日蓮正宗
本山末寺の動静


最後まで折伏に精進
―「正義顕揚の年」へ―
(『大白法』H20.12.16)

 「本年、残りわずかではありますが、途中であきらめず、最後の最後まで折伏に精進していただきたいと思います。本年を闘いきって明年の大慶事を迎えるのと、何もせずにそのまま明年を迎えるのとでは、生活、信心、あらゆる面において大きな差が生じます」(今号4面)
 本年1年間、『立正安国論』を引かれ、「故に我々日蓮正宗僧俗が折伏に励むのである」と御指南し続けてくだされた御法主日如上人猊下より、本年最後の広布唱題会の砌の御言葉である。
 その御指南に必ずやお応えしようと、全国の講中が祈り、動いてきた。「達成して初めて、御法主上人猊下の御心が判りました」「動かなければだめだということがよく判った」など、達成支部からは御住職・御主管、講員の様々な声が聞かれた。
 総本山塔中・蓮成坊支部(指導教師・田爪鏡道御尊師)、同・了性坊支部(同・原田輝道御尊師)、北海道釧路市・法珠寺支部(舟橋道泰御尊師)、岩手県釜石市・常説寺支部(上地信暁御尊師)、山形県鶴岡市・法樹院支部(大塚雄稔御尊師)、宮城県栗原市・妙教寺支部(久野透道御尊師)、福島県会津若松市・実成寺支部(影山広道御尊師)、千葉県成田市・智妙寺支部(青山信琢御尊師)、横浜市両区・久遠寺支部(木村真昭御尊師)、神奈川県相模原市・妙苑寺支部(大橋慈興御尊師)、静岡県富士宮市・妙泉寺支部(渡辺礎道御尊師)、同・忠正寺支部(森岡雄樹御尊師)、同・心教坊支部(山下釈道御尊師)、同・蓮光坊支部(宮原委道御尊師)、名古屋市中村区・妙道寺支部(高橋粛道御尊師)、岐阜市・長昌寺支部(高杉里道御尊師)、京都府舞鶴市・法護寺支部(有井正恩御尊師)、大阪府田尻町・順行寺支部(脇坂広治御尊師)、和歌山県新宮市・真福寺支部(飯田道稔御尊師)、兵庫県豊岡市・妙永寺支部(安藤公英御尊師)、島根県益田市・大善寺支部(今福信度御尊師)、広島県呉市・円照寺支部(中村福道御尊師)、香川県高松市・玉林寺支部(蜂谷城道御尊師)、高知市・法厳寺支部(入江肇道御尊師)、徳島県鳴門市・妙眼寺支部(森永雄隆御尊師)、佐賀県鳥栖市・覚源寺支部(小林信存御尊師)、熊本県八代市・法観寺支部(山田雄勉御尊師)が完遂。
 久遠寺支部は120世帯を、真福寺支部は12世帯を共に12月10日に完遂。特別布教区で8支部が完遂、西中国は全21支部のうち10支部が完遂した。また、大阪では7支部が完遂し、枚方市の経王寺支部(堀寿妙御尊師)も100世帯達成へあと5世帯。9月末で21世帯を残していた北九州市門司区の妙境寺支部(高木栄正御尊師)はやれることは全てやろうと10時間唱題を毎週のように行い、あと1世帯に迫った。
 近日中の達成に向け目途がついている支部が多数あるため、これよりは日を追う毎に達成が相次ぐ。本年残すところ半月、悔いなく終わろう。



請願達成支部 続々と
―御命題実現の道程―
(『大白法』H20.11.16)

 折伏誓願目標の達成が相次いでいる。
 北海道稚内市・法清院支部(指導教師・伊藤雄保御尊師)、青森県弘前市・法典院支部(同・西村正雅御尊師)、茨城県日立市・光顕寺支部(川田恭顕御尊師)、埼玉県草加市・宣行寺支部(村上節道御尊師)、長野県軽井沢町・妙照寺支部(早瀬道義御尊師)、静岡県富士宮市・法明寺支部(松尾圭剛御尊師)、兵庫県神戸市・浄教寺支部(大鹿由道御尊師)、同加古川市・浄福寺支部(園田司道御尊師)、岡山県笠岡市・妙種寺支部(木村信久御尊師)、広島県府中市・長妙寺支部(佐藤記道御尊師)、愛媛県松山市・応供寺支部(高玉信連御尊師)、徳島県小松島市・成顕寺支部(遠藤道利御尊師)、同吉野川市・修徳院支部(国島道樹御尊師)、福岡県田川市・法縁寺支部(水谷道健御尊師)、大分県臼杵市・善妙寺支部(鹿野法純御尊師)が目標を完遂。さらに折伏を実践する人数を増やそうと考え、並行して育成に力を注ぐなど、明年以降への地歩を固めている。
 法清院支部は11月4日に達成。法典院支部は10月19日に達成した。
 北海道内には、折伏は既に目標に達しているが、新入信者へは1ヵ月間の勤行指導・会合等の参加を経て御本尊下付を行うという方針をもって磐石な法華講作りをめざしているため、最後の1世帯への下付が来月早々になるという支部もある。また、毎日の寺院での唱題行を増やして一日も早い達成を期している支部もある。
 光顕寺支部は10月31日に3世帯が成就し、誓願の50世帯を達成。
 10月31日に180世帯を達成した宣行寺支部では、青年や、今年初めて折伏を成就した人による成果が例年に比べ多かった。先輩たちの家庭訪問を受け、折伏に挑戦し成就した青年と、その両親の喜びは大きい。達成間際の1週間の本堂は、夜7時頃の5・6人から8時には20人、そしてさらに9時、10時、11時、午前零時には50人以上と、遅くなるにしたがって唱題に集まる人数が増えた。
 達成はまだなものの神奈川県横浜市の久遠寺支部では、御住職・木村真昭御尊師の「必ず誓願は果たす」と断固たるご決意が浸透し、10月中だけで20世帯もの特筆すべき成果を見た。
 妙照寺支部は11月1日に達成。本年は入信2年以内の講員による折伏が多かった。
 11月4日に37世帯を達成した浄教寺支部は、7月まではで9世帯でしかなかったが、8月に10世帯、9月に5世帯、10月9世帯と後半勢いを増した。役員もがんばったが、今まで折伏の経験のない人たちによる縁での成就も多かったのが、今後への大きな財産と言える。
 妙種寺支部では11月3日、御会式の日に3世帯の御本尊下付で誓願目標を達成し、「本日をもって達成いたしました」との御住職挨拶に、本堂を埋め尽くした参詣信徒と布教区内の御僧侶方の拍手が鳴り響いた。
 成顕寺、修徳院両支部は共に11月4日に達成。成顕寺支部では「折伏強化の日」を月に1度設け、今年は年頭から成果があった。行事のたびに、殊に青年が新来者を連れて出席するようになった。行事参加者の3分の1を青年が占めている。
 法縁寺支部は、2月24日・九州決起大会に目標70名のところ、170名が参加。御住職の「わざわざ九州まで御下向くださる両上人猊下を会場でお迎えできない者が、平成21年のご登山をできるだろうか。200名で決起大会に参加しよう」との昨年11月の御指導に真剣に取り組んだ。「無理だ」が本年に入り名簿が150名を超えた頃「できるかも知れない」に変わり、日中も唱題のためお寺に集まり始め、勢いが生まれた。決起大会後も止まらず、10月30日の折伏誓願達成に結びついた。振り返ってみると、新規の活動者も増えていた。
 善妙寺支部は、8月以降に成果の形になり10月30日に達成した。
 他にも、「あと1世帯」「あと2世帯」の支部が多く、これから日を追う毎に、達成支部が増える。
 御法主日如上人猊下の「全支部が誓願を達成」の御命題を拝し、「日蓮正宗であるならば折伏は当たり前、折伏を当然のことととらえ、行じられる信徒に」と導いてくださる指導教師の御住職・御主管と共に、地涌の誓いを果たして本年を喜びで終わろう。そして、信徒一人ひとりの喜びを我が喜びとし、悲しみを我が悲しみとして常に導いてくださる御住職・御主管を先頭に、明年の出陣式、記念総登山に臨んでまいりたい。



「躍進の年」全支部折伏達成へ
―確実に進む 地涌倍増の波動―
(『大白法』H20.11.1)

 総本山塔中・百貫坊支部(御住職・佐藤慈暢御尊師)、同本住坊支部(御住職・楠美慈調御尊師)、北海道留萌市の開道寺支部(御住職・宮脇正能御尊師)、東京都北区の妙護寺支部(御住職・石井信量御尊師)、千葉市の真光寺支部(御住職・新井契道御尊師)、長野県大町市の常楽寺支部(御住職・池田雄源御尊師)、岐阜県恵那市の得浄寺支部(御住職・佐藤道幸御尊師)、山口県岩国市の弘法寺支部(御住職・盛岡窮道御尊師)、愛媛県四国中央市の実妙寺支部(御住職・三谷雄覚御尊師)、徳島市の敬台寺支部(御住職・日比野慈成御尊師)が年間折伏誓願目標を達成。まことにおめでとうこざいます。
 開道寺支部は、北海道決起大会に15名目標のところ26名参加できた。これに向けて御住職も地元講員宅をすべて訪問した他、講員同士が足を使い、連絡を取り合って啓蒙を進めた結果だ。この自分たちの出した決起大会への結果を大きな喜びとして折伏の推進力となし、「御会式までに」の目標を無事、2週間前の10月5日達成となった。
 真光寺支部は、10月16日に目標35世帯を達成し、28日現在で37世帯。例年目標は達成してきたが、年末までかかることも多かった。今年も6月まで累計10世帯だったが、その後7月は3世帯、そして8、9、10月はそれぞれ8世帯の成果を見た。今、折伏推進会を毎週開いているが、すっかり「動くのが楽しい」様相に変わり、目標を50世帯に設定し直して活発に動いている。
 常楽寺支部は、10月1日に目標の20世帯を達成した。婦人部長を中心に、婦人部有志10名程度が車に乗り合わせて毎月の添書登山を決意し、その行き帰りの車中では、折伏の打ち合わせ等で会話が弾んでいる。
 同じ甲信地方部で、748号において紹介した6月に折伏誓願目標50世帯を達成した長野市の妙相寺は、現在目標を100世帯に上乗せして、10月28日現在の成果が93世帯となった。
 得浄寺支部は、10月5日に目標の12世帯を完遂。決起大会の大勝利の喜びが大きかった。そして「折伏は一度で諦めないこと」を言い続けた御住職。その結果、多くの講員が「動いた分だけ結果が出る」喜びを体験できた。創価学会員が自ら脱会したいとお寺を訪ねてきた例も複数ある。
 弘法寺支部は10月18日の支部総登山めざして精進し、10月15日に目標の22世帯を達成。
 実妙寺支部は、講頭・副講頭が早朝勤行に参加するようになって空気が変わり、目標12世帯を達成できた。
 そして、あと1世帯で達成という支部に、余市町の久昌寺支部、稚内市・法清院支部、京都市伏見区・宣照寺支部、府中市・長妙寺支部、防府市・覚正寺支部、松山市・応供寺支部、小松島市・成顕寺支部、吉野川市・修徳院支部、臼杵市・善妙寺支部等々あり、あと2世帯で達成の支部となると、その数は格段に多くなる。あと3世帯の支部数はさらに多く、その中には今年180世帯の目標を掲げ、毎年必ず折伏誓願を成就している埼玉県草加市の宣行寺支部も。
 また、8月より京都市左京区の住本寺事務所を開所して折伏に励む御住職・阿部郭道御尊師と檀信徒は、開所当初に勧誡を受けた49世帯でスタートした。御住職と役員は、自称正信会信徒となったかつての講員を1人でも多く救おうと電話を活用しながら一軒一軒訪ね、正しい情報を与えられていない正信会信徒に真実を伝え、自分で考えさせ、勧誡まで導いている。そうして勧誡を受けた人が、日蓮正宗に戻れた喜びから、さらに自分同様に苦しんでいる人を救おうと縁を広げ、現在100世帯となっている。
 一度信仰の道を迷った末に、創価学会あるいは正信会から正法に戻ってきた方々、全く日蓮正宗を知らないところから正法に縁した方々、いずれも深い因縁があって、『立正安国論』正義顕揚750年の大佳節に間に合って、本年の入信、勧誡となった。明年を慶祝申し上げ、さらに未来まで永く『立正安国論』の正義を共に手を携え弘めていく地涌の友。
 今進んでいる地涌倍増を大きく確かなものとするのは、本年の私たちの信行にかかっている。



西日本に続き、九州決起大会も大成功!
―2月24日 於・北九州メディアドーム―
―目標超えて1万数百名が大結集―
―妨害と試練跳ねのけ正義の実証―

(『慧妙』H20.3.1)

 2月24日(日)、「地涌倍増大結集推進・九州決起大会」が、北九州市小倉区の北九州メディアドームで挙行された。
 明年の「地涌倍増大結集」に向けた決起大会は、全国4ヶ所で開催されることになっており、今回の九州決起大会は、2月3日に大阪で開催された西日本決起大会に続く第2弾で、福岡・西九州・中九州・宮崎・南九州の約80ヵ寺の僧俗を対象としたもの。
 会場となったメディアドームのある小倉は、九州開導の師と仰がれる妙寿日成貴尼が最初に九州入りした地である。広布に向かって一大飛躍を期す今、その奇(く)しき因縁の地に、御法主日如上人ならびに御隠尊日顕上人の両猊下をお迎えし、九州全土の僧俗が集って大会が開催されるという意義は大きい。「先駆の九州」の意気漲(みなぎ)る大会にすべく、当該地域の僧俗は、早くから準備を進めてきた。


【困難を乗り越えてこそ強信】
―試された果ての勝利の実証―
 折しも、断続的な寒波の到来など、異常気象が取り沙汰される昨今、大会前日には冬型の気圧配置が強まり、北海道をはじめ日本海側では大雪で飛行機が欠航となったり、富山では高波による被害が出たり、関東でも暴風が吹き荒れたりと、全国的な悪天候がニュースで報じられた。
 しかし、御書に、
 「雨ふり、かぜふき、人のせいするにこそ心ざしはあらわれ候へ」(御書1244頁)
と示されているように、こうした悪天候も物ともせずに仏道修行に励み、広布に邁進してこそ、信心の功徳は弥増(いやま)すのである。
 その道理を心得ているがゆえに、九州の僧俗は、互いに励まし合い、決起大会の大成功を御本尊に祈り、いよいよ気運を盛り上げていった。
 宮崎県から参加したある御僧侶は、
 「当日、九州ではめずらしい吹雪となり、無事に会場に着けるか、少なからずの不安がよぎりつつも、法華講員達と共にバスで会場に向かったのですが、途中、現地から『雪がやんで、日が射してきている』との報告が入りました。それを聞いて、誰もが『やっぱり、この悪天候は我々の信心を試すものだった』と確信したんです」
と、笑顔で語る。
 そして、会場に向かった者は皆、決起大会に間に合うことができ、当初の目標であった1万名を超え、1万数百名の参加をもって九州決起大会が開催されたのである。
 メディアドームの所定の席が法華講員で埋め尽くされた、定刻の午後12時50分、日如上人・日顕上人の両猊下の御臨席のもと、第1部が開始された。
 会場に鳴り響く法華講連合会ブラスバンドの迫力ある演奏が、無事にこの日を迎えられた歓びを、弥(いや)が上にも参加者の胸に喚起させる。
 続く九州各地方部音楽隊による演奏の際には、舞台上でパフォーマンスを繰り広げる鼓笛隊メンバーに幼児から壮年までが加わり、本年「躍進の年」にふさわしい、異体同心の姿を現出した。さらに、婦人部有志のコーラスでは、はつらつと明るい歌声で、折伏の決意を歌い上げた。
 このように、各演目にも信心の歓びが満ち、それがまた会場全体を包んで、祝福ムードのうちに第一部を終了。
 小憩をはさんだ決起大会の第2部は、いよいよ本年の折伏出陣に決起する厳粛な空気に包まれて、開会が宣せられた。
 はじめに、司会の鈴木道雅御尊師より、その時点での集計結果として、「1万名の目標に対して、参加者数が1万133名」(※ただし、最終的には、これに会場整理や出演者の信徒が数百名が加わる)との発表があり、場内が沸きあがった。
 大会は、藤野眞人・運営副委員長の「開会挨拶」、普遍寺支部・河原としえさんの体験発表と続き、次のリレー宣誓では、少年・青年・婦人・壮年の各部代表、計20名が、堂々と本年の決意を述べた。
 続いて、柳沢委員長の「激励」、次に総監・八木日照御尊能化より「挨拶」が述べられた後、御法主日如上人猊下より甚深の御指南を賜わった。
 御法主上人猊下は、明年の『立正安国論』正義顕揚750年における「地涌倍増と大結集」の御命題達成の意義を、『立正安国論』の深義から御指南あそばされた。そして、創価学会をはじめとするあらゆる邪義邪宗を折伏することが、謗法の害毒による世相の乱れを解決する方途である≠ニ折伏の御指南をくだされ、題目を三唱あそばされた。会場の僧俗一同はこれに唱和し、いよいよ本日からの折伏戦への決起を誓ったのである。
 この後、運営委員長・斉藤善道御尊師より「決意」の発表があり、最後に全員の合唱をもって、大会は閉会した。
 参加者の1人は、「普段の生活の中では右も左も謗法だらけで、ややもすると自分だけが信心しているような気持ちになってしまう。今日は、すれ違う人すべてが法華講員だと思うと、なんだか嬉しくて、勇気が湧いてきた」と、大結集して行なった決起大会の感動を話していた。
 1万人以上が集った大会であったが、会場内では特に混乱はなく、救護班も万全の体制をとっていたが、大きな出番がなかった模様であった。また舞台係や出演者も、本番に最高の力が発揮できたと、大変歓喜していたとのことである。
 かくして、「西日本決起大会」に続き、「九州決起大会」も大成功に終わった。これひとえに、大御本尊の御威光はもとより、御当代・御隠尊両猊下の御慈悲の賜であることはもちろん、僧俗一体となって決起大会に臨んだ赤誠の信心が、諸天の加護を呼んだ結果であろう。


【異常さを増した怨嫉と妨害またしても謗徒らの暗躍が!】
 本大会においても、これを妬(ねた)む謗法の徒輩が、種々の妨害行為をしてきた。
 決起大会の日が近づくにつれ、素性を明かさず寺院に上がりこんで、決起大会の啓蒙状況を探ろうとしたり、講員宅を回って、怪文書を根拠に西日本決起大会の批判をし、大会出席をやめさせようとしたり、と露骨な活動を展開。その活動には、創価学会に魂を取られた離脱僧(学会僧)までもが駆り出されていたというから、哀れなものである。
 また、大会少し前の19日には、宮崎県の僧俗が利用するバス会社の営業所に、何者かからバス爆破を予告する電話があり、警察が出動するともにテレビや新聞で報道される、という異常事態も。
 さらに当日、朝早くから、法華講員の集合場所に複数の学会員が様子うかがいに出没して、不気味なお見送り(?)を受けたところもあった。
 また、両猊下の御身辺を探ろうとする謀略部隊の暗躍も相変わらずで、羽田空港には、視認されただけで5、6名が、手荷物検査場をウロウロ。検査に引っ掛かることを期待していたのであろうが、期待はみごとにハズレ、猊下御一行が無事に搭乗されるや、一斉にその場を立ち去った。
 また、福岡でも、空港からホテル、ホテルから会場と、行く先々に尾行と偵察の要員が何組も待ちかまえていた。
 往路、空港までの高速道路では、6人組の男達が道路脇の草むらから通過する車を必死で撮影。警備の法華講員は、「道路のすぐ脇ですから、ドライバーが人影に驚いてハンドル操作を誤ったりすれば、大事故にもつながりかねない状況で、まさに狂気の沙汰と言うしかない」と、呆れ顔で話す。
 なお、福岡空港では、日顕上人の御一行が到着されるや、それまでロビーで打ち合わせをしたり散らばって様子うかがいをしていた5、6人の面々が、一斉に、異常な勢いで人をかき分けながら御一行に近付く。彼らはことごとく、警備の法華講員にブロックされたが、その中の1人、御一行の背後から突っ込んでいこうとしていた迷彩服姿(!)の男に「学会員か」と訊くと、その男はあっさりと、自分が学会員であることを認めてしまった。しかも、その男は、誰何(すいか)した警備の法華講員(東京在住)の名前まで知っていた様子だったというから、事前の組織的な打ち合わせを窺(うかが)わせるに充分、といえよう。
 学会員は、自分達の信仰が正しいというのなら、なぜコソコソと日蓮正宗の動向を監視し妨害する必要があるのか、一刻も早くこの矛盾に気付くべきであろう。
 ともあれ、我々法華講員は、世の中を真に救うことのできる、富士大石寺の清流に連なることのできた身の福徳を自覚し、自らの尊い使命を果たすべく、明年の御命題達成に向けた本年の大折伏戦を勝利していこうではないか。

[画像]:九州決起大会=1万1,038名が大結集し、完全勝利をもって盛大に開催された。

[画像]:高速道路において、緊急電話の表示の前に立ちはだかり、御一行の車列を撮影する男達。=これは明らかに、道路交通法(第76条・何人も、信号機または道路標識等の効用を妨げるような工作物または物件を放置してはならない)に抵触する行為である。目的完遂のためには違法行為も辞さない実態に唖然!



両猊下御臨席のもと、西日本決起大会を開催
―2月3日、於・京セラドーム大阪―
―僧俗和合の前進を証し、3万3千余名が結集!―
―会場周辺には、正宗の繁栄妬む謗徒らの蠢(うごめ)き―

(『慧妙』H20.2.16)

 2月3日(日)、大阪市西区の京セラドーム大阪(かつての大阪ドーム)にて、「地涌倍増大結集推進・西日本決起大会」が盛大に挙行された。
 この決起大会は、昨年8月、御法主日如上人猊下の御発案により、目前に迫(せま)った平成21年『立正安国論』正義顕揚750年における御命題達成へ向けて、気運を盛り上げ、大折伏戦にいっそうの弾(はず)みをつけるべく、「プレ大会」として全国4ヵ所で開催されることが決定したものである。
 その皮切りとなる西日本決起大会は、中部・関西・中国・四国の15布教区・250ヵを対象としており、総本山以外の会場で開催される集会としては、かつてない大規模なものである。
 御法主日如上人ならびに御隠尊日顕上人の両猊下の御臨席(りんせき)を仰(あお)ぐ本大会を、何としても成功させなければならない。運営委員長・高野法雄御尊師を中心に、当該地域の全僧俗が異体同心・一致団結して、昼夜を分かたず、諸準備と参加啓蒙(けいもう)にあたってきた。
 そして迎えた大会当日。この日、日本全国を寒波が襲い、とくに関東地方は全国ニュースになるほどの雪に見舞われたが、幸いにも大阪方面は、未明にぱらついていた雪も雨に変わり、一部地域を除けば交通手段に大きな支障は出なかった。
 雪の影響が最も心配された名神高速道路の関ヶ原付近ですら、難なくクリア。名古屋方面から大阪を目指す団体バスには、運営本部に詰める御僧侶から道中を案ずる電話が入るが、「大丈夫です!予定どおり向かっています」と答える声に、車内の法華講員も沸(わ)きかえる。こうして参加者は、指折り数えて迎えた決起大会に胸を躍(おど)らせつつ、続々と京セラドームに集(つど)ったのである。


【大成功だった初回決起大会】
―御命題達成へ向け飛躍誓う―
 この日の結集は、最終的な集計によると3万3千余名。広いドームの中は、アリーナ席・2階席・3階席と法華講員で埋め尽くされ、定刻の午後12時50分、第1部が開始された。
 日如上人・日顕上人の両猊下がお出ましになると、場内は温かな喜びに満ちあふれ、感極まって目頭を押さえる人も。
 第1部では、地元関西の青年部の和太鼓、婦人部のコーラス、法華講連合会ブラスバンドや鼓笛隊の演奏が披露(ひろう)された。この日のために唱題根本に真剣な練習が重ねられてきた各演目は、決起大会の大成功を祝う素晴らしいもので、参加者一同の心に強く焼きついたのであった。
 小憩をはさんで、いよいよ決起大会の第2部。再び両上人がお出ましになり、「躍進」と大書された舞台上にお揃(そろ)いになると、会場全体は厳粛な空気に包まれた。
 第2部は、初めに司会の西岡雄信御尊師によって開会が宣せられ、以下、河原昭太郎・運営副委員長の「開会挨拶」、妙宝寺支部・針尾知子さんの体験発表、少年・青年・婦人・壮年の各部代表による決意発表、柳沢委員長の「激励」と続き、次に総監・八木日照御尊能化より「挨拶」が述べられた。
 そして、御法主日如上人猊下より甚深の御指南を賜(たま)わる。
 御法主上人猊下は、『立正安国論』の深義について懇切に御指南あそばされ、邪智謗法の害毒によって乱れきった世の中と一切衆生を救済すべく大折伏戦を展開し、明年の『立正安国論』正義顕揚750年における「地涌倍増と大結集」の御命題を完遂(かんすい)すべし、と大獅子吼(ししく)の御指南を下された。
 御指南の後、御法主上人猊下大導師のもと御題目を三唱。会場を埋め尽くした3万超の僧俗が唱和した題目は、末法の闇を照らしゆく厳(おごそ)かな妙法の唱えであり、同時に、御指南のまま折伏に挺身(ていしん)する決意の発露(はつろ)であった。
 最後に運営委員長・高野御尊師より力強く「決意」が述べられ、全員で大合唱して、決起大会は歓喜の中に閉会した。
 会場内で救護の任務にあたった方の話によると、当日は急病人や不測の怪我などに備えて、4名の医師(いずれも法華講員)が待機し、救護班も万全の体制を敷いていたのであるが、救護室は、微熱や軽い腹痛、あるいは赤ちゃんの授乳に数名が利用した程度で、ほとんど出番は皆無に等しかったとのこと。メンバーは、「3万人以上も集まったのに、考えられないことだ。本当に護(まも)られている」と、しみじみ話し合ったという。
 かくして、決起大会の初陣(ういじん)「西日本決起大会」は、両上人猊下の御慈悲に包まれて大成功、大勝利を収めることができたのである。


【不発に終わった学会の謀略】
―哀れな姿に正邪の違い歴然―
 一方、正法正義の興隆を妬(ねた)む創価学会の輩(やから)は、決起大会の日が近づいたころから、いつものように、法華講員宅に怪文書を投げ込んだりの妨害行為や嫌がらせをしかけてきた。また当日の入場券を何とか手に入れようと、「売ってほしい」と法華講員に頼み込んでくる学会員も。
 しかし、当然のことながら、これに動ずる法華講員などいるわけがない。怪文書を投げ込むところを見つかり、法華講員から叱(しか)られてコソコソと逃げ帰ったり、あるいは、法華講員を装って「決起大会は中止です」との電話をかけてきたものの、すぐに学会員と見破られ、「あなた学会員でしょ?」と詰問(きつもん)され、慌(あわ)てて電話を切る始末。
 さらに、日如上人と日顕上人が乗車された新幹線では、停車駅ごとにおびただしい数の学会員が配置され、また、ホテルから会場への移動の際は、数台の車で執拗(しつよう)な尾行を展開。大会の開催中も、会場周辺を偵察して回る多くの学会謀略部隊が、警備の法華講員によって確認されている。警備の法華講員達によれば、「今までにないくらい、多くの謀略部隊が出没していた」そうだが、何の益もない行動にコソコソうごめく学会員らは、自分達の哀れな姿にいいかげん気づくべきであろう。
 いずれにしても、我々法華講員は、混迷の世の中の光となるべく、いよいよ明年の御命題達成に向け、大折伏戦を展開していこうではないか。

[画像]:第1部=上→右高校生を中心とした25名の若者による力強い和太鼓の演奏。曲目は「光の道」 下→581名の婦人部員が会場の参加者に向かって「さあ、折伏に立ち上ろう」との思いを込めて歌い上げた(『大白法』H20.2.16)

[画像]:第2部全景=西日本各地から集った3万3千名を超える地涌の友は、「今日ただ今より、御命題達成へ向けてさらなる大前進を」との折伏大号令を御法主日如上人況下より賜った(『大白法』H20.2.16)

[画像]:アリーナ席前列の所化さん(『大白法』H20.2.16)

[画像]:第2部演壇(『大白法』H20.2.16)

[画像]:フィナーレ=最後に会場が一体となって「唱えてゆこう妙法を」を大合唱。演奏は9地方部の鼓笛隊とブラスバンドが受け持った(『大白法』H20.2.16)



「地涌倍増を目指して」
―東京都品川区 妙光寺―
―2講中が切磋琢磨して前進―
―毎月、合同で折伏座談会も―

(『慧妙』H19.11.16)

 近代的な大型ビルが次々と建築される大崎駅前から数分も歩くと、住宅街が広がる。その一画にある妙光寺は、緑に囲まれてひときわ威容を放っている。
 妙光寺は、明治28年(1895年)、総本山第55世日布上人を開基と仰ぎ、広布院日奘贈上人が近隣の信徒と共に現在地に建設したことに始まる。寺号は、遠く元和2年(1616年)、第15世日昌上人によって駿河国(現在の静岡県)駿東郡浮島に創建された妙光寺を移したものである。


【尾林御住職のもとに異体同心】
 妙光寺には現在、長い歴史を有する法華講妙光寺支部と、近年の創価学会問題を契機として結成された正道講支部の2つの法華講中があり、御住職・尾林日至御尊能化の御指導のもとに両講中が異体同心、切磋琢磨しあいながら、日夜、折伏弘教に邁進(まいしん)している。
 毎月1日には、午後7時からの「広布祈念唱題会」終了後に両支部の連絡会議が行なわれており、折伏の作戦会議の場となっている。
 妙光寺支部には金子正広講頭を委員長とする「折伏実行委員会」が設けられ、講中役員すべてが委員に任命されている。また正道講では「折伏推進委員」が選定されている。各委員は、率先垂範をモットーに折伏戦の先頭に立つ。
 妙光寺の折伏戦のメインは、第1日曜日の「広布唱題会」に引き続いての活動である。この日、両支部が全力をあげ一丸となって折伏に打って出るのであるが、その原動力となっているのが、尾林御尊能化が毎月執筆される『妙光寺通信』(通称「3種の手紙」)である。
 これは、平成16年から毎月、広布唱題会の日に発行されているもので、内容は、1に「法華講員の皆様へ」、2に「創価学会員の皆様へ」、そして3は「正しい宗教に関心をお持ちの皆様へ」となっている。これが折伏や講中内部の家庭訪問において、たいへん強力な武器となっており、御住職は「百回まで続ける」とおっしゃっているとのことである。
 ちなみに、創価学会では、尾林御尊能化が御病気になったとして『創価新報』等で口汚なく中傷しているが、このように毎月「3種の手紙」を執筆され、お元気で両支部の御指導に当たっておられるのである。また、御療養中ではあるが、回復は順調で、取材当日も2時間以上にわたって同席くださった。また、本年は、信徒が連れて来た人や御自身の縁者の方を2世帯3人、折伏して入信に導いてもおられる。
 さて、日頃から異体同心を旨(むね)とする妙光寺支部・正道講支部の両講中は、毎月1回、合同で折伏座談会「春の会」を開催している。「冬は必ず春となる」との御金言から名付けられたこの座談会は、両講中が交替で企画を担当しているという。
 時には学会の大幹部や創価大学生が法華講員に連れられて参加し、法論の場となることもあったというが、本年8月には、参加した5人の折伏対象者が全員決定(けつじょう)し、即、御授戒・勧誡を受けて法華講員となった。


【近隣学会員の哀れな姿】
 周辺では、ご多分に漏れず、多くの学会員に仏罰の現証が現われている。京浜急行に飛び込み自殺をした大幹部をはじめ、経営していた会社がつぶれたり、重い病気を患ったり、といった話は枚挙にいとまがない。以下に数例を挙げる。

◆学会の間違いに気づきながらも脱会しきない学会員が法華講員に打ち明けたところによると、学会の中では、とくにニセ本尊に交換した人に急死などが多いので、驚いているとのことである。
◆ある地域では、夫が若くして亡くなっている学会員宅が異常に多く、地元住民の噂になっている。住所にしてわずか2つの丁目ほどの狭い範囲で、少なくとも8世帯はあるとのことである。
◆品川区のある学会大幹部の話。その大幹部は、今から5、6年前、妙光寺の法華講員に自筆で「妙光寺では墓を5○○基も壊した」とか「日顕上人は孫の結婚式に十億円もの大金を費やした」等々と書いた手紙を送りつけてきた。もちろん、そのような事実はなく、あまりのデタラメさに尾林御住職が直接、この者に電話をされたが、本人は頑として改めない。その上、数日後には学会青年部を連れて妙光寺へ押し掛けてきて、手紙を取り返そうと大騒ぎをした。この大幹部は、その2年ほど後にガンで死亡した。
◆妙光寺支部で地区婦人部長として活躍する荒井カツミさんは、ある学会員に家を貸していた。その学会員を再三にわたって折伏したところ、返答に窮した学会員は、ある時、「仏法は勝負だから、現証で勝負しよう」と言い放った。それから半年も経たないうちに、その学会員は商売が破綻(はたん)し、家賃も払えなくなって夜逃げしてしまった。その後、何人もの借金取りが、逃げた学会員の所在を確認するために荒井さん宅を訪ねてきたという。
◆正道講支部の諏佐清治講頭が学会教宣部の者と話した際、その教宣部員は「夜逃げなんてザラだ」と、学会の実態をポロリとこぼしていたそうである。

現今の学会の邪信ぶりは、学会員の言動においても顕著である。法華講員が見聞きした驚くべき実態を以下に記す。

◆ある品川区内の支部婦人部長は、妙光寺の受付に来た際、自分の胸を親指で指さしながら「御本尊は胸中の肉団にある。だから私が御本尊よ、私を拝みなさい!」と。
◆横浜の学会員が法華講員に対して「本門戒壇の大御本尊が根本だというなら、文証を出せ!」と。学会の中では、すでに大御本尊否定が既定路線になりつつある様子がうかがえる。
◆宗門と学会のどちらが正しいのか、迷っていた学会員が、正邪を確かめるべく、久々に学会の会合に出てみたところ、会合は池田大作礼讃に終始。その人は、「いったい、日蓮大聖人様と池田先生の、どちらが大事なのか」と質問をした。すると、幹部がはっきりと「池田先生です」と返答したという。この人は、それで学会に愛想が尽きて脱会し、法華講員となった。


【法論から逃げ回る謗徒ら】
 さらに、学会の情けない姿も、いろいろと聞くことができた。
 品川区の学会では「法華講員と話すな」との指示が出ているらしく、法華講員が折伏に行っても逃げに徹しているという。ここ数年は、法論の約束を取り、人数・日時・場所等まで決めても、直前になると断わってくるということが続いている。理由を尋ねると、「忙しいから」という返事。「では、いつならいいのか」と問うと、「当分無理」。中には「今ここに幹部が来ていて、法論してはダメだと言っている」と、本当のことを言ってしまうケースもあるという。
 妙光寺の法華講員は、学会に対してだけでなく、顕正会に対しても大いに折伏を行なっているが、こちらも学会と同様、法華講員との対話を避けているようである。
 ある時、都内の顕正会青年部の幹部と折伏の約束をしたが、いつまで待っても連絡が来ない。確認してみると、「今、顕正会では折伏強化月間であり、忙しいのであなた方とは話ができない」との言い訳をしてきた。折伏月間≠ネらば、なおのこと法華講員と会えばよかろうに、彼らにとって折伏≠ニは何なのであろうか。
 また、ある時などは、2名の顕正会員が、創価学会員を装って(!)論難をふっかけてきた。話しているうちに顕正会員であることが判明したので、法華講員が「あなた達は、顕正会員であることが恥ずかしくて隠しているのか」と追究したところ、その人達は小さくなって「すみません」と謝るばかりだったという。
 顕正会は、日蓮正宗から破門(昭和49年)される前は、妙光寺に所属する法華講中であったことから、法華講員の中には、会長・浅井昭衛の昔を知る人も何人かいる。その中のある方が、顕正会員に対して「浅井昭衛が信心を嫌がってグズグズ言っていた頃のことなど、いろいろ話してあげるから、いつでもおいで」と言っても、誰も来ないという。
 このように、2つの講中が活発な活動を展開しているので、妙光寺は毎日、夜遅くまで法華講員の出入りが絶えない。
 妙光寺支部では本年度、5月に1度に12人の勧誡・御授戒があったのを含め、10月末現在ですでに、昨年の年間折伏成果よりも10世帯も上回る成果を出しており、大いに意気が上がっている。
 正道講支部は「原点に帰ろう。役員が先頭に立とう」と励まし合ってきた結果、折伏に立ち上がる人が増えているのこと。諏佐講頭は以前から克明な折伏活動の記録ノートをつけているが、御僧侶とともに車で学会員宅の折伏や内部の激励に東奔西走してきた記録が光る。この活動により学会を脱会した人もたいへん多く、この戦いは尾林御住職から「キャラバン隊」と命名をいただいているそうである。
 また、妙光寺で運営するホームページがたいへん充実しており、折伏・育成に大いに役立っている。このホームページが縁となって折伏が成就したケースも数多いという。(アドレスはhttp://www.myokoji.jp/ で、『妙光寺通信』〈3種の手紙〉も、過去から最新のものまですべてアップされている)。
 この他、妙光寺の受付には、日曜日の早朝勤行でのご指導をまとめた「日曜講話」の冊子など、信心倍増と折伏に役立つたくさんの資料が常に用意されている。
 最後に、取材に応じてくださった講中役員の方々に一言ずつ述べていただいた。
 「誓願した折伏の目標を下げるなどということは断じてできません。しっかりと精進していきます」(妙光寺支部・金子講頭)
 「学会員は謗法の恐ろしさに気づいていないし信じていない。しっかり折伏して、仏罰の恐ろしさを教えていきたい。また、内部の活動としては、墓檀家の方々などに大いに家庭訪問をしていきます」(妙光寺支部・松島量子副講頭)
 「品川区の学会員、とくに教宣部、逃げるな。折伏に応じなさい!」(正道講・諏佐講頭)
 「創価学会などの邪宗がはびこり、世の中が良くないのは、我々法華講に大いに責任があると思います。もっとしっかり折伏をしていきましょう!」(妙光寺支部・荒井さん)
 尾林御尊能化のもと、妙光寺支部と正道講支部、両支部の法華講員は、異体同心の団結で地涌倍増の闘いを活発に展開しているのである。



折伏の連鎖で活気づく講中
―秋田県湯沢市 本要寺―
―正信会からの脱会相次ぐ!―

(『慧妙』H19.10.16)

 本要寺は、秋田県の南部、豪雪と稲庭うどんで有名な湯沢市に所在する。
 本要寺の建立は昭和62年12月、法華講は、平成5年6月に結成され、28世帯からのスタートであった。現在の御住職・小竹正素御尊師が、第4代住職として赴任されたのは、平成15年12月である。
 同市内には正信会に占拠された寺院があり、そこから脱会した人達もまた、現在の本要寺法華講の中枢を担う人材として活躍している。


【始まった折伏の連鎖】
 平成17年に入講した三浦幸子さんもその1人である。
 三浦さんは、20数年にわたって正信会に在籍していたが、宗門の悪口に終始する正信会僧の話にウンザリし、耳をふさぐようになっていた。当時のことを次のように語る。
 「正信会の寺の住職の話は、法を説くなどということはなく、荒々しい言葉で誹謗中傷を繰り返すばかり。これが人を導くべき立場の人の話かと、その人間性に失望してしまいました。そして、正信会の信仰そのものにも疑問を抱くようになり、『正しい信仰をさせてください』と、毎日祈り続けました」
と。
 そのような中の平成16年の暮れ、三浦さんは、本要寺・小竹御住職とHさんの訪問を受けたのである。Hさんは正信会時代の友人だったが、その時はすでに、本要寺に所属する法華講員となっていた。
 三浦さんは、折伏されて話は分かったものの、これまで宗門批判をさんざん聞かされてきただけに、拒絶反応の気持ちが強く、どうしても素直な心になれなかったという。
 しかし、その頑(かたくな)な心を打ち破ったのは、小竹御住職とHさんの2度3度にわたる訪問であった。
 そして三浦さんは、初めて折伏されてから半年後の平成17年6月、御主人はもとより、息子さん・娘さん・弟さんのそれぞれの家族、4世帯9名で本要寺の法華講員となったのである。
 初めて本要寺を訪れた時の印象を、三浦さんは、次のように語る。
 「本堂に入るなり、なんと空気が澄んでいることか、とビックリしました。それまで通っていた正信会の寺とは、空気からして、まるで違っていたのです。正しい信心でお題目をたくさん唱えていると、こうも違ってくるのか、ということを肌身に感じ、ただただ感激でいっぱいでした。」
 法華講員となってからの三浦さんは、総本山にも幾度か参詣してきたが、その中でも、
 「かつて正信会に毒され、血脈に疑問を抱いてしまっていたことを、御法主上人猊下にお詫び申し上げたい気持ちでいっぱいになりました。そして、今までの自分を悔い、心の中でお詫び申し上げました」
と語る。
 純粋な信心に立ち返った三浦さんは、昨年11月に、正信会時代の知人である下山さん一家を正しい信心に導き、さらに、その下山さんは本年5月に、やはり正信会員であった石成さん夫婦に対する折伏を成就させた。
 このように、正信会からの脱会帰伏の連鎖が続き、また、帰伏した皆さんが喜んで信心に励んでいることから、本要寺法華講は、弥(いや)が上にも活気づいたのである。
 今、三浦さんは、
 「自分自身、正信会で生命に刻んでしまった害毒・罪障を、1日も早く消していかなければならないと思いますし、また、今も汚れの中にいる正信会員を1人でも多く、正しい信心に導いていかなければならない、と思っています」
と、爽やかに語る。


【活動を支える原点】
 さて、こうした本要寺法華講の活動を支えている原点は、何と言っても、小竹御住職の熱意と、「唱題の実践」の督励にある、といえよう。
 法華講としては「1日1時間以上の唱題」を合い言葉にし、寺院では、「広布唱題会」はもとより、毎週火曜日と木曜日の唱題会、そして、毎日午前9時からの唱題会も設けている。
 また、広布唱題会・御報恩御講・広布推進会を「月の3大行事」と定め、壮年部・婦人部・青年部ごとにそれぞれの結集目標を設定して、参加を推進している。達成できなかった月は、月末の役員会で、各部長を中心に反省会をする。小竹御住職は、
 「この目標数を設定しての取り組みを始めてからは、推進する側に使命感と責任感が芽生え、工夫や改善すべき点などが考えやすくなったように思います。もちろん、数だけに追われることのなきよう、参加の意義等、信心活動の本質を常に確認しあっていくことも大切だ、と考えております」
と語る。


【「衣座室の三軌」を体し】
 折伏活動として、一昨年は、学会員に対し、『折伏教本』を33種類に小分けしたプリントを作成し、週に1度、学会員宅に配布する活動を続けた。
 当然のごとく、学会の幹部達は、それをやめさせようとして、本要寺や法華講員宅に押し掛けてきたが、誰一人として怯(ひる)むことなく、最後の33枚目まで配布し終えたのである。
 このプリント配布の活動について、小竹御住職は、
 「これによる直接的な折伏成果はありませんでしたが、唱題して祈り、たゆまず活動していれば、思いもよらぬところから折伏の縁が出てくる、ということを学ぶことができました」
と語っているが、冒頭に紹介した、三浦さん一族の帰伏から始まる折伏の連鎖も、その功徳によるものだった、といえよう。
 昨年からは、大石寺発行のリーフレットや『正しい宗教と信仰』を携え、手分けしての訪問折伏を敢行してきたが、本年は、8世帯の年間折伏目標に対し、今現在、学会からの帰伏や一般からの入信も合わせて、6世帯の折伏成就を見ており、達成は目前まできている。
 現在、本要寺法華講は78世帯。小竹御住職は、
 「昨年の年初、日如上人猊下は、『衣座室の三軌』を心得て折伏に臨むべきことを御指南くださいましたが、常にその御指南を身に体し、僧俗和合・異体同心して、まずは本年の折伏目標を達成したいと思います」
と、決意を述べられた。



仏生山蓮華寺が宗門に復帰
―大阪市淀川区―
―厳粛に復帰奉告法要行われる―
(『大白法』H19.7.16/<妙音>WS)

 7月7日、大阪市淀川区の仏生山蓮華寺において、復帰奉告法要並びに第2代住職・長坂慈精御尊師の入院式が厳粛に奉修された。これは、元住職の久保川法章に約25年間にわたって不法に占拠されていた蓮華寺が、平成18年10月28日宗門に返還されたことによるものである。
 蓮華寺は、昭和40年11月5日、総本山第66世日達上人の大導師のもと、復興新築入仏落慶法要が執り行われた。しかし、元住職の久保川は創価学会の昭和52年路線・教義逸脱問題を起因とした自称正信会問題の中、本門戒壇の大御本尊並びに唯授一人の血脈相承を否定する異説を唱えた。これにより、久保川は昭和56年2月9日付をもって擯斥処分に付され、これまで当寺を不法に占拠していたが、このたび当寺が宗門に明け渡される運びとなったのである。
 復帰奉告法要並びに住職入院式には、菅野日龍御尊能化、海外部長・漆畑行雄御尊師、庶務部副部長・斎藤栄順御尊師、大阪布教区支院長・高野法雄御尊師、同副支院長・柳坂幹道御尊師をはじめ布教区内外の御僧侶方が御出席。また、大阪地方部より茂山地方部長、住田利治副地方部長、守家末広副地方部長、さらに大阪布教区内の支部代表信徒220名、また蓮華寺の川口順総代をはじめ蓮華寺信徒多数が参列した。
 入院式は午後1時より奉修され、はじめに新住職の長坂御尊師の導師により、献膳の儀、読経、唱題と奉修された。次に、高野支院長より新住職の紹介、並びに経過報告を交えての祝辞が述べられ、続いて漆畑海外部長、川口総代より、それぞれ祝辞が述べられた。最後に、長坂新住職より参列の各位に対して丁重な謝辞と今後の決意が披瀝された。こののち、本堂において記念撮影が行われ、復帰奉告法要並びに入院式はとどこおりなく終了した。
 なお、昨年10月28日には返還の読経・唱題が修され、入院式の当日午前10時より、座替り式を奉修。さらに、柳坂副支院長、総代等の立ち会いのもと、事務引き継ぎが行われた。また当寺は、淀川区の妙栄寺から信徒の一部が移籍して蓮華寺所属信徒となり、宗教活動が再開された。



鈴鹿山光徳寺が宗門に復帰
―三重県鈴鹿市―
―元所属信徒の勧誡式・入講も―
(『大白法』H19.7.16/<妙音>WS)

 6月27日、これまで自称正信会の者に不法占拠されていた三重県鈴鹿市の鈴鹿山光徳寺が25年ぶりに宗門へ返還された。
 当寺は、昭和50年3月4日、総本山第66世日達上人の大導師のもと落慶入仏式が執り行われ宗教活動が開始された。しかし、創価学会の昭和52年路線・教義逸脱問題の中、元住職の林律道が自称正信会の者たちと共に本宗の金口嫡々唯授一人の血脈相承を否定し、御法主上人猊下を誹謗したのである。これによって、林は昭和57年8月21日付で擯斥処分に付されたが、これまで当寺を不法に占拠していた。そして今般、本人の死亡を機に宗門に明け渡される運びとなったのである。
 返還の当日は、当寺の兼務住職である仏境寺住職・原道準御尊師が赴任し、返還の読経・唱題が修され、宗門に復帰した。翌28日は復帰の作業が行われ、次いで、午後7時より当寺元所属信徒に対して説明会が行われた。引き続き当寺所属希望者の勧誡式が修され、8名が入講した。
 また、7月6日午後1時より、新たに着任された当寺第2代住職・大場一正妙御尊師の入院式が執り行われ、宗教活動が再開された。入院式には大村日統御尊能化、庶務部長・阿部信彰御尊師、渉外部副部長・梅屋誠岳御尊師、中部布教区支院長・佐々木慈啓御尊師をはじめ布教区内外の御僧侶方が御出席。また、中部地方部より太田地方部長をはじめ代表信徒多数が参列し、厳粛かつ盛大に奉修された。これを機に、擯斥僧侶により不法占拠されている各地の寺院が、早く宗門に返還されることが望まれる。



大乗山善福寺が宗門に返還
―東京都世田谷区―
―法道院正蓮講支部が移籍し再出発―

(『大白法』H19.7.1)

 平成19年6月5日、自称正信会の者に不法占拠されていた東京都世田谷区の大乗山善福寺が25年ぶりに宗門へ返還された。当寺は、昭和43年4月19日、総本山第66世日達上人の大導師のもと落慶入仏式が執り行われ宗教活動を開始した。しかし、創価学会による昭和52年路線・教義逸脱問題の中、元住職の原田知道が正信会の者たちと共に本宗の金口嫡々唯授一入の血脈相承を否定し、御法主上人猊下を誹謗したのである。これによって、原田は昭和57年8月21日付で擯斥処分に付されたが、これまで当寺を不法に占拠していた。しかし、このたび、本人の死亡を機に当寺が宗門に明け渡される運びとなった。
 当日は、渉外部長・秋元広学御尊師、庶務部副部長・斎藤栄順御尊師、渉外部副部長・梅屋誠岳御尊師、東京第2布教区支院長・野村淳信御尊師の立ち会いのもと、当寺の住職である木村信龍御尊師が赴任し復帰の作業が進められ、引き続き、返還の読経・唱題が修された。
 また、東京第1布教区法道院から法道院正蓮講支部が移籍して当寺の所属信徒となり宗教活動が再開された。
 現在もなお、擯斥僧侶により不法占拠されている寺院が全国に多数あり、1日も早くすべての寺院が返還されることが望まれる。



闘う法華講≠ネらではの活気
―福岡県北九州市 法霑寺―
―「目標は必ず果たす」の信念で―

(『慧妙』H19.5.16)

 法霑寺は、前身を八幡教会所といい、明治19年、九州開導の師・妙寿日成貴尼(佐野広謙尊尼)の発願によって開設された寺院である。
 異流義(堅樹派)から帰伏した妙寿日成貴尼は、第52世日霑上人の弟子となって、堅樹派の僧俗を次々に改宗せしめるとともに、さらなる折伏弘教を志して京都から九州に渡った。そして、信徒達と共に、福岡県遠賀郡水巻頃末町に八幡教会所を設立したのである。現在地の北九州市八幡東区帆柱町に移転されたのは大正7年のことである。
 平成2年12月には、現御住職・秋山日浄御尊能化が赴任され、当初から法華講員の育成に尽力されると共に、御尊能化自らが陣頭指揮に立って折伏を督励してこられた。それによって、法霑寺の法華講には創価学会からの入講者が後を絶たず、その陣容はいやましに拡大した。また、受け入れる側の法華講の態勢が盤石であったことから、学会からの入講者も、スムースに僧俗和合の信心を身に付けることができ、皆が嬉々として信心に励んでいるのである。

【明確な方針のもとで異体同心】
 講中における毎月の指針は、役員会(「布教会本部会」)で企画して、「布教会」(毎月25日。役員および活動者の会合)で発表する。これによって、活動方針が明確にされ、その指針のもとに講中全体で活動をしていくのである。
 特に折伏については、2月が「伝統の2月大折伏戦」、4月が「立宗会大折伏戦」、7月が「立正安国論大闘争」と銘打たれ、この3ヶ月の活動は折伏一本で、御住職の指揮のもとに折伏の布陣を敷き、各部隊長(在勤御僧侶と各部長)を中心に明確な目標を立てて、その数を必ず達成するように取り組んでいる。ちなみに、秋山御尊能化が御住職になられてからの15年間は、毎年、年間の折伏目標を突破している。
 副講頭の薙野伸一氏は、
 「御尊能化よりは、『闘いで大事なのは、第1が、大将の一念と確信ある闘いであり、第2が、各大隊長(在勤者)・中隊長(正副部長)・小隊長(地区長)の異体同心と情熱・歓喜の闘いです』と御指導いただき、それに従い、折伏強化月間の時は、全地区一丸となって折伏に当たっています。具体的には、毎朝、秋山御尊能化の御導師で勤行唱題をし、終わってから御書を拝読して御指導を受け、その中で折伏の必要性や臨む姿勢を教わり、その後、部隊ごとに分かれて折伏に出て行きます。
 期間中、寺院に連れてきた対象者については、御尊能化もしくは在勤御僧侶がいつでも折伏の手伝いをしてくださいます。時には、相手の仕事の関係で連れてくるのが深夜になる、ということもあるのですが、そういう時でも待っていてくださって、折伏が終わったら日付が変わっていた、なんていうこともしばしばです」
と、楽しそうに語る。
 法華講員の折伏活動は、県内だけに止まらず、九州一円はもとより、大阪・東京にまで及び、中には北海道まで出向いて折伏を成し遂げた事例もある。
 今年4月の折伏戦では、青年部が、「学会突撃訪問」と銘打ち、区内のある地域の団地をくまなく廻り、学会員を折伏した。その際、「日顕宗!」などと、憎悪をむき出しにして罵声を浴びせてくる学会婦人部に対しても、法華講員達は冷静に対応して、堂々と破折。そうした中で、帰伏する学会員も現われている。
 このように、眼前の一凶たる創価学会への折伏には特に力を入れており、その一環として、講中では「池田教対策本部」を設置している。その主な目的・活動は、迷える学会員の救出、学会からの嫌がらせ対策、一般世間へ学会の悪の実態を知らしめる活動などである。
 この活動について薙野氏は、
 「毎月10日に対策座談会を設けていますが、その中で、池田教に対する折伏の在り方等を、質疑応答形式で御尊能化に教えていただき、その御指導の一つひとつが、学会対策の大きな武器になっています。
 秋山御尊能化は常日頃から、『信心とは、観念観法ではなく、事行として現わすものでなければならない。身に実践し、体験・証明していくことが大事である』と言われ、どこまでも折伏を中心とした指導育成を進めておられるんですよ」
と、法霑寺の法華講員たる誇りと気概に満ちた表情で語る。

【学会員のお粗末な行動】
 この法霑寺法華講の果敢な折伏戦に、学会は戦々恐々とし、時には怪しげなワゴン車が数台、寺院の周りに駐車し、車内から寺院に出入りする人を監視していることもあるという。
 いささか旧聞に属する話だが、創価学会問題が勃発した当初の平成3年3月13日、学会青年部が4、5百名、御講の時間に合わせて法霑寺に乗り込んできたことがある。この時の様子を、その現場にいた法華講員は、
 「学会青年部らは、皆、黒い服に黒いネクタイの同じ格好で、後で乱闘事件になったとしても、誰と特定できないようにしていたのでしょう。皆、肩を怒らせ、参詣の信徒を威嚇(いかく)しながら、暴力団の殴り込みのような雰囲気でお寺に入ってきて、そのまま御講の席に座りました。
 私達は、いったい、何が始まるのかと思っていたのですが、御住職はまったく意に介さないように御法話を始められました。学会員らは、秋山御尊能化の迫力ある御法話に、なかなかタイミングを掴めなかったようですが(笑)、途中で、1人が力なく手を挙げてヒョロッと立ち上がり、『質問…!』と切り出したのです。そして、例の『時の貫主と雖も…』の日興上人遺誡置文の一説を出して、猊下批判を始めました。それに対し、秋山御尊能化は泰然自若(たいぜんじじゃく)として、時には笑みを浮かべながら、学会員らの難癖(なんくせ)の全てを完膚無きまでに打ち砕かれたのです。
 最後には、御住職が『もっと法論をしよう』と言われているのに、学会員らは『もう、けっこうです』と言う始末で、『来る所を間違った』と、来た時とは全く違う、まるで敗残兵のような格好でスゴスゴとお寺から出ていきました」
と、苦笑しながら述懐する。
 当時はまだ、御講に参詣する学会員もいた時期であり、まじめな気持ちで参詣していた学会員達は、学会青年部の暴挙を目の当たりにし、「これが学会の真の姿!」と見切りを付けて、一気に脱会に踏み切ったそうである。
 この時の苦い経験から現在の創価学会は、法霑寺法華講の折伏に恐れおののきながらも、表立っては手が出せず、地団駄(じだんだ)を踏んでいる、といったところだろうか。

【悲惨な学会員の姿に身震い】
 この地でも、学会員の身に現われた仏罰の現証は枚挙にいとまがない。
 大々的なニュースになったところでは、10年ほど前、福岡空港で飛行機が離陸に失敗し、死傷者が出る、という事故が発生した。亡くなった3人の中の1人は学会員で、本来、座るはずでなかった座席に移動したために、不運な結果になった、ということである。
 その親を法霑寺の法華講員がよく折伏していたのだが、親は「私は池田先生と地獄に堕ちてもよい」と言っていたという。「もし、素直に話を聴いて脱会していれば、子供さんをこんな不幸な目に合わせずに済んだのに」と、折伏していた講員は大変残念がっている。
 その半年ほど前には、女子中学生が、つき合っていた彼氏から路上で刺し殺される事件が起きた。その犯人はシンナー中毒者で、刺し方も表現できないほど残忍なものだったが、地元テレビのニュースでは、学会専門の葬儀社による学会葬の模様が映し出された。
 また、学会を脱会して法華講員となったSさんの身近で起こった話だが、Sさんが学会をやめたその日、地元の学会幹部が家に押し掛けてきて、「なぜやめた」「地獄に堕ちるぞ」等と脅してきた。もちろん、Sさんは毅然として取り合わなかった。すると、その日の夜のこと、その押し掛けてきた幹部の家に、運転を誤ったダンプカーが突っ込んで、家がメチャメチャに壊れてしまったのである。それを見て、Sさんは「学会をやめたことは間違いじゃなかった」と確信した、という。

【「闘う法華講たれ」の指導のもとで】
 全国布教師会会長でもある秋山御尊能化は、教区においても常に、
 「各講中が、宗開両祖のもとに団結して謗法と闘った弘安の昔・熱原法華講≠フ原点に還り、正法護持のため、不自惜身命で闘う法華講∞活動する法華講支部≠ノならなければならない」
と指導されているが、法霑寺御住職としては、
 「その先駆けの使命が、当支部にあるのだ」
と厳しく言われている。そして、特に講中幹部には、「饒舌(じょうぜつ)の徒になるな!」と、つまり、きれい事を言って満足するのではなく、自らが実践をして初めて価値があるのだ、と指導されている。
 それを受け、上田宏講頭も、大講中を率いる身として御尊能化の御指導を常に身に体し、師弟相対の信心を前面に出して講中をまとめているが、その上田講頭は、
 「平成21年を間近に控え、本年は、いよいよ内外の魔が強くなる年と心得て、御法主上人猊下よりの御命題を達成するべく、日々精進しています。掲げた目標については、御尊能化から、『絶対に途中で投げださず、最後まで成し遂げることが大事だ』と教えられてきました。こうした、厳しくも有り難い御指導のもと、今年もその闘いは続いています」
と力強く語っている。まさに闘う法華講≠ネらではの、力強さと結束力を随所に感じさせる講中――それが、法霑寺法華講である。

[画像]



■学会もおののく驚異的な脱会者数
―岐阜県美濃市 本玄寺―
(『慧妙』H19.4.16)

【たゆまぬ折伏に諸天の加護も厳然】
 本玄寺が在る岐阜県美濃市は、濃尾平野の最北端、日本のほぼ中心部にあり、人口は2万あまりの小さな行政区であるが、近年は特に交通網が発達し、本玄寺は、最寄りの美濃インターを利用すれば県内の9ヵ寺全てに1時間ほどで行ける、大変利便性に富んだ場所に位置している。
 本玄寺は、明治27年、総本山第57世日正上人を開基として建立された寺院で、113年の歴史を持つ。法華講員の数は、平成2年に創価学会問題が起こる以前は、わずか50世帯であったが、現在は480世帯にまで増えている。
 この驚異的な増加は、それだけ創価学会からの帰伏者が多かったことを物語るが、これについて講中役員は、
 「田舎の小さな講中がここまで成長できたのは、御住職・諏訪涼道御尊師のもとに、講中が異体同心し、日々たゆまぬ唱題行の実践と、地道ではありますが、毎月の講中あげての折伏活動、毎月の地区ごとに実施される宅御講、また機関誌『本玄寺だより』(現在227号)の発刊を通して御尊師の指導の徹底を図ってきた結果の現われでもある、と思います」
と述懐する。
 唱題行においては、諏訪御尊師自らが、平成17年の元旦より「立正安国論正義顕揚750年」に向けて1千万遍の唱題を決意され、日々実践されているが、それに続かんと、婦人部のTさんは、5百万遍唱題を決意。その結果、Tさんは御主人の病気をみごとに克服され、法統相続も叶えることができた。
 このTさんの体験を通しての呼び掛けにより、講中には、それぞれ明確な目標を持って唱題し、もって御恩にお応えしようとする機運が確実に高まってきた。


【講中挙げて学会員を折伏】
 唱題会は、新6万塔建立の年に当たる平成6年より、曜日ごとに担当地区を決め、毎日欠かすことなく実施し今日に至っている。また、毎週日曜日には、午前6時からの早朝勤行に集まり、その後、御書拝読をしている。さらに毎月の勉強会においては、信仰の基本を徹底して学んでいる。対学会活動としては、講中挙げて月1回、折伏を実施。その日は、午前9時から10時まで諏訪御尊師の導師のもと、しっかりと唱題し、その後、3人を一グループとして班を編制し、折伏推進委員が作成した地図と資料を手にして各班ごとに活動へと出発する。
 農村部であるため自ずと範囲が広くなり、回れる件数には限りはあるが、午後にはそれぞれの班がお寺に戻り、報告をすることになっている。また午後からの空いた時間には、家庭訪問と各自の下種先への折伏活動の時間として活用している。
 このほかにも、婦人部の有志が月曜日から土曜日までの毎日、午前11時から12時まで唱題し、その後、折伏活動に回っている。
 創価学会問題が起こった当初は、学会の嫌がらせ部隊が、講頭の車を尾行したり、講中幹部の家の前で待ち伏せては、帰宅したところをつかまえて言い掛かりを付け、なかなか帰らない等、恐怖心を煽る行動を平気で行なっていた。
 時には、寺院の駐車場に停めてあった法華講員の車(2台)のワイパーが、何者かによってネジ曲げられる、という事件もあった。
 その頃は、とくに脱会者が多く出ていたため、学会も焦(あせ)っていたのであろう。
 そうしたなか、学会のある本部長は、自分の地区より脱会者が出たことから、法華講員宅に電話をし、「殺してやる」などと脅迫してきたが、その3ヵ月後に、本部長自身が交通事故で死んでしまった。
 そこまで端的でなくても、会内に罰の現証が蔓延しているせいであろうか、現在の創価学会には、ひと頃のような勢いは全くなくて、とくに美濃市内においては落ちぶれざまがひどく、組織も壊滅的な状態であると聞く。


【不思議な形で折伏進む】
 本玄寺の法華講は、今年より新たな講頭が認証され、平成21年へ向かっての新体制が整った。出足の1月こそ遅れは取ったものの、1月12日に静岡市妙盛寺で行なわれた大布教区僧俗指導会に参加したメンバーの1人、Mさんが発心し、2月に入って、長年の知人に対する折伏をみごとに成就させた。
 そのMさんは、講中の中でも折伏頭ともいうべき方で、昨年は3世帯の折伏を成就されており、今年も3世帯の折伏を目標に日々精進されている。このMさんについて、ある講中幹部は、
 「Mさんの素晴らしいところは、とにかく謙虚で、面倒見がよいこと、また細かい事によく気配りをされることです。そして何よりも、御住職様の言われることを素直に実践されていることです。講中一同、このMさんの姿を手本とし、これから先も折伏を進めていき、必ず、御命題である地涌倍増を達成していく決意です」
と語っている。
 また、2月には、新任の講頭自らが学会員を寺院に連れてきて、御住職に折伏を手伝っていただき、無事、帰伏させることができた。
 その日は、学会員に対する折伏活動の日だった。前日から激しい雨が降り続いていて、朝方は非常に肌寒かったが、唱題が始まる頃より雨がやみだし、活動に出かける頃には、2月半ばとは思えないような、暖かい春の日差しが差し始めた。
 実質、この日が、講中としては「行動の年」である今年初めての全体としての活動日であり、前日夜勤の副講頭も職場から直接お寺へ駆けつけるなど、皆の顔にはいつにまして真剣さが漲っていた。
 班の編制を終え、それぞれ各方面へと活動へ向かったのであるが、講頭と副講頭・副婦人部長が一緒の班になった。そして、6軒回る予定で出掛けたところ、1軒目に訪問した家で話をすることができ、その学会員を寺院に連れていくことができたのである。
 その方は、初めて会った人であったにも拘わらず、訪問した皆が一様に、最初から不思議な縁を感じたという。講頭は、
 「一見、いとも簡単に折伏ができたようですが、全ては御本尊様のお力添えであり、皆の心が1つになったことにより、法界が動いた結果だと思います。まさに、異体同心ならば万事を成ずの御金言に添った活動をすることができました」
と喜びを語る。
 3月には、婦人部のHさんが、通院先の病院で知り合った方を折伏し、入信に導くことができた。
 このHさんは、日頃から、婦人部有志で行なっている学会員を折伏する活動に参加している。活動を開始した当初は臆する気持ちが出てきたが、何軒か回っているうちにだんだんと勇気が涌いてきて、今では相手がどんな大幹部であろうと、物怖じすることなく、毎日のように折伏を実践しているという。
 今回Hさんが入信させた人は学会員ではないが、講中では「日頃の折伏活動の功徳で、諸天善神が新たな折伏対象者を連れてきてくれたのだ」と語り合っている。同じような現証は、昨年12月にも起こり、講中として、じつに5世帯もの人が不思議な縁で折伏成就したのである。こうした現証を通じ、本玄寺の講員達は、
 「唱題をし、たゆまず折伏の実践をしていけば、必ず結果を出させていただけることを、あらためて教えていただいた」
と、「行動の年」の意義を深く心に刻んでいる。
 3月2日には布教区での信徒激励会が開催されたが、これに参加した講中幹部が話の内容を講員に訴え、3月度の折伏活動日には、前月の50パーセント増しの参加者が集った。こうしたところにも、折伏の気運の盛り上がりが象徴されているといえよう。
 さらに3月末には連合会総会、4月初めには地方部総会と、間髪入れぬ指導・激励に、講員の折伏に対する志気はいよいよ高まってきている。
 「本年は『行動の年』にふさわしい活動を展開し、必ずや、名実共に地涌倍増を果たすべく、邁進していく決意です」
と力強く語る本玄寺法華講である。



■地涌倍増を目指して
―東京都墨田区 本行寺―
―講中に満ちる折伏の気概―
―各種会合を軸に啓発し合って前進―

(『慧妙』H19.3.16)

【戦後の焼け跡から復興し、大講中に】
 墨田区向島にある本行寺は、第17世日精上人(※記事は「日寛上人」となっているが4月1日号にて訂正)の教化を受けられた本行院日優贈上人によって、寛永15年(西暦1638年)、常泉寺塔中本行坊として開創された、本宗有数の歴史を持つ寺院である(寺号への改称は昭和17年)。
 昭和20年3月10日の東京大空襲に遭い、ひとたび本行寺の堂宇は焼失したが、これを再興されたのは、後の第67世日顕上人であられた。
 昭和22年に本行寺住職となられた日顕上人は、戦後の困窮と信徒離散の中、復興に尽力され、翌年、焼け野原となった旧地に12坪の小堂を建立された。
 その頃、折りしも、大蔵省政令による官有地払い下げが実施されたのであるが、宗教施設に対する無償譲与の条件は、宗教活動の実践を証明する堂宇の存在が必要とされた。その検証期日ぎりぎりに、本行寺の堂が完成したのである。
 これによって、現在の境内地の基盤となる約80坪の土地を、無償で取得できたのであるが、この不思議の現証は、日顕上人の篤き護惜建立(ごしゃくこんりゅう)の志に厳然と顕われた仏天の御加護、と言わずして何と言えよう。
 その後、ここに立派(りっぱ)な堂宇が建立され、日顕上人は、信徒の育成と折伏に心血を注がれた。その御教導のもと、本行寺法華講は、広布に向かう講中としての盤石な基礎が築かれたのである。
 昭和38年、本行寺住職に就任された高野日海御尊能化は、日顕上人の志を引き継がれ、寺域の拡大・本堂や法華講会館等の新築を成すとともに、当時の講頭である柳沢喜惣次氏(現・総講頭)をはじめとする、法華講員のさらなる育成に肝胆(かんたん)を砕かれた。
 そして、僧俗和合を基調とした講中制度を活用して、折伏・育成を進めてきた結果、本行寺法華講は現在、信行学に篤き講員1700世帯、約3000名を擁する大講中となったのである。


【余念なき折伏の対象者作り】
 日顕上人・高野日海御尊能化と、次々に高邁(こうまい)なる指導教師を戴き、発展を続けてきた本行寺法華講の、平成21年に向かう志は熱い。
 講員は、都内の墨田区や近隣区はもとより、埼玉・神奈川・千葉・栃木・茨城と、関東各地に分布しており、法華講の組織は17の地区に分けられて、地区ごとに日常の活動を展開しているが、御住職にしっかりと付き随う丸山幸治郎講頭を中心として、とくに本年は「地区の折伏成果が0の月を出さない!」を合い言葉に、どの地区も皆で協力し合って折伏に臨んでいる。
 その活動の原動力は、何と言っても、御講や唱題会への結集と、頻繁な会合の開催にある。
 講中全体としての定期的な会合は、御住職が法華講会館で行なう御書講義と勉強会、そして、壮年部会・婦人部会・中高部会・たけのこ会(少年部)の各部会、役員会、総合折伏座談会などがあり、それぞれ月1回設けられている。
 その中の各部会は、体験発表・決意発表・部長挨拶・講頭挨拶・御住職の指導と式次第が進められ、御住職の指導が隅々にまで浸透されるとともに、講員同士・地区同士が互いに啓発し合う絶好の機となっている。
 さらに、各地区では、地区長を中心に、ほぼ毎週、個人宅に集まって唱題会と打ち合わせをしたり、密に連絡を取り合ったりして、講中の方針を実践すべく、一丸となって取り組むのである。
 そうした中で、折伏の志気はいや増して広がり、1人ひとりが、まずは折伏のきっかけ作りに余念がない。
 たとえば、84歳の丸山キサ子さんは、たまに通りかかる道沿いの八百屋が『聖教新聞』で品物を包んだので、「やめてほしい」と言って、そこから継続的に折伏を始めており、また、同じアパートに住む知人には、総本山の写真集を持って訪ねることできっかけを作り、後日、幹部に同行してもらって折伏をした。
 そのように、講員は老若男女を問わず、「機を逃さず一言からでも」との思いで、縁ある人を次々と仏法の話に触れさせ、応援を得ての折伏につなげるのである。そして、たとえ1回の折伏で入信に至らなかったとしても、その後も、お寺の見学に連れて行ったり総合折伏座談会に参加させたりしながら、粘り強く折伏を続けていく。


【御住職の徳に触れながら前進】
 そうした中で、御住職に折伏を手伝っていただく機会に恵まれることも。
 墨田第2地区の平野さんが昨年から声を掛けてきたNさんは、今年になって、自ら「仏法の話を聞きたい」と連絡してきた。そこで、講頭を通じて御住職にお願いしたところ、御住職は快く折伏を手伝ってくださった。その時のことを、その場に参加した池田地区長は、
 「御能化様は、相手の悩みを聞き、その上で、相手の状況に応じて、現在の悩み・苦しみは先業によって起こっていることや、正しい信心でしか解決できないことなどを、諄々と説き、相手の質問にも、優しく的確に答えてくださいました。
 私は、御能化様がなさる慈悲の折伏に接し、多くの事を学ばせていただき、本当に有り難く思うと同時に、また頑張ろうとの気概が満ち満ちてきました」
と語る。
 高野御尊能化は、とくに昨年から宅御講に力を入れてこられたが、宅御講に新来者の参加があれば、その場で折伏となる。
 昨年、折伏誓願を完遂した東葛地区の松田芳江地区長は、
 「誓願を完遂した要因の1つに、宅御講があります。御法話、講員に対しての個別指導、質疑応答、折伏と、身近で御住職様のお話に接することができる宅御講は、和(なご)やかな中にもお互いに切磋琢磨できる、本当に有り難い会合です。
 昨年10月に地区で行なわれた宅御講では、新来者が3名参加し、そのうちの1人が、御住職様の折伏によって入信しました。
 私自身も宅御講に未入信の知人をお誘いしましたが、『御住職様が有り難いお話をしてくださる』と言ったところ、その方は、『ぜひ、聞かせてほしい』との反応でした。今の世の中、不安や悩みを抱えている人ばかりで、『高徳の方のお話を聞きたい』と願っている人はたくさんいるのだと思います。
 これからも、宅御講を活用させていただいて、折伏に結び付けていかなければ、本当にもったいなく、申し訳ないことだと思っております」
と語る。
 最後に、丸山講頭は、平成21年に向かう決意として、
 「我が本行寺支部は、御住職に高野日海御尊能化を戴き、柳沢総講頭を大先輩とする講中であり、また、御隠尊日顕上人猊下様が、戦後の焼け野原から立ち上げた講中であります。この因縁を深く自覚し、2年後の佳節に向け、全国の同志に後(おく)れることなく、僧俗和合して、『唱題第一』を合い言葉に、地涌倍増ならびに大結集の実現を果たすべく、精進していきます」
と、力強く語っている。
 じつに、本行寺法華講には、先駆を切る折伏の息吹が漲(みなぎ)っているのである。

[画像]



■不断の心掛けを胸に勇往邁進
―会合を軸に折伏と育成に励む―
―滋賀県草津市 啓道寺―

(『慧妙』H18.11.16)

【大聖人も通られた門前の道】
 啓道寺の所在地である滋賀県草津市は、滋賀県の南部、琵琶湖畔に位置し、京都市の中心部から車で30分、電車で20分程の立地である。
 群馬県の草津町と混同されがちであるが、草津市は東海道・中山道の分岐点でもあることから、古くから交通の要衝として栄え、現在でも名神高速道路、国道1号線、東海道線等が通り、交通至便ながら豊かな自然環境にも恵まれているため、京阪神地域からの転入者が激増している。そのため、この地域はここ数年、日本一の人口増加率を示し続けるなど、発展著しい新興都市でありながら、古い宿場の町並みも随所に残す、歴史を重ねた趣のある土地柄でもある。
 啓道寺の門前を通る道路は旧東海道で、これはすなわち、若き日の日蓮大聖人が叡山遊学の際に通られた道の傍らに啓道寺が建立されているのである。
 同寺は、平成2年3月に第67世日顕上人猊下の御親修を賜わって、落慶入仏法要を奉修、それから1年を経ずして、創価学会問題が表面化した。
 全ての信徒が創価学会員という厳しい状況下、初代住職・笠原建道御尊師(現在は東京・仏乗寺御住職)は、翌・平成3年には法華講支部結成を成し遂げられた。30数世帯での発足であったが、その後、笠原御住職の御指導のもとに着実な発展を遂げ、さらに平成12年11月には、2代住職に大薮道宗御尊師をお迎えして、現在、啓道寺支部は290世帯の講員を擁するまでに成長を遂げている。


【空回りする学会の思惑】
 この地域では、創価学会問題の発生直後、2ヵ寺の住職が創価学会に取り込まれて本宗から離脱する、という不祥事が発生したが、法華講員達は、動揺することなく正信を貫いてきた。
 時には、脱落僧(池田託道)が、創価学会の主張を掲げて信徒宅を訪問してくるようなこともあるが、訪問を受けた信徒はむしろ、「自分の信心が不十分だから、あのような汚らわしい人物の訪問を受けてしまった」と、いっそう、法華講の活動に励むようになるということである。
 また、この脱落僧・池田某は、山ほどの資料を持参して、たびたび啓道寺にも姿を見せたが、そのつど、大薮御住職の厳しい破折を受け、資料もぺージを繰るだけで活用できないまま、すごすごと退散していった。
 この様子を目の当たりにした法華講員達は、なおいっそう、本宗信仰の正統なることを確信できた、と喜んでいる。
 折伏については、「誓願」と題する起請文に、それぞれの講員が折伏対象者の住所・氏名を書き込み、1枚を寺院の御宝前に供え、1枚を自宅の経机に置いて、毎日御祈念する。そして、折伏実践の状況を、座談会の時はもとより、幹事会や役員会などの際にも報告しあい、そのつど、御住職の指導をいただいて、折伏成果の実を挙げるべく励んでいる。
 なお、毎日1時間の唱題行を講中の活動として行なうようになったのは3年ほど前からであるが、その1時間中、「謗法の輩、特に創価学会員に聞かせよう」ということで、太鼓を叩き続けている。また、講頭をはじめ、多数の講員が、唱題行のみならず、朝6時からの勤行にも毎日参加し続けてきた。
 すると、まさに法界が動き始めたのか、いよいよ地涌倍増に向けての本格的な活動態勢に入った昨年暮れあたりから、創価学会員が、次々と啓道寺を訪ねて来て自ら脱会を申し出たり、電話で相談してくるようになったのである。
 その人達は、おおむね、「学会葬を見て、背広を着た人が導師をしたり、皆で歌(学会歌?)を歌ったり、あまりの異様さに愕然(がくせん)とした。自分の葬儀もあんなふうにされたら、たまらない」とか、「今までは近所付き合いから学会を抜けられなかったが、転住を機に大石寺の信仰に戻りたい」というもの。創価学会が嫌いな学会員が日増しに増えている、ということであろう。
 また、たとえ、すぐの成果に結び付けることは困難だとしても、「大謗法の輩を放置してはならない」との信念のもと、時には、青年部が創価学会の会館に赴いて折伏することもある。
 つい最近も、2人の青年部が大阪の創価学会会館に赴き、職業幹部らと法論した。学会側は、使い古されたような主張を繰り返したが、法華講員からの的確な破折にあって、最後は癇癪(かんしゃく)を起こして支離滅裂になり、再会を求めても逃げるばかりだったという。
 その法論の際、話題が「学会版ニセ本尊」に及び、法華講員が「1体3千円という値段は、役員会の多数決で決めたのか」と言うと、学会幹部は「そうだと思う」と。さらに法華講員が「誰が、これを本尊と決めるのか」と問うと、学会幹部は「上の役員会だろう。多数決で決まるんだと思う」と答えた。
 信仰の命ともいうべき肝心の本尊が、在家信者の"多数決"で決まって、それに何の疑問も抵抗も感じない学会の幹部らは、いったい、仏法を何だと思っているのだろうか。この無道心ぶりに、呆れて物が言えない。


【「今一日の歩み」を止めるな】
―御住職の指導に奮起する講員―
 啓道寺の法華講は、折伏によって支部の発展を図る一方、婦人部を中心に家庭訪問を頻繁に行ない、講中活動への参加が思わしくない講員への啓蒙も忘れてはいない。このことは、結果として、講員の退転を防ぐ効果を発揮し、講中発足以来今日に至るまで、退転者は非常に少ない状況である。
 これもまた、創価学会等の邪宗教団体における放逸な布教態度を反面教師としての活動であり、日々、折伏に勤(いそ)しむ中で培(つちか)われてきたものである。
 大薮御住職は、法華講員達に対し、
 「啓道寺の門前の道は、大聖人も叡山遊学のために歩まれた道であり、講員の皆さんは、宗祖の歩まれた道を通って参詣されている。大聖人の御事績、歩まれた道を追いながら修行するのである。また、啓道寺は、総本山の五重塔と同じく、西に向かって建っている。これは、広宣流布に挺身せよという意味に受け止めるべきである。また、『新池御書』には、
 『鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩みをはこびて、今一日に成りて歩みをさしをきては、何として都の月をば詠(なが)め候べき』(御書1457頁)
とあるが、奇しくも、この草津は、京の都へ1日の道程の宿場であり、中山道・東海道の分岐点でもある。自分の信心が完成したと思えば、そこでその人の信心はおしまいである。常に"あと1日"の心持ちで精進する、それが仏道における成仏・不成仏の分岐点である」
と指導されており、法華講員達もこのような心構えで日々活動に勤しんでいる。
 まずは、当面の目標である平成21年に向け、大いなる発展が期待される啓道寺法華講である。



■30世帯からスタートして大講中へ
―京都府京都市 平安寺―
(『慧妙』H18.6.16)

【今、"西の要"として進軍続ける】
 JR京都駅より車で約20分くらいの所に、法王山平安寺がある。
 今でこそ平安寺の周囲は、四方に高層マンションが建ち並んでいるが、昭和38年4月の建立当初は、周りは畑ばかりで、平安寺の北側を東西に走る四条通りからは、平安寺のシンボルであった3階屋上の鶴丸がひときわよく見えたという。
 京都は、平安京に建都されてから千2百十数年の歴史を持ち、因習も深く、他宗の寺院・神社も数多く甍(いらか)を並べている。
 このような土地で、日蓮大聖人の正法を護持し、弘通していくことは、並大抵のことではない。
 そんな中、平安寺は「西の法城」として、また「宗門竜象(りゅうぞう)の育成の道場」として建立され、昭和38年4月5日、第66世日達上人の大導師により落慶入仏式が奉修された。初代住職には現・御隠尊日顕上人猊下が赴任され、14年余にわたって関西広布の先駆を担われた、宗内では広く知られた寺院である。
 創価学会による第1次教義逸脱問題が表面化しつつあった昭和50年頃は、御住職であられた御隠尊猊下が宗門の教学部長を務めておられたことも関係したのか、平安寺に対する創価学会の圧力は厳しいものだった。
 その中で、現・大講頭の河原昭太郎氏を中心とする約30世帯の法華講員が、御隠尊猊下の御教導のもと、折伏等の信心活動に励んで、現在の法華講の基盤を作ってきたのである。
 その当時は、御講などを奉修しても、学会員は参詣せず、広い本堂の中、わずかな法華講員のみが本堂中央に固まってお参りする姿が、ちょうど日本の国旗「日の丸」に似ているところから、「日の丸御講」などとも称されていたという。
 時至り、正式に総本山の御許可をいただき、法華講平安寺支部が結成されたのは、昭和54年7月、第2代住職・椎名日澄御尊能化の時である。この時、法華講員は約百世帯であった。


【千世帯を超えてさらに前進】
 平成2年暮れに学会問題が惹起(じゃっき)した際は、多くの学会員が創価学会の在(あ)り方に疑問を抱き、脱会の相談をするために寺院を訪れたが、在勤僧侶の中に隠れ学会僧がおり、応対に出たその者から「もうしばらく様子を見たほうがよい」と言われたり、学会の幹部に会うことを勧(すす)められたりして、脱会を思いとどまる人が後をたたなかった。
 そのような時期には、河原講頭宅を拠点とし、そこで脱会の手続きをして入講する人も現われ、総本山を根本として信心していきたいと願う方々に希望の灯をともし続けてきたのである。
 やがて、その隠れ学会僧も本性を現わして去っていき、平安寺に平穏が戻ったが、平成5年3月には、御高齢に達していた椎名御尊能化が病気療養に入られたため、御弟子の岡崎法顕御尊師が副注職として赴任して来られた。
 そして、平安寺法華講は、岡崎御尊師の御教導のもと、いよいよ寺檀和合・異体同心して、破邪顕正の前進を開始したのである。
 それから5年後の平成10年3月4日には、晴れて念願の千世帯を達成した。約百世帯で支部を結成してから、19年目のことである。
 以後も折伏が進んで、現在の講中は、京都市伏見区に新しく建立された宣照寺への移籍者を除いても、千4百世帯の陣容となっている。
 昭和54年の支部結成当時に執事として在勤されていた岡崎法顕御尊師は、その頃から法華講員に対して、「いずれは東の法道院、西の平安寺、と言われるよう、折伏に邁進(まいしん)しよう」と、目標を示されていたが、河原大講頭以下講員が、弛(たゆ)まず怠(おこた)らず、折伏・育成に精進を積み重ねてきたことにより、その願いは実現したと言えよう。


【「折伏の日」中心に、学会員宅回りも】
 平安寺法華講の広布推進の要(かなめ)は、何といっても支部結成後まもなく設けられた、毎月第1日曜日の「折伏の日」の活動にある。
 これは「かつては拠点だっだ大講頭宅に、また、学会破門後は平安寺の広間に、講員が朝10時に集合し、読経・唱題後、折伏成就の体験発表や打ち合わせ、大講頭の激励、副住職の御指導をいただぎ、その後、ペアを組んで1日折伏に回る、という活動である。
 とくに元気のよい青年部などは、「学会回り」と称して、折伏先がない時は、住宅地図のコピーと学会破折の資料を片手に、飛び込みの折伏活動にも取り組んでいる。
 学会員の反応は様々である。烈火の如く怒って追い返そうとする人、居留守を使う人、「自分は関係ない」と言い張る人、中にはよく話を聞いてくれる学会員もいる。
 また、最初の1、2軒は玄関で応対してくれるが、学会員同士ですぐに連絡を取り合うようで、3軒目からは、呼び鈴を押しても何の応答もない、ということもある。
 時には、大勢の学会員に取り囲まれたり、近くのフードショップで法論となることもある。
 しかし、平安寺法華講の青年部の皆さんは、そんなことにめげることなく、「とても楽しかった」「いろいろ勉強になった」と胸を躍らせながら、「学会回り」に精を出している。


【仏罰厳然!学会員の悲惨な姿】
 池田大作および職業幹部に洗脳され、戒壇の大御本尊をはじめ、下種三宝尊を誹(そし)り、唯授一人の血脈に背(そむ)く学会員の罰の現証も、京都のあちらこちらから聞こえてくる。
 平安寺近くの西京区在住で学会の拠点となっているS氏の三女は、創価大学の通信教育の試験を受ける前日の朝、不幸にもトイレで帰らぬ人となった。
 また平安寺から少し離れた久世郡久御山町では、大B長をしているI氏の息子さんが、お気の毒にも若くして手遅れのガンで亡くなったり、同町の元町会議員が、公金を横領して行方不明となるなどの事件も起きている。
 平安寺法華講は、御隠尊猊下の御命題である地涌倍増の達成に向かい、御当代日如上人猊下の御指南のまま、関西広布の先陣を切るべく、御住職・副住職の御指導を基として、河原大講頭を中心に、今後ますます大法の弘通と寺運の興隆、発展のために前進していくことであろう。



■法光山宣照寺落慶入仏法要
―京都市伏見区―
(『大白法』H18.4.1/<妙音>WS)

 3月18日、京都市伏見区桃山町に法光山宣照寺が建立され、御法主日如上人猊下大導師のもと、落慶入仏法要が厳粛かつ盛大に奉修された。
 同寺は昨年、河原義明・定子夫妻の発願による総本山への土地建物の御供養を受け、宗務院と御供養者との綿密な協議を重ね、昨年11月初頭より建物の内外装工事に掛かり、2月28日に建物内外装の完成引き渡しがなされ、このたびの慶事を迎えたものである。同寺は京阪電鉄宇治線の桃山南口駅の至近に位置し、建物は6階建のビルを各階機能的に改装し、1階が受付ホール、2階が本堂、3階が客殿、4階が法華講事務所と会議室、5階が庫裡、6階が客室など、たいへん便利に使用できる構造となっている。
 この法要には、随行の総監・八木日照御尊能化、庶務部長・阿部信彰御尊師、大石寺理事補・小林道剛御尊師、さらには光久日康御尊能化、菅野日龍御尊能化、宗会議長・細井珪道御尊師、そして北近畿布教区支院長の菅原信了御尊師、同副支院長の川井兼道御尊師をはじめ、布教区内外から多数の御僧侶方が御出席された。また、法華講連合会からは法華講総講頭の柳沢委員長、大講頭の石毛副委員長、さらには大講頭の河原北近畿地方部長をはじめ布教区内各支部講頭並びに信徒代表、宣照寺信徒など約300名が参列した。
 午前10時、僧俗一同がお出迎え申し上げる中、御法主上人猊下が宣照寺に御到着あそばされ、直ちに本堂正面にて山号額の除幕をなされた。その後、御僧侶、信徒代表、寺族、発願主の親族、来賓の順に親しく御目通りを許された。
 法要の部は午前10時半に開始され、御法主上人猊下大導師のもと、小林大石寺理事補による御本尊御開扉、八木総監による献膳の儀、読経、慶讃文奉読、唱題と如法に奉修された。
 引き続き式の部に移り、はじめに発願主である河原義明氏より御法主上人猊下に寺院土地建物御供養目録の奉呈がなされ、御法主上人猊下より河原氏に対し、受書が授与された。続いて、寺院建立御供養の尊い志に対して褒賞が授与され、さらに記念品が贈呈された。
 この後、御法主上人猊下より御言葉を賜った。御法主上人猊下は、寺院はそれぞれの地域における弘通の法城であり、大聖人様の正義を一閻浮提に広宣流布していく大事な拠点であるとされ、その寺院を一宇建立する功徳というものは、まことに大なるものがあると仰せられた。そして、前御法主日顕上人猊下より御下命いただいた「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の佳節まで残り3年という大事な時に、立派な寺院が建立されたことを喜ばれ、この落慶法要を契機に「地涌倍増」と「大結集」の達成のため、なお一層の精進をと願われた。
 次に、宣照寺信徒代表の小川剛宏氏より経過報告、続いて宗務院代表の八木総監、布教区代表の菅原支院長、信徒代表の柳沢委員長より祝辞が述べられた。続いて、このたび初代住職として赴任された西田秀得御尊師より、御法主上人猊下及び参列の各位に対して、丁重な謝辞と今後の決意が述べられた。
 この後、本堂玄関前にて御法主上人猊下による「槙」の御手植えがなされた。最後に、本堂において記念撮影が行われ、午後0時50分、御法主上人猊下には僧俗一同がお見送り申し上げる中、宣照寺をお発ちになられ、法要の一切がとどこおりなく終了した。

[画像]:山号額の除幕と宣照寺の外観



■喜びの折伏実践で3年後240世帯に
―奈良市 寧楽寺―
(渡辺雄布御尊師『大白法』H18.3.16)

 日本仏教発祥の地、奈良は古文書では寧楽と書かれています。おだやかで安楽、文字通りおだやかな町です。寧楽寺支部も穏やかな講中でありますが、平成16年6月、初代住職が高齢で亡くなり、講中は深い悲しみに落ちておりました。そこに第2代住職として着任した私は戸惑うばかりでした。
 平成21年は240世帯が目標です。講中の立て直しを図るべく家庭訪問を始めましたが、お年寄りが多く、なかなか折伏に立ち上がるような気配は感じられませんでした。そうこうしているうちに、私自身が体調を崩し、心臓の裏、脊髄と大動脈の間に腫瘍が発見されました。
 手術を余儀なくされた私は、平成17年度20世帯の折伏目標を掲げながら、途方に暮れるばかりでした。「一切を開く鍵は唱題行にある」との御指南を頼りに、必死で唱題を続けるうちに、ふと理境坊妙観講支部との合同折伏が思い浮かびました。
 さっそく連絡を取り、平成17年2月に合同折伏をすることにしました。この合同折伏は、我が支部に大きな衝撃を与えました。自分の孫くらいの若者たちが、熱い思いで信心の体験を語り、折伏の喜びを語ります。共に唱題し、連れだって折伏に出かけます。後ろから恐る恐るついていった我が支部の講員も、若者たちの勇気に触発され、折伏に対する意識が大きく甦(よみがえ)ってきました。これが昨年14世帯の折伏成果につながったと思います。
 私の手術も、第1回の合同折伏が終わるまでと無理に延ばしてもらっていたのですが、不思議なことに、その後の検査で腫瘍が消えていました。
 支部の活動としては、毎月第1日曜日の広布唱題会の後、下種・折伏の実践。これは南近畿布教区全体でやっております。毎日11時から1時間、午後1時から2時半まで唱題。月1回の婦人部唱題会。その他に、妙観講との合同折伏を、日程を調整しながら入れていきます。
 昨年14世帯の結果は、これまでの寧楽寺の実績から見れば大きな成果ですが、後半に息切れして、これで満足してしまいました。
 今年度は、改めて目標を20世帯にしました。合同折伏により、学会からの嫌がらせも増えましたが、決起大会における御法主上人猊下の、
 「折伏に当たって我々は、本当に相手を思う慈悲の心を持っているか。また、いかなる悪口罵詈(めり)・非難中傷・迫害にも屈せず、いかなる逆境でも乗りきっていく決意を持っているかどうか。一切の執着に執われず、不自惜身命の断固だる決意をもって折折を実残しているかどうか。
 もし、折伏が思うようにならないというなら、今一度、この三軌に照らして自らの信心、自行化他の信心の在り方を点検すべきであります」(『大白法』685号)
との御指南をしっかりと身に体し、必ずや今年度の目標を達成し、さらに平成21年の地涌の友倍増に向かって、講中一丸となって精進してまいります。
 写真は、今年2月に行っだ合同折伏の様子です、10時から1時間唱題し、その後、座談会形式で体験発表や質問会等を行い、それぞれ打ち合わせをして、連れだって折伏に出かけます。午後5時を目途に帰ってきて、その日の活動報告をします。
 当日は、1人の壮年が20年来の友人を妙観講支部の応援で折伏達成し、友人はめでたく御授戒を受けることができました。(文責在編集部)

[画像]=合同折伏座談会では、はじめに唱題し(上の写真)、その後体験発表(下の写真)、打ち合わせを行った後に出かける



活動リポート
■新御法主上人のもと、広布への前進誓う
―年頭から折伏の成就が続く―
―山梨県甲府市・正光寺―

(『慧妙』H18.2.16)

 総本山第68世御法主日如上人猊下の御もと、新たなる広布への前進が開始された本年「決起の年」も、早や1ヵ月半が経ちました。
 私ども正光寺法華講は、1月1日、本年最初の広宣流布の大願成就を目指した広布唱題会において、指導教師・島田靖道御尊師のもと、小池講頭を中心に多くの講員が集(つど)い、いよいよ3年後に迫った「『立正安国論』正義顕揚(しょうぎけんよう)750年」の大佳節における地涌倍増と大結集を御本尊様にお誓い申し上げ、実質的な闘いの出発を切りました。
 この広布唱題会を迎えるに当たり、昨年末、小池講頭より「御法主日如上人猊下の御登座後、初めて行なわれる1月1日の広布唱題会には、全講員、挙(こぞ)って参加いたしましょう」との呼び掛け、があり、それに呼応し、講中役員をはじめ講員は、心してこの広布唱題会に臨(のぞ)みました。
 そして、本門戒壇の大御本尊と血脈付法の御法主上人猊下に信伏随従し奉って、御奉公の誠を尽くし、総本山大石寺ならびに正光寺を外護することを、確認し合いました。
 さて、我が講中では、昨年末の講中役員会において、平成18年は折伏を活動の柱として、時間の許すかぎり、徹底して慈悲の折伏に取り組んでいくことを、決議しました。
 それを受けて本年1月は、地区ごとに協議会を開催し、いつ・どこへ、誰と折伏に行くのか、といった具体的な計画を立てました。
 そして、折伏終了後には、その日の状況について連携を密に取り合い、次の日の折伏についての打ち合わせを行ないました。日々、連携を取り合うことによって、様々な問題点などが明確になり、迅速に手を打つことができ、より具体的に、かつ有効的に折伏を進めることができました。
 地区ごとに地域性や状況が異なるため、形態は様々でしたが、有志が集まっては唱題会を行なった地区や、また、2人ずつ組になって、創価学会員宅を訪ね折伏を行なった地区、地区員宅に折伏対象者を招き、地区役員と共に折伏を行なった地区、さらに、正光寺にて御住職を交えて折伏を行なった地区など、各地区の実状に合わせた活動が、行なわれました。
 その結果、島田御住職に同行していただき訪ねた創価学会員宅では、創価学会の誤りに気付いた2名の方が、即日、正光寺本堂にて勧誡式を受けることができました。
 この朗報が講中を駆け巡り、「我が地区でも頑張ろう!」と、折伏への意欲が一段と高まりました。
 さらに、2年、3年と行なってきた粘り強い折伏が成就し、晴れて勧誡式を受けることのできたケースなど―、少しずつではありますが、これまでの折伏が実を結び、結果として表われてきております。


【折伏の進軍に戦々恐々の学会】
―「回らないでほしい」と哀れな懇願―
 また、活動の中で、法華講員宅に学会男子部が訪ねてきて、「学会員の家を回らないでほしい」と懇願(こんがん)してきたり、何軒かの学会員宅を訪ねるなかで、すでに、「法華講の○○が回っているから注意しろ(主旨)」などという連絡が学会組織を通して入っていたこともありました。
 その報告を聞き、いよいよ「学会員を救ってあげなければ」という気持ちが、ふくらんでまいりました。
 活動を終えた講員の皆さんからは、「折伏は、やはり行動に移さなければ始まらない」「結果はどうであれ、折伏に歩くことは清々(すがすが)しいし本当に歓喜する」「罪障消滅は折伏と唱題しかないと感じた」「必ず折伏は成就すると確信した」等の声が上がりました。
 慈悲の心を常に忘れずに、たゆむことなく折伏する大切さを、あらためて実感させていただいた1ヵ月の闘いでした。
 私たち正光寺法華講は、この1ヵ月間の折伏の体験をとおして、あらためて、日蓮正宗は「折伏の宗旨」であり、折伏こそが我々の仏道修行の根幹をなすものであることを確信いたしました。
 なお、2月に入り3日には、さっそく1世帯の折伏を成就させていただくこともできました。
 御法主上人猊下は1月3日に開催された「決起大会」の砌(みぎり)、
 「我々は、本年『決起の年』を迎えるに当たり、日顕上人がお示しあそばされた『地涌倍増』の必達を期して、すべての法華講員が立ち上がり、御命題にお応えしていかなければならないのであります。而(しこう)して、その『地涌倍増』実現の具体的方途とは何かと言えば、すなわち折伏以外にないことは論を俟(ま)ちません」
と、御指南あそばされています。
 私たち正光寺法華講は、御法主上人猊下の御指南を身に体し、3年後の「『立正安国論』正義顕揚750年」に向かって、「地涌倍増」の御命題達成を目指し、これからも、折伏に徹していくことを御法主上人猊下にお誓い申し上げる決意であります。



活動リポート
■青年層の折伏進み活気漲(みなぎ)る
―栃木県今市市・顕照寺―
(『慧妙』H17.10.16)

【歴史は浅くも僧俗和合の力強し】
 顕照寺のある今市(いまいち)市は、人口7万人弱の小さな町ではあるが、観光地として有名な日光や鬼怒川(きぬがわ)に近く、観光シーズンともなると、多数の人が訪れ、交通渋滞すら起こる。
 また、今市市は日光へと続く杉並木も有名だが、顕照寺は、日光街道と例幣使(れいへいし)街道の2本の杉並木がちょうど交わる辺りに位置し、JR線と東武線の両駅まで徒歩10分、今市インターより車で5分と、交通至便の上、近くには市役所・郵便局・学校・法務局などがあり、静かな中にも、市の中心地としての利便性も兼ね備えた地に建立されている。
 顕照寺は、昭和60年9月に建立された、比較的新しい寺院である。これは、同市の甚遠寺が正信会僧侶によって不法占拠されていたため、それに代わる新たな法城として築かれたものである。
 それからわずか5年後の平成2年暮れには、創価学会問題が惹起(じゃっき)し、それまで顕照寺に参詣していた学会員らは、学会首脳部に唆(そそのか)されるまま、てのひらを返したように、御住職に対する誹謗中傷を繰り返すようになった。
 しかし、初代住職の三谷維道御尊師が、以前より、信徒に対して正しい信心の筋道を教えておられたことと、学会問題に迅速に対処したことによって、多くの人が学会を離れ、顕照寺についた。そして、平成3年の12月には、本堂を埋め尽くす信徒によって、法華講支部の結成式が執り行なわれたのである。
 以来、顕照寺の法華講員は、「当家三宝に信順する信心」「勤加常精進の信心」「異体同心の信心」の3指針を合い言葉に、折伏に励んできた。
 平成5年には第2代住職・長野鍛道御尊師を迎え、新たな決意のもと、いよいよ異体同心の信心に励んできたが、その2年後の平成7年、市の方針による道路の区画整理にともない、現在地への移転新築が決定した。そして、翌・平成8年6月5日には、立派(りっぱ)に新築された寺院に御法主日顕上人猊下をお迎え申し上げ、盛大に落慶法要が奉修されたのである。
 創価学会による謀略も数々あったが、それをはねのけ、この慶事を迎えることができたのも、ひとえに、不退の信心を貫かれた御住職の道念と、法華講員の強い信心によるものであった。
 この慶事の7年後の平成15年4月には、第3代住職・藤原正利御尊師をお迎えし、本年9月25日には、講中一丸となって、創立20周年記念法要を盛大に奉修した。


【初信者にも伝わった折伏の息吹】
 このように、顕照寺は、けっして歴史の古い寺院ではないが、しかし、初代住職の時代から今日に至るまで、常に中身の充実をはかってきたことによるものであろう、講中には僧俗和合・異体同心の信心が根付き、若い世代の折伏も進んでいるのである。
 たとえば、昨年、1人の女子講員が発心し、自分の友人を折伏して入信せしめるに至った。それからわずか20日後のこと、今度は、入信したばかりのその人が、自分の付き合っている男性に話をして入信に至らしめ、さらに、その男性が約3週間後に友人を折伏して入信させたのである。
 ちなみに、この時、折伏にあたった本人達は、自分自身が入信して間もないということもあって、けっして、順序立てた仏法の話ができたわけではなかった。それぞれが、寺院に参詣し、御本尊を拝して心に感じたこと、御住職と話をして心に響いたことなどを、感激のままに話していったところ、それが相手の心に通じて成就したのだという。
 まさに、「力あらば一文一句なりとも語らせ給ふべし」の御金言を実行していくことの大切さが痛感させられる。


【慈悲の折伏は学会そして顕正会へ】
 また、顕照寺には、「けんしょう」という同音につられてか、時折、顕正会の会員が訪問してくることもあるという。
 最近では、自転車に乗った青年が1人で寺院に入ってきて、「ここは日蓮大聖人のお寺ですか?」という。御住職が「そうです」と答え、しばらく話をしていると、どうも最近、顕正会に入会したらしいことが分かってきた。
 そこで御住職が、顕正会は本当の大聖人の教えではないこと、会長の浅井昭衛が言っていることは全て綺語・妄語であり、いかにいいかげんなものであるか等々、諄々に話した。しかし、本人はどうもピンとこないらしい。
 そのうち、たまたま、話が竜の口の法難の事になった途端、その青年部は眼を輝かせ、「すごいですよね、本当に命がけですね」と言って、身をのりだしてきた。
 そこで、さらに大聖人の教えについて話し、大聖人の教えは日蓮正宗にしかないことを話したところ、最後には、さっきよりも眼を輝かせながら、「ありがとうございました。今まで聞けなかったことが聞けて本当に良かったです。なんか、胸のあたりがすごく熱くなっています。また来てもいいですか?」と言い、次回を約束して帰っていった。
 そして、約束どおりに訪問してきた青年を再度、講員同席のもとで折伏。その日は入信までには至らなかったが、その後も、法華講員とメールで連絡を取り合い、「会度、いつ会おう」などというやり取りをしていた。
 ところが、突然、返事が来なくなったと思っていたら、今度は、嫌がらせのメールが届くようになったのである。顕正会の幹部に吹き込まれたのであろうことは、火を見るより明らかである。
 御住職と法華講員は、「次に会った時には、その場で御授戒を受けられるほどの折伏をしていきたい」と熱く語る。
 また、顕正会については、藤原御住職が、次のような笑い話を紹介してくれた。
 「先日、うちの青年部が、友人が顕正会員だと知って、折伏するために待ち合わせをしてしていました。すると、その場に、顕正会の幹部もやって来たんです。そこで、数名で法論のような形になったのですが、講員は、自分の分からないことについては、『分からない』と答えたそうなんですよ。そうしたら、顕正会幹部が、勝ち誇ったように『分からないなら、呼ぶな!』と怒鳴ったそうです。
 それに対して、講員が『別に、あなたを呼んでませんけど?むしろ、私は、彼と話をしたいのに、あなたに邪魔をされているのですが』と冷静に切り返したところ、その幹部は何も言えずに黙ってしまったとか。それを聞いた時には、大いに笑ってしまいました。」
 顕正会同様、学会員の無様(ぶざま)な話にも事欠かないが、中でも、女性講員のTさんの話は、学会の歪(ゆが)んだ体質が浮き彫りにされて、興味深い。
 Tさんは、学会がまだ信徒団体であった頃、学会員である友人から折伏(?)された。それまで信心していなかったTさんが発心した後、Tさん宅がすでに学会に入会していたことを知った友人と幹部は、「これじゃ、折伏成果にならないよ」と悔しがったのだそうである。Tさんは、
 「その悔しがり方が、あまりにも露骨で、とても不愉快だった」
と述懐するが、学会員の"折伏"とは、他人の幸福を願ってするものではなく、単に自分のポイント稼ぎのため、ということらしい。
 これが、日蓮正宗の僧俗ならば、折伏した相手宅に御本尊がすでに御安置されている、となれば、当然、素直に喜び、「これからは、一緒に頑張っていこう」と激励するであろう。


【未来を見据え、少年部の育成も】
 現在、顕照寺の法華講では、壮年・婦人・青年は当然のことながら、特に少年部員の育成に力を入れているという。2月16日には、大聖人御誕生会(ごたんじょうえ)にちなんで「子供御講」を修し、また、毎年、夏には「少年部花火大会」を、少年部員が学校の友達などを連れてきて、未入信者も交えて盛大に開催されている。
 これらの行事は、御住職の「未来広布を担う人材を、講中全体で育てることにより、講中の和も深まるし、今後、20年、30年、50年先の展望を計ることができる」との指導に基づくもので、楽しい会合の中にも真剣な取り組み姿勢がみられる。
 講中全体としては、
 「どんな時でも、創価学会のような呪いや憎しみの題目になることなく、大聖人様の大慈大悲の一分でも拝していけるような、深い慈悲の題目を唱えきっていくことが大切である」
との御住職の指導のもと、毎日6時からの早朝勤行への参詣を軸として、本年度の折伏目標の完遂をめざし、講中異体同心して折伏弘教に励んできた。
 そうした中、9月は4世帯の折伏成果を見たが、そのうちの2世帯は創価学会からの帰伏である。そして、9月25日の「創立20周年記念法要」は、かねてより、「この日までに」と誓願していた、総世帯150世帯をみごと突破して、盛大に奉修することができたのである。
 顕照寺の講員達は、、今後も、創価学会・顕正会、あるいは今市の地で寺院を不法占拠している正信会に対して、その邪法邪義を破折し、正法正義の旗を掲げていくことを決意している。



活動リポート
■学会員への訪問折伏で活気づく講中
―「学会こそ一凶」との御指南に奮い立つ―
―新潟県三条市・信善寺―

(『慧妙』H17.8.16)

【「破邪顕正」の御指南を拝し】
 信善寺のある三条市は、新潟県のほぼ中央に位置し、人口約10万人で、金物・調理器具・洋食器などの地場産業が全国的に有名な地域である。
 信善寺は、明年、創立25周年を迎えるが、それにあたって、安孫子信洋御尊師の指導のもと、折伏・唱題に頑張っている。
 昨年2月の役員会において、下種先の拡大が思うように進まない状況を何とかせねば、と悩んでいた際、御法主上人猊下が年頭からなされた「破邪顕正」についての御指南―なかんずく、
 「今日、我々がはっきりと見定めなければならないのは、『立正安国論』に御指南あそばされたところの一凶とは何であるか、ということであります。(中略)私はここにはっきりと、その最も邪悪の甚だしきものは創価学会であるということ、池田大作、秋谷栄之助等の率いる、あの邪義の存在である、と申し上げるものであります。これをはっきり意識して破折していくことこそ、破邪顕正の意義に正しく則(のっと)るものと思うのであります」(平成16年1月31日・唱題行の砌)
との御指南を想起し、支部全体としての活動を決めた。
 それは、創価学会員の家を1軒1軒訪ね、折伏しよう、ということであった。
 そこで活躍したのが青年部である。早速、有志が集い、学会員名簿をパソコンに入力し、次に住宅地図にカラーで印をつけていった。その上で、講中が一丸となって、寺院行事の合い間や唱題会終了後などに、用意した封筒に「ニセ本尊は不幸のもと」というパンフレットを入れ、宛名のラベル貼りをして、それを持って学会員宅を訪問した。
 さらに、毎月、日にちを決めて、寺院で御住職と共に唱題行の後、3人1組で折伏へと出掛けることにした。壮年・婦人を中心に複数のチームで折伏に出掛け、夕方には寺院に戻って、御住職に報告を済ませて解散する、という活動を開始してから、現在、1年余りが経過し、訪問した学会員宅はすでに5百軒を超えている。


【逃げの一手の学会員ら】
 訪問する際は、必ず『慧妙』を持参し、手渡すようにしているが、学会員の反応は様々で、「信善寺の法華講の者です」と言った途端に怒り出し、「関係ない!そんなものいらない」等と拒否する家も2割以上あったという。そうした中には、「俺を誰だと思ってるんだ!」と威張り散らし、支離滅裂な言い方をする人や、何を勘違いしたのか、いきなり「警察を呼ぶぞ!」と叫ぶ人もおり、時には、玄関先で話している最中に創価学会の青年部員が駆けつけてきて、一方的に罵倒(ばとう)を浴びせた上、帰り道では法華講員の車を執拗(しつよう)に尾行する、というようなこともあった。
 また、最初の訪問で話を丁寧に聞いてくれ、「今まで自分がやってきたことは無駄だったのでしょうか…」と創価学会に疑問を持った壮年の学会員などは、次の週に再訪問したところ、もう創価学会からいろいろと吹き込まれていたようで、「帰ってくれ!」と言うやいなや、学会幹部に電話連絡をし、幹部の指示に従って「警察を呼ぶぞ!」と言い出す始末。
 創価学会は、会員がまともに法華講員と話をすることを恐れ、とにかく、逃げの一手で探(かわ)すことを教えているらしいが、逃げ回る学会員らはみじめな気持ちになるだけであろう。
 法華講員を追い返すために駆け付けてきた学会員の中には、法華講員に対して「名前を名乗れ!」と言いながら、自分は偽名を使う大幹部もいた。その後、正直に名乗った法華講員宅に学会員らが押し掛けてきて、「裁判に訴えてやる!」とか「学会員の家を廻るな!」などと喚き、脅しをかけてくるということもしばしばで、あげく「一生恨み続けてやる!」等、謗言のかぎりを尽くしている現状だ。
 こうした学会員らの哀れな姿に接するたび、法華講員達は呆(あき)れつつも、安孫子御住職の「訪問の際には、常識を守り、慈悲の気持ちを持って折伏するように」との御指導を胸に、ますます折伏の意欲を高めているのである。


【学会員の身に厳しき現証が】
 三条市といえば、昨年7月13日に起こった大洪水の記録が新しいが、数人の犠牲者の中の1人、Eさんは、創価学会の婦人部員であった。実父もまた、バリバリの学会狂信者で、その実父を折伏したことがあるのだが、まったく聞く耳を持たないばかりか、宗門や猊下をさんざん誹謗していたという。
 法華講員は、「せめて父親がもう少し折伏に耳を貸していれば、こんな目に遇わなかったに違いない。本当に気の毒としか言いようがない」と語る。
 学会員を襲った惨劇は、ここ三条市近辺でも枚挙に暇(いとま)がないが、学会葬の導師をしたり脱講運動をしていた壮年部幹部が、平成11年、ノイローゼになり、妻を包丁で斬りつけたあげく、自らは焼身自殺してしまった。また、御住職と共に訪問折伏した際、御宗門の誹謗をしてきた壮年部が、その数ヵ月後に自殺する、という事件もあった。

 一方、折伏に廻っていると、創価学会に籍は置いているものの、学会に疑問を持ち、すでに組織から心が離れている会員に遭遇(そうぐう)することも多い。そういう人の多くは、息子や娘が学会幹部であったり、親戚がバリバリの学会員であったりと、血縁関係のしがらみから抜け出せずに脳んでいるのである。
 そうした中でも、脱会して正宗に帰伏する者も出ており、信善寺支部の講員達は、今後も学会員宅へ足を運び、折伏する計画を練っている。
 何よりも、この活動を通して、講中が異体同心でまとまり、目に見えて活気づいていることが、最大の成果といえよう。
 安孫子御住職は、「活動者が増え続けているだけでなく、本当に講中が元気になってきたんです」と喜ぶ。
 今、信善寺支部は、平成21年『立正安国論』正義顕揚750年の目標に向かって、折伏に邁進(まいしん)している。



活動リポート
■御住職の道念のもと、前進する講中
―秋田県・勝法寺―
―毅然たる折伏で学会の邪義を粉砕!―

(『慧妙』H17.7.16)

【登山達成率は常に百%以上】
 勝法寺のある横手市は、秋田県南部に位置し、日本において利便度第1位(※人口に対する大型小売店店舗面積や金融機関数などから算出。東洋経済新報社・都市データパック編集部調べ)に選ばれるほど、生活環境に恵まれている。
 とはいえ、"かまくら"で全国的に有名になっているように豪雪の地でもあり、横手・平鹿地方は、11月から4月までの半年間、雪を見る。長く雪に閉ざされるせいもあって、住民の行動範囲は限られ、近所の道ですれ違う人はほとんど顔見知り、と言っても過言ではない。そんな横手・平鹿地方の人々の性質は、実直で穏和――車のエンジンを付けっぱなしで買い物ができるほど、安心できる地域なのである。
 勝法寺は、昭和60年1月19日に建立され、その後、初代住職・嶋応道御尊師の尽力によって、御宝前の荘厳や約4百坪の駐車場購入などの寺域整備がなされた。
 そして、平成5年5月4日、2代住職として土屋雄聡御尊師が赴任され、半年後の同年11月に法華講支部が結成された。
 県内では後発の法華講支部となったが、土屋御住職が「近隣の先輩支部に支えていただいたおかげで、成長してくることができた」と語るように、秋田においては、布教区内の協力関係も極めて良好で、現在は、布教区と地方部が、支院長・戸高堤剣御尊師(秋田市・妙華寺住職)を中心に僧俗一致して前進を続けている。
 例を挙げると、秋田県は、登山達成率が全国でも常にトップクラスである。その中で、勝法寺支部は、平成14年の「30万総登山」の参詣者は、目標数113名に対し実績数116名、達成率103%であり、また、去年・今年の夏期講習会の参加者も、連続して100%の成果を収めた。しかし、それでも県内では最下位、というから、秋田県の各法華講中の勤勉ぶりがうかがえる。
 また、今年からは、毎月の広布推進会の会場を各寺院の持ち回り制にした。自分達の支部が担当しなければならないということもあって、これが講員にとっては活性化につながり、大いに功を奏しているのである。
 さて、折伏であるが、勝法寺の法華講員は、これまでも学会員に対して精一杯の折伏を行なってきた。「日蓮大聖人の仏法は、総本山に厳然と伝えられてきた。総本山を根本にした信仰でのみ、成仏が叶う」「総本山から離れたばかりか、誹謗中傷までしている創価学会は、堕地獄必定である」と断言する折伏に対し、学会員らは、狂気の様相を呈して誹謗中傷してきた。
 その横手・平鹿地域の学会員らが、どのような現証を示しているかというと、「チェーンソーで足を切った」とか「ドブ川にはまって、死んでいた」「工事機械で自分の掘った穴にはまって、死亡した」など、不慮の事故が相次ぎ、また、「破産して、見る影もない」とか「いきなり老け込んで、みすぼらしくなった」「精神異常をきたして、施設に入った」「癌・脳卒中・脳溢血で死亡した」等々、目を覆(おお)いたくなるような姿を晒(さら)しているのである。
 法華講員のKさん宅に離脱僧・岡崎雄毅が訪ねてきた時のこと――同行してきた学会員が、岡崎に対し敬意を払うよう、強要してきた。それに対し、Kさんは、
 「御法主日顕上人猊下に破門された人は、僧侶なんかではない!学会員を騙(だま)して地獄へ導こうとする、悪魔である!」
と喝破(かっぱ)した、という。また、哀れな学会員に対しては、「あなたの行く末を思い、本当に心配しています。早く息子さん夫婦にもお話して、学会を脱会してください」
と涙ながらに訴えている。学会の誤りに気付いてはいるものの、家族とのしがらみで踏ん切りを付けられないでいる人が多いのも現実なのである。
 いまだに目に見えない村八分が横行している田舎で、その踏ん切りを付けることの難儀さは、都会では想像もできないであろう。しかし、そんな地域でも、勇猛果敢に折伏を行じている講員もいる。
 その1人、Tさんは、娘さんの嫁ぎ先である学会員宅に行って折伏をした。そうしたところ、相手側からは「今後、信心の話をするなら、この家には来てくれるな!」と宣言されてしまった。娘さんの立場などを考えれば、とかく躊躇(ちゅうちょ)してしまいがちだが、しかし、Tさんは、その後も『大白法』や『慧妙』を持っていっては、折伏を続けている。そのTさんは、「とくに、貪瞋癡(とんじんち)が強盛な学会員に対しては、『慧妙』が効果がある」と話しているが、Tさんの一念が通じて、娘さんが正信に戻る日が、いずれ訪れるであろう。


【変な学会員達も態度急変!】
 学会員らは、学会機関紙が真実を書いているものだと信じて疑わないから、なかなか救いようがない。副講頭宅に来る近所の狂信的な学会員は、「どうせ、貴女は学会には戻らないだろうね。でも、新聞だけでも読んでよ」と言って、性懲(しょうこ)りもなく『創価新報』などを置いていこうとする。副講頭は「よく分かりますネ、そのとおりですよ。絶対に大石寺の信仰からは離れません」と言い切り、「そんな下劣な新聞は一切いりませんから、持って帰ってください」とピシャリと言ってやるそうである。
 そんな副講頭も、近所の本当に気の毒な境遇の学会員・Rさんには、心を砕(くだ)いて折伏をしている。このRさんには、前出のKさんや講頭も入れ替わり立ち替わり訪問し、折伏しているというが、講員達が相手のことを心底から想い、相手の状況に合わせて折伏する姿は、御住職の常日頃のお姿の反映でもある。土屋御住職は、学会員にかぎらず、正信会や顕正会の者が来ても、門前払いはせず、寺へ入れて、まず、次のことを相手に確認する。
@次回からは、事前に電話でアポを取って来ること。
A宗門に敵対する側の機関紙に掲載されている記事については、もとより公正さを欠いているのだから話さない。
B大聖人の仏法を信仰して成仏を目ざしたい、という真摯(しんし)な気持ちからなら、話をしてもよい。
 御住職は、これらの事柄を前置きした上で邪義を破折されるのであるが、たとえば、ある日のこと、御住職が出かけようとした矢先に、ひと目で学会青年部と知れる2人がやって来て、「あんた住職?出かけるところ?時間ある?話がしたいんだけど!」と、ニヤケ顔で馴れ馴れしく言い寄ってきた。
 御住職が毅然(きぜん)として、「どちら様ですか」と尋ねると、学会員はたじろぎながら、「あっ、秋田市内から来た学会の青年部です」と答えた。すかさず、御住職が「君は、人にお願いする時の言葉の使い方も知らないのか」と一喝したところ、彼らは一変して神妙な態度になり、「すっ、すみませんでした…。お話を伺いたいのですが、よろしいでしょうか」と平身低頭。御住職が、完膚(かんぷ)なきまでに彼らの邪義を破折したことは言うまでもない。
 また、県幹部が地元の幹部と一緒に寺院にやって来たこともあったが、その県幹部は、御住職の正当な話に耳を傾けるだけで、反論らしいものは何1つできないまま、帰っていった。
 それだけでもお粗末な話だが、その際、同行した地元幹部が、まるで使用人のように扱われていたことも、じつに異様な光景であった。
 後日、使用人扱いされていた本人に、「年齢もそんなに変わらない人間に対して、『車からお金取って来い!』とか、『何だ!小銭を見つけきれなかったのか!』等と言って威張りかえっている人物が長に就(つ)いているような組織が、健全だと信じているのか」と問いかけると、その地元幹部は、困ったように苦笑いするだけだった。内心では、自分でもそうとう苦々しく思っていたのであろう。
 また、2人組の壮年部が来寺した時は、1人があまりにも非常識な上に、学会機関紙のデタラメ記事ばかりを口にするので、「君は、最初から聴く耳も持たず、徒(いたずら)に質問を投げかけているだけだ。そのような姿勢の者には答える必要もない。もし万が一、君が本当に聴聞の志を持って来るようなことがあったら、その時はきちんと話をしてあげよう」と、その場では一切、無視しておいた。
 そうしたところ、後日、その男が門前に立っているので、御住職が「君は日本語が分からないのか。アポも取らずに来るし、先日、話はしないと言っただろう」と言うと、彼は困ったような表情になり、「では、僕が常識を弁(わきま)えて、境涯が上がったら、話をしてくれますか?」と素直に(?)聞いてきたのである。
 また、来寺しては大声で喚(わめ)きちらし、『創価新報』を置いていく学会員がいる。この学会員は、学会の中でも厄介者扱いをされているらしい。
 ある時、御住職が、「あんたのことを、学会では『あいつは馬鹿だ』と言っているゾ」と、他の学会員を破折した際に得た情報を告げた。すると、その学会員は、「いいんだ。俺は馬鹿だから」と、本当に嬉しそうに答えたのである。まさに、創価学会の狂信性と害毒の恐ろしさを如実に示した姿である、といえよう。
 御住職は、「こんな度し難(がた)い者に対しての対応は、できるだけ時間を節約するようにしている」と苦笑する。
 そのように、土屋御住職は、まず、来寺する学会員の言い分を分析する。次に、彼らの発言が感情的なものであることを、彼ら自身に自覚させる。学会機関紙の話題を避けるのも、このゆえだという。つまり、機関紙を使って洗脳された彼らは、そのネタが使えなくなるので、自分自身で気持ちを整理せざるを得なくなる。そうして、彼らを冷静にさせた後、信仰の在り方を正してあげるのである。学会員の中には、御住職と一緒に唱題をしていく者もいたという。
 御住職は、
 「赴任当時は、青年部なんかが来た際には、どっちが恫喝(どうかつ)しているのか分からないくらい、私もケンカ腰でしたが、今まで在勤させていただいた住職さん方や、縁のある諸先輩から御教導いただきながら、まずは、人としての振る舞いが大切だ、ということを痛切に感じ、言動に気を付けているつもりです」と語る。法華講員もまた、そうした御住職のお姿に触れて、自然に折伏の在り方を会得してきたのである。
 また、土屋御住職は、
 「勝法寺支部は、まだまだ、飛躍的に折伏が伸びている状態ではありませんが、世帯別指導会の砌(みぎり)に御法主日顕上人猊下よりいただいた『原因を作れ』との御指南を指針として、倦(う)まず弛(たゆ)まず、精進あるのみです」
と、決意を語られる。
 そうした土屋御住職を指導教師と仰ぐ勝法寺の法華講員は、友人を脱会させた人、病院や温泉で同席した人を折伏する人、独立した子ども達を脱会させた人、正信会の者への折伏を敢行(かんこう)する人、学会葬に疑問を感じた後輩を脱会させた人等々、それぞれが折伏に励み、平成21年の御命題の年に向かって、前進しているのである。
 また、講中活動として、チームを組むことによって得手不得手を克服しつつ、『折伏教本』から抜粋して作ったパンフレットを学会員宅に配布したり、情報の共有化を進めたり等々、案件や問題点を提示しながら、1つひとつ具現化している最中だという。



活動リポート
■毎年誓願達成!溢れる折伏の歓喜
―福岡市東区 本佛寺―
―堂々たる折伏に学会も恐れ戦(おのの)く―

(『慧妙』H17.4.16)

 本佛寺のある福岡市東区は、市内7区の中でも最も人口が多く、交通至便の地の利を利用した物流施設も整備されて、市の副都心としての発展も期待されている地域である。
 本佛寺は、昭和42年、現在地に程近い東区筥松(はこまつ)に建立され、昭和54年に法華講支部を結成した。
 そして、昭和56年に第2代住職に着任された譯林洋道御尊師は、ひたすら寺院興隆に心を砕かれ、平成7年5月に現在地の東区松島へ本佛寺を移転。威風堂々たる法城が完成し、御法主日顕上人猊下をお迎えして、移転新築落慶法要が盛大に奉修されたのである。
 また、当初は小さな所帯であった法華講組織も、徐々に拡大し、現在は600世帯を超える陣容となり、さらに、正信に目覚めた人々が創価学会を脱会して続々と入講し続けている。
 福岡布教区(21ヵ寺)では、九州大支院長・秋山日浄御尊能化の御指導により、2月・4月・7月を「折伏戦の月」と定め、布教区一丸となって、それぞれの講中が掲げた年間の折伏目標を達成すべく闘っている。
 具体的には、教区全体を対象とした『折伏日報』が、毎日、各寺院・各支部にファックスで配信されてくるのであるが、そこには、その日報告された折伏成果が記載され、さらに、御法主上人猊下の御指南や支院長の激励指導等が添えられている。
 この『折伏日報』は、各講中の良き活力となっており、互いに切磋琢磨(せっさたくま)し、本年2月の折伏戦では教区目標の92パーセントを越える見事な成果を見た。
 本佛寺支部においても、御住職の陣頭指揮のもと、講員一同が、その折伏重点月を中心に折伏弘教を展開し、毎年、誓願を達成してきた。


【慈悲と確信で粘り強く―】
 昨年のある日、正信会の信者だという婦人が、正信会のいいかげんな納骨の在り方に悩んだあげく、自ら本佛寺に相談に来た。その方は、正信会の間違いに気づきながらも、「世話になっている」という思いから脱会できずにきたようである。
 残念なことに、その時は御住職が不在だったために、受付で話を聞くのみで、納得するまでには至らなかった。その後、その方はまったく連絡が取れない状態になっていたが、そのままにしないのが、本佛寺の法華講員の良いところ。
 御住職が常々、「折伏は慈悲行です。幸せの入り口で躊躇(ちゅうちょ)し、あと一歩が踏み出せないでいる人がいるならば、慈悲の思いで、相手の背中をそっと押してあげなさい。そして、その一歩を踏み出させてあげなさい」と御指導されていることを思い、婦人部の行動が始まった。
 何度その方の自宅まで通っても、不在ばかりで会うことができなかったが、しかし、諦めることなく通い続け、ようやく出会うことができた時は、かなりの月日が流れていた。
 まずはその場で話をし、この機会を逃さないようにと、すぐにその足でお寺にお連れし、御住職に折伏していただいたところ、その方は、信仰に対する迷いや悩みは全て払拭(ふっしょく)されたと喜び、晴れて勧誡を受けることができた。
 このように、普通であれば諦めてしまうような状況の中でも、「迷える人を救うのだ」という慈悲の心で、粘り強く頑張った婦人部の活動が、折伏の成果につながったのである。


【法華講の折伏にたじろぐ学会】
 また、ある学会の婦人部員は、学会のしつこい勧誘に負けて入会してしまったそうだが、宗門の悪口しか聞かされず、その愚かさに自ら気づいて脱会、本佛寺の法華講員の縁によって日蓮正宗の信心に付くことができた。
 この方の話によれば、学会では、入会するまでは良いことばかりを言っていたが、いざ入会してみると、勤行の仕方も教えてくれず、会合に出てみれば宗門の悪口ばかりで、とうてい、正しい宗教とは思えなかったという。
 その後、学会員らは、その方が法華講員になったの情報を聞きつけるやいなや、慌てて引き戻しにかかってきた。
 本佛寺の婦人部が3人で、その方の家に家庭訪問したところ、ちょうど、学会の婦人部や壮年部が引き戻しに来ている最中だった。
 法華講員は、常に御住職から「折伏の際は、相手の言動に惑わされてはなりません。臆することなく、相手を救うのだという慈悲の心で堂々と行なっていきなさい」との御指導を受けている。それゆえ、法華講員は、このような場面に遭遇してもいささかも動ずることなく、堂々と彼ら学会員に対して折伏を展開しようとした。
 ところが、驚いたのは学会員らのほうで、法華講員だと知るや、さっさっと帰りじたくを始めたのである。
 法華講員達は、ここで帰られてしまっては、せっかくの折伏の機会を失う、と思い、「一緒にお話しませんか」と優しく問いかけたが、学会側は断わるばかり。そして、連れ戻しにきたはずの婦人に向かって、「今度また来るから」と言い残して、早々に帰ってしまった。
 法華講員達は、「折伏のチャンスと思って張り切っていたのに、拍子抜けしてしまった」と、学会員らの無様な姿を笑っている。
 なお、学会を脱会して法華講員となった婦人のほうは、今では、寺院の行事や唱題会などにも積極的に参加し、求めていた真実の信心に巡り会えたことを、心の底から喜んでいる。そして、いまだに性懲りもなく尋ねてくる学会員に対して、『折伏教本』を手に、堂々と破折をしているのである。


【「平成21年」を目指して】
 本佛寺の法華講の組織は、当初、地域を6つに分けた6方面としてスタートしたが、現在は、世帯数の増加に伴い、きめ細やかな連携が取れるようにとの御住職の御指導により、2倍以上の15方面となった。
 それぞれの方面には、方面長と副方面長という責任者を設け、講員1人ひとりに御住職の御指導を行きわたらせるとともに、講員同士の細かい横の連携が取れるようになっている。
 各責任者は、
 「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」(御書1242頁)
との御金言を胸に、毎日の活動に励んでいる。
 各種の会合や唱題会も盛んに行なっており、それがまた、講中一結の原動力にもなっている。
 2月の大折伏戦も、四者が一丸となって唱題を重ね、支部の目標である10世帯を達成することができた。そして、この勢いを持続しつつ、次の目標達成に向けて準備を進めている。
 本年3月20日、当地では、震度6弱という福岡西方沖地震に遭遇したが、法華講員には大きな被害もなく、かえって、互いを気遣う団結の力を得ることができたという。
 本佛寺法華講の講員一同は、今後、平成21年「正義顕揚750年」の御命題達成を目ざし、指導教師・譯林洋道御尊師のもとで、さらなる前進を誓っている。



■三門前・国道改良工事が完成!
―宗旨建立750年慶祝のとう掉尾(とうび)を飾る事業―
―交通の安全と景観が格段に向上―
―行政も「この公益事業に感謝」と―

(『慧妙』H17.4.1)

 平成15年度から行なわれてきた、総本山大石寺の三門前を通る国道469号線の付け替え工事が完了し、3月25日、御法主日顕上人猊下をはじめとする宗門関係者ならびに、富士宮市長、県・市議会議員、地元代表者、工事関係者など200余名が参列して、国道付け替え部分ならびに潤井川(うるいがわ)に新たに架(か)けられた龍門橋(りゅうもんはし)の開通式が行なわれた。
 この工事は、宗旨建立750年慶祝事業の一環として、奉安堂建立に際して集まった御供養の一部をもって行なわれた、大石寺周辺整備のうちの1つ。
 したがって、道路用地ならびに工事費用の一切を大石寺が負担し、工事を行なった上で、国および富士宮市に対し寄付したものである。
 従来、三門前から大きく曲がっていく国道469号線は、見通しも悪く、自動車の走行に危険をはらんでいたが、このたびの付け替え工事によって、カーブはなだらかになり、見通しも広々と開けることとなって、格段に安全性が向上。同時に、美しい富士山が大きく望める、素晴らしい景観となった。
 こうしたことから、完工式で挨拶に立った富士宮市長、および県会議員からは、大石寺に対し、「本来ならば、行政が行なうべき公共事業を、大石寺で行なっていただいたということは、じつに画期的で有り難(がた)いこと」(発言主旨)との、最大級の賛辞が寄せられたのである。
 実際、工事完成後の、三門東側の交差点を観察してみると、交通の流れが非常にスムーズになり、国道利用者の便に資するのみならず、登山者もより安全に、交差点を利用できるようになった。そしてそれは、開通式後、3月26・27日にわたって行なわれた法華講春季総登山が、これまでよりひときわスムーズに運営されたことにも、ハッキリと顕(あら)われたのである。

[画像]:国道469号線の開通式では、日顕上人猊下と富士宮市長等が共にテープカット



活動リポート
■度々の試練乗り越え、磐石な講中に
―九州の玄関口・博多に燃える正信の火―
―福岡県・妙流寺―

(『慧妙』H17.2.16)

 妙流寺は、JR博多駅から1キロメートル、福岡空港国内線から3キロメートル、国際線より2キロメートルという、きわめて交通至便の地に、昭和49年に建立された寺院である。
 法華講支部は、昭和55年に100世帯に満たない数で結成されたが、程なくして、前住職の大塚順妙(現在は学会僧)が、数々の不行跡により住職を罷免(ひめん)される、という不幸な事件が起こった。これにより、昭和63年に、現在の宮澤親道御尊師が、第2代住職として着任されたが、この時すでに、大塚の問題で疲弊(ひへい)をきわめた講中は、100世帯から半減してしまっていた。
 宮澤御住職を新住職に戴(いただ)いて、本来の健全な法華講支部として態勢を立て直すまでに約2年の歳月を要し、寺院としても講中としても、やっと落ち着いた平成2年、創価学会問題が勃発(ぼっぱつ)した。(中略)
 池田が総講頭の地位を喪失した後、学会の組織は蜂の巣を突っついたように騒ぎだしたが、妙流寺の近辺には九州文化会館・九州平和会館・聖教新聞社等、学会の重要施設が建ち並んでいることから、妙流寺は格好の攻撃対象にされ、寺院はもとより、法華講員宅にも多数の学会員が徒党を組んで押し掛けてきた。
 その際、九州を代表する婦人部の大幹部が、学会の邪義を糾(ただ)されると、返答に詰まったあげく、目をつり上げて「学会が間違っていても、私達は池田先生についていきます!」と宣言して帰っていった。
 さらに、静岡の副会長から電話があった際、学会の謀略体質や組織悪を非難すると、その副会長は、「学会が怖い組織だと、今頃気が付いたんですか!」と、逆に居直る始末。
 また、平成5年頃、たまたま空港で会った副会長は、「御住職、学会員の参詣が減って、生活は大丈夫ですか」と、いかにも心配そうな顔で尋ねてきたという。少しでも弱みを見せれば、離脱勧誘の糸口にでもするつもりだったのであろうか。


【噴出する学会葬への反発】
 さて、妙流寺の法華講は、平成2年の学会問題が起きた当初、70世帯もなかったが、翌3年より学会の邪義に気付いた学会員が入講し続け、さらには、講中挙げて、掌握する学会員名簿を使って、訪問折伏や電話掛けなどを行なってきた結果、現在は300世帯を越えるまでになった。
 法華講の折伏に対し、学会は、「法論だ」と称して寺院まで青年部が徒党を組んで来たりしたが、彼らの言うことは、自分達に都合よく切り文した御書と、学会出版物の受け売りで、枝葉末節に終始し、仏法の基本になると答えに窮する始末で、新興宗教のみじめな姿を露呈するばかり。
 もちろん、学会の謗法が進めば進むほど、まじめに疑問を抱く会員もいる。
 ある人は、ニセ本尊を会館に返却しに行ったところ、断わられたので、寺院に持って来て折伏された。
 あるいは、学会葬を出した後に、幹部がサインペンで書いた下手な字の位牌や、全面にシールを貼った位牌(最近では文字の部分だけにシールを貼っている)を見て呆れ、すぐに脱会して入講する人もある。
 学会葬に関しては、参列した地域住民から、「異様な葬儀だった」との驚きと批難の声も多く聞かれる。葬儀社でさえも、「一般世間の仕事をしている者が導師をしている学会葬はモノマネそのもので、商売で引き受けてはいるが、できれば学会葬だけは引き受けたくない」と嘆くという。
 なお、最近の折伏では、学会員だけでなく、顕正会や正信会に属していた人が帰伏してくるケースも増えている。
 顕正会から来た人は、「御本尊に対する扱いが不敬そのもので、会長の浅井を仏のように仰ぐ狂った組織を目にして、疑問を感じた」と言い、また、正信会に属していた人は、「正信会僧は無信心でだらしない。民家に看板だけ掛け、納骨の経営許可も取らず、預かった遺骨を押し入れに無造作に入れて、ずさんな管理をしている」とか、「詐欺まがいの行為で警察に取り調べられた正信会僧を見て、正信会の誤りにやっと気が付いた」など、さまざまである。
 さらには、寺院が大通りに面しているので、「宗教について尋ねたい」と言ってくる無宗教の人もおり、じつに入信の動機は人それぞれで、順逆二縁を感じさせられる。


【誓願の早期達成目ざして】
 現在、講中の活動は、毎日曜日を早朝勤行と活動日と定めて、折伏活動に励んでいる。また、毎水曜日は唱題会と御書の拝読、第1日曜日の広布唱題会終了後は『折伏教本』の勉強会等を活動の原動力としている。
 さらに、誓願としての折伏と、支部総登山、夏期講習登山については、講中全体の目標を各地区に割り当て、広布唱題会や御講参詣者の出席者グラフと共に掲示して、各地区の現況を把握しやすいようにし、誓願達成に向けて頑張っている。
 また、妙流寺は、九州の玄関口とも言うべき地に位置するため、全国からの旅行や出張等のついでに立ち寄るという参詣者も多く、さらには、博多は古来よりアジアに開かれた都市でもあったので、東南アジアから訪れる法華講の方もおり、これまで数回にわたって、海外信徒との交流も重ねてきた。
 そうしたなかで、増え続ける海外信徒の方々の登山サポートの力になれれば、との志から、講員の中でも英語講師を職業にしている人や海外留学経験者等を中心に、毎月、信心を基盤とする英語の勉強会も行なっている。
 御法主上人猊下御指南の「立正安国論正義顕揚750年」の平成21年まで、残すところ4年となったが、妙流寺支部は、本年の折伏の誓願を35世帯と定め、早期達成に向け、僧俗一丸となって前進を続けているのである。



活動リポート
■100世帯、そして200世帝へと前進!
―学会の害毒に慄然!いや増す折伏意欲―
―富山県本徳寺―

(『慧妙』H17.1.1)

 本徳寺のある富山県南砺(なんと)市(昨年11月に合併して、砺波(となみ)郡から地名変更)は、石川県金沢市とを隔てる医王山脈と、さらに合掌造りの集落が世界遺産に指定されている五ヶ山山脈の、2つの山脈に囲まれた砺波平野の山懐にある。
 昨年秋には、異常気象の影響か、全国各地に熊が出没して大変な話題になったが、南砺市でも24件の熊騒動があり、本徳寺の近所にも熊が出てくる。
 そのような環境の中で、目下、講員一同、誓願成就に向かって活動を展開しているのである。


【100世帯を目指して】
 本徳寺が建立されたのは、昭和63年10月―それから程なくして、創価学会の謗法化が始まり、初代住職・重竹雄徳御尊師のもと、学会を離れて同寺に所属した信徒によって「本徳寺を守る会」が結成された。
 その後、法華講支部を結成し、学会の度重なる妨害にもかかわらず、再折伏を開始。平成7年10月に久保田雄啓御尊師が第3代住職として着任された時、法華講の実質世帯数は42世帯であった。
 平成8年、御住職から、「まずは100世帯を目指そう」との折伏目標が示された。
 そして、住所・氏名が判っている学会員宅・約500世帯を、全て地図上にチェックし、それをもとに折伏を開始した。
 まず、『大白法』や『慧妙』、さらに、創価学会の悪事を暴いた週刊誌などの記事をコピーして配布。時には、講員有志が『慧妙』を300部・400部と購入して、学会員宅に配布したことも。
 そのような活動をしているある日、御住職と講員2名で折伏に出かけようと、夜の8時頃、車で寺院を出発した。しばらくすると、後ろから尾行してくる車に気付き、それをかわすべく、一旦、寺院に戻って、逆にその不審車の跡を追ってみた。すると、その不審車両は、こちらの存在に気づかないまま、学会の会館に入っていったのである。この学会員らのマヌケぶりには、全員で大笑いになった。


【「依法不依人って?」】
 平成11年4月の日曜日―岡元講頭のグループが学会破折の資料を携(たずさ)えて折伏に赴(おもむ)いたところ、壮年部のKさんが、学会の過ちに気付き、脱会を決意した。Kさんはニセ本尊を処分して、翌月の初めに勧誡を受け、めでたく御本尊をいただくことができた。
 ところが、それからが大変なことに―。
 勧誡を受けたその日の夜、Kさんは、数人の学会壮年部に付き添われ、本徳寺に御本尊を返却しに来たのである。
 Kさんのオドオドした態度に、「これは脅(おど)されているな」と感じた御住職は、その場では何も言わずに御本尊を受け取ったが、深夜、Kさんから寺院に電話が掛かってきた。
 Kさんは、
 「学会の会館に連れて行かれ、『御本尊を寺院に返せ』『学会に戻ると言え』と、執拗(しつよう)に言われ、その後、ムリヤリ、学会員に寺院へ連れて行かれたが、学会に戻る気持ちはない。法華講でやっていきたいので、何とかしていただきたい」
と言う。
 翌日、御住職と数人の講員がKさん宅を訪問したところ、Kさんは留守だったが、家人の話では、「近くの学会員が呼びに来て、そちらに運れて行かれた」とのこと。さっそく、その学会員宅に行くと、家の周りに多数の車が駐車しており、会合をしている様子だった。
 玄関に入り、本徳寺の住職と信徒の代表者である旨を告げると、ゾーン長と呼ばれる学会員(職業は教師)と青年部や婦人部が顔を出した。
 御住職が「Kさんに会いたい。Kさんが来ているでしょう」と言うと、学会員らは、「来ていない」と言う。
 「こちらに来ていると聞いてきたのだから、いるはずだ」と言うと、学会の青年部に付き添われたKさんが奥から出てきた。
 御住職がKさんに対し、「学会にいたくないのなら、この家を出ましょう」と声を掛けたが、本人からの返事はない。さらに御住職は、「無理に連れて来られて、出られないのであれば、『助けてくれ』と言いなさい。すぐに警察に連絡をしてあげるから」と言ったが、やはりKさんは悲痛な面持ちで黙ったまま。
 ゾーン長に対して法華講員が、「あなたは教育者であり、生徒に善悪を教える立場ではないのか?信仰は自由のはず。なぜ、本人の希望どおりにしてあげないのだ」と指摘したが、彼らは「帰れ!帰れ!」と言うばかり。
 以下は、その時の御住職とゾーン長のやりとりの要旨である。
 御住職「学会の指導は、昔と違って、とんでもない間違いだ。」
 ゾーン長「学会は間違っていない。宗門が謗法になったのだ。」
 御住職「仏法は、法に依らなければだめでしょう?」
 ゾーン長「それは依法不依人ということで、天台大師が言った言葉だよね。」
 御住職「あっ、間違えてる!お釈迦様が法華経で述べられたお言葉じゃありませんか?」
 ゾーン長一「ん、ん、そう、法華経、法華経!」
 ここで、御住職と法華講員は大笑い。
 御住職「残念でした!天台大師でも、法華経でもありません。法華講員は知っていますよ。自分で調べてくださいね。ゾーン長は教育者だと聞いていたから、教学力をチョット試してみたんですけど、学会員の前で恥をかかせてごめんなさい。では、今日はこれで失礼します。」
 その夜、再びKさんより電話が寺院にあった。
 Kさんは、「あの時は、後ろから捕まえられていて、外へ出ることはできなかった。怖くて何も言えなかった」と言って、さらに、「どうしても総本山に行きたい。学会にはいたくない」と言うので、後日、再び、御住職と講員が訪問をして、「2度と学会の誘いに乗らないように」と諭(さと)し、御本尊を安置申し上げた。


【これって犯罪ですよ】
 その一件と前後したある日の夜、御住職と数名の講中役員が折伏の打ち合わせを終了し、本堂(2階)横の控え室で雑談をしていたところ、いきなり襖(ふすま)が開けられたので振り向くと、見知らぬ若い男が2人、立っていた。いきなりの侵入に唖然としながらも、御住職が「君らは誰だ!」と聞くと、「学会の青年部です。住職と話がしたい」と言う。
 御住職が、「そんなことは玄関先で言いなさい。なぜ、断わりもなく、ここまで入ってくるんだ」と叱ると、彼らは、「玄関で声をかけたが、返事がないので上がってきた」と言う。
 さらに御住職が、「君達は、他人の家に行って返事がない時は、そのままその家に上がるのか」と詰問すると、彼らは言うに事欠いて、「この寺院は学会が建てたのだから、我々にも入る権利がある」と言う。あまりにもバカバカしくて、これには全員が吹き出してしまった。
 彼らの役職を聞くと、リーダー格の男は「ゾーンの男子部長」で、もう1人は「支部の男子部長」だとのこと。
 御住職は、資料とテープレコーダーを持ってきて、いちおう話に応じてあげたが、彼らは学会の情報を鵜呑みにしており、何を言っても理解不能状態。多少うんざりしてきた頃、「イケダ山の桜の木を切った」という話題になった。
 御住職が、学会の情報のデタラメさを説明してあげた上で、「一番わかりやすい問題だから、自分の目で確かめてきなさい。その上で、どちらがウソか本当か、もう1度話をしよう。ウソを言ったほうは、正直に誤りを認め、相手の軍門に下ること。それでどうだ」と言うと、彼らは自信がなくなったのか、返答に窮し、「自分で見てから、また来る」とだけ答えて帰ろうとした。
 御住職は、「ちょっと待ちなさい」と引き留め、「あなた達の今日の行動は、本来なら家宅侵入罪になる。帰る前にその事を認め、一言謝るべきではないか」と。
 それでも「声を掛けたが返事がなかったから」と言い訳するゾーン男子部長に、「他人の家を訪問して、返事がなかったら上がるのか。それじゃ空き巣だな」というと、ゾーン男子部長君は沈黙。
 もう1人の支部男子部長・S君に「あなたは若いようだけど、結婚はしているの?」と聞くと、「最近、結婚しました」と言う。以下、その時の会話―。
 御住職「奥さんや、奥さんの御両親も学会に入っているの?」
 S君「いえ、両親のほうは入っていません。」
 御住職「あ、そう。あなたが、今日したことは、犯罪だと思わないか?」
 S君「……」
 御住職「あなた達がここまで上がってきた時点で、私が110番通報をしていたら、あなた達はどうなったと思う?新婚の奥さんは喜ぶかね。奥さんの両親は、そんなあなたに可愛い娘を嫁(とつ)がせたことを、どう思うかね?」
 S君「・・・・・」
 御住職「私は、将来のあるあなた達を犯罪者にしたくないよ。自分達は、正しいことだと思っても、自分達だけの理論で物事を判断してはだめなんだよ。物事の善悪をよく考えて行動しなさい。奥さんやその両親のことも考えなさいよ。」
 S君「申し訳ありませんでした。」
 S君は、うつむきかげんで謝った。
 御住職が、もう一方のゾーン男子部長君に「あなたも、ね」と言うと、彼も、渋々ながら「どうもすみません」と。
 彼らが帰った後、居合わせた講員は、学会がいかに会員を騙(だま)しているかということや、本来はまじめで素直な青年達を犯罪行為にまで走らせる学会の非道さに、改めて怒りを感じ、ますます折伏の意欲を燃え上がらせた。


【暴力、そしてセクハラ】
 こうして折伏してくる中、創価学会から離れて法華講員となる人は後を絶たず、平成8年時点で42世帯であった本徳寺支部は、平成14年頃には、実動講員だけでも100世帯を超えるまでになっていた。
 その一方で、盲信の学会員らは、害毒によって人格に異常をきたした、としか思えない姿を露呈するようになった。
 平成15年2月のある日、岡元講頭が、婦人講員と共に学会員宅に折伏に出かけた時のことである。
 相手の学会員は、面識のある壮年部のN。岡元講頭が資料を渡そうとすると、それまで普通に会話していたNは、突然怒り出し、足蹴りを掛けてきた。
 講頭達は、Nの異常な変貌に戸惑いつつ、まともに話ができる状態ではないと判断し、引き上げることにして自家用車に乗ろうとした。するとNは、木片を持って、いきなり講頭の後ろから殴(なぐ)り掛かってきたのである。この時、講頭は頭に一撃を受けてしまった。
 突然の出来事に、講頭は一瞬、受けて立とうかと思ったそうだが、思い直し、そのまま寺院に戻った。
 それを聞いた講中の人達は、「その学会員は命拾いしたね」と言い合った。というのも、岡元講頭は、穏和な性格の方だが、じつは、柔道5段の猛者(もさ)だったのである。まともに反撃していたら、Nはひとたまりもなかったであろう。
 後頭部を強打された岡元講頭は、念のため、病院で診察を受けたところ、「3週間の安静を要する」との診断が下った。
 その後、講頭はN宅に抗議に行き、Nに謝罪文を書かせたが、それにしても、それまで普通に会話をしていた人物が、突然、凶暴化するなどというのは、明らかに異常である。学会の害毒の一端を垣問(かいま)見るようで、じつに恐ろしいかぎり。
 また、それ以外にも、いきなりセクハラ行為に及んだ学会員もいた。
 それは、ある日曜日の昼、女子講員が1人で、地図を頼りに学会員宅を折伏に回っていた時のことだった。
 相手は70代くらいの壮年部。女子講員からの折伏に対して反論不能となったその学会員は、何をトチ狂ったか、いきなりその女子講員に襲いかかり、胸をワシづかみにしてきたのである。
 寺院に帰ってきた女子講員からそれを聞いた御住職は、直ちに、彼女を伴ってその学会員宅に抗議に行った。
 すると、本人は不在ということで、夫人が対応に出てきた。夫人は、夫の非を詫びるどころか、「学会員の家を回るからいけないんだ」の一点張り。
 そこで御住職は、「わかりました。では、この事を公(おおやけ)にします」と言って、岡元講頭が受けた暴行に関する『慧妙』の記事を示した。すると、主人の破廉恥(はれんち)行為が記事化されるという重大性に我を取り戻したか、夫人は態度を一変させ、「申し訳ありませんでした。主人によく言っておきます。どうか記事にしないでください。お願いします」と懇願(こんがん)する始末。
 夫婦揃っての異常ぶりに、これまた、学会の害毒の恐ろしさを思わずにはいられない。

 折伏に燃える本徳寺支部は、昨年11月28日(日)に「大折伏座談会」を企画。その前哨戦(ぜんしょうせん)となった9月より、全講員一丸となって折伏活動を展開した結果、その日までに7世帯の成果を見た。
 中でも、11月に2世帯の折伏を成就した壮年部員は、学会から法華講になってまだ1年足らずだが、「まずは自分の足元を固める」と決意し、自分の子供やお母さんを折伏したのである。
 こうして人材も揃(そろ)いつつある現在、本徳寺支部は、200世帯を目指し、「足を引っ張るな、手を引っ張れ!」を合い言葉にして、日々、折伏に励んでいる。

[画像]:平成15年2月、本徳寺・岡元講頭は、折伏に行った際、訪問先の学会壮年部に暴行され、3週間の安静を要する負傷。



活動リポート
■妙観講と含同で折伏戦を実施!!
―一斉攻撃にたじろぐ学会員ら―
―静岡県磐田市 宣正寺―

(『慧妙』H16.12.16)

 宣正寺のある磐田市は、高級メロンの生産地であり、ヤマハ発動機・スズキ自動車などの大企業や、サッカーチーム・ジュビロ磐田の本拠地としても全国に名を知られた、人口約9万人の市である。
 宣正寺は、もともとは昭和60年、創価学会の「200ヶ寺寄進計画」(※実際は111ヵ寺)の23番目として建立された寺院であったが、手狭な上に立地条件も悪く、不便をきたしていたので、昨年12月、その地をあとにし、法華講員の御供養によって現在地に移転建立した。
 新寺院は、北は全国屈指のトンボの里として知られる桶ヶ谷沼(おけがやぬま)などの自然保護区を背に、北東には富士山を眺望できるという、まさに風光明媚(ふうこうめいび)な場所にあり、さらに南側には国道やバイパスがあって、交通にも恵まれている。
 学会寄進の寺院の典型として、当初、同寺に法華講はなかったが、創価学会の謗法化が鮮明になった平成3年疑問を抱いた人達が学会を離れ、続々と同寺に所属
 さらに同じ頃、他寺からの移籍という形で、清水市の妙盛寺に所属していた法華講員のうち、磐田市および近隣に所住する77世帯が宣正寺の所属となった。この方達は、明治大正期より代々信仰を受け継いできた、というケースが大半である。
 そして、ある程度の所属信徒が揃った平成3年11月法華講支部を結成した。
 なお、明治大正期よりの信徒は、もともと日蓮宗身延派から数世帯が宗旨替えした、というのが始まりで、当時は近くに正宗寺院がなかったため、2時間から3時間もかけて、清水の妙盛寺まで通い、さらに、村八分をはじめ様々な迫害がある中、折伏を進めて講中を形成してきた、という歴史を持つ。その講中は、「中泉講申」とも「中遠法華講」とも称され、第60世日開上人、第64世日昇上人より常住御本尊を賜(たま)わって、今日までしっかりと厳護してきたのである。


【御講・登山の参詣者急増!】
 現在、宣正寺支部においては、折伏・御講・支部総登山の3つを柱として、活動を行なっている。
 具体的には、折伏は、3ヵ月に1度の割合で「見学登山会」を計画し、3ヵ月にわたって折伏してきた方々を、総本山見学に誘って
いる。
 これまでの成果としては、登山された方の7、8割が、脱会あるいは入信を決意している。
 学会員の中には、「桜の木を全て切った」とか「登山すると、何十万円もとられる」とか「境内は荒れ放題」などという学会の情報を鵜呑みにしていた人も多いが、実際に総本山を見学したことによって、学会の情報は全部ウソだったと気付き、その場で脱会を決意し、塔中坊において勧誡を受けて帰る人もいる。
 また、毎月の御報恩御講は、御住職・今野信圓御尊師の
 「普段、何気なく生活していると思うが、常に御本尊様に守られていることを忘れてはならない。人から物をもらって、ありがとうと言わない人はいない。御本尊様から功徳をいただいて生活させていただいているのだから、ありがとうございますという気持ちを込めて、御報恩御講に参詣することが大事である。また、参詣できないでいる家族や、班員を誘うことも化他行にあたる」
との指導を身に体し、常の家庭訪問の中で推進してきた結果、以前は130名前後であった参詣人数が、ここ2年の間に、200名を越えるほどになってきた。
 支部総登山も同じく、最低でも3ヵ月前から準備を始め、家庭訪問で推進するようにしたところ、以前は200名ほどの参加者だったが、今では300名前後が登山できるようになった。


【画期的試み!合同折伏】
 そのように、御講・支部総登山は右肩上がりで増えてきたが、一方、折伏については、思うように成果につながらないことから、最近、講中にやや疲弊感が漂ってきていた。そこで、新たな活路を開くために、御住職から画期的な提案が出された。
 それは、今まで使ってきた学会員の名簿を整理し、さらに、学会に対する折伏の急先鋒ともいうべき妙観講支部にも協力してもらって、大折伏戦を展開しよう、というものであった。
 これには目的がいくつかあり、もちろん、折伏誓願を達成するため、ということもあったが、1つに、妙観講の人達と一緒に折伏することによって、講中に新しい風を入れ、折伏に対する歓喜を呼び起こすこと、2つに、今までマンネリ化していた下種先にも、新しい切り口で変化をつけていくこと、であった。
 そして、それは、11月7日・日曜日に実施されることとなった。
 この計画が本決まりになるや、宣正寺講中の有志達は大いにわき上がり、名簿の整理やチームの割り振りはもとより、少しでも効率よく回われるよう、訪問先の道順調べなど、現地調査も含めて、入念な準傭に取りかかった。
 そして迎えた当日―、宣正寺支部からは約70名、妙観講からは31名の参加で、まずは、午前9時からの広布唱題会から1日が始まり、その後、3名1組の両講混合チームを作り、学会員宅への一斉(いっせい)折伏を敢行(かんこう)したのである。
 創価学会の連中も、突然の出来事に泡を食ったのか、普段なら、電話で連絡を取り合って、講員の回って行く先々に妨害要員が押し掛けてくるのだが、この日は男子部らしき応援が来たのは1ヵ所だけ、あとは妨害という妨害もなかった。
 なかには、幹部と言えばこちらが怯(ひる)む、とでも思ったのか、「幹部の所に行こうか!」と言ってきた学会員もいたが、当然、こちらがそんなことで怯むはずもない。むしろ、"渡りに舟"とばかりに、喜んでその学会員を車に乗せ、幹部宅に案内してもらった。そして、400件以上も学会葬の導師をしたという幹部・Sを折伏したのである。
 また、他にも、「うちは幹部だから、帰れ!警察を呼ぶぞ!」などと、訳のわからないことを理由に、家の中に逃げ込んだ学会員もいた。
 さらに、拠点となっている学会員宅では、話をしている間中、怯えたように体をブルブルと震わせていたり、あるいは、こちらに話をさせまいとして、一方的に悪態をつきまくる婦人部等々、予想していたこととはいえ、学会は折伏されるのを恐れている、という現実が、あちこちで露呈されたのである。
 その一方で、一幹部や、家を拠点にしている学会員の中でも、「学会の間違いはわかっているが、抜けることができない。うちは日達上人の御本尊を安置している。学会の本尊には替えたくない」と本音を言ってくる人も何人もいて、悩んでいる学会員が多数いることもわかった。
 また、現証が出ている人も少なくない。
 10年前に「仏法は勝負だから、10年後に会って話しましょう」と言っていた婦人部の家を訪問すると、その婦人は、ガンに冒され、発見した時は手遅れだったということで、すでに亡くなっていた。
 また、脱会者に対して何度も邪魔をしていた婦人(50代)がおり、その人に対しては再三話してきたのだが、今回、あらためて行ってみると、そのお宅は留守であった。近所の人に聞いてみると、つい最近、ガンで亡くなった、ということであった。
 その他にも、学会員には深刻な病気を患っている人が多く、顔の相も悪く、生命力のない人が多い。
 今回の準備にあたり、寺院で掌握している昭和60年前後の名簿をもとにしたが、夜逃げ同然で出て行った家や、売り地になっている家など、流出者が多く、半分近くはすでにそこに在住していなかった。事情はいろいろあるのだろうが、地方都市において、半数がわずかの期間にいなくなってしまう、というのは尋常ではない。


【"新しい風"で講中に活気が!】
 さて、11月7日の活動では、勧誡が1世帯・御授戒が1人で、すぐに大きな成果に結び付いたというわけではないが、大変多くの下種先が獲得でき、さらに、脈のある対象者が多くいることがわかった。今後、大きな成果につながっていくものと思われる。
 そして、伺より、講員一人ひとりが折伏の歓喜を得られたことは、大きな成果であった、といえよう。参加した宣正寺の講員達は、「妙観講の方達の折伏に取り組む姿勢に触れ、様々なことを学んだ」と、口々に語る。それを具体的に挙げてもらったところ、
@ほとんど毎日、活動をしていること
Aどんな相手でも、粘り強く折伏をすること
B折伏先に多くの資料を持参し、相手の疑問をその場で打ち払うこと
C学会の邪義に対する破折の要諦をしっかり勉強しており、確信をもって破折していること
等だそうである。そして、「私達も同じ法華講なのだから、違いはない筈。自分達にも折伏ができるんだ、という確信を抱くことができた」との声も。
 今、宣正寺支部においては、人から言われなくとも婦人部の同志達が本堂に集い、唱題・座談会・折伏や育成と、毎日のように活動を進めている。
 また、講中全体としても、今までの折伏を見直し、新たに、下種先拡大班・活動者管理班・折伏資料班の3班に分かれて準備をし、毎週水曜日に、折伏実践に向けた勉強会や報告会を開き、大きく動き出そうとしている。
 これにより、折伏の輪もどんどんと広がり、多くの学会員を救い出すことができるであろう。



活動リポート
■講中挙げて取り組んできた学会破折
―合言葉は「学会員を軒並み折伏!!」―
―福岡県筑後市 諦聴寺―

(『慧妙』H16.11.16)

 諦聴寺のある筑後市は、福岡県南西部に位置し、水田が広がるのどかな地域で、人口は5万人弱。近隣には、八女(やめ)茶で有名な八女市や八女郡、川下りや詩人北原白秋の故郷として知られる柳川市、家具造りの町として栄えた大川市、山あいの矢部村・星野村などがあり、これらも諦聴寺支部の活動範囲である。
 中でも八女は、九州において最初に創価学会の支部ができたという地域で、地元の学会員は"九州創価学会の発祥の地"との自負が強く、それだけに諦聴寺を取り巻く学会員の結束は強固なものがある。
 そうしたなかでも、創価学会が宗門に反逆して謗法集団となった平成3年には、多くの学会員がいち早く学会を離れて、諦聴寺に付いた。そして、その年の12月、54世帯の信徒によって、法華講諦聴寺支部が結成されたのである。
 以来、諦聴寺支部は、「学会員の家を、全て折伏しよう」との御住職・近藤恒道尊師の指導のもと、講中挙(あ)げて学会員に対する折伏に取り組んできた。
 その活動の際は、まず地域ごとの拠点(日曜日などは、寺院を拠点とすることもある)に集まり、それから手分けして学会員宅を一斉に廻るのであるが、いくら地元とはいえ、知っている学会員宅は限られている。そこで、まずは学会員宅を探さなければならない。公明党の掲示板を見つけては訪問し、シキミが植えてあれば訪問し、あるいは見知らぬ家に飛び込んで、「この辺に学会員はいませんか」と聞いて訪問する、ということもあった。
 そのようななか、学会問題が起こってから2、3年ほどが経(た)った頃、学会から諦聴寺住職に対し、「寺院退去要求書」なる署名簿が送付されてきた。破門された者どもが"退去要求"とは筋違いも甚(はなは)だしい愚挙(ぐきょ)であるが、御住職をはじめ、講員一同は、これを大いに喜んだ。というのも、その署名簿には、当地の学会員の名が、ほぼ網羅(もうら)されていた(!)のである。
 諦聴寺の法華講員達は、「おかげで、これを手掛かりに、地域の学会員の全世帯といってよいくらい、再折伏することができました」と笑う。
 こうした、講中挙げての折伏活動の結果、支部結成当時は54世帯だった講員も、今では300世帯を超えるまでに成長し、さらに400世帯、500世帯を目指して前進し続けているのである。
 なお、遠隔地などで寺院参詣が困難な講員のために、3年前から御住職が宅御講を開始され、これによって異体同心の輪がさらに拡がっているが、「破邪顕正の年」の本年は、方面別を機軸(きじく)とした活動を充実させ、方面ごとに誓願を立てて折伏に取り組んできた。もちろん、必要に応じて、各部や支部全体として応援に出向くこともある。
 本年に入ってから現在までに、10数世帯の学会員を脱会・入講させることができたが、多くの学会員は、相も変わらず、「大石寺は桜の木を切った」とか「正本堂を壊した」とか「血脈が切れている」などと繰り返して、まともに話も聞けない状況である。
 しかし、時には不信を抱いている学会員に出会うこともある。9月に入講した、壮年Aさん(60代)の場合もそうした例である。
 Aさんは、小学生の時に両親と共に入信し、中学生の頃は、毎週土曜日に行なわれていた勉強会に参加し、熱心に教学を学んだという。ところが、ここ数年の学会は、昔に教えていたことと全く違うことを言っている、ということで、現在の学会のあり方に強く疑問を抱くようになった。また、自分自身に不幸なことが重なったり、周りの学会員を見渡しても、不幸な現象が多く見られることに不安を感じてきていた。さらには、2年前に母親の葬儀を学会葬で行なったが、それにも違和感を感じ、最近のAさんは、学会活動から、だんだん遠ざかるようになっていた。
 そのような折、法華講の婦人部Bさんから折伏を受けたのである。
 Bさんは、折伏したいとの一念で唱題をしていたところ、息子の友人の家が学会員であることを思い出し、その家に赴(おもむ)いた。そうしたところ、父親であるAさんがおられて、学会に不信を抱いていることを打ち明けてきた。
 それを聞いたBさんは、何としてもAさんを救いたいと思って真剣な唱題を重ね、2度目の訪問は御住職にも同行していただいた。その結果、Aさんは、学会を脱会し、晴れて日蓮正宗に帰伏することができたのである。帰伏されてからのAさんは、まるで靄(もや)が晴れたみたいにすっきりし、気持ちに張りが出てきた、と喜んでおり、実際、以前よりも表情が明るくなったのが傍目(はため)にも判るほどに変わってきている。
 このように、まともに話ができたケースは幸いであるが、訪問先の学会員が快く家に上げてくれて話を聞こうとしているのに、しばらくすると学会の幹部や青年部が数名で現われて、話をさせまいと妨害する、というケースも多い。
 また、事前に罠(わな)が仕掛けられていることもあり、ある時などは、学会の婦人部が「住職の話を聞きたい」と法華講員に連絡をしてきたので、日時を決め、御住職がその法華講員と一緒に学会婦人部宅を訪問したところ、家に上がって席に着くなり、学会の青年部4、5名が現われた。学会婦人部と青年部の間であらかじめ計画されていたようである。
 いかにも学会らしい、卑劣(ひれつ)な騙(だま)し討ちだが、御住職は、学会婦人部の「住職と青年部とのやりとりを聞き、その上で判断したい」との言葉を受けて、代表1人を決めさせ、話を始めた。しかし、次々と難癖(なんくせ)を付けて、勢いだけは"勝った"ことにしたい謀略(ぼうりゃく)部隊が相手では、まともな対論になるはずもない。1時間半か2時間ほどして、これ以上は時間の無駄と判断した御住職は話を切り上げたが、「話を聞きたい」とは、よくも言ったものである。

【学会による「脱講運動」の呆れた実態】
 また、学会の「脱講運動」と称する活動も常軌(じょうき)を逸(いっ)しているので、以下に紹介する。
 今年の8月、自ら「話を聞きたい」と法華講員に連絡してきた学会婦人部Cさんが、後日、寺院で話を聞き、喜んで入講した。
 ところが、その後、別な学会婦人部3人が寺院にやって来て、Cさんの脱講届と、寺院からお貸し下げした御本尊を置いて行ったのである。
 すぐにCさん本人に確認したところ、1人暮らしのCさん宅に学会員が何度も来て、執拗(しつよう)に脱講を迫るので、しかたなく脱講届を書いてしまった、ということであった。Cさんは、いまなお、学会の強引さに怯(おび)、えているが、法華講員が時折訪ねては、学会に対し毅然(きぜん)とした対応ができるよう、励ましている。
 こうした例は今までも何度かあり、たとえば、ある老夫婦が、法華講員に折伏され喜んで学会を脱会し入講したのだが、学会の圧力に屈し御本尊を返納した。
 その際、本人が学会壮年部に連れられて寺院に来たので、御住職は、本人だけを応接間に通して話を聞くことにした。本人は怯えており、なかなか口を開こうとしない状況だったが、しばらくすると、学会壮年部が応接間まで入ってきて、そのお年寄りを連れ出し、御本尊をむりやり受付に置かせ、立ち去ってしまったのである。この時、20人近くもの学会青年部が付いてきていたというから、お年寄りが怯えるのも無理からぬことであろう。
 学会員宅に折伏に廻る法華講員の後を、学会の青年部が尾行してくることもしばしばで、数年前のある時、御住職が学会員宅を訪ね、帰ろうとすると、外で学会幹部2名が待ち構えていた。彼らは、「学会員の家を廻るな!」と詰めより、御住職の顔に自分の顔を近づけ、「くそ坊主!」と罵声(ばせい)を浴びせてきた。
 その後しばらくは、その幹部に会うこともなかったが、本年に入り、御住職が学会員宅に赴いて、玄関先で話をしていると、たまたま何かの用でその幹部がやって来た。御住職の顔を見るなり、慌(あわ)てて帰ろうとするので、御住職が「一緒に話をしましょう」と声をかけたが、その幹部はそそくさと帰ってしまった。その姿は以前の時とはまるで別人で、集団になると勢いづくが、1人では何もできない、という学会幹部の実態を象徴しているといえよう。

【仏罰の現証に喘ぐ学会員】
 ご多分に漏れず、当地でも学会員の身に降りかかる仏罰の現証は歴然としており、倒産・急死・事故死・火事で住宅が全焼するなど、不幸な現証が続発している。諦聴寺には、仏罰の現証が出て学会の誤りに気付き、脱会した、という講員が何人もいるが、今後も折伏を続けていけば、こうしたケースが増えてくるであろう。
 なお、もちろん、折伏は学会員に対してだけでなく、一般の人に向けても展開している。縁のある人はもちろん、まったく面識のない家庭を訪ねて折伏することもあるが、いろいろな悩みを抱え苦しんでいる人に出会うことがある。
 すぐに入信とはならなくても、下種ができ、また、講員にとっては、謗法がもたらす害毒の恐ろしさや、正法を信仰することの有り難さが再確認でき、大変有意義な活動となっている。
 折伏を進める講中は常に明るく、活気に満ちているものだが、諦聴寺支部は、まさに、それを実証しつつ前進を続けているのである。



活動リポート
■謀略蹴散らし折伏に燃える講中
―初信者を拉致して脱講謀つた学会―
―岩手県花巻市 法王寺―

(『慧妙』H16.10.16)

 法王寺は、岩手県花巻市にあり、隣接する北上市ほか5町村が主な活動範囲である。
 この地域は、地方独特の農村風景の中にも、温泉やスキー場などの観光施設も数多く、また、近代化を目指した工業団地や流通団地が点在するなど、老若共存の社会を作りゆく発展的な地域である。
 法華講法王寺支部は、平成4年2月に結成され、平成6年4月、原田篤道尊師が御住職として赴任されてから、「6万総登山」「客殿落慶・10万総登山」「宗旨建立750年・30万総登山」をはじめ、毎年の講習会登山も全て、結集目標を達成してきた。
 現在は、「正義顕揚750年の佳節である平成21年までに倍増ないしそれ以上」との新たな御命題のもと、250世帯の達成を目ざし、唱題と折伏に全力投球の毎日である。とくに本年は、「折伏成果ゼロの月をなくそう」を合い言葉として取り組んできたところ、10月5日現在で、誓願した折伏目標の達成率は73パーセントとなっている。
 また、本年は、宗門として「破邪顕正の年」と定められ、年頭には御法主日顕上人貌下より、「1つには、自分の内の邪である慢(きょうまん)・懈怠(けたい)・計我(けいが)・浅識(せんしき)等の十四謗法を破すこと。もう1つは、外の邪である邪義邪宗を破折すること」が示され、とくに外に対しては、現時における"一凶"たる創価学会を破折していくことの大切さが示された。
 法王寺支部においては、役員会で、毎月2、3項目を重点項目として定め、それに基づいて活動している。
 日常の具体的な活動は、「一切を開く鍵(かぎ)は唱題行にあり」との御指南を拝し、まずは唱題行の充実を心がけている。
 毎日、決まった時間に寺院で1時間の唱題行を行ない、さらに、毎週土曜日と水曜日の夜には勉強会を行なっているが、現在の教材は『折伏教本』である。
 この他、3方面を持ち回りで、月1回の唱題会と折伏座談会も行なっている。
 また、この唱題行に参加した講員達は、終了後は、真っ直ぐ家に帰るのではなく、必ず下種活動や家庭訪問などをするように心がけている。
 さらに、御住職が個人宅に訪問しての唱題行も行なっているが、これは身体が不自由であったり遠隔地に居住するなどの理由で、なかなか寺院に足を運べない講員を対象に、御住職自らが体を運んで共に唱題行に取り組んだことに始まる。今では、個人や班などからの願い出によって、その件数も増え、唱題行はいっそう充実してきている。
 そして、こうした中で、講中はより活性化し、毎月の折伏成果につながってきているのである。
 中でも、婦人部のYさんは、本年、2世帯の折伏を成就させている。まず、Yさんの娘さんの同僚であるAさんが1月に御本尊を受けたのであるが、じつはAさんは、5年間にわたる折伏の末、1度は平成14年4月に入信を決意したものの、御本尊を受けることを拒み続けてきた。すると、交通事故を起こしたり、職を失ったりして、まるで流浪の身となってしまったのである。そんなAさんを見かねたYさんは、まず朝晩、自宅へ呼んでは一緒に勤行と唱題をしていった。その結果、Aさんは、新たな職を得るなど、信心の素晴らしさを感じ、2月に、無事、御本尊を迎えることとなったのである。
 また、4月の末、Yさんが班員宅へ家庭訪問した際、そこに1人の女性が訪ねてきた。その女性・Sさんに対して折伏を開始し、5月に入って唱題会終了後、御住職にも手伝っていただいて話したところ、入信を決意。無事に御本尊も御下附いただくことができた。
 ところが、その後、創価学会の婦人部がSさん宅に選挙のF取りに来て、御本尊を見つけ、Sさんがまだ初信者で何もわからないのをよいことに、「お寺はお金がかかるよ。後で請求書が来るよ」と脅しにかかり、次の日には壮年部と婦人部で徒党を組んでやって来て、「脱講届を出せ。御本尊を寺へ返せ」と詰め寄ってきた。そして、彼らは、Sさんを両脇から押さえ込み、オドオドして口もきけない状態となった彼女を、御住職の留守中にお寺へと連れて行き、脱講届けを出したのである。
 それから数日間、学会員は、朝早くから夜遅くまで、Sさんを会館や幹部の家へと連れ回し、脱講マニュアルに沿った拉致監禁(らちかんきん)まがいの謀略活動によって、Sさんを法華講員から遠ざけた。
 Sさんとの連絡が取れない中でも、Yさんは、「創価学会なんかに負けてたまるか!」と自分に言い聞かせては、班員さんにも協力を頼み、1日に3回、4回と、家庭訪問を繰り返した。そうして、ついにSさんに会うことができ、Sさんを再び法華講に引き戻すことができたのである。
 創価学会の悪どいやり方を体験したYさん達は、以来、前にも増して学会員に対する折伏に励み、またSさん自身も、「絶対にお寺から離れないで、強い覚悟で信心する」と言い切って、御講にも欠かすことなく参詣している。
 北上市においても、学会員の仏罰の現証は歴然と顕われてきており、圏幹部Tが、自分の勤める施設に入所していた精神障害者を妊娠させた、というトンでもない事件が、全国ニュースになった。また、脱講運動を繰り返し行なっていた仲の良い婦人部同土が、創価学会の会館前で、加害者と被害者になる人身事故を起こし、被害者は今でも正常な生活に戻ることができないでいる。まさに創価学会は、悪業・病巣の栖(す)と化している、と言ってよいだろう。
 また、今かち5年前の平成11年9月、法華講員宅での御住職出席の会合中に、2人組の学会男子部が乗り込んできたことがあった。その中心人物はKという。
 Kは、『河邊メモ』とやらを振りかざして日顕上人を誹謗してきたが、御住職の追及に言葉を失い、ついには「改めて対論をしたい」と申し出た。
 これに対し御住職は、「法王寺住職として対応する。言った言わない、の愚(ぐ)を避けるためにも、そちらの対論の相手や議題を書面にて提出するように。それを検討し、こちらからも書面にて返事をする」と言い、Kもこれを了解した。
 そうしたところ、年が明けた平成12年1月11日の消印で、差出人名にはKの名字のみが記された封書が届き、中には、作成日不明の対論の「申出書」と「確約書」の2通が入っていた。それ以来、双方6回に及ぶ書面の往復が続いた。
 創価学会側は、法王寺住職・原田篤道尊師を対論者として指名、法王寺側は、聖教新聞紙上で原田御住職を中傷していた上田副会長を指名した。ところが、上田副会長が対論を拒(こば)んだために、結果的に法王寺の勝利が確定してしまったのである。
 途中、創価学会側は、法王寺側からの書面において、血脈否定の邪義を破折され、また、正本堂建立御供養を学会がネコババしたことを指摘されても、一切反論ができず、ひたすら敗走の道を選ぶほかはなかった。
 ちなみに、創価学会が対論かち逃げることができないよう、書面で確約させようとしても、彼らは、ザルで水をすくうような文面をもって「確約書」と称し、逃げ回る。そうして後ずさりしながら、負け犬の遠吠えのごとく、「法論しよう!」「対論しよう!」と叫ぶのである。ともあれ、逃げの一手を講じながら、一方で「勝った」と騒ぐのが、創価学会の常套手段であることを知っておくべきだろう。
 なお、その時の往復書簡については、左記URLにて公開中である。
http://ww5.et.tiki.ne.jp/~hara19/hou-keika/keika.htm
 さて、対論の申出者であり、かつ創価学会側の交渉役であった男子部・Kであるが、その後、婿(むこ)入り先から追い出されて旧姓に戻り、挙げ句の果てに北上市に居住することもできなくなって、名実共に敗走してしまった。これも仏罰の現証というべきであろう。
 池田教にマインドコントロールされた創価学会員からの嫌がらせは、今後も続くと思われる。しかし、法王寺支部は、こうしたことにもけっして臆(おく)することなく折伏を進めていけるよう、『創価学会員のための折伏教本』の学習会などを通じて、即応折伏の強固な態勢を作り上げ、もって正義顕揚の御命題完遂に向けて大前進することを決意している。



活動リポート
■慈悲の折伏で発展した大華寺講中
―哀れ!法論に敗れ逃げ回る学会―
―福島県いわき市―
(『慧妙』H16.9.16)

 東北の玄関口である福島県には、創価学会などが出現するはるか以前からの歴史を有する寺院が多く、中でも仙台に次ぐ東北第2の都市であるいわき市には、3ヵ寺の正宗寺院があり、常磐広布の拠点として活発な弘教を展開している。
 そのいわき市の中心地に位置する大華寺は、とりわけ対創価学会の折伏において、大きな成果をあげてきた。

<お笑い・法論の後日譚(ごじつたん)>
 平成12年3月30日には、いわき市・中山公民館にて、大華寺御住職・白井運道尊師と創価学会代表・大野某による「公開法論」が行なわれたが、双方の30名ずつの聴衆を前にして、白井尊師が「ニセ本尊問題」等を指摘して大勝利。その後、地元の学会員は、大華寺法華講員の折伏から逃げ回る日々を余儀なくされた。
[画像]:白井運道尊師に本尊偽造の動かぬ証拠を突きつけられ思わず横を向く学会青年部代表・大野某
 法論後のある日、学会男子部宅に折伏に赴(おもむ)いた白井尊師に対し、その男子部は、「大幹部に貴方を折伏してもらうから、一緒に会館に行こう」と息巻いてきた。そのように言えば、白井尊師が逃げるとでも思ったのであろうが、白井尊師が即座に「いいですよ」と応じたものだから、男子部は当惑の表情を見せつつも、引っ込みがつかなくなり、一緒にいわき文化会館へ行くことになった。
 ところが、会館に着いたものの、中では大慌(あわ)てだったらしく、しばらく外で待たされたあげく、ようやく出て来たE総県長が、中の学会員に聞こえないような小声で「この間、法論をやったんだから、こんな所まで来なくてもいいでしょ」と、泣き言を言ってきたのである。結局は話し合いにもならない。
 幹部に折伏してもらえると思って白井尊師を連れて来た男子部は、最初の勢いはどこへやら、まるで青菜に塩のごとくしぼんでしまっていた。後で幹部に怒られたであろうことは想像に難くない。
 またある時は、法華講員が、知り合いの学会員を折伏するために、白井尊師に同行をお願いし、事前に相手に連絡をしてから訪問したところ、その学会員宅にはすでに大勢の学会員が待機していた。
 彼らは、法華講員だけを中に入れて脱講を迫ろうという魂胆(こんたん)だったらしい。白井尊師の入室を拒否するために外に出てきた学会員に対し、白井尊師が、大音声で「だから創価学会は世間の人から非常識と言われるんだ!」と一喝。すると、学会員らは、近隣住民の反応を気にして滑稽(こっけい)なほどに慌てふためき、その場を取り繕(つくろ)うのに必死になっていた。

<姑息な"意趣返し"を嗤(わら)う>
 このように、地元の学会員らは大華寺からの折伏に恐れおののき、逃げ回ってきたが、さすがに創価学会としては、このままではまずいと思っていたのであろう。本年初頭、創価学会教学部長斉藤某の邪難書を各寺院に送り付けたことを機に、活路を開こうとしたのか、仙台などの地元以外の男子部が何回か寺院にやってきた。
 ところが、彼らがやって来るのは、御住職が不在の時ばかり。まるで、不在の時を狙って来ているとしか思えない。
 受付で御住職夫人から不在を告げられると、彼らの顔には、明らかにホッとした安堵の表情が浮かぶ。それを見て取った御住職夫人から、「そんなに嫌なら、無理して来なくてもいいんじゃないですか?」とからかわれる一幕も。
 「住職は逃げも隠れもしないんだから、電話して住職の予定を確認してから来てください」と申し渡してあるにも拘わらず、その後も、1度の電話もないまま、御住職不在の時を狙った訪問が何度か続いたのであった。
 ところが、驚いたのは、その後―まったく男子部が姿を見せなくなってしばらくした5月3日、突如として『聖教新聞』に、「男子部の訪問に寺に引きこもる白井運道」という誹謗記事が掲載されたのである。
 要は、これが書きたかったということなのであろう。
 思えば、以前に本紙が「いわき市の聖教新聞販売店が閉鎖に追い込まれた」との記事を掲載して、大きな反響を呼んだが、今回の誹謗記事は、その意趣返しでもあったのかもしれない。
 白井尊師は、「とうとう私も『引きこもり』にされてしまいましたよ」と笑い、さらに、「いくら学会員とはいえ、若いうちから姑息(こそく)なやり方ばかり覚えるのではなくて、青年なら青年らしく、信仰に対する真摯(しんし)な姿勢をもって行動してもらいたいものだ」と、学会の思惑に奔弄(ほんろう)される学会男子部の行く末を案じる。さすがに、慈悲の折伏を実践される日蓮正宗の御僧侶ならでは、のお言葉である。学会青隼部は、よく承っておくがよい。

<罰に怯(おび)える学会員>
 さて、折伏を進めてくる中で、学会の幹部に続々と罰の現証が出てきているので、その一部を紹介する。
 学会壮年断のYは、最初のうちは法華講の様子を探ろうとして話を聞くふりをしていたが、いよいよ脱会を迫られると本性をあらわにして、訪問した御住職に対し、玄関先で悪口雑言を浴びせてきた。それからしばらくしてから法華講員が再訪問すると、脳に水が溜まるという原因不明の奇病に冒されて入院してしまっていた。その後、一旦は退院したものの、さらに高血圧で倒れ、現在も入院中だという。
 また、学会婦人部のSは、「日顕(上人)を退座に追い込むために題目をあげるんだ」などと、身体を震わせながら大声で日顕上人の悪口を言っていたが、その数日後に「クモ膜下出血」で倒れ、救急車で緊急入院して手術を受けた。よほど懲(こ)りたと見え、退院した後は、「もう貌下様の悪口は言わない」と言っているが、まだ脱会には踏み切れないでいる。
 その他にも、地元病院の精神病棟に入院している患者に学会員が多いことには驚かされる。こうしてみると、学会員の罰の現証は、頭に出るケースが多いようである。まさに御本尊様の右肩に認(したた)められた「若悩乱者頭破七分」の誡文は真実である、との確信を強くするものである。
 やはり、こうした現証を身近で見ているせいもあるのであろう、とにかく学会員は罰を極度に怖れているようで、法華講員が訪問すると、最初に「罰論を言わないでくれ」という言葉が出てくる。だが、そう言っていた中の1人、壮年部Wも、7月下旬に原因不明の病気で入院した。
 また、少し折伏から遠ざかっていると、この間まで元気だったはずなのに、いつの間にか死亡していた、というケースも非常に多い。
 そうした現実に、白井尊師は、「訪問して話した学会員は、一様に体をブルブル震わせて、必死で学会にしがみつこうとしているが、そうした姿を見るにつけ、謗法に対する憎しみとは別に、哀れさを感じてしかたがない。幹部からの『3年待て、5年待て』という引き延ばしの言葉を真に受けて、日和見(ひよりみ)な態度を繰り返している学会員に対しては、堕地獄という厳しい現実を突きつけての折伏が肝要であり、我々正宗僧俗が果たすべき急務の事項だと思う」
と語る。

 このように折伏を展開してくる中、大華寺は年間50世帯以上の折伏を連続して成就し、5年間折伏0の月はない。また昨年末12月に挙行された「大華寺建立25周年」当日には、ついに念願の400世帯を突破した。
 最近の活動の重点としては、やはり「一切を開く鍵は唱題行」との御法主日顕上人猊下の御指南を拝して行なっている毎日の唱題行と、「折伏推進会」、また『折伏教本』の勉強会を連日行ない、学会員宅への訪問の際には各自が必ず携行して、活発な折伏活動を展開している。
 ちなみに『折伏教本』は、学会員に購呈すると捨てられてしまう恐れがあるので、大華寺支部では原則として「貸す・返して貰う・感想を聞く」の「3K」を基本方針としている。そして、平成21年の『立正安国論』正義顕揚750年に向かい、支部500世帯達成を目指して大前進中である。



活動リポート
■宣行寺(埼玉県草加市)
―嫌がらせを物ともせず学会を折伏―
―毎日の唱題行を根本に活気漲(みなぎ)る講中―

(『慧妙』H16.8.16)

 宣行寺の所在地である埼玉県草加市は、その昔は日光街道2番目の宿場町として栄え、近代においては、首都近郊の都市として急速に発展してきた町である。
 宣行寺の法華講は、平成3年の結成以来、御住職・村上節道尊師のもと、異体同心で積極的に折伏活動を展開してきており、現在は千世帯を超える講中となっている。
 ことに本年は、御法主日顕上人猊下が、「破邪顕正」の意義につき、
 「『立正安国論』の「如(し)かず彼(か)の万祈を修せんよりは此の一凶(いっきょう)を禁ぜんには』の一凶とは、現代では、池田創価学会であり、何より創価学会を破折していくことが肝要である」
と御指南せられ、また、
 「内には、自分自身の心の謗法・邪悪を破していくことが非常に大切である」
と御指南されておられることを真摯(しんし)に受け止め、御住職の教導のもと、自行の深化と学会に対する折伏に精力的に取り組んでいる。

 日常の具体的な活動をのぞいてみると―お寺では、平日の昼は婦人部を中心に午前11時から12時まで、夜は壮年部・青年部を中心に午後7時から8時まで、土曜・休日は全講員を対象に、午前9時から10時まで・午後2時から3時まで、というように、毎日、御住職の導師による唱題行が設けられている。そして、その唱題行を中心に、祈っては折伏し、折伏しては祈る、という実践を活動の基本にしている。
 こうした中で、講中はより活性化し、実証も目に見えて増してきている。
 たとえば、婦人部Sさんが担当するチームは、もともと学会からの脱会者が多く、その人達は学会時代にお寺に来る習慣がなかったせいか、自分流の信仰から抜けられず、まとまりのない状態で、それがSさんの悩みの種でもあったのだが、まずは1人でも多くの人にお寺に来てもらい、御住職と共に題目をあげてもらう、ということから始めた。
 そうしたところ、昨年に発心したばかりのKさんは、週1回はお寺での唱題行に参加し、結果として、昨年と今年、連続して折伏を成就させることができた。
 そのKさんは、「学会では、末寺の意義や手続(てつぎ)の師の大切さなど、大事なことは何一つ、教えられなかった」と言って、学会と法華講の違いをあらためて認識し、さらに、「結果に執(と)らわれず、折伏していくこと自体が楽しくなり、それに伴ってたくさんの功徳をいただいている」と喜んでいる。
 また、同じチームのFさんは、お寺の唱題行に通うようになってから3週間目の先月、ついに、学会員の息子さんを正宗に帰伏させることができ、「祈りが成就した」と喜んでいる。
 こうした、短期間のうちの顕著な実証を目の当たりにしたSさんは、「いかに、僧俗和合の信心、僧俗和合の唱題が大切であるかを、あらためて感じました」と語る。
 また、折伏の最前線で活躍してきたSさんは、「学会員に対する折伏においては、完全に洗脳されてしまっている人、学会の誤りに気付いても情の部分でやめられない人等々が多くて、話が進展せず、悩んできたが、今回『折伏教本』が出版されたことで、折伏しやすくなり、講中に元気が出てきた」とも言う。
 その事例として、かつては学会の幹部であったある講員は、『折伏教本』に自分の名を書き、「読んで、感想を聞かせてほしい」と言って、知っているかぎりの学会員に渡している。中には、受け取ることすら拒絶する人や、『聖教新聞』を付けて送り返してくる人もいるが、読んでくれる人も多いという。
 そのようにして学会員を折伏し続けてくる中で、先月7月には、昔、共に学会活動をしていた人が脱会して、法華講員となることができた。その脱会者は、「最近の学会はおかしい」と感じて学会の会合から遠ざかり、御本尊も、どんなに幹部から勧められても「ニセ本尊」には交換しないでいたそうである。そういう学会員も、まだまだ、たくさんいる、ということであろう。
 現在、講中では、3人1組で学会員宅に折伏に回っているが、その際、@お山に行きたいか、A学会の会合に出ているか、B勤行しているか、Cニセ本尊であるかどうか、を聞き、相手の状態に応じて話を進めている。
 大方の学会員は、こちらの話をまともに聞こうともせず、教え込まれた学会のマニュアルに沿って口汚なくまくし立ててくるが、そうした中でも、「ニセ本尊」の件に関してだけは、皆が皆、反論不能になる。まともに答えられる道理もないが、一般の学会員には「ニセ本尊」との指摘がかなりこたえるらしい。
 さて、折伏を受け、本年、めでたく学会を脱会して法華講員なったばかりの人によれば、埼玉県の学会では、T県長が会合の席で、
 「脱会者は地獄に堕(お)ちる。犬畜生以下で、蝿(はえ)や蚊にも劣るから、踏みつぶしてもいい
と檄(げき)を飛ばしたという。
 しかし、脱会して法華講員になった人達がかえって良くなっている、という現実も知っているその人は、県長の言葉に疑問を感じ、ついに脱会を決意することができたのである。
 脱会者の引き戻しに忙しい学会は、会員が脱会したと知るや、相変わらず、無言電話などの嫌がらせをしてくるが、中でも最も許し難いのは、80才を過ぎた1人暮らしの老人に対する一件である。それは―夕方、「お母さん(故人)の知り合いなので、お参りさせてほしい」と言う女の人が来たので、ドアを開けたところ、いきなり学会の壮年部4人が入ってきて、御本尊様を見るなり、「これは日顕(上人)の御本尊だ!お寺に行かないという念書を書け」と1時間も責め続けたのである。学会員に脅迫のごとく責め立てられたその人は、あまりの凄(すさ)まじい言動に、命の危険すら感じたそうである。
 さて、学会員の身には、次々と仏罰の現証が現われている。
 最近の例でも、法華講員宅に乗り込んでは嫌がらせをしてきた学会の支部幹部が、50代の若さで急死。また、わざわざお寺に来て日顕上人の悪口を言っていたK市議も50代で急死。地元のT幹部は、倒産して夜逃げをした。
 さらに、関係者からの情報によれば、地元の病院に入院している精神障害の患者の多数が学会員だ、という。
 現在も、学会の法華講員への嫌がらせは続いており、寺院の駐車場で、講員の車がパンクさせられたり傷つけられたり、講中幹部宅を見張られたり尾行されたりなどしているが、何かあったらすぐに警察に通報することになっており、今では警察がすぐに来てくれる態勢となっているという。
 そして、こうした嫌がらせを物ともせず、宣行寺の法華講員は、果敢(かかん)に折伏活動を展開し続けているのである。

[画像]:唱題の声がこだまする宣行寺の本堂

[画像]:新入信・入講者への研修会。教学の研鑚も盛ん



宗務広報第957号
平成15年10月7日
■眞光寺(千葉市)が正常な宗教活動を再開
―元住職・菅野正見を排除して新住職が赴任―
(『大日蓮』H15.11)

 眞光寺(千葉市)住職であった菅野正見は、自らの不行跡により住職罷免の懲戒処分に付されましたが、後任住職に寺院を明渡さず不法に居座り続けました。そこで宗門は菅野を擯斥処分に付すとともに、眞光寺の明渡しなどを求める訴訟を提起しました。
 この訴訟は1審千葉地裁(宗務広報第933号)、2審東京高裁(宗務広報第948号)ともに、宗門側の完全勝訴判決が下されていたところ、これを受けて菅野は退去し、昨10月6日、新住職(新井契道師)が眞光寺に着任し、その奪還は滞りなく完了しました。
 平成21年・立正安国論正義顕揚750年の御命題に向かい、その出発となる本年に、眞光寺も新たな出発を期して正常な宗教活動を再開し、新住職とともに僧俗一丸となって広布の大道を邁進できることは、御仏意と深く拝し、更に精進をつづけて参りたいと思います。
眞光寺 新井契道師
〒265-0043 千葉市若葉区中田町504番地1



宗務広報946号
平成15年8月16日
■恵楽寺(鹿児島県国分市)が正常な宗教活動を再開
―元住職・遠竹照道を排除して新住職が赴任―
(『大日蓮』H15.9)

 元恵楽寺住職・遠竹照道は、宗務行政上の措置として住職を免ぜられましたが、後任住職に寺院を明け渡さず不法に居座り続けました。そこで宗門は遠竹を擯斥処分に付すとともに、恵楽寺の明渡しなどを求める訴訟を提起しました。
 この訴訟は宗門全面勝訴でした(宗務広報942号)が、この判決を受けて、本日、遠竹は恵楽寺を新住職(小薮正靖師)に明渡して退去し、恵楽寺の奪還は滞りなく完了しました。
 平成21年・立正安国論正義顕揚750年の御命題に向かい、その出発となる本年に、恵楽寺も新たな出発を期して正常な宗教活動を再開し、新住職とともに僧俗一丸となって広布の大道を邁進できることは、御仏意と深く拝するものです。
以上



■合葬骨埋葬地に題目碑建立
(『大日蓮』H15.8)

 7月1日午前10時より、御法主日顕上人猊下大導師のもと、大納骨堂および大名墓地に隣接する合葬骨埋葬地において題目碑建立法要が奉修され、読経、唱題と、埋葬者に対する懇(ねんご)ろな回向が行われた。
 この法要には、八木日照大石寺主任理事をはじめ、塔中・山内の教師および渡辺定元大石寺総代が列席した。
 合葬骨埋葬地は、昭和52年に、それまでに全国の信徒から合葬依頼のあった遺骨が御先師日達上人立会いのもとで埋葬され、日達上人の大導師により読経、唱題、回向がなされた上、日達上人の御指示により大石寺に由縁の古代杉が植栽されていた。
 今回、御法主上人により、埋葬地の周囲に柵が設けられ、正面に題目碑が建立されて、その開眼法要が奉修されたものである。

[画像]:題目碑建立法要(『大日蓮』H15.8)



■正信会占拠の白蓮院、宗門へ復帰
(『大日蓮』H15.1)

宗務広報923号
平成14年12月9日

<東京都江戸川区白蓮院、宗門へ復帰>
 本日、これまでいわゆる正信会僧侶により不法占拠されていた白蓮院(東京都江戸川区)が、約20年ぶりに宗門に返還されました。
 これは、同教会元主管・古谷得純が、御法主日顕上人に対し奉り、本宗の教義及び信仰の根幹である血脈相承を否定して管長を誹毀讒謗したことを猛省し、深くお詫び申し上げたうえ、返還に及んだものです。
 同人は、昭和57年2月5日付の擯斥処分が有効であって、現在は白蓮院主管の地位にないことを認め、秋元広学渉外部長の立ち会いの下、兼務主管・梶原慈文師に同教会を明渡しその財産一切を引渡しました。
 なお、本日付で新たに夏井育道師が主管に任命され赴任しました。今後、同師が白蓮院主管としての職務を執行してまいります。
以上



■奉安堂竣工式(H14.10.8)
(『大白法』H14.11.1)


メッセージ/前田利祐氏

 菊薫る佳き日に、記念すべき式典が盛大に挙行されますことを心からお喜び申し上げます。
 せっかくの御招待でしたが、出席できず残念です。
 前田家の先祖は、大聖寺藩第10代藩主・前田利極公の正室、加賀藩第12代藩主・前田斉広公の息女・勇姫が大石寺の信仰に篤く帰依され、前田家の献上品も多く大石寺に残されており、深い御縁で結ばれております。
 このたびの慶事を契機に、猊下をはじめ皆様の御多幸と御宗門の御発展を御祈念申し上げます。
 本日は、まことにおめでとうございました。