創価学会破折
"脱落僧"を破す
・脱落僧の"狂言"を嗤う/『慧妙』H26.5.1
・「会館寺院」なる"代替施設"/『慧妙』H23.9.1
・離脱僧はどうしたの?/『大白法』H19.5.1
・不可解で哀れな「脱落僧」なる存在/『慧妙』H18.2.1
・「非教師指導会」の実際の顛末(てんまつ)/『慧妙』H23.4.16
------------------------------------------------------------
"松岡幹夫"を破す
・松岡幹夫は正々堂々と返答せよ/『大日蓮』H24.11
・"逃げ口上"を論破された今度は"悪態"/『慧妙』H24.10.16
・戸田会長に反逆する松岡/『大白法』H18.2.16
・「肩書き」をひけらかす脱落僧の滑稽/『慧妙』H17.10.1
―活躍の場も与えられず…―
(『大白法』H19.5.1)
【創価学会の唯一の教義】
創価学会の機関紙『聖教新聞』の1面報道は連日、池田大作の「偉大さ」が強調されている。
やれ勲章だの、知識人と会っただの、大作の「すごさ」をアピールするものがほとんどだ。
その目的は、大作が世界的な偉人であると会員に吹聴(ふいちょう)すること、錯覚させることにある。
故に新会長の原田稔も、
「誰が会長になっても、師匠は池田先生だけです。広宣流布の大指揮を執ってくださった、創価学会の大指導者です」(『聖教新聞』H18.11.12)
と、歯の浮くようなお世辞を並べて礼賛(らいさん)する。逆に言えば、このくらいは言えないと、会長にさせてはもらえまい…。
要するに、大作崇拝は創価学会の存亡にかかわる唯一の教義であり、これを万人に納得させるために、次から次へと勲章を漁(あさ)っているのである。
これこそ、創価学会の生命線にほかならない。
【「離脱僧」の薄い影】
そんな大作崇拝が徹底される陰で、忘れ去られたかのように、ひっそりと、なりを潜めてしまったのが、いわゆる「離脱僧」と呼ばれる面々である。
「離脱僧」とは、もともと日蓮正宗の僧侶でありながら、創価学会の謗法に与(くみ)し、挙げ句には正法から退転した脱落者である。むしろ「僧」と冠することもおこがましく、単なる禿人(とくにん)と称すべき退転者たちである。
そんな禿人衆を学会では、
「30ヵ寺53人の離脱僧侶が決起」(『創価新報』H16.7.7)
などと、さんざん持ち上げていたが、今やその姿や活動が、創価学会の報道で取り上げられることはほとんど無くなった。
使い捨てられたのである。
そもそも、これら禿人衆について、創価大学の某教授は、
「僧の存在論的な特殊性は認めたくない(中略)積極的な役割として何をやらせるのか、そうすると基本的には無い」(『東洋学術研究』32-2-30頁)
と、全く使い道が無いと明言していたのであるから、今の末路も当然であろう。
【「離脱僧」に巨万の投資】
創価学会は、こんな「無用の長物」に、巨万の投資をした。
例えば、創価学会の某副会長は、離脱(退転)の勧誘に際し、
「創価学会本部から現金5000万円の支度金を支給する」(『判例タイムズ』1094-185頁)
と明言していたことが裁判上、確定している。これだけでも、5000万円×53人となり、20数億円にものぼる。
また、ある者には毎月百万円、発覚しているだけでもこの1人に累計7千250万円もの給与が支給されているから、他の者も含め、現在までの給与支出は莫大な金額となろう。
さらに、寺院を不法占拠していた者たちの損害賠償や和解金など、宗門へ支払わざるをえなくなった訴訟上の費用だけでも9億円近くを費(つい)やしている。
これらをざっと見積もっても、創価学会は数十億円もの投資をしてきたことになる。
【無駄遣いされる「広布基金」】
これら投資の目的は、宗門僧侶に離脱を志す者がいることを挙げて、創価学会員に、宗門が腐敗堕落しているという幻影を抱かせることにあった。
しかし、突き詰めれば、創価学会の正当性を謳(うた)うため、現在の教義である大作崇拝のための1つの布石にほかならない。
俗物中の俗物である大作のために、禿人衆がかつがれ、最近はその「役割」を果たし終えたので、なりを潜めたのである。
使い捨てにされることを承知で離脱した禿人衆と、巨万の無駄遣いをしてきた創価学会…。
この両者のさもしい関係の狭間(はざま)で、「広布基金」と称する無意味な献金に汗水流す会員こそ、いい面(つら)の皮である。
―正宗誹謗・破壊が目的のエセ僧侶―
(『慧妙』H18.2.1)
池田が宗門に潜伏させ、後に離脱させた信奉者(以下、"脱落僧"と称する)について。
そもそも脱落僧とはどういう存在なのか・・・、改めて考えてみると、じつに不可解、かつ哀(あわ)れな存在なのである。
というのは、彼らは、遠からず絶滅する。1番若い脱落僧で30代半ばであるから、遅くとも5、60年後には、必ず、完全に絶滅し、この世から存在が消え失(う)せる。
創価は僧侶を必要とはしていないから、脱落僧が弟子をもち、その弟子が僧侶の姿をして修行することは、今後ないだろう。
万一、あるとすれば、創価学会会長の弟子として、新たに僧侶の格好をした者を作る(不祥事や失態により、組織のライン上に置けなくなった大幹部で、さりとて創価の暗部まで知られているからクビにもできない者―某副会長のような者―を、僧侶の格好をさせて飼い殺しにする)ということだが、そんなみっともない者を、もはや僧侶と呼ぶことはできない。脱落僧以下の"僧侶モドキ"である。
ともあれ、脱落僧は、十数年前にあらわれ、あと数十年すれば絶滅する。そんな絶滅する存在に、末法万年の広宣流布を語る資格などない。
また、彼らには、自身が存在すべき主体的な理由は全くなく、ただ創価のために利用されるだげの存在である。長い歴史の上からみた時、彼らの宗教的存在意義は皆無である。
時間的に消えゆく存在、ただ日蓮正宗を詐謗(ひぼう)し、正法を破壊するために利用されるだけの存在、会員の僧侶不在による不安を、期限付きで解消するだけの存在--。なんと哀れで、愚(おろ)かな連中であろうか。