創価学会破折
歴史編



大石寺売却/『慧妙』H14.10.1

大石寺売却/『地涌』第122号・第123号


添書登山/『慧妙』H14.11.16


本山全焼

本山全焼/『地涌』第232号


「現在の大石寺は偽物」なる疑難を破す/『慧妙』H27.1.16

朱印状(謗施)/『慧妙』H14.10.16

三門建立(謗施)/『慧妙』H14.11.16ほか

大石寺が他宗と合同/『慧妙』H14.12.1

本尊撮影

本尊撮影/『地涌』第239号
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狸祭り事件
検証!「狸祭り事件」/『慧妙』H18.6.1ほか

日昇上人の御裁断について/『慧妙』H15.1.16

特赦の時期と宗会決議/<法蔵>H19.3.7

牧口会長獄死と小笠原師は無関係/<法蔵>H19.3.4

小笠原師の「神本仏迹論」について/<法蔵>H22.8.6

「狸祭り」の真の目的/『慧妙』H21.7.1

「狸祭事件」『地涌』の邪難
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本山観光地化と登山会
本山観光地化と登山会/『慧妙』H15.2.1他

本山観光地化計画/『地涌』第36号



大石寺売却事件の真相

(『慧妙』H14.10.1)

【土地名義が勝手に変更されただけ】
<学会の邪義>
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 宗門は「日蓮正宗は謗法厳誡の宗旨を守り、今日まで清浄に大聖人の仏法を伝えてきた」などと言っているが、じつは、第9世日有上人の時代に大石寺が謗法になっていたという記録がある。
 それは、『有師物語聴聞抄佳跡』の中に
 「この富士大石寺は上行菩薩が伝えた題目弘通の寺の元である。柳袋の彦次郎が地頭から臨時の税金を課せられたため、この大石ヶ原というのは上代に地頭の奥津方から永代に限り18貫で買い取った所を、公事(税)までかけられた。末代まで大切な事柄であり、この処置をさせるために、3人の留守居を決めていたが、どのような考えがあったものか、留守居がこの寺を捨て去ってしまったために、6年の間、謗法の処となっていた。老僧(日有上人)が立ち帰って高祖聖人の御命を継いだのである。そのようなことがあって、一度は謗法の処となったので、また地頭の奥津方より20貴でこの大石ヶ原を買い取って、高祖聖人の御命を継いだのである」(該当個所の通解)
とあるとおりである。
 このことは、第59世日亨上人も、『大白蓮華』の取材に答えて、次のように述べている。
 「日有上人は、大石寺の跡のことを次のように話されたという。 つまり、3人の代官をおいた。しかるに、3人の代官がグルになって、大石寺を売っちまったということが書いてある。 それで日有上人が帰って、3人を追い払って、そして、ほかの代官をおいたなんていうことが書いてある。 その3人、4人という人がですね、相当の身分の人ですって、みな阿闍梨号をもっていますからね。あの時分の阿闍梨号をもっているのは、相当の者でなくちゃ阿闍梨号はつけないです。」(『大白蓮華』昭和31年11月号)
 大石寺が6年の間、謗法の寺になっていたことも驚きだが、当時の高僧達が大石寺を売り払っていたことも大問題だ。
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<破折>
 大石寺の古記録を取り出して日蓮正宗を誹謗する材料にするのは創価学会の常套手段だが、古記録は、現在とは異なった状況の中で書かれたものであり、また、不確かな点を多く合む場合が多いので、その扱いには注意を要する。
 まず、学会のいう「大石寺売却」ということであるが、これは、正しくは大石寺売却ではなく、大石寺の所在する大石ヶ原が、当時の地頭によって勝手に名義変更されてしまった、というだけで、べつに大石寺が売られたわけでも、また、そのために謗法の僧侶が君臨する寺になったということでもない。
 創価学会が金科玉条のように持ち出している『大白蓮華』の日亨上人のお言葉でも、それについて述べられている。
 『大白蓮華』記事から、該当個所を引用する。

〈編集者〉大石寺を売ったということ……(中略)
〈堀(日亨)上人〉売ったから、自分で帰って、30何貫文を出して、そして、また元に返してしまった。何でも20貫文かそこらで売った、と書いてある。
 それはですね、あの時分は何でもないです。中央政府があやふやですね。ですから、あの辺のすべての政治上の関係は鎌倉管領でしょう。それは鎌倉管領なるものはあってもですね、地方の豪族に左右され、(中略)下等の代官である興津なんていう家でもって富士郡あたりのことをしていた。

 要するに、「売られた」といっても、それは「何でもない」ことで、地方の豪族が勝手に行なったものだということである。
 その実態は単なる大石ヶ原の名義の変更であり、大石寺が謗法者に支配されたわけでもなければ、宗旨が変わったわけでもない。
 それを、日有上人が謗法者の手から買い戻されて、「また元に返して」しまわれたのである。
 どこが「謗法の寺になっていた」というのか。何の問題もないではないか。
 また、「当時の高僧によって大石寺が売られた」という点についてだが、文献的に詳しいことは判っていない。
 しかしながら、不法な手続きによって変更がなされた土地名義も、時の御法主・日有上人によって元に戻されているのであり、このことによっても、御歴代上人によって仏法が今日まで護持されてきたことが、明らかに拝されるではないか。
 こうした創価学会の疑難は、ためにする言い掛かりとしか、いえぬのである。




*大石寺売却


http://www.houonsha.co.jp/jiyu/03/122.html

(第3章 法 脈 濁 乱 第122号1991年5月2日)

総本山第9世である日有上人の時(室町時代)に留守居役の3人の高僧が大石寺を売り払ってしまった
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 日蓮正宗の歴史において、悪僧は数多く出現しているが、そのはなはだしい事例は大石寺を丸ごと売ってしまった高僧たちがいたことだ。
 日興上人のしたためられた「富士一跡門徒存知の事」には、次のように記されている。
 「日興が云く、此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず正像末に未だ弘通せざる本尊なり、然れば則ち日興門徒の所持の輩に於ては左右無く子孫にも譲り弟子等にも付嘱すべからず、同一所に安置し奉り六人一同に守護し奉る可し、是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉る可し」
 ところが日興上人が亡くなられておよそ百年後、総本山第9世・日有上人の時代に大石寺は売られてしまったことがあるのだ。総本山第59世・堀日亨上人は、『大白蓮華』(昭和31年11月号)の「堀上人に富士宗門史を聞く」の中でインタビューに答え次のように語っておられる。
 「しよつ中、日有上人は全國を行脚してござつたんだから、寺には相當の代官がおいてあつた。その名前がですね、5、6人のつているんですが、1人も過去帳なんかにのつている人はないです。(中略)
 慶舜という人と日有上人が懇意で、ときどき行かれたらしいです。
 慶舜に會うたびに、日有上人は、大石寺の跡のことを次のように話されたという。つまり3人の代官をおいた、しかるに、3人の代官がグルになつて、大石寺を賣つちまつたということが書いてある。それで日有上人が歸つて、3人を追拂つて、そして、ほかの代官をおいたなんていうことが書いてある。その3人、4人という人がですね、相當の身分の人ですつて、みな阿闍梨號をもつていますからね。あの時分の阿闍梨號をもつているのは、相當の者でなくちや阿闍梨號はつけないです」
 日有上人に留守を頼まれていた3人の高僧が、こともあろうに大石寺を売ってしまったのである。ここにおいて日興上人の「富士一跡門徒存知の事」は、日有上人の高僧たちによって踏みにじられたのだ。
 日興上人は断腸の思いで身延を離山され、大石寺を開創されたが、末弟たちが欲得にかられその大石寺を売ってしまうなどということを予想されただろうか。日蓮正宗の僧侶の中にも、とんでもないならず者が実在していたのだ。
 日有上人は、『日蓮正宗富士年表』(日蓮正宗富士学林発行)によれば、1419(応永26)年に猊座につかれたということである。室町時代のことであった。
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http://www.houonsha.co.jp/jiyu/03/123.html

(第3章 法 脈 濁 乱 第123号1991年5月3日)

「有師物語聴聞抄佳跡 上」という日蓮正宗の古文書に日有上人が大石寺を銭20貫で買い戻したと書かれている
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 日有上人の時代に大石寺が売られていたことは事実である。だが、その事件の内容は今日では断片的にしかわからない。
 『富士宗学要集第1巻』に「有師物語聴聞抄佳跡 上」が収録されているが、その中に次のような文がある。
 「日有上人の仰ニ云ク天竺ニハ祇園精舎ヲ寺の元とす、唐土にては白馬寺を寺の始とす、吾朝にては難波の四天王寺を初として候、其ノ上釈尊出世の本懐たる末法修行の寺に於ては未だ三国に立ち候はざる処に此の冨士大石寺は上行所伝の題目弘通寺の元にて候、柳袋の彦次郎地頭方より得銭をかけられて候間、此大石が原と申スは上代地頭奥津方より永代を限り十八貫に買得にて候処を、公事迄かけられて候事、末代大切なる子細にて候間此の沙汰を成ぜんが為メニ三人の留主居を定メて候えば如何様の思案候ひけるや、留主居此の寺を捨て除き候間六年まで謗法の処に成リ候間、老僧立帰り高祖聖人の御命を継ぎ奉り候、さ候間一度謗法の処と成り候間、又地頭奥津方より廿貫ニ此の大石を買得申し高祖聖人の御命を継キ(ぎ)たてまつり候と仰セ給ヒ候已上」
 この聞書についての後の総本山第31世日因上人は、「恐クハ是南条日住ノ聞書なるべし或ハ亦日有上人ノ御直記なるか」と注をつけられている。すなわち書かれたのは、南条日住か日有上人本人だろうということである。したがって「有師物語聴聞抄佳跡 上」の内容は充分に信用できる。
 大石寺のある「大石が原」はもともと「十八貫」で買ったものであったが、留守居の3人が日有上人の留守の間に売り払ってしまい、「六年」もの長いあいだ、「謗法の処」になってしまっていた。「老僧」すなわち日有上人は大石寺に戻られ、それを「二十貫」で買い戻されたのであった。
 堀日亨上人は「堀上人に富士宗門史を聞く」(『大白蓮華』昭和31年11月号収録)の中で、「大石寺を売ったこと」についての質問に答え、次のように述べられている。
 「ええ賣つたということね。それは日有上人の條目をおいて書いてあるのもですね、大石寺を賣つたという事件は書いてある」
 と日有上人の名前を出して、この文書にもこの事件が記されていることを述べられ、さらに、
 「賣つたから自分が歸つて、30何貫文を出して、そして又もとに返してしまつた。何でも20貫文かそこらかで賣つたと書いてある。それはですね、あの時分は何でもないです。中央政府があやふやですね。ですから、あの邊のすべての政治上の関係は鎌倉管領でしよう。それは鎌倉管領なるものはあつてもですね、地方の豪族に左右され、今川の盛んな時分はですね、むしろ、この鎌倉の支配を待たないで、今川家でもつて支配した。その今川家なるものもですね、どつちかというと今川家の主人公が支配しないでですね、下等の代官である興津なんていう家でもつて富士郡あたりのことをしていた」
 と時代背景にまで言及しておられる。
 「日有上人のときは、買つたのは誰だかわからないでしよう」
との質問には、
 「買つたのは誰の名義にしたかわからない」
 と答えられている。その後、次のように続けられている。
 「自分の名義にしたんでしよう。代官の奴が。それがですね、根據のある、ほかの者がやつたのならば、仲々あけ渡ししないんです。あけ渡しは容易じやない。叱りつけたくらいではあけ渡ししない。ですから、寺にいる人がですね、自分の勝手な名義にしたんでしよう。30貫文で買い戻したということはですね、日有上人の例の聞き書きの中にありますから。これはほかの房州家あたりの聞き書きでなくて、日有上人自身の聞き書きだ。それが聞き書きの上の卷の始めの方にのつている」
 ここに出ている「聞き書き」とは、冒頭に紹介した「有師物語聴聞抄佳跡 上」のことである。したがって日亨上人の述べられている買い戻し金額「30貫文」は、正しくは「20貫文」であると思われる。また「下等の代官である興津」と「地頭奥津」とは、「有師物語聴聞抄佳跡 上」に日亨上人が「奥興古書同一ナリ」と注釈を入れられているのでおそらく同一人物である。
 第9世日有上人は江戸時代の第26世日寛上人とともに、日蓮正宗の中興の二祖と仰がれている。
 日有上人御登座当時の富士大石寺は、大変に疲弊していた。それは、第4世日道上人の時代に、蓮蔵坊の日郷と地所をめぐって争いが発生したためである。日郷に塔中寺院のいくつかが味方したことが、事態をいっそう複雑なものとした。この本山内の土地争いは70数年間にわたり、富士門流の中に深刻な対立を生んだのである。
 このために富士大石寺は荒れ寺となってしまっていたが、日有上人は山内の修理、堂塔の修復をし学僧も育てられた。またご自身も東北地方、北陸地方にまで足を運ばれ布教につとめられたということである。(聖教新聞社刊『新版仏教哲学大辞典』参照)
 日有上人の御指南である『有師化儀抄』は、今日にあっても日蓮正宗の重要な規範となっている。
 その日有上人が留守の間に、留守居役たちが富士大石寺を売り払ってしまい、6年もの長きにわたって大石寺は謗法の山と化してしまっていたのだ。帰山された日有上人の驚きはどのようなものであったろうか。
 この史実を見るとき、日蓮正宗の僧に従順であれということばかりをことさらに強調する、いまの日蓮正宗の僧のあり方は明らかにおかしい。従うべきか従わざるべきかは、事の正邪によらなければならない。
 先述したように、第3祖日目上人の次の第4世日道上人の時代に、深刻な土地争いが総本山内で起きたり、第9世日有上人の時代に、いまでいう宗務総監と各部長クラスの高僧が大石寺を丸ごと地頭に売り払ったなどという史実は、日蓮正宗の僧も決して末法濁世の埒外でないことを示している。
 今回の日顕上人らの創価学会つぶしの策動は、この大石寺を売り払った悪僧らにまさるとも劣らない、きわめて悪質なものだ。これを摧かなければ、日蓮大聖人の御慈悲をもって末法の闇を照らしゆくことはできない。僧侶の姑息な思惑を断ち、日蓮大聖人の仏意に従うことが地涌の菩薩の選ぶ道である。
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添書登山

(『慧妙』H14.11.16)

【「添書登山は寺請け証文が原型」!?】
―"末寺の添書"は上古からの掟だ―
<学会の邪義>
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 江戸時代、徳川幕府は、諸宗における本寺(本山)と末寺の支配・被支配の秩序を絶対のものとし、本寺を通して日本全国の末寺を統制した。また末寺は、檀家として属する民衆を、宗教思想のみならず、社会生活の面に至るまで、幕府権力の代理人として、支配した。
 ゆえに江戸時代の寺院は、思想警察であり、戸籍や住民票を扱う役所でもあった。
 当然のことながら、信徒が本山へ参るための旅行をするとなれば、「寺請け証文」が不可欠であった。今に伝わる添書登山はここに由来する。
 日蓮正宗は、この、徳川幕府の権力機構の一部として、民衆支配を行なっていた頃のことを勘違いして、本末の筋目が「本宗の化儀、化法」であると言いつのっているのである。
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<破折>
 創価学会は、徳川幕府の宗教政策と、本宗の本末の筋目とを混同しているが、これはまったくの別物である。
 その具体例として、学会が挙げる本宗の添書登山にしても、江戸時代にできたものではなく、上古の時代より、大聖人・日興上人以来の精神をもって連綿(れんめん)と続いてきた化儀なのである。
 その証拠に、第9世日有上人(1482年御遷化)は
●末寺の坊主の状なからん者、在家出家共に本寺に於て許容なきなり(聖典985頁)
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と仰せられ、本寺(総本山)への参詣は、末寺の坊主の状(末寺住職の添書)を必要とする旨、御教示あそばされている。
 これは、江戸時代より百数拾年前の御教示であるから(寺請け証文は1635年頃から実施された)、学会の疑難がいかに勉強不足のものであるかがわかろう。





本山全焼


【本山焼失】
<学会の邪説>
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 寛永12(1635)年10月12日、大石寺は猛火に包まれ、全焼した。この事実は、日蓮正宗の歴史を綴った『日蓮正宗富士年表』(平成2年版・大石寺富士学林発行)には記載されていない。記載しなかったのは、故意あるいは不知の故であろうか。
 近年、この事実を記した古文書が発見された。天保9(1838)年6月に、大石寺が伊豆韮山の代官(古文書では「江川太郎左衛門」宛となっている)に差し出した「口上覚」である。以下、一部を抜粋紹介する。
 「寛永十二年十月十二日之夜寺中より出火本堂山門坊舎不残焼失仕」(寛永12年10月12日の夜、寺中より出火し本堂、山門、坊舎残らず焼失仕る)
 本堂、山門、坊舎などが一切残らず焼失したことが記されている。
 この古文書の記録でまず注目されるのは、その日付である。あろうことか「十月十二日」と記されている。日蓮大聖人が、一閻浮提総与の大御本尊様を御図顕になった日である。決して偶然ということで片づけられるものではない。(『地涌』第232号)
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<破折>
『富士年表』(H2.3.13)によれば、寛永8(1631)年10月12日の項に「大石寺諸堂焼失(石文)」という記載がある。

[客殿]=昭和20年6月17日に焼失した客殿は、寛正6年(1465)に創建され、その後、何回かの改築、修理を経て完成した。戦後再建されたが、現在は、創価学会第3代池田会長の発願により、信徒の真心の供養をもって昭和39年に建立された大客殿がこれにあたる。(『人間革命』第1巻・第113刷・注解347頁)
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寛永12(1635)年に焼失したのであれば、「改築」「修理」とは言わない。「再建」または「建立」と言うはずである。


[御影堂]=大永2年(1522)日鎮上人が建立した時は小御堂であったが、寛永9年(1632)日精上人の時、阿波徳島の大名・蜂須賀至鎮の夫人・敬台院の寄進で大規模な御影堂が造営され、その後、数度の改修を経て現在に至っている。昭和41年3月22日、静岡県の有形文化財に指定された。(『人間革命』第1巻・第113刷・注解352頁)
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御影堂が造営後すぐに焼失したのであれば、誰がいつ再建されたのか?御影堂は、徳川家康の曾孫にあたる敬台院の寄進であるとされるが、全焼後に敬台院が再建されたのであれば、再建した年を史実として隠しようもなかったであろう。

●寛永9年11.15 敬台院殿日詔 大石寺御影堂(14間に13間)を寄進(棟札・5−322)(『冨士年表』231頁)
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寛永9年に創建されたことは棟札から判明している。もし、寛永12年に全焼したのであれば、棟札に「寛永9年」とあるはずがない。

堂内の彫刻は創建当時のままで、江戸時代の代表的な建築物であり、昭和41年(1966年)3月、御影堂並びに御厨子は、静岡県の有形文化財に指定された。(『新版仏教哲学大辞典』初版)
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有形文化財に指定されているのであるから、創建された年次や改築の経緯についても、公的機関が調査し、情報を公開しているはずである。もし、「寛永12年全焼」説が、文化財指定後に発見されたというのであれば、文化財に指定した当局が検討し、もし、真実であれば御影堂に関するそれまでの定説(情報)を変更し、場合によっては文化財の指定を取り消すこともあるはずである。そのような事実がないのは、「寛永12年全焼」説なるものが、根拠のない作り話だからである。

★以上、素人が少し考えただけでも矛盾だらけの作り話と分かる。(<御影堂>参照)



【王舎城】
<学会の邪説>
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 日蓮大聖人曰く。
 「大火の事は仁王経の七難の中の第三の火難・法華経の七難の中には第一の火難なり、夫れ虚空をば剣にてきることなし水をば火焼くことなし、聖人・賢人・福人・智者をば火やくことなし、〈中略〉賢人ありて云く七難の大火と申す事は聖人のさり王の福の尽くる時をこり候なり、然るに此の大火・万民をば・やくといえとも内裏には火ちかづくことなし、知んぬ王のとが・にはあらず万民の失なりされば万民の家を王舎と号せば火神・名にをそれてやくべからずと申せしかば、さるへんもとて王舎城とぞなづけられしかば・それより火災とどまりぬ、されば大果報の人をば大火はやかざるなり」(王舎城事)
 王舎城は焼けないのである。では、どうして戒壇の大御本尊様まします総本山が全焼したのか。(『地涌』第232号)
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<破折>
●賢人ありて云く七難の大火と申す事は聖人のさり王の福の尽くる時をこり候なり、然るに此の大火・万民をば・やくといえども内裏には火ちかづくことなし(中略)これは国王已にやけぬ知んぬ日本国の果報のつくるしるしなり、然に此の国は大謗法の僧等が強盛にいのりをなして日蓮を降伏せんとする故に弥弥わざはひ来るにや、其の上名と申す事は体を顕し候に両火房と申す謗法の聖人・鎌倉中の上下の師なり、一火は身に留りて極楽寺焼て地獄寺となりぬ、又一火は鎌倉にはなちて御所やけ候ぬ、又一火は現世の国をやきぬる上に日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて阿鼻の炎にもえ候べき先表なり、愚癡の法師等が智慧ある者の申す事を用い候はぬは是体に候なり、不便不便、先先御文まいらせ候しなり。(『王舎城事』全集1137頁)
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 「王舎城」とは釈尊当時の首都・王宮のことである。「内裏には火ちかづくことなし」とあるとおりである。また、焼失するはずのない王宮が焼失したのは「七難の大火と申す事は聖人のさり王の福の尽くる時をこり候」とあるように、一国謗法で国王が正法を用いないためである。鎌倉時代についていえば「両火房と申す謗法の聖人・鎌倉中の上下の師なり」とあるように、良観が鎌倉の民衆に敬われ、君主も彼を用いていた背景があって王宮=御所が焼失したのである。
 翻って宗門の歴史を見れば、広布は未だ達成されていないし、君主が正法に信伏随従した時代もない。従って「王舎城は焼けない」という時代は未だ到来していない
 また、「七難の大火と申す事は聖人のさり王の福の尽くる時をこり候」とあるように一国謗法の時代には三災七難が起こるのは歴史的必然であるが、これらの災難は総罰として正法を受持する者もある程度被るのである。牧口会長の子息の戦死や学会拠点(時習学館)の焼失などは、その一例である。

●洋三(牧口氏の三男、享年38歳)戦死の御文、(中略)病死にあらず、君国のための戦死だけ、名誉とあきらめ唯だ冥福を祈る(『牧口常三郎全集』第10巻300頁)

●この私塾において、恩師牧口の創価教育学体系の実践を、なにものにも煩わされず、行うことができた。(中略)戸田は、時習学館で牧口の教育理念を実践したように、彼自身の生活や人生においても、日蓮大聖人の生命哲理を内に秘めて、様々な活動を展開していった。(中略)3階建ての時習学館は、その彼の事業の発祥地であり、また本城であった。 いま、出獄してその焼け跡に腰をおろした彼は、落城したばかりの我が城跡に立つ思いがしたのである。(『人間革命』第1巻「黎明」)



【日精上人】
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 では、寛永12年に総本山大石寺が全焼したときは、どのような時代であっただろう。当時の貫首(法主)は第18世日盈上人であった。日盈上人は、寛永10年の年央、第17世日精上人より相承を受け登座されている。両上人とも京都要法寺の出身である。
 大火のあった寛永12年は、日盈上人が御当代、日精上人が御隠尊であった。その後、日盈上人は寛永14年に退き、再び日精上人が貫首の座に登られることになる。
 さて、話はさかのぼるが、大火の3年前、すなわち寛永9年に、日精上人は大石寺の貫首となっている。
 総本山大石寺第17世貫首となった日精上人は、この年の11月に竣工した御影堂(古文書にある「本堂」)に、戒壇の大御本尊様を御安置(公開)した。この御影堂を含め、大石寺の主な建物の一切が焼失したのである。戒壇の大御本尊様は、当時の僧俗の懸命な守護によって遷座されたのではあるまいか。
 戒壇の大御本尊様を、時至らないにもかかわらず公開したことは、御遺命にそむくものである。大石寺が全焼してしまうという罰の因は、それで充分と思われるが、『随宜論』(「『地涌』からの通信(5)」に全文を掲載)に代表される邪義が大石寺に持ち込まれていたことも見逃せない。(『地涌』第232号)
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『富士年表』(H2.3.13)によれば、寛永8(1631)年10月12日に本山において火事があったという記録がある。しかし、これは日精上人御登座前である。

●大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。(『日興跡条々事』御書1883頁)
●大石寺は御堂と云い墓所と云い日目之を管領せよ等云々、すでに戒壇の本尊を伝う、故に御堂と云う(第26世日寛上人『文底秘沈抄』/『聖典』852頁)
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上古の時代においては、戒壇の大御本尊を御堂(御影堂)に御安置申し上げ、宗祖御在世当時のままに尊崇申し上げていたことがうかがわれる。(『慧妙』H5.11.1)

●法華宗の御堂なんどへ他宗他門の人参詣して散供(さんぐ)参らせ花を捧(ささ)ぐる事有り。之れを制すべからず、既に順縁(じゅんえん)なるが故なり、但し大小の供養に付いて出家の方へ取り次ぎ申して仏聖人へ供養し申せと有らば、一向取り次ぐべからず。謗法の供養なるが故に、与同罪の人たるべし(第9世日有上人『化儀抄』/『聖典』993頁)
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謗法者の御堂への参詣自体を禁じてはおられない(ただし、供養の取り次ぎは禁じておられる)のである。(『慧妙』H5.11.1)

総本山大石寺第17世貫首となった日精上人は、この年の11月に竣工した御影堂(古文書にある「本堂」)に、戒壇の大御本尊様を御安置(公開)した。
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御影堂に大御本尊を御安置することを以て「公開」だというのであれば、全くの事実誤認ではないか。戸田会長時代においても、大きな節目の時には御宝蔵から大御本尊に御出まし願っていたという事実があるが、学会はこれを「公開」「御遺命にそむく」等とは騒がなかったようである(笑)。

●聖祖御入滅657年旧陰10月12日、当山客殿六壺の業を成じ、恭しく大御本尊並びに宗祖日蓮大聖人及び2祖日興上人の御影を遷座し奉り、一宗の僧侶並びに檀信徒此の処に相会し、謹んで読経唱題以て法味を献じ、落成入仏の式典を挙ぐ・・・(日昇上人・客殿六壺復興落慶法要慶讃文『人間革命』第3巻「結実」)
大御本尊を御宝蔵より新客殿に、お移ししての御開扉であった。(『人間革命』第3巻「結実」)




*本山全焼


http://www.houonsha.co.jp/jiyu/06/232.html

邪義を大石寺に持ち込んだ日精上人が謗法を犯した3年後大石寺は「本堂」「山門」「坊舎」悉く焼失してしまった〈法難シリーズ「逢難」改題・第10回〉
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 寛永12(1635)年10月12日、大石寺は猛火に包まれ、全焼した。この事実は、日蓮正宗の歴史を綴った『日蓮正宗富士年表』(平成2年版・大石寺富士学林発行)には記載されていない。記載しなかったのは、故意あるいは不知の故であろうか。
 近年、この事実を記した古文書が発見された。天保9(1838)年6月に、大石寺が伊豆韮山の代官(古文書では「江川太郎左衛門」宛となっている)に差し出した「口上覚」である。以下、一部を抜粋紹介する。
 「寛永十二年十月十二之夜寺中より出火本堂山門坊舎不残焼失仕」(寛永十二年十月十二日の夜、寺中より出火し本堂、山門、坊舎残らず焼失仕る) 本堂、山門、坊舎などが一切残らず焼失したことが記されている。 この古文書の記録でまず注目されるのは、その日付である。あろうことか「十月十二日」と記されている。日蓮大聖人が、一閻浮提総与の大御本尊様を御図顕になった日である。決して偶然ということで片づけられるものではない。 日蓮大聖人曰く。 「大火の事は仁王経の七難の中の第三の火難・法華経の七難の中には第一の火難なり、夫れ虚空をば剣にてきることなし水をば火焼くことなし、聖人・賢人・福人・智者をば火やくことなし、〈中略〉賢人ありて云く七難の大火と申す事は聖人のさり王の福の尽くる時をこり候なり、然るに此の大火・万民をば・やくといえとも内裏には火ちかづくことなし、知んぬ王のとが・にはあらず万民の失なりされば万民の家を王舎と号せば火神・名にをそれてやくべからずと申せしかば、さるへんもとて王舎城とぞなづけられしかば・それより火災とどまりぬ、されば大果報の人をば大火はやかざるなり」(王舎城事)
【通解】大火については仁王経には七難の中の第3、法華経では七難の中の第一にあげられている。虚空を剣で切ることはできない。また水を火は焼くことができない。同じように聖人・賢人・福人・智者を、火は焼くことができないのである。(中略)そのとき賢人があって次のように言った。「七難の1つにあげられている大火ということは、聖人が去って国王の福運が尽きるときに起こるのである。ところが今起きている大火は、万民の家は焼いても王宮には火は近づいていない。これは王の過失ではなく万民の過失によるものであることがわかる。したがってこれからは、万民の家を王舎と名づければ、火神はその名を恐れて焼くことはできないだろう」と。王はそのようなこともあるかもしれないと思い、王舎城と名づけてみると、それ以来、火災はやんだ。この例でもわかるように、大果報の人を大火は焼かないのである。
 王舎城は焼けないのである。では、どうして戒壇の大御本尊様まします総本山が全焼したのか。 近年、大石寺において大火があったのは、昭和20年6月17日のことであった。その前日、軍部が総本山大書院に神棚を祀るという、日蓮正宗史における一大恥辱事件があった。その翌日、客殿、大書院、六壷などが一夜にして焼け落ちた。このとき、総本山第62世日恭上人は客殿で焼死されている(筆者注 のち大奥に隣接する奥台所にて焼死と推定される)。 日恭上人の時代は、総本山大石寺が謗法に染まった時代であった。国家権力の弾圧を恐れ、国家神道に追従し、伊勢神宮遥拝や神社参拝奨励を指示する日蓮正宗宗務院院達を出した。また創価教育学会に神札を受けとるように指示したり、牧口、戸田両会長が獄中にあったときは、なんらの支援もせず、牧口会長を見殺しにした。 日蓮大聖人の弟子として「身軽法重」を信条とすべき僧が、我が身をかばい、信徒の殉教を見て見ぬふりをしたのである。 昭和20年6月の総本山大石寺の大火、御法主上人の焼死には、そのような時代背景があった。 では、寛永12年に総本山大石寺が全焼したときは、どのような時代であっただろう。当時の貫首(法主)は第18世日盈上人であった。日盈上人は、寛永10年の年央、第17世日精上人より相承を受け登座されている。両上人とも京都要法寺の出身である。 大火のあった寛永12年は、日盈上人が御当代、日精上人が御隠尊であった。その後、日盈上人は寛永14年に退き、再び日精上人が貫首の座に登られることになる。 さて、話はさかのぼるが、大火の3年前、すなわち寛永9年に、日精上人は大石寺の貫首となっている。 総本山大石寺第17世貫首となった日精上人は、この年の11月に竣工した御影堂(古文書にある「本堂」)に、戒壇の大御本尊様を御安置(公開)した。この御影堂を含め、大石寺の主な建物の一切が焼失したのである。戒壇の大御本尊様は、当時の僧俗の懸命な守護によって遷座されたのではあるまいか。 戒壇の大御本尊様を、時至らないにもかかわらず公開したことは、御遺命にそむくものである。大石寺が全焼してしまうという罰の因は、それで充分と思われるが、『随宜論』(「『地涌』からの通信(5)」に全文を掲載)に代表される邪義が大石寺に持ち込まれていたことも見逃せない。 御隠尊の日精上人が『随宜論』を著したのは、寛永10年あるいは11年の11月である(『随宜論』の巻末には「寛永十戌年」と記されている。しかし、戌年は正しくは寛永11年である)。『随宜論』は、本紙『地涌』(第126号)においても詳述したが、貫首の立場にある日精上人が、要法寺第19代の広蔵院日辰の邪義を、あたかも正論のごとく書き、正信の僧俗を圧迫したものだ。 日精上人はこの中で釈迦仏の造立、法華経1部8巻の読誦の正当性を主張した。しかも目的は、釈迦仏造立、法華経一部読誦に対する宗内の反抗を、押さえ込もうとの目的であった。すなわち、御隠尊猊下の立場をもって、宗内において御隠尊、御当代の進める邪義に抗う僧俗を鎮圧しようとしたのである。 貫首(法主)の狂える時代に遭遇した僧俗は、権威・権力の横暴に悩まされることになる。 日精上人が邪義『随宜論』を著した、1年あるいは2年後にあたる寛永12年10月12日、大石寺は全焼したのだった。法主の犯した謗法に対する罰の厳しさを伝える史実である。これはまさしく時代を超えた教訓といえる。(『地涌』第232号1991年8月20日)
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朱印状(謗施)

―"朱印"は元々の寺領の追認の意だ!―
(『慧妙』H14.10.16)

<学会の邪義>
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 大石寺は、寛永18年(1641年)、徳川家光の代に66石8斗5升の朱印状をもらい、公権力より下される録(ろく)を供養として受けることによって、生活する道を選んだ。
 それのみではなく、寛文5年(1655年)に幕府が、”今後は寺領を供養として下付する故、各寺は請書(うけしょ)を提出するように”と命じた際には、大石寺は「受派(信徒以外の者からの供養も受ける宗派)」であるとの証文を差し出している。
 大石寺は、日蓮大聖人の弟子としての法義を捨て、国家権力の前に、名実ともに屈服したのであった。
 その時、大石寺が出した「証文」は次のとおりである。
 「一、差し上げ申す一札の事、御朱印頂戴仕り候儀は御供養と存じ奉り候、この段不受不施方の所存とは格別にて御座候、仍って件の如し。
寛文五年巳八月廿一日 本門寺、妙蓮寺、大石寺
御奉行所」(『富士宗学要集』第8巻420頁)
 それ以降、大石寺は幕府より下される寺領などを供養として受け、謗施によって生活することに甘んじたのである。
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<破折>
 学会の疑難するのは、いうまでもなく江戸時代のことであるが、この当時は、全ての土地が幕府の管理下におかれ、寺社領も徳川幕府のものとされていた時代である。
 そのため、旧来からの寺領であっても、将軍が代わるごとに、幕府より、”寺領として与える”という「朱印」をもらわなければ、寺領の存続ができなかったのである。
 このような体制は、まず寛永13年、幕府が全国社寺領の朱印および安堵状を与えることから始まり、大石寺においては、寛永18年、66石8斗5升の朱印を受けている。
 学会は、このことを指して、「大石寺は66石8斗5升の朱印状をもらい、受派として公権力より下される録を供養として受けた」などと疑難しているのであるが、この朱印は寺領の存続を証するものであって、新たに寺領が下付されるわけでも何でもない。
 つまり、「六十六石八斗五升の朱印状」といっても、元から大石寺の土地であったものを将軍家から”寺領”として追認されるだけのことで、幕府から新たに土地や金員などの録を受ける、というわけではないのである(なお、石高で記録されるのは当時の慣例である)。
 その後、寛文5年に幕府は、寺院一般に対して、改めて寺領の朱印状を下付している。
 これは、寺領の改めであるから、朱印を受けない(受けられない)ことは、直ちに廃寺や宗門断絶を意味した。また、この時以降、将軍の代替わりごとに、寺領の改めが行なわれている。
 この寛文5年の寺領の下付(寺領の改め)にあたり、日蓮宗身延派は、これを利用して不受不施派(謗法者からの供養を受けず謗法者に布施をしない、という義をことさらに強調する日蓮宗の一派)の壊滅(かいめつ)を狙(ねら)い、
 「不受不施派は、”寺領は供養にあらず、仁恩(じんおん)をもって下されたものである”と主張し、そのために、先年罪科に処せられたのである。されば、このたびの朱印状も、これを受けないであろう。また、たとえ朱印状を望むとも、幕府より授与すべきではない」
旨の書状を寺杜奉行に提出した。
 この書状の効果であったのか、幕府は各寺院に対して、
 「今度(このたび)朱印頂戴仕(つかまつ)り候儀、不受不施方の意得(こころえ)とは格別にて御座候」
等といった一札を差し出すよう、命じてきたのである。
 この時、富士5山(日興上人の流れを汲む門流で、大石寺・妙蓮寺・西山本門寺・北山本門寺・小泉久遠寺の5ヶ寺)は、協議の上、「国主からの施(前述した朱印のこと)は受け、俗人からの施(こちらは本当の布施・供養をさす)は受けない」ことを申し合わせ、幕府に一札を提出している。
 その文面が、
 「一、差し上げ申す一札のこと、御朱印頂戴仕り候儀は御供養と存じ奉り候、此の段不受不施方の所存とは格別にて御座候、仍(よ)って件(くだん)の如し」
というものであって、寺院側がこの文案を作ったものではなく、あくまでも幕府の雛形(ひながた)に沿ったものだったのである。
 学会は、この文中に、「御供養」「不受不施方の所存とは格別」との文言があることに目をつけて「(大石寺は)受派であるとの証文を差し出した」としているのであるが、ここで、なぜ大石寺が、他の富士4山と同じく「国主からの施は受く」ことを申し合わせたのか、もう少しく述べておこう。
 まず、「国主からの施」−朱印とは、もとから大石寺の寺領であったものを、国家から追認されるだけのことで、いわは「免許の更新」のようなものに過ぎない。つまり、どこにも「供養」にあたる意味などないのである。
 ゆえに当時の大石寺にあっては、文言にとらわれず、その本質から、「国主からの施(朱印)は受く」として問題なし、と決定したのである。
 なお、本宗の「供養」の捉え方は、名義や名分などよりも、その実態、本質に重きを置く。
 第9世日有上人の『化儀抄』には、

●他宗難じて曰く、謗施とて諸宗の供養を受けずんは、何ぞ他宗の作くる路、他宗のかくる橋を渡るか。之れを答うるに、彼の路は法華宗の為に作らず、又法華宗の為に懸(か)けざる橋なり、公方(くぼう)の路、公方の橋なるが故に、法華宗も、或(あるい)は年貢を沙汰(さた)し或は公事をなす、故に公界の道を行くに謗施と成らざるなり、野山の草木等又此の如し云云(第9世日有上人『化儀抄』/聖典977頁)

と仰せられ、66世日達上人はこれを釈して、

●謗法の人々は本宗を非難して「他宗の供養を謗法の施といって受けないのなら、なぜ他宗の人の作った路、他宗の人の架けた橋を渡るのか」といいます。 この非難に答えるのに、「その路は法華宗のためにといって作ったのではありません。また橋も法華宗のためにといって架けたのではありません。国家の路であり、国家の橋であります。だから法華宗にも税金を賦課し、また徴用を命じます。それ故、天下の公道を歩くのに謗施を受けたことにはなりません」と(第66世日達上人)

と述べられている。
 幕府の政策により、従来の寺領に朱印の下付が必要となっても、それは大石寺のみではなく、社会全てに対して行なわれるものであるから、公(おおやけ)の行政であり、「公方の路」「公方の橋」同様、公の土地として朱印を受けることになるのである。
 したがって、幕府からの朱印は、実態として「謗施」などでないことが、これで明らかであろう。
 なお、学会は、こうした国家から受けるものを頭から「謗施」と決めつけているようだが、その論理を池田大作に当てはめれは、キリスト教国家や、大小乗仏教圏の国家首脳その他から、口ーブや冠や名誉学位などを受けることも、まぎれもなく謗施となるであろう。
 また、現行の宗教法人としての免税特権も、免税された分の金額は、国家から受けた「謗施」ということになる。学会が国家から受ける益を、謗施」として嫌うのであれば、自ら免税特権を放棄し、多額の税金を国家に収めるがいい。それこそ国のため、民衆のためというものである。
 また、国家から受ける施だけでなく、逆に謗法に「供養」を施すことについてはどうであろうか。
 学会は、社会的名声ほしさの故に、会員から「供養」と称して集めた金員を使い、文化活動と称して全国の学校等に図書の寄贈をしたり、あるいは墓苑を造ろろとする市町村に寄附をしているようであるが、これらは「謗施」とはならないのであろうか。
 「謗施、謗施」と騒いで本宗を非難する前に、頭を冷やして、自らの身の周りを考えるがよい。





三門建立(謗施)

―「三門は幕府の謗施で建った」!?
―三門建立は本宗僧俗の寄進による―
(『慧妙』H14.11.16ほか)

<学会の邪義>
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 大石寺の三門は、正徳2年(1721年)、総本山25世日宥(にちゆう)上人のとき、黄金1,200粒と、天領である冨士山の材木70本を幕府より受けたことによりできたものである。
 富士大石寺の入り口に威容を誇る三門は、今日まで「富士の清流」の象徴とされてきたが、確かな歴史から見れば、それは日蓮大聖人の法義を捨て、謗施を受けて生き永らえてきた大石寺の、屈辱のモニュメントであったのだ。
 大石寺が三門を建てるにあたり、徳川将軍の正室に莫大な黄金をもらい、寺社奉行より特別に材木を下賜(かし)された事実は、大石寺が、国家権力による民衆支配の、忠実な代務者であった側面を、浮き彫りにする。
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<破折>
 学会のいう「徳川将軍の正室」とは、徳川家第6代将軍家宣公夫人、常泉寺大檀那・天英院のことである。
 いうまでもなく、天英院は本宗の信徒であり、信徒からの御供養を受けるのは当然のことであって、何の問題もない。
 次に、徳川幕府から材木を下賜されたのは謗施である、との疑難を破折する。
 学会は「幕府からの謗施」というが、時の将軍・家宣公は本宗信徒である天英院を正室に持ち、本乗院妙融日耀大童女(=政姫・家宣の養女で天英院の姪)、本光院妙秋日円大姉(家宣公側室・斉宮局)、妙敬日信大童女(家宣公の娘、天英院の腹・豊姫)、夢月院殿幻光大童子(家宣公の五男、天英院の腹・誕生の当日夭逝)、幽夢大童子(家宣公の六男、斉宮局の腹)等を常泉寺に葬っている。
 こうした行為は信仰なくしてはありえず、徳川家康以来の菩提寺を芝の増上寺(浄土宗)から大石寺に変えることはできなくとも、内得信仰として大石寺に帰伏していた、と考えられるのである。
 この家宣公からは、常泉寺に朱印地30石、ならびに寺地領3,407坪を、また大石寺の三門造営につき富士山の材木70本と黄金1,200粒を賜わっでいるが、それは、家宣公の信心と夫人天英院の尽力によるものであって、実質的には信徒からの寄進といってさしつかえないものである。「幕府からの寄進」という名目だけで「謗施」と決めつけるのは、あまりにも内実を知らない愚かな疑難というべきである。
 なお、三門が建てられた縁由についてであるが学会発行の『仏教哲学大事典』の「三門」の項には、
 「江戸中期の正徳3年(1722年)、25代日宥上人の時に、徳川6代将軍家宣公が、富士山の大樹70本、その夫人の天英院が黄金1,200粒、第24世日永上人が700両、日宥上人が200両寄進されたものをもとに、学頭職にあった26世日寛上人が、享保2年(1717年)に着工し、5年の歳月を費やして完成した」
とあり、前に触れた「幕府からの木材」や「天英院からの黄金」の他に、日永上人・日宥上人も多額の金員を残され、これらをもとに、日寛上人が三門を建てられたことがわかる。
 学会の言からすれば、日寛上人が「屈辱のモニュメント」を作ったことになるが、日寛上人書写の御本尊を好き勝手に利用して、大量印刷・販売しながら、「屈辱のモニュメントを作った」と日寛上人を批判する創価学会−何が何でも日蓮正宗を悪口できればいい、という学会の馬鹿さ加減が露呈(ろてい)している、といえよう。


<昔の学会>
●この朱色の三門は、徳川6代将軍家宣夫人、天英院の手によって寄進された、国宝級のものである。日蓮正宗総本山の三門として、ふさわしい偉容といえる。(『人間革命』第1巻「千里の道」)





大石寺が他宗と合同?

【「大石寺は邪宗"勝劣派"だった」!?】
−"勝劣派"は教義区分上の呼称にすぎぬ−
(『慧妙』H14.12.1)

<学会の邪説>
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日運正宗は、江戸時代には幕府から単独の教団としては認められてはおらず、日蓮宗の勝劣派に属する少数派と見られ、事実、天明6年(1786年)の記録では「法花宗勝劣派」として記載されている。
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<破折>
 ここでいう「勝劣派」とは、法華経の本門と迹門に勝劣(本門が勝れ、迹門が劣る)を立てる宗派の総称で、一致派(本迹に勝劣がないとする派)と対比して用いられている名称である。
 日蓮正宗は勝劣を立てる宗派であるから、「勝劣派」に分類されることは当然である。したがって、江戸時代の記録に「法花宗勝劣派」とあっても、それは教義区分上の総称として用いられているものであって、何の問題もない。



【「明治期、大石寺は邪宗の傘下に」!?】
−影響力ない連合、富士の清流守りぬく−
(『慧妙』H14.12.1)

<学会の邪説>
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 明治7年、日蓮教団は明治政府によって一致派と勝劣派の2派に統合され、ついで同9年、勝劣派は5つの派に分かれた。この時、大石寺は、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、下条妙蓮寺、保田妙本寺、京都要法寺、伊豆実成寺とともに、興門派の8本山の1つとなった。
 ここでも大石寺は、いわゆる「邪宗日蓮宗」である興門派の「同門」として宗派を形成していたのである。
 その興門派管長は各本山の持ち回りで就任していたから、大石寺は長い間"謗法の管長"の支配下にあった。また、大石寺の第55世日布上人、第56世日応上人が同派管長であった時は、"謗法の教団"を管理していながら、"善導"も"破折"もしなかった。
 いかに弁解しようとも、大石寺が長い間、「邪宗・日蓮宗」の輩と同門の「勝劣派」であり、「興門派」であったという史実は変えられない。
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<破折>
 創価学会の疑難は、明治政府の宗教政策と日蓮正宗の対応について、詳細を見ず無分別に論じているので、これを整理するため、以下に年代を追って説明する。

【明治5年】明治政府、一宗一管長制(全ての日蓮門流を一宗として統合し、1人の管長を置く)の方針を立てる。これを察知した身延、池上、中山などの一致派が門下の統合を画策したが、これに勝劣派は猛反発した。
【明治7年】前の一宗一管長制への反発が大きかったため、一致派と勝劣派の間にそれぞれに管長を置くことになり、一派一管長制を達示。これを受けて勝劣4派(妙満寺派、興門派、8品派、本城寺・本隆寺派)が合議して日蓮宗勝劣派を結成し、管長の半年交代制を定め、初代に京都本能寺釈日実を選定した。
 大石寺は、当初より一貫して独立を主張し、再三にわたって政府に独立願いを提出したが認められなかった。
 当時においては、これ以上の抵抗を続ければ廃寺となるため、万やむをえず、比較的教義が近い勝劣派と、ひとまず連合(統合ではない)することとなった。
【明治9年】信教の自由が進んだことから、勝劣派内でも各派が独立を主張し、勝劣派のそれぞれに管長を置くことが認められた。
 この布達を受けて、勝劣4派はそれぞれ管長を定め、大石寺の属する興門派は要法寺釈日貫が臨時管長に就いた。同年6月に定められた興門宗規では、
 「第二十条 管長交番順序 京都府下要法寺、静岡県重須本門寺、千葉県下妙本寺、静岡県下妙蓮寺、静岡上条大石寺、静岡西山本門寺、静岡小泉久遠寺、右公議を尽(つく)し籖(くじ)を以順次を確定侯上は堅く相守り年々四月二日を以て交番し一順終れば前に復(ふく)して循環交番すべき事。
 第二十三条 各山同一寺格……」
と、年番制でクジで管長の順番を決め、一巡後は同じ順番で管長職を定めることや、各寺が支配・被支配の関係にないこと(各山同一寺格)を定めている。
【明治17】年太政官布達第19号にて、
 「第四条 管長は各其立教・開宗の主義に由て左項の条規を定め、内務卿の認可を得可し、
一 宗規
二 寺法
三 僧侶並に教師たる分限
及其称号を定むる事
四 寺院の住職任免及教師の等級進退の事
五 寺院に属する古文書宝物什器の類を保存する事
 以上仏道管長の定む可き者とす」
と、管長の義務が明示された。
 これにより、興門派として「宗規」を定めることになり、大石寺は「血脈相承の人をもって管長とする」「総本山は大石寺とする」等の意見を出したが、他派の受け入れるところとはならず、結局、従来どおり、管長年番制各山同一寺格の規則に定まった。

 こうした中にあっても、大石寺と他派との間には教義上の軋轢(あつれき)がやまず、明治33年9月18日、大石寺の分離独立が認可され、本宗は「日蓮宗富士派」と公称して一宗独立を果たしたのである。
 創価学会の疑難は、こうした実態を無視して、"大石寺は邪宗の管長の下にあった"という。
 しかし、右に見てきたように、いうなれば、法律上の形式として、各山が持ち回りで管長を名乗っていたにずぎないのであって、その権限も興門派内の他の宗派に及ぶほど強大なものではなかったのである。
 なお、驥尾日守(きびにっしゅ)が『末法観心論』を著わして本宗を疑難してきた際、56世日応上人は『弁惑観心抄』で完膚なきまでに破折されたが、その結果、その当時の興門派管長であった小泉久遠寺の妙高日海が、"『末法観心論』は興門一派の安寧に害あり"として、発行頒布を禁止している。時の管長をして、このような命令を出させるほど、大石寺の影響力は強く、逆に管長の支配力は無いに等しかったのである。
 創価学会は、「邪宗と統合されていた」「善導も破折もしなかった」などと悪態をついているが、以上のとおり、明治政府の宗教政策の都合上、連合という形をとったが、内実は各山独立しており、しかも、大石寺として、血脈付法の人を管長とし、また大石寺を総本山として合同するよう、呼びかけていたのである。
 残念ながら、その目論見は達成できなかったものの、富士の清流を守りぬいて、最終的には連合も解消したのであり、創価学会の疑難は悉(ことごと)く的外れである。



【「富士7本山と合同で本門宗と改称」!?】
−改称は他山の意向、大石寺は常に単立志す−
(『慧妙』H14.12.1)

<学会の邪説>
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大石寺は、もともと邪宗と同一の宗派に属し、明治33年までは邪宗教団を合む興門派の管理下に置かれていたではないか。この興門派は、明治32年に「本門宗」と改称した。この時も大石寺は「本門宗」の一派となった。翌33年9月になって、初めて大石寺は、この本門宗より離脱して「日蓮宗富士派」と称し、独立した宗門となったのである。
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<破折>
 学会は、本宗が邪宗と合同し、謗法に与同していたことにしたいらしいが、政府の政策上、やむなく「興門派」「勝劣派」と一群を形成していたとはいっても、他宗の管長に支配されていたわけではない。
 むしろ、明治17年の太政官布達第19号における管長選出にあたっては、他派の誤りを指摘し、大石寺の正統性を主張して、大石寺の正義のもとに帰一合同するよう働きかけていたのである。
 惜(お)しくも、その企図は達成されなかったが、戦後、妙蓮寺等が本宗に帰伏したことを考えれば、当時の御法主上人のこうした御苦労、善導が功を秦したともいえるのである。まさに慈悲の宗たる本宗の面目躍如たるものがあるではないか。
 次に「本門宗」の宗名であるが、この宗名は、明治9年2月に一致派が「日蓮宗」を公称したため、勝劣派においても「本門宗」と改称したにすぎない。
 ちなみに、この宗名は明治9年10月と同13年3月に、内務省に改称願いを出したが却下され、明治32年に公称が認可されたものである。
 ただし、この時、大石寺は分離独立の出願中であり、宗名改称の審議には加わっていない。
 ともあれ、明治期以降の近代は、政府の宗教政策による合同間題や、仏教界全般に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が荒れ狂うなど、宗門の運営はけっして平坦なものではなく、慎重な舵(かじ)取りが要求された時代である。このような苦難を乗り越えて、日蓮大聖人の清浄な仏法を今日まで伝えてくださったが故に、現在の我々が成仏の大功徳を享受させていただけるのである。
 しかれば、今日まで大法を守りぬいてこられた御歴代の御法主上人をはじめ、先師先達方に、深く感謝申し上げなけれはならない。






本尊撮影


【総論】
<学会の邪説>
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 一閻浮提総与の大御本尊様の写真を掲載した本がある。写真は、御宝蔵に御安置されていた大御本尊様を、至近距離(おそらくは数メートル)から撮影したものである。この写真は、縦10.3センチ、横7.3センチの大きさで掲載されている。
 大御本尊様の写真を掲載している本は、明治44年11月10日、報知社より発行された『日蓮上人』で、著者は熊田葦城(本名熊田宗次郎)である。
 熊田葦城著の『日蓮上人』は、明治44年、『報知新聞』に連載されたものだ。執筆当時、熊田は浄土宗の信者であったが、この『日蓮上人』と題する伝記を著したことが縁となり、後に日蓮正宗に入信し、現在の品川区にある妙光寺の信徒になった。
 さて、この熊田の『日蓮上人』には、先述したように一閻浮提総与の大御本尊様の写真が掲載されているが、その写真の下の解説文には次のように書かれている。
 「これ日蓮上人より日興上人に傳へられたる本門戒壇の大本尊なり丈4尺6寸餘幅2尺1寸餘の楠材にして日蓮上人の眞筆に係り日法上人之を彫刻す今富士大石寺に寶藏す由井一乗居士特に寄贈せらる」
 この写真解説文によれば、「由井一乗」という人物が、大御本尊様の写真を熊田葦城に渡したということだ。
 熊田は、日蓮正宗機関誌『白蓮華』(大正4年11月7日発行)に「余の改宗せし顛末」と題し、入信の経緯を書いている。その中に、「由井幸吉君は日蓮宗の碩学にして、最も余の記事を歓迎せられし1人なり」と記している。
 ここに「日蓮宗の碩学」とあるのは、身延派を指す「日蓮宗」ではなく、日蓮大聖人を宗祖とするという意味での「日蓮宗」であり、由井は日蓮正宗の信徒である。この手記によれば、熊田は大正2年5月、由井幸吉の折伏により入信した。
 この由井幸吉が「由井一乗」である。由井一乗は、大正15年1月号の『大日蓮』に名刺広告を出している。肩書は大講頭である。
 熊田がその著『日蓮上人』に、一閻浮提総与の大御本尊様の写真を掲載したのが明治44年。その写真解説文には由井一乗が写真を提供したことが明記されているのに、由井は日蓮正宗内でなんら処罰もされなかったのだ。(『地涌』第239号)
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<破折>
@撮影・掲載は謗法ではない
●第59世日亨上人編纂の『富士宗学要集』第9巻57頁には御本尊の写真が掲載されている。
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このことからも御本尊の撮影・掲載が直ちに謗法とは言えないことが分かるのである。

◆日蓮正宗では以前に奉蔵於奥法寶という御本尊集を出し、日達上人も了解済みです。それも昭和42年10月15日にです。(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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これは学会員の掲示板である。

◆飛び漫荼羅については、手持ちの“奉蔵於奥法寶”の写真がかなり悪いので、分かり辛い部分もあるのですが、漫荼羅の原本は正応年間の日興上人御筆、大聖人の花押とされる部分は、対応する御真筆が見つからず、原本不明といったところですね。(<巌虎独白>WS)
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これは顕正会員のサイトと思われる。


A問題の書籍は入信前のもの
◆熊田葦城著の『日蓮上人』は、明治44年、『報知新聞』に連載された。執筆当時、熊田は浄土宗の信者であったが、この『日蓮上人』と題する伝記を著したことが縁となり、後に日蓮正宗に入信し、現在の品川区にある妙光寺の信徒になった。(『地涌』第239号)

●葦城居士は『報知新聞』にて、『日蓮上人』を連載したる因にて、遂にまったく富士門家に淳信の士となられた(第59世日亨上人『富士日興上人詳伝(上)』292頁)


B入信後は日亨上人の指南仰いでいた
●かつて熊田葦城居士が「日興上人」を伝せしその中に記入してあったのを、さいわいに校閲を請われたのに乗じて、時の大学頭日柱師とはかりて削除して禍を除いた(第59世日柱上人『富士日興上人詳伝(下)』47頁)
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少なくとも入信後(『日蓮上人』発行後)の熊田葦城(いじょう)氏は、執筆にあたって日亨上人の御指南を仰いでいたことが分かる。後に発行された『日蓮大聖人』についても同様に、日亨上人の御指南を種々仰いでいたものであろう。だからこそ、『大日蓮』の広告に掲載され「日蓮大聖人の御傳記中尤も正確のもの」というコメントまで付されていたのであろう。



【各論】
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<撮影・掲載は謗法とは限らない>
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 さて、この熊田の『日蓮上人』には、先述したように一閻浮提総与の大御本尊様の写真が掲載されているが、その写真の下の解説文には次のように書かれている。
 「これ日蓮上人より日興上人に傳へられたる本門戒壇の大本尊なり丈4尺6寸餘幅2尺1寸餘の楠材にして日蓮上人の眞筆に係り日法上人之を彫刻す今富士大石寺に寶藏す由井一乗居士特に寄贈せらる」
 この写真解説文によれば、「由井一乗」という人物が、大御本尊様の写真を熊田葦城に渡したということだ。(『地涌』第239号)
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★大御本尊でなくとも、御本尊を写真に撮るなど、基本的に宗門ではありえない。大講頭であれば、御開扉の機会も多かったであろうから、その際に盗撮したとも考えられる。現在でも、大御本尊安置の場に、写真機の持ち込みは禁止されており、御開扉のたびに注意している程であるから、勝手に写真機を持ち込む者が後を断たないのであろうか。何時の世にも獅子身中の虫はいるものである。

★御本尊の写真を撮ることが、直ちに謗法となる訳ではない。模刻するときなどは写真撮影するであろうから。問題は用途であろう。問題の写真を見る限り、中央首題の文字以外は全く読み取れない。つまり、各文字やその配置など一切分からないという状態である。これでは、勝手に複写して本尊にすることもできない。それ以前に、これが弘安2年御図顕の大御本尊かどうかも証明できない状態である。そうであれば、勝手に憶測を振り回して騒ぐようなこともない。

http://campross.crosswinds.net/Gohonzon/DaiGohonzon.html

★『富士宗学要集』第9巻57頁には御本尊の写真が掲載されている。このことからも御本尊の撮影・掲載が直ちに謗法とは言えないことが分かるのである。

少し前に、学会員が、日達上人によって「御本尊写真集」なるものが作られたと言っていた。もし、それが事実であれば、御法主の允可があれば、必ずしも写真撮影は謗法ではないのかも知れない。↓

日達法主が弟子に配布した御本尊写真集の中にある「御本尊七箇相承」と違う御本尊は「日興上人の本尊に御本尊七箇相承に従わないものがあるのであれば、それはニセ本尊であろう」って仰った以上「ご本尊の相貌」って訳にはいきませんよね?(yh:16929



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あほか。大御本尊を撮影した写真を、流通させれば、それは公開したことにつながるだろうが。そうではないと言うのなら、御本尊写真集に大御本尊を掲載しないのはなぜ?(旧sf:2394)
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お前こそ、あほか!写真を公開しないのは、君達のように勝手に複写して、御本尊にしてしまう「あほ」が出てくるからだ。かりに、問題の写真が許可されたものだとしても、中央首題以外の文字は全く読み取れないから、そのまま本尊にされる心配もない。それどころか、問題の写真が、弘安2年の大御本尊であるかどうかも分からない。

●昭和29年8月1日付『聖教新聞』に掲載された『人間革命』の挿絵(同日付・同紙の別欄には、日恭上人御書写の御本尊そのものの写真が堂々と掲載されているのだが、あまりに畏れ多くて、ここでの転載は控えることにする)。(中略) 挿絵に御本尊のコピー(と思われる。もし、そうでなく、似せて勝手に書いたものだとすれば、なお重大問題だ)を使う感覚も問題だが、この際それは置くとして、この"挿絵本尊"も、"和合僧団"と自称する学会の手によって複写されたもの。(『慧妙』H5.10.16)



<問題の書籍は入信前のもの/入信後は日亨上人の指南仰いでいた>
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 広告が、昭和7年1月号の『大日蓮』に掲載されている。
 その広告は「熊田葦城先生著 日蓮大聖人」と大書され、次のような宣伝文が続いている。
 「本書は熊田葦城先生が心血をそゝひで執筆せられた、宗祖日蓮大聖人の御一代の歴史でありまして數ある日蓮大聖人の御傳記中尤も正確のものであります」
 また定価2円を、日蓮大聖人650年「御遠忌記念」として、1円30銭に値引きしていることも告げている。広告主は「大日蓮社」。日蓮正宗機関誌『大日蓮』の発行元である。
 これらの事実から推して、一閻浮提総与の大御本尊様の写真が流出したことについて、日蓮正宗の僧侶の面々はなんの痛痒も感じていなかったことが判明するのである。(『地涌』第239号)
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 熊田葦城の著作には『日蓮上人』と『日蓮大聖人』がある。大御本尊の写真が載っているのは『日蓮上人』の方であろう。仮に『日蓮大聖人』の方にも写真が掲載されていたとしても、写真撮影に、宗門が協力した証拠とはならない。もし、協力したのであれば、「写真提供・大石寺」と表示するはずである。また、問題の写真は、全く文字が読み取れず実害がないから、騒ぐほどのことではない。

●かつて熊田葦城居士が「日興上人」を伝せしその中に記入してあったのを、さいわいに校閲を請われたのに乗じて、時の大学頭日柱師とはかりて削除して禍を除いた(第59世日柱上人『富士日興上人詳伝(下)』47頁)
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少なくとも入信後(『日蓮上人』発行後)の熊田葦城氏は、執筆にあたって日亨上人の御指南を仰いでいたことが分かる。『日蓮大聖人』についても同様に、日亨上人の御指南を種々仰いでいたものであろう。だからこそ、『大日蓮』の広告に掲載され「日蓮大聖人の御傳記中尤も正確のもの」というコメントまで付されていたのであろう。

★当時の詳しい状況が分からない以上、我田引水の断定は控えるべきであろう。そういえば、昔の『聖教新聞』の『人間革命』広告にも御本尊の写真が小さく掲載されていた。また、池田が勝手に御本尊の写真を撮らせて模刻したことは有名である。しかし、日達上人は池田の懺悔謝罪を信用して、これを許され、その後も池田を讃歎されている。このような事実からしても、仮に写真撮影が事実であったとしても、宗門が許可したとか、謗法者を重用したとか、単純に断定できないことは明らかである。



<盗撮>
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じゃあ、御宝蔵は、この写真が掲載された明治44年当時のカメラ技術で、フラッシュもたかずに済むような環境だったのか?(笑)(旧sf:2370)
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 それは、分かりません。むしろ、当時のカメラ技術でフラッシュなしで撮影できるかどうかを、あなたが客観的資料に基いて証明すべきです。それができないのであれば、勝手な憶測をすべきではない。扉を全開しておけば、天気のよい日には時間帯によっては、中まで日光が入ったのかも知れない。蔵とはいえ、200人近くが入れて、御本尊を拝することができたのです。
 また、蔵には、沢山の御本尊や真蹟などの重宝が保存されているのです。それらの出し入れを必要に応じて的確に行うためには、それなりの明るさが必要です。そのためには、外からの光を取り入れる構造になっていたはずです。
 現在の御開扉のように、複数の御僧侶が内拝に伴った訳ではないし、御開扉のあと、すぐに厨子を閉じたとも限らない。また、撮影は、通常の御開扉のときであったとは限らない。
 あるいは、特別な儀式のときには、大御本尊が一時的に客殿などに御遷座されたのかも知れない。↓

●聖祖御入滅657年旧陰10月12日、当山客殿六壺の業を成じ、恭しく大御本尊並びに宗祖日蓮大聖人及び2祖日興上人の御影を遷座し奉り、一宗の僧侶並びに檀信徒此の処に相会し、謹んで読経唱題以て法味を献じ、落成入仏の式典を挙ぐ・・・(日昇上人・客殿六壺復興落慶法要慶讃文『人間革命』第3巻「結実」)
●大御本尊を御宝蔵より新客殿に、お移ししての御開扉であった。(『人間革命』第3巻「結実」)

どのような状況であったか分からない以上、勝手な憶測で、我田引水の結論を導くのはお止めなさい。



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盗撮なんかできないよ。されたのなら、そこに居た法主や僧は、あほばかりで、居眠り勤行でもしていて目を開いていないということになる。そういえば、いねむり勤行は、日顕宗の得意だったな。(爆笑)(旧sf:2394)
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 まず、撮影場所が御宝蔵であれ、それ以外の場所であれ、フラッシュを焚かなければ写らないかどうかを客観的に検証して下さい。
 さらに、御僧侶の目を盗んでフラッシュを焚けないという、証明をしてください。現在の御開扉を想定すれば不可能だが、当時は色々な形態があったかも知れない。また、現在でも報道関係者は堂々とフラッシュを焚ける。そのような立場を利用した撮影だったかも知れない。御開扉以外の機会に撮影したのかも知れない。その辺のところを証明できない以上、単なる憶測です。
 さらに、許可を受けた撮影であれば、何故、御本尊の各文字と、その配置が鮮明に写るような配慮がされなかったのか、納得のいく説明をして下さい。問題の写真は、中央首題の文字以外は、全く読めない。これでは、弘安2年の大御本尊かどうかも分からない。



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じゃあ、盗撮と仮定しよう。なにゆえこれが問題にならなかったんだい?(旧sf:2394)
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これが問題になったかどうかも、分からない。池田が本尊を勝手に模刻したことも、当時はほとんど伏せられていた。あれが表面化したのは、池田が御僧侶を軽視するなど、組織的に謗法をしていたから、一般御僧侶の間で広まったのだ。緘口令をしかれていた時期もあったのだ。「あった」ことを証明することは容易だが、「なかった」ことを証明するのは容易ではない。

●このたび、創価学会に於ては、これまでに彫刻申上けた板御本尊については、すべて総本山へ納め奉ることとなり、去る9月28日、7体の板御本尊が、総本山へ奉納せられ総本山に於ては29日奉安殿へお納めいたしました。
 但し、学会本部安置の日昇上人板御本尊については、御法主上人猊下御承認のもとに、そのまま本部に安置せられることになりました。
 依って、今後は創価学会の板御本尊のことに関しては、一切議論を禁止する旨、御法主上人猊下より御命令がありましたので、充分御了知下さるよう願います。(『院達』S53.10.3/<妙音>WS)
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学会が御本尊を模刻したとき、宗門では「一切議論を禁止」された。だから、多くの学会員は、御本尊が勝手に模刻されたことも知らなかった。




*本尊撮影

http://www.houonsha.co.jp/jiyu/06/239.html
(『地涌』第239号 1991年8月27日)


一閻浮提総与の大御本尊様の写真掲載に深く関わった男を日開上人は外護の勲功があったとして総講頭に任命した〈法難シリーズ・第17回〉
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 一閻浮提総与の大御本尊様の写真を掲載した本がある。写真は、御宝蔵に御安置されていた大御本尊様を、至近距離(おそらくは数メートル)から撮影したものである。この写真は、縦10.3センチ、横7.3センチの大きさで掲載されている。
 大御本尊様の写真を掲載している本は、明治44年11月10日、報知社より発行された『日蓮上人』で、著者は熊田葦城(本名熊田宗次郎)である。
 熊田葦城著の『日蓮上人』は、明治44年、『報知新聞』に連載されたものだ。執筆当時、熊田は浄土宗の信者であったが、この『日蓮上人』と題する伝記を著したことが縁となり、後に日蓮正宗に入信し、現在の品川区にある妙光寺の信徒になった。
 さて、この熊田の『日蓮上人』には、先述したように一閻浮提総与の大御本尊様の写真が掲載されているが、その写真の下の解説文には次のように書かれている。
 「これ日蓮上人より日興上人に傳へられたる本門戒壇の大本尊なり丈4尺6寸餘幅2尺1寸餘の楠材にして日蓮上人の眞筆に係り日法上人之を彫刻す今富士大石寺に寶藏す由井一乗居士特に寄贈せらる」
 この写真解説文によれば、「由井一乗」という人物が、大御本尊様の写真を熊田葦城に渡したということだ。
 熊田は、日蓮正宗機関誌『白蓮華』(大正4年11月7日発行)に「余の改宗せし顛末」と題し、入信の経緯を書いている。その中に、「由井幸吉君は日蓮宗の碩学にして、最も余の記事を歓迎せられし一人なり」と記している。
 ここに「日蓮宗の碩学」とあるのは、身延派を指す「日蓮宗」ではなく、日蓮大聖人を宗祖とするという意味での「日蓮宗」であり、由井は日蓮正宗の信徒である。この手記によれば、熊田は大正2年5月、由井幸吉の折伏により入信した。
 この由井幸吉が「由井一乗」である。由井一乗は、大正15年1月号の『大日蓮』に名刺広告を出している。肩書は大講頭である。
 熊田がその著『日蓮上人』に、一閻浮提総与の大御本尊様の写真を掲載したのが明治44年。その写真解説文には由井一乗が写真を提供したことが明記されているのに、由井は日蓮正宗内でなんら処罰もされなかったのだ。
 『日蓮上人』に掲載された大御本尊様の写真を見ると、燈明がともっている。左右に1本ずつのロウソクが点燈しているのである。察するに、この大御本尊様の写真は決して盗み撮りされたものではない。盗み撮りしたのであれば、燈明をともす時間も惜しむだろう。
 御開扉のときに盗み撮りしたとも考えられるが、狭い宝蔵の中でそれは不可能である。しかも宝蔵内は薄暗く、撮影に充分な露光を得ることはできない。ライティングかフラッシュが必要である。御開扉のときに盗み撮りすることは絶対に不可能である。
 また当然のことながら、在家の由井が勝手に宝蔵に入ることも不可能だ。よって、この大御本尊様の撮影は、由井の独断ではなく、僧侶の了解をもっておこなわれたと結論せざるを得ない。それも一部の僧侶ではなく、法主および能化クラスの了解があったものと思われる。いや全山あげての了承があったとするほうが自然かもしれない。
 念のために記すと、明治44年当時、日蓮正宗には第55世日布上人、第56世日応上人が御隠尊猊下として、第57世日正上人が御法主上人としておられた。
 この一閻浮提総与の大御本尊様の撮影が、日蓮正宗内で物議をかもしたという記録は見当たらない。大御本尊様の撮影は日正上人らの了解をもっておこなわれ、由井一乗から熊田に渡ったと見るのが至当だ。
 熊田の『日蓮上人』伝は、史実を克明に調べている。また、熊田は未入信ながら、ほぼ大石寺側に立って記述している。
 『日蓮上人』には、付録として、「日蓮宗身延久遠寺監督 権僧正 武田宣明」が熊田に宛てた手紙が掲載されている。
 手紙の内容は、熊田の『日蓮上人』が「単に興門派の所伝にのみ拠りて日蓮宗の史実を参案とし給はざりしは甚だ遺憾に存候」として、抗議をしたものだ。熊田の書いた『日蓮上人』伝は身延派の憤激をかったようで、バランスを取るため、付録として身延派の僧の抗議文を掲載したものと思われる。
 逆に言えば、熊田の著書『日蓮上人』に対する富士大石寺側の評価はそれだけ高かったのだろう。一閻浮提総与の大御本尊様が撮影され、熊田に渡った背景には、そのような事情があったと推測される。
 それを裏づける広告が、昭和7年1月号の『大日蓮』に掲載されている。
 その広告は「熊田葦城先生著 日蓮大聖人」と大書され、次のような宣伝文が続いている。
 「本書は熊田葦城先生が心血をそゝひで執筆せられた、宗祖日蓮大聖人の御一代の歴史でありまして數ある日蓮大聖人の御傳記中尤も正確のものであります」
 また定価2円を、日蓮大聖人650年「御遠忌記念」として、1円30銭に値引きしていることも告げている。広告主は「大日蓮社」。日蓮正宗機関誌『大日蓮』の発行元である。
 これらの事実から推して、一閻浮提総与の大御本尊様の写真が流出したことについて、日蓮正宗の僧侶の面々はなんの痛痒も感じていなかったことが判明するのである。
 「此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず正像末に未だ弘通せざる本尊なり、然れば則ち日興門徒の所持の輩に於ては左右無く子孫にも譲り弟子等にも付嘱すべからず、同一所に安置し奉り六人一同に守護し奉る可し、是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉る可し」(富士一跡門徒存知の事)
 日興上人の遺言により、本化の菩薩が到来する日まで固く守護するように誡められている大御本尊様を、写真に撮って世間に公開するとは、日興上人の末流としての自覚に欠けるのもはなはだしい。御本仏日蓮大聖人の御遺命を無視し、大聖人を裏切る行為である。「守護」を命じられている者が、勝手に大御本尊様を写真に撮って世間に公開するなど、絶対に許されるべきことではない。
 熊田の著書『日蓮上人』に一閻浮提総与の大御本尊様の写真が掲載されたことからはっきりしたこと――それは、少なくとも明治の終わりから大正、さらに昭和の初めにかけての日蓮正宗の僧侶には、広宣流布の時を、自分たちでどのように構築していくかというプランも、その前提となる大情熱もまったく欠落していたということだ。「本化国主の御尋ね」を、より現実的なものとして感じていれば、時が来れば本門戒壇堂に安置されるべき一閻浮提総与の大御本尊様を、写真に撮って公表するなどということはありえない。法義の根幹を完全に忘れ去った姿であったことがうかがえる。
 熊田葦城に一閻浮提総与の大御本尊様の写真を渡した由井一乗は、昭和4年5月13日、総本山第60世日開上人より総講頭に任命された。そのとき、日開上人より由井一乗に「賞与大漫荼羅」(賞与御本尊)と賞状が与えられた。
 賞状には、由井を称えて、「多年爲法外護ノ勳功ニ依リ大漫荼羅ヲ賞與シ之ヲ表彰ス、昭和四年五月十三日 總本山日開在判」とある。
 一閻浮提総与の大御本尊様の写真を世間に公表してしまった謗法の者が、総講頭に任じられ、賞与御本尊を下され、外護の勲功を称える賞状までもらっているのだ。どこかがおかしい。ちなみに日開上人は、日顕上人の実父である。
 由井一乗が総講頭に任命されたのが昭和4年5月。創価学会の牧口常三郎初代会長、戸田城聖第2代会長の入信は前年の昭和3年6月頃である。後に戸田会長がしばしば語ったとされる、「我々は謗法の真っ只中に敵前上陸した」との発言が、実感をもって蘇る。
 一閻浮提総与の大御本尊様を守護すべき日蓮正宗にしてから、このようなありさまだったのだ。
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狸祭り事件

検証!「狸祭り事件」


 創価学会の独善を象徴する事件の1つが、いわゆる「狸祭り事件」です。
 この事件の背景には、創価学会初代会長・牧口常三郎らが、戦時中、"不敬罪"で逮捕・投獄され、牧口が獄死したことがあります。
 牧口会長の獄死に関し創価学会首脳は、その近因は、戦時中、ある正宗僧侶が「神本仏迹論」を称(とな)え、身延との合同を画策したことにある、と、勝手に思い込みました。
 しかし、"不敬罪"とは、皇族等に対し「不敬ノ行為」を働くことで、創価学会が弾圧されたのは、伊勢神宮の神札を焼く等の行為を行なっていたからです。
 ですから、「神本仏迹論」を主張した正宗僧侶がいようといまいと、身延との合同問題があろうとなかろうと、当時の官憲に"学会は、神札に不敬をしている"と認識されていた以上、遅かれ早かれ創価学会(※当時は創価教育学会)は弾圧される運命にありました。
 にも拘(かか)わらず「神本仏迹論」を主張した正宗僧侶を逆恨(さかうら)みした創価学会は、昭和27年4月27日・28日に、総本山にて奉修された宗旨建立700年慶祝大法要の際、登山していたその正宗僧侶(※一旦、「神本仏迹論」問題で僧籍を失ったが、本人の反省懺悔〈ざんげ〉と、慶祝の特赦〈とくしゃ〉で復籍)を、慶祝大法要という50年に1度の大慶事の最中にも拘わらず、衆人環視(しゅうじんかんし)の中で暴力的な吊(つる)し上げを行ないました。
 事前に周到な準備を進めていた学会では、事件当日、宿坊にいたその僧侶を大勢で取り囲み、さんざん詰問(きつもん)したり罵声(ばせい)を浴びせたあげくに「衣を脱げ!」と命じ、下着姿の僧侶を皆で担(かつ)ぎ上げ、はやし立てながらプラカードを掲げて塔中を練り歩き、牧口会長の墓前に連れていって、そこで詫(わ)び状を書かせたのです。
 しかして、創価学会はこの事件の顛末(てんまつ)を、『聖教新聞』や『大白蓮華』を使って大々的に報じたばかりでなく、さらに呆(あき)れたことには、その記事中で、事前に謀議(ぼうぎ)を巡らしたことまで誇らしげに書き並べているのです。
 なお、創価学会では、「学会は、その僧侶が慶祝記念の特赦により僧籍復帰していたことを知らなかった」と自己正当化を謀(はか)りますが、そもそも宗旨建立700年慶祝大法要という大慶事の最中に、神聖であるべき総本山内で、計画的に騒動を起こすなど、『化儀抄』の定めからも、世間の常識からも、是とされることではありません。
 当然のことながら、臨時宗会において戸田会長に対する登山停止が議決され、時の御法主・第64世日昇上人からも教誡を受けるところとなったのです。
 結局、戸田会長が日昇上人への謝罪・懺悔を表明して、事件は沈静化しましたが、これを見ただけでも、創価学会が、当時から呆れ果てた謀略集団だった、ということは明白でありましょう。(『慧妙』H18.6.1)

 狸とは日蓮正宗の老僧・小笠原慈聞をさした。
 小笠原は戦時中、日蓮正宗の身延への合同を策し、神本仏迹論(神が本体で仏はその影)を唱えていた。戸田は創価教育学会弾圧の発端は彼が作ったとし、その責任を問う形で彼をデモンストレーションの犠牲に供した。(『池田大作「権力者」の構造』137頁〜)

[画像]:事件の経緯を誇らしげに報道する『聖教新聞』と『大白蓮華』=『聖教新聞』(S27.5.10)には、事件の経緯が事細かに。その中には、前もって周到な準備を重ねていたことまで明記されているが、慶祝大法要の最中に騒動を起こしたことへの、真摯(しんし)な反省や謝罪の言葉はない。さらに、『聖教新聞』で大きく報じただけでは飽きたらず、『大白蓮華』に事件の流れにそった写真特集まで組んで大々的に宣伝。

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■関連年表
(『赤旗』S45.5.1、5.2または『池田大作「権力者」の構造』ほか)

<S26.5.3>
・向島・常泉寺本堂において、戸田第2代会長推戴(すいたい)式が行なわれ、戸田氏は、就任後、日蓮正宗の信徒団体であることを前提とした上で、創価学会を新たに宗教法人として設立したい旨を、日蓮正宗宗務院に願い出た。(『慧妙』H24.5.1)

<S26.11.1>
・『聖教新聞』に、『宗教法人「創価学会」設立公告』を出す。(『慧妙』H24.5.1)

<S26.12.18>
・戸田第2代会長以下数名は、細井庶務部長らと、学会の宗教法人設立についての会議に臨(のぞ)み、宗務院の示した3箇条の条件、すなわち、
(1)折伏した人は、信徒として各寺院に所属させること
(2)当山の教義を守ること
(3)三宝(仏法僧)を守ること
を誓約し、宗教法人取得を許された。(『慧妙』H24.5.1)

 しかし、戦後に復興した創価学会の急速な成長は、常軌(じょうき)を逸(いっ)した過激な折伏によるものであり、時として独自の思想を振り回すその体質に、宗内の多くの御僧侶は、学会に対し警戒心を抱いていたのである。
 なかには、戸田氏が学会の宗教法人化に着手した際、さらに過激な団体になるのではないか、という危機感から、創価学会員に対する化儀の執行を拒(こば)む寺院も現われたのである。
 このような学会に対する反対勢力に対して、戸田会長はそれを力でねじ伏せるという暴挙に出た。それが、前号で取り上げた『狸祭り事件』である。(『慧妙』H24.5.1)


<「狸祭り」事件>
<S27.3.2>
・戸田は青年部に小笠原糾弾を指示し、池田を含めて青年部幹部はその実行手筈(てはず)を打ち合わせて行動部隊47人を選び、プラカード等を用意した。

<S27.4.27>
・(法要の)前日から戸田は創価学会員約4千名を引きつれ、大石寺に乗りこんでいた。
・夜、行動部隊は大石寺内の僧坊をまわって小笠原を探し歩き、彼を寂日坊に見つけて謝罪を要求した。

<S27.4.28?>
・4月28日、大石寺で宗旨建立700年記念慶祝大法会が挙行された。
・小笠原は反論して埒(らち)があかず、竜部隊は業をにやして彼をかつぎあげ、「いよいよ外え(ママ)出んとした時池田君の知らせで戸田」(『聖教新聞』S27.5.10)も寂日坊にかけつけた。
 事件後、小笠原が発表した手記『創価学会長戸田城聖已下団員暴行事件の顚末(てんまつ)』によると、戸田は"生意気いうな"と小笠原の左耳の上と右横頭を強打し、行動部隊の多数も殴る蹴るの暴行を働き、彼の衣を脱がせてシャツ1枚にしたという。
・その後行動部隊は小笠原をかつぎあげ、筆頭理事・和泉覚の指揮で喊声(かんせい)をあげつつ、寺内の牧口常三郎の墓まで彼を運びこんだ。ここで小笠原を再び責めたてたあげく、用意した案文通りの謝罪文を彼に書かせた。この間、地元の消防団や村民が騒ぎを聞きつけて詰めかけ、暗夜の墓地で乱闘が始まり、墓石が倒れ、けが人が出た。

・戸田はその夜からただちに事件の収拾工作を行ったが、小笠原をまるめこむことはできず


<事件後>
・小笠原は全国の日蓮正宗の末寺に創価学会を告発するパンフレットを送り、同会に牛耳られた総本山管長を告訴した。また警察も動き、戸田や和泉覚は勾留、取り調べを受けた。

<S27.6.26〜29>
 臨時宗会が開かれたが、この宗会においては「宗制の修正」「宗規の原案」が検討されるとともに、もう1つ「大法会不祥事件(狸祭り事件)」が審議された。
 宗会では、学会が独立法人化したことに、あらためて反対する意見が多数を占め、宗規を改正して、信徒が勝手に独立法人を作ることを禁止すべし、ということを決議した。
 また、小笠原師には、宗制宗規に照らし適切な処置をし、戸田氏には、今後は今回のような事件は絶対に起こさない事を条件とし、謝罪文の提出・大講頭を罷免(ひめん)・登山の停止という処分を下すことが決まった。(『慧妙』H21.7.1)

 しかし、この宗会の決議を不服として、猛反発した学会は、彼らの言う"悪侶""偏狭な宗会議員""悪議員"をターゲットにして、"集団吊(つる)し上げ"を連日連夜、繰り返し始めたのである。([画像]:宗会決議に反発し青年部が抗議闘争を開始と報じた『聖教新聞』)
 やり玉に挙(あ)げられたのは、東京妙光寺住職・柿沼広澄尊師、同白蓮院住職・千種法輝尊師、横浜久遠寺住職・市川真道尊師、静岡奨信閣住職・秋田慈舟尊師、京都住本寺住職・秋山教悟尊師、大阪源立寺住職・浅井広龍尊師(いずれも当時)らで、続いて、大石寺塔中の各住職に対する攻撃が繰り広げられた。(『慧妙』H21.7.1)

<S27.7.24>
・こうして創価学会青年部が暴れまくっている最中、戸田氏は、宗務院の呼び出しで登山し、事態を憂慮(ゆうりょ)された日昇上人猊下から、7月24日付で、狸祭り事件の処分として「戒告文」を下された。(『慧妙』H21.7.1)

<S27.7.26>
・宗務院は、7月26日付で宗内に院達を出し、狸祭り事件に対する、いっさいの論争を差し止め、宗会決議も取り消された。(『慧妙』H21.7.1)
・一方、戸田氏も、青年部に対し、闘争中止命令を出した。(『慧妙』H21.7.1)

<S27.7.30>
・創価学会は、お詫(わ)びのしるしとして五重塔修復を申し出た。(『慧妙』H21.7.1)

 結局、創価学会は、宗教法人化に反対している宗内の反学会派を恫喝するために、"狸祭り事件"を計画・実行し、さらには"集団吊し上げ"という暴挙によって、予定以上の成果を収めたのである。
 これが創価学会の体質なのである。(『慧妙』H21.7.1)

こうした戸田の根まわしによる本山の圧力と30万円の慰謝料で、小笠原は否応なく手をうたされ、後には創価学会の資金援助で同会との争論を詫びる『日蓮正宗入門』を刊行するまでに懐柔された。

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■狸祭事件

(常健院日勇御能化『富士の法統』妙教編集室135頁〜)

〈編集部〉「狸祭事件」が27年でしたよね。
〈常健院〉うん、「狸祭」は、たまたま27年の法要をやっている最中だから。それでね、私は、騒ぎが起こってるぞなんていわれて、見たら、ちょうど塔中を小笠原師が担がれていくところで、(私は)何かあったら動きやすいようにと思って、スポーツウェアみたいのに着替えて行ったら、浄蓮坊の辺(あた)りを「ワッショイ!ワッショイ!」なんて担いでいくところでね。でも1人ぐらいじゃどうにもならないからね。その後をずうっとついていって、牧口会長の墓までいって、小笠原師に謝れっていうんだけど、もう暴力沙汰だったよね。それで、本山警護に来ていた消防団なんかとも争いがあってね。消防団は「そんな年寄りをみんなでひどい目にあわせて、あなたたちは!」って言っていました。その中に牧野酒造(総本山近隣の酒造会杜)の主人だった牧野百松っていう人がちょうど消防団長だったものだから、一生懸命に止めたのだけれど聞かないでね。
〈編集部〉その時、常健院様は、ずうっとその現場をご覧になられていたのですか。
〈常健院〉見てた見てた。私の立場としては見ているより仕方がなかったからね、墓までついて行って…。
〈編集部〉何人ぐらいいたのですか。
〈常健院〉何人って、200〜300人ぐらいいたんじゃない?
〈編集部〉そんなに大ぜいいたのですか?小笠原慈聞師、1人を吊し上げるのに…。
〈常健院〉大ぜいいましたよ。牧口さんの墓の回りは人だらけでしたからね。(この事件は)後で考えるとね、確かに小笠原師自身もね、昭和16年の3派合同という問題(正宗と日蓮宗を合同させようとする問題)があったわけだけど。それは今の顕本法華宗と本門宗と日蓮宗とを一緒にしようとしたんだね。幸いに、お山のほうは明治33年に本門宗から出ちゃってるからね。その時(昭和16年当時)一緒になれ(身延派と)なんて言われたけど、絶対身延とは一緒になれないと言って、昭和16年だと思うけどね、護法会議というのが御影堂であって、私はねえ、ちょっと聞いた話なんだけど、直接聞いた人たちは鳥肌が立つような思いだったと言っていたからね。だから、もし宗門を(日蓮宗と合同して)取り潰(つぶ)すと言うのであれば、もう「御影堂を枕に我々は死んでも結構だ!」という大変な会議だったのだけれど。
〈編集部〉その護法会議の時に小笠原慈聞師が神本仏迹論という考えを述べたのですね。
〈常健院〉そうそう、それとね、詳しいことはわからんけど、「水魚会」っていう退役軍人の偉い人たちが大分裏へ廻ってね、小笠原師と連絡取り合ったりして、大石寺も身延と合併するようにと、小笠原師は画策したみたいだね。そのために小笠原師は宗門から処罰を受けたのだからね。
〈編集部〉小笠原師のほかには身延との合同に賛成する人はいなかったのですか?
〈常健院〉いや、いたのかも知れないけれど、処罰を受けたのは小笠原師だけだからね。始めは小笠原師に与(くみ)する人もいたかもしれないけど、処罰の対象になったのは小笠原師だけだったのでしょう。それで処罰を受けて、一応すんでしまったことだからね。それを27年になって「狸祭」だなんて小笠原師に集団暴行を加えること自体がおかしいと思うな。
〈編集部〉そうですね、小笠原師の3派合同の件と、牧口氏が官憲に捕まって収監された事作とは、まったく別の問題ですからね。
〈常健院〉別々。あれはね、不敬問題といってね、神札の問題。だからそれは小笠原さんの神本仏迹論なんかの問題とは別だったんだよ。
 ただねえ、後で我々が考えたのは、あれは戸田会長の、坊さん(宗門)に対する示威運動だったんだということだね。学会の力はこうだぞ!という見せしめのために「狸祭事件」をやったんだ、私らも後から考えて…。
 それはもう、吊し上げなんていうのは、君、学会の常套手段だからさ。
〈編集部〉はい、それは学会の体質的なもので、練馬の投票所襲撃にもその体質があらわれています。
〈常健院〉その「狸祭」で、結局戸田会長も登山停止になるわけだけれども、登山停止になった後の、各宗会議員や宗務院の役の上のほうの人、総監とかに対する(学会による)吊し上げなんて凄まじかったんだからね。妙玄院さん(常泉寺第41代高野日深上人)なんかも内事部で吊し上げられているのを見てたけどね。まだそのころはね、日達上人も庶務部長でいらしたから、宗務行政に対して何か注文をつける時は日達上人が吊し上げられて。今度はお山のことで何か文句があると吊し上げられる対象は私だったから。大体決まっていたみたいだね。もうそれはねえ、ひどい吊し上げが何度もありましたよ…。戸田さんとか柏原ヤス、錚々(そうそう)たる人たちがね、私は当時蓮成坊の住職をしていましたから、押し掛けてきて、私の長女や、次女なんか台所の隅で震え上がって泣いてましたよ。
 だからね、そういう体質だったってこと。しょっちゅうだったね、そういうことは。大体(当時の学会は)理境坊を本部にしていたからね、私は昭和27年から30年まで蓮成坊にいて、30年から33年まで百貫坊にいたから、百貫坊にいた時にはすぐ裏が理境坊で、学会になにかあるとすぐ飛んで来るんだよ。





日昇上人の御裁断について(仮題)

(『慧妙』H15.1.16)
【「狸祭り事件」で宗門が僧俗を差別!?】
―日昇上人は双方を遵法に処断された―
<学会の邪義>
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 昭和27年、宗旨建立700年を祝う記念式典が総本山で行なわれたが、そこに戦時中「神本仏迹論」なる邪義を唱えて擯斥(ひんせき)処分を受けたはずの某師が登山していることがわかった。
 この某師の戦時中の行動によって、創価学会初代牧口常三郎会長と理事長であった戸田2代会長が投獄された。ことに、牧口会長はこの法難において、ついに獄死という殉教の道を歩まれたのであった。
 このため、学会青年部は某師の謗法を責め、故牧口会長に詫(わ)びさせるために、登山中であった某師に対し実力行使を行なった。
 このことは、謗法呵責(かしゃく)の上からも、また牧口会長への報恩の意味でも正しいことであった。しかも、この時、創価学会は「某師は日蓮正宗の僧侶を擯斥処分されている」との認識でいたのであり、なんらとがめ立てを受ける筋合いはなかった。
 にもかかわらず宗門は、在家である戸田2代会長には「登山停止」という厳しい処分を下し、僧侶である某師には寛大な処置を下したのだった。
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<破折>
―日昇上人の御慈悲踏みにじった学会/日昇上人は仏法に従い事件を公平に裁断―
 まず、「某師が僧籍復帰したとは知らなかった」との言い訳だが、現に袈裟衣を着けた某師が、登山している以上、その事情を宗務院に確認すべきが当然であろう。それもせずに直接行動を起こすとは、粗忽(そこつ)の謗(そし)りを免(まぬが)れない、と知るべきである。
 次に、「神本仏迹論の邪義で軍部にすり寄ったために牧口会長・戸田理事長に難が及んだ」との疑難。
 これについて、藤本日潤尊能化が、次のように述べておられる。
 「戸田さんが逮捕されて牢獄に入れられた、牧口さんと一緒にね。それと、小笠原師の神本仏迹論とは直接の因果関係はないんだよ。」(『妙教』第100号)
 このお話からも窺(うかが)えるが、牧口・戸田両氏が逮捕・投獄された経緯と、「神本仏迹論」を唱えた某師との直接の因果関係は、現実の歴史として見当たらない。
 牧口・戸田両氏の逮捕・投獄は、創価学会自ら
 「牧口会長ほか学会幹部の逮捕の理由は、治安維持法違反と不敬罪ということである」(創価学会40年史)
と述べているように、某師の「神本仏迹論」とは何の関係もない。
 すなわち、某師の動きが牧口氏らを投獄に追いやった、というのは、学会の暴力行為を正当化するための言い掛かり、言い訳にすぎないのである。
 なお、この事件は、時の御法主・第64世日昇上人が、この時のいっさいの経緯を御覧あそばされ、最終的に断を下されており、その時の誡告文の中で日昇上人は、現在の学会のいうごとき非難も、ことごとく打ち砕かれている。
 よって、この時の日昇上人から戸田氏への誡告文を以下に奉載申し上げる。熟読玩味(じゅくどくがんみ)し、学会の疑難がどれほど的外れであるか、とくと知っていただきたい。

 あなたとあなたが指導する青年部の者が、去る4月27日総本山に於ける宗旨建立700年慶祝の大法要の期間中に惹起(じゃっき)せる不祥事は、甚(はなは)だ遺憾(いかん)の極(きわ)みである。然(しか)も其(そ)の影響する所は、善意にしろ悪意にしろ国内一搬に伝わり、宗門の面目を失うことが多かったと認められる。
 抑(そもそ)もその根本原因は、あなたが先に提出せる始末書により一応は了解することが出来るが、慶祝式典の時に当って暴力を行なったということは、不当のことにして世人の顰蹙(ひんしゅく)を受けるは当然のことである。
 宗門を思ふ心の余りとはいへ、宗門人はかへってあなたの本心を疑い暗鬼(あんき)を生ずることは、論を俟(ま)たない。次々とかかることが生ずるならば、宗内は異体同心どころか僧俗共に疑心に包まれることになる。(中略)
 宗内の教師僧侶は、白衣の沙弥(しゃみ)に至るまで総(すべ)て予が法類予が弟子である。若(も)し其(そ)れ此(こ)の教師僧侶を罵言(ばげん)し侮蔑(ぶべつ)するならば、法主たる予が罵言され予が面に唾(つば)されるものと身に感じ、心を痛めているのである。予が法類予が弟子として、宗義に違背し或(あるい)は不行跡があれば、予に於て呵責し処置するのである。
 あなたは大講頭として正宗信徒の先陣に立ち、熱原の烈士の後を続くべき責任を負荷されているのであるから、内に当ってはよく忍辱(にんにく)の鎧(よろい)を着し、外に向かっては強く折伏を行じなければならない。
 末法の僧は十界互具の凡夫僧であるから、多少の過磐(かけい)は免れない。僧侶に瑕(か)きんがあれば、正当なる手続によるべきである。今後かかる直接行為をなすことは堅く禁止する。今回のことはその拠(よ)って起きた情状を酌量(しやくりょう)し、尚(なお)永年の護法の功績を認めるに依り、此(かく)の如く後の誡めとする。
 尚法華講大講頭の職に於(おい)ては、大御本尊の宝前に於て自ら懺悔(ざんげ)して大講頭として恥ずるならば、即座に辞職せよ。若し恥じないと信ずるならば、心を新たにして篤(あつ)く護惜(ごしゃく)建立の思(おもい)をいたし総本山を護持し、益々(ますます)身軽法重死身弘法の行に精進すべきである。
 予は宗祖大聖人より血脈付法の法主の名に於て右の如く誡告する。
昭和27年7月24日」(『大日蓮』第78号)

 一読してわかるように、戸田氏への誡告は、学会が挙げるような、"僧俗差別"などというものではなく、戸田氏の謗法呵責の精神は諒(りょう)とされつつも、神聖なる法要中に騒ぎを起こしたことと、学会青年部の師弟子の道を踏み外した直接行動に心を痛められていることが拝される。また、戸田氏を厳しくも暖かく擁護されていることが、この文面より拝されるのである。
 「狸祭り事件」は、一切ここで終結し、戸田氏もまた、「猊下の宸襟(しんきん)を悩まし奉った」ことを深く懺悔し、五重塔の修復をもって、この誡告に応えたのである。
 戸田氏の監督下にあった学会青年部がこのような事件を起こしたのは、戸田氏にとっても、また宗門にとっても、まことに不幸なことであった。しかし、戸田氏の総本山に対する赤誠は揺らぐことなく、また、日昇上人の戸田氏への信頼も崩れることもなく、さらなる僧俗和合の前進をみたのである。
 次に、学会は、「学会には一点のくもりもなかった」などと事件を粉飾しているが、そのような所論は、戸田氏の信心と赤誠を無に帰すものである。
 なぜなら、戸田氏はその「御詫状」において、
 「不肖なる末法の子供達の御本山を思う熱情より発したことと思召されて此の罪を御許し頂き度く伏して御願い申し上げます」
と述べ、すべての経緯を踏まえた上で、事件を起こした青年部達の行為をも含めて、一身にその罪を負って謝罪をしている。
 しかるに、今頃になって、「創価学会には一点のくもりもなかった」などと、その反省を覆(くつがえ)すことは、戸田氏の心のみならず、それを許された日昇上人の御心をも踏みにじることになるからである。
 なお、日昇上人は単に戸田氏のみに誡告あそばされたのではなく、一方の当事者たる某師が、学会青年部から挑発されて、すでに捨てたはずの「神本仏迹論」を肯定するやの発言をしてしまったことについても、厳しく誡告あそばされている。
 その内容たるや、師弟間における「義絶」もやむなしとの、戸田氏に対してよりもはるかに厳しい誡告であり、この一文を拝しただけでも、"僧侶擁護(ようご)・在家厳罰"などという学会の非難がいかに的外れであり、悪意に満ちた言いがかりであるかが明らかであろう。
 以下に、謹んでその全文を奉載し、この項の破折の締めくくりとする。

―とくに厳しかった某師への誡告/「邪義捨てねば義絶も止むなし」と―

貴師は法朦(ほうろう)既(すで)に60年、我が宗門の長老として又(また)法類として、予が常に敬愛する所であったが、第2次世界大戦の始めの頃より我が国は一部偏狭(へんきょう)なる国家主義者に依って指導され、それが為(ため)の政府は神道を偏重(へんちょう)して仏教のいかなるかを弁(わきま)へず権実の理(ことわり)をも究(きわ)めず、唯(ただ)排仏の一途に進んだのであった。此の時貴師は仏教の常道を逸脱(いつだつ)し、宗祖大聖人並びに歴代相承の先師の教示を慢越して、神本仏迹の説を提唱した。為に日開上人日恭上人は小悩せられ、門下の僧侶は奮激して遂に宗門は貴師と道を分ったのである。其後貴師は貴師の進むべき方向に邁進(まいしん)したであろう。
 然(しか)し正しき宗教を無視して国は栄へず遂に我国は末曾有(みぞう)の大惨敗をした。「真味は土に留まる」の御金言の如く貴師も亦今年の宗旨建立700年を慶祝するに当り特赦して予が法類に和合を許したのであった。
 所が日未だ幾何(いくら)もなく去る4月27日慶祝法要中に、創価学会の青年部員の一問に会い不覚にも既に捨去(しゃこ)したはづの神本仏迹の説を開唇したのは、其の習気の今に残れる故か。鳴呼(ああ)、遂にあの不祥事が起されたのである。故に此の不祥事件は其の責の一端は貴師も担ふべきであると考へられる。
 夫れ求道の行者は忍辱の鎧を着て難を忍び苦を積ねることは、雪山童子の故事に習い、不軽菩薩の跡を学ぶべきで、如説修行の行者は宗祖大聖人の数々の文学に自からの魂を打ち込むべきではないか。然るに貴師は感情を即座に世間法に訴へ却って事件を拡大した憾がある。忍び難きことを忍んでこそ有難くも如来の衣を着ることになる。
 抑も神本仏迹の説の如きは例へ布教手段と云ふも、本宗に於ては為人(いにん)悉檀(しつだん)なりとも之を説かず、先師の正法弘通の内にその片鱗(へんりん)すら無い。若し貴師が神本仏迹の説を今尚固執するなら、二祖日興上人御遺誡置文に「富士の立義は聊(いささか)も先師の御弘通に違せざる事」に背くことになる。
 猶(なお)日有上人は「門徒の僧俗の中に人を教えて仏法の義理を背かせられる事は謗法の義なり、五戒の中には破和合僧の失なり、自身の謗法より堅く誡むべきなり」と誡められていることを拝しても、他を訴へる前にまず自からの謗法ありやなきやと堅く誡慎すべきではないか。
 貴師よ、賢明ならば速(すみやか)に神本仏迹の説を放棄し、直ちに告訴を取り下げ、虚心坦懐仏祖三宝に懺悔せよ。然らざれば予は今日以後貴師を義絶するであろう。
 貴師よ、宗門に於て身を長養すること既に60年、若し聊(いささ)かたりとも菩提心あるならば三省せよ。
 予は日蓮正宗管長と宗祖より血脈付法の法主として茲(ここ)に謹んで誡告する。
昭和27年9月9日





特赦の時期と宗会決議

<法蔵>H19.3.8

<S26.5>
◆宗門にはかゝる僧侶は絶対に居りません、小笠原は宗門を追放されて居る細井庶務部長『聖教新聞』S26.5.10/『地涌』第42号)
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5月3日、常泉寺における会長推戴(すいたい)式で、戸田新会長は御僧侶方に次のようなお伺いを立てました。「戦時中、神本仏迹論という学説を作って時の管長上人(62世日恭上人)を悩まし、当局による学会大弾圧の端初をなした小笠原慈聞という悪僧が、今もって宗門に籍を置いているという。どうか本山においても、かかる徒輩が再び内部をかきみだす事なく、真に学会の前途を理解され、護っていただきたいと望むところです」と。これに対して、常在寺住職・細井尊師(後の66世日達上人)が、「現在宗門にはかかる僧侶はおりません。小笠原は宗門を追放されています」と答えられました。(理境坊信徒・原島昭『慧妙』H22.7.1)

◆五月一日附聖教新聞に鈴木日恭上人を告訴し日蓮正宗を解散せしめやうとした坊さんが総本山に居る旨書かれていますが、かかる僧侶は現在の日蓮正宗に僧籍ある者の中には一人も居りません事を明かにして置きます。昭和二六、五、三 宗務院庶務部(『大日蓮』S26.5/『地涌』第42号)


<S27.4.5>
◆本玄寺内 旧大僧都小笠原慈聞
 右者宗制第三百八拾六條及び第三百八拾七條二項に依り昭和廿七年四月附特赦復級せしめる(中略)昭和二十七年四月五日 日蓮正宗管長  水谷日昇(令第31号/『大日蓮』S27.4.30)
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4月30日附印刷発行になる『大日蓮』紙第74号に発表されたものが、5月中旬に配布(戸田城聖「始末書」S27.6.27/『地涌』第43号)


<S27.4.27>
・狸祭事件


<S27.5.中旬>
・『大日蓮』4月号(S27.4.30)配布(『地涌』第43号)


<S27.5.23>
・小笠原がパンフレットを出している。この中で小笠原は、狸祭事件で戸田会長らに暴行を受けたなどと事実を歪曲し、告訴の意志表明をしている。(『地涌』第44号)


<S27.6.26〜6.29>宗会開催
宗会2日目の27日、細井庶務部長より戸田会長の提出した「始末書」が紹介された。「始末書」はまず小笠原が僧籍にあるとは思っていなかったこと、戦中の神本仏迹を立てての策謀は許すことができないこと、事件当日においてもまったくもってその邪義を立てたことを素直に認めなかったことなどが述べてあった。
 また、戸田会長ほかの学会側の者が暴行を加えていないことについては、
 「此の事実万一将来物議をかもした時、証人が無くては真実とならないと思いましたので、最初から御立会を願つた小樽教会の阿部尊師、名古屋の妙道寺様、寂日坊の所化さん、3人にお聞取り願います」
と述べ、小笠原への法論が非暴力的におこなわれたことを主張している。また小笠原が僧侶として存籍していることは「了解に苦しむ」と述べたうえで、文末を、
 「その故に私共と小笠原慈聞氏との関係は未だ『末』は決して居りませんので全体の始末書とは申しかねますが当日の始末をあらあら御命によつて始末書にしたためました」
と結んでいる。(『地涌』第45号)

・明けて28日は早朝より宗規の審議がなされ、ようやく夜の7時半過ぎになって、宗会議員一同によって作られた狸祭事件についての決議文が提出され、全員が賛成の意志表示をした。
 決議文の結論をいえば、小笠原については「宗制宗規に照し適切な処置を望む」といったもので、宗会としての処分の意志表示はいわば保留となっている。ところが、一方の当事者である戸田会長には厳しかった。
 「一、大講頭戸田城聖氏は本宗々制第三十條を無視し、本年四月廿七日本宗僧侶小笠原慈聞師に対し計画的と見做される加害暴行をし、記念法要中の御法主上人を悩まし奉るのみならず、全国より登山せる旦信徒に信仰的動揺を與えたる事件は開山以来未曾有の不祥事である。依て今後集団、個人を問はず、かかる事件を絶対に起こさざる事を條件として左の如き処分を望む。
一、所属寺院住職を経て謝罪文を出すこと
一、大講頭を罷免す
一、戸田城聖氏の登山を停止す」(『地涌』第45号)


<S27.7.24>日昇上人より誡告文
・これに対して戸田会長は、「御詫状」を奉呈している。(『地涌』第48号)


<S27.7.26>
・創価学会会長・戸田城聖名で、「全学会員の御僧侶に対する“狸祭事件”に関しての闘争を停止すべき事を命ずる」(一部抜粋)との「行動停止命令」が出された。(『地涌』第48号)


<S27.9.2>
・小笠原は、創価学会戸田会長以下幹部に対する告訴をおこなっていた。9月2日、国家警察本部富士地区署は、戸田会長以下12名に出頭を要請。まず和泉覚理事(当時)は同日から丸1日、戸田会長は翌日から丸1日、事情聴取のため留置された。(『地涌』第48号)


<S27.9.9>
・この小笠原に対して日昇猊下は、9月9日「誡告文」を送ったが、小笠原はそれに対し「人権蹂躪」であると告訴をチラつかせて、文書をもって宗門すらも脅しにかかった。(『地涌』第48号)

・しかし、この小笠原を細井庶務部長は、小笠原の自坊である岐阜県本玄寺において説得した。その時、本玄寺の檀信徒も、小笠原が猊下まで告訴に及んでいる事態を初めて知り、小笠原の非を責めた。孤立した小笠原はついに謝罪し、一切の告訴を取り下げたのであった。(『地涌』第48号)



【大法要直前の特赦】
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 しかしここに、ある疑惑が浮かんでくる。それは、小笠原の復帰を公表する作業が4月27日の狸祭事件後に、急きょおこなわれたのではないかという疑惑である。この頃の『大日蓮』は毎月7日に印刷発行されている。奥付も、この昭和27年4月号以外は皆それぞれの月の7日で、この4月号のみ4月30日発行となっている。従って、この4月30日という日付は、明らかに遅れて作られたことを示している。
 この日付は、『大日蓮』が月1回必ず出している月刊誌という体裁を取るために付けられたものだと判断できる。そのためには4月30日はギリギリの日付である。実際はそれより何日か遅れていたのではあるまいか。4月末に発行したとなれば、最もあわただしい大法要の直前に編集作業をしたことになる。『大日蓮』の発行が遅れたのはこの号が特例であるので、大法要があったために遅れたと判断するのが自然だ。となれば、大法要後、おそらく5月7日発行の5月号と同時併行で編集、制作がなされたと思われる。このことは戸田会長の「始末書」に「5月中旬に配布」と記されていることからもうかがえる。
 この『大日蓮』4月号の5月印刷発行の疑惑を確認し、そのうえで、小笠原の復帰が「狸祭事件」(4月27日)後、戸田会長が「宗務院よりの発令の有無と理由の示達を糾し」(前出「始末書」)てから急きょ、日付をさかのぼっておこなわれたのではないかと思われる節を指摘しておこう。
 4月5日付で小笠原以外にもう1人、特赦を受けた者がいる。権大僧都の井口琳道である。井口は昭和22年4月の総本山所有山林売却に際し不正の行為があったとして、同23年10月に僧階を6級降ろされていた。それを小笠原と同じ日の4月5日付で、「復級復権」させたとされている。これが「令第三十号」として先に出されている。その後に「令第三十一号」として小笠原の「復級」が出されている。
 この順序に疑問を持つ。
 僧侶の世界において僧階は絶対の序列である。それは通常の行動においても厳正に守られている。にもかかわらず、同じ4月5日の特赦であるのに、僧階の低い「権大僧都」の特赦を「大僧都」より先に出すのは明らかにおかしい。小笠原の特赦は、井口の4月5日より実際は遅く発令されたことを意味している。
 後で詳述することになるが、小笠原は昭和21年3月に、既に特赦で復級している。その事実を考え合わせると、この小笠原の「復級」の決定および『大日蓮』への公告は、戸田会長を罰するために管長の名で捏造されたことが明々白々である。あまりに破廉恥な行為である。
 ただただ僧の権威のみを守ろうとする、堕落した出家の奸智をそこに見る。堕落した者にとって仏法の正邪は二の次なのである。表だっては高邁なことを述べているが、自分たちの立場が脅かされるのではないかと、戦々兢々としているだけなのである。最も恐れるべきものは、宗祖日蓮大聖人のお怒りであることを忘れているのだ。(『地涌』第43号)
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しかしここに、ある疑惑が浮かんでくる。それは、小笠原の復帰を公表する作業が4月27日の狸祭事件後に、急きょおこなわれたのではないかという疑惑である。この頃の『大日蓮』は毎月7日に印刷発行されている。奥付も、この昭和27年4月号以外は皆それぞれの月の7日で、この4月号のみ4月30日発行となっている。従って、この4月30日という日付は、明らかに遅れて作られたことを示している。
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「4月号のみ4月30日発行となっている」のは『地涌』自身が述べているとおり「この号が特例であるので、大法要があったために遅れた」のであろう。これを狸祭事件と関連付けるのは、確たる根拠のない邪推に過ぎない。

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創価学会を罰するという猊下の強い意志のもとに、さかのぼって急きょ出された僧籍復帰の特赦と思われる。(『地涌』第44号)
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◆宗会の3項目の処罰(謝罪文提出、大講頭罷免、登山停止)の要求は、ついに実現に至らなかった。7月24日、すべてを収拾すべく日昇上人猊下より戸田会長に「誡告文」が出された。(『地涌』第48号)
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「創価学会を罰するという猊下の強い意志のもとに」などと言うが、「宗会の3項目の処罰」が実現しなかったのは日昇上人の御慈悲による。



【宗会の決議】
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決議文の結論をいえば、小笠原については「宗制宗規に照し適切な処置を望む」といったもので、宗会としての処分の意志表示はいわば保留となっている。ところが、一方の当事者である戸田会長には厳しかった。(『地涌』第45号)
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宗会の決議は狸祭事件に関するものであって、戦時中の小笠原師の行状についてではない。狸祭事件について言えば、小笠原師は被害者であって創価学会側は加害者である。その意味からすれば「一方の当事者である戸田会長には厳しかった」のは、むしろ当然ではないか。


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また、戸田会長が証人を出してまでして暴行の事実を否定していたのに、証人3人の証言を聞くこともなければ、処分される戸田会長本人の言い分も聞くことなく、秘密会の審議のみで、一方的に「計画的と見做される加害暴行をし」と断定したのであった。(『地涌』第45号)
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「証人3人の証言を聞くこともなければ」というのは邪推に過ぎない。また、「処分される戸田会長本人の言い分も聞くことなく」と言うが、戸田会長は既に「始末書」(<S27.4.5><S27.6.26〜6.29>の項参照)において「言い分」を表明していたではないか。


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信徒の人権も人格も無視した、出家の思い上がりに依拠した裁きであった。(『地涌』第45号)
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およそ「人権」などというのは世法上の権利であるが、狸祭事件に関する限り、自己の意思に反して身柄を拘束され謝罪文を書かされたのであるから、被害者は小笠原慈聞師であって、学会こそ師の「人権も人格も無視」したのではないか。



【僧籍復帰】
1◆
   令第二二號
香川縣三豊郡下高瀬村
元大僧都  小笠原慈聞
右者宗制第三百九十四條及同第三百九十五條ニ依リ特赦復級セシム
昭和二十一年三月三十一日
管長  秋山日滿

   特赦理由書
右者昭和十七年九月十四日宗制第三百八十九條ノ一同條ノ三ニ依リ擯斥處分受ケタルモノナルモ其後改悛ノ情顕著ナルヲ認メ宗制第三百九十五條ニ依リ復帰、復権、復級セシムルモノナリ

2◆昭和21年6月15日発行の『宗報』第2号(何月号という表示はない)には、「讃岐本門寺一行の登拝」と題する記事が掲載されている。この時、讃岐本門寺一行を歓迎する日満上人猊下の小宴がもたれたが、それには小笠原も同席している。
 「同夜6時より法主上人御招待の小宴あり此日東京より這回特赦に依り復帰された小笠原慈聞師も大聖教會總代岡本涙翁、鈴木杢吉兩氏と共に登山して席に加はり」(『宗報』第2号抜粋)
と記述されているのだ。「特赦に依り復帰」と書かれていることに注目しなければならない。


3◆昭和22年4月28日付をもって、宗会議員の選挙結果が発表された。『宗報』(同年6月号)にその詳細が報じられている。21名が立候補して16名が当選したが、小笠原は44票を獲得して17位の次点に泣いている。宗会議員に立候補していたのであるから、日蓮正宗内で小笠原の復帰を知らぬ者などいなかったということになる。

4◆同じく日蓮正宗の機関紙である『宗報』の昭和22年9月号は、「美濃町だより」と題する小笠原の投稿を載せている。そこには本玄寺において8月18日に法会がおこなわれ、組寺の4名の住職が来会、「小笠原主管」が日正上人の追想を話したことが記されている。
 また同号には「讃岐行」という「細井」(のちの日達上人)署名の一文が載せてあり、讃岐本山本門寺の虫払い法要について書かれている。これには本門寺一門の僧侶以外に、小笠原ほか4名の僧が訪れ、参列している。小笠原はその時、説法を皆の前でおこなっている。


5◆昭和25年の『大日蓮』3月号は、讃岐本門寺の梵鐘が再興されたことを報じている。その記事には、2月5日の撞初式に小笠原が出席したこと、その式にあって「貫主」に続いて梵鐘をついたことが書かれている。

6◆昭和25年の『大日蓮』8月号は、「小笠原慈聞著」の『法華経玄理一念三千の法門』という本の宣伝を出している。広告文の中には「多年のうん畜を傾けて法華経の秘蔵を開きたる力作、その内容は本宗傳統たる教観の優秀性を主張する」といった箇所がある。小笠原の肩書は「元日本大學宗教科講師、世界之日蓮主幹」となっている。(『地涌』第49号)

7a◆この戸田会長らの発言に対して細井庶務部長は、
 「現在宗門にはかゝる僧侶は絶対に居りません、小笠原は宗門を追放されて居る」(同)
と、小笠原の存在を全面否認した。
 この細井庶務部長の発言は、宗門全体の意向を受けたもので、決して単独で判断なされたものではないと思われる。というのも、先述した(本紙第41号)推戴式に先立つ5月1日付の『聖教新聞』に掲載された、ある信者の小笠原の僧籍復帰を示唆する記事について、宗務院庶務部はわざわざそれを否定する「お断り」を、昭和26年5月3日付で『大日蓮』(日蓮正宗機関誌)の5月号に発表しているからだ。

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7b◆
◎お断り
五月一日附聖教新聞に鈴木日恭上人を告訴し日蓮正宗を解散せしめやうとした坊さんが総本山に居る旨書かれていますが、かかる僧侶は現在の日蓮正宗に僧籍ある者の中には一人も居りません事を明かにして置きます。

昭和二六、五、三
宗務院庶務部


8◆狸祭の前年の昭和26年11月13日、徳島県の敬台寺において、同寺の再建落慶法要がおこなわれた。この時の模様を宗門機関誌の『大日蓮』(昭和26年11月号)が報じているが、「本玄寺小笠原慈聞」はその法要の来賓の最上席として記録されている。その際、小笠原以外に4名の僧侶が列席している。その4名とは、藤川徹玄、秋山円海、秋山慈本、河辺慈篤である。(『地涌』第49号)

9◆昭和27年4月30日付で発行された『大日蓮』4月号は、小笠原の僧籍復帰について、宗内に次のように伝えている。
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令第三十一號
 岐阜縣武儀郡美濃町     
 本玄寺内 旧大僧都小笠原慈聞
 右者宗制第三百八拾六條及び第三百八拾七條二項に依り昭和廿七年四月附特赦復級せしめる
 但し住職を認めその他の利権は保留する
 昭和二十七年四月五日
日蓮正宗管長  水谷日昇

宗務総監  高野日深


      特赦理由書
岐阜縣武儀郡美濃町 
本玄寺内 小笠原慈聞
 右者昭和十七年九月十四日附に擯斥処分を受けたるものであるが其の後改悛の情も認められ同本人も老齢のこと故関係信徒の特別なる懇願等もあるので情状を酌量し且つ本年は宗旨建立七百年の佳年に当り慶祝すべき時であるから特別なる計らいを以て宗制第三百八拾六條及び第三百八拾七條に依り特赦復級せしめ住職権のみ認める
 昭和二十七年四月五日
日蓮正宗管長  水谷日昇


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昭和21年3月「令第二二號」が出され小笠原が特赦復帰しているにもかかわらず、宗門みずからの体面を守り戸田会長を罰するためだけに、昭和27年4月に「令第三十一號」として、重複して小笠原の特赦復帰を猊下名でおこない、宗門機関誌『大日蓮』に捏造の発表をおこなったのである。憎むべき出家の傲慢である。
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当方は、今のところ資料不足であるため学会側の出した資料に基づいて考察するしかない。ところが学会側の出した資料には矛盾点や疑問点がある。これが解明されない限り、資料をそのまま鵜呑みにはできないと考える(法蔵)。

<矛盾点または疑問点>
・日達上人が小笠原師の僧籍復帰(1◆)を知らなかったこと(7a◆7b◆)。特に昭和22年8月に行われた讃岐本門寺の法要には日達上人と小笠原師がともに参列し、さらに師は皆の前で説法したことになっている(4◆)。それなのに昭和26年の時点で日達上人が「宗門にはかゝる僧侶は絶対に居りません、小笠原は宗門を追放されて居る」と明言したこと。

創価学会を罰するという猊下の強い意志のもとに、さかのぼって急きょ出された僧籍復帰の特赦と思われる。(『地涌』第44号)
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既に小笠原師が昭和21年の時点において僧籍復帰していたのであれば、「さかのぼって急きょ」「僧籍復帰の特赦」を出す必要もない。何故、2度も特赦を出したのかについて『地涌』には納得できる説明がない。

●戦時中、「神本仏迹論」なる謬義(びゅうぎ)を唱え、「三派合同」を画策した某師は、昭和17年9月14日、日蓮正宗より擯斥(ひんせき)処分に処せられたが、昭和21年3月31日「改悛ノ情顕著ナルヲ認メ」られ、僧籍復帰を許された(この某師が立宗7百年の慶事にあたって特赦〈とくしゃ〉された、というのは誤伝である)。
 何が「改悛ノ情顕著」であったのかといえば、同年4月12日、讃岐法華寺(現在の讃岐本門寺のこと)と同末寺10ヵ寺が日蓮正宗への帰一を果たした際、この某師の尽力があった。
 そこで、本門寺一門の僧侶方によって、某師の僧籍復帰の嘆願(たんがん)が行なわれたこともあって、某師はこの時点で当宗の僧籍を回復したのである。(『慧妙』H19.8.1)
●貴師も亦今年の宗旨建立700年を慶祝するに当り特赦して予が法類に和合を許したのであった。(小笠原師に対する誡告『慧妙』H15.1.16)
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『慧妙』紙まで、特赦の時期について情報が錯綜しているようだ。



【牧口投獄の原因】
学会就中戸田会長には、"戦時中に小笠原師が大石寺を不敬罪で告訴したことが契機となって学会弾圧が始まり、牧口会長が投獄され獄死した"という認識があった。つまり、学会員にとって小笠原師は"師匠の仇(かたき)"のような憎むべき存在であったのだ。しかし、事実は、戸田会長の認識とは違っていたのである(<牧口会長獄死と小笠原師は無関係>参照)。

・学会は、小笠原師の戦時下の行動(大石寺を不敬罪で告訴)と牧口会長の投獄を結び付けているが、両者に直接の関係はない。

・狸祭り事件は「被害者=小笠原慈聞師、加害者=学会」という構図で行われた事件である。小笠原師の過去の行状がどうあれ、師の意思に反して身柄を拘束し謝罪文を書かせるなど、許されないことである。






牧口会長獄死と小笠原師は無関係

(<法蔵>H19.3.4)

 昭和27年4月27日、創価学会青年部の一部の人たち(相当大勢)が、総本山に滞在中の小笠原慈聞師を下着姿にして拉致し、故牧口初代会長の墓前で、牧口氏への謝罪を強要した。
 これが、いわゆる「狸祭り事件」と呼ばれる事件である。この事件に関して、当時の戸田会長が「なぜ小笠原師が牧口会長を殺したと言うか」という旨の談話を、聖教新聞に発表している。その中に、(『大白法』H3.4.1
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なぜ小笠原師が牧口会長を殺したと言うか
(戸田城聖『聖教新聞』S27.6.10/『大白法』H3.4.1)

 戦局も悲運にかたむき、官憲の思想取締が徹底化してきた昭和十八年六月初旬に総本山から「学会会長牧口常三郎、理事長戸田城聖その他理事七名登山せよ」という御命令があり、これを受けた学会幹部が至急登山、その当時の管長であられた鈴木日恭猊下、及び堀日亨御隠尊猊下おそろいの場に御呼出しで、(場所はたしか元の建物の対面所のように記憶している)、その時その場で当時の内事部長渡辺慈海尊師(現在の本山塔中寂日房御住職)から「神札をくばって来たならば受け取つて置くように、すでに神札をかざっているのは無理に取らせぬ事、御寺でも一応受取っているから学会でもそのように指導するようにせよ」と御命令があった。
 これに対して牧口先生は渡辺尊師に向ってきちっと態度をとゝのえて神札問題についてルルと所信をのべられた後、「未だかって学会は御本山に御迷惑を及ぼしておらぬではありませんか」と申上げた処が、渡辺慈海尊師がキツパリと
 「小笠原慈聞師一派が不敬罪で大石寺を警視庁へ訴えている、これは学会の活動が根本の原因をなしている
とおゝせられ、現に学会が総本山へ迷惑を及ぼしているという御主張であった。

註、◎不敬罪の告訴内容というのは大略次のようなものだということであった。
 一、御本尊は七字の題目の下に天照太神がしたゝめられているこれは仏を主として神を軽んじているから不敬である。(この不敬罪云々が神本仏迹論を戦時中通用させた大きな力になっている。)
 二、管長猊下の猊下という呼称が天皇陛下の陛下に通ずるから不敬である。
 こんなでたらめな告訴内容を神祇絶対主義の当時の官憲の権力で正当化して各派合同を実現させる手段とした悪辣きわまるものである。
 ◎当時学会は入信者のある毎にほう法払いで神札を焼き捨てゝいたし国家諫曉をしなければならぬと強硬に主張していたのであった。
 その後学会幹部は全部投獄されたのであったが、自分が警視庁に留置せられて取調べを受けた際に刑事が自分に向って「前に大石寺に対する訴状が出、それ以来学会に目をつけていたんだ、今少し大きくなつてからヤツテやろうと思つていたんだが、淀橋の警察に甚野達があがったんで少し早いけれ共お前達をヤツタんだ」と聞かされて驚いた事実がある。
 この事は小笠原慈聞が知ると知らずに関らず牧口先生を殺した原因になっているではないか。

【合同問題に対する水魚会の暗躍】
 学会幹部が投獄された後、昭和十九年三月にこのトバツチリで弾正会々長も入獄獄死して居るが水魚会関係者から毎日総本山へ「身延と合同せよ」という勧告電報が来たそうで、遂に鈴木日恭猊下は断固たる御決心から直々文部省へ出頭遊ばされ日蓮正宗は他派と絶対に合同せぬ由の御決意をのべられ、この合同問題に止めをさゝれたのであつた。
 この投獄は内務省、憲兵隊、警視庁が合体してやつたのだが、先にのべた警事(刑事?)の言葉通り大石寺に対する告訴状以来学会弾圧が決定して居たという事だ。
 この告訴状、合同勧告電報、小笠原慈聞が日恭猊下へ前後五回に渡つて差出した神本仏迹論の文書、宗務院の総辞職を迫った檄文、この外多々あると思われるが、こうした動きが総本山をいかに悩ませたかは想像に絶するものがあり、水魚会で思う存分の事をした小笠原慈聞の正体がこれでわからなかったらどうにかしている。

[画像]:

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◆小笠原慈聞師一派が不敬罪で大石寺を警視庁へ訴えている、これは学会の活動が根本の原因をなしている(『聖教新聞』S27.6.10)
◆前に大石寺に対する訴状が出、それ以来学会に目をつけていたんだ、今少し大きくなつてからヤツテやろうと思つていたんだが、淀橋の警察に甚野達があがったんで少し早いけれ共お前達をヤツタんだ(『聖教新聞』S27.6.10)
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小笠原師等が不敬罪で訴えたことがキッカケで官憲が学会に目を付け、牧口会長が投獄されることになった。だから、牧口会長獄死の原因の一端は小笠原師にある、という論理である。

昭和17.1頃以降 警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)
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学会は堂々と不敬行為を組織的に行っていた。そのために折伏された者から官憲に投書があった。これでは、小笠原師の告訴がなくても、遅かれ早かれ学会は官憲に注目されるところとなり、牧口会長は投獄されたであろう。

◆老衰と栄養失調が、彼(※牧口)の老体にしのびよった。彼は病んだ。取り締まり当局は、病監へ移ることを再三彼にすすめた。重体であったが、彼は頑としてこれを拒否しつづけた。(『人間革命』第1巻「一人立つ」)
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当局の勧めにも拘わらず、牧口会長がなぜ、病監へ移ることを拒否したのかは不明である。しかし、最初から素直に当局の指示に従っておれば、あるいは生きて出所できたのかも知れない。

牧口会長が投獄された原因は
人情の機微や世法を無視した強引な折伏

牧口会長が獄死した原因は
病監へ移ることを拒否したため






小笠原師の「神本仏迹論」について

(試論<法蔵>H22.8.6)

◆……私は天照(本)、釈迦(迹)について論じたが、決して大聖人対天照太神について少しも関係したことはない。『世界之日蓮』誌を見れば判る(『聖教新聞』S27.6.20/『慧妙』H22.8.1)
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暴行事件後、小笠原師が「神本仏迹論」の本意(?)を示すべく全国の正宗寺院に配布したパンフレットまたは、学会本部に送付したハガキの内容
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 第2の思い違いは、戸田氏が、小笠原師の「神本仏迹」の"神"を天照太神と理解したのは誤りではありませんが、"仏"を"久遠元初の本仏を指している"と誤認し、神を本地、仏を垂迹とするのは日蓮正宗の教義に背反する大謗法である、と断定してしまったところにあります。
 じつは、小笠原師の真意はそうではなくて、「神本仏迹」の仏とはインド生誕の釈迦仏を指し、つまり、天照太神と釈迦仏を比較して、天照太神を本地、釈迦仏を垂迹とするものだったのです。
 「狸祭り」の直前に辻氏は、「久遠の御本仏が迹で、天界の善神が本などという仏法はどこにあるものか」と小笠原師を責めましたが、辻氏が知ってか知らずか、結果的には辻氏は詭弁(きべん)を用いて小笠原師を陥(おとしい)れたことになったわけです。

 この時からおよそ20年が過ぎてから、池田大作は、自分の著作の中で、昭和12年6月号の『世界之日蓮』に小笠原師が記述した「神本仏迹論」の説明を引用して、次のように述べたことにより、期せずして、恩師(戸田氏)のかつての誤認を証明してしまいました。
 「彼は、曲がりなりにも正宗の僧侶であったので、釈迦を本尊と立てないことは知っている。本尊は、あくまでも南無妙法蓮華経である」(池田大作著『人間革命』第6巻)
と。
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 日蓮正宗の僧俗にとって「仏」といえば御本仏・日蓮大聖人の御事であり、迹仏のことを敢えて「仏」と称して「神本仏迹」を主張する必然性などまったくありません。歴とした宗門僧侶がわざわざこのような論文を執筆し、活字に残した動機に疑念をもたざるをえません。
 このことと、小笠原師が身延派と日蓮正宗を合同させようと画策していた人物であったことを考え合わせれば、神本仏迹論の真意を『世界之日蓮』誌に書かれたとおりに信じることはできません。
 仮に、神本仏迹論の真意が『世界之日蓮』誌に書かれたとおりだとしても、迹仏とは本仏に対する語なのですから、迹仏の本地を神とすること自体、本仏大聖人を本地とする本地垂迹説を否定することになるはずです。だからこそ日恭上人は大聖人を本地とするか否かについて小笠原師に御指南されたのであり(下記2●)、擯斥処分となるほどの罪だった(下記3●)のでしょう。
 以下は、小笠原師が神本仏迹論を執筆した真意や動機について、史実を踏まえて私なりに考えた仮説です。



【『世界之日蓮』で「仏」=迹仏とした意図】
@合同の思想的下準備として考え出した"折衷論"
 日蓮正宗と、国家神道に阿(おもね)る身延派の両者が受け入れられるような配慮として、「仏」=迹仏とする神本仏迹論を考え出した。
 小笠原師が『世界之日蓮』誌で、"本尊は南無妙法蓮華経であって釈迦ではない"、としたことも、同様の配慮があったのかも知れない。日蓮宗は「久遠実成本師釈迦牟尼仏」を本尊とたてながら、実際には曼荼羅をも本尊として拝んでいる。また、「この本仏は紀元前のユーラシア大陸のインドに生まれて肉体を持ち80年生きたと言うゴータマ・シッダルタ(釈迦)とは論者により必ずしも同体ではない」(Wikipedia「本仏」)そうだから、神本仏迹論で「仏」=迹仏としたのと同じような論理で、「釈迦」という曖昧な語を用いることによって身延派の批判をかわそうとしたのではないか。
 つまり、神本仏迹論では日蓮正宗に「仏」=迹仏と言い訳し、本尊論では身延派に「釈迦」≠久遠実成本師釈迦牟尼仏と言い訳することによって、日蓮正宗と国家神道に阿る身延派の両者が受け入れられるような本地垂迹論、本尊論を彼なりに展開した、という訳である。穿ち過ぎの感はあるが、合同を目論む小笠原師としては、国家神道と、国家神道に阿る身延派、日蓮正宗の3者の"思想的橋渡し"の意味があったのかも知れない。

A万が一、神本仏迹論が原因で宗内における自己の地位が危うくなることを恐れ、前もって論文に「仏」=迹仏と書いておくことによって、宗門側からの批判をかわそうとした、とも考えられる。すなわち、万が一のための"保険"である。
 これに関しては、当時は国家神道の力が強く、宗門といえども神道を冒涜するような言動は公然とできなかったから、「仏」=迹仏、と言い訳する必要はなかった。
 しかし、狸祭り事件のときは、国家神道も消滅し信教の自由が認められていたから、公然と神本仏迹論を批判された。そのために『世界之日蓮』誌の"保険"を持ち出して、自己弁護に利用したのではないか。


【神本仏迹論は合同政策の道具】
―宗内の批判を逆手にとって不敬罪で告訴し、合同問題を進展させようとした―
 『世界之日蓮』では、神本仏迹論の「仏」を迹仏と説明していたようであるが、第59世日亨上人や第62世日恭上人、第64世日昇上人は、小笠原師の神本仏迹論を大聖人と神との対比であると考えられていたと思われる(下記1●〜3●)。
 特に、時の御法主・日恭上人は小笠原師と神本仏迹論について書簡を交わされている。もし、小笠原師が迹仏と神の対比で神本仏迹論を主張していたのであれば、小笠原師の側から日恭上人にその旨を伝えていたはずである。だがしかし、日恭上人は、大聖人を本地とするか否かについて、時局を配慮し、慎重に言葉を選ばれて御指南されている(下記2●)。
 これらのことから、小笠原師は自身の神本仏迹論について、宗門側が大聖人を垂迹とする悪説と捉えていたことを承知していながら、迹仏と神についての対比であるとする言い訳はしていなかったことが伺われる。
 つまり、小笠原師は、『世界之日蓮』では迹仏と神の対比として神本仏迹論を展開したものの、いざ、これを宗門内に広めるときには、あたかも大聖人と神との対比であるかのように言っていたのではないだろうか。
 それは何故か。やはり小笠原師の真意は"大聖人=迹、神=本地"であり、神本仏迹論を宗内にひろめ、"「神本仏迹」は間違い"とする見解を引き出すことによって、宗門を不敬罪で告訴し、身延派との合同を進めようとした。そのために神本仏迹論を主張したのではないか。
 ただし「小笠原師の真意」と述べたのは、師が心からそう信じていた、ということではなく、最初からそのような意図で神本仏迹論を考えていた、ということである。身延派との合同を画策する日蓮正宗僧侶に、純真な信仰心が存在していたとは考え難く、自身の主張を開陳したとしても本心とは限らず、その時々の目的達成のための思想的手段に過ぎなかったと考えられる。同様に『世界之日蓮』誌で、"本尊は南無妙法蓮華経であって釈迦ではない"、としたことも、本心かどうか疑わしい。池田が「曲がりなりにも正宗の僧侶であったので、釈迦を本尊と立てないことは知っている」(池田大作著『人間革命』第6巻)と述べたように知識として「知っている」だけではないか。

◎昭和8年(1933)11月1日 小笠原慈聞が日蓮正宗同心倶楽部結成。同月10日には同倶楽部の開場式がおこなわれた。この倶楽部が、日蓮正宗を内部攪乱する拠点となるのである。(『地涌』第692号)

◎昭和9年(1934)2月11日 小笠原は月刊誌『世界之日蓮』を発行。小笠原は同誌を武器に、日蓮正宗の正義を根絶し、みずからの野望を達成しようとする。いよいよ、師子身中の虫が露骨な動きを見せ始めたのである。(『地涌』第692号)

1●この方針(※合同政策)は、日蓮宗の各教団は単称日蓮宗(身延)へ合同しなければならないとし、軍人会館を中心に日蓮主義者と称する軍人と、日蓮宗の策謀家達が屢(るる)会合して、この謀略の推進に当っていた。大石寺の僧俗の中にもこれに動揺を来(きた)す一類を生じ、小笠原慈聞師は水魚会の一員となり、策謀の一端を担うに至る、而(しか)して「神本仏迹論」を唱え、思想的にも軍閥に迎合して総本山大石寺の清純な教義に濁点を投じた。(第59世日亨上人編纂『富士宗学要集』第9巻430頁)
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 小笠原師が「神本仏迹論」を唱えたのは、日蓮正宗を身延と合同させるための一環であったことは明らか。日蓮大聖人を菩薩と下す身延派と合同しようと考えている人が「神本仏迹論」を唱えているのである。身延派にとって「仏」は大聖人ではない、彼らが崇める仏は、日蓮正宗からみれば真実の仏ではない、その意味では「仏」は迹仏と言えなくもないが、国家神道に迎合する身延派からみれば"神が一番上で、次が仏、大聖人はさらに下"となってしまうのである。
 神本仏迹論が単に神と釈迦の対比に限定されるだけであれば、「総本山大石寺の清純な教義に濁点を投じた」とまで批判されなかったのではないか。
 当該記事は小平芳平氏によるものであるが、日亨上人が編者として認可されたものである。

◎昭和14年(1939)8月19日 小笠原慈聞、大石寺でおこなわれた教師講習会で、「日蓮正宗教義の再吟味」と題し講演(『地涌』第693号)

◆天照太神に対し奉る信念の入替へ是正を叫び、本宗勤行式の「初座天拜」に梵天帝釋大六天魔王等の下に天照太神を連ねてゐることは大不敬である(小笠原慈聞「日蓮正宗教義の再吟味」『世界之日蓮』S17.2/『地涌』第693号)

◎昭和17年 小笠原慈聞師、宗教新聞『中外日報』を使い、宗務当局に総辞職を迫る(『慧妙』H6?)

●(※昭和)18年4月7日には、東京の常泉寺において、小笠原師の神本仏迹論を議題に、堀米部長(※第65世日淳上人)が対論することになったが、小笠原師の破約によつて実現しなかった、また、この頃東京の妙光寺にも紛争があったが、陰には小笠原の策謀があつたといわれている。(『富士宗学要集』第9巻430頁)

2●當宗之立場より大聖人を本仏として人本尊と仰ぐなり 乍然是等は第一義の法門にして世間悉壇(※世界悉檀) 所謂日本之国体より君臣之義よりすれば天照大神は 御皇室の御先租日蓮聖人は御臣下に在す故に宗租を本地と云ひ 天照○○を垂迹など云へば不敬に渡る事故言ふべからざる事と存候(第62世日恭上人より小笠原慈聞師への書簡S16.8.21『特高月報』所収/『慧妙』H6?)
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昭和16年当時、「神本仏迹論」の邪義を唱えていた小笠原慈聞師は、単独宗制認可後も、神本仏迹論をもって、通算5回にわたって日恭上人に詰問状を送りつけ、日蓮正宗を"不敬罪"へと導こうとし(『慧妙』H6?)
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戦時中、日恭上人は小笠原師と「神本仏迹」について書簡を交わされている。その中で「宗租を本地と云ひ 天照○○を垂迹など云へば不敬に渡る事故言ふべからざる事」と述べられているように、大聖人と神の関係について御指南されている。

◆政府が宗教界統一をくわだてゝ大規模な各宗教統一に乘り出したころの事、小笠原慈聞が神本佛迹論を数度にわたつて鈴木日恭猊下へ文書で提出して居るという、又眞僞の確証はないが慈聞の活躍した水魚会を通じ日恭猊下のもとへ身延と合同せよと数度電報(?)を出したという事で、私が出獄後この話を聞いて眞僞をたしかめるため若しこれが本当ならあの当時の宗務院の文書を見せて下さるわけに行かぬでしょうか、と当局者に御うかゞいした事がある、その時は記録拝見は許されなかつたが、事件の有無については否定も肯定もなされず話をぼかして居られたのでそれ以上押しておたずねはしなかつた。又身延派と小笠原慈聞との間に、「この身延との合同が実現すれば小笠原を清澄寺の管長にする」という内約さえ出來て居てそれでしつこく水魚会方面から合同勧告があつたのだと水魚会関係者からうわさを聞いたし、当時このうわさは宗務院と交渉の深いだん信徒の間に公然と流布されていたものである。(『聖教新聞』S27.5.10/『地涌』第669号)

3●此の時貴師は仏教の常道を逸脱(いつだつ)し、宗祖大聖人並びに歴代相承の先師の教示を慢越して、神本仏迹の説を提唱した。為に日開上人日恭上人は小悩せられ、門下の僧侶は奮激して遂に宗門は貴師と道を分ったのである。(第64世日昇上人の誡告文 S27.9.9)
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小笠原師が擯斥された理由は神本仏迹論であったことが分かる。

●4月27日慶祝法要中に、創価学会の青年部員の一問に会い不覚にも既に捨去(しゃこ)したはづの神本仏迹の説を開唇したのは、其の習気の今に残れる故か。(中略)
 抑も神本仏迹の説の如きは例へ布教手段と云ふも、本宗に於ては為人(いにん)悉檀(しつだん)なりとも之を説かず、先師の正法弘通の内にその片鱗(へんりん)すら無い。若し貴師が神本仏迹の説を今尚固執するなら、二祖日興上人御遺誡置文に「富士の立義は聊(いささか)も先師の御弘通に違せざる事」に背くことになる。(第64世日昇上人の誡告文 S27.9.9)

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 人間の本心は、その人の言動全体を通して理解する必要がある。『世界之日蓮』では迹仏と神の対比で神本仏迹論を主張していた小笠原師であるが、宗内に広める段階では迹仏云々の話は引っ込めて、あたかも大聖人を垂迹とするかのような"誤解"に敢えて甘んじていたフシがある。
 彼の出した神本仏迹論と、彼が身延派と繋がり合同を画策していたことが、宗内を不安と混乱に陥れたことは歴史的事実である。
 小笠原師の神本仏迹論は合同政策の道具として用いられたのであり、『世界之日蓮』述作の真意も、その視点から考えるべきであろう(大聖人を本仏と信じる者が身延派との合同を画策できるはずがない―これが素朴な思いです)。

最後に付け加えれば、事件後の小笠原師が宗門御僧侶の立場で、僧道をまっとうされたのであれば、日昇上人の誡告に心から服され、反省懺悔されたものと拝します。

◆ところでその後、小笠原はどうなったか。小笠原は戸田会長の行動に感服し、敬愛の情を抱くに至るのである。
 ここに小笠原の書いた、昭和30年5月25日発行の『日蓮正宗入門』という本がある。この前書きで創価学会および戸田会長を評し、次のように記している。
 「その信徒の強烈なる、その抱負の偉大なるため、永年沈衰してゐた本宗も俄に活気を帯び生き吹き還すに至り、今や全国で正宗信者の無い土地は無く広宣流布の魁をなすに至つたことは、只管ら感激の外はありません。自分は不徳にして一時調子に乗りその為に学会と争論の不幸を醸した事のありました事は、誠に遺憾の至りでありましたが、翻然大悟逆即順の筋目を辿り爾来我宗門の人とは宜しく学会精神を躰得し、それを基調として進行せざるべからずと提唱するに至りました。かく言ひますと、之れは諛へる者と評せらるべきも、道理と実際の指す所でありますから仕方ありません」(一部抜粋)
 戸田会長の偉大さの一分を証明する結末であった。小笠原は昭和30年12月3日、80歳の生涯を閉じた。小笠原は晩年にあっては創価学会の折伏を賛嘆し、協力を惜しまなかったということである。小笠原の葬儀にあたり、創価学会青年部は香典として1万円を送った。(『地涌』第48号 H3.2.17)






「狸祭り」の真の目的

―学会の目的は力の誇示にあった!?―
―反対者の口を封じる暴力的体質―

(『慧妙』H21.7.1)

 創価学会の異常なまでの批判拒否体質は周知の事実であり、理由の如何(いかん)を問わず、学会を批判する者はすべて容赦(ようしゃ)せず、仏法の本師たる御法主上人に対してさえ、学会の謗法を注意あそばされるや、「猊下の信心を疑う」と開き直った程である。
 また、機会を逃さず必ず復讐(ふくしゅう)することに執念(しゅうねん)を燃やす陰険さは、仮にも慈悲とか寛容を標榜(ひょうぼう)する、信仰団体の姿といえるだろうか。
 このような創価学会の体質は、じつは創立当初から見られ、宗教法人設立の際も、こうした体質を前面に出して強引に宗門に独立法人化を認めさせたのである。
 昭和26年5月3日、向島・常泉寺本堂において、戸田第2代会長就任式が行なわれた。
 戸田氏は、就任後、日蓮正宗の信徒団体であることを前提とした上で、創価学会を新た定宗教法人として設立したい旨(むね)を、日蓮正宗宗務院に願い出た。そして、同年11月1日付け『聖教新聞』に、「宗教法人『創価学会』設立公告」を出した。
 同年12月18日、細井庶務部長(後の66世日達上人)らは、学会の宗教法人設立につき、戸田第2代会長以下数名を宗務院に呼んで会議に臨(のぞ)んだ。宗務院では3箇条の条件(前号掲載)を戸田氏に示し、戸田氏がこれを公式に誓約したことで、宗教法人創価学会の誕生を了承した。
 しかしながら、昭和26年から7年にかけて、戸田氏が創価学会の宗教法人化を進めた際、宗門内には、反対のムードが広まっていたのも事実である。
 そうした中で、昭和27年4月27日、学会青年部が集団で「牧口先生の仇討ち」を口実に小笠原慈聞師に暴行を加えるという、いわゆる"狸(たぬき)祭り事件"が起こり、宗内を震撼(しんかん)させた。
 この事件は、宗旨建立700年祭の慶祝法要の際に、学会青年部が、多勢で老齢の小笠原師の袈裟(けさ)衣(ころも)を脱がせて担(かつ)ぎ上げ、狂ったように山内を練り歩いたあげく、初代牧口会長の墓前で、むりやり謝罪文を書かせたもので、まさに法によらず私的制裁(リンチ)を加えた、民主主義破壊の暴力行動であった。
 そして、同年6月26日〜29日まで、臨時宗会が開かれたが、この宗会においては「宗制の修正」「宗規の原案」が検討されるとともに、もう1つ「大法会不祥事件(狸祭り事件)」が審議された。
 宗会では、学会が独立法人化したことに、あらためて反対する意見が多数を占め、宗規を改正して、信徒が勝手に独立法人を作ることを禁止すべし、ということを決議した。
 また、小笠原師には、宗制宗規に照らし適切な処置をし、戸田氏には、今後は今回のような事件は絶対に起こさない事を条件とし、謝罪文の提出・大講頭を罷免(ひめん)・登山の停止という処分を下すことが決まった。
 しかし、この宗会の決議を不服として、猛反発した学会は、彼らの言う"悪侶""偏狭な宗会議員""悪議員"をターゲットにして、"集団吊(つる)し上げ"を連日連夜、繰り返し始めたのである。
 やり玉に挙(あ)げられたのは、東京妙光寺住職・柿沼広澄尊師、同白蓮院住職・千種法輝尊師、横浜久遠寺住職・市川真道尊師、静岡奨信閣住職・秋田慈舟尊師、京都住本寺住職・秋山教悟尊師、大阪源立寺住職・浅井広龍尊師(いずれも当時)らで、続いて、大石寺塔中の各住職に対する攻撃が繰り広げられた。
 この一連の吊し上げの凄(すさ)まじさは、想像を絶するもので、青年部が多勢で取り囲み、4時間から6時間にわたって軟禁状態にした上で、暴力団顔負けの脅迫と恫喝(どうかつ)、罵声(ばせい)を浴びせ続けた。しかも、これを何日も繰り返すのである。
 こうして創価学会青年部が暴れまくっている最中、戸田氏は、宗務院の呼び出しで登山し、事態を憂慮(ゆうりょ)された日昇上人猊下から、7月24日付で、狸祭り事件の処分として「戒告文」を下された。
 この戒告文を下すと同時に、宗務院は、7月26日付で宗内に院達を出し、狸祭り事件に対する、いっさいの論争を差し止め、宗会決議も取り消された。
 一方、戸田氏も、青年部に対し、闘争中止命令を出した。
 7月30日、創価学会は、お詫(わ)びのしるしとして五重塔修復を申し出た。
 結局、創価学会は、宗教法人化に反対している宗内の反学会派を恫喝するために、"狸祭り事件"を計画・実行し、さらには"集団吊し上げ"という暴挙によって、予定以上の成果を収めたのである。
 これが創価学会の体質なのである。

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[資料]:「狸祭り」事件の波紋(『慧妙』H24.5.1)





「狸祭事件」『地涌』の邪難

―第1章 謀計発覚―
―僧籍にないことを確認されていた小笠原が事件の「直前」になぜ急に僧籍に復帰したのか―

『地涌』第42号H3.2.11

 昭和26年5月3日、東京・墨田区の常泉寺で創価学会会長の推戴式がおこなわれ、第2代会長に戸田城聖氏が就任した。この式で就任したばかりの戸田会長は、
 「私が生きている間に75万世帯の折伏は私の手でする」
との一大決意を述べた。当時の学会員は5千名程度。
 その際、宗門を代表して式に列席された細井日蓮正宗庶務部長(のちの日達上人)にたいして、戸田会長ならびに柏原ヤス理事(当時)は次のように要望した。
 「戦時中神本仏迹論といふ学説を作つて時の管長上人を悩まし当局に依る学会大弾圧の発端をなした小笠原慈聞という悪僧が今以て宗門に籍をおいている、といふ事である、今学会は全国大折伏に死身になつて起つたのである、どうか御本山においてもかゝる徒輩が再び内部をかきみだす事無く、眞に学会の前途を理解され護つて頂き度いと望む所であります」(『聖教新聞』S26.5.10)
 この戸田会長らの発言に対して細井庶務部長は、
 「現在宗門にはかゝる僧侶は絶対に居りません、小笠原は宗門を追放されて居る」(同)
と、小笠原の存在を全面否認した。
 この細井庶務部長の発言は、宗門全体の意向を受けたもので、決して単独で判断なされたものではないと思われる。というのも、先述した(本紙第41号)推戴式に先立つ5月1日付の『聖教新聞』に掲載された、ある信者の小笠原の僧籍復帰を示唆する記事について、宗務院庶務部はわざわざそれを否定する「お断り」を、昭和26年5月3日付で『大日蓮』(日蓮正宗機関誌)の5月号に発表しているからだ。

◎お断り
五月一日附聖教新聞に鈴木日恭上人を告訴し日蓮正宗を解散せしめやうとした坊さんが総本山に居る旨書かれていますが、かかる僧侶は現在の日蓮正宗に僧籍ある者の中には一人も居りません事を明かにして置きます。

昭和二六、五、三
宗務院庶務部

 このことが後に起きる狸祭事件の伏線となった。
 1年後の昭和27年4月、総本山大石寺において宗旨建立7百年慶讃大法要(以下立宗七百年大法要と略す)がおこなわれた。日蓮大聖人が建長5年4月28日に立宗を宣言されて7百年を数えるに至ったことを祝う大法要であった。
 創価学会はこの立宗7百年大法要を記念し、『日蓮大聖人御書全集』を発刊した。また4千名規模の登山をおこない、大法要を荘厳ならしめた。この立宗7百年大法要の最中である4月27日、牧口会長の墓前で、小笠原は謝罪文(本紙第41号に紹介)を書くのである。
 この翌日、創価学会青年部有志は、本山塔中理境坊の門前に告文を発表した。

告 !!
戦時中軍部に迎合し神が本地で久遠元初自受用身仏は神の垂迹也との怪論を以て清純の法澄を濁乱し創価学会大弾圧、初代会長牧口常三郎先生獄死の近因を作したる張本人小笠原慈聞今日厚顔にも登山せるを発見せり、依つて吾等学会青年部有志は大白法護持の念止み難く諸天に代つて是非を糾したるもこゝに小笠原慈聞の謝罪を見たり、依つて今後の謹慎を約して放免せり、狸祭の由来顛末くだんの如し
立宗七百年記念大法会の日
創価学会青年部有志

 しかし宗門側は、この小笠原に対する学会の直接行動に非常に強い拒否反応を示した。
 まず1つは、大法要中に騒ぎを起こしたということがいかにも許しがたい、2つは、神本仏迹が邪義であるとしても、その当否を判断するのは法主の専決事項であり、信徒の立場で僧を問い糾すことは、その法主の権威を踏みにじるものである。3つは、法衣を着た者は猊下の法類である、それを信徒の立場でいじめるのか、といったことなどが問題とされた。
 だが学会側から見れば、これはおかしなことである。先述したように、1年前の戸田会長就任の際、宗門は小笠原は僧籍にないことを正式表明していたのだ。従って、上記の2、3の事由は該当しないと考えられる。
 ところが摩訶不思議なことに、小笠原は立宗7百年大法要の直前の4月5日に擯斥処分を免除され、僧籍を回復していたと宗門より発表されたのである。それも事件後の4月30日に印刷されたとする『大日蓮』に発表された。この『大日蓮』は5月中旬頃に、檀信徒に配布されたが、創価学会側は、その『大日蓮』を見て意外な事実を初めて知ったのであった。

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―信徒を罰するためにはどんな捏造もする―
―こんな堕落した僧侶は糾さなければならない―

『地涌』第43号H3.2.12

 昭和27年4月30日付で発行された『大日蓮』4月号は、小笠原の僧籍復帰について、宗内に次のように伝えている。

令第三十一號
 岐阜縣武儀郡美濃町     
 本玄寺内 旧大僧都小笠原慈聞
 右者宗制第三百八拾六條及び第三百八拾七條二項に依り昭和廿七年四月附特赦復級せしめる
 但し住職を認めその他の利権は保留する
 昭和二十七年四月五日
日蓮正宗管長  水谷日昇
宗務総監  高野日深

      特赦理由書
岐阜縣武儀郡美濃町 
本玄寺内 小笠原慈聞
 右者昭和十七年九月十四日附に擯斥処分を受けたるものであるが其の後改悛の情も認められ同本人も老齢のこと故関係信徒の特別なる懇願等もあるので情状を酌量し且つ本年は宗旨建立七百年の佳年に当り慶祝すべき時であるから特別なる計らいを以て宗制第三百八拾六條及び第三百八拾七條に依り特赦復級せしめ住職権のみ認める
 昭和二十七年四月五日
日蓮正宗管長  水谷日昇

 これは、創価学会側にとって寝耳に水のことであった。1年前の会長推戴式の前後に小笠原が僧籍にないことを重々、確認していたのに、4月27日に小笠原を糾弾した後になって、その前の4月5日に僧籍復帰を赦されていたことが公にされたのだ。
 学会側から見れば、立宗7百年大法要の日に、僧籍にない者が僧衣を着て臆面もなく登山していることは、公然と小笠原を糾す1つの理由でもあったのだった。だがこの『大日蓮』の発表によって、その根拠はくつがえされることになった。
 戸田会長は、後に宗務院に出した昭和27年6月27日付「始末書」の中で、その意外さについて述べている。
 「尚小笠原慈聞氏は事件直後に聞きました所では、慶祝記念に当り特赦され僧籍に復帰を許されたとの事でありますので、宗務院よりの発令の有無と理由の示達を糾して居りました所、4月30日附印刷発行になる大日蓮紙第74号に発表されたものが、5月中旬に配布されましたが、今尚かかる主張をなす僧侶として本山に居る事は了解に苦しむのであります」
 小笠原復帰の意外さと、その処置を平然とおこなった宗門に対する無念さがうかがわれる。この『大日蓮』の発表は、まさに攻守ところを変えるほどの衝撃的なものであった。
 しかしここに、ある疑惑が浮かんでくる。それは、小笠原の復帰を公表する作業が4月27日の狸祭事件後に、急きょおこなわれたのではないかという疑惑である。この頃の『大日蓮』は毎月7日に印刷発行されている。奥付も、この昭和27年4月号以外は皆それぞれの月の7日で、この4月号のみ4月30日発行となっている。従って、この4月30日という日付は、明らかに遅れて作られたことを示している。
 この日付は、『大日蓮』が月1回必ず出している月刊誌という体裁を取るために付けられたものだと判断できる。そのためには4月30日はギリギリの日付である。実際はそれより何日か遅れていたのではあるまいか。4月末に発行したとなれば、最もあわただしい大法要の直前に編集作業をしたことになる。『大日蓮』の発行が遅れたのはこの号が特例であるので、大法要があったために遅れたと判断するのが自然だ。となれば、大法要後、おそらく5月7日発行の5月号と同時併行で編集、制作がなされたと思われる。このことは戸田会長の「始末書」に「5月中旬に配布」と記されていることからもうかがえる。
 この『大日蓮』4月号の5月印刷発行の疑惑を確認し、そのうえで、小笠原の復帰が「狸祭事件」(4月27日)後、戸田会長が「宗務院よりの発令の有無と理由の示達を糾し」(前出「始末書」)てから急きょ、日付をさかのぼっておこなわれたのではないかと思われる節を指摘しておこう。
 4月5日付で小笠原以外にもう1人、特赦を受けた者がいる。権大僧都の井口琳道である。井口は昭和22年4月の総本山所有山林売却に際し不正の行為があったとして、同23年10月に僧階を6級降ろされていた。それを小笠原と同じ日の4月5日付で、「復級復権」させたとされている。これが「令第三十号」として先に出されている。その後に「令第三十一号」として小笠原の「復級」が出されている。
 この順序に疑問を持つ。
 僧侶の世界において僧階は絶対の序列である。それは通常の行動においても厳正に守られている。にもかかわらず、同じ4月5日の特赦であるのに、僧階の低い「権大僧都」の特赦を「大僧都」より先に出すのは明らかにおかしい。小笠原の特赦は、井口の4月5日より実際は遅く発令されたことを意味している。
 後で詳述することになるが、小笠原は昭和21年3月に、既に特赦で復級している。その事実を考え合わせると、この小笠原の「復級」の決定および『大日蓮』への公告は、戸田会長を罰するために管長の名で捏造されたことが明々白々である。あまりに破廉恥な行為である。
 ただただ僧の権威のみを守ろうとする、堕落した出家の奸智をそこに見る。堕落した者にとって仏法の正邪は二の次なのである。表だっては高邁なことを述べているが、自分たちの立場が脅かされるのではないかと、戦々兢々としているだけなのである。最も恐れるべきものは、宗祖日蓮大聖人のお怒りであることを忘れているのだ。

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―猊下の怒りを背景に僧侶は創価学会を圧迫した師子身中虫は勢いづきマスコミは記事を捏造した―
『地涌』第44号H3.2.13

 狸祭事件に対する日昇上人猊下の怒りは相当なものがあったと伝えられる。『大日蓮』の小笠原の僧籍の復帰を捏造した記事なども、庶務部のレベルでできることではない。
 当然のことながら、創価学会を罰するという猊下の強い意志のもとに、さかのぼって急きょ出された僧籍復帰の特赦と思われる。
 この猊下の激昂のさまは、宗内に次々と伝わった。『大日蓮』の“虚構”の特赦発表の後、宗内で一段と学会批判の勢いが増す。
 大阪、京都、奈良、兵庫、滋賀などを布教区とする日蓮正宗の第8布教区は宗務支院総会を開き、12名の住職が連名で、学会の行動を批判する決議をおこなった。その決議文の一部を紹介する。
 「一、宗建7百年の最も慶祝せらるべき大法要中、然し神聖なるべき管長法主上人猊下の御書講中本事件を起し、尚且つ清浄なる山内を汚し深信なる全国各檀信徒に対し信仰の動揺を與へ時と処とを撰ばざる行為は事の善悪如何に関らず天人共に許さざる所と断ず。
 二、本不祥事件は創価学会対小笠原慈聞師との個人問題でなく宗務当局を無視したる行為は宗門全僧侶及び檀信徒に対する最大の侮辱と断定する」
 大謗法かつ破仏法の小笠原の責任は一切問わず、創価学会のみを追及する一方的な決議であった。要は信徒の分際で僧侶の誤りを責めることはけしからんということに尽きる。
 5月23日には小笠原がパンフレットを出している。この中で小笠原は、狸祭事件で戸田会長らに暴行を受けたなどと事実を歪曲し、告訴の意志表明をしている。また神本仏迹の邪義についても、
 「戦時中に私がこの神本仏迹論を取り上げたのは、この理論を楯に日蓮宗各派取ツチメルに実に恰好の資料となると考えたからであります。然るにこの本意を知らないで、本宗内から小股を取られたのは遺憾千万であつた」
と開き直っている。また学会側の主張する、小笠原が戦時中に大石寺を身延に吸収させようとしたということについても、
 「この問題は見当違いの言いがかりである。私は身延を大石寺に引張り込む算段であつたが、皆々様が不賛成で成り立たなかつたのである」
 「戦時中は仕方なく国策に順応するのが国民の義務という。私もこの見地から合同も止むを得ぬ、もつとも戦後はいずれ元へ戻る。その時には身延寺から沢山の御土産を持つて帰る心算であつた。本宗の正法正義はそうなくてはならないからである」
などと、言い訳にもならない世迷いごとを述べている。
 時の日恭上人猊下を特高に不敬罪で検挙させ、その後で自分が一切を支配しようと画しておきながら、戦後はそのように開き直ってみせる。このような最低の人間も、法衣を着れば僧侶として信徒は敬わなければならない。
 狸祭事件がなければ、のうのうと大僧都として信徒の上に立っていたのであるから恐ろしい。日蓮正宗の中には仏法を規範とした正邪は存在していなかった。実際にあったのは僧侶と信徒の差別だけであったと言える。この後、記述する事件の諸相はそのことを裏づける。
 6月1日には『読売新聞』(静岡版)が創価学会に関する捏造記事を掲載した。見出しは、
 「会長の入山禁止 大石寺前管長暴行事件 創価学会に断 元日共党員が指導? 本山と対立・会員2万の学会」
といったものであった。当時、日本共産党は破防法適用団体として非合法化されていた。昭和25年6月の朝鮮戦争勃発、同年7月のレッド・パージに続き、狸祭事件の直後の5月1日にはメーデー事件も起きていた。
 この世情を背景にして、学会に共産党員が入り込んでいるかのように報道させ、学会を弾圧させようとした者がいた。その者の流した操作情報に『読売新聞』が乗っけられたのだった。読売新聞東京本社は学会の抗議を認め、静岡支局を訪ねるように述べた。学会は支局を訪れ事情を正した。
 根気強い創価学会側の真相究明の作業によって操作情報を流した者が明らかになり、その人物が謝罪したのは1ヵ月余りも経った7月に入ってからのことであった。
 その真相究明の作業が続けられているあいだにも、宗内の状況は創価学会にとって、どんどん不利になっていった。

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―宗会は証人の尋問も本人の弁疏もさせず秘密会をもつて一方的に重大処分を決定した―
『地涌』第45号H3.2.14

 狸祭事件(4月27日)後の昭和27年6月といえば、日蓮正宗の宗内世論は創価学会に対して厳しくなる一方であった。この宗内世論に、戸田城聖創価学会会長は真っ向から対峙した。
 6月10日には会長名で「宣言」を出している。「宣言」は、日蓮大聖人の仏法に照らして学会青年部は小笠原を「徹底的に責めた」ことを述べ、「吾人は小笠原慈聞は僧侶とは思はず、天魔の眷属と信ずる」と断じている。そして末尾を次のように結んでいる。
 「吾人は清純なる日蓮正宗守護の為に御本尊の御本意及び御開山日興上人御遺戒を遵守して、仏法破壊の天魔小笠原慈聞に対し、彼の魔力を破り去る日迄勝負決定の大闘争を行うものである。
 右、仏法守護の為これを宣言す」
 宗内世論の圧力に対して、仏法守護のために一歩も引かないとの闘争宣言であった。しかしその決意をあざ笑うかのように、宗門の僧侶は戸田処分へと動く。
 6月26日から29日までの4日間、日蓮正宗宗会が開催された。
 この宗会においては「宗制の修正」「宗規の原案」が検討されるとともに、もう1つの重要案件である「大法会不祥事件」が審議された。
 宗会2日目の27日、細井庶務部長より戸田会長の提出した「始末書」が紹介された。「始末書」はまず小笠原が僧籍にあるとは思っていなかったこと、戦中の神本仏迹を立てての策謀は許すことができないこと、事件当日においてもまったくもってその邪義を立てたことを素直に認めなかったことなどが述べてあった。
 また、戸田会長ほかの学会側の者が暴行を加えていないことについては、
 「此の事実万一将来物議をかもした時、証人が無くては真実とならないと思いましたので、最初から御立会を願つた小樽教会の阿部尊師、名古屋の妙道寺様、寂日坊の所化さん、3人にお聞取り願います」
と述べ、小笠原への法論が非暴力的におこなわれたことを主張している。また小笠原が僧侶として存籍していることは「了解に苦しむ」と述べたうえで、文末を、
 「その故に私共と小笠原慈聞氏との関係は未だ『末』は決して居りませんので全体の始末書とは申しかねますが当日の始末をあらあら御命によつて始末書にしたためました」
と結んでいる。
 宗会は、この戸田会長の「始末書」が紹介されたあと、秘密会に入った。会議は夜遅くまで続けられた。
 明けて28日は早朝より宗規の審議がなされ、ようやく夜の7時半過ぎになって、宗会議員一同によって作られた狸祭事件についての決議文が提出され、全員が賛成の意志表示をした。
 決議文の結論をいえば、小笠原については「宗制宗規に照し適切な処置を望む」といったもので、宗会としての処分の意志表示はいわば保留となっている。ところが、一方の当事者である戸田会長には厳しかった。

一、大講頭戸田城聖氏は本宗々制第三十條を無視し、本年四月廿七日本宗僧侶小笠原慈聞師に対し計画的と見做される加害暴行をし、記念法要中の御法主上人を悩まし奉るのみならず、全国より登山せる旦信徒に信仰的動揺を與えたる事件は開山以来未曾有の不祥事である。依て今後集団、個人を問はず、かかる事件を絶対に起こさざる事を條件として左の如き処分を望む。
一、所属寺院住職を経て謝罪文を出すこと
一、大講頭を罷免す
一、戸田城聖氏の登山を停止す

 以上のように、一方の戸田会長についてのみ具体的に処分を指定したのであった。
 また、戸田会長が証人を出してまでして暴行の事実を否定していたのに、証人3人の証言を聞くこともなければ、処分される戸田会長本人の言い分も聞くことなく、秘密会の審議のみで、一方的に「計画的と見做される加害暴行をし」と断定したのであった。
 信徒の人権も人格も無視した、出家の思い上がりに依拠した裁きであった。
 また宗会議員のなかに、戦時中、小笠原と同様に、日蓮大聖人の仏法の本義を忘れ、大政翼賛的な活動に血道を上げていた者が多数いたことも笑止なことであった。昭和18年6月に牧口会長、戸田理事長(当時)ら学会幹部に神札を受けるように申し渡した渡辺慈海などが裁く側にいるのだから滑稽でさえある。
 この決議の後、宗務総監以下の3人の役僧が辞意を表明した。その中で1番の創価学会の理解者であり、この事件において猊下の御勘気とみずからの学会庇護の気持ちの板ばさみとなった細井庶務部長は、辞意を表明した際、次のように苦衷を語った。
 「私としては小笠原師にだまされた事を明かにしておる為、学会に味方しておるが如き誤解を受けておるので、たとへ公平なる処置をとつても、宗門人には公平と思はれないと思うから此の際辞職して各位の信任あるお方によつて、公平なる処置を決して頂きたい」
 この宗務役員の辞任は、宗会4日目の29日に宗会の決議として慰留がなされたので、それを受けて全員留任となった。細井庶務部長は留任要請が宗会よりなされた際、その発言の機会をはずさず、
 「なるべく寛大な処置をとる様に御願いしたい」
とわざわざ発言している。宗会の学会に対する厳しい評価を考えるとずいぶん思い切った学会擁護の発言であった。

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―仏恩広大にして逆縁の輩、日蓮正宗の僧と顕われ唯一人の大信者をそねみ恨む、習性恐るべし―
『地涌』第46号H3.2.15

 戸田城聖会長に対する、
 「一、所属寺院住職を経て謝罪文を出すこと
 一、大講頭を罷免す
 一、戸田城聖氏の登山を停止す」
との3つの処分を要請した日蓮正宗宗会(昭和27年6月26日〜29日)の最終日の2人の議員の発言は、僧侶のずるさを証明して余りあるものがある。
 1人は柿沼廣澄宗会議員である。戦時中、戦争協力の旗ふり役の1人であった。
 「単なる法議法論の理の法門を弄することをやめよう。納得のゆく人柄、所謂僧侶としての品位の欠如が実はこの不祥事件の原因であると、吾と吾が身を鞭うつものである」
 神本仏迹論の正否の吟味から、戦中の種々の問題に宗内の関心が進まぬように先手を打っているのである。実にうまい言いまわしで保身を図っている。
 また閉会の間際にも、秋田慈舟宗会議員が同様の発言をしている。秋田議員は2年前の昭和25年、大石寺の観光地化計画を積極的に進めていたが、戸田会長に登山会を実行され、自分の計画が中止されたことを内心では恨んでいたと推測される。
 しかし秋田議員の話は、
 「今回の事件は、全く僧侶の教化指導力の不足によるものと思う。これを機会として宗内信徒の正しい指導育成に努力することを誓つて円満和合の宗風を確立し、その実現を誓い、法主上人を通じて宗会議員一同、戒壇の大御本尊様に懺悔を致したく懺悔文を作成した」
などときれいごとに終始している。
 ところが、である。秋田議員は陰険な策謀をなしていたのだった。
 先述した『読売新聞』(昭和27年6月1日付静岡版)の「会長の入山禁止 大石寺前管長暴行事件 創価学会に断 元日共党員が指導? 本山と対立・会員2万の学会」の見出しで報じられた捏造記事のネタ提供者は、この秋田宗会議員であったのだ。
 この僧侶は、公の場ではきれいごとを言いながら、裏にまわっては、操作情報をマスコミに提供していたのだ。
 宗会後の7月13日、秋田宗会議員は学会青年部に追及され、『読売新聞』にネタを提供した事実を認め陳謝した。
 さて、宗会の戸田会長処分要求決議を知らされた創価学会青年部は、宗会議員1人ひとりに対し、徹底した説得を開始した。それに対して直ちにその非を認める者もいれば、開き直る者もいた。そこで明らかになったのは、予期していたことではあったが、日蓮正宗宗会議員が出家の権威をふりかざすのみで、なんら大法弘通を考えていないということであった。
 なかでも市川真道宗会議長の場合は、象徴的であった。学会青年部の追及に対して、市川宗会議長は話し合いを放棄し、自寺の信者の中の不良たちに因縁をつけさせている。
 「市川氏は急に座をはずして本堂へ行つてしまい学会員が『先生逃げるとは卑怯ですよ、おもどり下さい』と言いかけると『この野郎』と1人がとびかかり、皆総立ちとなつて学会員を取りまいた。それと同時に入口からドヤドヤと『ケンカか、おれらが仕末してやろう』『何をいつてやがるんだ外へ出ろ、外へ出ろ』とどなりながら数名の者が入つて来たので、みるとアロハシヤツ、土足、入墨一見して暴力団の不良連中である事がわかる(中略)丁度警察官がこの場にかけつけて来たので、暴力団の不良は取り静める事が出来たが、中にはハンマーを面談中の我々に投げつけようとした者もいたしこん棒を束にして持つて来ていたのである」(『聖教新聞』S27.7.20)
 日蓮正宗の僧侶の中にもずいぶんと程度の悪い者がいたことに唖然とさせられる。それも宗会議長となれば、なにをかいわんやである。
 この市川宗会議長は、戸田会長処分を要請した宗会の閉会式において、宗会を代表して次のような「懺悔文」を奉読していた。
 「顧るに斯くの如き問題の起因は吾等僧侶の教化指導力の不足に因る事と思ひますから、将来宗内信徒の正しき指導育成に一層努力して真の円満和合の宗風を確立し、その実現をお誓ひして、茲に、御法主上人猊下を通じ戒旦の大御本尊様へ衷心より懺悔申上げます」
 大御本尊様に「懺悔」しているはずの者が、純粋な信仰心からの信徒の行動に対して、ヨタ者の暴力をもって応えようというのだ。
 戸田会長がみずから筆を執っていた『聖教新聞』(S27.7.20)のコラム「寸鉄」は、その舌鋒を堕落した僧に向けている。
 「一、折伏を命とし本山を護る事を名誉としている学会に何で宗会議員はケンカを売つてくるんだ
 二、若い者が怒り出しているだけならまだよいが、おぢいちやん連まで鉢巻きをし出したでは、一荒れ荒れるかな
 三、無調査の論告、野蛮時代の政治よりもなお悪い、さては宗会議員諸公7百年前を想い出したな
 四、7百年前を想い出してもよい大聖人様の折伏の姿なら良いが平左衛門の真似ぢや困つたもんだ
 五、宗会議員諸公は平左衛門の後身か、事情も調べず義理もたださず論告するとは
 六、平左衛門の後身宗会議員と現る。仏恩広大にして逆縁の輩、今大聖人様の仏法の中に生まれて、唯一人の大信者をそねみ恨む、習性恐るべし」
 まことにもって今の日蓮正宗の状況を言い得ているようで妙である。かつての仏敵も今生に勢ぞろいか、頃やよし。

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―人々のために働く創価学会員こそ真の僧―
―この創価学会の結合を破る者には必ず罰がある―

『地涌』第47号H3.2.16

 昭和27年の狸祭当時の、戸田城聖・創価学会第2代会長が書かれたものの中には、日蓮正宗総体の腐敗に対する厳しい批判が相次いでいる。今号はそれらのいくつかを紹介してみたい。
 まずは狸祭の2日前の4月25日に書かれた『大白蓮華』の巻頭言。
 「御本尊の威光をかりて、折伏の系統を、自分の子分とみなす徒輩がある。折伏が、真の慈悲ではなくて、大親分になってみたいという考え方から、あるいは本性的の働きから、この形をやるものがある。これは、増上慢の形であって、私の徹底的排撃をする徒輩である。この形は、寺院にも、時々みうけられるが、学会内にも、時おり発生する毒茸である。この毒にあてられた者が、4、50人の折伏系統をもつと、寺の僧侶と結託して、独立する場合があるが、末法大折伏の大敵である。これを許す御僧侶は、慈悲の名に隠れた魔の伴侶とも断じたい思いであるが、御僧侶は尊きがゆえに、言うにしのびない」
 創価学会の組織切り崩しを許す僧侶に対し、戸田会長は心中にてまさに「魔の伴侶」と断じているのだ。
 次に、同じく戸田会長の書かれた「寸鉄」を紹介する。
 昭和27年5月10日付『聖教新聞』
 「十、狸まつりはあんまりやるな、狸まつりをあんまりやられるような事はするな、やつた者が悪いか、やられた者がわるいか、謹んで日興上人様に伺い奉れ」
 同年6月1日付『聖教新聞』
 「戦国風景
 大宮人は畑を開墾したり薯を作つたり、若い武士を養成しようともしない、ひたたれをつけて威張る事だけ知つている。地方の城主は破れた城で貧乏で兵隊もいないのに平気な顔。熱心な侍大将が兵隊を集めて訓練して殿様の御守護につけると、威張る事ばかりやつていてさつぱり武士共は心服しない。大敵が目の前に来ているのにこれでいいのかと百姓共が心配している」
 同年7月1日付『聖教新聞』
 「二、狸祭が悪いのか、狸を見逃して本山へ登らせたのが悪いのか
 三、狸を把んだのが悪いのか、信者を化す狸が悪いのか
 四、狸を把むのに少し騒々しかつたからといつて文句をいうてるやつ等は、狸がおつた方がいゝというのか
 五、寸鉄居士、生ぬるい事をいうな、文句をいうてるやつ等は狸の一味ぢやよ、或いは小狸だよ
 六、そんな事はなかろう、狸の一味や小狸がいるなら若い者が、ほつとくかい、狸が把みたくつて把みたくつてたまらんやつ等なのに
 七、寸鉄居士、間抜けるなよ、しつぽを出さない狸は把めるかい、それがな、そろそろしつぽを出しかけたんだよ
 八、若い者共はそのしつぽを把まんのかよ
 九、若者曰く寸鉄居士少しこの頃どうかして居らんか、そのしつぽを眺めて、もう少し出るぞといつて手ぐすね引いて待つているんだ、京都に1匹居るそうな、東京もくさい、名古屋もくさい、旅費をためろためろつて大変な意気込みだ、寸鉄居士目があつたらよく見ろ
 十、余り騒いでは相成らん、余り騒ぐと親方さんに叱られるぞ」
 同年7月10日付『聖教新聞』
 「一、宗会の決議では我等の会長が登山止めなそうな、物騒な世の中になつたものだ
 二、忠義を尽くして謗法を責めて御褒美あるかと思つたに、おほめはなくて『登山まかりならん』とおしかりさ。弟子共『俺達も一緒に登らんわい、フン』だつてさ
 三、なにが『フン』だい。決つてるじやないか、日本全国の信者の声だつてさ、嘘もよい加減にしろ、折伏も出来ず、御衣の権威で偉ばること許りを知つとる坊主の学会に対するやきもちだからさ。
 四、蒲田の支部長曰く『信者の声』かどうか、学会の総力をあげて全国信者から『宗会』が『醜怪』か、『学会』が『悪会』か投票を取ろうじやないかと。
 六、寸鉄居士会長先生に御伺いをたてたら『あんまり騒ぐなよ、こんな目出度いことを』とニヤリさ。
 八、こらこら騒ぐな『ニヤリ』を説明してやるからな、如説修行抄に仰せあり『真実の法華経の如説修行の行者の弟子檀那とならんには三類の強敵決定せり。されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし』。三類の悪人の仕業の中に『遠離塔寺』と言つて寺から追い出すやり方がある。悪人共がさ」
 これは驚いた。「遠離塔寺」とはまぎれもなく、「C作戦」のことではないか。
 「C作戦」は仏が予見していたとおり、三類の「悪人の仕業」なのだ。
 昭和28年11月22日におこなわれた創価学会第9回総会で、戸田会長は次のように発言されている。
 「さて今、柏原君の話の中に破和合僧と有つたが僧とは社会を指導し人を救う資格を持つのが僧である。心中では互に憎しみ猫がねずみを伺う様に形は法衣をまとつても僧ではなく、いま学会の組長、班長が一生懸命で一切の人々の為に働いている姿こそ真の僧と云へるのである。此の結合を破る者には必ず罰が有る。嘘だと思つたらやつてみ給へ」

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―小笠原は人生の終章で戸田会長に敬服した―
―その小笠原を目覚めさせたのは狸祭の強折だった―

『地涌』第48号H3.2.17

 創価学会の青年部を中心とした宗門に対する法論と説得によって、状況は徐々に変わってきた。
 宗会の3項目の処罰(謝罪文提出、大講頭罷免、登山停止)の要求は、ついに実現に至らなかった。7月24日、すべてを収拾すべく日昇上人猊下より戸田会長に「誡告文」が出された。それには、
 「宗内の教師僧侶は白衣の沙弥に至るまで総て予が法類予が弟子である若し其れ此の教師僧侶を罵詈し侮辱するならば法主たる予が罵詈され予が面に唾されるものと身に感じ心をいためているのである」
と、出家の者たちを、仏法の正否を超えてかばってみせ、さらに大講頭については、
 「尚法華講大講頭の職に於ては大御本尊の宝前に於て自ら懺悔して大講頭として耻ずるならば即座に辞職せよ若し耻じないと信ずるならば心を新たにして篤く護惜建立の思をいたし総本山を護持し益々身軽法重死身弘法の行に精進すべきである」
と述べている。
 これに対して戸田会長は、「御詫状」を奉呈している。「御詫状」とはいえ、その内容は、宗内の謗法を断ずる意欲に満ちたものであった。
 「只宗内に於いても余りに謗法に傾き過ぎたり大白法の信奉に惰弱なる者を見る時、況や宗外の邪宗徒をせめる時は宗開両祖の教を胸に深く刻むが故に、決定的な闘争になる傾きがあるのであります。これが行き過ぎのなき様に深く会員を誡めて指導致しますが『護法』の精神に燃ゆる所生命を惜まぬが日蓮正宗信者なりとも亦日夜訓えて居ります為に、その度を計りかね名誉も命も捨てて稍々もすれば行過ぎもあるかも知れませんが、末法の私共は十界互具の凡夫であり愚者でありますから宏大の御慈悲をもつて御見捨てなく御指導下さる様重ねて御願いします」
 言葉丁寧な中にも、断固たる決意がうかがわれる。また、大講頭職についても、
 「誡告の御文に『恥ずるならば大講頭職を辞せよ』と御座居ましたが、猊下の宸襟を悩まし奉つた事は恐れ多いと存じますが宗開両祖の御金言には露ばかりも違わざる行動と信じます故に、御本尊様の御前にして日蓮正宗の信者として自ら恥じないと確信し大講頭職は辞しません」
と、一歩も引く気配すら見せていない。言外に仏法上の正邪を行動規範としない、大聖人の仏法を忘れた宗門に対する憤りすらただよわせている。
 7月26日、創価学会会長・戸田城聖名で、
 「全学会員の御僧侶に対する“狸祭事件”に関しての闘争を停止すべき事を命ずる」(一部抜粋)
との「行動停止命令」が出された。
 ところが小笠原は、創価学会戸田会長以下幹部に対する告訴をおこなっていた。9月2日、国家警察本部富士地区署は、戸田会長以下12名に出頭を要請。まず和泉覚理事(当時)は同日から丸1日、戸田会長は翌日から丸1日、事情聴取のため留置された。
 これは、小笠原が、自分が面倒を見ていた(寺の一部を貸し与え開業させてやっていた)医師にウソの診断書をつくらせ、暴行事件をデッチ上げたことによる。また小笠原の弁護士は、戦中より親交のあった三宅重也という人物であった。戦時中、日蓮宗身延派に所属していた三宅は小笠原とともに、日蓮宗の翼賛的合同を策して積極的に暗躍していたのであった。
 この小笠原に対して日昇猊下は、9月9日「誡告文」を送ったが、小笠原はそれに対し「人権蹂躪」であると告訴をチラつかせて、文書をもって宗門すらも脅しにかかった。
 この時の文面は公表されていないが、小笠原にしてみれば、昭和21年3月に僧籍復帰(筆者注 次号詳述)していたものを、なんの都合か昭和27年4月に復帰したことにされ、そのうえ、誡告までされてはかなわぬといった気持ちがあったのだろう。宗門も弱味を握られ侮られたといえる。
 しかし、この小笠原を細井庶務部長は、小笠原の自坊である岐阜県本玄寺において説得した。その時、本玄寺の檀信徒も、小笠原が猊下まで告訴に及んでいる事態を初めて知り、小笠原の非を責めた。孤立した小笠原はついに謝罪し、一切の告訴を取り下げたのであった。
 が、宗門はこれだけのことをした小笠原に対して、なんら実質的な処分を下さなかった。ここにも僧籍復帰の怪が尾を引いていると思われる。
 ところでその後、小笠原はどうなったか。小笠原は戸田会長の行動に感服し、敬愛の情を抱くに至るのである。
 ここに小笠原の書いた、昭和30年5月25日発行の『日蓮正宗入門』という本がある。この前書きで創価学会および戸田会長を評し、次のように記している。
 「その信徒の強烈なる、その抱負の偉大なるため、永年沈衰してゐた本宗も俄に活気を帯び生き吹き還すに至り、今や全国で正宗信者の無い土地は無く広宣流布の魁をなすに至つたことは、只管ら感激の外はありません。自分は不徳にして一時調子に乗りその為に学会と争論の不幸を醸した事のありました事は、誠に遺憾の至りでありましたが、翻然大悟逆即順の筋目を辿り爾来我宗門の人とは宜しく学会精神を躰得し、それを基調として進行せざるべからずと提唱するに至りました。かく言ひますと、之れは諛へる者と評せらるべきも、道理と実際の指す所でありますから仕方ありません」(一部抜粋)
 戸田会長の偉大さの一分を証明する結末であった。小笠原は昭和30年12月3日、80歳の生涯を閉じた。小笠原は晩年にあっては創価学会の折伏を賛嘆し、協力を惜しまなかったということである。小笠原の葬儀にあたり、創価学会青年部は香典として1万円を送った。
 小笠原の覚醒は創価学会青年部の強折によるところが大きい。小笠原の一生をたどり、戦時中の神本仏迹論、狸祭、晩年を思うとき、戸田会長の偉大さ、仏法の不思議に思いが至るのである。

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―僧侶たちは布教をしないので権威だけが頼り―
―その為に猊下の名でウソをつき信徒を処罰する―

『地涌』第49号H3.2.18

 小笠原が僧籍に復帰したのが、昭和27年4月の立宗7百年大法要の直前でないことは、宗門人のほとんどが知っていながら、今日まで創価学会側の知るところとならなかった。
 この事実は、出家の者たちが自分たちの共通利益のためには、情理を超えて結束することを示している。出家が在家の上に位置したいという気持は、まさに本能的なものである。ことに布教活動をしない僧侶集団は、その位置関係以外に自己の存在の保証を得られないことを敏感に知っている。従って、在家集団の台頭に実に臆病になり、過剰な反応を示すのだ。
 今回の創価学会に対する表立っての強権的な一方的処置、裏にまわってのマスコミを頼りながらの切り崩しは、その臆病な本質をさらけ出したものといえる。
 それでは、敗戦直後の小笠原の僧籍復帰が宗内において周知のことであったことを、年代をさかのぼりながら見ていきたい。それを確認することは、僧侶がみずからの権威を守るためには、事実をねじ曲げても信徒を処罰するという、その本質に根ざした卑怯を暴く作業でもある。
 狸祭の前年の昭和26年11月13日、徳島県の敬台寺において、同寺の再建落慶法要がおこなわれた。この時の模様を宗門機関誌の『大日蓮』(昭和26年11月号)が報じているが、「本玄寺小笠原慈聞」はその法要の来賓の最上席として記録されている。その際、小笠原以外に4名の僧侶が列席している。その4名とは、藤川徹玄、秋山円海、秋山慈本、河辺慈篤である。
 昭和25年の『大日蓮』8月号は、「小笠原慈聞著」の『法華経玄理一念三千の法門』という本の宣伝を出している。広告文の中には「多年のうん畜を傾けて法華経の秘蔵を開きたる力作、その内容は本宗傳統たる教観の優秀性を主張する」といった箇所がある。小笠原の肩書は「元日本大學宗教科講師、世界之日蓮主幹」となっている。
 昭和25年の『大日蓮』3月号は、讃岐本門寺の梵鐘が再興されたことを報じている。その記事には、2月5日の撞初式に小笠原が出席したこと、その式にあって「貫主」に続いて梵鐘をついたことが書かれている。
 同じく日蓮正宗の機関紙である『宗報』の昭和22年9月号は、「美濃町だより」と題する小笠原の投稿を載せている。そこには本玄寺において8月18日に法会がおこなわれ、組寺の4名の住職が来会、「小笠原主管」が日正上人の追想を話したことが記されている。
 また同号には「讃岐行」という「細井」(のちの日達上人)署名の一文が載せてあり、讃岐本山本門寺の虫払い法要について書かれている。これには本門寺一門の僧侶以外に、小笠原ほか4名の僧が訪れ、参列している。小笠原はその時、説法を皆の前でおこなっている。
 昭和22年4月28日付をもって、宗会議員の選挙結果が発表された。『宗報』(同年6月号)にその詳細が報じられている。21名が立候補して16名が当選したが、小笠原は44票を獲得して17位の次点に泣いている。宗会議員に立候補していたのであるから、日蓮正宗内で小笠原の復帰を知らぬ者などいなかったということになる。
 創価学会側に宗門より伝えられた「昭和27年4月5日に小笠原が僧籍復帰した」ということが、いかに詐術的であったかということがわかる。
 昭和21年6月15日発行の『宗報』第2号(何月号という表示はない)には、「讃岐本門寺一行の登拝」と題する記事が掲載されている。この時、讃岐本門寺一行を歓迎する日満上人猊下の小宴がもたれたが、それには小笠原も同席している。
 「同夜6時より法主上人御招待の小宴あり此日東京より這回特赦に依り復帰された小笠原慈聞師も大聖教會總代岡本涙翁、鈴木杢吉兩氏と共に登山して席に加はり」(『宗報』第2号抜粋)
と記述されているのだ。「特赦に依り復帰」と書かれていることに注目しなければならない。
 いったい小笠原が、昭和17年9月14日の擯斥処分の後、僧籍復帰になったのはいつなのか。昭和21年5月15日発行の『宗報』第1号が小笠原の復帰を公告している。

   令第二二號
香川縣三豊郡下高瀬村
元大僧都  小笠原慈聞
右者宗制第三百九十四條及同第三百九十五條ニ依リ特赦復級セシム
昭和二十一年三月三十一日
管長  秋山日滿

   特赦理由書
右者昭和十七年九月十四日宗制第三百八十九條ノ一同條ノ三ニ依リ擯斥處分受ケタルモノナルモ其後改悛ノ情顕著ナルヲ認メ宗制第三百九十五條ニ依リ復帰、復権、復級セシムルモノナリ

 小笠原の僧籍復帰は、敗戦後間もない昭和21年3月31日に、「令第二二號」としてすでに示達されていたのだ。前年の昭和20年6月、小笠原に悩まされ命をけずる思いをされた日恭上人が、大客殿焼失に際して亡くなられてから1年も経っていない。
 日蓮正宗の戦後が、戦時中の大謗法を悔い改めることなく始まったことを象徴して余りある小笠原の復帰であった。
 昭和21年3月「令第二二號」が出され小笠原が特赦復帰しているにもかかわらず、宗門みずからの体面を守り戸田会長を罰するためだけに、昭和27年4月に「令第三十一號」として、重複して小笠原の特赦復帰を猊下名でおこない、宗門機関誌『大日蓮』に捏造の発表をおこなったのである。憎むべき出家の傲慢である。






本山観光地化と登山会

本山観光地化と登山会

(『慧妙』H15.2.1他)

<『地涌』第36号1991年2月5日>
>昭和25年当時の総本山は、経済的に大変疲弊していた。その総本山が疲弊した原因は、昭和20年12月29日に行われた農地改革である。総本山所有の農地のほとんどすべてが小作農民に廉価で開放されたのであった。

>そこで宗門は、総本山大石寺の復興と生活手段確保のために、大石寺を観光地化しようと計画した。

>この総本山大石寺の観光地化計画を戸田第2代会長が聞き、驚くとともに悲しみ、登山会を計画したのであった。これが現在まで続く登山会の始まりであった。

>万が一にも総本山が観光地化されていれば、京都あたりの邪宗の寺の様相と変わらぬことになるところだった。考えるのもおぞましいことである。

>総本山復興の大恩人である戸田会長を、昭和27年6月28日、日蓮正宗宗会は大講頭の罷免、登山禁止の処分に処することを要求する。 この処分の原因とされた、当時「不祥事件」と呼ばれた事件は、かつて神本仏迹論を唱えて日恭上人を悩ませ、創価教育学会弾圧の下地を作った小笠原慈聞を、立宗700年の際に問責したということで、本来、仏法上においては賞賛されるべき事件であった。

【観光地化計画】
<「富士北部観光懇談会」>
・昭和25年11月23日に総本山客殿で行なわれた。
・本山側からは、堀米宗務総監(後の第65世日淳上人)、細井庶務部長(後の第66世日達上人)などが出席され、地元からは富士宮市長、記者団などが出席している。

●近来、観光に付いて社会ではいろいろと施設や計画が進められているが、当本山として、今までそうゆう事には無関心のごとく見られていた。今後は清浄(しょうじょう)なるこのお山をけがすことなく世道人心(せどうじんしん)に益(えき)したい(第65世日淳上人『大日蓮』昭和25年12月号/『慧妙』H15.2.1)
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あくまでも「清浄なるこのお山をけがすことなく」を前提に、「世道人心に益し」ていくことを目的としていたのであるから、邪宗教のごとく、一般の人々から賽銭(さいせん)や御開帳料を取ることなどありえない。

◆「会議」当日の新聞記者たちの提言
一、建物その物が国宝的に準ずる
一、要所々々には立札(たてふだ)を立て説明を付けてもらいたい
一、観光道路を大々的に改修する、とくに黒門までの道路を早急に改修し、大石寺は総門からと考へるべきだ
一、三門から入って塔中(たっちゅう)手前までの間を庭園化する必要がある
一、桜は全国的と云はれ、自然のまま保存されたい
一、三門付近で観光客案内所をおく必要がある
一、五重の塔があることは知られていない。自動車の車窓(しゃそう)より見える様に研究されたい。遠くから見るところに価値があると思われる
一、観光客に対しての宿泊の設備を考えられたい
一、三門から本堂に至る参道は恐らく日本一を誇り得ると思ふ、この点十分に保護し古色(こしょく)をこわさぬ様にお願ひしたい(『大日蓮』昭和25年12月号/『慧妙』H15.2.1)
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あくまでも本宗の教義・信条とは無関係な、一般人としての「要望」でしかなく、この「観光懇談会」の「提言」をもって、本宗を攻撃するのは、まったくの筋違いであろう。

★学会は、「学会の登山会が、本山の困窮を救った」などといっているが、この懇談会が行なわれたのは、昭和25年11月であり、学会の登山会が始まったのは、その2年後の昭和27年10月からである。この2年間のズレを考えても、「観光懇談会」と「登山会」とは、まったく関係ないものであったことがわかるのである。

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観光地化されれば、大聖人の仏法を信仰していない人が多く訪れるようになる。信心もしない人を大石寺に参詣させて、その人たちが落す金を狙うことは、謗法の布施を禁じた宗旨に違背する事は明確であった。(旧sf:2667)
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あなたは観光地化=京都や奈良の寺=謗法、という図式を勝手につくっています。「謗法の布施を禁じた宗旨に違背する」といいますが、地元記者が出した要望(上記◆)にさえ、謗法の布施に関する記述はありません。勝手な憶測邪推は止めましょう。

●法花宗の御堂なんどへ他宗他門の人参詣して散供まいらせ花を捧くる事有り之れを制すべからず、既に順縁なるが故なり、但し大小の供養に付いて出家の方へ取り次ぎ申して仏聖人へ供養し申せと有らば一向取り次ぐべからず、謗法の供養なるが故に、与同罪の人たるべし云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻75頁)

「散供まいらせ」通例御賽銭と云ふもの此時代では通貨でも米でも仏前に蒔き散らすが普通の例であった、此は丁寧なる儀式でないが却つて信謗の区別なき一般的のもので順縁と云ふべきであるから禁制に及ばぬと仰せらるのである「出家の方へ取り次ぎ申して」云云とあるは此は一般的のものでない特別の意趣で御供養する内心が謗法味を帯びてをるから迂潤に仏聖人即ち御本尊へ捧げてはならぬ、能くよく其意趣を聞糺して信仰に入れてから其御供養を受くるやうに為すべきである、然らずして謗法者の供養を直に取次ぐことは取次の僧も謗法者と同罪に陥いるのであると制せられてある。(第59世日亨上人著『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻156頁)
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他宗の人々が観光のためとはいえ、本山に参詣することは謗法でもなんでもありません。むしろ正法に縁を結ばせることになり、布教の契機ともなるのです。



【登山会】
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宗門も昨年正本堂が建立せられましてからすでに1年になんなんとしております。顧みますれば、我が宗門は先の第2次大戦において日本が敗北した。それによって農地開放という大問題が、総本山におきまして、あらゆる農地や山林をみなこれを開放されたのであります。(中略)今までは安定して生活しておりましたがなかなかそれがしにくくなった。僧侶も塔中の住職等皆、山林を開墾して、そこへ芋やキビ、とうもろこし等を植えて生活をしていったのでございます。(中略)ついに戸田先生はそれならば登山会をつくろうというので、登山会を毎月1回、当時1回でしたが、登山会をすることになって、初めて本山は活気づいてきたのであります。そのうち年々登山会が盛んになって今日の、この年に何百万という登山会が実行された。ことに池田会長の時代になって昨年正本堂を建立せられ、ここに1千万登山という大目標をもって登山会をせられたのでございます。(第66世日達上人・昭和48年8月30日・第22回教師講習会開講式・総本山 大講堂『大日蓮』48年10月号/sf:2711)
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<登山会と観光地化は無関係>
この文献を見る限りにおいて「毎月1回」の学会主導の「登山会」が、本山の経済的窮乏を救うことを直接の動機として行われたことは一応認められます。しかし、これは、観光地化の問題とは別でしょう。窮乏→観光地化→謗法、というのは学会の邪推に過ぎません。また、本山は登山会がなくとも、貧乏は貧乏なりに正法を伝持したはずです。そのことは、上記日達上人の、当時の御僧侶の生活からも伺えます。また、『人間革命』にも当時の御僧侶が、生活苦と闘いながらも正法を護持された姿が描かれています。

◆ただでさえ、食糧難の時代である。本山の僧侶達は、確保した2町歩余の土地で開墾にいそしんだ。時の来るのを待ちながら……。誰人が、止めようが、新しい栄光の時代が来ることを強く信じて……。 自分達の食料確保のためにも、本山護持のためにも、慣(な)れない鋤鍬(すきくわ)を振るったのである。来る日も、来る日も、百姓仕事である。いつしか、百姓が日課となっていた。 たまたま、参詣の信徒が登山して来た日、そして御開扉のある時は、番僧が塔中をふれまわった。それは、月に多くて数回のことである。その日の午後は、農耕は休みとなり、みなほっとして、僧侶であったことを、しみじみと思い出すのであった。(中略) 私は、常に感謝し、そして思う。今日の宗門の大隆盛と学会の大発展を……。そして、当時、苦難と戦い、深く強い礎(いしずえ)と、柱を築いてくれた僧侶、先輩の尊い努力と信心を…(『人間革命』第2巻「光と影」/『慧妙』H15.2.1)
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不思議なことに手元の『人間革命』第2巻(H14.6.6第102刷)には、「中略」以降の文章が見当たらない。池田の「変心」に合わせて、削除してしまったのか?


<登山会の意義>
学会の登山は「毎月1回」の「登山会」が行われる前から実施されており、種々の会合が本山で行われていました。そのことは、『人間革命』からも知ることができます。

御登山の場合は最高の敬意を忘れず、1週間前に宿坊に申出(もうしい)で、なるべく認可を受けた上登山するものとする。(『牧口常三郎全集』第10巻228頁)

◆昭和21年元旦、―午後3時近く、戸田城聖は東海道線冨士駅に降りた。同行者は、藤崎陽一、北川直作、岩森喜三の3名であった。(中略)理境坊がある。故牧口会長以来、本山にお願いして、この坊を学会専用の坊として、つねに使用してきた。 理境坊の本堂に荷物をおろし、住職に久闊の挨拶をすますと、住職は人懐かしい様子で、熱い茶を入れながら、様々な話をはじめた。(『人間革命』第1巻「千里の道」)

◆昭和22年の正月―戸田と彼の弟子たちは、総本山大石寺に登山した。同勢は39名である。1年前の正月、わずか6人の弟子を相手の法華経初講義を思い出すと、数倍以上である。(『人間革命』第2巻「光と影」)

また、登山自体は、大聖人時代から行われており、日寛上人も登山を奨励されています。つまり、(寺院の添書不要の)学会主導の登山会は、本山窮乏を救うために実施されたとしても、登山自体の意義は、信心の血脈を流れ通わし罪障消滅を実現するための重要な方途なのです。つまり、本山の経済状況に関係なく、「登山会」は信仰の深化およびその発露として積極的に実施されるべきものであり、歴代会長もそのように指導していたのです。

●金口相承と申して一器の水を一器に瀉すが如く三大秘法を付嘱なされて大石寺にのみ止まれり。(中略)既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則(ときん)ば本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ(第26世日寛上人『富士宗学要集』第10巻131頁)

◆なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。(『戸田城聖全集』第3巻490頁)
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「登山不要」を唱える今の学会は「本物の信心」ではないということだ(笑)

◆富士大石寺の大御本尊を拝まない者はすべて謗法である(『折伏経典』314頁/『創価学会のいうことはこんなに間違っている』240頁)
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あれこれ屁理屈を並べて登山しない(できない)池田学会は、「大御本尊を拝まない者」であるから「すべて謗法」です。

◆登山会は、日蓮大聖人様のまします霊鷲山への参詣であり、さらに日興上人・日目上人等、三世諸仏の住処であり、われらが真如の都である、久遠元初の故郷へ還(かえ)ることなのである。 このように、学会の登山会は、極めてその意義が深いのであるから、軽々しく考えてはならない。(池田『大白蓮華』昭和38年10月号の巻頭言)
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「軽々しく考えてはならない」どころか、積極的に登山を否定しているのが今の学会。この自語相違、変節こそ邪教化の動かぬ証拠!

◆信仰の根本の対象は、いうまでもなく本門戒壇の大御本尊である。その大御本尊にお目通りすることが、登山会の最も大事な目的であり、意義である(『池田会長全集』第4巻210頁/『慧妙』H20.1.1)

◆10月12日は、大御本尊御出現の日である。
 この大御本尊は、末法の御本仏であらせられる日蓮大聖人が大慈悲をおこされ、全世界の一切衆生に賜(たま)わった御本尊であるがゆえに、一閻浮提総与の大御本尊と申しあげ、大聖人様の出世の御本懐として、万人から仰がれる大御本尊であらせられる。われわれが登山して、大御本尊を拝することは、そのまま日蓮大聖人様にお目通りすることであり、偉大なる功徳を享受(きょうじゅ)できることは言うまでもないのである。(中略)
 かかる絶対の大御本尊にお目にかかる登山会であれば、学会の登山会こそ、行事の中の最大の行事として、他の一切の行事に優先して行なわれているのである(『大白蓮華』S38.10巻頭言/『慧妙』H20.1.1)


<大聖人の御当体=末法弘通の法体=罪障消滅のため参詣すべき対象>
1●戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(『御義口伝』全集760頁)

2●三大秘法其の体如何、答て云く予が己心の大事之に如かず汝が志無二なれば少し之を云わん寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり(中略)戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋(ふみ)給うべき戒壇なり(『三大秘法禀承事』全集1022頁)

3●我が身法華経の行者ならば霊山の教主・釈迦・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化の大士・迹化の大菩薩・梵・釈・竜神・十羅刹女も定めて此の砌におはしますらん、水あれば魚すむ林あれば鳥来る蓬莱山には玉多く摩黎山には栴檀生ず麗水の山には金あり、今此の所も此くの如し仏菩薩の住み給う功徳聚の砌なり、多くの月日を送り読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし、然るを毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか、弥はげむべし・はげむべし。(弘安3年10月8日『四条金吾殿御返事』全集1194頁)

4●其の上此の処は人倫を離れたる山中なり、東西南北を去りて里もなし、かかる・いと心細き幽窟なれども教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所・喉は誕生の処・口中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり(中略)彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり、参詣遥かに中絶せり急急に来臨を企つべし、是にて待ち入つて候べし、哀哀申しつくしがたき御志かな・御志かな。(弘安4年9月11日『南条殿御返事』全集1578頁)
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この書は、南条時光殿が大聖人のもとに御供養の品々を送られた御返事として賜った御書です。この御書で大聖人は、御供養のお志はたいへん尊いけれども、真の罪障消滅と即身成仏は登山参詣によって得られるから、速やかに登山参詣を期しなさいと、南条時光殿に対し、登山が遠のいたことへのご注意を促されたのです。(『大白法』H19.8.1)
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 「毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか」(3●)と大聖人が登山を強く勧められているのは、「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(4●)の理による。法とは「寿量品の事の三大秘法」(1●)であり「其の体」(2●)は「寿量品に建立する所の本尊」(2●)即「法華経の行者の一身の当体」(1●)である。
 すなわち大聖人即本尊であるが故に、その場所に参詣することによって無始以来の罪障が消滅する大功徳があるのである。

日蓮大聖人御在世における登山は、御本仏であられる大聖人のもとへ参詣し、直々に大聖人に御給仕申し上げ、御指南を頂戴するところに、その本義があったわけですが、今日の私達は大聖人にお目にかかることはできません。ゆえに、大聖人の御当体たる本門戒壇の大御本尊と、大聖人の後継者たる御法主上人猊下に対する、熱烈な渇仰恋慕(かつごうれんぼ)の心をもって、富士大石寺に参詣する―これが、御本仏日蓮大聖人のもとに参詣する意義にあたるのであり、ここに登山の本義があるのであります。(『慧妙』H20.1.1)



【御供養の精神と学会の慢心】
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当時の本山を救ったのは、信心厚き創価学会である。(旧sf:2712)
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本山の経済的窮乏は救ったかも知れないが、学会がいようがいまいが、本山は清浄であったし、将来も清浄です。また、御供養によって寺院を外護することは信徒の当然の務めであり、それによって、信徒の謗法が許される訳ではありません。

●今後は清浄(しょうじょう)なるこのお山をけがすことなく世道人心(せどうじんしん)に益(えき)したい(第65世日淳上人『大日蓮』昭和25年12月号)

◆私のいうことを忘れずにいてほしいのは、信心を基調にして、折伏することと、お寺を大事にすることと、御本山へ尽くすことは当たり前のことなんだからね。それが自慢のようになっては、もう、信者としては資格がない(『戸田城聖全集』第4巻237頁)
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過去の御供養の額の大きかったことを持ち出して、宗門を「恩知らず」のごとく罵る学会は、御供養の精神がまったく分かっていません。今の学会が「信者としては資格がない」ことは明白。

●戸田先生は「御供養は信者の義務である。信者は御供養することが、仏様に御供養することがもっとも大切なのである。それを僧侶が何に使うかということは必要ない、もし悪いことに使えば僧侶が罰をうけるのである。信者はご供養することに功徳があるのだ」ということを大きな声でいわれました。(第66世日達上人『大日蓮』昭和48年10月号/『慧妙』H15.2.1)


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>総本山復興の大恩人である戸田会長を、昭和27年6月28日、日蓮正宗宗会は大講頭の罷免、登山禁止の処分に処することを要求する。

>この総本山復興の大恩人である戸田会長を、昭和27年6月28日、日蓮正宗宗会は大講頭の罷免、登山禁止の処分に処することを要求する。(『地涌』第36号)
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創価学会の第1回月例登山会が開始されたのが昭和27年10月(聖教新聞社・昭和51年刊『創価学会年表』)であったのだから、その直前に処分の要求をしたことになります。「総本山復興の大恩人」を処分したこと自体が、当時の宗門が経済的に困窮してはいなかったことを物語ります。本当に学会の登山会によって、本山の窮地が救われると思っていたのなら、普通は、こんな処分はしないでしょう。だが、もし、経済的に困窮していたにも拘わらず処分したのであれば、まさに正法護持の精神から筋を通したのでしょう。目先の経済的恩恵を度外視してまで筋を通した宗門が、自身の経済的窮乏を救うためだけに観光地化の話を進めたとは考えられません。日淳上人の「清浄なるこのお山をけがすことなく」とのお言葉にもあるように、むしろ、折伏を進めるための手段として、未入信者に広く開放して善縁を結ばせ下種の契機にされようとしたと拝するべきでしょう。


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この処分の原因とされた、当時「不祥事件」と呼ばれた事件は、かつて神本仏迹論を唱えて日恭上人を悩ませ、創価教育学会弾圧の下地を作った小笠原慈聞を、立宗700年の際に問責したということで、本来、仏法上においては賞賛されるべき事件であった。 それなのに戸田会長に対しては、日蓮正宗宗会議員はこぞって重大な処罰を要求したのである。(『地涌』第36号)
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僧侶の賞罰はすべて、師匠である御法主上人の権限です。それを無視して勝手に僧侶を糾弾し、さらには暴力事件まで起こしたのすから、処分されても当然でしょう。52年路線のときも学会は、反学会の僧侶を吊るし上げ土下座を強要したことがありました。さらには今回(平成2年11月16日以降)も、集団で寺院に押しかけ暴力事件を起こしています。まさに僧侶を軽んずる暴力的体質は未だに続いているのです。それはともかく、上記事件については、戸田会長自身、日昇上人に対して深く反省懺悔したのですから、今更、とやかく言うのは、戸田会長の意に背く師敵対の行為であるといえましょう。

◇学会青年部が本山僧侶とトラブルを起こしたために日昇上人から訓諭を賜ったのであるが、それに対しては
◆或者は僧を軽侮する風潮すら萌せるを感ぜられることは慨嘆を禁じ得ないのである」とのお言葉を拝しましたことは、とくに宗徒として、もっとも厳戒せねばならなぬ点でありながら、ご心痛をいただいたことについて、各人、深く己の謗法の有無を省みねばならぬところであります。(中略)また、御開山上人の御遺誡文を拝するにつけても、このたびの御訓諭のままに、僧俗一致の誠を尽くすべきことをお誓い申し上げる次第であります。(『聖教新聞』S26.9.20/『戸田城聖全集』第3巻447頁)




*本山観光地化計画

http://www.houonsha.co.jp/jiyu/01/036.html
(『地涌』第36号 1991年2月5日)

宗門は困窮のあまり総本山の観光地化計画を進めた
それを阻み登山会を始めたのは戸田創価学会会長だった


 昭和25年当時の総本山は、経済的に大変疲弊していた。その総本山が疲弊した原因は、昭和20年12月29日に行われた農地改革である。総本山所有の農地のほとんどすべてが小作農民に廉価で開放されたのであった。
 ために塔中の住職などは、山林を開墾して畑とし、イモ、キビ、トウモロコシなどを植えて飢えをしのぐありさまであった。
 そこで宗門は、総本山大石寺の復興と生活手段確保のために、大石寺を観光地化しようと計画した。宗門は、戦中に生き残るために時流に乗って神道を受け入れ、謗法を犯したのと同様に、今度もまた、生き残るために時流に乗って大石寺を観光地にしようとしたのだ。
 昭和25年11月23日、総本山客殿において「富士北部観光懇談会」が開かれた。
 総本山側の出席者は、堀米宗務総監、高野参議会長、細井庶務部長、早瀬内事部長、落合財務長、佐藤第1布教区幹事、塔中代表渡辺慈海、大村壽道、そしてこの観光地化の動きの中心人物であった秋田慈舟などであった。その他3名の本山総代も臨席した。
 地元からは、富士宮市長、上野村長をはじめ、富士宮の観光協会のお歴々が集まった。そのほか、富士宮の新聞記者たちも出席した。
 堀米総監はこの懇談会の冒頭において、次のように話されている。
 「近来観光に付いて社会では色々と施設や計画が進められているが当本山として、今迄そうゆう事には無関心の如くに見られていた。今後は清浄なるこのお山をけがすことなく世道人心に尽したい」(『大日蓮』昭和25年12月号所収)
 また地元を代表して富士宮市の小室市長は計画の進行を喜び次のように述べた。
 「当山は正法護持と云ふ事で今日まで伝統を維持して来た事は敬意を表する。然し総本山も時代に即応すべきであると思ふが今度積極的に観光に活動しはじめた事は有難い。山門、五重塔、三十五日堂(御経蔵)等国宝的な建築があるので是非人心教化のためにも開放して頂きたい」(同所収)
 その後、いよいよ懇談会が持たれたが、富士宮の新聞記者たちは観光地化について提言をした。その提言は、『大日蓮』(同)に詳しく紹介されている。
 「一、建物その物が国宝的に準ずる
 一、要所々々には立札を立て説明を付けてもらいたい
 一、観光道路を大々的に改修する、とくに黒門までの道路を早急に改修し大石寺は総門からと考へるべきだ
 一、三門から入つて塔中手前までの間を庭園化する必要がある
 一、桜は全国的と云はれ自然のまま保存されたい
 一、三門附近で観光客案内所をおく必要がある
 一、五重の塔があることは知られていない。自動車の車窓より見える様に研究されたい。遠くから見るところに価値があると思われる
 一、観光客に対しての宿泊の設備を考へられたい
 一、山門から本堂に至る参道は恐らく日本一を誇り得ると思ふ、この点十分に保護し古色をこわさぬ様にお願ひしたい」
 これ以外にも、春の桜、秋の紅葉の時期に、青年を対象としてスクエア・ダンスを行ってはどうだろうか、などといった話も出たことが同誌に記されている。
 この総本山大石寺の観光地化計画を戸田第2代会長が聞き、驚くとともに悲しみ、登山会を計画したのであった。これが現在まで続く登山会の始まりであった。
 万が一にも総本山が観光地化されていれば、京都あたりの邪宗の寺の様相と変わらぬことになるところだった。考えるのもおぞましいことである。
 第66世日達上人は昭和48年の8月30日、総本山・大講堂で行われた教師講習会の開講式において次のように述べられている。
 「ついに戸田先生はそれならば登山会をつくろうというので、登山会を毎月1回、当時1回でしたが、登山会をすることになって、初めて本山は活気づいてきたのでございます」(『大日蓮』昭和48年10月号所収)
 創価学会を率いる戸田城聖会長(なお、このときは会長就任前)によって、総本山大石寺の観光地化は防がれたわけだ。この総本山復興の大恩人である戸田会長を、昭和27年6月28日、日蓮正宗宗会は大講頭の罷免、登山禁止の処分に処することを要求する。
 この処分の原因とされた、当時「不祥事件」と呼ばれた事件は、かつて神本仏迹論を唱えて日恭上人を悩ませ、創価教育学会弾圧の下地を作った小笠原慈聞を、立宗700年の際に問責したということで、本来、仏法上においては賞賛されるべき事件であった。
 それなのに戸田会長に対しては、日蓮正宗宗会議員はこぞって重大な処罰を要求したのである。
 その宗会の処分にあたって、総本山大石寺の観光地化計画の中心人物であった秋田慈舟が、宗会議員として戸田処分に対する1票を投じていることは何とも皮肉である。日蓮正宗においては、仏法に照らしての是非ではなく、出家の権威をおびやかした者が裁かれるのである。
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