創価学会破折
識者の目



40年以上前に自公による保守独裁を予見した藤原弘達氏の卓越した慧眼/佐高信『サンデー毎日』H25.12.22

選挙集団と化した創価学会の敗北/元NHK記者・川崎泰資<Forum21>H21.9.9

非寛容な「隣人」たちの実像/ジャーナリスト・木俊尚<asahi.com>H21.8.2

「与党ボケ」してしまい、自民党の一派閥のような存在/東大先端科学技術研究センター教授・御厨貴『週刊朝日』H20.6.6

公明党よ、権力に味をしめたのか/慶応大教授・小林節『週刊朝日』H19.8.17

垣間見た"公明党の本質"/政治評論家・森田実<森田実の時代を斬る>H18.10.10

池田後に訪れる創価学会の危機/評論家・島田裕巳、同・富崎哲弥『中央公論』H17.2抜粋/『慧妙』H17.2.16

公明党の増長/佐高信『週刊金曜日』H16.4.23

公明党の功罪を厳しく見つめよ/桜井よしこ『週刊新潮』H15.11.20

公明政権で自由が崩壊!?/専門編集委員・牧太郎『毎日新聞ニュース速報』H15.11.18

広告利用の「グロテスクな作戦」/コラムニスト・徳岡孝夫/『週刊新潮』H15.11.6

小泉が許す学会支配/佐高信『週刊金曜日』H15.10.17

公明党とは金輪際手を結ばない、と誓約することだ/俵孝太郎『日刊ゲンダイ』H15.8.1

的はずれな「民主・自由野合」論 だったら自公保連立は何だ?/長野県知事・田中康夫『日刊ゲンダイ』H15.7.31

小泉総理は創価学会にひれ伏した/政治評論家・国正武重『文藝春秋』H15.8

選挙不敗神話の虚実/横田一『週刊金曜日』H15.6.13

宗教ハラスメント許すまじ/佐高信『サンデー毎日』H15.4.13

政党政治の自殺/平沢勝栄『諸君!』H15.2

自民党から「自公党」へ/椙山女学園大学教授・川崎泰資『フォーラム21』H15.1.1

『創価学会を斬る』/佐高信『週刊金曜日』H12.6.16

ならば「創価学会」からもっと徴税せよ/日本大学教授・北野弘久『諸君!』H12.5

創価学会支配のニッポン/本多勝一『週刊金曜日』H12.2.25

創価学会なるものの体質/石原慎太郎『国家なる幻影』'99発行

「言論問題」で宿命的な陰り/編集委員・小林暉昌『朝日新聞』H10.9.18

被告・池田大作を追いつめた5年間に及ぶ「宗門戦争」、その驚くべき実態/日蓮正宗弁護団長・小長井良浩『文藝春秋』H8.2






選挙集団と化した創価学会の敗北


―自民党を食い潰して自滅の道をたどる―
(元NHK記者・川崎泰資<Forum21>H21.9.9)

 日本の政治の失われた10年は、1999年、公明党が自民党との連携を深め、その後自公連立政権に走ったことに始まる。事実上の日米安保の改定に匹敵する「日米ガイドライン関連法」「国歌・国旗法」「通信傍受法」という名の盗聴法など、自民党が単独では押し切れない法案を、平和の党・福祉の党を標榜する公明党が主義主張を棚上げして、すべて賛成して成立させ、自民党の右傾化や暴走を支えた結果の報いである。
 総選挙の結果、民主党が308議席を獲得、自民党が119議席という歴史的惨敗で政権交代が現実のものとなった。だがそれ以上に注目すべきなのが、公明党が小選挙区で8人の議員が全て議席を失い、比例区だけの21議席に転落したことだ。これは選挙での常勝の神話が崩れ、創価学会・公明党を支えてきた「偽りの宣伝」が馬脚を表したことを意味する。事実上、選挙集団と化していた創価学会は選挙での得票を増やすことが布教そのものであるとして、政治と宗教を一体化した活動を長年続けてきた。


【学会・公明の国民への背信】
 創価学会・公明党は、この政教一致を批判されることを極端に拒否し、さらに政治だけでなく日本の官界、教育界、警察・検察など各界に学会関係者を増やし、「総体革命」と称して、政治の力と併せて強大な影響力を行使することを目論んできた。
 しかし今年は東京都での自民・公明の勢力による、石原政権支持の暴走があり、民意を無視して東京五輪の開催に賛成、新銀行東京の放埒な経営に加担、築地市場の無謀な移転への賛成など国民に背を向ける政治が、先の都議選でも批判を浴びた。この結果、議員数は変わらなかったものの前回より投票率が上がりながら得票数が減少という退潮傾向を見せたのに、メディアは公明党の勝利と報じ実態を覆い隠して持ち上げた。
 都議選の結果は、投票率が上がり小選挙区では公明党の勝ち目がないことを示していたから、衆院選での小選挙区での公明の全敗は予想されたが、全力を尽くした学会員にとっては大きな衝撃となったはずであり、選挙から宗教への回帰が始まるかもしれない。


【宗教法人と学会マネー】
 宗教法人の非課税の特典をフルに利用した創価学会の政教一致の活動は、その「金権」体質を生み、学会マネーの「金縛り」にあった政党が学会に寛容になり、マスメディアが実態を報道しない「不報」の罪が学会・公明党の暴走を許す結果につながった。
 それだけでなく、今度の衆院選では、宗教法人・幸福の科学が「幸福実現党」を創立して大量の立候補者を出し世間を驚かせた。これは池田大作の支配を容認し政教一致に寛容な政界に、幸福の科学がそれでは我々もと考えたのかもしれない。
 半世紀にわたり日本を支配した自民党の元首相が、「比例は公明」と連呼して選挙カーを走らせたり、自民党の総裁選に立った女性が自分の選挙が危ないとみるや、幸福実現党と手を結ぶに至っては党崩壊の象徴的出来事で、政権政党の矜恃(きょうじ)はない。
 選挙に惨敗のあと公明党は自民党の大敗の巻き添えを食ったと言わんばかりだが、事実はそうではない。自民党に寄生するように連立を組み、創価学会の池田大作の国会喚問を阻むことに全勢力をかけ、政教一致問題が脅かされないのなら自民党の言うことは何でも聞く。これが公明党の役割であり、結党時に明らかにした政策に背反しても自民党の主張に応じてきた。5%の得票で得た議員を利用し自公政権をつくり、2年前の参院選で国民の批判を浴びても反省せず、参院で否決されても衆院での3分の2の多数で再議決するという数の暴力を駆使する原動力になったのも公明党であった。小泉政権での市場原理主義、格差の拡大、地方の疲弊、医療・介護・年金と福祉政策の後退に手を貸したのも、福祉の党を標榜した公明党であった。憲法9条に違反する疑いの強いイラク派兵や、洋上給油などに積極的だったのも平和の党を主張する公明党だった。
 これほど国民に対する裏切りはないし、それを裏切りと考えないほど池田大作に傾倒する公明党は宗教団体としても選挙団体としても末期症状というほかない。
 自民党は、麻生首相を選挙の顔として選んだにもかかわらず、失言、暴言、無策の上に傲慢な体質丸出しに国民がソッポを向いても党内でけじめをつけることができず結局、国民の審判でやっと首相の座から去らせることができた。


【政教一致に断を】
 一方メディアは学会・公明の広告や印刷の委託等に頼っているため、学会への批判ができず、そればかりか学会・公明が嫌がることは書かない、報道しないことに徹している。大多数の国民はメディアの「不報」の結果、学会・公明の不都合なことは知らない。
 20年近くも公明党の初代委員長を務めた竹入義勝が、池田大作の不興をこうむり、罵詈雑言を浴びせられ、謹慎状態に追い込まれたほか、次の委員長、矢野絢也にも言論活動の禁止を強要し、所持している黒皮の手帖を奪い去り、裁判所の返却命令にも応じない等の言語に絶する仕打ちを行っている。だが、こうした事実は大手のマスメディアでは殆ど報道されることがなく、また公明党自身もこの事実に触れようとしていない。
 池田大作に対する議員の献金や、池田会館の選挙への利用など政教一致に関する数々の問題も伏せられたままで、それを国会で追及されても、メディアがその事実を伝えないため国民の大半は何も知らされないままである。また池田大作に関する情報は極端に管理され外に出ることは殆どないのに、政治的なことになると安倍首相との密談、中国の首脳の来訪時の会談などは密かにセットされる。これでは公明党は、公党とは言えない。
 新政権は、日本での政治の民主主義を確立するため、政教一致に対しては厳しい態度で臨み、宗教の政治入に決着をつけることが極めて重要である。(文中・一部敬称略)

川崎泰資(かわさき・やすし)元NHK記者。1934年生まれ。東京大学文学部社会学科卒。NHK政治部、ボン支局長、放送文化研究所主任研究員、甲府放送局長、会長室審議委員、大谷女子短大教授、椙山女学園大学客員教授を歴任。著書に『NHKと政治―蝕まれた公共放送』(朝日文庫)『組織ジャーナリズムの敗北―続・NHKと朝日新聞』(岩波書店)など。





非寛容な「隣人」たちの実像


(ジャーナリスト・木俊尚<asahi.com>H21.8.2)

 信徒向けに称賛した書物ではなく、「創価学会批判本」でもなく、ごく冷静な筆致で客観的に巨大教団の実態を描いた本書がこのように読まれていることを、もっと重要視しなければならない。
 著者の島田裕巳氏は01年の段階で創価学会の信徒数は1700万人強だったと推測しており、だとすれば国民の7人に1人が信者という計算になる。実際、自分の知人に創価学会員が1人もいないという人は珍しいだろう。創価学会は遠い国の謎の教団などではなく、我々の以前からの隣人なのだ。しかし隣人であるのにもかかわらず、その生活ぶりを我々はほとんど知らなかった。
 このベストセラーによってようやく我々は隣人の生活をつぶさに知ることができるようになり、この組織は以前からそう受け止められているように外部に対して非寛容であるのは事実だが、内部の信者にとっては強固な相互扶助組織として人々の生活や精神を支えてきたということを知る。中間共同体が喪失した現在の日本において、それは羨(うらや)ましくさえある。
 高度成長時代に農村から切り離されて都市に流入してきた若者によりどころを与え、それによって創価学会は急成長してきた。いま再び格差社会の中で、不安定な生活を強いられている人たちの受け皿となる可能性を創価学会は持っていると島田氏は説く。しかし中間共同体が宗教団体によって補完されるためには、非寛容の問題を避けては通れない。
 あるいは信者たちの世代交代とともに、いずれは創価学会もコミュニティーとして成熟し、オープンなネットワークを構築していくのかもしれない。しかしそのオープン化が相互扶助組織としてのパワーを減衰させることになるのか、それとも新たな中間共同体のモデルを提示していくことになるのか、我々は今後も注視していく必要があるだろう。
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21刷・9万3千部
創価学会 (新潮新書)
著者:島田 裕巳
出版社:新潮社 価格:¥714
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 「外部に対して非寛容」というのは、謗法厳戒や折伏のことだとも思えるが、謗法まみれで折伏精神を放棄した現在の学会にはあてはまらない。民主党を「仏敵」とし執拗に攻撃する姿に見られるように、自身を批判し、その行動を妨害するものを感情的に攻撃し排除撲滅しようとする独善的で排他的体質のことを指して「外部に対して非寛容」と表現したものと思われる。
 謗法路線の池田学会が未だに衰退していないとすれば、それは彼らの信仰の正しさ故ではなく、「内部の信者にとっては強固な相互扶助組織として人々の生活や精神を支えてきた」からであろう。彼のオウム真理教(アーレフ)が未だに生き残っているのも、信仰の正邪とは別次元のところで、謗法社会が救いきれない個人の不満や悩みを、ゆがんだ形ではあるが吸収し慰めている姿があるように感じる。(法蔵)





「与党ボケ」してしまい、自民党の一派閥のような存在(仮題)

―「何のためのキャスティングボートなのか」より―
(東大先端科学技術研究センター教授・御厨貴『週刊朝日』H20.6.6抜粋)

 公明党はこの秋、自民党と連立政権を組んで10年目を迎えます。しかし、長期にわたって政権にいたため「与党ボケ」してしまい、自民党の一派閥のような存在になってしまいました。
 与党はこの5ヵ月間に3回、衆院で再議決をしました。その結果、インド洋での給油活動が再開され、ガソリンは値上がりし、59兆円の道路特定財源が確保されました。
 公明党は元来、自衛隊や安全保障の問題にはきわめて慎重な党でした。支持母体の創価学会の婦人部や青年部も以前なら猛反対したはずですが、今回はあっさり許してしまいました。与党とはそういうものだ、という慣れがあったように思われてなりません。
 道路問題でも、所管する大臣が身内の冬柴鉄三氏だったために身動きがとれなかった側面はあったでしょう。ただし、その冬柴国交相自身が、自民党の道路族以上に道路の必要性を説いたのですから、お話になりません。(中略)
 公明党の立党の原点は「大衆とともに」の精神であり、「清潔・人権・平和・福祉」といった価値を重視するのが基本でした。「大衆とともに」とは、目線を低くして、貧しい人々の苦しみを共有することでした。平和・反戦イデオロギーに突き動かされて行動した純な部分もありました。
 ところが、与党になってからは、公明党議員の関心は、いかに補助金を獲得するかといった「小さな政治」に集中した感があります。信仰やイデオロギーに基づく高い理念を掲げ、「大きな政治」を語るところが公明党の魅力だったし、それがある種の「怖さ」も生み出していたのに、今はまったくない。与党暮らしをするうちに初心を忘れてしまったと言わざるを得ません。(中略)
 小泉政権では、首相の靖国神社参拝が繰り返され、インド洋での給油活動に自衛隊が派遣され、イラク戦争にも進んで協力しました、公明党はそれでも連立離脱を言いださず、ひたすらついていきました。
 イラク戦争への賛否をめぐる問題は、公明党の独立性を示す最大のチャンスでした。あのとき公明党が反対していたら、自民党内は動揺し、小泉政権が危うくなる場面もあったかもしれません。
 しかし、結局、賛成してしまったことで、平和の党だったはずの公明党は完全に自民党の補完勢力になってしまいました。
 次の安倍政権でも、公明党は教育基本法改正や防衛庁の省昇格に賛成しました。憲法改正だけでなく集団的自衛権の行使まで積極的に認めようとした安倍晋三前首相ともうまくやろうとしたわけですから、「公明党らしさ」が出るはずもありません。(中略)
 時には政権から離れ、自分たちのありようを見直すという作業は、政党にとっては必要不可欠なものです。しかし、いったん与党になったら、どんなことがあっても下野したくないという「与党シンドローム」に公明党も陥っています。

みくりや・たかし=1951年、東京都生まれ。専門は政治学。96年、『政策の総合と権力』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞受賞。07年4月からTBS「時事放談」キャスターも務める





公明党よ、権力に味をしめたのか

―「安倍ワガママ続投」を容認―
(慶応大教授・小林節『週刊朝日』H19.8.17抜粋編集)

>いまの公明党は何かがおかしい。「戦後レジームからの脱却」と称して突っ走る安倍自民党と肩を並べ、首相の続投も早々と支持した。人権と平和を掲げる党は、これからどこへ向かうのか。公明党の「好意的批判者」を自称する憲法学者の小林節・慶応大教授が直言する。
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「いまの公明党は何かがおかしい」そのとおりですが、公明党がおかしいのは今にはじまったことではありませんよ(<理念なき御都合主義>参照)。(法蔵=以下同)



【参院選敗北の原因】
>今回の敗北は、いまの公明党の路線に対する学会内部の不満が如実に表れたと見ることもできます。不満とはすなわち、自民党・安倍政権を支え続けることに対する疑問です。
 公明党が自民党と連立を組むことになったとき、創価学会の秋谷栄之助会長(当時)は、学会の機関紙・『聖教新聞』のなかで、「自民党が暴走しないように、自民党を指導しに行く」旨を表明しました。
 それを見て私は、小所帯で与党経験も少ない公明党が、巨大かつ手だれで、人材も豊富な自民党をどう指導できるのかと疑問に感じました。事実、その後の公明党は、自民党の暴走を止めるブレーキの役割を果たしてはいません
 それどころか、安倍首相が有権者の声に耳を傾けようとせず、ワガママで政権にしがみつくことを表明するや、公明党は早々とそれに乗っかり、支持を表明してしまった。
 そんな、自民党の補完政党と化した公明党利権政党のにおいを感じ、今回ばかりはF(フレンド=非創価学会)票も一部、公明党から離れたのだと思います。
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「自民党の暴走を止めるブレーキの役割を果たしてはいません」「自民党の補完政党と化した公明党に利権政党のにおい」これまた、今にはじまったことではありません(<自公連立>参照)。



【「人権」「平和」捨てて権力にしがみつく】
>いまの安倍自民党の本質は、「明治憲法への回帰」にあります。顔立ちのソフトな印象とは裏腹に、安倍首相は極めて先鋭的な全体主義と軍国主義を露骨に押し出してきています。
 全体主義とは、愛国心を法的義務として教育基本法や新憲法草案に盛り込むなどの姿勢に代表されます。右向け右で国民の良心を縛り、まるで北朝鮮のような体制をつくろうとしている。
 また、解釈改憲で集団的自衛権の行使を容認し、アメリカの求めに応じて自衛隊の海外派兵へ道を開こうとする姿勢は、アメリカの「2軍」として自衛隊が海外で活動することにつながりかねない。
 こうした安倍自民党の極端な「全体主義」と「軍国主義」を、本来ならば「人権」と「平和」を掲げる公明党が止めなければいけないのに、止めようとしない。なぜなのか。
 公明党は権力の味を覚えてしまったのではないか。また、かつて野党時代、創価学会に税務調査が入るといった話を思い出します。権力の味を覚えたのと同時に、彼らは権力の怖さも知り、権力から離れるのが怖くなった。私にはそうとしか考えられません。
 自らの身を守る意味もあり、自民党の全体主義的な部分を見えないふりをして、福祉予算をこれだけ勝ち取ったなどと「小さな政治」ばかりに目を向けている。こう言うと創価学会や公明党は怒るでしょうが、私に言わせれば「堕落」です。
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自公政権以来、公明党が権力にしがみつき、「人権」「平和」の看板を捨て去ったことは、多くの識者が指摘してきたところです。真実の姿を知っている者から見れば、"何で今頃"という思いです。



【学会の原点!?】
>創価学会の牧口常三郎・初代会長は、やはり日本が極端に全体主義と軍国主義に傾いていた明治憲法下の敗戦前に治安維持法違反などで逮捕されたものの、屈服せずに獄死しました。2代目の戸田城聖会長も一緒に投獄されたという話じゃないですか。
 さらに言えば、彼らの宗教的な原点である日蓮大聖人の『立正安国論』は、時の北条政権に対する諫言の書でした。当時、飢饉と疫病でバタバタと人が死んでいた。それこそ現行憲法が保障する健康で文化的な最低限度の生活が保障されていなかった時代に、時の政府に異を唱え、外敵の襲来を予見した。
 その結果、いまでいう死刑宣告を受け流罪になったが、日蓮は屈しなかった。時の横暴な権力に対して生命を惜しまず、人権と平和のために戦った人なのです。
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 「公明党の『好意的批判者』を自称する憲法学者」だけあって、創価学会の"歴史"には詳しくないようです。誤った情報を「好意的に」解釈しているのでしょうか。
 文章全体の趣旨から考えて小林氏は、牧口会長や戸田会長が「全体主義と軍国主義」に批判的であったかのごとく思っている節があります。もし、そうだとすれば、学会の誤った情報を鵜呑みにしてしまった結果なのかも知れません(<■牧口常三郎の戦争観>参照)。
 また、『立正安国論』上程の目的を「健康で文化的な最低限度の生活」や「人権と平和のため」とするのも、あまりにも皮相的で牽強付会の解釈だというべきでしょう(<■『立正安国論』と政治文化活動>参照)。「宗教的な原点である日蓮大聖人の『立正安国論』」などと言っていますが、学会の本質は決して宗教団体ではありませんし、ましてや本来の意味での「日蓮大聖人の『立正安国論』」を実践などしてはいません(<総体革命>参照)。



【いまこそ原点に立ち返るときだ】
>宗教家には「殉教」という言葉があります。公明党は日本の政党のなかで唯一、己が正しいと信じる主義のために「殉教」できる政党です。それが福祉予算という利権を与えられてか、自民党という強大な権力の前に、いやにおとなしいのはどうしたことか。
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 小林氏は公明党に対し「正しいと信じる主義のために『殉教』」すべきだとしています。しかし創価学会・公明党が「正しいと信じる主義」とは決して氏が思っているようなもの=「現行憲法が保障する健康で文化的な最低限度の生活が保障」「人権と平和」=などではないのです。
 小林氏は、創価学会・公明党の"政教一致"を容認する立場のようですが、その背景には、このような学会の実態や歴史に対する好意的誤解があるのかも知れません。

>キリスト教だって最初は異端派とされていたように、世界中のすべての宗教が、はじめは世間の少数派です。少数派は理不尽に対して怒っているから理論も研ぎ澄まされ、思いも強まっていく。正義の言葉は常に少数派から生まれます。
 その意味で創価学会も、少数派の時代は日蓮のように健気だった。けれども権力に近づき、社会で普通に扱われるようになると守りに入っていく。自民党と組んだことで権力を握った。大きな財布を握って失いたくなくなるのは悲しいかな、人間の本質です。
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 氏は公明党の「利権政党」化や「堕落」の原因を組織の拡大や「権力に近づき、社会で普通に扱われるようにな」ったことに求めています。しかし、日蓮正宗から破門される以前であれば、結果として権力にしがみつくようなことはなかったし、結構大きな組織であっても「利権政党」「堕落」といった批判はなかったように思います。
 創価学会・公明党は本来、宗教的側面と政治的側面を持っていました。宗教的側面とは700年以上の歴史を有する日蓮正宗の信徒団体という側面です。平成3年の破門によって宗門からのコントロールがきかなくなった学会は、宗教的側面が名実共に池田大作の私物と化し、政治的側面=池田の権力志向のための手段のようになった。その結果が、「利権政党」「堕落」だったのではないか、と私は見ています。

>いまこそ公明党が、人権と平和という立党の原点に立ち返るときではないか。
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 確かに、公明党の主張や行動を表面的に見れば「人権と平和」を党是としてきた、ともいえましょう。しかし、その実態、裏面史は、氏が思っているようなものではなかったのです。
 小林氏はまた、この原点が日蓮大聖人の『立正安国論』上程や初代・2代会長の投獄に由来すると思い込んでいるようですが、これも誤りです。
 "専門バカ"という言葉もありますが、憲法学者として創価・公明の政教一致を法的に容認する前提に、このような稚拙な歴史認識があったとすれば、日本の政治にとって大きな問題であると言わざるを得ません。





垣間見た"公明党の本質"(仮題)

―『安倍内閣への徹底批判【5】』より―
(政治評論家・森田実<森田実の時代を斬る>H18.10.10)

 国は宗教教育をしてはならない。国が行う教育は巨大宗教団体・創価学会に支配されてはならない。教育基本法改正への創価学会の関与に関する亀井久興国民新党幹事長の勇気ある質問演説。冬柴国交相は激怒し、自らが権力者であることを隠そうとしなかった。
 「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」
 「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」(憲法第20条)

 いまや「創価学会批判」はわが国の第一級のタブーとなっている。政界においても、マスコミにおいても、創価学会批判を行う者はいない。創価学会批判者はマスコミ界から粛清されてしまった。政界でも、創価学会に睨まれたらオシマイ、という空気がある。ほとんどすべてのマスコミ人が創価学会をおそれている。マスコミは創価学会に支配されているのである。
 選挙とくに小選挙区において公明党候補と戦った民主党候補者は、「2度と公明党候補者と対決する選挙はしたくない」というほど傷ついている。創価学会と戦う者は命がけなのである。創価学会はそれほど強大であり、おそるべき存在になっているのだ。
 国会議員もほとんどが創価学会をおそれている。そんななか、勇気ある政治家が現れた。国民新党の亀井久興幹事長である。
 去る10月5、6日の両日行われた衆議院予算委員会の議論は見応えがあった。とりわけ6日の最後に登場した国民新党の亀井久興幹事長の質問は注目すべきものだった。
 『東京新聞』10月7日朝刊8面の「衆院予算委主なやりとり」は次のように要約している(要約の見出しは「宗教団体の意見反映」)。

《亀井久興氏(国民新党・無所属の会)
 【教育基本法改正】
〈亀井氏〉「愛国心」の表現をめぐり、与党内で難しい調整があったとされる。支持母体の宗教団体「創価学会」の意見が公明党を通じ、反映されているのは見過ごせない
〈冬柴哲三・国交相〉そういうことは全くない。侮辱だ。撤回してほしい。時の政府や権力に迎合する教育が行われるならば阻止しなければならない。》

 私はこのときNHKテレビの国会中継を見ていた。国民新党の亀井久興幹事長の質問は、ほぼ上記の『東京新聞』の要約のとおりである(なお、驚くべきことに、他紙では、亀井久興議員の「創価学会」に関する質問は報道されていない。『東京新聞』だけが真実を伝えている。他の大新聞は「触らぬ神に祟りなし」なのかもしれない)。
 亀井久興議員の発言は正論である。教育基本法の改正が公明党=創価学会の意向で決まるということは、創価学会という巨大宗教団体が日本の教育に関与することである。憲法第20条に照らしてみると、憲法違反の疑いが生ずる。事は重大なことなのである。国民新党の亀井久興議員以外の議員が、この創価学会の公教育への関与という重大な問題を避けているとすると、大いに問題である。
 実は、亀井議員と冬柴国交相のやりとりは、きわめて異常なものだった。冬柴国交相は感情をむき出しにして大声で「侮辱だ。(質問を)撤回せよ」と亀井議員に迫った。
 亀井議員の質問に答えるため答弁席に立った冬柴国交相は、あたかも怒りを抑えるかのように公明党の主張を述べただけで、創価学会のことには触れずに答弁を終えた。ところが、閣僚席にいったん戻ったあと、再び答弁席に立って怒りを爆発させた。亀井議院に向かって「そういうことは全くない。侮辱だ。撤回せよ」と大声を張り上げたのだ。あまりの激しい怒りに予算委員会が一瞬静まりかえった
 これに対し、亀井議員は冷静に「もし事実に間違いがあるなら訂正します」と述べてその場をおさめたが、冬柴国交相の興奮は異様なものだった。あたかも、神聖な創価学会を批判する者は絶対に許さないというような態度だった。

 おそらく、公明党の議員は、創価学会を少しでも批判するものを敵とし、徹底的に反撃する構えで毎日を送っているのであろう。これに自民党議員も同調している。
 民主党も他の野党も(国民新党以外は)創価学会批判は避けている。創価学会をおそれている。亀井久興議員の勇気ある一言は、政界全体が創価学会に従属している姿を、ほんの少しだけ垣間見せたのである。
 それにしても、創価学会のことを一言言われただけで冷静さを失い、烈火のごとく怒り、大臣の座にある者が議員に質問の撤回を求めるというのは、あまりにも異常である。冬柴国交相の傲慢な態度によって、安倍政権の真の実力者が誰であるかが明らかになった。公教育が創価学会の影響下におかれるのは憲法違反である。憲法違反はやめるべきだ。





池田後に訪れる創価学会の危機(仮題)

―曲がり角に立った創価学会―
―生き残る道は政治団体化!?―

(評論家・島田裕巳、同・富崎哲弥『中央公論』0502抜粋/『慧妙』H17.2.16)

<島田>そう。池田(大作)さんにもしものことがあったら、選挙しか統合する軸がなくなるけれど、その選挙も危うい。そうすると、あの巨大組織は急速に既成仏教化していって、単なる家の宗教になっていく可能性がある。組織としては、すごく危機的な事態だと思います。
<宮崎>創価学会が危機ならば、宗門のほうはもっと危機的なのかなと思いがちですが、そうでもない。やはり伝統的な教団には懐(ふところ)の深さがあって、内部から伝統や因習を打破する勢力が出てくるものです。それに宗門は歴史に裏づけられたマニュアルを持っている。
 例えば整然たる修行の体系が制度化されているし(後略)。
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 宮崎氏らは、創価学会はもはや宗教団体の体を逸脱しており、「選挙活動」を宗教活動の軸の替わりにしていかなければ生き残れない、とまで断定しているのである。
 池田創価学会が膨大(ぼうだい)な資金力と政治権力を駆使して、マスコミ界を席巻(せっけん)しようとも、詮ずるところ、三宝破壊の謗法の果報により、危機と隣り合わせの脆弱(せいじゃく)な集団になりさがった。
 池田大作と創価学会の節目の年は、すなわち創価学会崩壊の始まりの年である、と断言するものである。





公明党の増長

(佐高信『週刊金曜日』H16.4.23)

 徳島県知事選に続いて徳島市長選も市民派が敗退した。いずれも応援に行き、選挙カーにも乗っただけに残念でならない。共に公明党が自民党にくっつき(もう融合しているとも言われるが)市民に背を向けた。与党に加わって権力の分け前を食らうと、こうも腐るものかと呆れる例が『フォーラム21』の3月1日号に出ている。「発覚した公明党議員の飲酒運転と隠蔽工作」である。筆者は同誌発行人でもある乙骨正生。
 それによれば、神奈川県愛川町の町議、梶原安弘が、昨年12月15日の忘年会の後、同じく町議で議長の田島知常を乗せて飲酒運転をし、神奈川県警の検問に引っかかって摘発された。2人とも公明党議員である。しかし、2人はそれを隠し、広がり始めた噂を否定した。ところが、『神奈川新聞』が今年の1月1日付で、「梶原愛川町議酒気帯び運転 県警が摘発」という記事を載せて隠蔽できなくなる。
 けれども、2人の往生際はきわめて悪かった。何と、1月13日の町議会全員協議会で、田島はこう発言したというのである。
 「(公明党)県本部と協議した結果、私は直接、摘発されたわけではないので、議長は降りるが議員は辞職しない。梶原議員は摘発されたので議員を辞職する」
 すべて「県本部」と相談しなければ決められないというのも公明党らしいが、しかし、協議会で田島自身が「摘発の事実が明きらかになると議員辞職せざるをえなくなり、多くの創価学会の支持者に申し訳ないので、私が梶原議員に指示して表沙汰にしないようにした」と認めたように、田島も同罪である。
 共産党の町議、井上博明が田島の辞職も要求すると、保守系会派の議員からは「2人の申し出を尊重すべきだ」との意見が出され、危うく幕が引かれそうになった。それでも保守系会派の中からも批判の声があがり、ついに2人は辞職したのだという。
 公明党のいかがわしさは、かつて、自公連立を厳しく断罪していた自民党代議士(当時)の白川勝彦の秘書の交通違反もみ消し疑惑を激しく攻撃したのに、今度は秘書ではなく議員本人の悪質な事件を隠し通そうとしたことである。
 隠しおおせると思ったのはなぜなのか。それについて乙骨は『朝日新聞』に連載された竹入義勝元公明党委員長の「政界回顧録」で、創価学会が組織ぐるみで行なった選挙違反事件を警視総監に頼み込んでもみ消してもらったと語っていることを引き、また、テレビ朝日の「朝まで生テレビ」で、元警視庁総務部長で岡山県警本部長をやった自民党代議士の平沢勝栄が「創価学会・公明党は交通違反のもみ消しどころか刑事事件のもみ消しまで依頼してくる」と発言した事実を紹介する。
 私は公明党が自民党と手を組んで以来、『潮』等の学会系雑誌には執筆しないことにしているが、彼らの思い上がりが恐ろしい。





公明党の功罪を厳しく見つめよ

(桜井よしこ『週刊新潮』H15.11.20抜粋)

 「池田大作さんが日本の天皇になるということですね」
 今回の選挙結果をみてこう語るのは、サム・ジェームソン氏である。氏は長年米紙『ロサンゼルス・タイムズ』の東京支局長を務めた知日派のベテラン記者だ。現在は読売調査研究本部の研究員でもある。(中略)

<自民81人が公明票で当選>
前回の総選挙では公明党は161人の自民党小選挙区候補を支持し、42人が公明党の支持で当選したとされた。今回は支持候補198人で公明党支持による当選者は81人と見られるわけだ。自民党の公明党依存が早いスピードで高まっていると考えなければならないだろう。(中略)

<置き去りにされた憲法20条>
 ジェームソン氏が切り込んできた。
 「なぜ、日本人は憲法20条を置き去りにするのですか。20条は信教の自由を保障し、同時に宗教団体は政治上の権力を行使してはならないと書いているではありませんか。このことを指摘する勇気は、日本人は持ちあわせていないのですか」
 的を射た批判だ。創価学会を好きな人も嫌いな人も、学会が宗教団体として人々の心を支えてきたことは認めるだろう。その意味で学会は、人間の心の救済について他の宗教団体より力を尽くしていることは評価されてよい。しかし、学会が宗教団体の矩を踰(こ)えて政治団体と一体化したかのような現状には、疑問を抱かざるを得ない。自民党が自公連立で事実上公明党化してしまわないためにも、いま、公明党の功罪を、原点に戻って、厳しく見つめよ。





公明政権で自由が崩壊!?(仮題)

―「<ここだけの話>アヘンと『脳力』」より―
(専門編集委員・牧太郎『毎日新聞ニュース速報』H15.11.18抜粋)

 アヘンを見た。上質のアヘン?をタダ同然で手に入れる姿を見た。
 アヘン……この場合、アヘンは自民党にとって公明党(票)である。
 今回の衆院選で、自民党は公明党に助けられた。与党同士だから当然、と言う人もいるだろう。
 しかし、自由民主主義の自民党、宗教民主主義の公明党。自由競争の思想と「神仏の前での平等」の思想とでは大分違う。大体「自由と平等」は微妙に食い違う価値観なのだ。
 極端なことを言えば、公明党が「創価学会の教えを日本国の宗教にする」と考えたらどうだろう。
 僕の親しい友人にも創価学会の熱心な信者がいる。教えに忠実で幸せな毎日を送っている。結構である。
 彼は「創価学会の教えが絶対」と考える。宗教とはそういうものだ。「この教えで日本国を統治すべきだ」と考えても不思議ではない。
 しかし、そうなったら、自民党の「自由」は崩壊するかもしれない。
 それなのに……自民党は公明党票で下駄(げた)を履くことを覚えた。公明党票(=下駄)+自民党票+個人票で楽に当選する。これはアヘンだ。(専門編集委員・牧太郎)[2003-11-18-13:41]
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 ここで言う「自民党の『自由』」とは、自民党が公明党に束縛されないということではない。自民党が政治理念として掲げる「自由民主主義」であり「自由競争の思想」である。
 「『創価学会の教えを日本国の宗教にする』と考えたらどうだろう」「『この教えで日本国を統治すべきだ』と考えても不思議ではない」オブラートに包んだような表現にはなっているが、敢えて、一般紙が創価学会・公明党による"宗教支配"の可能性に言及した意義は大きいのではないか。しかも、その結果「『自由』は崩壊する」というのであるから、ことは深刻である。
 筆者がこのように考える背景には、以下の<1>〜<6>のようなことが考えられる。学会が本質的に持っている独善的体質と巨大な組織力、これと自公連立、学会による自民党議員支配という新たな要因が、学会・公明党による宗教支配の可能性を一気に現実味を帯びたものにしたといえよう。
<1>かつて学会は、自身の教えを国中に広めた暁には"国立戒壇"(世界中の信徒が礼拝する施設)を建立すると主張していた。礼拝施設を国立にするということは、その宗教を国教にするということである。宗門から破門された学会は、建設すべき戒壇も、戒壇の中に安置すべき本尊も所有していない。しかしながら、池田大作自身が"天下を取る"野望は捨てていないと言われている。
<2>学会は過去に「王仏冥合」といって、仏教理念を政治の世界に反映させようと公言し、創価学会の支配のもとに政治活動を堂々と展開してきた。現在では所謂言論問題の表面化によって社会から糾弾された結果、表面上は「政教分離」をしたことになっているが、実態は相変わらず政教一致である。
<3>学会の独善主義はマスコミ関係者にとって周知の事実。とくに批判者への組織的憎悪は尋常ではなく、言論問題以降も、今なお続いている。
<4>学会による支配の対象は、政界だけではなく法曹界、官僚、教育界など、社会の各層に及び、各界の学会員は組織化され日常的に活動している。
<5>自公連立政権の樹立。
<6>自民党が学会票に依存しており、学会に頭が上がらない自民党議員が多数存在している。

"学会が政治活動しても憲法違反ではない"あるいはそうかも知れない。しかし国民全体の公僕であるべき公明党議員が学会の手先となって学会批判者の攻撃に加担した例もある。また、学会自体、組織的に反社会的な批判者攻撃をしている。このような独善的反社会的体質をもった学会が政界を牛耳ったときに起る世界がどのようなものであるのか。これは火を見るよりも明らかである。「自由」が「崩壊」してから"憲法違反"だと分かっても遅いのである。(法蔵)





広告利用の「グロテスクな作戦」(仮題)

(コラムニスト・徳岡孝夫/『週刊新潮』H15.11.6)

●(電車の)中吊り広告というのは、サラリーマンが通勤途中に、半分眠りながら見るものですよね。熟読するのではなく、必ずしも実際に雑誌を買うわけでもない人たちが、ごく短いキャッチフレーズによって、天下の形勢を窺う。吊り広告というのは本来そういう性質のものです。 ところが、最近の『第三文明』や『潮』の広告を見ていると、それとは違う。なんだかグロテスクだなと思いますよ。これまでの創価学会のこと、例えば言論出版抑圧事件などを思い出して、ああいう胡散臭い団体が、またグロテスクな作戦を始めたなと思います。程度の差こそあれ、宗教というのは他者への寛容、トレランスを持っていないといけないと思うんです。それがないために、世界ではいろいろな問題が起こっている。ああいう広告は、自分の気に食わないメディアを名指しで糾弾して、電車の中で絞首刑にしているわけで、週刊新潮は手始めかな?不愉快に思いますね。





小泉が許す学会支配

(佐高信『週刊金曜日』H15.10.17)

 2000年春、東京都大田区議会で、公明党の議員が珍妙な質問というか、要求を行なった。「『週刊新潮』『週刊文春』『文藝春秋』を全大田区の全図書館から排除してもらいたい
 とりわけ最近、公明党および創価学会の露骨な攻撃の標的にされている『週刊新潮』の同年3月30日号によれば、この3誌が“指名”されたのは、とくにこの3誌が創価学会を批判し、この区議を含む学会員を不愉快にさせたかららしい。
 今度出た天木直人(前駐レバノン特命全権大使)の『さらば外務省!』(講談社)も、学会は葬り去りたい本だろう。「私は小泉首相と売国官僚を許さない」が副題のこの本には、天木がオーストラリア公使として赴任した時、前任者のEが公金横領に関与した疑いが濃厚だと書いてある。
 しかも、このEが創価学会青年部の幹部であることは省内周知の事実であり、息子に大作と名づけるほどの池田大作信奉者であることも知られていた。一大スキャンダルに発展しかねないこの疑惑を政府や外務省は必死で隠蔽しようとした、と天木は書く。「これはなんとしてでも隠し通さなければならないと考える組織が、外務省の他にもあったとしたら。そしてその勢力が小泉政権と談合して、本件を闇に葬ったとしたら。
 奇しくも、調査委員会の指揮をとった荒木(清寛)副大臣は公明党の参院議員である。この事件の背景に、連立政権と外務省の壮大な疑惑隠しの密約があったとすれば……」
 こう指弾した天木に学会からどんな非難の矢が飛ぶか。
 選挙で選ばれることのない公明党の委員長を長く続けた竹入義勝を、先年、学会は凄まじい罵詈の対象とした。「辞めるか辞めないかは、自分で決めることではない。任免は池田会長の意思であり、勝手に辞めるのは不遜の極みだ」などと『朝日新聞』の回顧録で書いたことが、池田の逆鱗に触れたからである。かりにも学会支配下の公明党の委員長だった人に、こうまで悪罵を並べるのかと、呆れさせるほどだった。「天下の変節男」「欺瞞の天才」「銭ゲバ」などの汚いコトバが『公明新聞』や『聖教新聞』に躍ったのである。
 一切それに反論しなかった竹入の、回顧録の結びの一文はこうだった。「政治が何かの利益団体のために、利益を擁護したり代弁したりする時代は終わりつつある。1つの団体や勢力が政党を支配したり、政党が奉仕したりする関係は、国民が目覚めてきて、あらゆる面で清算される時代になっている
 竹入の回顧録が連載されたのは1999年だが、残念ながら「清算される時代」はきていない。このまま、学会支配を許すのかどうかも今度の選挙の重要な争点だろう。





新民主党が国民の支持を集める切り札がある!

(俵孝太郎『日刊ゲンダイ』H15.8.1)

 総選挙を目前にして、民主党が自由党を吸収合併する構想に野合だという批判が出ていることに対して、カンは青筋をたて、オザワは口をとがらせて反論している。
 「野合」とは、一般には筋も見境もヘチマもなくくっつくことをいうが、新潮国語辞典によると、「野」とは礼に合わないの意であって、正式の婚礼なしに夫婦になることだそうだ。いずれ合併のセレモニーをするのだから野合ではない、といいたいのか。
 もっともコイズミやカンザキ、ましてクマガイごときに野合だなどとはいわれたくない、というのはわかる。自公保連立政権は、野合といえば上品すぎるほどの、まさに乱交政権だからだ。
 民主党にしても、そもそも反自民の細川8党派連立乱交政権にいたのち、村山・橋本政権で自民党と組んださきがけを軸に、沈没必至の社民党を逃げ出した顔触れと雑軍が加わった乱交政党だ。だから基本政策でさえ一致できていない。自由党にしても、小渕内閣では自自公連立の一翼を担っていた。別々の時期に自民党と組んだことのある連中が、たまたまいまカヤの外にいるからといって自民党政権打倒が大義だといって、極端な政策の開きに目をつぶって合併しても、到底信用も期待もできない。ましてそこに党ぐるみ税金ドロボーの社民党が合流すれば、最悪になる。
 朝日新聞の世論調査で、合併歓迎36%、期待せず52%になったのも当然だ。ただ、合併新党が支持を集める切り札が1つある。それは反自民もさることながら、細川内閣以降10年7代の政権乱交劇の主役である公明党とは金輪際手を結ばない、と誓約することだ。それができれば、100のマニフェストやらを並べ立てるよりも、はるかに多くの国民が支持するだろう。





的はずれな「民主・自由野合」論 だったら自公保連立は何だ?

(長野県知事・田中康夫『日刊ゲンダイ』H15.7.31)

 民主党と自由党の合併を「野合」だと批判する自公保政権の皆さんは、自身の左胸に手を当ててみたら如何でしょう。公共事業に象徴される「政官業」の利権分配トライアングルを保持せんが為に、あなた方は連立「野合」内閣を結成したのではありませんか?
 加えて、イラク特措法にも大賛成した公明党は、その敬虔な支持者たるオバサマ軍団に対し、反戦平和を希求していた筈の結党の精神との整合性を一体、どう説明するのかなぁ?
 他方、「私に聞かれても判る訳がない」と胸を張る宰相の下、イラクには自衛隊でも派遣しておけばいい、と自らは安全地帯に身を置いて画策する外務省の役人は、明らかに身分差別主義者。外交機密費で飲み食いしてきた「害・無能省」な集団の正体見たり、です。
 思えば、財務省の役人に遠隔操縦されているのが、「約束を守れなかったのは大した問題ではない」と居直った小泉純一郎内閣なのです。そう捉えれば、「世論に従って政治を行うと間違う」と述べた真意も、妙に納得出来るというものです。
 何故か、霞が関の官僚から総スカンを食らいもしない。彼の唱える構造改革が納税者の目線には立っていない何よりの証拠です。自民党をぶっ壊す、と言いながら未だに、そのリング内で純ちゃん劇場なる興行を打ってる宰相は、ガチンコからは程遠い官僚集団との出来レースなのです。
 小沢一郎氏と菅直人氏は大同団結せよ、と昨年末から述べていた僕は、今回の、取り分け、小沢氏の気概と決断に深く感銘を受けました。真の構造改革を行うと同時に、なし崩し的な米国追従主義とは異なる、フランスや中国を始めとする各国と共に国連中心主義の社会を目指す。小選挙区制に於ける争点は、初めて明確になったのです。
 成る程、民主党にも自由党にも、見解を異にする議員も居ます。が、だからこそ、今回の合併が、その先の政界再編を齎(もたら)すのです。
 米国追従の松下政経塾出身者は民主党を離れて、小泉ワンワンと一緒に吉備団子を貰いに出掛けるかも知れません。逆に、渡辺喜美氏に代表される自民党の良識有る若手は、小沢&菅の下へと参集するかも知れません。
 案ずるより産むが易し。医師会にも製薬会社にもいい顔をする厚生族の小泉氏と、薬害エイズ問題で官僚の不作為を明らかにした菅氏。更には、憲法九条の精神は本来、世界に敷衍(ふえん)すべき実効性を有する精神、と語る小沢氏。その何(いず)れを選択すべきか、答えは既に明らかです。





「言論問題」で宿命的な陰り

―竹入義勝「回顧録」を担当して―
(編集委員・小林暉昌『朝日新聞』H10.9.18)

 政治の動きを見ていると、表と裏がこんなに違うものかとよく驚かされる。竹入義勝・元公明党委員長の回顧録「秘話・55年体制のはざまで」の一連の証言も、政治のダイナミズムや複雑さを感じさせるものだった。
 竹入氏の代表的な実績とされる日中国交正常化の橋渡しでは、当時の田中角栄首相が党内情勢を見ながら逡巡(しゅんじゅん)している様子や、中国側は竹入氏が特使でもないのに共同声明原案の伝達を要請したことなど、通説とは異なる歴史のひだを見る思いがした。
 驚かされたのは、自民党とのかかわりが極めて深かったことだ。二階堂進氏の自民党総裁選擁立劇では、一連の動きが終わった後、竹入氏の立ち会いの下、田中元首相と二階堂氏の手打ち式までやり、「次は二階堂」で一致したという話などはその一例だ。
 また、創価学会の公明党支配が徹底していたことも「これほどとは」という感じを受けた人が多いのではないか。20年にわたって委員長を務めた当事者が党と学会の関係を発言した意味は大きい。
 この問題での竹入氏の発言は慎重だった。それでも「公明党と創価学会の関係は、環状線ではなく、一方的に発射される放射線の関係」という表現に思いが込められている。池田大作氏(現名誉会長)との確執は想像以上のものだったことがうかがえた。
 言論出版妨害問題を機に「政教分離」が宣言されたが、極めて不徹底、そのときの池田会長の「公明党はすでに立派な大人。明確に分離していく原則をさらに貫いていきたい」という発言通りやるべきだった――が言いたいことの核心なのだろう。
 インタビューの中で特に印象的だったのは、竹入氏が田中元首相らとの親密さを語るとき、誇らしさとともに苦々しさがないまぜになっていたことだ。
 竹入氏は「言論問題」で元首相に仲介を依頼。大きな借りをつくった。2人の関係は、表では政治腐敗や公害、福祉政策で自民党を追及しながら、裏では「創価学会を守る」ため自民党の補完勢力の役割も果たさなければならなかった同党の宿命的な「二重構造」の出発点となったのだからだろう。
 「言論問題」が明るみに出た時、竹入氏は「事実無根」の記者会見をした。このことについて竹入氏は「放っておいたほうが良いと進言したが、学会側が工作に動き出し、やむを得ず田中氏に頼んだ。あの記者会見も学会幹部からの強い要請でせざるを得なかった」と周辺に語っている。痛恨事だったに違いない。
 竹入氏が問いかけているのは、公党として国民政党を目指す以上、創価学会の党であってはならない、ということだろう。第三極論やキャスチングボート論も、権力との対決を回避する自己防衛的なものであってはならないと訴えている。
 新進党の解体後にできた「新党平和」と「公明」両党は、近く合体して旧公明党グループで再びまとまろうとしている。それに先立ち「政党とは何か」の原点からの議論が必要だが、その論議が活発に行われているという話は、残念ながら聞こえてこない。





小泉総理は創価学会にひれ伏した

―「アンチ学会」の急先鋒だったはずの総理の変節―
(政治評論家・国正武重『文藝春秋』H15.8抜粋)

<魅入られた小泉首相>
 昨年秋の衆参統一補欠選挙を終えた11月2日午後、スーツに鮮やかな緑のネクタイをしめた小泉首相は、東京千代田区で開かれた公明党大会に初めて来賓として出席した。
 演壇に立った小泉首相は、9月に環境・開発サミット出席のため訪れた南アフリカで、SGI(創価学会インタナショナル)の施設を視察したことを持ち出し「強く印象に残った見事な写真があった。暗い空に、こうこうと月が輝き、緑の葉があった。この写真は池田SGI会長(大作創価学会名誉会長)が撮影されたそうです」と語ると、会場から拍手が起った。小泉首相は「支持率が高くても低くてもグラグラしちゃいかんなあ。空の果ての月のように、孤独でも耐えなきゃいかん」と会場を笑わせたうえで、帰国後に池田氏の写真集「澄心天籟(ちょうしんてんらい)」を手にしたと精一杯のリップサービス。SGIをSGOと呼び間違える一幕もあったが、一宗教法人のトップを首相が公式の場でここまで持ち上げるのは異例中の異例といっていい。
 「われわれに理解があると思えなかった首相も、創価学会の純粋な思いを理解された。すばらしい演説だ」と、冬柴鐵三公明党幹事長も感激をあらわにした。
 それもそのはず。小泉首相はかつて、名うての創価学会嫌いで通っていたのだ。衆議院の中選挙区時代、川崎、横須賀中心の選挙区を地盤とした小泉首相は、最大のライバルである市川雄一公明党元書記長と激しく議席を競っていた。そのため、自自公連立の森喜朗政権下でさえも、「無定見、無節操、無原則政権だ」と批判し、小泉政権スタート後でさえ、その姿勢を変えなかった。「自公保連立は大事にいたしますけれども、民主党が協力してくれるのだったら、今までの枠組みにとらわれずに、できるだけ多くの政党の協力を得たい」(01年5月14日衆議院予算委員会)と「鳩山由紀夫カード」をちらつかせ、靖国問題、集団的自衛権問題などの憲法問題でも距離を置いていた。しかし、選挙が繰り返されるたびに、小泉首相は公明党の集票力に魅入られていく
 小泉政権発足直後、01年7月に参議院選挙が行われた。このとき自民党の公認候衛は、都道府県の選挙区で、44勝5敗。27県の定員1人区で当選した25人のうち19人が公明党の推薦を受けていた。
 さらに、02年10月の衆参統一補欠選挙。公明党は7選挙区すべてで独自候補を出さず、自民党公認、あるいは推薦候補を推した。結果は、自民党の5勝2敗―勝率7割という驚異的な成績を挙げた。政治無関心時代の低投票率のなかで、組織票の強さを浮き彫りにさせるできごとだった。小泉首相は同28日、外遊先のメキシコで、「ちょっと勝ちすぎじゃないの。予想以上にいいね」とコメント。アンチ創価学会のスタンスが崩れはじめた兆しだった。
 翌月21日の夜、明治44年に旧竹田宮邸として建てられたレンガ作りの洋館、東京高輪プリンスホテル貴賓館の鳳凰の間で、小泉首相、森喜朗前首相、青木幹雄自民党参議院幹事長の3人がひっそりと会食をした。実はこのとき、秋谷栄之助創価学会会長、池田名誉会長の信頼のあつい八尋頼雄副会長が極秘に接触し、今後の提携強化などのすり合わせをしたと見られている。
 それでは、学会ににじり寄る小泉首相を、池田大作創価学会名誉会長はどういう評価をしているのか。01年5月から9月の短い期間、池田名誉会長は連続して朝日、読売、毎日、産経など各紙のインタビュー等に応じている。そこで表明した小泉首相への評価は醒めていた。
 「小泉内閣の高い支持率は、ほかにこれという政治家がいないからだ」(読売新聞)。「改革の実践はこれからだ。改革が挫折すれば人気は下落し、国民は痛烈に批判するだろう」(同)。「公約してきたことを実行するものと信じたいが、実行しないときは崩壊だ」(産経新聞)。強烈な牽制は、池田名誉会長の絶妙な距離感によるもの。小泉首相の公明党大会における池田名誉会長絶賛は、公明党・創価学会グループからの縁切りを恐れ敏感に反応した結果と見てもいいだろう。
 こうした小泉首相と創価学会の蜜月を裏付ける証言もある。
 「小泉首相と秋谷栄之助創価学会会長との間には直結パイプができている。首相は飯島秘書官等を通じて、秋谷会長の携帯もしくは直通電話番号を把握しているのです」(公明党議員)というのである。
 これまで自民党と公明・創価学会には3つのルートがあるとされてきた。1つは、99年10月に小渕恵三第2次改造内閣とともにスタートした自自公連立政権下の旧経世会(旧竹下派)ルート。つまり、竹下登元首相、小渕恵三首相と池田大作名誉会長、秋谷栄之助会長というラインだ。
 そこへ、自自公連立政権工作の当事者として小渕内閣の官房長官である野中広務と、冬柴鐵三公明党幹事長のラインが出てきた。
 3つ目は、野中の薫陶をうけた古賀誠前自民党幹事長と、藤井富雄公明党都議・公明党常任顧問に草川昭三公明党参議院議員会長というライン
 これらのルートは、現在でも生きてはいるが、小泉首相と秋谷会長のホットラインが機能し始めたいま、存在感の低下は免れない。

<変質した公明党の基本理念>
 ここで創価学会と自民党中枢との関係をふりかえれば公明党の結党以前に遡るが、自公連立に急な舵をきったのは、96年のことだった。
 自民党は、前年のオウム真理教事件に端を発した宗教法人への厳しい世論を背景に、池田名誉会長の証人喚問を要求するなど厳しく対立した。「敵の味方は敵。自民党の創価学会バッシングは当然のことだ。しかし、あのバッシングは相当効いた」(公明党元三役経験者)。やはり池田会長(当時)の国会証人喚問請求までに発展した69年の言論出版妨害事件以来の危機だった。
 99年7月、公明党は小渕政権下で連立与党に参画する。以来満4年、公明党のホームページを見ると、「公明党が『生活者の視点』で積み重ねてきた数々の実績」として、中小企業対策、児童手当てと育児休業制度の拡大、保育所待機ゼロ作戦などを挙げて誇っている。
 しかし一方で、平和、人権、福祉を不動の価値としてきた創価学会・公明党が変質してきたことも事実だ。
 たとえば、「清潔で金にきれいな党」の面影はどこに行ったのか。企業献金規制は公明党が長く掲げてきた政策にもかかわらず、今国会では企業・団体献金の公開基準引き上げを容認した。
 何より、公明党・創価学会グループは「永世平和」を希求してきたはずだった。ところが、01年9月11日にアメリカで同時多発テロが発生すると、テロ対策特別措置法が浮上した。公明党は逡巡したが、冬柴鐵三幹事長が自民党の山崎幹事長らとひそかに会い、時限立法で合意すると、一気に軟化して法案の骨子を固めた。冬柴氏は「緊急性にかんがみてトップダウンでやるしかなかった」と釈明したが、党内からは不満が吹き出した。
 党ばかりでなく、池田名誉会長も今年1月26日に、テロ、大量破壊兵器問題について提案を発表。「軍事力を全否定することは、政治の場でのオプション、選択肢としては必ずしも現実的とはいえない」と語ったのは、一連の与党連立によるブレを指摘したものととれる。
 イラク戦争後、イラク支援特別措置法案が焦点となると、公明党はますます前のめりになっていく。武器・弾薬の陸上輸送について神崎代表は6月11日、「武器・弾薬を除外すると、おそらく一つひとつの貨物について武器・弾薬が入っていないのかどうかを確認するという煩瑣な作業になる」と、これを容認する考えを示した。
 実は、前日の公明党政調全体会議では「まだ大量破壌兵器が見つかっていない。イラク戦争の正当性が疑われているのに、自衛隊を派遺する必要があるのか」と批判が出たばかりだが、神崎代表は「大人の判断」で先行したようだ。
 自民党側もしてやったり。「イラク特措法案では公明党は自民党より先に了承してくれた。大助かりですよ」(自民党幹部)というのも、この法案に盛り込まれた大量破壊兵器の処理に冬柴氏がいちはやく承諾を与えていたにもかかわらず、自民党内の反対でこの項目が削除されたという、あべこべの状況まで起きているからだ。
 急激な変化に支持者はついてこられるのだろうか。公明党三役経験者はこう答える。「違和感を覚える学会員がいても、変化を進化と捉える上層部が、『お前たちの言うことは時代遅れだ』と説得すれば、結果的にそれに従うのです。教団では、上層部の指導に従わないと自分の人生を『全否定』することになる。創価学会員は自分で自分を説得するのです」。「下駄の雪」として踏みつけられるのは、今度は一人一人の学会員なのかもしれない。
 創価学会幹部は、公明党が連立政権に参加した当時、こういったものだ。
 「創価学会と公明党、つまり宗教団体と政党は組織の性格が違う。学会には理想論を含めて理念がある。しかし、党は現実を認識して可能な政策を選択しなければならない。『連立はギリギリの選択です』と秋谷栄之助会長が言った。会員の選挙意欲も変わるかもしれないが、やむを得ない。選択肢は自民党との連立しかなかった。公明党はツケを負わされることになろうが、逆に現実的だったと評価されるかもしれない。いずれにしてもカードは切ったのだ





レリジョン(宗教)ハラスメント許すまじ

(佐高信『サンデー毎日』H15.4.13)

 3月25日夕、腰痛の治療に銀座に行くため、神田橋からタクシーに乗った。行く先を告げ、目をつむると、運転手が切り抜きを示して、読んでみて下さい、という。末尾に「公明党の出番である」とあって、公明党の宣伝だった。
 私がテリー伊藤と共著で『お笑い創価学会-信じる者は救われない』(光文社知恵の森文庫)を出している人間であることは知らないようだったが、眠ろうとしたのを邪魔されたこともあってカッとなり、
 「公明党が与党になってから、ロクなことないじゃないか。イラクヘの戦争だって徹底的に反対して政権離脱しないのはおかしい」と、まくしたてた。それに対して、
 「いや、いまによくなりますよ」
などと意味不明のことを言う彼に呆れて、私はすぐに途中下車し、千円札を叩きつけて降りた。
 それにしても、こんなことは許されるのだろうか。これではセクハラならぬ宗教(レリジョン)ハラスメント、すなわちレリハラではないか。武土の情けで運転手の氏名は書かない。チェッカーのマークのついたタクシーだったとだけ言っておこう。タクシー近代化センターへ連絡しようかとも思ったが、センターが公明党やそのバックの創価学会にどこまでキチンと注意できるか。

<「軍事力の全否定は現実的でない」との発言こそ平和の全否定だ>
 「ブッシュの戦争」にあくまでも抵抗したフランスの国営テレビは、2000年6月8日、「特派員報告」というドキュメンタリー番組で「創価学会―21世紀のセクト」を放送した。まず、キャスターがこう紹介する。
 「(創価学会は)世界中に1200万人の信者を持つ日本の組織で、世界でもっとも危険で金持ちのセクトの1つとされています。莫大な不動産、パーキング、大学、発行部数600万部の日本で第3位の日刊新聞等の金融資産、そのすべてが創価学会に属し、フランスにも進出しており、影響力は増え続けています。なかでも、日本人が一番心配しているのはその政治世界での力です。創価学会の政党は有権者の10%に相当し、現在与党にあります」
 『フォーラム21』という雑誌の3月1日号から、この紹介は引いているが、同番組で公明党国際局長の遠藤乙彦に、あなたにとって池田大作とはと尋ねたら、こんな答えが返ってきたという。
 「グルとは思っていません。精神的な指導者です。私に関しては、人生に関するどんなことでも相談して教えを受けられる先生です。今日、日本にはたくさん問題があります。世界中どこでもそうですが。21世紀には、池田大作の思想、仏教に基づいた教えに耳を傾ければ、もっとよく問題を解決できるようになるでしょう」
 その池田センセイは1月末に発表した「国際問題」に関する提言でこう述べたという。
 「軍事力を全否定するということは、一個の人間の『心情倫理』としてならまだしも、政治の場でのオプションとしては、必ずしも現実的とはいえない」
 それこそ、平和を全否定するこんな発言を池田がしていることを、あの運転手は知っているのだろうか。
 私の郷里の山形県に無教会派のクリスチャン、鈴木弼美(すけよし)がつくった基督教独立学園という高校がある。戦争中に反戦思想の持主として治安維持法違反で逮捕された鈴木は、戦後、軍事費分の納税を拒否する訴訟を起こした。すでに亡くなったが、鈴木と池田では宗教者の姿勢に天と地ほどの隔たりがある。
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※「池田大作の思想、仏教に基づいた教えに耳を傾ければ、もっとよく問題を解決できるようになる」これは、ほとんどの公明党議員の心情であろう。つまり、いかに形式的組織的に「政教分離」が行われていようと、公明党の政策・行動は、実質的に池田大作の「指導」を根本として行われているということである。これは、精神的側面であるが、物理的側面においては、公明党は学会とは独立した下部組織を持っていない。個々の議員も自前の後援組織を持っていない。すべて学会組織に負んぶに抱っこである。だからこそ、金も知名度も社会的地位もない者が、突然国会議員になれるのだが、出馬自体も本人の自発的意志ではなく、学会組織からの指示によるのである。
 このように学会と公明党は実質的に一体であることは周知の事実である。問題は、このような関係が憲法違反かどうかである。が、既に公明党議員が学会の手先よろしく、学会に敵対する組織を攻撃する手伝いをしている事例は枚挙に暇がない。これは、「国民の代表」「市民の代表」としての議員の立場を逸脱する行為であることは明白である。本来、公僕たる議員は、すべての人々に対して公平であるべき存在であるが、とくに、宗教に対しては政教分離の精神から考えて、他の領域以上に公平性に厳格でなければならないはずである。その意味では、学会・公明党の実態は、他の政党が特定の集団の利益代表となっている以上に問題であり、危険極まりない存在であることは間違いなかろう。(法蔵)





被告・池田大作を追いつめた5年間に及ぶ「宗門戦争」、その驚くべき実態

(日蓮正宗弁護団長 小長井良浩『文藝春秋』H8.2抜粋)

 私は、平成3年に宗教法人「日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)」の顧問弁護士に就任し、その後創価学会破門、池田大作信徒除名を経て5年間にわたり宗門弁護団長を務めて参りました。当初は弁護士は私1人でしたが、現在では弁護団の総数は全国で65人を数え、アメリカやブラジルにも事件があります。
 よく知られているように、平成2年末に池田大作創価学会名誉会長が日蓮正宗の信徒代表である総講頭の資格を喪失したことが端緒となって、創価学会による執拗な宗門攻撃が開始されました。
 以来、宗門への学会員らによる組織的な訴訟攻勢に止まらず、法廷外での様々な嫌がもせや脅迫、暴行、あるいは監視、尾行、法要妨害など、創価学会が行ってきた有形無形に及ぶ反社会的行為の実態を私は弁護士としてつぶさに見てきました。
 もちろん、宗門との全面的な争いが勃発すろはるか以前より、創価学会の反社会性については私も一弁護士として十分に認識していたつもりです。藤原弘達氏や内藤国夫氏ヘの出版妨害事件、宮本顕治共産党委員長宅盗聴事件、月刊ペン事件、1億7千万円もの現金が入った古金庫投棄事件・・・。このように、池田大作というカリスマに指導された創価学会が引さ起こした社会問題は枚挙にいとまがありません。
 だが、実際にこの巨大な組織と対峙してみると、これは反社会的という生易しい言葉ではとても言い尽くせない。この団体は破門された現在、オウム真理教で知られたカルトの集団であり、民主主義国家においては到底許すことができない存在であると認識を新たにした次第です。ましてや、宗教法人法の保護のもとに建設された宗教施設を使って教団全体で公然と選挙運動を行い、政治に大きな影響力を及ぼし続けているのですから、現在でも社会に与えているマイナスは計り知れないものがあります。これまで法主(ほっす)に信伏随従(しんぷくずいじゅう)していた何百万人の信徒が、池田大作というカリスマの意一つで、一斉に宗門に牙を剥き始め、違法行為すら厭わなくなるのです。「池田先生は絶対」という妄信のもとに一致団結して行動する団体が創価学会なのです。
 先の国会で宗教法人法改正案が紆余曲折の末に成立しましたが、創価学会を支持母体とする新進党はこの改正を宗教弾圧だと称して徹底して反対の立場をとってきました。ですが、私の経験に照らしてみれば、創価学会による宗門攻撃こそがあからさまな宗教弾圧なのです。一連の宗門攻撃の中には現職の公明の地方議員が関与しているものが多数あります。詳細は後述しますが、これこそ政治権力が宗教に介入する「政教一致」の典型例ではないでしょうか。
 また、創価学会が宗教法人法改正に反対の立場であるならば、その実質的指導者である池田大作氏はどうして堂々と国会に出て意見を表明しないのでしょうか。
 池田氏の参考人招致を巡って、新進党などは宗教法人に関する特別委員会の佐々木満委員長を委員長室に閉じ込め、審議を再開させようとしませんでした。このとき、国会議員やその秘書たち約300人が、池田大作という男一人を守るためだけに、国会内の狭い廊下に5時間以上に亘って陣取ったというのです。
 これは何という異常さでしょうか。卑しくも選挙で選ばれた国民の代表たる国会議員が、カルト集団の゛教祖゛の意のままに動いてしまうという懸念を図らずも露呈してしまったのです。思えば、細川連立政権の組閣前夜、池田氏は学会員を前に次のようなスピーチを行いました。「すごい時代に入りました、ね! そのうちデージンも何人か出るでしょう。ね、もうじきです。まァ、明日あたりですから。みんな、みなさん方の部下だから、そのつもりで。日本一の創価学会ですよ。明日の新聞楽しみに」(下線筆者、以下同)この発言こそ、学会の政教一致体質を如実に現しています。それにもかかわらず、この人物をあくまで守ろうとする新進党議員はやはり池田氏の部下なのでしょうか。
 これは日本政治の歴史の中でも前代未聞の愚行として後世の歴史家が振り返ることになると私は思います。
 そうならないとすれば、つまり、21世紀になっても創価学会がいまのままの勢力を維持しているとしたら、日本社会に健全な未来はやってこない。戦後日本が50年かけて築き上げてきた民主主義の精神を我々の子孫に伝えていくには、いまここで立ち上がらなければ間に合わなくなってしまうかもしれない。
 創価学会は、日蓮正宗という伝統宗教の信徒団体であって新興宗教ではない、と言って教勢を広げてきました。それが、平成3年には宗門からも破門され、学会の違法行為を重ねる常習性は、歯止めがなくなりつつあります。この社会的に重大な問題に中心的に携わってきた者として、私は敢えてここにこの5年間を子細に語ることにしました。日蓮正宗の信徒を指導(マインド、コントロ−ル)し、思いのままに操る池田大作氏の虚像をここに明らかにする次第です。


<宗門との約束>
 そもそも、創価学会という団体は真の意味で宗教団体だといえるのでしょうか。いわんや、宗教法人として優遇税制その他の国家からの保護を受けるに値する団体なのでしょうか。私は日蓮正宗弁護団長という立場でこの5年間活動してきたわけですが、その答は否と言わざるをえません。時として目的のためには手段を選ばない、謀略団体と言うベきでしょう。
 もっとも、世間的には創価学会=日蓮正宗というイメージがいまだに強く残っていることも拭いがたい事実でしょう。宗門が学会を破門したという程度の知識はあっても、それが具体的にどういう意味を持つことなのかといえば、ほとんどの国民は知らないのではないでしょうか。同じ信仰を持つ団体同士が内輪もめをしている、あるいは派閥争いをしているというふうに考えている方もなかにはあるかと思います。または、いまの争いは一時的なものであって、いずれ将来は仲直りするのだろうと言う人もいます。
 そういった誤解を解くために、改めて宗門と学会の関係をおさらいさせて頂きたいと思います。

 日蓮正宗では、古来から日蓮大聖人の法体を継承したすべての歴代御法主上人を正法の正師として拝してきました。現在の法主、日顕上人は、日蓮大聖人から数えて67代目の法主になります。
 日蓮大聖人が1282年の入滅の際に、その後継として日興上人を選んで、所弘の仏法の奥義を余すところなく口決相承(くけつそうじょう)により伝授したと言われています。これを日蓮正宗では「唯授一人血脈相承(ゆいじゅいちにんけちみゃくそうじょう)」と称していますが、つまり日顕上人に至るまでの700年余りの間、一器の水を一器にそそぐように67代にわたって日蓮大聖人の教えが後継の法主を中心に受け継がれてきたわけです。
 日蓮正宗の総本山である大石寺(たいせきじ)も含め、全国にある日蓮正宗に属する600以上の末寺はそのほとんどが各都道府県知事が認証した宗教法人でもあります。それらを包括するのが日蓮正宗であり、包括宗教法人として文部大臣に認証されています。
 一方の創価学会は、昭和5年に牧口常三郎を会長とする創価教育学会として発足したのちに、日蓮正宗の信徒団体となりました。牧口会長が亡くなり、昭和20年に創価学会として再建、戸田城聖氏が2代会長に就任していますが、以後一貫して日蓮正宗を外護(げご)し、広宣流布へと挺身すべき信徒団体という立場にあったのです。
 宗教法人法第2条に、「宗教団体」とは「宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする」団体とあります。この法律が施行された翌年の昭和27年に、創価学会は東京都知事から宗教法人として認証されたわけですが、このとき、当時の戸田会長は、宗門外護と折伏(しゃくぶく)活動の便宜の上から法人格が必要として、宗門に許可を請うたのです。
 宗門側は、学会の申し出に対して厳重に、次の3つを守ることを提示し、学会側もこの遵守を約束いたしました。
 @折伏した人は信徒として各寺院に所属させること。
 A当山の教義を守ること。
 B仏、法、僧の三宝を守ること。
この3原則は当時、既に学会が発行していた聖教新聞にも大きく書かれています。「仏、法、僧の三宝」とは、「仏宝」が宗祖である日蓮大聖人をさし、「法宝」は大石寺の正本堂に安置されている大御本尊です。これは日蓮大聖人直筆のもので、「南無妙法蓮華経」の7文字を中心に菩薩や仏の名が書き連ねられています。「僧宝」は、開祖である日興上人を随一として、唯授一人血脈相承の歴代上人全てにわたります。
 また、宗教法人「創価学会」の規則第3条にも団体の目的をこう定めてあります。
 「この法人は、日蓮大聖人御建立の本門戒壇の大御本尊を本尊とし、日蓮正宗の教義に基づき、弘教および儀式行事を行ない、会員の信心の深化、確立をはかり、もってこれを基調とする世界平和の実現と人類文化の向上に貢献することを目的とし、これに必要な公益事業、出版事業および教育文化活動等を行なうものとする」
 この規則は平成3年11月に宗門が学会を破門したのちも創価学会の規則として現存しているものです。
 秋谷栄之助創価学会会長は昨年末、国会での参考人招致で、「大聖人の仏法の正義を日蓮正宗の教義というならば、それを正しく堅持し伝えているのは、むしろ創価学会である。したがって、日蓮正宗の教義ということについて、変更する必要はないと考えている」と答弁しましたが、宗教法人認証の際の3原則に照らしてみれば、これが強弁に過ぎないことはすぐにわかるでしょう。

 現在、日本には18万を超える宗教法人が設立されていますが、単なる信徒団体が宗教法人として認められているケースは創価学会以外には1つとしてありません。おそらく、世界中を見てもこれは極めて異例なケースでしょう。それが何故、宗教法人として認証を受けることができたかといえば、先に述べたような日蓮正宗宗門に確約した3原則の経緯があり、これを東京都が認証したからです。
 そして、いまや創価学会は宗門から破門された信徒団体なのですから、広めるベき教義も御本尊もあるはずがありません。それでも、宗教団体だというのであれば、いったい、創価学会はどんな教義を持ち出し何を信仰しているというのでしょうか。





創価学会支配のニッポン

(本多勝一『週刊金曜日』H12.2.25)

 去年春の東京都知事選で、本来なら落選したはずの石原慎太郎という小説家が当選したのは、石原式の小ずるくて卑劣な策戦によるものであった。
 それは「上位6人」の得票数をみれば瞭然である。石原の166万票(1000以下4捨5入、以下同)に対し、2位以下5人だけの合計でも367万票に達し、石原票の実に2倍以上にもなるのだ。
 24年前の都知事選を思い出そう。美濃部亮吉と石原との対決の末に石原は敗北した。今回も石原と他の有力候補との2人対決となれば、票は反石原または非石原が石原票を上回ったであろう。
 これを裏付ける数字として、有権者の「信任度」がある。棄権者を含めた全有権者での絶対得票率をみると、石原はわずか17・5%でしかない。前知事・青島幸男の18・4%にも及ばないのだ。石原の24年前の方が、敗北したとはいえ今回より多い29・4%だった。この24年間に、石原の極右的体質や人間的卑劣さへの批判が強まって、人気が落ちていたか。今度の大手銀行課税問題など、日本共産党がかねて提案していた案(『赤旗』2月8日の紙面参照)の剽窃ではないのか。
 それでも当選した石原の策戦とは、立候補締切ぎりぎりまで風見鶏をしていて、他候補がドングリの背くらべであることを見越し、漁夫の利を考えた結果である。他の5人のうち3人ぐらいが辞退して石原以外を応援すれば、石原は落ちていたはずだ。
 似たようなことが、こんどの大阪府知事選にも言えるかもしれない。投票率は過去最低の44・58%だから、当選したといっても太田房江の絶対得票率はわずか20%前後にすぎぬ。石原より「ややマシ」ていどなのだ。次点の鰺坂真に3位の平岡龍人を加えた票は、太田を上回っていた。
 それでも当選した太田の策戦の中で甘く見てはならぬ部分に、創価学会の票がある。自自公ファシズム政権に加わったこの政教合体宗教は、会員総動員はもちろん、非会員へもなりふりかまわぬ投票勧誘活動を展開したようだ。こういう活動は、一般に投票率が低い場合ほど相対的に効率がよくなる。
 このことは、大阪府知事選と同時に行なわれた京都市長選でも明白だった。京都での学生時代に世話になったある京都人の体験によると、全く何の関係もない人から、間接また間接の糸をたぐって別々に何本もの電話勧誘があり、不在者投票やら交通手段協力やらを強引に、しつこく申し出てきたそうだ。そして何よりも、京都も大阪も自自公に野党の民主党まで相乗りする非論理・非倫理の日本型メダカ社会選挙であった。
 かくてニッポンは、創価学会という一宗教によって自自公ファシズム政権が左右され、憲法改悪であれ戦争協力法であれ盗聴法であれ、どんどんどんどんどんどん国会を通過できる体制がととのった。
 私の知人や遠い縁者にも創価学会員がいる。多くはナイーブで「いい人」たちだ。この情況を、あなた方はどう思っていますか。





自民党から「自公党」へ

−深まる政治不信−政界もメディアも学会汚染−
(椙山女学園大学教授・川崎泰資『フォーラム21』H15.1.1)

 自民党は、もはや「自公党」と党名を変えたほうがいいのではないか。公明党が政権入りして以来、自民党は単独政権ではできなかったタカ派政策を実現させた。その上、去年の衆参両院の統一補欠選挙では、公明党・創価学会の組織力で辛うじて勝利したことで小泉首相は公明党の言いなりにならざるを得なくなったようだ。
 年末の税制改革では、公明党は児童手当の増額を条件に発泡酒や煙草の増税を認める取引を行った。公明党は来年の統一地方選挙に向けて、支持者向けに児童手当の増額は我々が勝ち取ったと宣伝し、酒税などの増税には反対したと責任を回避する狡猾さだ。
 一方、今年にも予想されるアメリカのイラク攻撃に関連して、米側から強い要請のあったイージス艦の派遣を決めた時も、事前に暗黙の了解を与えておきながら、政府が与党3党の幹事長会談で正式な決着を計ろうとすると俄に反対を表明し、責任を逃れる。
 結局、自民党は公明が「平和と福祉」の党を強調するため、政権の中での批判勢力ぶりを示し格好をつけることに協力するだけで、税制の基本方針を狂わせる要求も安易に受け入れる始末だ。この手口は公明党が自衛隊の海外派遣を認めた自衛隊法の改正案やテロ対策特別措置法に賛成したり、国歌・国旗法、盗聴法に賛成して以来、一貫している。
 これが通るのも、小泉首相が自らの政権維持のために変節し、池田創価学会名誉会長に見苦しい程のすり寄りをみせたことと無縁ではない。11月2日、公明党大会に来賓として出席した小泉首相は、南アフリカで池田創価学会名誉会長の写した写真をみて感動したと、池田氏を礼賛し、公明党に「与直し政党」として発展することを期待していると述べた。
 政教分離をはたしていない公明党・創価学会に対する批判が厳然とある中で、公明党の大会でわざわざ創価学会の最大実力者を話題に取り上げる挨拶は、極めて計画的で小泉首相が自ら政教一致の実態を容認したのも同然である。選挙での票欲しさ、政権の維持を優先させたとはいえ、余りにも無節操、見識の無さは呆れるばかりだ。
 だがこの事をメディアは、小泉首相の挨拶として事実を伝えるだけで、民主政治の根幹に関わり憲法違反の疑いのある行為を解説もせず論評もしないという情けなさだ。これが広告や聖教新聞の印刷などの金権支配に屈し、学会に頭のあがらないメディアの現実で、ジャーナリズム性を放棄する迄に至った「学会汚染」の浸透する悲劇である。
 2003年、今年の政治は4月の統一地方選挙に始まり、通常国会、9月の自民党総裁選挙と続くが、年末に民主党が菅党首で戦う姿勢を見せ野党の連携を目指す方向を明らかにした。この結果、党内から保守系の議員が離脱の動きを見せ、連動するように与党の保守党の野田党首が自民党への復党を仄めかすなど政局は流動化の気配を示し始めた。
 経済政策が行き詰まっても「政策転換」と認めず、政策強化と誤魔化し、不良債権の処理は竹中担当相に「丸投げ」、道路公団民営化委員会の審議も今井委員長が辞任し高速道路の建設慎重派が出した答申に自民党や官僚が抵抗し無視する態度を取っても首相は「これからが政治です」と言うだけ。郵政の民営化でも同じような経緯を辿った。
 小泉内閣の公約は何だったのか。「改革なくして成長なし」「反対するなら自民党を潰す」と大見得を切って得た高い内閣支持率をテコにパフォーマンスを駆使した政治。
 それに協力したのがメディアだ。1日1回はテレビカメラの前に立ち、顔を出して自分に都合のいい台詞だけ喋り、それをテレビが無条件に放映し格好がいいと人気になる。
 小泉首相が偽装報道と記者を茶化したり、政策転換を迫る与党議員に、分からないのは「節穴」と常軌を逸した言動に出てもメディアは反撃も批判もしない。政治と金の問題で責任を問われながら、改造内閣で起用した大島農水相の秘書官の口利き疑惑には頬冠り、「拉致問題の解決なくして国交正常化交渉はない」と言明しながら日朝ピョンヤン宣言に署名した責任。「丸投げ」「先送り」「詭弁」の連続の政治手法は政治不信を増大させるだけだ。テレビを利用する首相に迎合する放送とそれを垂れ流す新聞は無責任過ぎる。
 政治を正常化するにはメディアがジャーナリズム性を取り戻すことが不可欠である。





政党政治の自殺

(衆議院議員・平沢勝栄『諸君!』H15.2)

−野中広務氏よ、いっそ公明党と新会派をつくったら?−
−選挙協力のためなら政策バーターも厭わない。大作印のシャブに堕ちた自民党に明日はない−


 拉致問題について議員有志による「日朝関係と人権を考える会」が設立されましたが、この背景には公明党と共産党の論争があります。要するにどちらが拉致問題の解決を阻んだのか、どちらが北朝鮮と親密だったのかという責任のなすりつけ合いを、互いの機関紙の「公明新聞」と「赤旗」を通じて延々と行なっているのです。
 この議連ができる前、自民党のある幹部から連絡がありました。
 「新しい議連ができるが、これは公明党がつくるもので、目的は共産党攻撃だ。べつにいまの拉致議連を潰すためのものではないから黙っていてくれ」
というのです、『AERA』(11月25日号)の記事では、山崎拓幹事長が私に頼んできたとありましたが、山崎さんではない別の党幹部でした。
 しかし、この会をつくるべく動いた人物が重要だったのです。
 結論から言えば、野中広務氏だったそうです。公明党から依頼されたと思われる野中氏が水面下で動き、自民党から会長を選び、新しい会を組織したのです。
 第1回目の会合では、共産党の橋本敦元議員の秘書をしていた兵本達吉さんが講演しました。兵本さんは早くから拉致問題の調査に取り組み、その結果をもとに共産党の橋本氏が梶山国家公安委員長(当時)に質問して、国会で初めて拉致問題が認められたのです。
 そこまではよかったのですが、兵本さんが拉致問題にあまりにも一生懸命取り組んだためか、兵本さんは共産党から除名されてしまいました。もっとも共産党な、公安と接触し、就職を依頼したからだと言っていますが。「人権を考える会」は、その兵本さんに共産党を批判させることが狙いだったのでしょう。
 共産党が今日まで拉致問題解決に力を入れて取り組んできたとは、私もまったく思っていませんが、だからといって公明党が一生懸命に努力してきたともいえません。要するにどっちもどっちです。

<公明党は何もしてくれなかった>
 すでに報道で明らかになっていますが、鹿児島県の海岸で一緒に拉致された増元るみ子さんと市川修一さんは創価学会員でした。増元さんのお父さんの正一さんは2002年10月17日、お亡くなりになられ、その葬儀が鹿児島で行なわれ、私も横田めぐみさんのご両親たちと一緒に参列させていただきました。その後、増元さんの親族の方から御礼の手紙をいただきました。それによると、浜四津敏子・公明党代表(当時)が鹿児島を訪れたとき、「ぜひ助けてください」とお願いしたにもかかわらず、なしのつぶてだったそうです。手紙には「公明党という党には社民党と同じぐらい幻滅しています」と書かれていました。創価学会員だったからこそ、公明党を頼ってお願いしたのに、公明党は何もしてくれなかったそうです。
 いまになって「人権を考える会」をつくり、「望郷」という小冊子で在日朝鮮人の帰還運動で北朝鮮に渡った日本人妻問題の解決に取り組んでいる姿勢をみせていますが、アリバイづくりでしかないでしょう。
 もちろん、拉致問題の解決に取り組んでこなかったのは公明党だけではなく、自民党にも責任があったことは言うまでもありません。金丸信氏や、野中氏をはじめとして、自民党内に"北朝鮮族"の議員が少なからず存在したわけですから、拉致問題の解決と並行して、解決を妨げてきた"A級戦犯"の総括もきちんとしておくべきです。これは2度と同じ過ちを起こさないためにも必要なことです。

 自民党が公明党と連立政権を組んでから3年がたちました。すでに述べたように野中氏が公明党の依頼で新議連を立ち上げたといわれるほど、自公の一体化が進んでいます。振りかえってみると、公明党と手を結んだことが原因で、自民党の政党運営にさまざまな弊害が生じていることは否定できません。
 なぜ自民党は公明党と連立を組んだのかというと、国会で過半数の議席を得るためと、創価学会を支持母体とする公明党が持つ、600万とも700万とも言われる組織票がほしかったからです。かたや公明党からすれば、連立政権に入っていれば与党の立場から自分たちの主張を政策に反映できるメリットがあります。選挙で自民党に協力をすることで、その見返りが期待できます。つまり、両党はギブ・アンド・テイクの関係にあるのです。
 たとえば、公明党は現行の小選挙区制を変えて複数定数区の導入を主張しています。自民党内からもたびたび選挙制度改正論が涌きあがるのは、こうした両党の関係があるからです。
 しかし、本来であれば政党は主義主張を同じくする者たちの集まりであり、その主張の根幹をなすものは、憲法、安全保障、外交などに対する考え方や婆勢であるはずです。憲法をとってみても、改憲派と護憲派で1つの政党を組織することは基本的にはあるべきではありません。
 もちろん、異なった考えをもつ政党であっても、政策ごと案件ごとに協力することは実際にありますし、必要なことでしょう。
 とはいえ、連立政権を組んで歩調を合わせながら政治活動を行ない、選挙になればお互いに協力するということであれば、1つの政党になったのと何ら変わりないのではないでしょうか。実質的な部分からいえば、自民党と公明党という2つの政党でいるのと、合流して1つの党となるのと、どこが違うのか非常に曖昧なのです。このような現状は、選挙民に対する誤魔化しで政治不信を招く以外の何ものでもありません。

<自民と公明は1つに>
 次回の衆議院総選挙がいつになるかが注目されていますが、自民党の八代英太代議士が当選した東京12区に公明党の候補を立てるので、八代氏を比例区に回すという話が出ています。また、沖縄1区でも、前回の選挙で鈴木宗男氏の働きかけで泣く泣く比例区に回った下地幹郎氏が、今度は小選挙区で公明党現職と対立する予定で、調整の難航は避けられません。前回同様、自民党と公明党が候補者を一本に絞って一緒に戦うのであれば、もはや自民党と公明党は1つの政党になった方がいいのではないか。
 前回の総選挙で自民党は、300ある小選挙区のうち271候補しか立てていません。残りの29は公明党もしくは保守党の候補が出て、その候補者を応援しました。自民党の公認候補が公明党の選挙カーに乗って、「比例区は公明党をお願いします」と叫ぶような光景もあちこちで見られました。また自公の選挙協力から外れたために現職でありながら自民党の公認を得られず、無所属で出馬して当選した森田健作氏の東京4区に、自民党の総裁が公明党候補の応援に駆け付けるような場面までありました。公明党との連立に必ずしも好意的でなかった小泉総理も、今は公明党に全面的に依存する有様です。
 なぜ自民党はここまで落ちぶれてしまったのか。
 一言でいえば、ほとんどの自民党議員が公明党の応援なくして選挙には勝てないと思いこんでいるからです。
 冷静に考えれば、公明党に協力してもらわなければ当選できないような議員が多くなってきたということです。つまり、自民党の議員のレベルと質が格段に落ちてしまったのです。
 有権者はきちんとしたバランス感覚をもっています。本当にしっかりした候補者であれば、公明党の応援がなくても有権者の厳しい選別に耐え、当選できるはずです。創価学会の組織票に頼らなければ当選する自信がないということは、それだけ有権者に支持されているという自信がないからです。公明党の協力は薬物のようなもので、1度依存したら抜け出すことは難しいでしょう。
 蒲島郁夫東大教授の分析によれば、前回の総選挙で当選した自民党候補177人(小選挙区)のうち、公明党の選挙協力がなければ約4分の1が落選していた可能性があったそうです。この数字は応援をもらうことによって逃げる票をカウントしていませんので、必ずしも正しいとは思いませんが、この数字を信頼すれば、公明党のおかげで自民党は政権を維持していると言えるでしょう。
 しかし、東京の場合は公明党と関係の深かった候補の多くは落選し、公明党と対決する姿勢を打ち出した、さきの森田健作氏や石原伸晃氏や私が当選したのです。東京のみならず山口県でも同じような結果が出ているのですから、必ずしも公明党の応援がなければ当選できないということはないのです。
 そもそも選挙で当選すること自体が政治家の目的ではありません。私も公明党の選挙協力を得られるならば、非常に心強いだろうと思います。でもその結果、公明党の政治的要求に従わなければならなくなります。政治家として自分で自由に判断できなくなってしまったら、政治家でいる意味はありません。私もさまざまな団体から応援をもらいますが、自分の信念や判断を曲げてまで応援をもらおうとは思いません。

<政党政治の自殺行為>
 自民党は、公明党との選挙協力という一線を踏み越えてしまった以上、これからも連立を組みつづけるでしょうが、これは政党政治の自殺行為です。選挙協力と引き換えに自らの政策を捻じ曲げたり、考えの異なる公明党の主義・主張を通したりしているからです。
 にもかかわらず、この異常な状態に自民党議員が何の疑問も抱かず、日常茶飯事のように受け入れていること自体、自民党も末期症状だと思います。
 公明党との連立を組んで以来、さまざまな政策面でのギプ・アンド・テイクが行なわれてきました。
 例えば平成11年に、総額約7000億円をかけて地域振興券が配られました。
 地域振興券という発想は自民党の考え方からは出てくるはずのないもので、公明党から出たアイデアです。自民党の考え方は、ある一定のルールのもとに競争が行なわれ、そこで努力した者はそれなりに報われ、敗れた者には最低限のセーフティーネットをはるというものです。それに対して公明党の考え方は、努力や競争とは関係なく全員を一律に面倒みようということです。
 15歳以下の子供をもつ世帯主と65歳以上の高齢者(の一部)を対象に一律2万円分が発行された地域振興券は、公明党の考え方に沿ったものなのです。
 本来の考え方とは相容れない法案を自民党はなぜ通したのか。
 それは通信傍受法案を可決させるためでした。要するに地域振興券と通信傍受法をバーターしたのです。通信傍受法は野党からの反対が強く、政府が提出してから1年あまり店晒しになっていました。当初、公明党は共産党に次いで反発しており、創価学会の機関紙「聖教新聞」が、「盗聴法は平成の治安維持法」だとして厳しく批判していたほどです。その公明党が連立与党の話し合いの中で、賛成派に回ったのです。
 外国人参政権の問題でも、本来ならば自氏党内の圧倒的多数は反対ですが、自自公のときから引き続いて連立3党の政権合意書の中に入っています。これは公明党が強く主張しているからです。自民党内では外国人参政権について当選期別に意見を聞きましたが、一部の議員を除いてほとんどが反対しており、実現する可能性は事実上ないでしょう。
 しかし依然として3党合意の項目に入っており、ことあるごとに懸案として浮上するのは、形式上、公明党の顔を立てなければならないからです。
 政策バーターは通信傍受潅だけにとどまりません。空中給油機配備のために児童手当を拡充し、斡旋利得処罰法案の適用対象から秘書を外す骨抜き案に同調してもらうかわりに子育て支援策を通すなど、さまざまな形でバーターが行なわれているのです。2003年度の税制改正でも、公明党が配偶者特別控除の廃止に難色を示したため、見返りとして児童手当の拡充が決められました。明らかに選拳向けのバラマキ政策です。
 政党としての主義・主張、哲学を曲げてまでギブ・アンド・テイクの関係を続けていて本当にいいのでしょうか。

<公明党という「呪縛」>
 ギブ・アンド・テイクといえば聞こえはいいかもしれませんが、本当のところ自民党は公明党の「呪縛」から逃れられないでいるのです。
 テロ対策特別措置法が2001年に成立した時も、国会承認をめぐって民主党案をべースに修正協議が進められていましたが、存在感を失うことに危機感を抱いた公明党の働きかけで、最後は公明党案の事後承認で法案が通りました。また同法に基づく米軍支援のためにイージス艦の派遣が2002年の12月にやっと決定しましたが、ここまで判断が遅れたのは与党内で公明党が強硬に反対していたからです。結果的には与党間での調整がつかず、政府の判断となりましたが、それでも神崎武法代表は「公明としては反対だ」と表明していました。
 平和路線を標榜する公明党として、集団的自衛権の行使につながるおそれのあるイージス艦の派遣には応じられないというのですが、護衛艦はOKでイージス艦はダメという論理は通じません。イージス艦も、従来艦に比べて極めて高性能ですが、護衛艦でしかないのです。
 公明党は一貫してイージス艦派遣に反対しているように見えますが、小泉首相に派遣の断念を強く迫ったわけではなく、いわば"黙認"したのです。いままでの経緯から考えると、イージス艦派遣を認めるかわりに公明党が何らかの反対給付を要求してくる可能性がないとはいえません。公明党としては、イージス艦派遣を黙認したのだから、そのかわりに要求をのめ、と言えるのです。これから予算編成が始まりますから、そこで従来みられたような「バラマキ行政」的なものを言ってくるかもしれません。あるいは選挙区の候補者調整で何か言っ定くるかもしれません。
 また公明党は、首相の靖国参拝問題についても反対しています。神崎代表が小泉首相の訪中希望を記した親書をたずさえて中国を訪れた際にも、江沢民国家主席に対して「私も参拝は残念だと思う」と発言しています。連立与党の一代表であるにもかかわらず、これは中国への迎合にほかなりません。
 こうした重要な政治課題を論じるとき、公明党が連立政権に入っているために、自民党のみならず、政府の方針が妥協と譲歩を強いられるという事実があるのです。重要な法案であればあるほど、公明党が強く出れば、政府、自民党は公明党に対して配慮しなければならなくなるという構図になっています。これは国益上、重大な損失というべぎでしょう。
 自民党内においても、公明党に同調して混乱を引き起こしている政治家が存在します。その代表が野中広務氏です。テロ特措法に反対し、イージス艦の派遣にも反対しづづけ、首相の靖国参拝にもわざわざ中国に行って異論を唱えています。それどころか外国人参政権について自民党では数少ない賛成派でもあります。その野中氏は北朝鮮への米支援にはなぜか熱心でしたが、拉致問題については全く冷淡でした。ここまで公明党と同じ考え方を持っているのであれば、なにも自民党内に留まっている必要はないのではないか。いっそのこと、野中氏は公明党の議員たちと一緒になって新しいグループを結成されたほうがいいのではないか。
 それもそのはず、公明党との連立に当たって尽力したのが野中氏なのです。選挙協力まで含めた公明党との連携を実現させたのは野中氏と鈴木宗男氏でした。その結果、今日の自民党の問題が生じているのです。
 この際、基本的な問題で考え方を同じくする人たちで政界再編を行なったほうが、本来の政党政治のあり方に近づくのではないか。再編の枠組みのキーポイントは、憲法、安全保障、外交です。これらに対する姿勢が軸になるでしょう。次に軸となるのが、競争原理の社会を実現し、ドロップアウトする者に対しては政府が最低限のセーフティーネットで救う形にするのか、競争や努力とは関係なく一律平等の社会にするのか、ということでしょう。そもそも自民党の考え方は前者で、かつてのサッチャーが目指したように「努力した者はそれなりに報われる」社会を実現しようとするものです。これに対して公明党は後者です。野中氏をはじめとする一部の自民党議員ば公明党の考え方に近いので、いま述べたような枠組みで政界が再編されるべきだと思います。

<外務省内の学会組織>
 公明党=創価学会の問題を考えるにあたって、外務省を抜きに語ることはできません。私は自民党の外交部会で、外務省の問題点を4つ指摘しました。
 第1に主体性なき外交、いわゆる"土下座外交"の問題、次に外交機密費などのカネの問題があります。そして女性問題で基本的にプライベートな問題とはいえ、離婚の2回や3回は当り前という役所は、危機管理の点からいっても尋常ではない。
 最後は創価学会の問題です。外務省はつい最近まで、明らかに創価学会員とわかる者を幹部要員として採用してきました。中央省庁の中で、学会員であることが明白な人物を幹部要員、つまりキャリアとして採用してきたのは外務省と検察庁だけです。
 創価学会員として組織の利益を優先するのか、それとも中央省庁の一員としての任務を優先するのか、が重要なポイントです。国家のためではなく、自らの信仰を優先させて池田大作名誉会長のためにポストを利用することがあってはならないからです。外務省の中には創価学会員の組織"大鳳会"が存在します。この大鳳会のメンバーが「広布のお役に立ちたい」といったレポートを池田氏に送っていたことも明らかになっています。
 たとえば警察庁では創価学会員であることが判明していればキャリアとして採用することはありません。なぜならば、警視総監や警察署長が学会員であった場合、警察行政が歪められる懸念が生じますし、実際に歪められないとしても、疑いを持たれてしまうこと自体あってはならないからです。
 私が警視庁に勤めていたころ、創価学会に関係した事件の捜査をしていると、どうしても情報が洩れてしまうということを何度も経験しました。現場の捜査員のなかに創価学会員がいて、そこから漏洩していたのでしょう。この場合は政策決定や重要な判断には影響しませんが、末端の情報はすべて洩れてしまうわけです。ましてや学会員が重要な決断をするポストにいれば、判断が歪められてしまう可能性が大いにあるのです。これは検察官や裁判官でも危険性があります。
 このように私が外務省の問題点を述べたところ、鈴木宗男氏が
 「いまの創価学会の話はここだけにしておけ。外には絶対にしゃべるな」

と口止めをしてきました。マスコミに書かれると騒ぎになるから、創価学会の問題だけは公にするなと言ってきたのです。
 しかし、マスコミにも創価学会関係者が多く存在しており、報道の公正さが疑われるような事態も起きています。
 5年ほど前、「選挙区行事に寄付100件以上−公選法に抵触も」と私のことが新聞で書かれたことがあります。地元の盆踊りや各種行事に行った際、会費を持っていったのが問題として報道されたのです。
 その記事が出ると、すぐに公明党の議員が本会議で質問してきました。本会議で質問するような類のものではないので不思議に思っていろいろと調べてみました。そもそも、私の選挙区の公明党候補者も同じように会費を出していたからです。その結果この記事を書いた記者が創価学会と極めて深い関係にあることが判明しました。私の地元は学会勢力の強いところですから、公明党、創価学会を利するために書かれたことは明らかです。

<田中眞紀子の"功績">
 田中眞紀子氏が外務大臣だったとき、日本の外交は混乱し、国益上かなりの損失だったと思います。せっかく捕まえた金正男をみすみす帰してしまったり、平気で外交機密をバラしてしまったり、非常に罪深い外務大臣でした。
 就任当初は私も彼女に期待していました。いままでのように単なるお飾りでトップに座っているだけの外務大臣に比べれば、眞紀子さんが暴れることで外務省の根本から腐った体質が変わるのではないか、と思っていたからです。そもそも、田中外相になってから日本の外交がおかしくなったのではなく、異常な外交は以前からあったのです。
 眞紀子氏の功績を敢えて挙げるならば、小泉政権を誕生させ、鈴木宗男氏の問題をあぶり出し、そして卓袱台をひっくり返すような騒動を引き起こすことによって、外務省の抱えるさまざまな問題を露呈させたということでしょう。
 その意味で非常に興味深い事実があります。田中外相が就任してから、創価学会の池田大作名誉会長が1度も海外訪問をしなかったといわれていることです。池田氏はいままでに50カ国以上を訪問したほど、「外交好き」で知られています。その名誉会長がまったく海外に出かけなかったとすれば、それはなぜでしょうか。
 池田氏が海外を訪問するとき、外務省は国会議員や皇族の方々にするのと同様のVIP待遇をしています。たとえば通常であれば入管で手続きをしなければなりませんが、池田氏はノーチェックです。氏は一私人ですから、その待遇に何ら法的根拠はありませんが、外務省がそのように配慮してきたのです。
 こうした悪しき慣例が行なわれていることが、あの暴れ馬のような田中外相の知るところとなり、マスコミに暴露され、騒ぎになることを恐れたのかもしれません。その結果、池田名誉会長の外遊がなかったのではないかと私は考えています。外務省と創価学会の関係を襟を正す方向にもっていく契機になったのだとすれば、それは眞紀子氏の功績と言えるのではないでしょうか。
 池田氏に特別な配慮をしているのは外務省だけではありません。私自身、岡山県警の本部長当時に、そのような配慮をしたことがあります。池田氏が岡山入りするとき、公明党の議員がやってきて、「名誉会長が岡山に入ってから出るまで、頼むからパトカーの護衛をつけてくれ」と言うのです。本来、パトカーをつけるのは、危害を加えられる恐れがあると警察が判断したときに限られるのですが、公明党の議員からすれば、パトカーをつけられれば、よくやったと池田氏から評価されるわけです。そのとき私は部下と相談して、絶対やっておいたほうがいいですよ、と言われたのでパトカーをつけました。いまから考えると、なぜそうしたのかと言われれば、言い訳のしようもありませんが。
 中央省庁や国会だけでなく、現在大きな問題となりつつあるのが、創価学会によるメディア支配です。平成13年の5月に朝日新聞が「私の視点」というコラム欄で、池田大作名誉会長の原稿を掲載したことが話題になりました。内容は教育基本法改正に対する慎重論で、「聖教新聞」などで繰り返し主張されてきたものでしたが、一般紙が池田論文をそのまま掲載するなど、それまでほとんどなかったことです。しかも朝日新聞側から池田氏に寄稿を依頼したといいます。
 その後を追うように、読売、産経、毎日の各紙が池田氏との会見記事を掲載しました。地方紙に至っては、アメリカ創価大学の開校と海外から池田氏に名誉教授の称号が授与されたことを、見開き金部を使って報じたものもありました。どう考えても限られた紙面のなかで、大々的に記事にするだけのニュース・ヴァリューがあるとは思えません。
 この背景には、不況が続くなかでマスコミ各社の広告収入が大ダメージを受けていることがあると考えられます。大企業からの広告が減っているなかで、創価学会は池田名誉会長の著作の広告を大きく出していますから、相対的に重要性を増しているのです。また地方紙に顕著ですが、「聖教新聞」の印刷を請け負っている薪聞社が非常に多いのです。
 創価学会が活字メディアの大スポンサーになっている事実がある以上、メディアとしても創価学会に対する批判ができなくなってしまったのでしょう。言ってみれば、暗黙のうちにブレーキがかけられているような状態です。

<北朝鮮との共通点>
 また創価学会の側から積極的に言論メデイアを封殺する動きも見せています、。
 平成12年に、大田区議会で公明党区議が、区立図書館から「週刊新潮」「週刊文春」「文芸春秋」の3誌を排除するよう要求した問題は記憶に新しいでしょう。要するに創価学会を批判する雑誌を図書館に置くなという理不尽極まりない要求です。
 翌年には中央区議会で公明党区議が区立図書館に創価学会を批判した書籍が何冊もあることを理由に、図書館職員の人事異動を要求した事件もありました。ここまでくると"焚書"とさえ言っていいような事態でしょう。
 自らを批判する言論を厳しく統制しようとする点など、北朝鮮の金正日体制に似ていなくもありません。言論の自由がないところに民主主義は成立しないでしょう。また、末端の会員が苦しいなかから財務と称する寄付をして、その浄財を集めた大幹部は、海外に行き、寄付をしてその見返りに勲章や名誉博士号などを授与されているという構造も似ているかもしれません。もちろん個人的な蓄財や、軍事目的に使われていることはありませんが、北朝鮮との類似点はいくかありそうです。
 創価学会は「世界平和の実現」を大命題に掲げています。自民党やメディアを動かせるほどの組織力と財力があれば、平和に寄与することも不可能ではありません。
 北朝鮮が核兵器を保有し、なおかつ照準を我が国に合わせているという現実がある限り、世界どころか東アジブの平和と安定が危機に瀕しているのです。金正日体制が存続している限り、拉致問題の完全解決も見込めず、日朝の国交正常化も実現しないでしょう。
 そうであれば、あまり意味のない名誉称号をもらうためにさまざな国や団体に寄付するだけでなく、その財カや組織カなどを金正日体制の打倒と民主的な北朝鮮の実現に向けることはできないものでしょうか。これこそ世界平和の実現への第1歩であり、もし成功すれば池田大作名誉会長が強く望んでいるといわれるノーベル平和賞受賞も夢ではないと思われるのです。





『創価学会を斬る』

(佐高信『週刊金曜日』H12.6.16)


 前号の「論争」欄に、熊本県の農業高校で校長から「『週刊金曜日』は生徒に読ませるのには好ましくない雑誌だから絶対に寄贈は受け入れられない」というクレームがついた話が載っている。
 それを読んで、今年の3月13日に、東京都の大田区議会で公明党の区会議員がやった質問を思い出した。
 質問というより“焚書坑儒”的要望である。
 「『週刊新潮』『週刊文春』『文藝春秋』を全大田区の全図書館から排除してもらいたい
 幸か不幸か、本誌は入っていなかったが、この議員は「週刊誌は人のことを中傷している」とし、「私は不愉快だから何とかしてもらいたい」と訴えた。
 「不愉快」の感じ方は人によって違う。私は、公明党のバックの創価学会のドン、池田大作の跋扈こそ不愉快だが、それでも、彼の本を図書館から排除してもらいたい、とは思わない。
 しかし、彼らは排除を求める。それは自信のなさを表してもいるが『週刊新潮』の3月30日号によれば、1969年に刊行され、言論出版妨害事件を惹き起こした『創価学会を斬る』(日新報道)の著者、藤原弘達が昨年春に亡くなった時、夜中じゅう、
 「おめでとうございます」
 という電話が続いた
、と妻の充子さんが証言している。
 「実は厭がらせは主人が死んでからも続いたんです。出版妨害事件の時段ボール箱に3箱以上も投書が来ましたし、警察がうちの子どもに警備をつけなくてはならないほど脅迫が相次ぎました。彼らは本当に仏教を信じているんでしょうか……」
 充子さんはこうも語っているが、いまから30年以上も前に書かれた『創価学会を斬る』には、こんな予言的指摘もある。
 「創価学会・公明党が目下ねらっているものは、自民党との連立政権ではないのか」
 そして、藤原はそれをこう憂える。
 「もし自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合、公明党に手をさしのべてこれとの連立によって圧倒的多数の政権を構成するならば、そのときは、日本の保守独裁体制が明らかにファシズムへのワンステップを踏み出すときではないかと思う。
 (公明党が)自民党と連立政権を組んだとき、ちょうどナチス・ヒトラーが出た時の形と非常によく似て、自民党という政党の中にある右翼ファシズム的要素、公明党の中における宗教的ファナティックな要素、この両者の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制を安定化する機能を果たしながら、同時にこれを強力にファッショ的傾向にもっていく起爆剤的役割として働く可能性も非常に多くもっている」
 この本はいまも「生きている」と思うが、残念ながら文庫化等はされていない。





ならば「創価学会」からもっと徴税せよ

(北野弘久・日本大学教授『諸君!』0005)

−人心を惑わし政を行い、営利を貧る「実体」なき宗教法人に税制優遇措置を与えてはならぬ−

 東京都が大手銀行に対する法人事業税を外形標準課税方式に改めるという、いわゆる「石原新税」構想を打ち出してから早や2カ月。この雑誌が出るころには、条例案は都議会を通過していることだろう。
 この新税をめぐっては「銀行だけへの課税は不公平だ」との声があがったが、これは全くのおかど違いである。銀行はもともどバブル時代から税制上の優遇措置を受けているにもかかわらず、破綻危機に陥れば"金融安定化”と称して公的資金が湯水の如く注入される、という厚遇中の厚遇を受けつつも、貸出金利は徴収しながら一般預金者にはゼロに近い金利しか支払わず、巨額の業務利益を上げている。
 この状況こそが不公平なのではないか。
 むしろ今回の新税はこの不公平を正す意味で非常に公正であって、租税立法の指導原測である応能負担原則(租税は負担能力に応じて課税すべきだ、という原則)にもかなっている。  一方中央政府は政府税調で、法人全業種を対象とした外形標準課税の導入を検討してはいたものの、今回の都の動きはまさに寝耳に水の出来事だった。発表直後の大蔵・自治両省の驚きの中には、"地方が中央ど歩調を合わせずに何をやる!"といった驕りを端々に感じ取ることができた。しかも赤字経営の多い中小企業を含めて全国的に外形標準課税を行うとする中央政府の姿勢こそ不公平税制の拡大であり、日本経済をさらに悪化させることに、今もなお気づいていないこの鈍感さ!
 本年4月1日から新地方自治法が施行され、国の機関委任事務も廃止される。このことは、日本は21世紀を前にしてやっと「地方自治元年」を迎えたことを意味する。もっとも「地方自治元年」といっても、今回の改革では地方財政改革は実質的には手つかずだが、地方は憲法理念に従って、その地域の特色に応じ、中央の顔色を窺うことなく自治行政を行うべきであって、財政についても中央が文句をはさむ筋合いのものではない。
 今回、石原氏が自治省に事情説明と称して挨拶に行ったが、これも本来ならば行く必要がなかった。むしろ自治大臣が都庁に出向くべき性質のものであった。

<美濃部都政の遺産>
 それにしても、こういった中央省庁の戸惑いや驕りの感情に触れて、私は4半世紀以上前のある出釆事を想起せずにはおれなかった。
 昭和48年、当時の美濃部亮吉都知事が国に反旗を翻して、都税条例によって法人二税(法人事業税・法人住民税)について独自の課税方式を導入しようとした時のことである。
 当時の日本の企業、特に大企業は、戦後の国策の重要な役割を担っていたこともあり、法人税等についてさまざまな租税優遇措置を受けていた。法人税は本店所在地の所轄税務署に納められるが、当時の大企業のほとんどの本店は東京。しかし、東京都の取り分は、その歪められた法人所得、法人税を前提として、大企業の全従業員のうち、東京で働いている人の分だけ。企業側は東京で情報を収集し、儲けはするが税金はあまり払わない、という仕組みになっていた。その一方で企業側は都の各種の行政サービスなどを十二分に享受していた。  逆に都民は、重税を納めながらも道路破損、交通渋滞、大気汚染、住宅環境の劣悪化、物価高といった問題が一向に改善されぬままの生活を強いられていた。首都機能についての負担は増すばかりで、都民の財布どころか都自体も財政難に喘いでいた。
 そこで美濃部氏は、昭和49年からは法人事業税、50年からは法人住民税を大企業には重くし、中小企業には重くしない、という措置を取った。大企業は租税優遇措置の適用によって応分の税金を納めていないから、都の特殊性を考慮した公益性の観点から、地方税法で規定する標準税率以上に重い税率を課すことにしたのである。
 一見、乱暴な措置なのではないか、と思われる向きもおられよう。が、実はこの措置の方がむしろ憲法理論に適合している。美濃部氏は最終的には地方税法6条2項の規定を用いることにした。
[地方団体は、公益上その他の事由に因り必要がある場合においては、不均一の課税をすることができる]
 これが6条2項、いわゆる不均一課税条項である。適用に際しての具体的な要件についての定めはない。つまり、具体的要件については各自治体の判断、つまり各地方議会の決定に委ねられている。そこで美濃部都政が独自の判断と決定を下した。
 当時、国政は55年体制真っ只中で、地方には「地方から中央を変えよう」といった革新の風が吹いてい時代であり、美濃部都政はその嵐の象徴的存在だったのである。
 しかし、大企業に対する優遇税制を行い続けてきた国としては、この措置をそう易々と受け入れるわけにはいかなかった。国会の地方行政委員会や自治省筋から「国の地方税法という法律を無視しようとしている。このような東京都方式は憲法の租税法律主義に反する」として違憲、違法の疑いありとの声が上がった。
 実はこの当時(昭和48年春)、東京都の知事部局から「美濃部を助けて<れ」と私のところに要請があった。私は従前から、法人企業の実質税負担率の逆進性、不公正を正すべきであり、憲法は地方税については租税法律主義ではなく、租税条例主義を建前としているので、本来税条例で不公平を是正することができるのだ、と主張していた。どうも都は私の論文を参考にして今回の措置を決めたようなのだ。都の緊急部課長会議が招集され、私は都幹部の前で3時間ほどレクチャーを行った。
<私たちの先輩学者は税財政について、日本国憲法のもとでも、「地方自治」の規定のなかった明治憲法と同様の、誤った理論を展開してきた。憲法は「地方税法」(法的に標準法にすぎない)という法律がなくても、本来自治体は税条例で課税権の行使ができるとしている。その内容が憲法の応能負担原則に適合するものである限り、都税条例で都税のあり方を本来、規定できるのだ。さしあたり、地方税法6条2項にもとづく、都税条例の制定で可能だ>−。
 私は直ちに今回の東京都方式の合憲性を論文にまとめ、それを都に提出した。都の担当者はそれを自治省に持っていったが、自治省税務局の担当者はそれを見て絶句したそうである。爾来、東京都方式は合法とされ、東京都が導入に踏み切った後も、他の自治体がこれに続いた。
 この時の中央省庁の見せた不勉強な、かつ驕りの表情が、今回の石原新税を目の当たりにした霞が関の住人たちの表情と、ピタリと重なってくる。
 石原都知事は美濃部都政を徹底的に研究したという。美濃部氏の発想が時空を超えて蘇り、財政再建の”一の矢”となって結実した。見事なお手並みであった。
 では、次はどの矢を放つべきなのか。
 ここで私は東京都における最大の不公平税制が未だ放置されたままになっていることを指摘しておきたい。
 創価学会に対する課税問題である。

<創価学会は宗教法人か?>
 まずは、昨年から今年にかけて、元公明党所属の東京都議、龍年光氏が中心となって都に働きかけていることについて紹介することからはじめよう。
 昨年11月、龍氏らは石原都知事に対して住民監査講求を行った。「創価学会は宗教法人としての実態を形式的にも内容的にも満たしていないのではないか」ということで、都による監査を求めたのである。
 ここにある「形式的」というのは、創価学会が1991年に日蓮正宗からその信徒団体を破門されたという事実がある以上、いまの創価学会を宗教団体として法的に根拠付けるものがない、ということである。日蓮正宗から東京都知事には「破門した」という通知が公式に出されている。1995年12月の宗教法人法改正後、所轄が文部省に移管された後には同じく日蓮正宗から文部大臣に対し「創価学会には宗教団体の実態はない。解散命令手続きをしてほしい」といった文書も出されている。この組織には、厳密にいえば、教義も、ご本尊も、教師も存在しない
 一方「内容的」というのは、創価学会が池田大作氏を中心とした政治権力の奪権闘争を「組織的に」行っている団体だ、ということである。より具体的には、集会を開いての選挙活動や票集めを専ら行っていることを指している。また、いわゆる「財務活動」といった形を含めて、各種の営利事業活動を営み、その収益を前記活動の資金としていることも含まれる。これらの行為は断じて本来の宗教的活動ではない。誰の目からも明らかな、組織的な政治団体、営利団体としての活動だ、ということである。

<ある宗教団体が営利企業と同様の、ある意味では営利企業以上に「土地ころがし」を行って、周辺地価の高騰をもたらし人々の生活に大きなデメリットをもたらしている。また温泉地などに一流ホテル並みの数多くの「研修所」等をつくっている。その他、実質的には営利活動と異ならない活発な「宗教活動」を行っている。また、ある宗教法人の一部幹部が宗教法人の財産を私物化して利用していたり、実質的には半強制的な形で、巨額の「寄金」を当該宗教法人の会員等から収受しているとも伝えられる。これらの行動が事実であるならば、およそ宗教法人、宗教家のそれとはいえないものとなっている。人々が課税問題に関連して注目するのはこのような点である。人々の目には、そこに明らかに「社会的不公正」が存在しているようにみえるのである>

 これは私が1981年に上梓した『納税者の権利』(岩波新書)からの引用である。"ある宗教団体"とはもちろん創価学会のことであるが、当時の私は宗教団体の特定名を記すのをあえて避けていた。私の意見は当時もいまも全く変わっていないが、雑誌「公明」や「公明新聞」などからしばしば税制に関する論稿を、また公明党の学習会の講師を頼まれたこともあったし、彼らの自浄努力をまだ斯待していた。当時、友人からは「あなたは公明党のブレーンか」と言われたこともあったほどで、事実、公明党の税制顧問になってくれ、と頼まれたこともあった。
 しかし彼らに自己の客観視を望むのは、土台無理な話であった。覚悟を決めた私が1994年2月に月刊誌『文藝春秋』で名前を出して創価学会批判を行うようになって以降、凄まじいほどのいやがらせが始まった。学会系刊行物での個人的な誹謗中傷はいうに及ばず、家の生ゴミがあさられ、私や家人も日がな尾行され、脅迫電話や無言電語、さらにはここに記すのも憚られるような罵詈雑言の記された手紙・ハガキが自宅、研究室を問わず送りつけられる・・・。尾行してきた車のナンバーや手紙などの送り主を調べると、必ず創価学会関係者にぶちあたった。
 そもそも、なぜ税法は宗教法人についてさまざまな税法上の特典を与えているのかといえば、もし当該宗教法人が真実の宗教団体であれば、人々の内心の精神生活の安定や豊かさの確保、という大事な仕事を国家に代わって守る活動を行っているのだから、その活動が高度の公益性を帯びていることになり、したがって様々な税法上の優遇を与える理由がある、といった考えに基づいている。
 しかし、創価学会についていえば、その政教一致体質をどう判断すべぎなのか、そして何よりも先ほど記したようないやがらせが日々、さまざまな人の身に起きていることをどう判断すればいいのか。
 本来その宗教に接することで豊かな精神生活を営んでいるはずの信者に、歪んだ憎しみを抱かせ、時に人として許されない行為を行わせてしまう−。そんな宗教法人は絶対に「真実」の宗教団体としての要件を満たしているわけがない。
 であれば、登記簿上は宗教であっても、宗教団体の実態を持っていない組織に対して、税法上の特恵措置を適用するだけの合理的理由はない
 アメリカの場合、登記簿上宗教法人であっても、例えば教会の牧師が日曜の礼拝時に「ブッシュさんを応援したらどうか」と言った場合、当該教会が「政治活動をした」と認定されかねず、すぐに内国歳入庁(日本における国税庁)などに報告が行く。そして、ことの真偽について徹底的に調査し、実態を判断していく。一市民として牧師個人がいろんなことをやるのはいいが、組織を挙げて選挙運動をやるとか政治献金をするとか、あるいは営利事業を行った場合には宗教団体の枠を超えたことになり税法上の保護を与えない、という制度が出来上がっている。
 このアメリカ的制度の導入は将来的な検討材料だが、現行法のもとでも創価学会は「形式的」にも「内容的」にも宗教団体の実態を備えていない。そのため各種の非課税規定などの適用を受けうるだけの根拠がない。このような組織に非課税規定などを適用することは、学問的に「適用違憲」を構成する(違憲には「法令違憲」と「適用違憲」との2つがあり、宗教団体の実態をもつ組織について一般的に非課税などにすることは違憲ではないが、そのような実態を持たない組織に非課税などの規定を適用することは、具体的に憲法14条、20条、89条等に違反する。このような違憲を「適用違憲」という)。
 したがって、都は現行法のもとでも、創価学会の実態に鑑みて課税を行う義務があり、その義務を怠っている知事は「不作為の違法行為」を行っていることになる。

<学会施設に適正な固定資産税を>
 では具体的に何をすべきだろうか。
 まず、固定資産税をきちんと課さなければならない
 創価学会が東京都内、特に新宿区信濃町に持っている土地建物等について、土地については宅地並評価を行い、建物についてもきちんとした時価評価を行い固定資産税を課税すべきである(前記・龍氏らの住民監査讃求については都の監査委員が何の調査もせずに却下してしまったので、現在は「宗教団体の実態を持っていない創価学会の固定資産に対して課税しないのは違法である」ことの確認を求めて東京地裁に提訴している)。
 また、それら創価学会の建物内部の施設は償却資産にあたるため、厳密にいえばこちらにも固定資産税をかける必要がある。
 創価学会の機関紙「聖教新聞」の発行についてであるが、これは宗教法人の収益事業として法人税の申告が行われているようである。しかしその税率が非常に低い。法人税の基本税率は30パーセントなのが22パーセントとなっており、さらに新聞発行によってあげた収益を創価学会本体の公益事業のために寄付した場合ば寄附金控除が行われ、実質的には17.6パーセントにまで下がる。
 しかしこの軽減税率は、憲法20条で禁じている「特権」に該当し、厳密にいえば「かくれた補助金」、一種の「公金支出」にあたるのではないか、と私は考える。ただ、これは創価学会だけの問題ではなく、軽減税率制度自体が宗教法人一般について「法令違憲」である可能性が高い。つまり、他の宗教団体であっても、普通法人の株式会社なみに法人税の通常の税率で税を納めるのが適当なのではないか。現行法上では、この税率はそのまま法人住民税の税額に影響を与えるため、いわば二重の軽減措置になっている。
 現在アメリカでは、公益団体、公益法人等の認定を受けたものであっても、営利事業によるものと認定された収益には普通法人と同じ税率で課税する。公益法人の製品も同じく市場原理に基づき流通する。福永法源の本であろうと池田大作の本であろうと、宗教学の学術書であろうと税率に変わりはない、という論理であって、こちらの方が実態に即した課税方式であるように思われる。立法論的には日本もそうすべきなのではないか。
 そして、宗教法人としての実態を備えていない団体には、株式会社なみの法人税・住民税、事業税を課せばいい。事業税については、石原新税と同様に外形標準課税方式を導入することも、理論的には十分検討する余地がある。法人税の問題は国税庁の問題であるが、住民税、事業税の問題は自治体の問題である。都知事としては、固定資産税の他に、住民税、事業税等についても検討する必要がある。
 このように創価学会に対する税制優遇をなくしてしまうと、その宗教を奉ずる人々が不利益を被るのではないか、といった批判が出てくるであろう。しかしそれは全くあたらない。形式的にも内容的にも宗教法人でない巨大法人からきちんと税を徴収し、それを、一般市民に還元する。創価学会の信者全体、社会全体への利益還元率は圧倒的に高くなる。
 また、課税する、ということになった時の徴税コストだが、これはほとんどかからない。やることといえば、創価学会に納税通知書を送るだけ。固定資産税についていえば、東京23区内は知事の権限であり、23区外は市町村長の権限。法人住民税と法人事業税は知事でできる。
 創価学会に対する前記の適切な課税−。これは現行法で十分対応しうる施策なのだ。外形標準課税とは違って、都税条例の改正も必要としない。つまり、石原氏が決断すればすぐにでも実行に移すことのでぎる、天下の妙手なのである。

<宗教法人法などのさらなる改正を>
 しかし、これだけでは不十分である。創価学会に限らず、不明朗な会計、莫大なる収益事業を営んでいながら、宗教法人としての認証を受けているために国の介入を免れている団体は枚挙にいとまがない。
 この現状を少しでも正すためには、宗教法人法などのさらなる整備が必要となってくる。私は1995年の宗教法人法改正に際し、国会に参考人として呼ばれ、この点を指摘したことがある。
 宗教法人法はオウム真理教事件を踏まえて改正された。新たに義務づけられた収支計算書、財産目録、役員名簿など関係書類の提出によって、各宗教団体の実態をよりしっかりと把握するための改正が行われた。
 これに加えて、さらに次のような改正を行うべきなのではないか。
 まず税制面について。
@現行の法人税における収益事業の範囲を、公益法人等の種類、性格、規模等をふまえて具体的に類型化し、まさに宗教法人の実態にふさわしい収益事業の範囲を具体的に規定する。こうすることで、権力が土足で宗教活動に介入できなくなり、結果として人々の信教の自由を守ることになる。
A収益事業に対する法人税率を普通法人なみに引き上げる。
B宗教法人会計基準を制定し、公認会計士の監査を義務づける。ただし、当分の間、一定規模以上の大宗教法人のみに監査を義務づける。大宗教法人については公認会計士の監査を受けたもののみについて非課税などの税法規定を適用する。監査の結果を開示する。
Cお布施で集めた金銭を政治活動などに使った場合は、その部分を収益事業として課税する。また一定の要件を充足する金融収益を収益事業として課税する。
D龍氏らの住民訴訟の例のように、その宗教法人の実態が宗教団体でないとみられる場含には、会社等の普通法人として扱うことを税法で明文化する。
 つぎに、宗教法人法そのものについて。
@宗教法人の「認証」後、1年以内であれば「認証」の取り消しができることになっているが、これを3年とする。3年間じっくりと観察することで、その実態がわかるはずである。A宗教法人が宗教活動と関係のない営利事業等を行う場合には、当該宗教法人とは別組織で行うことを明文化する。
Bその宗教法人の実態が営利事業団体、政治団体等とみられる場含には、「認証」の取り消し、「解散命令」請求等の事由になることを明文化する。

<亀井氏らの変節>
 ところが、このような宗教法人税制、宗教法人法のさらなる改正は、現政権下では非常に難しいものとなってしまっている。ご存じの通り、「自自公」連立政権がしばらく続く以上、「公」たる公明党の意向に反する法改正など、期待のしようがないからである。
 自自公で衆議院の3分の2以上を確保した上で、懸案事項だった法案を続々と通過させ、膨大な国債を発行し、問題を全て先送りにする。対すべき野党といえば、国会ボイコット以外の手を持たず、兄弟喧嘩だなんだと一向に野党としての役割を果たすことができない。
 これは、明らかに全体主義的傾向の広がりを意味してはいないか。この時、最も権力志向の強い宗教団体の政党が政権の要となっていることについて、なぜ新聞やテレビのメディアば警鐘を鳴らすことができないのか。
 俵孝太郎氏と白川勝彦氏が『諸君!』4月号での対談で嘆いていたように、かつては創価学会の政教一致体質を批判していた自民党内の勢力も、今は完全に学会に尻尾を振っている状態。
 1994年に4月会が結成されたが、その準備段階で、一面識もなかった私の国分寺の自宅に、わざわざ亀井静香氏らが訪ねてこられた。
 「小選挙区制になると、創価学会の票がどっちに流れるかによって自民党の帰趨は決してしまう。だから彼ちをおい落とさなければならない。公明党の実態は創価学会であって、創価学会が日本の政治を支配することになる。これは、日本の民主主義、立憲主義の危機です。先生の学説の出番です」−。
 彼らは私に理論面から協力してほしい、と言った。こうした動きから池田大作氏の国会証人喚問問題などを経て、宗教法人法改正へと事態が進んでいったのだが、あの時亀井氏らが私に言ったことはまぼろしだったのか……。そう思いたくなるほど、現在の亀井氏や他の自民党政治家の変節ぶりが甚だしい
 このままでは、違った形ではあるが、60年前の「大政翼賛政治」の過ちを繰り返すおそれがある。
 この点からも、石原都政が創価学会問題、ひいては宗教法人にまつわる諸問題について「東京都から中央を変える」という気概で取り組んでいただきたいのである。
 その都議会内においても、都議会公明はいわゆるキャスティング・ボートを握っており、その力は絶大である。議会対策をしなければ都知事は結局のところ何もすることができない。公明が首根っこを押えている、という点では国会も都議会もそう大差はない。
 しかし、さきにも指摘したように、条例改正をしないで、現行法のもとでも石原知事の決断だけでできるものがある。私としては、石原氏が「平成の坂本竜馬」になってくれるものと信じている。これはいまや多くの都民、いや日本国民の総意といっていい。
 このところの世論調査で、日本国民の過半が創価学会−公明党に対する嫌悪感を抱いていることがわかりつつある。これは人々の判断力がまだ霞が関や永田町ほどに麻痺していないことを如実に表したものである。この数字からも力を得て、創価学会という存在を恐れずに、勇気を持って声を上げるべきときは今しかない。こう私は信じている。





創価学会なるものの体質(仮題)

(石原慎太郎『国家なる幻影』文芸春秋社'99発行)

<言論弾圧>
 あれは水野氏(※当時のサンケイ新聞の社主)の案に興味を示し私が買って出て、日本の新興宗教についての総合的なルポルタージュ『巷の神々』をサンケイ紙上に連載している間に筆が創価学会に及び、私が皮肉な批判を書いたら学会から抗議がきて、紙上で取り消すなり謝罪しなければサンケイの不買運動を展開するという脅しがあった。現にそのために関西のある地域で突然サンケイの購読が中止され、その示威行動としてかなりの部数が減らされた
 現地の営業部は仰天し、報告を受けた本社でも問題になった。編集局からの相談に、私は違った事実を書いた訳ではないし、私が台東体育館で見た池田会長を迎えての大会のシュプレッヒコールの段取りとその印象はいつか記録映画で見たナチスの大会と酷似していて、それなりに見事なものだったが一方どこか空恐ろしい印象でもあった、といった記述はあくまでも表現の問題であってどんな組織だろうとそれを侵すことは出来ぬはずだと言い張った。
 私を呼びつけた水野氏も間に挟まっていささか困惑していたと思うが、こちらはいかにも頑固に論をとり下げず、その内面倒になった水野氏が次第に怒り出しとうに入っていたアルコールのせいで弾みがついてしまい、取っ組み合いにまでなった。
 「お前みたいな恩知らずは、今に誰か人を使ってこの世から消してやる」
などと物騒なことを口走る相手に、
 「まあ、たがいに頭を冷やして話し合いましょう」
いって辞したが、すぐにまた呼びがかかり、今度は素面で、
 「考えてみたらこやつらはいかにもけしからんな。天下の公器をなんと心得ているんだ。いいから好きなようにやれ、こんな新聞の1つや2つ潰してもかまわんよ。相手の本部にもそう伝えておけといっといた。なに、奴らも馬鹿じゃなかろうが
 結果は相手がどう判断したのか知らないが不買運動は消えてなくなった。私としてはそんな出来事でようやく創価学会なるものの体質の芯が覗けた思いだったが、同じ性格の事件が後にも起こり、参議院での公明党議員の演説の陳腐さを揶揄した私のエッセイについて院内の公明党が筋の通らぬ文句をつけてきて今度は私自身が標的にされることにもなった。
 さらに後になって藤原弘達氏の学会批判の出版に、学会が田中角栄を介して出版とりつぶしの弾圧をかけて露見した時、つくづくこの巨大な組織の抱いている世間への奇妙な劣等感とそれがひっくり返っての思い上がりに危惧を抱かぬわ訳にいかなくなった。(同書59・60頁)

※自分達を批判する勢力に対しては、感情的になり数を恃みに常軌を逸した行動をとり攻撃する。この体質は、藤原弘達氏の出版妨害でいかんなく発揮され、ついに露見し世間から糾弾されることになる。池田学会はこれを機に、社会に反省と謝罪のポーズをとった。
 しかし、言論攻撃の体質は「別の形」となって今も続いている。つまりそれは『中外日報』への創価マネーの投入にみられるように、既成のメディアを学会の「御用新聞」化することである。この手法は一般紙にも及び広告料や聖教新聞・公明新聞の印刷委託をエサに創価マネーをマスコミに投入し、反学会の言論を抑制しようとするものである。これについては識者の間でも指摘されているところである。が、上記『国家なる幻影』によればサンケイ新聞が、かつて学会から不買運動をされたときに、世間に知られるほどの規模でなかったにも拘わらず、「現地の営業部は仰天し、報告を受けた本社でも問題になった。」というから、創価マネー投入の「効果」は我々の予想以上に大きいのかも知れない。

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<識者利用>
 池田氏と私との関わりのいくつかの挿話を重ねて眺めると、池田大作というカリスマ性をもった無類の組織者の実は複雑な心理構造(コンプレックス)が透かされて見えるような気がする。そして、そうした人物に完全に統御されている創価学会という巨大な組織の本質もまた。
 こと池田大作という、いろいろな意味で端倪(たんげい)すべからざる人物についての論評で一番直截で正確なものは、池田氏や松下幸之助氏がしきりにもてはやし日本に招聘して対談の共著など出していたイギリスの歴史学者トインビーの娘の評だろう。
 彼、池田は父のことなど全く理解もしていない俗物でただ父を利用しているだけだ、というようなことを彼女がどこかでいっていたが、まあトインビーというのも日本をしきりに褒めることで日本ではもてていたものの大した学者とは思えなかったが、その娘の辛辣はなかなかのものだと思う。(同書86頁)

※池田の「識者利用」の真実の一旦がここに垣間見れる思いがする。

●『21世紀への対話』と題された、上・下2巻からなる本がある。イギリスの歴史学者・故アーノルド・トインビー博士と池田大作とが、昭和47年5月と48年5月の2回にわたって対談した記録――であるという。この本は昭和50年の出版当時から、トインビー博士の名声を利用した、池田のノーベル平和賞へのデモンストレーションではないか、といわれていたもので、さすがにノーベル平和賞は受賞できずじまいであるものの、この本が池田の虚像の宣伝に大きく貢献してきたことは事実である。  ところが、この本、後に化けの皮が剥(は)がされ、実際は「トインビー・池田対談」などと呼べるものでないことが明らかとなったばかりか、故トインビー博士の孫娘・ポーリー女史からも、池田大作の実像を衝(つ)く手厳しい批判手記が発表された(1984年5月19日付・英紙『ガーディアン』紙に掲載)。(「自由の砦」サイト/http://www.toride.org/porry/

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<理念なき事大主義>
 しかし土台大学紛争なるものの原因は希薄で、火の手の発祥地だった東大医学部のように前近代的な機構が問題になるのは当然だろうが、それに呼応してそこら中の大学で学生たちが改革を唱えて暴れるというのは大方故のないことにしか見えなかった。(中略)あれは一種の精神風俗への感染症としかいいようなく、覆面にヘルメットというファッションは宗教団体にまで蔓延していき、創価学会の青年部の学生たちと一緒に池田会長までがヘルメットに覆面といういでたちで片手を突き上げ、「宗教社会主義」なる面妖な祝詞をとなえているのを何かのグラビアで目にしてあきれ果てたのを覚えている。(同書89・90頁)

▲1969年7月の創価学会学生部集会にゲバ学生スタイルで出席した池田大作の勇姿
http://www.uranus.dti.ne.jp/~yuugeki/ikeda.html

※かつて池田が唱えていたという実体のない「宗教社会主義」なる主義は、いつのまにやら完全に捨て去られた。社会主義とは対極にある「資本主義」の擁護者・自民党に擦り寄り、権力者気取りである。御本人は以前から「全体主義が一番」だと思っていたようですが・・・

本当は、全体主義は一番理想の形態だ(池田大作・第61回社長会・昭和47年6月15日/「慧妙」020916)

●岡留:少しは政権内野党として機能してるんじゃないの? そう、公明党と言えば、70年安保闘争の時、創価学会の学生部が学生運動をやっていたんですよ。「新学同」って言ったかな。
−−しかし、トータルでみて、いまの公明党は、ほとんど国家主義化の動きに加担していると言っていい動きっぷりですよ。
岡留:まあ、補完勢力だね。/PublicityNo.028(2001/10/22)

http://freespeech.at.infoseek.co.jp/