H16 改変勤行の内容と問題点

(『慧妙』H16.9.16ほか編集)

今、創価学会では、五座三座の勤行を廃止し、方便・自我偈の読誦1遍と唱題で足れりとし、御観念文も自分たちに都合よく改変してしまっています。

[画像]:これが創価学会の勤行(怠行)だ!=『聖教新聞』(H16.9.10・2面)に掲載された、創価学会の新しい「勤行」ならぬ「怠行」(『慧妙』H16.9.16)



[改変理由]


[「方便品・自我偈の読誦と唱題」による勤行と御祈念文]
 【諸天供養】
  <「法華守護」でない諸天は鬼神>
  <大御本尊離れた題目に法味はない>
  <「生身妙覚自行の御利益」>
  <東天礼拝>

 【本尊供養】
  <「本門戒壇」の削除について>
  <「一閻浮提総与」とのすり替えについて>
  <「三大秘法」とのすり替えについて>
  <「久遠元初自受用報身如来の御当体」を削除した理由>

 【三師供養】

 【広宣流布祈念】

 【会長への報恩感謝】

 【寿量品長行の読誦を廃止】

 【「五座三座」の廃止】

 【正師による允可・開眼なき経本】

 【昔の学会指導】

/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_

改変理由


 学会では平成16年9月9日、第41回本部幹部会の席上、会長(当時)の秋谷栄之助が、
◆このほど、創価学会の「勤行」および「御祈念文」として、「方便品・自我偈の読誦と唱題」による勤行と御祈念文を制定いたしました。池田第3代会長の就任以来、世界広宣流布が大きく進展し、現在、世界190ヵ国・地域に、SGIの同志が活躍しております。
 この本格的な世界広宣流布の時代の到来という「時」のうえから、方便品・自我偈による勤行について、正式な制定を要望する声が強く寄せられてきました。そこで、このほど、師範会議、総務会で慎重に審議したうえ、「方便品・自我偈の読誦と唱題」による勤行を創価学会の正式な勤行として制定することになりました

-------------------
と発表した。
 学会は、勤行を改変する理由として「時」を強調し、師範会議・総務会という機関での審議を経(へ)て決めたようだ。時の会員の要望に応える形で、勤行は改変されてしまったのである。御都合主義も甚(はなは)だしい。
 こういうことが、大聖人の
●機に随って法を説くと申すは大なる僻見(びゃっけん)なり(御書P846)
-------------------
との御教示に違背する、と思わないのだから、師範会議や総務会などと、名称ばかりは仰々(ぎょうぎょう)しいが、たいした考えも無い人達の集まりである、と断ぜざるをえない。(中略)
 「会員の要望である」とか「○○会議の決議である」といって、化儀を改変することは謗法であり、こうした輩(やから)が出てくることを心配して日興上人は
●衆議たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧(くじ)くべき事(御書P1885)
-------------------
と遺誡(ゆいかい)されているのである。(『慧妙』H26.4.1)

[画像]:五座三座を廃し、方便・自我偈のみの勤行とすることを報じた『聖教』。しかし、池田はかつて、それを「懈怠謗法」と




「方便品・自我偈の読誦と唱題」による勤行と御祈念文


 初めに御本尊に向かい(鈴)、題目三唱します。

<諸天供養(朝のみ)>
 御本尊に向かって、諸天善神に法味を送る題目を三唱します。(東の方に向かってもよい)
諸天善神の守護に感謝し、威光勢力が増すよう、題目の法味を送ります。
 と心の中で祈念の後、題目三唱します。

<方便品・自我偈の読誦と唱題>
 方便品を読誦します。(鈴)
 自我偈を読誦します。(鈴)
 題目を唱えた後(鈴)、題目三唱します。

 次の内容を祈念します。
一、御本尊への報恩感謝
一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊に南無し奉り、報恩感謝申し上げます。
末法の御本仏・日蓮大聖人に南無し奉り、報恩感謝申し上げます。
日興上人に南無し奉り、報恩感謝申し上げます。
日目上人に報恩感謝申し上げます。
 と祈念の後、題目三唱します。
一、広宣流布祈念
広宣流布大願成就と、創価学会万代の興隆を御祈念申し上げます。
創価学会初代、2代、3代の会長を広布の指導者と仰ぎ、その死身弘法の御徳に報恩感謝申し上げます。
 と祈念の後、題目三唱します。
一、諸願祈念ならびに回向
自身の人間革命と宿命転換を祈り、種々の願いが成就しますよう御祈念申し上げます。(種々の祈念はここで行います)
先祖代々ならびに会員・友人の諸精霊追善供養のために。(回向の中で鈴を打ちます)
 と祈念の後、題目三唱します。次に
世界の平和と一切衆生の幸福のために。
 と祈念の後(鈴)、題目三唱して終わります。

 見てのとおり、この『勤行要典』には、日蓮正宗という文字も、宗祖・2祖・3祖という文字もない。もちろん、『新しく入会される皆様へ』と題されたパンフレットにも、日蓮正宗に関する記述は一切ない。それなのに、日興上人・日目上人に報恩感謝する矛盾(むじゅん)を、新入会者に対して、創価学会はどう説明するのであろうか。
 また、授けるニセ本尊は、日蓮大聖人でも日興上人・日目上人のものでもなく、大石寺第26世・日寛上人が書写された御本尊を勝手に変造したニセ本尊であるが、そのことはどう説明するのであろうか―。(『慧妙』H17.3.1)



【諸天供養】

 御本尊に向かって、諸天善神に法味を送る題目を三唱します。(東の方に向かってもよい)
諸天善神の守護に感謝し、威光勢力が増すよう、題目の法味を送ります。
 と心の中で祈念の後、題目三唱します。(学会版『勤行要典』「諸天供養」)

<「生身妙覚自行の御利益」>
―諸天善神の本地を削った学会の観念文―

 当宗本来の初座の観念文では、
 「生身妙覚自行の御利益・大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王等惣じて法華守護の諸天善神、諸天昼夜常為法故而衛護之の御利益、法味倍増の御為めに」
と、記されている。
 これは、梵天ほか一切の諸天善神が、霊鷲山(りょうじゅせん)、虚空会(こくうえ)の儀式等の法華経の会座に連なり、久遠の開顕を受けて妙法の法味に浴し、名字・妙覚の位に昇ったことを示すものである。
 法華経には、体内と体外(たいげ)の別があるが、久遠元初の開顕以前の法華経を体外と言い、久遠元初の妙法が開顕されて後の法華経を、体内の法華経と言う。
 その体内の法華経における諸天善神に対する祈念でなければ、いかなる祈念も無意味である。
 ところが、創価は"生身妙覚自行の御利益"の語を削除して、肝心な"体内"の意義を捨て去り、
 「諸天善神の昼夜にわたる守護に感謝し、威光勢力、法味倍増の為に」
と、何ともお粗末な観念文に変えてしまった(現在では"昼夜にわたる"も削除した)。
 諸天善神が「生身妙覚自行の御利益」に基づいて、その守護の働きをするということが動かざる原則であり、これを外して、どんなに「諸天善神」に祈っても、守護の働きがある筈もない。
 『法華取要抄』に、
●今我等天に向かって之を見れば生身の妙覚の仏が本位(ほんい)に居(こ)して衆生を利益する是なり(御書734頁・全集334頁)
-----------------------
と仰せのように、この観念文は、大聖人の教えと、相伝の化儀に基づいて定められたものである。(『慧妙』H22.3.1)

●本門に至って諸菩薩乃至日月等、皆久遠名字の妙覚の位に入る。若し爾(しか)れば生身の妙覚の仏、久遠名字の本位に動ぜずして、常恒(じょうごう)不退に衆生を利益したもうなり(日寛上人著『法華取要抄文段』/御書文段522頁)
-----------------------
と仰せられ、一切の諸天善神が久遠の妙法を覚知して、その役割を果たしていることを、御指南されている。
 諸天善神の本地が、久遠元初の御本仏と一体となるところに、御本仏の眷属としての用(はたら)きがあるのである。
 これを踏み外して、観念文を作ったところで、祈念の内容も、その順序次第についても、正宗の形式を猿真似しただけでは、まさに"盗人"というほかない。
 したがって、創賊の輩(やから)は、どんなに勤行唱題、観念をしても、諸天善神の利益に通ずるものではないと知るべきである。(『慧妙』H22.3.1)


<「法華守護」でない諸天は鬼神>
 まず、「諸天供養」といっても、いったい、いかなる「諸天」を供養するのだろうか。「諸天」とか「神」といっても、当宗においては、法華を守護する神以外は鬼神である。
 鬼神にまで法味を捧げるとは、さすが学会である。
 念のため言っておくが、「法華」とは言うまでもなく法華経のことであり、末法においては日蓮大聖人の法華経、つまり本門戒壇の大御本尊のことである。大御本尊を守護する諸天善神に法味を捧げるのが当宗の慣わしなのである。
 その大御本尊を「ただのモノ」呼ばわりして軽賎(きょうせん)している池田学会に、法華守護の諸天善神は厳罰を下すであろう(だから学会では鬼神に法味を捧げることにしたということか)。(『慧妙』H26.6.1)


<大御本尊離れた題目に法味はない>
 次に、「題目の法味」とは何なのだろうか。「題目」が三大秘法の1つである本門の題目のことを指しているのであれば、大きな考え違いをしている。
 すなわち、一大秘法たる本門戒壇の大御本尊から開かれるところの三大秘法なのだから、大御本尊から離れて根本を失った池田学会には、本門の題目の意義は具(そな)わらない。それは他門流の日蓮宗等と同様、題号を唱えるだけの題目でしかないのである。
 はっきり言って、学会の題目には何の「法味」もないことだけは明確である。
 うまく誤魔化したつもりかも知れないが、もう少しましな書き方があったのではないだろうか。
 また、当家の初座の観念文には、法華経安楽行品の「諸天昼夜 常為法故 而衛護之(諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し)」との文が引かれている。
 つまり、法華守護の諸天善神は法のために守護するのである。学会がこれを削除したのは、法を信ずることができないのであるから当然だろうが、そのような学会を諸天善神が衛護することはないのである。(『慧妙』H26.6.1)


<東天礼拝>
当宗において、初座で東天に向かい「大日天王・大月天王等…」と善神に法味を捧げる意は、宇宙法界を万法一如の妙法の姿であると捉(とら)え、表面的・物質的な当体そのものではなく、各々の当体のもつ徳用(とくゆう)を尊崇し、その恩恵に感謝するのである。(『慧妙』H26.6.1)

●法華経本門の略開近顕遠に来至して華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり、若し爾れば今我等天に向つて之を見れば生身の妙覚の仏本位に居して衆生を利益する是なり。(『法華取要抄』全集334頁)

●日蓮をこいしく・をはしせば常に出ずる日ゆうべに・いづる月ををがませ給え、いつとなく日月にかげをうかぶる身なり(『国府尼御前御書』全集1325頁)

●又某を恋しくおはせん時は日日に日を拝ませ給へ・某は日に一度・天の日に影をうつす者にて候(『新池御書』全集1444頁)
-----------------------
日達上人御教示に、諸天善神はいたる所にましますが、伝教大師も「東方は諸方の始めなり」と申され、一応太陽のある所をもって、諸天善神の在(おわ)します所として、そこに敬意を表し、お題目を上げて法味を捧げるとの仰せがあります。(『信心の原点』東中国布教区発行H10.10.12・70頁)

●御日記に云く毎年四月八日より七月十五日まで九旬が間・大日天子に仕えさせ給ふ事、大日天子と申すは宮殿七宝なり(中略)一乗の妙経の力にあらずんば争か眼前の奇異をば現す可き不思議に思ひ候、争か此の天の御恩をば報ずべきと・もとめ候に仏法以前の人人も心ある人は皆或は礼拝をまいらせ或は供養を申し皆しるしあり、又逆をなす人は皆ばつあり、(中略)其の上慈父よりあひつたはりて二代我が身となりて・としひさし争かすてさせたまひ候べき、其の上日蓮も又此の天を恃みたてまつり日本国にたてあひて数年なり、既に日蓮かちぬべき心地す利生のあらたなる事・外にもとむべきにあらず(『四条金吾釈迦仏供養事』全集1145頁〜)

●弘安三年十一月八日、尼日厳の立て申す立願の願書並びに御布施の銭一貫文又たふかたびら一つ法華経の御宝前並びに日月天に申し上げ候い畢んぬ(『日厳尼御前御返事』全集1262頁)
------------------------------------------------------------
第59世日亨上人は『天拝集説』(『大日蓮』T11.3)において、上記の各御文等を初座(天拝)の根拠とされている。「天拝」とはあくまでも天に向かって拝むことであり、御本尊への祈念ではない。そのことは「法華経の御宝前並びに日月天に申し上げ」(『日厳尼御前御返事』全集1262頁)とあることからも明らかである。(<■日亨上人著『天拝集説』について>参照)

●日蓮も信じ始め候し日より毎日此れ等の勘文を誦し候て仏天に祈誓し候(『祈祷経送状』全集1357頁)
-----------------------
日顕上人は、大聖人様が毎朝東を向いて、諸天を拝された。日興上人もそのお姿を拝し、同じように東天を拝し、それが当宗に今日まで伝わってきている旨の、御指南をされています。(『信心の原点』東中国布教区発行H10.10.12・70頁)

学会では諸天供養を「御本尊に向かって」(『聖教新聞』H16.9.10)することを基本にしている。カッコ付きで「東の方に向かってもよい」(同)などとしている。しかも読経はなく題目三唱のみである。御本尊に向かうという本来ではない化儀を基本とし、東天に向かうという本来行うべき化儀を軽くみている。これは本末転倒である。個人的には東天に向かう可能性を残しながらも、組織としては東天に向かうことなく勤行を行うのであるから、大聖人以来の化儀に組織として反していることは明白である。

・「生身妙覚自行の御利益」の語削り、体内の意義捨て去った学会

・東天に向かっての諸天供養は大聖人時代から存在した




【本尊供養】

一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊に南無し奉り、報恩感謝申し上げます。(学会版『勤行要典』「御祈念文」)

「本尊供養」の御観念文から「本門戒壇の大御本尊」という文字を削除。これは、後に戒壇の大御本尊から会員を遠ざけるための"布石"といえましょう(『慧妙』H17.3.1)。以下の記述は、学会の会則・規則変更に対する宗門側の破折である。その内容は、そのまま「本尊供養」の観念文改変に対する破折としても通用する。

<「本門戒壇」の削除について>
 「本門戒壇」とは、法華経本門の仏法、すなわち、末法出現の法華経の行者、日蓮大聖人が説き明かされた仏法の法体を安置し、一切衆生成仏の依処となるべき堂宇をいう。
 「戒壇」に関して、日蓮大聖人は『三大秘法抄』に、
 「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」(『三大秘法抄』御書1595、全集1022頁)
と教示され、『一期弘法付嘱書』には、
 「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(『一期弘法付嘱書』御書1675、全集1600頁)
と明確にその場所を特定されている。これについて第26世日寛上人は、
 「然るに三大秘法随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在り」(『六巻抄』64頁)
 「富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり」(同68頁)
と教示され、「本門戒壇の大御本尊」まします富士山こそ、戒壇建立の聖地であると仰せられている。
 この富士山とは第2祖日興上人以来の歴史的経緯からみても、日蓮正宗総本山大石寺をおいて他にないことは明々白々である。
 創価学会は、この尊い日蓮大聖人および日寛上人の御教示に背き、会員に対して本門戒壇の大御本尊への渇仰恋慕の心を喪失せしめ、大石寺を覆い隠すために、「会則」「規則」から「本門戒壇」の文字を削除したのである。(教学部<宗門>WS)


<「一閻浮提総与」とのすり替えについて>
 「一閻浮提総与」とは「全世界の人々に等しく与えられたもの」との意味であり、御本尊に冠した場合は「全世界のすべての人々が信受すべき御本尊」という意味である。
 しかるに創価学会は、この「一閻浮提総与」を、単にすべての衆生すなわち創価学会員をはじめとする人々に与えられたものと解釈している。
 日蓮大聖人は、
 「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」(『観心本尊抄』御書662、全集254頁)
と御教示され、この御文を日寛上人は、
 「久遠元初の自受用身、大慈悲を起こして妙法五字の本尊に自受用身即一念三千の相貌を図顕し、末代幼稚の頸に懸けさしむ等となり」(御書文段285頁)
と解釈されている。日蓮大聖人は、一念三千を知らざる煩悩具縛の一切衆生の成仏と救済のために、大慈悲を起こし、本門戒壇の大御本尊を御図顕されたのである。
 この大御本尊は、『一期弘法付嘱書』に、
 「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す」(『一期弘法付嘱書』御書1675、全集1600頁)
と仰せられるように、日蓮大聖人から日興上人ただお一人に付嘱され、以来、御当代日顕上人に至るまで、唯授一人の血脈相承によって、厳然と富士大石寺に伝えられているのである。
 また御当代日顕上人は「一閻浮提総与」の意義について、
 「戒壇の御本尊様についても、大聖人様御所有の上からの名称でなければならない。それは、大聖人様が一切衆生総与という意味において、日興上人へ相伝あそばされているわけなのです。その場合は能化、すなわち、仏につく言葉であります(中略)能化の仏様のお心の上から『一閻浮提総与』と申し上げるべきであり」(『創価学会の偽造本尊義を破す』136頁)
と仰せられ、本門戒壇の大御本尊に冠せられる「一閻浮提総与」とは、能化の御仏意に基づく言葉であり、その真義は法主への血脈相伝によって一切衆生に授与される御本尊なる旨の御指南をされている。
 これはまた「一閻浮提総与」の深義を、不相伝の輩が迷妄の我見をもって軽々に解釈すべきものではないとの御指南でもある。
 これらの御教示と御指南を拝するならば、学会が、いかに仏法の本義に背逆しているかが分かるであろう。
 今回の文言のすり替えは、血脈相伝による授与の意義を否定せんとする、学会の慢心と邪悪な意図のもとに行われたのである。
 なお付言するならば、「一閻浮提総与」は、日蓮大聖人の御書には勿論のこと、第2祖日興上人および日寛上人の御教示にも使用されていない言葉である。この言葉は、総本山第59世日亨上人が『大日蓮』に、
 「近年荒木翁が戒壇本尊は未来の満天下の一切衆生に授与せられたものであるから総与の御本尊と云ふべきと主張した」(『大日蓮』T12.1 14頁)
と紹介されているように、近代の在家信徒が言い始めたものである。「御書根本」をさかんに振り回す学会が、何ゆえ『二箇相承』にある「本門戒壇」の文言を削り、あえて御書にない言葉を用いるのか。これも学会の大いなる矛盾であると指摘しておく。(教学部<宗門>WS)


<「三大秘法」とのすり替えについて>
 「三大秘法」とは、日蓮大聖人の仏法の根幹をなす法義であり、その中心となる法体は、本門戒壇の大御本尊にましますことはいうまでもない。
 しかるに不相伝の日蓮宗各派においては「三大秘法」を口にしながら、宗祖大聖人の御意とは遠く離れたまったくの邪義珍説を吐いている。
 その一例を挙げると、『日蓮宗読本』には、
 「本門の本尊は美術的要素、本門の題目は音楽的要求、本門の戒壇は造形的要素」(『日蓮宗読本』150頁・要旨)
などと解説していることからも分かる。
 今回、学会が「本門戒壇」との明確に大御本尊を指し示す文言を、他門日蓮宗でも口にする「三大秘法」にすり替えたことは、本門戒壇の大御本尊を覆い隠し、その意義を薄めようとする意図によるのである。(教学部<宗門>WS)


「本尊供養」の御観念文では、「久遠元初自受用報身如来の御当体」の語句をも削除している。
<「久遠元初自受用報身如来の御当体」を削除した理由>
 「久遠元初自受用報身如来」とは、御本仏日蓮大聖人のことであり、その「御当体」は本門戒壇の大御本尊であります。
 創価学会では、表面的には単に難しい語句を削除したなどとして会員の盲目化を図り、裏では久遠元初の御本仏の御悟りそのものを隠して、大聖人の御本仏としての御立場を貶めているのです。それは池田大作が、
 「日蓮大聖人は『人間』そのもの、『凡夫』そのものの御振る舞いであられた」(平成4年9月10日付聖教新聞)
などと殊さらに大聖人も普通の凡人だと言い、さらに、「大聖人だけが特別に神格化され、久遠本仏に祭り上げられる必要はない」(革新47)
という主張に発展させていることからも明らかです。まさに池田大作自身が、自らを高く上げるための削除であります。当然、「久遠元初自受用報身如来の御当体」である本門戒壇の大御本尊についても、その深い意義を隠し、一閻浮提総与の御本尊の意義を矮小化し誹謗しているのです。(『大白法』H22.8.1)



【「三師供養」】

末法の御本仏・日蓮大聖人に南無し奉り、報恩感謝申し上げます。
日興上人に南無し奉り、報恩感謝申し上げます。
日目上人に報恩感謝申し上げます。(学会版『勤行要典』「御祈念文」)

「三師供養」では、御歴代上人への御報恩謝徳の文をバッサリとカットし、加えて、日目上人への御報恩謝徳の文から「南無」の文字を削除している。

●南無仏・南無法・南無僧とは若し当流の意は(中略−仏宝、法宝を挙げたあと)南無本門弘通の大導師・末法万年の総貫首・開山・付法・南無日興上人師、南無一閻浮提座主・伝法・日目上人師、嫡々付法歴代の諸師(第26世日寛上人著『当家三衣抄』/『富士宗学要集』第3巻238頁)
-----------------------
日寛上人は日目上人に「南無」されていた。日寛上人を正師と仰ぐのであれば、日興上人→日目上人→日道上人→と続く血脈を信受し、血脈付法の方に南無すべきである。

●嗚呼(ああ)代々の貫首即日蓮日興の尊語をいかにせんや。(第59世日亨上人『富士日興上人詳伝(下)』274頁)

◆良き法と、良き師と、良き檀那との3つが、そろわなければだめだ。南無妙法蓮華経、これは良き法に決まっている。大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、64代の間を、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下を通して大御本尊様を拝しますれば、必ず功徳が出てくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私は、ひじょうに光栄とするものであります(昭和30年12月13日・関西本部入仏落慶式『戸田城聖全集』第4巻399頁)
-----------------------
戸田会長は終生、宗門発行の教本を使用し、教本に示された観念文どおり「三師供養」において歴代上人に南無されていた。その理由は、唯授一人の血脈によって歴代上人に「大聖人様そのままの御内証」が伝わっていると信じていたからである。

◆ありがたくも、本日は、御本山の猊下のお出ましをねがい、畑毛の猊下のお出ましをねがって、われらとしてはこれ以上の名誉はない。来年のきょうまでのあいだに、ほんとうに功徳をつかむ覚悟で、自分の悩みの心に、大御本尊様を目の前に浮かべ、両猊下を拝もうではありませんか。それでは、私が導師となります。「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」
 どうか、功徳を祈っていただきますように。(S29.5.3東京・両国の国技館『戸田城聖全集』第4巻159頁〜)
-----------------------
「大御本尊様を目の前に浮かべ、両猊下を拝もうではありませんか。」戸田会長が歴代上人に南無していたことは明らかだ。



【広宣流布祈念】

広宣流布大願成就と、創価学会万代の興隆を御祈念申し上げます。

 学会版経本の「広宣流布祈念」のところには
 「広宣流布大願成就と、創価学会万代の興隆を御祈念申し上げます」
とある。だが、「広宣流布」とはいうものの、いったい何を流布していくのであろうか。
 66世日達上人は
 「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提(いちえんぶだい)に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」(『日達上人全集』2輯6巻P295)
と御指南あそばされている。日達上人の仰(おお)せられる「日蓮正宗の教義」とは、あくまでも本門戒壇の大御本尊を根本としていくことであるが、学会にはその根本がない。学会が唱える題目にしても、それは日蓮宗各派と何ら変わりのない、体のない題目なのである。
 さらに、学会のいう「広宣流布」は、どこに広がっていくのかも書いていないし、「大願成就」という言葉の意味もあまり理解していないようである。
 これに対し、当宗の観念文には、明確に「一天四海本因妙広宣流布大願成就」と示されている。
 「一天四海」とは、簡単にいえば全世界ということであるが、仏教の世界観では東弗婆提(ほつばだい)・西瞿耶尼(くやに)・南閻浮提提(えんぶだい)・北鬱単越(うつたんのつ)の4州を四天下、または一天といい、東西南北の四方の大鹹海(だいかんかい)を四海という。この一天四海で、日月の照らすところの世界全体を表わすのである。私達の生活する世の中は、この中の南閻浮提であるから、「一天四海本因妙広宣流布」とは、この地球の一切衆生を超え、太陽系全体のありとあらゆる生命体に対する妙法による救済を表わしているのである。
 次に「大願成就」とは何かといえば、大聖人は、はっきりと
 「大願とは法華弘通なり」(御書P1749)
とお示しである。すなわち、大聖人の法華経(その実体は本門戒壇の大御本尊)を全世界に弘めることである、と知るべきであろう。(『慧妙』H26.9.1)



【会長への報恩感謝】

創価学会初代、2代、3代の会長を広布の指導者と仰ぎ、その死身弘法の御徳に報恩感謝申し上げます。

 学会の祈念文には、さらに(※広宣流布祈念に)続けて「創価学会初代、2代、3代の会長を広布の指導者と仰ぎ、その死身弘法の御徳に報恩感謝申し上げます」などとしている。広宣流布祈念とつなげて学会の会長を祈念するとは、とても考えられない。しかも、これを第3代会長の存命中に定めたのであるから、池田大作という人は、なんと傲慢(ごうまん)な人であろうか。
 要は、広宣流布するには学会の3代会長がいなくてはいけない、と印象づけたいのだろう。
 ともあれ、学会で対境とする本尊は、正当な大石寺の本門戒壇の大御本尊から離れた、独自の本尊であり、魔の塊(かたまり)である。そこに祈念をして、本当に叶(かな)うと思っているのだろうか。(『慧妙』H26.9.1)

 まず昭和52年、創価学会は三座の御観念文を改変し、ここに牧口・戸田両会長への報恩感謝の一文を挿入しようと企(くわだ)てました。
 それをお知りになった日達上人は、「それでは本宗の三宝が改変されてしまう」として阻止され、その上で「両氏の追善供養を全員にさせたいのなら、両氏の追善供養を書いた紙でも経本にはさませて、五座の回向で行なわせたらどうか」と御指南されました。
 ところが創価学会は、その御指南に従うかのようにみせながら、創価学会版の経本を作成し、四座の御観念文の間に創価学会の興隆を祈念する文を付け加えたばかりか、五座では牧口・戸田両氏に対して「死身弘法・御報恩謝徳の御為めに」と、追善供養ならぬ御報恩謝徳の文を加えてしまったのです。
 日蓮正宗においては、御歴代上人でないかぎり、たとえ高僧であっても「擬報恩謝徳」という表現に留めていますので、在家信徒に対して「御報恩謝得」などという祈念を行なうことは、増上慢の極(きわ)みであります。
 この、御観念文の改変という謗法行為に対し、日達上人は、創価学会版経本の回収を命じ、それと同数の大石寺版勤行要典を創価学会に寄贈されて
 「向こう(学会版経本)が謗法だから、それをやめさせて、正しいものを渡した。学会が正宗の要品でないものを使っていたから、それをやめさせて、正しい正宗の経本を与えた」(昭和54年5月29日の御指南の趣意)
と、創価学会の経本は謗法である、と断じられたのです。(『慧妙』H19.10.1)



【寿量品長行の読誦を廃止】
 ここで、勤行様式の改変に伴(ともな)い、寿量品長行の読誦を廃止したことですが、これは、もはや日蓮大聖人の門下を名乗ることさえ憚(はばか)られる重大な違背行為です。
 すなわち日蓮大聖人は、
 「一念三千の法門は但法華経本門寿量品の文の底にしづめたり」(『開目抄』御書526、全集189頁)
と仰せですが、それはどこの文に秘沈されているか、というと、日寛上人は、
 「聞いて能(よ)く之れを信ぜよ、是れ憶度(おくたく)に非ず。師の曰く本因初住(ほんにんしょじゅう)の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給えり云云」(『六巻抄』28頁)
と仰せられ、「我本行菩薩道 所成壽命 今猶未盡 復倍上數」の本因初住の文の底に秘沈されている、と明かされています。しかして、この「我本行菩薩道」の本因初住の文は、寿量品の長行中にあるのです。
 となれば、事の一念三千の御当体たる大御本尊を賛嘆申し上げるのに、寿量品の長行は、法義上、削(けず)ってはならない必要な助行であることは、明々白々です。
 日蓮大聖人は、
 「此の経の文字は皆悉(ことごと)く生身(しょうじん)妙覚の御仏なり。(中略)されども僻見(びゃっけん)の行者は加様(かよう)に目出度く渡らせ給ふを破し奉るなり。唯(ただ)相構へ相構へて異念無く一心に霊山浄土を期(ご)せらるべし。心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文ぞかし」(『曾谷入道殿御返事』御書794、全集1025頁)
と仰せです。この御金言を無視し、自らの怠(なま)け心に従って、「五座三座」の勤行を「方便・自我偈・唱題」の"怠行"に変えてしまった創価学会は、まさしく「心を師」とする「僻見の行者」と成り果てた、といえましょう。(『慧妙』H19.10.1)(<■一念三千と二品読誦の範囲><■法体の所在>参照)



【「五座三座」の廃止】
学会は、五座三座の勤行を廃し、方便・自我偈の読誦1遍と唱題をもって勤行としています。

●六念(ろくねん)の事 念仏(ねんぶつ)念法(ねんぽう)念僧(ねんそう)念戒(ねんかい)念施(ねんせ)念天(ねんてん)なり。
 御義口伝に云はく、念仏とは唯我一人の導師なり、念法とは滅後は題目の五字なり、念僧とは末法にては凡夫僧なり、念戒とは是(これ)名持戒なり、念施とは一切衆生に題目を授与するなり、念天とは諸天昼夜常為法故而衛護之(じょういほうこにえいごし)の意なり。末法当今の行者の上なり。之を思うべきなり云云(『御義口伝』御書1798、全集785頁〜)
-----------------------
すなわち、念天は初座の諸天供養、念法は二座の本尊供養、念仏と念僧は三座の三師供養、念戒は"是を戒を持つと名づく"であるから四座の広宣流布祈念が相当する。そして念施は五座の回向にあたる。まさに現在の勤行様式は、大聖人の御指南に基づいて歴代上人が示された、本宗正統の化儀といえよう。(『慧妙』H22.4.1)(<■大聖人以来の化儀><■化儀と相伝><■「開山已来・化儀化法・四百余年全く蓮師の如し」>参照)

●当山行事の次第、初座は十如寿量諸天供養、二座は十如世雄寿量本尊供養、三座は十如寿量祖師代々、四座は十如寿量祈祷、五座は十如寿量法界回向なり。是れ則ち丑の終わり寅の始めの勤行なり。若し黄昏は初座十如寿量本尊供養、二座十如寿量祖師代々、三座自我偈三巻法界回向なり。若し堪えられん人は本山の如く相勤むべし。若し爾らずんば十如自我偈題目なりとも五座三座の格式相守るべし(第26世日寛上人 享保4年『報福原式治状』)
-----------------------
との御指南について、日寛上人を時短勤行の観念文に報恩の対象として挙(あ)げている顕正会、ニセ本尊作成に日寛上人の御本尊を盗用した創価学会は、どのように会通するのだろうか。(『慧妙』H22.4.1)



【正師による允可・開眼なき経本】
●非情は有情に随ふ故に他宗他門の法華経をば正法の人には之れを読ますべからず、謗法の経なる故に、(中略)現世後世の為に仏法の方には之れを読むべからず。(第9世日有上人『化儀抄』)
-----------------------
 すなわち、日有上人は、本宗以外の他宗、つまり邪宗が作成した法華経は、それ自体は非情のものであっても、それを作成した側の人、すなわち有情が謗法であるため、非情は有情に随うということから、謗法の経本となる。ゆえに正法を受持する人が、「現世安穏、後生善処」を願う大切な勤行の時に、その謗法の経本を読誦してはいけないと、このように仰せられているのである。
 これによると、日蓮正宗から破門になった創価学会が作成した経本も、また謗法となることは明白である。日蓮正宗の信徒たる者は、謗法厳戒の本宗の宗旨を全うする上からも、この『化儀抄』の条目に従って、謗法の団体たる創価学会によって作成された邪悪な経本の使用を即刻やめるべきである。(『大白法』H4.3.16)

妙法蓮華経一部一巻小字経、御供養のために御布施に小袖二重・鵞目十貫・並びに扇百本。(『曾谷入道殿御返事』全集1057頁)
-----------------------
●この「小字経」というのは細字経のことで、小さい字で書写されたお経のことであります。この書写を曽谷さんが自らなさったか、それともだれかに書かせたかは判りませんが、その書かれた法華経を身延に送られて大聖人様のもとにおいて御宝前に安置し、お経、題目を大聖人様から唱えていただいて、その書写したお経の開眼の儀式を願ったのです。 そして御供養として、まず「御布施に小袖二重」。「小袖」は着物のことで、それが二重ねです。(第67世日顕上人H6.10.29/『大日蓮』H12.11)
-----------------------
大聖人自ら、信徒の御経を開眼されていた。現在でも日蓮正宗では信徒が使用する経本を開眼している。正師による開眼のない学会経本は、大聖人の化儀に背く。



【昔の学会指導】
◆私がいうように、朝五座、晩三座の信心をきちんとして、断じて御本尊様を疑わないで、信心してごらんなさい。疑ったらだめです(戸田城聖『戸田城聖全集』第4巻P330/『慧妙』H26.4.1)

◆日蓮正宗においては、また学会の指導は、五座三座というが、自分は三座二座でいいではないか、などというの は懈怠(けたい)です(池田大作『会長講演集』第6巻219頁/『慧妙』H20.9.16)