創価学会破折
正本堂問題
▲第66世日達上人の直筆による「正本堂賞与御本尊」の裏書き=昭和47年の10月、全世界の日蓮正宗の僧俗の御供養をもって、総本山に正本堂が完成されました。
 その発願者である池田氏に対し、第66世日達上人は「正本堂賞与御本尊」を授与し、その功績を讃えられたのです。(中略)
 なお「正本堂賞与御本尊」の裏に、日達上人の直筆で「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也」と書かれていますが、これは当初、学会側から「此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為ることの証明の本尊也」と書いてほしいと原稿を持参して申し入れてきたものです。
 日達上人はこの不遜な申し入れに苦慮のうえ、あえて「準」の1字を入れられて、学会の慢心を戒め、正本堂が直ちに事の戒壇ではないことを念のために書かれたのです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)




本門の戒壇/『大白法』H16.10.16ほか

正本堂解体の理由

関連年表

正本堂の意義付け

・S40. 正本堂建立御供養趣意書/『慧妙』H16.10.16

・S45 言論問題によって瓦解した正本堂の意義/山崎正友『慧妙』H15.4.1

・S47.4.28 訓諭/『慧妙』H16.12.16ほか

・S49.9.20 賞与御本尊の裏書

正本堂の用地買収/『富士の法統』妙教編集室
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正本堂の惨状
紛れもない事実だった正本堂老朽化/『慧妙』H15.5.16

解体工事で判明した惨状/『フォーラム21』H15.1.1
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"正本堂のモルタル崩落は『慧妙』の自作自演"と/『慧妙』H24.11.1

池田大作と「正本堂」/『慧妙』H22.4.16

いまだに正本堂に執着する池田/『慧妙』H21.1.16

正本堂も金儲けの道具に/『慧妙』H17.8.1

御供養返還訴訟の自語相違/『慧妙』H15.2.16



本門の戒壇

(『大白法』H16.10.16ほか)

【戒壇の起源と歴史】
 戒壇とは、授戒を行う場所のことをいい、その起源は、釈尊在世に祇園精舎に、授戒のために土を高く盛り上げて壇を築いたことに始まります。中国においては、宋の時代、求那跋摩(くなばつま)が南林寺前の竹園に戒壇を設けたことが伝えられております。
 日本では仏教の進展に伴い、小乗の戒壇、大乗の戒壇と時代をおって建立されました。
 小乗の戒壇では奈良時代、鑑真が東大寺に小乗の戒壇を築き、聖武天皇等に授戒を行ったことが始まりです。続いて、下野国の薬師寺、筑紫国の観世音寺に戒壇が建立され、日本を3分して授戒が行われたのです。これが世にいう日本の三戒壇です。
 また大乗の戒壇は、平安時代に伝教大師の遺志を受け継いだ初代座主・義真によって、比叡山に建立されました。しかしこの戒壇も所詮は迹門の戒壇であり、文底独一本門の仏法が弘まる末法には何の利益もなく、衆生を成仏に導くことはできないのです。




【戒について】
 戒壇の戒は、一般に戒律といいます。戒律というのは、戒定慧の三学の1つで、仏道を正しく行ずるために「防非止悪」、すなわち「非を防ぎ悪を止める」ことをいいます。法華経においては、余経を捨てよと誡める誡門と、法華経を受持せよと勧める勧門の二義があります。すなわち『方便品』に、
 「正直に方便を捨てて」(『方便品』新編法華経124頁)
と説かれ、『譬喩品』にも、
 「余経の一偈をも受けざる有らん」(『譬喩品』新編法華経183頁)
とあるように、爾前権経に説かれる教義や修行を用いてはなりません。また『宝塔品』に、
 「此の経は持ち難し 若し暫くも持つ者は 我即ち歓喜す 諸仏も亦然なり 是の如きの人は 諸仏の歎(ほ)めたもう所なり 是れ則ち勇猛なり 是れ則ち精進なり 是れ戒を持ち頭陀を行ずる者と名づく」(『宝塔品』新編法華経354頁)
と説かれているように、法華経を受持することが「戒」であり、それがそのまま頭陀行、すなわち煩悩を滅する修行になると説かれているのです。この法華経受持の一行に戒定慧の三学を倶に伝えるのであり、そこに一切の爾前権経の諸戒に対する根本戒としての意義が具わります。
 しかし、この法華経は諸法実相の理の一念三千の妙法にして、熟脱の機における理戒であり、末法においては日蓮大聖人が説き明かされた久遠元初の妙法を事相の上に建立された本門戒の戒法・戒行こそが事戒となります。すなわち爾前迹門の謗法を捨てて、大御本尊を唯一受持信行することが本門の戒行なのです。
 この御本尊受持の行法は、本尊安置の場所においてなされるのですから、その場所を戒壇といい、本門の本尊を安置して信行に励む道場が本門の戒壇になるのです。




【本門事の戒壇】
<理の戒壇・事の戒壇>
 日蓮大聖人の御金言(『三大秘法抄』等)を拝すると、「本門事の戒壇」とは、天台宗の「迹門(しゃくもん)理の戒壇」に対して、かくいうのであります。
 この「迹門理の戒壇」と「本門事の戒壇」という違いは何によるものか、といいますと、天台の弘通した仏法と大聖人の仏法それ自体の相違(天台は迹門理の一念三千、大聖人は本門事の一念三千)によっています。つまり、迹門理の一念三千の仏法に基づく戒壇は「迹門理の戒壇」であり、本門事の一念三千の仏法に基づく戒壇は「本門事の戒壇」である、ということです。(『慧妙』H23.5.1)



<事の戒壇>
―広宣流布達成の暁に建立される戒壇―

●三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり(『百六箇抄』全集867頁)
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「三箇の秘法」とは三大秘法、即ち本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目のこと。

●日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。(『日興跡条々事』御書1883頁)
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大御本尊が安置される本門寺の本堂こそが、本門事の戒壇です。

●戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並に御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つ可きのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下し踏み給ふべき戒壇なり。(『三大秘法抄』御書1595、全集1022頁)
●国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり(『身延相承書』御書1675、全集1600頁)
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富士山に本門寺の戒壇堂を建立せよと御遺命されています。この戒壇建立の御指南中の「事の戒法」とは、無始の罪障を防ぎ、三業の悪を止めるという末法の「本門戒」の内容を意味します。すなわち、この「事の戒法」の御教示によれば、将来の広宣流布の現実相と相まって、戒壇建立の偉業が必ず達成されるのです。私たちは、この御遺命の本門戒壇建立の実現に向かって慈折広布に邁進することが、自身の即身成仏につながることを銘記しなければなりません。


―現時における戒壇―
●戒壇を論ずるとき『三大秘法抄』・『一期弘法抄』にいうところの戒壇は理想の大戒壇である。しかし今我々は現実に帰り、この戒壇の御本尊まします処はすなわち常寂光・真の霊山であるという深い信念のもとに御本尊を信じてゆかなければならない(第66世日達上人『日達上人全集』2-6-34頁/『創価学会のいうことはこんなに間違っている』48頁~)
●事の一念三千本門戒壇の大御本尊を安置し奉る此の処は即ち是れ本門事の戒壇にして真の霊山、事の寂光土なり。(第66世日達上人・正本堂完成奉告大法要の慶讃文『大日蓮』7212号13頁/『大白法』H16.5.16)
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広宣流布が達成される以前においても、戒壇の大御本尊の在す所は、そのまま事の戒壇に当たります。本門戒壇の大御本尊は、日蓮大聖人の事の一念三千の御当体であり、広宣流布の根源の法体です。その意より、大御本尊在す所は、未だ広宣流布が達成されていなくても、現時における「事の戒壇」と称せられるのです。

●未だ広布の時至らず事相の戒壇御建立なしといへども此の道場即事の戒壇真の霊山事の寂光土にして一度も此の砌(みぎり)に望まん輩(やから)は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅して三業の悪転じて三徳を成せん事毛頭疑いあるべからず(第52世日霑上人『三大秘法談』/『研究教学書』第22巻418頁/『慧妙』H23.5.1)

●戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在(ましま)す事なれば、此の所即是本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土(第60世日開上人『御戒壇説法』/『日開上人全集』6頁/『慧妙』H23.5.1)

すなわち、本門事の戒壇とは、事の一念三千の御当体たる大御本尊おわす故に、かく称するのであって、たとえ、これが広宣流布の暁に事相の上に建立される以前であれ、以後であれ、事の戒壇であることに揺るぎはないのであります。(『慧妙』H23.5.1)



<義の戒壇>
●在々処々本尊安置之処は理の戒壇也
 富士山戒壇の御本尊御在所は事の戒也(第26世日寛上人の御説法を第43世日相上人が筆写された『三大秘法之事』/『慧妙』H23.5.1)
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この御説法中の「理の戒壇」とは、日寛上人御自ら「理は謂(いわ)く、義理なり。これ則ち事中の事理にして迹門の理戒に同じからず。その名に迷うこと勿(なか)れ。故にまた義の戒壇と名づけんのみ」(文段542頁)と仰せのごとく、「義の戒壇」のことです。

●事ノ戒壇 一幅の板御本尊を掛け奉る所を云う
 道理ノ戒壇 御代々御書写の御本尊を掛け奉る所を云う(第36世日堅上人 寛政2年3月の御説法/妙光寺所蔵文書No.58/『慧妙』H23.5.1)

●本門の戒壇に事有り、理有り。理は謂わく、道理なり。亦義の戒壇と名づけん。謂わく、戒壇の本尊を書写して之を掛け奉る処の山々寺々家々は皆是れ道理の戒壇なり(第26世日寛上人『報恩抄文段』/御書文段469頁)
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 戒壇の大御本尊は根源の本尊ですが、それ以外の歴代上人の印可された大聖人直筆、あるいは日興上人以下歴代上人御書写の御本尊は、当然根源につながる御本尊といえます。
 すなわち、一切の御本尊は、その功徳力がすべて根源から流れ通うものですから、各寺院・各家庭の御本尊に向かって信行に励むときは、その意義が事の戒壇に通じます。
 したがって、これらの御本尊を安置する処は、義理が事の戒壇に当たるので「義の戒壇」、もしくは「理の戒壇」と称せられます。
 ただし、唯授一人の血脈を紹継する日蓮正宗から離れるならば、たとえ大聖人御真筆の御本尊や、御歴代上人御書写の御本尊を安置していたとしても、事の戒壇に通じる血脈も意義も断絶するために「義の戒壇」とはならず、即身成仏の功徳を成ずることはないのです。

[画像]:第26世日寛上人の御説法を第43世日相上人が筆写された『三大秘法之事』(『慧妙』H23.5.1)=そこには明確に「富士山戒壇の御本尊御在所は事の戒也」と





正本堂解体の理由

―正本堂は"池田本仏論"象徴する建物―
―大石寺を「清涼の地」とするべく撤去―

 あの正本堂を解体したのは、凡夫であり下衆の人間であるところの池田大作が、宗祖大聖人の境界を乗り越えようとするような大それた野望と悪念を持っており、その大謗法の塊として正本堂が建立されたことがはっきりと判ってきたからであります。このことは初めのうちはなかなかはっきりしませんでしたが、時を追うにしたがって、彼らの、特に池田大作の正法を否定するところの考えがはっきりと表れてきたのであります。
 つまり、大聖人様は本門の題目を弘宣され、また本門の本尊をお弘めになったのであります。それに対して池田大作の心底には、「日蓮大聖人ができなかったところの本門の戒壇を建立する。その本門の戒壇が正本堂である」という、まことに不逞極まる図式をもって、いわゆる日蓮大聖人様以上の法華経の行者が池田大作であるという考えがずっと存在しておったのであります。そして、このことが時間の経過とともにはっきりと表れてきました。そこに大謗法の根源があったのでありますから、これを断固として打ち破るためにも、正本堂を解体するいうことが自然の流れのなかで顕われてまいりました。
 このところに初めて、本当の正法を護持し、また正しく広布に向かって前進する内容が備わったということを、私はひしひしと感じておる次第であります。

(第67世日顕上人『大白法』H15.1.16)

 創価学会では、日蓮正宗が正本堂を解体したことについて、「日顕(上人)が先師日達上人の偉業に嫉妬(しっと)して、日達上人の代に建てられた正本堂を壊したのだ。これは正本堂建立御供養に参加した、民衆の心を踏みにじる暴挙だ」等と言っています。
 そこで、正本堂解体に至った理由を、簡潔(かんけつ)に説明しておきましょう。(『慧妙』H17.2.1)


【「本門寺の戒壇」たらんことを願って】
●戒壇とは、王法仏法に冥(みょう)じ、仏法王法に合(がっ)して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘(かくとくびく)の其(そ)の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みきょうしょ)を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事(じ)の戒法と申すは是なり(『三大秘法抄』御書1595、全集1022頁)
●国主此(こ)の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂(い)ふは是なり(『一期弘法抄』御書1675、全集1600頁)
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昭和40年当時の創価学会が中心となって発願(ほつがん)した正本堂は、まさに、広宣流布達成の時の戒壇たらんことを願って、着工(ちゃっこう)した堂宇(どうう)でした。


【池田学会の異常な執着】
ところが、この正本堂に対する池田創価学会の執着、思い入れには、当初より異常なものがあったのです。

詮、(せん)ずる所、正本堂の完成をもって、三大秘法ここに成就云々(池田大作 S42.10 建立発願式)
すでに大聖人御在世中に、慧(え)たる本門の題目、定(じょう)たる本門の本尊は建立された。そして、ただ戒(かい)たる本門の戒壇のみが「時を待つべきのみ」と後世に残された。(中略)ここに正本堂の建立が、三大秘法の完結を意味するという、仏法上重要な意義を考え云々(北條浩=理事長兼副会長『大白蓮華』S45.5)
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 「大聖人は、御在世中に本門の本尊と本門の題目は顕(あら)わされたが、本門の戒壇だけは顕わされなかった。それを、700年後の今日、池田大作率(ひき)いる創価学会が出現して広宣流布を成(な)し遂(と)げ、本門の戒壇を建立する。これによって三大秘法が完結(かんけつ)するのだ」
というものであり、これによって彼らが言わんとしたのは、
 「大聖人ですら顕わすことのできなかった本門の戒壇を、池田センセーが建立される。したがって、池田センセーは大聖人よりも勝れる仏である」
との"池田大作本仏論"でした(事実、当時の学会内には、そうした指導が口コミで広く流されていました。また、今日の学会の公(おおやけ)の主張にも、こうした邪説(じゃせつ)が露骨(ろこつ)に顕われています=本連載第1回『創価学会の三宝破壊を破す①』-平成16年7月1日号-参照)。

要するに池田創価学会にとって、正本堂=本門戒壇の建立は、"池田大作が大聖人をも凌(しの)ぐ仏である"という池田本仏論の現証として「重要な意義」をもっていたのであり、これこそ、彼らが正本堂に異常に執着した、その最大の理由だったのです。


【日達上人の御指南】
●正本堂は一期弘法抄並びに三大秘法抄の意義を含(ふく)む現時(げんじ)における事(じ)の戒壇なり、すなわち正本堂は広宣流布の暁(あかつき)に本門寺の戒壇たるべき大殿堂(だいでんどう)なり。但(ただ)し現時にあっては未(いま)だ謗法(ほうぼう)の徒(と)多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇(しゅみだん)は蔵の形式をもって荘厳(しょうごん)し奉(たてまつ)るなり(第66世日達上人 S47.4.28 訓諭)
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これは正本堂完成の年に発せられた訓諭(くんゆ=日蓮正宗における公式決定)である。"現時にあっては、いまだ謗法の徒多きが故に、広宣流布の達成には至っていない。したがって現時点における正本堂は、未来の広宣流布の暁に本門戒壇たることが期待される堂宇である"旨(むね)、御示しになりました(「たるべき」については<訓諭について>参照)。


【訓諭後も続いた"池田本仏論の現証としての正本堂"】
 これでは、正本堂がただちに本門戒壇建立とならないため、不満を抱(いだ)いた池田大作は、正本堂完成後も、日達上人及び日蓮正宗に強い圧力をかけましたが、ついに日達上人の決定を覆(くつがえ)すことはできなかったのです。
 池田らは、その後も、折(おり)あるごとに「正本堂建立をもって広宣流布は明確に終わった」「正本堂は本門戒壇である」等と蔭(かげ)で言い続け、邪心(じゃしん)を募(つの)らせていきましたが、平成3年、ついに日蓮正宗から破門となりました。
 これにより、創価学会員の大半が邪教(じゃきょう)謗法の徒となり、一時(いっとき)は近い将来に達成が期待された日蓮正宗の広宣流布は、大きく遠のきました。そして、広布達成を象徴(しょうちょう)するはずだった正本堂(そもそも、この正本堂という名称自体が、広布の暁に建立される「富士山本門寺の本堂」〈御書1699頁〉という金言に由来<ゆらい>していました)も、その存在意義を失(うしな)ったのであります。
 さらに、池田創価学会では、呆(あき)れたことに、破門されて日蓮正宗大石寺と無関係になった後(のち)も、なお、「正本堂は本門戒壇である。これを建立した池田センセーは、仏法上、未曽有(みぞう)の大偉業を成(な)し遂げたのである」等と言い続けていました。
 この現実(すなわち正本堂が池田本仏論の依〈よ〉り処〈どころ〉として利用され続けていること)に鑑(かんが)み、日蓮正宗では、"ここで池田本仏論という前代未聞(ぜんだいみもん)の大謗法の根を断(た)ち切るべきであり、また、そのような建物を、清浄(しょうじょう)であるべき総本山の境内地(けいだいち)に残しておくことはできない"との判断から、正本堂の解体を決断したのであります。
 これには当然、解体費用もかかりますが、"正しい仏法を清浄に護(まも)る"という務(つと)めは、お金の問題ではありません。
 また、民衆の真心(まごころ)からの御供養を、池田本仏論などという大謗法のために利用した、池田大作の所業(しょぎょう)こそ、「暴挙(ぼうきょ)」として責(せ)められるべきでありましょう。

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【老朽化について】<解体工事で判明した「名建築・正本堂」の惨状>参照)
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"老朽化云々が大ウソだったため、「解体は宗数的理由から」と、その主張を撤回させられた"(『創価新報』)
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 本紙(※『慧妙』)の一連の「正本堂老朽化」報道は、"正本堂には池田の慢心・邪心が籠(こ)められていた。その邪心が露呈したのと時を同じくして、正本堂にも様々な異変が現われてきた"として報じたものであり、"老朽化が解体することになった理由"などとは一言も述べていないばかりか、これ(※老朽化)に初めて言及した時期も、正本堂解体が決定するより、ずっと以前の平成10年1月からだ。
 そして、正本堂解体が初めて決定して以来、本紙が正本堂解体理由として論じてきたのは、一貫して、
 "池田本仏論の実証として利用され続ける正本堂は、まさに池田大作の妄執(もうしゅう)の染み着いた建物であり、解体されることはやむをえない"
 というもの。
 また、これを述べたからといって、"赤サビの浮き出た異様な老朽化"という報道を撤回したわけではない
 つまり、本紙は、正本堂の異様な老朽化の事実と、正本堂解体の宗教的理由の、両方を報じているのであって、一方を撒回して一方に改めたりしていないのである。
 これを十分に承知していながら、騙(だま)されやすい『新報』読者を引っ掛けるべく、こんな歪曲(わいきょく)記事をタレ流す『創価新報』――本当に悪どい連中である。(『慧妙』H14.2.16)


【学会寄進の建物について】
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謗法の学会の供養(くよう)で建(た)った建物だから正本堂を解体した、というのなら、学会の寄進(きしん)した多くの寺院も明け渡すべきだ
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 正本堂解体の理由を正しく弁(わきま)えていないための、全(まった)く的外(まとはず)れな論義であります。
 すなわち正本堂は、
①創価学会の邪教化によって正法広布が遠のいたため、その建立された目的意義を失ってしまったばかりか、
②池田本仏論という前代未聞の大謗法の依り処として利用され続けているが故に、
解体されたのであり、他の寺院には、そのような事由(じゆう)は当てはまらないのであります。(『慧妙』H17.2.1)

<客殿解体の理由>
●平成7年1月、突如、阪神・淡路地方を襲ったあの大震災を契機に、総本山においても山内諸堂宇の耐震診断、すなわち地震に対してどの程度耐えうるのか、診断を行いました。
 そのなかで、総本山の堂宇中、諸法要が執り行われる最も中枢の建物である大客殿に関しては、診断結果をよく分析し、総合的に判断をしたとき、安全性の上から「これは建て替えるべきである」との決断を下すに至りました。
 そして、同年8月の全国教師講習会の折、その経緯を説明し、従来の大客殿を解体することと、新たに建立する耐震性に優れ、安心できる新客殿の概要を宗内に公表いたしました。(大石寺主任理事・八木信瑩『大日連』H10.5)
●不思議にも平成7年にあの阪神・淡路大震災が起こりまして、今まであった、大作が寄進したところの大客殿が防災上、非常に危険な建物であることが判りましたので、思いきってこれを解体し、現在のこの客殿を造らせていただきました。この時も皆様方のたいへん純真なるお志を頂いて、平成10年にこのような立派な客殿が出来た、次第であります。
 この客殿のなかにいて、どのような大震災があっても、また、いかなる大災害があっても、それによって命を落とすようなことがないように設計してありますので、そのつもりで御安心いただきたいと思います。(第67世日顕上人・唱題行の砌H17.1.1『大日蓮』H17.2)
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大客殿の解体の理由は、その耐震性に問題があったためである。すなわち阪神淡路大震災以後、耐震基準が見直されることになった。総本山においても専門家に依頼し、大客殿其の他の耐震性を調査した結果、大客殿については解体することとなったものである。


正本堂解体の理由は、

① 創価学会の邪教化によって正法広布が遠のいたため、その建立された目的意義を失ってしまった

② 池田本仏論という前代未聞の大謗法の依り処として利用され続けている

(『慧妙』H17.2.1)
尚、正本堂が御遺命の戒壇であるという意義付けは、池田学会の「広布第2章」(摂受謗法路線)の根拠ともなっていた。


池田本仏論とは

① 池田は大聖人の生まれ変わり
・池田自身が言い出しっぺ

② 弘通においては池田の方が大聖人より勝れる
・"日蓮大聖人ですら建立できなかった本門戒壇を7百年後に建立する池田大作は、その弘通において大聖人より勝れる"
・"釈尊の予言を証明した大聖人は釈尊よりも勝れ、大聖人の予言を証明した池田は大聖人よりも勝れる"

②の拠り所が、池田の代で広宣流布が達成されたことを示す"正本堂=御遺命の戒壇"という意義付け。つまり、池田にとって、正本堂(が御遺命の戒壇であること)は、池田が広宣流布を達成した証拠であり、池田本仏論(池田が弘通において大聖人を超える存在)の根拠となるものであった。

摂受謗法路線「広布第2章」とは
・池田は、正本堂建立以後を「第2章」とし、折伏を放棄し世間に迎合した布教方法を採り入れようとした。これは、広宣流布が達成された以上、最早折伏は不要、ということか。しかし、その本音は、総体革命(天下取り)実現に向けた活動への転換、とみることができる。
・正本堂建立と御遺命の達成→池田が大聖人を凌ぐ(ということは御法主上人や御僧侶の上に立つ)法華経の行者となる→物理的にも精神的にも池田が宗門の頂点に立つ→宗門伝統の化儀や教えに捕らわれず、世俗的野望(天下取り=総体革命)実現に照準を合わせた活動に転換する。―これが「広布第2章」のネライだ。





関連年表


S30.11.23
●戒壇本尊奉安殿と名付け此處に戒壇本尊を永久に安置し奉るなり(第64世日昇上人)


S31.5.1
◆国立戒壇の大前提として、本尊流布が徹底的になされなければならぬ。日本全国の津々浦々まで、この御本尊が流布せられ(中略)最後の国立戒壇の建立、すなわち三大秘法の本門の戒壇の建立は、本尊流布の遂行とともに、当然完成されることは、いうまでもないと信ずる。(戸田会長・巻頭言集 S31.5.1/『正本堂に関する御指南の真義』60頁)
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戸田会長は、広宣流布が完成した後に、戒壇を建立すべきだと指導していたのである。これが常識的な見解ではないだろうか。


S33.
戸田会長逝去直後の総会で、当時参謀室長だった池田大作氏は「広宣流布をめざして」という題名のもと、過去から未来にかけての創価学会の道筋を、7年ごと、7つの段階に分けて意義付ける「7つの鐘」構想をぶちあげた。牧口、戸田時代の歴史を第1から第4の鐘とした上で、昭和40年までを第5の鐘、同47年までを第6の鐘の時代とし、昭和54年に7つの鐘を打ち鳴らし、広宣流布を実現すると予言した。
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昭和54年までに広宣流布達成すると予言していた池田大作氏としては、何としても正本堂=御遺命の戒壇、という意義づけがしたかったのである。そして、広宣流布が達成した昭和54年以降は、折伏を表に出さずに、文化運動を中心にして活動しようとしたのであろう。


S33.12.12
◆国立戒壇の建立は、日蓮正宗の願望であり、また会長先生の、創価学会の目的でございます(池田大作『聖教新聞』S33.12.12/『池田大作 日本経済乗っ取りの野望(1)』)


S34.5.8
◆大聖人の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所とも言うべきどうしても通らなければならないのが、創価学会の選挙なのでございます(池田大作『聖教新聞』S34.5.8/『池田大作 日本経済乗っ取りの野望(1)』)


S34.8.5
◆やがて正本堂と、どういう名前になるか分かりませんが(中略)そこへ奉安殿の御本尊様がお出ましになるのです。そのときが、広宣流布の姿、儀式なのです。(池田大作「創価学会の歴史と確信」講義S34.8.5/『正本堂に関する御指南の真義』63頁~)
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池田は大御本尊が正本堂へ移ったときが、広宣流布だとしていたのです。これは、上記(S31.5.1)戸田会長とは、正反対の本末転倒の考えです。


S35.6.
◆今日の戦の仕上げは、戒の流布、すなわち、国立戒壇の実現であると決定された。ここに初めて、あと20年後には、大聖人の仏法も完成をみんとするわけである(「戒壇の研究」『大白蓮華』S35.6/『正本堂に関する御指南の真義』65頁)
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「20年後には、大聖人の仏法も完成」という「20年後」こそは、池田学会が謗法路線を展開し、日達上人に糾弾された「52年路線」であった。これは戸田会長逝去直後(昭和33年)に発表された「7つの鐘」構想の仕上げ=広布の達成、という予言に基くものであった。すなわち池田は、正本堂が建立される10年以上前から、広布達成の時期(=正本堂建立)を決めていたのである。そして、その後は、摂受中心の学会主導の教団経営を画策していたのである。これが原因となって起こったのが「第1次宗創問題=52年路線」であり、平成2年以降の「第2次宗創問題」であった。


S39.4.
◆〝三大秘法抄〟に「時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」との大聖人の御聖訓がございます。その時がついにやってきたとの感を深める者は、私ひとりではないと信じます。(池田大作 S39.4 大客殿落慶法要/<妙観講>WS)


S39.6.30
戒壇建立ということはほんの形式に過ぎない。(中略)ひとつの石碑みたいな、印として置くのが戒壇建立に過ぎません。したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます。(池田大作 学生部第27回総会 S39.6.30)
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この頃の池田は、正本堂と戒壇を別物と考えていた(下記【学会の戒壇論】参照)。大聖人御遺命の戒壇が「従の従の問題」「形式の形式の問題」ならば正本堂は「従の従」以下、「形式の形式」以下、ということになろう。池田学会の構成員は「従の従」以下、「形式の形式」以下の正本堂が解体されたといって大騒ぎしていることになる。


S40.1.
●会長池田先生との談話の時に、私が、「すでに広宣流布しておる」と語ったら、会長は、「そうです。舎衛の三億です」と即座に答えられたので、私はその見識に内心感嘆したのである。(第66世日達上人『大白蓮華』S40.1/<妙観講>WS)
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このように日達上人は、昭和39年から40年の時点で、「もうほとんど広宣流布が達せられる」と御覧になっています。それは、当時の創価学会が発表していた世帯数が、600万世帯から700万世帯になんなんとする状態で、日本国3000万世帯の3分の1にあたる、1000万世帯に迫ろうという勢いでした。一国の3分の1の人が正法に帰依すれば、その国は仏法流布の国といえる(これを経典では「舎衛の三億」といわれている)ということからすれば、この学会の公称世帯数を信ずる限りにおいては、日本国の広宣流布は近い、と考えられますので、日達上人も、広宣流布近きにあり、と期待されるお言葉を出されたといえましょう(※ところが、この学会の世帯数の数え方は、実際には一家5人の中で1人しか信心していなくても、御本尊を下附すればその1世帯5人は学会信徒である、という数え方をしており、その上、退転者や死亡者を差し引かない、累計下附数であったため、現実には広宣流布といえる状態ではなかった)。(<妙観講>WS)


S40.2.16
●(第66世日達上人・S40.2.16・第1回正本堂建設委員会=趣意/『慧妙』H16.10.16)
①池田会長の意思により、正本堂寄進の話があった。喜んで受けたい。
②委員会を設けて、歴史上未曽有(みぞう)の、正本堂の建設を行なっていきたい。
③『二箇相承』には、その根源において、戒壇建立が目的であると示されている。
④本堂と別の戒壇堂を設けるのは間違いである。末法の戒律は、題目の信仰が戒を受持することである。よって大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇である。したがって、大本門寺建立の戒も、戒壇の御本尊は、特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるべきである。(『百六箇抄』の御文を引かれる)
⑤戒壇の大御本尊を、現在では大石寺の本堂にご安置することが、もっともふさわしい。
⑥今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、参拝することが正しい。
⑦ただし、末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのである。
⑧したがって、正本堂の中でも須弥壇は、蔵の中に安置申し上げる形になると思う。
⑨この正本堂建立をめざして全力をそそぎ、僧俗一致して偉大な世界的建築となる正本堂を作っていただきたい。
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 未(いま)だ謗法の人が多いので大御本尊は非公開とし、広宣流布の暁をもって公開申し上げる、と決せられていることからも、正本堂が、未来広布の暁に本門寺戒壇となる可能性を含めつつも、今、直ちに御遺命の戒壇ではないことを、示されているのである。
 逆に、正本堂が宗祖御遺命の戒壇であるならば、蔵の形(非公開)を取る、との仰せは自語相違になる。
 したがって日達上人の御意は、戒壇建立の本義を示されつつ、現時における事の戒壇としての正本堂の意義を御指南されたものなのである。

●正本堂の規模の広大さと、そのしかる所以である現在の流行の広布の相は明らかに『一期弘法抄』、『三大秘法抄』の戒壇としての意義に通ずる(阿部教学部長 S40.2.16 第1回正本堂建設委員会の日達上人の発言を解説)


S40.5.3
◆正本堂の建立は実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成を意義付けるもの(池田大作 S40.5.3 総会/『正本堂に関する御指南の真義』68頁)


S40.7.26
◆国が最高に繁栄した時が広宣流布の時であり、一国にためにも、国民のためにも最高の時です。そうした背景のもとに広宣流布の儀式が行われるのです。それが創価学会の究極の目的の1つです。その時に不開門が開く。一説には、天皇という意味もありますが、再往は時の権力者であるとされています。すなわち、公明党がどんなに発展しようが、創価学会がどんなに発展しようが、時の法華講総講頭であり、創価学会の会長がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます。(池田大作『聖教新聞』S40.7.26/『池田大作 日本経済乗っ取りの野望(1)』)
私が御法主上人猊下様、大聖人様に、不開門を開いて、このように広宣流布致しましたと、猊下をお通し申して、一閻浮提総与の大御本尊様に報告することが、究極の広宣流布の暁の、その意義なのであります(同)
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広宣流布の暁には、池田自身が「権力者」となり、不開門を開くと宣言。


S40.10.
●ただいまお聞きのとおり、誰も想像しなかったほどの多額の御供養をお受けいたしました。広宣流布達成のための、大折伏の大将である池田会長が、宗祖日蓮大聖人の「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」のご遺言にまかせ戒壇の大御本尊様安置の正本堂建立を発願せられ、学会の皆さんに建立御供養を発願せられて、この立派なる成果となったのでございます。(第66世日達上人 S40.10 学会本部幹部会/<妙観講>WS)


S42.10.
◆詮(せん)ずる所、正本堂の完成をもって、三大秘法ここに成就し(池田大作 S42.10 建立発願式)


S43.1.
●この正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります(第66世日達上人『大白蓮華』S43.1/<妙観講>WS)


S43.
◆日蓮大聖人の『三大秘法抄』の御遺命にいわく「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり」云々。この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要。」(池田大作 S43 着工大法要/<妙観講>WS)


S45.2以降
◆正本堂は民衆立であり、それが本門事の戒壇である(共産党の国会質問趣意書に我田引水して回答/『慧妙』H15.4.1)
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「言論間題」の時、最初に手がけた難事が「国会質問主意書」で、「国立戒壇建立を目的とする公明党は、憲法違反ではないか」と突っ込まれ、文化庁から委嘱された所轄庁の東京都から回答を求められた時、創価学会は、
◆以前、国立戒壇ということを用いたが、今では用いていない。今、大石寺に建立中の正本堂が、大聖人御遺命の戒壇であり、800万人の浄財で建立するのであるから、"国立"ではなく"民衆立"だ(東京都への回答書)
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という回答書を提出しました。これは、池田大作氏の指示により、私が中心となって作成したものです。
 以来、私は池田大作氏の意を体(たい)して「正本堂」の意義をめぐって、御宗門及び妙信講を相手に渡り合うことになったのです。
 宗内から激しい批判を受けたが、池田大作は、何としてもこの意義付けを守り抜かなくてはならなかったのである。(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.3.1)

S45.5.
●戒壇の御本尊在(まし)ます処は、すなわち事の戒壇である。究極を言えば三大秘法抄あるいは一期弘法抄の戒壇で、もちろん事の戒壇であるけれども、そこにまつるところの御本尊が、今この処にある。この御本尊様は戒壇の御本尊である。ゆえに、この御本尊おわします処がこれ事の戒壇である。それが御宝蔵であっても、奉安殿であっても、正本堂であっても、あるいはもっと立派なものができるかもしれない、できたとしても、この御本尊まします処は事の戒壇である。(第66世日達上人 S45.5 寺族同心会/<妙観講>WS)
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この時点で日達上人は、正本堂が広宣流布達成の暁の究極の戒壇だとは仰せられず、むしろ、その正本堂よりも後にさらに立派なものができるかもしれない、として、正本堂が建った時点ではまだ広宣流布ではないかもしれない、という旨を示されているのです。つまり、正本堂完成の時点での広宣流布達成は無理かもしれない、という翳(かげ)りをお感じになり、正本堂が直ちに御遺命の戒壇とはならないかもしれない、とのお考えを示されているといえましょう。(<妙観講>WS)

◆すでに大聖人御在世中に、慧(え)たる本門の題目、定(じょう)たる本門の本尊は建立された。そして、ただ戒(かい)たる本門の戒壇のみが「時を待つべきのみ」と後世に残された。(中略)ここに正本堂建立が、三大秘法の完結を意味するという、仏法上重要な意義を考え(北條理事長『大白蓮華』S45.5)


S47.4.28
●正本堂は、『一期弘法付属書』並びに『三大秘法抄』の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち、正本堂は広宣流布の暁に本門事の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。然れども800万信徒の護惜建立は、末来において更に広布への展開を促進し、正本堂は正にその達成の実現を象徴するものというべし(第66世日達上人 S47.4.28 訓諭/『慧妙』H15.4.1)
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 この時、私と原島嵩氏は、池田大作氏の指図のもと、不遜(ふそん)にも、宗務院の役僧の方々を相手に
 「正本堂は御遺命の事の戒壇である」
との内容を「訓諭」の中に明示するよう、激しく迫りました。、
 当時教学部長であられた日顕上人に対し、私と原島氏は、今にして思えば失礼なことに、言わばけんか腰で迫ったのです。
 「訓諭」については、
 「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり」
という、日達上人が苦心なされて示された文言に満足せず、「もっと直載(ちょくせつ)に、"正本堂が本門事の戒壇であり、広宣流布は達成された"と書いてもらいたい」としつこくねばりましたが、日達上人は、
 「即ち、正本堂は、……その達成の実現を象徴するものと云うべし(●の下線部)」
との文言を付け加えるに止められたのです。
 この、付け加えられた文言に対し、妙信講が怒って
 「かくなる上は、大挙して大石寺に押しかけ実力で法要を阻止する

と言い出し(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.3.1)(2◆参照)


S47.5.16
広宣流布への流溢の展開の上に霊山浄土に似たらん最勝の地、富士山天生ケ原即ち大石ケ原に戒壇建立があるべきでありましょう。故に、今回建立の正本堂こそ、今日における妙法広布の行者である大聖人の弟子檀那が建立せる、一期弘法抄の意味を含む本門事の戒壇であると申すべきであります。(中略)「正本堂は一期弘法抄の意義を含む、現時に於ける事の戒壇である」と宣言する次第であります。(第66世日達上人『大白法』S47.5.16/<妙音>WS)


S47.10.1
◆日蓮正宗は第1章をここに終わり、本日より第2章に入ったわけであります。あくまでも、民衆のために-。(池田大作『聖教新聞』S47.10.2 正本堂完工式での発言)
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「正本堂建立=広布の達成=広布第2章=摂受中心学会中心の謗法路線」の実行こそが「52年路線」であり、日達上人に厳しく糾弾され、挫折したものである。しかし、池田の野心=広布第2章への妄執は、生きつづけていた。その野望が再び表面化したのが「11.16」スピーチを発端とする第2次宗創問題である。


S47.10.3
2◆現在は、広宣流布の一歩にすぎない。
 したがって、正本堂はなお未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。ゆえに正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、御遺命は達成してしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである(理事長・和泉覚名の談話『聖教新聞』S47.10.3/『慧妙』H15.4.1)
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(妙信仰と)面談してなだめた結果、『聖教新聞』紙上に理事長談話を掲載することで、ひとまず収まったのです。(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.3.1=取意)(1●参照)
「広宣流布は達成されたなどということは誤り」学会がこのような談話を機関紙に掲載したことは、これまでに学会が一人「正本堂=御遺命の戒壇」に固執して、宗門へ意義付けを押し付けるべく圧力をかけていた何よりの証拠である。この発表で、妙信講との間に一時休戦の協定が成立し、かろうじて、落慶法要を迎えることができたのである。しかし、「正本堂建立=広布達成=広布第2章」という妄執は、池田を中心に生き続け日達上人の宸襟を悩ませることになる。(【広布第2章と正本堂】参照)


S47.10.11
●今後、この正本堂に於いて、永久にこの戒壇の御本尊様の御開扉をして、信徒皆様の祈願の大殿堂とすることに決定した次第でございます(第66世日達上人 S47.10.11 大御本尊遷座の大法要)
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「永久にこの戒壇の御本尊様の御開扉」これは、当時の状況に即した儀礼的意義願望の表明と解するべきであろう。その証拠に、正本堂建立よりわずか17年前の奉安殿建立時にも「戒壇本尊奉安殿と名付け此處に戒壇本尊を永久に安置し奉るなり」(第64世日昇上人)との発言があったのである。


S47.10.12
●事の一念三千本門戒壇の大御本尊を安置し奉る此の処は即ち是れ本門事の戒壇にして真の霊山、事の寂光土なり。(中略)広宣流布の大願成就を祈念して無二の地球上に平和と幸福をもたらし現世に常寂光土の実現あらんことを。(第66世日達上人・正本堂完成奉告大法要の慶讃文『大日蓮』7212号13頁/『大白法』H16.5.16)
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正本堂は戒壇の大御本尊御安置の意義に約して、現時における事の戒壇であり、正本堂では広宣流布を祈念するのであって、広宣流布の時そのものは将来に属することを明言されている。


S47.12.
●事の一念三千本門戒壇の大御本尊を安置し奉る此の処は即ち是れ本門事の戒壇にして真の霊山、事の寂光土なり。(中略)広宣流布の大願成就を祈念して無二の地球上に平和と幸福をもたらし現世に常寂光土の実現あらんことを。(第66世日達上人・正本堂完成奉告大法要の慶讃文『大日蓮』S47.12 13頁/『大白法』H16.5.16)
-----------------------
正本堂は戒壇の大御本尊御安置の意義に約して、現時における事の戒壇であり、正本堂では広宣流布を祈念するのであって、広宣流布の時そのものは将来に属することを明言されている。


S48.8.
●この大御本尊を正本堂は永久に守護して奉る建築物である。(第66世日達上人 S48.8)


S48.8.23
・日達上人、「賞 本門事戒壇正本堂建立」の御本尊(賞与御本尊=正本堂記念の御本尊)を書写
◆賞 本門事戒壇正本堂建立 昭和四十九年一月二日(第66世日達上人・池田に授与の賞与御本尊の脇書き/『正本堂に関する御指南の真義』)
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「本門事戒壇」とは広宣流布の前にも用いる語である。


S49.5.6
◆御本尊裏書の件(S48.8.23正本堂記念の御本尊)学会持参の原稿「此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為ることの証明の本尊也」(S49.5.6 藤本メモ=裁判で資料提出されたこともある/『正本堂に関する御指南の真義』)
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昭和47年4月28日の訓諭以降も学会は、正本堂の意義付けとして「三大秘法抄に御遺命の事の戒壇」であることに固執していたことが分かる。


S49.7.27
●一昨年(昭和47年)の秋くらいから、去年を通じ今年(昭和49年)の春にかけて、学会の宗門に対する態度と申しますか、いろいろ僧侶に対して批判的であり、また、教義上においても、我々から見て逸脱していることが多々あるように思われます。
 それは世間の友好のため、広宣流布のため、という目標によってそうしておると聞きますけれども、そのままにしておいたんでは、それは大問題になりはしないか。終いにおいて取り返しのつかないことになりはしないか。(中略)その時、「国際センターを造る」と。「創価学会と日蓮正宗ともう1つ上に、日蓮正宗国際センターというものをつくる」という趣旨で来られました。
 私は、はっきり断りました。(中略)はっきり、日蓮正宗の上につく日蓮正宗国際センターと云うものを、私は否定と云いますか、お断りしたわけでございます。
 それから端を発して、色々の、その後の、「最近の1年か2年かにわたる所の、学会の教義の違い、謗法のあり方」と云う事を私は申上げました。で、ついに、その為に2人は帰って行きました。
 また会計を、「大石寺の会計も調べる。その会計を調べる」と云う。(中略)その時に北条さんが云うには、「若し調べさせなければ手を分かつ、おさらぼする」とはっきり言ったのです。(中略)
 という様な出来事が多々ありまして、「これはもう、これじゃ、このままじゃ話にもならない。どこまでも、もし、学会がこなければ、もう、それは『正本堂』を造ってもらって有難い、『正本堂』は、その時の、日蓮正宗の、少なくとも信心する人、の集まりによって、その供養によって出来た建物である。だからもし、学会が来なくて、こっちが生活が立たない、というならば、御本尊はまた御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら、御開帳してもいい」と、いう覚悟を決めたわけです。(テープ反訳)(後文省略)(第66日達上人 S49.7.27 「宗門の現況と指導会」於 総本山大講堂大講義室/『慧妙』)
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学会が宗門に対して批判的となった「一昨年の秋くらいから」とは、まさに池田が「日蓮正宗は第1章をここに終わり、本日より第2章に入った」と発言した時期と一致する。
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このお言葉から拝せられるように、正本堂建立以降に池田が推し進めた路線は、創価学会を主とし日蓮正宗を従とする本末転倒の関係の構築であり、さらに、日蓮正宗を排除した独立路線の確立(「山崎・八尋文書」「北条文書」参照)であった。それが、池田が唱えた「第2章」の意味だったのである。


S49.9.20
●此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也 昭和四十九年九月二十日(第66世日達上人・賞与御本尊の裏書/『正本堂に関する御指南の真義』)
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日達上人は、学会提出の裏書原稿に敢えて「準じて」の文字を入れることによって、学会の広布への熱意を理解されつつも、正義を貫かれたと拝することができる。ここにも、なにがなんでも「正本堂=御遺命の戒壇」としたい学会と、学会の広布への熱意を買いつつも、正義を守ろうとされた日達上人の立場の違いが読み取れるのである。


S59.4.6
●大御本尊を安置する広布の根本となる堂、すなわち正本堂こそ本門の戒壇であります(第67世日顕上人 S59.4.6 虫払法要)
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これは、『三大秘法抄』に御遺命の戒壇という意味ではない。上記日達上人の最終的御指南に、沿った御発言であると解すべきです。





正本堂の意義付け


【「御遺命の戒壇」に固執する理由】
<1>広宣流布達成への執着
◆国が最高に繁栄した時が広宣流布の時であり、一国にためにも、国民のためにも最高の時です。そうした背景のもとに広宣流布の儀式が行われるのです。それが創価学会の究極の目的の1つです。その時に不開門が開く。一説には、天皇という意味もありますが、再往は時の権力者であるとされています。すなわち、公明党がどんなに発展しようが、創価学会がどんなに発展しようが、時の法華講総講頭であり、創価学会の会長がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます。(池田大作『聖教新聞』S40.7.26/『池田大作 日本経済乗っ取りの野望(1)』)
私が御法主上人猊下様、大聖人様に、不開門を開いて、このように広宣流布致しましたと、猊下をお通し申して、一閻浮提総与の大御本尊様に報告することが、究極の広宣流布の暁の、その意義なのであります(同)
-----------------------
広宣流布の暁には、池田自身が「権力者」となり、不開門を開くと宣言。

◆私(※池田)は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者、最高権力者である(高瀬広居著『人間革命をめざす池田大作その思想と生き方』/『池田大作 日本経済乗っ取りの野望(1)』)


<2>戒壇建立への執着
◆国立戒壇の建立は、日蓮正宗の願望であり、また会長先生の、創価学会の目的でございます(池田大作『聖教新聞』S33.12.12/『池田大作 日本経済乗っ取りの野望(1)』)

◆大聖人の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所とも言うべきどうしても通らなければならないのが、創価学会の選挙なのでございます(池田大作『聖教新聞』S34.5.8/『池田大作 日本経済乗っ取りの野望(1)』)


<3>「広布第2章」
戸田会長逝去直後の総会で、当時参謀室長だった池田大作氏は「広宣流布をめざして」という題名のもと、過去から未来にかけての創価学会の道筋を、7年ごと、7つの段階に分けて意義付ける「7つの鐘」構想をぶちあげた。牧口、戸田時代の歴史を第1から第4の鐘とした上で、昭和40年までを第5の鐘、同47年までを第6の鐘の時代とし、昭和54年に7つの鐘を打ち鳴らし、広宣流布を実現すると予言した。
-----------------------
昭和54年までに広宣流布達成すると予言していた池田大作氏としては、何としても正本堂=御遺命の戒壇、という意義づけがしたかったのである。そして、広宣流布が達成した昭和54年以降は、折伏を表に出さずに、文化運動を中心にして活動しようとしたのであろう。

◆日蓮正宗は第1章をここに終わり、本日より第2章に入ったわけであります。あくまでも、民衆のために-。(池田大作『聖教新聞』S47.10.2・正本堂完工式での発言)

●一昨年(昭和47年)の秋くらいから、去年を通じ今年(昭和49年)の春にかけて、学会の宗門に対する態度と申しますか、いろいろ僧侶に対して批判的であり、また、教義上においても、我々から見て逸脱していることが多々あるように思われます。 それは世間の友好のため、広宣流布のため、という目標によってそうしておると聞きますけれども、そのままにしておいたんでは、それは大問題になりはしないか。終いにおいて取り返しのつかないことになりはしないか。(中略)その時、「国際センターを造る」と。「創価学会と日蓮正宗ともう1つ上に、日蓮正宗国際センターというものをつくる」という趣旨で来られました。 私は、はっきり断りました。(第66世日達上人 S49.7.27)
-----------------------
このお言葉から拝せられるように、正本堂建立以降に池田が推し進めた路線は、創価学会を主とし日蓮正宗を従とする本末転倒の関係の構築であり、さらに、日蓮正宗を排除した独立路線の確立(「山崎・八尋文書」「北条文書」)であった。それが、池田が唱えた「第2章」の意味だったのである。


<4>池田本仏論
●あの正本堂を解体したのは、凡夫であり下衆の人間であるところの池田大作が、宗祖大聖人の境界を乗り越えようとするような大それた野望と悪念を持っており、その大謗法の塊として正本堂が建立されたことがはっきりと判ってきたからであります。このことは初めのうちはなかなかはっきりしませんでしたが、時を追うにしたがって、彼らの、特に池田大作の正法を否定するところの考えがはっきりと表れてきたのであります。
 つまり、大聖人様は本門の題目を弘宣され、また本門の本尊をお弘めになったのであります。それに対して池田大作の心底には、「日蓮大聖人ができなかったところの本門の戒壇を建立する。その本門の戒壇が正本堂である」という、まことに不逞極まる図式をもって、いわゆる日蓮大聖人様以上の法華経の行者が池田大作であるという考えがずっと存在しておったのであります。そして、このことが時間の経過とともにはっきりと表れてきました。そこに大謗法の根源があったのでありますから、これを断固として打ち破るためにも、正本堂を解体するいうことが自然の流れのなかで顕われてまいりました。
 このところに初めて、本当の正法を護持し、また正しく広布に向かって前進する内容が備わったということを、私はひしひしと感じておる次第であります。(第67世日顕上人『大白法』H15.1.16)

★池田大作の前には、言論問題で瓦解(がかい)した正本堂の粉飾を、どのように取り繕(つくろ)い、やり直して昭和47年10月を迎えるか、ということが当面の、最大かつ深刻な課題となって立ちはだかったのである。もし正本堂が、教義上、重大な意味をもたない、ただのどでかい"奉安殿"だということになったら、池田大作は2度と立ち直れない。だから池田大作は、"国立戒壇"などどうでもよかったが、正本堂の意義付けには"固執(こしゅう)"した。(『慧妙』H15.4.1)

★池田創価学会としては、「正本堂を大本門寺戒壇だとすることによって三大秘法が完結し、それは、池田が大聖人以上の仏であることの現証になる」(仏法上の野心)「それはまた同時に、池田こそが日本国の国主・最高権力者になった、ということを宣言する儀式である」(世間法上の野心)という2つの理由から、昭和45年の時点で日達上人が「正本堂が建っても、いまだ広宣流布ではないかもしれない」と仰せられても、何としても正本堂建立をもって広宣流布達成とし、正本堂を大本門寺戒壇としてしまいたかったのであります。その離れられない執着ゆえに、昭和46年、47年と、池田創価学会では、ずっと「広宣流布達成だ」と言い続けました。(<妙観講>WS)


<5>言論問題での追及回避<言論問題>参照)
公明党の母体組織である創価学会が、当時の国会や世間から、国立戒壇について追求されることを恐れ、日蓮正宗においては戒壇建立は済んだことであると欺き、学会・公明党への追求を逃れようとした目的もあった。御本仏日蓮大聖人末法御出現の目的たる、広宣流布本門戒壇建立という、下種仏法究竟の大事を、政争の道具にしたことは、御本仏日蓮大聖人への背反・冒涜これに過ぎるものはない。(『大白法』H9.10.1号外)



【意義付けの経緯】
◆〝三大秘法抄〟に「時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」との大聖人の御聖訓がございます。その時がついにやってきたとの感を深める者は、私ひとりではないと信じます。(池田大作 S39.4 大客殿落慶法要/<妙観講>WS)

●会長池田先生との談話の時に、私が、「すでに広宣流布しておる」と語ったら、会長は、「そうです。舎衛の三億です」と即座に答えられたので、私はその見識に内心感嘆したのである。(第66世日達上人『大白蓮華』S40.1/<妙観講>WS)
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このように日達上人は、昭和39年から40年の時点で、「もうほとんど広宣流布が達せられる」と御覧になっています。それは、当時の創価学会が発表していた世帯数が、600万世帯から700万世帯になんなんとする状態で、日本国3000万世帯の3分の1にあたる、1000万世帯に迫ろうという勢いでした。一国の3分の1の人が正法に帰依すれば、その国は仏法流布の国といえる(これを経典では「舎衛の三億」といわれている)ということからすれば、この学会の公称世帯数を信ずる限りにおいては、日本国の広宣流布は近い、と考えられますので、日達上人も、広宣流布近きにあり、と期待されるお言葉を出されたといえましょう(※ところが、この学会の世帯数の数え方は、実際には一家5人の中で1人しか信心していなくても、御本尊を下附すればその1世帯5人は学会信徒である、という数え方をしており、その上、退転者や死亡者を差し引かない、累計下附数であったため、現実には広宣流布といえる状態ではなかった)。(<妙観講>WS)

●(第66世日達上人・S40.2.16・第1回正本堂建設委員会=趣意/『慧妙』H16.10.16)
①池田会長の意思により、正本堂寄進の話があった。喜んで受けたい。
②委員会を設けて、歴史上未曽有(みぞう)の、正本堂の建設を行なっていきたい。
③『二箇相承』には、その根源において、戒壇建立が目的であると示されている。
④本堂と別の戒壇堂を設けるのは間違いである。末法の戒律は、題目の信仰が戒を受持することである。よって大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇である。したがって、大本門寺建立の戒も、戒壇の御本尊は、特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるべきである。(『百六箇抄』の御文を引かれる)
⑤戒壇の大御本尊を、現在では大石寺の本堂にご安置することが、もっともふさわしい。
⑥今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、参拝することが正しい。
⑦ただし、末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのである。
⑧したがって、正本堂の中でも須弥壇は、蔵の中に安置申し上げる形になると思う。
⑨この正本堂建立をめざして全力をそそぎ、僧俗一致して偉大な世界的建築となる正本堂を作っていただきたい。
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 未(いま)だ謗法の人が多いので大御本尊は非公開とし、広宣流布の暁をもって公開申し上げる、と決せられていることからも、正本堂が、未来広布の暁に本門寺戒壇となる可能性を含めつつも、今、直ちに御遺命の戒壇ではないことを、示されているのである。
 逆に、正本堂が宗祖御遺命の戒壇であるならば、蔵の形(非公開)を取る、との仰せは自語相違になる。
 したがって日達上人の御意は、戒壇建立の本義を示されつつ、現時における事の戒壇としての正本堂の意義を御指南されたものなのである。

●正本堂の規模の広大さと、そのしかる所以である現在の流行の広布の相は明らかに『一期弘法抄』、『三大秘法抄』の戒壇としての意義に通ずる(阿部教学部長・昭和40年2月16日・第1回正本堂建設委員会の日達上人の発言を解説)

◆かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかとなったのであります。(池田大作「御供養趣意書」)
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この「御供養趣意書」は、宗門の承認があったことも事実であるが、昭和30年代以来の戒壇建立路線にのっとり、まさしく創価学会が主導した内容であったことは否めない。「実質的な戒壇建立」「広宣流布達成」の語は、第1回正本堂建設委員会における日達上人の御指南にも反するし、その後の「訓諭」や賞与御本尊の裏書の内容にも反するものである。つまり、ここに日達上人の真意がないことは明白である。一種の賛辞であり、願望、目標と解するべきであろう。

◆正本堂の建立は実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成を意義付けるもの(池田大作 S40.5.3 総会/『正本堂に関する御指南の真義』68頁)

●ただいまお聞きのとおり、誰も想像しなかったほどの多額の御供養をお受けいたしました。広宣流布達成のための、大折伏の大将である池田会長が、宗祖日蓮大聖人の「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」のご遺言にまかせ戒壇の大御本尊様安置の正本堂建立を発願せられ、学会の皆さんに建立御供養を発願せられて、この立派なる成果となったのでございます。(第66世日達上人 S40.10 学会本部幹部会/<妙観講>WS)

◆詮(せん)ずる所、正本堂の完成をもって、三大秘法ここに成就し(池田大作 S42.10 建立発願式)

●この正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります(第66世日達上人『大白蓮華』S43.1/<妙観講>WS)

◆日蓮大聖人の『三大秘法抄』の御遺命にいわく「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり」云々。この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要。」(池田大作 S43 着工大法要/<妙観講>WS)

◆すでに大聖人御在世中に、慧(え)たる本門の題目、定(じょう)たる本門の本尊は建立された。そして、ただ戒(かい)たる本門の戒壇のみが『時を待つべきのみ』と後世に残された。(中略)ここに正本堂建立が、三大秘法の完結を意味するという、仏法上重要な意義を考え(北條理事長『大白蓮華』S45.5)
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このように日達上人は、昭和39年から40年の時点で、「もうほとんど広宣流布が達せられる」と御覧になっています。 それは、当時の創価学会が発表していた世帯数が、600万世帯から700万世帯になんなんとする状態で、日本国3000万世帯の3分の1にあたる、1000万世帯に迫ろうという勢いでした。一国の3分の1の人が正法に帰依すれば、その国は仏法流布の国といえる(これを経典では「舎衛の三億」といわれている)ということからすれば、この学会の公称世帯数を信ずる限りにおいては、日本国の広宣流布は近い、と考えられますので、日達上人も、広宣流布近きにあり、と期待されるお言葉を出されたといえましょう(※ところが、この学会の世帯数の数え方は、実際には一家5人の中で1人しか信心していなくても、御本尊を下附すればその1世帯5人は学会信徒である、という数え方をしており、その上、退転者や死亡者を差し引かない、累計下附数であったため、現実には広宣流布といえる状態ではなかった)。(<妙観講>WS)
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日達上人が「正本堂=御遺命の戒壇」であるかのような御発言をされた背景には、学会の折伏が大いに進み「舎衛の三億」の実現が間近であるとの認識があった。しかし、正本堂意義付けの前提である学会の公称世帯数が水増しされたものだったのである。

・学会の折伏が進むなかにおいて、広宣流布は間近であるという雰囲気が学会を中心に巻き起こっていたのは事実である。このような雰囲気の中で、学会側の言動に靡くような形で、「正本堂=御遺命の戒壇」であるかのごとき発言があったのも事実である。その背景には、広布を達成しようとする学会の意気込みを削がないようにとの、配慮もあったであろう。

・日達上人は、学会の公表世帯数が実体・実数の伴(ともな)わないものであることを知られると、正本堂=広宣流布という直接的な表現を示されなくなる。つまり、正本堂は未(いま)だ御遺命の戒壇ではない、との意志を示されるようになる。(『慧妙』H25.6.1)

・これらはいずれも、日達上人が、学会及び池田大作の当時の信心を信頼されて、広宣流布が近い将来達成される、ということを大いに期待されて仰せられたお言葉であります。夫れが昭和45年になると、「広宣流布達成はまだ無理かもしれない」という御見解が、日達上人お言葉の中に拝せられるようになります。(<妙観講>WS)

●戒壇の御本尊在(まし)ます処は、すなわち事の戒壇である。究極を言えば三大秘法抄あるいは一期弘法抄の戒壇で、もちろん事の戒壇であるけれども、そこにまつるところの御本尊が、今この処にある。この御本尊様は戒壇の御本尊である。ゆえに、この御本尊おわします処がこれ事の戒壇である。それが御宝蔵であっても、奉安殿であっても、正本堂であっても、あるいはもっと立派なものができるかもしれない、できたとしても、この御本尊まします処は事の戒壇である。(第66世日達上人 S45.5 寺族同心会/<妙観講>WS)
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この時点で日達上人は、正本堂が広宣流布達成の暁の究極の戒壇だとは仰せられず、むしろ、その正本堂よりも後にさらに立派なものができるかもしれない、として、正本堂が建った時点ではまだ広宣流布ではないかもしれない、という旨を示されているのです。つまり、正本堂完成の時点での広宣流布達成は無理かもしれない、という翳(かげ)りをお感じになり、正本堂が直ちに御遺命の戒壇とはならないかもしれない、とのお考えを示されているといえましょう。(<妙観講>WS)


<言論問題>
◆正本堂は民衆立であり、それが本門事の戒壇である(共産党の国会質問趣意書に我田引水して回答/『慧妙』H15.4.1)
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「言論間題」の時、最初に手がけた難事が「国会質問主意書」で、「国立戒壇建立を目的とする公明党は、憲法違反ではないか」と突っ込まれ、文化庁から委嘱された所轄庁の東京都から回答を求められた時、創価学会は、
◆以前、国立戒壇ということを用いたが、今では用いていない。今、大石寺に建立中の正本堂が、大聖人御遺命の戒壇であり、800万人の浄財で建立するのであるから、"国立"ではなく"民衆立"だ(東京都への回答書)
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という回答書を提出しました。これは、池田大作氏の指示により、私が中心となって作成したものです。
 以来、私は池田大作氏の意を体(たい)して「正本堂」の意義をめぐって、御宗門及び妙信講を相手に渡り合うことになったのです。
宗内から激しい批判を受けたが、池田大作は、何としてもこの意義付けを守り抜かなくてはならなかったのである。(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.3.1)


<妙信講との対立>
1●正本堂は、『一期弘法付属書』並びに『三大秘法抄』の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち、正本堂は広宣流布の暁に本門事の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。然れども800万信徒の護惜建立は、末来において更に広布への展開を促進し、正本堂は正にその達成の実現を象徴するものというべし(第66世日達上人 S47.4.28 訓諭/『慧妙』H15.4.1)
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現時にあっては、いまだ謗法の徒(と)多きが故に、広宣流布の達成には至っていない、したがって現時点における正本堂は、未来の広宣流布の暁に本門戒壇たることが期待される堂宇である旨、御示しになった。尚、「本門事の戒壇たるべき大殿堂」の語句については、学会側の「強制・圧迫」によって入るようになったのである(2●)。
 この時、私と原島嵩氏は、池田大作氏の指図のもと、不遜(ふそん)にも、宗務院の役僧の方々を相手に
 「正本堂は御遺命の事の戒壇である」
との内容を「訓諭」の中に明示するよう、激しく迫りました。、
 当時教学部長であられた日顕上人に対し、私と原島氏は、今にして思えば失礼なことに、言わばけんか腰で迫ったのです。
 「訓諭」については、
 「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり」
という、日達上人が苦心なされて示された文言に満足せず、「もっと直載(ちょくせつ)に、"正本堂が本門事の戒壇であり、広宣流布は達成された"と書いてもらいたい」としつこくねばりましたが、日達上人は、
 「即ち、正本堂は、……その達成の実現を象徴するものと云うべし(1●の下線部)」
との文言を付け加えるに止められたのです。
 この、付け加えられた文言に対し、妙信講が怒って
 「かくなる上は、大挙して大石寺に押しかけ実力で法要を阻止する」
と言い出し(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.3.1)

●戒壇を論ずるとき『三大秘法抄』・『一期弘法抄』にいうところの戒壇は理想の大戒壇である。しかし今我々は現実に帰り、この戒壇の御本尊まします処はすなわち常寂光・真の霊山であるという深い信念のもとに御本尊を信じてゆかなければならない(第66世日達上人『日達上人全集』2-6-34頁/『創価学会のいうことはこんなに間違っている』48頁~)
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「この戒壇の御本尊」とは本門戒壇の大御本尊である。大御本尊まします所は、広宣流布の途上であっても「常寂光・真の霊山」である。その意味で、「現時における事の戒壇」(上記1●)と仰せになったと拝することができる。すなわち、1●は、広布達成時に正本堂が本門寺の戒壇となる希望を持たせつつも、正本堂であろうとなかろうと、大御本尊まします所は、広布の途上であっても「現時における事の戒壇」なのである。

・これ(1●)に対して、妙信講が態度を硬化し、「"流血の惨"も辞せず」と宗務院を脅迫した。

・正本堂完工式(昭和47年10月1日)
●事の一念三千本門戒壇の大御本尊を安置し奉る此の処は即ち是れ本門事の戒壇にして真の霊山、事の寂光土なり。(中略)広宣流布の大願成就を祈念して無二の地球上に平和と幸福をもたらし現世に常寂光土の実現あらんことを。(第66世日達上人・正本堂完成奉告大法要の慶讃文『大日蓮』S47.12 13頁/『大白法』H16.5.16)
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正本堂は戒壇の大御本尊御安置の意義に約して、現時における事の戒壇であり、正本堂では広宣流布を祈念するのであって、広宣流布の時そのものは将来に属することを明言されている。


<意義付けの強要>
2●当時はあらゆる面で、広布の名を借りた創価学会の強制的独断の言動が多かったのであります。故に、その後の正本堂に関する定義について、大聖人の御遺命の建物とすることに強くこだわり、日達上人の御本意に背いて、その定義の文中に、「本門事の戒壇たるべき大殿堂」(1●)との字句を入れるように、強制・圧迫してきたのも、池田創価学会でありました。
 この字句が彼等の徹底した強圧によって入るようになったのちも、宗門ではこれについて、今後の僧俗一致の広布への奮励・精進によって、本門寺の戒壇となりうるような願望を表す意味に解すべきであり、それが宗祖大聖人の御正意に対する背反を免れる所以と考えておりました。
 しかるに、元来、大聖人の戒壇の正義を紊乱する不逞の見解をも持った池田達は、正本堂が御遺命の戒壇そのものの建物であり、その儀式だけをあとで行うものであるから「たるべき」というのであると、強固な信念を持っていたのであります。(第67世日顕上人・客殿新築落慶大法要H10/<御遺命守護資料館>WS)

現在は、広宣流布の一歩にすぎない。
 したがって、正本堂はなお未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。ゆえに正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、御遺命は達成してしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである(理事長・和泉覚名の談話『聖教新聞』S47.10.3/『慧妙』H15.4.1)
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(妙信仰と)面談してなだめた結果、『聖教新聞』紙上に理事長談話を掲載することで、ひとまず収まったのです。(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.3.1=取意)
「広宣流布は達成されたなどということは誤り」学会がこのような談話を機関紙に掲載したことは、これまでに学会が一人「正本堂=御遺命の戒壇」に固執して、宗門へ意義付けを押し付けるべく圧力をかけていた何よりの証拠である。この発表で、妙信講との間に一時休戦の協定が成立し、かろうじて、落慶法要を迎えることができたのである。しかし、「正本堂建立=広布達成=広布第2章」という妄執は、池田を中心に生き続け日達上人の宸襟を悩ませることになる。(【広布第2章と正本堂】参照)

●今後、この正本堂に於いて、永久にこの戒壇の御本尊様の御開扉をして、信徒皆様の祈願の大殿堂とすることに決定した次第でございます(第66世日達上人 S47.10.11 大御本尊遷座の大法要)
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「永久にこの戒壇の御本尊様の御開扉」これは、当時の状況に即した儀礼的意義願望の表明と解するべきであろう。その証拠に、正本堂建立よりわずか17年前の奉安殿建立時にも「戒壇本尊奉安殿と名付け此處に戒壇本尊を永久に安置し奉るなり」(第64世日昇上人)との発言があったのである。

・正本堂完成奉告大法要(昭和47年10月12日)
◆賞 本門事戒壇正本堂建立 昭和四十九年一月二日(第66世日達上人・池田に授与の賞与御本尊の脇書き/『正本堂に関する御指南の真義』)
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「本門事戒壇」とは広宣流布の前にも用いる語である。
◆御本尊裏書の件(S48.8.23正本堂記念の御本尊)学会持参の原稿「此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為ることの証明の本尊也」(昭和49年5月6日・藤本メモ=裁判で資料提出されたこともある/『正本堂に関する御指南の真義』)
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昭和47年4月28日の訓諭以降も学会は、正本堂の意義付けとして「三大秘法抄に御遺命の事の戒壇」であることに固執していたことが分かる。
●此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也 昭和四十九年九月二十日(第66世日達上人・上記本尊の裏書/『正本堂に関する御指南の真義』)
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日達上人は、学会提出の裏書原稿に敢えて「準じて」の文字を入れることによって、学会の広布への熱意を理解されつつも、正義を貫かれたと拝することができる。ここにも、なにがなんでも「正本堂=御遺命の戒壇」としたい学会と、学会の広布への熱意を買いつつも、正義を守ろうとされた日達上人の立場の違いが読み取れるのである。

★以上のように、発言自体には、ブレがあるものの、日達上人の真意は「御遺命の事の戒壇に準じて建立された」(賞与御本尊の裏書)「『一期弘法付嘱書』並びに『三大秘法抄』の意義を含む現時における事の戒壇」(1●)なのである。

●大御本尊を安置する広布の根本となる堂、すなわち正本堂こそ本門の戒壇であります(第67世日顕上人 S59.4.6 虫払法要)
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これは、『三大秘法抄』に御遺命の戒壇という意味ではない。上記日達上人の最終的御指南に、沿った御発言であると解すべきです。



【「現時における事の戒壇」と広布の現状】
<広布進展への「象徴」>
3●800万信徒の護惜建立は、末来において更に広布への展開を促進し、正本堂は正にその達成の実現を象徴するものというべし(第66世日達上人 S47.4.28 訓諭/『慧妙』H15.4.1)

4●広宣流布への流溢の展開の上に霊山浄土に似たらん最勝の地、富士山天生ケ原即ち大石ケ原に戒壇建立があるべきでありましょう。故に、今回建立の正本堂こそ、今日における妙法広布の行者である大聖人の弟子檀那が建立せる、一期弘法抄の意味を含む本門事の戒壇であると申すべきであります。(中略)「正本堂は一期弘法抄の意義を含む、現時に於ける事の戒壇である」と宣言する次第であります。(第66世日達上人『大白法』S47.5.16/<妙音>WS)

●事の一念三千本門戒壇の大御本尊を安置し奉る此の処は即ち是れ本門事の戒壇にして真の霊山、事の寂光土なり。(中略)広宣流布の大願成就を祈念して無二の地球上に平和と幸福をもたらし現世に常寂光土の実現あらんことを。(第66世日達上人・正本堂完成奉告大法要の慶讃文『大日蓮』7212号13頁/『大白法』H16.5.16)
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正本堂は戒壇の大御本尊御安置の意義に約して、現時における事の戒壇であり、正本堂では広宣流布を祈念するのであって、広宣流布の時そのものは将来に属することを明言されている。


<広布の実相>
5●広宣流布の時の大王は未だ出て来ない。唯僅に、彼の阿育王が世界の4分の1を領せる鉄輪王に擬してあるばかりである。仏教では此四輪王の徳力等を菩薩の四十位に対当してあるが、別して大聖人は此中の最大の金輪王の出現を広宣流布の時と云はれている程に、流溢の広宣は吾人の想像も及ばぬ程の雄大さであるが、小胆、躁急の吾人はこれを待ちかねて致って小規模に満足せんとしてる。(乃至)金輪王には自然の大威徳あって往かず戦わず居ながらにして全須弥界四州の国王人民が信伏する。(第59世日亨上人『日恭上人伝補』/第66世日達上人『大白法』S47.5.16/<妙音>WS)

6●大聖人様のお考えは、広布の暁には金輪聖王が出現するのである。そして、戒壇を建立する。その時には、法主は我々の日目上人、一閻浮提の座主・日目上人の出現ということは、本宗の伝統的相伝であります。(第66世日達上人『大白法』S47.5.16/<妙音>WS)
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 日達上人は昭和47年に「正本堂は一期弘法抄の意義を含む、現時に於ける事の戒壇である」(1●)と宣言された。しかし、それは「未来において更に広布への展開を促進」(3●)するという「広宣流布への流溢の展開の上に」(4●)「戒壇建立があるべき」(同)という前提であり、あくまでも広布「達成の実現を象徴」(3●)するものとして正本堂を建立されたのである。
 しかしながら、広布の現状をみるとき、学会破門前をみても、昭和47年以降、ほとんど進んでいない。広宣流布達成時には「全須弥界四州の国王人民が信伏」(5●)するという「金輪聖王」が出現するというのが日亨上人や日達上人のお考えであるが、その兆しさえない(権力に擦り寄る学会・公明党の中から、何かの間違いで首相が出たとしても、連立政権下の"数のトリック"で成れるくらいのもので「全須弥界四州の国王人民が信伏」するようなものでは決して無い)。
 その一方で、年月の経過とともに建物の老朽化は進むばかりである(<正本堂の惨状>参照)。これでは広布「達成の実現を象徴」するはずの正本堂の意義は、失われていると言っても過言ではない。
 さらに、日達上人は、広布達成の暁には「法主は我々の日目上人、一閻浮提の座主・日目上人の出現」と仰せであるが、現在の学会は法主の権能どころか、僧侶そのものを否定している。そのような学会が進める広布が、日達上人の期待された広布と無縁のものであることは明白である。
 以上のように、正本堂は、広布進展の上からも、広布の性格(僧俗一致か否か)の上からも、日達上人が「正本堂は一期弘法抄の意義を含む、現時に於ける事の戒壇である」と宣言された前提条件=広布「達成の実現を象徴」するものとしての意義を完全に亡失してしまっているといえる。



【広布第2章と正本堂】
◆日蓮正宗は第1章をここに終わり、本日より第2章に入ったわけであります。あくまでも、民衆のために-。(池田大作『聖教新聞』S47.10.2・正本堂完工式での発言)
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「正本堂建立=広布の達成=広布第2章=摂受中心学会中心の謗法路線」の実行こそが「52年路線」であり、日達上人に厳しく糾弾され、挫折したものである。しかし、池田の野心=広布第2章への妄執は、生きつづけていた。その野望が再び表面化したのが「11.16」スピーチを発端とする第2次宗創問題である。

●一昨年(昭和47年)の秋くらいから、去年を通じ今年(昭和49年)の春にかけて、学会の宗門に対する態度と申しますか、いろいろ僧侶に対して批判的であり、また、教義上においても、我々から見て逸脱していることが多々あるように思われます。
 それは世間の友好のため、広宣流布のため、という目標によってそうしておると聞きますけれども、そのままにしておいたんでは、それは大問題になりはしないか。終いにおいて取り返しのつかないことになりはしないか。(中略)その時、「国際センターを造る」と。「創価学会と日蓮正宗ともう1つ上に、日蓮正宗国際センターというものをつくる」という趣旨で来られました。
 私は、はっきり断りました。(中略)はっきり、日蓮正宗の上につく日蓮正宗国際センターと云うものを、私は否定と云いますか、お断りしたわけでございます。
 それから端を発して、色々の、その後の、「最近の1年か2年かにわたる所の、学会の教義の違い、謗法のあり方」と云う事を私は申上げました。で、ついに、その為に2人は帰って行きました。
 また会計を、「大石寺の会計も調べる。その会計を調べる」と云う。(中略)その時に北条さんが云うには、「若し調べさせなければ手を分かつ、おさらぼする」とはっきり言ったのです。(中略)
 という様な出来事が多々ありまして、「これはもう、これじゃ、このままじゃ話にもならない。どこまでも、もし、学会がこなければ、もう、それは『正本堂』を造ってもらって有難い、『正本堂』は、その時の、日蓮正宗の、少なくとも信心する人、の集まりによって、その供養によって出来た建物である。だからもし、学会が来なくて、こっちが生活が立たない、というならば、御本尊はまた御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら、御開帳してもいい」と、いう覚悟を決めたわけです。(テープ反訳)(後文省略)(第66日達上人 S49.7.27 「宗門の現況と指導会」於 総本山大講堂大講義室/『慧妙』)
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学会が宗門に対して批判的となった「一昨年の秋くらいから」とは、まさに池田が「日蓮正宗は第1章をここに終わり、本日より第2章に入った」と発言した時期と一致する。



【正本堂の永久性、永遠性】
この大御本尊を正本堂は永久に守護して奉る建築物である。(第66世日達上人 S48.8)

◆原告らは,日達(上人),被告日顕(上人)の発言等から,本件負担を付す旨の黙示の合意が認められるとするところ,確かに,本件趣意書及び「正本堂建立御供養申込書」等の記載や日達(上人),被告日顕(上人)の発言等の中には,「総本山における大建築についての御供養は,これで最後の機会となるでありましょう。千載一遇とはまさにこのことであります。末法万年の外,未来までも人類救済の大御本尊様を御安置申し上げるこの正本堂建立の大事業に参加できることは,永遠の誇りであり,大福運であります」,「日達上人猊下より正本堂に御供養した人々の名前は,永遠に保存しようとの仰せをいただいております。子孫末代にいたるまでの栄誉と福運,これにすぐるものはありません」,「この正本堂が建立した暁は,広宣流布の一事実として,後世に残るものでありましょう」,「今日正本堂に供養した人びとの名前は,永遠に正本堂の地下に地下室を造って,そこには水も入らず科学的によく造っていただいて,立派な永遠に残る部屋を作って,そこへ永久に保存していく考えであります」,「永久にこの戒壇の御本尊様の御開扉をして信徒皆様の即身成仏,現当二世の大願を祈願し,世界平和の祈願の大殿堂とすることに決定した」,「本山に於いて正本堂が建立し,あそこに戒壇の御本尊を安置し奉って,未来永劫に事の戒壇としてあそこに安置し奉ってある」,「全世界民衆の未来永遠における平和と幸福の為の即身成仏の大殿堂として,無限の意義を持つ」などと,正本堂の永久性,永遠性,そして信徒の子孫末代までの栄誉,福運をうたう部分がないわけではない。(H14.4.23旭川地方裁判所・平成12年(ワ)第67号損害賠償請求事件判決)

昭和30年11月23日,創価学会から寄進された奉安殿に戒壇の大御本尊を安置した際,当時の日蓮正宗法主(※日昇上人)は「戒壇本尊奉安殿と名付け此處に戒壇本尊を永久に安置し奉るなり」と発言していたにもかかわらず,戒壇の大御本尊は,昭和47年10月,正本堂に遷座されていることからしても(乙3),日達(上人)の発言等は,被告・大石寺の代表役員としての,具体的に本件負担を負う旨の意思表示ではなく,日蓮正宗の法主・管長である「日達上人猊下」として,正本堂建設の宗教的意義を明らかにしたものと解するのが相当である。(H14.4.23旭川地方裁判所平成12年(ワ)第67号損害賠償請求事件判決)
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「宗教的意義」とは不変的教義信条という意味ではなく、当時の状況に即した儀礼的意義であり願望の表明と解するべきであろう。その証拠に、正本堂建立よりわずか17年前の奉安殿建立時にも「戒壇本尊奉安殿と名付け此處に戒壇本尊を永久に安置し奉るなり」(第64世日昇上人)との発言があったのである。
http://courtdomino2.courts.go.jp/kshanrei.nsf/Listview01/4FB970D2D1691E1149256BBB0006FAD6/?OpenDocument



【学会の戒壇論】
一国に大御本尊が流布したなら、自然に当然の帰結として戒壇の建立ができる(中略)日本一国の広宣流布は問題ではなく、かならず到達することで、戒壇の建立も、そのときは当然のこととして現出するもので、一国民衆の尊崇を受けるのであることはいうまでもない。(戸田城聖「創価学会の歴史と確信」S26.8.10/『戸田城聖全集』第3巻126頁~)
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「一国に大御本尊が流布」すれば、「自然に当然の帰結として」「戒壇の建立」がなり、「一国民衆の尊崇を受ける」「日本一国の広宣流布は問題ではなく、かならず到達すること」。広宣流布もできないうちから、広宣流布達成の時期を決め、その時期に合わせて建物だけを作り、その意義付けに固執する人とは大違い。

◆国立戒壇の大前提として、本尊流布が徹底的になされなければならぬ。日本全国の津々浦々まで、この御本尊が流布せられ(中略)最後の国立戒壇の建立、すなわち三大秘法の本門の戒壇の建立は、本尊流布の遂行とともに、当然完成されることは、いうまでもないと信ずる。(戸田会長・巻頭言集 S31.5.1/『正本堂に関する御指南の真義』60頁)
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戸田会長は、広宣流布が完成した後に、戒壇を建立すべきだと指導していたのである。これが常識的な見解ではないだろうか。

◆戸田会長逝去直後の総会で、当時参謀室長だった池田大作氏は「広宣流布をめざして」という題名のもと、過去から未来にかけての創価学会の道筋を、7年ごと、7つの段階に分けて意義付ける「7つの鐘」構想をぶちあげた。牧口、戸田時代の歴史を第1から第4の鐘とした上で、昭和40年までを第5の鐘、同47年までを第6の鐘の時代とし、昭和54年に7つの鐘を打ち鳴らし、広宣流布を実現すると予言した。

◆やがて正本堂と、どういう名前になるか分かりませんが(中略)そこへ奉安殿の御本尊様がお出ましになるのです。そのときが、広宣流布の姿、儀式なのです。(池田大作「創価学会の歴史と確信」講義S34.8.5/『正本堂に関する御指南の真義』63頁~)
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池田は大御本尊が正本堂へ移ったときが、広宣流布だとしていたのです。これは、上記戸田会長とは、正反対の本末転倒の考えです。
★正本堂の建立及び、その意義について、最初に言及したのは宗門ではなく、むしろ戦後の広布の展開の上において、学会側が強い意思により、建立を推進したものであることが文献的に明らかである。

◆「それ(大客殿の建立)が終わったならば、すぐに正本堂を造りなさい。いまの御影堂の裏に世界各国の粋を集めて世紀の建築をしなさい」と、このようにも(戸田)会長先生は御遺言なされております。とともに、戒壇建立のときには戒壇堂もでき上がるものと考えられます。(池田大作 講演「戸田先生の三大誓願」S35.4.4/『正本堂に関する御指南の真義』64頁)
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昭和34年1月までは「国立戒壇=正本堂」とみなしていたものが、翌35年4月には、正本堂と本門戒壇堂を別個のものとする考えに変節。

◆今日の戦の仕上げは、戒の流布、すなわち、国立戒壇の実現であると決定された。ここに初めて、あと20年後には、大聖人の仏法も完成をみんとするわけである(「戒壇の研究」『大白蓮華』S35.6/『正本堂に関する御指南の真義』65頁)
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「20年後には、大聖人の仏法も完成」という「20年後」こそは、池田学会が謗法路線を展開し、日達上人に糾弾された「52年路線」であった。これは戸田会長逝去直後(昭和33年)に発表された「7つの鐘」構想の仕上げ=広布の達成、という予言に基くものであった。すなわち池田は、正本堂が建立される10年以上前から、広布達成の時期(=正本堂建立)を決めていたのである。そして、その後は、摂受中心の学会主導の教団経営を画策していたのである。これが原因となって起こったのが「第1次宗創問題=52年路線」であり、平成2年以降の「第2次宗創問題」であった。

◆正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。従って後は本門の戒壇建立を待つばかりとなります。(池田大作 S39.5.3 学会本部総会/『正本堂に関する御指南の真義』66頁~)

戒壇建立ということはほんの形式に過ぎない。(中略)ひとつの石碑みたいな、印として置くのが戒壇建立に過ぎません。したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます。(池田大作 学生部第27回総会 S39.6.30)
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この考えこそ、三大秘法に御遺命の戒壇を冒涜する、まさに「三大秘法の破壊」にあたる発言であります。つまり池田は、建物としての正本堂に固執し、『三大秘法抄』に御遺命の戒壇の意義を「従の従の問題」だと軽んじていたのです。

◆正本堂の建立は実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成を意義付けるもの(池田大作 S40.5.3 総会/『正本堂に関する御指南の真義』68頁)

◆日蓮正宗は第1章をここに終わり、本日より第2章に入ったわけであります。あくまでも、民衆のために-。(池田大作『聖教新聞』S47.10.2 前日の正本堂完工式での発言)

★池田自身、正本堂の意義付けについては、変遷している。しかし、一貫していることは、自分の手によって広布を達成しようという強い意識である。そして何時の間にかそれが慢心となり、戸田会長の「広布の達成→戒壇建立」という正しい考えからはずれ、「正本堂の建立=広布の達成」という考えとなり、自らが宗史に未曾有の、広布の総仕上げをした偉大な功労者となることに執着したのである。このような、池田らの強い願望と広布への熱情の影響により、また、広布への熱誠への理解から、日達上人も「正本堂=広布達成」とするかのごとき御発言があったかも知れない。しかし、既に「未だ謗法が多いため、広宣流布の時まで須弥壇は蔵の形とする」(昭和40年第1回建設委員会)「現時における(事の戒壇)」(昭和47年訓諭)「(御遺命の事の戒壇に)準じて」(昭和49年賞与御本尊裏書)と、正本堂建立=広布達成ではないことを何度も明示されたのであるから、仮に一時的に「正本堂=広布達成」ととれる御指南があったとしても、広い意味、即ち広布達成への願望、目標として拝するべきであったといえよう。

/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_ <日達上人の見解>
●会長池田先生との談話の時に、私が、「すでに広宣流布しておる」と語ったら、会長は、「そうです。舎衛の三億です」と即座に答えられたので、私はその見識に内心感嘆したのである。(第66世日達上人『大白蓮華』S40.1/<妙観講>WS)

●この正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります(第66世日達上人『大白蓮華』S43.1/<妙観講>WS)
↓(昭和45年)
●戒壇の御本尊在(まし)ます処は、すなわち事の戒壇である。究極を言えば三大秘法抄あるいは一期弘法抄の戒壇で、もちろん事の戒壇であるけれども、そこにまつるところの御本尊が、今この処にある。この御本尊様は戒壇の御本尊である。ゆえに、この御本尊おわします処がこれ事の戒壇である。それが御宝蔵であっても、奉安殿であっても、正本堂であっても、あるいはもっと立派なものができるかもしれない、できたとしても、この御本尊まします処は事の戒壇である。(第66世日達上人・昭和45年5月・寺族同心会/<妙観講>WS)
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学会の公称世帯数が水増しだったために、正本堂完成の時点での広宣流布達成は無理かもしれない、という翳(かげ)りをお感じになり、正本堂が直ちに御遺命の戒壇とはならないかもしれない、とのお考えを示されている。
↓(昭和47年)
●正本堂は一期弘法付嘱書(いちごぐほうふぞくしょ)並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇である。即ち正本堂は広宣流布の暁(あかつき)に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり(第66世日達上人・S47.4.28・正本堂の意義付けに関する訓諭)
↓(昭和49年)
●一昨年(昭和47年)の秋くらいから、去年を通じ今年(昭和49年)の春にかけて、学会の宗門に対する態度と申しますか、いろいろ僧侶に対して批判的であり、また、教義上においても、我々から見て逸脱していることが多々あるように思われます。(中略)「これはもう、これじゃ、このままじゃ話にもならない。どこまでも、もし、学会がこなければ、もう、それは『正本堂』を造ってもらって有難い、『正本堂』は、その時の、日蓮正宗の、少なくとも信心する人、の集まりによって、その供養によって出来た建物である。だからもし、学会が来なくて、こっちが生活が立たない、というならば、御本尊はまた御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら、御開帳してもいい」と、いう覚悟を決めたわけです。(第66日達上人・昭和49年7月27日「宗門の現況と指導会」於 総本山大講堂大講義室/『慧妙』)
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「大聖人様のお考えは、広布の暁には金輪聖王が出現するのである。」(『大白法』S47.5.16)というのが日達上人のお考えである。この金輪聖王には「自然の大威徳あって」(同)「全須弥界四州の国王人民が信伏する」(同)。ところが、信徒の代表である池田大作自身が「僧侶に対して批判的であり、また、教義上においても、我々から見て逸脱していることが多々ある」というのでは話にならない。

 以上のように日達上人は
<1>近い将来に広布が達成されるという期待と予測の上から
<2>学会の広布達成への強い情熱を尊重される意義から
<3>学会が将来も正しい信心を貫く

という前提で、「正本堂=広布達成時の本門の戒壇となるべき堂宇」と決定されたのである。
 しかし、これらの前提が全て崩れ去った現在、正本堂を解体することは、何ら先師・日達上人に背く行為ではない。とくに
 「御宝蔵であっても、奉安殿であっても、正本堂であっても、あるいはもっと立派なものができるかもしれない、できたとしても、この御本尊まします処は事の戒壇である。」(S45.5 寺族同心会)
との御発言は、正本堂が必ずしも広布達成時の戒壇ではないことを示された重大な御指南であるといえよう。さらに、昭和47年以降、学会の謗法路線が表面化したときの
 「御本尊はまた御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら、御開帳してもいい」(S49.7.27「宗門の現況と指導会」)
という御指南を拝するならば、むしろ、学会の謗法(広布達成への執着、池田本仏論)の象徴ともいうべき正本堂の解体を、先師も喜ばれているものと拝する。





正本堂建立御供養趣意書(仮題)

(『慧妙』H16.10.16)

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◆第1回の正本堂建設委員会が開かれ、席上、日達上人猊下より、正本堂の意義について、つぎのような甚深(じんじん)の御説法がありました。(中略)かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになったのであります。(正本堂建立御供養趣意書)
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この趣意書は日達法主の承認の上で発表されたものである。そして、学会の幹部のみならず宗門僧侶の連名となっており、そこには当時の教学部長だった日顕(上人)も名を連ねているのである。以後、この第1回委員会での日達法主の発言を踏まえ、正本堂は実質的な本門戒壇、御遺命の達成、という趣旨が宗内で確認されていった。これが正本堂の意義に関する事実に即した経過である(『創価新報』H16.9.15)
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 しかし、趣意書の作成が正本堂建設委員会で行なわれ、日達上人が承認した形になってはいるが、当時の北条浩理事長が
 「第1回正本堂建設委員会が終わってすぐに、貯金箱のことを考えたのも先生ですし、趣意書にしても、申込書にしても、作ってくださったのは先生です」(昭和40年9月29日付『聖教新聞』)
と述べているように、実質的な作成者は池田大作本人だったのである。
 しかして、発願主であり、実質的な建設供養者であり、建設委員会委員長である池田大作が作成した文書であれば、当時の状況として、御供養を受ける側の宗門が異議を申し立てることなどできなかったことは、当時を知る者なら誰でも首肯(しゅこう)できる事実だ。
 要するに、形式的には建設委員会において承認されたことになっているが、実質的には、池田大作が全て決定して、好きなように事を進めていたのである。
 その後、正本堂の意義付けについて、日達上人は昭和47年4月28日に訓諭を発せられ、宗門としての公式見解を発表された。
 また、昭和47年10月3日付『聖教新聞』に「正本堂落慶の時を迎えて」と題して、当時の和泉覚理事長が
 「大聖人の仏法は、本因妙の仏法である。全民衆を救おうとの大聖人の大精神に立つならば、現在は広宣流布の一歩にすぎない。したがって、正本堂は、なお未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。故に正本堂建立をもって、何もかも完成したように思い、ご遺命は達成してしまったとか、広宣流布は達成された、などということは誤りである」
と、それまで正本堂が、宗祖御遺命の戒壇であると言っていたことを、公式に撤回したのである。
 しかし、平成3年、日顕上人が、昭和43年10月の正本堂着工大法要における「この法華本門の戒壇たる正本堂」との池田発言について、いまだに反省がない旨の御指南をされたところ、創価学会は激しく反発し、日顕上人に対し誹謗の限りを尽くした。
 しかしながら、すでに昭和47年の時点で、創価学会として、正式に正本堂の意義付けについての撤回・是正をしたのであるから、池田大作も素直に、創価学会の公式見解と同様の趣旨である、と認めれば事は足りた。それを、絶対に認めない、と我を張った姿こそ、信仰者としての潔(いさぎよ)さを失っているといえる。
 戸田会長は、質問会で、「謝るときは、さっさと謝った方が良い」(取意)と指導したことがあるが、池田よ、師の教えに準ずるのが弟子の道ではないか。いずれにせよ、正本堂解体は、池田自らが招いた結果であり、仏法の峻厳(しゅんげん)なる現証である。





言論問題によって瓦解した正本堂の意義

(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H15.4.1・H20.3.1)

【「民衆立」の戒壇】
 昭和45年の「言論出版妨害問題」(以下、言論間題と称す)に対処するため、本部中枢に入ると、創価学会のあらゆることに関与するようになり、間もなく総務になりました。当時、総務は今の副会長の10分の1くらいしかいなかった時期でした。
 私は、本部文化会館6階に、北條浩副会長(後の4代会長)の部屋の斜め向かいに個室を与えられ、そこで機密に属する仕事に従事しました。
 「言論間題」の時、最初に手がけた難事が「国会質問主意書」で、「国立戒壇建立を目的とする公明党は、憲法違反ではないか」と突っ込まれ、文化庁から委嘱された所轄庁の東京都から回答を求められた時、創価学会は、
◆以前、国立戒壇ということを用いたが、今では用いていない。今、大石寺に建立中の正本堂が、大聖人御遺命の戒壇であり、800万人の浄財で建立するのであるから、"国立"ではなく"民衆立"だ
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という回答書を提出しました。これは、池田大作氏の指示により、私が中心となって作成したものです。(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.3.1)


【言論問題で瓦解(がかい)した正本堂の粉飾】
 池田大作は、言論問題についての"謝罪講演"で何とか当面のピンチを脱して、ホッと一息、といきたいところであった。
 しかし、そうは問屋がおろさなかった。
 「正本堂建立は広宣流布の達成」「三大秘法の完結」「御遺命の本門事の戒壇」などと、さんざんに煽(あお)り立て、会員に"仏法史上2度とない大功徳を積むチャンス"だとして、"渾身(こんしん)の御供養を"と呼びかけ、350億円(池田は「本当は、その倍集めた」と言っている)を集め、鳴り物入りで喧伝(けんでん)しながら建立計画を進めてきた、まさしく池田大作の栄光を具現した正本堂であったのに、その意義をめぐって激しい論争が起こった。
 そして、池田大作が宗内に示してきた"7つの鐘"の構想(学会創立以来、7年目ごとに節目があり、そして、7回目の節目となる昭和54年には、日本中の広宣流布を達成する、と宣言して、会員たちを煽ってきた)は、シャボン玉がはじけたように、はかなく雲散霧消(うんさんむしょう)した。
 広宣流布達成など、昭和54年どころか、いつのことかわからなくなったから、もはや「三大秘法の完結」とか「御遺命の達成」などと言えるわけがない。
 内外の権力者や名士を集めて行なう晴れの儀式も、水の泡になった。
 このまま、喧伝してきたさまざまな飾りが剥(は)ぎ取られて、ただ、どでかいコンクリートの建物だけが、寒々と、過去の威勢の記念碑のように突っ立つだけ、ということになったら、池田大作にとって、それは致命傷となってしまうだろう。
 池田大作の前には、言論問題で瓦解(がかい)した正本堂の粉飾を、どのように取り繕(つくろ)い、やり直して昭和47年10月を迎えるか、ということが当面の、最大かつ深刻な課題となって立ちはだかったのである(中略)
 もし正本堂が、教義上、重大な意味をもたない、ただのどでかい"奉安殿"だということになったら、池田大作は2度と立ち直れない。
 だから池田大作は、"国立戒壇"などどうでもよかったが、正本堂の意義付けには"固執(こしゅう)"した。(元創価学会顧間弁護士・山崎正友『慧妙』H15.4.1)

「正本堂は民衆立であり、それが本門事の戒壇である」と、共産党の国会質問趣意書に我田引水して回答したことについて、宗内から激しい批判を受けたが、池田大作は、何としてもこの意義付けを守り抜かなくてはならなかったのである。(元創価学会顧間弁護士・山崎正友『慧妙』H15.4.1)


【御遺命達成への執着と妙信講との対立】
 そして、学会員が、
 「正本堂ができるまで」
と歯を食いしばって戦ってきたことに応えるためにも、何とか、正本堂落慶法要の式典を盛大かつ華麗なものにしなくては、格好がつかない。
 池田大作は、そのために、混乱の中で、組織の立て直しを図ると共に、宗門に対して、
 「正本堂が日蓮大聖人御遺命の本門事の戒壇である」
 「正本堂の完成をもって三大秘法は完結する」
と、公式に意義づけることを執拗(しつよう)に要求した。
 しかし、さすがに、そこまで踏み込んだ意義付けがなされるわけはなかった。

 妙信講と創価学会が、宗務院を間にはさんで対立する、という構図の中で、昭和47年4月28日、日達上人は
 「正本堂は、一期弘法付属書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち、正本堂は広宣流布の暁に本門事の戒壇たるべき大殿堂なり。
 但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。
 然れども800万信徒の護惜建立は、末来において更に広布への展開を促進し、正本堂は正にその達成の実現を象徴するものというべし」
との訓諭を発せられた。
 これに対して、妙信講が態度を硬化し、「"流血の惨"も辞せず」と宗務院を脅迫した。
 結局、落慶法要のギリギリ直前(10月3日)の『聖教新聞』に、
 「現在は、広宣流布の一歩にすぎない。
 したがって、正本堂はなお未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。ゆえに正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、御遺命は達成してしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである」
との、理事長・和泉覚名の談話を発表することで、妙信講との間に一時休戦の協定が成立し、かろうじて、落慶法要を迎えることができたのである。
 このようにして、何とか、法義上の体面はかろうじて守れたが、しかし、いったん白けた気分はどうしようもない。
 来賓も、当初ブチ上げたような大物の顔は並べられなかったし、一般マスコミの扱いは極めてさりげなく、冷淡で、扱いも小さかった。
 その、白けた、沈んだ空気を打ち破ったのは、貞永昌靖(ジョージ・ウィリアムス。当時、全米創価学会のトップ)がアメリカから引き連れてきた、芸能部隊だった。
 アメリカでは、創価学会よりも民音を表に立てて、興行やコンベンション、派手なパレードなどで宣伝する方法をとって、"戦争花嫁"の教団から、アメリカ人の教団へと脱皮を図ってきたが、その結果、歌や踊りが大好きな、ミーハー的な会員が増えた。
 この、貞永が連れてきた"ミーハー"的会員達が、3日間の行事の間中、底抜けに明るくパフォーマンスを繰り返して盛り上げ、大石寺境内を圧倒した。
 おかげで、沈んだ空気は一掃され、何とかお祭り気分が戻ったのであった。
 後に池田大作が、
 「俺を本当に助けたのは、北条、中西、竹入、そして貞永だ」
と、貞永を評価し、述懐したのは、この時の功績によるものである(ちなみに、池田大作が"本当に助けてくれた"と言った当人は、北条が昭和56年に急死した他、残りは、皆、池田大作のもとを離れてしまっており、何とも皮肉なことである)。
 何とか、お祭り気分で行事を終え、首脳達は肩の荷を降ろした気分で雪山坊で酒盛りをし、歌ったり踊ったり、宴会芸を披露したりした。
 しかし、池田大作は、表向き元気に機嫌よく装い振る舞ってみたものの、内心の不満と憤懣(ふんまん)を抑えきれない様子だった。
 行事の合間に、池田大作は、何を思ったか、福島源次郎氏らを呼び、
 「皆さん、本日をもって大聖人の御遺命は達成されました。ありがとう」
と、バスで下山していく会員達にメッツセージとして伝えさせた。
 原島嵩氏がこれを耳にして、福島源次郎氏をつかまえ、血相を変えて、
 「やっと妙信講をなだめ、押さえられたというのに、そんなことをしては、明らかに違約になり、耳に入ったら、浅井父子らが騒ぎ出すぞ。
 何でそんな無責任なことを言うのか」
と問い詰め、謝らせた。
 その夜、池田大作は、原島嵩氏と私を呼びつけ、首脳達の前で総括した。
 「俺が指図して福島にやらせたのだが、文句があるのか!!」
 原島嵩氏が二言三言言いかけると、
 「お前らは、一寸手柄を立てたと思って良い気になるな!! 増長するな!!
 俺は、妙信講なんか怖くも何ともない。来れるなら来てみろ!!」
と怒りちらした。10日前、妙信講との最後の対決から、私たちが帰るのをそわそわして待ち、「何とか話がついた」と聞いて胸をなで下ろした10日前とは、打ってかわった虚勢であった。
 原島嵩氏も私も、黙って頭を下げるしかなかったが、何とも情けなかった。
 池田大作の、やり場のない心情もわからないではないだけに、反撥する気も起こらなかったのである。(元創価学会顧間弁護士・山崎正友『慧妙』H15.4.1)


【「正本堂」後】
 池田大作が、当初描いたとおりには行かず、妥協に妥協を重ねて、何とか当面をしのがなくてはならなかった苦痛に対する憤懣は、煮え切らない態度を取り続けているように見えた宗門に向けられていった。
 そして、自らの法義逸脱はタナに上げ、失敗の責任を宗門に転嫁し、
 「必ず仕返しをしてやる。今に見ていろ!」
と暗い怨念を燃やした。
 これが、その後の、昭和48年から52年にかけての池田大作の、日蓮正宗に対する攻撃の伏線となったのである。(元創価学会顧間弁護士・山崎正友『慧妙』H15.4.1)

 もっとも、池田大作自身、正本堂が完成したならば、もはや2度と日蓮正宗や大石寺に、大々的な御供養をする気はなかった。
 それどころか、それ以後は、いよいよ創価学会独自の路線と行動を取り、そのためには、宗門側と一戦交えることも避けられないと、腹を括(くく)っていたのである。
 「昭和47年までは苦労しよう。大御本尊様が落ち着くまでは我慢しよう」(昭和43年5月23日・社長会記録)
 「47年正本堂建立から大闘争開始だ」(同年8月3日・社長会記録)
 こうした下心があるから、何としても、昭和47年10月12日の正本堂落慶をもって「御遺命達成」として、ケリをつけたかったのである。(元創価学会顧間弁護士・山崎正友『慧妙』H15.4.1)





賞与御本尊の裏書


S48.8.23
・日達上人、「賞 本門事戒壇正本堂建立」の御本尊(賞与御本尊=正本堂記念の御本尊)を書写
◆賞 本門事戒壇正本堂建立 昭和四十九年一月二日(第66世日達上人・池田に授与の賞与御本尊の脇書き/『正本堂に関する御指南の真義』)
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「本門事戒壇」とは広宣流布の前にも用いる語である。


S49.5.6
◆御本尊裏書の件(S48.8.23正本堂記念の御本尊)学会持参の原稿「此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為ることの証明の本尊也」(S49.5.6 藤本メモ=裁判で資料提出されたこともある/『正本堂に関する御指南の真義』)
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昭和47年4月28日の訓諭以降も学会は、正本堂の意義付けとして「三大秘法抄に御遺命の事の戒壇」であることに固執していたことが分かる。


S49.9.20
●此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也 昭和四十九年九月二十日(第66世日達上人・賞与御本尊の裏書/『正本堂に関する御指南の真義』)
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日達上人は、学会提出の裏書原稿に敢えて「準じて」の文字を入れることによって、学会の広布への熱意を理解されつつも、正義を貫かれたと拝することができる。ここにも、なにがなんでも「正本堂=御遺命の戒壇」としたい学会と、学会の広布への熱意を買いつつも、正義を守ろうとされた日達上人の立場の違いが読み取れるのである。

 そして、昭和48年10月、池田大作氏は、日達上人から「正本堂建立賞与御本尊」を下付されたことに対して、
 「正本堂を作って、紙切れ1枚かよ]」
と言って、この未表装の御本尊をポンと投げ出しました。
 その後、池田大作氏は、この賞与御本尊に"正本堂は本門事の戒壇であり広宣流布は達成された"とする裏書きを追加されるよう、日達上人に強要しました。
 しかし、日達上人がそのとおりの裏書きをされることを拒否されたため、宗門に八つ当たりし、さまざまな仕打ちをしました。
 このことについて、後に、昭和58年10月31日、私の「恐喝事件裁判」に証人として出廷した池田大作氏は、次のように証言しています。(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.3.1)

―それから、やはり、その北條さんの報告書が昭和49年5月前後、もうちょっと前かもしれませんが、正本堂は47年にできましたね。
〈池田〉そうですね。
―その正本堂完成の記念に御本尊をもらいたいと。
〈池田〉賞与御本尊ですね。
―ということで、それの裏書きをお願いしたい、というようなことを言っておられませんでしたか。
〈池田〉あったかもしれないんです。どういうふうに書いたらば一番いいかなという相談が御宗門からあった記憶があります。こちらも一番いい裏書きのほうが嬉(うれ)しいんだから、出した記憶があります。
―原稿を持って行かれた記憶がありますか。
〈池田〉私じゃない。私は持って行ってません。ですから、北條さんか誰かを宗務院の役僧に、ではないかと思います。
―内容、記憶ありませんか。どんなものを持って行ったか。
〈池田〉記憶ない。ただ、戒壇という問題についてどう定義付けたらばいいか、という課題であったことは記憶あります。
―要するに、47年に建てられた正本堂が御遺命の事の戒壇だということを証明してくれと、こういう裏書きを求めたんじゃありませんか。
〈池田〉そうですね。だいたいそういう意味です。
―そのとおり宗門から書かれたものが帰ってきましたか。
〈池田〉こちらからお願いしたとおりにはなっておりません。
―どう変わったか、ご記憶ありませんか。
〈池田〉ちょっと難しいんで、何か見ないと思い出せないんですが。
―御遺命の戒壇であることを願って建立された、というふうに文章が変わったんじゃありませんか。
〈池田〉御本尊のことは、あまり本来言いたくないんですけれども、この分は裏書きになりますからお答えしますが、私どもからお願い申し上げた文と、内容のことはちょっと略させていただきます。それから、今度は猊下を中心に大奥で、何か当時の早瀬総監のお話ですと、いろいろと協議があったようで、それで、猊下がこのように書くのが至当であるとこうおっしゃったものがあるわけです。2つですね。
 ですから、いただいたのは全部両方違うんです。これは私しか知りません。
―いずれにしても、創価学会が希望したものと、宗門から最終的に書かれてきたものとは違っていたことは事実ですね。
〈池田〉これは事実です。(『慧妙』H20.3.1)





■正本堂の用地買収

(常健院日勇御能化『富士の法統』妙教編集室138頁~)

〈編集部〉渉外部長時代の思い出をお聞かせ下さい。
〈常健院〉正本堂の建設や総坊の建設の用地買収のこと、これは大変だった。あと墓地の移転ね。これも、当時は夜になると出ていって、(用地買収の話し合いをして)夜中の3時ごろ坊に帰ってきて。だって、夜でないと相手がいないのだから。でもね、良く考えてみるとね、地元の人は信心がないなんて言う人がいるけど、ありがたいと思うのは、いよいよとなると「本山でそう言うのなら」っていってね、もう結構だからって言ってくれたからね。
 だけど、時には学会の方がブーブーいうから嫌になってしまってね、早く買収ができないといって文句ばかりいうのだから。そんなね、デパートヘ行って定価のものを買うのとはわけが違うんだよ。
 それはね、売る方にしてみれば、何百年も住んでいれば愛着もあるしいろいろな思い出もあるわけだよ。だからそんな簡単に「ああ、そうですか」なんてわけにはいかないのですよ、家ごと移転するわけですから。正本堂の敷地の中にも10軒以上はあったし、山門と道の間にもかなりの家があってね、それは大変だったのですよ、
〈編集部〉正本堂が建立される前は、その場所にお墓がありましたが、一体どれぐらい数があったのですか?
〈常健院〉大体移転するとき8千基ぐらい。
〈編集部〉8千基もあったんですか。
〈常健院〉こんな話をするのも悪いんだけど、一晩に会合が3つも4つもあったからね。ある人に「これは君困るからね、交渉を手伝ってくれないか」と下の人に頼んだら、「何で吉田先生が来ないんだ」なんて言われて、結局私1人で纏(まと)めることになって。
 そのうち、和泉覚と辻武寿が、池田大作から、「吉田先生を手伝ってこい」「墓地の問題が解決するまで東京に帰って来なくていい」なんて言われたみたいで、やって来ました。でも、ダメなんですよ、いくら副会長だ、理事長だなんていっても、世間の人はそんなこと関係ないですからね。最初は私も交渉の場に彼らが来ることを断っていたんだけど、どうしてもというので「じゃあ、あなた方は知恵だけ貸して下さい、交渉は私がやりますから」と言ったのだけど、結局、学会のあの頭ごなしのやり方ではまったく相手にされなくて、会合がメチャクチャになってしまって、元にもどすのにまた1週間かかちゃったんだよ。結局、学会も「交渉事は吉田先生に頼みます」なんていって泣きついてね。でも、その土地の交渉で良かったことは、本山が大分山林を買い取ることができたことだね。あの天母山(あんもやま)のほとんどは本山の土地なんだよ。いま本山の山林は全部で3百町歩ぐらいあるでしょ。天母山と西の山なんか入れてね。
 私は宗門の渉外部長でもあり大石寺の渉外部長でもあったわけ。だからね、大石寺の責任役員会議でね、そういう議決をしてもらって、土地の買収の契約の相手は大石寺側はみな私の名前でね。

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〈すだち〉正本堂のあった土地は、もともと本山の土地ではなかった。それを吉田御能化が地主を一軒々々廻って説得したんです。何百年も住んでいる土地を、いくらお金を積まれたからといって簡単に売れるものではないです。その証拠に、学会幹部が交渉に入ったときには、まったく話がまとまらなかったということです。
〈ゆず〉本山周辺の方だから全員法華講員でしょう。愛着のある土地を売ることにしたのは、やはり御僧侶に対する信頼があったからでしょう。要するに法華講員である地主の、僧宝に対する尊信の念があったからこそ、正本堂も建立できたということです。
〈すだち〉学会では、"正本堂は自分達がつくった"といって自慢しているが、学会の力(金)だけでは正本堂はできなかったということだね。





正本堂の惨状



紛れもない事実だった正本堂老朽化

―証拠写真は現存!!『新報』よ、勝負に出でよ―
(『慧妙』H15.5.16編集)

<"自作自演"のモルタル崩落!?>
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 老朽化の例として『慧妙』は、雨天広場のモルタルが剥(は)がれ落ちている写真を掲載したが、この写真、周囲の他の柱は何ともないのに一本だけが派手に崩れている極めて不自然なものだった。
 実際、詳しく検証してみると、モルタルには工具を使って無理矢理剥ぎ落とした際にできたと思われる傷跡が残っていた。
 さらに大石寺関係者も「若手坊主と法華講員が工具を使ってやったもの」と証言。まったくの自作自演であったことが明白になった。(『創価新報』)
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 この問題に関して、本紙は『創価新報』に対し、過去2度にわたって内容証明郵便を送付し、『モルタルの崩落は、若手僧侶と法華講員が工具を使って剥ぎ落としたもの』と言い、『証言者もいる』というなら、若手僧侶と法華講員の名と、剥ぎ落としたとする日時を明かしてみよ」と迫った。
 ところが、『創価新報』は結局、剥ぎ落としたとする人物の名も、その日時さえも、明かすことができず、頬被(ほおかむ)りを決め込んだままで今日に至っている。
 それはそうであろう、写真で見ても判るように、モルタルの崩落は、あくまでも大理石留め金部分の腐食・膨張が原因で起きたと思われる自然崩落であり、剥ぎ落としたという若手僧侶も法華講員も、もともと存在しないのだから。
 にも拘(かか)わらず、再三再四「大石寺関係者の証言」というカラ手形を切って本紙を誹謗中傷してきた『創価新報』―。これが本当の「手形」であったなら、『新報』はとうに、詐欺(さぎ)罪で刑務所行きになるところだ。


<海砂問題>
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 建立事業の詳細な記録には、「富士川産の川砂、川砂利」を使用と明記されているうえ、厳密な管理のもとで製造された非常に良質のコンクリートであったことが克明に記されている。
 つまり、「海砂」の混入する余地などまったくなく、作り話は根底から崩れてしまったのである。(『創価新報』)
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 言うならば『新報』が仕掛けてきたマッチポンプ的誹謗である。
 すなわち、円柱内の金属が錆(さ)びた原因としては、海砂使用の可能性が非常に高いと考えられる、と本紙が指摘したところ、『新報』はこれを逆手に取り、"『慧妙』は「サビは海砂が原因だ」と断定したが、記録上、工事には海砂は使用されていない、だから正本堂の老朽化はデッチ上げだ"との子供じみた三段論法で、読む者を煙に巻こうとしてきたのである。
 論より証拠、本紙131号(平成10年6月16日号)の写真特集を見れば、正本堂の老朽化は、それこそ隅から隅まで広がっていたことが、一目瞭然ではないか。『新報』よ、"老朽化はウソだ"というなら、そこに掲載された写真の一々について、全て反論してみるがよい。

[画像]:正本堂の惨状1(『慧妙』H10.6.16)

[画像]:正本堂の惨状2=学会が"若手僧侶らが工具を使ってモルタルを剥がした"とする位置には、赤茶けて膨張した金具が―。モルタル崩落の真因は、金具の腐食・膨張であることは歴然


<写真の変造!?>
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 鉄筋腐食の証拠として『慧妙』が掲載したカラー写真は、実際の柱と見比べても、故意に赤く印刷した変造写真だった。
 しかも、日顕(上人)一派が実際に円融閣の柱に穴を開け、大理石の内側を確認していたことも判明。そこでは躯体(くたい)の鉄筋はまったく錆びておらず、大理石は純白のまま。
 つまり、日顕一派は、ウソと承知で赤サビ云々という大ウソをついたのである。何という悪辣(あくらつ)さだろうか。
 結局、老朽化の作り話はことごとく破綻(はたん)。言い訳不能になった日顕(上人)は、『慧妙』に<解体はひとえに「宗教的理由」によるもので、正本堂の老朽化は『慧妙』が独自の立場で報じただけ>と詰め腹を切らせて、逃げるしかなくなったのである。(『創価新報』)
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 これは全くの『新報』の言いがかり。本紙は、写真およぴ印刷段階での"赤変化"工作など、一切行なっていない。
 それに、使用した写真もそのネガも、本紙編集室でしっかりと保管しているから、ご要望があれば、双方の廃刊を賭けて、いつでも公開しよう。
 なお、さらに有効と思われる"証拠"を見つけたので、ここに公開する。
 それは、大石寺開創700年を記念して出版された2冊の写真集、総本山大石寺より発行の『祥(しょう)』と、法華講連合会より発行の『第27回総会写真集』である。
 これらの写真集にも、すでにそうとう赤変が進んだ円柱がハッキリ写っているのだ。
 これらの写真集は、正本堂解体どころか学会問題も噴き出していない、平成2年の出版であるから、学会も、写真が意図的に加工されている、などと言うわけにはいかない。
 ともあれ、これらの写真集が発刊された平成2年の時点で、すでに円柱の赤変はそうとら進んでいたこと、また、それが池田が大謗法路線に突っ走るのと呼応するかのごとく、拡がっていったということも、明らかになったといえよう。

[画像]:正本堂の惨状3(大石寺開創700年を記念して出版された写真集『祥』と『第27回総会写真集』)





■解体工事で判明した「名建築・正本堂」の惨状

(『フォーラム21』H15.1.1抜粋)

 平成10年に解体されるまで奉安堂の建設地にあった池田大作会長(当時)が願主となって建設された正本堂を、千年ももつ堅牢かつ芸術的価値の高い名建築だと強調。正本堂を解体した阿部日顕日蓮正宗法主ならびに宗門を、激しく非難し続けている。
 昭和47年の正本堂完成時に池田氏は、「ローマの廃墟、アンコールワットの遺跡等は、いかに壮麗を誇るとも、2千年にしてくずれた姿なのである。世界平和の根本道場たる正本堂は、末法万年、いな、尽未来際まで不滅」と、正本堂は万年にわたって不滅であると豪語していた。
 だが、それからわずか14年後の昭和61年4月7日に開催された大石寺開創700年慶祝総合会議の席上、池田氏は正本堂には「本格的な補修整備」が必要である事を発表。以後、数年にわたって正本堂には大々的な補修工事が加えられた。
 要するに正本堂は、「末法万年」あるいは創価学会が主張するような「千年」どころか、わずか14年で「本格的な補修整備」が必要な建築物だったのである。


【解体工事を請け負った地田株式会社の営業部長・吉田裕史氏の話】
 正本堂を見ての第一印象は、大きいものだなというものでした。しかし、子細(しさい)に柱や壁(かべ)等を見ると、赤茶色(あかちゃいろ)に変色している部分がかなりある。これは、そうとう内部では鉄骨(てっこつ)の錆(さ)びが進んでおり、コンクリートも酸化(さんか)しているなと思いました。
 事実、解体に着手するための事前調査として、正本堂の前に立っていた円融閣(えんゆうかく)の大円柱、(だいえんちゅう)を叩(たた)き、表面の大理石(だいりせき)のタイルを剥(は)がしたところ、中から赤茶色の水がドッと溢(あふ)れ出てきました。
 もっとも驚(おどろ)いたのは正本堂の地下です。地下室の扉(とびら)を開けたところ、なんと赤茶けた水が2メートルほども溜(た)まっていたのです。「こりゃ、舟がいるな」と話し合ったくらいでした。また、他の部屋にはイタチなどが住(す)み着いていたのでしょう、動物のフンが大量に堆積(たいせき)しており、本当に驚きました。
 もともと正本堂の敷地(しきち)には潤井川(うるいがわ)が流れており、湿気(しっけ)の多い土地だったとか。ですから僧侶方の通路に敷(し)かれている絨毯(じゅうたん)なども、湿気でびしょびしょになり、すぐにか黴(か)びて使い物にならなくなったということでしたが、実際に絨毯はどこもかしこも黴だらけ。その絨毯をはがしたところ、床にはいくつも亀裂(きれつ)がはいっており、すでにそうとう、湿気等によるコンクリートの劣化(れっか)、破壊(はかい)が進んでいるとの印象を受けました。
 同様に屋根の劣化も進んでおり、随所(ずいしょ)で雨漏(あまも)りが発生。雨水(うすい)が大量にコンクリート内部に浸(し)みこんでいました。あれだけ巨大で重い屋根を、劣化した鉄骨(てっこつ)とコンクリートで支(ささ)えていることには、そうとう、無理があったと思います。
 もし、この建物をそのまま使い続けるとしたら、年間10億円以上のメンテナンス費用(ひよう)が必要になったでしょう。そうしたメンテナンスを加えていても、少なくとも10年に1回は、さらに本格的な補修(ほしゅう)工事が必要になったかもしれません。
 創価学会は千年あるいは1万年はもつと主張されているようですが、とてもとても。30年でボロボロですから、百年、いや50年もてばいいほうでしょう。それも先ほど申し上げたように、本格的な補修工事を何度も行なった上でです。
 大御本尊を安置していた須弥壇(しゅみだん)の基礎(きそ)を調べるために、記念品を埋納(まいのう)してあるという部屋にも入りました。(中略)
 内部の壁(かべ)は錆(さび)が浮いて真(ま)っ赤(か)になっていました。

[画像]=正本堂・円融閣の円柱に浮き出た真っ赤なサビ!

[画像]=円柱の表面に張られた大理石を剥がすと、真っ赤に錆びた金具が

[画像]=小円柱を繋ぐ梁のモルタルもヒビだらけ!

[画像]=法庭周辺の花崗岩は、随所で砕け、欠け、剥がれていた。その下からは、やはり真っ赤に錆びた金具が顔を出していた

[画像]=雨天広場のモルタル崩落も、内部の金具が錆びたことが原因

[画像]=須弥壇下部にある地下室の天井に現われた真っ赤なシミは、コンクリートの内部で何が起きているかを雄弁に物語っていた







池田大作と「正本堂」

―自己宣揚に「正本堂」を利用した池田―
―なんと!?大衆の面前で日達上人を罵倒(ばとう)―

(『慧妙』H22.4.16)

 正本堂御供養後の池田大作の目標は、自らを、"事の戒壇たる正本堂の建立者"として仏法史上に光り輝かせることであった。
 まず、正本堂建立事業について、池田大作は、自ら設計に介入し、世界を廻(まわ)って資材集めを行なうなど、全面的に関わっている姿勢をアピールした。
 『聖教新聞』でも絶えず話題を報道し、1年ごとに華々(はなばな)しい儀式を行なうなど、自らの活躍を最大限にPRしたのである。
 それは、大石寺の本堂建設というより、池田大作のための"イベント"として、会員にも世間にも印象付けられていった(一部では、この大石寺正本堂を「大作寺」などと呼ぶ者まで出る程だった)。
 一言でいえば、池田大作は、この正本堂建設を自分のイメージアップのために最大限に利用したのである。
 毎年行なわれた記念行事においても、主役は池田大作で、日達上人猊下はその引き立て役でしかないように演出されていた。
 このように正本堂建立は、始めから終わりまで、「池田大作の、池田大作による、池田大作のための事業」であり、正本堂は、すべての点で池田大作の宣揚のための施設となっていた。池田大作ばかりが、これでもかとばかりに顕示され、そのため、本門戒壇の大御本尊と御法主上人の影すら薄められた。
 また建立当時、池田大作は、「この正本堂で、国の元首たる創価学会会長が世界広布を祈念していくことになる」と、自ら本化(ほんげ)国主たるを宣言し、幹部達に、「三大秘法のうち、本門の本尊と題目を顕(あら)わしたのは日蓮大聖人、本門の戒壇を建立したのは池田センセー。したがって、池田センセ一は大聖人と並ぶ仏のご境界なのだ」と指導させた。そして、正本堂建立をもって御遺命の「事の戒壇」が建立されると意義付け、その建立者たる自分を"御本仏の生まれ変わり"だとする演出を、メディア・口コミ等を使って行なわせ、"池田本仏論"を会内に浸透させていったのである。
 日達上人は、池田大作が正本堂に便乗して、様々な形で"自己宣揚"するのを、大きな御心で許容されていたが、それでも池田大作は不満だった。
 池田大作は、日達上人に対して、"自分は正本堂を作り、これだけ責献したのだから、ひれ伏して感謝すべきである"という勝手な不満を、心中にたぎらせていたのである。
 たとえば、日達上人は、正本堂建立を発願した池田大作の功に報(むく)いて、"賞与御本尊"を下附あそばされた。これは、信心ある者にとって、この上ない名誉であり、最大の顕彰である。
 しかし、賞与御本尊を下附された時、池田大作は、まだ表具のされていない御本尊を取り出し、無造作に開いて見た後、巻き戻して、ポンと放り投げ、「350億のお礼が、これ1枚だよ」と言い捨てたのである。
 それを見ていた人が、腹に据(す)えかねて日達上人にお伝えし、日達上人は、非常にショックを受けられたという。
 さらに昭和48年10月1日には、正本堂落慶1周年の行事の時、池田大作は、何を思ったのか、突然、前を歩かれる日達上人を呼び止め、振り向かれた日達上人に、大声で、「約束された13億5千万円をください」と言った。日達上人が、とっさのことで返答に窮(きゅう)し、「そんなお金はありませんよ」と答えられると、池田大作はさらに声を荒げて、「猊下、嘘をつくのはよくない。正本堂ができたら、13億5千万円私にくれる、と約束したではないですか。私は、これだけ誠心誠意御奉公した。その私をだましてよいのですか」と大声で怒鳴りつけた。
 むろん、その約束とやらも池田の手前勝手な思い込みによるものだが、それにしても、これが日蓮正宗の信徒の言動といえるであろうか。
 それまで池田大作は、裏では日達上人にいろいろと圧力をかけていたが、表向きは、信伏随従の姿を見せてきた。その仮面をいきなり脱ぎ捨て、大衆の面前で日達上人を頭ごなしに怒鳴りつけ、わざわざ「俺の方が上なのだ」と見せつけようとしたのである。
 大御本尊と御法主上人猊下の大恩を忘れ、「すべて俺がやった。すべて俺のものだ」とする、その増上慢が、池田大作をさらなる大謗法、第六天の魔王の道へと走らせていったのである。





いまだに正本堂に執着する池田

-正本堂なき今も〝私が本門事の戒壇を建立〟と-
-池田が自ら日顕上人の御英断の正しさを証明-

(『慧妙』H21.1.16)

 立正安国論正義顕揚750年を迎えた本年、各塔中坊の建て替え工事も終わって総本山境内はより荘厳となり、万全の体制をもって慶事の時を迎えている。
 さて、12月26日付『聖教新聞』掲載の池田スピーチの中に
 「創価学会第2別館には、正本堂建立の際の賞与御本尊が御安置されている。きょうは、その意義について申し上げておきたい。この御本尊には、『昭和四十九年一月二日』の日付とともに、『賞本門事戒壇正本堂建立』『法華講総講頭 創価学会会長 池田大作』と、日達上人の筆で認(したた)められている。『本門事の戒壇』たる正本堂が、わが創価学会の尽力によって建立された功労が、厳粛に留められた御本尊である。来る1月2日で、この御本尊の授与から、35周年となる」
とある。
 ここで池田のいう賞与本尊とは、昭和48年頃より創価学会が紙幅常住御本尊を勝手に模刻して会員に拝ませた、いわゆる「本尊模刻事件」の中で取り沙汰された一躰である(模刻とは、大聖人御図顕の御本尊や、御歴代上人が書写された紙幅の御本尊を、板に御謹刻申し上げること。むろん御法主上人の許可を得て開眼供養をいただけば「模刻」自体は謗法ではないが、勝手に複製模刻した本尊は大謗法であり、正しい本尊ではない)。
 この模刻本尊は、昭和53年、学会が誤りを認めて総本山に納めているから、現在、創価学会第2別館には、紙幅の本尊が安置されているものと思われる。もしこれが、再び模刻した板本尊を安置しているのであれば、まったく無慙無愧(むざんむき)の極み、とんでもないことである。
 さて、前記の池田の発言には、今もなお正本堂に執着し、正本堂建立の功績にすがり付く心根が看(み)て取れる。破門後20年近くが経過し、すでに正本堂が無くなって10年が経つ今も、なおこのような発言をするのだから、池田がどれほど正本堂に未練・執着を持っているか、わかるだろう。
 要するに池田は「大聖人ですら果たせなかった本門戒壇建立の御遺命を自分が果たしたのだ」「自分こそ、この偉業を成し遂げた法華経の行者である」と言いたいのである。
 そもそも池田の言うこの賞与本尊の脇書・裏書に関しては、当時において様々な経緯があった。過去の創価学会の誤りを知るためにも、もう一度ここに記すことにしよう。
 まず、正確にいうと、脇書には「賞本門事戒壇正本堂建立 昭和四十九年一月二日」と認められ、裏書には「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也 昭和四十九年九月二十日 総本山六十六世 日達 在判」と認められている。とくに、この裏書については、当初なかったものを、池田の強い要望があって書き足したものである。
 この裏書について、御隠尊日顕上人は、
 「脇書の中の『事の戒壇』とは、前来述べる日達上人御指南のごとく、現時における事の戒壇であり、したがってその意味は、本門戒壇の大御本尊を正本堂へ奉安する故です。また、裏書では、一往『三大秘法抄』の事の戒壇のようにも取れますが、『準じて』の字よりすれば、やはり、直ちにそのものを表わす意ではないと拝します。この『準じて』とは、特に日達上人の御意志として書かれたのです。辞書によれば、この『準』の字の意には、たいらか、のり、ならう、なぞらう、のっとる、ひとしい、おしはかる等があり、さらに、准と擬の字に通じるとあります。したがって、この文字の最も通常的用法では、ならう、なぞらう、であり、すなわち本物に準ずる、あるいは似つかわしい、似ている、との解釈が一般的であります。ゆえに、この文は、『正しく三大秘法抄の戒壇になぞらえて建立する』との意味です。つまり、『準』の字は、やはり、そのものが将来、直ちに『三大秘法抄』の戒壇となるとは断定できないことを示されたものと拝します。その理由として、もし、正本堂が広宣流布の暁に、ただちに『三大秘法抄』の戒壇となる、と思われたならば、特に『なぞらう』『似つかわしい』等の意味をもつ『準』の字をわざわざお書き入れになるはずがなく、『此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の将来における事の戒壇として建立されたことを証明する本尊也』と認められたと思います」
と御指南くださり、「準じて」の語義より「正しく三大秘法抄の戒壇になぞらえて建立する」との文意であることを明かされ、「将来、直ちに『三大秘法抄』の戒壇となるとは断定できないことを示されたもの」と正釈されている。
 その証拠に、当時の記録によると池田大作は、はじめ裏書を「此の」御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為ることの証明の本尊也」とするよう、原稿まで作って日達上人に申し入れたが、日達上人はこれを拒否された。そして、御苦心されて、裏書を『此の御本尊は、正本堂が正しく三大私法抄に御遺命の事の戒壇であることを願って建立されたのを証明する本尊である』との文意にすることにされ、これを実際に認められる段階で「準じて」との語を使われたのである。したがって、「準じて」の語は、願って、ならって、なぞらえて等の意味であることが明らかである。
 このように、正本堂建立当時より、池田の正本堂に対する思い入れには異常なものがあり、正本堂が地上から消滅して久しい今もなお、「『本門事の戒壇』たる正本堂が、わが創価学会の尽力によって建立された功労が、厳粛に留められた御本尊である」などと述べて、正本堂が本門事の戒壇であると強弁しているのである。
 自らの功績を会員に知らしめんがために、日達上人と日達上人書写の御本尊を利用し、本門戒壇に関する重要法義にまで容喙(ようかい)する池田の言動は、慢心以外の何物でもないが、正本堂が存在しない今、池田がいくら正本堂のことを語ろうとも、単なる空論でしかなく、過去にすがり付く心根に哀れさだけが漂っている。





正本堂も金儲けの道具に(仮題)

―ともかく全て商売!―
(『慧妙』H17.8.1)

 池田"大商人"が、その真骨頂(しんこっちょう)を遺憾(いかん)なく発揮したのは、他ならぬ正本堂建立に関してである。
 池田は、正本堂を"『三大秘法抄』に仰(おお)せの本門寺の戒壇"と意義づけようとする一方、その裏側で、正本堂に関連して、いかに"搾取(さくしゅ)"するか、汲々(きゅうきゅう)としていたのである。

【信仰心などカケラもない池田】
―本山への"水増し請求"を指示―
●(栄光建設報告について)妙蓮寺、富士宮センター、図書館、風俗館等全部で5千万くらい儲(もう)かるか、しっかりやんなさい。(昭和46年7月27日「第51回社長会」)
●東洋(物産)にも大きな仕事を上げよう。全山有線TVを日立関係でやらせる。それをそちらに回そう。(昭和46年9月3日「第52回社長会」)
●本山の全山TV報告=東洋でやらせようね、いいね。どれ位儲かる。10%か、それでは少ない、15%位儲けなさい。かまわないよ。各社とも万事順調だな。正本堂の音響が東洋に回って行ったか。それは良い。やりなさい。(昭和46年10月13日「第53回社長会」)
●本山のCATV予算はいくらだ。2億1千万か。その見積りはそれとして、1千750万、技術料として加算しなさい。(昭和46年12月31日「第56回社長会」)
●東洋物産、去年12億。今年の目標25億か、いいね、しっかり頑張れ。あと、開闡会館(かいせんかいかん※現・常火坊)、民芸館、富士宮センターを残して、ほぼ成約3億、見込3億5千万。本部関係を加え、約10億の目標でゆきます。(昭和47年2月4日「第57回社長会」)

「東洋でやらせようね、いいね。どれ位儲かる。10%か、それでは少ない、15%位儲けなさい。かまわないよ」「その見積りはそれとして、1千750万、技術料として加算しなさい」――。池田の頭には、"総本山の仕事なのだから、利益のことよりも、まず低予算で納めよう"などといった、信徒ならば当然持つであろう考えなど、全くない。それどころか、"いかに学会関連企業で仕事を押さえるか""いかにより多く搾取するか"ばかりを考えていたのだ。何とも、呆(あき)れるばかりではないか。


【正本堂利用し徹底的に"商売"】
―口実設け正本堂御供養も搾取―
正本堂のみやげものも作れ。とにかく作るものは全部、東洋精光でやんなさい。正本堂のみやげものも作ろう。(昭和44年5月5日「第24回社長会」)
●東洋物産の大B盾決めたよ。あれならば立派だ。。150増やそうか、50増やそうか、50増やそう。助かるか、思い切って150増やそう。正本堂記念品も東洋にやらせよう。(昭和45年9月10日「第37回社長会」)

[画像]:正本堂御供養を"流用"して建てた富士美術館

●東洋物産はどうだ。150円は助かったろう。他の儲けは別にして、150円だけで大B盾の分でい<ら儲かった。750万か、それはよかった。一声750万だから、いい上意下達だな。後は正本堂の大理石をどうするかだな。(昭和45年9月29日「第38回社長会」)
●正本堂関係の記念品、1人200円としても18億だ。出来るだけ関連会社で手掛けたい。よそに儲けさせる事はない。皆、考えなさい。(昭和45年6月18日「第35回社長会」)
●東洋物産の正本堂記念品は実用登録で押さえてあるなら、じわじわやりなさい。卸(おろし)が良いな。特約店を決めてやったらどうか。(昭和46年1月19日「第43回社長会」)
正本堂落慶の宴会、博文系で用意して下さい。1万人、末法万年だから。(昭和46年6月3日「第49回社長会」)
●東洋のバザー。損するのが、百万儲かったんだから上出来だ。また躯体(くたい)完成式にやりましょう。(昭和46年9月3日「第52回社長会」)
●本山バザーはどうだ、東洋120万か。商売になりましたね。今度、また正本堂の時やろう。(昭和46年10月13日「第53回社長会」)

 「大B盾」というのは、当時の学会の前線組織「大ブロック」に与えられた盾。山崎正友氏によれば、これも正本堂御供養から支出されたという。
 このように、池田大作は、正本堂の工事や、本山・末寺の工事によって莫大(ばくだい)な利益を捻(ひね)り出したばかりでなく、正本堂記念品や慶祝行事でも利益を捻り出し、さらには、正本堂建立のために集まった御供養を、様々な理由を付けて他に流用し、搾取したのである。
 ちなみに、「富士美術館」および「扶桑文化センター」は、正本堂御供養を使って建設されたものであり、また、かつての「国際センター」(東京・千駄ヶ谷)も、正本堂会計の中から支出されているという。
 しかも、それでもまだ飽(あ)きたらずに、正本堂のみやげもの、記念行事にかこつけて開くバザー等々、正本堂は、池田によって徹底的に"利用"し尽くされたのである。


【これが池田大作の本性だ!】
―信心を踏み台に"富"追求―
●正本堂の御供養。5年間であれだけ。10年間はあの倍。あの発表の外に100億はやった。又、かせぐよ。(昭和46年1月26日「第44回社長会」)
●海外は、寺院と会館で、39ヵ所か、すごいね。日蓮正宗の名義ではなく、法的にはアメリカ創価学会の寺院であって、本山のものではなく、御僧侶も一応雇用(こよう)契約になる。お寺に対する御供養も、法的には、アメリカ創価学会のものである。(昭和46年12月15日「第55回社長会」)

 これらの発言から明らかになるのは、池田には基本的に、信仰心などまるでない、ということである。もし池田が、日蓮正宗の信徒であるとの自覚を持ち、本門戒壇の大御本尊に対する一分の信でも持ち合わせていたなら、そもそも「仏」に奉(たてまつ)るものである「御供養」をタネに、平然と"稼ぐ"と言い放ったり、寺院への御供養を"創価学会のものだ"と嘯(うそぶ)くことなど、できようはずがない。
 すなわち、池田の頭の中にあるのは、人の信仰心を利用して"稼ぐ"ことであり、信仰心を利用して"天下を取る"ことだけなのである。そのためには、どのような手段も躊躇(ちゅうちょ)することなく用いる――そんな池田の本性がよく現われているのが、次の池田発言である。

●帷幕(いばく)の中に諜(はか)りごとを巡らし、千里の外に勝を決する。それだけの綿密に腹をすえた計画、謀り事を完壁にして、あとは運だ。そこまでやれば、きっとやれる。10月(正本堂落慶)の企画は今からどんどん考えてゆく。(昭和47年2月4日「第57回社長会」)





御供養返還訴訟の自語相違

(『慧妙』H15.2.16)

 平成3年に日蓮正宗が創価学会を破門に処したことに対し、創価学会は、「恩知らずの御供養泥棒」などという、およそ信仰者とは思えない非難中傷を展開し、これが現在でも会員の中に根強く定着しているようである。一般会員には、教義論争より人情や感情論の方が、単純に洗脳しやすく、インパクトがあるからであろう。
 そうした創価学会流の戦術の1つに、日蓮正宗を不法教団のごとく印象付けるための訴訟がある。
 これまで、創価学会が、宗門を相手に起こした夥(おびただ)しい数の不当訴訟は、その多くが宗門の勝訴に終わっているが、現在は全国規模で多くの学会員が、正本堂を解体撤去したことにより精神的苦痛を被(こうむ)ったとして、大石寺および御法主上人に対して、建設時になした御供養の3倍を損害賠償として求める裁判を起こしている。
 ところで、昭和47年末頃より、正本堂建立御供養をめぐって、通称「板曼茶羅訴訟」と呼ばれる、御供養返還請求の裁判があった。
 これは、学会退転者が、本門戒壇の大御本尊偽作説を根拠に、騙されて拠出した正本堂御供養を返せ、と訴えを起こしたもので、結局、その訴えは認められずに終結している。
 この訴訟について、創価学会副会長で創価大学教授の桐ヶ谷章氏は、その著書『信教の自由を考える』において
 「そもそもこの板曼茶羅事件は、『供養金』の返還請求事件であったということであります。『供養』というのは、信仰心の発露として諸物や志を仏に捧げる宗教上の行為です。そのような『供養』を返せということは、そういう宗教行為を後で取り消すということです。いわば、冥加(みょうが)金とかお賽銭(さいせん)とかそういうたぐいのものを、後で信仰が変わったから返してくれというのと同じようなもので、きわめて法律だとか訴訟だとかになじみにくい性質のものであろうと思うのです」(第三文明社発行)
との見解を述べている。
 また、池田大作は、昭和40年10月号の『大白蓮華』巻頭言で、
 「供養とは梵語Pujana(プージャナー)の訳、供給奉養(くきゅうぶよう)の義で、報恩のために仏法僧の三宝に、身口意の三業により、信心の真心をもって奉ることにほかならない」
とし、さらに池田大作は、日達上人が戸田会長のことばを引用した御指南を紹介して、
 「(戸田会長が)御供養することは信徒の務(つと)めである。もし、それが使途不明であるとか、収支決算せよとか、御供養を出しもしないうちから、初めからそんなことを言っておるのは、信徒の務めを怠(おこた)っておるものである。信徒は供養することによって利益があるのである。御利益は供養することにある。もし、そのお金を不正に使ったならば、それは、使った僧侶が罪を受けるのである。地獄へ堕ちるのである。信徒は清い供養をすれば、それで御利益がある。経文に照らしても、また、大聖人様の仰せではないか」
 このように、前言を翻(ひるがえ)してまで訴訟を提起すること自体、単に日蓮正宗を攻撃する目的であることは、誰の目にも明らかである。また、これが、裁判所に本来の法的救済を求めているものでないことは、裁判所にも理解されている。
 御供養とは、信心の志の表われであり、日蓮正宗において大切な修行であることは、宗祖大聖人の御書を拝すれは明らかである。
 例えば、『白米一俵御書』には
 「たゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわ(皮)をはぐにて候ぞ。う(飢)へたるよ(世)に、これはな(離)しては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ」(御書1544頁)
と、真心を込めた財物の御供養は、命を仏に捧(ささ)げるのに匹敵する尊い行為である、と仰せられている。
 しかし、今日の創価学会の論法は、御本尊に奉る御供養は寺院との契約に基づくもの、というのである。
 もとより純粋な信仰心の発露であるべき御供養を、一般的に行なわれる契約に基づく支払い、と解釈すること自体、すでに信仰が破綻(はたん)しているとしかいいようがない。
 もし、あくまでも契約だというのであれば、これまで正本堂御供養によって御本尊から戴いた功徳を、どのようにして返還するのか、聞きたいものである。
 このような愚論(ぐろん)を平気で立てる創価学会の先も知れているが、こうした学会のやり口は、大聖人の御指南に真っ向から背く行為であり、学会員の信仰はすでに破綻していることが、よりいっそう明白となった。
 このような馬鹿げた狂態を御本仏がいつまでも許されるはずもなく、「還著於本人(げんちゃくおほんにん)」の金言のごとく、その矛先(ほこさき)が創価学会内部へ向けられることは疑いない。
 また、ひとたび御本尊に奉った御供養を、単なる一般世間の契約金と解釈し、その返還はおろか3倍の金額の請求をしてくること自体、いかに創価学会が金に執着しているかが見て取れる。
 創価学会は、自らが真実の日蓮正宗であると豪語するが、前述したように、すでに日蓮正宗の信仰からも大きくかけ離れ、実態は、利潤・利益を追求する、単なる株式会社創価学会になり下がっているのである。