創価学会破折
日精上人問題



関連年表/『富士年表』ほか

日俊・日寛・日東各上人の評価

『日因随宜論批判』について

日亨上人の評価について

上人方の連係による善導/<法蔵>H18.11.19
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造仏について
造仏の文証

法詔寺の仏像

『随宜論』の目的と曼荼羅正意

教主釈尊と大聖人
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『家中抄』
編集姿勢と亨師の頭注
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『日蓮聖人年譜』
「或る抄」について

御行法之事(正行・助行)
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『法主詐称』破折/『大白法』H16.2.1

創価学会による日精上人に対する再々度の疑難を破す/法義研鑚委員会『大日蓮』H10

創価学会による日精上人に対する再度の疑難を破す/時局協議会文書作成班1班
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日辰の本尊観

『末法相応抄』/第26世日寛上人『富士宗学要集』第3巻




関連年表(『富士年表』ほか)

元和9(1623)年
・敬台院、法詔寺建立

 
元和10(1624)年
・法詔寺に仏像安置
予 法詔寺建立の翌年、仏像を造立す(『富士宗学要集』第9巻69頁)

 
寛永8(1631)年
・新寺建立の禁止 以後度々発令(『日寛上人と興学』)
 
寛永9(1632)年
・第17世日精上人、御登座

・本末帳の作成(本末制度) 以後何度も実施。各宗派の本寺は末寺を支配するために様々な権利を有するという、寺院の厳格な上下関係が築かれました。(『日寛上人と興学』)
 
寛永10(1633)年
・第18世日盈上人、御登座
・日精上人、『随宜論』を著す(『富士宗学要集』第9巻69頁)

 
寛永12(1635)年
・寺社奉行設置
 
寛永14(1637)年
・春 日精上人、江戸より帰山(再住)
・日俊上人、御誕生
・日精上人、敬台院の推挙により公儀の年賀に乗輿を免許せらる

 
寛永15(1638)年
・日精上人の教化を受け、常泉寺は大石寺の末寺に移り、常泉寺の末寺である下総国(千葉県)中田真光寺が大石寺の孫末寺となった(『新版仏教大辞典』初版)
・日精上人、隠居して江戸に出られ、常在寺を再建(同)
 
寛永17(1640)年
・この頃、日精上人と敬台院の間に隙(げき)が生じる(『続家中抄』)

・幕府は、寺請制度を設けて、宗門改役を設置しました。 宗門改役は、絵踏などをさせて、キリシタンや日蓮宗不受不施派かどうかを取り調べました。これを宗門改めといいます。キリシタンでないことが証明されると、宗門改帳(宗旨人別帳)に記載されます。一度定められた寺院を変更することは出来ません。定められた寺院を檀那寺といい、記載された人を檀家とか檀徒(施主)といいます。こうした制度を寺請制度と言います。(<エピソード高校日本史>WS)
 
正保2(1645)年
・第19世日舜上人、御登座
・法詔寺を阿波徳島に移し敬台寺を創建

 
慶安3(1650)年
・日永上人、富士上条に御誕生

 
万治2(1659)年
・日精上人、大石寺客殿安置大聖人御影を造立

 
万治3(1660)年
・日精上人、大石寺客殿安置日興上人御影を造立

 
寛文2(1662)年
・富士門家中見聞『家中抄』3巻を著す

 
寛文3(1663)年
・日蓮宗への自讃毀他の禁止(『日寛上人と興学』)
 
寛文6(1666)年
敬台院殿妙法日詔卒

 
寛文8(1668)年
・3.17 壱部頓写千部読誦・色袈裟衣着用の儀について大石寺の法式として奉行所に報告(北山文書)

 
寛文11(1671)年
・この頃『日蓮聖人年譜』を著す
 
延宝8(1680)年
・第22世日俊上人、御登座
・日精上人、甲斐杉山有明寺安置日有上人御影を造立
 
天和3(1683)年
日精上人、御遷化
 
貞享4(1687)年
日因上人、御誕生
 
貞享5(1688)年
・第23世日啓上人、御登座(日宗年表・『大日蓮』H18.12)
 
元禄2(1689)年
・3.3 日東上人、御誕生
・3.6 日俊上人、弁破日要義を著す
・3月 大石寺、北山(重須)本門寺と宗論して出訴
・7.5 北山僧日要、大石寺を寺社奉行に訴う
・11.16 北山本門寺より大石寺を寺社奉行に訴う
 
元禄3(1690)年
・2.18 日俊上人、寺社奉行に返答書を出す
・3.27 大石寺・北山本門寺両寺出訴を取下ぐ
 
元禄4(1691)年
日俊上人、御遷化(※日因上人5歳)
 
享保3(1718)年
・第26世日寛上人、御登座
 
享保10(1725)年
・日寛上人、『六巻抄』を再治
 





日俊・日寛・日東各上人の評価


【「且く」について】
<『日蓮聖人年譜』>
●(『日蓮聖人年譜』の「或る抄」について)精師且(しばら)く他解を述ぶ。是れ即ち日辰の意なり。故に本意に非ざるなり。是れまた他解なり。正義に非ざるなり(第26世日寛上人『抜書雑雑集』)
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愚かにも「且く」とは「一時」あるいは「かりそめに」という意味だから、「日精の本意ではない」などという歪曲を主張しましたが、江戸時代の言葉なのですから、現代風の「かりそめに」とかではなく、ここでの「且く」は「少々」とか「わずかに」の意味と解釈するべき(旧sf)
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●四脇士を造り副うるは是れ五人の義に非ず興師一機の為に且く之を許す義なり、故に日興が義と言う、是れ正義と謂うには非ざるなり(第26世日寛上人『末法相応抄』)
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四菩薩添加は、第2祖日興上人にとって「且く之を許す義」だと仰せである。その上で「是れ正義と謂うには非ざるなり」と仰せなのである。つまり、且く用いた義=当人にとっての正義ではない、ということである。だからこそ、日寛上人は「是れ正義と謂うには非ざるなり」と仰せになったでのある。
 ただし、「四脇士を造り副うる」ことは「且く之を許す義」であるから「日興が義と言う」のであるが、『日蓮聖人年譜』の「或る抄」については完全なる引用であるから「他解」である。しかも日精上人自身、『日蓮聖人年譜』中において「或る抄」を破折されているのであるから邪義であり日精上人の「本意に非ざる」ことは当然である。

[しばらく]=①少しの間 ②かりそめに、仮に(『例解古語辞典』第3版三省堂)


<『随宜論』>
●日東上人云く、精師且く日辰の義を述ぶるなり。随宜論と号す。云云(第31世日因上人『日因随宜論批判』)
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上記同様、『随宜論』は日精上人が「且く」用いた義であるからこそ、「日辰の義」を述べたに過ぎず、日精上人の本意ではないという意味になる。
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なるほど!あなたのこれまでの諸々の主張の中で、初めて文証も理証も不十分ながらも満足できる論理に出会うことが出来ました。日寛上人、日東上人共に、日精の主張を日辰の邪義だと明確にしつつも、「且」の文字をもって「時間軸を伸ばすことで」日精の全否定を回避し、自他門流の疑網を打ち払おうとされた訳ですね。当時の状況も含めて、少し理解できました。(旧sf)
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「少し理解できました」全然、理解できていない(笑い)。「日精の主張」というが、少なくとも『日蓮聖人年譜』の場合は「或る抄」の引用であり、日精上人の主張などではない。しかも同上人は、これを「謗法の書」だと断言されているのである。
―「方便」と「邪義」の違い―
 また、同じ論であっても、日辰の場合は本心から述べたものであり謗法である。他方『随宜論』は、日精上人が方便のために一時的例外的に用いた義に過ぎない。もし、『随宜論』を著したことを謗法というのであれば、日興上人の造仏容認も、大聖人の仏像開眼も、釈尊が爾前権経を説いたことも謗法になってしまうではないか。



【当時の時代状況と史料の信憑性】
・要法寺との交流によって、大石寺の化儀に暗い要法寺系信徒の指導に苦慮された。とくに敬台院は徳川家康の曾孫という大檀那であり、しかも要法寺出身でありながら大石寺への強い信仰心を有していたが故に、その善導に四悉檀を駆使された。つまり、日精上人は"現場の責任者"として、信徒の善導と謗法厳戒の両立という困難な問題に直面し、その解決のための"苦肉の策"を模索されたと思われる。
・檀家が寺から離れるのを禁じられた(寺請制度)のは、寛永15(1638)年頃である。また、"自讃毀他"を禁止したのが寛文3(1663)年であるが、それ以前から、折伏に対する幕府側の有形無形の圧力もあったのではなかろうか。

★自讃毀他を禁止しようとする幕府の動きと、大石寺の折伏、大石寺の折伏を憎む邪宗の画策、化儀に暗い要法寺系信徒の善導、このような事情が複合的に作用して、当時の正しい状況が現存する史料からは見えにくくなっていることは、充分考えられる。そのよい例が捏造された『北山文書』である。↓
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1◆下谷常在寺ハ大石寺先代日精開基ニ而釈迦多宝ノ両尊上行等四菩薩鬼子母神等造立仕数十年之間令(二)安置(一)候処ニ、日俊造仏堕獄之邪義を盛ニ申立彼仏像を悉令(二)去却(一)候、加(レ)之牛島常泉寺ニも古へより両尊四菩薩を令(二)安置(一)候処に、是をも頃年日俊悉令(二)去却(一)候、拙僧檀那伊右衛門之仏像ハ去年中令(二)去却(一)候事(北山文書『本宗史綱下』671頁)
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これは、北山本門寺が大石寺(とくに第22世日俊上人)攻撃のために奉行所提出用として用意したものである。しかし結局、奉行所には提出されなかった。そのため第59世日亨上人は上記史料を採用されていない。もし、この文書の内容が事実であるならば、大石寺攻撃の絶好の材料となるはず。どうして、北山は提出できなかったのか。それは、その内容が、公の場に出せば、簡単に虚偽だと分かる稚拙なものだったからに他ならない(<北山文書>参照)。



【"生き証人"日俊上人の評価】
●既に法華経を以つて宗旨と仕り候上は一部読誦無間堕獄の業と申すべき筋目は御座無く候、但し富士五箇寺は開山已来法華一部の肝要方便品寿量品の二品を以つて三時の勤行作善等に執行致し来り候、御当地杯に於いて大名高家の下に相住み候寺は、大檀那の望に任せ或は一部頓写千部等も読み申す事に御座候(第22世日俊上人『富士宗学要集』第9巻32頁)
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大石寺においては日精上人御登座の時代も含め「方便品寿量品の二品を以つて三時の勤行」であった。「一部頓写千部等も読み申す事」は末寺であっても「大名高家の下に相住み候寺」に限り「大檀那の望に任せ」て行われたのである。ここに、少なくとも日精上人御自身の意思で一部修行が行われていたのではないことが明らかである。しかし、一部修行といっても毎日の修行である唱題行や要品読誦を妨げない化他・教学のためであれば、必ずしも謗法とはいえない(下記4●5●)。

●駿州富士大石寺は開山日興上人已来四百年に及び当時まで法義少しも違乱仕らず候(第22世日俊上人『富士宗学要集』第9巻32頁)
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日俊上人は、日精上人御存命中に御登座された方である。また、北山本門寺の文書によれば、「造仏堕獄」の「義を盛に申立」てた方であり、日精上人が「造立」したという仏像を「去却」したのも日俊上人だそうである。つまり、日俊上人は造仏が謗法であることを知悉されていただけではなく、堂々と造仏を破折されていたというのである。ところが、そのような謗法厳戒の精神を持たれた日俊上人が、日精上人を少しも批判されていない。このことから、末寺での造仏や一部読誦等は強執の信徒を善導するための四悉檀に基づく一時的方便であり、謗法などと呼べるものではなかったことが分かろう。また、日精上人御自身は総本山において正義を貫かれたからこそ、「大石寺は」「当時まで法義少しも違乱仕らず候」と断言されたのであろう。

下谷常在寺ハ大石寺先代日精開基ニ而釈迦多宝ノ両尊上行等四菩薩鬼子母神等造立仕数十年之間令(二)安置(一)候処ニ、日俊造仏堕獄之邪義を盛ニ申立彼仏像を悉令(二)去却(一)候、加(レ)之牛島常泉寺ニも古へより両尊四菩薩を令(二)安置(一)候処に、是をも頃年日俊悉令(二)去却(一)候、拙僧檀那伊右衛門之仏像ハ去年中令(二)去却(一)候事(北山文書『本宗史綱下』671頁)



【"生き証人"日寛上人の評価】
 『日蓮聖人年譜』の「或る抄」や『随宜論』が正義でないことは明らかである。だからこそ第31世日因上人も第59世日亨上人も、文面に表れた"邪義"を単純に破折されたのである。しかし、それらの"邪義"が日精上人の本意かどうかは、法門に対する智解とは直接的には無関係である。
 第26世日寛上人は第17世日精上人と同時代の方であり、日寛上人が入信・出家を決められたのは日精上人の御説法聴聞が契機であった。そのような日寛上人であれば当然、当時の状況を直接見聞されていたはずであり、法詔寺の造仏の経緯、それにともなう混乱、その混乱を歴代上人がいかに収拾されたかなどについては、現代の我々が乏しい文献から類推する以上に詳しく真実を御存知だったはずである。

<『末法相応抄』>
2●春雨昏々として山院寂々たり、客有り談著述に逮ぶ。客の曰わく、永禄の初め洛陽の辰、造読論を述べ専ら当流を難ず、爾来百有六十年なり、而して後門葉の学者四に蔓り其の間一人も之れに酬いざるは何んぞや。予謂えらく、当家の書生の彼の難を見ること闇中の礫の一も中ることを得ざるが如く、吾に於て害無きが故に酬ひざるか。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻138頁)
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『末法相応抄』は日辰の造読義を破折するための書である。これまでに宗内において完全な破折がなかったのは「吾に於て害無きが故に酬ひざるか」と仰せである。つまり、"これまでは宗内に、日辰の義による害がなかった"とされている。ここでいう「日辰の義」とは『末法相応抄』で破折されている内容全体を指すことはいうまでもない。

●客の曰わく、設い中らずと雖も而も亦遠からず、恐らくは後生の中に惑も生ずる者無きに非ず那んぞ之れを詳らかにして幼稚の資と為さざるや。二三子も亦復辞を同じうす。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻138頁)
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「後生の中に惑も生ずる者無きに非ず」これまでは、日辰の義が宗内に害をもたらすことはなかったが、後の世のために書き残されたのが『末法相応抄』なのである。

―造仏―
3●問う、日辰が記に云わく、唱法華題目抄に云わく、本尊は法華経八巻一巻或は題目を書きて本尊と定むべし、又堪えたらん人は釈迦・多宝を法華経の左右に書き作り立て奉るべし、又堪えたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をも書き造り奉るべし已上、此文の意は両尊四菩薩を法華経の左右に或は書き或は作り立て奉るべしと見えたり云々此義如何、答う、此れは是れ佐渡已前文応元年の所述なり、故に題目を以って仍お或義と為す、本化の名目未だ曾って之れを出ださず、豈仏の爾前経に異ならんや。日辰若し此の文に依って本尊を造立せば須く本化を除くべし、何んぞ恣に四大菩薩を添加するや云云。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻158頁)
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問いの中味は造仏論であるが、中央の本尊が法華経または題目の場合である。これについては「釈迦・多宝を法華経の左右に書き作り立て奉る」ことを否定されていない。「豈仏の爾前経に異ならんや」とは、『唱法華題目抄』が所謂佐渡已前の御書だからである。また、釈迦・多宝を脇士とすることを容認しつつも「本化を除くべし、何んぞ恣に四大菩薩を添加するや」と言われたのは、『唱法華題目抄』には「釈迦如来・多宝仏」「十方の諸仏・普賢菩薩等」とあって「四大菩薩」の名がないから、御文に忠実であるべきであるとされたのである。
 そもそも『末法相応抄』の趣旨は本尊としての仏像を否定・破折するところにある。だから、必ずしも正義ではないが中央に法華経(曼荼羅)を安置した場合の釈迦・多宝添加を一往容認されたのであろう。このことと、「吾に於て害無きが故に酬ひざるか」(上記2●)の語を考え合わせるとき、法詔寺の奉安形式もまた、中央本尊が曼荼羅であったことが分かるのである。
 尚、『末法相応抄』には別の箇所においても「釈迦・多宝を作る可し」との問を構えられ、これを否定されている。その理由は問の文証が『観心本尊抄』の曼荼羅の相貌を示す部分であったからである。すなわち曼荼羅の中に「釈迦・多宝」が認められていることを示した文証をもって「釈迦・多宝を作る可し」としたことへの破折である。だから曼荼羅の脇士に釈迦・多宝を安置することを示した上記●の問とは異なるものである。

●問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし(『唱法華題目抄』全集12頁)

●開山上人御弟子衆に対するの日仍容預進退有り是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻177頁)
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日寛上人は大聖人・日興上人時代の造仏については「是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり」と容認されている。その趣旨からいえば、「宗門最初」とはいえない日精上人の時代に仏像を本尊とすることは許されない。しかし、法詔寺の仏像は本尊としてではなく曼荼羅本尊の脇士として安置されていたのである。その意味では、大聖人・日興上人時代の造仏容認とは次元が異なることを知るべきであろう。

―一部読誦書写―
4●化他の正意は但題目に在り、若し助証を論ずれば尚お一代に通ず、何に況んや一部をや。太田抄に云わく、此の大法を弘通せしむるの法は、必ず一代聖教を安置し八宗の章疏を習学すべし等云云。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻154頁)
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「化他」のためであれば「助証」として「一代聖教」「八宗の章疏を習学すべし」

5●所謂宗祖自筆の一寸八分細字の御経一部一巻、又開山上人自筆の大字、細字の両部是れなり。此れ亦前の如く自他行業の御暇の時々或は二行三行五行七行之れを書写し、遂に以って巻軸を成ず。是れ滅後に留めんが為めなり。故に義化他に当たれり。曷んぞ必ずしも書写即読誦と云わんや。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻141頁)
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経典を「滅後に留めんが為め」の書写は「義化他」に当たる。だから正行としての書写には当たらない。

★教学化他のためであれば、一部読誦や書写も許される。このことと「吾に於て害無きが故に酬ひざるか」(2●)を考え合わせれば、一部末寺において行われたという一部修行も、実際は、謗法と呼べるものではなかったことが分かる。


<『当流行事抄』>
開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し、故に朝暮の勤行は但両品に限るなり(第26世日寛上人著『当流行事抄』/『富士宗学要集』第3巻211頁)
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趣旨は勤行の化儀にあるが「故に」とあるから「化儀・化法四百余年全く蓮師の如し」は化儀・化法に対する一般論として成り立つ意義である。つまり、化儀・化法全体について「四百余年全く蓮師の如し」という前提が正しいからこそ「故に」勤行の化儀についても同様に「四百余年全く蓮師の如し」という文意である。「四百余年全く蓮師の如し」とあるから当然、日精上人の時代も含まれる。「開山已来」の「化儀」に造仏の有無、一部読誦の有無等が含まれることは当然である。


<『文底秘沈抄』>
●而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し(『六巻抄』65頁)
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第26世日寛上人に至るまで血脈法水は清浄に相伝されていることを教示されている。この清浄の法水を継承された御歴代上人の中に日精上人が在しますことは当然である。


<日精上人に対する日寛上人の尊崇>
―総本山久成坊、寂日坊の常住御本尊はともに日精上人お認めの御本尊を日寛上人が板御本尊に造立し、開眼遊ばされている。―

久成坊の御本尊造立は亨保6年4月、寂日坊の御本尊造立は亨保7年5月のことであり、その時期は日寛上人が一度御退座されて日養上人が総本山の御当職であられた。にもかかわらず、御隠尊の日寛上人が自ら造立・開眼なされたことは、発心の師であり、功績莫大な日精上人に対して深く尊崇遊ばされていたことを示すものである。(『大白法』H16.3.16)


★自讃毀他を禁止する幕府の政策と、大石寺の折伏、大石寺の折伏を憎む邪宗の画策、化儀に暗い要法寺信徒の善導、このような事情が複合的に作用して、当時の正しい状況が現存する史料からは見えにくくなっていることは、充分考えられる。そのよい例が捏造された『北山文書』(1◆)である。

★『随宜論』や『日蓮聖人年譜』の「或る抄」が正義でないことは明らかである。だからこそ第31世日因上人も第59世日亨上人も、文面に表れた"邪義"を単純に破折されたのである。しかし、それらの"邪義"が日精上人の本意かどうかは、法門に対する智解とは直接的には無関係である。

★第31世日因上人や第59世日亨上人と異なり、第26世日寛上人は当時の状況をよく御存知であったからこそ『日蓮聖人年譜』の「或る抄」についても"日辰の義であって、日精上人の本意ではない"と冷静に受け止められたのである。

★日辰の造読義を破折するために書かれた『末法相応抄』自体に「吾に於いて害無き」と、これまでは日辰の悪義が宗内に及ばなかったと仰せなのである。当然、日精上人の時代も「吾に於いて害無き」時代に含まれる。『末法相応抄』では主として本尊としての造仏を破折されているのだから、日精上人の時代に造仏があったとしても、それは中央安置の本尊ではなかったことが知られる。また、一部修行についても謗法と呼べるものではなかったことが分かる。

★さらに日寛上人は「開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し」(『当流行事抄』/『富士宗学要集』第3巻211頁)と断言されている。これこそ、当時の"生き証人"の何よりの証拠ではないか。





日因随宜論批判


【『日因随宜論批判』】

一、日精上人造仏読誦論に云く 造仏之を許すに道理文證外難を立つ 又読誦を明かすに広略を論ずる也 具に論文の如し 結帰文に云く
 右之一巻者予法詔寺建立之翌年造仏像因茲門徒之真俗致疑難故為散朦霧為助廃忘染筆者也
寛永十戌年霜月吉旦 日精 判

                       ┌─此寺ハ辣島福成寺末
第一浅草鏡臺法詔寺 第二牛島常泉寺是ハ帰伏寺也 第三藤原青柳寺 四ハ半野油野妙経
                       └─下野国日光近所アリ
本城之両寺 五ハ赤坂久成寺 浅草安立院長安寺 六ハ豆州久成寺本源寺是ハ帰伏寺也

        ┌後日云日光近所ナリ辛島末寺也
△私に云く 此中青柳寺同国処末行也 半野妙経寺存之 柚野蓮成寺の事なるべし赤坂上行寺と也 安立院長安寺等今無之也

△日因云く精師御所存は当家実義と大相違也 具に二十六代日寛上人造仏読誦論返答抄 末法相応抄に分明也 然れば日精上人法詔寺建立の時造仏読誦之有る故 門徒の疑難を 受け会通を加えんのみ今謂 精師御所立は恐く未審也
・当家造仏を許さず蓮祖開山已来已に五百年也 精師一人之を許す是一
・又不造の現證文證之を会すに恐らく曲会なるべし是二
・又祖師開山の四菩薩造及待広布時 造等意在未尽之是三
・又久遠元初自受用身即日蓮なる旨を許さず恐らく教相判を存し観心の旨叶わざる哉是四
・又第一番釈迦本二番已下始覚は天台の所判也 而も教相判に内證実義無きに非ず也 今蓮祖第一番成道も尚即始覚八相成道故迹化也 実義成道は久遠名字最初に在り具に御判の如し 天台等も内鑒冷然の辺は最初名字即成仏 為本門已後本因本果行因得果是迹化の辺也 八相成道の修因なる故也 仍久遠元初自受用名字即日蓮とは御内證の辺也 若し外用の辺は天台六即中名字初心位也 何ぞ内證外用を分かたざる耶是五
・又開山広布を待ち造立を許すは是実義に非ず 但広布に寄せて之を制すのみ是六
方々未審多し依用し難きもの也

日東上人云く 精師且日辰の義を述る也 随宜論と号す
△日因云く 精師御年譜中にも亦日辰所立の三大秘法を述ぶ 依用し難き也。又精師関東奥方の寺々に皆釈迦多宝四菩薩造立を許す 今漸く之在り寺々皆之を取除く也 (天注・此下ハ因師ノ後入れ也 墨色異也)

(『日因随宜論批判』/堀帖25 47)

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【造仏の真相】
<造仏の中身>
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一、日精上人造仏読誦論に云く 造仏之を許すに道理文證外難を立つ 又読誦を明かすに広略を論ずる也 具に論文の如し 結帰文に云く
 右之一巻者予法詔寺建立之翌年造仏像因茲門徒之真俗致疑難故為散朦霧為助廃忘染筆者也
寛永十戌年霜月吉旦 日精 判
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 『随宜論』の引用部分。「造仏像」は、「法詔寺建立之翌年」とあるから元和10(1624)年のことである。一方、日精上人の御登座は寛永9(1632)年であるから、造像より8年も後のことである。また、『随宜論』述作の目的が「門徒之真俗致疑難故」とあるから、この書は、造像後ほどなくして認められたものであろう。
 「寛永十戌年」は御登座後のことであるが、既に作成されていた文書を清書したのであろう。方便の書とはいえ、(中央本尊としての)造像に執着する信徒(敬台院)と仏像の安置自体に反対の真俗の間に立って、両者を善導するための書として重要な意義があった、だからこそ改めて清書されたのではないか。
 尚、寛永10年は酉(とり)年であって戌(いぬ)年ではない。もし、干支(えと)が正ければ、寛永年間で唯一の戌年である寛永11年が正解となる。
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                       ┌─此寺ハ辣島福成寺末
第一浅草鏡臺法詔寺 第二牛島常泉寺是ハ帰伏寺也 第三藤原青柳寺 四ハ半野油野妙経
                       └─下野国日光近所アリ
本城之両寺 五ハ赤坂久成寺 浅草安立院長安寺 六ハ豆州久成寺本源寺是ハ帰伏寺也
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『随宜論』の引用部分。ここに挙げられた寺院は、「帰伏寺也」とあるように、日精上人の弘教によって帰伏した末寺であろう。造像のあった寺ではなく、造像されたという記述もない。

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関東奥方の寺々に皆釈迦多宝四菩薩造立を許す 今漸く之在り寺々皆之を取除く也
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・日精上人と同時代の他門の文書で、大石寺を攻撃するために作成された北山文書にさえ「関東奥方の寺」に仏像があったという記述はない。もし、関東奥方に日精上人作成の仏像があったのであれば、北山が見逃すはずはない。その意味で疑わしい記述だというべきである。
・第31世日因上人と同時代の第29世日東上人が、『随宜論』について「精師且く日辰の義を述ぶるなり。随宜論と号す。」(『日因随宜論批判』)と、日精上人を擁護する態度であられたことからも、上記記述を直ちに鵜呑みにすることはできない(<【「且く」について】>参照)。
第26世日寛上人を初めとする当時の歴代上人が誰一人日精上人を批判されていないし、造像に言及されていないことからも、上記記述は疑わしいと言わざるをえない。
・宗門歴代の中で第59世日亨上人を除けば、日精上人の造仏を批判されたのは日因上人だけである。しかし、日因上人は第22世日俊上人御遷化の4年前に御生まれになった方で、御自身が造仏の事実を直接確認された訳ではない。しかも「又精師関東奥方の寺々」云々の史料の出処も不明である。
日精上人は、甲斐杉山有明寺に日有上人の御影を造立されたことがある(『富士年表』)。とすれば、「関東奥方の寺々」にも御影を造立された可能性がある。御影造立を以て、誤解により、あるいは他門の悪意により仏像造立という記録が作成された可能性も否定できない(<造仏の文証>参照)。

●他宗の法花宗に成る時、本と所持の絵像木像井に神座其の外他宗の守なんどを法花堂に納むるなり、其の故は一切の法は法花経より出てたるが故に此の経を持つ時、本の如く妙法蓮花経の内証に事納まる姿なり、総して一生涯の間、大小権実の仏法に於いて成す所の所作、皆妙法蓮花経を持つ時、妙法蓮花経の功徳と成るなり、此の時実の功徳なり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻70頁)
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末寺の「法華堂」に他宗の本尊を納めていたのである。この「法華堂」にある本尊を本堂安置の本尊と摩り替えて(日因上人が御覧になった史料の作成者が)疑難している可能性も否定できない。とくに「法華堂」の意義の分からない者は、"邪宗の本尊を祀っている"と誤解したかも知れない。

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当家造仏を許さず蓮祖開山已来已に五百年也 精師一人之を許す是一
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 一部末寺において造像のあったことは事実であるが、それは強執の信徒の意向によるものであり日精上人の本意ではない。また、仏像は中央安置の本尊ではなく、曼荼羅本尊の脇士であった。また、邪宗の仏像ではなく、新たに作成され、時の御法主によって開眼されたものであろう。
 当然、宗門本来の化儀ではないが、強執の徒を善導するための方便として四悉檀の上から、当時の宗門全体(少なくとも御法主上人を初めとする本山御僧侶方)が容認されていたようである。だからこそ、当時の事情に精しい歴代上人は、誰一人日精上人を批判されていないのである。時代が下って、当時の状況を残された史料によってしか知ることのできなかった日因上人は、後世の弟子檀那が信心に迷うことのないように、表面に表れた文意に対して破邪顕正の批判を敢えて加えられたものと拝する(<日俊・日寛・日東各上人の評価>参照)。


<日寛上人は日精上人を擁護>
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日因云く精師御所存は当家実義と大相違也 具に二十六代日寛上人造仏読誦論返答抄 末法相応抄に分明也
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●春雨昏々として山院寂々たり、客有り談著述に逮ぶ。客の曰わく、永禄の初め洛陽の辰、造読論を述べ専ら当流を難ず、爾来百有六十年なり、而して後門葉の学者四に蔓り其の間一人も之れに酬いざるは何んぞや。予謂えらく、当家の書生の彼の難を見ること闇中の礫の一も中ることを得ざるが如く、吾に於て害無きが故に酬ひざるか。(第26世日寛上人著『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻138頁)
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『末法相応抄』は日辰の造読義を破折するための書である。これまでに宗内において完全な破折がなかったのは「吾に於て害無きが故に酬ひざるか」と仰せである。つまり、"これまでは宗内に、日辰の義による害がなかった"とされている。ここでいう"日辰の義"=「造読論」とは『末法相応抄』で破折されている内容全体を指すことはいうまでもない。

●客の曰わく、設い中らずと雖も而も亦遠からず、恐らくは後生の中に惑も生ずる者無きに非ず那んぞ之れを詳らかにして幼稚の資と為さざるや。二三子も亦復辞を同じうす。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻138頁)
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「後生の中に惑も生ずる者無きに非ず」これまでは、日辰の義が宗内に害をもたらすことはなかったが、後の世のために書き残されたのが『末法相応抄』なのである。

★日辰の造読論を破折するために書かれた『末法相応抄』自体に「吾に於いて害無き」と、これまでは日辰の悪義が宗内に及ばなかったと仰せなのである。当然、日精上人の時代も「吾に於いて害無き」時代に含まれる。『末法相応抄』では本尊としての造仏を破折されているのだから、日精上人の時代に造仏があったとしても、それは中央安置の本尊ではなかったことが知られる(<法詔寺の仏像>参照)。


<『随宜論』の本意は広布達成前の造仏制止>
―『家中抄』では広布達成後の造仏も否定―
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・又不造の現證文證之を会すに恐らく曲会なるべし是二
・又祖師開山の四菩薩造及待広布時 造等意在未尽之是三
・又開山広布を待ち造立を許すは是実義に非ず 但広布に寄せて之を制すのみ是六
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●日代上人の御書に云く、仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケの大事一度に成就せしめ給ふ可きの由御本意なり。御本尊の図は其の為なり文。此の文実録の内に興師の御義に符合す、然らば富山の立義は造らずして戒壇の勅許を待ちて而して後に三ケの大事一度に成就為す可きなり。若し此の義に依らば日尊の本門寺建立の時に先きんじて仏像を造立して給ふは一箇の相違なり。罪過に属す可しと云はば未だ本門寺建立の時到らず本門寺と号するは又一箇相違なり罪過に属す可きや。此の如きの段今の所論に非らず。願くは後来の学者二義を和会せば造不造は違する所無くして永く謗法を停止して自他共に成仏を期すのみ(第17世日精上人『随宜論』)
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『随宜論』は強執の徒を善導するために認められた方便の書である。だからこそ、造像を許容するかのような文言がある一方で、「仏像造立の事は本門寺建立の時」「富山の立義は造らずして戒壇の勅許を待ちて」など、広布達成の時まで制止する記述がある。では、日精上人の本意は、広布達成後の造仏を認められていたのかと言えば、そうではない。その証拠に後に作成された『家中抄』において否定されている。このことからも、『随宜論』が方便の書であることが分かるのである。また、日因上人は大聖人や日興上人の"四菩薩添加"について仰せであるが、日精上人時代の造像は、曼荼羅本尊の脇士であって、釈尊像の脇士としての造像(四菩薩)であった大聖人や日興上人の時代とは異なるのである(<『随宜論』の目的と曼荼羅正意>参照)。



【本仏論】
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・又久遠元初自受用身即日蓮なる旨を許さず恐らく教相判を存し観心の旨叶わざる哉是四
・又第一番釈迦本二番已下始覚は天台の所判也 而も教相判に内證実義無きに非ず也 今蓮祖第一番成道も尚即始覚八相成道故迹化也 実義成道は久遠名字最初に在り具に御判の如し 天台等も内鑒冷然の辺は最初名字即成仏 為本門已後本因本果行因得果是迹化の辺也 八相成道の修因なる故也 仍久遠元初自受用名字即日蓮とは御内證の辺也 若し外用の辺は天台六即中名字初心位也 何ぞ内證外用を分かたざる耶是五
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『随宜論』では、要法寺など帰伏寺院の信徒を教導するために方便の義を巧みに取り入れておられる。そのために、"本仏論"についても天台の法門を念頭に置いた解釈を表にされている。が、しかし、「内証を論ぜば自受用報身如来」(『随宜論』)「下種の仏」(同)「本地は上行、上行の本地は仏」(同)と、およそ天台の法門からは導くことのできない表現もある。このような、ある意味で不自然・不可解な表現の真意は、後の『日蓮聖人年譜』を拝するときに明確となる。すなわち、『日蓮聖人年譜』では、"日蓮大聖人即久遠元初の自受用報身如来"という義を鮮明にされているのである(<教主釈尊と大聖人>参照)。

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精師御年譜中にも亦日辰所立の三大秘法を述ぶ 依用し難き也
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これは、日辰の義(「或る抄」)の引用部分を、日精上人御自身の見解だと誤って解釈したものである。その証拠に日寛上人は、引用部分であることを見抜かれて日精上人を擁護されている。

●(『日蓮聖人年譜』の「或る抄」について)精師且く他解を述ぶ。是れ即ち日辰の意なり。故に本意に非ざるなり。是れまた他解なり。正義に非ざるなり(第26世日寛上人『抜書雑雑集』)
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「且く」とは、"かりそめに、仮に"という意味であり、本意ではないということである。同様の語法は下記『末法相応抄』(1●)にもある。
[しばらく]=①少しの間 ②かりそめに、仮に(『例解古語辞典』第3版三省堂)

1●四脇士を造り副うるは是れ五人の義に非ず興師一機の為に且く之を許す義なり、故に日興が義と言う、是れ正義と謂うには非ざるなり(第26世日寛上人『末法相応抄』)
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四菩薩添加は、日興上人にとって「且く之を許す義」だと仰せである。その上で「是れ正義と謂うには非ざるなり」と仰せである。つまり、且く用いた義="かりそめに、仮に"、ということ。

日精上人は、『日蓮聖人年譜』の中で、日辰の『三大秘法ノ記』(「或る抄」)を確かに紹介している。しかし、久成釈尊に固執する日辰に対して以下のように厳しく破折しておられる。ここに、日精上人の日辰に対する姿勢、真意がよく表れている。

大聖人を破り奉らんところの謗法の書なり、全くこれを信ず可からず(第17世日精上人著『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻120頁)
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「謗法の書」とは日辰の『三大秘法ノ記』(「或る抄」)。日精上人が、日辰の『三大秘法ノ記』を批判されるということは、まさしく文底の実義に到達されておられるからこそ可能なのである。文上脱益の本尊に拘泥するがごとき、日辰と大同小異の見解であったならば、日辰を批判することは絶対にできない。

★以上のことから明らかなように、日因上人は、造仏の事実と『随宜論』の天台流の表現が念頭にあったがために、『日蓮聖人年譜』で紹介された日辰の義「或る抄」を引用部分であることに気づかれなかったのである。

★以上のように、日因上人の日精上人批判は、『随宜論』と他門の史料、さらには『三大秘法ノ記』を依用していたとの誤解を基になされたものである。評価の前提となる史料の取捨および解釈において、大いに問題があったと言わざるを得ない。

※尚、『日蓮聖人年譜』では、日精上人が引用し破折された「或る抄」が日辰の『三大秘法ノ記』であるとは述べられていない。しかし、日因上人の「精師 御年譜中にも亦日辰所立の三大秘法を述ぶ」(『日因随宜論批判』)という記述や、日寛上人の「精師且く他解を述ぶ。是れ即ち日辰の意なり。」(『抜書雑雑集』)の記述によって、「或る抄」が日辰の書であることは明白である。そうであれば「或る抄」とは日辰著『三大秘法ノ記』と考えるのが最も妥当である(<「或る抄」について>参照)。

★日因上人も日亨上人も、日精上人の真意を誤解されていた。しかし、これは、法門に対する誤解、己義とは別次元の問題である。つまり、限られた時間と断片的史料をもとに事実を類推するという、技術的問題であり世法の学問と同じ領域である。「真意を誤解されていた」と述べたが、その「真意」とは断片的史料から機械的形式的確率的に導かれる(類推される)「一往の真意」である。
 しかし、一方、日因上人も日亨上人も「唯授一人の血脈を受けられた方は大聖人と内証一体であり、絶対に信伏随従すべきである」という確信に立たれていた。「血脈付法の御法主が己義を構えることなど在り得ない」とは、信仰上の大確信ではある。しかし、それとは別に、現存する史料の表面に表れた"日精上人の邪義"については、後世のためにも破邪顕正のためにも断固破折しなければならない。そのために、止む無く厳しい批判を加えられたものと拝する。

日興上人已下代々も亦爾なり、内証に順ずる則んば仏宝なり、外用に順ずれば則ち僧宝なり(第31世日因上人御消息 金沢妙喜寺蔵)
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「日興上人已下代々」が「内証に順ずる則んば仏宝」と仰せである。即ち、血脈付法の歴代上人は内証において大聖人と一体である、というのが日因上人の見解である。「日興上人已下代々」に日精上人が含まれることは言うまでも無い。

●但し直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(『百六箇抄』全集869頁)
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「日蓮が正義」は「尽未来際に至るまで」「日興嫡嫡付法の上人」に「毛頭程も之れを残さず悉く付属」されていくのである。この文は所謂後加文であるが、日亨上人は「後加と見ゆる分の中に義において支語なき所には一線を引き」(日亨上人『富士宗学要集』第1巻25頁)と仰せのごとく、史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのである。

●此仏と云ふも此菩薩と云ふも・共に久遠元初仏菩薩同体名字の本仏なり、末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり、猶一層端的に之を云へば・宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり(第59世日亨上人・有師化儀抄註解『富士宗学要集』1巻116・117頁)
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「日蓮大聖の本体」即ち下種仏法の法体は、「宗祖開山已来血脈相承の法主」が所持されている。本仏即大御本尊の内証は歴代上人に伝持されている、というのが日亨上人の確信である。当然、「宗祖開山已来血脈相承の法主」の中に日精上人も含まれる。
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●先聖の誤を是正することも「豈(あに)罄(むなし)く興師の道を尽すにたらんや○其の欠を補ひ給はば吾がねがふ所なり」との御自記に応ずることとなるから、精上人も、かならず予が苦筆を甘んじたもうことと思う。(第59日亨上人『富士日興上人詳伝下』288頁~)
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この御言葉は、そのまま、後の御法主が、日亨上人や日因上人の日精上人に対する評価を是正することにも当てはまるものといえよう。



【歴代上人の見解】
大石寺は開山日興上人已来四百年に及び当時まで法義少しも違乱仕らず候(第22世日俊上人『富士宗学要集』第9巻32頁)
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「法義」とは「仏法の教義のこと」(『新版仏教哲学大辞典』初版第2刷1560頁)。当然、本仏論も含まれる。また、この書は、北山本門寺との化儀に関する争いに関するものであるから、「日興上人已来四百年に及び当時まで」「違乱仕らず候」「法義」には、造像などの化儀も含まれる。

開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し、故に朝暮の勤行は但両品に限るなり(第26世日寛上人著『当流行事抄』/『富士宗学要集』第3巻211頁)
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趣旨は勤行の化儀にあるが「故に」とあるから「化儀・化法四百余年全く蓮師の如し」は化儀に対する一般論として成り立つ意義である。つまり、化儀全体について「四百余年全く蓮師の如し」という前提が正しいからこそ「故に」勤行の化儀についても同様に「四百余年全く蓮師の如し」という文意である。「四百余年全く蓮師の如し」とあるから当然、日精上人の時代も含まれる。「開山已来」の「化儀」に造像の有無、一部読誦の有無が含まれることは当然である。

2●而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し(第26世日寛上人『文底秘沈抄』/『富士宗学要集』第3巻94頁)
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法水とは法門であり、宗旨の深義のこと。それが「清浄」にして「断絶せしむる事」がないからこそ、法門の解釈や化儀もまた清浄に保たれるのである。法水瀉瓶によって伝持されるものが大御本尊だけなら「清浄」「断絶」という語は相応しくない。「清浄の法水断絶せしむる事無し」という「四百余年の間」には、当然、日精上人の時代も含まれる。
[法水瀉瓶]=血脈相承をあらわしている(『新版仏教哲学大辞典』初版第2刷1621頁)
[血脈相承]法門、戒律を一人の師から一人の弟子へ絶えることなく授け伝えていくこと。(『新版仏教哲学大辞典』初版第2刷409頁)
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血脈相承とは大御本尊のことのみではなく、法門や戒律も含む。日寛上人は法門や戒律(化儀)も「清浄」にして「断絶せしむる事無し」(上記2●)と仰せである。

●日東上人云く、精師且(しばら)く日辰の義を述ぶるなり。随宜論と号す。云云(『日因随宜論批判』)
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「且く」とは、"かりそめに、仮に"という意味であり、本意ではないということである。





日亨上人の評価について(仮題)

(『大白法』H16.4.1ほか)

【日精上人に対する批判の理由】(『大白法』H16.4.1)
宗門史全般にわたる大業を成し遂げられた日亨上人が、なぜ日精上人に対して厳しい批判の目を向けられたのか、その理由について3点を挙げて説明する。

<先入観による誤解>
 700年間の長期にわたる広汎な史料、宗門内外の膨大な文献、これらを詳細に解読し、且つ的確に判断することは、凡人の成し得る業ではない。大学匠と讃仰(さんごう)された日亨上人であっても、その研究の中で史料の読み違いや誤解が生じたとしても仕方がないことであった。
 仮に要法寺の寿円日仁や北山日要などの日精上人造像説と『随宜論』の内容を重ね合わせて判断すれば、誰もが日精上人が造像家であったという印象を持っても不思議ではない。しかも日精上人は、造読論を強硬に主張した広蔵日辰の影響が強く残っている要法寺の御出身であるということ。このような先入観をもって、『日蓮聖人年譜』を読めば、文中において見極めがたい日辰の説を引用した部分を、そのまま日精上人のお考えと判断されたこともやむをえないといえる。また『家中抄』には、日辰の『祖師伝』をそのまま引用して要法寺三師の伝記としていることにも、造像の意図が反映されていると見えたことであろうし、文中に日辰の言葉で「久成釈尊を立ツる」とある部分にも頭注を加えて指弾すべしとの思いを起こされたことであろう。
 もし日亨上人が、『日蓮聖人年譜』において日精上人が明確に日辰の邪義を否定し破折されていることを認識しておられたならば、その他の文書に対する判断も日精上人に対する評価も、まったく違ったものになっていたことは容易に推察できる。また日因上人が日精上人を批判されたことについても、同様のことがいえるのである。
 つまり、日亨上人が日精上人を造像家と判定されたことは、実像と異なった先入観に基づく文書の読み違い・勘違いであり、不幸な誤解によるものとしかいえないのである。


<他門からの非難に対する予防措置>
 他門日蓮宗と信仰的に一線を画してきた本宗にあって、日亨上人は広く史料を収集するために、他宗他門の学者と交流された。また御登座以前には、立正大学の要請を受けて、同大学の「特別講座日蓮正宗部」を担当し講義された時期もあられた。そのような折、しばしば他門の学者から本宗の宗義や宗史に関する質問が投げかけられたという。
 こうした中で護法精神の厚い日亨上人は、本宗に伝えられる文献や史実の中に、将来他門から攻撃を受けると予想される部分には、できうる限りの手当と予防策を講ずる必要があると考えられた。
 『富士宗学要集』に収録された相伝書の中に、後加文について傍線をもって区分されているが、これも立正大学に赴かれた頃にお考えになられたものであるという。
 日亨上人にとって本宗の文献の中でも、日精上人が要法寺流の造読を主張しているように見える部分は、特に気がかりであったと推察される。
 『日蓮聖人年譜』や『家中抄』を含む『富士宗学要集』を出版することは、世間に初公開になることも考慮され、他門からの非難攻撃を未然に防ぐためには、一宗の学匠として、その責任の上から御自分で日精上人の文言の非を指摘する必要に迫られたものと拝察する。
 すなわち、日亨上人は日精上人について誤解されていたところもあるが、先に挙げた解説文や頭注に見られる厳しい指摘は、このような部外者からの論難を意識した結果であり、その根底には、唯一正しく宗祖の血脈を継承する日蓮正宗を永劫に衛護せんとする強い護法の真心がおありだったのである。


<血脈継承の御境界からの同体意識>
 日精上人は、宗祖以来の法脈を伝承されたお方であり、受け継がれてきた法水は日精上人なくしては伝わってこなかったことを、日亨上人は充分に承知されていた。
 しかも日蓮大聖人の仏法を血脈相承遊ばされる御法主上人の御内証の当処は大御本尊と一体であり、御歴代の異なりや時代の壁を越えて一味平等の御境界にあらせられる。日亨上人は、御身に伝えられた法脈の尊さを深く認識された上で、その血脈継承の方に法義上の誤りは絶対にないとの確信に立っておられた。
 なればこそ、日亨上人はたとえ御歴代上人の御著述であっても、後代に対する配慮や宗門厳護のために、必要と思われる事柄に対しては闊達(かったつ)自在に批評を加えられたのであり、それによって法脈に微塵も傷をつけるものではないとお考え遊ばされていたのである。
 代々の御法主上人が御内証において一体の御境界にあられることから、その尊い同体意識をもって、御先師の文書の非と思われる点を指摘補足されたからといって、それを取り立てて部外者が誹謗の具とすることは許されざる悪業である。



【日精上人に対する日亨上人の尊崇】(『大白法』H16.4.1)
日亨上人は、日精上人の法主としてのお立場に対しては、微塵も疑義を差し挟んではおられない。むしろ日精上人を尊崇されていた御姿を拝することができる。その証例の一端を挙げる。

<日精上人造立開眼の宗祖御影「腹ごもり御本尊」を御書写>
 日亨上人は昭和25年に、常在寺に安置されている宗祖大聖人御影像の御腹ごもり御本尊を御書写遊ばされている。
 その脇書には次のように記されている。
●五十九世日亨八十四歳 昭和二十五年八月八日 東京都雑司谷区霊鷲山常在寺 日精上人造立御影像腹籠也


<『日蓮門下十一派綱要』での日精上人顕揚>
●日精上人始て江戸に教勢を張り又本山の規模を拡張す、此間専属の学林を起し教運漸く開く。(『日蓮門下十一派綱要』291頁)
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この書は、昭和初期の日蓮門下各派の教義および歴史の綱要について、他門の宗学者、北尾日大が編纂した学術書である。その中の「第2篇 日蓮正宗綱要」は日亨上人の執筆によるものであり、日亨上人は仏教関係の学者は勿論のこと、日蓮門下全般に広く読まれるであろうこの書において、特に日精上人の名を挙げ、その業績を顕揚されている。


<『続家中抄』日精伝には頭注なし>
 日精上人の御著述に対して頭注を加えられた日亨上人は、第48世日量上人の『続家中抄』についても種々頭注を加えられているが、「日精伝」中の、
 「諸堂塔を修理造営し絶を継き廃を興す勲功莫大なり、頗る中興の祖と謂ふべき者か。」(『富士宗学要集』第5巻268頁)
との日精上人の業績を賞賛された記述には一言の批判も訂正も加えられていない。



【日精上人に対する誤解の解消は日亨上人の御本意】
 日亨上人は、永年宗史学者として研鑚を積まれた中で、一篇の史料によって従来の学説が覆されることは、当然のこととして承知されていた。
 真実を追究することがすべての学問における大目的であり、日亨上人におかれても、時代の経過の中で史料文書がより正確に解読され、正法を伝える宗門の歴史がより深く正しく解明されることを、最も望んでおられたことは言うまでもない。
 したがって、近年の研究によって、日精上人の御著述にいささかの誤りもなかったことが明確になった事実に対して、日亨上人には霊山において必ずや欣然(きんぜん)として首肯遊ばされるものと拝察する。(『大白法』H16.4.1)



【問答編】

<全般的批判>
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 平成4年8月、全国教師講習会で貴殿が「堀上人がね、チョットわけわかんないようなことをおっしゃってる。こりゃそうなんだよ。堀上人はね、学者だから」と、堀日亨上人をくさしている。これは大勢の人々が直接に聞いたことである。
 ここで〝わけわかんないこと〟とは、日亨上人が日精を生涯、造仏読誦論者であると批判したことにほかならない。日精をかばうことで、結果として、日亨上人の日精批判が過ちであったと言う効果を期待していると見られても仕方がない。(斉藤克司・創価学会教学部長)
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 日顕上人は、大聖人以来、日精上人・日亨上人等、歴代の御法主上人が身命を賭して伝持されてきた血脈を所持遊ばす唯一のお方である。御歴代上人は血脈伝持の上から三宝一体の境界にましますのであり、もし御先師の御指南に誤解が生じることがあれば、それを正しい理解に教導下さるのも御法主上人の権能として当然具わるのである。
 貴殿は〝日精をかばうことで、結果として、日亨上人の日精批判が過ちであったと言う効果を期待していると見られても仕方がない〟などと述べるが、かかる悪口は、貴殿らのねじ曲がった謗法の根性から出てくるたわ言に過ぎない。(中略)
 日亨上人は御自身が述懐されるように、論述中に信仰者としての立場を離れた、学者としての客観的な意見を述べられることが多かったので、『富士宗学要集』の頭注等、日亨上人の著述中の御意見をもとに、他の者が日精上人等の御歴代上人に批判を加えることは、日亨上人の御意に悖ることであり、道義に反することであると、仰せられているのである。
 また日亨上人が、『富士宗学要集』などを編纂なされた目的は、宗門僧俗がいよいよ、それらをもって仏法を深く研鑽し、もって大法興隆のために資することを願われたものである。よもや貴殿ら創価学会のような悪逆の不埒者が顕れて、御自身の研究を利用して、歴代御先師を誹謗するというような仏法破壊の悪行に及ぶとは、思いもよられなかったことであろう。
 大聖人の仏法において学を志す者、以信代慧の御聖訓に則り、一信二行三学の精神で勉学をすることが「イロハ」である。宗史を研鑽する上においても、信心をもって宗門750年の歴史を紐解くことが、大前提である。
 そもそも文献に対する考察においては、その文献がいつ、誰によって、何の目的で、誰にあてて記されたものか、それを解明しなければ、その文献について正しい理解を得ることはできない。大聖人の御書においても、特に、御相伝の上からの理解、また佐渡以前・以後という法門開陳の時期の問題、対告衆の問題、それらを理解しなければ、御法門の正しい理解を得ることは絶対にできないのである。日亨上人は、今まで公開されなかった文献を、広く公開するに当たり、至らない初心者が文献を見誤り、迷いを生じないための配慮から、当面の文面理解を誤らないよう、客観的な立場から注を付されたのである。しかるに、それをもとに日蓮正宗の御先師を誹謗することなど、全く不本意も不本意、言語道断であると、さだめしお怒りであられると拝察申し上げる。
 日顕上人が、日亨上人の付された「注」の意義を明らかにされることは、〝日亨上人の宗内における精神的地位を引きずり下ろ〟すものなどではなく、反対に創価学会によって歪められた、日亨上人の御意を恢復されるものである。頭注をもとに御先師や、御当代日顕上人を誹謗することは、とりもなおさず日亨上人の御意を踏みにじる逆賊の所為と知るべきである。(『大白法』H16.5.16)

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日亨上人が「日俊已来此を撤廃して粛清に努めたる」と述べられているように、日精の謗法は後の日俊法主になってから撤廃されていくわけであるが、この事実を貴殿はどのように思うのか。日精自身に謗法撤廃の意志がなかったのではないか。あるいは、日精在任中には日精の圧力で謗法の撤廃ができない状況が続いたからではないのか。(斉藤克司・創価学会教学部長)
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日精上人には謗法などなかったのであるから、〝撤廃〟の事実はない。日亨上人は、日精上人に対して処々に厳しい批判の文言を残されているが、謗法とまで仰せられた箇所はない。(『大白法』H16.5.1)

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日亨上人は「日寛の出世に依りて富士の宗義は一層の鮮明を加へたるを以って要山本末に不造不読の影響甚だしく通用に動揺を生ぜり」と言われている。日寛上人が造仏読誦論を破折する「末法相応抄」を著すに至って、要法寺の影響は教学的にも完全に払拭されたわけだが、この間、約40年を要している。貴殿は日精が宗門史に残した悪影響についてどのように考えているのか。(斉藤克司・創価学会教学部長)
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 日亨上人の記述の御意は、
 「日寛上人の『末法相応抄』等に代表される造仏・一部読誦の破折により、要山本末、つまり要法寺の本寺末寺において造読家の反発を招くほど、その影響が著しく、大石寺との通用に動揺を生ぜしめた」
というものである。これは、大石寺の本末について述べられたものではない。貴殿は、それを故意に混同せしめて、まるで大石寺の本末において、〝要法寺の影響〟が〝教学的に払拭〟されるのに40年も要したかのように仕立て上げているのである。貴殿らは、どこまで腐っているのか。しかも最後に、厚顔無恥にも、〝日精が宗門史に残した悪影響についてどのように考えているのか〟と邪難するとは何たる言い草か。狡猾にも程があると言っておく。

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日亨上人は貴殿に先ずる法主であり、貴殿の父・日開に相承を授けた当人である。その日亨上人を脆弱な根拠による支離滅裂な愚論によって非難中傷することは、全く以って先師違背、不知恩の極みではないか。このことを貴殿はどのように感じているのか。(斉藤克司・創価学会教学部長)
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 そもそも学会による一連の日精上人に対する疑難の目的は、「唯授一人の血脈」の存在自体を否定するための誑惑であることは言うまでもない。最近の『聖教新聞』では、
法主は民主的にきめるべき(取意・『聖教新聞』平成15年9月4日付)
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等と完全に大聖人以来の血脈相承を冒涜した記事が紙面に踊っている有様であるが、その貴殿らが日亨上人を利用する理屈に〝貴殿の父・日開に相承を授けた当人〟等と論じるとは、実に〝脆弱な根拠による支離滅裂な愚論〟としか言いようがない。
 まして血脈を否定する貴殿には〝先師違背、不知恩の極み〟などと言う資格はまったくないのである。
 ことに貴殿の最大の誑惑は、「唯授一人の血脈」の存在を陥れるための手段として、しかも「唯授一人の血脈」をお受けになった日亨上人のお立場を悪用するところに存する。なんたる自己矛盾であろうか。ここまで来ると開いた口が塞がらない。ただただ呆れかえるばかりである。
 宗門は今まで、日亨上人の御意見を最大限尊重しながらも、さらなる研究の結果で、日亨上人の見解を訂正してきたことも度々存するのである。一例を挙げれば、熱原法難で三烈士が命を落とした年月日を、『富士日興上人詳伝』には、
●神四郎等兄弟三人の斬首および他の十七人の追放は、弘安三年四月八日と定むるのが当然であらねばならぬことを主張する。(同書91頁)
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とあり、日亨上人は弘安3年4月としている。しかし『富士年表』では種々検討した結果、弘安2年10月15日としてきた。かくいう貴殿が編集委員長を務める創価学会の『仏教哲学大辞典』(第3版)の「熱原法難」の項にも、
◆10月15日※、神四郎・弥五郎・弥六郎の3人は事件の発頭人というかどで斬罪に処せられ(※弘安2年・同書33頁)
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と、日亨上人の説ではない、その後の宗門の説を踏襲しているではないか。こう言うと姑息な貴殿らのことである「宗門の受け売りで知らなかった」と逃げをうつであろう。しかしそれは通用しない。なぜなら日亨上人の弘安3年4月説が紹介されている『富士日興上人詳伝』は創価学会から刊行されているし、『仏哲』(初版)ではご丁寧にも、
◆処刑の日は、弘安2年10月15日と、翌3年4月8日の両説がある。(同書1-62頁)
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とわざわざ両説あることを紹介しているのである。
 さらに『大白蓮華』昭和53年12月号には池田大作の言として、
◆かつての堀日亨上人の文献によれば、三烈士の刑死の日は、熱原法難の翌年にあたる弘安3年4月8日であるとの説であったが、猊下※の御説法によって示された弘安2年10月15日というのが、私達も本当にその通りであると思う。(※日達上人・同書95頁)
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との記事が掲載されている。つまり、たとえ日亨上人の説であってもとらわれずに妥当な見解を導き出された日達上人の御意見に池田大作自らが賛同しているのである。
 何が何でも日亨上人のお言葉が絶対であるとし、宗門が指摘した妥当な見解、すなわち、日精上人が造像家でなく正法正義の正師であるという事実に目をつぶって、血脈の御法主上人を誹謗する貴殿の主張は、貴殿らの巨魁池田大作の言によって既に退けられているのである。貴殿は今まで日亨上人の説ではなく、その後の宗門の説を踏襲しながら、なぜこのことを問題にせず、日精上人のことだけを取り上げて問題にしてきたのか。〝日亨上人の眼光紙背に徹する識見〟などという歯の浮くようなお世辞は一体どうしたのだ。
 答えは1つしかない。貴殿らは血脈の尊厳を貶めるために、日亨上人をことさら慇懃(いんぎん)無礼に扱って、利用しているだけに過ぎないのだ。
 「日精上人に謗法がなかった」という、この喜ぶべき訂正に日亨上人が御賛同なさらないはずはないのである。
 御当代日顕上人は、
●法主が無謬(むびゅう)とか無謬でないとか、そんな子供のけんかのようなことを言うのがおかしいのです。たとえ血脈相承を受けた法主であっても、思い違いや多少の間違いがあるようなことは、当たり前なのです。
 大聖人様にも『観心本尊抄』に「章」という余分な一字をお書きになっている所があります。同様に、それ以下の法主だからといって、そういう思い違いやちょっとした間違いぐらい、だれもないなどとは言っていません。(中略)創価学会の者どもは、日寛上人と日亨上人をこれ以上ないほど持ち上げますが、日亨上人がどんなに学匠だからといっても、絶対に無謬ということでもないのです。
 今、日蓮正宗に『富士年表』というのがあります。これはずいぶん苦労したのです。日達上人の御指南で私どもが作りましたが、全部を作り上げるのに20年ぐらいかかりました。そのときに、史料の上の難問は山積しており、今までの説を改めるべき色々な問題が出てくる。そうすると、やはり「日亨上人がこうおっしゃっているけれども、ここは違うから、このようにしよう」ということで訂正した箇所もありました。何もそれは日亨上人の研究を否定するということでなく、新たな資料の発見などによって当初の考えから、より真実に近づいた結論が出たからです。また、膨大な資料をお一人で見る場合に、やはりどうしても色々な意味でちょっとした思い違いなどもありうるのです。  要するに、宗門は何も、始めからしまいまで「法主に誤謬は絶対にない」などとは言ってないのです。彼等が勝手に誣告しているだけであって、私をも含め、ちょっとした間違い、思い違いぐらいはどこにでもあり、それは正直に訂正すればよいのです。ただし、血脈の法体に関する根本的な意義については、けっして誤りはありません。(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』62頁)
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と御指南されているとおりである。
 確かに、日亨上人は近代における大学匠であり、宗門史の解明においては、その御功績に依るところが大きいことは紛れもない事実である。しかし、創価学会がこれまで意識するしないにかかわらず、恐れ多くも日亨上人を都合よく利用する理由は、上人が唯授一人の血脈を伝持された御法主上人であられたからであろう。ある時は血脈を否定し、ある時はその血脈を利用する。貴殿らの都合に合わせ、血脈の御法主上人を悪用することは断じて許されない大謗法である。以下の文章をこころして見るがよい。
◆日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた。御本尊を御認めあそばすのは、御法主上人御一人であられる。われわれは、令法久住のための信心を根幹として、広宣流布に邁進しているのである。しかし、いくら広宣流布といっても、御本尊の御認めがなければできない。われわれは、あくまでも総本山根本、御法主上人厳護の信心で進んでまいりたい。(池田大作『広布と人生を語る』第3巻256頁)
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 これは貴殿の尊敬する池田大作が以前述べた言葉である。貴殿が自語相違を繰り返す習性は、貴殿の属する団体の宿習であるから、致し方ないことなのであろう。貴殿らの現状たる「総本山違背、御法主上人非難」は道理に反した師敵対の大謗法であると断じておく。(『大白法』H16.6.1)

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 日蓮正宗の法主の座に就いた日亨上人と貴殿の2人が、日精という問題ある人物について全く相反する評価をしていることが興味深い。
 その相違が何に由来するのかといえば、日亨上人がどこまでも法を守っていく透徹した「信心の眼」で日精問題を見ておられるのに対して、貴殿は自己絶対化・仏法破壊・先師否定という「魔性の心」で日精問題を見ているからである。(斉藤克司・創価学会教学部長)
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 貴殿の〝日精を擁護する貴殿と、日精を厳しく批判する日亨上人〟との言こそ、全くお門違いも甚だしい言いがかりである。日顕上人は日亨上人を批判しているのではない。貴殿らの邪難を破折されたのだ。
 しかし、これまで論証してきたように、日精上人の御化導は、時に応じた、また特殊な中での適切なものであって、謗法などではなかった。日顕上人は、日亨上人に誤解があられたということを明かされたのである。
 貴殿らは「法主であっても誤りがある。誤った法主に従う必要はない」として、日顕上人に反抗することを正当化しようとしている。創価学会からの歴代御法主上人誹謗の動機は、まさにこの点にある。自分たちのわがままを押し通すだけのために、御法主上人誹謗を正当化しているに過ぎないのである。
 日精上人の御事に関しては、創価学会では早くからこれを宗門への攻撃材料として準備していた。それが、かの昭和52年路線の際の内部文書『宗門への質問状』であり、その中に、「血脈付法に関する問題」「第17世日精上人による仏像造立の問題」等と、日精上人をはじめ御歴代上人に対する疑難を取りまとめていたことが明らかとなっている。当時は使用を見送ったのであるが、これを悪用し、学会に先立って日精上人を誹謗したのが、かの自称「正信会」の輩である。
 かつて池田大作は、
◆時あたかも本門戒壇の大御本尊、ならびに法灯連綿たる日蓮正宗の根本義たる唯授一人の血脈を否定せんとする愚人の徒輩が、狂い叫ぶように悪口雑言のかぎりをあびせております(池田大作『広布と人生を語る』第2巻57頁)
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◆700星霜、法灯は連綿として謗法厳戒の御掟を貫き、1点の濁りもなく唯授一人の血脈法水は、嫡々の御歴代御法主上人によって伝持せられてまいりました。(同第6巻12頁)
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等と、日蓮正宗の血脈法水には1点の濁りもなく御歴代御法主上人によって伝持せられてきたと発言していた。このように創価学会では、『宗門への質問状』なる文書を用意したことがありながら、池田大作は「正信会」を「血脈否定の輩」と言って非難していたではないか。それとも池田大作は、『宗門への質問状』において御歴代上人への疑難を用意していたことは当時知らなかった、とでも言い逃れをするのか。貴殿らの所行こそ、〝愚人の徒輩〟〝狂い叫ぶ〟と言うのである。


<『家中抄』>
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 『富士日興上人詳伝』には、『家中抄』の日尊、日印、日大の伝記について、次のように仰せである。
 「家中抄のこの下の記事の長句、まったく祖師伝の直写なれば、ここに重複を避けて贅記せず」
 「長文はほとんど祖師伝の引文なれども、多少の補修がある分だけを記しておく」
 「これらは、文長けれども、貴重の文献なれば掲げたが、祖師伝の文とは多少の相違がある」
 このように、日亨上人は、明らかにこれら要法寺の3人の伝記が祖師伝の引用であると厳然と御存知なのである。しかも、両方の文に多少の相違があることまで熟知されているのである。
 このように見てくると、時局班の考察の甘さが一段と浮き彫りになってくる。古文書を読解・分析する能力、論を組み立てる構成力、そして正法護持せんとの信心態度のいずれをとっても、力量の著しい不足が露呈している。
 それを貴殿は「時局対策の文書班の一人偉いのがいますよ。よく勉強してね。ワシもあれ感心した」などと大層な評価をしている。この程度の稚拙な論に感心するとは、所詮、貴殿も同程度の幼稚なレベルにあると思うがどうか。
 少しでも宗学を修める者であれば、日亨上人が日辰の書からの引用であるとわかったうえで頭注を付されていることは自明の理である。それをいまさら、〝日辰の引用部分を批判している〟などと鬼の首をとったかのように云々する。あまつさえ、堀上人を「失念」呼ばわりするなどというのは、時局班、すなわち貴殿の程度の低さを如実に物語るものではないのか。(斉藤克司・創価学会教学部長)
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 日亨上人が『家中抄』の「日印伝」を『祖師伝』の引用であるとの認識をもたれていたことは、貴殿らに言われるまでもないことである。
 しかしながら繰り返し言うが、日亨上人は日精上人を造像家であると誤解されていたのであり、これがはっきりすれば、日精上人の正義が証明されるのである。誤解であられたことを明らかにさせていただくことは、むしろ日亨上人も御嘉納遊ばされるところと拝するものである。
 また〝少しでも宗学を修める者であれば、日亨上人が日辰の書からの引用であるとわかったうえで頭注を付されていることは自明の理である〟などとは呆れた逆言である。宗旨の根幹に迷い、正しい宗門史を理解することもできず、支離滅裂な愚論を展開する貴殿が〝宗学を修める者〟などと述べる資格など微塵もなく、増上慢も甚だしいものであることを念告しておく。

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 『家中抄』に対する日亨上人の頭注は、「祖師伝」の引用の部分だけでなく、日精本人が書いた文章の上にも及ぶ
 「本師造読家ノ故ニ誇大セルガ如シ 惑フナカレ」
 「本師造像家ナル故ニ此ノ疑文ヲ依拠トスルカ」等々。
 貴殿ならびに時局班は、これらの個所では一体、日亨上人が何を〝失念〟したと言いわけするのであろうか。
 日亨上人は、積年の精力的な研鑽による該博な知識を裏付けとし、類希な眼力によって文献を解読し宗史を明らかにされた。
 そして、鍛え抜かれた本物の学者としての見識と、何よりも信仰者として大聖人・日興上人に対する真正の信仰に基づくがゆえに、途中の法主の邪義を冷静に批評できるのである。
 それも分からないで時局班に論じさせ、「日亨上人の失念である」などという結論に悦にいる貴殿は、それによって日亨上人とは正反対の無見識・無信仰を暴露していることに気が付かないのか。(斉藤克司・創価学会教学部長)
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 先にも述べたように、日亨上人は、『富士宗学要集』編纂時に現存した文献から「日精上人が造像家である」と思い込まれていた。そのため、日精上人が述べられた造読に関連すると思われる事項はもちろんのこと、『祖師伝』等の日辰の文章が引用された部分を読まれても、それが日精上人のお考えであると誤解されていたと拝せられるのである。
 ここに日亨上人が『家中抄』の頭注に、「本師造仏ノ底意ヲ顕ス」と記された所以が存するのである。すなわち、この頭注の「本師」とは日精上人の御事であり、貴殿が挙げた他の頭注についても同様である。
 まず、「本師造読家ノ故ニ誇大セルガ如シ 惑フナカレ」の頭注は、『家中抄』の日興上人伝にある、
●師存生の間常に兜率の生を願ひ給へり、之に依て御自筆の法華経巻毎其ノ趣を書き給ふ(『富士宗学要集』第5巻176頁)
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にある傍点(下線)の箇所に付された頭注であり、全文は、
●蓋経ノ末巻ニ此意ナキニアラズ蓋シ本師造読家ノ故ニ誇大セルガ如シ 惑フナカレ(同頁)
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との御記述である。
 これは日亨上人が「本師造読家」という先入観より、このような頭注を加えられたものと思われ、さらに、
●当宗嫡々法門相承どもを日道に付嘱す、其ノ外高開両師よりの相伝の切紙等目録を以て日道に示す、其ノ目録に云ハく。日興御さくの釈迦一そん一ふく(『富士宗学要集』第5巻213頁)
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の箇所に付された、
●本師造像家ナル故ニ此ノ疑文ヲ依拠トスルカ(同頁)
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の頭注も同様のものと拝せられる。
 しかし、これは先述のごとく、日亨上人が日精上人を造像家であると誤解されていたために付された頭注なのである。
 しかし日亨上人は『化儀抄註解』に次のように仰せである。
●此仏と云ふも此菩薩と云ふも(中略)末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり、猶一層端的に之を云へば・宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり(『富士宗学要集』第1巻117頁)
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 この御教示を拝すれば、日亨上人が日精上人を含む「血脈相承の法主」に対し、絶対的な信を持たれていたことが明らかであろう。もし日亨上人が日精上人の血脈に対して疑念を持たれていたのであれば、このような御教示はなされるはずがないのであり、むしろ根底では日精上人を「血脈相承の法主」として尊敬されていたのである。
 日亨上人は、『富士宗学要集』に『日蓮聖人年譜』や『家中抄』を収録するにあたり、その中には、初心者や他門の衆徒が内容を理解する上において、特に誤謬伝説や法義的な問題の取り扱いに関して、誤解を生じやすい部分もあることから、批判や特記事項を頭注として付されたのである。これは、いわば後学への御配慮である。この日亨上人の慈悲のお心を悪用し、日亨上人が〝途中の法主の邪義を冷静に批評〟したなどとの言をもって歪曲し、その御心を踏みにじる貴殿ら創価学会の振る舞いに対し、日亨上人がどれほどお嘆き遊ばされているか、察するに余りある。日精上人に対する日亨上人の御見解を訂正申し上げて、貴殿らの邪義を粉砕することこそ、日亨上人の令法久住の御本意と知れ。


<『日蓮聖人年譜』>
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 そもそも『日蓮聖人年譜』とは、その名が示すように、日精が編集した御本仏・日蓮大聖人の忍難弘通の御生涯を記す年譜である。
 項目ごとに御書を引いて大聖人の御振る舞いと法義を示している。
 ところが、文永9年の記述のうち、「一佐渡国より弟子共に内々申す法門とは何等の法門ぞや」という問いで始まり三大秘法について論述した項において、日精は「或ル抄」なるものを引いて、富士の立義とは異なる要法寺流の邪義を延々と紹介して注釈としているのである。
 確かに日精は、この書では一応、「或ル抄」の立義の誤まりを指摘しており、要法寺流の邪義にべったりというわけではない。しかし、その一方で、富士の正義を十分鮮明に示すまでには決して達していないのである。
 「本師未タ富士ノ正義ニ達セザルナリ」との日亨上人の頭注は、まさにこの点を喝破したものなのである。
 この項に対する日亨上人の頭注は、いずれも、宗旨である三大秘法に関わる、その重大な邪義への破折である。それはまた、邪義を書き捨にして人々を誤解へ導きかねない日精の態度と、要法寺流を引きずる日精の教学的な浅さへの破折なのである。(斉藤克司・創価学会教学部長)
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 『日蓮聖人年譜』について御法主日顕上人猊下は、
●その日精上人の『日蓮聖人年譜』を見ると、日精上人は、要法寺の日辰が『観心本尊抄』や『本尊問答抄』等について釈した文を『日蓮聖人年譜』のなかに引いておるのです。しかも、その日辰の義を日精上人は批判して、日辰の義が間違いだということを言っておられるのであります。すなわち、『日蓮聖人年譜』のなかに、
 「其の上或抄に本尊問答抄を引き法華経を以て本尊と為す可しと此の相違はいかんが心得可きや、答へて云はく此の或る抄を見るに一偏にかける故に諸御書一貫せず」(『富士宗学要集』第5巻118頁)
 つまり、答えとして「このある抄は偏った義において書いているから、この筋では大聖人の諸御書の意が一貫した正しいものとならない」という日精上人のお言葉があります。その「或る抄」というのは日辰の書であります。さらに続いて、
 「其の上三箇の秘法の時は唯二箇となるの失あり今便に因みて略して之を出さん、其の中に……」(同頁)
と、日精上人が、日辰の義をちなみに略して引用しよう、と言われているのであります。そして、そのあと、
 「初には本尊に二あり」(同頁) とあるのは日辰の文であり、以下、ずっと日辰の義を挙げ、その最後の所で、日精上人はまたさらに、日辰の義をはっきり破しておられるのです。(『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』59頁)
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と御指南されている。この御指南で明らかなように、日精上人は日辰の文を引用され、その後で日辰の義を破折しておられるのである。
 先にも述べたが、これまで貴殿ら創価学会は、日精上人を要法寺の広蔵日辰流の造読家であったとし、それを御法主上人に対する誹謗中傷の論拠としてきた。ところが、ここでは貴殿は、〝確かに日精は、この書(『日蓮聖人年譜』)では一応、「或ル抄」(要法寺日辰著の邪抄)の立義の誤まりを指摘しており、要法寺流の邪義にべったりというわけではない〟というように、これまでの創価学会の邪説を改めたのである。
 この〝「或ル抄」の立義の誤まりを指摘しており、要法寺流の邪義にべったりというわけではない〟とは、日精上人が要法寺流の立義、つまり造読思想の誤りを指摘されているから要法寺流の邪義ではない、ということである。要するにそれは、日精上人が造読家ではないということを貴殿らが認めたということである。しかも続けて、〝日亨上人は、当該個所が「或ル抄」の引用とそれに対する日精の破折であることは百も承知なのである〟とも述べて、日亨上人は、日精上人が日辰の邪義を破折しておられたことを御存知であったと、訂正したのである。それは、これまでの貴殿らの説が偏執の邪説であったことを意味する。
 しかし、毒気深入の貴殿は、正直に誤りの全てを認めようとはせず、陳腐(ちんぷ)な邪義の上塗りを企てて、〝しかし、その一方で、富士の正義を十分鮮明に示すまでには決して達していないのである〟という。このように、誠に苦しい言い訳をするが、日精上人が造読家ではないことを認め、しかも日精上人が日辰の邪義を破折しておられることを認めたので、貴殿らの邪義は根底から崩れたのである。これを認めた以上、あとで日精上人が富士の正義に〝達していない〟と、たとえ百遍言ってみたところで、それは「焼け石に水」でなんの効果もないのである。
 このように、貴殿ら創価学会は、御当代日顕上人の信用失墜を図るための悪口罵詈の理由付けとして、血脈法水相承を否定するために、日精上人を謗法の造読家に仕立て上げたのである。しかし日顕上人から日精上人の正義を明示されて破折されるや、貴殿の言をもって、たちまちにその邪説を翻したのである。創価学会崩壊の予感に怯(おび)える貴殿は、日精上人を誹謗することが邪義であり、それが創価学会の内外に知れ渡り、会員が動揺することを恐れて、新たなる邪義の上塗りをするという、腐り果てた所業に出た。斉藤克司よ、これは今回の文書で貴殿が犯した第2号の大失態であり、最大の失態である。
 さらにいえば、貴殿は〝「本師未タ富士ノ正義ニ達セザルナリ」との日亨上人の頭注は、まさにこの点を喝破したものなのである〟と言うが、この頭注が日精上人の文章の上にあるのであれば、そのような論理も成立するであろう。しかし、この頭注は日精上人が日辰を破折するために引用した日辰の文章の上にあるから、そのようなことは全く当たらないのである。すなわち、この頭注は『日蓮聖人年譜』の、
●初には本尊に二あり先ツは惣躰の本尊、(中略)次には別躰の本尊なり(同頁)
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との文章についてのものである。この文は貴殿も認めているとおり、日辰の「或る抄」の引用である。以下、6箇所にある頭注は、いずれも日精上人が日辰を破折するために引用した日辰の文章に対して付されている。これらの文章に日亨上人が頭注を付されたのは、日亨上人が、日辰の文章を日精上人の文章であると思い込まれていたこと以外には考えられないのである。よって、そこに日亨上人の頭注が付されているからといって、その頭注をもとに〝宗旨である三大秘法に関わる、その重大な邪義〟〝邪義を書き捨てにして人々を誤解へ導きかねない日精の態度〟〝要法寺流を引きずる日精の教学的な浅さ〟などと日精上人を誹謗するのは、甚だ見当違いの大謗法である。
 したがって、今回の貴殿の説は、日精上人に対する貴殿らの従来の見解を、百八十度変えたということであり、いかに厚顔無恥な貴殿らでも、白を黒と言う如き、ごり押しはできぬと観念したのであろう。
 さらに念のために言っておくが、貴殿らは日精上人が〝要法寺流の邪義にべったりというわけではない〟との表現をもって、日精上人の日辰破折の意義を薄弱化しようとするが、日精上人は、
●然るに三大秘法の義を取ること偏に取るが故に相違甚多なり此ノ故に今之レを挙ケて以て支証とするなり。(『富士宗学要集』第5巻120頁)
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と、日辰の義は当家の義と「相違甚多」であると破折されているのである。
 この「相違甚多」という言葉を刮目して見よ。「相違」とは当家の正義との「相違」であり、「甚多」とは「甚だ多い」ということである。つまり「相違甚多」とは、日辰の造読義は「当家の正義との相違が甚だ多い」という、厳然たる破折である。貴殿は誑惑して〝要法寺流の邪義にべったりというわけではない〟と述べるが、そんな生易しいものではないのである。
 このように、『日蓮聖人年譜』において、日精上人は一言のもとに日辰の邪義を粉砕されているのである。破折に充てられた文章の長短によって〝正義を十分鮮明に示す〟かどうかが決まるのではない。(『大白法』H16.6.1)

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 時局班は浅はかにも「これは日亨上人が『或抄』の引用であることにお気づきになられなかっただけである」と簡単に片付けてしまっている。即ち、『家中抄』の頭注を「日辰の引用であることを失念した」と見なしたのと全く同様の短慮にはまったのである。  一知半解の半可通が、自分がしばしば陥りがちな過ちを、大学匠もたびたび犯すだろう、と不遜にも考えているのである。
 日亨上人は、当該個所が「或ル抄」の引用とそれに対する日精の破折であることは百も承知なのである。そのうえで、日精が長々と邪義を引用しているにもかかわらず、その邪義を十分に破折し、富士の正義を示しきっていないので、富士の正義との違いを明確にするために、三大秘法に関するこの項ではしばしば頭注を付けられているのである。不十分な破折は邪義を容認するものになるからである。
 このように見てくると、日亨上人の頭注は、日辰の書からの引用文への破折の形をとっている場合でも、その真意は、邪義を引用しながら十分に破折できず、邪義から脱け出せていない日精を破折することにあることが分かる。このことに、『日蓮聖人年譜』を読んだ後世の人が富士の正義から寸分も外れないようにと配慮された日亨上人の慈悲を感じるものである。
 このような厳格にして慈悲にあふれた智勇兼備の頭注に対して「或る抄への破折と気づかなかったための誤読」と時局班が評するのは、いかにも愚かであり、正法正義を守らんとする気概がいかに不足しているかを露呈するものではないか。
 しかも時局班は、日亨上人が憤激の注を加えられているほど不十分な日精の破折に対して「要点をピシャリと押さえてこれを粉砕し、日辰の邪義に対する御自身の見解を表明しておられる」と最大級の賛辞を送っているのであるから、笑止千万である。
 この日精擁護の愚論を賛嘆する貴殿は、日亨上人の如き峻厳なる護法の志を持たない者であることを図らずも露呈している。むしろ、日精のごとき邪義謗法を容易に容認してしまう程度の仏法理解であることを白日の下に曝してしまっているのである。それもすべて貴殿が天魔の魔性に狂っているからであると思うがどうか。(斉藤克司・創価学会教学部長)
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 ここで貴殿は、〝日亨上人は、当該個所が「或ル抄」の引用とそれに対する日精の破折であることは百も承知なのである〟〝日亨上人の頭注は、日辰の書からの引用文への破折の形をとっている場合でも、その真意は、邪義を引用しながら十分に破折できず、邪義から脱け出せていない日精を破折することにあることが分かる〟としている。これこそまさに牽強付会の詭弁(きべん)と言うほか無い。日精上人が〝邪義を引用しながら十分に破折できず、邪義から脱け出せていない〟と言うならば、先にも述べたが、日精上人が日辰を破折された「相違甚多なり」との文の上に頭注を付されるはずではないか。しかるに日亨上人は、『富士宗学要集』でいえば30行も前の引用文の上に頭注を付されているのである。このような日辰の文章の上に付された頭注を見て、どうして日精上人は〝邪義から脱け出せていない〟ので日亨上人はそれを破折されている、と理解するのだ。どう見ても日辰の邪義に頭注を付されているとしか見えないではないか。したがって、貴殿の主張する〝日亨上人の頭注は、(中略)邪義から脱け出せていない日精を破折することにある〟との弁解は、まったく幼稚極まる見えすいたデッチ上げと言う以外にない。このような愚論を恥ずかしげもなく質問状に記載したことが、斉藤克司の大失態の第3号である。
 貴殿の今回の駄文では、邪難の大方の根拠に日亨上人のお言葉を挙げている。つまり日亨上人が文章を「誤解」して頭注を付されたとなると、貴殿ら創価学会が、日亨上人の頭注をもとに日精上人を批判するという邪難を維持できなくなるからである。そこで新しい誑惑として、「日精上人は邪義を破折されているが、日亨上人の頭注も正しい」という矛盾する牽強付会(けんきょうふかい)の理論を構築せざるを得なくなったのである。貴殿は少なくとも日精上人が正しいと認めたのであるから、教学部長として前言を撤回し、日精上人及び日顕上人に学会を代表し謝罪する義務があると思うが、どうか。  総本山48世日量上人は、『続家中抄』の冒頭において、
●(日精上人の家中抄3巻は)実に末世の亀鏡門家の至宝なり(『富要』第5巻267頁)
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と述べられているとおり、『日蓮聖人年譜』『家中抄』の編纂は、富士門家にとっては稀有の大事業であり、これらは貴重な伝記史である。なぜならば、大聖人御誕生より日盈(えい)上人までの、実に400年間の長期にわたる史伝であって、我が門家にはこれに比類する史伝書がないからである。400年という長期の歴史を、しかも不便な時代に編纂されたのである。『日蓮聖人年譜』や『家中抄』の記録のなかに、多少の誤謬があったとしても致し方ないところであり、しかもそれは宗義上の誤りなどでは断じてないのである。
 『日蓮聖人年譜』に日亨上人が頭注を付されたことも、それは日精上人を誹謗する目的などあろうはずはない。しかるに日亨上人の頭注を悪用して、御先師批判に及ぶ貴殿らの所行に対して、日亨上人が憤激遊ばされていることに疑念を差し挟む余地はない。(『大白法』H16.6.16)

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 この年譜は全体として多くの問題を孕(はら)んでいるので、日亨上人はこの年譜について、「又本師の宗義史実の誤謬は欄外に粗ホ批判を加ふれども、或は細密に及ばざる所あり、読者此レを諒せられよ」と末尾に注記されている。
 日亨上人は、日精の杜撰さにできる限りは手当てを施されたが、さじを投げざるを得ないものであったことが分かる。(斉藤克司・創価学会教学部長)
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 『日蓮聖人年譜』の末尾に日亨上人は、
●編者曰く本山蔵御正本に依つて此を写す、但漢文態の所は延べ書にす、引文の誤り等は止むを得ざる所の外は訂正を加へず、又本師の宗義史実の誤謬は欄外に粗ホ批判を加ふれども、或は細密に及ばざる所あり、読者此レを諒せられよ。(『富要』第5巻146頁)
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と記され、約50箇所の頭注を加えられている。
 この『日蓮聖人年譜』の頭注の中には、日精上人の著述は要法寺流に傾いているとの印象を懐かれた日亨上人が、その記述には注意を要することを慮られて、後代のために論評を加えられたものである。しかし、そこには誤解もあられたのであり、実際には日精上人は時機に応じて摂受の御化導も遊ばされたが、全てにおいて当家の正義を逸脱することはなく、前に述べたごとく、むしろ困難な状況の中で、宗門のあらゆる面を復興に導かれたのである。つまり「日精上人に誤りはなかった」のであり、御当代日顕上人猊下はこのことを明らかにされたのである。
 日顕上人は、
●あまりにも創価学会は日精上人のことを悪く言っております。しかし、日精上人の造仏云々については宗史の全体観から、より大きな化儀の角度で見る必要があるのです。(中略)ともあれ、日精上人がはっきりと造像家の日辰を、しかも本尊等の教義の解釈としての内容を破折しておられる以上、もう少し日精上人のことは、改めて考えなければならない意味があるのです。それを、日亨上人が言われたということだけをもって、いかにも口汚く日精上人を罵っているのが、この創価学会の者どもなのです。(中略)要するに、宗門は何も、始めからしまいまで「法主に誤謬は絶対にない」などとは言ってないのです。彼等が勝手に誣告しているだけであって、私をも含め、ちょっとした間違い、思い違いぐらいはどこにでもあり、それは正直に訂正すればよいのです。ただし、血脈の法体に関する根本的な意義については、けっして誤りはありません。(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』62頁)
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と御指南されている。この御指南で仰せのように、日亨上人には、膨大な資料をお一人で研究される中において、資料の読み違い、また、誤謬伝説なども相まって、日精上人に対して、「造読思想あり」と判断せざるを得なかった状況があられたのであろう。信仰上の信念から言えば「有るはずがない」ことであるが、しかし資料からは「有り」と判断せざるを得ない。そのような意味から後世の学徒が道を誤ること無きようにとの御慈悲から、あえて真偽の研究は後世に託されたうえで、注意の頭注を付されたのである。それが誤解であったことが判明すれば、日精上人に誤りがなかったことはもちろんであるが、日亨上人におかれても法義上、正義を述べられていたことがはっきりする。つまり日亨上人の頭注については、右の日顕上人の御指南を体して、十分に注意をしながら拝読するべきであろう。



【学問上の成果と宗教的信念】
 自然科学上の成果と宗教上の教義が矛盾することは、よく知られているところである。しかし、科学的に真実とされてきたことが、同じく科学によって否定されることもままあることである。科学は発展するが真実の宗教であれば、その教義は絶対不変かつ普遍的である。だから、たとえ科学的に証明されていなくとも、将来、科学の発展によって徐々に教義の真実性が証明されていくものと確信する。
 自然科学の分野でさえ定説が覆されることがある。それに比べれば、歴史学上の定説・通説が塗り替えられる事例など、枚挙に暇がない、と言っても過言ではない。

 さて、第59世日亨上人が、第17世日精上人の御事績を検証・評価されたことも広い意味で歴史学上の学問的成果といえる。これは、世法上の事柄であり、限られた史料から特定の人物の思想や事績を推定評価するという作業である。これは、真実に直接的にアプローチするというのではなく、あくまでも人知の及ばぬ歴史の落とし穴(偶然性や意外性、別の事実の抜け落ち)を無視して、断片的史料のみから類推される可能性から、最も確率が高いと思われるものを真実とするというものである。これは、学問的仮説の前提となる情報(現存する諸史料)の量や、科学的技術(年代特定の技術や筆跡鑑定など)のレベルによって、結果も大きく変化しうるものである。
 一方、唯授一人の血脈が宗旨の根本であり、血脈を相承された方の御内証が大聖人と一体であることは宗教上の絶対的真実であり、科学的評価などによって左右されるものではない。

 日亨上人は現存する断片的史料から、日精上人の御事績を評価するに当たり、日蓮正宗本来の化儀とは相容れないものであると結論された。宗教上の信念の上からは、唯授一人の血脈を相承された方が化儀の逸脱をされることなどあり得ない。そのことを日亨上人が確信されていたことは、種々の御指南に明らかである。しかし一方、現存する史料から導かれる内容は、日精上人が化儀の逸脱をされたことを示している(※日亨上人はそう思われたが、実際は違う)。
 史料から導かれる学問的成果と宗教的信念の矛盾という問題に直面された日亨上人は、日精上人に関する史料の解説をなさる場合に限っては、その学問的成果に従って評価された。これは、学者としての立場からは当然であり、そのような客観性があるからこそ、日亨上人の学問的成果に対する一般的評価も高いのであろう。しかし、宗教上の教義解説においては、大聖人の正しい法門から導かれる血脈の絶対性を強調されておられる。これもまた、正しい信仰の上から当然のことである。

★一時的な学問的成果と宗教上の真理が矛盾したからといって、宗教上の真理が直ちに否定される訳ではない。

大聖人や歴代上人の御指南もまた、学問的成果によって新事実が発見される。それによって真実に徐々に近づくのであるが、短期的には真実とは食い違う場合もあり得る。
いずれにせよ、御書の解釈は唯授一人の相伝によって行われるのであり、学問的成果(御書の真蹟評価など)によって、宗旨の根幹部分が否定されることは絶対にない。(法蔵)





上人方の連係による善導

(<法蔵>H18.11.19)

【第17世日精上人御登座前後】
―折伏・教化によって弘教拡大―
史料によれば、敬台院寄進の法詔寺はじめ多くの寺院が建立または帰伏している。

●第一浅草鏡台山法詔寺、第二牛島常泉寺是は帰伏の寺なり、第三藤原青柳寺、四半野油野妙経本成の両寺、五赤坂久成寺浅草安立院長安寺、六豆州久成寺本源寺是は帰伏の寺なり(『随宜論』/『富士宗学要集』第9巻69頁)
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これらの寺について、日精上人が造仏された寺ではなかろうか、との誤解があるが、これは造仏された寺と書かれているわけではない。日精上人が創建あるいは帰伏させた寺であろう。(『創価学会による日精上人に対する再度の疑難を破す』時局協議会文書作成班1班)

●寛永15年(1638年)、江戸小梅常泉寺の什門流本行坊日優が、日精上人の教化を受け、常泉寺は大石寺の末寺に移り、常泉寺の末寺である下総国(千葉県)中田真光寺が大石寺の孫末寺となった。(『新版仏教大辞典』初版)

●寛永15(1638)年 日精上人、隠居して江戸に出られ、常在寺を再建(『新版仏教大辞典』初版)


【第17世日精上人】
―化儀にくらい新入信者を四悉檀を駆使して善導―
 日精上人が御登座される前年(寛永8〈1631〉年)に新寺建立が禁止される。ちなみに法詔寺の建立は元和9(1623)年である。
 また、御登座された年には本末帳が作成(本末制度)され、以後何度も実施された。これによって、各宗派の本寺は末寺を支配するために様々な権利を有するという、寺院の厳格な上下関係が築かれた。(『日寛上人と興学』)
 すなわち、日精上人の時代から新寺建立は不可能となり、寺院の帰伏も困難な状況となっていくのである。
 しかし、そのような状況下、日精上人御登座前後には多くの寺院が帰伏していた。寺院の帰伏といっても、住職の一存で決められたことであろうから、信徒は仕方なく大石寺を本山と仰ぐことを強いられたことであろう。また、法詔寺のように大檀那の帰伏によって建立された場合も、有縁の者達が一斉に、個々の意思とは拘りなく帰伏したことであろう。
 加えて要法寺との通用問題もある。要法寺の前身である上行院を建立した日尊は、日蓮正宗第3租日目上人の化導により出家得度し、第2租日興上人の薫陶を受けた方である。それ故に、本来大石寺を本山と仰いでいた。第13世日院上人の時代には要法寺第19代日辰が大石寺との通用を求め、第14世日主上人の時代には通用が実現している。しかしながら、要法寺は大石寺が厳禁している造読(造仏、法華経一部読誦)を行っていた。
 つまり、日精上人御登座当時は、大石寺の化儀にくらい信徒を多く抱える寺院が複数存在したのである。
 このような寺院の信徒をいかにして善導するかが、日精上人の大きな課題であったに違いない。謗法厳誡といっても、折伏を受け個人の自由意志によって入信した者と、封建制度下、住職や主人の意向に従わざるを得なかった者では、情状が異なり、教化方法も異なって当然であろう。
 そして、日精上人が採られた善導の内容とは、造仏に関して言えば、"曼荼羅本尊の脇士としての安置"であったと考えられる。しかし、あくまでも一時的措置であり、日精上人の本意ではなかったことは『家中抄』の記述によって明白である。
 敬台院が寄進し日精上人が住職となった法詔寺の造仏は御登座前のことであるが、第16世日就上人は日精上人に法を付された。このことについて異議を唱えるものは僧俗を問わず皆無であった。このことからも、末寺での仏像安置は化儀にくらい信徒の善導であり、第16世日就上人をはじめとする本山の意に沿った行為であったことが容易に推測されるのである。

●敬台院は、『日宗年表』の元和5年(1619)の記事に、
 「此頃前阿波太守蜂庵入道大雄院日恩を崇敬東山に隠居寮を建て之を寄す」(『日宗年表』171頁)
とあるように、既に蜂須賀至鎮の父・家政が要法寺22代・大雄院日恩に帰依しており、蜂須賀家に嫁いだ敬台院はその縁から要法寺の信徒となったのであった。
 日精上人は、日昌上人、日就上人についで、要法寺から来られた3代目の御法主上人である。当時の江戸における本宗の寺院は、日就上人開基の常在寺があった。常在寺の開基檀那は細井治良左衛門であるが、日量上人の『続家中抄』には、
 「父通達院乗玄 慶長十二丁未四月十七日、下谷常在寺古過去帳当時大施主とあり」(『富士宗学要集』第5巻268頁)
と、日精上人の父、法号・通達院乗玄も常在寺の大施主であったことが記されている。日精上人の父は慶長12年(1617)に逝去されており、この時、日精上人は8歳であった。したがって、日精上人の父は要法寺の信徒であったと思われる。このように、常在寺の檀信徒は大石寺の信徒ばかりではなく、要法寺系の信徒もいたのである。そのなかには要法寺流の造仏・読誦の化儀に基づく信仰者も、存在したであろう。敬台院も法詔寺が建立されるまでは常在寺に参詣していたと考えられる。
 このようななかで日精上人は、檀信徒を要法寺の造読から大石寺の正義に引き入れるべく御化導されていた。(法義研鑚委員会『大日蓮』H10)

●元和9年(1623) 母峯高院の17回忌に当り、菩提の為、江戸鳥越の徳島藩邸内に鏡台山法詔寺建立。 後の総本山第17世日精上人が初代開基住職である。(『日蓮正宗 心蓮山 敬台寺』開創360年記念出版)
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要法寺の信徒であった敬台院が徳島藩邸内に建立したのが、法詔寺であった。とすれば、当初の法詔寺は、敬台院有縁の要法寺信徒で構成されていたことであろう。


【第22世日俊上人】
―仏像を撤去し日精上人の善導を完結―
◆付たり寛永年中江戸法詔寺の造仏千部あり、時の大石の住持は日盈上人後会津実成寺に移りて遷化す法詔寺の住寺は日精上人、鎌倉鏡台寺の両尊四菩薩御高祖の影、後に細草檀林本堂の像なり、牛島常泉寺久米原等の五箇寺並に造仏す、又下谷常在寺の造仏は日精上人造立主、実成寺両尊の後響、精師御施主、又京要法寺本堂再興の時日精上人度々の助力有り、然るに日俊上の時下谷の諸木像両尊等土蔵に隠し常泉寺の両尊を持仏堂へかくし(隠)たり、日俊上は予が法兄なれども曽て其所以を聞かず、元禄第十一の比大石寺門流僧要法の造仏を破す一笑々々(要法寺 寿円日仁『百六箇対見記』/『富士宗学要集』第9巻70頁)
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日俊上人が常在寺や常泉寺にあった仏像を撤去したと記されている。ただし、『大白法』(H16.5.1)によれば「常在寺に仏像があったなどという根拠はどこにもない」ということである。

◆下谷常在寺ハ大石寺先代日精開基ニ而釈迦多宝ノ両尊上行等四菩薩鬼子母神等造立仕数十年之間令(二)安置(一)候処ニ、日俊造仏堕獄之邪義を盛ニ申立彼仏像を悉令(二)去却(一)候、加(レ)之牛島常泉寺ニも古へより両尊四菩薩を令(二)安置(一)候処に、是をも頃年日俊悉令(二)去却(一)候、拙僧檀那伊右衛門之仏像ハ去年中令(二)去却(一)候事(北山文書『本宗史綱下』671頁)
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北山本門寺が大石寺(とくに第22世日俊上人)攻撃のために奉行所提出用として用意したものであるが、結局、奉行所には提出されなかったもの。そのため第59世日亨上人は上記史料を採用されていない。したがって、信憑性は低いと考えられるが、これによれば日俊上人が末寺にあった仏像を「去却」したそうである。

●駿州富士大石寺は開山日興上人已来四百年に及び当時まで法義少しも違乱仕らず候(第22世日俊上人『富士宗学要集』第9巻32頁)
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日俊上人は、日精上人御存命中に御登座された方である。また、北山本門寺の文書(上記◆)によれば、「造仏堕獄」の「義を盛に申立」てた方であり、日精上人が「造立」したという仏像を「去却」したのも日俊上人だそうである。つまり、日俊上人は造仏が謗法であることを知悉されていただけではなく、堂々と造仏を破折されていたというのである。ところが、そのような謗法厳戒の精神を持たれた日俊上人が、日精上人を少しも批判されていない。このことから、末寺での造仏や一部読誦等は強執の信徒を善導するための四悉檀に基づく一時的方便であり、謗法などと呼べるものではなかったことが分かろう。また、日精上人御自身は総本山において正義を貫かれたからこそ、「大石寺は」「当時まで法義少しも違乱仕らず候」と断言されたのであろう。

日俊上人が全く日精上人を批判せず、それどころか「大石寺は開山日興上人已来四百年に及び当時まで法義少しも違乱仕らず候」と述べられたことから考えて、日俊上人の仏像撤去は、第16世日就上人や第17世日精上人の意に沿ったものと思われる。すなわち、造仏が方便の善導である限り、日精上人もいずれ時機をみて撤去するお考えであったが、御自分の在職中にはできなかったため、後の御法主に託しておられたのであろう。


【第26世日寛上人】
―教学を整備し将来の造読被害を防ぐ―
第26世日寛上人は第17世日精上人と同時代の方であり、日寛上人が入信・出家を決められたのは日精上人の御説法聴聞が契機であった。そのような日寛上人であれば当然、当時の状況を直接見聞されていたはずであり、法詔寺の造仏の経緯、それにともなう混乱、その混乱を歴代上人がいかに収拾されたかなどについては、現代の我々が乏しい文献から類推する以上に詳しく真実を御存知だったはずである。

●春雨昏々として山院寂々たり、客有り談著述に逮ぶ。客の曰わく、永禄の初め洛陽の辰、造読論を述べ専ら当流を難ず、爾来百有六十年なり、而して後門葉の学者四に蔓り其の間一人も之れに酬いざるは何んぞや。予謂えらく、当家の書生の彼の難を見ること闇中の礫の一も中ることを得ざるが如く、吾に於て害無きが故に酬ひざるか。(第26世日寛上人著『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻138頁)
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『末法相応抄』は日辰の造読義を破折するための書である。これまでに宗内において完全な破折がなかったのは「吾に於て害無きが故に酬ひざるか」と仰せである。つまり、"これまでは宗内に、日辰の義による害がなかった"とされている。ここでいう「日辰の義」とは『末法相応抄』で破折されている内容全体を指すことはいうまでもない。

●客の曰わく、設い中らずと雖も而も亦遠からず、恐らくは後生の中に惑も生ずる者無きに非ず那んぞ之れを詳らかにして幼稚の資と為さざるや。二三子も亦復辞を同じうす。(第26世日寛上人著『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻138頁)
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「後生の中に惑も生ずる者無きに非ず」これまでは、日辰の義が宗内に害をもたらすことはなかったが、後の世のために書き残されたのが『末法相応抄』なのである。

●開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し、故に朝暮の勤行は但両品に限るなり(第26世日寛上人著『当流行事抄』/『富士宗学要集』第3巻211頁)
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趣旨は勤行の化儀にあるが「故に」とあるから「化儀・化法四百余年全く蓮師の如し」は化儀・化法に対する一般論として成り立つ意義である。つまり、化儀・化法全体について「四百余年全く蓮師の如し」という前提が正しいからこそ「故に」勤行の化儀についても同様に「四百余年全く蓮師の如し」という文意である。「四百余年全く蓮師の如し」とあるから当然、日精上人の時代も含まれる。「開山已来」の「化儀」に造仏の有無、一部読誦の有無等が含まれることは当然である。

●久成坊の御本尊造立は亨保6年4月、寂日坊の御本尊造立は亨保7年5月のことであり、その時期は日寛上人が1度御退座されて日養上人が総本山の御当職であられた。にもかかわらず、御隠尊の日寛上人が自ら造立・開眼なされたことは、発心の師であり、功績莫大な日精上人に対して深く尊崇遊ばされていたことを示すものである。(『大白法』H16.3.16)

 日寛上人は、日精上人時代の造仏について、まったく問題にされていない。しかし将来の宗門に造読の邪義がもたらされることを憂いて『末法相応抄』が認められたことと、日精上人時代の造仏が無関係だとは思われない。
 つまり、現実にあった末寺の仏像が本尊ではなく方便の善導によるものであるから謗法とはいえない。しかし、それも第22世日俊上人が第17世日精上人の善導を結実させる形で撤廃した。しかし、将来、同じようなことか、それ以上の害悪が宗門を襲わないとも限らない。
 日精上人が不本意な善導を強いられた背景には、信徒の法門・化儀に対する無理解だけではなく、そのような信徒を教学的に導く理論的な整備ができていなかったことも大きく関係していたのではなかろうか。そうした問題意識があられたからこそ、日寛上人が『末法相応抄』を認められたのであろう。


こう考えてみれば、寺院の建立乃至帰伏による教勢拡大→化儀にくらい信徒善導の必要性→第16世日就上人の第17世日精上人への期待(付嘱)→第17世日精上人の方便の善導→第22世日俊上人による仏像撤去→第26世日寛上人による造読に対する理論的破折は、一連の繋がりを持ち、各上人方が連携して時機に応じて信徒を善導し、さらに将来の害悪を防いだ絶妙の"連係プレー"であったと見ることができるのではないだろうか。







造仏について



造仏の文証


【造仏の文証】
江戸時代の宗門末寺に仏像があったとされる史料は下記1◆~4◆である。
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1◆予 法詔寺建立の翌年、仏像を造立す。(第17世日精上人『随宜論』/『富士宗学要集』第9巻69頁)
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 日精上人御登座より8年も前のことである。また、当時、日精上人は法詔寺の住職であられたから、建前上、法詔寺の造仏は日精上人が「造立」したことになる。これは、彼の正本堂の建立について、発願から計画、資金調達に至るまで学会主導で実施されたけれども、公式には日達上人の建立となるのと同じである。
 実際には、徳川家康の曾孫で大檀那である敬台院の強い意向で造立されたのである(【造仏は敬台院の意向】参照)。


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2◆下谷常在寺ハ大石寺先代日精開基ニ而釈迦多宝ノ両尊上行等四菩薩鬼子母神等造立仕数十年之間令(二)安置(一)候処ニ、日俊造仏堕獄之邪義を盛ニ申立彼仏像を悉令(二)去却(一)候、加(レ)之牛島常泉寺ニも古へより両尊四菩薩を令(二)安置(一)候処に、是をも頃年日俊悉令(二)去却(一)候、拙僧檀那伊右衛門之仏像ハ去年中令(二)去却(一)候事(北山文書『本宗史綱下』671頁)
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これは、北山本門寺が大石寺(とくに第22世日俊上人)攻撃のために奉行所提出用として用意したものであるが、結局、奉行所には提出されなかったもの。そのため第59世日亨上人は上記史料を採用されていない。もし、この記述が事実であるならば、大石寺攻撃の絶好の材料となるはず。どうして、北山は提出できなかったのか。それは、その内容が、公の場に出せば、簡単に虚偽だと分かる稚拙なものだったからに他ならない(<北山文書>参照)。

常在寺の開基檀那は細井治良左衛門であるが、日量上人の『続家中抄』には、
 「父通達院乗玄 慶長十二丁未四月十七日、下谷常在寺古過去帳当時大施主とあり」(『富士宗学要集』第5巻268頁)
と、日精上人の父、法号・通達院乗玄も常在寺の大施主であったことが記されている。日精上人の父は慶長12年(1617)に逝去されており、この時、日精上人は8歳であった。したがって、日精上人の父は要法寺の信徒であったと思われる。このように、常在寺の檀信徒は大石寺の信徒ばかりではなく、要法寺系の信徒もいたのである。そのなかには要法寺流の造仏・読誦の化儀に基づく信仰者も、存在したであろう。敬台院も法詔寺が建立されるまでは常在寺に参詣していたと考えられる。(法義研鑚委員会『大日蓮』H10)

●寛永15年(1638年)、江戸小梅常泉寺の什門流本行坊日優が、日精上人の教化を受け、常泉寺は大石寺の末寺に移り、常泉寺の末寺である下総国(千葉県)中田真光寺が大石寺の孫末寺となった。(『新版仏教大辞典』初版)
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当時は、住職が改宗すれば檀家も、個々の意思に拘りなく自動的に改宗したと思われる。そのために化儀にくらい信徒を善導するために一時的に既成の造仏を容認された可能性もある。ただし本尊としての安置ではなかったであろう。


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3◆付たり寛永年中江戸法詔寺の造仏千部あり、時の大石の住持は日盈上人後会津実成寺に移りて遷化す法詔寺の住寺は日精上人、鎌倉鏡台寺の両尊四菩薩御高祖の影、後に細草檀林本堂の像なり、牛島常泉寺久米原等の五箇寺並に造仏す、又下谷常在寺の造仏は日精上人造立主、実成寺両尊の後響、精師御施主、又京要法寺本堂再興の時日精上人度々の助力有り、然るに日俊上の時下谷の諸木像両尊等土蔵に隠し常泉寺の両尊を持仏堂へかくし(隠)たり、日俊上は予が法兄なれども曽て其所以を聞かず、元禄第十一の比大石寺門流僧要法の造仏を破す一笑々々(要法寺寿円日仁『百六箇対見記』/『富士宗学要集』第9巻70頁)
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寿円日仁は造読家であって、しかもその記述は元禄11年(日精上人御遷化後15年)の頃、大石寺の僧侶が要法寺の造読を破折したことについて、大石寺および富士各山にも造読があったとして反論し、大石寺には造読を破折する正当性はないと主張するものである(『大白法』H16.5.1)。すなわち上記2◆同様、大石寺側を快く思わない者の記述であり、2◆3◆の内容は似通っている。上記2◆に信憑性がない以上、この文書も鵜呑みにはできない

 まず最初の「寛永年中江戸法詔寺の造仏千部あり」との記述は『随宜論』に述べられた法詔寺での造仏を裏付けるかのようである。しかし、次の細草檀林については、延宝6年10月に日精上人が、日蓮大聖人の御本尊を細草遠霑寺の常住板御本尊として造立されているにもかかわらず、これについては書かれていない。常在寺については、延宝8年8月に日精上人が、日蓮大聖人の御本尊を本堂の板御本尊として造立され、しかも日蓮大聖人の御影が日精上人によって御開眼されているが、この御本尊のことも御影のことも書かれていない。御影が安置されていれば仏像は存在し得ないから、この点は嘘であることが明白である。つまり常在寺に仏像があったなどという根拠はどこにもないのである。日精上人の御存生中である延宝8年に大曼荼羅と御影の安置が確実なのであるから、万が一、それ以前に仏像撤去の事実があったと仮定しても、それは日精上人御自身がされたのであって第22世日俊上人が撤廃したというのはあり得ないことである。(中略)
 では日仁は、なぜこのような事実に反する記述を残したのであろうか。その理由は日仁が造読家だからである。日仁の執筆の動機は、大石寺から要法寺の造仏読誦を破折されたために、なんとか造仏読誦を正当化したい、というところにあり、そのために事実を曲げて書き記しているのである。一見正直そうに書いているが、じつは狡猾である。日仁は『百六箇対見記』等を著すなど博学なのであるが、それだけになおさら罪深いといえよう。
 この寿円日仁の記述は、約80数年以前よりの大石寺と要法寺との通用という特殊な状況の中で、日精上人が要法寺系の僧俗を包容しつつ造仏廃棄へと慈折善導されていた御化導を歪曲して、あたかも日精上人が造仏読誦を唱導していたかのように表現することによって、要法寺の造仏読誦を正当化しているのである。(『大白法』H16.5.1)

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4◆又精師関東奥方の寺々に皆釈迦多宝四菩薩造立を許す(第31世日因上人『日因随宜論批判』)
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 日精上人と同時代の他門の文書で、大石寺を攻撃するために作成された北山文書にさえ「関東奥方の寺」に仏像があったという記述はない。もし、関東奥方に日精上人作成の仏像があったのであれば、北山が見逃すはずはない。その意味で疑わしい記述だというべきである。
 さらに、日因上人と同時代の第29世日東上人が、『随宜論』について「精師且く日辰の義を述ぶるなり。随宜論と号す。」(『日因随宜論批判』)と、日精上人を擁護する態度であられたことからも、上記記述を直ちに鵜呑みにすることはできない<日俊・日寛・日東各上人の評価>参照)。
 尚、日精上人は、甲斐杉山有明寺に日有上人の御影を造立されたことがある(<関連年表>参照)。とすれば、「関東奥方の寺々」にも御影を造立された可能性がある。御影造立を以て、誤解により、あるいは他門の悪意により仏像造立という記録が作成された可能性も否定できない。

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・第22世日俊上人や第26世日寛上人など、当時の歴代上人が誰一人日精上人を批判されていないし、造像に言及されていないことからも、上記記述(1◆以外)は疑わしいと言わざるをえない(<日俊・日寛・日東各上人の評価>参照)。

●他宗の法花宗に成る時、本と所持の絵像木像井に神座其の外他宗の守なんどを法花堂に納むるなり、其の故は一切の法は法花経より出てたるが故に此の経を持つ時、本の如く妙法蓮花経の内証に事納まる姿なり、総して一生涯の間、大小権実の仏法に於いて成す所の所作、皆妙法蓮花経を持つ時、妙法蓮花経の功徳と成るなり、此の時実の功徳なり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻70頁)
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末寺の「法華堂」に他宗の本尊を納めていたのである。この「法華堂」にある本尊を本堂安置の本尊と摩り替えて疑難している可能性も否定できない。とくに「法華堂」の意義の分からない者は、"邪宗の本尊を祀っている"と誤解したかも知れない。


<造仏容認の文証>
―"脇士添加"は大聖人・日興上人の御指南―
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◆立像釈迦に四菩薩を加えられざること、是又宗祖の本意に非ず、故に若し遺告無くんば誤りて立像の釈迦を以て末代の本尊と為し聖人出世の本懐三箇の秘法の本尊を棄て置く可し、故に預て墓所の傍に立て置くべしと示す云云(第17世日精上人『随宜論』)
◆随身仏も一体仏の故に小権迹本の不同明らめ難し、若し帰敬致さんと欲せば四菩薩を加えて久遠実成の自受用報身如来と成し奉って帰敬すべし、(中略)是即還って久遠の釈迦造立の明文にして敢えて不造の証文には非ざるなり(同)
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「一体仏」については「小権迹本の不同明らめ難し」として明確に排斥されている。つまり、もし造仏するのであれば「四菩薩」を加えるべきであるというのである。以上は、日興上人とまったく同じ見解である。

●本門久成の教主釈尊を造り奉り脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべし(『四菩薩造立抄』全集987頁)

●日興が云わく、諸仏の荘厳同じと雖も印契に依って異を弁ず、如来の本迹測り難し、眷属を以って之れを知る、乃至一体の形像豈頭陀の応身に非ずや、強ちに執する者尚お帰依を致さんと欲せば須く四菩薩を加うべし、敢えて一体仏を用うること勿れ云云。此の文寧ろ但一体仏を斥けて四脇士を加うることを許すに非ずや。答う、此れは是れ且く一縁の為めなり、故に強ちに執する者等と云うなり。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻175頁)
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日興上人は「強ちに執する者」に対して「四菩薩を加うべし」と仰せられた。しかし、この場合の本尊は「形像」であって曼荼羅本尊ではない。これに対して法詔寺の本尊は、あくまでも曼荼羅であったと考えられる(<法詔寺の仏像>参照)。

―仏像制止が本意―
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◆日代上人の御書に云く、仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケの大事一度に成就せしめ給ふ可きの由御本意なり。御本尊の図は其の為なり文。此の文実録の内に興師の御義に符合す、然らば富山の立義は造らずして戒壇の勅許を待ちて而して後に三ケの大事一度に成就為す可きなり。若し此の義に依らば日尊の本門寺建立の時に先きんじて仏像を造立して給ふは一箇の相違なり。罪過に属す可しと云はば未だ本門寺建立の時到らず本門寺と号するは又一箇相違なり罪過に属す可きや。此の如きの段今の所論に非らず。願くは後来の学者二義を和会せば造不造は違する所無くして永く謗法を停止して自他共に成仏を期すのみ(第17世日精上人『随宜論』)
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 『随宜論』の最後には「仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケの大事一度に成就せしめ給ふ可き」という西山日代の書を紹介したのち、戒壇建立後にはじめて仏像をつくるのが大石寺の「立義」だとしている。そして、要法寺開山の日尊が本門寺建立前に仏像を造立したことや、西山が本門寺と名乗ることを挙げて「一箇相違なり罪過に属す可きや」としている。
 これは明らかに広布達成前の造仏制止の立場であるが「此の如きの段今の所論に非らず。願くは後来の学者二義を和会せば造不造は違する所無くして永く謗法を停止して自他共に成仏を期すのみ」という言葉で結び、「二義を和会」する内容については示されていない。
 『随宜論』では本尊としての造仏を容認する文証を挙げて、仏像に執着する要法寺系信徒を擁護したが、実際に行われた化儀はどうであったか。
 日精上人時代に造仏されたとされる文証を見ると、「釈迦・多宝」の文字はあっても「釈尊」の文字はない。このことと、敬台院が曼荼羅御本尊を拝んでいたこと、法詔寺建立時には仏像がなかったこと等を考え合わせると、造仏は曼荼羅御本尊の脇士であったと思われる。
 これこそが、「二義を和会」する内容であり、日精上人が要法寺系信徒に許されたギリギリの化儀だったのではないか。

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◆日尊立像等を除き久成釈尊を立つる故記録に背かざるなり、又云はく仏像造立の事本門寺の事なりと然るに日尊本門寺建立の時に先立ち造立仏像は是一か条の相違なり、罪過に属すべきや否やの論は観心本尊抄、四条金吾釈迦仏供養抄、日眼女釈迦仏供養抄、骨目抄、唱法華題目抄を以て之を決すべきか(中略)故に日尊の末弟深心に当に実録を信ずべきものなり。(第17世日精上人著『家中抄下』/『富士宗学要集』第5巻238頁)
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「日印伝」の一節であるが日辰『祖師伝』の引用。日精上人は引用文であることを、わざわざ断られている。また一方で、同じ『家中抄』には曼陀羅正意の義が述べられている。このことと、後に『日蓮聖人年譜』で、久成釈尊義を立てる日辰の『三大秘法ノ記』(「或る抄」)を挙げて「謗法の書なり」(『富士宗学要集』第5巻120頁)と厳しく破折されていること考え合わせれば日精上人の真意は曼陀羅正意であったことが明らかである(<『随宜論』の目的と曼荼羅正意><「或る抄」について>参照)。

日尊日印日大の三師の伝は全く日辰上人の祖師伝を書写する者なり(第17世日精上人著『家中抄上』/『富士宗学要集』第5巻180頁)
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日精上人の真意・正義が日尊などの「三師の伝」にはないことが明らか。そして、この三師の伝の引用部分こそが、日亨上人をして、日精上人を造仏家であると疑わしめた部分なのである。

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日精(上人)の『家中抄』日道伝には、日目上人から日道(上人)に付属された相伝の目録の31ケ条が示されていますので、紹介しましょう。
日興御さく(作)の釈迦一そん(尊)一ふく(幅)(これについて日亨上人は頭注で「本師造像家なる故に此の疑文を依拠とするか」と日精(上人)を破折)(旧sf:1596)
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 これは、単なる文献の引用であって、釈迦造立が日興上人の真意であるということではない。このような文献が現に大石寺に残っていた、その事実を書き留められたまでである。事実、『家中抄』の別の箇所では日興上人の御指南を掲載し、曼陀羅正意を示されている(<『随宜論』の目的と曼荼羅正意>参照)。
 日亨上人の頭注は「日精上人は造仏家」であるという先入観の上からの記述であって、そのような先入観がなければ、頭注を加えられることもなかったであろう。そのことは、「依拠とするか」と断定を避けられていることからも推察できる(<編集姿勢と亨師の頭注>参照)。

●随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ云云。(『五人所破抄』全集1614頁)
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「日興御さく」とは信じ難いが、日興上人自身、強執の一機に対して例外的に造仏を許容されていたのであるから、信徒の要望に応えて日興上人が造像の援助をし、開眼されたのかも知れない。そして後に、時期をみて引き取られたものかも知れない。

●御遺言に云はく 仏(釈迦立像)は墓所の傍(かたわ)らに立て置くべし(『宗祖御遷化記録』御書1866頁)
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大聖人も立像仏を墓に立てておけと遺言されたぐらいであるから、本来であれば今現在も立像仏が大聖人の墓の傍らにあっても不思議ではないのである。





法詔寺の仏像


【奉安方式】
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1◆下谷常在寺ハ大石寺先代日精開基ニ而釈迦多宝ノ両尊上行等四菩薩鬼子母神等造立仕数十年之間令(二)安置(一)候処ニ、日俊造仏堕獄之邪義を盛ニ申立彼仏像を悉令(二)去却(一)候、加(レ)之牛島常泉寺ニも古へより両尊四菩薩を令(二)安置(一)候処に、是をも頃年日俊悉令(二)去却(一)候、拙僧檀那伊右衛門之仏像ハ去年中令(二)去却(一)候事(北山『本宗史綱下』671頁)

2◆鎌倉鏡台寺の両尊四菩薩御高祖の影、後に細草檀林本堂の像なり、牛島常泉寺久米原等の五箇寺並に造仏す、又下谷常在寺の造仏は日精上人造立主、実成寺両尊の後響、精師御施主、又京要法寺本堂再興の時日精上人度々の助力有り(要法寺日舒『百六箇対見記』/『富士宗学要集』第9巻70頁)

3◆又精師関東奥方の寺々に皆釈迦多宝四菩薩造立を許す(第31世日因上人『日因随宜論批判』)
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上記1◆~3◆はすべて、日精上人時代の末寺において仏像があったことを示す文証である。「釈迦多宝ノ両尊」「両尊」とあることから、仮に造仏が事実だとしても以下に示す理由により、中央の曼荼羅本尊の脇士としての仏像であったことは間違いない。


<造仏家・日辰も「釈迦多宝」を本尊とせず>
●日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし(『報恩抄』全集328頁)

◆日辰が記に云わく、唱法華題目抄に云わく、本尊は法華経八巻一巻或は題目を書きて本尊と定むべし、又堪えたらん人は釈迦・多宝を法華経の左右に書き作り立て奉るべし(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻158頁)

4◆本尊とは久成の釈尊也(日辰『開迹顕本法華二論義得意抄』/日蓮宗宗学全書3-294頁)

 『随宜論』では、法詔寺造仏を容認する方便として日辰の義を利用されている。日亨上人も『日蓮聖人年譜』の記述について「此下辰師の造釈迦仏の悪義露見せり」(『富士宗学要集』第5巻118頁)と批判されている。学会系怪文書『地涌』は「日精上人の邪義は、要法寺の広蔵院日辰の影響による」(『地涌』第127号H3.5.7)と断言している。
 しかし日辰は、本尊として法華経を用いる場合でも仏像を用いる場合でも、釈迦・多宝を脇士としていた 。この場合、中央の本尊としての仏像は「本門の教主釈尊」=「久成釈尊」(上記4◆)であって釈迦・多宝ではない。上記1◆~3◆に「釈迦・多宝」の語はあっても「久成釈尊」の語がないことから、法詔寺での仏像は曼陀羅の脇士であったことが分かるのである。


<日寛上人『末法相応抄』>
5●春雨昏々として山院寂々たり、客有り談著述に逮ぶ。客の曰わく、永禄の初め洛陽の辰、造読論を述べ専ら当流を難ず、爾来百有六十年なり、而して後門葉の学者四に蔓り其の間一人も之れに酬いざるは何んぞや。予謂えらく、当家の書生の彼の難を見ること闇中の礫の一も中ることを得ざるが如く、吾に於て害無きが故に酬ひざるか。(第26世日寛上人著『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻138頁)
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『末法相応抄』は日辰の造読義を破折するための書である。これまでに宗内において完全な破折がなかったのは「吾に於て害無きが故に酬ひざるか」と仰せである。つまり、"これまでは宗内に、日辰の義による害がなかった"とされている。ここでいう「日辰の義」とは『末法相応抄』で破折されている内容全体を指すことはいうまでもない。

●客の曰わく、設い中らずと雖も而も亦遠からず、恐らくは後生の中に惑も生ずる者無きに非ず那んぞ之れを詳らかにして幼稚の資と為さざるや。二三子も亦復辞を同じうす。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻138頁)
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「後生の中に惑も生ずる者無きに非ず」これまでは、日辰の義が宗内に害をもたらすことはなかったが、後の世のために書き残されたのが『末法相応抄』なのである。

6●問う、日辰が記に云わく、唱法華題目抄に云わく、本尊は法華経八巻一巻或は題目を書きて本尊と定むべし、又堪えたらん人は釈迦・多宝を法華経の左右に書き作り立て奉るべし、又堪えたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をも書き造り奉るべし已上、此文の意は両尊四菩薩を法華経の左右に或は書き或は作り立て奉るべしと見えたり云々此義如何、答う、此れは是れ佐渡已前文応元年の所述なり、故に題目を以って仍お或義と為す、本化の名目未だ曾って之れを出ださず、豈仏の爾前経に異ならんや。日辰若し此の文に依って本尊を造立せば須く本化を除くべし、何んぞ恣に四大菩薩を添加するや云云。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻158頁)
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問いの中味は造仏論であるが、中央の本尊が法華経または題目の場合である。これについては「釈迦・多宝を法華経の左右に書き作り立て奉る」ことを否定されていない。「豈仏の爾前経に異ならんや」とは、『唱法華題目抄』が所謂佐渡已前の御書だからである。また、釈迦・多宝を脇士とすることを容認しつつも「本化を除くべし、何んぞ恣に四大菩薩を添加するや」と言われたのは、『唱法華題目抄』には「釈迦如来・多宝仏」「十方の諸仏・普賢菩薩等」とあって「四大菩薩」の名がないから、御文に忠実であるべきであるとされたのである。
 そもそも『末法相応抄』の趣旨は本尊としての仏像を否定・破折するところにある。だから、必ずしも正義ではないが中央に法華経(曼荼羅)を安置した場合の釈迦・多宝添加を一往容認されたのであろう。このことと、「吾に於て害無きが故に酬ひざるか」(上記5●)の語を考え合わせるとき、法詔寺の奉安形式もまた、中央本尊が曼荼羅であったことが分かるのである。

●開山上人御弟子衆に対するの日仍容預進退有り是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻177頁)
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日寛上人は大聖人・日興上人時代の造仏については「是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり」と容認されている。その趣旨からいえば、「宗門最初」とはいえない日精上人の時代に仏像を本尊とすることは許されない。しかし、法詔寺の仏像は本尊としてではなく曼荼羅本尊の脇士として安置されていたのである。その意味では、大聖人・日興上人時代の造仏容認とは次元が異なることを知るべきであろう。


<法詔寺建立の時点には仏像がなかった>
◆予 法詔寺建立の翌年、仏像を造立す。(第17世日精上人著『随宜論』/『富士宗学要集』第9巻69頁)
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法詔寺建立の時点では仏像はなかった。しかし、寺院建立の時点で本堂に本尊が在さないはずはない。このことからも、法詔寺本堂の本尊は仏像ではなく、曼荼羅御本尊であったことが分かる。


<法詔寺信徒も曼荼羅を拝んでいた>
●我等持仏堂には開山様の曼荼羅を掛け置申し候(敬台院状・寛永17年『富士宗学要集』第8巻58頁)
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この状は法詔寺造仏より15年も後に書かれたものである。ここから分かることは、法詔寺の檀那も「曼荼羅」を拝んでいたということである。「持仏堂」が法詔寺の仏像安置の場所だとすれば、仏像は曼荼羅の脇士であったことが明白となる。仏像があったとしても拝む対象ではなかったのである。


<御法主上人が開眼された>
・客殿の宗祖大聖人、2祖日興上人の御影も、万治2、3年の20世日典上人の代に、ほかならぬ日精上人の造立である。総本山塔中・了性坊の御影は天和元年(1681)22世日俊上人の代に日精上人が御開眼されている。牧口初代会長の家には、日精上人の御開眼の御影様がましました。仏像ではない。(法義研鑚委員会『大日蓮』H10)

・当時の御法主上人が誰一人、日精上人を批判されていない。それどころか、第16世日就上人は日精上人を後継者とされた。そして、そのことを誰一人非難されていない。

★以上のことから推測するに、法詔寺の仏像は邪宗のものではなく、新しく鋳造されたものであり、御法主上人による開眼がなされたものであろう。


<仏像安置の是非>
●日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候えども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道御微力を以つて形の如く造立し奉らんと思し召し立ち候に、御用途も候わざるに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代わりに其れ程の仏を造らせ給えと教訓し参らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わばさも候いなん。(第二祖日興上人『原殿御返事』)

●御遺言に云はく 仏(釈迦立像)は墓所の傍(かたわ)らに立て置くべし(『宗祖御遷化記録』御書1866頁)
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大聖人は、生涯一体仏を所持されていた。その仏像については破却するどころか、御自分の墓に立て置け、と御遺言されてる。この像は、日朗(大国阿闍梨)によって盗み取られたために今はないが、本来であれば、現在の大石寺御正墓の傍らに仏像が安置されていたのである。

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ところで、あなた(たち)は「御書根本」のようですが、大聖人の御書に、曼陀羅本尊の両脇に仏像を安置してはいけない、という御指南がありますか?
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 いよいよそこまでの開き直りを始めましたか!(爆笑)御書で、大聖人が仏像の安置を許しているから釈迦像の造立を主張する邪宗の輩と同じになり果てましたね!そこまで狂ったら、もう救いようは無さそうですね。大聖人が仏像に執着する船守弥三郎に対してどのような御指南をされているか、それを拝読した者がどのような価値観で化儀を開くべきか、狂人となり果てた君たちには永遠に理解できまい!
 「我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが・法華経の行者となりて無始色心・本是理性・妙境妙智・金剛不滅の仏身とならん事あにかの仏にかわるべきや、久遠五百塵点のそのかみ(当初)唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり」(旧sf:1658)
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曼陀羅本尊以外のものを拝んではいけないのは当たり前だよ(笑)。曼荼羅本尊に脇士を置くことが謗法かどうか、文証があるか? ときいているのよ。例えば、客殿の御本尊の左右には宗開両祖の御影が安置されている。当然、これらは拝む対象ではない(少なくとも、境智冥合・即身成仏のための修行の対境ではない)。曼陀羅に脇士を添加することは本来の化儀ではないから、するべきではない。しかし、それは日興上人の造仏容認や、『末法相応抄』で破折の対象となった日辰の義とは根本的に異なるということです。だから、『末法相応抄』を持ち出して日精上人を攻撃することは的外れだといっているのです。また、君たちは「御書根本」なのだから、日寛上人を持ち出すのではなく、自分たちの「正依」たる御書をもって破折するのが筋というものです。それができないのなら、日精上人の攻撃は止めた方がよいと思います。

●興上御自筆の御遷化記録の文によれば、一体仏は御灰骨とともに、廟内に安置しおくべしとの大聖人の御遺言である。けっして、他に持ち出し、または帰敬の本尊仏となすべきでない。墓番の六老僧たちが、廟参のときの香華燈明供の時に記念の礼拝をなすべき、特別の宝物で墓所の内院に納まる御焼骨と同然のものである。(第59世日亨上人『富士日興上人詳伝(下)』203頁)



【造仏は敬台院の意向】
●敬台院は、『日宗年表』の元和5年(1619)の記事に、
 「此頃前阿波太守蜂庵入道大雄院日恩を崇敬東山に隠居寮を建て之を寄す」(『日宗年表』171頁)
とあるように、既に蜂須賀至鎮の父・家政が要法寺22代・大雄院日恩に帰依しており、蜂須賀家に嫁いだ敬台院はその縁から要法寺の信徒となったのであった。
 日精上人は、日昌上人、日就上人についで、要法寺から来られた3代目の御法主上人である。当時の江戸における本宗の寺院は、日就上人開基の常在寺があった。常在寺の開基檀那は細井治良左衛門であるが、日量上人の『続家中抄』には、
 「父通達院乗玄 慶長十二丁未四月十七日、下谷常在寺古過去帳当時大施主とあり」(『富士宗学要集』第5巻268頁)
と、日精上人の父、法号・通達院乗玄も常在寺の大施主であったことが記されている。日精上人の父は慶長12年(1617)に逝去されており、この時、日精上人は8歳であった。したがって、日精上人の父は要法寺の信徒であったと思われる。このように、常在寺の檀信徒は大石寺の信徒ばかりではなく、要法寺系の信徒もいたのである。そのなかには要法寺流の造仏・読誦の化儀に基づく信仰者も、存在したであろう。敬台院も法詔寺が建立されるまでは常在寺に参詣していたと考えられる。
 このようななかで日精上人は、檀信徒を要法寺の造読から大石寺の正義に引き入れるべく御化導されていた。(法義研鑚委員会『大日蓮』H10)

元和9年(1623) 母峯高院の17回忌に当り、菩提の為、江戸鳥越の徳島藩邸内に鏡台山法詔寺建立。 後の総本山第17世日精上人が初代開基住職である。(『日蓮正宗 心蓮山 敬台寺』開創360年記念出版)
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要法寺の信徒であった敬台院が徳島藩邸内に建立したのが、法詔寺であった。とすれば、当初の法詔寺は、敬台院有縁の要法寺信徒で構成されていたことであろう。

7●予 法詔寺建立の翌年(※元和10=1624年)、仏像を造立す。(第17世日精上人著『随宜論』)
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元和9年(1623)の法詔寺建立に当たり、その落慶法要の時点では造仏されていなかったことに明らかである。法詔寺は大伽藍であり、建築日数は相当かかる。造仏が予定のことならば、落慶法要に間に合わないことはない。否、寺院本堂の中心となる本尊がなくして、落慶法要などできようはずがない。にもかかわらず、翌年になって造仏せられたのである。なぜ最初から仏像を安置しなかったのであろうか。
 これは、日精上人に帰依する敬台院が、当初は日精上人の御化導に、不承不承でも従い、大曼荼羅御本尊のみが安置されたからである。この事実が、日精上人が造仏家ではないことの何よりの証拠である。(法義研鑚委員会『大日蓮』H10)
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法詔寺の正式名は「敬台山法詔寺」と言い、敬台院の名が冠されていた。その名が示すとおり敬台院の私寺であることは誰の目にも明らかであった。そして敬台院は自分の寺に向けられた「造仏謗法」との批判を絶対に許さなかったのである(『大白法』H16.5.1)。「予」とは、当時の御住職であられた日精上人であるが、実質的に同寺を支配していたのは敬台院であり、彼女自身も自分のことを法詔寺の住職だと思っていた(下記9●)。「仏像を造立」したのは実質的支配者であった敬台院の意向によるものであろうが、公的対外的には日精上人が法詔寺の代表者であるし、強執の機(敬台院)を善導する上から仏像安置を容認した関係から、上記のような記述をされたのであろう。

8●日精 敬台院殿日詔の推挙により公儀の年賀に乗輿を免許せらる(寛永14=1637年『富士年表』)
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この頃はまだ、日精上人と敬台院の関係は良好だったことが伺える。

大石寺後住の所法詔寺より永代継ぎ申し候筋目に相定められ候書付此の右両三人持参致し慥に請取申し候(敬台院日詔状・寛永15=1638年『富士宗学要集』第8巻55頁)
●(※上記文書について)敬台院日詔より大石寺衆檀へ状、祖滅三百五十七年、法詔寺より精師を晋山せしめ永代総本山の後見せんとの意にて、大石寺衆檀より後住は法詔寺より迎ふるの請書を出さしめ、其返礼に七百余両を提供して総本山方丈の維持を謀られし文書なり(第59世日亨上人著『富士宗学要集』第8巻55頁)
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いくら権力者とはいえ、猊座に口出しするというのは正しい信心であるとはいえない

★法詔寺の仏像造立は元和10(1624)年。史実より、それより後の寛永14年ころまでは、日精上人と敬台院との関係は良好だったことが伺える。もし、敬台院自身が寄進した法詔寺での仏像造立が敬台院の意向に反するものであったならば、敬台院が日精上人に帰依し厚遇するはずがない!

9●法詔寺の住持は日詔にて候(敬台院日詔状・寛永17年頃『富士宗学要集』第8巻58頁)
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敬台院の慢心が文面に表れている。御法主上人より任命された住職を差し置いて、"自分が住職"だと公言して憚らない、それが敬台院だったのである。日精上人御登座前、法詔寺落慶法要の翌年に安置されたという仏像も、自分を住職だと思い込んでいた敬台院の強い意向があったことは明らかである。もし、仏像が本堂中央の本尊であり、住職の意向によるものであったならば、"寺の魂"とも言うべき本尊が出来上がる前に、寺の落慶法要が実施されるはずがない。また、弟子である末寺住職が勝手に化儀を改変したとなれば、当時の御法主上人が、日精上人を解任しないはずはないし、ましてや、後に総本山の管長に登用されるはずもない
 "日精(上人)の後任の法詔寺住職は、日精(上人)と同じように釈迦・多宝・四菩薩像を造立したという記録"(旧sf)こんな記録があるのであれば、尚更、法詔寺の造仏は、住職の意思によるものではなく、住職が代わっても居続けていた"影の住持"=大檀那=敬台院の意思によるものであったことが、一層明確となる
 このように、造仏は、公式的な住職以上に権威権力をもった"影の住職"ともいうべき敬台院の意向であったことは明らかである。

10●我等持仏堂には開山様の曼荼羅を掛け置申し候、此(精師筆)曼陀羅は見申す度毎に悪心も増し候まゝ衆中の内に帰し申し候(敬台院状・寛永17年『富士宗学要集』第8巻58頁)
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この状は法詔寺造仏より16年もあとに書かれたものであるから、造仏に関係するトラブルでないことは明らか。法詔寺造仏は日精上人御登座より8年も前のことである。もし、敬台院が造仏に反対であれば、日精上人を法詔寺から追放していたであろうし、御登座自体にも反対していたであろう。事実、このときの敬台院は、日精上人の法詔寺住職兼務を拒絶したのだ。↓

●祖滅三百五十九年(※寛永17年)比 敬台院は精師の山持ぶりに慊たらず此が排斥に出でたれども寺檀那の動揺を案じて遂に精師の本尊を本山衆檀に返却して公然改易を謀るのみならず、晋山当時兼務の儘の法詔寺にも一命に懸けて精師を拒絶し(第59世日亨上人著『富士宗学要集』第8巻56~)
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敬台院と日精上人の軋轢は、最初の御登座から8年後、法詔寺造仏の15年以上後のことである。だから、軋轢の原因が造仏にあったとは考えられない。もし、造仏問題であったとすれば、法詔寺で許された仏像を、敬台院が大石寺にも寄進しようとして日精上人に拒否され、感情的になったと考えられる。「精師の山持ぶりに慊たらず」とは、まさに本山における日精上人の振る舞い(化儀)に対するものであろう。

1.法詔寺が建立された時点では仏像がなかった。(7●)
2.法詔寺において仏像が安置されて以降も、敬台院は日精上人を信頼されていた(8●)。
3.日精上人と敬台院との間にヒビが入ったのは、寛永17年(1640年)頃であり、日精上人御登座より8年後、法詔寺造仏より約15年後のことである(9●10●)。
4.日精上人時代の大石寺には、造仏や一部修行、色袈裟などの形跡がまったくない。
5.敬台院は、もともとは要法寺の信徒であった。

★以上のことから推測するに、造仏は、敬台院の意向によるものである。末寺においては例外的に容認された日精上人も、総本山大石寺においては化儀の原則を貫かれた。そのために、敬台院との間に隙が生じたものと考えられる。しかも、敬台院が曼荼羅を拝んでいた事実(10●)から考えて、仏像は、中央曼荼羅の脇士であったことが分かる。





『随宜論』の目的と曼荼羅正意

<要法寺系の考え>
・久成釈尊造立は広布達成後が基本であるが、広布達成前であっても本尊としての造仏は許される
<大石寺系の考え>
・広布達成前であろうと後であろうと、仏像の安置自体が謗法
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<『随宜論』等による方便の善導>
・本尊としての造仏は広布達成後、現在は曼荼羅正意である。ただし、強執の徒のためには脇士としての造仏も止む無し
          
・大聖人並びに日興上人御影を造立し、大石寺客殿の曼荼羅御本尊の両脇に安置
          
<『家中抄』の真義>
・広布達成後の本門寺においても仏像は安置されない


【要法寺の思想】
1◆予が門弟相構えて上行等の四菩薩相副え給へる久成の釈迦略本尊、資縁の出来、檀越の堪否に随って之を造立し奉り広宣流布の裁断を相待ち奉るべきなり(『日尊実録(日大筆)』/『富士宗学要集』第5巻237頁)
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日尊は広布達成前であっても「四菩薩相副え給へる久成の釈迦略本尊」を造立した。日尊は日目上人によって得度し、後に日興上人の室に入った方であり、要法寺の前身である上行院を創建した人である。つまり要法寺系の源を創った人であり、その思想は日精上人時代の要法寺の僧俗に対して絶大な影響力を有していたと考えられる。

真間供養抄三十七に云わく、釈迦御造仏の御事無始昿劫より已来未だ顕われ有さぬ己心の一念三千の仏を造り顕わし在すか、馳せ参りて拝み進らせ候わばや、欲令衆生開仏知見乃至我実成仏已来は是れなり云云 又四条金吾釈迦仏供養抄二十八に云わく、御日記の中に釈迦仏の木像一体と云々、乃至此の仏は生身の仏にて御座候へ云云。 又日眼女釈迦仏供養抄に云わく、三界の主教主釈尊一体三寸の木像之れを造立し奉る、檀那日眼女、現在には日々月々大小の難を払い、後生には必ず仏と成る可し云云(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻158頁~)
◆(「真間・金吾・日眼」の造仏を大聖人が讃歎されたことについて日寛上人が「此れは是れ且く一機一縁の為めなり、猶お継子一旦の寵愛の如し」と仰せられたことに対し)若し一機一縁ならば何んぞ真間・金吾・日眼の三人有るや。次ぎに継子一旦の寵愛とは宗祖所持の立像の釈尊なり、何んぞ当宗の本尊に同じからんや。(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻159頁)
興師の御筆の中に造仏制止の文全く之れ無き所なり云云(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻176頁)
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大聖人が信徒に対し、「釈迦御造仏」を容認されていたことを盛んに挙げ、「興師の御筆の中に造仏制止の文全く之れ無き所なり」と述べている。このことからも日辰が広布達成前の本尊としての造仏を肯定していたことが分かる。

尊師の内証を推するに造仏読誦は且は経釈書判の亀鏡に依憑し且は衆生済度の善巧を施設するか、願くは憐愍(れんみん)を垂れ通用の御一札を賜はば本末の芳契慈尊の暁に及ばん者なり(日辰から第13世日院上人への状『富士宗学要集』第9巻64頁)
●本因妙日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなり照り光の仏は迹門能説の教主なれば迹機の熟脱二法計り説き給ふなり(第13世日院上人から日辰への返答『富士宗学要集』第9巻65頁)
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日辰は日尊の造仏などについて擁護し、日院上人に「願くは憐愍(れんみん)を垂れ」と理解を求めている。その上で大石寺との「通用」を求めている。これに対して日院上人は「照り光の仏は迹門能説の教主」として破折されている。このことから、日辰は色相荘厳の仏に執着し、これを造立礼拝していたことが分かる。

◆広蔵院日辰が貫首となる頃には、釈迦仏像を本尊とし、一部読誦(法華経一部八巻二十八品を全て読誦する修行)を行なうなど、大石寺と異なる教えも混在するようになったのである。(『慧妙』H14.5.1)

★要法寺は日尊の時代から釈尊像を造立していた。当然、法詔寺の要法寺系信徒の中にも本尊としての仏像に執着していた者がいたはずである。日寛上人が『末法相応抄』において、日辰の造読義に限って破折されたのも、そのような背景事情があったものと推測される。



【方便の義『随宜論』】
◆日代上人の御書に云く、仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケの大事一度に成就せしめ給ふ可きの由御本意なり。御本尊の図は其の為なり文。此の文実録の内に興師の御義に符合す、然らば富山の立義は造らずして戒壇の勅許を待ちて而して後に三ケの大事一度に成就為す可きなり。若し此の義に依らば日尊の本門寺建立の時に先きんじて仏像を造立して給ふは一箇の相違なり。罪過に属す可しと云はば未だ本門寺建立の時到らず本門寺と号するは又一箇相違なり罪過に属す可きや。此の如きの段今の所論に非らず。願くは後来の学者二義を和会せば造不造は違する所無くして永く謗法を停止して自他共に成仏を期すのみ(『随宜論』)
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 『随宜論』の最後には「仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケの大事一度に成就せしめ給ふ可き」という西山日代の書を紹介したのち、戒壇建立後にはじめて仏像をつくるのが大石寺の「立義」だとしている。そして、要法寺開山の日尊が本門寺建立前に仏像を造立したことや、西山が本門寺と名乗ることを挙げて「一箇相違なり罪過に属す可きや」としている。
 これは明らかに広布達成前の造仏制止の立場であるが「此の如きの段今の所論に非らず。願くは後来の学者二義を和会せば造不造は違する所無くして永く謗法を停止して自他共に成仏を期すのみ」という言葉で結び、「二義を和会」する内容については示されていない。
 『随宜論』では本尊としての造仏を容認する文証を挙げて、仏像に執着する要法寺系信徒を擁護したが、実際に行われた化儀はどうであったか。
 日精上人時代に造仏されたとされる文証を見ると、「釈迦・多宝」の文字はあっても「釈尊」の文字はない。このことと、敬台院が曼荼羅御本尊を拝んでいたこと、法詔寺建立時には仏像がなかったこと等を考え合わせると、造仏は曼荼羅御本尊の脇士であったと思われる。
 これこそが、「二義を和会」する内容であり、日精上人が要法寺系信徒に許されたギリギリの化儀だったのではないか。


<本門寺には仏像(久成釈尊)を安置>
本堂には本尊の如く仏像を安置す可し。祖師堂には日蓮聖人の御影、垂迹堂には天照八幡尊像之有る可し。其の上戒壇堂を建立し、中に法華経一部を納め戒壇を築き板本尊を安置し奉る(第17世日精上人『随宜論』)



【『家中抄』の造仏論】
―"広布達成前の造仏制止"の方便の義を引用―
◆日尊立像等を除き久成釈尊を立つる故記録に背かざるなり、又云はく仏像造立の事本門寺建立の時なりと然るに日尊本門寺建立に先立ち造立仏像は是れ一ヶ条の相違なり(日印伝『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻238頁)
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これは、『随宜論』で説かれた方便の義と同じである。これについて第59世日亨上人は「本師造仏の底意を顕す」と批判の頭注を加えられている。しかし、この部分は日精上人がわざわざ「日辰上人の祖師伝を書写する者なり」(『富士宗学要集』第5巻180頁)と断られているのである。

日尊日印日大の三師の伝は全く日辰上人の祖師伝を書写する者なり(第17世日精上人著『家中抄上』/『富士宗学要集』第5巻180頁)
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日精上人の真意・正義が日尊などの「三師の伝」にはないことが明らか。そして、この三師の伝の引用部分こそが、日亨上人をして、日精上人を造仏家であると疑わしめた部分なのである。

日辰祖師伝は多くは西山の説を記して御筆に違する事あり(第17世日精上人著『家中抄上』/『富士宗学要集』第5巻180頁)
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「御筆に違する」とは、正義に違う内容があるということであろう。それにも拘わらず日尊日印日大の三師の伝に限っては「全く日辰上人の祖師伝を書写」されたのである。

★なぜ、日尊などの三師の伝に限って、わざわざ「祖師伝を書写する者なり」と断られたのか?それこそ、日尊などを信望する要法寺系僧俗への配慮である。『随宜論』の方便といい、『家中抄』での日辰『祖師伝』の機械的引用といい、日精上人が、正当な法門や化儀を理解できない要法寺系信徒を四悉檀を駆使して善導されていることが分かる。

★『随宜論』では、日代などの義を引用されたとはいえ、一応日精上人御自身の主張であった。しかし、『家中抄』では御自身の主張と引用部分を分けられている。ここに『随宜論』の方便の義からの"脱皮"を見ることができる。


2●五人一同に云く本尊に於ては釈迦如来を崇(あが)め奉る可し既に立て随て弟子檀那等の中にも造立供養する御書之れ有り云云(中略)日興云く聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊とせず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可し即自筆の本尊是なり
[精師・註釈]=是本尊問答抄、妙法曼陀羅供養抄の二文意なり、草案並びに日尊実録本門心底抄日代状等は余の文意なり(第17世日精上人著『富士門下家中抄上』/『富士宗学要集』第5巻166頁)
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―「草案並びに日尊実録本門心底抄日代状等は余の文意なり」―
◆例せば興師の御草案(五人所破抄)に、但四悉の廃立、二門の取捨宜しく時機を守り、敢えて偏執すること勿れと云うが如し(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻)
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『五人所破抄』では、強執の機に対する方便として四菩薩添加の造仏を容認されていた。また、「日尊実録本門心底抄日代状等」は三大秘法の1つである「本門の本尊」を仏像とし、広布達成後の本門寺に仏像が安置されるとしている。その意味で造仏を絶対認めない2●に対すれば「余の文意」ということである。ここだけ読めば強執の機に対しては本尊としての造仏も許されるという意味にもとれるが、そうではない。実際に行われた造仏は曼荼羅本尊の脇士に過ぎなかったのである。また、同じ『家中抄』において、御自分の主張として広布達成後の本門寺においても曼荼羅正意であることを明言されているのである(下記【方便義を『家中抄』で否定】)。


●又五人所破抄に云く「諸仏の荘厳同じと雖も印契(いんけい)に依つて異を弁(べん)ず如来の本迹は測り難し眷属を以て之を知る、所以に小乗ノ三蔵の教主は迦葉・阿難を脇士と為し伽耶(がや)始成の迹仏は普賢文殊左右に在り、此の外の一躰の形像豈(あに)頭陀(ずだ)の応身に非ずや、凡(およ)そ円頓の学者は広く大綱(たいこう)を存して綱目を事とせず倩々(つらつら)聖人出世の本懐を尋ぬれば源と権実已過の化導を改め上行所伝の乗戒を弘めんが為なり、図する所の本尊は亦正像二千の間・一閻浮提の内未曾有の大曼荼羅なり、今に当つては迹化の教主・既に益無し況んや哆哆婆和(たたばわ)の拙仏をや。
 次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、執する者尚(なお)強いて帰依を致さんと欲せば須(すべか)らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿(なか)れ」文。(『随宜論』)
●本門心底抄の云く、本門の戒壇其れ豈(あ)に立たざらんや、仏像を安置すること本尊の図の如し文。(『随宜論』)
●日尊実録(日大記之)に云く、第三に云く、一、久成の釈迦造立有無の事、日興上人仰に云く、末法は濁乱なり、三類の強敵之れ有り、尓らば木像等の色相荘厳の仏は崇敬するに憚(はばか)り有り。香花燈明の供養も叶ふべからず。広宣流布の時分まで大曼荼羅を安置し奉る可し云云。
 尊の仰に云く、大聖人御代二ケ所之を造立し給へり。一ケ処は下総国市河真間富木ノ五郎入道常忍、三ソ木を以て造立す。一ケ所は越後ノ国内善浄妙比丘尼造立して之れ有り云云。御在世に二ケ処なり。
 身延の沢の仏像等聖人没後に様々の異議之れ有り、記文は別紙に之れ有り云云。総じて三ケ処之れ有り、此等は略本尊なり、但し本門寺の本尊造立の記文相伝別に之れ有り云云。
 予が門弟相構へて上行等の四菩薩を相副(そ)へ給へる久成の釈迦略本尊資縁の出来檀越の助否に随つて之を造立し奉り広宣流布の裁断を相待ち奉る可きなり文。(『随宜論』)
●日代上人の御書に云く、仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケの大事一度に成就せしめ給ふ可きの由御本意なり。御本尊の圖は其の為なり文。(『随宜論』)



【方便義を『家中抄』で否定】
―本門寺の本尊―
<1>
―【随宜論】―
3◆本堂には本尊の如く仏像を安置す可し。祖師堂には日蓮聖人の御影、垂迹堂には天照八幡尊像之有る可し。其の上戒壇堂を建立し、中に法華経一部を納め戒壇を築き板本尊を安置し奉る(第17世日精上人『随宜論』)
変↓遷
<2>
―【家中抄】―
●富士山に三堂を造立して額を本門寺と打つべし、(中略)(第17世日精上人著『家中抄中』/『富士宗学要集』第5巻219頁)
●本堂には寺号の額、御影堂には祖師堂の額を打つこと是れ天下一同の義なり(中略)本門寺根源の事、日蓮一大事の本尊有る処、寺中の根源なり若し爾らば、板本尊の在す処、本門寺の根源なり(同書220頁)
三堂本尊とは板本尊、生御影、垂迹堂本尊と云ふ事か、若し爾らば板本尊とは日興、日目以来相続して而も大石寺にあるなり、垂迹堂の本尊は是れ日目御相伝にして今房州妙本寺に在り(同書221頁)
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日亨上人の注意書きなし

★<1>と<2>の違いは本堂=本門寺根源に安置すべき本尊である。<1>では仏像としているのに対し、<2>では板本尊となっている。ここに、日精上人の真意は、広布達成の暁においても曼陀羅正意であることが明らか。『随宜論』では「四堂伽藍」の説を仮に立て(3◆)、板本尊を本堂とは別(「戒壇堂」)に安置する御指南であったようだが、『家中抄』では「四堂」ではなく「三堂」に訂正せられており、しかも本堂には大御本尊を御安置すべきとの正義を打ちたてられている。
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●一、日蓮聖人御影堂 一、本化垂迹天照太神 一、法華本門寺根源(『日順雑集』/『富士日興上人詳伝下』68頁)
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日亨上人解説には、記述に対する批判なし

●但し本門流宣の代、垂迹還住の時は尤も上下を撰んで鎮守を定む可し云云。(『五人所破抄』全集1614頁)

●国家正法になるとき悦んでもとの社壇に還り鎮まるを還住というが、この時には、王朝以前からの厳格なる式をもって神社を整理し、すなわち、邪横の社を撤廃し、正直の社を設置、または新設するとき、上下の資格を定むるのである。(第59世日亨上人『富士日興上人詳伝下』183頁)



【『随宜論』の目的】
右の一巻は、予 法詔寺建立の翌年、仏像を造立す。ここに因って、門徒の真俗疑難を致す故に、蒙(ママ)霧を散ぜんが為に、廃忘を助けんが為に、筆を染むるもの也(第17世日精上人『随宜論』)
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「仏像を造立」したことへの「疑難」とは、単に"仏像は謗法である"という批判だけではなく"本尊として仏像を安置すべき"という批判に対する反論でもあったのではないだろうか。

★当時の法詔寺には日尊日辰等の影響で広布達成前に、本尊としての仏像安置に執着した者がいたことは十分考えられる。その一方で、本尊であろうとなかろうと仏像の安置自体に反対する大石寺系の信徒も存在した。この"本尊としての仏像を安置せよ"という意見と"仏像自体が謗法"という意見の間にたって、両者を善導するために認められた"方便・善導の書"が『随宜論』ではなかったかと考えられる。そして、その善導の結果が、法詔寺における"曼荼羅本尊の脇士としての仏像"という次第である。

●客の曰わく、永禄の初め洛陽の辰、造読論を述べ専ら当流を難ず、爾来百有六十年なり、而して後門葉の学者四に蔓り其の間一人も之れに酬いざるは何んぞや。予謂えらく、当家の書生の彼の難を見ること闇中の礫の一も中ることを得ざるが如く、吾に於て害無きが故に酬ひざるか。(第26世日寛上人著『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻138頁)
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『末法相応抄』は日辰の造読義を破折するための書である。これまでに宗内において完全な破折がなかったのは「吾に於て害無きが故に酬ひざるか」と仰せである。つまり、"これまでは宗内に、日辰の義による害がなかった"とされている。ここでいう「日辰の義」とは『末法相応抄』で破折されている内容全体を指すことはいうまでもない。つまり造仏(本尊としての)も含まれる。造仏について日辰の思想による悪影響がなかったのは、『随宜論』などによって四悉檀を駆使された日精上人の苦心の御化導の賜ではないだろうか。

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 『随宜論』を書いたのは登座前で、法主になってからは「清書」したにすぎないという珍論を唱えている。あまりにも稚拙な弁明であろう。
 仮に日精が登座後、富士の正義に目覚めて、自身の過去の誤りに気づいたならば、かつての邪論は破棄し人目にふれさせないようにするのが穏当ではないか。
 またあえて後学のために前車の轍とするというなら、その内容を自ら徹底的に破折して宗内に開示すべきであり、せめて邪義の文書であることを当人が明記するのが最低限の配慮ではないか。日精が自らの誤りを改めると誓った文証があれば、後学の参照のために清書して残したというのもうなずけるが、あるなら出してみよ。(斉藤克司・創価学会教学部長)
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 造像は「法詔寺建立之翌年」(『随宜論』)とあるから元和10(1624)年のことである。一方、日精上人の御登座は寛永9(1632)年であるから、造像より8年も後のことである。また、『随宜論』述作の目的が「門徒之真俗致疑難故」とあるから、この書は、造像後ほどなくして認められたものであろう。
 「寛永十戌年」(『随宜論』の述作年月日)は御登座後のことであるが、既に作成されていた文書を清書したのであろう。方便の書とはいえ、(中央本尊としての)造像に執着する信徒(敬台院)と仏像の安置自体に反対の真俗の間に立って、両者を善導するための書として重要な意義があった、だからこそ改めて清書されたのではないか。そうであれば「人目にふれさせないようにする」必要などまったくない。
 方便とはいえ本来の化儀を踏まえた上での善導の書であるから「邪論」ではないし、日精上人には御登座以前から「誤り」などなかったのである。従って、日精上人が改めて「富士の正義に目覚め」る必要はない。
 尚、寛永10年は酉(とり)年であって戌(いぬ)年ではない。もし、干支(えと)が正ければ、寛永年間で唯一の戌年である寛永11年が正解となる。

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◆聖人御在世に仏像を安置せざることは未だ居処定まらざる故なり(『随宜論』)
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日辰の造仏論に影響された大石寺17世の日精は『随宜論』」に「※◆」と述べるなどして、造仏こそ日蓮の本意なり、と主張し、大石寺伝統の戒壇本尊中心主義を迷乱させた。(離脱僧・松岡雄茂)
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◆確かに日精は、この書(日精上人著『日蓮聖人年譜』)では一応「或ル抄(要法寺日辰の邪抄)の立義の誤まりを指摘しており、要法寺流の邪義にべったりというわけではない。(『創価学会教学部長斉藤克司の邪問を破す』115頁)
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 松岡は今回この「悪書」を執筆するにあたり、創価学会の教学部長、斉藤克司に相談、または許可を得て書いているのであろうか。斉藤克司の日精上人に対する邪難については、我ら邪義破折班が昨年、一文を草して完膚無きまでに破折したため、斉藤克司は未だ何の返答もできず、だんまりを決め込んでいる。その斉藤克司が御法主上人に対し送りつけた駄文では、これまでの創価学会の主張、すなわち日精上人には御登座後も要法寺の広蔵日辰流の造読思想があったとしていたものを、「※◆」と述べて、従来の見解を見事に訂正している。〝要法寺流の邪義にべったりというわけではない〟とは、日精上人が要法寺流の立義、つまり造仏読誦の誤りを指摘されているから要法寺流ではない、ということであり、それはとりもなおさず、斉藤克司が「創価学会教学部長」の肩書きをひっさげて書いた文書で「日精上人が造読家ではない」ということをはっきりと認めたことなのである。よって日精上人が、日辰を破折しておられる以上、日精上人が〝日辰の造仏論に影響された〟などということも事実無根の誣言なのである。
 松岡の言い分は、斉藤克司の主張と相反するものであり、斉藤克司に対して〝かなり強引な史料の誤読〟と詈っていることに他ならない。まずその指摘を斉藤克司にするがよかろう。それとも我々邪義破折班に対して、未だ何の回答もできず、あまりにも不甲斐ない大失態を犯した斉藤克司に成り代わって、創価学会教学部長の椅子でも狙っているのか。(日蓮正宗青年僧侶邪義破折班H17.6.7)

 日精上人はそもそも造読義を持たれていないどころか、『日蓮聖人年譜』に見られる、五老僧系への破折といい、日辰に対する破折といい、日蓮大聖人・日興上人そのままの破邪顕正の御精神が顕然とされたお方である。日寛上人が渇仰恋慕したほどの方であり、門下僧俗にも血脈付法の御法主上人として絶大な尊信を受けておられたのである。
 さらに言えば、『随宜論』の扱いも、正信会や貴殿らのように宗門のあら探しをして邪難しようとする逆賊以外には、全く依用された経緯は無い。故に「人目にふれさせないようにするのが穏当」などとの言も大きなお世話である。『随宜論』を奇貨として血脈を誹謗し、それを公開しているのは貴殿らではないか。
 しかも日精上人が造読家の寿円日仁や北山日要から快く思われていないことも造読家ではないことの傍証である。寿円日仁はしばらく常在寺の日精上人の膝下で勉学していたことがある。その折日精上人より自らが信奉する造読義ではなくて、当家の正義を聞かされたために、反感を懐くようになったと思われる。
 以上述べたとおり、日精上人は〝大聖人の正法を護持し、一宗を統括し、門下を教導する立場である。それに相応しい人格・識見・信心の人物〟であられたから御登座されたのであり、「日精(上人)が自らの誤りを改める」必要など微塵もないのである。(『大白法』H16.5.1)



【曼荼羅正意の証拠】
<末寺及び信徒への曼荼羅御本尊授与>
日精上人は、御生涯を通じて宗祖日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、曼荼羅御本尊を本宗信仰の根幹とされていた。それは、総本山御影堂の板御本尊、六壺の板御本尊、常在寺・細草檀林の板御本尊を造立遊ばされ、さらに多くの御信徒に曼荼羅御本尊を書写し、授与遊ばされていることからも明らかである。また総本山の客殿及び了性坊、さらには、常在寺などの宗祖御影も日精上人の造立・開眼によるものである。(『大白法』H16.3.16)


<『日蓮聖人年譜』における造像家日辰への破折>
今回、創価学会でも認めたように日精上人は『日蓮聖人年譜』において日辰の『或る抄』を引用し、その邪義を、
●三大秘法の義を取ること偏に取るが故に相違甚多なり此ノ故に今之レを挙ケて以て支証とするなり。(『富士宗学要集』第5巻120頁)
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と破折されている。(『大白法』H16.3.16)


<『秘釈独見(ひしゃくどっけん)』>
●精師御教語に曰く、今世の愚昧の人を教化して受法せしめん此の功徳は八万四千体の白仏を造て供養し給仕する功徳よりも勝れたる也云々。一人受法するときは八万四千の煩悩即菩提となる。何んそ木仏八万四千体造立するとも此の功徳に及ぶ事を得んや。(金沢信徒・福原式治『秘釈独見』金沢妙喜寺蔵)
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 これは現代文に直せば、
 「日精上人の御教えのお言葉に次のように仰せられていた。今世の愚昧(愚かで仏法に昧(くら)い)の人を教化して御授戒を受けさせて信仰させる此の功徳は八万四千体の白仏(仏像)を造って供養し給仕する功徳よりも勝れている。一人が信仰受法する時は八万四千の煩悩即菩提となる。たとえ木の仏像などを八万四千体も造立しても此の功徳に及ぶ事はない」
ということであって、日精上人が、御自分が教化折伏した金沢の信徒に対して、造仏の修行よりも折伏の功徳が勝れていることを、はっきりと御教示されている。それはつまり折伏を勧めることによって、造仏を制止されているのである。この文書によって、日精上人の実際の御化導が、造仏を勧められていなかったことが確定したばかりでなく、折伏を強く推進されていたことが明確となったのである。(『大白法』H16.3.16編集)

●此の御時代より在家御弘法の為に御本尊を御授与也(金沢信徒・福原式治『秘釈独見』金沢妙喜寺蔵)
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この記述が意味するところは、日精上人以前にも在家授与の御本尊は存したが、特に日精上人の時代より、信徒にも御本尊が多く授与され、ともすれば化儀が乱れがちであった信徒にあっても大曼荼羅正意の化儀を徹底されていったということである。(『大白法』H16.5.1)

[画像]: 『秘釈独見』福原式治記 享保2(1717)年妙喜寺蔵





教主釈尊と大聖人


【『随宜論』】

次に感応・日月本迹の事。是れ亦釈迦と日蓮との相対に非ず、唯仏与仏の相対なり。下種仏とは挙ぐる所の自受用報身、脱仏とは二番已下今日の応身仏なり。是れ即ち本果の釈迦は本なり天月なり。二番已下の脱仏は迹なり池月なり、判文なり。爾らば釈迦と日蓮と相対の釈と見るは僻見なり。次に、「久遠元初自受用身は即日蓮の事なり」とは、此一段甚だ以て不審なり。如何となれば、百六箇に云く、「今日蓮が修行は久遠名字の振舞に、芥爾計りも違わざるなり」文。 又云く、「三世常住の日蓮は名字の利生なり」文。御書に云く「日蓮は名字凡夫なり」文。又云く「理即には秀でて名字には及び及ばず」文。諸文悉く日蓮は名字即と判じて未だ凡人に仏名を付くること見ず。但し日蓮の本地は上行、上行の本地は仏なり。今難ずる所は此くの如き義に非ず。天台・妙楽・伝教・蓮祖の義に非らずんば会用し難し。若し亦た、若遇余仏の文を引て云く、天台大師此の文を釈して云く、四依也云云。是即ち名宇即の日蓮を仏と称する明文なりと云はば、亦た本文に違す。天台・章安・妙楽の四依を釈する時、或は十信初依、或は初住初初依、或は六根五品初依不同ありと雖も、名字即初依の未だ明文を見ず。若し爾らば、本拠本説の如く得心して後、義を取るは常途と法式なり。若し爾らば、頗りて阿薫を捨て本文の如く之を論ずる時、文四に云く『便ち界外有余の国に生じ、余仏に値遇し此の経を得聞す○余仏とは四依なり』文。記の四末に云く『初文は有余土の仏を以て名づけて余仏と為す○須く四依に遇うと云うべきのみ』文。玄六に云く、『初依は余仏に名づく、無明未だ破らず、之を名づけて余と為す。能く如来秘密の蔵を知り、深く円理を覚る。之を名づけて仏と為す』文。籤六に云く『通じて五品及び六根浄を取る故○内外の凡の位を名づけて凡師と為ることを証す』文。玄五に云く『五品六根を初依と為す』文。此の文実に五品に居す六根の人の衆生の依止と為す処を釈するなり。記の八、補注六等之を略す。此の本拠本説の如く心得畢んぬ。扨て義を取る時、元祖日蓮聖人は上行菩薩の後身なり。此の故に内證を論ぜば自受用報身如来なり。又本門四依の内初依の導師なる故、又余仏なり。又下種の仏とも云う可き歟

(第17世日精上人『随宜論』/<妙音>WS)

●日東上人云く、精師且く日辰の義を述ぶるなり。随宜論と号す。云云(第31世日因上人『日因随宜論批判』)
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「日辰の義」とあるから、『随宜論』の内容は要法寺系信徒に影響力を持っていた日辰の義を中心に書かれていることが分かる。「且(しばら)く」とは仮初めという意味。『随宜論』の内容は仮初めに用いた義であり、日精上人の本意ではないということである。(<日俊・日寛・日東各上人の評価>参照)。

「日辰の義」を仮初めに用いたのが『随宜論』であるが、それにしては不自然な文言が散見される。日精上人が日辰と同意であれば、有り得ない文言である。

1●元祖日蓮聖人は上行菩薩の後身なり。此の故に内証を論ぜば自受用報身如来なり。(第17世日精上人著『随宜論』)

2●元祖日蓮聖人は(中略)下種の仏とも云う可き歟(か)。(第17世日精上人著『随宜論』)
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「下種の仏」としながら「とも云う可き歟」と断定を避けられている。しかし、このような表現は大聖人の御書にもあるが、結局大聖人の真意を表明されたものである。↓そもそも、天台流の文上の解釈に執着している者が、疑問形とはいえ、わざわざ大聖人を「下種の仏」などと表現できるものではない。『随宜論』の造仏義を否定する文証が、後の『家中抄』や『日蓮聖人年譜』において掲載されていることから考えても、日精上人の真意は、既に文底の正義にあったことが分かる。しかし、方便の上から断定を避けられたのであろう。
―「可きか」といいながら真意を表明―
・同くは法華経を強いて説き聞かせて毒鼓の縁と成す可きか(『唱法華題目抄』全集14頁)
・又同六年重ねて牒状之を渡す、既に勘文之に叶う、之に準じて之を思うに未来亦然る可きか(『立正安国論奥書』全集33頁)

[日辰]=本尊についても本果を体とする立場から、久遠の釈尊を本尊とし、(中略)修因感果の久遠元初の自受用身が末法の仏であり本尊とする。故に脱益の本尊の外に下種の本尊を認めず種脱一体の本尊とする邪義を立てた。(『新版仏教哲学大辞典』初版第2刷1364頁)
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日辰は末法の仏を「種脱一体」とする邪義を立て、「脱益の本尊の外に下種の本尊を認め」なかった。日精上人が方便の義とはいえ大聖人を「下種の仏」(上記2●)と表現すること自体、日辰の邪義を脱していたと言うべきである。
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<参考>
●本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮(『百六箇抄』全集854頁)

[本地]=本来の境地のこと。仏・菩薩の本体のこと。垂迹(衆生教化のため実際に現れた姿)に対する語。(中略)日蓮大聖人は百六箇抄に、自身の久遠元初の本地を明かされ「本地自受用身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮」と述べられている。(『御書辞典』学会教学部・第6刷)



【『日蓮聖人年譜』『家中抄』】
大聖人を「下種の仏」(2●)と表現すること自体、要法寺の教学を脱しておられた証拠。一方、種脱相対の正義を御存知であったことは、以下の『日蓮聖人年譜』の記述に明らかである。

<久遠元初の下種仏>
3●三五下種の功を奪ひ取って熟益と号し久遠下種の功と名くるは本門の法門なり(第17世日精上人著『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻118頁)
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ここに言う「久遠下種」とは、久遠元初の言葉こそ用いられていないが、その内容からいって、明らかに久遠元初の下種を述べられている。この記述と、『随宜論』の「下種の仏とも云う可きか」(2●)の語を重ね合わせれば、久遠元初の下種仏=日蓮となる。


<日辰の書を「謗法の書」と断罪>
大聖人を破り奉らんところの謗法の書なり、全くこれを信ず可からず(第17世日精上人著『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻120頁)
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「或る抄」の本門の題目義について「本果の釈迦の付嘱」「久成の釈尊所証の法体」「神力品の付嘱だから本門の題目」(趣意)「本門の題目は寿量品に限らない」(趣意)と紹介した後、これを破折。「或る抄」とは日辰の『三大秘法ノ記』である(<【「或る抄」について】>参照)。日精上人が、日辰の『三大秘法ノ記』を批判されるということは、まさしく文底の実義に到達されておられるからこそ可能なのである。文上脱益の仏に拘泥するがごとき、日辰と大同小異の見解であったならば、日辰を批判することは絶対にできない。とくに「本果の釈迦の付嘱」「久成の釈尊所証の法体」という「或る抄」の義を受けて「謗法の書」と断定されていることは、久遠本果の釈尊への執着を破折されていることは明白である。


<師弟ともに名字即の位で即身成仏>
4●当家は久遠の師弟本因妙を修行して咸(み)な真極に至りたまふ(第17世日精上人著『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻121頁)
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「久遠の師弟本因妙を修行」の「久遠」=久遠元初であることは3●より明らか。「本因妙の修行」の語に、色相荘厳の本果釈尊に執着した日辰の義とは天地雲泥の正義が表れている。尚、日辰も「久遠元初」の語を用いているが、「本果に限る」としている。

5●古より相伝して云く当家は名字即、最初心の上に於いて建立する所の宗旨なるが故に大衣を着せず、色袈裟を掛けざるなり、其の証拠は生御影是れなり(第17世日精上人著『家中抄下』/『富士宗学要集』第5巻263頁~)
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「名字即、最初心の上に於いて建立する所の宗旨」これこそ凡夫即極の意義を示すものであり、色相荘厳を排除していたことは明らか。

★日辰が色相荘厳の仏に執着しているのは、「本門の教主」を応仏昇進の「本果の仏」だとしているからである(9●10◆)。だからこそ、「久遠元初」の語は用いても、仏としての化導の開始点は久遠本果の得道なのであり、即座開悟・因果倶時・凡夫即極を認めない。だから色相荘厳=本果の仏に執着する。本尊についても本果を体とする立場から、久遠実成の釈尊を本尊とする。
 これに対して日精上人は、久遠元初に下種を置く(上記3●)。また「久遠の師弟本因妙を修行して咸(み)な真極」(4●)と、久遠元初の自受用身の言が本因に亘ることを示されている。これらと「元祖日蓮聖人は(中略)下種の仏」(2●)、「名字即、最初心の上に於いて建立する所の宗旨なるが故に大衣を着せず、色袈裟を掛けざるなり、其の証拠は生御影是れなり」(5●)の言を考え合わせると、大聖人=本因名字凡夫即極の本仏と拝されていることが明らかである。さらに日精上人は、客殿安置の大聖人と日興上人の御影を造立されており、下種三宝の正義に達しておられたことも、明らかである。
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<参考>
●釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき(『三世諸仏総勘文教相廃立』568頁)

●答う、久遠元初の自受用身とは本因名字の報身にして色相荘厳の仏身に非ず、但名字凡身の当体なり。今日寿量の教主は応仏昇進の自受用身にして久遠元初の自受用に非ず、即ち是れ色相荘厳の仏身なり。(第26日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻169頁)

●自受用身は本・上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり。(『百六箇抄』863頁)

●問う、法衣の色に但薄墨を用うる其の謂われ如何。答う、亦多意有り。一には是れ名字即を表するが故なり。謂わく、末法は是れ本未有善の衆生にして最初下種の時なり、然るに名字即は是れ下種の位なり、故に荊渓の云わく、聞法を種と為す等云々。聞法豈名字に非ずや、為種豈下種の位に非ずや。故に名字即を表して但薄墨を用うるなり。(第26世日寛上人著『当家三衣抄』/『富士宗学要集』第3巻223頁)



【日辰の思想】
6●若し蓮祖を以って本尊とせば、左右に釈迦・多宝を安置し、上行等脇士と為る可きなり、若し爾らば名字の凡僧を以って中央に安置し、左右は身皆金色の仏菩薩ならんや云云。(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻162頁)
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大聖人を「名字の凡僧」と下し、「身皆金色の仏菩薩」に執着。

7●金剛般若経に云わく、若し三十二相を以って如来と見、○若し色を以って我と見れば是れ則ち邪道を行ずるなり云云。日辰但色相に執して真仏の想いを成す、若し経文の如くんば寧ろ邪道を行ずるに非ずや(『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻166頁)

8●日辰応仏昇進の自受用を以って而も久遠元初の自受用と名づく。故に応仏昇進の自受用に非ず、亦久遠元初の自受用にも非ず(第26日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻169頁)

9●日辰が記に云わく、一宗の本尊久遠元初の自受用身なり、久遠の言、本因本果に亘ると雖も、久遠元初の自受用身の言は但本果に限って本因に亘らず。自受用身とは寿量品の教主三身宛足の正意なり。(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻169頁)

10◆[日辰]=本尊についても本果を体とする立場から、久遠の釈尊を本尊とし、(中略)修因感果の久遠元初の自受用身が末法の仏であり本尊とする。故に脱益の本尊の外に下種の本尊を認めず種脱一体の本尊とする邪義を立てた。(『新版仏教哲学大辞典』初版第2刷1364頁)

●一致勝劣宛も雲泥の如し、流々の所伝亦天地を分かつ。然りと雖も其の法衣に及んでは更に異なり有ること無く全く是れ同じなり。所謂紫衣・香衣、綾羅錦繍の七条・九条等なり。(第26世日寛上人著『当家三衣抄』/『富士宗学要集』第3巻221頁)



【日精上人と日辰の相違点】

<大聖人>
―日精上人―
・日蓮大聖人は「内證を論ぜば自受用報身如来なり」(『随宜論』)→1●
・日蓮大聖人は「下種の仏とも云う可き歟」(『随宜論』)→2●
―日辰―
・大聖人は「名字の凡僧」であり、「釈迦・多宝」「上行等」に劣る。→6●

<教主釈尊>
―日精上人―
久遠元初の下種の仏→3●
・久遠元初に名字即の位で即身成仏(本因妙の教主)→3●4●5●
・色相荘厳に非ず→4●5●
―日辰―
色相荘厳→6●7●
応仏昇進→8●
本果脱益→9●10◆







『家中抄』



編集姿勢と亨師の頭注

―『家中抄』―

【欠を補い給わば是れ吾がねがう所なり】
1●然るに祖師の伝文不同なきには非ず、日順の血脈抄極略にして未だ窺ひ測りやすからず、日時(※日道)三師の伝はわずかに一二の行業をあげて未だ詳審ならず、日辰祖師伝は多くは西山の説を記して御筆に違する事あり亦富士五所の所伝にすこし差会あり。
 是れに繇(よ)って予寛永庚辰の春、日瑶中陰のうち別に報謝の儀なく此の三伝を集めて一巻として報恩謝徳の一分に擬したてまつりき、其の後御筆本尊并びに遺弟の書籍記文等を拝見するに諸伝相違の事甚だ多く亦諸書に載せざる行相幾許(いくばく)ぞや、爰を以て今御筆を先として遺弟の記文取るべきものは之を録し諸伝の善説には之に順し、善ならざるは頗るために改め易へ次第前後をたゞす、猶恨むらくは御筆記文は多く天下の大乱に散失し或は国々門徒へ持参し所伝の法門は住侶闕減に習ひ失ひ唯見聞の及ぶ所、纔(わずか)に之を記録して未だ精密ならざるなり、豈(あに)罄(むなし)く興師の道を尽すにたらんや、庶幾(こいねがわく)は所所散失の御筆並びに本尊・記文等見聞にしたがって之れを記して其の欠を補い給わば是れ吾がねがう所なり(第17世日精上人著『家中抄上』/『富士宗学要集』第5巻180頁)
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 「遺弟の記文取るべきものは之を録し諸伝の善説には之に順し、善ならざるは頗るために改め易へ次第前後をただす」とあることから、『家中抄上』の編集態度は、引用であってもある程度は日精上人の本意が表れていることが分かる。しかしながら、「唯見聞の及ぶ所、纔(わずか)に之を記録して未だ精密ならざるなり」「欠を補い給わば是れ吾がねがう所なり」とあるように未だ正確ではなく、後世の補正を求められている
 「此の三伝」とは「日順の血脈抄」「日時(※日道)三師の伝」「日辰祖師伝」のことか。当該御文は日興上人伝の末文であり『家中抄上』の末文である。「然るに祖師の伝文不同なきには非ず」から始まる文である。このことから、日興上人の伝に関する記述であることは明らかである。従って狭義には『家中抄上』=日興上人伝、の編集態度である。
 しかしながら、「御筆本尊并びに遺弟の書籍記文等を拝見するに諸伝相違の事甚だ多く亦諸書に載せざる行相幾許(いくばく)ぞや」という状況は他師に関する資料についても同様のはずである。であればこそ、日亨上人も上記跋文が『家中抄』全体に及ぶものであるとの考えから、「本師の跋文に合ふもの」として『家中抄』全巻に亘って天註を加えられたのである。↓

●天註に批訂する所あり、先師に対して恐れありと云へども却って是れ本師の跋文に合ふものにして、地下の冥諾を受けんこと必せり、但し中下巻には此事を贅せず(第59世日亨上人『富士宗学要集』第5巻180頁~)

★上記跋文(1●)の通り、『家中抄』では、後世から見れば明らかに誤っていると思われる史料をも掲載された。これは結果として、実在した歴史的史料の紹介と伝承保存という性格を持つものであるが、日亨上人が不相伝家の謬説を、歴史的史料として、そのまま紹介していることにも通じるものである。



【三師の伝は全く日辰上人の祖師伝を書写】
2●日尊日印日大の三師の伝は全く日辰上人の祖師伝を書写する者なり(第17世日精上人著『家中抄上』/『富士宗学要集』第5巻180頁)
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「全く」「日辰上人の祖師伝を書写」されたのである。日精上人の真意・正義が日尊などの「三師の伝」にはないことが明らかである。そして、この三師の伝の引用部分こそが、日亨上人をして、日精上人を造仏家であると疑わしめた部分なのである。

★なぜ、日尊師などの三師の伝に限って、わざわざ「祖師伝を書写する者なり」と表明されたのか?それこそ、日尊師などを信望する要法寺系僧俗への配慮ではないか。『随宜論』の方便といい、『家中抄』での日辰の義の機械的引用といい、日精上人が、正当な法門や化儀を理解できない要法寺系僧俗を四悉檀を駆使して善導されていることが分かる。

●編者曰く陽師転写本に依り更に要山祐師本(辰師本の直写)を以て一校を加へ又延べ書きと為す(第59世日亨上人『祖師伝』/『富士宗学要集』第5巻54頁)
●右祖師伝一巻日陽の本を以て茲に謄写す本書石州銀山本法寺に在り。 編者曰く筆者不明の転写本に(祖師伝に合本)依て此を写し小訂を加へ延書と為す。(第59世日亨上人『祖師伝』/『富士宗学要集』第5巻62頁)
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要するに『祖師伝』は写本が複数存在したのである。『富士宗学要集』の『祖師伝』も写本の写である。写本である以上、誤写や加筆訂正の可能性がある。日精上人が「日尊日印日大の三師の伝は全く日辰上人の祖師伝を書写する者なり」(2●)と仰せになっているのに、現存する『祖師伝』の写本と内容が一部異なるのは、『祖師伝』の写本が複数あって、その内容がもともと異なっていたということであろう。

●編者曰く再治の正本を見ず稿本亦少紙なるが故に孝弁日修本、智詳日詳本、慈来本等を校訂して此を用ゆ(第59世日亨上人『家中抄下』/『富士宗学要集』第5巻265頁)
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『祖師伝』に写本が複数存在する上に、問題となっている日尊等の「三師の伝」の引用部分は、日精上人の直筆が残っていない。つまり、現存する『祖師伝』と『家中抄下』の「三師の伝」の内容が少々違っているからといって、日精上人が主観を交えて加筆訂正されたと見るべきではない。「三師の伝は全く日辰上人の祖師伝を書写する者なり」(2●)という日精上人御自身の記述に従うべきである。

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 日尊・日印・日大の伝記は、日寛上人が六巻抄・文段等の随所で破折された要法寺系の論客・広蔵日辰の著「祖師伝」のほぼそのままの引用である。そのため、この三師の伝には、富士の立義と異なる記述が散在する。
 中でも目立つのが、要法寺の造仏・読誦の義に対する破折がないことである。(中略)
 これでは、読む人に造仏容認・推奨が是であるという誤解を与えてしまうばかりである。素直に読めば、この件だけでも日精が造仏論者であったことは明白である。
 貴殿は、このように読む人を邪義へと導く書を著し平然としている日精に対して、どのように感じているのか。仮にも自ら法主と名乗り人々を教導すべき座にありながら、謗法を見て置いて呵責することをしないのか。もしそうなら、宗祖・日蓮大聖人の御金言に照らせば、謗法与同の罪は免れ難く、仏弟子としての資格を失うものではないのか。(斉藤克司・創価学会教学部長)
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 三師に関する記述は日辰の『祖師伝』を「書写」したものである。(中略)日精上人は、大石寺の伝承や日精上人の説ではなく、要法寺の伝承を日辰が記したものであることをわざわざ断られているのである。これは、大石寺との見解の違い、法義的な違いを見ほどけとの日精上人の注意を喚起されるお言葉にほかならない。要するに、その人物の著述をどのように扱うべきか、評価すべきか、判断は別に存するのである。
 日精上人の日辰の教義に対する評価は、『日蓮聖人年譜』に「相違甚多」と造仏義を破折されるごとく、富士の正義とは大いに違っているとするものである。ならば日辰の引用と示される以上、「富士の教義とは大相違の造仏論者の著述である」との評価をもって、引用を見ほどけば良いのである。つまり「日辰の著」と示されているのだから全く何らの不可も無いのである。(中略)
 『家中抄』は日精上人が血脈の深義に基づく正義を基本として、当時伝承されていた可能な限りの史実を書き留められた畢生の書である。しかし江戸時代の不便な状況の中、何分にもお一人での編纂であったがために、用いられた資料そのものが不正確な場合もあり、『家中抄』の内容がそのまま正しい記述であるとは限らない。今日、『家中抄』の内容について、後年発見された諸文献や諸師の指摘等によって史実と相違すると判断された場合、認識を改めているのは貴殿も承知のことであろう。しかも、日精上人は『家中抄』のなかで、(中略)後世の補筆を願われているが、これは編纂における基本理念を明確に仰せになったものである。
 『家中抄』に、多少精密を欠く資料をもって記載されていたとしても、その意味するところは、当時に伝承した史料を紹介し、さらに後世に伝える性格をも併せ持つものである。いうなれば、日亨上人が『富士日興上人詳伝』や『富士宗学要集』等で他門における謬説を、そのまま参考史料として掲載されていることをもって、貴殿はその内容全てが法義上、日亨上人の正意であると解釈するのであろうか。そんなはずはあるまい。日精上人が日辰の『祖師伝』を引用されたのは、史料的価値を鑑みられた上からの御判断なのである。非難すべきことは全くない。
 『続家中抄』を編纂された第48世日量上人は、
●我カ先師日精尊者、当門歴史三巻を編輯し家中抄と号す、上巻は開山師一代の行業、中巻は目聖已下本六新六の事跡、下巻は其余の賢哲及び正嫡にして第五世より第十七代に至るの伝記なり、実に末世の亀鏡門家の至宝なり(第48世日量上人『富士宗学要集』第5巻267頁)
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と仰せになり、日精上人が『家中抄』を編纂なされた御功績を絶賛遊ばされている。貴殿は謗法悩乱の頭でもこの意義をよくよく注視し、正義正見を肝に銘ずべきである。
 思うに、当時より遡ること400年、その間の宗門史をただお一人で編纂遊ばされた日精上人の御苦労は想像を絶するものであったと拝される。
 悲しいかな、悪意と嫉妬に満ちた貴殿らは、『家中抄』を宗門攻撃のあら探しのためにしか読まないであろう。しかし、日精上人が本書を御述作遊ばされた意義を拝すれば、この『家中抄』こそ、宗門上古を拝察できる数少ない史伝書であり、実に唯授一人の血脈法水を伝持された御歴代上人方の御功績を顕揚せんがために御述作遊ばされた書と拝せられるのである。
 この甚深なる意義を無視するばかりか、根本命脈たる血脈相承に対する悪口誹謗の材料に悪用するとはなんたる所業であろうか。貴殿の誹謗は宗開両祖をはじめ、御歴代上人に対する侮蔑(ぶべつ)以外の何ものでもない師敵対の大謗法であり、堕獄必定の大罪と知れ。
 貴殿こそ〝宗祖・日蓮大聖人の御金言に照らせば、謗法与同の罪は免れ難く、仏弟子としての資格を失〟った当人であると断じておく。(『大白法』H16.6.1)



【不可解な注釈】
さらにまた、造仏に関する史料については、不要とも思える註釈をわざわざ付されている場合がある。これは、当時の、脇士としての造仏許容の実状に鑑みての方便の解説であると拝せられる。すなわち、既に(本尊としての)造仏に執着する者に対して『随宜論』において日代らの説を用いて善導された訳であるが、これら『随宜論』で展開した方便義等を用いて解説することによって、強執の機を善導する意味があったものと拝することができる。あるいはまた、造仏に反対する者に対して、強執の機に対する理解を求める意味もあったのかも知れない。

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3●五人一同に云く本尊に於ては釈迦如来を崇(あが)め奉る可し既に立て随て弟子檀那等の中にも造立供養する御書之れ有り云云(中略)日興云く聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊とせず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可し即自筆の本尊是なり
[精師・註釈]=是本尊問答抄、妙法曼陀羅供養抄の二文意なり、草案並びに日尊実録本門心底抄日代状等は余の文意なり(第17世日精上人著『家中抄上』/『富士宗学要集』第5巻166頁)
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―「草案並びに日尊実録本門心底抄日代状等は余の文意なり」―
例せば興師の御草案(五人所破抄)に、但四悉の廃立、二門の取捨宜しく時機を守り、敢えて偏執すること勿れと云うが如し(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻)
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『五人所破抄』では、強執の機に対する方便として四菩薩添加の造仏を容認されていた。また、「日尊実録本門心底抄日代状等」は三大秘法の1つである「本門の本尊」を仏像とし、広布達成後の本門寺に仏像が安置されるとしている。その意味で造仏を絶対認めない3●に対すれば「余の文意」ということである。ここだけ読めば強執の機に対しては本尊としての造仏も許されるという意味にもとれるが、そうではない。実際に行われた造仏は曼荼羅本尊の脇士に過ぎなかったのである。<法詔寺の仏像>参照)<『随宜論』の目的と曼荼羅正意>参照)。

●又五人所破抄に云く「諸仏の荘厳同じと雖も印契(いんけい)に依つて異を弁(べん)ず如来の本迹は測り難し眷属を以て之を知る、所以に小乗ノ三蔵の教主は迦葉・阿難を脇士と為し伽耶(がや)始成の迹仏は普賢文殊左右に在り、此の外の一躰の形像豈(あに)頭陀(ずだ)の応身に非ずや、凡(およ)そ円頓の学者は広く大綱(たいこう)を存して綱目を事とせず倩々(つらつら)聖人出世の本懐を尋ぬれば源と権実已過の化導を改め上行所伝の乗戒を弘めんが為なり、図する所の本尊は亦正像二千の間・一閻浮提の内未曾有の大曼荼羅なり、今に当つては迹化の教主・既に益無し況んや哆哆婆和(たたばわ)の拙仏をや。
 次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、執する者尚(なお)強いて帰依を致さんと欲せば須(すべか)らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿(なか)れ」文。(『随宜論』)
●本門心底抄の云く、本門の戒壇其れ豈(あ)に立たざらんや、仏像を安置すること本尊の図の如し文。(『随宜論』)
●日尊実録(日大記之)に云く、第三に云く、一、久成の釈迦造立有無の事、日興上人仰に云く、末法は濁乱なり、三類の強敵之れ有り、尓らば木像等の色相荘厳の仏は崇敬するに憚(はばか)り有り。香花燈明の供養も叶ふべからず。広宣流布の時分まで大曼荼羅を安置し奉る可し云云。
 尊の仰に云く、大聖人御代二ケ所之を造立し給へり。一ケ処は下総国市河真間富木ノ五郎入道常忍、三ソ木を以て造立す。一ケ所は越後ノ国内善浄妙比丘尼造立して之れ有り云云。御在世に二ケ処なり。
 身延の沢の仏像等聖人没後に様々の異議之れ有り、記文は別紙に之れ有り云云。総じて三ケ処之れ有り、此等は略本尊なり、但し本門寺の本尊造立の記文相伝別に之れ有り云云。
 予が門弟相構へて上行等の四菩薩を相副(そ)へ給へる久成の釈迦略本尊資縁の出来檀越の助否に随つて之を造立し奉り広宣流布の裁断を相待ち奉る可きなり文。(『随宜論』)
●日代上人の御書に云く、仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケの大事一度に成就せしめ給ふ可きの由御本意なり。御本尊の圖は其の為なり文。(『随宜論』)



【日亨上人の頭注】
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●師存生の間常に兜率(とそつ)の生を願ひ給へり、之に依て御自筆の法華経の巻毎に其の趣を書き給ふ(第17世日精上人著『家中抄上』/『富士宗学要集』第5巻176頁)
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◆蓋経の末巻に此意なきにあらず。蓋(けだ)し本師造読家の故に誇大せるが如し。惑ふなかれ(頭注)
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日亨上人御自身が「此意なきにあらず」と仰せのように、「兜率(とそつ)の生を願ひ」に相当する意味の記述が史料として存在したのであろう。『家中抄』全体の編集姿勢からすれば、掲載しても不思議ではない。また、「御自筆の法華経」が存在しても不思議ではないし問題はない。むしろ日亨上人に「本師造読家」という先入観があったから、このような頭注を加えられたものと思われる。

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●当宗嫡々法門相承どもを日道に付嘱す、其の外高開両師よりの相伝の切紙等目録を以て日道に示す、其の目録に云く。
日興御さくの釈迦一そん一ふく(第17世日精上人著『家中抄中』/『富士宗学要集』第5巻213頁)
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◆本師造像家なる故に此の疑文を依拠とするか(頭注)
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大聖人も日興上人も、強執の徒に対する方便として、釈尊(釈迦)像の造立を認められていた。「日興御さく」とは信じ難いが、信徒の要望に応えて日興上人が造像の援助をし、開眼されたのかも知れない。いずれにせよ、このような史料が現に存在したから『家中抄』に掲載されたまでであり、日精上人は否定も肯定もされていない。『家中抄』の編集姿勢を知り、尚且つ「本師造像家」という先入観を取り除けば、当該記述のような頭注はなかったものと思われる。

釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、はせまいりてをがみまいらせ候わばや、「欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来」は是なり、但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ(『真間釈迦仏御供養逐状』全集950頁)

●随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ云云。(『五人所破抄』全集1614頁)

●五人一同に云く本尊に於ては釈迦如来を崇(あが)め奉る可し既に立て随て弟子檀那等の中にも造立供養する御書之れ有り云云(中略)日興云く聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊とせず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可し即自筆の本尊是なり(第17世日精上人著『家中抄上』/『富士宗学要集』第5巻166頁)
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日精上人は、日興上人の本意が曼荼羅正意であることを御存知だった。

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●日興上人の御自筆御経ありと云ふ事以後の証文になるべし。(第17世日精上人著『家中抄中』/『富士宗学要集』第5巻214頁)
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◆本師読誦の例として故に之を引くか(頭注)
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「御自筆御経」自体は何ら問題ではない。問題は「以後の証文」であるが、これだけでは何の証明をしようとしたか不明である。日精上人が毎日の基本の修行として方便品・寿量品を読誦されていたことは明らかである(<御行法之事(正行・助行)>参照)。この事実を日亨上人が御存知であったならば「読誦の例として」という注釈はなかったであろう。

●信仰的儀表にあらざる読誦解説書写は・直に正行の助行となるにあらずして・第二第三位に下りて助行の助行と意得うべき事なり。(第59世日亨上人『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻182頁)
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日精上人の言われる「助行」とは、「正行の助行」に限らず「助行の助行」をも含めたものであった。ただし、「正行の助行」としては二品読誦であった。「以後の証文」とは、「正行の助行」ではなく「助行の助行」としての証拠ということであろう。

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●謹で日代返牒を案じて云はく大聖法立の次第故上人御直筆等棄て置かる事、無念の事なりとは、代公御遷化記録を指すか。彼の記録は故上人(日興)御真筆なればなり。日尊立像等を除き久成釈尊を立つる故記録に背かざるなり。又云はく仏像造立の事本門寺建立の時なりと。然るに日尊本門寺建立の時に先たち造立仏像は是れ一ヶ条の相違なり。罪過に属すべきや否やの論は観心本尊抄、四条金吾釈迦仏供養抄、日眼女釈迦仏供養抄、骨目抄、唱法華題目抄等を以て之を決すべきか。若し、日尊実録(日大筆)無くんば自門他門皆日尊已に立像釈迦并びに十大弟子を造立すと謂つべし。故に日尊の末弟等深心に当に実録を信ずべきものなり。(第17世日精上人著『家中抄下』/『富士宗学要集』第5巻238頁~)
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◆本師造仏の底意を顕す(頭注)
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当該部分は「日印伝」であるが、日精上人は「全く日辰上人の祖師伝を書写」と断わられている。すなわち、日精上人の主観は一切交えず機械的に日辰の『祖師伝』を書き写したに過ぎないのである。当然、「謹で日代返牒を案じて云はく」の主語は日辰であって日精上人ではない(日辰著『祖師伝』/『富士宗学要集』第5巻51頁参照)。

●日尊日印日大の三師の伝は全く日辰上人の祖師伝を書写する者なり(第17世日精上人著『家中抄上』/『富士宗学要集』第5巻180頁)



【全体の構成】
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 『家中抄』は、日興上人をはじめとする富士門家の祖師の伝記を収集・編纂した書であることは貴殿もよく知っていよう。その上・中・下3巻のうち上巻は日興上人伝を納め、中巻は日興上人選定の本六・新六の諸師の伝を納める。問題は下巻である。下巻には、巻頭に要法寺の基礎を作った日尊の伝を掲げ、続いてその流れを汲む日印、日大の伝を続けている。巻末にやっと大石寺の歴代が続くのである。要法寺系の三師の伝記は分量も多い
 『家中抄』は、富士門家の伝記といいながら、要法寺祖師らを重んじ、大石寺歴代を軽く扱っている。あたかも日精が要法寺出身の自己を正当化するがごときの感が否めない。(斉藤克司・創価学会教学部長)
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 貴殿は〝『家中抄』は、富士門家の伝記といいながら、要法寺祖師らを重んじ、大石寺歴代を軽く扱っている〟などと述べるが、世迷い言を言うものではない。要法寺では、日目上人より日尊への血脈を立てるのである。しかるに、『家中抄』日道伝では、
当家大事の法門既に日道に付属す、爰に知りぬ大石寺を日道に付属することを、後来の衆徒疑滞を残す莫れ(第17世日精上人『富士宗学要集』第5巻216頁)
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と、日目上人よりの金口嫡々の血脈は、最後の天奏の以前に、日尊でもない、日郷でもない、総本山第4世日道上人に付嘱されている旨を述べられ、「疑滞を残す莫れ」とまで仰せられていることを何と思うのか。(中略)
 日精上人は『家中抄』述作に当たり、可能な限りの史実と大聖人の正義を書き留められようとした。人物によって記述分量を差別されているわけでは断じてない。それを各師に対する記述分量の多寡(たか)などをもって、日精上人を邪難するとは見当違いのアラ探しであり、為にする誹謗である。
 記載の順番もしかり、貴殿は『家中抄』下巻の目次を見て、日精上人の意図されるところが分からないらしい。
 下巻の日行上人以下の御歴代上人にあっては、大石寺御歴代として連続していた方が分かりやすく、また都合が良いのである。さらに他山の日尊等が大石寺の御歴代より前に述べられているのは、日尊・日印・日大・日郷・日順・日法・日弁の各師は本六・新六に準ずる方や、大聖人御在世の弟子であり、年代的に日行上人以下の御歴代上人よりも上代に当たるのである。歴史書が歴史の順序に記載されることは当然であろう。(『大白法』H16.6.1)







『日蓮聖人年譜』



「或る抄」について

一佐渡国より弟子共に内々申す法門とは何等の法門ぞや。
 報恩抄に云く、問ふて云く天台伝教の弘通し給ざる正法ありや、答へて云くあり、求めて云く何物ぞや、答て云く三つあり末法のために仏留め置き給ふ、迦葉、阿難等、馬鳴竜樹等、天台伝教等、の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其ノ形貌如何、答へて云く一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の中の釈迦多宝外の諸仏并に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてゝ南無妙法蓮花経と唱ふべし、此の事いまだひろまらず閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間、一人も唱へず日蓮一人南無妙法蓮華経々々々々々々々等と声もをしまず唱ふるなり文、
 此の文に本門の教主釈尊を本尊とすべし等と云へり常途の本尊に違せり、其ノ上或抄に本尊問答抄を引き法華経を以て本尊と為す可しと此の相違はいかんが心得可きや、
 答へて云はく此の或る抄を見るに一偏にかける故に諸御書一貫せず、其の上三箇の秘法の時は唯二箇となるの失あり今便に因みて略して之を出さん、其ノ中に
<「或る抄」>
―本尊―
 初には本尊に二あり先づは惣躰の本尊、謂く一幅の大曼荼羅なり、次には別躰の本尊なり、(この上に、日亨上人の頭注あり※1
 別体に付いて又二つあり人の本尊法の本尊となり、初に人の本尊とは右の報恩抄の文是なり類文あり。
 観心本尊抄に云く、正像二千年の間小乗の釈尊迦葉阿難脇士と為り、権大乗并びに涅槃法華経迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す、此れ等の仏をば正像に造画すれども未だ寿量品の仏有まさず、末法の初に来入して此の仏像出現せしめたまふ可きか文。
 又云く、此の時地涌千界出現し本門の釈尊を脇士と為して一閻浮提第一の本尊を此の国に立つ可し文。
 宝軽法重抄に云く、日蓮が弟子と成らん人々は易く之を知る可し、一閻浮提の内に法花経の寿量品の釈迦仏の形を画き作れる堂未だ候はず争か顕れさせ給はざるべき文、
 此れ等は人の本尊の証なりさて法の本尊は。
 本尊問答抄に云く問ふ末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定む可きや、答へて云く法華経の題目を以て本尊とすべき也文。
 但し三大秘法の時は久成釈尊を以つて本尊とするなり法の本尊を以て事行の南無妙法蓮花経と名くるが故なり。(この上に、日亨上人の頭注あり※2
 妙法曼荼羅供養抄に云く、妙法蓮花経の御本尊供養候、此妙法の曼荼羅は文字は五字七字にて候といへども三世の諸仏の御師、一切の女人成仏の印文なり。
 是等ば皆法の本尊なり自余之れを略す。

―戒壇―
 次に戒壇とは御自筆二箇処にあり。
 佐渡御国抄に云く、本門の本尊と四菩薩の戒壇と南無妙法蓮花経の五字之れを残す文。
 文の如んば釈尊の脇士たる四菩薩造立書写する是戒壇の義なり、此れ人に約する戒壇なり又日興給はる所の遺状に云く。
 国主此法を立てらるれば冨士山に本門寺の戒壇建立せらる可きなり、時を待つ可きのみ事の戒法と謂ふは是なり文。
 此文を以て佐渡抄を見れば四菩薩の戒壇は理の戒壇に当るなり、其の故は人々己々に亘るが故に理と云ふなり、さて冨士の戒壇は一所に限るが故に事と云ふなり又は足を以つて之を踏む故に事と云ふなり。

―題目―
 三に蓮祖所弘の妙法蓮花経は偏に本門の妙法是れ正意なり、之に就いて附文元意の二あり、附文とは神力品に於いて寿量の妙法を以て上行等に附属したまふ其の証文は。
 観心本尊抄に云はく地涌千界の大菩薩を召し寿量品の肝心妙法蓮花経の五字を以つて閻浮の衆生に授与せしめたまふ、乃至是好良薬は寿量品の肝要名躰宗用教の南無妙法蓮花経是なり、此ノ良薬をば仏猶迹化に授与せず何況他方をや文。
 太田抄に云く、爾時に大覚世尊寿量品を演説し然して後に十神力を示現して四大菩薩に付属したまふ、其の所属の法とは○所謂妙法蓮花経の五字文。
 復至他国遣使還告とは医父と釈迦なり、使は四依と云へる故に上行等なり、良薬は妙法なり、病者は末法今の衆生なり、具に観心本尊抄の如きなり皆是附文なり。次に元意を云はゞ釈尊理即名字の時、妙法蓮花経を修行したまふ其の時弟子あり上行等是なり同く修行したまふ、是より後常に師弟の相を現したまふ故に師弟不二、師弟宛然なり、之に依て四菩薩本果の釈迦の付属を承けたまへり是最初付属なり、されば血脈抄に云く元初の付属と云へるは是なり、又住本顕本の義あり此ノ故に第二番已下の付属は但是化儀の一筋のみ、此ノ義を以ての故に蓮祖所弘の妙法華経は偏に本門の妙法是れ正意と云ふなり、


 然るに三大秘法の義を取ること偏に取るが故に相違甚多なり此ノ故に今之れを挙げて以て支証とするなり。

―法体の所在―
 或抄に云く、御書の中の本門の題目と云ふに付て三義を成せり、一には妙法の五字は一部の通号なれば広く該摂せり、しかるに本門の題目と云ふことは久成の釈尊所証の法躰、本地難思の境智たる故なり、玄一に云く此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり文、此ノ義に約するが故に本門の題目といへり、二には神力品の時塔中にて一部の肝心五重玄の妙法を本化の上首に付属したまへり、神力品、結要付属の義による是の故に本門の題目といへり、三には上行等塔中に於て妙法の付属を受けたまへり、されば当今末法に妙法修行せる衆生は師資の次第を追ひて本化上首の付属を血脈とすべし是故に本門の題目といへり。此の三義を心得て異念を生することなかれ。
 本門題目とあるを見て寿量品に限ると思はゞ誤の甚しきなるべし文、


 此の文を見るに当家に於て本門寿量品の南無妙法蓮花経と勧進するは誤なるべきかいかん、
 答へて云く此の三義を出せるは祖師日蓮大聖人を破り奉らんところの謗法の書なり、全く之を信ず可からず、其ノ故は下山抄(十八紙)云く又地涌の大菩薩末法の初に出現せさせ給ふて本門寿量の肝心たる南無妙法蓮花経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱へさせ給ふベき先序の為なり文。又(四十四)云く実には釈迦多宝十方の諸仏寿量品の肝要たる南無妙蓮花経の五字を信ぜしめんが為に出し給ふ広長舌なり文。
 観心本尊抄(二十一)云く、所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与す可からず、末法の初め謗法の国、悪機なるが故に之を止め地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心妙法蓮花経の五字を以て閻浮提の衆生に授与せしむるなり文。
 撰時下(二十三)に云く、上行菩薩の大地より出現し給ひたりしをば弥勒菩薩、文殊師利菩薩、観世音菩薩、薬王菩薩等の四十一品の無明を断ぜし人々も、元品の無明を断ぜざれば愚人といはれて寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、此の菩薩を召し出されたりとはしらざりしといふ事なり文。
 四文を引く繋きが故に自余之れを略す、此の三義を作ること皆一経三段を正と為る故か、日昭、日朗、日向、日頂、日持此五人鎌倉殿へ上げ奉つる奏状に天台沙門と書ける誤りをたすげん為に種々の義を成す、唯日興一人本化上行菩薩再誕日蓮聖人弟子日興謹んて言上云云、此の中上行菩薩再誕日蓮等の八字は天下通同して之を用ゆ、其ノ余は天台再興と得心して祖師の御義を破する師敵対の人々なり、されば治病抄に云く、法花経に又二経有り所謂迹門と本門となり本迹の相違は水火天地の違目なり文、既に相違と云ふ何の処にか同致を述せるや、又一々文々皆金色の仏の文によりて一致を説く者あり、此れは是れ一経三段門にして権実相対なり混乱す可からず、当家は久遠の師弟本因妙を修行して咸(み)な真極に至りたまふ、是の故に我が流は本化の門人と為て本門の本尊を拝し本国土を期し本門立行を企つ豈(あ)に元祖の本意に違せんや、蓮祖付処の弟子として身延山七年居住したまふ証文、波木井法寂房日円の自筆八通まで之れ有り、往見す可きなり、然るを蓮祖遺言に乖き各自為実の思をなすは豈に正道ならんや。

※段落、改行、網掛け、タイトルは、法蔵が編集。

(第17世日精上人『富士宗学要集』第5巻117頁~121頁)

・『日蓮聖人年譜』における日亨上人の批判の中心は、「或る抄」の引用部分である。
・日亨上人が厳しく破折された「或る抄」については、日精上人も「謗法の書」と断言されている。
・「或る抄」の内容について日亨上人は「日辰の造釈迦仏の悪義」と仰せである。すなわち、「或る抄」は日辰の書である。


<日亨上人の批判>
※1◆総別は法の本尊の立て方に付て本師未だ富士の正義に達せざるなり本師の所論間々此底の故山の習情隠顕す注意すべし(第59世日亨上人『富士宗学要集』第5巻118頁)
※2◆此下辰師の造釈迦仏の悪義露見せり(同上)
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「本師ノ所論」「此下」これらはすべて、「或る抄」の引用であり、日精上人の見解ではない

★冒頭の『日蓮聖人年譜』は段落、改行、網掛け、タイトルを施し、意味を分かり易くしている。文中網掛け部分が「或る抄」の引用である。実際の文章は、意味の区切りに合わせて改行、段落が施されていないために、どこからどこまでが「或る抄」の引用なのか大変分かりにくい。そのために、日亨上人は引用部分が日精上人の見解であると誤解されたのである。



【三大秘法義】

<「或る抄」の三大秘法義>
1.本尊
 a.総体の本尊→曼荼羅(1●)
 b.別体の本尊(2●)
  b1.人本尊(文証:『報恩抄』『観心本尊抄』『宝軽法重抄』)→久成釈尊(3●)
  b2.法本尊(文証:『本尊問答抄』『妙法曼荼羅供養抄』)→事行の南無妙法蓮花経(3●)

2.戒壇(4●)
 a.理の戒壇→四菩薩造立
 b.事の戒壇→富士の戒壇

3.題目→事行の南無妙法蓮花経(3●)

1●本尊に二あり先づは惣躰の本尊、謂く一幅の大曼荼羅なり、次には別躰の本尊なり(「或る抄」『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻118頁)

2●別体に付いて又二つあり人の本尊法の本尊となり、初に人の本尊とは右の報恩抄の文是なり類文あり。(「或る抄」『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻118頁)
3●但し三大秘法の時は久成釈尊を以つて本尊とするなり法の本尊を以て事行の南無妙法蓮花経と名くるが故なり。(「或る抄」『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻118頁)

4●四菩薩の戒壇は理の戒壇に当るなり、其の故は人々己々に亘るが故に理と云ふなり、さて冨士の戒壇は一所に限るが故に事と云ふなり又は足を以つて之を踏む故に事と云ふなり。(「或る抄」『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻119頁)


<日辰の三大秘法義>
1.本尊
 a.総体の本尊→曼荼羅(5●『観心本尊抄見聞』)
 b.別体の本尊
  b1. 人本尊(文証:『報恩抄』『三大秘法抄』『佐渡抄』『観心本尊抄』)→久成の釈尊(6●『開迹顕本法華二論義得意抄』)
  b2. 法本尊(文証: 『本尊問答抄』)→事行の南無妙法蓮華経=曼陀羅の中央の七字(6●『開迹顕本法華二論義得意抄』)

2.戒壇
 a.理の戒壇→四菩薩造立(7●『法華取要抄見聞』)
 b.事の戒壇→富士の戒壇(7●『法華取要抄見聞』)

3.題目→事行の南無妙法蓮華経=曼陀羅の中央の七字(6●『開迹顕本法華二論義得意抄』)

5●辰抄に云く「本尊に総体・別体あり。総体の本尊とは一幅の大曼荼羅なり。即ち当文是れなり。別体の本尊に亦二義あり。一には人本尊。謂く、報恩抄、三大秘法抄、佐渡抄、当抄の下の文の『事行の南無妙法蓮華経の五字七字並びに本門の本尊』等の文是なり。二には法の本尊。即ち本尊問答抄の『末代悪世の凡夫は法華経の題目を本尊とすべし』等の文是なり」と云云。(第26世日寛上人『文段集』501頁)
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日辰の『観心本尊抄見聞』を破折されておられるが、ここに取り上げる日辰の『観心本尊抄見聞』の義は、この「或抄」の抜粋部分の冒頭と同じである

6●第一に本尊とは久成の釈尊也。第二に戒壇とは、佐渡の国より人々の中に給える一書の中に「天台伝教はこれを宣べて本門の本尊と四菩薩の戒壇と南無妙法蓮華経の五字これを残し給う。一には仏授与せざるゆえに、二には時機未熟の故なり。文」若しこの文に拠る時は四菩薩造立をもって戒壇と名づくか、此の外に事の戒壇これ有り。第三に本門事行の南無妙法蓮華経なり、是は曼陀羅の中央の七字なり」(日辰『開迹顕本法華二論義得意抄』/日蓮宗宗学全書3-294頁)

7●次に佐渡書の四菩薩の戒壇は理の戒壇に当たるなり。問う、若し然らば理の戒壇とは天台の戒壇に属するか。答う、然らず。富士の戒壇に足を以て踏むべきの故に事の戒壇と云うなり。又は、富士一処に限る故に事の戒壇と云うなり、四菩薩の戒壇とは人々己々に亘る故に理と云うなり(日辰『法華取要抄見聞』写本・大石寺蔵)


『開迹顕本法華二論義得意抄』と『法華取要抄見聞』との記述と、「或抄」の抜粋部分の三大秘法義は全く同じであり、すべて日辰の教義であることが判る。
 要するに、日辰の教学における三大秘法義は、1に本尊とは人本尊である久成の釈尊。2に戒壇には事理が有り、理は四菩薩の造立、事は富士の戒壇。3に、題目・南無妙法蓮華経とは法本尊である曼荼羅の中央の七字である、というものである。


<日精上人、日辰の「或る抄」を破折>
8●或る抄を見るに一偏にかける故に諸御書一貫せず、其の上三箇の秘法の時は唯二箇となるの失あり(第17世日精上人著『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻118頁)
●然るに三大秘法の義を取ること偏に取るが故に相違甚多なり此ノ故に今之れを挙げて以て支証とするなり。(第17世日精上人著『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻120頁)
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「或る抄」の義は、諸御書と一貫性を欠く偏義であり、そのために三大秘法が2箇になってしまう失がある。
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 三大秘法とは「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」の3つである。「或る抄」にも名目こそ、この3つが揃っている。しかし、その内容をよく見れば、唯2つしかないのである。
 初めに本尊は、人本尊と法本尊とは体一であり1箇であるから、日辰のいう本尊と題目とは別々ではなく1箇であって、ただ本尊である。次に事理の戒壇義は似て非なるものではあるが、富士を事(じ)とするために、一往与えて1箇とする。しかし、それでも本尊と戒壇の2箇でしかない。信行の題目義はどこにもないのである。

●一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし(※本門の本尊)、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし(※本門の題目)(『報恩抄』全集328頁)
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「本門の題目」とは「一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱う」こと、即ち信行義なのである。

本門の題目と云ふことは久成の釈尊所証の法躰(「或る抄」『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻120頁)
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「或る抄」では「本門の題目」を信行義ではなく「法体」だとしている。本来、法体とは釈尊(大聖人)の当体たる本尊のことである。だから、「或る抄」でいう「本門の題目」とは名前は題目でも実質は本尊義なのである。とすれば、「或る抄」には「本門の本尊」と「本門の戒壇」の2つしかない。そのことを日精上人は「三箇の秘法の時は唯二箇となるの失あり」(8●)と破折されたのである。

―三大秘法―
三大秘法とは「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」の3つをいう。つまり、「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」から1つずつしか選べないのである。これには「或る抄」の著者も異存はないはずである。つまり、「或る抄」の場合「人の本尊」(広布達成時)で1つなのである。人法体一であろうとなかろうと、本尊からは1つしか取れないのである。そうすると、名前だけからいえば、本尊、戒壇、題目で3箇となるはずである。それでも日精上人が「唯二箇となるの失あり」と仰せになったのは「或る抄」の題目義が本来の題目義ではないからである。
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「三箇の秘法の時は唯二箇となるの失あり」も、君たちのでっち上げの言葉ではなく、その当時の文献から引用して説明できるか?出来っこ無いだろう?はい、おしまい!(爆笑)(旧sf)
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少なくともここは六大秘法ではなく三大秘法についての説明であるから、本尊の人法体一を問題とされていないことは確かである。文証を敢えていえば、日精上人が「或る抄」引用前に示された『報恩抄』である。

●一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、(第17世日精上人著『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻117頁~)
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文中「本門の教主釈尊を本尊」「本門の戒壇」「南無妙法蓮華経と唱うべし」が、三大秘法の「正解」なのである。だからこそ日精上人は、この御文を冒頭に掲載されたのである。そして「或る抄」には「南無妙法蓮華経と唱うべし」に対応する信行義すなわち「本門の題目」が存在しないのである。だからこそ「三箇の秘法の時は唯二箇となるの失あり」と破折されたのである。



【法体の所在】
「或る抄」の本門の題目義について「久成の釈尊所証の法体」「一部の肝心」「神力品の付嘱だから本門の題目」(趣意)「本門の題目は寿量品に限らない」(趣意)と紹介したあと、
●大聖人を破り奉らんところの謗法の書なり、全くこれを信ず可からず(第17世日精上人著『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻120頁)
と破折し、さらに
●「本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経」「内証の寿量品を以て授与」「久遠の師弟本因妙を修行」(第17世日精上人著『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻120頁~)
と、本門文上の本果の釈尊から一重立ち入った見解を示されている。

三五下種の功を奪ひ取って熟益と号し久遠下種の功と名くるは本門の法門なり(第17世日精上人著『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻129頁)
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或抄に云く、御書の中の本門の題目と云ふに付て三義を成せり、
 一には妙法の五字は一部の通号なれば広く該摂せり、しかるに本門の題目と云ふことは久成の釈尊所証の法躰、本地難思の境智たる故なり、玄一に云く此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり文、此ノ義に約するが故に本門の題目といへり、
 二には神力品の時塔中にて一部の肝心五重玄の妙法を本化の上首に付属したまへり、神力品、結要付属の義による是の故に本門の題目といへり、
 三には上行等塔中に於て妙法の付属を受けたまへり、されば当今末法に妙法修行せる衆生は師資の次第を追ひて本化上首の付属を血脈とすべし是故に本門の題目といへり。此の三義を心得て異念を生することなかれ。
 本門題目とあるを見て寿量品に限ると思はゞ誤の甚しきなるべし文、(「或る抄」『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻120頁)
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此の三義を出せるは祖師日蓮大聖人を破り奉らんところの謗法の書なり、全く之を信ず可からず(第17世日精上人著『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻120頁)
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本門の題目と云ふに付て三義を成せり
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「此の三義」とは「本門の題目」の名の由来について述べられたものである。「本門の題目と云ふことは久成の釈尊所証の法躰」とあるように、著者は「本門の題目」を法体の意味で用いている。即ち「此の三義」とは、末法に流布すべき法体の名の由来について述べられたものであるが、それは法体の所在と深く関わっている。

本門題目とあるを見て寿量品に限ると思はゞ誤の甚しきなるべし
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大聖人は、三大秘法の所在を寿量品の文底と明言されている。だから「寿量品に限ると思はゞ誤の甚しき」とは、大聖人の御指南に反するものである。↓

●一心法界の教・寿量品の文の底の法門・自受用報身如来の真実の本門・久遠一念の南無妙法蓮華経・雖脱在現具騰本種の勝劣是なり。(『本因妙抄』全集871頁)
●問うて云く寿量品・文底の大事と云う秘法如何、答えて云く唯密の正法なり秘す可し秘す可し(『本因妙抄』全集877頁)
●一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。(『開目抄』全集189頁)

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此の三義を作ること皆一経三段を正と為る故(第17世日精上人著『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻121頁)
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◆妙法の五字は一部の通号なれば広く該摂せり
◆久成の釈尊所証の法躰
一部の肝心五重玄の妙法を本化の上首に付属
◆神力品、結要付属の義による是の故に本門の題目
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「或る抄」では文上脱益の釈尊に執着し、その所持する法体が神力品で付嘱されたことを重視する。さらに法体の所在について寿量品に限定せずに、最も広くは法華経全体を当てている。

日精上人は、「或る抄」を「謗法の書」とまで言われて破折されている。



【「或る抄」について】
<第26世日寛上人>
●(『日蓮聖人年譜』の「或る抄」について)精師且(しばら)く他解を述ぶ。是れ即ち日辰の意なり。故に本意に非ざるなり。是れまた他解なり。正義に非ざるなり(第26世日寛上人『抜書雑雑集』)
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日寛上人は『日蓮聖人年譜』の「或る抄」が日辰の義であることを御存知だったのである。


<第31世日因上人>
●精師 御年譜中にも亦日辰所立の三大秘法を述ぶ 依用し難き也(第31世日因上人著『日因随宜論批判』)


<第59世日亨上人>
※2◆此下辰師の造釈迦仏の悪義露見せり(第59世日亨上人『富士宗学要集』第5巻118頁)
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「此下」とは、日精上人が引用された「或る抄」の部分である。「辰師の造釈迦仏の悪義」と仰せのように、大学者・日亨上人から見ても「或る抄」の内容は日辰の主張そのままなのである。

★日寛上人、日因上人、日亨上人は「或る抄」の引用部分を日辰の義であると思われていた。このことからも、「或る抄」が日辰の著書である可能性は高いといえる。


<『三大秘法ノ記』>(法義研鑚委員会『大日蓮』H10)
この「或抄」とは、おそらく日辰の著『三大秘法ノ記』であろうと思われる。この書は刊行されておらず、古写本も見つからないが、日寛上人の『法華取要抄文段』のなかに含まれる『三大秘法の下』などのように、日辰の著作のなかの部分なのかも知れない。なにぶん日辰の文書は「等身の著述」とも言われるほど大量であるため、完全な調査のできていない現段階では、この「或抄」が『三大秘法ノ記』であると断定できないことは残念である。しかし、幸いなことに、日応上人が『弁惑観心抄』のなかに『三大秘法ノ記』を引用しておられるから、その文章を次に挙げておく。

●本門の本尊に両義あり一には人の本尊二には法の本尊なり人の本尊者報恩抄取要抄三大秘法抄等に評する所三大秘法の中の本尊とは久遠実成の釈尊なり(日辰『三大秘法ノ記』/『弁惑観心抄』74頁)

●本正の修行に付種々ありと雖も且く蓮祖出世の本意に約するときは三大秘法なり、報恩抄に云く本門の教主を本尊とすへしと本尊問答抄に云く法華経の題目を以て本尊と為す可し矣、是則寿量所顕の意地乃至法本尊とは本尊問答抄の意は妙法の五字を以て本尊と為す可き也是は法本尊なり(同78頁)

これらは『日蓮聖人年譜』の118頁から121頁にかけての「或抄」の引用と内容が同じであり、「或抄」とは『三大秘法ノ記』であることはほぼ間違いないことを、創価学会の教学陣以外の方には、御理解いただけるであろう。



【問答編】
<三大秘法義>
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さらに、年譜をよく読めば、「或る抄に本尊問答抄を引き法華経を以て本尊とす可し」とあるように、「或る抄」は曼荼羅正意の文のはずなのに、これを日辰の説だと決め付けている。(是二)(旧sf)
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「或る抄」は「曼荼羅正意」ではない。↓

●但し三大秘法の時は久成釈尊を以つて本尊とするなり法の本尊を以て事行の南無妙法蓮花経と名くるが故なり。(「或る抄」『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻118頁)

また、日辰も『本尊問答抄』を文証として「法の本尊」を立てている。↓

●辰抄に云く「本尊に総体・別体あり。総体の本尊とは一幅の大曼荼羅なり。即ち当文是れなり。別体の本尊に亦二義あり。一には人本尊。謂く、報恩抄、三大秘法抄、佐渡抄、当抄の下の文の『事行の南無妙法蓮華経の五字七字並びに本門の本尊』等の文是なり。二には法の本尊。即ち本尊問答抄の『末代悪世の凡夫は法華経の題目を本尊とすべし』等の文是なり」と云云。(第26世日寛上人『文段集』501頁)

●第一に本尊とは久成の釈尊也。第二に戒壇とは、佐渡の国より人々の中に給える一書の中に「天台伝教はこれを宣べて本門の本尊と四菩薩の戒壇と南無妙法蓮華経の五字これを残し給う。一には仏授与せざるゆえに、二には時機未熟の故なり。文」若しこの文に拠る時は四菩薩造立をもって戒壇と名づくか、此の外に事の戒壇これ有り。第三に本門事行の南無妙法蓮華経なり、是は曼陀羅の中央の七字なり」(日辰『開迹顕本法華二論義得意抄』/日蓮宗宗学全書3-294頁)


<本迹一致>
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この「或る抄」について日精(上人)は、「此文を見るに当家に於て本門寿量品の南無妙法蓮華経と勧進するは誤なるべきか」「此の三義を作ること皆一経三段を正と為る故か」「既に相違と云ふ何の処にか同致を述せるや」との批判を加えており、これによれば、この「或る抄」は本迹一致の論であることが分かる。いったい日辰は本迹一致論者であったのだろうか?否である。「二論義」や「観心本尊抄見聞」を一度でも目を通したことのある者であれば異論の無いことであるが、宗門教学部諸氏はそれも知らずにこんな珍説を恥ずかしげも無く並べ立てているのだ。これでは無知な法華講員を騙すことは出来ても、学会員を欺くことは到底出来ない。(旧sf:1678)
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 「これによれば、この『或る抄』は本迹一致の論であることが分かる。」いつもそうだが、あなたは都合のよい文証しか見ない。日精上人の批判をもとに本迹一致と決め付けるのではなく、あなた自身が「或る抄」の内容を見て御覧なさい。此の書のどこが本迹一致なのでしょうか?「蓮祖所弘の妙法蓮華経は偏に本門の妙法是れ正意と云ふなり」(「或る抄」)とあるではないか。また、一口に勝劣派といっても、その内容は区々なのだ。
 「神力品、結要付属の義による是の故に本門の題目といへり」(「或る抄」)とあるように、「或る抄」では本門の題目(実際は信行義ではなく法体)の由来を神力品に(も)求めていることを批判されたのである。「此の三義を作ること皆一経三段を正と為る故か」(日精上人)これは「妙法の五字は一部の通号なれば広く該摂せり」(「或る抄」)「一部の肝心」(同)と、法華経一部全体に法体があるとすることへの批判である。

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>いったい「或る抄」の言う「本門題目とあるを見て寿量品に限ると思はば誤の甚しきなるべし」との説が日辰にあったかどうか、一度要法寺へでも行って教えを請うて来るがいい。(旧sf:1678)
>日辰は終生、勝劣論者であって、しかも寿量一品正意を以て八品派等を攻めたことは周知の事実である。故にどう間違っても、この「或る抄」が日辰の論である筈が無い。それを「時局文書」は、「此の三義を出せるは祖師大聖人を破り奉らんところの謗法の書なり」という「或る抄」への日精の批判を、日辰に対する批判であると力説して、鬼の首でも取ったかのようであるが、全くのお笑い種である。それどころか、この「或る抄」に対する日精の批判もまた、日辰の意である一品勝劣論の踏襲なのである。(旧sf:1678)
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一口に勝劣派といっても、その内容は区々なのだ。日辰の場合「一往は八品所顕の三大秘法であるが、再往は寿量所顕の法体である」(『新版仏教哲学大辞典』初版第2刷1364頁)としていたのである。つまり一往、再往の立て分けをして、三大秘法の所在を広くとっていたのである。その意味からすれば「或る抄」の内容と同轍だといえよう。

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「年譜」では下山抄、観心本尊抄、撰時抄から四つの文証を引いて「或る抄」に反駁を加え、「四文を引く繁きが故に自余之を略す」と述べているが、これと全く同じように「四文」を引いて、八品要付の説を破し、寿量品正意を述べた論が日辰の「本尊抄見聞」にあるから、宗門教学部諸氏は目を皿にして読んでみることだ。いくら血の巡りが悪くても、「或る抄」が日辰の論で無いことぐらいは理解出来るであろう。(旧sf:1678)
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日辰は再往の義においては「寿量所顕の法体」であるとするが、一往の義においては「八品所顕の三大秘法」(10●)を容認していた。日精上人は、一往、再往と立てて、三大秘法の所在を広くとろうとしたところを批判されたのだ。「或る抄」には「八品」の語こそ出てこないが、神力品の結要付属に執着しているところが、まさに「一往、八品所顕」の広義の説だといえよう。

10●[日辰]=一往は八品所顕の三大秘法であるが、再往は寿量所顕の法体である(『新版仏教哲学大辞典』初版第2刷1364頁)

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そもそも「時局文書」が日辰の論だと決め付けた前段の文には、「蓮祖所具の妙法蓮華経は偏に本門の妙法是れ正意なり」と、明らかに勝劣論を立て、「神力品に於て寿量の妙法を以て上行等に附属したまふ其の証文は観心本尊抄に云く」として「寿量品の肝心妙法蓮華経の五字を閻浮の衆生に授与せしめたまふ」を引いているのだから、後段の「或る抄」と明らかに矛盾していることに気づかぬのがおかしいのである。又、ここに引かれた本尊抄の文がそのまま「或る抄」への反論に引かれているのはどうした訳か。前段の文は「或る抄」の引用などではないということだ。(旧sf:1678)
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三に蓮祖所弘の妙法蓮花経は偏に本門の妙法是れ正意なり、之に就いて附文元意の二あり、附文とは神力品に於いて寿量の妙法を以て上行等に附属したまふ其の証文は。観心本尊抄に云はく・・・(「或る抄」『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻119頁)
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 「前段」において引用した『観心本尊抄』の文は「附文元意の二」ある中の「附文」である。そして「神力品に於いて寿量の妙法を以て上行等に附属したまふ其の証文」として『観心本尊抄』を出したのである。「寿量の妙法」と言いながら付嘱が『神力品』においてなされていることから、そこに執着し"寿量品に限る"と言えなかったのであろう(10●)。その証拠に「或る抄」では『太田抄』も引用しているが、そこでは「寿量」の文字はなく四大菩薩への付嘱の事実しか述べられていない。
 一方、日精上人が『観心本尊抄』を引かれた意図は、法体の所在が"寿量品に限る"ことを証明することにあった。だからこそ文証として挙げた『下山抄』『観心本尊抄』『撰時抄』のそれぞれに「寿量」の文字がある。すなわち「本門寿量の肝心たる南無妙法蓮花経」(『下山抄』)、「寿量品の肝要たる南無妙蓮花経」(同)、「内証の寿量品を以て授与」(『観心本尊抄』)、「寿量品の肝心妙法蓮花経」(同)、「寿量品の南無妙法蓮華経」(『撰時抄』)、という具合である。
 以上のことから明らかなように、挙げた文証は同じでも、その意図がまったく異なるのである。「或る抄」が「前段」において『観心本尊抄』を引用した目的は"本門の妙法"を示すことにあった。だからこそ『神力品』での付嘱しか述べられていない『太田抄』も合わせて引用したのである。これに対して日精上人が『観心本尊抄』を引用した目的は"法体は寿量品に限る"ことを示すことにあったのである。

前段の文には、「蓮祖所具の妙法蓮華経は偏に本門の妙法是れ正意なり」と、明らかに勝劣論を立て、(中略)後段の「或る抄」と明らかに矛盾
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「偏に本門の妙法」といって"偏に寿量品の妙法"といわないところが、まさに「後段」の「寿量品に限ると思はゞ誤の甚しきなるべし」(「或る抄」)と同轍ではないか。

いずれにせよ、『日蓮聖人年譜』に述べられた謗法義はすべて他人の書物の紹介であり、日精上人はその邪義を破折されているのである。



【創価学会ついに誤り認める】
―斉藤教学部長公式発表―
 これまで創価学会は、日精上人には御登座後も要法寺の広蔵日辰流の造読思想があったとして、誹謗の限りを尽くしてきた。ところが今回の文書(※学会が日顕上人に送付した文書)で創価学会は、斉藤教学部長の名をもって正式に、
◆確かに日精は、この書(※『日蓮聖人年譜』)では一応、「或ル抄」(※要法寺日辰の邪抄)の立義の誤まりを指摘しており、要法寺流の邪義にべったりというわけではない。(創価学会教学部長・斉藤克司)
と述べて、従来の見解を訂正したのである。
 この〝「或ル抄」の立義の誤まりを指摘しており、要法寺流の邪義にべったりというわけではない〟とは、日精上人が要法寺流の立義、つまり造仏読誦の誤りを指摘されているから要法寺流ではない、ということであり、とりもなおさずそれは、貴殿らが日精上人が造読家ではないことを認めたということである。それは、これまでの貴殿らの説が邪義であったことを意味する。(日蓮正宗青年僧侶邪義破折班『創価学会教学部長 斉藤克司の邪問を破す』H16.3.3)





御行法之事(正行・助行)

一御行法之事。
 化導記に云く、毎日早旦に一巻経の読誦之れ有り、次に日天に方便、寿量、宝塔品、勧持品、涌出、神力品等要品誦したまふ、日中談義日夕方便寿量云云。
 今謂く冨士に蓮祖御在世の時の日記之れ有り略要の行法なり、是れ末代門弟子行法軌則なり尤易行なるべし、既に法然の易行を破して当家の易行を立てたまふ、若し爾らずと云はゞ難行道に落ちて法然の所破とならん、いかでか其の義あらんや、凡そ当家の意は要行を以て正行とすることは末代凡夫の機を勘へて行し易き故、然りと雖も読誦の助行を修することを妨く可からず高開両師此の意なり、
<正行>
 先づ正行をいはば本迹両門の不同有りと雖も倶に滅後利物を以て正意と為すなり、故に迹門正宗八品并に涌出寿量の意皆南無妙法蓮花経五字七字を以て五種に行ぜしむ是を正業正行と為すなり、一部受持読誦解説書写等を以て助業助行と為すなり、所詮七字口唱を以て正行と為し自余は皆助行なり(この上、日亨上人の頭注あり※1)、
 故に四信五品抄に云く檀戒等の五度を制止し一向南無妙法蓮花経と称ぜしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり、是れ則此の経の本意なり、一向の言の顕す所、七字口唱等を以って正行と為すなり、名字即の凡夫の正行は余行に亘らざる故なり、是れ則此の経の本意なりとは寿量品の意なり此れを以って法華本意随自意と為ることなり、本門寿量の妙法経力の爾前迹門の経力に勝れたることを顕さんがためなり、前四味の中に於て蔵通別の経力弱くして悪人を助けざる故に師弟共に高位なり是れを弘の六に云く教弥権なれば位弥高しと、前四味の中の円教の経力強盛にして而も能く下機を摂する故に、
 観経に云く五逆十悪諸不善を具す乃至即極楽世界に往生することを得(文)、是れ則前四味の中の三円相待一往の意なり、再往三五下種に約すれば前四味の熟益の功を奪ひ取って三五下種の功と為す是れ権実相待の意なり、三五下種の功を奪ひ取って熟益と号し久遠下種の功と名くるは本門の法門なり、然るに玄義の六に三の下種退転の位を釈して云く名字観行の益は生を隔れば即忘す(文)、
 信解品の記に之を釈して云はく退者多く五品の位の前に在り、不退に対する為に且らく五品を以て退位と為すのみ、此の釈名字即を以て退位と為し観行即を以て不退と為す是れ則迹門の意なり、分別品の本末の釈の意名字即を以て不退と為すなり、況や観行即をや、
 四信五品抄に此の義を釈して云く四味三教より円教は下機を摂し、爾前の円教より法華経は下機を摂す、迹門より本門は下機を摂するなり教弥実なれば位弥下の六宇に意を留て之れを案す可し、又云く直専持此経とは一経を指すに非す専ら題目を持って余文を雑へずと云ふ文なり、尚一経の読誦を許さず何況や五度をや、此の文の意唯妙経五字七字の題目を持って方便寿量の余文を雑へず、なほ方便寿量を雑へず況や一部読誦をや況や五波羅蜜をや、此の義は名字即の正業正行を顕す釈なり、若し名字初心の凡夫方便寿量の読誦を以って正業正行と為し経力の勝用を顕すとは読誦に摂せざる人皆成仏す可からざるか、是れは本門寿量但怯弱とするなり、亦難行道となるなり、故に名字即の正業正行は唯題目の五字にして、方便寿量に非ず亦一部八巻に非るなり、必ず正業正行と名くる事、
 四信五品抄に云く、初心の者兼ねて五度を行すれば正業の信心を妨ぐるなり、此の文的く正業と云ふ故なり、日興記に云く題目は正行なり二十八品は助行なり正行に助行を摂す可し。
 報恩抄下に云く、有智無智をきらはず一同に他事を捨てゝ南無妙法蓮花経と唱ふべし(文)。
 取要抄に云く、日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む所謂上行所伝の南無妙法蓮花経なり(文)。
 上野殿御返事に云く、今末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし但南無妙法蓮花経なるべし、高橋入道殿御返事に云く、法華経は文宇はあれども衆生の病の薬とは成る可からず(文)、此の如き等の要文録内に甚だ多し皆名字即の正業正行を判じたまふ文なり、
<助行>
 又取要抄に云く若し逆縁ならば但妙法蓮華経の五字に限るのみ(文)、是れ逆縁に約しての正行なり、助行にいたりては或は毎自作是念の文を唱へ或は自我偈或は寿量品或は略開三を誦し或は方便品の長行を誦し尚広して一部読誦をなす、七字口唱を以て正行と為す外は皆助行に属するなり(この上、日亨上人の頭注あり※2)、
 上に挙ぐる所の日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む或は是れ法華経の文字は有ども衆生の病の薬と成らず類の御書どもは或は正業正行に約し或は逆縁に約し或は過時の天台宗に約し或は習はざるの謂に約して判じたまへり、順縁の前に至っては然らざるなり。
 次に逆縁に約して判ずとは取要抄に云く、若し逆縁ならば但妙法蓮花経の五字に限るのみ、其の例不軽品の如し、我門弟は順縁なり日本国は逆縁なり、○広略を捨て肝要を取る云云、順縁の前に於ては経に云く、若しは自ら持ち、若は人を教て持たしめ、若は自ら書き若は人を教へて書かしむ(文)、此の経文羅什の存略にして最初最後を挙げたり故に中略の義知りぬ可し、天台は自行五法、化他五法云云、高祖自ら五種の妙行を修行し又他に教へて五種の妙行を修行せしめたまへり、されば蓮祖我読誦を挙げて云く今日蓮法華経一部読んて候、一句一偈尚受記を蒙れり何に況や一部をやと弥々たのもし(文)(この上、日亨上人の頭注あり※3)是れ若自読なり、
 真間供養抄に云く法華経一部を仏の御六根に読み入れ進らせて生身の教主釈尊に成し進らせ此れ伊予房をして一部読誦をなさしむ是若教人読なり、
 月水抄に女人の一部読誦を許諾して次下に判して云く二十八品の中に殊に勝れて目出度きは方便品と寿量品とに侍り等云云、是れ女人に教へて二品読誦の相なり、又云く余の品をば時々御いとまのひまにあそばすべく候と是れ女人に教へて一部読誦の姿なり、
 法蓮抄に云く、法華経読誦五部と蓮祖称歎の言を加へたまふ是れ又若教人読なり、若自読若教人読其ノ義此くの如し、
 亦高祖法華経一部書写の事多般たり、日興又法花経一部書写したまふ当寺霊宝随一なり、若自書若教人書其義斯くの如し。
<過時天台>
 次に過時天台宗に約することをいはゞ、観心本尊得意抄に云はく縦ひ天台仏教の如く法のまゝに弘通ありとも今末法に至っては去年の暦の如し、文、此の文意末法に至っては天台の如く法華三昧に入り一念三千の観念を作すと云ふとも去年の暦の如くなる故に、天台宗の意を以て読誦書写を作すも是れ仏因とは成らざるなり、是れは文字はありて薬と成らざるの義たり、次に不習(知)謂とは一代大意抄に云はく此の法華経を謂れを知らずして習ひ読むと雖も、但爾前経の利益たり是れ亦法花経は文字はあれども衆生の病の薬とは成らざる義なり、高祖并に弟子檀那一部読誦の相斯の如し、
<当家行学の相>
 然りと雖も、毎日一巻経の証文を見ず日中等には其ノ行相称記し難し、
 されば忘持経抄に云く然る後深洞に尋ね入って一の菴室を見るに法花読誦の音青天に響き一乗談義の言山中に聞こゆ(文)、
 曽谷抄に云はく、抑も貴辺の去る三月の御仏事に鵝目其の数有しかば今年一百余人の人を山中に養ひて十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ(文)、文の如くんば読誦三時にかぎるにはあらず下山抄の如し、談義は檀那の参詣次第亦門弟子の不審次第に談義あり、
 亦強仁状御返事には昼は国主に奏し夜は弟子に語る等云云、
 又要品勘文を誦したまふ事、祈祷経送状に云く別紙に一巻註して進らせ候、毎日一返闕如無く読誦せらる可く候、日蓮も信し始め候し日より毎日に此等の勘文を誦し候て仏天に祈誓し候によりて種々の大難に遇ふと雖も法花の功力に釈尊の金言深重なる故に今まで相違無く候なり(文)、
 此れ等の諸御書を以て当家行学の相を分別したまふべし、

※文意を分かり易くするために、段落、改行、タイトルを施した。(法蔵)

(『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻128頁~132頁)

<御書に説く「助行」とは>
●所詮末法に入つて天真独朗の法門無益なり助行には用ゆべきなり(『十八円満抄』全集1367頁)

●今日蓮等の弘通の南無妙法蓮華経は体なり心なり廿八品は用なり廿八品は助行なり(『御義口伝』全集794頁)

●当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。(『日興遺誡置文』全集1618頁)

逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る、例せば不軽品の如し我が門弟は順縁なり日本国は逆縁なり(『法華取要抄』全集336頁)
◆順縁の前に於ては経に云く、若しは自ら持ち、若は人を教て持たしめ、若は自ら書き若は人を教へて書かしむ(文)(『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻130頁下3行)
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本尊受持「自ら持ち」、折伏「人を教て持たしめ」、書写「自ら書き」なども正行に対するときは助行となる。現代において、書写自体を修行として行うことは稀であるが、教学書の執筆編纂などは「書写」に当たるといえよう。

●常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ、又別に書き出しても・あそばし候べく候(『月水御書』全集1201頁)

1◆助行にいたりては或は毎自作是念の文を唱へ或は自我偈或は寿量品或は略開三を誦し或は方便品の長行を誦し尚広して一部読誦をなす(日精上人『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻130頁9行)
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「広して一部読誦」とあるように法華経一部読誦は広の修行。「毎自作是念の文」「自我偈或は寿量品或は略開三」「方便品の長行」は略の修行。

信仰的儀表にあらざる読誦解説書写は・直に正行の助行となるにあらずして・第二第三位に下りて助行の助行と意得うべき事なり。(第59世日亨上人著『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻182頁)
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日精上人の言われる「助行」とは、「正行の助行」に限らず「助行の助行」をも含めたものであった。ただし、「正行の助行」としては二品読誦であった。つまり「助行」=毎日の修行=勤行での読経、という意味ではなかった


<毎日の助行>
◆又要品勘文を誦したまふ事、祈祷経送状に云く別紙に一巻註して進らせ候、毎日一返闕如無く読誦せらる可く候、日蓮も信し始め候し日より毎日に此等の勘文を誦し候て仏天に祈誓し候によりて種々の大難に遇ふと雖も法花の功力に釈尊の金言深重なる故に今まで相違無く候なり(文)(日精上人『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻131頁下1行~)
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「要品勘文を誦したまふ事」とあるように大聖人が「毎日」「誦」された内容は一部読誦ではなかった、というのが日精上人の認識であられた。これは、広略要の中の「略」の修行に当たる(上記1◆参照)。

★日精上人は、毎日行うべき助行は方便品寿量品の読誦、と考えられていた。

一部修行の人は難行道に落ち正行を遊ばさるゝ御書に背く、八品の衆は観心下山等の御書に違する故に慎みあるべし(第17世日精上人著『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻103頁)


<日亨上人の批判>
※1◆本師の正助の対判稍濫るが如し注意すべし
※2◆此下助行又大に濫る用ゆべからず
※3◆助行を広くして遂に一部読誦に及ぶ正く開山上人の特戒に背く用ふべからず
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信仰的儀表にあらざる読誦解説書写は・直に正行の助行となるにあらずして・第二第三位に下りて助行の助行と意得うべき事なり。(第59世日亨上人著『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻182頁)
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日精上人の言われる「助行」とは、「正行の助行」に限らず「助行の助行」をも含めたものであった。ただし、「正行の助行」としては二品読誦であった。

助行の混乱が一部読誦に及ぶ(※3◆)とされているが、日精上人の論旨は、正行は南無妙法蓮華経の五字七字に限り、方便・寿量も正行ではない、いわんや一部をや、というものであって、題目以外は皆助行であることを明らかにするところに主眼が存するのである。(中略)資料から受ける「造読家ではないか」との客観的印象は非常に強く、やむをえず、後学のために注意の批判をされたのであろう。(『大日蓮』9711・49頁)



【修行】
<六波羅蜜>
[六波羅蜜(ろくはらみつ)]=①檀那波羅蜜→布施の意。布施に財施と法施の2つがある。財施とは自己の一切の財を他に施すこと。法施とは仏の善法を演説し説法教化すること。
②尸羅(しら)波羅蜜→戒
③忍辱波羅蜜→耐え忍ぶこと。
④精進波羅蜜→布施、戒、忍辱などに精進すること。
⑤禅那波羅蜜→心を一処に定めて心を乱さずに真理を思惟することを、質直清浄な心をもって修すること。
⑥般若波羅蜜→智慧。


<五種の妙行>
●若し復人有って、妙法華経の、乃至一偈を受持、読誦し、解説、書写し、此の経巻に於いて、敬い視ること仏の如くにして(法華経『法師品第10』/開結384頁)
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五種の妙行とは受持・読・誦・解説・書写の5つの修行をいい、五種法師ともいわれる。受持とは、教法・経文を受け持つこと。読とは、経文を見て読み上げること。誦とは、経文を見ずに暗じること。解説とは、教義を分明に解釈して説くこと。書写とは、経文を書写し広く伝えることをいう。法師とは、五種の行を自行化他に亘って修する人をいう。

●五種法師の中には書写は最下の功徳なり、何に況や読誦なんど申すは無量無辺の功徳なり(『法蓮抄』全集1049頁)

●法華経は何れの品も先に申しつる様に愚かならねども殊に二十八品の中に勝れて・めでたきは方便品と寿量品にて侍り、余品は皆枝葉にて候なり、されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ、又別に書き出しても・あそばし候べく候(『月水御書』全集1201頁)


<広略要>
◆助行にいたりては或は毎自作是念の文を唱へ或は自我偈或は寿量品或は略開三を誦し或は方便品の長行を誦し尚広して一部読誦をなす、七字口唱を以て正行と為す外は皆助行に属するなり(日精上人『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻130頁9行)
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「広して一部読誦」とあるように法華経一部読誦は広の修行。「毎自作是念の文」「自我偈或は寿量品或は略開三」「方便品の長行」は略の修行。

●日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり(『法華取要抄』全集336頁)
◆取要抄に云く、日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む所謂上行所伝の南無妙法蓮花経なり(文)(『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻130頁6行)

◆当家の意は要行を以て正行とする(日精上人『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻128頁下3行)

●爾の時に大覚世尊寿量品を演説し然して後に十神力を示現して四大菩薩に付属したもう、其の所属の法は何物ぞや、法華経の中にも広を捨て略を取り略を捨てて要を取る所謂妙法蓮華経の五字・名・体・宗・用・教の五重玄なり(『曾谷入道殿許御書』全集1032頁)
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正行については「要」に限る。

一部・八巻・二十八品を受持読誦し随喜護持等するは広なり、方便品寿量品等を受持し乃至護持するは略なり、但一四句偈乃至題目計りを唱えとなうる者を護持するは要なり、広略要の中には題目は要の内なり(『法華経題目抄』全集942頁)



【正行】
―正行は題目―
◆当家の意は要行を以て正行とする(日精上人『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻128頁下3行)

◆南無妙法蓮花経五字七字を以て五種に行ぜしむ是を正業正行と為すなり(日精上人『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻128頁下1行)

●直専持此経と云うは一経に亘るに非ず専ら題目を持つて余文を雑えず尚一経の読誦だも許さず何に況や五度をや(『四信五品抄』全集341頁)
◆四信五品抄に云く檀戒等の五度を制止し一向南無妙法蓮花経と称ぜしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり、是れ則此の経の本意なり、一向の言の顕す所、七字口唱等を以って正行と為すなり、名字即の凡夫の正行は余行に亘らざる故なり(『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻129頁2行)

◆唯妙経五字七字の題目を持って方便寿量の余文を雑へず、なほ方便寿量を雑へず況や一部読誦をや況や五波羅蜜をや、此の義は名字即の正業正行を顕す釈なり(日精上人『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻129頁下3行)

◆名字即の正業正行は唯題目の五字にして、方便寿量に非ず亦一部八巻に非るなり(日精上人『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻130頁1行)



【御書にみる助行】
―助行とは正行以外の一切の仏道修行―
<法華経一部など>
●所詮末法に入つて天真独朗の法門無益なり助行には用ゆべきなり(『十八円満抄』全集1367頁)

●今日蓮等の弘通の南無妙法蓮華経は体なり心なり廿八品は用なり廿八品は助行なり(『御義口伝』全集794頁)
◆日興記に云く題目は正行なり二十八品は助行なり(『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻130頁3行)

2●当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。(『日興遺誡置文』全集1618頁)

◆一部受持読誦解説書写等を以て助業助行と為すなり、所詮七字口唱を以て正行と為し自余は皆助行なり(日精上人『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻128頁下1行~)

●仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ(『真間釈迦仏御供養逐状』全集950頁)
◆真間供養抄に云く法華経一部を仏の御六根に読み入れ進らせて生身の教主釈尊に成し進らせ此れ伊予房をして一部読誦をなさしむ是若教人読なり(『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻131頁2行)
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「仏の御六根に読み入れ進らせて」とは開眼のことである。だから「一部読誦」とは開眼のためであって毎日の修行ではない。

●今法蓮上人の送り給える諷誦の状に云く「慈父幽霊第十三年の忌辰に相当り一乗妙法蓮華経五部を転読し奉る」等云云(『法蓮抄』全集1046頁)
◆法蓮抄に云く、法華経読誦五部と蓮祖称歎の言を加へたまふ(『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻131頁5行)
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「第十三年の忌辰に相当り」とあるから「妙法蓮華経五部を転読」は常の所作ではない。

●抑貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目其の数有りしかば今年一百よ人の人を山中にやしなひて十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ、此れらは末代悪世には一えんぶだい第一の仏事にてこそ候へ(『曾谷殿御返事』全集1065頁)
◆曽谷抄に云はく、抑も貴辺の去る三月の御仏事に鵝目其の数有しかば今年一百余人の人を山中に養ひて十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ(文)、文の如くんば読誦三時にかぎるにはあらず下山抄の如し、談義は檀那の参詣次第亦門弟子の不審次第に談義あり(『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻131頁下4行)
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「御仏事に鵞目其の数有りしかば今年」とあるから、「十二時の法華経」は常の所作ではなく、たまたま曽谷殿の仏事と供養があったから行われたものである。また、「よましめ談義」とあるから、単なる読誦ではなく、教学的意味もあったことが伺われる。

常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし候て余の品をば時時・御いとまの・ひまに・あそばすべく候(『月水御書』全集1202頁)
◆月水抄に女人の一部読誦を許諾して次下に判して云く二十八品の中に殊に勝れて目出度きは方便品と寿量品とに侍り等云云、是れ女人に教へて二品読誦の相なり、又云く余の品をば時々御いとまのひまにあそばすべく候と是れ女人に教へて一部読誦の姿なり(『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻130頁3行)
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「一部読誦の姿」は「時々御いとまのひまにあそばす」というのが大聖人の御指南であり、日精上人も御存知であった。

1◆助行にいたりては或は毎自作是念の文を唱へ或は自我偈或は寿量品或は略開三を誦し或は方便品の長行を誦し尚広して一部読誦をなす、七字口唱を以て正行と為す外は皆助行に属するなり(日精上人『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻130頁9行)
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「広して一部読誦」とあるように法華経一部読誦は広の修行。「毎自作是念の文」「自我偈或は寿量品或は略開三」「方便品の長行」は略の修行。

◆蓮祖我読誦を挙げて云く今日蓮法華経一部読んて候、一句一偈尚受記を蒙れり何に況や一部をやと弥々たのもし(文)(『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻131頁1行)

●化他の正意は但題目に在り、若し助証を論ずれば尚お一代に通ず、何に況んや一部をや。太田抄に云わく、此の大法を弘通せしむるの法は、必ず一代聖教を安置し八宗の章疏を習学すべし等云云。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻154頁)

化他・教学のための法華経読誦、天台教学の学習などは、末法においても広義の助行として許される。


<書写>
逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る、例せば不軽品の如し我が門弟は順縁なり日本国は逆縁なり(『法華取要抄』全集336頁)
◆順縁の前に於ては経に云く、若しは自ら持ち、若は人を教て持たしめ、若は自ら書き若は人を教へて書かしむ(文)(『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻130頁下3行)
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本尊受持「自ら持ち」、折伏「人を教て持たしめ」、書写「自ら書き」なども正行に対するときは助行となる。現代において、書写自体を修行として行うことは稀であるが、教学書の執筆編纂などは「書写」に当たるといえよう。

●常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ、又別に書き出しても・あそばし候べく候(『月水御書』全集1201頁)

◆亦高祖法華経一部書写の事多般たり、日興又法花経一部書写したまふ当寺霊宝随一なり(『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻131頁6行)

●所謂宗祖自筆の一寸八分細字の御経一部一巻、又開山上人自筆の大字、細字の両部是れなり。此れ亦前の如く自他行業の御暇の時々或は二行三行五行七行之れを書写し、遂に以って巻軸を成ず。是れ滅後に留めんが為めなり。故に義化他に当たれり。曷んぞ必ずしも書写即読誦と云わんや。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻141頁)
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経典を「滅後に留めんが為め」の書写は「義化他」に当たる。だから正行としての書写には当たらない。

★既に、天台教学を学ぶことを許されている(2●)。であれば法華経一部の学習も許されるはずである。法華経の書写は教学的側面があったのであろう。また、印刷技術の発達していない時代における法華経の書写は、現在の教学書の出版にも相当するのではないか。


<方便品寿量品>
●法華経は何れの品も先に申しつる様に愚かならねども殊に二十八品の中に勝れて・めでたきは方便品と寿量品にて侍り、余品は皆枝葉にて候なり、されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ(『月水御書』全集1201頁)
◆月水抄に女人の一部読誦を許諾して次下に判して云く二十八品の中に殊に勝れて目出度きは方便品と寿量品とに侍り等云云、是れ女人に教へて二品読誦の相なり、又云く余の品をば時々御いとまのひまにあそばすべく候と是れ女人に教へて一部読誦の姿なり(『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻130頁3行)
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「一部読誦の姿」は「時々御いとまのひまにあそばす」というのが大聖人の御指南であり、日精上人も同様に御認識されていた。



【正行と助行の関係】
<一切の修行は正行に納まる>
●法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる即五種の修行を具足するなり(『日女御前御返事』全集1245頁)

●仏の滅後に五種に妙法蓮華経を修行すべしと見えたり、正しく是故より下廿五字は末法日蓮等の類いの事なるべし、既に是の故にとおさえて於如来滅後と説かれたり流通の品なる故なり、惣じては流通とは未来当今の為なり、法華経一部は一往は在世の為なり再往は末法当今の為なり(『御義口伝』全集766頁)
南無妙法蓮花経五字七字を以て五種に行ぜしむ是を正業正行と為すなり(日精上人『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻128頁下1行)

●宝聚とは三世の諸仏の万行万善の諸波羅蜜の宝を聚めたる南無妙法蓮華経なり(『御義口伝』全集727頁)
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「万行万善」の中には方便品寿量品読誦や折伏など一切の仏道修行が含まれるはずである。これらも当然南無妙法蓮華経に具足される。だからといって、題目だけをあげておればよい、ということではない。

●所詮末法に入つて天真独朗の法門無益なり助行には用ゆべきなり正行には唯南無妙法蓮華経なり(『十八円満抄』全集1367頁)

★正行としての一部読誦等は、題目に納まる。しかし、正行を妨げない助行、とくに化他・教学のためには否定すべきではない。但し、毎日の基本の修行として行う場合の助行は方便品寿量品に限る。


<毎日の助行は方便品・寿量品>
◆然りと雖も、毎日一巻経の証文を見ず日中等には其ノ行相称記し難し(日精上人『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻131頁下6行)

3◆又要品勘文を誦したまふ事、祈祷経送状に云く別紙に一巻註して進らせ候、毎日一返闕如無く読誦せらる可く候、日蓮も信し始め候し日より毎日に此等の勘文を誦し候て仏天に祈誓し候によりて種々の大難に遇ふと雖も法花の功力に釈尊の金言深重なる故に今まで相違無く候なり(文)(日精上人『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻131頁下1行~)
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「要品勘文を誦したまふ事」とあるように大聖人が「毎日」「誦」された内容は一部読誦ではなかった、というのが日精上人の認識であられた。

◆冨士に蓮祖御在世の時の日記之れ有り略要の行法なり、是れ末代門弟子行法軌則なり尤易行なるべし、(中略)凡そ当家の意は要行を以て正行とすることは末代凡夫の機を勘へて行し易き故、然りと雖も読誦の助行を修することを妨く可からず高開両師此の意なり(第17世日精上人著『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻128頁下5行)
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大聖人の「日記」に記載されていたのは「略要の行法」であり、これこそ毎日行うべき基本の修行である。だから当然、「読誦の助行を修することを妨く可からず」という「助行」とは毎日行う修行であり「略」の「行法」である。「略」とは「或は毎自作是念の文を唱へ或は自我偈或は寿量品或は略開三を誦し或は方便品の長行を誦し」(1◆)、「要品勘文」(3◆)すなわち方便・寿量品読誦にほかならない。

◆月水抄に女人の一部読誦を許諾して次下に判して云く二十八品の中に殊に勝れて目出度きは方便品と寿量品とに侍り等云云、是れ女人に教へて二品読誦の相なり、又云く余の品をば時々御いとまのひまにあそばすべく候と是れ女人に教へて一部読誦の姿なり、(『日蓮聖人年譜』/『富士宗学要集』第5巻131頁3行)
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毎日の助行は「二品読誦」であり、「余の品をば時々御いとまのひまにあそばすべく候」と仰せである。

●今の施主・十三年の間・毎朝読誦せらるる自我偈の功徳は唯仏与仏・乃能究尽なるべし(『法蓮抄』全集1049頁)



【信徒への御指南】
 「延宝九年(1681)五月日」の日精上人の御本尊には、
●授与之 浜田五郎左衛門法号立行院日進 以自我偈首題法華経一千部成就之故為褒美也
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と、浜田五郎左衛門が唱題を1千万遍成就した褒賞として授与する旨の脇書がある。このような脇書があることからも判るように、日精上人が信徒達に実際に指導しておられた行法は、法華経一部読誦ではなく、自我偈つまり要品読誦と唱題行であったことが明らかなのである。(『大白法』H16.4.16)

 妙喜寺蔵の「天和二年二月廿三日 高橋九左衛門道号隆玄院日意」授与の日精上人の御本尊に、
●以首題自我偈法華経一千部都合成就故可稱
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とある。これは自我偈と唱題をもって法華経1千部を成就した褒賞の御本尊である。ふつう一部と言えば、法華経二十八品を指す。しかし、日精上人の一部は、法華経二十八品を一部とするものではない。日寛上人は、
●法華経一部八巻廿八品ノ文字ハ六万九千三百八十四字ナリ。題目一万遍亦七万字ナリ。大旨文字数同ナリ。故一万遍ヲ以テ一部ト定レバ、二千万遍ハ即二千部也。是ハ常ノ義也。(父母報恩談義 正本・大石寺蔵)
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と仰せになり、唱題1万遍を法華経一部とされた。これは七字の題目を1万遍唱えればその文字数は合計7万字となり、この数と法華経二十八品の6万9千384字の字数は、おおむね同じであることから、唱題1万遍を一部とされたのである。そしてこの考え方は「常ノ義」とあるように、当時、通常の義として富士門下では一般化していた。
 このように、この千部とは一部が唱題行1万遍のことであるから1千万遍のことであり、高橋九左衛門が日精上人の御指南により、唱題行を都合1千万遍達成した褒賞に、道号を隆玄院日意と称することを許されるとともに御本尊を頂戴したものである。後述するが、このような唱題行1千万遍成就褒賞の御本尊は埼玉妙本寺信徒授与のものもあり、金沢の強靱かつ爆発的な信徒拡大は日精上人の御化導によって、信徒が陸続と唱題行第一の大精進を成就した結果であることがわかる。
 江戸時代の金沢の布教の凄さは、これまで金沢法難という受難忍難の面が注目されていたが、この日精上人の折伏推進と共に、1千万遍等のひたむきな唱題行という、自行化他にわたる強盛な信行が隠れていたのである。(『大白法』H16.3.16編集)



【問答編】
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日精は二品読誦を臨時の簡便なものとしてとらえ、一部読誦を正式なものとして大聖人が示されたように記している。(斉藤克司・創価学会教学部長)
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貴殿の悪辣さにはほとほとあきれる。『日蓮聖人年譜』の中のどこをどう読めば方便品・寿量品読誦が〝臨時の簡便〟であり、一部読誦が〝正式〟だなどと書いてあるのだ。腐りきった眼にウロコがこびり付いて、1度や2度では蒙が開けないらしい。(『大白法』H16.6.16)







『法主詐称』破折(仮題)

―日精上人への不知恩な誹謗―
(『大白法』H16.2.1抜粋)

司会 次に『法主詐称』ては、宗門の宗史書である『家中抄』や『続家中抄』を取り上げて、種々誹謗していますが。
八木 その第一が、総本山17世日精上人に対する誹謗だね。たしか、日精上人が敬台院との確執により、大石寺から江戸へ移り、下谷に常在寺を再建して住んだため、大石寺が無住になったとの批判だったかな。
早瀬 しかし、この『法主詐称』の批判には確実な根拠があるわけではないね。おそらく根拠は『続家中抄』の「日舜上人伝」あたりだと思われるが、『家中抄』や『続家中抄』は、当時の記録がたとえ不完全不正確であったとしても、それらを参考史料として用いざるを得ない状況の中で著されたと思われるからね。
阿部 『法主詐称』における創価学会側の批判は、その辺をよく調べないで、両伝記を受け売りしたに過ぎないわけですね。
藤本 そうだね、『法主詐称』では、日精上人が寛永14年の御登座後、遠からずして敬台院との間に確執を生み、大石寺を逃れて江戸に移り、常在寺を再建したと書いているが、精師の常在寺再建はそんな理由ではないと思うね。
菅野 そうですね。精師が常在寺を再建されたのは御登座翌年の寛永15年だが、この寛永15年には、大石寺は敬台院から七百数十両という多額の金子の御供養を受けており、またこの年の精師の江戸城への年賀には、敬台院の推挙で、輿(こし)による登城も許されている。常在寺は両者のそういう良好な関係の年に再建されたわけだから、敬台院と仲違(たが)いして、大石寺を逃げ出して建てたなどということは有り得ないね。
八木 日精上人は常在寺の建立により江戸の弘教を志されたものと思う。常在寺を拠点とする折伏弘教により、この頃、常泉寺本末を改宗せしめられたこともあるし、そういう点から考えれば、関東方面の弘教のために総本山をある程度留守にされたことはあったかもしれないが、少なくとも敬台院との不仲による大石寺退出が常在寺建立の動機だというのはたしかに違うと思うね。
阿部 また後年の常在寺での日精上人の御説法を聴聞して26世日寛上人も、出家得度をされました。その点を考えれば、日精上人の常在寺再建と江戸弘教がなければ、伊藤市之進であられた日寛上人に、自らの菩提寺である常在寺を紹介したある旗本の門番佐兵衛の日蓮正宗入信もなく、また伊藤市之進自身の得度もなかったことになります。ですから、日寛上人にとって日精上人は仏法上の師であり、かつ恩人なわけです。後代の私たちも、寛尊の恩を報ずべきことは当然ですが、同時に、日精上人の恩も当然報ずべきではないでしょうか。日精上人おられてこその日寛上人なのですから。それを日寛上人だけを讃えて、日精上人を徹底して誹謗する創価学会の考えは、かえって日寛上人のお心を無視し愚弄するものであり、また仏法の因縁も無視した恩知らずの外道の考えと言うべきですね。
早瀬 それはたしかにそうだね。日寛上人は『三宝抄』で、日興上人を下種の僧宝と仰せられた後に、爾来日目日道代々咸(ことごと)く是れ僧宝なり」と仰せだ。「代々咸く」の中には当然、17世の日精上人や、要法寺から登られた御法主上人も含まれている。創価学会のように日精上人を歴代から除けなどとは、どこにも仰せではないからね。
菅野 堀上人にも精師の事跡について、批判的な記述はおありになるが、創価学会のように除歴しろなどという不知恩なことは一切仰せではない。それどころか当然日精上人を御歴代上人と拝しておられるからね。
藤本 要するに創価学会が日精上人を誹謗することは越権もいいところであり、一体、何様のつもりだということになるね。
一同 まったくですね。





創価学会による日精上人に対する再々度の疑難を破す

(法義研鑚委員会『大日蓮』H10)

<はじめに>
 創価学会の日精上人に対する疑難に対し、時局協議会では、平成3年と4年に2つの文書を草してこれを破折し、日精上人の正義を明らかにした。
 これにより反論不能に陥った創価学会は、ひたすら沈黙を守ってきたが、最近になって、北山文書に日精上人の造仏に関する記述があることを見つけて、またまた疑難を呈してきた。前回、日精上人の誹謗に失敗した学会狂学陣が、失地回復をねらって、最後のあがきを見せたのが今回の文書である。ところが、論難に失敗した場合のことを考えてであろうが、その方法は『聖教新聞』や『創価新報』に掲載するのではなく、新階央(しんがい ひさし)なる個人名によって、文書のコピーを郵送してくることから始まった。
 この人物は、「日顕宗の邪義を破す」などという怪文書の筆者でもあり、昨平成9年には、日顕上人猊下から完膚(かんぷ)なきまでにその邪義を破折されている。また新階は、以前、まだ創価学会が日蓮正宗の信徒団体であったころ、顕正会を破折する文書を書いた人物でもある。その時には、日蓮正宗宗務院に、自身の名刺添付の上で、件(くだん)の文書を提出していたのである。その名刺によれば、彼は通産省に勤務しているそうである。普通の者なら、時節柄、公務多忙で寝る暇もないであろうに、不可解なことに彼には膨大な量の悪質な怪文書を書く時間があるという。このような狂信的な人物が、国家公務員として国民の血税を喰(は)んでいることは、憂慮に耐えないところである。
 さて、このたびの疑難の文書は「時局文書の虚偽を暴く」(新階央)と題されている(以下、新階文書と記述)のであるが、その内容のほとんどは、既に平成6年に静岡県三島市在住の学会男子部K某が、時局文書班の1人から情報を聞き出そうとして接触した際に持参した文書そのままであり、目新しいのは、北山文書に関することだけである。彼等としても北山文書以外の点については、反論になっていないことは承知しており、ついでに書き加えて体裁を整えたのである。その証拠に北山文書に関する以外の点については、文書が既に出来上がっていたにもかかわらず、4年間も発表できずにいたのである。
 その内容たるや、ただ日精上人が造読家であるとの妄念のみで書き上げたものに過ぎない。学会による宗門批判は、すべて十四誹謗の念慮から生じた虚偽、捏造、妄想であり、日精上人疑難の「新階文書」も同様である。俗に「浜の真砂(まさご)は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」とは、悪事の尽きない様を言うのであるが、彼等が謗法の念慮を絶しないかぎり、宗門誹謗も尽きることはないのである。「狂人走れば不狂人も走る」の愚を思えば、そんな連中のたわごとにいちいち付き合ってはいられないのであるが、看過できない点が1つだけある。
 つまり、今回の論難は「堀上人に対する疑難の真相」「家中抄の頭注について」「日精の造仏論」「日蓮聖人年譜の正しい読み方」「時局文書の稚拙な言い逃れを破す」「日精造仏の歴史的事実」との6項目に分けて論じられているのであるが、このうちの「日精造仏の歴史的事実」がそれである。そのなかで新階は、新資料と言うべき北山文書を挙げている。そして、
 「これまでは、日精の仏像造立を中心に検証してきたが、日精の謗法は、それのみに止まらず、色袈裟の着用、一部頓写千部読誦の執行等も行い日蓮大聖人日興上人の正義を破壊し続けたのである」(新階文書23頁)
と結論づけるのである。そこで今回は、この資料についての正しい取り扱い方を示して、その論難を破折するものである。なぜならば「新階文書」は、この資料を決め手として日精上人を難じているからであり、この文書に資料的価値のないことが判れば、おのずから「新階文書」の論拠は崩れ去るからである。
 ところで、新階は論難するに当たり、「時局協議会」に対して日限つきで反論を要求してきたが、彼等の希望を聞いてやる義務などは、もちろんないから返事をせず放置してきたのである。すると、何を勘違いしたのか、『創価新報』の平成10年3月4日付4面に「新階文書」と全く同じ内容の論が掲載されたのである。ところが同じ号の別の紙面では、
 「ある学会員が個人として作成した文書の試論的な内容を、あたかも創価学会の見解そのものであるかのように勝手にみなして…」(『創価新報』平成10年3月4日付8面)
と述べて、創価学会と新階の関係をなんとかうやむやにしようとしている。紙面によって足並みがそろわないのが、なんともほほえましいが、ともかくこれによって「新階文書」が創価学会の手になることが確定したのであるから慢心とは恐ろしいものである。


<北山文書>
 彼等が重視する「北山文書」は『本宗史綱』という、要法寺の富谷日震の著になる宗史書に資料として掲載されている。北山とは北山本門寺のことである。
 天和・貞享(1681~1684)のころ、北山本門寺の日要等が、造仏・読誦や色袈裟の着用等を始めたため、大石寺の22世日俊上人・23世日啓上人は、これを破折あそばされた。日俊・日啓両上人の正義に対して憎嫉のおさまらない日要等は、北山の僧俗のなかに動揺が広がるのを恐れることも相まって、元禄2年(1689)には、逆に寺社奉行所に訴訟を起こし、日俊上人等を陥れんとしたのである。しかし、結果は、幕府の基本方針が内済(和談)を奨励していることをおもんぱかられた日俊上人が、正義を堂々と述べられるとともに日要の疑難を巧みに退けられたため、和談で一件落着となり、日要の思惑は外れてしまった。
 この事件を、日亨上人は『富士宗学要集』9巻において「元禄の出入」として紹介しておられ、要法寺の富谷日震も『本宗史綱』のなかで取り上げているのである。
 本論に入る前に確認しておきたいことは、資料の取り扱いに当たっては、その資料をめぐる、執筆者・目的・背景等の種々の要素を考慮しておく必要があるということである。ちなみに「元禄の出入」とは、大石寺と北山との論争であるが、その実態は通常の論争ではなく、大石寺の破折を恐れた北山日要等が、寺杜奉行所に訴え出て、奉行所の力を借りて、大石寺をくじこうとしたものであった。すなわち、讒訴(ざんそ)である。現在の創価学会による種々の訴訟が、悪知恵を巧妙にめぐらした様々な策謀のもとに、司法権を私欲のために利用しようとしているのと同様である。
 北山の主張は、造仏・読誦を正当化するためのものであって、訴訟を有利に運ぼうというねらいがあったことは当然である。そこには、虚偽・捏造等が含まれている可能性を考慮すべきであり、これをすべてばか正直に信用することは、『創価新報』を信用するのと同じこと、とまではいかなくても、軽卒を通り越して、謗法与同と言わねばならない。
 さて、初めに気づくことは、日亨上人と富谷日震とでは、資料の扱い方が違っているということである。該当の文書を、次に列挙する。
 日亨上人は、『富士宗学要集』に、
資料①資料②資料③資料④資料⑤

①(『富士宗学要集』第9巻28~30頁)
 三月六目七日八日大石寺談義の次第。
一、六日には日俊談義仕り候、其披露には此の間どやくや御座候て日俊は面に泥を塗り候間、其泥濯ぎに今日の談義致し候、又今度出入の義に久遠寺四度迄参り様々訴訟仕り侯間、其分にて指置き申し侯。
一、日興門流にて法華経壱部を堅く読み申さず侯、壱部読誦仕り侯は謗法堕獄に相成り侯と申し、六人立義抄を証文に出し申し候。
一、鬼子母神は祖師日蓮の内証に自ら納まり候間、外に尊形を作顕し候はば謬りの至極に御座候、其上鬼子母神へは他門他宗も参詣いたし散銭供養御座候、其散銭を受け候儀謗法堕獄の根源に相成り候と申し候事。
一、袈裟衣は薄墨の素絹、袈裟は白色の五条是末法折伏の袈裟衣にして真の袈裟衣に御座候、其外紫衣香衣黒衣等、七条九条等の袈裟衣は愛着の袈裟衣と名けて真の袈裟にあらず、子供の風流をいたし候と同前に御座候、斯様の袈裟衣を着し申し候は謗法堕獄にて御座候と申す事。
一、漫荼羅書き様の儀は日蓮在判と書き申さず候へば閻魔大王より帰され中有の衆生に罷り成り浪々致し夫より地獄に堕ち申し候此儀を知らずして題目の下に自身の判を居へ日蓮聖人を天台伝教に座を並べて脇書に勧請いたし候は、世間の謀判と同じく其罪同前に御座候事。
一、大石寺は本堂にて戒壇建立の地に紛れ之無く候、則其申し弘めの談義にて御座候と申し候事。
一、日啓は七日八日に談義仕り候、七日は万塔開眼に寄せ四箇条を申し候、八日には庫裡客殿葺替の事に寄せ四箇条を申し候、其趣き日俊申し分と相替らず候。
上件の儀日興直筆の証文大石寺に御座候へども尤大切の書物にて諸人に拝ませ候は軽々しく御座候間共儀無く候、是非拝みたく存じ候はば内証へ壱両人宛参るばく候大勢は相成らず候由申し候事。
右三日の談義承り及び候所斯の如くに候、此度御威光を以って日興自筆の証文召し出し下され候はば有り難く存じ奉るべく候。
一、大石寺に金口の相承と申し候に唯授一人の秘法御座候と日俊申しふらし拙僧檀那に誓言いたさせ、右の金口を相伝いたし色々たぶらかし申し候、斯様成る勧めは吉利支丹伴天連は存ぜず仏者の作法には終に御座無く候、斯様成る奇怪の勧をも御威光を以つて申し静め候様に願ひ奉り候、以上。
元禄二年巳十一月十六日
御奉行所、御役所中。
北山本門寺

②(『富士宗学要集』第9巻30~32頁)
 恐れ乍ら書付を以つて御訴訟申し上げ候、駿州富士郡北山本門寺。
一、同国同郡上野村大石寺日俊累年の間御制法に背き自讃毀他の談義を致し奇怪の法を専ら申し弘め候、謂く法華経一部を読誦候は無間地獄の業と申し、素絹五条の外一切の袈裟衣は謗法売僧襁褓に候と申し、或は漫荼羅の書き様は題目の下に判を居へ日蓮と天台伝教と座を並べて書き候は師敵対と申し、或は鬼子母神造立等は謗法堕獄と申し候、此四箇条を以つて本門寺は無間山、檀那は無間の罪人と日俊並に衆檀共に悪口を致し候へども、種々遠慮御座候故六箇年の間堪忍罷り在り候処、去る二月三日の晩黙止し難き子細承り候に付き日俊に対談を遂げ僉議仕るべく存じ満山の衆徒を集め談合せしめ候処、大石寺年来の弘通にて此方の衆檀疑念仕り候間、先々談義を致し右の疑を晴らし其後対談仕り然るべきの旨衆義一統に申し候に付き、一七日談義を致し衆檀の疑念を晴らし申し候、之に依つて使僧を大石寺に遣はし対談仕るべしと存じ候所に、同郡久遠寺並に惣檀那達て抑へ候故暫く延引せしめ候、其内日俊邪謀を廻らし却つて彼方より使僧を遣はし右四箇条の儀曽て申さず存ぜずと陳報致し讒言の者之有るべきの由申し越し候故、此方より六人証人慥に申し遣はし候へども終に僉議仕り候事罷り成らず、其後久遠寺を頼み扱を以て落着仕り候、委細の儀は使僧往復の口上書に分明に御座候、右四箇条の儀日俊放言仕り候条紛れ無き事に御座候へども、種六陳報の上久遠寺扱にまかせ三月三日に相済み申し候処、日俊忽に相違せしめ同六日に返報致すの談義右四箇条の義一々妄説仕候、中んづく法華経壱部読誦仕り候儀、鬼子母神造立致し他門の散銭を受け候儀は無間堕獄の根源にて御座候段強盛にり申し候、斯様成る儀は経論釈書にも曽て依憑之無き天下の妖怪、仏法の穀賊にて御座候此等の趣は法華宗一同に言上仕り御下知蒙るべき事に御座候へども別して富士五箇寺一派の儀に候間、拙僧不肖に候へども仏恩国恩を存じ奉り彼の邪義邪法を静め正法正義の流布を願ひ奉り今度言上仕り候、且又散銭の儀は順縁の供養にて御座候間開山已来受け来り候処、無間堕獄の根源と悪口仕り候上は順縁にて御供養下し置かれ候御朱印等の儀も皆悉く無間堕獄に罷り成るべく候、然る上は御公儀へ対し咒咀逆心の道理に存じ奉り候事。
一、去る寛文八年申の三月十七日、御奉行所より仰せ出され候諸宗の寺法御尋ねの節、大石寺より壱部頓写千部読誦等執行仕り候儀、又僧階に依りて色々の袈裟衣を着用致し候儀又御免許に於ては色衣香衣を着用申し候儀証文指し上げ候処に、只今日俊等一部等読誦堕獄等の邪義を申し立て候は、御公儀を軽しめ申すのみにあらず仏法の大義を廃し先師代々をも忽諸せしむるの条、言語道断の至りに存じ奉り候事。
一、本門寺は御影堂、大石寺は本堂の由累年申し弘め愚人を惑はし候、此段は往昔永正十二年亥の六月廿六日今川修理太夫弐親公、両寺の証文を委細に御穿鑿成され理義分明の裁許の上に、御直筆の証文を本門寺に賜はり落着申し候処に、近来頻に開山の掟に国司の正判を破り申し候事。此の外造仏堕獄の儀、本門寺三宝の立て様並に日蓮大士と書き塔婆に釈迦多宝を書き候事は誤りの至極に候由、日俊並に衆檀共に専らに申し候、斯様の儀は此度の出入にては御座無く候へども、無実の説に御座候間当山の証文をも賢覧に備へ奉り大石寺の証文をも御尋ね下し置せらるべき為に加様に申し上げ候事。
右の条々大石寺隠居日俊当住日啓を召し出され対決仰せ付けられ候はば有り難く存じ奉るべく候、委細の儀は御尋ねの節口上に申し上ぐべく候、以上。
元禄二年巳七月五日駿州富土北山本門寺判、日要判。
寺杜御奉行所。
編者曰く七月五日は「六月」とも「十一月十六日」とも在る本あり、但し十一月なるべきか。

③(『富士宗学要集』第9巻32~34頁)
 恐れながら返答書差し上げ申し候、駿州富士上野、大石寺隠居、日俊。
一、駿州富士大石寺は開山日興上人已来四百年に及び当時まで法義少しも違乱仕らず候処に、此度北山本門寺日要より、御制法を背き自讃毀他の談義を致し奇怪の法を専ら弘め申し候条申し上げ候段、不審至極に存じ奉り候。
一、彼の条目に法華経一部読誦致し候者無間堕獄の業と申し候事、是日要が妄説にて御座候、既に法華経を以つて宗旨と仕り候上は一部読誦無間堕獄の業と申すべき筋目は御座無く候、但し富士五箇寺は開山已来法華一部の肝要方便品寿量品の二品を以つて三時の勤行仏事作善等に執行致し来り候、御当地杯に於いて大名高家の下に相住み候寺は、大檀那の望に任せ或は一部頓写千部等も読み申す事に御座候条、先年隠居日精下谷常在寺に在住持の節、江戸末寺代として御公儀へ大石寺の法式書き上げ申す中に其子細御座候事。
一、素絹五条の外一切の袈裟謗法売僧と申し候事、此段猶以つて誑惑の至りに御座候、袈裟衣の儀は宗々に依り其品を相分け申す処に一切の袈裟衣謗法売僧襁褓の義と申すべき道理御座無く候、但し富士五箇寺の日興門徒に於ては薄墨色の衣、同じ五条袈裟或は白き五条古来よりの格式に御座候、若し貴人へ出仕の節は色袈裟も懸け申す儀稀なる事に御座候事。
一、曼荼羅書き様の事、富士五箇寺代々の住持は従来題目の下に日蓮在判と書き申す事一同に候、若し本門寺に於いて相背き候はば師敵対にも成り申すべきか、然りと雖も此方より吟味仕らず候事。
一、鬼子母神造立は富士五箇寺に開山已来之無く、殊に諸堂数多造立仕らざる法義に候故当時まで大石寺は此式を相守り候間、余寺の造立は構ひ申さず候、然りと雖も富士五箇寺の法義一同の儀殊に大石寺本門寺の両寺は開山日興建立の故別して違乱致すまじき処に、本門寺近代日優日要二代法義相違の儀御座候に付き、檀方の不審晴れ難きまま日俊並に衆檀とも悪口致し候と申し懸け、一七日の談義に理不尽に大石寺無間山日俊堕獄と夥しく悪口致し、其上御法度の法論に不似合切賭の勝負を高座の上にて一つ鐘打たれ披露致し候由風聞仕り候に付き、使僧を遣はし様子承り候処に、大石寺無間山等の儀申し候へども大石寺よりの返報と偽り申さるる故、大石寺より本門寺無間山と申し候其三人の証人相尋ね候へども本門寺檀那の内を一両人名指し致され候、斯様の証拠之無き事に御座候故達て僉議仕るべき処に、久遠寺取扱ひ申すされ候に付き且は一派の儀と存じ去年二月廿八日に相済み申し候、同三月六日より八日までの談義は当寺代々の石塔造立去六年極月より去年正月に至り出来仕り候故、其開眼の談義を右本門寺騒動に付き相延ばし六日より開眼供養の談義執行仕り候、若し愚痴の族は返報の談義と聞き申すべきかと存じ必ず本門寺への返報には之無き段念を入れ申し聞け候、聴聞の者ども承り候由罷り在り候其段去年霜月朔日に久遠寺方へ書付遣し申し候、本門寺より返報説義の由申し上げ候事妄説至極に御座候事。
一、御朱印等下し置かれ候儀。無間堕獄に罷り成り御公儀に対し咒咀逆心の道理に存じ候事、是以つて存の外の至り勿躰無き御事に存じ奉り候、此段急度御僉議遊ばされ下さるべく候、国恩報じ難き上殊に累代御朱印下され候故申すに及ばず諸末寺に至るまで弥天下安全の御祈祷怠慢無く仕り候事。
一、去る寛文八年大石寺の寺法書き上げ候事先段に申し上げ候如く少しも相違仕らず候事。
一、本門寺は御影堂、大石寺は本堂と申し候事は、互に一本寺の儀に御座候へば此論之無き事に御座候事。
一、造仏堕獄と申す事は無実の申し懸け終に此方より堕獄と申さず候、仍て京都要法寺造仏読誦仕り候へども大石寺より堕獄と申さず候証拠に当住まで九代の住持要法寺より罷り越し候、今に通用絶え申さず候事。
一、日蓮大士の事、大士とは菩薩と申す事に候へども京都妙顕寺大覚上人祈雨の褒美に、天子より菩薩号勅許遊ばされ候、然れば彼妙顕寺は日朗日像門家、富士の五箇寺は日興門流にて別派にて御座候、日興以来終に五箇寺は大士とも菩薩とも申さず候て唯日蓮聖人と書き来り候事。
一、本門寺三宝の立て様、或は石塔に妙法と略書し塔婆に釈迦多宝と書き候事謬の至極に候由日俊並に衆檀とも専ら申すとの事、是又妄説至極に御座候何も此方より申さず候事に御座候事。
右の条々聞こしめし分けさせられ候はば有り難く存じ奉るべく候、委細の儀は御尋の上口上にて申し上ぐべく候、以上。
元禄三年午二月十八日駿州富士郡上野大石寺印、隠居日俊印。
寺杜御奉行。

④(『富士宗学要集』第9巻34頁)
指し上げ申す一札の事。
一、大石寺日啓隠居日俊累年の間談義仕り候節、法華経一部読誦致候者は無間地獄の業、素絹五条の外一切の袈裟は謗法売僧襁褓、曼荼羅題目の下に判形を居へ日蓮と天台伝教と並べて書き候者謗法堕獄、此四箇条を以つて本門寺は無間山、檀那は無間の罪人と悪口致すに依り御僉議願ひ奉り候に付き、此度大石寺日啓隠居日俊召し出され御尋ね成され候処、右四箇条の儀曽て申さず候由、両僧申し上げ候に付き、然るに於いては私ども申し分之無く其上同宗一派の事に候間向後大石寺と和融致し異論之無き様に仰せ付げられ候趣き畏り奉り候、尤も以来大石寺に対し誹謗仕るまじく候仍て件の如し。
元禄三年午三月廿七日
寺杜御奉行。
右拙僧ども一同に仰せ渡され候趣き承知奉り候、其為奥印仕り候、以上、
本門寺、日要判。
丸山、本妙寺判。

⑤(『富士宗学要集』第9巻35頁)
指し上げ申す一札の事。
一、拙僧ども累年の間談義仕り候節、法華経一部読誦候者無間堕獄、素絹五条の外一切の袈裟衣は謗法売僧襁褓、曼荼羅題目の下に判形を居へ日蓮と天台伝教と並べて書き候者師敵対、鬼子母神造立候者謗法堕獄此四箇条を以って本門寺日要出訴候に付き、此度私ども召し出され御僉議を遂げられ候へども、右四箇条の儀拙僧ども申すべき筋目の事に之無く曽て申さず候様に申し上げ候、之に依つて同宗一派の儀に候間向後は本門寺と和融仕り出入之無き様に仰せ付られ候趣き畏り奉り候、勿論以来本門寺に対し誹謗仕るまじく候、仍て件の如し。
元禄三年午三月廿七日、駿州大石寺印、日啓判、隠居日俊判。
寺杜御奉行所。
右拙僧ども一同に仰せ渡され候趣き承知奉り候、其為奥印仕り候、以上 丸山本妙寺判。

以上の5点を挙げておられる。②の文書に注がついていることに注意。

 これに対し富谷日震は、『本宗史綱』下巻に、
資料⑥資料⑦資料⑧資料⑨資料⑩

⑥(『本宗史綱下』666~668頁)
 乍(レ)恐以(二)書附(一)御訴訟申上候
 駿州富士北山本門寺
一、同国同郡上野村大石寺日俊累年之間背(二)御制法(一)致(二)自讃毀他之談義(一)奇怪之法ヲ専ラ申弘候、謂法華経一部を致(二)読誦(一)候ハゞ、堕獄之業与申、素絹五条之外一切之袈裟衣謗法売僧襁褓ニ候与申、或者漫荼羅之書様題目之下ニ判形を居へ、日蓮与天台伝教与座を並て書候者師敵対与申、或者鬼子母神造立等尤謗法堕獄与申候、此四ケ条ヲ以本門寺ハ無間山檀那ハ無間之罪人与日俊並ニ衆檀共ニ致(二)悪口候得共、種々遠慮御座候故六ケ年之間堪忍仕罷在候処、去ル二月三日之暁難(二)黙止(一)子細承候ニ付日俊ニ遂(二)対談(一)詮儀可(レ)仕与存満山之衆徒を集メ令(二)談合(一)候之処、大石寺年来之弘通ニ而此方之衆檀疑念仕候間先々致(二)談義(一)、右之疑を晴シ其後対談仕可(レ)然之旨衆議一等ニ申ニ付、一七日致(二)談義(一)衆檀之疑惑を晴シ申候、依(レ)之使僧を大石寺ニ遣シ対談可(レ)仕与存候処、同郡久遠寺并惣檀那達而抑へ候故暫令(二)延引(一)候、其内日俊邪謀を廻シ却而従(二)彼方(一)使僧を遣シ右四ケ条之儀曽而不(レ)申不(レ)存候与致(二)陳報(一)讒言之者可(レ)有(レ)之由申越候故、従(二)此方(一)云シ人之証人慥ニ申遣候得共終ニ僉議仕候事不(二)罷成(一)其後久遠寺を頼ミ扱ヲ以落着仕候委細之儀尤使僧往復之口上書(二)分明ニ御座候、右四ケ条之儀日俊放言仕候条無(レ)紛事ニ御座候得共、種々陳報之上久遠寺扱ニまかせ三月二日ニ相済申候処ニ、日俊忽ニ令(二)相違(一)同六日ニ致(二)返報談義(一)右四ケ条之儀一々妄説仕候、就(レ)中法華経一部読誦仕儀鬼子母神致(二)造立(一)他門之散銭皆悉無間堕獄ニ可(二)罷成(一)候、然上者対(二)御公儀江(一)呪咀逆心之道理ニ奉(レ)存候事、
一、去寛文八年申三月十七日従(二)御奉行所(一)被(二)仰出(一)候諸宗之寺法御尋之節大石寺ヨリ一部頓写千部読誦等執行仕候儀、又僧階ニよつて色々之袈裟衣を致(二)着用(一)候儀、又於(二)御免(一)者色衣香衣等を着用申候儀証文指上申候処ニ、唯今日俊等一部読誦堕獄等之邪義を申立候者御公儀を軽シメ申耳ニあらす、仏法之大義を廃し先師代々をも令(二)忽緒(一)之条言語道断を受候儀無間地獄之根源ニ而御座候段強盛ニ罵リ申候、ケ様成ル儀者経論書釈ニ茂曽而依憑無(レ)之天下之妖怪仏法之穀賊ニ而御座候、此等之趣者法華宗一同ニ言上仕御下知可(レ)遂事ニ御座候得共、別而富士五ケ寺一派之儀ニ候間拙僧不肖ニ候得共、仏恩国恩を奉(レ)存彼之邪法を静メ正法正義之流布を奉(レ)願今度言上仕候、且亦散銭之儀者順縁之供養ニ而御座候間開山已来受来候処ニ無間堕獄之根源与悪口仕候上者順縁之御供養ニ而被(二)下置(一)候御朱印等之儀も之至ニ奉(レ)存候事、
一、本門寺者御影堂大石寺ハ本堂之由累年申弘メ愚人を惑し候、此段尤往昔永正十二年亥六月廿六日今川修理大夫氏親公両寺之証文を委細ニ御穿鑿被(レ)成、理義分明ニ御裁許之上ニ御直筆之証文を本門寺江賜リ落着仕候処、近来頻リニ背(二)開山之掟(一)ニ国司之正判を破申候事、此外造仏堕獄之儀本門寺三宝之立様并日蓮大士与書キ、或ハ妙法与略書シ塔婆ニ釈迦多宝与書候事謬リ至極ニ候由、日俊并ニ衆檀共専ラ申候、ケ様之儀者此度之出入ニ而ハ無(二)御座(一)候得共無実之説ニ御座候間、当山之証文をも奉(レ)備(二)賢覧(一)大石寺証文をも御尋為可(レ)被(レ)下致(二)加条(一)申上候事、
右之条数大石寺隠居日俊当住日啓を被(二)召出(一)、対決被 (二)仰付(一)被(レ)下候ハ、難(レ)有可(レ)奉(レ)存候、委細之儀者御尋之節口上ニ可(二)申上(一)候以上、
元禄二年巳七月五日
寺杜御奉行所
駿州富士北山
本門寺判
日要判

⑦(『本宗史綱下』669~672頁)
一、日蓮聖人より日興江之遺状ニ曰、日蓮一期之弘法白蓮阿闍梨日興付(二)属之(一)可(レ)為(二)本門弘通之大導師(一)也、国主被(レ)立(二)此法(一)者富士山本門寺戒壇可(レ)被(二)建立(一)待(レ)時而已、
 弘安五年午壬九月 日血脈次第日蓮日興已上
既ニ日蓮一期之弘法日興ニ付属被(レ)成候上者、日蓮御一期之弘法之通仏法執行仕候か日興門流ニ而御座候、爾ニ日蓮一代之弘通ハ録内四十巻之抄ニ分明御座候、自行ニハ法華一部を読誦シ化他ニハ題目之五字を専ラ勧メ被(レ)申候、其一二文を書して奉(レ)備(二)賢覧(一)候、
録内第十七転重軽受抄ニ云ク、日蓮法華経一部読テ候至頼母敷候已上、
同第十八単衣抄云、帷ヲ著テ仏前ニ至進セ給ヘルナリ已上、
同第三十七真間供養抄云、釈迦仏御造仏御事至迎入レマイラセサセ給へ已上、
如(レ)此自行ニハ一部読誦を専ニ被(レ)成候、次ニ化他ニハ題目を専ラ勧メ被(レ)申候事、同第二十七諌暁八幡抄云、日蓮ハ去建長五年至ハゲム計リ也已上、是化他ニハ題目を専勧メ給事如(レ)此候、此外類文数多御座候得共奉(レ)略候、
次ニ日興聖人之弘法自行ニハ一部読誦被(レ)成、化他ニハ題目之一行を専ラ勧メ被(レ)申候、日興直弟日順述作之摧邪立正抄云、大聖円寂ノ遺跡ニ六人上首御座ス、具ニ読(二)法華一部一同誦(二)ス方便寿量(一)已上、是日興自行一部ヲ読被(レ)申候義分明ニ御座候、又化他ニハ題目を専ラ勧メ被(レ)申候、
六人立義抄云、日興云如法一日之両経雖(レ)為(二)法華之真文(一)正像転時之往古平等摂受之修行也、今迎(二)末法之代(一)論(二)折伏之相(一)者、不(レ)事(二)一部読誦(一)但唱(二)ヘテ五字ノ題目(一)ヲ難(レ)受(二)三類之強敵(一)ヲ可(レ)責(二)諸師邪義(一)者歟、此則勧持不軽之明文上行弘通之現証也、何必折伏之時可(レ)修(二)摂受之行(一)哉、但四悉之廃立二門取捨宜守(二)テ時機(一)ヲ敢勿(二)偏執(一)スルコト已上、
此文分明ニ化他折伏之時ハ題目自行摂受之時ハ一部読誦ト相究リ、殊ニ日蓮一期之弘通を現証ニ被(レ)書候上ハ諍ヒ可(レ)申様無(レ)之候、加(レ)之宜守(二)時機(一)敢勿(二)レト偏執(一)結帰シ給事巧妙之釈義ニ而御座候、此文ニ四悉ノ廃立二門ノ取捨ト申候者、四悉ハ世界為人対治第一義之四ツ是即世間之文成武敗之四ツト全ク同ク、二門摂受折伏之二門ニ而世間之文武之両道全ク同キ事ニ而御座候、其相配日興述作内外要文集ニ御座候、其文ニ云、

四悉檀
 摂受門→一、世界悉檀(文)、二、為人悉檀(成)
 折伏門→三、対治悉檀(武)、四、第一義悉檀

  勝鬘経ニ云、以(二)折伏摂受(一)ヲ故ニ令(二)法ヲシテ久ク住(一)法久住スレハ者天人充満悪道減少ス已上、日興直筆今尚本門寺ニアリ、
此文摂受自行之一部読誦ハ如(二)文道(一)折伏化他之題目之五字ハ如(二)武道(一)ノ、されバ御静謐之時ハ文道ヲ為(レ)表ト武道ハ裏ニ成リ、乱国之代ニハ武道を為(レ)表ト文道ハ裏ニ成申候、文武之二随(レ)テ時ニ背面表裏之不同御座候得共、一をも廃し候儀ハ無(二)御座(一)候、仏法も又々如(レ)此、摂受之一部読誦折伏之題目五字時ニ依リ機ニ随ス背面表裏之不同
御座候得共、一をも廃しぬれバ令法久住之計リ事かげ仏法滅亡ニ及申候間、自行ニハ摂受之一部読誦を仕化他ニハ折伏之題目ノ五字を勧メ申候義日蓮日興之正ニ而御座候、
一、本門寺ニいまだ仏像を造立不(レ)仕候子細者日蓮宗ニ三大秘法与申候而宗旨之秘事ニ仕候事御座候、謂ク、一ニハ本門本尊、二ニハ本門戒壇、三ニハ本門題目已上、此三大事ハ諸門徒之相伝可(レ)有(レ)之候得共、本門寺ニ而伝来リ候所ハ者、第一ニ本門本尊ト者日蓮所図之漫荼羅ニ而御座候、此漫荼羅之中央ニハ題目を書シ左右ニ十界を勧請被(レ)致候、是を十界互具一念三千三諦不思議之漫荼羅と名付而宗旨之本尊ニ仕候、第二ニ本門戒壇ト者久遠実成釈尊を造立仕為(二)本師(一)ト、多宝仏を造立仕為(二)証明(一)ト、上行菩薩無辺行菩薩浄行菩薩安立行菩薩を造立いたし教授和尚ニ仕候、是を本門之戒壇与申候、爾ルニ日蓮之遺状ニ国主被(レ)立(二)此法(一)者富士山本門寺ニ戒壇可(レ)被(二)建立(一)也可(レ)待(レ)時而已ト被(二)書置(一)候、遺状を守り国主御帰依之時を待候而仏像を造立不(レ)仕候、造仏堕獄之義ヲ以不(レ)致(二)造立(一)申義ニ而ハ全無(二)御座(一)候、此段日興直弟日順述作ノ心底抄ニ委ク御座候事、
一、下谷常在寺ハ大石寺先代日精開基ニ而釈迦多宝ノ両尊上行等四菩薩鬼子母神等造立仕数十年之間令(二)安置(一)候処ニ、日俊造仏堕獄之邪義を盛ニ申立彼仏像を悉令(二)去却(一)候、加(レ)之牛島常泉寺ニも古へより両尊四菩薩を令(二)安置(一)候処に、是をも頃年日俊悉令(二)去却(一)候、拙僧檀那伊右衛門之仏像ハ去年中令(二)去却(一)候事、
一、京都要法寺者日興弟子日尊開基被(レ)致大石寺与者兼帯通用仕両寺一寺ニ而日俊日啓も要法寺之僧ニ而御座候、爾ルニ要法寺ハ往古より造仏読誦仕リ香衣黒衣直綴等を着、四ケ条之義一々用申候処ニ謗法堕獄之寺与通用仕候義不審千万ニ奉(レ)存候事、
右造仏堕獄之義者仏法之大義を破廃し宗祖ニ違背仕候条必然奉(レ)存候、然ルニ日興之直筆有(レ)之由申候儀是又不審千万ニ奉(レ)存候、御威光を以て証文被(二)召出(一)被(レ)下候義偏ニ奉(レ)願候已上、
元禄二年巳十一月十六日
北山本門寺
寺杜御奉行所

⑧(『本宗史綱下』672~675頁)
 乍(レ)恐返答書差上申候
  駿州富士上野大石寺
    隠居日俊
一、駿州富士大石寺者開山日興上人已来及(二)四百年(一)当時迄法義少も違乱不(レ)仕候処二、此度北山本門寺日要より背(二)御制法(一)を致(二)自讃毀他之談義(一)奇怪之法を専ラ弘メ申之条申上候段不審無極ニ奉(レ)存候、
一、彼条目ニ法華経一部致(二)読誦(一)候者無間堕獄之業与申候事是日要カ妄説ニ而御座候、既ニ法華経を以宗旨与仕候上ハ一部読誦無間堕獄之業与可(レ)申筋目者無(二)御座(一)候、但シ富士五ケ寺者開山已来法華経一部之肝要方便品寿量品之二品を以三時勤行仏事作善等ニ致(二)執行(一)来候、於(二)御当地杯(一)ニ大名高家之下ニ相住候寺者大檀那之任(レ)望、或ハ一部頓写千部等も読ミ申事ニ御座候条、先年隠居日精下谷於(二)常在寺(一)ニ在(二)住持(一)之節為(二)江戸末寺代(一)御公儀江大石寺之法式書上申中ニ其子細御座候事、
一、素絹五条之外一切之袈裟衣謗法売僧与申候事此段猶以誑惑之至ニ御座候、袈裟衣之儀者依(二)宗々(一)ニ其品々相分申候処、一切之袈裟衣謗法売僧襁褓ニ候と可(レ)申道理無(二)御座(一)候、但シ富士五ヶ寺於(二)日興門徒(一)ニ者薄墨色之衣同五条袈裟、或者白キ五条従(二)古来(一)之格式ニ御座候、若貴人江出仕之節者袈裟も懸申儀希レ成事ニ御座候事、
一、曼荼羅書様之事富士五ヶ寺代々之住持従(二)古来(一)題目之下日蓮在判と書申事一同ニ候、若於(二)本門寺(一)相背候ハ、師敵対とも成可(レ)申候歟、雖(レ)然此方より吟味不(レ)仕候事、
一、鬼子母神造立者富士五ケ寺開山已来無(レ)之、殊ニ諸堂数多造立不(レ)仕候法義ニ候故、当時迄大石寺此式を相守曽余寺之造立者構不(レ)申候、雖(レ)然富士五ケ寺之法義一同之儀殊ニ大石寺本門寺之両寺者開山日興建立之故、別テ違乱有間敷処ニ本門寺近代日優日要二代法儀相違之儀御座候ニ付檀方之不審難(レ)晴侭、日俊并衆檀共致(二)悪口(一)候与申懸一七日之談義ニ理不尽ニ大石寺無間山日俊堕獄与夥敷致(二)悪口(一)其上御法度之法論不似合形切賭之勝負と高座之上ニ而一ツ鐘被(レ)打致(二)披露(一)候由風聞仕候ニ付、使僧を遣し様子承り候処ニ大石寺無間山等之儀申候得共、大石寺より之返報と偽り被(レ)申故大石寺より本門寺無間山と申候、其云人証人相尋候得共本門寺檀那之内を一両人被(レ)致(二)名指(一)候、ケ様之証拠無(レ)之事ニ御座候故達而僉議可(レ)仕処ニ久遠寺取扱被(レ)申候ニ付、寺檀ハ一派之儀と存去年二月廿八日相済申候、同三月六日ヨリ八日迄迄(ママ)之談義者当寺代々之石塔去々年極月より去年正月ニ至リ出来仕候故、其開眼之談義右本門寺騒動ニ付相延六日より開眼供養之談義執行仕候、若愚癡之族返報之談義と聞可(レ)申歟と存、必本門寺へ之返報ニてハ無(レ)之段念を入れ申聞候、聴聞之者共承候由罷在申候其段去年霜月朔日ニ久遠寺方へ書付遣申候、本門寺より返報談義之由申上候事妄説至極御座候事、
一、御朱印等被(二)下置(一)候儀無間堕獄ニ罷成対(二)御公儀(一)呪咀逆心之道理ニ存候事、是以存之外之至無(二)勿躰(一)御事ニ奉(レ)存候、此段急度御僉議被(レ)遊可(レ)被(レ)下候国恩難(レ)報上殊ニ累代御朱印被(レ)下故不(レ)及(レ)申ニ諸末寺ニ至迄弥天下安全之御祈祷無(二)怠慢(一)仕候事、
一、去寛文八年大石寺之寺法書上仕候事先段ニ如(二)申上候(一)少も相違不(レ)仕候事、
一、本門寺者御影堂大石寺者本堂与申候事互ニ一本寺之儀ニ御座候得者此論無(レ)之事ニ御座候事、
一、造仏堕獄と申事者無実之申懸終ニ此方より堕獄与不(レ)申候、仍而京都要法寺造仏読誦仕候得共大石寺より堕獄与不(レ)申候、証拠ニ当住迄九代之住持要法寺より罷越候于(レ)今通用絶不(レ)申候事、
一、日蓮大士之事大士と菩薩と申事ニ候得共京都妙顕寺大覚上人祈雨之褒美ニ従(二)天子(一)菩薩号勅許被(レ)遊候、然者彼妙顕寺者日朗日像門家、富士之五ケ寺者日興門流ニ而別派ニテ御座候、日興已来終ニ於(二)五ケ寺(一)大士共菩薩共書不(レ)申候、唯日蓮聖人と書来申候事、
一、本門寺三宝之立様或者石塔ニ妙法と略書シ塔婆ニ釈迦多宝と書候事謬至極ニ候由日俊并衆檀共ニ専ラ申との事、是又妄説至極ニ御座候、何茂此方より不(レ)申侯事ニ御座侯事、
右之条々被(レ)為(二)聞召分(一)被(レ)下候ハゞ難(レ)有仕合ニ可(レ)奉(レ)存侯、委細之儀者御尋之上口上ニ可(二)申上(一)候以上、
元禄三年巳二月十八日
駿州富士郡上野
大石寺印
隠居日俊判
寺杜御奉行所

⑨(『本宗史綱下』675~676頁)
 指上申一札之事
大石寺日啓隠居日俊累年之間談義仕候節、法華経一部致(二)読誦(一)候者無間地獄之業、素絹五条之外一切之袈裟衣ハ謗法売僧襁褓、曼荼羅題目之下判形を居へ日蓮与天台伝教与並而書候者師敵対、鬼子母神造立者謗法堕獄、此四ケ条を以本門寺者無間山檀那者無間之罪人と依(レ)致(二)悪口(一)御僉議奉(レ)願候ニ付、此度大石寺日啓隠居日俊被(二)召出(一)御尋被(レ)成候処ニ右四ケ条之儀曽而不(レ)申候由、両僧申上候ニ付於(レ)然者私共申分無(レ)之其上同宗一派之事ニ候間、向後大石寺与致(二)和融(一)異論無(レ)之様被(二)仰付(一)候趣奉(レ)畏候、尤已来対(二)大石寺(一)誹謗仕間敷候、仍而如(レ)件、
元禄三年午三月廿七日
本門寺印
日要印
寺杜御奉行所
右拙僧共一同ニ被(二)仰渡(一)之趣奉(二)承知(一)候、
為(レ)其奥印仕候、
丸山本妙寺 日長印

⑩(『本宗史綱下』676~677頁)
 指上申一札之事
拙僧共累年之間談義仕候節法華経一部致(二)読誦(一)候者無間地獄之業、素絹五条之外一切袈裟衣謗法売僧襁褓、曼荼羅題目之下ニ判形を居日蓮与天台伝教与并而書候者師敵対、鬼子母神造立者謗法堕獄、此四ケ条を以本門寺者無間山檀那者無間之罪人と悪口仕候由、本門寺日要訴出ニ付此度私共被(二)召出(一)被(レ)遂(二)御僉議(一)候へ共右四ケ条之儀、拙僧共可(レ)申筋目之事ニ而無(レ)之曽而不(レ)申候由申上候、依(レ)之同宗一派之儀ニ候間向後本門寺与和融仕出入無(レ)之様ニ被(二)仰付(一)之趣奉(レ)畏候、勿論已来対(二)本門寺(一)誹謗仕間鋪候、仍如(レ)件、
元禄三年午三月廿七日
駿州富士
大石寺印
日啓印
同隠居日俊印
寺杜御奉行所
右拙僧茂同ニ被(二)仰渡(一)候趣奉(二)承知侯(一)為(レ)其奥判仕候以上
丸山本妙寺
日長印

以上の五点を挙げている。

②と⑥は同じ書状であり、北山本門寺の訴状である。
③と⑧は同じ書状であり、大石寺からの答弁書である。
④と⑨は同じ書状であり、北山本門寺の和談承諾証文である。
⑤と⑩は同じ書状であり、大石寺の和談承諾証文である。

 このように、日亨上人と富谷日震では、「印」と「判」の違いや、漢文体と書き下しとの違いはあるが、以上の8通は、2通ずつ共通しており、したがって4種類である。しかし、①と⑦は全く別の文書であり、共に北山本門寺の文書である。つまり、北山の訴状と見られる文書には、①と②⑥と⑦の3種類があり、3種類とも全く別の文書である。そして、日亨上人と富谷日震では、①と②⑥と⑦の文書の取り扱い方と順序が違っている(②と⑥は同じ文書である。念のため)。

 日亨上人は①と②⑥の文書を採用し、②の「元禄二年七月五日」の文書を①の「元禄二年十一月十六日」の文書のあとに置いており、⑦は採用していない。
 それに対し、富谷日震は②⑥と⑦の文書を採用し、⑥の「元禄二年七月五日」の文書の次に、⑦の「元禄二年十一月十六日」の文書と、日付のとおりの順で置いており、①の文書は採用していない。なぜ資料の取り扱い方が違うのであろうか。
 実はここに問題のなぞが隠されているのである。ここで注意すべきは、②の日亨上人の注である。そこには、
 「編者曰く七月五日は『六月』とも『十一月十六日』とも在る本あり、但し十一月なるべきか」(『富士宗学要集』第9巻32頁)
とある。富谷日震や創価学会・新階は気づかなかったようだが、日亨上人のこの事件に対する御見解は、富谷日震や創価学会とは違うのである。
 つまり、日亨上人が②の「元禄二年七月五日」の文書を①の「元禄二年十一月十六日」の文書のあとに掲載したのは、注にあるように、②の「元禄二年七月五日」とある文書には、「六月」とも「十一月十六日」とも記された本があることから、正しくは「元禄二年十一月十六日」であることを見抜かれたからである。
 幕府への訴状は、係の役人による「目安糾(めやすただし)」という訴状の点検があり、その際、記載内容の確認、文章の修正等が行われて訴状が整備される。つまり、正式な文書として書き直すのである。なんでもかでも、書いたものがそのまま受理されるわけではないのである。
 ひるがえって①から⑩までの文書の末尾を見ると、①と⑦には「印」「判」がない。しかも、北山側の①と⑦の文書の内容と、北山の訴状に対する答弁である日俊上人の③⑧の文書の内容が一致しない。これによって①と⑦が、正式な訴状ではないことが判るのである。
 北山側が寺社奉行所に正式に提出した訴状は②⑥の「元禄二年十一月十六日」(「七月五日」とあるが、前記の理由により「十一月十六日」と改める)の文書であり、それに対する大石寺側の答弁が③⑧の「元禄三年二月十八日」の文書である。これは②⑥と③⑧を対照すれば歴然としている。②⑥の北山日要の訴状に対し、日俊上人が③⑧で反論されておられるが、その内容が逐一符合する。
 そして寺社奉行所の判断をうかがわせるのが「元禄三年三月廿七日」の文書である。北山が④⑨を、大石寺が⑤⑩の文書をそれぞれ提出して和談となったのである。
 なお、日亨上人が①の「元禄二年十一月十六日」の文書を挙げられたのは、北山の筆記になるものの、事件の発端・概要が記されている点を、資料として評価されたからと思われる。しかし、日亨上人は、同じ「元禄二年十一月十六日」付けであるにもかかわらず、⑦の文書は資料として採用されなかったのである。
 富谷日震は、②⑥の文書が「元禄二年十一月十六日」の文書であることに気づかずに「元禄二年七月五日」としたため、訴訟の経緯を見誤ってしまった。つまり、日亨上人が資料として認められなかった「元禄二年十一月十六日」付けの文書⑦を、日震は反駁書と見たのである(現行の『富士年表』は訂正すべきである)。これが何を意味するか、賢明な方にはもう、お判りであろうが、怪文書の書き過ぎのため睡眠不足で頭の働かない新階君のために説明する。おそらく北山は①と⑦を訴状として用意していたのであろうが、奉行所の目安糾の際に、内容の吟味を受けて、不適当とされ、書き直して最終的に訴状として落ち着いたのが、②⑥の文書である。
さて、問題の文書は⑦であり、そのなかに、
 「一、下谷常在寺ハ大石寺先代日精開基ニ而釈迦多宝ノ両尊上行等四菩薩鬼子母神等造立仕数十年之間令(二)安置(一)候処ニ、日俊造仏堕獄之邪義を盛ニ申立彼仏像を悉令(二)去却(一)候、加(レ)之牛島常泉寺ニも古へより両尊四菩薩を令(二)安置(一)候処ニ、是をも頃年日俊悉令(二)去却(一)候、拙僧檀那伊右衛門之仏像ハ去年中令(二)去却(一)候事」(本宗史綱671頁)
との記述がある。創価学会は、これを日精上人が造読家であった証拠としたいのである
 しかし、正式な訴状②⑥では、造仏に関することは、大綱3箇条を記述したあと、最後に「此の外造仏堕獄の儀」と、追加として記しており、⑦の前記の内容は削除されているのである。
 この出入りが日俊上人を陥れんとした、北山の讒訴であることは、創価学会も判っていることである。その北山自身が結局は訴状のなかから削除した記述が、論証資料として採用できないことは自明である。
 ところで、彼の要法寺日舒は、『三葉草』下巻に、
 「又須(レ)知近年重須当住日要訴(二)公所ニ大石寺日俊(隠居)之非(一)日俊日啓返答シ于(レ)終及(二)対決(一)、聞伝フ公所ノ評ハ両寺各無(レ)過向後如(二)先例(一)諸事可(二)和談(一)由ニテ相済ムト」(傍線筆者・同672頁)
とあるように、この「元禄の出入」をよく知っているのである。例の『百六箇対見記』の、
 「一、付たり寛永年中江戸法詔寺の造仏千部あり、時の大石の住持は日盈上人後会津実成寺に移りて遷化す法詔寺の住寺は日精上人、鎌倉鏡台寺の両尊四菩薩御高祖の影、後に細草檀林本堂の像なり、牛島常泉寺久米原等の五箇寺並に造仏す、又下谷常在寺の造仏は日精上人造立主、実成寺両尊の後響、精師御施主、又京要法寺本堂再興の時日精上人度々の助力有り、然るに日俊上の時下谷の諸木像両尊等土蔵に隠し常泉寺の両尊を持仏堂へかくし(隠)たり、日俊上は予が法兄なれども曽て其所以を聞かず、元禄第十一の比大石寺門流僧要法の造仏を破す一笑々々」(傍線筆者・『富士宗学要集』第9巻70頁)
との記述は、日精上人に造読があったとする根拠の1つであるが、この記述と北山文書の記述は当時の状況を述べて一致するかの如くである。
 しかし、現在の創価学会による捏造だらけの宗門誹謗の実態を見るにつけ、謗法者の論にはどのような捏造が隠されているか判らないのであり、彼等の言うことを鵜呑みにするわけにはいかない。北山のやり方や文書を知っていた日舒が、日精上人の御化導に対する北山の悪辣(あくらつ)巧妙な表現を見て、「こういう言い方もあるのか。これならば日精上人が造仏をしたようにもなる」と悪知恵を働かせた可能性は、充分すぎるほどある。
 また、日要と日舒は正徳2年(1712)に66歳と67歳で亡くなっており、同年代であることが判る。当時の富士系一門の学問所であった細草檀林において共に学んだことであろうから、意外と親密であったのかも知れない。日舒は、「聞伝フ公所ノ評ハ両寺各無過向後如先例諸事可和談由ニテ相済ムト」とか「曽て其所以を聞かず」ととぼけているが、あるいは日舒が悪知恵を貸して、裏で糸を引いていた可能性も、なきにしもあらずである。ならば記述が似ているのは当然である。
 日舒の『当今現証録』には日精上人の御ことについて、
 「大石寺日精ハ当寺日瑶師ノ弟子ナリシガ、志(レ)学下(二)ル関東(一)ニ資縁不如意ニシテ紙子ニテ一夜凌(レ)ク寒ヲ程ノ貧僧ナリ、常ニ着(二)ス。紙子(一)ヲ仍而沼田宮谷之所化呼(二)紙子了賢(一)ト、故子賢謂フ当宗ハ易行ナリ十一日ヨリ十七日迄或ハ失念セハ十二日ヨリ十八日迄身行清浄小読誦三年之間行(レ)シタリ之、此年阿州太守ノ母儀敬台院ノ資助有ツテ相応過分所化トナリヌ、医師小姓侍迄勤檀ノ節召遣フタリ」(本宗史綱613頁)
と記している。これは日精上人を軽侮した悪口である。このように、日舒は『百六箇対見記』もそうであるが、日精上人や大石寺を快く思っていないのである。原因は妙縁寺の件等も考えられるが、所詮は日舒の血脈に対する不遜なその信心を、日精上人に見抜かれていたことによるのであろう。いずれにせよ、日舒が反感を持っていたことを知るべきである。
 そこで、日要の「北山文書」や日舒の『百六箇対見記』の記述が、いかに信用の置けないものであるかを論証しよう。


<史実によって「北山文書」や『百六箇対見記』の記述が疑わしいことを論証す>
 日舒の『百六箇対見記』には「法詔寺の造仏千部」等とある。これによれば日精上人が造仏・読誦を行っていたかのようである。
 しかし、日精上人は『日蓮聖人年譜』のなかで日蓮門下の各宗を破折されるなかで、
 「本迹一致と立る門人、一部修行本勝迹劣と立る門人、八品所顕と立つる門人は思慮有る可きなり、其ノ故は一致と云ふ人は開山日昭日朗日向の義をたすけん為に爾か云ふか、されども御書に違する故に師敵対となる、一部修行の人は難行道に落ち正行を遊ばさるゝ御書に背く、八品の衆は観心下山等の御書に違する故に慎みあるべし」(傍線筆者・『富士宗学要集』第5巻103頁)
と述べられて、一部読誦は難行道に落ち、正行の題目を勧める御書に背くと、明確に否定されている。さらに「延宝九年(1681)五月 日」の日精上人の御本尊には、
 「授与之 浜田五郎左衛門法号立行院日進 以自我偈首題法華経一千部成就之故為褒美也」
という脇書きがある。これは読誦に関する日精上人の実際の化儀が、どのようであったかを知る上で貴重なものである。つまり、この脇書きによれば、信徒の浜田五郎左衛門が、自我偈と唱題幾遍かをもって一部として、それを千部修行した褒美として授与された御本尊であることが判る。
 一般に一部読誦と言えば、法華経二十八品を全部読んで一部とするのである。しかし、日精上人の一部は、法華経二十八品を全部読んで一部とする一部読誦ではない。後世、日寛上人は、
 「法華経一部八巻廿八品ノ文字ハ六万九千三百八十四字ナリ。題目一万遍亦七万字ナリ。大旨文字数同ナリ。故以(二)一万遍(一)定(二)レバ一部(一)ト二千万遍ハ即二千部也。是ハ常ノ義也」(『父母報恩談義』 正本・大石寺蔵)
と仰せのように、唱題一万遍を法華経一部とされた。これは首題一万遍は七万字であり、法華経二十八品の六万九千三百八十四字に相当することから、唱題一万遍を一部とされたのである。そしてこの考え方は「常ノ義」とあるように、当時、通常の義として富士門下では一般化していたのである。この浜田五郎左衛門の夫人と思われる方が生前中に唱題に励み、二千部を成就したということが、日俊上人の御登座直後の御消息に記されており、故精霊に褒美として授与された御本尊も現存しているから、これらを併せて拝察するに、あるいは日精上人も自我偈と唱題一万遍であったかも知れない。
 このように、日精上人の千部修行とは、自我偈と題目をもって一部としての千部ということが、御本尊の脇書きによって確認されるのである。しかも、この浜田五郎左衛門という方は、要法寺日舒が『百六箇対見記』で、日精上人が造仏をしたと述べた久米原妙本寺の信徒である。その信徒に褒美として授与した御本尊が、仏像ではなく大漫荼羅であるというところに、日精上人の御本尊の化儀が明白ではないか。そして、修行は一部二十八品読誦ではなく、要品読誦と唱題であった、というのが真実なのである。
 この美事は浜田家の伝統となり、子孫が大漫荼羅を頂戴することを一人前の証しとするかのように、次々と千部に精進し、褒美の御本尊を頂戴するのである。もって、この浜田五郎左衛門の歓喜・感激の一念が、いかに強大であったかを知ることができる。
 次に「北山文書」や日舒の『百六箇対見記』の記述によれば、常在寺には釈迦・多宝等が安置されていたことになっている。しかし、常在寺の当時の御本尊は現存しており、宗祖大聖人、文永11年御顕示の御本尊、通称「万年救護本尊」の写しの板御本尊である。この御本尊には、日精上人の御筆で「延宝八年八月良辰、富士大石寺末流下谷常在寺」と記されている。この年は、大聖人400御遠忌の前年であるから、本堂を新築あるいは修築されたことを契機に、御本尊を新たに造立されたものと推定される。この御本尊は昭和47年まで常在寺の本堂に御安置されていたのである。また、持仏堂安置の大聖人の御形木御本尊にも、日精上人の御筆で「武州江戸下谷常在院持仏堂之本尊也日精花押」と記されているのである。このように、常在寺では本堂、持仏堂ともに大聖人の大漫荼羅御本尊が安置されていたのである。
 「新階文書」は、
 「日精自身の手による(仏像の)撤廃の事実がなければなんの根拠も説得力も無いことになる」※(仏像の)は筆者。(新階文書17頁)
とか、
 「日精は一生涯造仏読誦の邪義を捨てることがなかった」(同21頁)
と言うが、いかなる邪論も、事実の前には沈黙せざるをえないであろう。
 また、以前の時局文書でも述べたが、六壷の日興上人御書写の板御本尊は万治2年(1659)20世日典上人の代に日精上人が造立されたものである。御影堂の宗祖大聖人の御影の背後には、日精上人が延宝7年(1679)11世日忍上人の代に造立の大聖人の板御本尊が安置されている。客殿の宗祖大聖人、2祖日興上人の御影も、万治2、3年の20世日典上人の代に、ほかならぬ日精上人の造立である。総本山塔中・了性坊の御影は天和元年(1681)22世日俊上人の代に日精上人が御開眼されている。牧口初代会長の家には、日精上人の御開眼の御影様がましました。仏像ではない。さらに一言えば、寂日坊の板御本尊は日精上人筆の大漫荼羅を日寛上人が造立されているのである。ほかにもあるが、ともかく、日典、日忍、日俊、日寛上人等の御歴代上人が日精上人を御尊敬申し上げておられたことが明白である。
 日舒等は造仏千部と言うが、日精上人の実際の化儀を見れば、当家の正義そのものなのであり、造読家が大石寺を誹謗しようとして書いた「北山文書」や日舒等の記述こそ疑うべきである。


<『随宜論』について>
 そこで、当時の時代状況としての、日精上人の法詔寺の造仏、『随宜論』の述作と敬台院との関係を考え直してみたい。
 日精上人の時代は、大石寺と要法寺の通用はひとまず落ち着いたが、戦国時代の混乱の余韻(よいん)いまだ冷めやらぬ江戸時代の最初期であった。武士達の宗教政策は、信長が安土宗論において法華宗を弾圧したかと思えば、秀吉は一転して懐柔策に出るなど、極めて不安定であった。徳川幕府の政権維持も宗教政策も、安定化しつつあったとはいえ、不受不施の問題もからみ、いまだ見極めのつかない状況であり、今しばらくの注視を要した。仏法上からは国主不在の時代と言ってよく、国主諌暁・立正安国の願いも、その対象が定まりかねる時代であった。このような不安定な状況のなかでは、有力者が帰依したとしても、その勢力自体が一時的なものに終わることも念頭に入れておかねばならない。
 破邪顕正は当然であるが、令法久住の上からは慎重な判断が要求される。すなわち、戒壇の大御本尊と血脈の大事の高揚開示が、有力者の逆転により、攻撃の対象とならないともかぎらない。常に時の御法主上人の御苦労は尋常ではないのである。このような状況の新しい時代のなかで、江戸における宗教活動は展開されていたのである。
 敬台院は、『日宗年表』の元和5年(1619)の記事に、
 「此頃前阿波太守蜂庵入道大雄院日恩を崇敬東山に隠居寮を建て之を寄す」(『日宗年表』171頁)
とあるように、既に蜂須賀至鎮の父・家政が要法寺22代・大雄院日恩に帰依しており、蜂須賀家に嫁いだ敬台院はその縁から要法寺の信徒となったのであった。
 日精上人は、日昌上人、日就上人についで、要法寺から来られた3代目の御法主上人である。当時の江戸における本宗の寺院は、日就上人開基の常在寺があった。常在寺の開基檀那は細井治良左衛門であるが、日量上人の『続家中抄』には、
 「父通達院乗玄 慶長十二丁未四月十七日、下谷常在寺古過去帳当時大施主とあり」(『富士宗学要集』第5巻268頁)
と、日精上人の父、法号・通達院乗玄も常在寺の大施主であったことが記されている。日精上人の父は慶長12年(1617)に逝去されており、この時、日精上人は8歳であった。したがって、日精上人の父は要法寺の信徒であったと思われる。このように、常在寺の檀信徒は大石寺の信徒ばかりではなく、要法寺系の信徒もいたのである。そのなかには要法寺流の造仏・読誦の化儀に基づく信仰者も、存在したであろう。敬台院も法詔寺が建立されるまでは常在寺に参詣していたと考えられる。
 このようななかで日精上人は、檀信徒を要法寺の造読から大石寺の正義に引き入れるべく御化導されていた。それは、寛永9年(1632)に日就上人より血脈相承を受けられる10年も以前の元和9年(1623)の法詔寺建立に当たり、その落慶法要の時点では造仏されていなかったことに明らかである。法詔寺は大伽藍であり、建築日数は相当かかる。造仏が予定のことならば、落慶法要に間に合わないことはない。否、寺院本堂の中心となる本尊がなくして、落慶法要などできようはずがない。にもかかわらず、翌年になって造仏せられたのである。なぜ最初から仏像を安置しなかったのであろうか。
 これは、日精上人に帰依する敬台院が、当初は日精上人の御化導に、不承不承でも従い、大漫荼羅御本尊のみが安置されたからである。この事実が、日精上人が造仏家ではないことの何よりの証拠である。
 しかし、敬台院の仏像に対する強い執着が改まることはなかった。日精上人は敬台院の帰依の心の深いことを鑑みられて、暫時、摂受の方便として仏像を許容されたのである。ただし、大漫荼羅が撤去されたのではなく、大漫荼羅の左右に釈迦・多宝・四菩薩が置かれたのであろう。これは、日興上人が『五人所破抄』において、
「執する者は尚強ひて帰依を致さんと欲せば、須く四菩薩を加ふべし云云」(御書1879頁)
と御指南されたことを受けて、その深意を拝された御化導と拝せられる。
 以前、「時局文書」において、
 「日精上人の展開された御化導の前半は、造読であられた。そのために、大石寺の血脈を嗣ぎ、宗祖の正意に至った後、日精上人は、敬台院等を教導し、仏像の執着を取り除き、また仏像を撤去されるのに大変苦労せられたのである」(『大白法』349号)
と記述したことがあった。しかし、これは誤りであったので、日精上人は御登座以前から当家の正義に立たれていた、と訂正する。これが法詔寺の造仏の真相である。
 次に『随宜論』には、法詔寺の仏像造立に驚いた門徒の真俗の5項目からなる疑難に対し、仏像の造立を摂受・擁護するための文上付随の論を展開されている。しかし、よく見れば、最後の部分に、
 「日代上人の御書に云く、仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケの大事一度に成就せしめ給ふ可きの由御本意なり。御本尊の図は其の為なり文。此の文実録の内に興師の御義に符合す、然らば富山の立義は造らずして戒壇の勅許を待ちて而して後に三ケの大事一度に成就為す可きなり。若し此の義に依らば日尊の本門寺建立の時に先きんじて仏像を造立して給ふは一箇の相違なり。罪過に属す可しと云はば未だ本門寺建立の時到らず本門寺と号するは又一箇相違なり罪過に属す可きや。此の如きの段今の所論に非らず。願くは後来の学者二義を和会せば造不造は違する所無くして永く謗法を停止して自他共に成仏を期すのみ
と記されている。つまり、西山日代の説を挙げて、
 「仏像を造立するのは国主が帰依し本門寺を建立する時である、というのが西山日代の本意であり、また、それは日興上人の義にも符合する。富山の立義は仏像を造らないで、戒壇の勅許を待って、三箇の大事を一度に成就すべきである。ならば本門寺建立の時が至っていないのであるから、要法寺日尊が仏像を造立するのも、西山が本門寺と号するのも、相違している。この本門寺建立ということと、仏像を造立することの2つを和会するところに、造・不造の相違の論は起こらなくなり、謗法は停止されて成仏がかなうのである」
というものである。ここに述べられることは、要するに未来の本門寺建立の時に仏像を造立するのが正しいと言われているのである。すなわち、未来造像に寄せての、現在制止に本意があると拝せられる。
 このように拝すると、日精上人が『随宜論』の末尾に、
 「右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す、茲に因つて門徒の真俗疑難を到す故に朦霧を散ぜんが為に廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり。 寛永十戊年霜月吉旦」(『富士宗学要集』第5巻69頁)
と仰せられたのは、造像制止の本意を秘めつつ、表面には造像摂受を述べられた論であることを見ほどくように、との御意であろうか。
 日寛上人は『末法相応抄』に、日興上人の四菩薩添加の方便について、
 「強執の一機の為なり」(『大石寺版六巻抄』156頁)
と説明しておられる。日辰の造読義はそれを宗祖大聖人の正意とするのであり、これは邪義であるから徹底して破さねばならない。しかし、日興上人の四菩薩添加は、強執の機に対する方便である。機の判定は、時の御法主上人の深意によるのであり、当時の要法寺僧や敬台院等の信徒には強執の機が多く、日精上人は「強執の一機」と判定されたのである。
 なお、この時、日精上人に疑難を呈した門徒の真俗の中心者は、西山本門寺18代の日順であろうと思われる。当時の富士五山は、現在からは想像もつかない相互の通用交流があった。日順の弟子の日衆は日顕と改めて江戸上行寺から本宗の常泉寺の7代に栄転した人物であり、その弟子が総本山25世の日宥上人である。これより前には、西山の16代として要法寺の日性の弟子の日映が就任している。
 このような要法寺等との通用のなかで、大石寺の大衆は特殊な時代背景と高位の檀那の機に対する用意理解が、ある程度できていたと思われる。しかし、西山日順は西山蔵の、北山日耀筆で要法寺日辰の奥書きのある「二箇相承」に、
 「此二箇御相承並本門寺額広蔵坊日辰判形為愚悪愚見重宝不加之」
と加筆しているように、日辰が大嫌いな、造読不許の信念に燃える不造読家であり、大石寺を総本山と仰ぐ道念の篤(あつ)い方であったようである。
 日順は日精上人より2歳年下であるが87歳の長寿を保ち、日精上人と同時代を生きたのである。日精上人が『家中抄』のなかで、西山に好意的であるのは、多分に日順の徳行によるものであろう。しかし、純真な人だけに若い未熟な時は、教条的に走り、日精上人の大所、高所からの摂受、折伏よろしきを得た御化導が信解できずに、当然とも言えるが、法詔寺の仏像安置に際しては疑難を呈したのであり、その返答が『随宜論』であろうと推察できるのである。
 日順の純信の功徳は、常子内親王や天英院殿等の近衛家の帰依を得て、西山の最興隆期となって顕れ、ついに孫弟子の日宥上人が総本山大石寺の御法主に登られることになるのである。日順は生涯を通じて富士門下では大きな存在であったと思われる。現在、西山の僧侶が実に低劣な大石寺誹謗を行っているが、西山には18代日順や日顕のように、大石寺を本寺と仰ぐ僧侶がいたことを知るべきである。


<敬台院との確執>
 次に、日精上人と敬台院には寛永17年(1640)ごろ隙(げき)が生じた。この原因を日亨上人は、
 「信仰上の衝突だと思うね。精師のやり方がどうも、敬台院の方からいうと、誠意がないとかどうとかいう問題じゃないですかね」(『大白蓮華』66号18頁)
と述べられている。この衝突は訴訟にまで発展し、日精上人は法詔寺のみならず大石寺をも隠居することになるのである。日精上人が41歳の御時である。
 その事情は、蜂須賀家臣・斉藤忠右衛門等状の、
 「其御地御重物に成し置かれ候そ(素)けん(絹)け(袈)さ(裟)白小袖帯なども各々御あらため(改)候て何色の物何ほど(程)不足御座候由御申し越し成さるべく候、そ(素)けん(絹)け(袈)さ(裟)などは此の方ご(呉)ふく(服)や(屋)にて仰せ付けられ候間たとへ(仮令)御わきまゑ(弁)候とも其ごとく(如)の地色にてなく(無)候へばつい(対)致さず候、其ことの地いろ(色)に此の方にて仰せ付けられ候はん間代物の所は日情(精)重物の内御取り候事に候間御出し候様に成さるべく御仰せ候(中略)たう(当)しゆ(主)の様に重物ものの内ぬすみ(盗)こ(沽)きやく(却)するも御入候間かならず代々のたう(当)しゆ(主)のまゝ(儘)に御させ(為)有るまじき由かた(堅)く仰せられ候間、左(然)様に御心得成さるべく候」(『富士宗学要集』第8巻60頁)
との記述からうかがうことができる。敬台院が大石寺に、色袈裟などを供養して「何色のものがどれくらい不足しているか」と聞いているのである。さらに、日精上人が重物(色袈裟等)を盗んだり沽却(売り払うこと)したとある。
 ここから読み取れることは、日精上人は敬台院がく供養した色袈裟を着用せず、紛失したなどの言い訳をしたらしきことである。日精上人が色袈裟を否定しておられたことは、『家中抄』の、
 「富士門流に於て大衣を着せず色袈裟を掛けず何等の所以ぞや、古より相伝して云く当家は名字即、最初心の上に於イて建立する所の宗旨なるが故に大衣を着せず、色袈裟を掛けざるなり、其証拠は生御影是レなり」(同・第5巻263頁)
との記述に明らかである。また、日精上人造立の客殿の御影様のお姿も、薄墨の衣、白五条の袈裟をお召しである。ただし、日俊上人の書状のなかに、
 「御当地杯に於いて大名高家の下に相住み候寺は、大檀那の望に任せ或は一部頓写千部等も読み申す事に御座候条、先年隠居日精下谷常在寺に在住持の節、江戸末寺代として御公儀へ大石寺の法式書き上げ申す中に其子細御座候事」(同・第9巻32頁)
とあるのは、要法寺関係の僧俗の多い江戸での摂受的側面を含む、大石寺と要法寺の全体的見解として述べられたものである。しかし、袈裟に関する日精上人の本意は、あくまで『家中抄』に述べられるところである。
 「新階文書」は、
 「これまでは、日精の仏像造立を中心に検証してきたが、日精の謗法は、それのみに止まらず、色袈裟の着用、一部頓写千部読誦の執行等も行い日蓮大聖人日興上人の正義を破壊し続けたのである」(新階文書23頁)
と、日精上人が色袈裟を着用したかのように言うが、全く逆である。
 この事件は、袈裟だけではなく、敬台院からの御供養のなかには、あるいは大石寺にふさわしくない重物、すなわち、仏像が含まれていたのかも知れない。もし仮りにそういうことがあったとすれば、日精上人は一命を懸けてでも阻止されたであろう。その具体的手段としては、自分への供養として受け取ったものだとして処分したり、あるいは常在寺に隠居するとして持ち去ったかも知れない。日精上人は、法詔寺は敬台院の寺である故に摂受の御化導をされたが、大石寺では敬台院のわがままを許さなかったと考えられる。摂受はあくまで要法寺との関係の濃い部分や、要法寺系の檀那の影響力の強い寺院に限られるのであり、総本山等の富士五山では許さなかったのである
 もしもそういうことならば、常在寺に仏像があったことも考えられないことではない。しかしそれは、総本山を守るための措置であり、そのために敬台院相手に訴訟をも辞さなかったとしたならば、日精上人のお振る舞いを誰が責めることができようか。
 さらに推測すれば、客殿の両尊の御影様が安置せられたことは、将未、再び仏像に強執する信者が現れて、総本山に仏像を祭らせようなどという気を起こさせないように、との願いも込められて、大石寺で仏像と言えば、御影様であることを周知徹底させるために造立されたのかも知れない。
 敬台院は徳川家康の曽孫であり、蜂須賀家は幕末まで存在した大藩である。敬台院の事件の顛末の詳細は、記録することはもちろん、人前で語られることさえはばかられるものであり、いつしか真実は埋もれてしまったと考えられるのである。


<要法寺出身の御法主上人>
 次に、要法寺との通用のなかで9代の御法主上人をお迎えしたことは周知のことであるが、どのような信条を持たれた方であったのかは、あまり知られていない。これをうかがう材料として、次の事実がある。
 通用開始の当事者であった要法寺14代の日賙(にっしゅう)と20代日瑶は、要法寺の本堂安置の大漫荼羅本尊を書写している。このことは両師が大漫荼羅正意であったことを示すのである。
 要法寺からの最初の御法主上人である総本山15世日昌上人は日賙によって選ばれたのであり、16世日就上人は日賙の直弟であり、17世日精上人は日瑶の弟子で、大石寺では16世日就上人の薫陶を受けられた。18世日盈上人は日賙の甥である。このように要法寺からの御法主上人は、要法寺のなかでも大漫荼羅を正意と拝していた方と深縁であることから察せられるように、要法寺のなかでも造読家ではなく、宗祖本仏・大漫荼羅正意の正義を持たれた方々なのである。日主上人と日賙との通用開始の際には、大石寺から要法寺へ日目上人の御本尊を授与され、要法寺からは大石寺へ日興上人の御本尊が奉贈された。この時、日主上人から要法寺へ授与された日目上人の御本尊の裏書きには、
 「今度世出申合に就て要法寺貫首日賙の時に臨み○要法寺に授与せしむる者なり○」(『富士宗学要集』第9巻67頁)
とあり、要法寺日賙から大石寺へ日興上人の御本尊が奉贈されたことについて、日賙の書状には、
 「開山上人御筆一幅拝贈御納受に於いては欣懌たるべく候」(同68頁)
とある。この文言に、日主上人と日賙の立場の違いと、日賙の敬意が明らかである。造像家にして不遜なる日辰の時には日院上人によって拒絶された通用が、日主上人と日賙の時に成立したのは、日賙に正しい信心と徳行が備わっていたからなのである。


<おわりに>
 また少し、日精上人の御化導が明らかになってきたと信ずるのである。そこには、日亨上人をはじめ奉り、従来考えられてきたこととは、少し違った真実が存在するようである。まだまだ不明な点も多いが、いまだ解明されていない部分に対しては、血脈の仏法に対する信心を根本とした慎重な考証が望まれるのであり、創価学会・「新階文書」のように御歴代の御法主上人の御苦労を偲び奉ることなく、みだりに邪推をたくましくすることは厳に慎むべきである。
 『松野殿後家尼御前御返事』に、
 「東を西と見、北を南と見る事をば、我等衆生かしこがほ(賢顔)に智慧有る由をして、勝を劣と思ひ劣を勝と思ふ」(御書1355頁)
とは、まさしく創価学会・新階を言うのであり、極悪謗法の池田大作を勝と思うが故に、すべてが狂ってしまうのである。
 創価学会・「新階文書」には、彼等の救いようのない邪念が込められている。しかし、ただただ下種三宝尊の大慈大悲を仰ぎ奉り、この文書を彼等にも送付することにした。彼等が今生において、懺悔の信行に励む日の来ることを願うものである。
以上





創価学会による日精上人に対する再度の疑難を破す

(時局協議会文書作成班1班)

<はじめに>
 創価学会は、相変わらず日精上人(にっせいしょうにん)に対し造読問題の疑難を投げかけている。
 どのように巧妙に疑難を組み立てても、正義は日蓮正宗に存するのであり、宗祖日蓮大聖人の仏法が破られることはない。しかし、この問題に関しては、日亨上人(にちこうしょうにん)による日精上人に対する批判が内容に含まれており、軽々な扱いは許されない。ことに初心者にはややもすると紛動されかねない懸念(けねん)もあるので、この際、はっきりした見解を示して、愚かしい疑難の根を断っておきたい。


1.学会の疑難
 創価学会の疑難とは、日精上人の『日蓮聖人年譜』を材料とした批判である。今後は『家中抄』に及ぶかも知れない。
 総本山第59世日亨上人は、
 「正本猶誤脱多し間々此を改むといへども強いて悉くに及ばず、又説、正史料に背くものは止を得ず天註に批訂する所あり」(『富士宗学要集』第5巻180頁)
と仰せられて、17世日精上人の『日蓮聖人年譜』『家中抄』に対し、『日蓮聖人年譜』に約50カ所、『家中抄』には約200カ所の頭注を加えられている。(『富士宗学要集』第5巻/『研究教学書』第21巻)

 創価学会の疑難は次のようなものである。
 『日蓮聖人年譜』に約50カ所加えられた頭注のなか、
 「総別ハ法ノ本尊ノ立テ方ニ付テ本師未タ富士ノ正義ニ達セザルナリ本師ノ所論間々此底ノ故山ノ習情隠顕ス注意スベシ」(『富士宗学要集』第5巻118頁)
 「此下本師ノ取リ方誤レリ」(同頁)
 「此下辰師ノ造釈迦仏ノ悪議露顕セリ迷フベカラズ」(同頁)
 「本師又謬義ヲ露ハス惑フベカラズ」(同119頁)
 「踏ヲ以テ事ト解スル是傍義ナリ正解ニアラズ」(同頁)
 「元初ト本果トヲ混合スル是本師ノ錯誤ナリ」(同120頁)
 「本師ノ正助ノ対判稍濫ルガ如シ注意スベシ」(同129頁)
 「此下助行又大ニ濫ル用ユベカラズ」(同130頁)
 「助行ヲ広クシテ遂ニ一部読誦ニ及ブ正ク開山上人ノ特戒ニ背ク用フベカラズ」(同131頁)
等のような記述があり、この日亨上人の指摘によれば日精上人は御登座後も要法寺流の邪義が存していることになる。そして日亨上人がこのような指摘をされる以上、もし日精上人が間違っていなければ、日亨上人が間違っていることになり、同時に2人が正しいことはありえないから「法主無謬論」は破綻(はたん)する。
 しかも、この『日蓮聖人年譜』が御登座ののちであることは、記事中に「寛文11辛亥東夷起って両年合戦あり」と、寛文11年の記事があることで判る。それは日精上人の70歳以降である。(取意)

というものである。

 このように、創価学会の腹の底には、この問題を提起すれば、宗門には弁解ができないであろう、仮りに宗門が、日亨上人の日精上人に対する批判に会通(えつう)を試みても、その会通のなかに、日亨上人への批判があれば、それを利用して、今度は日亨上人を攻撃することができる。いずれにせよ、どちらかの御法主上人が間違ったということを、宗門自らが認めることになるから、宗門がどのような弁護を試みても、この論争に関しては、創価学会の勝ちである、というところであろう。
 いかに腹黒いかがよく判ると思う。あれほど「日亨上人、日亨上人」と信順・尊敬しているふうなことを言っておりながら、自分達に都合が悪くなれば、その日亨上人にさえ罪を被(かぶ)せて、葬(ほうむ)り去ってしまおう、という考えなのである。


2.日精上人に対する誤解の真相
 ここで基本的に考えなければならないことは、日蓮正宗の信仰は正法正師の正義を信ずるものである、ということである。すなわち破邪顕正であり、正義の追及である。日精上人に御登座後は誤りがなかったことが立証されれば(注:実は日精上人は御登座以前から謗法などなかったのである。その点については<創価学会による日精上人に対する再々度の疑難を破す>で詳述)、それは日精上人の正義が証明されるということである。その場合、日亨上人が誤解されていたということになるが、それでは日亨上人の間違いとは何であろうか。
 日蓮大聖人でも稀(まれ)には誤字があられる。しかし、そのことをもって大聖人は仏様ではない、などとは本宗の僧俗ならだれも言わない。邪宗でも、日蓮大聖人の弟子と名乗る者に、そのようなことで大聖人を下す者はいない。それは示同凡夫(じどうぼんぷ)の上の臨時の御失錯(しっさく)に過ぎないからである。
 日精上人が登座後に本宗の法義を誤られていないのならば、日亨上人の日精上人に対する批判とは、日精上人に対する誤解に基づくものであったということである。たしかに日亨上人は日精上人に造読思想が残っていたのではと、誤解しておられた。しかし、日精上人の御功績は、血脈伝持は言うまでもなく、その他においても非常に大なのである。特にその著述、『大聖人年譜』や『家中抄』に留められた資料は、かけがえのないものなのである。これはどうしても後世に伝えねばならぬ。広く発表もせねばならない。しかし、その誤謬(ごびゅう)伝説と、宗義上の問題性(日精上人の造読思想と誤解された箇所)の取り扱いは、初心者をしては、いかにも手に負えぬであろう。しかして、万やむをえず、辛口の批判を加えて、幼児の注意をうながされたのである。
 したがって、日亨上人が誤解されていたことがはっきりすれば、日精上人の正義が証明されるのであって、喜ばしいことなのである。日亨上人も御嘉納(ごかのう)あそばされるところと拝するものであり、純信の者に不満のあろうはずがない。
 困るのは、創価学会の一闡提(いっせんだい)の者どもだけである。


3-1.『家中抄』の頭注について
 さて、結論を先に言おう。日亨上人にはたいへん恐れ多いが、喜ぶべきことに、これは日亨上人の誤解である。それを立証するに当たり、先に『家中抄』の日亨上人の頭注について、拝考しておきたい。
 『家中抄』にも、日精上人に造読思想が残っていたとする批判の頭注が、『富士宗学要集』第5巻176頁・213頁・214頁・238頁等にある。
 この内、『家中抄』下巻の頭注には、
 「本師造仏ノ底意ヲ顕ス」(『富士宗学要集』第5巻238頁)
とある。これは「日印伝」の、
 「日尊立像等を除き久成釈尊を立つる故記録に背かざるなり」(同頁)
との記述についての頭注である。
 しかし、これは日精上人が、『家中抄』下巻(『富士宗学要集』第5巻239頁最後の行)【資料1】の、傍線部分に、
 「日尊日印日大の三師の伝は全く日辰上人の祖師伝を書写する者なり」
と、記されているように、『家中抄』の「日尊」「日印」「日大」の三師の伝は、日精上人の述作された文章ではなく、要法寺の広蔵院日辰の『祖師伝』をそのまま写したものであって、日辰の文章なのである。
 なお、日辰の『祖師伝』の該当箇所は、『富士宗学要集』第5巻51頁8行目である。双方は【資料2】『家中抄』、【資料3】『祖師伝』として添付するから対照されたい。
 【資料2】【資料3】の傍線部分が該当箇所であるが、『家中抄』の日印伝が日辰の『祖師伝』の写しであることが、明白である。
 日亨上人は、この部分が日辰の文章であることをつい失念されたために、批判の頭注を加えてしまわれたのである。
 それならば日精上人は日辰の邪義もそのまま引用していることになるが、謗法与同ではないかと疑う意見があるかも知れないから、この点につき一言しておく。
 むしろ、ここに『家中抄』編纂(へんさん)の姿勢がよく出ていると拝せられる。脚色を加えず原資料をそのまま紹介することは、史実を忠実に伝える方法である。『家中抄』も史伝書なるが故に、御自分で創作するよりも先人の文を採用するほうが穏当であろうと判断されたまでのことである。この姿勢は、『富士宗学要集』に日亨上人が日辰の『祖師伝』を掲載されているのと同意である。もしこれを難ずるならば、それ以前に日辰の『祖師伝』を掲載する『富士宗学要集』を発行する、創価学会の罪を追及せねばならないであろう。


3-2.『日蓮聖人年譜』の頭注について
 次に『日蓮聖人年譜』の日亨上人の批判箇所を拝考するが、これは日亨上人が「或抄」の引用であることにお気づきになられなかっただけである。実は、この部分は日精上人が広蔵院日辰を破折されている箇所なのである。
 【資料4】『日蓮聖人年譜』(『富士宗学要集』第5巻118頁冒頭から)の頭注を加えられた箇所の本文を、少し前からよく読んでいただきたい。4行目に「或抄に」とあり、5行目にも「或る抄を見るに」とある。この「或抄」とは日辰の著述である。
 同頁の5行目から6行目にかけてには、傍線の如く、
 「此の或る抄を見るに一偏にかける故に諸御書一貫せず、其の上三箇の秘法の時は唯二箇となるの失あり今便に因(ちな)みて略して之を出さん、其の中に」とあって、この「或る抄」の義は、諸御書と一貫性を欠く偏義であり、そのために三大秘法が2箇になってしまう失があるから、今、便にちなんで略して紹介しておく、というものである。つまり、この部分から先は「或抄」の抜粋であることが述べられている。
 ところが、この「或抄」の前後を含む部分の文章は改行が多く、どこが日精上人の文章で、どこからが日辰の文章なのかが非常に判りづらいのである。これがこの問題の生じた原因の1つであると拝察する。


4.日辰の三大秘法義における誤り
 さて『富士宗学要集』に戻るが、三大秘法が2箇になってしまう失(とが)とは、日辰の三大秘法の義を当家の実義で照らせば2箇になってしまうというものである。しかし『富士宗学要集』の「或抄」の引用部分だけでは、前述のような改行の関係と抜粋文であるために詳しさに欠ける面もあって、理解し難いであろうから、日辰の別の著作である『開迹顕本法華二論義得意抄』と『法華取要抄見聞』と、さらに日寛上人の『観心本尊抄文段』とを次に引用して説明する。

 初めに『開迹顕本法華二論義得意抄』には、
 「第一に本尊とは久成の釈尊也。第二に戒壇とは、佐渡の国より人々の中に給える一書の中に『天台伝教はこれを宣べて本門の本尊と四菩薩の戒壇と南無妙法蓮華経の五字これを残し給う。一には仏授与せざるゆえに、二には時機未熟の故なり。文』若しこの文に拠る時は四菩薩造立をもって戒壇と名づくか、此の外に事の戒壇これ有り。第三に本門事行の南無妙法蓮華経なり、是は曼陀羅の中央の七字なり」(日蓮宗宗学全書3-294頁)
とあり、次に『法華取要抄見聞』には、
 「次に佐渡書の四菩薩の戒壇は理の戒壇に当たるなり。問う、若し然らば理の戒壇とは天台の戒壇に属するか。答う、然らず。富士の戒壇に足を以て踏むべきの故に事の戒壇と云うなり。又は、富士一処に限る故に事の戒壇と云うなり、四菩薩の戒壇とは人々己々に亘る故に理と云うなり」(写本・大石寺蔵 ※便読のために書き下した)
とある。
 この『開迹顕本法華二論義得意抄』と『法華取要抄見聞』との記述と、「或抄」の抜粋部分の三大秘法義は全く同じであり、すべて日辰の教義であることが判る。
 要するに、日辰の教学における三大秘法義は、1に本尊とは人本尊である久成の釈尊。2に戒壇には事理が有り、理は四菩薩の造立、事は富士の戒壇。3に、題目・南無妙法蓮華経とは法本尊である漫荼羅の中央の七字である、というものである。
 次に、後世、日寛上人は『観心本尊抄文段』のなかで、
 「問う、辰抄に云く『本尊に総体・別体あり。総体の本尊とは一幅の大曼荼羅なり。即ち当文是れなり。別体の本尊に亦二義あり。一には人本尊。謂く、報恩抄、三大秘法抄、佐渡抄、当抄の下の文の「事行の南無妙法蓮華経の五字七字並びに本門の本尊」等の文是なり。二には法の本尊。即ち本尊問答抄の「末代悪世の凡夫は法華経の題目を本尊とすべし」等の文是なり』と云云。この義如何。
 答う、これはこれ文底の大事を知らず、人法体一の深旨に迷い、但在世脱益・教相の本尊に執して以て末法下種の観心の本尊と為す。故に諸抄の意に通ずる能わず。恣(ほしいまま)に総体・別体の名目を立て、曲げて諸文を会し、宗祖の意を失うなり。当に知るべし、日辰所引の諸抄の意は、並びにこれ人法体一の本尊なり云云)(『日寛上人文段集』501頁)
と、日辰の『観心本尊抄見聞』を破折されておられるが、ここに取り上げる日辰の『観心本尊抄見聞』の義は、この「或抄」の抜粋部分の冒頭と同じである。そして日寛上人は、日精上人がはっきり述べておられなかった意義を、三大秘法の開合義の上から詳しく論じられている。

 この日寛上人の御指南を拝した上で、日精上人の御指南を拝考すれば、日精上人の御意がよく判る。日精上人も詳述こそされてはおられないが、三大秘法の正義をもって日辰の教義を照らされているのである。
 つまり、初めに本尊は、人本尊と法本尊とは体一であり1箇であるから、日辰のいう本尊と題目とは別々ではなく1箇であって、ただ本尊である。次に事理の戒壇義は似て非なるものではあるが、富士を事(じ)とするために、一往与えて1箇とする。しかし、それでも本尊と戒壇の2箇でしかない。信行の題目義はどこにもないのである。


5.日精上人、日辰を破す
 このように日寛上人の御指南と日精上人の御指南とを対比してみれば、表現には隠顕の違いはあるが、奥底にある1本の大きな流れ、不変の相伝義の存在を拝することができよう。一般僧俗には窺覗(きし)すべからざる、もったいなくも血脈相承によって伝持されてきた最大深秘の法門、本尊の深義が、たしかに存在することが拝せられるのである。そして、日精上人が諸御書のなかに示される三大秘法義を正しく拝されたことは、まさしく血脈相伝によるものであることが確信せられるのである。
 したがって、日顕上人も御指南のとおり、日寛上人の当家教学の展開整足は発明教学などではないことが、日精上人のこの御指南に拝見される三大秘法義からも首肯できる。
 さらに言えば、実は日辰はこのことを既に指摘されており『開迹顕本法華二論義得意抄』等で弁解を試みているが、所詮、相伝のない哀しさ、邪義の上塗りをするだけである。
 このように「初には本尊に二あり」(118頁6行目)から「と云ふなり」(120頁3行目)までは、「或抄」の抜粋であって、日精上人の文章ではない。日精上人の文章は、これを引き終わってからの、【資料5】(120頁3行目)の傍線部分である、
 「然るに三大秘法の義を取ること偏に取るが故に相違甚多なり此の故に今之れを挙けて以て支証とするなり
がそうである。この直前の部分の日亨上人の「元初ト本果トヲ混合スル是本師ノ錯誤ナリ」との頭注は、日精上人の文章と誤解されたものであり、ここまでが日辰の「或抄」の抜粋・略抄である。
 傍線部分の日精上人の御指南は、ここまでに日辰の「或抄」の文章を引いた理由は、日辰の三大秘法の義は偏見のために2箇となってしまうなど、当家と相違している点が甚多であるから、それを明らかにするためである、というものであり、その主旨は、日辰の教学に対する日精上人の批判である。
 日精上人は日寛上人のように、詳細な論証こそ加えてはおられないが、日辰教学における三大秘法義という、邪義の代表的部分を紹介し、「一偏にかける故に諸御書一貫せず」とか「三箇の秘法の時は唯二箇となるの失あり」とか「然るに三大秘法の義を取ること偏に取るが故に相違甚多なり」と簡潔ではあるが、要点をピシャリと押さえてこれを粉砕(ふんさい)し、日辰の邪義に対する御自身の見解を表明しておられるのである。


6.「或抄」について
 この「或抄」とは、おそらく日辰の著『三大秘法ノ記』であろうと思われる。この書は刊行されておらず、古写本も見つからないが、日寛上人の『法華取要抄文段』のなかに含まれる『三大秘法の下』などのように、日辰の著作のなかの部分なのかも知れない。なにぶん日辰の文書は「等身の著述」とも言われるほど大量であるため、完全な調査のできていない現段階では、この「或抄」が『三大秘法ノ記』であると断定できないことは残念である。しかし、幸いなことに、日応上人が『弁惑観心抄』のなかに『三大秘法ノ記』を引用しておられるから、その文章を次に挙げておく。
 「三大秘法の記に本門の本尊に両義あり一には人の本尊二には法の本尊なり人の本尊者報恩抄取要抄三大秘法抄等に評する所三大秘法の中の本尊とは久遠実成の釈尊なりと云々」(『弁惑観心抄』74頁)
 「又三大秘法の記に云く本正の修行に付種々ありと雖も且く蓮祖出世の本意に約するときは三大秘法なり、報恩抄に云く本門の教主を本尊とすへしと本尊問答抄に云く法華経の題目を以て本尊と為す可し矣、是則寿量所顕の意地乃至法本尊とは本尊問答抄の意は妙法の五字を以て本尊と為す可き也是は法本尊なりと云々」(同78頁)
 これらは『日蓮聖人年譜』の118頁から121頁にかけての「或抄」の引用と内容が同じであり、「或抄」とは『三大秘法ノ記』であることはほぼ間違いないことを、創価学会の教学陣以外の方には、御理解いただけるであろう。
 また、日応上人は御所持であったのだから、今後、どこかから発見される可能性もあるので、まことに楽しみである。
 もし発見されると、次の【資料6】『日蓮聖人年譜』(『富士宗学要集』第5巻120頁)の、傍線部分の「或抄」も『三大秘法ノ記』であることが証明される。そうすると、この「或抄」の本門の題目に関する三義を引いたあとに示される、2重傍線部分の、
 「答へて云く此の三義を出せるは祖師日蓮大聖人を破り奉らんところの謗法の書なり、全く之を信ず可からず
との日精上人の御指南も日辰の書に対するものであることが明確になり、日精上人の御見解がさらに明瞭となるのである。

 日精上人が御登座以前は造読家であられたことは、前回の文書(『大白法』349号に掲載)でも述べたとおりである。それはほかでもない広蔵院日辰の影響による(注:実際は<創価学会による日精上人に対する再々度の疑難を破す>で述べられるごとく御登座前も造読家ではなかった)。その日辰に対して「謗法」とまで言われているのである。まさに血脈相承を受けられて当家の深義に至っておられた明証である。
 日辰を謗法と言われる、富士の日精上人が、法詔寺で毎日仏像を拝んでいる敬台院に対して、どのような気持ちでおられたかは察するに余りあるものがある。この信念より起こる敬台院への御慈教が、日精上人と敬台院との軋轢(あつれき)の原因である。
 日亨上人にはたいへん恐れ多いことであるが、これは日亨上人が書写による伝承という時代のなかで、偶然に、ごくまれに起こったケースに遭遇された故の誤解である。あれほどの大部の資料を一人で御研究なさったのである。あらゆる史料も御覧になられた故に、あらゆる困難や悪条件にも遭われたのである。少々の間違いは無理からぬことである。
 『日蓮聖人年譜』は、この部分さえなければ、ほかは珠玉の宝典、先師の金文である。ついにやむをえず、日精上人に造読思想が残っていたことにされて、頭注を加え、注意を促されたと拝するのである。


7.助行に関する頭注について
 これで、『日蓮聖人年譜』における、日精上人への誤解の中心部分は解けたと思う。それ以外の助行についての批判も、日亨上人は、
 「本師ノ正助ノ対判稍濫ルガ如シ注意スベシ」(『富士宗学要集』第5巻129頁)
 「此下助行又大ニ濫ル用ユベカラズ」(同130頁)
 「助行ヲ広クシテ遂ニ一部読諦ニ及ブ正ク開山上人ノ特戒ニ背ク用フベカラズ」(同131頁)
とされて、助行の混乱が一部読誦に及ぶとされているが、日精上人の論旨は、正行は南無妙法蓮華経の五字七字に限り、方便・寿量も正行ではない、いわんや一部をや、というものであって、題目以外は皆助行であることを明らかにするところに主眼が存するのである。しかして助行を広く言えば、順縁においては一部を五種に行ずるとされて、この助行は読誦論にとどまらない。
 この表現は、造読家と疑えば要法寺流に見えるかも知れないが、真実はそうではない。下種三段においては文上の法華経一部はもちろん、三世十方の諸仏の微塵の経々ことごとく正宗一品二半の序・流通分となる、という当家の法相からいえば当然のことである。また、同129頁には、
 「三五下種の功を奪ひ取って熟益と号し久遠下種の功と名くるは本門の法門なり」
とも述べられている。ここに言う「久遠下種」とは、久遠元初の言葉は用いられていないが、その文脈からいって、明らかに久遠元初の下種を述べられている。
 このように、日精上人の御意は、文底下種三段の構格をいささかも外れられていないのである。やはりこれは、内には要法寺との通用、外には不受不施がらみの身延等の暗躍の状況下にあって、「秘すべし、秘すべし」の御遺命を守って深義の顕彰をひかえ、わずかに一端を漏らされたものと拝するのである。
 ところで、『家中抄』の最後には、日精上人が頓写(とんしゃ=大勢が集まって法華経等を1日で書き写すこと)について述べられた箇所があるが、この部分の日亨上人の頭注は、
 「此等化儀ノ用捨開山上人ノ意ヲ体シテ時機ニ随フベキナリ」(『富士宗学要集』第5巻265頁)
となっている。
 この部分は、日亨上人が日精上人の著述を『富士宗学要集』で紹介された、その一番最後の所であり、頓写などは要法寺の化儀の特徴が出ていると思われる箇所である。造読家と思っておられたならば、この部分にも厳しい批判が加えられそうであるのに、不思議なことに日亨上人はそれまでとは打って変わって、これに対し、穏やかな会通をされているのである。
 この見解こそ日精上人の著述の全般に通ずる正解であり、これが日亨上人の御本心であられたのではないかと拝するのである。しかし(結果的には誤解であられたわけだが)、資料から受ける「造読家ではないか」との客観的印象は非常に強く、やむをえず、後学のために注意の批判をされたのであろう。
 その他、『富士宗学要集』第5巻176頁・213頁・214頁等の批判も、造読家という先入観から生じたものであって、そのような偏見を捨てて読めば、異義とは言えないのである。


8.三宝の御意はかりがたし盲動すべからず
 ではなぜ、血脈相承を受けられた日亨上人が、日精上人に登座後も邪義があったとしたのであろうか。それでは、相承後でも実義に達しない可能性があることになってしまう。
 この点について、御当代日顕上人は、
 「登座後に本宗の法義を誤ることはありえない
と仰せである。
 ここにおいて、日亨上人のお考えを拝するに次の文を挙げる。
 「一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。
 一、衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を推く可き事。
 この二条は、上下の差別こそあれ、常にあるべきことでない。時代はいかように進展しても、無信・無行・無学の者が、にわかに無上位に昇るべき時代はおそらくあるまい。一分の信あり、一分の行あり、一分の学あるものが、なんで仏法の大義を犯して勝手な言動をなそうや。また、多数の衆徒が連合して、みだりに非違の言行をたくましうしようか。いかに考えても、偶然に、まれに起こるべき不祥事であるとしか思えぬ」
 これは『日興上人詳伝』(436頁)の文章であるが、このように「いかに考えても、偶然に、まれに起こるべき不祥事であるとしか思えぬ」が日亨上人の偽(いつわ)らざるお考えと拝するのである。日亨上人は、こうした学者としての公平な御見解を、基本的に持っておられた。実際にはありえないことでも、理論的に可能性があるとして、客観的事実は受け入れてしまわれる態度があったのである。この学者としての美点が、逆に作用したのである。
 『富士宗学要集』の『日蓮聖人年譜』は、御自身が御正本と対照して校訂しておられ、文章に相違はないから日精上人に造読思想が残っていたことにする以外になかった。これによって日亨上人は日精上人の著作に対して慎重な態度をとられるようになったのである。しかし、この御注意があったればこそ、日精上人の著述に限らず、宗史に対して宗内一般の僧俗が慎重な態度をもって臨むという風潮が出来上がり、誤謬伝説等による悪影響がことごとく排除された。その結果、近代の布教の上で、他門から無用の論難を受けることがなかったのである。
 もしも、日亨上人の御注意がなければ、日精上人の著述からも安易な引用がなされ、その伝播(でんぱ)の影響は深く長く続いたであろう。このように拝すれば、内証不測の上人方のことであるから、あるいは、冥々のうちに協議された、衆生教化のための善巧方便かも、とさえ思えるのである。


9.日亨上人の頭注は末弟への大慈大悲
 日亨上人がこのようなお考えを持たれるに至ったのは、
 「ただし、師(日精上人)は家中抄の記事中、幾多の誤謬を残してあることは、『富士宗学要集』のなかに加えた天注のごとくである。だいたい、古文書が読めぬのに加えて、要山日辰流の造仏の偏の邪思想が深入しておるより生じた誤謬である。これらを取り払えば、師の功は大に記するに足るものがある(中略)かくのごとくおそれながら、先聖の誤を是正することも『豈(あに)罄(むなし)く興師の道を尽すにたらんや○其の欠を補ひ給はば吾ねがふ所なり』との御自記に応ずることとなるから、精上人も、かならず予が苦筆を甘んじたもうことと思う」(『日興上人詳伝』450頁)
との記述の如く、
 第1に、日精上人の『日蓮聖人年譜』や『家中抄』の歴史的記述の誤りを深く憂慮され、後学達が誤らぬよう「なんとかせねば」との気持ちを非常に強く持っておられた。それは高じて、血脈の御法主として、自分自身の責任として心を痛められたのである。そのようなお気持ちのところに、
 第2に、日精上人の『随宜論』を御覧になって、登座以前は造読家であったことを知られていたこと(注:実際は御登座前から造読家ではなかった。<創価学会による日精上人に対する再々度の疑難を破す>参照)。加えて、寿円日仁の『百六対見記』に、常在寺・常泉寺の日精上人が造立された仏像を撤廃されたのは、日俊上人であるとの記述があったこと(『富士宗学要集』9-70頁)などが重なって、ついに、「いかに考えても、偶然に、まれに起こるべき不祥事であるとしか思えぬ」との結論に達せられたのであろう。
 たしかに、結果としては、日精上人に登座後も要法寺流の考えが残ったとする批判になりはしたが、それは日精上人の著述を発表するに当たり、後学への注意を示される上に、日精上人の御意を体された訂正である。けっして軽々しい批判ではない。令法久住・広宣流布に対する大責任感の上からの、慈悲の頭注であって、その御意は、ただ「後学よ誤ることなかれ」に尽きると拝するのである。したがって、日精上人にそのようなお考えがなかったことが判れば、日亨上人も、お喜びになられると信ずるのである。
 なお、『随宜論』の末尾に、
 「第一浅草鏡台山法詔寺、第二牛島常泉寺是は帰伏の寺なり、第三藤原青柳寺、四半野油野妙経本成の両寺、五赤坂久成寺浅草安立院長安寺、六豆州久成寺本源寺是は帰伏の寺なり」(『富士宗学要集』第9巻69頁)
と書かれている箇所がある。これらの寺について、日精上人が造仏された寺ではなかろうか、との誤解があるが、これは造仏された寺と書かれているわけではない。日精上人が創建あるいは帰伏させた寺であろう。


10.創価学会を善知識ととらえ、金剛信を確立しよう
 これで日精上人に対する誤解はことごとく解けたと思う。まことに創価学会の疑難のお陰であり、まさに善知識である。
 『弁殿御消息』には、
 「しかるになづき(頭脳)をくだ(砕)きていの(祈)るに、いまゝでしるし(験)のなきは、この中に心のひるがへる人の有るとをぼへ候ぞ。をもいあわぬ人をいのるは、水の上に火をたき、空にいえ(舎)をつくるなり」(御書998頁)
と、心のひるがえる者がいたならば、祈りはかなわない、と説かれている。逆心のある者は言うまでもないが、厳しく言えば、下種三宝への信心の確立、ことに御法主上人に対する信心が確立していない者がいることも、異体同心・団結を肝要とする宗団の願業成就にとって、大きな障害となることを知るべきである。
 故に、我々はいよいよ血脈の仏法に対する金剛信を倍増し、強き祈りをもって創価学会をはじめ一切の邪義に対して慈悲の破折を行い、正法弘通の大願成就を目指さねばならないと思う。
 なお、日精上人の御苦心の『日蓮聖人年譜』や『家中抄』の記録のなかに、多少の誤謬も存在することを初めて知られた方には、不信の念を起こすことのないように願うものである。これは誤謬とはいえども、宗義上の誤りなどではなく、やむをえない事情が存するのである。そのことを御理解いただくために、ある師の言を少し付け加えておきたい。
 「日量上人が、『続家中抄』の冒頭において、
 『(日精上人の家中抄3巻は)実に末世の亀鏡、門家の至宝なり』(日蓮正宗聖典760頁)と仰せられているとおり、日精上人の『日蓮聖人年譜』に続いての『家中抄』3巻の編纂は、富士門家にとっては稀有の大事業であり、貴重な伝記史である。なぜならば、大聖人御誕生より日就上人までの、実に400年間の長期にわたる史伝であって、我が門家にはこれに比較する史伝書がないからである。
 400年という長期の歴史を、しかも交通の不便、カメラ等情報メディアのない時代に編むのである。ほとんどが徒歩と書写という辛労な手仕事では、その記述に百パーセントの確実性を望むことは、いささか無理があると考えるのは、歴史学を専攻する者ならずとも、容易にうなずけるところであろう……」
と。


<おわりに>
 まことに創価学会の邪念は悲しむべきものがある。最後に、「時局協議会資料収集班1班」による資料に基づいて、創価学会の濫觴(らんしょう)が実には日精上人の教化に始まることを示して、彼等の日精上人批判がいかに不知恩の所行であるかを記し留めることとする。
 昭和28年11月22日付『聖教新聞』には、創価学会初代会長牧口常三郎氏の10周忌が執り行われたことが報じられている。
 そのなかに、細井御尊師(日達上人)が、
 「私が昭和十六年常在寺の住職になった時から牧口先生と御交際したのであるが、その頃先生の生家から大石寺の嗣法十八(ママ)世日精上人の御開眼による御影(みえい)様が出て来た。常在寺も日精上人の御力による所が大きいので共に一生懸命やらうとおっしゃられていた」
と仰せられ、堀米尊能師(日淳上人)が、
 「牧口先生は魔を非常に強く感じておられた。常在寺へ行かれてからも祈祷のような事をやっていた者がいたので一層深く感じられたらしい。そこへ先生の御宅から御影様が出て未た。これは不思議な因縁だ」
と仰せられた記事が掲載されている。
 驚くべきことに、牧口氏の先祖は約300年前に、ほかならぬ日精上人の御化導を受けていたのである。そしてその方は、造仏どころか、宗祖本仏の明証たる御影様を日精上人に御開眼していただいていたのである。
 ここに日精上人の御化導が富士の正義であられたことが、現証によって明らかとなった。そして、創価学会の源は、はるか遠く日精上人の御化導にあったことが判った。なんたる不思議であろうか。そして創価学会なかんずく池田大作の狂気が、なんと罪深いものであるのかが判る。
 まさに日寛上人の、
 「汝は是れ誰が弟子ぞや、苟(いや)しくも門葉に隠れて将(まさ)に其の根を伐(き)らんとするや、且つ其の流れを汲んで将に其の源を塞(ふさ)がんとするや」(『文底秘沈抄』/『大石寺版六巻抄』67頁)
との呵責にそのまま当てはまる、極悪非道である。
以上







日辰の本尊観


<脱益の仏>
[日辰]=本尊についても本果を体とする立場から、久遠の釈尊を本尊とし、(中略)修因感果の久遠元初の自受用身が末法の仏であり本尊とする。故に脱益の本尊の外に下種の本尊を認めず、種脱一体の本尊とする邪義を立てた。(『新版仏教哲学大辞典』初版第2刷1364頁)

宝軽法重抄二十七に云わく、一閻浮提の内に法華経寿量品の釈迦仏の形を書き作れる堂未だ候わず云云(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻160頁)

本尊抄に云わく、南岳・天台は迹面本裏の一念三千其の義を尽くすと雖も、但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之れを行なわず已上。此の抄の意は本門の教主釈尊を以って本尊と為す可きこと文に在って分明なり云云(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻161頁)

●今文は正しく末法下種の本因の教主を明かす、日辰那んぞ在世脱益の教主にするや(『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻165頁)
●日辰重難の文に云わく、若し蓮祖を以って本尊とせば左右に釈迦・多宝を安置するや云云。今反詰して云わく、若し脱益の釈尊を以って本尊とせば左右に亦釈迦・多宝を安置するや(『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻165頁)
-----------------------
この反論より、日辰は本門の教主=脱益の釈尊=釈迦=色相荘厳の仏と考えていたことが分かる。


<本果の仏>
本尊とは久成の釈尊(日辰『開迹顕本法華二論義得意抄』/日蓮宗宗学全書3-294頁)

一宗の本尊久遠元初の自受用身なり、久遠の言、本因本果に亘ると雖も、久遠元初の自受用身の言は但本果に限って本因に亘らず。自受用身とは寿量品の教主三身宛足の正意なり。故に疏の九に云わく、此の品の詮量は通じて三身に名づく、若し別の意に従わば正しく報身に在り云云、此の義如何。(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻169頁)

久遠元初の自受用身とは本因名字の報身にして色相荘厳の仏身に非ず、但名字凡身の当体なり。今日寿量の教主は応仏昇進の自受用身にして久遠元初の自受用に非ず、即ち是れ色相荘厳の仏身なり。(中略)然るに日辰応仏昇進の自受用を以って而も久遠元初の自受用と名づく。故に応仏昇進の自受用に非ず、亦久遠元初の自受用にも非ず、今古並びに迷い二身倶に失う。豈顛倒迷乱の甚だしきに非ずや(『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻169頁~)

●若し今日寿量の教主を以って而も久遠元初の自受用と名づけば、応に何れの教の教主を以って応仏昇進の自受用と名づくべき、日辰如何 是二。又若し汎く久遠と言う則んば尚お大通に通ず、何んぞ止本果に通ずるのみならん。若し久遠元初とは但本因名字に限って、尚お本因の初住に通ぜず、何に況んや本果に通ぜんをや。(『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻170頁)

本因名字の報身とは法華論及び天台・妙楽並びに末師の中に全く文証無し、何んぞ私曲の新義を述ぶるや云云(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻170頁)
●凡そ本因名字の報身とは三大秘法の随一、正像未弘の本仏なり。前代の論釈豈之れを載す可けんや 是一。況んや久遠元初の言は即ち本因名字なり、了々たる明文具さに向に示すが如し。故に久遠元初の自受用とは即ち是れ本因名字の報身なり。何んぞ更に其の文を尋ぬ可けんや 是二。(『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻171頁)

法華論に云わく、報仏菩提十地満足して常涅槃を得、経の我実成仏已来の如し 已上。本因の五十二位中第十地修行満足して報仏菩提を得。故に知んぬ、本果の報身なり、若し報身、因位に亘らば五十八位中何処に於いて之れを立つるや云云(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻172頁)
●正法の天親は権経に付順して五十二位の階級を明かす、故に十地満足等と云うなり。末法の蓮祖は直に円頓速疾の深旨に准ずる故に本因名字の報身と云うなり。勘文抄に云わく、一切の法は皆是れ仏法なりと通達解了す、是れを名字即と為す、名字即の位より即身成仏す、故に円頓の教には位の次第無し。権経の行は無量劫を経て昇進する次位なれば位の次第を説く。今の法華は八教に超ゆる円なれば速疾頓成して下根の行者すら尚お一生の中に妙覚の位に入る。何に況んや上根をや 已上。(『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻172頁)

本果の報身は久遠元初に属すとせんや、応仏昇進に属すとせんや。(『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻173頁)
是れ応仏昇進の自受用身なり。何となれば本果の説法に即ち四教五味有り、全く今日の化儀に同じきなり。(『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻173頁~)

久遠元初の自受用身と応仏昇進の自受用身と其の異なり如何。(『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻174頁)
●多異有りと雖も今一二を説かん。一には謂わく、本地と垂迹、二には謂わく、自行と化他、三には謂わく、名字凡身と色相荘厳、四には謂わく、人法体一と人法勝劣、五には謂わく、下種の教主と脱益の化主云云。(『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻174頁)


<色相荘厳の仏>
◆末法蓮祖の門弟色相荘厳の仏像を造立して本尊と為すべきや。(『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻155頁)

若し蓮祖を以って本尊とせば、左右に釈迦・多宝を安置し、上行等脇士と為る可きなり、若し爾らば名字の凡僧を以って中央に安置し、左右は身皆金色の仏菩薩ならんや云云。此の難如何。(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻162頁)
-----------------------
大聖人を「名字の凡僧」と下し、「身皆金色の仏菩薩」に執着。

●今文は分明に法を以って人を釈す、故に人法体一の自受用身なり、日辰那んぞ色相荘厳の仏にするや(『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻165頁)

●金剛般若経に云わく、若し三十二相を以って如来と見、○若し色を以って我と見れば是れ則ち邪道を行ずるなり云云。日辰但色相に執して真仏の想いを成す、若し経文の如くんば寧ろ邪道を行ずるに非ずや(『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻166頁)


<広布達成前の造仏>
真間供養抄三十七に云わく、釈迦御造仏の御事無始昿劫より已来未だ顕われ有さぬ己心の一念三千の仏を造り顕わし在すか、馳せ参りて拝み進らせ候わばや、欲令衆生開仏知見乃至我実成仏已来は是れなり云云 又四条金吾釈迦仏供養抄二十八に云わく、御日記の中に釈迦仏の木像一体と云々、乃至此の仏は生身の仏にて御座候へ云云。 又日眼女釈迦仏供養抄に云わく、三界の主教主釈尊一体三寸の木像之れを造立し奉る、檀那日眼女、現在には日々月々大小の難を払い、後生には必ず仏と成る可し云云(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻158頁~)
若し一機一縁ならば何んぞ真間・金吾・日眼の三人有るや。次ぎに継子一旦の寵愛とは宗祖所持の立像の釈尊なり、何んぞ当宗の本尊に同じからんや。(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻159頁)
-----------------------
大聖人が信徒に対し、「釈迦御造仏」を容認されていたことを盛んに挙げている。このことからも日辰が広布達成前の本尊としての造仏を肯定していたことが分かる。

興師の御筆の中に造仏制止の文全く之れ無き所なり云云(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻176頁)



<大聖人の地位>
若し蓮祖を以って本尊とせば、左右に釈迦・多宝を安置し、上行等脇士と為る可きなり、若し爾らば名字の凡僧を以って中央に安置し、左右は身皆金色の仏菩薩ならんや云云。此の難如何。(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻162頁)
-----------------------
大聖人を「名字の凡僧」と下し、「身皆金色の仏菩薩」に執着。

下種の仏菩薩に三人有り、一は久遠実成の自受用身の釈迦と申して是を本地と云うなり、天月の如し。二には上行菩薩と申す是は垂迹なり、水月の如し。三は日蓮聖人是は上行再来垂迹なり、水月の如くなり(日辰の義/旧sf:1653)
-----------------------
「久遠実成の自受用身の釈迦」=「本地」=「仏」、「上行菩薩」=「垂迹」。つまり、大聖人は上行菩薩の再誕であるが仏ではなく、「久遠実成の自受用身の釈迦」の垂迹だというのである。

<日辰の本尊観>
★日辰の造仏とは脇士に限らない。すなわち中央本尊としての造仏である。
★広布達成前の造仏(本尊として)を肯定。
★「久遠元初」の語は用いるが、応仏昇進の仏であり脱益の仏、本果の仏である。だから凡夫即極・即座解悟を認めない。だから色相荘厳の仏に執着。
★大聖人は上行菩薩の再誕であって、久遠実成の釈尊の垂迹→凡夫僧の大聖人は菩薩であって仏(本尊)ではない