学会が建設を予定している墓苑「九州メモリアルパーク」をめぐり、土地の権利者が、悪質な地上げの被害を受けているという。
被害者の1人・大庭礼三氏(地元・天瀬町で旅館経営)は「霊園の話が持ち上がってから、私のところへ得体の知れないブローカーやら暴力団員が毎日のようにやってきました。」と証言。公明党が与党になると、今度は自民党議員までが圧力をかけてきたという。(『週刊新潮』H14.6.13)
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大分県日田市天瀬町・・・・林業のほかには主だった産業もないこの地に、巨大な墓苑がオープンしたのは昨年(※H17)7月20日のことである。敷地30万坪といわれる「創価学会九州池田記念墓地公園」だ。「創価学会はここを開発するのに10年以上の時間を費やしたといわれています。(『週刊新潮』H18.5.18/<深夜太郎の池田教レポート>WS)
―「右翼からの街宣攻撃を抑えてほしい」17年前、公明党幹部からそう頼まれたフィクサーが明かす「ルノワール絵画取引事件」の裏側―
(ノンフィクション作家・溝口敦『フライデー』H22.12.10)
(略)池田氏が創価学会に君臨し続けるために、これまで多くの物的、人的資源が投じられてきた。今回、政財界のフィクサーとして知られる朝堂院大覚(ちょうどういんだいかく)氏が初めて明かす「ルノワール絵画疑惑・街宣抑(おさ)え」も、池田氏の地位の護持がタダではなかったことの顕著な一例だろう。
事件当時は「松浦良右(りょうすけ)」と名乗っていた朝堂院氏が、こう語り出した。
●'93年3月初め、公明党の東京都議会議員団長の藤井富雄(現在86)から「ご相談したいことがある」と電話があった。会食の場である麹町の料事「藍亭(らんてい)」に行くと、藤井の他、元東京都副知事で、その前年に公明党から参院比例区に出て初当選した続訓弘(つづきくにひろ=現在80、元総務庁長官)が控えていた。2人はわしに頼んだ。
「今、右翼の街宣に手を焼いている。"税金ドロボー創価学会は解散せよ"とか、"国賊・池田大作は日本から出て行け"と街宣車を連ねてがなり立てる。"ルノワールの絵画取引をめぐる疑惑で池田先生に5億円が渡っている"とか"女を囲っている"と、まるきりデタラメを言い散らし、実に迷惑だ。特に『大行社(たいこうしゃ)』と稲川会系の『優政会』が目に余る。総裁(朝堂院氏を指す)の手で彼らの街宣活動を抑えてもらえないだろうか」
彼らはほとほと困り抜いていたからこそ、わしに抑えを頼んだのだろう。藤井は、池田の意向なしで動ける人間じゃない。つまり、池田自身が困っているのだと、わしは踏んだ。当時、警視庁がルノワール疑惑で池田の事情聴取に踏み切るといった情報が流れ、池田は心底怯(おび)えていたのかもしれない(創価学会広報室は「指示を出した事実はない」と否定)(朝堂院大覚)
【街宣活動を止める見返り】
若干、説明が必要だろう。朝堂院氏の言う「ルノワール疑惑」とは、'89(平成元)年3月28日、帝国ホテル「桂の間」で売買されたルノワールの油彩『浴後の女』、『読書する女』の取引にからむ使途不明金疑惑である。
絵の買い手は三菱商事で、当初は2点をスイス在住のフランス人2人から36億円で買ったと申告していたが、'90年秋、東京国税局調査第1部が税務調査に入り、以下のことが判明した。
@2人のフランス人は実在しない
A三菱商事は実際は創価学会から代理購入を頼まれ、東京・青山の画商「アート・フランス」から21億2千5百万円で購入
B翌'90年9月、創価学会の持ち物である東京富士美術館(東京部八王子市、名誉館長・原田稔 創価学会会長)に41億円で売却。その結果、「桂の間」での取引価格に差額14億7千5百万円が生じ、一体誰が懐に入れたのかという疑惑が浮上した。
国税庁調査第1部は特別調査班を投入し、カネの流れを徹底的に洗った結果、「桂の間」での取引に立ち合った人物を特定した。三菱商事デベロッパー事業部の部長代理、創価学会副会長・八尋ョ雄(やひろよりお)、東京富士美術館副館長・高倉達夫、売り主の画廊「アート・フランス」社長・石原優、取引を仲介した陶磁器店「立花」役員・立花玲子、干代田区の投資顧問会社社長・金子暁、豊島区の経営コンサルタント会社相談役・宮田宗信、新宿区の建設会社元役員・森一也の各氏、計8人であった(肩書等はすべて当時)。
三菱商事はこの時、三菱銀行が振り出した額面1億円の預金小切手36枚(36億円)を仲介役の1人である金子暁に手渡した。絵の買い手探しは、まず、石原に発している。石原が立花玲子に「絵の買い手がいないか」と声を掛け、彼女が森に頼み、森が金子につなぎ、金子が宮田に、学会員である宮田が最終的に創価学会という買い手を紹介した構図である。
金子暁は小切手36枚のうち、7枚を抜き、残り29枚を立花に渡した。全36億円の配分は絵の売り手である石原が25億円、立花が2億3千万円、金子が2億3千5百万円、宮田が2億3千5百万円、森が1億円であることはハッキリしたが、立花が受け取った29枚のうち3枚、3億円の行方が摑(つか)めなかった。東京国税局査察部は'93年4月に立花らを東京地検特捜部に告発し、同特捜部は5月27日、立花を法人税法違反容疑で逮捕した。
つまり'90〜'93年にかけて、創価学会の周りで、ルノワール絵画の取引にまつわる疑惑がくすぶり続けていたと言える。
'91年7月には警視庁も乗り出し、八尋ョ雄 副会長を事情聴取。'92年9月には「ルノワールの絵画取引は創価学会の裏ガネ作りを目的としたもの。行方不明の3億円は八尋副会長に渡り、池田氏のノーべル平和賞取りの工作資金だった」旨の内容を語る立花玲子の告白テープの存在が、メディアに取り上げられた。
同じ頃、「創価学会名誉会長池田大作殿」宛ての立花玲子の手による「念書」も写真付きで報じられた。〈絵画取り引きについての真相一切を口外しないことを約束致します〉〈和解金として平成4年9月10日に一部として2億円、残り8億円は10日以内に支払われることとの約束致しました〉などと奇妙な記述ではあるが、とにかく行方不明の3億円は根深く池田氏絡みという噂は消えなかった。
当然、大行社や優政会など右翼陣営は池田氏の糾弾に踏み切った。当時の事情をよく知る大行社の元関係者が言う。
「街宣車を出したのはうちだけじゃないけど、20〜30台を連ね、靖國神社から学会村の信濃町周辺、都庁、渋谷と回していた。当時、うちには口のうまい隊員が2人いたから、彼らをその年('93年)6月の都議選に立候補させ、がんがん池田叩きをやらせる手はずになっていた」
さて、朝堂院氏の話に戻す。藤井、続の両氏から協力を求められた朝堂院氏は「話は一応お受けする。改めてお返事する」と答えて料亭を辞した。大行社の岸悦郎総帥(故人)とは気心が知れた仲だし、優政会の西山登会長とは金融面で便宜を図る関係にあったから、街宣を抑えるのに、ある程度、目算がついていた。
2〜3日後、朝堂院氏は「ちょいと来てくれんか」と岸、西山の両氏に声を掛け、赤坂の「山王飯店」で会食した。
「まず『街宣をやめてくれんか』とわしが頼むと、『総裁に言われたんじゃお任せするしかない』と岸さんが応じ、西山さんも任せると言ってくれた。後は世間話となり、2人は、池田叩きの1点で行こうとしていること、都議選に隊員を立たせ、池田のカネや女の問題でキャンペーンを張ろうとしていることなどが分かった。それでわしが『都議選に立つのも止めてほしい』と頼むと、2人はその申し出をも受け入れてくれた」(朝堂院氏)
当時、朝堂院氏は東京・神田錦町に「法曹政治連盟」の事務所を構え、日中はそこに詰めていることが多かった。彼は2階の応接室に藤井、続両氏を呼び、
「大行社も優政会も街宣は中止、都議選は立たず、となった。彼らにこれを納得させ、約束を守らせるのに5億円が必要だ。用意してくれ」
と伝えた。これに藤井氏は「分かりました。その通り処理します」と答えたという。藤井氏にはこの時すでに、資金的な裏付けがあったと考えるべきだろう。
今日では時効が成立し、犯罪にはなりようがない5億円の要求だが、それを自ら私に明らかにした辺り、朝堂院氏の覚悟も窺(うかが)われよう。この時、朝堂院氏は、支払い方法に注文をつけた。
「しかし、5億円をわしに払う理由を税務署に聞かれたら、藤井さんも困るだろう。わしは慶長大判2枚を持っている。豊臣秀吉が石田三成に与えたという伝承があり、江戸初期の蒔絵の箱に納められている。美術的にも価値のあるものだ。それを富士美術館がわしから5億円で買ったという形で支払いしてくれるか」
朝堂院氏は慶長大判を取り出して藤井氏に渡し、藤井氏は「確かにお預かりした」と持ち帰った。
【そして「デエジン発言」へ】
1〜2週間後、朝堂院氏は藤井氏に電話し、カネはいつ来るのかと催促した。藤井氏は「実は富士美術館に頼んだのだが、あそこはルノワール事件が崇(たた)って、今は1円のカネも動かせない。それで仕方なくカネを出してくれそうなある人のところに預けている」と答えた。「ある人」が誰なのか、朝堂院氏が厳しく問い詰めていくると、藤井氏は「実は『川崎定徳(ていとく)』の佐藤茂社長のところだ」と打ち明けた。
旧川崎財閥の財産管理会社「川崎定徳」の佐藤茂氏は、東京佐川急便事件や金丸信元自民党副総裁の脱税事件において、国会でもその名前が取り上げられた政商である。朝堂院氏は、藤井氏を怒った。
「わしの大判をたらい回しにしやがって。佐藤はわしが美術を教えたような男で、わしとはトラブルを抱えている。すぐ取り返して、わしのところに大判を持ってこい。5億円は現金で寄こせ」
これによって藤井、続の両氏は、再び「藍亭」に朝堂院氏を招待し、頭を深々と下げて、こう新たに提案した。
「現在、お台場にフジテレビの社屋を建てています。工費が6百億円。ここで5億円作っていただく。それでどうでしょう」
朝堂院氏はこの話を呑んだ。「お台場は元都有地だから、藤井も続もお台場の開発絡みでは、その立場から許認可などの無理が利くのだろう」と推察したのだ。フジテレビの新本社となるFCGビルの建設は、'93年から着工している。
朝堂院氏は5億円集金のため、女性事務員をお台場の工事事務所に派遣したが、この作業が煩雑だった。さまざまな商社など取引先宛てに何枚も伝票を書かされ、しかも1回につき5百万〜1千万円ぐらいの入金にしかならず、5億円に達するなどほど遠かったのだという。
「それでも1年ばかりかけて1億円ちょっとの集金はしましたか。だが、面倒でたまらない。それで藤井に『なんとかしろ』と電話したら、『公明の代表に就任したから、表立って動けなくなった』という。続も担当を外れたといい、約束のカネをうやむやにされかかってきた」
当時の情況を記せば、'93年6月の都議選では、右翼団体が朝堂院氏との約束どおり街宣活動と出馬を控え、公明党は25人が当選し、都議会第2党となった。続く7月の衆院選で公明党は6議席増やして51名が当選。池田大作氏は逮捕を恐れるどころか、逆風を一挙に順風に変えた。
同年8月、細川護煕(もりひろ)内閣が発足し、公明党からは神崎武法郵政相、坂口力労働相、石田幸四郎総務庁長官、広中和歌子環境庁長官と4人が大臣に登用された。また民間から法務相となった三ケ月章(あきら)氏は、就任早々、自身の教え子の創価大学教授に頼まれて、学会に関する訴訟の鑑定書を書いた過去を報じられた。彼を含めれば実に5人もの大臣誕生である。
組閣が発表される前日の'93年8月8日、池田氏は創価学会の本部幹部会で、公明党が大臣ポストを獲得することを臭わせた。有名な「デエジン発言」である。「すごい時代に入りました。ねー、そのうちデエジンも何人か出るでしょう、ねー、ね、もうじきです。明日あたり出るから。あのー、あの、みんな、みんな皆さん方の部下だから、そのつもりで。んもー、日本一、世界一の創価学会ですよ」
池田氏の得意絶頂が如実に分かる発言だろう。逮捕の恐怖を味わってからホンの半年で、大臣5人を擁する公明党の創立者として君臨。池田氏は右翼を抑え切って強運を引き当てたわけだ。'94年12月、公明党は公明新党と公明に分党し、藤井富雄氏は都議の身で公明代表に上った。
【「街宣車は追っ払ったよ」】
朝堂院氏は大行社の岸総帥に街宣を止めてくれるならと、1億5千万円ほど渡す約束をしていたが、藤井氏の支払いがはかどらず、未払いになっていた。岸氏はしびれを切らせ、直接、初対面の藤井氏に面会のうえ、支払いを督促した。藤井氏は朝堂院氏に岸氏の名刺を見せ、「こんな人が来た」と告げ口した。
朝堂院氏は、岸氏に文句をつけた。
「わしの頭越しに直接藤井に掛け合うとはどういうことだ」
岸氏が「悪いことをした」と素直に引き下がったので、朝堂院氏は逆にすまなく思い、「いいよ、藤井と直接交渉してくれ。そのほうが手っ取り早い」と自前の交渉を許した。朝堂院氏は、岸氏は藤井氏から1億円程度の金銭を引き出したのではないかと推測している。なぜなら藤井氏と岸氏は、それを機に親しく交際を始めたからだ。また優政会の西山登会長には朝堂院氏が融資していたから、相殺する形で、街宣打ち止めの償いとした。
おおよそ以上が朝堂院氏の語る「ルノワール絵画疑惑・街宣抑え」の概要である。「街宣抑え」では5億円という満額の支払いはないものの、少なくとも朝堂院氏と岸氏に2億数千万円の支払いがなされたことは確かだろう。かくして池田氏の地位は護持され、その後、大過なく中国・清華大学から名誉教授の称号を贈られた今年5月まで飛翔を続けた……。
問題は朝堂院氏の告発について、藤井氏、続氏がどう反応するかである。
藤井氏は現在、「東京都議会公明党顧問」の肩書を持つ。都議会公明党に彼を訪ね、朝堂院氏のことを質してみた。彼は86歳。自ら「大病は患っていないが、耳が遠く、物忘れがひどい。認知症だ」などと釈明し、都合が悪い質問には「分からない」と、忘れたフリを通していることも疑われた。以下は藤井氏の弁。
「朝堂院なんて男に覚えはないですよ。池田先生は私に『右翼の街宣車を止めろ』なんて1度たりとも言ったことありません。やるんだったら私が独自でやります。大行社の岸さんは知ってる。岸さんの葬式にも行ったことがあると思うんだ。要するに党本部や学会本部に変な街宣車が来て、それは追っ払ったよ。でもそれは取引して収めることじゃなく、人間対人間の関係で収めるから、向こうもこちらの言うことを聞くんだよ」
続氏も存命だが、彼もまた怯えたようにとぼけ、当初は朝堂院氏の存在すら知らないと否定したが、徐々に「事件の関係者全員がそろった場でないとお話しをしない」などと、主張を修正した。
朝堂院氏は'93年以降、1度として藤井、続両氏に未払い額の支払いを求めていないそうだが、彼らが取引の事実まで否定するのであれば、時効を承知で請求すると語った。(文中一部敬称略)
【ルノワール絵画取引事件と創価学会関連年表】
年 | 月日 | 内容 |
'83 | 11月 | ・東京富士美術館、開館 |
'89 | 3月 | ・帝国ホテル「桂の間」でルノワールの絵画2点が取引される |
7月 | ・東京都議選。公明党は3議席減らして26議席獲得 |
'90 | 6月(〜'91年5月) | ・東京国税局、創価学会を税務調査(資料調査課) |
秋から | ・東京国税局調査第1部、三菱商事の税務調査に着手 |
9月18日 | ・三菱商事、絵画2点を41億円で東京富士美術館に売却 |
暮れ | ・創価学会、宗門と全面戦争 |
'91 |
3月 | ・朝日新聞が「三菱商事、ルノワールの絵画取引で15億円で不明」と報じる。三菱商事が記者会見 |
4月 | ・読売新聞、創価学会副会長が売買の席に同席と報道 |
6月27日 | ・三菱商事社長、株主総会にて創価学会・八尋ョ雄 副会長に依頼されて絵画を買ったことを公表 |
7月 | ・警視庁、八尋副会長を事情聴取 |
11月 | ・大石寺、池田大作氏を破門 |
'92 | 7月 | ・続訓弘氏、参院選比例区に公明党から出馬し、初当選 |
'93 |
3月初め頃 | ・藤井富雄、続両氏、朝堂院大覚氏に「街宣抑え」を依頼 |
4月 | ・東京国税局、2法人と3個人を所得税法違反で東京地検に告発 |
・フジテレビの新本社となるFCGビルが港区台場で着工 |
5月27日 | ・特捜部、立花玲子氏を法人税法違反で逮捕 |
6月 | ・東京都議選。公明党は25名当選 |
7月 | ・衆院選。公明党は51名当選 |
8月 | ・池田大作氏の「デエジン発言」。細川護煕内閣が発足し、"予言"どおり、公明党からは4人が大臣に |
'94 |
4月 | ・羽田孜内閣が発足し、公明党からは6人が入閣 |
12月 | ・公明党が公明新党と公明に分党、藤井氏は公明代表に |
'96 |
6月 | ・お台場のFCGビルが完成。フジテレビは河田町から移転 |
'99 | 10月 | ・小渕恵三第2次改造内閣で、自自公が連立。公明党が与党に |
'10 |
5月 | ・池田氏、会長就任から50周年 |
11月 | ・創価学会、創立80周年を迎える |
―山口組屈指の武闘派として恐れられた大幹部が初めての自叙伝を上梓!―
(『フライデー』H22.5.28)
一宗教法人が、実は暴力団組織を利用し、国政を左右するほどまでに勢力を伸ばしていたとなれば、その法人資格は即刻、剥奪されてしかるべきだろう。創価学会が犯した大罪を、あの組長が告白した。
全国827万世帯に信者を持つと言われる巨大宗教団体・創価学会に、大スキャンダルが持ち上がった。同団体のさまざまな活動において、名誉会長の池田大作氏(82)の了解のもと、ヤクザの協力を仰いでいたとする証言が飛び出したのだ。
その当事者として名乗り出たのは、一昨年まで日本最大の極道組織・山口組の2次団体、後藤組(本部=静岡県富士富市)を率いていた後藤忠政氏(67、本名・忠正)である。後藤氏はこのほど、自身初の自叙伝『憚(はばか)りながら』(宝島社刊=5月15日発売)を上梓。同書は、山口組きっての武闘派と言われた後藤氏が半生を振り返りつつ、関与を取り沙汰された事件や政財界の人脈、裏社会から見続けた世間のありようなどをモノローグ形式で語ったもので、日本の裏面史を辿るうえでも興味深い内容となっている。(中略)
【正本堂建立、墓地造成にヤクザ利用】
創価学会が後藤氏の力を必要としたのは、'69〜'70年頃から大石寺周辺の土地を買い占め、大本堂建立や「創価学会富士桜自然墓地公園」造成といった総額1千億円に及ぶ大規模事業を進めていたためである。つまり、巨大利権にまつわるトラブル処理のため、後藤組を用心棒として使ったうえ、ダーティーワークも任せていたというわけだ。当時の創価学会の顧問弁護士で、学会と後藤氏を繋ぐパイプ役でもあった山崎正友氏(故人)が、後年に創価学会を追放されてから著した『懺悔の告発』によれば、最後まで学会に抵抗した人物に対して、後藤組組員はその自宅にブルドーザーで突っ込み、日本刀で片腕を切り落としたとある。
さらに、創価学会自体のやり方も強引そのもので、後藤氏いわく
〈学会は、大本堂を造る時からデタラメなことをしていたんだ。大本堂を造る際に、市道を勝手に(市の許可なく)潰(つぶ)したり、農地を不正に取得したりしてな〉
といったもの。こうした行状から創価学会に対する反対運動が起き、後藤氏は前述の山崎氏からこう持ちかけられたという。
〈山崎から「何とかならんか」という相談があった。そういう裏の話は当時、あの男(山崎)がすべて仕切っていて、池田ともサシで話し合えるぐらいの実力は持ってたんだ。実際、俺にも「親分のことは池田会長に伝えてあります。池田会長も『くれぐれもよろしく』と言ってました」と言ってたんだから〉
しかし、後藤組が介入してもなお、反対運動は鎮静化せず、富士宮市議会では'80年末から、関係者の証人喚問、強制調査、さらには証言拒否や偽証には禁錮や罰金刑を科せる「百条委員会」の設置に向けた動きが始まった。議会には山崎氏の証人喚問、池田氏に与えていた名誉市民称号の取り消しを求める声も噴出。窮地に陥った学会は、再び後藤組を頼った。
〈この間('80年)、山崎は学会を破門(除名)になって失脚するんだけど、山崎が作った俺とのパイプは生きていて、今度は地元の公明党の連中を通じて(百条委員会を)「何とかして欲しい」という相談があったんだ。それで(百条委員会設置)賛成派の連中に"話"をしたわけだ〉
結果は創価学会の思惑通りに。百条委員会は'81年春に設置されたものの、公明党などの猛烈な切り崩しにより、何ら機能しないまま同年末に解体されたのだ。
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当初は学会と後藤組の仲介役として山崎氏が動いていたが、同氏が失脚して以降も「地元の公明党の連中を通じて」「相談」があったという。このことから、ヤクザを利用したという罪を山崎氏個人に着せることはできない。(法蔵)
【「正本堂」以後も続く裏社会との繋がり】
だが、その直後、創価学会と後藤氏の縁はいったん切れる。後藤氏によれば、学会が後藤組を切り捨てようとしたためで、憤激した後藤氏は竹入義勝・公明党委員長、矢野絢也・公明党書記長(肩書はいずれも当時)に、2度にわたって内容証明を送付した。しかし、学会が黙殺したうえ、'83年6月に突然、富土宮署に「後藤組潰滅対策本部」が設置されたことから、後藤氏はこれを学会の差し金と見て激怒。'85年11月には後藤組系幹部らが創価学会文化会館(東京・信濃町)に発砲し、逮捕される事件が発生する。この件について、後藤氏は、
〈これには池田もビビッただろうな。そりゃそうだわ、行く先々で"パン"って音がするんだから(笑)。それで慌てて、俺んところに池田の使いが飛んできて、詫びを入れてきたんだ〉
という。これがキッカケで、創価学会と後藤氏は再び協力関係に。新たな窓口は、後藤氏のもとへ謝罪に訪れた前述の"池田の使い"で、後藤氏はこの人物を「X」と呼称し、前述の山崎氏が学会から追放された後は
〈このXが"裏"の仕事を担当していたんだ〉
と述べている。
同書は注釈として、後藤氏が「X」の正体を一切語ろうとしないとしたうえで、これまでの報道などから、この人物が池田氏の側近中の側近と言われた
〈藤井富雄・元公明党東京都議会議員であることは、もはや疑いようのない事実だ〉
と付記している。さらに、次の2つの事実も記載。1つは'91年に日蓮正宗が創価学会を破門し、対立が激化すると、日蓮正宗の総本山・大石寺で発砲事件などが発生したこと。もう1つは、'95年12月頃、藤井氏と後藤氏が映った"密会ビデオ"の存在が政界で噂され、これを材料に、与党の自民党が住専国会で新進党を切り崩したとされることだ。
後藤氏自身は前述の大石寺を巡る事件には何も触れておらず、密会ビデオについても、事実関係こそ認めているものの、
〈どんな会話をしたかなんて、そんなことは憶えちゃいない。当時はXとしょっちゅう"密会"してたもんでな(笑)〉
としか答えていない。
自分自身もしくは旧後藤組関係者を守ろうとしているのか、このような調子で事件の核心部分となると言を避けている印象が拭(ぬぐ)えないのは確かだ。だが、それを割り引いても、学会と後藤氏が緊密な関係にあったことは十分に窺い知れる。
後藤氏が今になって創価学会との関係を明かした理由は、義憤にあるという。
「創価学会は人を利用するだけ利用して、用済みとなれば簡単に切り捨ててきた」
「"池田教"が国家権力の中枢に入り込み、日本を乗っ取ろうとしている」と糾弾したうえで、
〈一番の悪はやっぱり裏で、山崎だの、Xだのに"汚れ仕事"をさせといて、表では善意に満ち溢れた教祖サマ面してる、池田大作だろうな〉
と、痛烈に批判しているのだ。(後略)
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【】は法蔵で編集
池田側近(公明幹部)と暴力団の「絆」(仮題)
―「野中広務『権力20年戦争』」より―
(ジャーナリスト・魚住昭『月刊現代』H16.2抜粋)
<暴力団との密会>
小沢一郎の側近、平野貞夫(当時新進党参院議員)が友人の権藤恒夫から「会いたい」という連絡を受けたのは1996年(平成8年)3月6日のことだった。権藤は公明党時代に国対委員長として活躍した新進党の代議士である。平野はすぐ議員会館の権藤の事務所に向かった。部屋に入ると、深刻な顔をした権藤が口を開いた。
「何とか住専予算で妥協する方法はないだろうか」
国会は破綻した住専(住宅金融専門会社)の処理策をめぐって大揺れに揺れていた。小沢が率いる新進党は6千850億円の税金投入に反対して2日前に予算委員会室の出入り口で座り込みをはじめたばかりだった。
「ようやく政府を追い込んだというのに、妥協の話はないでしょう。何があったんですか」
平野がそう言うと、権藤は怒りで顔を歪めながら小声で話しはじめた。
「野中さんが会いたいというので久しぶりに会ったんだが、とんでもない話だった。『公明』代表の藤井富雄さんが暴力団の後藤組の組長と会ったところをビデオに撮られたらしい。そのテープを自民党側に届けた者がいるということなんだが……」
藤井は創価学会名誉会長・池田大作の側近といわれる東京都議で、後に野中とともに自公連立の牽引車となる人物である。当時は新進党に合流していない旧公明党参院議員と地方議員を束ねる「公明」代表をつとめていた。
その藤井が山口組きっての武闘派として知られる後藤組(本拠・静岡県富士宮市)の組長・後藤忠政と密会している場面を隠し撮りしたビデオテープがあるというのである。
「脅かされているので妥協したいということなのですか?」
平野の問いに権藤が答えた。
「ことは暴力団がからんだ問題だ。学会も気にしているから放っておけない。このままだと公明系(の新進党議員)がもたなくなるので、何かいい知恵はないだろうか」
平野は権藤と2人で党首の小沢に報告に行った。小沢は、
「学会が困っているんだから、話し合いをしてやれよ」
と、権藤・野中ラインでの交渉開始を了承したが、
「条件が2つある。1つは予算を修正すること。もう1つは自民党にも経済構造改革の必要性を分かっている人がいるから、住専問題を機会に改革のきっかけを作ることだ」
と釘を刺した。住専予算をめぐる権藤・野中の水面下の交渉はこうしてはじまった。平野の回想。
「交渉結果は逐一、権藤さんから報告を受けました。向こう側には野中さんだけでなく(参院自民党幹事長の)村上正邦さんや亀井静香さんもいて、問題を表に出したくなければ住専で妥協しろと言ってきた。でも、小沢党首は予算案から(6千850億円の)数字を削れと言って譲らない。間に入った権藤さんは学会からもいろいろ言われるから困ってね。そうこうするうちクリントン大統領の来日が迫ってきた。それまでに予算案を衆院通過させなきゃいけないというので、事態はかなり切迫してきたんです」
<組長に襲撃依頼!?>
住専国会で新進党切り崩しの材料になった「密会ビデオ」。その存在が永田町の一部で密かに取りざたされるようにたったのは、これより3ヵ月前の95年12月ごろのことである。
当時、自民党の組織広報本部長として反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井が「命を狙われている」という噂が流れた。まもなくその噂を裏付けるように亀井付きのSPが増員され、亀井の車はつねに警視庁の警備車両2台にはさまれて移動する騒ぎになった。村上正邦の元側近が語る。
「騒ぎの発端は、藤井さんと後藤組長の密会ビデオでした。亀井さんが入手したそのビデオのなかで、藤井さんは反学会活動をしている亀井さんら4人の名前を挙げ『この人たちはためにならない』という意味のことを言ったというんです。受け取りようでは後藤組長に4人への襲撃を依頼したという意味にもとれる。それで亀井さんと村上、警察関係者、弁護士、私も加わって対策会議が開かれたんです」
会議にはビデオの実物は出されなかったが、登場人物2人のやりとりを筆記した書面があった。その場の話ではビデオの映像はかなり画質が悪いうえに雑音が混じっていて声が聞き取りにくかったが、専門家に鑑定してもらった結果、登場人物は藤井と後藤にほぼ間違いないと分かったという。
「でも、この会議のころは野中さんはビデオの件にはコミットしてません。逆に『野中にはバレないように気をつけろ。何をされるかわからないから』という話でした。ところがしばらくして村上が『えらいことだ。野中に嗅ぎつけられた』と騒ぎ出した。事情は詳しくわかりませんが、野中さんが亀井さんに『見たでえ』と言ったらしいんです。それからずいぶんたって村上が『野中が一仕事したみたいだな』と言ってました。『何ですか』と尋ねたら『あのビデオで信濃町(学会)をやったみたいだぞ』という返事でした」
そのころの野中は亀井とともに反学会の急先鋒だった。細川政権時代の93年秋、国会で共産党議長・宮本顕治宅の盗聴事件(70年)を取り上げ「通信を所管する現職大臣が関与していたのではないか」と郵政相の神崎武法(公明党)を追及した。さらに「公明党は選挙のたびに全国の学会施設や電話をただで使っているのではないか」と具体的な証拠を挙げながら公明党と学会の「政教一致」を突いた。
95年秋の国会で創価学会に関わる宗教法人法改正が行われたのも、もとはといえば自治相・国家公安委員長の野中が「オウム事件の捜査が宗教法人の壁に阻まれた。法改正の必要がある」と言いだしたからである。
<学会の裏社会に対する防波堤>
東海道新幹線新富士駅からタクシーに乗り換え、北へ約40分ほど走ると、富士山のすそ野に広大な墓地が見えてくる。創価学会の「富土桜自然墓地公園」(敷地面積122万平方メートル)である。
この墓苑開発をめぐって地元・富士宮市議会で賛否両論が巻き起こり、暴力団による傷害事件にまで発展したのは今から30年近く前のことだ。
学会の元顧問弁護士・山崎正友が書いた『懺悔の告発』(日新報道刊)によると、この墓苑開発は70年代に始まり、総額2百数十億円にのぼる工事を自民党市議の会社が中心となって請け負うことになった。だが、市長や自民党市議の勢力と反対勢力との政争もからんでトラブルが続発した。双方の陣営への賄賂と地元暴力団の積極的な協力で何とか完成にこぎつけたが、最後まで妨害した人物に対しては暴力団がその自宅にブルドーザーで突っ込み、日本刀で片腕を切り落とす荒療治で鎮圧したという。
この暴力団の組長が密会ビデオに登場するという後藤忠政だ。だが、後藤と学会の関係は80年代に入ってこじれはじめる。協力の報酬をめぐるトラブルが原因らしい。83年3月、後藤は名誉会長の池田と公明党委員長(当時)の竹入義勝あてに学会の対応を非難する内容証明付き郵便を送りつけた。85年11月には学会本部の文化会館に拳銃2発が撃ち込まれ、後藤組組員が警視庁に現行犯逮捕された。
藤井が後藤と接触するようになったのはその前後からだ。元学会幹部の岡本勇(仮名)が証言する。
「藤井さんが後藤組長と接触する直接のきっかけは、学会本部が右翼・暴力団の街宣車に悩まされたことでした。それを抑えるため藤井さんは元警視総監らの仲介で後藤組長に会い、彼とのパイプをつくった。それ以来、藤井さんは学会の裏の仕事を引き受けるようになり、『醜(しこ)の御盾(みたて)』、つまり学会の裏社会に対する防波堤として力をつけていったんです」
どうやらこじれかけた学会と後藤組の関係は藤井の登場でいったん修復されたらしい。私は富士宮市で後藤組の内情をよく知る男にあった。種々の制約から名前や肩書きは明らかにできないが、彼が密会ビデオ事件の真相を知る立場にいるのは間違いない。
「密会ビデオは本当に存在したのか」
と聞くと、男は言った。
「間違いなくあったよ。もしビデオが単たる噂にすぎないものだったら、あれほど藤井が泡を食うはずがないじゃないか」
後藤・藤井の関係はいつから?
「今から十数年前のことだ。墓苑の問題で藤井が(後藤に)会いに来た。素人はヤクザをただで使うから注意しなくちゃいけないんだ。約束よりたくさん持ってくれば何の問題もないのだが、ヤクザを使ったのに後は知らないというのが多いからな。そういうことがあるから爆弾が破裂したりするんだよ。誰がやったとは言わないが」
「密会ビデオ」騒ぎが起きてから2年近くたった97年10月29日午前2時すぎ、東京都新宿区にある藤井宅の南隣の家の鉄製門扉が爆破された。近くに電池やリード線、タイマーなどの部品が落ちており、時限式爆弾によるものと警視庁は断定した。
その後の調べで爆発物は魔法瓶のようなステンレス製容器に火薬を詰めたものと判明。使用された電池の形態などから、過激派による犯行の可能性は低いというのが警視庁の見方である。
ビデオが流出した95年末ごろから学会と後藤組の関係は再びこじれだしたらしい。私は男に「自民党がビデオの問題で創価学会に揺さぶりをかけたのを知っているか」と尋ねた。
「その話も聞いてるよ。ヤクザより政治家のほうが汚いね。(後の)自公連立は後藤組がきっかけをつくってやったようなもんだ。公明党は与党になってからもう4年になる。それでどれだけ得したことか」
男はビデオ問題で弱みを握られた学会側が自民党に接近し、それが後の自公連立につながったと言いたいようだった。だが、男は藤井・後藤会談でのやりとりやビデオ流出の経緯については何も語ろうとしなかった。
「密会ビデオ」を入手したとされる亀井にも同じ質問をぶつけてみた。亀井の答えはこうだった。
「私は今、藤井とは仲良くしているから、そんな話は一切答えられん。やはり日本の政治は自民党だけじゃどうにもならんということで我々は公明党と連立することを認めたわけだ。過去のことは金庫のなかに入れて……。私はいいかげんな政治家ですから」
当の藤井は、「そういう取材には応じられない」とノーコメントだった。
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@学会は墓苑建設のために暴力団を使って敵対者を排除していた。→学会自体が反社会的組織である証拠。宗教法人の資格なし。
A"学会と暴力団の関係"という衝撃的なスキャンダルを握りつぶすために、公明党議員は、新進党幹部に働きかけて自民党との政策上の取引をした。→全体の奉仕者であるべき国会議員が、一宗教団体を守るために政治上の権力を行使したことになる。→公明党は反社会的組織である創価学会の下部組織である証拠。