創価学会破折
「大御本尊偽作発言」破折
★総まとめ/『慧妙』H15.3.16ほか
・河邊メモ【御法主日顕上人御指南】/H11.9.18
・「河辺メモ」で晒(さら)した『フェイク』の醜態(しゅうたい)/『慧妙』H23.5.16
・「河辺メモ」利用した誹謗に終止符/『慧妙』H23.4.16
・「河辺メモ」利用した誹謗を完全粉砕!/『慧妙』H23.3.16
・一片のメモによる邪推を根こそぎ破折/『慧妙』H15.3.16
・砕け散った「河邊メモ」悪用の邪難/『慧妙』H14.6.1
(『慧妙』H15.3.16ほか)
【河邊メモ】(資料参照)
S53.2.7 A面談 帝国H
一、戒旦之御本尊之件
戒旦の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。
一、Gは話にならない
人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の事ではGでは不可能だ。
一、Gは学会と手を切っても又2、3年したら元に戻るだらうと云う安易な考へを持っている
※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の誰かが売に出し、それを応師が何処で発見して購入したもの。(弘安3年の御本尊)
学会側は文中の「A」とは当時・教学部長であった阿部日顕上人のことであるとし、これは、日顕上人が自身の考えを述べ、河邊尊師がそれを記録していたものだ≠ニ勝手に決めつけ、平成11年7月7日発行の怪文書『同盟通信』を皮切りに、『創価新報』(8月4日号)などで、
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・日顕(上人)は、宗門教学部長の要職にあった昭和53年2月7日、東京の帝国ホテルで河邊(尊師)と面談し、戒壇の大御本尊の真贋(しんがん)を論じ、日達上人の批判をしていたのである
・今回、発覚した日顕(上人)の大謗法発言は、日顕(上人)が21年前、教学部長という立場を利用し、あろうことか、この日禅授与の御本尊と戒壇の大御本尊とを種々の方法の筆跡鑑定、字画判定にかけていたというのである。
しかも、その結果わかったことに、戒壇の大御本尊の首題の『南無妙法蓮華経』と『花押』は、日禅授与の御本尊の首題と花押を模写(もしゃ)したものであり、その他の部分は、大石寺6世・日時上人や9世・日有上人の時代の筆跡になっている。また、その証拠に日禅授与の御本尊には、模写された形跡が残っている、というのである
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と、日顕上人が大御本尊否定の邪説を唱えた≠ニの大宣伝を述べたてたのである。
<違法に入手した"証拠">
そもそも、この「河邊メモ」なるものは、故・河邊慈篤尊師の個人的なメモであるが、それが何ゆえに学会の手許(てもと)にあるのか―なんと、盗人の手によって河邊尊師のもとより盗み取られ、それを入手経路を隠したまま創価学会が悪用しているのである。
しかも、その盗品の内容を、持ち主である河邊尊師の許可もなく公開して御法主上人誹謗に使うとは、創価学会という宗教団体がいかに薄汚ない教団であるかがわかろう。
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「河邊メモ」流出についてだが、これは誰かが盗み出したものではないのだ。日顕(上人)は「盗座」してからは思い上がって河邊の言うことを聞かなくなった。
そこで河邊(尊師)は日顕(上人)を脅迫(きょうはく)するために意図的に流出させたメモなのである(『フェイク』第1187号)
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そもそも、人を脅迫しようというなら、「メモを公開するぞ」と脅迫することはあっても、実際に流出させてしまっては脅迫にならないではないか。こんなことは子供にでもわかる道理だ。
『フェイク』よ、それでも「河邊メモ」は河邊尊師が脅迫のために意図的に流出させたものだ、といいたいのなら、次号で「河邊メモ」の流出経路を明らかにして自説を証明してみよ。どうせできまいが。呵々(かか)。(『慧妙』H23.4.16)
要するに本紙は、"「河邊メモ」は河邊尊師が自ら流した"というのなら、"河邊尊師の手元から、これこれこういう経路をたどって「メモ」が『フェイク』編集子の手元にまで届いた"ということを、具体的かつ客観的に明かしてくれ、と言っているだけである。「盗品」としてではなく、正当な手段によって入手したのなら、いとも簡単なことではないか。『フェイク』よ、いったいなぜ、それができないのか。(『慧妙』H23.5.16)
<信憑性のないメモ書き>
「メモ」とは、所詮、個人の覚え書きであって、万人が理解することを前提とした公式書類でもなければ、手紙でもない。
その当人のための覚え書きであるから、文中に、主語や目的語が省かれていたり、肝要な部分が省かれて記述されていることすらある。それ故、時の経過の中で、本人でさえメモの内容が理解できなくなることも多々あるのである。
そうした覚え書きとしての記述を、あたかも公式書類であるかのごとく扱い、しかも、自らの主観をもとに勝手に主語を挿入して読み解くなど、メモの解読どころか創作の域に踏み込んでいる、といっても過言ではない。
その意味では、この「大御本尊偽作発言」疑難は、河邊尊師から盗み取ったメモをもとに、創価学会が自分の主観で勝手に創作した疑難といって、さしつかえないものなのである。
【当事者の証言】
<河邊尊師の証言>
1●私はこれまで、種々メモを残しておりますが、その方法は、見聞した事柄につき、後に回顧して書いたものが多く、その際、私の性格として、自分の主観に強くこだわり、その趣旨で書き記す傾向があります。従いまして、今回の件における面談の折の記憶を喚起致しますと、当時の裁判や以前からの「戒壇の大御本尊」に対する疑難について様々な話が出た中でそれらと関連して宗内においても戒壇の大御本尊と、昭和45年に総本山へ奉納された「日禅授与の御本尊」が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折について話を伺ったものであります。
但しこの話は強烈に意識に残りましたので、話の前後を抜いて記録してしまい、あたかも御法主上人猊下が御自らの意見として「本門戒壇の大御本尊」を偽物と断じたかのごとき内容のメモとなってしまいましたことは明らかに私の記録ミスであります。
このような私の不注意による、事実とは異なる不適切な内容のメモが外部に流出致し、本門戒壇の大御本尊様の御威光を傷つけ奉り、更には御法主上人猊下の御宸襟を悩ませ、また宗内御一同様に多大の御迷惑をおかけ致しましたことを衷心より深くお詫び申し上げる次第でございます。(河邊尊師『大日蓮』H11.9・4頁)
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日顕上人が戒壇の大御本尊を偽物と断じたかの如き妄言について、明確に否定し、御法主上人にお詫びされている。即ち「河邊メモ」に記されている内容は、何者かが「戒壇の大御本尊」と「日禅授与の御本尊」を関連づけて妄説を述べる可能性について話し合われたものなのであり、さらにその「話の前後を抜いて記録してしまい……内容のメモ」なのである。(『大白法』H17.5.1)
<日顕上人の証言>
2●いわゆる河邊メモは、客観的な言旨を極めて自己の主観的な形に書き変えた慈篤房の記録ミスである。則ち主として創価学会の存在によって生じた日蓮正宗に対する種々の批判中の一環として、御本尊と血脈等に関する疑難悪口があることの内容について、ある時に慈篤房と客観的な話しをしたような記憶は存する。しかし学会で発表したあのメモのような諸件についての主張をしたことは断じてないのである。(第67世日顕上人『大日蓮』H11.10・6頁)
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日顕上人と河邊慈篤師が「戒壇の大御本尊」に対する邪難を客観的に話し合われたことが、自己の主観によって日顕上人御自身があたかもそう述べられたようにも受け取れる記録がなされていると御指南され、記録の不正確な点を指摘されている。(『大白法』H17.5.1)
●そこで此の際はっきりしておくことは、本門戒壇の大御本尊様と日禅授与の御本尊とは全く相違しているという事である。よく拝すれば中尊の7字の寸法と全体からの御位置においても、明らかに異なりが存し、また御署名御花押の御文字及びその大ききや御位置、各十界尊形の位置等にも歴然たる相異が存する。そして勿論模写の形跡などは存在しない。したがって御戒壇様と日禅授与の御本尊とを類推すること自体が全くの誤りであり、この事をはっきり、述べておくものである。(第67世日顕上人『大日蓮』H11.10・6頁)
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御戒壇様に関する妄説が事実に照らして誤りであることを明確に御指摘遊ばされている。(『大白法』H17.5.1)
【「宗内」と「宗外」】
●当時(昭和53年)は裁判も含め、以前より外部からの「戒壇の大御本尊」に対する疑難が多く来ていたこともあり、御法主上人猊下におかれては、教学部長として、それらの疑難について河邊師に対して説明されたものであります(H11.7.9宗門「宗内各位」宛/『慧妙』H15.3.16)
●当時の裁判や以前からの「戒壇の大御本尊」に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても、「戒壇の大御本尊」と、昭和45年に総本山へ奉納された「日禅授与の御本尊」が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折についての話を伺ったもの(H11.7.10宗門「河邊尊師からのお詫びと証旨」/『慧妙』H15.3.16)
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宗門は最初、「これは、日顕上人が、当時外部からの戒壇の大御本尊に対する疑難が多く来ていたこともあり、御法主上人猊下におかれては、教学部長として、それらの疑難について河邊師に対して説明されたものであります」
と説明したが、翌日出された河邊(尊師)による「お詫びと証言」では、「宗内において生じる妄説の可能性」などと説明している。
最初に「外部からの疑難」と言いながら、翌日には「宗内からの疑難」と言い直すあたり、真実を隠蔽(いんぺい)しようとする動揺が窺(うかが)える。
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宗門から出された最初の文書(H11.7.9)をよく読むと、「以前より外部からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難が多く来ていたこともあり」と、けっして、疑難を外部だけに限定した表現でないことは、「も」の一文字から窺える。
さらに翌日付けの文書(H11.7.10)でも「当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても…」と、ここでは、「当時の裁判や以前からの疑難」(宗外)と「宗内においての妄説」とを併記しているのである。
すなわち、創価学会が「矛盾だ」とした箇処は、文字の上でほ顕然(けんねん)ではないが、いずれも「宗外」「宗内」を含んでいるのであって、矛盾などどこにもないのである。
まして、これらの文書は、もとより、宗内の信徒が学会怪文書に惑(まど)わされ、あたかも御法主上人が戒壇の大御本尊を否定されたかのように誤解することのなきよう、急報として出されたものであって、元となった疑難が宗内からであったか、宗外からであったかを問題にしたものではない。
このような些細(ささい)な表現の違いを捉えて「大御本尊偽作発言があった証拠だ」などと言うあたり、何とか、「日顕上人猊下が大御本尊偽作発言をした」とのコジツケに躍起(やっき)になっているさまが窺えるではないか。
【「大御本尊」疑難は正信会の説】
<『日興門流上代事典』>
3●弘安2年(1279)10月12日に書顕(しょけん)されたと伝えられる富士大石寺蔵宗祖御筆本尊で、曼荼羅(まんだら)下部には「右為現当二世造立如件/本門戒壇之願主弥四郎国重/法華講衆等敬白/弘安二年十月十二日」と記されている。現在は板曼茶羅として大石寺に厳護(げんご)されているが、非公開であり、古来より宗祖の御筆に対して疑問が提出されている。
(中略)
富谷日震『本宗史綱』245は『重須日浄記』に拠(よ)って当本尊の彫刻を大石寺日有によるものと推定し、日蓮宗事典はその筆跡や脇書等から室町期の成立と推測している。(中略)大石寺所蔵の宗祖本尊の中では、元は束京・法道院所蔵にて昭和45年に大石寺に奉納された弘安3年5月9日書顕の宗祖本尊(脇書「比丘日禅授与之/【日興上人加筆】少輔公日禅者日興第一弟子也。仍所申与如件。奉懸本門寺可為万年重宝者也」興全141)が、その相貌と言い大きさと言い、当本尊と酷似(こくじ)しており、注意される。
(正信会僧侶・大黒喜道編纂『日興門流上代事典』の「本門戒壇大本尊」の項/『慧妙』H15.3.16)
この『日興門流上代事典』なる書の発刊は「2000年1月1日」と記され、近年の発刊となっているが、問題は、そこに述べられた「日禅授与の御本尊」と「戒壇大御本尊」の関係についての説が、いったい、いつから存在したか、という点である。
そこで今回、本紙が編者に問い質(ただ)したところ、重大な事実が判った。
すなわち、すでに昭和50年頃、虫払い大法要の際に宗内の何者かが撮影した「日禅授与の御本尊」の遠景写真(これは、いま編者の手元にある)、及び「日禅授与の御本尊」と「戒壇大御本尊」が酷似しているとの説があった、これについて編者(大黒)自身は別の意見を持っているが、『事典』という性質上、中立にあらゆる意見を載(の)せたにすぎない、というのである。
やはり、というべきか、この事実は重大である。
編者が自称・正信会に籍を置いている関係からすれば、右に言う「写真」も、おそらくは正信会関係者から入手したものであろうし(その氏名を聞くことは、ついにできなかった)、「河邊メモ」に記された、昭和53年当時、「日禅授与の御本尊」と「戒壇大御本尊」の関係を疑って云々していたのも、後に正信会となる宗内一部僧侶であったことは、もはや確実である。
こうした事実に立脚すれば、「河邊メモ」に記された日顕上人と河邊尊師の会話は、「戒壇の大御本尊」と、「日禅授与の御本尊」の関係に対して、後に正信会となる一部僧侶が口にしはじめた妄説と、その破折を、河邊尊師が日顕上人に伺ったものであり、かねて日顕上人が
「(私が)学会で発表したあのメモのような諸件についての主張をしたことは断じてない」(2●)
と仰せられていたとおりであることは、明白ではないか。
かくて、日顕上人猊下が大御本尊を否定した≠ネどという与汰話は根底から吹き飛んだのである。(『慧妙』H14.6.1)
●当時の裁判や以前からの「戒壇の大御本尊」に対する疑難について(※日顕上人とお話する中で)、それらと関連して、宗内においても、「戒壇の大御本尊」と、昭和45五年に総本山へ奉納された「日禅授与の御本尊」が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折を伺(うかが)ったもの(1●河邊尊師『大日蓮』H11.9・4頁)
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この河邊尊師の説明が当時の状況と合致する、確かなものであることが証明された、といえる。
<御本尊の鑑定>
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「河邊メモ」の中に「種々鑑定の結果解った(字画判定)」とあるところから、日顕(上人)は以前から御本尊の鑑定をしており、この大御本尊の鑑定も日顕(上人)が行なったに違いない。
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・「鑑定できる立場・能力があるのだから鑑定したに違い」とは、単なるコジツケでしかない。むしろ、御法主上人におかれては、河邊メモに書かれたような「鑑定」が誤りであることを御指南あそばされている。(資料参照)
・「当本尊の彫刻を大石寺日有によるものと推定し、日蓮宗事典はその筆跡や脇書等から室町期の成立と推測している。」(3●正信会僧侶・大黒喜道編纂『日興門流上代事典』の「本門戒壇大本尊」の項)とあることから、「河邊メモ」中の「種々方法の筆跡鑑定」とは、『日興門流上代事典』で紹介された疑難であることが明白である。
・学会側は「写真判定」を「字画判定」と誤読している(<学会は「写真判定」を「字画判定」と誤読!>参照)。実際に両御本尊を間近に拝することのできる立場にあられた日顕上人が、わざわざ写真で判定しなければならない必要もなければ、それを河邊尊師に(写真判定したのだ、などと)説明する必要もない。
つまり、このくだりは、"戒壇の大御本尊と日禅授与御本尊を(間近に拝せないため)写真判定によって鑑定した"という謗法者の疑難があることを、日顕上人が河邊尊師に伝えられた箇所だったのだ。それ以外に妥当な読み方はありえない。
【「日顕上人が御先師を誹謗」?】
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「河邊メモ」中に、「Gは話にならない」等の記述がある。Gとは猊下(日達上人)を指したもので、これも日顕上人が御先師日達上人を誹謗した証拠
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●すでに昭和50年頃、虫払い大法要の際に宗内の何者かが撮影した「日禅授与の御本尊」の遠景写真、及び「日禅授与の御本尊」と「戒壇の大御本尊」が酷似しているとの説があった。これについて編者(大黒)は別の意見を持っているが、『事典』という性質上、中立にあらゆる意見を載(の)せたにすぎない。(『日興門流上代事典』の編者・大黒喜道/『慧妙』H15.3.16)
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この編者が自称・正信会に籍を置いている関係からすれば、日禅授与の御本尊の写真を提供したのも、正信会関係者である、と推定できる。
されば、河邊メモに述べられている「戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊との関係」を云々していたのは、後に正信会となる、宗内の一部の僧侶であったことが、もはや確実である。
つまり、河邊メモの内容は、当時、宗内に発生しつつあった疑難を記したもので、この箇処の発言もまた、当時の正信会関係者の主張と大同なのである。
されば、"日顕上人猊下が御先師を誹謗した"などという疑難は、まったくの的外れな邪推妄説にすぎない。
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<「戒壇の御本尊のは偽物である」>
「戒壇の御本尊のは偽物である」というメモの文章を、何の迷いもなく「戒壇の御本尊は偽物」と決めつけて読んでいるが、ここにも大きな問題があるといえよう。すなわち、この場合「の」の字の存在は重要で、「の」の字があることによって「戒壇の御本尊の(巻物あるいは写真)は偽物」とならなければ意味が通じなくなり、結果として戒壇の御本尊とは別の「物」が浮かび上がってくるからである。
それを、あえて「の」の字を無視して読み飛ばし、その上で、あろうことか御隠尊日顕上人が、本門戒壇の大御本尊を偽物呼ばわりしたと、勝手に邪推(じゃすい)しているのだから、呆(あき)れる。(『慧妙』H19.9.16)
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日顕上人が、御登座前から御当職中、そして現在に至るまで、大御本尊の大功徳は幾度となく御指南・御教導されていても、それを偽物とする御発言はただの1度もない。(中略)長期にわたる日顕上人の御指南に一点の曇りもない以上、日顕上人にはそのようなお考えなど一切ない、と考える方が理の当然であろう。
また、むしろ創価学会の方が、本門戒壇の大御本尊が偽物であってほしい、と願っているものと思われる。
創価学会の会則から「弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊」の文言を削除し、「本門戒壇・板本尊が何だ!ただの物です」(平成5年9月7日の池田スピーチ)と大御本尊を卑(いや)しんでいることこそ、その証左である。
結局、大御本尊への渇仰恋慕の信心を捨てた創価学会こそが、「三大秘法を破壊する邪義」(学会発行『教宣ハンドブック』)であり「現代における最大の法華経の敵」(同)であると断言するものである。(『慧妙』H26.2.1
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最近、宗内僧侶河邊慈篤房が書いたというメモが、本人の承諾なく、盗人の手によって創価学会に流れ、それを悪用した創価学会が、機関紙聖教新聞・創価新報等にその記事が真実であるとして、野衲日顕の本門戒壇の大御本尊に対する不信不敬なりとする悪口誹謗の記事を掲載している。
既に戒壇の大御本尊様に背き、歴代血脈の法主上人にも悪口三昧の限りを尽す下種三宝破壊の池田大作以下創価学会の者共が、寸言のメモを根拠として、日蓮正宗宗旨の大事について論ずる事自体僭越の極みであり、資格なき者の戯論である。一顧の価値もない邪論と断ずる。従って、前に宗務院より発した通知で充分その意を汲まれるものと思量したのであるが、河邊メモと称するものが不正確な記述の為、聖教新聞等の邪説の誹謗を見た宗内僧俗の中に、万一にも不透明感を持つ者があるやの事を考慮し一文を草する。
いわゆる河邊メモは、客観的な言旨を極めて自己の主観的な形に書き変えた慈篤房の記録ミスである。則ち主として創価学会の存在によって生じた日蓮正宗に対する種々の批判中の一環として、御本尊と血脈等に関する疑難悪口があることの内容について、ある時に慈篤房と客観的な話しをしたような記憶は存する。しかし学会で発表したあのメモのような諸件についての主張をしたことは断じてないのである。
そこで此の際はっきりしておくことは、本門戒壇の大御本尊様と日禅授与の御本尊とは全く相違しているという事である。よく拝すれば中尊の7字の寸法と全体からの御位置においても、明らかに異なりが存し、また御署名御花押の御文字及びその大きさや御位置、各十界尊形の位置等にも歴然たる相異が存する。そして勿論模写の形跡などは存在しない。(※<本門戒壇之大御本尊の相貌について>参照)
したがって御戒壇様と日禅授与の御本尊とを類推すること自体が全くの誤りであり、この事をはっきり、述べておくものである。
次に教義信条の面より拝するに、宗祖大聖人御化導の正義は仏像の造立に非ず、大曼荼羅本尊の顕発と弘通に存する。その御正意は弘安元年以降の御本尊境智の究竟人法一箇の上の三大秘法の整足、即ちその御当体は本門戒壇の大御本尊にましますのであり、故に古来、三大秘法惣在の御本尊と拝称し奉るのである。この三大秘法の究極の法体こそ宗祖大聖人の御正意であると共に御書全体の正義であり、また大聖人日興上人の唯我与我の血脈の本旨である。
この教義信条に基いて一器の水を一器に移す如く、宗祖大聖人本懐の三大秘法の深義が伝承されており、その根本の御本尊として格護されて来たのが本門戒壇の大御本尊である。
故に野衲も先師日達上人よりの付法に基き、登座以来20年、身命を捧げて御護り申し上げて来たのである。否、それ以前の宗門教師の時より已来、変わらざる信念と覚悟を以て執筆、言論等にこの教義信仰の大事を陳べて来たものである。
蓋し、創価学会の行為たるや、仏法尊重の念は寸分もなく、いよいよ御本仏日蓮大聖人、下種の大法に違背する仏敵たる本性を暴露しているのである。
宗内の諸賢には、このような為にする創価学会の罵詈讒謗の根底を見抜いて、ますます信心の志を強く持ち、仏敵に対する破邪の剣を磨かれることを祈る次第である。
已 上
平成11年9月18日
日 顕
宗 内 僧 俗 各 位
―メモに「猊下が大御本尊は偽物」と?/一片のメモによる邪推を根こそぎ破折―
(『慧妙』H15.3.16)
<学会の邪説>
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河邊慈篤(尊師)のメモによると、昭和53年2月7日、日顕(上人)が教学部長であった時代に、河邊(尊師)に「大御本尊はニセモノ」とする大謗法発言を行なっていたことが明らかになった。
そのメモには、
「A面談 帝国H
一、戒旦之本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている
※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の誰かが賣(売)に出し、それを応師が何処で発見して購入したもの(弘安3年の御本尊)」
と記されており、Aこと阿部日顕(上人)が「戒壇の大御本尊は偽物」と発言していたことが明らかである。
そもそも、日顕(上人)は若い頃より、御本尊の相貌の研究・鑑定を行なっており、大御本尊の鑑定を行なったとしても不思議ではない。
また、宗門は、これらの事実の発覚に驚き、最初、「これは、日顕上人が、当時外部からの戒壇の大御本尊に対する疑難が多く来ていたこともあり、御法主上人猊下におかれては、教学部長として、それらの疑難について河邊師に対して説明されたものであります」
と説明したが、翌日出された河邊(尊師)による「お詫びと証言」では、「宗内において生じる妄説の可能性」などと説明している。
最初に「外部からの疑難」と言いながら、翌日には「宗内からの疑難」と言い直すあたり、真実を隠蔽(いんぺい)しようとする動揺が窺(うかが)える。
しかしながら、当時、宗外においても宗内においても、このような疑難はどこにも呈されでおらず、このようなことを言い出せるのは、宗門の教学部長として、御宝蔵に所蔵されている御本尊をはじめとして大御本尊に至るまで、宗内の御本尊を自由に鑑定できる立場にあった日顕(上人)しかいない。
すなわち、この「河邊メモ」について、どのように言い訳しようとも、日顕(上人)が「戒壇の大御本尊は偽物」と断定していたことは動かしようのない事実なのである。
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<破折>
この「戒壇の大御本尊偽作発言」疑難については、破折の要点が数点に分かれるので、要点ごとに整理して論じていきたい。
―「河邊メモ」は盗人による盗品―
そもそも、この「河邊メモ」なるものは、故・河邊慈篤尊師の個人的なメモであるが、それが何ゆえに学会の手許(てもと)にあるのか―なんと、盗人の手によって河邊尊師のもとより盗み取られ、それを入手経路を隠したまま創価学会が悪用しているのである。
しかも、その盗品の内容を、持ち主である河邊尊師の許可もなく公開して御法主上人誹謗に使うとは、創価学会という宗教団体がいかに薄汚ない教団であるかがわかろう。
また、「メモ」とは、所詮、個人の覚え書きであって、万人が理解することを前提とした公式書類でもなければ、手紙でもない。
その当人のための覚え書きであるから、文中に、主語や目的語が省かれていたり、肝要な部分が省かれて記述されていることすらある。それ故、時の経過の中で、本人でさえメモの内容が理解できなくなることも多々あるのである。
そうした覚え書きとしての記述を、あたかも公式書類であるかのごとく扱い、しかも、自らの主観をもとに勝手に主語を挿入して読み解くなど、メモの解読どころか創作の域に踏み込んでいる、といっても過言ではない。
その意味では、この「大御本尊偽作発言」疑難は、河邊尊師から盗み取ったメモをもとに、創価学会が自分の主観で勝手に創作した疑難といって、さしつかえないものなのである。
―「宗外」と「宗内」について―
学会怪文書『同盟通信』がこれを公開したのが、平成11年7月7日のこと。
これに対し、宗門側は翌々日の7月9日に「宗内各位」宛てに、
「当時(昭和53年)は裁判も含め、以前より外部からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難が多く来ていたこともあり、御法主上人猊下におかれては、教学部長として、それらの疑難について河邊師に対して説明されたものであります」
と解説し、さらに翌日の7月10日にも、「河邊尊師からのお詫びと証旨」を、「宗内各位」宛てに発している。
その内容は
「当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても、『戒壇の大御本尊』と、昭和45年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折についての話を伺ったもの」
というものであった。
学会は、これらの記述中、「宗外」と「宗内」の語に拘泥(こうでい)して「矛盾だ」といっているのであるが、これは矛盾でも何でもない。
宗門から出された最初の文書をよく読むと、「以前より外部からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難が多く来ていたこともあり」と、けっして、疑難を外部だけに限定した表現でないことは、「も」の一文字から窺える。
さらに翌日付けの文書でも「当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても…」と、ここでは、「当時の裁判や以前からの疑難」(宗外)と「宗内においての妄説」とを併記しているのである。
すなわち、創価学会が「矛盾だ」とした箇処は、文字の上でほ顕然(けんねん)ではないが、いずれも「宗外」「宗内」を含んでいるのであって、矛盾などどこにもないのである。
まして、これらの文書は、もとより、宗内の信徒が学会怪文書に惑(まど)わされ、あたかも御法主上人が戒壇の大御本尊を否定されたかのように誤解することのなきよう、急報として出されたものであって、元となった疑難が宗内からであったか、宗外からであったかを問題にしたものではない。
このような些細(ささい)な表現の違いを捉えて「大御本尊偽作発言があった証拠だ」などと言うあたり、何とか、「日顕上人猊下が大御本尊偽作発言をした」とのコジツケに躍起(やっき)になっているさまが窺えるではないか。
―「"鑑定"したら偽者だった?」/だが、両御本尊の違いは歴然!―
学会では、河邊メモの中に「種々鑑定の結果解った(字画判定)」とあるところから、「日顕(上人)は以前から御本尊の鑑定をしており、この大御本尊の鑑定も日顕(上人)が行なったに違いない」などという。
しかし、「鑑定できる立場・能力があるのだから鑑定したに違い」とは、単なるコジツケでしかない。
むしろ、御法主上人におかれては、河邊メモに書かれたような「鑑定」が誤りであることを、次のように御指南あそばされている。
「この際はっきりしておくことは、本門戒壇の大御本尊様と日禅授与の御本尊とは全く相違している、ということである。よく拝すれば、中尊の7字の寸法と全体からの御位置においても、明らかに違いが存し、また御署名花押の御文字及びその大きさや御位置、各十界尊形(そんぎょう)の位置等にも歴然たる相異が存する。そして、もちろん模写の形跡は存在しない。
したがって御戒壇様と日禅授与の御本尊とを類推すること目体が全くの誤りであり、この事をはっきり、述べておくものである。」(平成11年9月18日)
かくのごとく、戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊では全く相貌が異なっているのであるから、これを「模写したもの」とする「メモ」の内容が誤りであることはいうまでもない。
されば、「御法主上人が大御本尊を否定した」とする疑難が、タメにする誹謗でしかないことが明らかではないか。
―「大御本尊」疑難は正信会の説/「日興門流上代事典」に大同の説が!―
学会では、「当時は、宗門の外部にも内部にも、そのような疑難は存在していなかった。そのような疑難がなかった以上、"宗門の内部からの疑難に対する破折を述べたもの"とする宗門の説明は破綻(はたん)しており、やはり、河邊メモ中の"大御本尊偽作発言"の主は日顕(上人)なのだ」という。
しかしながら、では、当時、宗門内部にそのような疑難があったとしたら、その疑難に対して日顕上人が破折を加えられた、との説明が正しいことになり、学会側の主張は根底から覆(くつがえ)ることになる。
では、真相はどうであったか―。じつは、昭和53年当時、後の「正信会」となる宗内の一派が、すでにそのような疑難を呈していたことが、明らかとなったのである。
すなわち、正信会僧侶・大黒喜道編纂による『日興門流上代事典』の「本門戒壇大本尊」の項には、次のような解説がなされているのである。
「弘安2年(1279)10月12日に書顕(しょけん)されたと伝えられる富士大石寺蔵宗祖御筆本尊で、曼荼羅(まんだら)下部には『右為現当二世造立如件/本門戒壇之願主弥四郎国重/法華講衆等敬白/弘安二年十月十二日』と記されている。現在は板曼茶羅として大石寺に厳護(げんこ)されているが、非公開であり、古来より宗祖の御筆に対して疑問が提出されている。
(中略)
富谷日震『本宗史綱』245は『重須日浄記』に拠(よ)って当本尊の彫刻を大石寺日有によるものと推定し、日蓮宗事典はその筆跡や脇書等から室町期の成立と推測している。(中略)大石寺所蔵の宗祖本尊の中では、元は束京・法道院所蔵にて昭和45年に大石寺に奉納された弘安3年5月9日書顕の宗祖本尊(脇書『比丘日禅授与之/【日興上人加筆】少輔公日禅者日興第一弟子也。仍所申与如件。奉懸本門寺可為万年重宝者也』興全141)が、その相貌と言い大きさと言い、当本尊と酷似(こくじ)しており、注意される。」
ご覧のとおり、河邊メモ中の疑難と同様のことを述べているではないか。
さらに、本紙として、直接、この『事典』の編纂者・大黒喜道に問い質(ただ)したところ、「すでに昭和50年頃、虫払い大法要の際に宗内の何者かが撮影した『日禅授与の御本尊』の遠景写真、及び『日禅授与の御本尊』と『戒壇の大御本尊』が酷似しているとの説があった。これについて編者(大黒)は別の意見を持っているが、『事典』という性質上、中立にあらゆる意見を載(の)せたにすぎない」というのである。
また、この編者が自称・正信会に籍を置いている関係からすれば、日禅授与の御本尊の写真を提供したのも、正信会関係者である、と推定できる。
されば、河邊メモに述べられている「戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊との関係」を云々していたのは、後に正信会となる、宗内の一部の僧侶であったことが、もはや確実である。
以上のことから、河邊メモの内容は、宗門側の「当時、宗内に発生しようとしていた疑難に対する破折を、教学部長であられた御法主上人が河邊慈篤尊師に説明されたもの」との説明が正しいことになり、創価学会による疑難はことごとく砕け散ったというべきであ
る。
―その余の疑難/「日顕上人が御先師を誹謗」?―
なお、学会は、同じ河邊メモ中に、
「一、Gは話にならない」
等の記述があることを挙げて、Gとは猊下(日達上人)を指したもので、これも日顕上人が御先師日達上人を誹謗した証拠、などと言い張っている。
しかし、すでに見てきたとおり、メモの内容は、当時、宗内に発生しつつあった疑難を記したもので、この箇処の発言もまた、当時の正信会関係者の主張と大同なのである。
されば、"日顕上人猊下が御先師を誹謗した"などという疑難は、まったくの的外れな邪推妄説にすぎない。
―やはり大御本尊偽作説は正信会関係者!!―
(『慧妙』H14.6.1)
<「御相承」に続き「大御本尊」の疑難も吹っ飛ぶ>
創価学会が声を大にして繰り返す日顕上人が本門戒壇の大御本尊を否定したとの悪口誹謗(ひぼう)――。これに対し本紙は、前号「ペテン集団の仮面を剥(は)ぐ」欄において、本紙がかねてから主張してきた「日禅授与の御本尊云々≠ヘ、おそらく正信会の関係者が唱えた邪説であり、日顕上人はその邪説について触れられたにすぎない」との説を裏付ける証拠を突き付け、この誹謗を粉砕した。
紙面の都合上、要点のみを簡略に破折するに止どめておいたが、そもそもこの疑難は、『創価新報』が「1999年の十大ニュース」のトップに数え上げてまで、大騒ぎした疑難であり、昨今では誹謗ビデオにまでしている始末。それを簡略な破折のみで済ませてしまっては、学会本部の発表を信じて騒いできた大勢の無知の会員に、真実を知らしめるには不足であろう。
そこで、今号において、改めて徹底破折を加え、この悪口誹謗の根を絶つことにした。
<学会が悪用した「河邊メモ」>
まず、学会が奇貨(きか)として悪口に利用している「河邊メモ」をここに挙げる。
「S53・2・7、A面談 帝国H
一、戒旦之御本尊之件
戒旦の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。
一、Gは話にならない
人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の事ではGでは不可能だ。
一、Gは学会と手を切っても又2、3年したら元に戻るだらうと云う安易な考へを持っている
※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の誰かが売に出し、それを応師が何処で発見して購入したもの。(弘安3年の御本尊)」
そもそもこの「河邊メモ」とは、その名のとおり河邊慈篤尊師が個人的に書き留められた「メモ書き」であり(これを学会では不正に取得して、悪宣伝に利用した!)、一読して分かるように、主語・述語・背景・状況等が省(はぶ)かれているため、第三者が安易にその内容を読解できるものではない。
ところが創価学会は、これは、日顕上人が自身の考えを述べ、河邊尊師がそれを記録していたものだ≠ニ勝手に決めつけ、平成11年7月7日発行の怪文書『同盟通信』を皮切りに、『創価新報』(8月4日号)などで、
「日顕(上人)は、宗門教学部長の要職にあった昭和53年2月7日、東京の帝国ホテルで河邊(尊師)と面談し、戒壇の大御本尊の真贋(しんがん)を論じ、日達上人の批判をしていたのである」
「今回、発覚した日顕(上人)の大謗法発言は、日顕(上人)が21年前、教学部長という立場を利用し、あろうことか、この日禅授与の御本尊と戒壇の大御本尊とを種々の方法の筆跡鑑定、字画判定にかけていたというのである。
しかも、その結果わかったことに、戒壇の大御本尊の首題の『南無妙法蓮華経』と『花押』は、日禅授与の御本尊の首題と花押を模写(もしゃ)したものであり、その他の部分は、大石寺6世・日時上人や9世・日有上人の時代の筆跡になっている。また、その証拠に日禅授与の御本尊には、模写された形跡が残っている、というのである」
と、日顕上人が大御本尊否定の邪説を唱えた≠ニの大宣伝を述べたてたのである。
<宗門側の反論無視した学会>
この疑難(ぎなん)に対し宗門では、7月9日および7月10日に「達示」を出し、この、ためにする学会の疑難を全面否定した。
とくに7月10日の「達示」には、メモを書いた河邊尊師の証言を掲載。その中で河邊尊師は、
「当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について、様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても、『戒壇の大御本尊』と、昭和45年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折を伺ったもの」
と、メモを残した当時の状況を示したのである。
また本紙は、主として同年9月1日号で、日顕上人猊下がそのような邪説を唱えるはずのないことを、2点にわたり論証した。
まず1点目として、両御本尊の相貌の違いについて、大石寺理事・小川只道尊師に取材。小川尊師は、
「そもそも、本門戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊は、ほぼ同時期の大聖人様の御筆ですから、全体に御文字の感じが似ているのは当然です。
ですが、幾度(いくど)も拝してみれば、お題目の全体の線も違いますし、ことに『経』の字の違いはハッキリわかります。
また、ことに違うのは、『日蓮』の御署名と御花押の部分ですね。大御本尊と比べて日禅師授与の御本尊は、御花押がかなり左側寄りに認(したた)められています。また、大御本尊は御署名の『日』文字と御花押が離れて認められていますが、日禅師授与の御本尊は『日』文字の上に御花押の上部が重なっていますし、御花押全体の形態もかなり違っています。これらの違いは、御虫払いの時に気をつけて拝していただければ、一目で判るはずです。
もちろん、日禅師授与の御本尊に『模写の形跡』など、私が拝してきた限りでは、見当たりませんでしたよ」
と、そもそも両御本尊を間近で拝するならば、「模写」云々の疑難を生じさせる点は何もないことを明言された。
次に2点目として、すでに昭和47年秋、戒壇の大御本尊は室町期に作られたものだ≠ニする疑難を日達上人が破折されていた内容を紹介。
すなわち、戒壇の大御本尊には、大聖人御在世当時の鎌倉時代の手斧が用いられており、それは、日時上人・日有上人の室町時代に使われた丁鉋(ちょうな)の削り跡とは明らかに違うということを、日達上人が御指摘せられた。
そしてそのことは、当時、教学部長であられた日顕上人もよく御存知なのであるから、日顕上人が、「河邊メモ」にあるような室町時代の偽作説≠唱えるはずは絶対にない、と断じた。
その上で本紙は、
「『河邊メモ』中に記された大御本尊に対する疑難は、宗外の謗法者か、もしくは宗内の一部の不心得者(おそらくこちらであろう)が新たに言い始めた妄説を、お二人のどちらかが話題として提起したもの、と捉(とら)えるべきが当然である。
また、ここに挙(あ)げた『河邊メモ』の次下に、
『G(猊下≠フ頭文字=日達上人のこと)は話にならない』
云々と、日達上人への批判が記されているのも、後に正信会と名乗る一部の輩(やから)が当時、口にしていた批判内容と酷似(こくじ)していることから、やはり、一部の不心得者の発言を面談の中で取り上げたもの、と見るべきであろう」(9月1日号)
と推論したのである。
また、もったいなくも日顕上人猊下も御自ら、
「いわゆる河邊メモは、客観的な言旨を、極めて自己の主観的な形に書き変えた、慈篤房の記録ミスである。すなわち、主として創価学会の存在によって生じた日蓮正宗に対する種々の批判中の一環として、御本尊と血脈等に関する疑難悪口があることの内容について、ある時に慈篤房と客観的な話をしたような記憶は存する。しかし、学会で発表した、あのメモのような諸件についての主張をしたことは断じてないのである。
そこで、この際はっきりしておくことは、本門戒壇の大御本尊様と日禅授与の御本尊とは全く相違しているということである。よく拝すれば、中尊の7字の寸法と全体からの御位置においても、明らかに異なりが存し、また御署名・御花押の御文字及びその大きさや御位置、各十界尊形の位置等にも、歴然たる相異が存する。そして、もちろん模写の形跡などは存在しない。
したがって、御戒壇様と日禅授与の御本尊とを類推すること自体が全くの誤りであり、この事をはっきり、述べておくものである」(同年9月18日の「御指南」)
と、創価学会の邪推(じゃすい)を真っ向から否定されたのである。
しかし、それでも学会は懲(こ)りずに、次のように誹謗を繰り返した。
「奉安殿、正本堂などに格護(かくご)されてきた大御本尊と、御宝蔵に保管されて、年に1度の虫払い法要の際、限られた者にだけ公開されてきた日禅授与本尊とを、外部の者はおろか、宗内の一般僧侶でさえ、比較鑑定などできるものではない。
外部からにせよ、内部からにせよ、両御本尊にまつわる『疑難』などありえない」(『創価新報』平成11年12月1日号)
「何よりも、宗内にある『日禅授与の本尊』と大御本尊に間近に接し、鑑定できる者が、外部にいるわけがない。
しかも、それが可能な者は、宗内でもごく限られている。2体の本尊の照合を思いつき、実行できる者など、以前から本尊鑑定の専門家≠気取っていた日顕(上人)以外いないのだ」(同平成14年3月6日号)
等々。
<これが問答無用の真実だ!!>
ところが、本紙が前号で紹介したように、この学会の主張を根底から覆(くつがえ)す資料があった。
すなわち、正信会・大黒喜道編纂(へんさん)による『日興門流上代事典』の736頁には、本門戒壇の大御本尊の解説文として、次のように記されており、その中で戒壇の大御本尊に向けられた疑難は、まさに、「河邊メモ」に記された疑難と、みごとに一致しているではないか!
「弘安2年(1279)10月12日に書顕されたと伝えられる富士大石寺蔵宗祖御筆本尊で、曼荼羅(まんだら)下部には『右為現当二世造立如件/本門戒壇之願主弥四郎国重/法華講衆等敬白/弘安二年十月十二日』と記されている。現在は板曼荼羅として大石寺に厳護(げんご)されているが、非公開であり、古来より宗祖の御筆に対して疑問が提出されている。(中略)
富谷日震『本宗史綱』245は『重須日浄記』に拠(よ)って当本尊の彫刻を大石寺日有によるものと推定し、日蓮宗事典はその筆跡や脇書等から室町期の成立と推測している。(中略)大石寺所蔵の宗祖本尊の中では、元は束京・法道院所蔵にて昭和45年に大石寺に奉納された弘安3年5月9日書顕の宗祖本尊(脇書『比丘日禅授与之/[日興上人加筆]少輔公日禅者日興第一弟子也。仍所申与如件。奉懸本門寺可為万年重宝者也』興全141)が、その相貌と言い大きさと言い、当本尊と酷似(こくじ)しており、注意される。」
この『日興門流上代事典』なる書の発刊は「2000年1月1日」と記され、近年の発刊となっているが、問題は、そこに述べられた「日禅授与の御本尊」と「戒壇大御本尊」の関係についての説が、いったい、いつから存在したか、という点である。
そこで今回、本紙が編者に問い質(ただ)したところ、重大な事実が判った。
すなわち、すでに昭和50年頃、虫払い大法要の際に宗内の何者かが撮影した「日禅授与の御本尊」の遠景写真(これは、いま編者の手元にある)、及び「日禅授与の御本尊」と「戒壇大御本尊」が酷似しているとの説があった、これについて編者(大黒)自身は別の意見を持っているが、『事典』という性質上、中立にあらゆる意見を載(の)せたにすぎない、というのである。
やはり、というべきか、この事実は重大である。
編者が自称・正信会に籍を置いている関係からすれば、右に言う「写真」も、おそらくは正信会関係者から入手したものであろうし(その氏名を聞くことは、ついにできなかった)、「河邊メモ」に記された、昭和53年当時、「日禅授与の御本尊」と「戒壇大御本尊」の関係を疑って云々していたのも、後に正信会となる宗内一部僧侶であったことは、もはや確実である。
こうした事実に立脚すれば、「河邊メモ」に記された日顕上人と河邊尊師の会話は、
「『戒壇の大御本尊』と、『日禅授与の御本尊』の関係に対して、後に正信会となる一部僧侶が口にしはじめた妄説と、その破折を、河邊尊師が日顕上人に伺った」
ものであり、かねて日顕上人が
「(私が)学会で発表したあのメモのような諸件についての主張をしたことは断じてない」
と仰せられていたとおりであることは、明白ではないか。
かくて、日顕上人猊下が大御本尊を否定した≠ネどという与汰話は根底から吹き飛んだのである。
だが、学会は例によって、一言の謝罪も反省もなく、次なる誹謗のネタを捜し求めるのだろう。
「白」を「黒」と言い切り、恬(てん)として恥じない創価学会――。本紙は今後も、学会が奸計(かんけい)を弄(ろう)して浴びせてくる疑難を逐一、徹底的に論破していく所存である。学会は、そのことをしっかりと肝(きも)に銘(めい)じておくがいい。