を受けてから大石寺に晋山するまでには数年を要したことになります。もっともその間は現住の貫主がいましたから、問題視するにはあたりませんが。






日如上人誹謗

「偽装相承」との誹謗を破す

(『大白法』H18.3.16)

【御相承否定に躍起(やっき)になる学会】
 『創価新報』では、本年の初頭より、毎号で日顕上人猊下から日如上人猊下への御相承を「偽装相承」などと繰り返し誹謗している。そこでは御相承の御事など知るよしもない離脱僧どもが、無責任な推測を、まことしやかに述べて、御相承に対する不信を煽(あお)っている。いわく、
 「64世日昇上人から65世日淳上人への相承については、機関誌『大日蓮』に克明な記録が残っています(中略)日淳法主(65世)から日達法主(66世)への相承も、明確な記録が残っていますね」(2月1日付同紙)
といった具合である。ここでは創価学会は、日昇上人から日淳上人、日達上人へと続く御相承を認めている。その理由は「記録がある」というものである。
 ところが、日達上人から日顕上人、日如上人への御相承は認めない。理由は、「何を、どう相承したというのか。具体的に書けない(中略)日顕以前は、こんなことはありませんでした」(同)
である。この軽薄かつ邪悪な論理のインチキを暴(あば)いてみよう。


【御相承の記録について】
 第1には、御相承の儀式の記録を、御相承の内容そのもののようにだましていることである。
 日蓮大聖人から日興上人に対する御相承を証明するのは、本門戒壇の大御本尊であり、また「二箇相承」である。しかし、御相承の内容についての「記録」はない。
 日興上人から日目上人への御相承も、御座替り御本尊や『日興跡条々事』等によって明白であるが、やはり御相承の内容についての記録はない。
 以下、御歴代上人の御本尊および『家中抄』や『続家中抄』等によって正嫡の御法主上人の御事蹟が伝えられており、御相承の日時や場所が記録されている場合もあるが、御相承の内容は全く記録されていない。
 近代の御法主上人の御相承の儀式は『大日蓮』等に記録されているが、やはり御相承の内容は、全く記されていない。これが御相承の記録の事実である。
 要するに御相承の内容を公開されることはないのだ。
 したがって『創価新報』のように「何を、どう相承したというのか。具体的に書けない」などといって、御相承を疑うことは、論理的に成立しない。


【御相承は唯授一人】
 第2に、御相承の意義を意図的に混乱させようとしていることである。御相承は金口嫡々唯授一人血脈相承と称されるように、ただ御1人にのみ付嘱される。これは御本仏日蓮大聖人が、その御内証および仏法の一切を日興上人御1人に御相承されたところに始まる。日興上人以来の御歴代上人は、その時々における下種仏法の主、つまり所有者である。ただ御1人への御相承であるから、他に示されるはずがない。
 それを創価学会のように、御相承の内容が公開されて当然のように言うのは、仏法の所有権に対する侵害であり、筋違いも甚だしい法盗人の論理である。


【妙法は凡夫の思慮に及ばず】
 第3に、御相承は妙法の継承という認識がないことである。『立正観抄』に、
 「本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず、何に況んや菩薩・凡夫をや」(御書770頁)
と説かれるように、本地の妙法蓮華経は迹仏等の思慮に及ばない。まして凡人の思慮に及ぶことはない。唯我与我と説かれるように、御本仏の智慧を継承あそばされる御法主上人のみが、よく境智の妙法を思慮あそばされるのである。
 我々は、御隠尊日顕上人猊下から御相承を受けられた御当代日如上人猊下の御内証を、ただ有り難く拝して「無疑曰信(むぎわっしん)」の信行に徹し、地涌倍増に向けて精進しようではないか。





日如上人への御相承誹謗破折(仮題)

(『慧妙』H18.2.1)

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肝心の相承の儀式そのものについては、たった一言「12日にあった」とあるだけ。具体的な「時間」も「場所」も「立ち会った人間」「証人」も一切明かされていない。(「青木理事長の指導」『聖教新聞』H18.1.13)
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 だが青木よ、そこまで偉そうなことを言うのなら、宗祖日蓮大聖人から2祖日興上人への御相承について「具体的な『時間』も『場所』も『立ち会った人間』『証人』も一切明かされていない」ことについては、何と言うつもりか。まさか、宗開両祖をも誹謗するつもりではあるまいな!?
 そもそも御相承は、唯我与我の境界においてなされる秘儀であれば、その様子をどこまで一般に述べられるかは、授受の御当人が決められることである。そんなことも分からぬ輩(やから)が理事長だというのだから、学会が異流義となったのも当然の帰結だ。
 ともあれ、御相承に関して誹謗をなす『聖教』報道の裏には、絶対に踏み込むことのできない聖域に対する嫉妬(しっと)が垣間(かいま)見えている、といえよう。





日顕上人誹謗

日顕上人への相承否定破折


 私が前からも申し上げている通り、昭和53年の4月15日に、決定的な意味での(御相承の)お言葉があったのですが、その前から実はね、日達上人から「譲る」ということについての独自の法門内容や、譲るということに対してのお言葉をいただいていたのです。しかし、4月15日がやはり決定的な「譲る」という意義におけるお示しがあったということなのです。しかしそれも、形式的な儀式としての血脈相承の形、昔から伝わっているような、例えば34世日真上人の御遷化に伴い、御隠尊日元上人より35世の日穏上人が御相承を受けられた時は、非常にきちんとした儀式があったことが文献に残っていますが、その他の方も、形においてそのような儀式があったと言われるけれども、そういう意味での(日達上人から私への)改まったものはなかったのです。
 でもそれも、日達上人はそのうちにきちんとした儀式をなさるか、その経緯を発表なさるというお気持ちは絶対におありになったと思うのです。これはもう当然のことですしね。また、(日達上人の御遷化になった)昭和54年がちょうど日達上人の御登座20周年だったのです。その記念行事をなさることと、それがたしか12月のご予定とお聞きした覚えがあります。従ってその行事が終った時に御相承のことも正式に発表するというお気持ちがおありだったと拝察するのです。そのような情況において前々から(御相承に関する)話はあったけれども、結局、外部に公表するという具体的な形が出てなかったのです。まあ、このところを正信会や学会がいろいろなことを言っているのですが、そのうちに日達上人は急に御遷化されたのですね。
 日達上人の御遷化の時には、私はちょうど常泉寺にいて、本山より電話がありまして、それですぐ夜駆(か)けつけたのです。それが、22日の明け方だったと思いますが、日達上人はすでに病院に入院されていたので、病院の方に伺ったわけですが、その日に御遷化されたわけです。そうなると、私としては、確かに「君に譲るのだ」とのお話はあったのだけれど、公表されてないから、それで一応念のために、そのこと(日達上人から日顕上人に対する御相承のあったこと)を誰か聞いているのではないかと思い、それをハッキリしておこうと思ったのです。
 それには菅野(すがの)師(大宣寺住職・常観院日龍能化、日達上人のご生前常にお側に仕えておられた)が、一番良く知っているのではないか、という思いがあってね。それで、ご遺体が大奥にご到着された後に、大奥の番部屋のようなところに親族の僧侶が大勢いて、珪道(けいどう)房(常在寺住職・細井珪道師)や菅野師もそこにいて、私が菅野師に「あなたは日達上人のご生前に、後のことについて何か伺っていますか?」と聞いたのです。そうしたら「ええ、次は総監さんだと日達上人より伺っております」と彼がハッキリと言ったのです。菅野師はある程度そのことを知っていた経緯があったからね。私もそう思っていたし、まして聞いて知っていたわけでね。
 それから大先輩で、公的私的な意味でも、若い時には指導も受けていた観妙院さん(法道院第3代主管・観妙院日慈上人)がおられてね。その時は私も総監になっていたのですが、(大先輩を差し置いた形で私自身が御相承をお受けしたということについて)やむを得ないから、「実はこれこれこういうことです」ということを観妙院さんにお話しして、また、藤本師(常泉寺住職・常徳院日潤能化)にも話をして、その上から(新法主としての)手続が行なわれたわけです。
 もし仮に、私が黙っていて、「血脈相承がなかった」ということになると、日達上人はどなたにも血脈相承をされないで御遷化されたことになるし、私としては、宗門の正義の上からの在り方、また「大聖人様以来御先師方より伝わって来た法が在る」ということをハッキリと証明する意味においても、私がお承けしたことを発表すべきである、と決断したわけです。まあ、そういうことで、藤本師もいろいろと考えてくれまして、その晩の通夜の時、当時重役であった常妙院さん(平安寺住職・常妙院日澄能化)から、私が新法主となった旨の発表があったわけです。

(第67世日顕上人『富士の法統』妙教編集室)


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残念ながら、日達上人は誰にも相承せずに御遷化(ごせんげ)されたと言うほかない。
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 御先師日達上人は、現御法主日顕上人に対して後継指名をなさり(その旨は、周囲の僧俗にも幾度も示された)、金口相承の御法門をことごとく日顕上人に御教示あそばされた(それを結成〈けつじょう〉されたのが、昭和53年4月15日の「甚深の御法門の御指南」である)。その上で、御代替わりの時機を選んでおられたが、その実施の前に忽然(こつぜん)と御遷化あそばされたのである。
 凡慮(ぼんりょ)としては、あと、わずかの猶予(ゆうよ)があったなら――とも思うが、しかし、こうした経緯によって、かえって、信仰に邪心を差し挟(はさ)む者共(正信会・創価学会など)が燻(いぶ)り出され、宗外へ放逐(ほうちく)されたことは、まさに全てが御仏意の妙用(みょうゆう)と、深く恐懼(きょうく)する以外にない。
さて、以下、妄説文が述べている、日顕上人の御相承に対する言い掛かりを破していく。なかには、過去に幾度も破折ずみの事柄もあるが、前号で血脈冒涜の根を截(た)ち、今回で誹謗の残りカスまで一掃すべく、労を厭(いと)わず破折することにしよう。(『慧妙』H14.8.1)

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【相承を示す証言】
・自己申告であり、証拠も何もない。証人すらいない?

【相承否定の傍証?】
<能化>
<日号の変更>
<「日達上人に対抗して・・・」>
<光久御尊能化の発言>
<菅野日龍御尊能化の発言>
<6月25日の件>


【相承の当日】
<御指南の時間>
<楠美慈調御尊師の証言>
<公の相承の儀>


【相承箱】
<御相承箱は公開するべきものではない>
<御相承箱の所在について>
<「奪還作戦」は完全なデマ>
<「相承箱」の中身>


【御登座】
<7月22日早朝の御措置>
・遺族に対して、「あとのことはどうなっているのか?」などと尋(たず)ねるのはおかしい?
<奥番との会話>


【御登座後】
<大奥での発言>
―初めての御目通り―
―昭和56年1月10日の無任所教師の御目通り―

<能化・宗会議員の声明文>

<山崎正友氏との取引?>
―正信会との和解―
―大石寺の墓苑建設―
―「頼むから、オレに血脈相承があったってことを認めてくれ」―

<「アレ(日顕上人)は除歴しなきゃならん」>

<「死ぬまで猊座にあり続ける」>


【一闡提と成り果てた証明】
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[憂宗護法同盟]=元日蓮正宗僧侶であったが、離脱して創価学会の傀儡(かいらい)、走狗と成り果てた者共である。これに所属する某離脱僧には、客観証拠により明らかなものだけでも、たった6年余の間に、何と総額7250万円もの大金が学会より支払われている。(『大白法』628号参照)これは一体何を意味するか、もはや誰の眼にも明らかである。この「同盟」は、学会とは別の反宗門組織のように装ってはいるものの、所詮学会と一体、その下部組織である。

[(自称)正信会]=昭和55年に血脈相承否定という大謗法を犯し、擯斥処分に付された謗法僧集団。発端は、昭和52年の創価学会謗法問題であり、池田及び学会の反省により問題を収束された日達上人、それを継承された日顕上人の御指南に従えずに学会批判を続けた反学会の者共が、ついには自らの保身のために日顕上人への御相承を否定する邪説を作り出した。現在学会が行っている血脈誹謗は、この邪説の焼き直しである。

[河辺メモ]=故・河辺慈篤御尊師の個人的な覚え書きのこと。御法主日顕上人猊下が本門戒壇の大御本尊を偽物と断じたとの妄言・誹謗記事の根拠として、創価学会が「河辺メモ」と称して悪用している。その内容は、昭和53年、御法主日顕上人猊下(当時教学部長)が外部よりの本門戒壇の大御本尊に対する多くの疑難について説明されたものを、河辺御尊師が書き留めたものである。個人的な覚え書きである上、主語・述語が不明確で、第三者が見れば誤解してしまうこともあり得る。学会は、御法主上人猊下誹謗のために、入手経路を明かせないまま、悪用している。(『大白法』531号、534号参照)
[画像]:「河辺メモ」

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 昭和54年7月22日の早暁、第66世日達上人は急逝されたが、その日の朝に開催された重役会議において、日顕(上人)は突然、「昨年4月15日、総本山大奥において、日達上人猊下より自分に対し、内々に御相承の儀に関するお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜わったことを御披露する」と言って、猊座についた。
 しかし、これは自己申告であり、証拠も何もない。証人すらいない
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 昭和53年4月15日における、第66世日達上人より現・日顕上人猊下への御相承は”内付”であって、公けの御相承の儀式は執り行なわれていない。
 しかしながら、日達上人のお側に近くに仕えていた方々は、御相承について日達上人より直々に、その御意を承っておられたのである。

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日達法主も同年、「阿部はとんでもない」「阿部はダメだ」「阿部は信用できない」などと日顕(上人)への不信を周囲に漏(も)らしていた。こんな関係で、相承などあるわけがない(『創価新報』平H18.10.4)
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 いくら学会が日達上人の発言を創作しても、日達上人が昭和54年5月に日顕上人を総監に任せられている事実1つで、これらのまやかしは雲散霧消してしまう。当時の日達上人の年齢および御体調から考えても、あの時点で日顕上人を宗務院のナンバー2である総監に任ぜられた、ということは後継に据(す)える御意志であったことは明白である。
 また、当時、複数の有力な僧俗が、日達上人より、次は日顕上人に譲る旨(むね)の御意志を伺(うかが)っているのである。(『慧妙』H26.7.1)

●(妙修尼に)あなたの息子さんに後をやってもらうのですからね、早くよくなって下さいよ(日達上人/光久御尊能化証言『大白法』H15.11.1)
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昭和49年1月、京都市平安寺へ妙修尊尼を見舞いに御下向されたときの御発言

●(野村慈尊師に対して)妙修さんにな、あなたの息子さんに後を譲るから安心しなさいと言って励ましてきたよ(日達上人/野村慈尊御尊師証言『大白法』H15.11.1)
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京都から総本山に戻られたときの御発言

私のあとは、(法主を)阿部教学部長(現・日顕上人猊下)にやらせようと思うから、後見を頼みますよ。(第66世日達上人/『慧妙』H14.6.1)
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53年4月中旬、菅野日龍御尊能化(大宣寺御住職)、細井珪道尊師(当時は清涼寺御住職。現在は常在寺御住職)ならびに信者の塚本素山氏を大石寺出張所に呼ばれての御発言。

昭和54年4月末、日達上人は、「10月に登座20周年を迎えたあと、隠居して、阿部(日顕上人)にゆずろう。その時は、菅野慈雲(※日龍御尊能化)を総監にすえ、隠尊となった自分と、上下からしっかり体制を固め、見守ろう」と言われ、5月1日、阿部教学部長を宗門ナンバー2の総監に任ぜられた。(山崎正友氏の手記=正信会当時/『慧妙』H14.6.1)
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日顕上人御登座後、宗門行政との食い違いから正信会に所属し、宗門・日顕上人と対立する立場となった山崎正友氏(元・創価学会顧問弁護士。現在は法華講員)が書いた手記においてすら、その事実が記(しる)されている。

●(日顕上人に内付があったという発表を聞いて)そういわれてみれば、昭和53年4月を境として、それ以後、日顕上人が本山へ来られた時など、日達上人は、日顕上人を対等に遇されるよう御指示されていた(早川検道尊師=昭和53年当時、日達上人の奥番『慧妙』H14.6.1)

 また、この53年4月以降、地方への御親教の際などにも、時間の合い間を見つけては、日達上人が現・日顕上人に「花押」の書き方を御指南されているのを、随行の役僧の方が拝見した旨、語られている。
 かくのごとく、当時の宗門において立場のたしかな方々が、御相承の事実を拝信され証言されているのであり、これらの厳然たる事実の前には、創価学会の邪説・邪難が入り込む余地はどこにもないのである。(『慧妙』H14.6.1)




【相承否定の傍証?】
<能化>
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もし仮に相承を譲(ゆず)ったとすれば、当然その後、日顕上人を「能化」にし、後継者たる資格を内外に明確に示されたはずである。しかし、実際には、日顕上人が相承を受けたという53年4月15日から、御逝去される翌年の7月22日まで、そのような事実もなければ、動きすら、ただの一度もなかった
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あえて周囲に知らせない目的で行なわれるのが「内付」なのだから、内付をされておいて同時に「内外に明確に示され」るはずがない。(『慧妙』H14.8.1)




<日号の変更>
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>日顕上人のもともとの日号は「日慈」であったが、登座に際し、すでに日号を名乗られている早瀬日慈重役と名前が重なるため、御自身の日号を「日顕」と名乗られることにした。(『法主詐称』)

>本来は相承を受けた時点で日達上人と相談のうえで変更するのが筋。(同)

>登座する段になって、慌(あわ)てて先師から授(さず)かった日号を捨てて、日顕(上人)と名乗る。こんな先師否定、先師違背の大冒涜(ぼうとく)も珍しい。(同)

>この日号改変の慌ただしさは、日顕(上人)に相承がなかったことを何より雄弁に物語っている。(同)
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 日号は本来、時の御法主上人から戴(いただ)くものであり、これを一般の僧侶が自ら変えることは、むろん師に違背することとなろう。
 だが、日顕上人の場合は、日達上人の急な御遷化(ごせんげ)によって御代替わりされ、自らが御法主として日号を変更されたのだから、何の問題もない。べつに「先師違背の大冒涜」でもなければ、「相承がなかったことを何より雄弁に物語っている」ことにもならぬのである。(『慧妙』H15.8.16)

キミたちが不遜(ふそん)にも「大聖人直結のお方」などと持ち上げる、総本山第26世日寛上人は、当初、現御法主日日如上人と同じく「日如」と名乗られていたのである。ならば、1.いつから「日寛」とされたのか? 2.どなたから「日寛」と付けていただいたのか? とりあえず、この2点について、来年の1月中の『新報』ででも答えてもらおう(『慧妙』H18.12.16)



<「日達上人に対抗して・・・」>
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(脱落僧の工藤玄英・大橋正淳が昭和53年5月に日顕上人から聞いた話、として)「ワシも日達上人に対抗して、仲間を募(つの)ろうと思うのだが……」などと、日達上人への対抗心をむき出しにしていたことを忘れたとは言わせない。
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 だが、当時から「池田先生が衣を着ければ即大聖人様」などと〝池田本仏論〟を主張していた堕落僧・工藤や、寺の入仏落慶式に池田の等身大写真を祀(まつ)るような売僧(まいす)・大橋らの与汰話を、平気で証言として挙げてくる感覚が異常だ。はっきりいって、こんな話を信じる方が莫迦、としか言いようがない。
 また、そもそも日顕上人は、今日に至るまで、一度として派閥のようなものを作ろうとなさったことなどなく、常に公平平等を旨としてこられた。そのことは、宗内の大多数が存じ上げている常識である。(『慧妙』H14.8.1)



<光久御尊能化の発言>
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光久御尊能化が内付の日時に関して、「4月15日にしていいのですか。あの日は達師が忙しい日だが」と日顕上人猊下に質問
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●それについては、光久能化にはかなり明確な記憶があるんですね。それは「4月15日」の御相承の件で、御法主日顕上人に「あの日は日達上人の御誕生日で、お忙しい日でしたですね」と申し上げたのだそうです。それに対して、御法主上人は「私もそういう特別な日と記憶している。むしろだからこそ、あの日のことをはっきりと覚えているのだ」と仰せられたとのことです。また「4月15日にしていいのですか」などという疑うような不遜なことを言うはずがないと明確に否定されています。(早瀬庶務部長『大白法』H15.11.1)




<菅野日龍御尊能化の発言>
―「昭和53年4月15日の件は知らない」―
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(入手経路を明かせない通称「河辺メモ」を頼りに、)菅野日龍御尊能化が「昭和53年4月15日の件は知らない」
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 御法主が次期御法主に対し、御相承の法門を結成する御指南をあそばされた――それを、一いち他の方に話されることの方が不自然である。
 だから、「昭和53年4月15日の件は知らない」のが当たり前で、むしろ、菅野尊師が、日達上人より後継指名の御意を明確に聞かされていた――これこそが大事なのである。(『慧妙』H14.8.1)


―「未だ相承をされていないのか、と思った」―
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59年12月7日の「河辺メモ」には、菅野師が「(54年5月7日、日顕上人の)総監決定の時に、日達上人が躊躇(ちゅうちょ)されていたので、未だ相承をされていないのか、と思った」と証言した事実が記録されている。
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 しかし、「未だ相承をされていないのか、と思った」との言葉から、逆に、菅野尊師が日達上人より、阿部日顕上人を後継者として選定された(御相承する方と決めた)旨、予め伺(うかが)っていたことが明らかである。
 その上で、日達上人が日顕上人(当時・教学部長)の総監任命を躊躇されたとしたら、それは、任命のタイミングとか、何か、お考えになられるところがあったのだろう。
 いずれにせよ、その時点で、日顕上人は宗門行政上のナンバー2である総監職に就(つ)かれたのだから、このことは、当時の日顕上人が日達上人に次ぐ御立場であることの裏付けにはなっても、否定の材料になどなりえない。(『慧妙』H14.8.1)


―「相承をしていないんだよ」―
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>「日達上人は相承をしていないんだよ。もし、していたら私が知っているよ。」

>「日達上人が日顕上人に対して、人前で平気で、『オイ、お前』と呼んでいた。」
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●これも捏造です。事実は全く反対で、私はこの頃、日達上人の日顕上人に対する御振る舞いが変わられたことからも、日達上人から日顕上人へ御相承がなされたことを確信しておりました。ですから、私がそのようなことを言うわけがありません。捏造です。まったく卑劣な者たちです。(菅野日龍御尊能化『大白法』H15.11.1)



<6月25日の件>
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(昭和53年6月25日に、御先師日達上人がある信者に、次期御法主の座を日顕上人に「譲るつもり」だと言われたことを取り上げ)すでに4月15日に御相承がなされていたのなら、なせ6月25日の時点で、「譲るつもり」と言われたのか。
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●それが創価学会と憂宗護法同盟の愚かなところだね。すでに4月15日には日達上人から日顕上人への御相承は済んでいるが、こと血脈相承に関しては、たとえ相手がいかに有力な信徒であろうと、正式に宗内へ公表する以前の内付の段階で、一信徒に対してすでに血脈相承を行ったなどと明かされるはずもなく、だからこそ「譲るつもり」と仰せられたのだと拝します。(早瀬庶務部長『大白法』H15.11.1)

●私はむしろ、その信徒に対して、「次は阿部(日顕上人)に譲るつもりでおりますので、よろしくお願いします」と言われたこと自体が重大な意味を持っていると思います。この件については私も正信会裁判のときに報告書に書きましたが、6月25日の日達上人のこの御言葉により、私はすでに日顕上人に御相承なされているのだなと確信しましたし、それが昭和53年4月15五日の御相承であったと固く信じております。(菅野日龍御尊能化『大白法』H15.11.1)




【相承の当日】
<御指南の時間>
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相承を受けたという昭和53年4月15日についても、当日誕生日であった日達上人の過密なスケジュールを見れば、日顕上人と2人きりの場などなかったことは一目瞭然である。
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この学会側の疑難の前提となっているのは、近代における2、3の御相承の事例に基づき、〝御相承は「1時間乃至1時間半という濃密な時間をかけ」て行なわれるもので、わずかな時間しかない中ではできえない〟という見解だ。だが、そもそも、この前提からして間違っている。(『慧妙』H14.7.16)

●唯授一人の金口の内容を(日興上人が)御自身の御境界においてお示しになったものが存するわけです。それが、すなわち金紙(こんし)であります。(中略)日精上人が『家中抄』の道師伝に、(中略)「別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり」(聖典695頁)ということをおっしゃっておりますが、これはまさしく金紙であります(第67世日顕上人)
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この「十二箇条の法門」が、御先師と御当代が相向かわれて伝えられる、秘伝の御法門なのである。 儀式を整え、1回に濃密な時間をかけて伝授される場合もあろうが、日常の師弟相対の中で、ある程度の期間にわたり何回かに分けて伝授なさることもできる。また、付弟(ふてい)として選ばれた御方が、すでに、ほとんど法門の深義に到達されていれば、「十二箇条の法門」のうちの肝要のみを伝授なされれば足(た)りるし、あるいは、付弟として選ばれた御方に「金紙」を授け、もって秘伝の御法門を伝えることも可能である。(『慧妙』H14.7.16)


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>午前9時半に故山口範道師ほか2名の僧侶の御目通り、午前10時頃、原田篤道師一行の御目通りがあり、午前11時頃には日達上人は東京へ向けて出発された。どこにも御相承を受ける時間はなかった。

>細井珪道師が日達上人を追って、宴席を早々に切り上げて東京へ向かった。
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●日達上人の御長男で現常在寺御住職の細井珪道師から伺った話ですが、細井師夫妻は4月15日の当日、総本山で媒酌人として原田篤道師の結納の儀に立ち会われ、富士宮市内の店で祝いの宴席にも出席されたそうです。(中略)日達上人が総本山を御出発されたのは午後3時過ぎであり、また細井師夫妻も宴席を早々に切り上げる理由もなく、富士宮の店を出発したのは、宴席の終了した後の午後1時少し前だったとのことです。(阿部信彰御尊師『大白法』H15.11.1)

●このこと(※日達上人が午後3時過ぎに総本山を発たれたこと)は正信会裁判の折、昭和62年頃に裁判所へ提出した細井珪道師の報告書にも述べられていることだね。この日、御先師日達上人と御当代日顕上人が御相承のために充てられることができた時間は、優に6時間以上もあったんだよ。創価学会弁護士はこの件についての自称正信会の大嘘を見抜いていたからこそ、この報告書を作成したはずだね。創価学会は、そのことにほっ被りして、正信会の大嘘をそのまま用いた『法主詐称』を新聞で大々的に報道するとは、道義も何もあったもんじゃないね。(早瀬庶務部長『大白法』H15.11.1)



<楠美慈調御尊師の証言>
●4月15日の件については、当日、楠美慈調大学科事務局長が総本山で日顕上人猊下をお見かけしたという証言があったね。楠美君はこの頃、常灯坊の住職で、宗務院の書記として富士学林の仕事をしていたはずだが。(早瀬庶務部長『大白法』H15.11.1)

●宗務院の東端にあった印刷室で仕事をしていた時に、たまたま内事部玄関のほうを眺めたところ、事務衣に小袈裟を着けられた日顕上人(当時教学部長)が、内事部玄関へお入りになるところだった(楠美慈調御尊師の証言=趣意/『大白法』H15.11.1)

●当時、総監さんや宗務院の方々が登院される時は、通常大講堂東側にある宗務院の入口を使われるが、その日、日顕上人が内事部玄関から入られたということは、何かのご用で日達上人に御目通りをされ、その後で宗務院のほうへ見えるのだろうと思っていたが、結局、その日は宗務院へは来られなかった(楠美慈調御尊師の証言=趣意/『大白法』H15.11.1)

●宗務院の部長が、宗務院玄関ではなく、遠回りの内事部玄関から、それも小袈裟を着けて入られたということは、その目的はただ1つ。御先師日達上人猊下への御目通りしかないね。(藤本総監『大白法』H15.11.1)


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楠美君は近眼だが、普段眼鏡をかけていないから、大講堂3階の宗務院から内事部玄関は見えなかったはず。
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●新説免許の折に作って以来、ずっと眼鏡をかけていた。ただし、それほどひどい近眼ではないので、眼鏡がなくてもどなたかを見分けることはできた。(楠美慈調御尊師の証言=趣意/『大白法』H15.11.1)


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昭和53年4月15日、血脈内付の当日、楠美君が総本山で阿部教学部長を目撃したのなら、正信会裁判の折に何故出廷させなかったのか。
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●特に隠していたわけではない。正信会裁判が盛んだった頃、何名かの僧侶に、自分は昭和53年4月15日に内事部に入られる日顕上人猊下をお見かけした、もし上から命じられればいつでも証言しますと話した。ただ誰からもそれについての話がこなかったので、自分からしゃしゃり出るのもどうかと思い、それ以上話さなかっただけ。(楠美慈調御尊師の証言=趣意/『大白法』H15.11.1)

●当時は今のように宗務院渉外部の人たちが活躍する状況ではなく、裁判の進行は創価学会の弁護土に任せていたと思う。その意味では、学会側が楠美君について、「正信会裁判の証人になぜ出さなかった」などと非難するのはあたらないね。(早瀬庶務部長『大白法』H15.11.1)


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「総本山大奥において猊下と自分と2人きりの場において」というが、奥番日誌には日顕上人の名前は見当たらないし、本山で日顕上人を見たという者すらでてこない。
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 「名前は見当たらない」も何も、この当時は、まだ「奥番日誌」というもの自体が付けられていない
 また、昭和53年4月15日の当日、日顕上人が御一人で日達上人の御もとへ行かれた事実は、当時、奥番をしていた御僧侶をはじめ、山内の複数の僧侶方の記憶と証言によって、前々からはっきりしているのである。(『慧妙』H14.8.1)



<公の相承の儀>
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日達上人が日顕上人に相承するつもりがあったのなら、日達上人御自身が先師日淳上人から御相承を受けた時の経緯に鑑み、周囲に明確にその意志を告げ、2人きりの場などでなく、公(おおやけ)に相承の儀を行なったであろう。
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 なるほど、後世に動揺を起こさぬためには、日淳上人の場合に拝するように、公に御相承の儀式を示されることもあろうが、そもそも御相承の本義は、御一人から御一人への唯我与我の秘伝であるから、宗祖から日興上人、日興上人から日目上人、日目上人から日道上人、また御歴代先師方の多くの事例がそうであるように、むしろ公の儀式を伴わない〝内付〟という在り方が基準と拝せられるのである。
 ことに、日目上人の場合のように、大事の天奏(国主諫暁)に当代の御法主として臨むにあたり、万一の備えとして、予め日道上人に法を付してから旅立とうとされれば、その御相承は、公の儀式を伴わない、言い換えれば他の誰にも知らさない、〝内付〟という形をとられることは当然である。
 翻(ひるがえ)って、昭和53年4月当時の日達上人は、学会の第1次教義逸脱問題による大波乱が続く中、御登座20年になんなんとする大御法主として、一歩も退けぬ御立場で事態の解決に当たっておられたが、一方では、四大の御不調により、万一の備えとして、後継のことをお考えにならざるをえない状況であった。
 このような中で、日達上人が次期御法主を選定される場合に、日目上人の先例と同じく、〝内付〟の形をとられるであろうことは、むしろ誰が考えても、当然すぎるほど当然の御措置であるといえよう。(『慧妙』H14.8.1)

〈阿部信彰御尊師〉彼らは、ここで総本山33世日元上人から35世日穏上人、57世日正上人から58世日柱上人、63世日満上人から64世日昇上人、そして65世日淳上人から66世日達上人の4例の御相承を挙げています。
〈早瀬庶務部長〉たしかにこれらの御相承が、それぞれの客観的な状況は異なるにせよ、儀式としての形を採られていることはそのとおりだね。ただし、だからと言って、内付の形を採られた御先師日達上人から御当代日顕上人への御相承が軽いなどと誹謗することはとんでもないことだよ。
〈藤本総監〉まさにそのとおり。700有余年、67代の御法主上人に至る間には、様々な御相承の姿が存したことは言うまでもない。そして、そのすべてを厳然たる御相承として拝信することが本宗の信仰における根本のあり方だよ。(『大白法』H15.12.16)

 もとより、創価学会が躍起(やっき)になって血脈相承を否定せんとするのは、血脈があるかぎり日蓮正宗が正当な大聖人門流となって、自らは大聖人と無縁の新興邪宗教となってしまい、その存立基盤が揺らぐことになるからに他ならない。
 だが、そのように言うのであれば、日蓮大聖人は本弟子6人の中から日興上人ただ御一人に仏法の全てを血脈相承され、その証書として身延・池上の両相承書をしたためられたが、血脈相承の儀式を行なった記録はない。
 また、総本山大石寺が建立されて以降は、第3祖日目上人から日道上人への御相承をはじめ、証書すら認(したた)められなかった例も多い。それは、大石寺の住職に就(つ)く御方が血脈相承を受けられた方である、ということが明確になったため、必ずしも証書が必要ではなくなったからであろうと拝される。
 それを、日顕上人の時には御相承の儀式があったとか、なかったとか、訳知り顔で云々すること自体、何もわかっていない証明のようなものである。
 そもそも日蓮大聖人の仏法の深義は、2祖日興上人以来、御歴代上人に、相伝によって伝えられているのである。相伝を否定して、法門は全て御書に顕わされているというのであれば、同じ題目を唱え同じ御書を拝する、身延等の他門流の日蓮宗でも、何でも良いことになる。
 しかし、血脈相承なくしては、大聖人の仏法の正義は存しえない。
 現に、大聖人滅後、血脈相承を受けられた日興上人以外の五老僧は、大聖人を御本仏と拝することができず、天台沙門と名乗って幕府等からの迫害を逃れた。また彼らは、大曼荼羅を末法適時の御本尊と拝することもできなかった。日興上人ただ御一人が大聖人の聖意を拝しておられたことは、御消息に明らかである。
 それ以降の御歴代上人においても、その時代時代において、様々な宗門の実情や時代背景がある中、他門の邪義を破しつつ、確実に正法正義を今日まで伝えてこられた。
 これは、すべて、大聖人の甚深の仏法が血脈相承によって本宗にのみ伝わっているが故、に他ならないのである。
 創価学会において、日蓮大聖人を御本仏と拝し、大曼荼羅を御本尊と仰ぐことができたのも、それは日蓮正宗にのみ伝わる血脈相伝の仏法に縁したからである。その血脈相伝を否定することは、じつは自らの依(よ)って立つ根本を否定し、破壊することになる。この矛盾(むじゅん)に気がつかないことこそ、頭破七分ここに極まれりというべきである。(『慧妙』H19.5.16)




【相承箱】
<御相承箱は公開するべきものではない>
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この箱(相承箱)を所持していることが、相承を受け取った法主であることの何よりの「証拠」だったのである。(『法主詐称』)
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 そもそも御相承箱とは、その名が示すとおり、唯授一人の御相承という大事に拘(かか)るものであり、相承とは本来、
 「秘すべし伝ふべし」(『本因妙抄』御書1684、全集877頁)
と仰せのごとく「秘伝」なのである。「秘伝」であるから、公けに示す「物証」とは性質が全く違うし、事実、この御相承箱を「法主であることの何よりの『物証』」にした前例など、宗史に1つとしてない
 こうした、御相承箱を「法主であることの物証」だなどという、珍無類な発想をするところが、やはり池田狂の走狗たる脱落僧である。このような御粗末な程度だから、日蓮正宗の僧道から転げ落ちたのだろう。(『慧妙』H15.8.16)



<御相承箱の所在について>
―疑難は流言蜚語の典型―

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ところが、この大切な相承箱が、今現在、本来あるべき日顕(上人)の手元にないというのだ。(略)では、いったい相承箱はどこにあるのか。ある僧侶は語る。「日達上人はかなり以前から、大宣寺の菅野(尊能師)に相承箱を預けていたといいます」(『法主詐称』)
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御相承箱が「日顕(上人)の手元にないという」などと、御相承箱の所在について、いいかげんな臆説(おくせつ)を伝聞の形で書いているが、これを称して流言蜚語(りゅうげんひご)というのだ。

●15日午後6時12分、日淳上人の命により、御相承箱を守護して左記の6名、大講堂横より出発(略)16日午前6時 山門着、御大事(※相承箱)御宝蔵へ納(65世日淳上人から66世日達上人への御相承の儀式の記録『大日蓮』昭和34年12月号)
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この時の儀式の終了後、御相承箱は再び大石寺御宝蔵へ収納され、以来、今日まで変わることなく厳護されてきている。この間、御相承箱を、たとえば「大宣寺」に移したとか、「預け」た、などという記録は全くないし、そのような証言も証拠も何1つないのである。

 そもそも、いったい何故、日達上人が御相承箱を大宣寺に預けられる必要があろうか。御相承と一体不可分の関係にある戒壇大御本尊は大石寺に厳護されているのに、御相承箱については「かなり以前から大宣寺」に「預けていた」などという、たわけた話があるはずはないではないか。
 しかも、その根拠は、ただ「ある僧侶」とやら(おそらくは日蓮正宗から脱落した元僧侶であろうが、それは僧侶ではない)が、これまた伝聞の形で「預けていたといいます」と語った、というだけ。結局、この話、どこまでいっても、流言蜚語でしかないのである。
 むろん、これについて日蓮正宗側では、「何の根拠もない妄説である」として明確に否定され、一方の当事者とされた大宣寺・菅野尊能師も、「御相承箱を預かったなどという事実は全くない」旨、明言されている。
 このように、記録の上からも道理の上からも疑いがなく、また当事者双方も揃(そろ)って否定している以上、これにあくまでも疑義を挟(はさ)みたいなら、いつ、いかなる目的で、日達上人が御相承箱を大宣寺に預けたのか、明確な根拠を挙げて、自説を証明すべきであろう。言い掛かりを付けた側に、その証明責任があるのは当然である。(『慧妙』H15.8.16)


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相承箱を手元に留(とど)め置いている菅野(尊能師)が「相承箱は大宣寺にあり、代が替われば本山に返す」と言っている(『続・法主詐称』)
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 しかして脱落僧らは、これらの論難が「菅野(尊能師)の口から、宗内の複数の僧侶に語られた」「菅野(尊能師)がごく近しい人間に語った話」だなどと、都合のいい説明をしているが、"当事者"にされてしまった菅野日龍尊能師、および役僧の方々は、平成15年7月22日の時点で、すでに「御相承箱を預かったなどという事実は全くない」「かかる記述は全くの事実無根である」旨、明言されているのであるから、今さら何を言おうと、全く無意味。
 脱落僧らに残された道は、"菅野尊能師から聞いた"とする人物を登場させることだけだが、前書(※『法主詐称』)が発行され、これに徹底破折が加えられてから1年半が経(た)った今でも、まだそれを明かせないということは、脱落僧が自ら"相承箱疑惑は捏造(ねつぞう)でした"と告白しているようなものである。(『慧妙』H17.2.16)



<「奪還作戦」は完全なデマ>
―自らも「信じ難い」と白状―

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>昭和56年1月13日、日顕上人のほか役僧4人が、御相承箱を奪(うば)い返すために大宣寺へ乗り込んだが、体(てい)よく追い返されてしまい失敗したという(『法主詐称』)

>にわかには信じたい話だが、相承箱が日顕(上人)の手元にないことだけは確実のようだ。(同)
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 自らも「信じがたい話」なら、普通は書かないものだが、それがダイジェスト版のパンフになると、
 「このほど発覚した衝撃の新事実、『相承箱奪還作戦』」
という断定的表現に変わり、さらに、この悪書を紹介した『創価新報』(H15.7.16)になると、
 「やはり日顕(上人)には『相承箱』がなかった! 大宣寺に押し掛け菅野(住職)から奪い取ろうとして失敗」
などという大々的な見出し記事に仕立て上げられていく。
 まったく、あるジャーナリストの言葉ではないが、この手口は、〝デマの発生と肥大〟の様相を知るのに格好の教材といえよう。
 ともあれ、前述のように、御相承箱が大石寺御宝蔵に蔵されており、大宣寺に預けた等の事実がない以上、もとより「奪還作戦」などということも、あろうはずがない。いみじくも脱落僧自らが「信じがたい話」と述べているように、これまた「という」類(たぐい)のいいかげんな与汰(よた)話にすぎないのである。
 ちなみに、本紙前号でも既報のとおり、この「奪還作戦」なる与汰話の中で実名を挙(あ)げられた、尊能師、役僧の方々は、これを事実無根の作り話として否定し、池田創価学会および脱落僧に対し、責任を追及する通告書を送り付けられている。(『慧妙』H15.8.16)

●私としても昭和56年1月13日にそのようなことがあったなどと言われることは、まったく身に覚えのないことです。第一、「御相承箱」が大宣寺にある訳がないのだから、それをあるなどと口にするはずはないんだよ。それに大宣寺所属のある法華講信徒がこの日1日中、大宣寺の旧本堂で唱題をしており、そんな騒がしいことはまったくなかったと証言しています。(菅野日龍御尊能化『大白法』H15.10.1)


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1台の乗用車に日顕上人以下5名の方が乗車されて大宣寺に向かった(同・取意)
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〈早瀬庶務部長〉大体、13日と言えば、総本山は宗祖日蓮大聖人様の御講の日だし、末寺も御講で忙しい日です。それに彼らは1台の車に5人が乗ったとしているが、御法主上人が助手席に乗られることなど考えられないし、後席に3人掛けでお座りいただくことも、まずあり得ません。
〈阿部信彰御尊師〉私も前年の昭和55年9月に単身でブラジルヘ赴任しており、同年の暮れにいったん日本へ帰国したのですが、実はその頃、体調を崩しており、とても御法主上人をお乗せして運転できる状況ではありませんでした。
〈八木日照御尊能化〉そうだね。昭和56年1月というと、あの当時、御法主上人のお車の運転はたしか警備も兼ねて柳坂特道師(現マレーシア布教所責任者)や磯村如道師(現要行寺住職)が専任していたはずです。総本山からお出かけの場合、他の者が御法主上人専用車を運転することなどまず考えられないね。
〈菅野日龍御尊能化〉それと大宣寺には当時、数名の教師とかなりの数の所化が在勤しており、御法主上人が御下向され、しかもそんな騒動があれば、とっくの昔に宗門全体に話が広まっているはずです。本当にすぐ判ってしまうような嘘を、なぜつくんだろうな。(『大白法』H15.10.1)



<「相承箱」の中身>
―日亨上人お言葉を捏造!―
―自らの影に吠えつく痴犬―

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この相承箱の中身について、堀日亨上人は生前、「百六箇抄、本因妙抄、この両書に関するもの。あとは授受の代々の法主が伝える1枚の紙切れ」と明かされている。「紙切れ」とは、いかにも堀上人らしい表現だが、「誰が誰に相承した」という系譜図のようなものといわれている。そこで、俄然、問題になるのが「誰が誰に相承した」と書き付けられた「紙切れ」に、果たして67世法主・阿部日顕(上人)の名前はあるのかという疑問である。(『法主詐称』)
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 あろうことか、「秘伝」の御相承箱の中身についてまで、勝手な臆測(おくそく)を述べたてている。
 まず、彼奴らが物知り顔で挙げている、59世日亨上人お言葉と称するものだが、このとおりの日亨上人お言葉はどこにも存在しない
 そもそも、唯授一人相承に拘る「金紙(こんし)相承」という名目を、御当代日顕上人が平成4年に初めて明かされる以前、御歴代上人におかれては、これを伏せて、時に、天台法華宗等における「切紙相承」のようなもの、と表現されることはあった。これを彼奴ら脱落僧が、勝手に「1枚の紙切れ」などと言い変えているのである。
 つまり彼奴らは、「切紙相承」と「紙切れ」の違いすらわからぬ、オソマツな似非(えせ)僧侶だということだ。
 また、それ(紙切れ)は「『誰が誰に相承した』という系譜図のようなものといわれている」などというのも、彼奴らの勝手な作り話であり、このような珍説が宗内一般に流れたことは、近代にも絶えてない。
 こうした自らの作り話に基づき、彼奴らは「(系譜図のような紙切れに)阿部日顕(上人)の名前は影も形もないに違いない」などと騒ぎ立てているのだが、これでは、まるで自分の影に吠えつく痴犬である。馬鹿馬鹿しくて、話にならぬではないか。(『慧妙』H15.8.16)


―相伝書と御相承は別と御講義―
御相承の中には両巻抄(筆者注・『百六箇抄』と『本因妙抄』のこと)はない(第59世日亨上人御講義=昭和18年/大村寿道御尊師等による「聞書」)
富士の相承は必ずしも両巻抄に依るのではない(第59世日亨上人御講義=昭和18年/大村寿道御尊師等による「聞書」)
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 『百六箇抄』と『本因妙抄』が「血脈相承」に含まれてはいないと、彼らの大嘘とは正反対を述べられているのである。
 彼らは、御相承の内容は『御書全集』等にすべて公開されているかのように言うが、御相承を知らない者がどうこう言えるはずはなく、勝手な推測である。
 御相承が厳として存することは右の日亨上人の「聞書」の文からも明らかである。『百六箇抄』や『本因妙抄』等は日蓮大聖人の文底下種仏法における広義の「血脈相承」に含まれる御法門の相伝書であることは当然ながら、いわゆる唯授一人の血脈の御相承書ではないのである。(『大白法』H15.11.1)




【御登座】
<7月22日早朝の御措置>
―遺族への確認―
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もし、日達上人から日顕上人に相承があったというのなら、日達上人が御逝去された昭和54年7月22日早朝、何故遺族に対して、「あとのことはどうなっているのか?」などと尋(たず)ねる必要があったのか。(妄説文)
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 この状況の描写は正確ではない。正しくは、
 7月22日の早朝、あわただしい状況下の本山に着かれた日顕上人は、むろん御自身としては、前もって御相承を受けられているお立場であったが、それが〝内付〟の形であったことから、〝日達上人の側近であれば、予(あらかじ)め、その御内意を伺(うかが)っていたであろう〟と思(おぼ)し召(め)しになって、念のため、菅野尊師らに「あとの当職(とうしょく)について聞いているか」と質問をなさった。(中略)
 すなわち、この後に行なわれる後継発表に先立ち、無用の混乱を避けるためにも、日達上人の御意を伺っていたであろう方々に、念のため確認をされたのである。宗門を統率されていく御立場として、じつに当然の御措置(そち)であり、なんら誹謗されるべき筋合いなどないことは、明白であろう。(『慧妙』H14.8.1)

●菅野師(現菅野日龍御尊能化)に対して、お側におられた御遺族として、御先師日達上人からどのように聞いているかを御確認されたのも、日顕上人への御付嘱が1年以上前の内付という形で、一般にあまり知られていなかったことから、突然の御遷化に際して、御自身がお一人で宣明されるだけでなく、御遺族が聞いておられることも確認することによって、宗門万代の団結への御配慮をされたものと有り難く拝すべきと思います。(藤本総監『大白法』H15.11.1)

●すでに法を付された御法主上人でいらっしゃいますから、当然のことであり、このように申し上げるのはまことに失礼ですが、あの西奥番部屋での確認のお尋ねの折、創価学会や憂宗護法同盟の者たちが誹謗するような「猊座への執念」など少しも感じられませんでした。ただただ、法をお護りあそばされるための配慮というか、そういう大きな御立場から御確認なされたと感じています。(菅野日龍御尊能化『大白法』H15.11.1)


―遺族が後継指名?―
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このときに日達上人の遺族によって後継が指名された。(妄説文)
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●たしかに、後継の件について、日顕上人猊下(当時総監)から御確認がありました。それに対して、かねがね日達上人は日顕上人を後継にとお考えになられており、そのことを日顕上人御本人にもお伝えされていたことは遺族一同も承知しており、別の方へというお話は一切伺っておりませんから、遺族を代表して、その場におられた日顕上人や藤本総監(当時庶務部長)に、「次は阿部さんがなると日達上人より伺っております」とお答えしたのです。(菅野日龍御尊能化『大白法』H15.11.1)



<奥番との会話>
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>御法主日顕上人が奥番に対して「日達上人の鶴の紋の入った袈裟・衣はないか」と言ったのはおかしい、なせ前もって衣を作っておかなかったのか。(『法主詐称』取意)

>奥番に「御秘符をどのように作っておられたか」と聞かれた。(同)
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〈菅野日龍御尊能化〉まず始めの袈裟・衣の件については、御当代上人が法を内付された時点で、予め法衣を作られるなどということは、あり得ようはずがないね。あくまでも内付なのだから。ちなみに、日達上人の御遷化が突然であられたので、遺族として私と細井珪道師が、御遷化後まもなく、「鶴丸の紋」の入った正式な袈裟・衣と指貫(さしぬき)一式を学寮の日顕上人のところへお届けしております。
〈阿部信彰御尊師〉次の御秘符の件は、現在は教師になっている当時の奥番の話によれば、御法主上人猊下から御秘符の作り方を尋ねられたなどということは、当然のことながら一切なかったとのことです。(『大白法』H15.12.16)




【御登座後】
<大奥での発言>
―初めての御目通り―
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(大奥へお入りになり、塔中・山内の教師一同に対する初めての御目通りの場で日顕上人が)「ワシの血脈のことでガタガタ言っているようだが、じゃあ、ほかに相承を受けた者がいるのか。いたら手を挙げてみろ!」とタンカを切った。
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●当時、私は総本山塔中の蓮成坊の住職を務めており、宗務院庶務部長を拝命していたから、当然、御当代日顕上人猊下の山内教師への最初の御目通りの場にも列席していたが、そんな乱暴な御言葉など一言もなかったね。むしろ厳粛な雰囲気の中にも、山内教師一同に丁重な御挨拶をいただき、一同も謹んでお祝いを言上申し上げたと記憶しています。(藤本総監『大白法』H15.11.1)

●御登座の折、日顕上人のお供として総本山に登り、その場に同席しておりましたが、たしか、塔中代表の御祝辞を受けられたあと、宗開両祖をはじめ御歴代上人、御先師日達上人の御遺志を体し奉り務めたい、と御丁重な挨拶をされたと記憶します。(八木日照御尊能化『大白法』H15.11.1)


―昭和56年1月10日の大奥対面所での無任所教師の御目通り―
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御法主上人猊下が終始大きな声を出された。(『継命』取意)
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〈阿部信彰御尊師〉事実は数を頼んで、あちらこちらから質問が繰り出される状況の中で、御法主上人猊下が諄々とお話しになられているときに、特に1人、非常に無礼な態度の者がいたとのことであります。ですから、暴言を吐いたその者に対して、自ら法主の尊厳をお守りになるお立場において、この場を立ち去るよう叱責されたのであり、あとは理不尽、かつ違法な内容の質問に対して、その都度、厳しく御注意なされたものと思います。
〈菅野日龍御尊能化〉『正信覚醒運動の歩み』の中では、この御目通りの折の長い時間の中における時々の厳しい御注意だけを、切り文で並べているから、いかにも御法主上人の御言葉が終始乱暴のように見えるが、この間にある多くの自称正信会側僧侶の無礼な言葉を削除しているね。まったく卑劣なやり方をする連中だな。
〈早瀬庶務部長〉それでは『法主詐称』の誹謗と実際はまるで状況が違うね。集団で弟子が師匠に対して無礼な行動をとる、しかも御法主上人猊下を蔑ろにするなどということは、師弟相対の日蓮正宗の僧侶にあるまじき振る舞いというほかはないね。本来なら全員下山を命じられても当然だな。


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『法主詐称』には、当日の御法主上人猊下と無任所教師とのやり取りが、まるで血脈相承の有無に関してであるかのように書いてある。
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〈八木日照御尊能化〉この日の彼らの質問は、仏滅讃文に関する件などの教学上の問題と創価学会の8体の模刻本尊に関する件などで、日達上人から日顕上人への御相承を疑うような内容はまったくなかったんだよ。
〈阿部信彰御尊師〉創価学会一味は、この折の御法主上人猊下の御指南が、御先師日達上人に随順され、御本尊模刻問題などで創価学会側を守ったものであることを敢えて隠しているわけです。本当に醜い連中です。御法主上人猊下からは、この折も含めて、御相承に関することを、御目通りの折に面と向かって聞いてきた者など、これまでに1人もいなかったと伺っています。



<能化・宗会議員の声明文>
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>昭和57年1月に当時の能化、宗会議員全員が、「御法主日顕上人猊下を血脈付法の法主と仰ぐ」旨の声明文、決意書を出していることを取り上げて誹謗。
>日達上人のお通夜の後、各塔中で、「日達上人は次の方をお選びにならずに御遷化された」などと、盛んに言う老僧方がおり、よって、決意書とか決議文を出さざるを得なかったんだろう。宗門の700年の歴史において、このようなものを出させるなどということは、前代未聞のこと(趣意)
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〈菅野日龍御尊能化〉日達上人の御通夜の後など、日顕上人への血脈相承に疑義をはさむような者は、誰一人いなかったと思うね。
〈八木日照御尊能化〉たしかにそうだった。それに昭和57年1月の能化会議の声明文と宗会議員の決意書が出された理由と目的は、一重に血脈相承を否定した自称正信会に対するものだったからね。(『大白法』H15.12.16)




<山崎正友氏との取引?>
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>山崎氏がかつて御法主上人猊下を徹底して誹謗していた。(『法主詐称』取意)

>御法主上人猊下が山崎氏を「地獄へ何回堕ちても足りない」と責めた。(同)
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●たしかに山崎正友氏には過去にいろいろなことがあったとは思うが、日蓮正宗は一切衆生を救うことが目的なんだから、創価学会や自称正信会と縁を切って脱会し、反省懺悔した人は誰でも日蓮正宗に戻れるわけです。(藤本総監『大白法』H15.12.16)

●たしかに山崎氏の犯した謗法行為は間違いなくそれほどの大罪だったと思いますよ。しかし、本門戒壇の大御本尊と血脈付法の御法主上人猊下に至心にお詫びすることにより、日蓮正宗へ戻れて謗法罪障を消滅することができるわけです。(八木日照御尊能化『大白法』H15.12.16)


―正信会との和解―
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>御法主上人猊下と山崎氏が血脈相承をめぐって取り引きした。自称正信会との和解がその条件だった。(『法主詐称』取意)

>その件で平成6年12月10日に、藤本総監と秋元渉外部長が富土見庵(総本山の施設)で山崎氏と極秘会談した。
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●これも完全に作り話だ。大体、この日(※平成6年12月10日)は私は1日中、常泉寺にいて法務を執っていたよ。まるっきりのデタラメだ。(藤本総監『大白法』H15.12.16)


―大石寺の墓苑建設―
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>(元暴力団員が書いた(?)とかいう本を根拠に、)かつて山崎正友氏が「日顕上人は、宗門ではナンバー7なんだ。日達上人の娘婿が菅野といって国立にいるが、これが跡目だった。(中略)日達上人は日顕上人を全然信用していなかった」

>山崎が出所後、かつて否定した日顕上人の血脈相承を認めるようになったカラクリについても、実は金儲けが目的だったことが暴露されている。それによれば、大石寺の墓苑建設の話が山崎のところに舞い込み、当時金に困っていた山崎は、「自分が日顕上人の血脈相承を認める。その代わり条件として、日顕上人から墓苑建設のお墨付きをもらおう」とはしゃいでいたという。
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 だが、昭和55年当時、山崎正友氏が、宗門行政との食い違いから日顕上人の血脈相承を疑い、『週刊文春』(同年11月20日号)に書いた手記を見ると、日達上人が阿部日顕上人への事実上の後継指名を周囲の人々に話されていたことが、再三、述べられている(当時の山崎氏は、それでも「公の御相承の儀式がなかった」といって、血脈相承を疑った)。
 このことからすれば、元暴力団員が山崎氏から「日達上人は日顕上人を全然信用していなかった」等と聞いた、という証言(?)の信憑性(しんぴょうせい)は総崩れである。
 また、山崎氏が平成6年末に日蓮正宗に帰伏した経緯は、本紙としても余すところなく把握(はあく)しているが、それは、全て純然たる信仰上の理由だけであって、「金儲け」だの「墓苑建設のお墨付き」だのという話題は、いっさい介在していない
 「それによれば」「という」などという書き方で、平気で嘘を垂れ流すのが、創価学会の毎度の手口なのである。(『慧妙』H14.8.1)


―「頼むから、オレに血脈相承があったってことを認めてくれ」―
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(正信会の浜中和道の『回想録』を持ち出し、)(平成3年1月)日顕上人が「頼むから、オレに血脈相承があったってことを認めてくれ」と、山崎に泣きついたことも暴露している。
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〝敵の敵は味方〟というのかもしれないが、かつて、正信会の御相承否定を「許し難(がた)い大謗法」「堕地獄必定の重罪」と罵(ののし)っていた連中が、今度は、自分が御相承否定をするのに、正信会の主張を利用する。また浜中は浜中で、平気で学会とも通用する――こんな、悪龍と修羅(しゅら)のごときドス黒い者共は、抱き合い、殴り合いながら、共々に阿鼻(あび)大城に沈むしかあるまい。(『慧妙』H14.8.1)

●その時の猊下の御伝言が、今日、学会に歪曲(わいきょく)され、「頼むから、俺の血脈を認めてくれ」といって猊下が山崎さんに泣きついた、という話にされていますが、まったくの大嘘ですね。そもそも、この平成3年1月の時点では、まだ学会も血脈否定に走っておらず、したがって、そのようなお言葉の出てくる必然性が全くありませんしね(笑い)。(『慧妙』H15.10.1)



<「アレ(日顕上人)は除歴しなきゃならん」>
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河辺御尊師が教師講習会の折、現宮城県広安寺住職の三浦接道師らに、「アレ(日顕上人)は除歴しなきゃならん。67世はいないんだ!」と言った。(『法主詐称』取意)
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●三浦師に確認いたしましたところ、そんなことは一言も聞いていないそうです。ご本人が文書で証言してもよいと申しています。(阿部信彰御尊師『大白法』H15.12.16)


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貴殿の除歴を求める声が、宗内に根強くあることを存知か。(中略)また、今も貴殿に怨嗟する宗内僧侶の間で除歴の声が広がっていることについて、どのように思っているのか。(斉藤克司・創価学会教学部長)
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〝貴殿の除歴を求める声が、宗内に根強くある〟と虚言するが、そもそも日蓮正宗の御法主上人は、大聖人以来の金口の血脈をお受け遊ばされて御登座なされるのであるから、宗門において〝除歴〟などということはあり得ないのである。宗内に根強くあるというならその明証を示せ。(『大白法』H16.4.16)



<「死ぬまで猊座にあり続ける」>
―日顕上人お言葉も捏造!―
―この救い難い一闡提人共―

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かつて日顕(上人)が周囲の人間にポロッと漏らしたことがある。「ある理由があって、ワシは死ぬまで猊座にあり続けることになる」。ある理由――。それは日顕(上人)が先師・日達上人から相承を受けずに登座したことに他ならない。相承もなければ、相承箱もない。つまり日顕(上人)は、「次」に相承しようにも、相承するものを何も所持していないのである。(『法主詐称』)
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 日顕上人におかれては、御登座以来、正信会・創価学会等の大謗法の徒輩(とはい)が血脈否定に狂奔(きょうほん)している状況を鑑(かんが)みられ、御歴代先師方が秘してこられた唯授一人相承に関し、その伝承の形態や名目等を初めて仰せ出だされた。
 むろん、甚深の御法門の内容は秘されているが、その外郭(がいかく)にあたる部分を明かされることにより、唯授一人相承の存在に対する疑網(ぎもう)を破り、御相承が確かに今日まで伝承されていることを、弟子檀那等に御示しくださったのである。
 ここまで明々赫々(かっかく)たる事実を拝しても、なお、「(日顕上人は)相承するものを何も所持していない」としか思えぬ輩(やから)は、
 「山を隔(へだ)て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定(いちじょう)なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提(いっせんだい)の人としるべし。生き盲にことならず」(『報恩抄』御書1001、全集295頁)
と仰せの、命の濁り果てた一闡提人に他ならない。
 かかる輩には、これ以上の説明はもはや不要、これだけ教えてもわからないなら、それは
 「自業自得果のへんはすくひがたし」(『報恩抄』御書1030、全集323頁)
である。(『慧妙』H15.8.16)




【一闡提と成り果てた証明】
血脈相承の否定、これは本宗から離反した者たちが、その口実に使う常套手段です。自称正信会もそうだったし、顕正会もそうだ。創価学会と離脱僧らも去る平成3年の破門以後、突如、御先師日達上人が御当代日顕上人へ相承をしていないと、とんでもない誹謗をし、てきたわけだね。(藤本総監『大白法』H15.10.1)

<禿人らの自己矛盾>
 そもそも憂宗護法同盟なる団体に属する13名のうち、なんと11名の禿人は、日顕上人に任命されて住職になったのではないか。これは日顕上人が唯授一人の御法主であるからこそ、その命に従って赴任したのではないのか。
 自分が住職に赴任する時は日顕上人を御法主と仰いでいたくせに、今や「夢物語」まで作り上げて日顕上人の血脈を否定せんとする浅ましさは、自己矛盾もはなはだしい。邪教創価学会に諮(へつら)い、保身に腐心する売僧(まいす)の面目躍如といったところであろう。(『大白法』H15.12.1)

●今、創価学会の走狗となった小板橋明英ら憂宗護法同盟の者たちも、この当時、自称正信会を批判して、御法主日顕上人猊下に信伏随従し奉るとの決議書に署名捺印したはずです。本当にふざけた者たちだ。(早瀬庶務部長『大白法』H15.10.1)



<池田大作の自己矛盾>
◆謹んで、総本山第67世御法主日顕上人猊下の御座替の儀を、一同衷心よりお喜び申し上げます。この法水瀉瓶、法統連綿の尊厳なる儀式に参列できましたことを、私どもは心から喜び、万感の思いで日顕上人猊下の御姿を歓喜をもって拝すのでございます。(中略)今後私共は、益々御法主日顕上人猊下に御奉公の赤誠を尽くすことを、固く固くお誓い申し上げまして、簡略ながら本日の御祝詞とさせていただくものでございます。(池田大作=御座替式の祝辞S54.8.6『大日蓮』S54.9・20頁)
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「法水瀉瓶、法統連綿の尊厳なる儀式」とは、日顕上人への血脈相承を拝信していた言葉ではないか。(『大白法』H17.12.1)

◆日蓮正宗の僧俗であるならば、絶対に御法主上人猊下に随順すべきである。それに反して、随順せず、いな、弓をひく行為をする僧や俗は、もはや日蓮正宗とはいえない。私どもは無数の讒言や画策をうけながらも、一貫して総本山を外護したてまつり、御法主上人猊下に随順してまいった。これが真実の信心であるからだ。 それを、増上慢と権威とエゴと野望のために踏みにじっていく僧俗は、まったく信心の二字のなき徒輩であり、もはやそれは、日蓮大聖人の「広宣流布をせよ」との御遺命に反した邪信の徒と断ずるほかないのである(池田大作『広布と人生を語る』第2巻37頁)
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自称正信会の者たちが昭和56年1月、御法主日顕上人猊下に対し、管長地位不存在確認請求訴訟、所謂管長訴訟を起こしたが、当時、池田大作は彼らを厳しく批判してこのような発言をしている。これほど確信をもって、日蓮正宗の血脈法水の尊厳を讃歎し、御法主上人猊下への信伏随従を強調しておきながら、今日、「法主詐称」との悪言をなす。まったく池田大作と創価学会は、古今未曽有とも言うべき恥知らずな悪口両舌団体というほかない。

第67世御法主上人猊下に、この絶対なる血脈は、厳然と承継されているのである。だれ人がいかなる非難をいたそうが、これは侵しがたき、明確なる事実なのである。(池田大作『広布と人生を語る』第2巻123頁)
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この頃、池田大作らが数え切れぬほど表明していた御法主日顕上人猊下に対する血脈尊重の言と、現在の彼らの誹謗との落差にはまったく驚くばかりである。



<昔の学会指導>
◆学会は猊座のことには、いっさい関知せぬ大精神で通してきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破る者は、たとえ大幹部といえども即座に除名する。信者の精神はそうであらねばならない。むかし、関西に猊座のことに意見をふりまわして没落した罰当たり者があったそうだが、仏法の尊厳をそこなう者は当然そうなる(昭和31年1月29日『戸田城聖全集』第3巻235頁~)
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「猊座のことには、いっさい関知せぬ大精神で通してきた」「これを破る者は、たとえ大幹部といえども即座に除名する。」戸田会長が生きていたら池田は即座に除名である。「今後も、この精神で一貫する。」とあるとおり、一時的な評価などではない。

◆法主位の継承、したがって法門深々の御相承はもったいなくも御本仏宗祖日蓮大聖人より御開山日興上人にたまわられて以来、清浄の法水連綿として現在64代に及び、この大事あるがゆえに、末法の一切衆生は本因下種仏法の大利益を受けることができるのであって、いつ、いかなるお方が御登座あられようとも、それはすべて御仏意によるゆえに、信徒たる者は、ひたすらけいけんなる信心をもってこれに従い、これをお迎え申し上げるのが当然なのである。(中略) 法位継承は手続きがいかにあろうと御仏意である以上は、信徒たる者は、これくらいの心構えをもって法を護るのが当然ではなかろうか(昭和31年1月29日付『聖教新聞』社説/『慧妙』H15.12.16)

◆現代においては、いかなる理由があれ、御本仏日蓮大聖人の「遣使還告」であられる血脈付法の御法主日顕上人猊下を非難することは、これらの徒と同じであるといわなければならない。批判する者は、正法正義の日蓮正宗に対する異流であり、反逆者であるからである。(池田大作『広布と人生を語る』第1巻230頁)



<一闡提に成り果てた証明>
 最後に、御先師日達上人から日顕上人猊下への御相承が厳然たる事実であること、また、その内付・御相承がいかなる形で行なわれたのかは、本宗の血脈相承について一定の知識を持ち、純真な信心の眼(まなこ)を開いて拝するならば、もはや明々白々である。
 この上、学会が、日顕上人猊下の宗教的謙譲心(けんじょうしん)から仰せられたお言葉をあげつらい、あるいは53年4月15日に御指南のあった「時間」「部屋」「様子」を問うのは、批判する(というより揚げ足を取る)ための材料探し以外、何ものでもない。
 それは、創価学会および脱落僧が、いまや完全な一闡提(いっせんだい)に成り果てたという、証明であろう。(『慧妙』H14.8.1)


日顕上人や宗門が、汝如き不信者の疑難に一々応じるいわれはない。なぜなら、汝らの疑難は様々にご託を並べてはいるが、要するにこれらの繰り言は、血脈相承の意義を否定し、創価学会が大聖人の正統を詐称しょうとする限り、懐疑論者の疑念の如く延々と続くのであり、それは汝らの無節操な振る舞い、言動より明らかだからである。(『大白法』H17.12.1)






「じつは日顕上人への相承はあった」

―正信会の元議長・副議長が驚愕の爆弾発言―
―正信会の成り立ちの根源が崩壊!―
―「皆、都合が悪くなって血脈否定した」と―

(『慧妙』H16.5.1抜粋)

 元々は池田創価学会の謗法を糾(ただ)すための運動だったはずの〝正信覚醒(かくせい)運動〟が、途中から行き過ぎて日蓮正宗の宗団から逸脱(いつだつ)、そして今や、池田創価学会と大同の三宝破壊の大謗法集団と化した正信会――。
 その正信会も、各寺院毎に教義解釈や意見が異なり、離脱する寺院や日蓮正宗に帰伏する寺院も相次いで、文字どおりの四分五裂に近い末期的状態を迎えているが、さらに新たな激震が発生しつつある。
 すなわち、正信会の渡辺広済・元議長と佐々木秀明・元副議長の口から、正信会の存在を揺るがす爆弾発言が出たのである。

<渡辺広済・元議長>
 「日達上人が、次はあの人(日顕上人)に譲(ゆず)ろうと思っていたことは間違いない。」
 「私も佐々木(秀明)も、日達上人から『次は阿部(日顕上人)でいこうと思っているんだ』ということを聞いている。(日達上人が日顕上人を67世として選定されていたことは)間違いない。」
 「私は、御相承に関して正信会が起こした裁判の原告には名を連ねていない。私としては、御相承を信じたい気持ちは山ほどある。」
 「(住職罷免〈ひめん〉・擯斥処分の直接原因となった)第5回檀徒大会の開催も、私と佐々木は大反対だった。(日顕上人が)『やめろ』と言われているのだから、やめればいいじゃないかと。ところが、丸岡文乗・山口法興らが、『やらなければだめだ』と強硬に主張した。罷免になったあと、『見てみろ、お前らがやれやれと言うのでやったら、クビになったじゃないか』と彼らに言ってやった。」
 「正信会の若い連中は、阿部さん(日顕上人)に対してずいぶん失礼なことを言った。『あなたは承(う)けていないじゃないか』と。そんなことを言われれば怒るのは当然で、それでいて、『瞬間湯沸かし器が怒った』の、何のかんのと言う。それがバカらしくなったこともあって、私は議長を辞めた。」


<佐々木秀明・元副議長>
 「(正信会では日興上人を唯一の僧宝としているが)私はそうは思わない。日興上人と御歴代を区別する考え方はおかしい。」
 「私は、日達上人が阿部さん(日顕上人)に『後を頼む』と言ったと思う。だとしたら、相承(があった)ということだろう。」
 「お側で聞いたわけではないが、(日達上人が)千葉の在家の前で『この次はこの阿部(日顕上人)にさせるんだ』とおっしゃったことだってあった。」
 「『頼むぞ』と言ったのだから相承だと、皆なそう思っていたのに、自分たちの都合が悪くなったら、皆な変わった。創価学会も正信会も。」
 「(相承を認めていながら)裁判を起こしたことは自語相違になるだろう。私は最後まで、あれは却下になると思っていた。」
 「(管長の地位不存在の裁判は)時の流れだった。私としては、やればやったでしょうがないという考えだった。私自身はする気はなかった。ただ、上に立つ者として、名前を連ねることはしょうがないという考えだった。」
 「正信会の上に立つ者として、私は(事態を収束させようとする)日達上人の言われたとおりに行なおうとした。院達に従い、板本尊模刻のことを言うのも止めた。しかし、鬼の首を取ったような気でいる下の者は聞かない。そこのところでずいぶん苦労した。下の者にはその気持ちは分からないだろう。」
 「(日達上人が学会攻撃の鉾〈ほこ〉を収めようとされた)それを継いだのは阿部さん(日顕上人)だと思う。(日達上人の)お心のままにやっているのではないか。私は、下の連中との間に立って苦労をした。」
 「そもそもこの運動(学会破折運動)は(宗門と正信会が)1つになってやるべきだ。もったいない話だ。ケンカする問題ではない。」
 「阿部さん(日顕上人)が『お前たち悪かったな、大石寺に帰ってきてくれ』と言えば、(私は)すぐに帰る。」
 「(日達上人から日顕上人への相承があったと認めたことを)他で話してもらっても構(かま)わない。」
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 当初は日顕上人への相承を認めていながら、自分達が批判されると掌を返したように相承を否定した正信会。これと全く同じ行動をとったのが創価学会である。彼らは当初、日顕上人への信伏随従を誓い、相承を否定した正信会を"大謗法"だと批判していたのである。ところが、自分達が破門されそうになると日顕上人の退座を要求し、相承そのものを否定するに至るのである。
 いわば、相承否定は正信会が"本家"、学会は"二番煎じ""追随者"ということになろう。ところが今回、"本家"である正信会の元リーダーが、「実は相承はあった」と発言したのだから、学会が受けたダメージは相当大きいと思われる。正信会同様、当初は相承を認めていた学会幹部も、本音では「実は相承はあった」と思っていることだろう。

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正信会、本紙報道に必死(?)の言い訳

―そのレベルは学会怪文書と大差なし!―
一「御相承」認める発言は録音テープに一
―恥の上塗りは自ら墓穴掘るようなもの―

(『慧妙』H16.6.1)

 本紙5月1日号において、正信会の元議長・渡辺広済、元副議長・佐々木秀明の両氏が、御先師日達上人から御当代日顕上人への御相承の御意志を聞いていた旨、報道した。
 この両氏の証言は、これまで日顕上人の御相承を否定し続けてきた正信会にとって、まさに存立の基盤を揺るがす衝撃的なものであった。
 慌(あわ)てた正信会では、渡辺広済の釈明文を各寺院に流すと共に、壇徒達に、本紙の報道を指して「宗門の謀略」「事実と違う捏造(ねつぞう)報道」「全てウソ」「受け取って読んではいけない」などと周知しているようだ。
 その上、インターネット上では、両氏の証言をテープに録(と)って本紙に提供してくれた法華講員A氏をヤリ玉に上げ、"過去に良くない所業のあった人物だから、その人物が発信した『慧妙』の記事の信憑性(しんぴょうせい)はない"などという誹謗(ひぼう)までしている。
 哀れなものである。この慌てようと、的外れな反論ぶりを見れば、いかに本紙の報道が正信会にとって致命的なものであったかが、判ろうというものだ。
 まず、渡辺広済の釈明文だが、
 「私が云いたかったのは、日達上人がお持ちになっていたお気持ちと、事実関係は違うということなのです。日達上人は私の知る限りにおいては、次は阿部にしよう、とお考えになっていたと思います。しかし、その後、かなりお悩みになっておられた様子でした。
 一時的にせよ次は阿部、とお考えになっていたとしても、では事実として、御相承があったかどうかということが、問題なのであります。(略)当日堅持院にお越しになった方に対しても、これははっきりと念を押しています

等と、あたかも"いったんは日顕上人にお譲りになろうと考えられた日達上人が、後に逡巡(しゅんじゅん)されて、御相承はされなかった。というのが、渡辺の実際の発言であったかのことく粉飾している。
 だが、1時間以上にも及ぶA氏との対話の中で、渡辺は1度たりとも"日達上人の御意志が揺らいだ"かのような発言など、していないのである。
 そのことは、本紙編集部としても、当日の録音テープによって確認済みである。いくら、都合が悪くなったからといって、「ない」ものを「ある」と言うような嘘をついてはいけない。
 さらに釈明文では、
 「いずれにしても今回の件は、自分たちにとって都合の良い言葉尻をとって利用したのだと思います。私もかなり頭に来まして本人に抗議の電話もいたしました
などと述べているが、これも真っ赤な嘘。渡辺からA氏への抗議の電話など、1本も架かってはいない
 それどころか、渡辺の発言内容が本紙に掲載されたので、A氏がわざわざ渡辺に電話を架けて、その旨を教えてあげ、ついでに、当日の発言の内容を忘れていないか、渡辺に一いち確認までして、念を押してあげたのである(この電話の際にも、渡辺は自らの発言を認めていた!)。
 しかるを、どうせ証拠などないだろう、とでも思ったのか、自らの発言を否定したうえ「かなり頭に来まして本人に抗議の電話もいたしました」と言ってのけたのだから、恐れ入った。
 重ねて言うが、白々しい嘘はよした方がいい。当方には渡辺発言の録音テープがあるのだから。
 さて、正信会が壇徒達に流している「(『慧妙』の記事は)捏造、ウソ」等の宣伝であるが、これも前に述べたとおり、本紙の報道には録音テープという動かぬ証拠があるのだから、いくら「ウソだ、捏造だ」と力んでみても何の役にも立たない。
 むしろ、壇徒らにデタラメな情報を流したことにより、正信会の発表も所詮は学会の大本営発表と同類ではないか、との疑念を檀徒に生ぜしめる元となろう。
 次に、テープ提供者A氏の"過去の所業が"云々"だから記事の信憑性が"云々、という誹謗だが、こんなことを言っていて恥ずかしくないのだろうか。
 大聖人は、
 「愚者の持ちたる金(こがね)も智者の持ちたる金も、愚者の燃(とも)せる火も智者の燃せる火も、其の差別なきなり」(御書1046頁)
と「依法不依人」の精神を教えられているが、まさに、提供者が愚者だろうと智者だろうと、悪人だろうと善人だろうと、その録音テープの中に収められた渡辺・佐々木発言の価値や信憑性が変わるわけではない。
 したがって、いくら正信会側がA氏個人の悪口を流したところで、本質的には何の関係もなく、信憑性が揺らぐこともないのである。
 こんな道理もわからないようでは、まったく正信会のお粗末さが露呈(ろてい)している、といえよう。今後は闇雲(やみくも)な誹謗は慎まれた方がよい(これでは創価学会怪文書と同じレベルである)。
 ともあれ、今回の報道を機に、正信会檀徒の中から正義に目覚め、大石寺に帰伏する人達が相次ぎ出ている。
 我々は今後も、創価学会に対する折伏と併(あわ)せて、正信会を折伏し、1人でも多くの檀徒を正法へ引き戻していこうではないか。





創価学会・憂宗護法同盟を破折する1

―荒唐無稽な作り話で名誉を毀損―
(『大白法』H15.10.1)

 創価学会とその走狗憂宗護法同盟は、悪書『法主詐称』、並びに「反駁の書」「同(其の2)」、さらにはこれらを掲載した「創価新報」などを用いて、本宗の血脈相承に関する虚偽捏造の誹謗を飽くことなく繰り返しています。
 これらの誹謗は、かつての自称正信会の者たちの血脈否定の言とまったく同轍(どうてつ)であり、まるで創価学会が自称正信会に弟子入りでもしたかのようです。
 特に昭和56年1月、御法主日顕上人猊下をはじめ、早瀬日如御尊能化、八木日照御尊能化、故早瀬義孔御尊師、阿部信彰御尊師等の方々が大宣寺へ出向き、御住職・菅野日龍御尊能化から、「御相承箱」を奪い取ろうとして失敗したとし、またその情報の発信源は菅野能化であるなどと、創価学会側が初めて言い出した荒唐無稽な捏造報道には、さすがの血脈否定の悪知識の本家たる自称正信会の面々も、その厚顔無恥と悪辣さには舌を巻いていることでしょう。
 そこで今回、日蓮正宗総監・藤本日潤御尊能化、並びにこれらの大嘘の報道に実名を挙げられた早瀬日如、八木日照、菅野日龍の各御尊能化、及び阿部信彰御尊師に御出席をお願いし、彼らの報道がいかに真っ赤な大嘘であるか、その真実を語っていただきました。

<出席者>
日蓮正宗総監・常泉寺住職=藤本日潤御尊能化
宗務院庶務部長・法道院主管=早瀬日如御尊能化
大石寺主任理事・妙泉坊住職=八木日照御尊能化
大宣寺住職=菅野日龍御尊能化
宗務院庶務部副部長・妙国寺住職=阿部信彰御尊師
(司会 編集室)
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<血脈相承否定は背信逆徒の常套手段>
司会 本日はご多忙の中、たいへんにありがとうこざいます。最近、創価学会とその走狗、憂宗護法同盟は、本宗の血脈相承に対して、悪質な虚偽の捏造報道をもってしきりに誹謗中傷しています。本日はその件について、いろいろとお話を伺いたいと思います。
藤本日潤御尊能化 血脈相承の否定、これは本宗から離反した者たちが、その口実に使う常套手段です。自称正信会もそうだったし、顕正会もそうだ。創価学会と離脱僧らも去る平成3年の破門以後、突如、御先師日達上人が御当代日顕上人へ相承をしていないと、とんでもない誹謗をし、てきたわけだね。
阿部信彰御尊師 創価学会は昭和54年の日顕上人猊下の御登座以降、平成2年の大石寺開創700年までは血脈相承への信伏随従を誓っていました。
早瀬日如御尊能化 その通りだね。当時、創価学会は、昭和52年路線の謗法を御先師日達上人にお詫び申し上げ、昭和54年5月3日、御遷化直前に、信徒団体としての基本を忠実に守ることを条件に一切を収束するお許しをいただいたのです。当然ながら御先師御遷化の後は、池田大作を先頭に、創価学会を挙げて御法主日顕上人猊下への信伏随従を徹底していたね。
〈阿部〉 そうですね。その当時、池田大作や創価学会幹部が日顕上人猊下に対して信伏随従を表明した例は枚挙に暇(いとま)がありません。
司会 はい、そのうちの一例を挙げますと、
池田大作は、「第67世御法主上人猊下に、この絶対なる血脈は、厳然と承継されているのである。だれ人がいかなる非難をいたそうが、これは侵しがたき、明確なる事実なのである。」(『広布と人生を語る』第2巻昭和56年6月7日)と述べています。
〈阿部〉 この頃、池田大作らが数え切れぬほど表明していた御法主日顕上人猊下に対する血脈尊重の言と、現在の彼らの誹謗との落差にはまったく驚くばかりです。
八木日照御尊能化 それはね、あの当時、自称正信会の者たちは、御先師日達上人が敷かれた創価学会との教導和合路線を日顕上人猊下が遵守されることに反発したのです。そして昭和55年秋のあの山崎発言を奇貨として、あろうことか御当代日顕上人への血脈相承を否定する訴訟を提起したわけで、そのような状況に関係があると思うね。
菅野日龍御尊能化 自称正信会の者たちが、当初、御先師日達上人の御指南を拝して立ち上がり、創価学会の謗法を指摘し糺したことは碓かです。ただし、いろいろな状況があったにせよ、日達上人が御生前中、創価学会問題の一切を収束あそばされたことは事実なのだから、血脈を承継された日顕上人猊下の御嚮導(きょうどう)に対し、異議を唱え、その上血脈相承を否定した彼等の振る舞いは明らかに行き過ぎ以上のものであり、御先師に対する許しがたい違背だな。
〈早瀬〉 御先師への違背は当然として、血脈否定は日蓮正宗の下種仏法の根幹を否定する大謗法というほかはないね。
〈阿部〉 ですから池田大作と創価学会は、当時、自称正信会を大謗法と、徹底して攻撃したんですね。しかし、その池田創価学会が、今は徹底して日蓮正宗の血脈相承を否定するとは、まったくの二枚舌だ。彼らが正直を旨とすべき信仰者ではないことを証明していると言わなければなりませんね。
〈早瀬〉 今、創価学会の走狗となった小板橋明英ら憂宗護法同盟の者たちも、この当時、自称正信会を批判して、御法主日顕上人猊下に信伏随従し奉るとの決議書に署名捺印したはずです。本当にふざけた者たちだ。
〈八木〉 まったく池田大作は二枚舌の帝王だが、師は針の如くだから、配下の者も皆二枚舌になるんだね。先程、総監さんが言われたけれども、結局、仏法を我意我見で私物化し、異流義に堕していく連中は、すべて本宗の信仰の根幹たる血脈相承を否定するということです。


<驚くばかり荒唐無稽な作り話>
司会 それではこの辺で、彼らが憂宗護法同盟の名前で出版した『法主詐称』について伺いたいと思います。
〈藤本〉 この『法主詐称』という本は、一部始終、本宗から破折しつくされた事柄の蒸し返しでしょう。よく恥ずかしくもなく、いつまでも同じことを書くものだな。もっとも、始めのところに書いてある「御相承箱」について、本宗の数名の僧侶が大宣寺へ取り返しに行ったということぐらいが目新しい話かな。下手くそな作り話だが。(笑い)
〈早瀬〉 まったくその通りですね。名前を挙げられた我々全員が、そんなことは身に覚えのないあきれた空事なんで、どうして憂宗護法同盟の小板橋明英らや創価学会側が、こんなにすぐばれる嘘をつくのか理解に苦しむね。
〈阿部〉 彼らは「クロウ事件」のことをまったく言えなくなったので、それに変わる誹謗の材料を作り上げたということでしょうか。
〈八木〉 それにしても、「クロウ事件」は30数年前の外国の出来事という設定だから、否定の証明も困難を極めたわけです。今回の設定は20年ほど前とはいえ、日本のことだし、すぐに虚偽捏造であることが判ってしまうのにな。
〈菅野〉 私としても昭和56年1月13日にそのようなことがあったなどと言われることは、まったく身に覚えのないことです。第一、「御相承箱」が大宣寺にある訳がないのだから、それをあるなどと口にするはずはないんだよ。それに大宣寺所属のある法華講信徒がこの日1日中、大宣寺の旧本堂で唱題をしており、そんな騒がしいことはまったくなかったと証言しています。
〈早瀬〉 大体、13日と言えば、総本山は宗祖日蓮大聖人様の御講の日だし、末寺も御講で忙しい日です。それに彼らは1台の車に5人が乗ったとしているが、御法主上人が助手席に乗られることなど考えられないし、後席に3人掛けでお座りいただくことも、まずあり得ません。
〈阿部〉 私も前年の昭和55年9月に単身でブラジルヘ赴任しており、同年の暮れにいったん日本へ帰国したのですが、実はその頃、体調を崩しており、とても御法主上人をお乗せして運転できる状況ではありませんでした。
〈八木〉 そうだね。昭和56年1月というと、あの当時、御法主上人のお車の運転はたしか警備も兼ねて柳坂特道師(現マレーシア布教所責任者)や磯村如道師(現要行寺住職)が専任していたはずです。総本山からお出かけの場合、他の者が御法主上人専用車を運転することなどまず考えられないね。
〈菅野〉 それと大宣寺には当時、数名の教師とかなりの数の所化が在勤しており、御法主上人が御下向され、しかもそんな騒動があれば、とっくの昔に宗門全体に話が広まっているはずです。本当にすぐ判ってしまうような嘘を、なぜつくんだろうな。
〈阿部〉 要するに、あらゆる状況が彼らの嘘を証明しているわけですね。大宣寺へ乗り込んだと名前を挙げられた我々に対する名誉毀損も明らかですが、その話の発信源だとされた菅野御能化に対する名誉毀損はひどいものですね。
〈早瀬〉 そう、大宣寺さんは発信源と言われているんだから、まったくひどい虚偽の中傷だが、我々にしても、まったく身に覚えのないことをしたと言われているんだから、憂宗護法同盟の小板橋明英と創価学会一味は我々に対して即刻謝罪し、その虚偽の内容を直ちに撤回すべきだね。
〈菅野〉 私としても本宗の大事な御相承に関して、あらぬ誹毀讒謗を受けてたいへん迷惑している。彼らに謝罪と虚偽の報道内容の撤回を、断固として求めます。
司会 しかし、彼らが当方の要求に応えるほど信義のある連中かどうか、たいへん怪しいところですね。
〈阿部〉 大体、嘘つきというのは嘘をつくことを悪いとは思っていない、言わば確信犯なのだから正直に謝ったりしないかもしれませんね。謝るくらいなら最初から嘘などつかないでしょう。
〈早瀬〉 しかし、謝ろうが謝るまいが、宗門側としては正義に基づき、血脈相承否定の大嘘を、徹底して追及していくべきだと思うね。
一同 同感。





創価学会・憂宗護法同盟を破折する2

―血脈誹謗の卑劣な謀略―
―狙いは総本山支配か?―

(『大白法』H15.11.1)

 10月1日号では、池田創価学会、及びその走狗憂宗護法同盟が、悪書『法主詐称』や『創価新報』などを用いて行った、本宗の血脈相承に関する悪質な捏造の誹謗報道に対して、日蓮正宗総監・藤本日潤御尊能化、並びにこれらの大嘘の報道に実名を挙げられた早瀬日如、八木日照、菅野日龍の各御尊能化、及び阿部信彰御尊師に、当時の実情をもとに、これらの誹謗中傷が真っ赤な大嘘であることを明快に語っていただきました。
 前回に引き続き今回も、池田創価学会と走狗憂宗護法同盟による血脈誹謗・三宝破壊の捏造の悪言について、徹底して破折された座談内容を掲載させていただきます。
 法華講員読者各位には、創価学会と離脱僧破折に際し、当座談会の内容を積極的に活用されるよう願います。

<池田創価学会による血脈誹謗の狙いは宗門支配か>
〈司会〉 前回のお話で、彼ら池田創価学会と憂宗護法同盟の発言が真っ赤な大嘘であることが明確となりましたが、彼らは一体、一見して嘘と判るこんなことを、なぜ行うのでしょうか。
藤本総監 私はそれは、彼らの最終の目的が何かということと関係があると思う。『法主詐称』で彼らが日顕上人猊下の血脈相承を誹謗中傷するのは、宗内に疑心暗鬼を起こさせ、最終的に宗門を創価学会の支配下に置こうという野望があるからで、そのためにはかえって荒唐無稽な話のほうがインパクトがあり、浸透しやすいとの考えから行っている狡猾なまやかし戦術だろうね。
早瀬庶務部長 今、全国の布教区で開催中の指導教師指導会においても、藤本総監殿は根無し草のごとき彼ら創価学会が、未だに宗門支配の邪念を懐いているが故の執拗な誹謗であると話されています。まったく彼らの発言は、嘘も百遍言えば本当になるという、いわゆる池田創価学会式の邪悪な欺瞞戦術というほかないね。
八木日照御尊能化 嘘で塗り固めた内容を反復し、次第次第に本当のことのように思わせ、血脈法水の尊厳を貶めようとするなど、まったく、三宝破壊の大悪行というほかないと思う。その上、仏法に暗い世間の人々をも誹謗正法の悪業に引き込もうとする許せぬ所業だね。
阿部信彰御尊師 これでよく理解できました。不可解に思えたことが、実は不可解ではなく、三宝破壊の仏敵である池田創価学会とその走狗たちの、邪悪な想念に基づく卑劣な体質そのものを示していたわけですね。


<悪書『法主詐称』の大嘘>
―日号の変更―

〈司会〉 『法主詐称』の内容はそのほとんどが、昨年、当『大白法』にも掲載させていただきましたが、「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」によって破折されています。それを再び持ち出し、いくらか目先を変えて、誹謗中傷を繰り返すのは、いつもながらの呆れたやり口です。
〈阿部〉 御登座の時の日号の件にしてもですね、御法主上人猊下がそれまでの「日慈」のお名前を改め、「日顕」とお名乗りあそばされたことについての『法主詐称』の誹謗は、故観妙院日慈上人に御配慮あそばされた御法主上人猊下の御心を愚弄する許せぬ内容です。
〈早瀬〉 「御相承をお受けしているのなら、日号の変更は日達上人の御生前中に行っておくべきだ」などという彼らの言い分は、まったく勝手な言いがかりというほかはないね。「内付」という御相承の性格上からも、日達上人がその必要をお認めになられなかったことは当然でしょう。時が来てその必要があれば、日顕上人はいつでも御自身で日号をお名乗りできる御立場なのだから。

―相承箱―
菅野日龍御尊能化 彼らは、御相承箱の中に御当代の御法主上人が次の御方の名前をお書きして入れておくことが通例のようなことを言っている。しかし、御相承箱の内容を、血脈相承も受けていない者共が知っているはずがないわけで、口からでまかせの言いたい放題の妄言というほかはない。まったく許せないね。
〈藤本〉 総本山第17世日精上人についての堀日亨上人の要山流との御言葉は、たしかに『富士宗学要集』に載っているが、御当代日顕上人は日亨上人の御見解について、日精上人の御事跡について多少誤解せられた面があられたことによると御指南されています。総本山第26世日寛上人をはじめ、御歴代上人、さらには日亨上人も、日精上人を総本山御歴代上人と拝されていたことは、当然ながら明白な事実なのです。
〈阿部〉 要するに彼らは、日寛上人や日亨上人を尊敬するふりをして、その御指南はまったく無視するわけで、これは彼らには師弟相対の信仰など微塵もなく、自己の我欲のために利用できるものは何でも利用する、言わば我利我利亡者の外道集団であることを証明していますね。


<許せぬ日達上人・日顕上人への誹謗>
―遺族への確認―

〈司会〉 悪書『法主詐称』の内容はそのすべてが信用できませんが、特に御先師日達上人が血脈相承をなさらずに御遷化されたという彼らの誹謗は、日蓮正宗の信仰の根本に対する悪質な中傷であり、断じて許せません。
〈藤本〉 御先師日達上人が御当代日顕上人猊下に法を付されたことは微塵も疑いようのない厳然たる事実です。だからこそあの当時、全宗門を挙げて日顕上人猊下に信伏随従を誓っていたし、また池田大作や創価学会をはじめ、自称正信会の者たちも同様だったね。
〈阿部〉 はい、そのとおりです。ところで彼らは今回、昭和54年7月の日達上人の御遷化に際し、御法主日顕上人が日達上人の関係者に後継のことを確認されたとし、もし血脈相承を受けているのであれば確認などするはずがない。よってこの時に、日達上人の遺族によって後継と指名されたのだ、などと莫迦なことを言っております。
〈早瀬〉 そうだね、この西奥番部屋での対話の件はすでに宗門側から破折されているとおりで、たしか菅野能化は、彼らが言うような「総監さんじゃないですぅ?」などという曖昧な言い方ではなくて、「阿部さんと伺っています」とはっきり返事をされたんでしたね。
〈菅野〉 たしかに、後継の件について、日顕上人猊下(当時総監)から御確認がありました。それに対して、かねがね日達上人は日顕上人を後継にとお考えになられており、そのことを日顕上人御本人にもお伝えされていたことは遺族一同も承知しており、別の方へというお話は一切伺っておりませんから、遺族を代表して、その場におられた日顕上人や藤本総監(当時庶務部長)に、「次は阿部さんがなると日達上人より伺っております」とお答えしたのです。それを創価学会や憂宗護法同盟の者が、日達上人は誰にも血脈相承をされずに御遷化あそばされたので、我々遺族が日達上人の後継として日顕上人を指名したなどと言うのは、とんでもない虚偽の言いがかりであり、まったく迷惑千万な話です。
〈八木〉 彼らは御法主上人猊下が御登座後、大奥へお入りになり、塔中・山内の教師一同に対する初めての御目通りの場で、「ワシの血脈のことでガタガタ言っているようだが、じゃあ、ほかに相承を受けた者がいるのか。いたら手を挙げてみろ!」とタンカを切ったなどと誹謗しているが、そんな話もまったくデタラメです。当時の宗門は御登座あそばされた日顕上人に全僧俗が信伏随従しており、誰一人異議を申し立てる者などいませんでした。だから日顕上人猊下がそんなことを言われるはずがないんです。
〈藤本〉 そのとおりだね。当時、私は総本山塔中の蓮成坊の住職を務めており、宗務院庶務部長を拝命していたから、当然、御当代日顕上人猊下の山内教師への最初の御目通りの場にも列席していたが、そんな乱暴な御言葉など一言もなかったね。むしろ厳粛な雰囲気の中にも、山内教師一同に丁重な御挨拶をいただき、一同も謹んでお祝いを言上申し上げたと記憶しています。
〈八木〉 私も御登座の折、日顕上人のお供として総本山に登り、その場に同席しておりましたが、たしか、塔中代表の御祝辞を受けられたあと、宗開両祖をはじめ御歴代上人、御先師日達上人の御遺志を体し奉り務めたい、と御丁重な挨拶をされたと記憶します。
〈阿部〉 本当に『法主詐称』は何から何まで捏造だらけですね。また彼らは日顕上人猊下が、「観妙院さんにしばらくやってもらってもいいんですがね」と言われたとか、「どなたかがお受けしているかも分からない。それで、みんなに相承のことを伺ったら、どなたも自分では言い出されなかった」とか、本当にまことしやかに述べていますね。
〈八木〉 まったく、捏造を何とも思わぬ彼らでなければできない誣言だね。御法主上人猊下は、たとえどなたに対しても、尊い本宗の血脈相承を愚弄するような、いい加減な言葉を述べた覚えは決してないと仰せです。
〈早瀬〉 ともかく日蓮正宗は、唯授一人の血脈相承をお受けあそばされたお方を中心に、異体同心の団結を計ることが最重要事であり、日顕上人猊下がすでに法を内付された御立場からなされた御振る舞いに信伏随従することが日蓮正宗の信心なのです。流言蜚語の類をもって、血脈法水の尊厳を誹謗することは許されざる行為です。
〈藤本〉 そのとおりです。菅野師(現菅野日龍御尊能化)に対して、お側におられた御遺族として、御先師日達上人からどのように聞いているかを御確認されたのも、日顕上人への御付嘱が1年以上前の内付という形で、一般にあまり知られていなかったことから、突然の御遷化に際して、御自身がお一人で宣明されるだけでなく、御遺族が聞いておられることも確認することによって、宗門万代の団結への御配慮をされたものと有り難く拝すべきと思います。
〈菅野〉 まったく同感です。すでに法を付された御法主上人でいらっしゃいますから、当然のことであり、このように申し上げるのはまことに失礼ですが、あの西奥番部屋での確認のお尋ねの折、創価学会や憂宗護法同盟の者たちが誹謗するような「猊座への執念」など少しも感じられませんでした。ただただ、法をお護りあそばされるための配慮というか、そういう大きな御立場から御確認なされたと感じています。

―妙修尊尼の件―
〈司会〉 次に『法主詐称』では、御先師日達上人が京都市平安寺へ妙修尊尼を見舞いに御下向されたときのことも誹謗しています。
〈八木〉 昭和49年1月の光久能化(当時御仲居・現妙縁寺御住職)が同席した平安寺での妙修尼見舞いの折のことですね。日達上人が妙修尼に「あなたの息子さんに後をやってもらうのですからね、早くよくなって下さいよ」と言われたことは、その場にいた関係者の証言なのだから否定できないと思います。
〈菅野〉 野村慈尊師(当時大石寺理事・現清涼寺御住職)もこの件について何か述べていたね。たしか日達上人が京都からお帰りになり、総本山でお出迎えした時に直々に御言葉をいただいたということだったかな。
〈阿部〉 はい。昨年の創価学会と離脱僧に対する「青年僧侶邪義破折班」の破折にも掲載されていますが、京都から総本山へ戻られた日達上人が野村慈尊師に対して、「妙修さんにな、あなたの息子さんに後を譲るから安心しなさいと言って励ましてきたよ」とお話しになられたとのことです。このことは都合が悪いのか、『法主詐称』ではまったく触れていません。


<4月15日の御相承>
―周囲の状況からも明らか―
―こじつけの疑惑と偽証明らか―

〈司会〉 次に彼らは、昭和53年4月15日の御相承の日についても疑惑があると騒いでいます。
〈藤本〉 これも、血脈否定の反逆者がこれまでさんざん言い古してきた誹謗だね。当日は日目上人の御講日に当たっており、日達上人は午前7時から御影堂で御講を勤められ、午前8時前には大奥へ戻られたと思います。
〈阿部〉 はい。そこで彼らの言い分は、午前9時半に故山口範道師ほか2名の僧侶の御目通り、午前10時頃、原田篤道師一行の御目通りがあり、午前11時頃には日達上人は東京へ向けて出発された。どこにも御相承を受ける時間はなかったというものです。
〈八木〉 その言い分は、今回の創価学会・憂宗護法同盟による『法主詐称』だけではなく、かつて自称正信会の者たちが行った主張だね。だが、こと御相承に関しては、第三者が外側から見て、どのくらいの時間が必要であるとかないとか、判断できる問題ではない。まったく窺い知ることなどできないのだから。当事者であられる日達上人が、十分その目的を達することができると御判断の上、この日と決めて日顕上人をお呼びになったのだから、その日に何があった、かにがあったと部外者がいくら言いつのっても、所詮それは的外れの言いがかりでしかないと思うよ。
〈藤本〉 たしかに、何よりも、この日、大奥に参上した日顕上人が、「内々に御相承の儀に関する御言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜った」とおっしゃっているわけだから、他人が時間の余裕の有無などを論ずるのはナンセンスというほかないね。

―楠美慈調御尊師の証言―
〈早瀬〉 この4月15日の件については、当日、楠美慈調大学科事務局長が総本山で日顕上人猊下をお見かけしたという証言があったね。楠美君はこの頃、常灯坊の住職で、宗務院の書記として富士学林の仕事をしていたはずだが。
〈阿部〉 はい。学会側は盛んに楠美事務局長の証言を根拠がないと誹謗していますが、宗内においても誠実で人望のある楠美師の証言だけに、学会側にとっては相当痛かったのだと思います。それで否定にやっきになっているのでしょう。
〈藤本〉 塔中の住職であれば当然この日の御講にも出席したはずだね。
〈阿部〉 はい。私も確認のために直接、楠美師にお話を聞きましたが、この日のことは、御講終了後、大坊でけんちん汁の朝食をいただき、常灯坊には戻らずに、そのまま大講堂3階の宗務院で仕事をはじめたので、特に印象に残っており、日付の記憶に間違いはないとのことでした。
〈八木〉 そして宗務院の東端にあった印刷室で仕事をしていた時に、たまたま内事部玄関のほうを眺めたところ、事務衣に小袈裟を着けられた日顕上人(当時教学部長)が、内事部玄関へお入りになるところだったという証言だったね。
〈早瀬〉 それと、当時、総監さんや宗務院の方々が登院される時は、通常大講堂東側にある宗務院の入口を使われるが、その日、日顕上人が内事部玄関から入られたということは、何かのご用で日達上人に御目通りをされ、その後で宗務院のほうへ見えるのだろうと、楠美君は思っていたが、結局、その日は宗務院へは来られなかったという話だったね。
〈阿部〉 はい、そのとおりです。
〈藤本〉 そもそも宗務院の部長が、宗務院玄関ではなく、遠回りの内事部玄関から、それも小袈裟を着けて入られたということは、その目的はただ1つ。御先師日達上人猊下への御目通りしかないね。学会側は、楠美君は近眼だが、普段眼鏡をかけていないから、大講堂3階の宗務院から内事部玄関は見えなかったはずなどと、何とか楠美君の証言を潰そうとやっきになっているがそのあたりはどうかね。
〈阿部〉 それも楠美師に聞きましたが、新説免許の折に作って以来、ずっと眼鏡をかけていたそうです。ただし、それほどひどい近眼ではないので、眼鏡がなくてもどなたかを見分けることはできたとのことでした。
〈菅野〉 それと学会側は、昭和53年4月15日、血脈内付の当日、楠美君が総本山で阿部教学部長を目撃したのなら、正信会裁判の折に何故出廷させなかったのかと難癖をつけているようだが。
〈阿部〉 それについて楠美師は、特に隠していたわけではないと述べています。正信会裁判が盛んだった頃、何名かの僧侶に、自分は昭和53年4月15日に内事部に入られる日顕上人猊下をお見かけした、もし上から命じられればいつでも証言しますと話したそうです。ただ誰からもそれについての話がこなかったので、自分からしゃしゃり出るのもどうかと思い、それ以上話さなかっただけと言っております。たしか、当時の正信会裁判は創価学会弁護士が担当していましたね。
〈早瀬〉 そうだね。当時は今のように宗務院渉外部の人たちが活躍する状況ではなく、裁判の進行は創価学会の弁護土に任せていたと思う。その意味では、学会側が楠美君について、「正信会裁判の証人になせ出さなかった」などと非難するのはあたらないね。

―光久御尊能化の件―
〈藤本〉 それから『法主詐称』では、光久能化が内付の日時に関して、「4月15日にしていいのですか。あの日は達師が忙しい日だが」と日顕上人猊下に質問したと誹謗しているが。
〈早瀬〉 それについては、光久能化にはかなり明確な記憶があるんですね。それは「4月15日」の御相承の件で、御法主日顕上人に「あの日は日達上人の御誕生日で、お忙しい日でしたですね」と申し上げたのだそうです。それに対して、御法主上人は「私もそういう特別な日と記憶している。むしろだからこそ、あの日のことをはっきりと覚えているのだ」と仰せられたとのことです。また「4月15日にしていいのですか」などという疑うような不遜なことを言うはずがないと明確に否定されています。

―細井珪道御尊師の件―
〈阿部〉 それともう1つ、これは日達上人の御長男で現常在寺御住職の細井珪道師から伺った話ですが、細井師夫妻は4月15日の当日、総本山で媒酌人として原田篤道師の結納の儀に立ち会われ、富士宮市内の店で祝いの宴席にも出席されたそうです。ここまでのことは『法主詐称』もそのように書いていますが、続いて日達上人が午前11時頃には総本山を発たれたとか、細井珪道師が日達上人を追って、宴席を早々に切り上げて東京へ向かったなどという記述はまったく事実と異なるもので、実際は日達上人が総本山を御出発されたのは午後3時過ぎであり、また細井師夫妻も宴席を早々に切り上げる理由もなく、富士宮の店を出発したのは、宴席の終了した後の午後1時少し前だったとのことです。
〈早瀬〉 そうだね。このことは正信会裁判の折、昭和62年頃に裁判所へ提出した細井珪道師の報告書にも述べられていることだね。この日、御先師日達上人と御当代日顕上人が御相承のために充てられることができた時間は、優に6時間以上もあったんだよ。創価学会弁護士はこの件についての自称正信会の大嘘を見抜いていたからこそ、この報告書を作成したはずだね。創価学会は、そのことにほっ被りして、正信会の大嘘をそのまま用いた『法主詐称』を新聞で大々的に報道するとは、道義も何もあったもんじゃないね。
〈阿部〉 本当にそうですね。細井珪道師夫妻は午後3時をちょっと過ぎた頃には文京区西片の大石寺出張所に着き、その時点でまだ日達上人は西片には着かれていなかったので、当時、建ったばかりだったサンシャインヘ見物に行き、4時半頃に西片に戻ったのですが、日達上人はまだお着きではなく、夫妻は日達上人の奥様をお乗せして午後5時前に西片を発ち、グランドホテルに向かったそうです。結局、日達上人は午後3時過ぎに総本山をお発ちになり、ホテルに直行され、祝宴の開始予定時刻は午後5時半か6時でしたが、それよりも、40分ほど遅れて御到着されたそうです。
〈菅野〉 確かにそうだったね。だから『法主詐称』の中に書かれている「東京に向かった日達上人は、まず文京区西片の大石寺東京出張所に入って休憩することになった云云」との記述はまったくのデタラメだよ。
〈八木〉 要するに『法主詐称』に記述されていることは、何から何までデタラメということだよ。
〈藤本〉 本当だね。『法主詐称』中に裁判記録として記載されているのは正信会側の証言だが、こんな大嘘の証言を、嘘と判っていながら資料として平気で使うのだから呆れるしかないね。何れにせよ、御法主日顕上人が御先師日達上人から血脈相承を内付あそばされた日が、昭和53年4月15日であったことを否定する彼らの言い分は、何の根拠もないことが明白なわけだ。

―存在しなかった「奥番日誌」―
〈阿部〉 それと他にも『法主詐称』での彼らの主張がまったくの虚偽捏造である証拠があります。彼らは知ったかぶりをして、当日の「奥番日誌」に日顕上人の御名前が見当たらないなどとしていますが、昭和53、4年当時の奥番であった早川検道師(現法貫寺御住職)と磯村如道師(現要行寺御住職)に、確認したところ、両師ともその頃は「奥番日誌」はつけていなかったと明確に証言しています。もし、彼らが当時の「奥番日誌」があったと言い張るのなら、その日誌をはっきり示すべきですね。
〈八木〉 現存する「奥番日誌」は、昭和56年頃に日顕上人が常備を命せられた以降のものなのだね。もし日達上人の代からの「奥番日誌」が存在していれば、同じ両名の奥番が日顕上人の代にも、引き続き勤務していたのだから、当然、昭和53年の「奥番日誌」も保管されているはずだからね。
〈藤本〉 それが昭和56年以前の日誌は存在せず、当時の奥番を務めた両師が、明確にその存在を否定しているということは、昭和53年の「奥番日誌」など、もともと存在しないわけだ。それでは日顕上人の御名前が見当たらないのは当然ではないか。彼らの狡(ずる)いやり方には呆れるばかりだね。


<6月25日の件>
〈阿部〉 ところで『法主詐称』では昭和53年6月25日に、御先師日達上人がある信者に、次期御法主の座を日顕上人に「譲るつもり」だと言われたことを取り上げ、すでに4月15日に御相承がなされていたのなら、なせ6月25日の時点で、「譲るつもり」と言われたのかと難癖をつけていますね。
〈早瀬〉 それが創価学会と憂宗護法同盟の愚かなところだね。すでに4月15日には日達上人から日顕上人への御相承は済んでいるが、こと血脈相承に関しては、たとえ相手がいかに有力な信徒であろうと、正式に宗内へ公表する以前の内付の段階で、一信徒に対してすでに血脈相承を行ったなどと明かされるはずもなく、だからこそ「譲るつもり」と仰せられたのだと拝します。
〈菅野〉 私はむしろ、その信徒に対して、「次は阿部(日顕上人)に譲るつもりでおりますので、よろしくお願いします」と言われたこと自体が重大な意味を持っていると思います。この件については私も正信会裁判のときに報告書に書きましたが、6月25日の日達上人のこの御言葉により、私はすでに日顕上人に御相承なされているのだなと確信しましたし、それが昭和53年4月15五日の御相承であったと固く信じております。


<菅野日龍御尊能化の件>
〈司会〉 いろいろとたいへんに心強い証言が出てまいりまして、より一層勇気が涌く思いです。たいへんに失礼かもしれませんが、最後に大宣寺様にお伺いしたいと存じます。『法主詐称』には大宣寺様が、「日達上人は相承をしていないんだよ。もし、していたら私が知っているよ」と述べたとしていますが、このような御発言は事実とは思えませんが。
〈菅野〉 当り前です。彼らは日達上人が日顕上人に対して、人前で平気で、「オイ、お前」と呼んでいたなどと述べていますが、これも捏造です。事実は全く反対で、私はこの頃、日達上人の日顕上人に対する御振る舞いが変わられたことからも、日達上人から日顕上人へ御相承がなされたことを確信しておりました。ですから、私がそのようなことを言うわけがありません。捏造です。まったく卑劣な者たちです。

〈司会〉 皆様、本日は御多忙の中をたいへんにありがとうこざいました。(つづく)





創価学会・憂宗護法同盟を破折する3

―大御本尊否定の大謗法―
―学会員を誑かす数々の嘘―

(『大白法』H15.12.16)

 本紙630(10月1日)号、632(11月1日)号掲載の座談会では、池田創価学会、及びその走狗・憂宗護法同盟が、悪書『法主詐称』や「創価新報」などで行っている日蓮正宗の血脈相承への誹謗報道につき、総監・藤本日潤御尊能化、並びにこれらの報道に実名を記載された当事者の早瀬日如・八木日照・菅野日龍の各御尊能化、阿部信彰御尊師により、彼らの報道が悪質極まる誹謗中傷にすぎないことが証明されました。
 「一事が万事」の諺からも、これまでの証明で、すでに彼らの誹謗報道のすべてが虚偽捏造であることが明白となったと言うべきですが、今回は特に大御本尊、及び血脈相承に関する彼らの無惨な誹謗について、徹底破折された座談内容を掲載いたします。
 法華講員読者各位には、当座談会の内容を、創価学会員、及びその走狗である離脱僧らの破折に際して、積極的に活用されるよう願います。

<「河辺メモ」を歪曲した悪意の誹謗>
〈司会〉 悪書『法主詐称』や「創価新報」では、所謂、通称「河辺メモ」なるものを取り上げて、こともあろうに御法主日顕上人猊下が本門戒壇の大御本尊を偽物と断定したなどと繰り返し述べていますが、この点はいかがでしょうか。
藤本総監 大体、「河辺メモ」と呼ばれているものは、故河辺慈篤師が個人的に記した覚え書きのはずです。それが何で創価学会側に存在するのか。おかしな話だね。
阿部信彰御尊師 創価学会側は「河辺メモ」入手の経過を明かしておりません。要するに出所も明かせないような資料なのだと思います。
早瀬庶務部長 この件については河辺慈篤師自身が事情を説明していたと思うが。
〈司会〉 はい。創価学会側の同盟通信による最初の誹謗が、平成11年7月7日でした。それに対し、同年7月9日と10日に宗務院より通達が宗内へ発せられています。特に7月10日の通達には、昭和53年当時のメモについての河辺御尊師の証言が掲載されています。
 「当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても、『戒壇の大御本尊』と、昭和45年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折について話を伺ったもの」(抜粋)
〈阿部〉 たしか、この河辺師の説明について創価学会側は、当時、このような戒壇の大御本尊に対する妄説が、宗内に生ずる状況にはなかったなどと疑難していたと思いますが。
八木日照御尊能化 そうだったね。しかし、河辺師が、「当時の裁判や以前からの疑難についての様々な話の中で」と述べているところからすれば、決して、宗内に妄説の起こる可能性だけが話題となったわけではないと思う。あの当時、戒壇の大御本尊に対する外部の疑難に対して、御先師日達上人が御指南をされたことがあったですね。
菅野日龍御尊能化 ええ、たしか昭和47年の秋でしたかね。「戒壇の大御本尊は室町期の作」などとする他宗からの疑難につき、日達上人が破折なされたことがあります。内容は、戒壇の大御本尊の御彫刻には、鎌倉時代の手斧(ちょうな)が用いられており、後世の室町時代に使われた鉋(かんな)の削り跡とは明らかに違う、よって後世の作とする疑難は当たらないという御指南でしたね。
〈藤本〉 昭和47年頃にそのような御指南があったということは、その関連で、昭和53年の「河辺メモ」が、戒壇の大御本尊に関する妄説の破折についての覚え書きであったとする河辺師の証言は、当時の状況にも合致しているわけだね、
〈早瀬〉 第一、当事者である河辺師が明確に、「疑難への破折についてのメモ」と証言しているものを、他人がとやかく言うべき事柄ではないね。「河辺メモ」は河辺慈篤師の個人的なメモ書きなんだから、主語も述語も省かれており、当然他人が速断できるものではないのに、学会はそれを悪意で宗門誹謗の材料としたわけだ。
〈阿部〉 この当時、後に正信会と名乗る活動家僧侶の中で、そのような疑難があったという情報については、いかがでしょうか。
〈八木〉 『慧妙』にも載っていたと思うが、正信会の者が編纂した『日興門流上代事典』中に、「河辺メモ」に記される大御本尊と日禅授与の御本尊の関係についての記述とまったく同一の内容が記載されているね。
〈菅野〉 正信会の書籍に大御本尊と日禅授与の御本尊の関係についての記述があるとすれば、彼らの中に昭和53年当時にも、そのような疑難をもつ者がいた可能性が大きいな。
〈早瀬〉 やはり河辺師の説明どおり、それまでの戒壇の大御本尊に対する外部の者の疑難や、宗門の一部の僧侶(後の正信会)が、疑難をもつことも予想される状況の中で、当時教学部長であられた日顕上人猊下が、そのへんのことを河辺師と談話されたというのが真相だと思うね。
〈藤本〉 「河辺メモ」とされるものの次の部分には、「Gは話にならない」などと、日達上人に対する批判的内容が記されているようだが、謹厳な御法主日顕上人猊下がそのような御言葉を発せられるとは考えられないね。
〈八木〉 ええ、むしろ、大御本尊の件と同様、後に正信会と名乗る活動僧侶が、当時同様の猊下批判を口にしていたことは周知の事実だし、この件についての「河辺メモ」の真実は、当時、一部の活動僧侶(後の正信会)がなしていた疑難や批判について、日顕上人が河辺師との面談の中で語られたときの記録と見るべきでしょう。
〈阿部〉 御法主上人猊下は当時の状況につき、
 「御本尊と血脈等に関する疑難悪口があることの内容について、ある時に慈篤房と客観的な話しをしたような記憶は存する。しかし学会で発表したあのメモのような諸件についての主張をしたことは断じてないのである」(『大白法』534号)
と仰せです。河辺慈篤師もまた同様に説明しておられるのだから、要するに創価学会と憂宗護法同盟の言い分は言いがかりと言うほかありませんね。
〈八木〉 そしてそのあと、御法主上人は、
 「そこで此の際はっきりしておくことは、本門戒壇の大御本尊様と日禅授与の御本尊とは全く相違しているという事である。よく拝すれば中尊の7字の寸法と全体からの御位置においても、明らかに異なりが存し、また御署名御花押の御文字及びその大きさや御位置、各十界尊形の位置等にも歴然たる相異が存する。そして勿論模写の形跡などは存在しない。
 したがって御戒壇様と日禅授与の御本尊とを類推すること自体が全くの誤り」(同)
と、明碓に宣言あそばされているからね。


<池田創価学会=新興宗教へ会則変更>
―「本門戒壇の大御本尊」を削除―
〈菅野〉 創価学会は先年「会則」を変更したようだが、この変更した会則の中で学会は、信仰の対象とする本尊について、従来の、
 「日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」
の部分を、
 「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し
に変更したそうだね。
〈早瀬〉 御法主上人猊下に対し、「大御本尊を否定した」などと言いがかりをつけている創価学会が、会則から「大石寺安置の弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊」の部分を削除したということは、本当は、創価学会自体が本門戒壇の大御本尊否定の大悪業を犯したということだね。
〈八木〉 要するに彼らが御法主上人を誹謗する目的は、自らの大御本尊離れ、大御本尊否定の大謗法を正当化するためなんだよ。まったく呆れるね。
〈阿部〉 たしか彼らはその他にも総本山第62世日恭上人に対する誹謗や、故河辺慈篤師が日顕上人猊下に対して「『御師匠さん』と呼べ」と言ったとか、故山口範道師が御本尊に関して、「猊下以外に筆跡鑑定できる者はいない」と言ったとか、死人に口なしをいいことに、言いたい放題を述べていますね。
〈菅野〉 日恭上人に対する彼らの誹謗中傷はまるで筋違いと言うほかはないね。何故かと言えば、御書の文の一時的な削除の件とか、観念文の改訂の件、さらには神札の件などは、当時の戦時下における、軍国主義体制側の身延派との合同への圧迫をどう回避するかという特殊な時代状況と切り離しては論じられないからね。
〈早瀬〉 そういう意味では、当時の日蓮正宗は59世日亨上人をはじめ、全宗門が協議し、護法のために一致団結して正しい方針が採られたのだから、当然日恭上人御一人を誹謗することは間違いだよ。
〈藤本〉 そのとおりだね。創価学会が日恭上人を誹誘することは、彼らが常々尊敬を口にする日亨上人も、当時御隠尊猊下として宗内教導の立場にあられたのだから、結局、学会は日亨上人についても批判しているわけだね。
〈阿部〉 はい。その道理が悩乱した頭破七分の彼らには判らないんですね。ところで河辺師には私もいろいろと可愛がってもらいました。いつでしたか河辺師が、「俺はな、御前さんと法道院のおやっさんには頭が上がらない」と話してくれたことがありました。そのように思っている猊下に対して、「『御師匠さん』と呼べ」などと河辺師が言われるはずがありません。呆れた大嘘です。
〈八木〉 『法主詐称』の話が虚偽に満ちたものである証拠は他にもあるんじゃないか。例えば河辺師が教師講習会の折、現宮城県広安寺住職の三浦接道師らに、「アレ(日顕上人)は除歴しなきゃならん。67世はいないんだ!」と言ったなどとしているが、そんなことはあり得ない話だね。
〈阿部〉 まったくそのとおりです。私もおかしいと思って三浦師に確認いたしましたところ、そんなことは一言も聞いていないそうです。ご本人が文書で証言してもよいと申しています。創価学会と憂宗護法同盟の恥知らずな大嘘はまさに底抜けですね。
〈菅野〉 それはひどい。「裏の裏まで知り尽くした河辺の発言だけに『除歴しなきゃならん』『67世はいないんだ!』との言はずっしりと重い」などと、まったくの嘘を何が「ずっしりと重い」だ。
〈早瀬〉 「今、改めて問いたい。『67世』を詐称する阿部日顕とは、いったい何者なのか、と」などと、よく言うよ。本当に呆れるね。
〈藤本〉 彼らが「嘘も百遍言えば本当になる」を本気で実行していることは明らかだ。何というおぞましい団体なのか。空恐ろしくなるね。


<山崎正友氏を恐れる創価学会の中傷>
〈司会〉 『法主詐称』と「創価新報」では山崎正友氏を取り上げて、御法主日顕上人猊下誹謗に利用しようとしていますが。
〈藤本〉 たしかに山崎正友氏には過去にいろいろなことがあったとは思うが、日蓮正宗は一切衆生を救うことが目的なんだから、創価学会や自称正信会と縁を切って脱会し、反省懺悔した人は誰でも日蓮正宗に戻れるわけです。山崎氏は今、妙観講で信行に励んでいるそうだね。
〈早瀬〉 そのようですね。彼は最近『慧妙』紙上で、やはり自称正信会と縁を切って日蓮正宗に戻った原島氏と対談していましたが、ずいぶん元気そうだし、成仏の直道に戻ることができて本当によかったと思うね。
〈阿部〉 『法主詐称』では「山崎語録」などと言って、山崎氏がかつて御法主上人猊下を徹底して誹謗していたなどと過去の発言をあげつらっていますが。
〈菅野〉 『法主詐称』はずいぶん嘘が多い。しかし、何れにせよ、過去にいかなる罪過があっても、至心に反省懺悔すれば日蓮正宗信徒に戻って正しい修行に励めることを氏が身をもって示しているわけで、そういう意味ではまさに謗法者共の頂門の一針とも言うべき振る舞いと言えるだろうね。
〈司会〉 それから『法主詐称』では、御法主上人猊下が山崎氏を「地獄へ何回堕ちても足りない」と責めたとしていますが。
〈八木〉 仮に本当にそう仰せられたとしても、たしかに山崎氏の犯した謗法行為は間違いなくそれほどの大罪だったと思いますよ。しかし、本門戒壇の大御本尊と血脈付法の御法主上人猊下に至心にお詫びすることにより、日蓮正宗へ戻れて謗法罪障を消滅することができるわけです。
〈藤本〉 その証拠が、山崎氏や原島氏が元気で信仰に励んでいる姿だろうね。本当に有り難いことだよ。
〈早瀬〉 常泉寺の不審火の件も、「山友、菅野の仕業」による暗殺計画だと日顕上人猊下が話されたなどと、とんでもない荒唐無稽な言いがかりだね。
〈阿部〉 許せない大嘘ですね。本当にどうしてこう嘘が多いのか。
司会 悪書『法主詐称』では、山崎氏が御法主日顕上人猊下に差し上げたお手紙を「謀略書簡」と言ってけなしておりますが。
〈菅野〉 山崎氏も出所して、世法上の罪にけじめをつけると共に、信仰の上でも深く反省し、お詫びの心を手紙に託して御法主上人猊下に差し上げたものと思うが。
〈藤本〉 そうだね。それを謀略だとしか考えられないのは、彼ら一味こそ、謀略体質であることを証明しているね。彼らの立場から山崎氏を見ると、氏が真摯な仏道修行者の生命に変わっていることが、腹立たしくて仕方ないんだよ。
〈八木〉 まったく彼らは、「ゼニゲバ」だ「女遊び」だと、読んだ者の目が汚されるような下劣な悪口を、これでもかと並べて御法主上人を誹謗しているが、彼ら自身の品性そのものが出ていると言うしかないと思うね。
〈早瀬〉 御法主上人猊下と山崎氏が血脈相承をめぐって取り引きしたなどと、自称正信会との和解がその条件だったように書いているが、こんなこともまったくの作り話だな。
〈藤本〉 もちろんだよ。その件で平成6年12月10日に、私と秋元渉外部長が富土見庵(総本山の施設)で山崎氏と極秘会談したなどとまことしやかに書いているが、これも完全に作り話だ。大体、この日は私は1日中、常泉寺にいて法務を執っていたよ。まるっきりのデタラメだ。
〈菅野〉 山崎氏が、「私が"御相承"を拝信するに至るまで」という文章を『慧妙』(51号)に寄せているが、これに対しても創価学会の連中は口汚く罵っているね。
〈阿部〉 そのとおりです。人の真摯な反省懺悔をあのように莫迦にするとは、信仰心も人間性も皆無の最低の連中ですね。
〈八木〉 その他、自称正信会の連中が山崎氏に裏切られたと息巻いていたとか、山崎氏を誹謗した本が出版された話とか、くだらないことがいろいろ書いてあるね。しかし何れにせよ、このような悪書『法主詐称』のことだから、何が書いてあっても信用することはできないね。
一同 まったくそのとおり。


<邪智がなせる呆れた血脈誹謗>
〈司会〉 次に『法主詐称』では、御先師日達上人から御当代日顕上人猊下への血脈相承について、「相承の軽さ」などと誹謗していますが。
〈八木〉 御相承について軽重などを論ずることは大変な誤りです。すべての御相承がまことに重大な意義をもつことは当然で、「相承の軽さ」などと誹謗すること自体、彼らの信心が皆無であることを示しているね。
〈阿部〉 彼らは、ここで総本山33世日元上人から35世日穏上人、57世日正上人から58世日柱上人、63世日満上人から64世日昇上人、そして65世日淳上人から66世日達上人の4例の御相承を挙げています。
〈早瀬〉 たしかにこれらの御相承が、それぞれの客観的な状況は異なるにせよ、儀式としての形を採られていることはそのとおりだね。ただし、だからと言って、内付の形を採られた御先師日達上人から御当代日顕上人への御相承が軽いなどと誹謗することはとんでもないことだよ。
〈藤本〉 まさにそのとおり。700有余年、67代の御法主上人に至る間には、様々な御相承の姿が存したことは言うまでもない。そして、そのすべてを厳然たる御相承として拝信することが本宗の信仰における根本のあり方だよ。
〈司会〉 御先師日達上人から日顕上人猊下への内付について、軽いなどと誹謗することは、許せぬ御先師違背というほかはないですね。そんなことを言った者は必ず霊山浄土で、仏祖三宝尊と日達上人から厳しくお叱りを受けるでしょうね。
〈阿部〉 いいえ。あの連中は地獄行きですから、直接お叱りを受けることはあり得ないでしょう。間違いなく待っているのは閻魔法王と獄卒からの呵責ですね。
〈司会〉 ところで『法主詐称』では、自称正信会が御法主日顕上人猊下に反逆した、所謂管長訴訟における主張を取り上げて、「我々と立場や理念は異なるが、正信会によるこれらの主張は常識的な疑問でもあった」と述べていますが。
〈藤本〉 その当時、池田大作がどのような発言をしていたか、創価学会や憂宗護法同盟の連中が忘れるはずはあるまいと言いたいね。彼は自称正信会の者たちを、御法主日顕上人猊下に背く輩として、厳しく糾弾したはずです。
〈八木〉 そうですね。自称正信会の者たちが昭和56年1月、御法主日顕上人猊下に対し、管長地位不存在確認請求訴訟、所謂管長訴訟を起こしたが、当時、池田大作は彼らを厳しく批判して次のような発言をしています。
 「日蓮正宗の僧俗であるならば、絶対に御法主上人猊下に随順すべきである。それに反して、随順せず、いな、弓をひく行為をする僧や俗は、もはや日蓮正宗とはいえない。私どもは無数の讒言や画策をうけながらも、一貫して総本山を外護したてまつり、御法主上人猊下に随順してまいった。これが真実の信心であるからだ。
 それを、増上慢と権威とエゴと野望のために踏みにじっていく僧俗は、まったく信心の二字のなき徒輩であり、もはやそれは、日蓮大聖人の『広宣流布をせよ』との御遺命に反した邪信の徒と断ずるほかないのである」(『広布と人生を語る』第2巻37頁)
〈阿部〉 これほど確信をもって、日蓮正宗の血脈法水の尊厳を讃歎し、御法主上人猊下への信伏随従を強調しておきながら、今日、「法主詐称」との悪言をなす。まったく池田大作と創価学会は、古今未曽有とも言うべき恥知らずな悪口両舌団体というほかありませんね。
〈早瀬〉 また『法主詐称』では、「血脈相承を受けたというなら、なせその時点で公表しなかったのか」とか、「法主になるべき位(能化)ではなく1段下であった日顕(上人)がなせ法主に就任したのか」とか、「なせ相承の儀式、手続きをしなかったのか」などと疑難しているが、純粋な本宗の信心があれば、こんな疑問が起きるはずはない。これらの状況も当然、様々な御相承のあり方の中に包含されるからね。
〈菅野〉 それにこんな疑難をすること自体、御先師日達上人に対する許し難い無惨な誹謗だね。このような形の御相承をあそばされたのは御先師日達上人であられ、御当代日顕上人は、ただそれに随従してお受けされただけなのだから。
〈司会〉 次に、『法主詐称』では、昭和56年1月10日の大奥対面所での無任所教師の御目通りについても、御法主日顕上人猊下を悪し様に誹謗していますが。
〈阿部〉 この折のことについては、「継命」には、御法主上人猊下が終始大きな声を出されたように掲載していますが、事実は数を頼んで、あちらこちらから質問が繰り出される状況の中で、御法主上人猊下が諄々とお話しになられているときに、特に1人、非常に無礼な態度の者がいたとのことであります。ですから、暴言を吐いたその者に対して、自ら法主の尊厳をお守りになるお立場において、この場を立ち去るよう叱責されたのであり、あとは理不尽、かつ違法な内容の質問に対して、その都度、厳しく御注意なされたものと思います。
〈菅野〉 『正信覚醒運動の歩み』の中では、この御目通りの折の長い時間の中における時々の厳しい御注意だけを、切り文で並べているから、いかにも御法主上人の御言葉が終始乱暴のように見えるが、この間にある多くの自称正信会側僧侶の無礼な言葉を削除しているね。まったく卑劣なやり方をする連中だな。
〈早瀬〉 それでは『法主詐称』の誹謗と実際はまるで状況が違うね。集団で弟子が師匠に対して無礼な行動をとる、しかも御法主上人猊下を蔑ろにするなどということは、師弟相対の日蓮正宗の僧侶にあるまじき振る舞いというほかはないね。本来なら全員下山を命じられても当然だな。
〈八木〉 大体、『法主詐称』には、当日の御法主上人猊下と無任所教師とのやり取りが、まるで血脈相承の有無に関してであるかのように書いてあるが、このこと自体が事実に反しているね。この日の彼らの質問は、仏滅讃文に関する件などの教学上の問題と創価学会の8体の模刻本尊に関する件などで、日達上人から日顕上人への御相承を疑うような内容はまったくなかったんだよ。
〈阿部〉 創価学会一味は、この折の御法主上人猊下の御指南が、御先師日達上人に随順され、御本尊模刻問題などで創価学会側を守ったものであることを敢えて隠しているわけです。本当に醜い連中です。御法主上人猊下からは、この折も含めて、御相承に関することを、御目通りの折に面と向かって聞いてきた者など、これまでに1人もいなかったと伺っています。
〈司会〉 また『法主詐称』では「日顕(上人)が相承を受けていない決定的な証拠」などとセンセーショナルな見出しを掲げていますが。
〈藤本〉 御法主日顕上人猊下が御相承をお受けされていない決定的証拠などあるはずがありません。実際にお受けになられているのだから、むしろお受けになられたことを証明する証拠がたくさんあることは、宗門側の破折文書でも明確に述べられているね。
〈阿部〉 はい、そのとおりです。それから創価学会一味は、昭和57年1月に当時の能化、宗会議員全員が、「御法主日顕上人猊下を血脈付法の法主と仰ぐ」旨の声明文、決意書を出していることを取り上げて誹謗していますね。
〈早瀬〉 そうだね、当時の自称正信会側の僧侶が裁判の中で、「日達上人のお通夜の後、各塔中で、『日達上人は次の方をお選びにならずに御遷化された』などと、盛んに言う老僧方がおり、よって、決意書とか決議文を出さざるを得なかったんだろう。宗門の700年の歴史において、このようなものを出させるなどということは、前代未聞のこと」(趣意)と述べていることを利用して御法主上人猊下を誹謗したわけだね。だがこの自称正信会側の話はまったくの捏造話だな。
〈菅野〉 そのとおりで、日達上人の御通夜の後など、日顕上人への血脈相承に疑義をはさむような者は、誰一人いなかったと思うね。
〈八木〉 たしかにそうだった。それに昭和57年1月の能化会議の声明文と宗会議員の決意書が出された理由と目的は、一重に血脈相承を否定した自称正信会に対するものだったからね。
〈菅野〉 だから彼らの言葉を借りて言い直してみれば、「宗門の700百年の歴史において、百数十名もの本宗僧侶が、血脈相承を否定するという前代未聞の不祥事」、それを引き起こした張本人が自称正信会ということになるわけだ。
〈早瀬〉 彼らは、まず自らがそのような宗史上の大蝗虫(おおいなむし)であることを自覚すべきだし、さらに創価学会一味も同類であることは言うまでもないね。
〈阿部〉 はい。さらに言えば、反創価学会の急先鋒であった自称正信会が血脈を否定し、日蓮正宗の勢力が分裂するような状況になったことは、本を正せば、すべてが池田大作問題から起こり、池田大作が元凶となっていることは明らかです。
〈藤本〉 しかし、結局は何があろうと、御戒壇様と血脈法水に対する正しい信心、道念があれば、正しい道を歩むことができるんだよ。大聖人様の竜の口法難の折も多くの卑怯な退転者が出たように、僧俗一致の広宣流布への大事な時節を前に、信心怯弱で我意我見の盛んな者は、自らの不徳ゆえに、自業自得で、宗外へ弾(はじ)き飛ばされてしまったんだと思うね。
〈司会〉 本当にそう思います。一切が御仏意ですね。次に彼らは御法主日顕上人猊下が血脈相承を受けられていないなどと誹謗して、当時の奥番の方々の証言なるものを挙げておりますが。
〈八木〉 たしか『法主詐称』では、御法主日顕上人が奥番に対して「日達上人の鶴の紋の入った袈裟・衣はないか」と言ったのはおかしい、なせ前もって衣を作っておかなかったのかとか、「御秘符をどのように作っておられたか」と聞かれたなどと書いていたね。
〈菅野〉 まず始めの袈裟・衣の件については、御当代上人が法を内付された時点で、予め法衣を作られるなどということは、あり得ようはずがないね。あくまでも内付なのだから。ちなみに、日達上人の御遷化が突然であられたので、遺族として私と細井珪道師が、御遷化後まもなく、「鶴丸の紋」の入った正式な袈裟・衣と指貫(さしぬき)一式を学寮の日顕上人のところへお届けしております。
〈阿部〉 次の御秘符の件は、現在は教師になっている当時の奥番の話によれば、御法主上人猊下から御秘符の作り方を尋ねられたなどということは、当然のことながら一切なかったとのことです。
〈八木〉 また彼らは御本尊の書写に関しても、「御本尊書写については、宗門の僧侶であれば一応書写方法は知っている」などと、それこそ御相伝の大事について、とんでもない莫迦なことを言っているね。
〈早瀬〉 そして御法主日顕上人猊下御書写の御本尊を誹謗する理由が、御登座直後にしてはあまりに「達筆な筆さばき」だからというのでは、まったく話にならないね。
〈藤本〉 結局のところ、『法主詐称』で創価学会側が、「日顕(上人)が相承を受けていない決定的な証拠」などと大層な見出しを掲げていることが、すべて根拠のない、言いがかりに過ぎないことが立証されたわけだね。
一同 そうですね。(つづく)

【憂宗護法同盟】=元日蓮正宗僧侶であったが、離脱して創価学会の傀儡(かいらい)、走狗と成り果てた者共である。これに所属する某離脱僧には、客観証拠により明らかなものだけでも、たった6年余の間に、何と総額7250万円もの大金が学会より支払われている。(『大白法』628号参照)これは一体何を意味するか、もはや誰の眼にも明らかである。この「同盟」は、学会とは別の反宗門組織のように装ってはいるものの、所詮学会と一体、その下部組織である。

【(自称)正信会】=昭和55年に血脈相承否定という大謗法を犯し、擯斥処分に付された謗法僧集団。発端は、昭和52年の創価学会謗法問題であり、池田及び学会の反省により問題を収束された日達上人、それを継承された日顕上人の御指南に従えずに学会批判を続けた反学会の者共が、ついには自らの保身のために日顕上人への御相承を否定する邪説を作り出した。現在学会が行っている血脈誹謗は、この邪説の焼き直しである。

【河辺メモ】=故・河辺慈篤御尊師の個人的な覚え書きのこと。御法主日顕上人猊下が本門戒壇の大御本尊を偽物と断じたとの妄言・誹謗記事の根拠として、創価学会が「河辺メモ」と称して悪用している。その内容は、昭和53年、御法主日顕上人猊下(当時教学部長)が外部よりの本門戒壇の大御本尊に対する多くの疑難について説明されたものを、河辺御尊師が書き留めたものである。個人的な覚え書きである上、主語・述語が不明確で、第三者が見れば誤解してしまうこともあり得る。学会は、御法主上人猊下誹謗のために、入手経路を明かせないまま、悪用している。(『大白法』531号、534号参照)





禿人の浅智はもはや破綻

―御相承の証拠は厳然―
―創価学会・憂宗護法同盟―

(『大白法』H15.12.1)

<荒唐無稽の「物語」>
 創価学会に媚(こび)を売る離脱僧(以下「禿人」)らは、創価学会への忠誠心の表れか、「御相承箱が大宣寺にあった」と言い張り、あたかも日達上人は日顕上人へ御相承なされていないかの如き邪難を繰り返している。
 平成2年まで御法主日顕上人猊下の御指南に随順していた(ように見せかけていた)くせに、このように変節するとは、まことに無節操極まる。
 しかも、その内容たるや、1台の乗用車に日顕上人以下5名の方が乗車されて大宣寺に向かったというのであるから、全くお粗末な「物語」である。
 乗用車に5名乗車となれば、日顕上人は一体どこに座られたというのか。助手席であろうか、はたまた後ろに3名座っていただいたというのであろうか。まさか運転されていたとは言うまい。
 これ1つ見ても、「御相承箱」に関する禿人らの稚拙な難癖は、荒唐無稽の「作り話」に過ぎないことが明らかである。

<禿人らの自己矛盾>
 そもそも憂宗護法同盟なる団体に属する13名のうち、なんと11名の禿人は、日顕上人に任命されて住職になったのではないか。これは日顕上人が唯授一人の御法主であるからこそ、その命に従って赴任したのではないのか。
 自分が住職に赴任する時は日顕上人を御法主と仰いでいたくせに、今や「夢物語」まで作り上げて日顕上人の血脈を否定せんとする浅ましさは、自己矛盾もはなはだしい。邪教創価学会に諮(へつら)い、保身に腐心する売僧(まいす)の面目躍如といったところであろう。

<血脈相承の証拠>
 信なく学もないこれら一闡提には詮ないことかも知れないが、日蓮大聖人の大慈大悲を体し、正しい血脈観を教えてあげるから、篤と拝するがよい。
 御本仏大聖人の血脈とは、
 「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり」(御書1675頁)
との『日蓮一期弘法付嘱書』にその濫觴(らんしょう)を拝する。
 しかして、この「日蓮一期の弘法」を何と拝するか。禿人および創価学会の言い分では、これを「御相承箱」と言い張らねば理が通るまい。しかしながら、そんなことはない。
 日寛上人は、
 「応に知るべし、『日蓮一期の弘法』とは、即ち是れ本門の本尊なり」(六巻抄104頁)
と『依義判文抄』に明快に明かされ、さらに日応上人も、
 「唯授一人嫡々血脈相承にも別付、総付の二箇あり。その別付とは則ち法体相承にして、総付とは法門相承なり。而して法体別付を受けたまいたる師を真の唯授一人正嫡血脈付法の大導師と云うべし(中略)而して別付の法体とは則ち吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是なり」(弁惑観心抄211頁)
と端的に示されている。
 本門戒壇の大御本尊が厳然と総本山大石寺にましまし、これを御当代御法主日顕上人猊下が格護されている現実こそ、日顕上人が大聖人以来の唯授一人血脈相承を御所持あそばす、最たる証拠である。

<「浅智の覃(およ)ぶ所に非ず」>
 日興上人は謗法者の稚拙な論難を、『五人所破抄』に
 「若し知らんと欲せば以前の如く富山(ふざん)に詣で、尤も習学の為宮仕(みやづか)へを致すべきなり」(御書1882頁)
と一蹴されるとともに、
 「此等の深義は聖人の高意にして浅智の覃(およ)ぶ所に非ず」(同)
と、その浅知恵をたしなめられている。
 この御制誡を刮目して拝し、自らの浅智をもって「物語」を作り出す暇があったら、早々に懺悔して総本山大石寺へ詣で、「習学の為宮仕へ」せよ。
 さもなくば、堕地獄は必定であると覚悟せよ。





究極の異流邪義 極悪の血脈否定

―憂宗護法同盟―
(『大白法』H15.11.1)

創価学会とその走狗・憂宗護法同盟は、悪書『法主詐称』ならびにこの内容を掲載した『創価新報』などを用いて、本宗の血脈相承に関する虚偽捏造の誹謗を繰り返している。

<目くそ鼻くその異流邪義>
 その内容は、陳腐なほどの虚偽捏造と邪義のてんこ盛りであるが、その邪説の底流には、彼らがこのたび創設した異流義が存在しているのである。
 すなわち『法主詐称』には、
 「これら(筆者注・自称正信会や顕正会)の主張と我々の主張との違いを明確にすることは、取りも直さず、我々の主張する血脈観の本質にかかわってくる」(同書242頁)
と、創価学会とその走狗・憂宗護法同盟の血脈否定は、従来の自称正信会や顕正会の邪義とはその性質が違っているとの認識を示している。その上で、
 「宗祖の意図した血脈相承とは、自らの本懐(宗教的救済原理)の滅後への遺託・遺嘱以外の何ものでもない。噛み砕いて言えば、宗祖の法財の申し送り・継承のあり方こそ相承の実質内容であり、相承をもって宗祖の法財そのものの一部と見なすことがそもそも根本的誤りであると指摘したい」(同書243頁)
と、自らの邪義の特色を開陳している。まことに極悪の血脈観である。

<日亨上人はさぞ御立腹>
 特に「相承をもって宗祖の法財そのものの一部と見なすことがそもそも根本的誤りであると指摘したい」との言は、彼らの迷見を余すことなく露呈している。なぜならば、「血脈相承」とは日蓮大聖人の色心常住の秘術であって、それは取りも直さず、日蓮大聖人の仏法の全部を意味するのである。
 しかるに「宗祖の法財そのものの一部と見なすことがそもそも根本的誤り」などと言うことは、血脈相承が日蓮大聖人の仏法の一部ですらないという全否定であり、究極の邪義と言わねばならない。
 この邪義を言いたいために、彼らは同悪書のなかで「死人に口なし」とばかりに、総本山第59世日亨上人の話だとして捏造を繰り返す。そのなかに、
 「相承箱の中身について、堀日亨上人は生前、『百六箇抄、本因妙抄と、この両書に関するもの。あとは授受の代々の法主が伝える1枚の紙切れ』と明かされている」(同書17頁)
と仰せられたと、大嘘を述べたものがある。

<相伝書と御相承は別と御講義>
 日亨上人は、昭和18年から『百六箇抄』と『本因妙抄』について講義されているが、その内容は大村日統御尊能化の御尊父である大村寿道御尊師等が「聞書」として書きとどめられている。そこには、
 「御相承の中には両巻抄(筆者注・『百六箇抄』と『本因妙抄』のこと)はない」
 「富士の相承は必ずしも両巻抄に依るのではない」
と、『百六箇抄』と『本因妙抄』が「血脈相承」に含まれてはいないと、彼らの大嘘とは正反対を述べられているのである。
 彼らは、御相承の内容は『御書全集』等にすべて公開されているかのように言うが、御相承を知らない者がどうこう言えるはずはなく、勝手な推測である。
 御相承が厳として存することは右の日亨上人の「聞書」の文からも明らかである。『百六箇抄』や『本因妙抄』等は日蓮大聖人の文底下種仏法における広義の「血脈相承」に含まれる御法門の相伝書であることは当然ながら、いわゆる唯授一人の血脈の御相承書ではないのである。
 『上野殿御返事』に、
 「日蓮が弟子等の中に、なかなか法門し(知)りたりげに候人々はあ(悪)しく候げに候」(御書1219頁)
とは、創価学会とその走狗・憂宗護法同盟などの、異流義を唱える連中のことである。





血脈相承否定を破す1

(『慧妙』H14.6.1)


<学会の邪説>
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 昭和54年7月22日の早暁、第66世日達上人は急逝されたが、その日の朝に開催された重役会議において、日顕(上人)は突然、「昨年4月15日、総本山大奥において、日達上人猊下より自分に対し、内々に御相承の儀に関するお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜わったことを御披露する」と言って、猊座についた。
 しかし、これは自己申告であり、証拠も何もない。証人すらいない。
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<破折>
 昭和53年4月15日における、第66世日達上人より現・日顕上人猊下への御相承は”内付”であって、公けの御相承の儀式は執り行なわれていない。
 しかしながら、日達上人のお側に近くに仕えていた方々は、御相承について日達上人より直々に、その御意を承っておられたのである。
 すなわち、53年4月中旬、日達上人は、菅野慈雲尊師(大宣寺御住職)、細井珪道尊師(当時は清涼寺御住職。現在は常在寺御住職)ならびに信者の塚本素山氏を大石寺出張所に呼ばれ、
 「私のあとは、(法主を)阿部教学部長(現・日顕上人猊下)にやらせようと思うから、後見を頼みますよ」
と、明確に「次期御法主は阿部日顕上人」と仰せられていた。
 また、日顕上人御登座後、宗門行政との食い違いから正信会に所属し、宗門・日顕上人と対立する立場となった山崎正友氏(元・創価学会顧問弁護士。現在は法華講員)が書いた手記においてすら、その事実が記(しる)されている。すなわち、
 「昭和54年4月末、日達上人は、『10月に登座20周年を迎えたあと、隠居して、阿部(日顕上人)にゆずろう。その時は、菅野慈雲を総監にすえ、隠尊となった自分と、上下からしっかり体制を固め、見守ろう』と言われ、5月1日、阿部教学部長を宗門ナンバー2の総監に任ぜられた」
と、日達上人が54年10月以降、公けに日顕上人に御座替りする御考えであったことを述べている。
 山崎氏の手記は、このあと、
 「日達上人は、事実上の”指名”なり、心づもりなりを周囲の人々に話されたことはあるが、”御相伝”(の儀式)そのものは、なされていた形が、どこにも見当たちない。見た人は誰もいなかった」
と続け、結局、「血脈相承は行なわれなかった」と結論づけているのであるが、これは山崎氏が、御相承は必ず儀式によって伝わるもの、と思いこんでいたが故の誤りである。
 御相承は、授ける側の師の御意志が最も重要で、それさえ決まれば、さまざまな形をもって伝わるのであり、日達上人の場合は、後継を「阿部信雄教学部長」とする御意志だったことが、前述のように明らかなのである。
 以上で十分であろうが、日顕上人に御相承あらせられた証(あかし)として、他にも次のような証言がある。

●(日顕上人に内付があったという発表を聞いて)そういわれてみれば、昭和53年4月を境として、それ以後、日顕上人が本山へ来られた時など、日達上人は、日顕上人を対等に遇されるよう御指示されていた(早川検道尊師=昭和53年当時、日達上人の奥番をしていた)

 また、この53年4月以降、地方への御親教の際などにも、時間の合い間を見つけては、日達上人が現・日顕上人に「花押」の書き方を御指南されているのを、随行の役僧の方が拝見した旨、語られている。
 かくのごとく、当時の宗門において立場のたしかな方々が、御相承の事実を拝信され証言されているのであり、これらの厳然たる事実の前には、創価学会の邪説・邪難が入り込む余地はどこにもないのである。
 なおまた創価学会は、日顕上人誹謗に夢中になるあまり、大事なことを忘れている。
 次期御法主上人を選ばれ御相承されるのは、御当職の大切な職務であられ、四大に不順を感じておられた日達上人が、万一の場合に何の備えもなく御遷化される、などという道理がない。また事実、後継を日顕上人猊下とお決めになった後、御遷化あそばされたのである。
 創価学会よ、もし、日顕上人が御相承を承けていない、というのならば、、では誰が、日達上人より御相承を承けたというのか、あるいは、御相承が何処へ行ってしまったというのか、明確に答えてみよ。
 学会の出版物のどこをみても、これに対する回答は見当たらないし、できようはずもない。
 創価学会の言い分は「日達上人は最も大切な職務である次期御法主を選定されないまま御遷化された」と言っているに等しく、これは御先師日達上人に対する誹謗でもあるのである。

 最後に、今や血脈否定の総大将となった感すらある創価学会だが、これを明確に破した創価学会指導があるので、ここに紹介する。
 学会員諸君は、この指導を熟読玩味(じゅくどくがんみ)すべきであろう。

◆日顕上人は53年4月15日、先代法主の日達上人から血脈相承を受け、54年7月22日の日達上人の御遷化に伴い、第67世法主・管長に就任。以来1年半にわたり、彼らも日顕上人を法主と仰いでいたのである。また、彼ら(正信会=注)自身、法主の地位や血脈相承に異を唱えることは甚(はなは)だしい謗法である、と断じていたのである。(『創価新報』昭和58年4月20日付)

血脈否定こそは、日蓮正宗の根本教義の否定であり、究極の悪業ではないでしょうか。故にこれをいかに糾弾してもしすぎることはないものと考えます。その意味では、正信会の輩が血脈の否定にいかなる口実をかまえようとも、ことの本質は彼らの信心の根本の狂いにある。(平成3年1月1日付文書「『お尋ね』に対する回答」秋谷栄之助)


<学会の邪説>
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 64世日昇上人から65世日淳上人、日淳上人から66世日達上への御相承など、歴代猊下の相承の儀式の模様を見ると、授ける側が相対して座り、濃密な時間をかけて相承の儀式が行なわれている。
 しかし、日顕(上人)の場合ほ、「昭和53年4月15日に御相承を受けた」と言っているが、この日は日達上人の誕生日で、早朝の御講終了後も祝賀の行事が詰まっており、相承する時間などなく、事実、相承は行なわれなかった。
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<破折>
 創価学会は、「御相承の儀式と、それに要する濃密な時聞がなけれは、血脈は相伝されない」と断定し、日顕上人への御相承を否定せんとしているのである。
 しかしながら、唯授一人の御相承というものは、宗祖日蓮大聖人から二祖日興上人、日興上人から三祖日目上人、日目上人から四世日道上人、また御歴代上人の多くの事例がそうであるように、むしろ公けの儀式を伴わない”内付”という在り方のほうが基準と拝されるのである。
 しかも、御相承の法門が受け継がれる形には、日常の師弟相対・常随給仕の中で次第に御法門が伝授されていく場合や、また一時(いっとき)に甚深の御法門が口伝される場合や、御法門を認められた金紙(こんし)が伝承せられる場合など、さまざまな形があって一様ではない(これについては平成4年8月28日の日顕上人猊下御講義を拝されたい)。
 言い換えれば、御相承の授受は時と所に拘束されないのであって、たとえ、わずかな時間しかなくとも、伝授なさることが可能なのである。
 要は、あくまでも御相承を与えるべき付弟を選ぶ”師の御意志”こそが大切であり、それが明確であれは、必ずしも時間をかけた御相承の儀式は必要でないことを知るべきであろう。
 されは、創価学会がいう「時間がなかったから相承もできなかったはずだ」等の疑難は、まったくの見当外れなのである。





血脈相承否定を破す2

(『慧妙』H14.7.16)

学会、溜息が出るほどの愚迷ぶり
あれだけ破されても、まだ解らぬか!?


創価学会の血脈冒涜の根を截つ!

 創価学会は相も変わらず、御法主日顕上人猊下の御相承に疑難をなし続けている。
 いまや、「シアトル事件」などという中傷報道は完全に差し止められ、最大の難クセになるはずだった「〝大御本尊偽物発言〟問題」も木っ端微塵に粉砕されてしまった以上、正信会の謗言を真似た「御相承疑難」しか、学会には弾丸が残っていないからだ。
 そもそも御登座後十余年もたって、これまで「血脈付法の御法主」と仰ぎ奉ってきた日顕上人猊下に対し、べつに目新しい根拠も何もなく「相承なきニセ法主」と罵り始める神経は、とうてい尋常ではない。そのことは幾度も指摘してきたし、これからも徹底して指摘し続ける次第である。
 それはともあれ、今回は、集約されてきた学会の〝御相承に対する疑難〟の根を截つ――。

 創価学会が加えてきている、御先師日達上人から現御法主日顕上人への御相承に関する疑難は、これまでさんざんに破折された結果、次第に次のような点に集約されつつある。
 すなわち、〝日達上人から日顕上人への御相承があったという昭和53年4月15日は、当日のスケジュールからみて、2人きりの時間などなかった。あったというなら、何時からどこで御相承がなされたか、立証せよ〟というのである。
 この学会側の疑難の前提となっているのは、近代における二、三の御相承の事例に基づき、〝御相承は「1時間乃至1時間半という濃密な時間をかけ」て行なわれるもので、わずかな時間しかない中ではできえない〟という見解だ。
 だが、そもそも、この前提からして間違っている。その誤りについて述べよう。
 まず、「1時間乃至(ないし)1時間半」かけて、御先師から御当代へと御相承(※相承とは、師と弟子が相向かって伝承すること)される秘法とは何か、ということだが、これぞ、宗祖日蓮大聖人より二祖日興上人を経て、我が日蓮正宗大石寺にのみ伝わる「金口嫡々(こんくちゃくちゃく)の相承」であり、「宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝うるもの」(56世日応上人御指南)に他ならない。
 この「金口嫡々の相承」について、御当代日顕上人は、
 「唯授一人の金口の内容を(日興上人が)御自身の御境界においてお示しになったものが存するわけです。それが、すなわち金紙(こんし)であります。(中略)日精上人が『家中抄』の道師伝に、(中略)
 『別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり』 (聖典695頁)
ということをおっしゃっておりますが、これはまさしく金紙であります」
と明かされている。
 すなわち、この「十二箇条の法門」が、御先師と御当代が相向かわれて伝えられる、秘伝の御法門なのである。
 では、この秘伝の御法門の伝授は、必ず「1時間乃至1時間半という濃密な時間をかけ」て行なわれるものなのか、といえば、けっしてそうとはいえない。
 あるいは、儀式を整え、1回に濃密な時間をかけて伝授される場合もあろうが、日常の師弟相対の中で、ある程度の期間にわたり何回かに分けて伝授なさることもできる。また、付弟(ふてい)として選ばれた御方が、すでに、ほとんど法門の深義に到達されていれば、「十二箇条の法門」のうちの肝要のみを伝授なされれば足(た)りるし、あるいは、付弟として選ばれた御方に「金紙」を授け、もって秘伝の御法門を伝えることも可能である。
 したがって、学会の言うような〝御相承は必ず「1時間乃至1時間半という濃密な時間をかけ」て行なわれるもので、わずかな時間しかない中ではできえない〟という前提は、まったくの誤り、学会が勝手に決めつけている我意(がい)我見にすぎないのである。
 さて、次に、日達上人から日顕上人への御相承であるが、すでに公(おおやけ)になっている事実の上から拝するならば、日達上人は、当時、教学部長であられた日顕上人を付弟として選ばれ、日常の機会の中で、御本尊書写における「花押」の書き方をはじめ重要な御法門を、何回かに分けて日顕上人に伝授あそばされており、さらに昭和53年4月15日、総本山大奥において、肝要の御法門を日顕上人に御指南あそばされた。
 こうして、金口嫡々の御相承は、余すところなく日顕上人へと受け継がれたのであるが、当時の宗内の状況は、第1次・創価学会問題(いわゆる52年路線)で大揺れに揺れており、在職20年の大御法主として事態収拾に当たられていた日達上人は、この御相承を内付(ないふ)として、公にされなかった。
 そして日達上人は、側近の僧侶方や有力信徒には、いずれ近い将来、日顕上人にお代替わりされる予定であることを洩(も)らされたが、昭和54年7月22日、忽然(こつぜん)と御遷化あそばされたのであった――(以上の経過は弊室編『創価学会による御相承否定の邪難を摧く』に詳しい)。


御相承の当日
時間は充分あった! 御姿も皆が確認
池田狂徒の疑難は完全に崩壊した!!


学会よ、さらに知りたくば懺悔・帰伏せよ

 この経過につき、現在、学会が疑難しているのは、〝昭和53年4月15日は、当日のスケジュールからみて、日達上人と日顕上人には2人きりの時間などなかった。あったというなら、何時からどこで御相承がなされたのか〟云々――というものである。
 だが、昭和53年4月15日の御相承は、すでに長年にわたって教学部長の重職を務められ、御法門を掌(たなごころ)にされていた日顕上人に対し、さらに日常の機会の中で、甚深の御法門を何回かに分けて伝授された上で、全てを結成(けつじょう)する意義において、肝要の御法門を御指南せられたもの――と拝せられる。
 ゆえに、4月15日・当日の御指南には、それほどの時間を費やす必要は、もとよりないのである。
 それを、何が何でも「濃密な時間」が必要と考えるのは、疑難している連中(学会及び脱落僧)が、自分のデキの悪い頭を基準に考えるからに他ならない(もっとも、彼らのような逆路伽耶陀〈ぎゃくろかやだ〉の一闡提人〈いっせんだいにん〉共には、どれだけ長遠な時間をかけても、御相承の法門を解了することなど絶対にできえないが……)。
 また、こうした真実の道理の上から、4月15日の日達上人のスケジュール表を見てみれば、大石寺から東京へと出発される午前11時までの間、大奥にて日顕上人に御指南をあそばされるだけの時間は、充分過ぎるほどあったことが明らかである。
 いったい、こんなことまで教えてやらねば解らない(莫迦すぎて、教えても解らないかもしれぬが)、彼ら池田狂徒の愚迷ぶりには、思わず溜息(ためいき)が出る。
 このことに関連して、もう一つ付け加えておけば、昭和53年4月15日の当日、日顕上人が御一人で日達上人の御もとへ行かれた事実は、(役僧の御目通りは一いち内事部でも書類に残さないものの)山内の複数の僧侶方の記憶と証言によってはっきりしており、まったく揺るぐことはない。
 以上、述べてきたことから、昭和53年4月15日の日達上人から日顕上人への御相承は、天日を仰ぐがごとく明白である。
 この上、「何時から」「大奥のどこで」などという詳細を(すでに前々から日顕上人は、これを必要な時には仰せ出だされているが)池田狂徒に教えてやる必要はまったくないし、それは「狂人走って不狂人走る」の愚を犯すことになる。
 もし、池田狂徒がどうしてもそれを知りたいのなら、まず、これまでの邪を邪と認めて懺悔(さんげ)し、大石寺に帰伏の上、御法主日顕上人猊下に跪(ひざまず)いて教えを乞うがよい。





血脈相承否定を破す3

(『慧妙』H14.8.1編集)

脱落僧装った妄説文書を一刀両断 御相承誹謗を残り糟まで一掃!
 7月16日、脱落僧同盟の名をもって、「邪義班を装う小心者の偽法主……」云々という長たらしい題の妄説文書が、本宗寺院に送り付けられてきた。
 その内容は、御法主日顕上人猊下の御相承に対する疑難、本宗の血脈相承観に対する疑難、宗旨建立に関する疑難――等から成っているが、滑稽なことに、日顕上人猊下の御相承に対する疑難は、その根底と大筋が、すでに本紙前号によって破されてしまっていたのである。
 そこで今回は、この妄説文書のうちから御相承誹謗の部分を取り上げ、この際、学会の御相承誹謗の残りカスまで一掃しておくものである。


御相承は厳然!全ては御仏意
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残念ながら、日達上人は誰にも相承せずに御遷化(ごせんげ)されたと言うほかない(学会が、脱落僧の名をもって作成した妄説文書=以下「妄説文」と略す)
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 御先師日達上人は、現御法主日顕上人に対して後継指名をなさり(その旨は、周囲の僧俗にも幾度も示された)、金口相承の御法門をことごとく日顕上人に御教示あそばされた(それを結成〈けつじょう〉されたのが、昭和53年4月15日の「甚深の御法門の御指南」である)。その上で、御代替わりの時機を選んでおられたが、その実施の前に忽然(こつぜん)と御遷化あそばされたのである。
 凡慮(ぼんりょ)としては、あと、わずかの猶予(ゆうよ)があったなら――とも思うが、しかし、こうした経緯によって、かえって、信仰に邪心を差し挟(はさ)む者共(正信会・創価学会など)が燻(いぶ)り出され、宗外へ放逐(ほうちく)されたことは、まさに全てが御仏意の妙用(みょうゆう)と、深く恐懼(きょうく)する以外にない。
 さて、以下、妄説文が述べている、日顕上人の御相承に対する言い掛かりを破していく。なかには、過去に幾度も破折ずみの事柄もあるが、前号で血脈冒涜の根を截(た)ち、今回で誹謗の残りカスまで一掃すべく、労を厭(いと)わず破折することにしよう。


7月22日早朝の当然の御措置
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もし、日達上人から日顕上人に相承があったというのなら、日達上人が御逝去された昭和54年7月22日早朝、何故遺族に対して、「あとのことはどうなっているのか?」などと尋(たず)ねる必要があったのか(妄説文=以下同)
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 この状況の描写は正確ではない。正しくは、
 7月22日の早朝、あわただしい状況下の本山に着かれた日顕上人は、むろん御自身としては、前もって御相承を受けられているお立場であったが、それが〝内付〟の形であったことから、〝日達上人の側近であれば、予(あらかじ)め、その御内意を伺(うかが)っていたであろう〟と思(おぼ)し召(め)しになって、念のため、菅野尊師らに「あとの当職(とうしょく)について聞いているか」と質問をなさった。
 それに対し菅野尊師が「あとのことは、総監さん(日顕上人)だとお決めになっていました」と、自分の存じ上げるままに答えられた、というものである。
 すなわち、この後に行なわれる後継発表に先立ち、無用の混乱を避けるためにも、日達上人の御意を伺っていたであろう方々に、念のため確認をされたのである。宗門を統率されていく御立場として、じつに当然の御措置(そち)であり、なんら誹謗されるべき筋合いなどないことは、明白であろう。


御指南の時間は充分あった
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相承を受けたという昭和53年4月15日についても、当日誕生日であった日達上人の過密なスケジュールを見れば、日顕上人と2人きりの場などなかったことは一目瞭然である
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真実の道理の上から、4月15日の日達上人のスケジュール表をみて見れば、大石寺から東京へと出発される午前11時までの間、大奥にて日顕上人に御指南をあそばされるだけの時間は、充分過ぎるほどあったことが明らかである(前号参照)。


呆れた知ったかぶりと厚顔
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「総本山大奥において猊下と自分と2人きりの場において」というが、奥番日誌には日顕上人の名前は見当たらないし、本山で日顕上人を見たという者すらでてこない
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 「名前は見当たらない」も何も、この当時は、まだ「奥番日誌」というもの自体が付けられていない
 また、昭和53年4月15日の当日、日顕上人が御一人で日達上人の御もとへ行かれた事実は、当時、奥番をしていた御僧侶をはじめ、山内の複数の僧侶方の記憶と証言によって、前々からはっきりしているのである。


またも入手経路不明の河辺メモ
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(入手経路を明かせない通称「河辺メモ」を頼りに、)菅野慈雲尊師が「昭和53年4月15日の件は知らない」光久諦顕尊師が「あの日は達師が忙しい日だが」
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 御法主が次期御法主に対し、御相承の法門を結成する御指南をあそばされた――それを、一いち他の方に話されることの方が不自然である。
 だから、「昭和53年4月15日の件は知らない」のが当たり前で、むしろ、菅野尊師が、日達上人より後継指名の御意を明確に聞かされていた――これこそが大事なのである。
 また、「あの日は達師が忙しい日だが」というが、しかし、それでも時間が充分にあった前号参照)。


莫迦につける薬はない
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日達上人が日顕上人に相承するつもりがあったのなら、日達上人御自身が先師日淳上人から御相承を受けた時の経緯に鑑み、周囲に明確にその意志を告げ、2人きりの場などでなく、公(おおやけ)に相承の義を行なったであろう
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 なるほど、後世に動揺を起こさぬためには、日淳上人の場合に拝するように、公に御相承の儀式を示されることもあろうが、そもそも御相承の本義は、御一人から御一人への唯我与我の秘伝であるから、宗祖から日興上人、日興上人から日目上人、日目上人から日道上人、また御歴代先師方の多くの事例がそうであるように、むしろ公の儀式を伴わない〝内付〟という在り方が基準と拝せられるのである。
 ことに、日目上人の場合のように、大事の天奏(国主諫暁)に当代の御法主として臨むにあたり、万一の備えとして、予め日道上人に法を付してから旅立とうとされれば、その御相承は、公の儀式を伴わない、言い換えれば他の誰にも知らさない、〝内付〟という形をとられることは当然である。
 翻(ひるがえ)って、昭和53年4月当時の日達上人は、学会の第1次教義逸脱問題による大波乱が続く中、御登座20年になんなんとする大御法主として、一歩も退けぬ御立場で事態の解決に当たっておられたが、一方では、四大の御不調により、万一の備えとして、後継のことをお考えにならざるをえない状況であった。
 このような中で、日達上人が次期御法主を選定される場合に、日目上人の先例と同じく、〝内付〟の形をとられるであろうことは、むしろ誰が考えても、当然すぎるほど当然の御措置であるといえよう。


小学生にもわかる道理
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もし仮に相承を譲(ゆず)ったとすれば、当然その後、日顕上人を『能化』にし、後継者たる資格を内外に明確に示されたはずである。しかし、実際には、日顕上人が相承を受けたという53年4月15日から、御逝去される翌年の7月22日まで、そのような事実もなければ、動きすら、ただの一度もなかった
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あえて周囲に知らせない目的で行なわれるのが「内付」なのだから、内付をされておいて同時に「内外に明確に示され」るはずがない


与汰話を信じる者は莫迦
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(脱落僧の工藤玄英・大橋正淳が昭和53年5月に日顕上人から聞いた話、として)「ワシも日達上人に対抗して、仲間を募(つの)ろうと思うのだが……」などと、日達上人への対抗心をむき出しにしていたことを忘れたとは言わせない
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 だが、当時から「池田先生が衣を着ければ即大聖人様」などと〝池田本仏論〟を主張していた堕落僧・工藤や、寺の入仏落慶式に池田の等身大写真を祀(まつ)るような売僧(まいす)・大橋らの与汰話を、平気で証言として挙げてくる感覚が異常だ。はっきりいって、こんな話を信じる方が莫迦、としか言いようがない。
 また、そもそも日顕上人は、今日に至るまで、一度として派閥のようなものを作ろうとなさったことなどなく、常に公平平等を旨としてこられた。そのことは、宗内の大多数が存じ上げている常識である。


かえって日顕上人の立場を証明
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59年12月7日の「河辺メモ」には、菅野師が「(54年5月7日、日顕上人の)総監決定の時に、日達上人が躊躇(ちゅうちょ)されていたので、未だ相承をされていないのか、と思った」と証言した事実が記録されている
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しかし、「未だ相承をされていないのか、と思った」との言葉から、逆に、菅野尊師が日達上人より、阿部日顕上人を後継者として選定された(御相承する方と決めた)旨、予め伺(うかが)っていたことが明らかである。
 その上で、日達上人が日顕上人(当時・教学部長)の総監任命を躊躇されたとしたら、それは、任命のタイミングとか、何か、お考えになられるところがあったのだろう。
 いずれにせよ、その時点で、日顕上人は宗門行政上のナンバー2である総監職に就(つ)かれたのだから、このことは、当時の日顕上人が日達上人に次ぐ御立場であることの裏付けにはなっても、否定の材料になどなりえない。


山崎正友氏は信心で帰伏
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>(元暴力団員が書いた(?)とかいう本を根拠に、)かつて山崎正友氏が「日顕上人は、宗門ではナンバー7なんだ。日達上人の娘婿が菅野といって国立にいるが、これが跡目だった。(中略)日達上人は日顕上人を全然信用していなかった」
>山崎が出所後、かつて否定した日顕上人の血脈相承を認めるようになったカラクリについても、実は金儲けが目的だったことが暴露されている。それによれば、大石寺の墓苑建設の話が山崎のところに舞い込み、当時金に困っていた山崎は、「自分が日顕上人の血脈相承を認める。その代わり条件として、日顕上人から墓苑建設のお墨付きをもらおう」とはしゃいでいたという
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 だが、昭和55年当時、山崎正友氏が、宗門行政との食い違いから日顕上人の血脈相承を疑い、『週刊文春』(同年11月20日号)に書いた手記を見ると、日達上人が阿部日顕上人への事実上の後継指名を周囲の人々に話されていたことが、再三、述べられている(当時の山崎氏は、それでも「公の御相承の儀式がなかった」といって、血脈相承を疑った)。
 このことからすれば、元暴力団員が山崎氏から「日達上人は日顕上人を全然信用していなかった」等と聞いた、という証言(?)の信憑性(しんぴょうせい)は総崩れである。
 また、山崎氏が平成6年末に日蓮正宗に帰伏した経緯は、本紙としても余すところなく把握(はあく)しているが、それは、全て純然たる信仰上の理由だけであって、「金儲け」だの「墓苑建設のお墨付き」だのという話題は、いっさい介在していない
 「それによれば」「という」などという書き方で、平気で嘘を垂れ流すのが、創価学会の毎度の手口なのである。


悪龍と修羅は共に阿鼻へ
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(正信会の浜中和道の『回想録』を持ち出し、)(平成3年1月)日顕上人が「頼むから、オレに血脈相承があったってことを認めてくれ」と、山崎に泣きついたことも暴露している
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 〝敵の敵は味方〟というのかもしれないが、かつて、正信会の御相承否定を「許し難(がた)い大謗法」「堕地獄必定の重罪」と罵(ののし)っていた連中が、今度は、自分が御相承否定をするのに、正信会の主張を利用する。また浜中は浜中で、平気で学会とも通用する――こんな、悪龍と修羅(しゅら)のごときドス黒い者共は、抱き合い、殴り合いながら、共々に阿鼻(あび)大城に沈むしかあるまい。

●その時の猊下の御伝言が、今日、学会に歪曲(わいきょく)され、「頼むから、俺の血脈を認めてくれ」といって猊下が山崎さんに泣きついた、という話にされていますが、まったくの大嘘ですね。そもそも、この平成3年1月の時点では、まだ学会も血脈否定に走っておらず、したがって、そのようなお言葉の出てくる必然性が全くありませんしね(笑い)。(『慧妙』H15.10.1)


一闡提と成り果てた証明
 最後に、御先師日達上人から日顕上人猊下への御相承が厳然たる事実であること、また、その内付・御相承がいかなる形で行なわれたのかは、本宗の血脈相承について一定の知識を持ち、純真な信心の眼(まなこ)を開いて拝するならば、もはや明々白々である。
 この上、学会が、日顕上人猊下の宗教的謙譲心(けんじょうしん)から仰せられたお言葉をあげつらい、あるいは53年4月15日に御指南のあった「時間」「部屋」「様子」を問うのは、批判する(というより揚げ足を取る)ための材料探し以外、何ものでもない。
 それは、創価学会および脱落僧が、いまや完全な一闡提(いっせんだい)に成り果てたという、証明であろう。





〝御相承箱〟に拘る創価学会の臆説を破す

―脱落僧を使った姑息な誹謗を一刀両断!!―
―大事の御相承箱は厳然と大石寺に!―
―疑難の全てが「無知」「邪推」「歪曲」―

(『慧妙』H15.8.16編集)

 最近、またぞろ脱落僧同盟の名をもって、御法主日顕上人猊下の御相承を誹謗(ひぼう)する悪書(題は『法主詐称』)が出た。
 さらに、この悪書のダイジェスト版ともいうべきパンフレットまで作り、無知な池田狂信者らの手で大量配布に及んでいる(このパンフ、カラー刷りで、かなりの大金をかけていることがわかる。つまり脱落僧の名を騙〈かた〉っていても、実態は池田創価学会が行なっていることは明白)。
 その内容は、といえば、ほとんどが本紙で破折し尽くした妄説・痴説の焼き直し(※本紙に掲載した当該破折記事は、『血脈相承拝考』『続・血脈相承拝考』という2冊の小冊子として刊行)であるが、それに今回は、新たに「相承箱」問題なるものを付け加えている。
 結局のところ、新たな疑難を加えることで目先を変え、すでに破された妄説を再び持ち出す――これが池田狂のお得意の〝嘘(うそ)も百ぺん言えば真実になる〟という手口なのである。
 しかし、百ぺん繰り返しても嘘は嘘、かかる姑息な誹謗(ひぼう)に対しては、幾度でも破折を加える以外にない。
 そこで今回は、彼奴らが新たに持ち出してきた「相承箱」問題なるものを中心に、その邪義・迷妄を糺(ただ)すことにする。


<御相承箱の所在について>
―疑難は流言蜚語の典型―

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この箱(相承箱)を所持していることが、相承を受け取った法主であることの何よりの「証拠」だったのである。ところが、この大切な相承箱が、今現在、本来あるべき日顕(上人)の手元にないというのだ。(略)では、いったい相承箱はどこにあるのか。ある僧侶は語る。「日達上人はかなり以前から、大宣寺の菅野(尊能師)に相承箱を預けていたといいます」(『法主詐称』)
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 そもそも御相承箱とは、その名が示すとおり、唯授一人の御相承という大事に拘(かか)るものであり、相承とは本来、
 「秘すべし伝ふべし」(『本因妙抄』御書1684、全集877頁)
と仰せのごとく「秘伝」なのである。「秘伝」であるから、公けに示す「物証」とは性質が全く違うし、事実、この御相承箱を「法主であることの何よりの『物証』」にした前例など、宗史に1つとしてない。
 こうした、御相承箱を「法主であることの物証」だなどという、珍無類な発想をするところが、やはり池田狂の走狗たる脱落僧である。このような御粗末な程度だから、日蓮正宗の僧道から転げ落ちたのだろう。
 また、御相承箱が「日顕(上人)の手元にないという」などと、御相承箱の所在について、いいかげんな臆説(おくせつ)を伝聞の形で書いているが、これを称して流言蜚語(りゅうげんひご)というのだ。
 65世日淳上人から66世日達上人への御相承の儀式の記録に
 「15日午後6時12分、日淳上人の命により、御相承箱を守護して左記の6名、大講堂横より出発(略)
 16日午前6時 山門着、御大事御宝蔵へ納」(『大日蓮』昭和34年12月号)
と記されているように、この時の儀式の終了後、御相承箱は再び大石寺御宝蔵へ収納され、以来、今日まで変わることなく厳護されてきている。
 この間、御相承箱を、たとえば「大宣寺」に移したとか、「預け」た、などという記録は全くないし、そのような証言も証拠も何一つないのである。
 そもそも、いったい何故、日達上人が御相承箱を大宣寺に預けられる必要があろうか。御相承と一体不可分の関係にある戒壇大御本尊は大石寺に厳護されているのに、御相承箱については「かなり以前から大宣寺」に「預けていた」などという、たわけた話があるはずはないではないか。
 しかも、その根拠は、ただ「ある僧侶」とやら(おそらくは日蓮正宗から脱落した元僧侶であろうが、それは僧侶ではない)が、これまた伝聞の形で「預けていたといいます」と語った、というだけ。結局、この話、どこまでいっても、流言蜚語でしかないのである。
 むろん、これについて日蓮正宗側では、「何の根拠もない妄説である」として明確に否定され、一方の当事者とされた大宣寺・菅野尊能師も、「御相承箱を預かったなどという事実は全くない」旨、明言されている。
 このように、記録の上からも道理の上からも疑いがなく、また当事者双方も揃(そろ)って否定している以上、これにあくまでも疑義を挟(はさ)みたいなら、いつ、いかなる目的で、日達上人が御相承箱を大宣寺に預けたのか、明確な根拠を挙げて、自説を証明すべきであろう。言い掛かりを付けた側に、その証明責任があるのは当然である。


<「奪還作戦」は完全なデマ>
―自らも「信じ難い」と白状―

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>昭和56年1月13日、日顕上人のほか役僧4人が、御相承箱を奪(うば)い返すために大宣寺へ乗り込んだが、体(てい)よく追い返されてしまい失敗したという(『法主詐称』)
>にわかには信じたい話だが、相承箱が日顕(上人)の手元にないことだけは確実のようだ(同)
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 自らも「信じがたい話」なら、普通は書かないものだが、それがダイジェスト版のパンフになると、
 「このほど発覚した衝撃の新事実、『相承箱奪還作戦』」
という断定的表現に変わり、さらに、この悪書を紹介した『創価新報』(7月16日号)になると、
 「やはり日顕(上人)には『相承箱』がなかった! 大宣寺に押し掛け菅野(住職)から奪い取ろうとして失敗」
などという大々的な見出し記事に仕立て上げられていく。
 まったく、あるジャーナリストの言葉ではないが、この手口は、〝デマの発生と肥大〟の様相を知るのに格好の教材といえよう。
 ともあれ、前述のように、御相承箱が大石寺御宝蔵に蔵されており、大宣寺に預けた等の事実がない以上、もとより「奪還作戦」などということも、あろうはずがない。いみじくも脱落僧自らが「信じがたい話」と述べているように、これまた「という」類(たぐい)のいいかげんな与汰(よた)話にすぎないのである。
 ちなみに、本紙前号でも既報のとおり、この「奪還作戦」なる与汰話の中で実名を挙(あ)げられた、尊能師、役僧の方々は、これを事実無根の作り話として否定し、池田創価学会および脱落僧に対し、責任を追及する通告書を送り付けられている。


<日亨上人お言葉を捏造!>
―自らの影に吠えつく痴犬―

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この相承箱の中身について、堀日亨上人は生前、「百六箇抄、本因妙抄、この両書に関するもの。あとは授受の代々の法主が伝える1枚の紙切れ」と明かされている。「紙切れ」とは、いかにも堀上人らしい表現だが、「誰が誰に相承した」という系譜図のようなものといわれている。そこで、俄然、問題になるのが「誰が誰に相承した」と書き付けられた「紙切れ」に、果たして67世法主・阿部日顕(上人)の名前はあるのかという疑問である(『法主詐称』)
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 あろうことか、「秘伝」の御相承箱の中身についてまで、勝手な臆測(おくそく)を述べたてている。
 まず、彼奴らが物知り顔で挙げている、59世日亨上人お言葉と称するものだが、このとおりの日亨上人お言葉はどこにも存在しない
 そもそも、唯授一人相承に拘る「金紙(こんし)相承」という名目を、御当代日顕上人が平成4年に初めて明かされる以前、御歴代上人におかれては、これを伏せて、時に、天台法華宗等における「切紙相承」のようなもの、と表現されることはあった。これを彼奴ら脱落僧が、勝手に「1枚の紙切れ」などと言い変えているのである。
 つまり彼奴らは、「切紙相承」と「紙切れ」の違いすらわからぬ、オソマツな似非(えせ)僧侶だということだ。
 また、それ(紙切れ)は「『誰が誰に相承した』という系譜図のようなものといわれている」などというのも、彼奴らの勝手な作り話であり、このような珍説が宗内一般に流れたことは、近代にも絶えてない。
 こうした自らの作り話に基づき、彼奴らは「(系譜図のような紙切れに)阿部日顕(上人)の名前は影も形もないに違いない」などと騒ぎ立てているのだが、これでは、まるで自分の影に吠えつく痴犬である。馬鹿馬鹿しくて、話にならぬではないか。

―相伝書と御相承は別と御講義―
 日亨上人は、昭和18年から『百六箇抄』と『本因妙抄』について講義されているが、その内容は大村日統御尊能化の御尊父である大村寿道御尊師等が「聞書」として書きとどめられている。そこには、
 「御相承の中には両巻抄(筆者注・『百六箇抄』と『本因妙抄』のこと)はない
 「富士の相承は必ずしも両巻抄に依るのではない
と、『百六箇抄』と『本因妙抄』が「血脈相承」に含まれてはいないと、彼らの大嘘とは正反対を述べられているのである。
 彼らは、御相承の内容は『御書全集』等にすべて公開されているかのように言うが、御相承を知らない者がどうこう言えるはずはなく、勝手な推測である。
 御相承が厳として存することは右の日亨上人の「聞書」の文からも明らかである。『百六箇抄』や『本因妙抄』等は日蓮大聖人の文底下種仏法における広義の「血脈相承」に含まれる御法門の相伝書であることは当然ながら、いわゆる唯授一人の血脈の御相承書ではないのである。(『大白法』H15.11.1)


<日号の変更>
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>日顕上人のもともとの日号は「日慈」であったが、登座に際し、すでに日号を名乗られている早瀬日慈重役と名前が重なるため、御自身の日号を「日顕」と名乗られることにした(『法主詐称』)
>本当に日顕(上人)が相承を受けていたなら、相承箱には『阿部信雄』ないしは『阿部日慈に相承する』という趣旨の書き付けがあるはずだ(同)
>本来は相承を受けた時点で日達上人と相談のうえで変更するのが筋(同)
>登座する段になって、慌(あわ)てて先師から授(さず)かった日号を捨てて、日顕(上人)と名乗る。こんな先師否定、先師違背の大冒涜(ぼうとく)も珍しい(同)
>この日号改変の慌ただしさは、日顕(上人)に相承がなかったことを何より雄弁に物語っている(同)
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 日号は本来、時の御法主上人から戴(いただ)くものであり、これを一般の僧侶が自ら変えることは、むろん師に違背することとなろう。
 だが、日顕上人の場合は、日達上人の急な御遷化(ごせんげ)によって御代替わりされ、自らが御法主として日号を変更されたのだから、何の問題もない。べつに「先師違背の大冒涜」でもなければ、「相承がなかったことを何より雄弁に物語っている」ことにもならぬのである。


<日顕上人お言葉も捏造!>
―この救い難い一闡提人共―

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かつて日顕(上人)が周囲の人間にポロッと漏らしたことがある。「ある理由があって、ワシは死ぬまで猊座にあり続けることになる」。ある理由――。それは日顕(上人)が先師・日達上人から相承を受けずに登座したことに他ならない。相承もなければ、相承箱もない。つまり日顕(上人)は、「次」に相承しようにも、相承するものを何も所持していないのである(『法主詐称』)
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 まず、ここで彼奴らが挙げている日顕上人お言葉であるが、これも前の日亨上人お言葉なるものと同様、もとより、どこにも存在していない。これまた作り話なのである。
 次に、ここで言うような与太話を、感心して信ずるのは、邪信によって物が見えなくなった学会員くらいのものであろう。
 すなわち日顕上人におかれては、御登座以来、正信会・創価学会等の大謗法の徒輩(とはい)が血脈否定に狂奔(きょうほん)している状況を鑑(かんが)みられ、御歴代先師方が秘してこられた唯授一人相承に関し、その伝承の形態や名目等を初めて仰せ出だされた。
 むろん、甚深の御法門の内容は秘されているが、その外郭(がいかく)にあたる部分を明かされることにより、唯授一人相承の存在に対する疑網(ぎもう)を破り、御相承が確かに今日まで伝承されていることを、弟子檀那等に御示しくださったのである。
 ここまで明々赫々(かっかく)たる事実を拝しても、なお、「(日顕上人は)相承するものを何も所持していない」としか思えぬ輩(やから)は、
 「山を隔(へだ)て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定(いちじょう)なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提(いっせんだい)の人としるべし。生き盲にことならず」(『報恩抄』御書1001、全集295頁)
と仰せの、命の濁り果てた一闡提人に他ならない。
 かかる輩には、これ以上の説明はもはや不要、これだけ教えてもわからないなら、それは
 「自業自得果のへんはすくひがたし」(『報恩抄』御書1030、全集323頁)
である。


<破折済みの妄説焼き直し>
―新たな疑難は今後も粉砕―

 以上、脱落僧の悪書のうち、目新しい疑難・妄説(「相承箱」の部分)について破したが、これ以降の頁は、ほとんどが本紙で破折し尽くしたことの焼き直しと、スリカエのオンパレードであり、これらについては、もはや重ねて破折する必要を認めない(※本紙における破折は、『血脈相承拝考』『続・血脈相承拝考』の2冊を参照)。
 悪書では最後の方で、わずかに「血脈相承の本義」なるものを論じているが、その目的は、日顕上人の御相承のみならず、本宗の唯授一人血脈相承そのものを破壊し、創価学会の側へ血脈の本義を持っていこうとするもののようだ。
 だが、これを本気で論じようというのなら、そもそも本宗の唯授一人血脈それ自体を否定するわけだから、『法主詐称』などと題して、日達上人から日顕上人への御相承を疑い、大々的に誹謗していることと噛(か)み合わないではないか。自家撞着(じかどうちゃく)も甚だしい。
 もし今後、脱落僧共がこうした〝誹謗のための誹謗〟による自家撞着を改め、その上で本宗の「血脈相承の本義」に関し疑難を加えてくることあらば、その時には、あらためて木っ端微塵(こっぱみじん)に破折することを宣言しておこう。
 ともあれ、御法主日顕上人猊下の御相承を否定せんとする新たな妄説は、ここに潰(つい)えたと知るべきである。






血脈相承・裁判所の見解


<学会の邪説>
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最高裁の寺院明渡し裁判においても、「血脈相承を受けた」という客観的な証拠を何1つ出せなかった。明らかに日顕(上人)は偽法主であり、宗内の疑惑は、常に消えることがなかった。(離脱僧らの悪書、「日顕(上人)の『立宗2回説』の邪義を破す」)
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<破折>
汝らがいう〝裁判〟とは、違法に離脱を企てた寺院に対し明け渡しを求めた裁判であるが、この名古屋・妙道寺、岩手・常説寺、神奈川・大経寺の裁判において、宗門はけっして〝連敗〟したわけではなく、事案の性質上、裁判所の審判にはなじまないものであるとして、内容に立ち入ることなく、訴えが却下されたにすぎない。それは、離脱僧が日顕上人の血脈相承を否定する主張を持ち出したところ、「血脈相承」は宗教上の事項であり、裁判所は、血脈相承に関して判断することは司法権の限界を超えるものであって許されないから、判断できない、つまり血脈相承の有無を判断しようとすれば、宗教上の教義、信仰の内容に立ち入って審理、判断することが必要となるが、裁判所にはそのような宗教的事項を審理、判断する権限はないから、血脈相承の有無については判断できないとの理由により、3ヵ寺に関する訴訟は、裁判所の権限を超えるものとして、却下されたのである。すなわち、裁判所が血脈相承を否定したわけではないし、御法主上人が裁判所へ〝出廷〟を命ぜられてもいない。したがって、〝出廷できず〟などということ自体がまやかしである。このように、汝の言はまったくの欺瞞につきるのである。(『大白法』H17.12.1)


【「大経寺明渡し請求事件」最高裁判決について】
●宗教上の教義,信仰の内容に深くかかわっており,その内容に立ち入ることなくしてはその問題の結論を下すことができないときは,その訴訟は,実質において法令の適用による終局的解決に適しない(大経寺裁判・判決文)
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つまり裁判所は、宗教事項に介入しないという立場をとっているから、「宗教上の教義,信仰の内容に深くかかわって」いる血脈相承の有無に立ち入ることはできないのである。そのために、大経寺は現状のまま、離脱僧の占拠が続くことになっただけのことである。

被上告人(※大経寺=宗門)は依然として日蓮正宗の被包括宗教法人にとどまっている。(大経寺裁判・判決文)
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このように、大経寺は今も、日蓮正宗の所属なのであって、占拠している者が退去するか死亡すれば、自然に宗門に返るのである。

●記録によれば,昭和54年に,阿部が前法主から血脈相承を受けた者として法主に就任したことが日蓮正宗の諸機関において承認され,公表されたこと,それ以来,本件罷免処分がされるまでに14年余を経過したこと,その間,阿部は終始同宗の法主兼管長として行動してきたことが認められる。 これらの事実によれば,本件罷免処分当時には,日蓮正宗において,阿部が前法主から血脈相承を受けて法主に選定された者であるとの宗教的判断が定立されていた可能性があると推認することができる(大経寺裁判・判決文)
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これは、河合裁判官の反対意見である。このように、わざわざ血脈相承を積極的に認定する裁判官もいるのである!

本件罷免処分がなされるまでに14年余が経過し,その間,阿部は対内的にも対外的にも終始日蓮正宗の法主・管長として行動してきたことが認められる。さらに,本件に先立つ昭和55年ころにも,日蓮正宗内部において創価学会との関係をめぐって対立が生じ,当時阿部の採っていた同学会との協調路線に反対する一派の僧侶から同人が血脈相承を受けたことを否定する主張がなされ,これに基づく訴訟も提起される事態になったが,上告人(※離脱僧)は,当時このような主張にくみすることなく,かえって阿部が法主であることを前提とした積極的な活動を続けてきたことが認められる。また,平成2年末ころ,創価学会との対立路線に転じた日蓮正宗の方針に反対して同宗からの離脱を企図した住職等に対し同宗が寺院の明渡訴訟を提起した事件は,本件訴訟を含めて16件あるが,そのうち,阿部によって任命された住職に係る13件においては阿部の血脈相承を否定する主張がなされていないことも認められる。
 以上のような事実を総合的に考察するならば,上告人は,阿部ら日蓮正宗執行部が創価学会との対立路線に転じたことに反発し,たまたま上告人が阿部の前法主から任命されていたために阿部の法主たる地位を争っても自己の住職たる地位を否定することにはならないことを奇貨として,阿部の法主たる地位を争っているに過ぎず,本件訴訟において阿部が血脈相承を受けた法主であるか否かが当事者間の紛争の本質的争点をなすものとはいえないことが明らかである。したがって,本件は,上記最高裁判決とは事案を異にするものであって,この点が争点となるとしても,河合意見が説くところに従って判断すれば足りることになるのであるが,それ以前に,本件において,上告人が阿部の血脈相承を否定する主張をすることによって訴えの却下を求めることは,上記のような事情の下にあっては,訴訟を回避するために便宜的に争点を作出したとも見られるものであって,信義則違反ないし権利の濫用として許されないものというべきである。(大経寺裁判・判決文)
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これは、亀山裁判官の反対意見である。離脱僧の悪意を鋭く見抜き、離脱僧の血脈相承否定の主張は、寺院離脱をせんがための為にする主張であり、「信義則違反ないし権利の濫用として許されないもの」と厳しく糾弾している。!

★このように、第三者からみると、血脈相承のあったことは明らかであり、血脈相承を否定するものはすべて、日蓮正宗を破門された者ばかりなのである。しかも彼らさえ、破門されるまでは、日顕上人を唯授一人血脈相承を受けられた正師として、信伏随従していたのである。

判決文は下記のアドレスから

http://sudati.iinaa.net/hanketu/hanketu.html#1






山崎問題

真実・甚深の正法に帰伏!!

―正宗信徒へ復籍する転機―
―対談:山崎正友氏×原島嵩氏連載第5回―
(『慧妙』H15.10.16)


――山崎さんの転機とは、どういうことですか?
山崎 はい。私としては、入獄前に伺(うかが)った日顕上人猊下の率直な御伝言や、その後、池田創価学会を厳正に処分していただいたことで、猊下に対して「申し訳なかった」という気持ちになっていました。
 しかし、それでも、血脈否定などという謗法をしてしまった以上、その私が日蓮正宗に戻れる時が来るなどとは、夢にも思っていなかったのです。
 そのような時(※平成6年5月)に、出版社の方を通じて、妙観講の大草講頭が「会いたい」と言ってこられた。

――それは、どんな趣旨だったんですか?
山崎 要するに、昭和54年11月の『週刊文春』に載(の)せた私の手記について、「あの手記では、御相承の儀式がなかったから血脈断絶ではないか、という論法で疑難を述べているが、一方では、日達上人が事実上の後継指名や心づもりを側近に話していた、という事実も詳しく書かれている。本来、血脈相承は、付弟を選ぶ師の意志で決まるのだから、あの手記は逆に日達上人から日顕上人への血脈相承を裏付けている」とのことで、「この際、猊下の御相承に間違いがないことを理解し、その上で、もう1度、日蓮正宗の信仰に戻るべきではないか」というお話でした。

――で、山崎さんとしては、すぐに納得したわけですか。
山崎 いや、すぐその場で、というわけにはいきませんでしたよ。
 そこで、まず御相承についての猊下の御講義や論文を送っていただき、幾度も繰り返して読みました。初めて拝見する内容で、しかも、非常に奥深く難しい内容でしたが、やはり、血脈相承というのは1回の公の儀式によってのみ伝わる、というものではないこと、結論として、日達上人から日顕上人猊下への御相承は疑いのないものであることが、はっきりと理解できたのです。
 ともかく、私は深いところまで判(わか)らずに、正信会首脳から教えられるまま、儀式がなければ御相承はないと、短絡的に書いてしまったわけですが、そうした御相承についての疑問は全く氷解したわけです。
 そこで、理境坊の御住職・小川只道御尊師ともお会いして、縷々(るる)お話をし、平成6年12月に総本山へ参り、猊下に、御相承否定を正式にお詫(わ)びする書面を提出させていただきました。


<邪推・妄想の学会ウソ報道>
――それは直接、猊下にお渡ししたんですか?
山崎 いいえ。私は理境坊にて大草講頭と待機し、御住職が猊下のところへ届けてくださいました。
 そして、その結果、日蓮正宗への復籍が許され、理境坊の信徒として処遇してくださる、ということになったのです。
 正直なところ、私自身あれだけのことをしたわけですから、どうなるのだろう、と思いましたが、暖かく迎えていただけるということで、本当に有り難く思いました。

――その平成6年12月の登山のことを、学会側の怪文書では、山崎さんが富士見庵で藤本総監と密会し、正信会を宗門へ復帰させる相談をした、などと書き立てていましたが。
山崎 それは全くの嘘です(笑い)。私が着山後、昔とたたずまいの変わった山内を少し見て廻(まわ)った、それを後ろから尾(つ)けてきて、富士見庵附近で見失ったから、そう書いたのでしょう(笑い)。私はあの日、理境坊へ行ったのです。
 それに、私は昭和56年以来、いまだに総監さんとはお目にかかってお話していません。

――創価学会というのは、いつもこの調子ですね。平成14年8月に、阿部信彰御尊師が都内のホテルの一室で山崎さんと会われ、いろいろ聴き取りをされた時も、ホテルまで尾行してきた上で邪推を巡(めぐ)らせ、離脱僧の怪文書や学会機関紙を使って、〝宗門が山崎さんに『大白法』紙上に血脈擁護(ようご)の連載をさせ、その見返りに大金を払う約束をしたそうだ〟などと、見てきたような嘘を大々的に書き立てていましたね。だいたい、密室内での当事者間の会話を「……だそうだ」などと、第三者が書ける神経がおかしい。本当にウソカ学会だ(笑い)。
 ところで原島さんの場合は、どのような経緯で日蓮正宗に戻られたのですか。


<原島氏も仏力・法力に平伏>
原島 はい。山崎さんは早々に正信会と訣別しましたが、私は20年近く正信会に身を置き、継命新聞社に勤めました。
 しかし、平成9年秋頃から、身心に異常が起こってきたのです。
 永年の糖尿病が悪化し、さらに不安神経症、うつ病も起こってきて、果ては猫やカラスの声にも怯(おび)え、新聞やテレビを見ることすらできなくなり、仕事は休職となりました。
 もう、すべての現実が恐怖の世界となっていき、食事も喉(のど)を通らず、水を飲んでも吐(は)いてしまう有り様でした。
 時には血を吐き、歩くこともできず、夜は恐怖で眠れない、という毎日で、死ぬことばかり考えるようになっていったのです。

――そうとうひどい状態でしたね。
原島 はい。私は初めて謗法の恐ろしさを、身をもって知りました。
 創価学会にいた当時は、教学部長として池田本仏論の構築に加担(かたん)し、さらに学会をやめた後は、正信会の血脈否定に与(くみ)してしまった――その大謗法の果報です。
 そのような状況にあった平成10年3月に、まず妻が再折伏を受け、妙縁寺で勧戒を受けさせていただきました。
 この時はまだ私も、妻が日蓮正宗の信仰に戻ったことを知りませんでしたが、その後、妻が2度、3度と登山するたびに、私の病は良くなっていきました。
 そして、私のために身も心もボロボロになっていた妻が、どんどん元気になっていったのです。
 やがて、妻から、日蓮正宗の信仰に戻ったことを聞かされ、驚きましたが、やはり心に感ずるものがあり、平成11年1月元旦、私も勇気を奮(ふる)い起こして妙縁寺で勧戒を受けました。

――本当によかったですね。
原島 私は、病によって、謗法の恐ろしさと正しい信心の有り難さを、しみじみと感じました。
 以来、見違えるように元気になりましたが、かつての謗法の罪業はあまりにも重く、いまだに足の硬直や体感異常の苦しみを抱えています。


<恐るべきは深重な謗法の罪業>
山崎 それは私も同じですよ。
 池田大作の側近として、池田が日蓮正宗を支配しようとした大謗法路線に手を貸し、さらには正信会の血脈否定の企みにまで加担してしまった――その罪障で、私はもともと悪かった腎(じん)臓をさらに悪くし、投獄される時には〝生きて帰れない〟という覚悟をしたほど、ひどい腎不全となっていました。
 さらに、C型肝炎から肝硬変を患い、獄中では栄養の偏(かたよ)りから糖尿病まで併発しました。
 そんな状態でしたから、まさに、生きて出獄できたことが不思議なくらいだったのです。
 それが、日蓮正宗に復籍してからは、人工透析(とうせき)の治療を受けながらではありますが、このように元気を取り戻すことができ、命を永らえています。これは、やはり、お題目を唱え、池田創価学会と闘うことで、罪障を消滅させていただけているからだと思います。

――そうですね。かつて学会で作ってしまった罪障、正信会で作ってしまった罪障は、たしかに一朝一夕で消えるものではないでしょうね。日蓮大聖人は、
 「貴辺は嫡々末流の一分に非ずと雖(いえど)も将又(はたまた)檀那所従なり。身は邪家に処して年久しく、心は邪師に染みて月重なる。設(たと)ひ大山は頽(くず)るゝとも、設ひ大海は乾(かわ)くとも此の罪消え難きか。然りと雖も宿縁の催(もよお)す所、又今生に慈悲の薫(くん)ずる所、存の外に貧道に値遇(ちぐう)して改悔(かいげ)を発起する故に、未来の苦を償(つぐな)ひ現在に軽瘡(きょうそう)出現せるか」 (御書913頁)
と仰せられて、謗法の罪障というものは、きわめて深重であり、正法に帰依したからといって、すぐに消えて無くなるものではない、と示されています。
 そして、この謗法の罪障を消滅させるには、心からの懺悔滅罪の祈りと、身を低くして正法正師に仕えること、そして徹底した謗法破折を行なうしかない、とお示しですから、どうか、今まで以上に頑張っていただきたいと思いますね。


<余生は池田学会の破折・追撃に>
原島 はい。今だに池田創価学会の中にあって、地獄への道を進んでいる会員や、正信会に所属している人たちに、真実の信仰を知らしめていきます。その罪障消滅のための折伏行を行じていくところにこそ、私の残された人生の意義がある、と信じています。

山崎 それに、いよいよ池田大作の命も残り少なくなってきた、と思いますので、私も残りの人生を賭けた最後の御奉公として、しっかり学会と闘っていきます。

――長時間お疲れ様でした。
 この対談が発表されれば、創価学会は目の色を変えて悪口誹謗(あっくひぼう)しはじめるでしょうが、それこそ、痛い処を突かれたための悪あがきですから、そうなったら、また第2弾・第3弾を企画しましょうか(笑い)。
 とりあえず、以上をもって、対談の第1弾を終了いたします。