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【「弘安3年3月以降の書体」?】
<「経」の筆跡>
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文字曼荼羅研究の先駆者である立正安国会の山中喜八が指摘するように、宗祖直筆の文字曼荼羅の書体の特徴と図顕時期との関係は、特に中央首題の「経」字に於いて顕著に見ることができる。これについて山中は、現存する宗祖文字曼荼羅の全体を、その「経」字書体によって4期に分類し、
第1期 文永8年10月~建治2年8月
第2期 建治3年2月~建治3年11月
第3期 弘安元年3月~弘安3年3月
第4期 弘安3年3月~弘安5年6月
としている。(略)この山中喜八の分類に従えば、「弘安二年十月」は本来、第3期に属するはずである。ところが、問題の「経」の字を比較してみると、一見して明らかなように、大石寺板曼荼羅(※戒壇大御本尊のこと)のそれは第4期に属するもので、すなわち弘安3年以降の特徴を示している。(略)この点における「例外」は存在していない。(略)大石寺板曼荼羅の書体は弘安3年3月以降に初めて見られる書体なのである(金原某著『日蓮と本尊伝承-大石寺戒壇板本尊の真実』)
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日蓮大聖人は、文永・建治・弘安年間に数多の曼荼羅(まんだら)本尊を顕(あら)わされているが、その時期によって御本尊の相貌(そうみょう)や書体に変化が拝される。
その深意については我々凡夫の思慮できることではないが、金原某の悪書は、その点に目をつけて、上記のごとく述べる。
つまり、大御本尊の中央首題の「経」の御文字の特徴は、弘安2年10月期(第3期)のものではなく弘安3年3月以降(第4期)のものだ、というのである。
悪書は、このような説明と共に、第1期から第4期までの御本尊、及び戒壇大御本尊(であるとする写真)の「経」の御文字部分を、合計5枚の写真で対比しており、これだけを見れば、なるほど、大御本尊の書体は弘安3年3月以降の第4期に属するかのように、思い込まされてしまう内容となっている。
しかしながら、大御本尊と類似した「経」の御文字は、じつは、弘安元年8月に顕わされた2体の御本尊にも拝されるのである。
金原は、その事実を悪書の本文中には全く書かず、姑息(こそく)にも、巻末の「注」の中に小文字で述べている(こうしておけば、一般読者の多くはこれを読み飛ばすし、万一、指摘されても言い逃がれができる、と思ったのであろう)。
しかも、そこで金原某は、この弘安元年8月の2体の御本尊の書体が、「特例」「異例」であるなどと言う一方で(そもそも本文では「例外は存在していない」と断言していたはずだが!?)、なおも、
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大御本尊の「経」の御文字の筆運びが「折り返した形で運筆される」「弘安3年3月以降の筆法」であるから、弘安2年10月の書体ではない(同)
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との難癖(なんくせ)を付けている。
だが、あまり知ったふうなことは言わぬがよい。
周知のとおり、戒壇の大御本尊は御板に彫刻された御本尊である。こうした、板に彫刻された御本尊の場合、「折り返した形」等々といった筆運びを鑑定することは、ほとんど難しいのであって、悪書も名を挙げている「文字曼荼羅研究の先駆者である立正安国会の山中喜八」ですら、
●墨跡(ぼくせき)を見なくては確信のもてる返事はできない
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と述べている程である。
すなわち、金原某が知ったか振りで述べている鑑定もどきの言は、その道の第一人者ですら言えない、はったりなのである。
ともあれ、時代による御本尊の書体の変化には、大まかな傾向ではあるけれども、例外もあって決定的ではない。しかるを、最初に結論ありきで恣意(しい)的な書体批判を展開した金原某の悪書は、信ずる価値なき謀(たばか)りである、と言わざるをえないのである。(『慧妙H19.10.1』)
<「釈提桓因大王」について>
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釈提桓因は、弘安2年11月までは、基本的に「釈提桓因王」と認められ、同月を境に、以後、「釈提桓因大王」と「大」字を付されるようになる。すなわち、「釈提桓因大王」と認められるのは弘安2年11月【69】以降の特徴であって、弘安2年10月にこれが記されるのは不審といえる(『日蓮と本尊伝承』26頁)
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しかし、身延山33世日亨の『御本尊鑑』(27番)によれば、身延曽存の弘安2年7月の御本尊に「釈提桓因天王」と認められていたことが記録されている。
「釈提桓因天王」と「釈提桓因大王」は確認できる資料によって、弘安2年7月以降、同時期に拝されるものであり、また、「大」も「天」もなく、『御本尊集』77番のように「釈提桓因王」とのみ示される場合もある。
つまり大聖人は、弘安2年7月以降は、同時期に「釈提桓因大王」「釈提桓因天王」「釈提桓因王」等と自在に御図顕されるのであり、必ずしも画一的ではない。現に弘安3年2月の御本尊には「釈提桓因大王」「釈提桓因天王」「釈提桓因王」が併存しているのである。弘安2年10月の大御本尊に「釈提桓因大王」とお認めであっても全く不審はないのである。(漆畑正善『大日蓮』H20.4)
<「大迦葉尊者」について>
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「大迦葉尊者」と迦葉に「大」字を冠せられるのは弘安3年3月【81】以降の特徴で、それ以前は一切これを冠することがなく、例外も見られない(中略)大石寺板曼荼羅はまさに「南無大迦葉尊者」と刻まれており、やはり、その造立年月日とは矛盾する(『日蓮と本尊伝承』27頁)
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金原の言うように、弘安3年3月以前の御本尊で「大迦葉」と認められた御本尊は、戒壇の大御本尊を除いては現存しない。
しかし、金原の言う大聖人の御本尊中の「迦葉」についての特徴は、あくまで現存する御本尊によって確認できる範囲のことである。
御書を拝せば、「大迦葉」といった用例は文永以前にも、文応元年の『唱法華題目抄』(御書223頁)にあり、本門戒壇の大御本尊に「大迦葉」と認められたとしても、なんの不思議もない。
なお、大聖人の御本尊には、1、2幅にだけ表れる例外も数多く拝される。一例を挙げるならば、『御本尊集』32番の2、建治2年2月5日の御本尊には、二乗として「南無舎利弗尊者等」「南無迦葉尊者等」のほかに「南無大目犍連等」とお認めである。
「大目犍連等」というお認めは、現存の御本尊を見る限り、この1幅のみである。この御本尊は西山本門寺蔵で、日興上人の「日興祖父河合入道に之を申し与う」というお書き入れもあり、大聖人の御真筆たることが間違いないが、相貌としては例外である。
御書を拝しても、「目連」に「大」を冠し、「大目連」「大目犍連」等と記された用例は皆無である。すなわち大聖人の御書、御本尊を通じて、大聖人が「大目犍連」と認められたのは、この御本尊のみである。
もし例外を認(みと)めないとする金原のような考えがまかり通ってしまうと、この御本尊まで偽作とされることになる。
まして「迦葉」については、文永以前に「大迦葉」という用例があるのだから、戒壇の大御本尊に「大迦葉」と認(したた)められていても、なんの不思議もないと言うべきである。(漆畑正善『大日蓮』H20.4)
【戒壇の大御本尊と日禅師授与の御本尊】(<「大御本尊偽作発言」破折>参照)
<河邊メモ>
―「メモ」が指すのは後の正信会僧―
悪書は、故・河邊慈篤尊師の書いたとされる「河邊メモ」を悪用し、自身の邪説を正当化しようとしている。
そこで、まず「河邊メモ」について説明しておきたい。
「河邊メモ」とは次のようなものである。
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S53・2・7、A面談・帝国H
一、戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である
種々方法の筆跡鑑定の結果解った(字画判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている
(中 略)
※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の
誰かが売りに出し、それを応師が何処で発見して購入したもの(弘安3年の御本尊)
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学会側は文中の「A」とは当時・教学部長であった阿部日顕上人のことである、として、日顕上人が昭和53年当時、大御本尊を「偽物」と断じていた、と大宣伝してきた。
だが、これは所詮、メモという性質が問題である。
この「河邊メモ」を一読してもわかるように、メモというものは自分の覚えとして書き留めるものであるから、主語・述語・背景・状況などが省(はぶ)かれており、第三者が易々(やすやす)とその内容を解読できるものではない。そして事実、学会側はこのメモを誤読しているのである。
当事者である河邊尊師は、これについて、
●当時の裁判や以前からの「戒壇の大御本尊」に対する疑難について(※日顕上人とお話する中で)、それらと関連して、宗内においても、「戒壇の大御本尊」と、昭和45年に総本山へ奉納された「日禅授与の御本尊」が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折を伺(うかが)ったもの(河邊尊師)
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と、メモを残した当時の状況を述べられた。
そして、この河邊尊師の説明が当時の状況と合致する、確かなものであることを、本紙『慧妙』(H14.6.1)が証明したのである。これによって、昭和53年当時、大御本尊を「偽物」とする疑難は、日顕上人ではなく、後に正信会となる一部僧侶が口にしていたことが明らかとなった。
ところが金原某の悪書は、こうした事実を全く知らぬ顔で、
「宗門中枢より本格的な板本尊批判が登場した。談話メモとはいえ、内容はかなり具体的で、しかも主張するところはすこぶる断定的である」
などと述べ、相変わらず、日顕上人が大御本尊を否定して「偽物」と断じたことにしてしまっている。そして、これを最初の足がかりとして、大御本尊と日禅授与御本尊の比較へ入っていくのである。
要するに金原某は、大御本尊への疑難は日顕上人も述べられているものであるとして、さも、それらしく権威付けをするために、河邊メモを使った、というわけである。
全く恣意的であり、この河邊メモを利用した諜りはすでに崩れている。重ねて言うが、大御本尊への疑難は、日顕上人ではなく、現正信会の一部が口にしていたのだ。
いくら繰り返し言い続けても、雪は墨にならない、と知るべきであろう。(『慧妙』H19.10.1)
金原の悪書は、創価学会が出所を明らかにできない「河邊メモ」なるものを土台として展開し、第6世日時上人や第9世日有上人の時代に戒壇大御本尊が造立されたのではないか―等の邪推を試みている。
だが、日顕上人はもちろん、メモを書いた故・河邊師本人が、内容について完全に否定しているのであるから、土台が、すでになくなっていることに気付くべきである。
いかに様々な文献を拾い上げようとも、徒労に終わるのであるから、御苦労なことである。
しかも、その中で「戒壇の御本尊のは偽物である」というメモの文章を、何の迷いもなく「戒壇の御本尊は偽物」と決めつけて読んでいるが、ここにも大きな問題があるといえよう。すなわち、この場合「の」の字の存在は重要で、「の」の字があることによって「戒壇の御本尊の(巻物あるいは写真)は偽物」とならなければ意味が通じなくなり、結果として戒壇の御本尊とは別の「物」が浮かび上がってくるからである。
それを、あえて「の」の字を無視して読み飛ばし、その上で、あろうことか御隠尊日顕上人が、本門戒壇の大御本尊を偽物呼ばわりしたと、勝手に邪推(じゃすい)しているのだから、呆(あき)れる。(『慧妙』H19.9.16)
<題目・暑名・花押(かおう)を模写?>
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大石寺の本門戒壇の本尊は、弘安3年5月9日の日禅授与の本尊(大石寺蔵)の題目・暑名・花押(かおう)を模写し、そこに四天王や不動・愛染・十界衆生を書き加えた、後世の偽造である。
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●本門戒壇の大御本尊様と日禅授与の御本尊とは、全く相違(そうい)しているということである。よく拝すれば、中尊の7字の寸法と全体からの御位置においても、明らかに異なりが存(そん)し、また御署名・御花押の御文字、及びその大きさや御位置、各十界尊形(そんぎょう)の位置等にも、歴然たる相違が存する。(第67世日顕上人猊下H11.9.18/『慧妙』H17.3.16)
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要するに、2体の御本尊を比較して拝すれば、御図顕の時期が近いことから似通った印象はあっても、両者の間には一目で判るほどの相違が存している、ということである。
◆名判(御署名・御花押)だが、やはり似ているものの、両者に多少の違いが見うけられる(『日蓮と本尊伝承』68頁 括弧内は筆者/『大日蓮』H20.4)
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金原自身が、相違を認めている。(漆畑正善『大日蓮』H20.4取意)
[資料]:本門戒壇之大御本尊と日禅授与本尊との対比
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全体的に酷似しているが、何より驚くべきことに、首題の筆跡形状、大きさが完全に一致している(『日蓮と本尊伝承』66頁)
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日禅師とは、日興上人の弟子で総本山南之坊開基・少輔房日禅師のことで、日禅師に授与された大聖人の御本尊が、現在、総本山に厳護されている。
金原は「筆跡形状、大きさが完全に一致」(下線は筆者)するなどと言っているが、金原の書に掲載された写真を見ても、戒壇の大御本尊と日禅師授与の御本尊の首題には、「妙」の偏(へん)の部分や「経」の旁の部分、さらにほかのお文字にも、運筆や形状において大きな相違点が認められる。
また形態の面でも、日禅師授与の御本尊は戒壇の大御本尊に比して、首題が「経」に向かうほど右にずれており、全体として左に傾いている。
金原も、
「日禅授与本尊は、料紙の寸法に比して首題が極めて大きく、その首題は『経』字に向かうほど右に寄って傾き、名判は逆にやや左へ寄っているのが特徴であるが、板本尊は、写した首題を料板の中心へほぼ垂直に据えており」(同68頁)
と述べているように、その違いを充分認識している。要するに、一方で両御本尊の首題の形が完全に一致していると断定しながら、ここでは相違していることを認めているのである。(漆畑正善『大日蓮』H20.4)
<「籠抜き」という方法で模写?>
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>阿部日顕の語った「河邊メモ」の内容は、かなり入念な調査検討の上に出された結論であることがわかる(『日蓮と本尊伝承』70頁)
>おそらくこの首題は、本紙に薄紙を充ててその輪郭を写し取る、いわゆる「籠抜き」という方法で模写されたのであろうと推定される(同68頁)
>「日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」のも、籠抜きの作業によって墨が本紙の墨の上に染みたものと考えられ、日禅授与本尊にその痕跡を発見したのであろう(同70頁)
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●勿論模写の形跡などは存在しない。したがって御戒壇様と日禅授与の御本尊とを類推すること自体が全くの誤りであり、この事をはっきり、述べておくものである(『大日蓮』H2.10 6頁)
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と御指南され、日禅師授与の御本尊に模写の形跡などないことが明白である。金原の邪説は、もはや水泡に帰していることを知るべきである。
さらに言えば、「河邊メモ」には、
「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し」と、題目のほかに花押も模写であると明記されていることについて、
「名判だが、やはり似ているものの、両者に多少の違いが見うけられる」(『日蓮と本尊伝承』68頁)
として、メモにある見解を訂正している。つまり金原は、「河邊メモ」について、一方では「入念な調査検討の結論」としながら、一方では不都合な箇所を、簡単に否定して逃げ道を用意しているのである。これもまた、御多分に漏れず、金原の自家撞着(どうちゃく)に陥(おちい)った姿であり、実に姑息(こそく)な御都合主義を露呈したものであることを指摘しておく。(漆畑正善『大日蓮』H20.4)
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>名判も「日」文字が首題の真下に来るよう調整されたと思われる(『日蓮と本尊伝承』68頁)
>(御花押の)形状も、日禅授与の方は料紙の下端一杯に大書されたために、判形(御花押)の外輪がかなり歪みを見せているが、一回り大きな料板を使用した板本尊は、写し取った首題の大きさに対し書顕スペースに余裕があるため、この歪みを直している(括弧内は筆者・同頁)
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ここで金原が述べるように、両御本尊の御署名・御花押は明らかに異なっている。金原は、首題は籠抜きだが、首題と同じように中央に大書された御署名・御花押は籠抜きではなく、形を調整したなどと逃げを打っているのである。
このように、戒壇の大御本尊と日禅師授与の御本尊は、首題はもちろんのこと、御署名・御花押に至るまで、その位置や形まで全く異なっているのである。(漆畑正善『大日蓮』H20.4)
<写真撮影や鑑定調査について>
なお、今日、日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆御本尊について、写真撮影や鑑定調査を許していない。
それは、釈尊の頭頂を上から見ようとして果たせなかった者の話が示唆(しさ)するように、仏を信仰する者にとって、軽々に仏を測る(研究する)対象とすることは、上慢・不敬に陥(おちい)る畏(おそ)れがあるからである。
だが、そうした研究によらなくても、本門戒壇の大御本尊の真実性については、『聖人御難事』『阿仏房御書』『日興跡条々事』等の文証、他山に伝わる傍証の数々などによって、充分に立証されており、疑う余地がない。また、御霊宝虫払会の際に参詣・拝鑑すれば、大御本尊と日禅授与御本尊との相違も、前に示した日顕上人御教示のとおりであることが了解(りょうげ)できるのである。
こうした信解(しんげ)を無視して、かつて撮影されたという、古くて不鮮明な大御本尊の写真と、大石寺所蔵の日禅授与本尊ならぬ、北山本門寺所蔵の日禅授与本尊(日付が大石寺所蔵の御本尊と同じ弘安3年5月9日である故、あるいは大石寺所蔵の御本尊を模写したものか?)なるものの写真を、1字1字分けて比べる、などという研究にのみ拘泥(こうでい)することは、間違いなく上慢・計我(けいが)・浅識(せんしき)・不敬等、様々な謗法罪に当たるであろう。
実(げ)に恐るべきである(『慧妙』H17.3.16)。
<出処不明の写真では問題外!>
悪書(※金原某著『日蓮と本尊伝承-大石寺戒壇板本尊の真実』)は、何処からか持ち出してきた、大石寺所蔵の弘安3年5月9日御筆・日禅授与御本尊の写真(これまで公開されていた日蓮宗北山本門寺所蔵の日禅授与本尊の写真ではない)なるものと、これまで世に出ていなかった戒壇大御本尊の隠し撮り写真らしきものを比較して、首題の寸法が同じだの、酷似(こくじ)しているだのと、得々として評している。
じつに、これこそが悪書の骨子ともいうべき内容といえよう。
だが、このような比較には、真面目に真実を究明しようとしていく上では、何の意味もない。
そもそも、大石寺が認めてもいない写真で、しかも、いつ誰が、どうやって撮ったかも言えない出処不明の写真では、「これが大御本尊だ」「これが日禅授与御本尊だ」と言われたところで、白とも黒とも言いようがないし、反論のしようもない。
ちなみに、今日のCG(コンピューターグラフィックス)の技術からすれば、この程度の写真を作ることは十分可能であり、だからこそ、公式に大石寺の認める写真でなければ、比較する意味がないのである(※大石寺が、一切の御本尊について写真鑑定を許していないことは、前回すでに述べたとおり)。
要するに、金原の悪書は、単なるこけおどしの域を出ていないのであって、これに乗って具体的議論に入ることは、まさに狂人走って不狂人走るの謗(そし)りを免れぬであろう。
なお、その上で一言しておけば、仮に両御本尊の主題が酷似していたとしても、余の可能性もある。すなわち、戒壇大御本尊は弘安2年10月御図顕の、大聖人出世の本懐たる御本尊である。一方、日禅授与の御本尊は弘安3年5月の御認めである。推するは畏(おそ)れ多いが、この前提に立つならば、大聖人が何らかの深慮によって、すでに御図顕されていた大御本尊の首題を模して、日禅授与の御本尊を顕わされた可能性もある、と拝せられるであろう。(『慧妙』H19.10.1)
【板本尊造立の化儀】
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板本尊は大聖人御在世には存在せず、大聖人滅後、富士門流(日有上人時代)によって造立されるようになったものであるから、戒壇大御本尊は偽作である
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この疑難の根底には、大聖人の御書や富士門流上代の文献に板本尊に関する記述が確認できない、とする考えがあるのだが、しかしながら、これを理由に大御本尊を否定することはできない。
なぜなら大御本尊以外の大聖人の数多(あまた)の御本尊であっても、そのほとんどが御書や上代の文献に記されていないからだ。したがって文献に記述がないことをもって大御本尊を否定する根拠にはならないのだ。
まして大御本尊は、他の一機一縁の本尊と異なり、一切衆生を救済する一閻浮提総与の御本尊である。この出世の本懐である重宝を末代に残すためには、安易に口外しないなど、重々の配慮をもって厳護されたであろうことは当然のことである。(『慧妙』H24.8.16)
<大御本尊の建立意義>
板本尊を否定する者には、大聖人の御本尊は紙幅のみであるという考えが前提にあることから、楠によって造立された板御本尊の存在を認めないのであろう。
大聖人御一代中に顕(あら)わされた多数の御本尊には、それぞれ建立意義と目的に異なりがあり、御本尊図顕(ずけん)における大聖人の御化導を相伝仏法の上から正しく拝さなければ、本義を見失うこととなる。ゆえに、正法不信の者がいくら邪智(じゃち)浅見をもって御本尊の深義を理解しようとしても、けっして大聖人の御聖意に辿(たど)り着けることはない。
当宗僧俗はすでに周知のことであるが、大御本尊が何たるかを知らない者どもに、簡略に説明しておこう。
元来、大聖人所顕(しょけん)の御本尊は、大きく2種類に分けることができる。
1には、弟子や檀那への個人に与えられた御本尊である。これは、主に授与者の信行の対象として安置すべき御本尊であり、ほとんどの御本尊に授与者の名前が認(したた)められている。
2には、特別な意義と目的のもとに顕わされる御本尊で、その時々の境地より御図顕され、授与者が示されていないものもある。
戒壇の大御本尊が、このうちの後者に当たることは言うまでもない。
当宗においては、戒壇の大御本尊をもって信仰の主体としている。その理由は、大聖人の宗旨が戒壇の大御本尊に極まるからであり、法義的に三大秘法のすべてを惣在(そうざい)する上から「三大秘法惣在の本尊」と称し、また末法万年の衆生を救済するために万人を対象として御図顕され、一閻浮提(全世界)すべての人々が信受すべき御本尊である意味から「一閻浮提総与の本尊」とも称するのである。
これは大聖人が、『観心本尊抄』に
「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為(な)す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべじ」(御書P661)
と仰(おお)せられ、さらに『三大秘法抄』に
「三国並びに一閻浮提の人懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず、大梵天王(だいぼんてんのう)・帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏(ふ)み給ふべき戒壇なり」(御書P1595)
と仰せられた本尊義が示すところである。
そして、26世日寛上人も、大御本尊について
「故に弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」(文段集P452)
と、大聖人の「究竟中の究竟」「本懐の中の本懐」たることを仰せである。
つまり、本門戒壇の大御本尊とは、個人に与えられた一機一縁の本尊とは意義も目的も一線を画す、特別な本尊であり、大聖人が末法万年の一閻浮提の衆生救済のために、紙幅ではなく、木の板に認(したた)められたことは、むしろ当然と拝せられる。大御本尊の建立意義を正しく拝せば、板御本尊である道理も必然性も理解できるのである。(『慧妙』H24.7.16)
<第8世日影上人造立の板御本尊>
まず、日蓮正宗に伝わる板御本尊のうち、戒壇の大御本尊を除いて最も古いものは、栃木県信行寺に伝わる8世日影上人造立の板御本尊である。
この御本尊は、総本山に所蔵される弘安3年の大聖人御真筆御本尊を謹刻されたものであるが、このような化儀を日影上人が独創するとは考えられず、大石寺門流の伝統を踏まえ、造立された御本尊であることが明白である。したがって、板御本尊造立の始まりが日有上人からである、とする疑難は崩壊しているのである。(『慧妙』H24.8.16)
<日向も宗祖を真似て板本尊造立>
次に大聖人滅後の身延山に、板本尊の存在を確認できる文献がある。身延の古文書(身延山33世遠沽院日亨の記とされる)に
●一、板本尊 本尊は祖師の御筆を写すか、下添え書きは第三祖向師の筆なり、下添え書きに云く、正安二年庚十二月日右日蓮幽霊成仏得道乃至法界衆生平等利益の為に敬って之を造立す(『身延山久遠寺諸堂建立記』日蓮宗宗学全書22-P56)
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とあり、大聖人御筆の御本尊を模写した板本尊が、民部日向によって造立されていたことが判(わか)る。それは、もともと身延山久遠寺の本堂に安置されていた大御本尊を、日興上人が身延離山の際に富士へ御遷座(せんざ)されたため、その後に民部日向が、大御本尊を真似(まね)て板本尊を造立したものと推察できるのである。(『慧妙』H24.8.16)
この、日向造立の板本尊は、それから50年以上も、身延山久遠寺の本堂の本尊として安置し続けられたことが、記録(『一期所修善根記録』日蓮宗宗学全書1巻)により明らかである。(『慧妙』H19.10.1)
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日蓮正宗、日蓮宗を問わず、板本尊ではないが、板本尊そっくりのものがかつては多数存在していた。したがって、1300(正安2)年12月に日向造立の板本尊なるものも、「日蓮幽霊成仏得道乃至法界衆生平等利益の為に敬って之を造立す」と書いてある文があることからしても、これは板本尊というよりも、当時、中国から伝来して仏教界に普及しはじめていた本位牌や寺位牌をモデルにした板位牌だったと考えられる
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この主張は、門下上代に板本尊が成立していたことの傍証となる日向造立の板本尊を、何とか否定せんとする苦し紛(まぎ)れの説だが、はたして、日向が造立したのは「位牌」だったのだろうか。
かつて、その身延の板本尊を御覧になった59世日亨上人は、それが本尊であることを断言されている(『大白蓮華』66号)。宗内外において学匠と名高い日亨上人が、位牌と本尊の形態を見間違うはずはない。
また、先に引用した『身延山久遠寺諸堂建立記』には、
「一、板本尊 本尊は祖師の御筆を写すか」
と、明らかに板本尊と明記してある。これをわざわざ「板位牌だった」などと解釈する方が無理な話だ。しかも、この文献の別項目には、位牌に関する記述も示されており、筆録者が板本尊と位牌とを別物としていることが明らかである。(『慧妙』H24.8.16)
<日向以外の板本尊>
さらに、身延上代の別の板本尊の記録と思われる中山3世日祐の『一期所修善根記録』には、
●身延山久遠寺同御影堂、大聖人御塔頭、塔頭板本尊 金箔 造営修造結縁(日蓮宗宗学全書1-P446)
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と、観応2年に修理された身延上代の御影堂には板本尊が安置してあった、と記されている。
この他にも身延では、日向造立の板本尊以外に、行学院日朝(日有上人と同時代)が大聖人御真筆の御本尊を彫刻して板本尊を造立した記録が残っているなど、複数の板本尊の存在が知られている。
またさらに、中山門流の宝物記録である『本尊聖教録』(大聖人滅後50年頃、3代日祐著)には「板本尊一体」と記されており、当時、中山門流にも板本尊が存在していたことが判る。(『慧妙』H24.8.16)
これらのことから、日有上人以前の日蓮門下最上代より、板本尊造立の史実が存したことが判明し、それが造像本意の他門にまで及んでいることは、滅後の弟子たちが身延における大聖人・日興上人の大御本尊安置の化儀を踏襲(とうしゅう)したもの、と考えるのが当然である。
しかして、これらの史実は、大御本尊の成立時期が宗祖御在世乃至日興上人身延在住期にまで遡(さかのぼ)ることを意味しており、日有上人が初めて板御本尊を造立したなどとする見解は否定されるのである。(『慧妙』H24.8.16)
【彫刻、塗漆・金箔】
<〝彫刻〟についての疑難に理由なし>
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表面に施された塗漆・金箔についてあらためて考えてみると、全く宗祖らしからぬ作為的、装飾的表現である。(中略)たとえ何らかの意図をもって特別な御本尊を残されたとしても、「日蓮がたましいひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ」との聖語からすれば、それが紙墨(しぼく)であっても何ら不都合はないはずである(金原某著『日蓮と本尊伝承』)
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文字曼荼羅の意義が全く判っていない、きわめて情緒的に片寄った妄説である。
そもそも、日蓮大聖人が
●日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ(御書685頁)
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と仰せられているのは、何も「墨」の中に大聖人の「魂」が入っている、との意ではなく、文字によって大聖人の御悟りを顕わす、の意に他ならない。それは、
●文字は是(これ)一切衆生の心法の顕はれたる質(すがた)なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相(そう)する事あり。凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり。然れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり(御書36頁)
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とも仰せのように、色法たる文字をもって、仏の悟り・心法を顕わせば、それが仏の色心不二の当体となる、との法理によっているのである。また、
●色心不二なるを一極(ごく)と云ふなり(御書1719頁)
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との御示しもあるが、要するに大曼荼羅御本尊は、日蓮大聖人の心法を、色法の文字をもって顕わされた、色心不二・一極の当体である、というところが大事なのである。
されば、彫刻であろうと紙墨であろうと、御文字をもって顕わされた御本尊の意義には、いささかの異なりもない。
このような法理も解らぬ輩(やから)が「すみにそめながしての聖語」などと、知ったかぶるものではない。(『慧妙』H19.10.1)
<「漆(うるし)を塗ってあるから足利時代の作」?>
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漆(うるし)を塗ってあるから、あれは足利時代にできた
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●戒壇の御本尊様は楠の板である。(中略)その時分は鉋(かんな)がなかった。鎌倉時代は手斧(ちょうな)であるから、あの御本尊は手斧削りである。それを見れば、すぐわかる。それを知らないで、「漆(うるし)を塗ってあるから、あれは足利時代にできた」とか、最近は「徳川時代にできた」などと、とんでもないことを言う。ところが(大御本尊の)後ろを見ると、削った跡がちゃんと残っている。それを見ても、明らかに鎌倉時代である。手斧で、明治時代の人は知っているが、丸いものではない。あの時代には、鉞(まさかり)みたいな手斧で削った、その板です。(中略)そういうことを見ても、はっきり鎌倉時代の板本尊である。(第66世日達上人・昭和47年9月12日/『慧妙』H17.5.16)
●戒壇の大御本尊は楠の厚木です。表から見ると、こういう板です。ところが、これは大変な板です。ただの板ではないのです。(中略)後ろから見ると丸木です。丸木を、表だけ(平らに)削ってあるわけです。(中略)これを削った手斧は、鑓(やり)手斧とも鑓鉋ともいいますね。それで削った。それは赤澤朝陽氏がちゃんと言明しております。だから鎌倉時代のものである。(中略)足利時代から、今日使用しているような手斧ができてきますが、鑓手斧は鎌倉時代のものです。(第66世日達上人・昭和52年5月28日/『慧妙』H17.5.16)
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赤澤朝陽は彫刻を行う仏師。後に、創価学会の模刻本尊の彫刻を行ったあげく、自らも信心を失い、今日では学会側に付いている。
【「大御本尊の脇書(わきがき)は後から接合」?】
―過去の杜撰な疑難の焼き直し―
―日亨上人が御精査の上、疑難を一掃―
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"弘安2年10月12日の本門戒壇の本尊"という由来は、大石寺の板本尊の下部に記された脇書(わきがき)によるものだが、その脇書の部分は、曼荼羅の上部とは別の材質でできており、後付けで接合されたものである。ゆえに"弘安2年10月12日"の日付も"本門戒壇"の意義付けも、全て大石寺の謀作(ぼうさく)である。
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見てきたような嘘(うそ)、邪推(じゃすい)・妄想とは、このようなことをいうのである。本門戒壇の大御本尊は、楠の丸木をもって彫刻された御本尊であって、そこには継目(つぎめ)も疵痕(きずあと)もなく、むろん材質の異なりなどもない。
●俗説は噴飯(ふんぱん)もの多し。板本尊鎹(かすがい=合わせ目をつなぎ止める大釘のこと)打ちの事など、自他の俗伝の怪しきものを一掃するために、もったいなき事ながら、役僧等と共に表裏ととも綿密に拝査したるに、生地にも漆(うるし)の下にも、何らの疵痕もない事を公言して、疑惑を除こう。(第59世日亨上人著『富士宗学要集』第9巻57頁)
事実、戒壇の大御本尊の御開扉で、比較的前の方に座って拝鑑(はいかん)できた者は、皆、大御本尊に、継目(あるいは漆の下の継目の跡)などないことを確認しているのである。
この妄説は、もともと稲田海素の説によるものらしいが、あまりの杜撰(ずさん)さ、いいかげんさに、開いた口が塞(ふさ)がらない。
かかる妄説によって、戒壇の大御本尊を誹謗(ひぼう)し、また大御本尊への信仰を押し倒そうとする行為は、大謗法の譏(そし)りを免(まぬが)れぬであろう(『慧妙』H17.3.16)。
【「大御本尊の相貌が七箇相承に違背」?】
―『七箇相承』は御歴代の書写を御教示―
―他の御筆御本尊も『七箇相承』と相違―
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『御本尊七箇相承』(『富士宗学要集』第1巻32頁)によると、「日蓮御判と書かずんば天神地神もよも用ひ給はざらん」「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号と之を書く可(べ)し」「仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提(いちえんぶだい)の内・未曽有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘(まま)書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見(だいびゃっけん)不相伝の至極(しごく)なり」とある。しかるに本門戒壇の本尊には、「日蓮御判」と書かれておらず、「若悩乱者頭破七分」等の文もなく、「二千二百二十余年の間」と記されている。ゆえに、これは天神地神も用いない大僻見・不相伝のニセ本尊である。
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何としても本門戒壇の大御本尊を否定したい、との底意があるから、こういう戯(たわ)けた読み方となるのである。
まず、この『御本尊七箇相承』は、日蓮大聖人が第2祖日興上人以下の御歴代上人方に、御本尊書写の在(あ)り方を御示しになったものである。
しかして、大聖人が顕(あら)わされる御本尊の中央首題には「日蓮」の御署名と御花押が記(しる)されるが、御歴代上人方が書写される場合は「日蓮御判」と書くように、と示されたのが、妄弁者が最初に引いている御文である。これをもって、戒壇の本尊には「御判」と書かれていないからおかしい、などと言う輩(やから)は、むしろ、おかしくなっているのは自分の頭の方である、ということを自覚すべきであろう。
次の「若悩乱者」等の文も、御歴代上人の書写される御本尊の両肩に書くよう御示しになったもので、大聖人の顕わされた根源の大御本尊の相貌(そうみょう)について示されたものではない。よって、この文がないから云々、との疑難は全く当たらない。
最後の「仏滅度後二千二百三十余年」の御文は、特に「三十余年」か「二十余年」かを撰ぶものではなく、要は、正法・像法に未曽有の(つまり末法に初めて出現するところの)大曼荼羅であることを明記して、略してはならない、と御示しになったものである。そして、現に、大聖人御図顕の数多(あまた)の御本尊には、「三十余年」と「二十余年」の両様が存するのだから、これをもって「ニセ本尊」だ、などと言うことはできない。(『慧妙』H17.3.16)
以上のごとく、仏法の基礎もわからぬ者が、訳知り顔で本宗深秘の相伝書たる『御本尊七箇相承』を持ち出し、大御本尊否定に利用せんとする―その曲解と浅識は明白である。
謗法者よ、後生を畏るべし。
【なぜ日興上人を対告衆にしなかったのか】
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大聖人が大御本尊を日興上人に授与されたのなら、なぜ日興上人を対告衆にしなかったのか
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これは、大聖人が大御本尊を御図顕あそばされた経緯(けいい)を正しく拝せない故(ゆえ)に生じる邪見である。
そもそも大御本尊御図顕の背景には「熱原法難」が重大な機縁となっている。
この法難は、建治2年頃から、富士南麓一帯における著(いちじる)しい正法弘通と入信者増加に対し、怨嫉(おんしつ)した他宗の僧等や法華誹謗(ひぼう)の者達が、様々な恐喝(きょうかつ)や迫害をもって法華講衆の弾圧を企(くわだ)てたところに端(たん)を発する。そして、弘安2年(1279年)4月頃からいよいよ凶悪化し始め、8月の法華衆徒・弥四郎の斬首(ざんしゅ)を経(へ)て、9月21日に神四郎ら20名の信徒を拘引(こういん)したことにより、ピークに達したものである。
この事態を受けて大聖人は、法難真っ只中の10月1日に『聖人御難事』を著(あらわ)された。この時の法難が尋常ならざる状況であったことは、同御書に、
「彼のあつわら(熱原)の愚癡の者どもい(言)ゐはげ(励)ましてを(堕)とす事なかれ。彼等には、たゞ一えん(円)にをも(思)い切れ、よからんは不思議、わるからんは一定とをも(思)へ。ひだる(饑)しとをも(思)わば餓鬼道ををし(教)へよ。さむ(寒)しといわば八かん(寒)地獄ををし(教)へよ。をそ(恐)ろしゝといわばたか(鷹)にあへるきじ(雉)、ねこ(猫)にあへるねずみ(鼠)を他人とをも(思)う事なかれ」(御書P1398)
と仰せられ、拘引された熱原の信徒達が、無事に釈放される可能性は極めて乏(とぼ)しく(よからんは不思議)、逆に極刑に処せられることは間違いない(わるからんは一定)であろう、と推察されていたことからも窺(うかが)えるのである。
この法難における、僧俗の不自惜身命の信心の姿を通して、今まさに出世の本懐を遂げられるべき時機の到来を感ぜられた大聖人は、同御書に、
「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計(ばか)りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり」(御書P1396)
と宣言あそばされた。そして、諸(もろもろ)の準備を整えられた11日後に、三大秘法の意義を総する本門戒壇安置の根源の大曼荼羅本尊を顕(あら)わされたのである。この大曼荼羅本尊こそ、日興上人が『日興跡条々事』に、
「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す」(御書P1883)
と示された本門戒壇の大御本尊である。
ここで留意すべきことは、大聖人の顕わされた御本尊にも、大別して以下のような意味の相違がある、ということである。
1には、出家・在家への個人賜与(しよ)の本尊であり、その多くは信行の対象として安置すべき御本尊であるが、中には守り本尊の意味で顕わされ授与されている御本尊もあり、これらの場合、ほとんどの御本尊に授与者の名前が書かれている。
2には、特別な意義と目的の下に顕わされるか、またその時々の境地より顕発される本尊で、授与書きが示されていない。この場合、願主と授与者とが共通でない場合があるのは、法華経の説法においても、発起衆と影響衆・当機衆・結縁衆とがそれぞれ分かれているのと同様である。
実際、文永・建治・弘安の各期にわたって授与書きのない御本尊を相当数拝するが、授与書きがなくとも、それぞれ、大小の目的に従って委任すべき弟子に譲られたのは当然である。
しかして、本門戒壇の大御本尊は唯一究竟の大目的のもとに、
「本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆等敬白」
と認(したた)めて、弥四郎国重が願主であることを示されたが、その実、大御本尊は国重等の一機のためではなく、広宣流布の暁に本門戒壇に安置すべき御本尊として、独(ひと)り血脈付法の第2祖日興上人に付嘱・授与された。そして、前掲の『日興跡条々事』に拝するとおり、日興上人も、血脈嗣法の第3祖日目上人へ譲(ゆず)られたのである。個人への授与でないから、大聖人より日興上人への授与書きが示されていないのは当然のことである。
この深重の意義を知らず、ネット上で無責任に戯言を列(つら)ねる妄弁者には、自らの浅識を改め、一刻も早く、大御本尊への冒涜(ぼうとく)行為を反省懺悔(ざんげ)すべきことを忠告しておく。(『慧妙』H24.5.16)
【「願主に3つの不審あり」?】
<氏素性が不明?>
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大石寺の戒壇本尊の願主は「弥四郎国重」だというが、これは御書のどこにも登場しない、氏素姓(うじすじょう)の全く不明な人物で、そもそも実在が疑わしい。
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戒壇の大御本尊の願主「弥四郎国重」殿の氏素性であるが、今日においては、それが、熱原法難初期の弘安2年8月に、謗法者により斬首(ざんしゅ)された法華衆徒・「弥四郎」(御書P1404)のことであったか、あるいは熱原三烈士の1人・神四郎は、兄を弥藤次といい、弟が弥五郎・弥六郎というから、元の名は「弥四郎」で、かつ武家の出で「国重」という名を持っていたのか、はたまた斬首された神四郎・弥五郎・弥六郎の名前の1文字ずつを取って「弥四郎」とされたか、詳細を明らかに知ることはできない。
だが、いずれにしても、日蓮大聖人の御境界において、弥四郎国重をはじめとする強信の法華講衆を戒壇の大御本尊の願主とされたことにつき、否定すべき根拠とはなりえない。
もし今日、願主の氏素姓が不明だからということを理由に、その御本尊も偽作ではないか、などというのであれば、現存する大聖人御直筆の御本尊のうち、授与者の素性が不明な御本尊は多数存するが、それはどうするのか。授与者の素性がハッキリしない御本尊は偽作である、などと言えないことはむろんである。
また、後世、もし、不届きな者が御本尊を偽作するとしたら、それこそ四条金吾殿や南条時光殿など、よく知られている人物を願主に選ぶはずである。わざわざ氏素姓のはっきりしない「弥四郎国重」という名を使うはずもない。
むしろ「弥四郎国重」の名が使われている、ということは、大御本尊が後世の偽作などではない証(あかし)の1つといえよう。(『慧妙』H24.6.16)
<「本門戒壇之(の)願主」であって本尊の願主ではない?>
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戒壇本尊の脇書(わきがき)によれば、この「弥四郎国重」は「本門戒壇之(の)願主」なのであって、本門戒壇に安置する本尊の願主ではない。
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そもそも本門戒壇の大御本尊について、第26世日寛上人は、
「本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり」(六巻抄P82)
と示されている。つまり、「三秘総在の義」(本門の本尊の在〈おわ〉します処が本門の戒壇であり、本門の本尊に向かって唱え奉る題目が本門の題目である。故に本門の本尊に、戒壇も題目もすべて包含〈ほうがん〉されている、との意義)により、大御本尊の当体には、そのまま本門戒壇の意義が具(そな)わっている。
されば、大御本尊の願主を「本門戒壇之願主」と記すことについて、何の不都合もあろうはずがない。
妄弁者は、こうした三秘総在の義すら理解していない頭で、やみくもに疑難を加えているにすぎないのである。(『慧妙』H24.6.16)
<「弥四郎国重」が脇書書いた?>
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脇書に「右為現当二世造立如件 本門戒壇之願主 弥四郎国重法華講衆等 敬白(けいびゃく)」とあることからすれば、「弥四郎国重」こそが、この脇書きを書いた本人であることになる。
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おそらくは、脇書の末文の願主名の直後に「敬白(けいびゃく)」とあるのを見て、この脇書は、願主が敬(うやま)って白(もう)した文である、と解釈し、このような疑義を考えついたのであろう。だが、それならば、この脇書は
「願主 法華講衆弥四郎国重 敬白」
と書かれていなくてはならない。それが実際は、
「願主 弥四郎国重法華講衆等 敬白」
と記されている。これでは、弥四郎国重ほか多勢の法華講衆が皆で脇書を書いたことになり、まことに考え難(がた)い文意となってしまうのである。
こうした誤りは、脇書だけを抜き出してきて読むから起きるのであって、素直に全体を拝すれば起きえない誤読である。
しからば、正しい拝し方はいかん、といえば、この脇書の文は、そのすぐ上に御署名を記されている日蓮大聖人が、不惜身命の信心を貫いた弥四郎国重はじめ法華講衆等に、称賛の意を表して認(したた)められた文、と拝し奉るのである(すなわち、願主が敬って白しているのではなく、大聖人が「敬って白す」と記されたのである)(『慧妙』H17.4.16)。
以上、願主に拘る疑難を破してきたが、所詮、これらの疑難は、首尾一貫した仏法の正義を浅識をもって捉(とら)え、我見を正当化せんとする妄説にすぎない。加えて、大御本尊を否定するために立てられた邪義である故に、「頭破七分」して支離滅裂となっているのである。
即刻、大謗法の謬見(びゅうけん)を改めるべきことを再告しておく。
【「身延に楠はなかった」?】
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鎌倉時代の身延は小氷期であり、楠木が自生できる気候ではなかった
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過去における地球の気候の変動については諸説があり、現段階において鎌倉時代を小氷期とすることはできない。(中略)
大御本尊の素材である楠木の生育を検証するとき、考えなければならないことは、鎌倉期の気候よりも、むしろそれ以前の気候変動である。大御本尊に用いられたような大樹であれば、それなりの樹齢が必要であり、鎌倉期以前の気候が関わってくることは当然である。
しかるを、大聖人御在世当時の鎌倉期の気候のみを取り上げ即断する軽率な検証態度には、初めから大御本尊を否定せんとする悪意が垣間(かいま)みられる。
ちなみに、ネット誹謗者のHPに引用されている坂口豊論文(専修人文論文集51巻)の年表には、鎌倉・江戸期を小氷期としているが、それ以前の奈良・平安期は温暖期であると表記している。この見解によるならば、少なくとも奈良・平安期の5百年間は温暖期となるため、樹齢5百年の大樹が生育していることは何ら不思議でない理屈となるし、実際、比較的成長の早い楠木ならば、十分、大樹となり得るのである。
このように、ネット誹謗者が大御本尊を否定する材料とした資料が、逆に、大御本尊の正当性を示す傍証となっているのだから、笑止千万という他ない。
大御本尊を誹謗せんとする輩(やから)が、さまざまな資料文献を自分に都合よく解釈する我田引水、牽強付会ぶりは、滑稽(こっけい)の極みである。
さて、そもそも楠木とはどのような樹木なのか。
クスノキ(Cinnamomum camphora)は、クスノキ科ニッケイ属の常緑高木で、ベトナム・中国・台湾・日本の亜熟帯から暖温帯に生育している。日本の分布域は九州・四国・本州南西部の太平洋側であり、そのなかでも生育適地として、沖積地(ちゅうせきち)の肥沃(ひよく)な土地を好んでいる。
そのため現在では、分布域内のほとんどが水田化されたことなどにより、日本ないし台湾においても自然林は稀(まれ)である。
しかし、条件を満たせば、山地などでクスノキの自然林も現存しており、例えば、富士山麓の標高5百メートル付近に生育している。また伊豆半島では、クスノキの大樹が生育しており、古くから造船などに使用されていたことが知られている。これらは、縄文時代よりクスノキが日本に自生していたことを示すもので、その後の気候変動にもよく適応してきた証拠である。
さらにいうなら、関東北部の内陸に位置する群馬県桐生市にも、樹齢が6百年を越えるといわれる楠木が現存し、また藤岡市では楠木を、「市の木」に指定している。すなわち楠木は、身延よりもはるかに寒さの厳しい北関東の地においても立派に育ち、かつ「市の木」に指定されるほど一般的な樹木になっている、ということである。
さて、問題の身延地方に生育する楠木であるが、現存する大樹は数本にのみ止まる。
しかし、先にあげた富士山や、また清澄山地域でも生育が認められることから、これらの地よりも暖かい富士川峡谷の身延に、古来より多数の楠木が生育していたであろうことは十分に推測できる。それが水田化などの開拓のほか、また、建築物への資材利用(楠木は寺社建築や仏像などにも使用された)などの人為的伐採、または急激な気候変動などが原因となり、残存する楠木は少ないと考えられる。
ゆえに、現在の身延地域に生育する楠木が少数であるからといって、大聖人御在世当時に身延に楠木が生育していなかった、などとする主張は成り立たないのである。
ネット上における誹謗者が、あの手この手で、大御本尊への誹謗を書き連ねても、所詮、根拠のない言いがかりであり、このようなネットの情報に惑(まど)わされてはならない。
また、疑うべき確かな根拠もないのに、大聖人が「たましひ(魂)を墨にそめながして」造立された大御本尊を、何とか否定せんとする行為そのものが、御本仏への冒涜(ぼうとく)行為であり、その重罪は計り知れないと知るべきである。(『慧妙』H25.4.16)
[画像]:桐生市のHPでも紹介されている「野の大クスノキ」と呼ばれる大樹(『慧妙』H25.4.16)
●本門戒壇にはむろん本門の大曼荼羅を安置すべきことが、とうぜんであるので、未来建立の本門戒壇のために、とくに硬質の楠樹をえらんで、大きく四尺七寸に大聖が書き残された(第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝(下)』59頁)
【「安置できる場所はなかった」?】
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>身延に庵室が造られたのは、文永11年の6月で、この建物は3間4面、高さ7尺の小さなものであった(『日蓮と本尊伝承』92頁)
>右の如き状況の中に、5尺弱の厚板に漆・金箔の施された巨大な板本尊が、台座に据えられて安置されたことを想像するのははなはだ困難である(同94頁)
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たしかに『庵室修復書』等の記述によれば、大聖人の住まわれた建物は、さほど大きいとは感じられない。しかし、
●人はなき時は四十人、ある時は六十人、いかにせ(塞)き候へども、これにある人々のあに(兄)とて出来し、舎弟(しゃてい)とてさしいで、しきゐ(敷居)候ひぬれば(弘安元年11月29日御作『兵衛志殿御返事』御書1295、全集1099頁)
●抑(そもそも)貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目(がもく)其の数有りしかば、今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ(弘安2年8月11日御作『曽谷殿御返事』御書1386、全集1065頁)
このように、多くの人々を身延の地に収容しえた状況を勘案すれば、庵室はともあれ、身延の建物のすべてが、戒壇の大御本尊を安置できないほど狭隘(きょうあい)・狭小なものでなかったことは明らかである。(森岡雄樹 御尊師『大日蓮』H20.5)
【「大御本尊を造立する資力はなかった」?】
―身延周辺の楠木には輸送コストなど不要―
―極貧どころか百人余の人々を十分賄(まかな)えた―
―大御本尊造立に"高額な外注"は不要―
―史実に明らかなこれだけの根拠!―
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日蓮一門に経済力がなかったため、他から楠木を調達することは不可能だった
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これは前提が誤っている。
誹謗者の言う「他から」とは何処(いずこ)のことを指すのか、身延近辺なのか、それとも伊豆や関東など遠距離の場所を指すのか。もし身延から離れた場所のことを指すのであれば、まずはその証拠を出してから主張せよ、と言っておく。
すでに前号で述べたように、当時の身延近辺には楠木が樹生していたのであるから、わざわざ遠方より調達する必要はない。身延の楠木を使用すれば当然、運搬資金もかからない。
ゆえに、誹謗者の「他から楠木を調達することは不可能だった」との疑難自体が成り立たないのである。(『慧妙』H25.5.16)
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・日蓮一門に楠木加工・漆(うるし)加工・金箔(きんぱく)加工ができる経済力はなかった
・日蓮自身が、身延山中での食うや食わずの極貧(ごくひん)生活をいくつもの遺文(御書)に書き綴(つづ)っているのである
・日蓮が身延山にいた9年間で信者から受けた供養金の1年平均ではたった19万2千5百円では、身延山での日蓮の生活は、ほとんど食うや食わずの生活だったことが明らかである
●五尺のゆきふりて本よりもかよわぬ山道ふさがり、といくる人もなし。衣もうすくてかんふせぎがたし。食たへて命すでにをはりなんとす(『上野殿御返事』〈弘安2年12月27日作〉御書P1437)
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身延山中での食うや食わずの極貧生活を送っていることを日蓮自身が認めているのである。こういう極限の極貧生活をしていた日蓮には、漆加工や金箔加工を行う経済力は絶無である
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この疑難の根拠として、誹謗者は『上野殿御返事』(弘安2年12月27日作)の
「五尺のゆきふりて本よりもかよわぬ山道ふさがり、といくる人もなし。衣もうすくてかんふせぎがたし。食たへて命すでにをはりなんとす」(御書P1437)
との一文を挙げ、「食うや食わずの極貧生活を送っていることを日蓮自身が認めている」というのである。だが、本当にそんな状況だったなどと思っているのか。
この御金言は、寒中の大聖人を思って御供養申し上げた上野殿の信心の篤(あつ)さ、尊さを褒(ほ)めるため、寒中の身延で生活する大変さを強調された御言葉であって、実際に大聖人が「食うや食わずの極貧生活を送って」いたわけではない。
その証拠に、弘安元年11月の『兵衛志殿御返事』には
「人はなき時は四十人、ある時は六十人」(御書P1295)
と仰せられて、40~60人の弟子達が身延へ来て修学していると述べられており、これが翌・弘安2年8月の『曽谷殿御返事』になると
「抑(そもそも)貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目(がもく)其の数有りしかば、今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」(御書P1386)
とあるように、増員して百人を超える大人数を身延に居住させていたことが分かる。
その大人数を養(やしな)うための資力があったのであれば、大御本尊を漆加工・金箔加工する程度の資力がない、などというはずがないではないか。
また、もう一言付け加えておくが、誹謗者は現存する御書のみからの資金額を求めているが、紛失した数多(あまた)の御書を含めて考えれば、実際は、さらに多くの御供養(資金)があった、と見るのが当然であろう。
したがって、"漆加工や金箔加工を行なう経済力は絶無"などという疑難がまったくの邪推にすぎぬことは明らかである。(『慧妙』H25.5.16)
[画像]::身延山にある大聖人の草庵跡。「草庵」とはいうものの、その十間四面(百坪)という規模は、多くの弟子が大聖人のもとで修行に励んでいたことを裏付けるもの
つぎに、「楠木(くすのき)、漆(うるし)、金箔の加工」について述べる。
これらの加工について誹謗(ひぼう)する者は、どこかの有名な仏師に依頼したものとの前提に立って、資金や加工技術のことを考えているのだろう。
だが、そもそも大御本尊は、弟子の和泉公日法師が彫刻したものと伝わっており、そこに莫大(ばくだい)な費用がかかるはずがない。
また、傍証として挙(あ)げておくが、大聖人当時、木や紙、ひいては漆や金箔を加工できる職人が、身延付近に在住していた。すなわち『富士一跡門徒存知事』に、
「甲斐国下山郷の地頭左衛門四郎光長は聖人の御弟子、遷化の後民部阿闍梨を師と為す(帰依僧なり)。而るに去ぬる永仁年中新堂を造立し一体仏を安置するの刻み、日興が許に来臨して所立の義を難ず。聞き已はって自義と為し候処に、正安二年民部阿闍梨彼の新堂並びに一体仏を開眼供養す。爰に日澄本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ、日興に帰伏して弟子と為る」(御書P1874)
とあるが、ここに述べられる、永仁年中に新堂並びに一体仏を造立した下山光長とは、甲斐国下山郷(現在の山梨県南巨摩郡身延町下山)を領する地頭である。下山光長が新堂と一体仏を造立できたのは、この下山一門が大工の集団であったからである。
下山郷に住する下山一門は、鎌倉時代初期から宮大工として活躍していた集団であり、この下山一門が古来より大工集団であったことは、『吾妻鏡』のなかに、
「廿七日己未。奉二為故竹御所一廻御追善一。武州被レ造二立佛像一。佛師肥後法橋云云。下山次郎入道。三澤藤次入道等為二奉行一」(国史大系三三吾妻鏡後編P153)
と記されているように、嘉禎元年(1235年)5月27日の鎌倉将軍頼経室である竹御所の1周忌の折に、執権北条泰時が仏像の造立を下山次郎入道(光重)らに命じていることからも知ることができる。
また下山一門は、大聖人滅後、身延離山の折に日興上人に随(したが)って富士へ移り、大石寺建立の一端を担(にな)っている。
すなわち、大石寺創建にあたっては、大坊・塔中坊を建立し、その後も御影堂、御経蔵、三門など、江戸期の主要な堂宇は、ほぼ、下山大工が携(たずさ)わっているのである。
このように当時、身延や富士に彫刻技術をもたらし、木材物資を提供したのが、下山大工の存在である。下山大工が大御本尊造立に携わったとの文献資料は存在しないが、下山家が日興上人の教化による有縁の信徒であることを勘案すれば、むしろ当然のことといえるであろう。
さらにまた、大聖人滅後の身延山に板本尊が存在した、との事実からも、大御本尊造立が可能であったことはみてとれる。身延の古文書には
「一、板本尊 本尊は祖師の御筆を写すか、下添え書きは第三祖向師の筆なり、下添え書きに云く、正安二年庚子十二月日右日蓮幽霊成仏得道乃至衆生平等利益の為に敬って之を造立す」(『身延山久遠寺諸堂建立記』日蓮宗宗学全書第22巻P56)
とあり、大聖人御筆の御本尊を模写した板本尊が、民部日向によって造立されていたことが判(わか)る。
さらに中山三世・日祐の『一期所修善根記録』にも、
「身延山久遠寺同御影堂、大聖人御塔頭、塔頭板本尊 金箔 造営修造結縁」(日蓮宗宗学全書第1巻P446)
と、身延上代の御影堂に板本尊が安置してあったことが記録されている。
民部日向造立の板本尊と、中山三世・日祐の記した板本尊が同一のものかは定かではないが、いずれにしても大聖人入滅後、程なくして身延久遠寺において板本尊が造立されており、さらに「金箔」と記されているように、それが金箔で加工された板本尊であったことがわかる。
このような史実からすれば、大聖人御在世においても、板御本尊の造立と、漆・金箔の装飾加工が成し得たであろうことは、想像に難(かた)くない。ことほどさように、大御本尊に対し奉る疑難は、邪推で固まっているのである。
御本尊を物体視して邪義を振りまく輩(やから)よ、汝等(なんじら)の罪業は、極大深重であると知れ。(『慧妙』H25.6.1)
[画像]:身延にも上古から板本尊が存在した!(写真は日蓮宗の宗学全書)