創価学会破折
池田大作の実像



頭破七分の現証/『慧妙』H24.2.1ほか

創価学会問題の元凶/『大白法』H23.11.16

池田名誉会長は億万長者/『フライデー』H20.9.19

池田の現罰/『慧妙』H21.3.1
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履歴書
池田の履歴書

「大阪事件」の真相/『フォーラム21』H14.7.1『慧妙』H15.10.16

「戸田は世界広布の夢を伸一に託した」だって!?/『慧妙』H24.6.1

池田大作「会長就任劇」の真相/『慧妙』H24.7.16

池田は「仏法西還」の先駆にあらず/『慧妙』H16.4.1

戸田会長の7回忌を機に池田教に転換/『慧妙』H22.4.1
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思想と人格
池田大作の思想と人格

捏造された「奇跡」と「不思議」の数々!/『慧妙』H25.6.1ほか

手記「池田大作・創価学会名誉会長と私」/元公明党委員長・矢野絢也『G2』/<YAHOO>H22.1.25~3.1

『聖教』記事と相反する池田の約(つま)しい"倹約"話/『慧妙』H25.1.1

怨嗟(えんさ)で溢(あふ)れた池田の日記/元・学会本部職員組織センター副部長 小多仁伯『慧妙』H21.11.1

学会の公認通訳として見た池田の姿/理境坊所属妙観講・後呂聖子『慧妙』H21.2.1

池田は宗教者ではなく"哲学者"!?/『慧妙』H19.8.1

いよいよ加速する悩乱ぶり/『大白法』H19.3.1

証人喚問から逃げまくる不肖の弟子/<法蔵>H19.4.5

仰天スピーチの証拠と『聖教』改ざん報道/『慧妙』H18.11.1

「アメリカSGI&関西合同総会」で見せた奇行/『慧妙』H18.8.1

池田大作の実像を検証する/『慧妙』H16.8.16

直訴の青年に周章狼狽/『慧妙』H15.12.1

人々の「福運」奪う暗黒の魔王/『慧妙』H18.2.1

「メロン事件」他/『富士の法統』

幼児の顔に落書き/『慧妙』H18.9.1

会員と宗門からダブル搾取/『慧妙』H18.2.1

独善性と人間不信/『慧妙』H16.1.1

恋文に認めたお粗末な「詩」/『慧妙』H16.3.16・H16.4.1・H16.5.16




履歴書

池田大作の「履歴書」



【幼少期】

【青年期】

【入信神話(戸田との運命的出会い)】
 <池田の入信に戸田会長は無関係>
 <即興詩は青年訓のパクリ>

【日本正学館入社の"真相"】

【貸し金業】
 <「金集め」に腐心した青春時代>
 <会長就任後に発揮したほんとうの酷薄さ>

【後継者指名】
 <エレベーター相承/3月1日>
 <敵は内部>
 <車駕/3月15・16日>
 <「世界広布の夢を伸一に託した」!?/3月17日~>

【的場事件】
 <的場師暴行事件>
 <戸田会長の「追撃の手をゆるめるな」発言>

【「会長就任劇」の真相】
 <「総務」就任>
 <「会長」就任>

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【幼少期】
●生れは大森のノリ屋です。3歳くらいの時蒲田に移り、それ以後東京に住んでいるわけです。小学校では栄養不良で3・4回も死にそこない、がんらい身体が非常に弱かったんです。終戦の年には6回目の肋膜をしていましたし、肛門(コウモンネンマクビラン)性のもので、耳や鼻などみんな悪く、血痰がでてたんです。(池田発言/小口偉一編『新心理学講座4 宗教と信仰の心理学』河出書房、1956年57頁)
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池田は昭和22年8月の入信だが、戸田は学会を戦後再発足させた後、早い時期に宗教学者の調査を受け入れ、池田にもインタビューに答えさせている(『フォーラム21』H14.7.1)。

●「子之吉さんの家族は、大森(現・東京都大田区大森北)の池田本家が所有する"学校に似た木造2階建て"の海苔作業場(現・大田区東糀谷)に仮住まいのような感じで暮らしていました」池田大作さんの幼少期を知る深沢さん(年上の女性)はそう語る。太作少年(1953年25歳のとき大作へ改名)の父・子之吉さんと母・一(いち)さんの間には8人の子がいた。太作さんは5番目である。貧しかった。(『フォーラム21』H15.1.1)

●子之吉さんは太作少年が尋常小学校2年生のとき(1935年)、リューマチで寝込むようになってしまった。おまけに、ほどなく「池田様」と呼ばれていた本家の海苔づくりが傾き、これに依存していた子之吉さんの家族は極貧に陥った。子之吉さんは寡黙かつ強情だった。彼を知る女性が「(妻の一さんとは)別の人に手を出し子どもを産ませてしまった」と話す。(『フォーラム21』H15.1.1)

●昭和17年に萩中国民学校を卒業する時、池田君は4組にいました。彼はとにかく印象のない男だったね。勉強も目立たないし、身体も強くない。それに海苔漁師はみんな貧乏だった。彼の家はたしか分家で、生活は特に苦しかったはずです。後で創価学会会長があの池田だなんていう話になって、みんな驚いたものですよ(小学校時代の同級生『週刊新潮』H15.12.18)





【青年期】
―右翼との接点―
●「私たち(10人余りの読書仲間=郷友会、太作は少し遅れて参加)は須山さんからもいろんなことを学んだ。須山さんの影響をかなり強く受けました」「須山秀吉さんです。私たちの中心は6歳年上の須山さんでした。笹川良一や藤吉雄(蒲田区選出都議)につながる右翼です。笹川の国粋会の青年隊長をしていたこともあります。須山さんの机の上にはいつもヒトラーの『わが闘争』が置いてありました」「戦前の右翼活動や反共思想です。池田は須山さんによって政治を知ったんだ。後に参院選(1956年)で大阪へ行き、選挙違反をやって逮捕されたりしましたね。あのとき、池田の頭の中には須山さんの話があったと思うよ。須山さんは常々『選挙ではブタ箱に入る覚悟でなりふり構わず猛然とやらなかったら勝てない。勝つか負けるかだ』と言っていた」「学会に入った池田は『おれはやるぞ、絶対やるぞ、生涯かけて名が出るようにするぞ』なんて言ってたなあ。で、おれは笑ってしまった。」(東京都大田区在住20歳前後の太作の読書仲間/『フォーラム21』H15.1.1)

●太作の頭には「須山さん」もまた強く刻印されたのではないか。 池田大作さんの背後の闇にはいつも笹川良一や児玉誉士夫がいた。たとえば76年から83年の月刊ペン・言論弾圧事件の裁判過程で池田さんたちによる笹川良一へのモミ消し工作が発覚している。児玉誉士夫との関係は政財界の裏舞台を徘徊していた塚本素山(学会顧問)を介して始まり、児玉がロッキード事件で転倒するまで続いている。(野田峯雄『フォーラム21』H15.1.1)





【入信神話(戸田との運命的出会い)】
池田はのちにこれを実に見事なまでに改竄(かいざん)する。入信神話こそ、池田の嘘(うそ)の出発点、典型といって決して過言ではあるまい。(溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』)
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 池田が、『人間革命』などで発表している「入信神話」によれば、
 「小学校の同級生だった三宅家の次女に誘われ、文学の同好会の2人の友人と共に、三宅家に足を運んだ。それは、戸田2代会長が『立正安国論』を講義している最中であった。講義終了後、戸田会長に天皇制などについて質問をし、それに対する戸田会長の明快な回答に痛く感動し、さらに"これは運命的な出会いである、自分はこの人の後継者となるに違いない"と不思議な直感を得て、入信を決意。その場で『旅びとよ/いづこより来(きた)り/いづこへ往(ゆ)かんとするか(中略)われ地より湧(わ)き出(い)でんとするか』等という、『地涌』を想起させる即興(そっきょう)詩を戸田会長に披露(ひろう)した―」
 そして、この日(8月14日)から10日後の8月24日に御授戒を受けた、ということになっています。(『慧妙』H21.9.1)


◆戸田先生と初めてお会いしたのは、東京・大田区の座談会です。昭和22年(1947年)の8月14日、木曜日の夜でした。先生は47歳、私は19歳。(「池田名誉会長講義」『聖教新聞』H21.8.13/『慧妙』H21.9.1)

◆2回目の終戦記念日を迎えようとしていた蒸し暑い真夏のある夜である。小学校時代の友だちが訪ねてきて「生命哲学について」の会があるからこないかという。生命の内的自発性を強調したベルグソンの「生の哲学」のことかと、一瞬思って、尋(たず)ねてみたが「そうではない」という。私は興味を持った。約束の8月14日、読書グループの2人の友人と連れ立って、その「生命哲学」なるものを聞きに向かった。(池田大作著『私の履歴書』S50.5/『慧妙』H19.5.1)


◆この日、この運命の師と会ったことが、私の生涯を方向づけることになったのであるが、その時は知るべくもなかった。ただ、初対面ながらも不思議に親しみの情がわき上がってくるのを禁じえなかった。講義と質問への応答が一段落すると、戸田先生は微笑しながら「幾つになったね」と尋ねられた。仁丹をかみ、たばこをふかしておられた。19歳ということを耳にして、ご自身も故郷の北海道から東京へ初めて上京した時もそんな年ごろだったと懐かしげに語られる。
 私は教えていただきたい、と質問をした。「正しい人生とは」「本当の愛国者とは」「天皇をどう考えるか」この3点であった。簡明直截(ちょくさい)な、しかも誠実な答えが返ってきた。少しの迷いもなく、理論をもてあそぶようなこともない。「これだ!」と思った。この人のいっていることは本当だ!
 私は、この人なら信じられる、と思った。(同)


◆私は、なにかしらうれしかった。その日、自分の所懐を即興の詩に託して誦(しょう)した。
 旅人よ
 いづこより来り  いづこへ往かんとするか

 月はしずみぬ
 日は いまだ昇らず
 夜明け前の混沌(カオス)に
 光 もとめて
 われ進みゆく

 心の暗雲をはらわんと
 嵐に動かぬ大樹を求めて
 われ 地より湧き出でんとするか(同)


◆話を聞くと、この戸田先生という人物は、戦争中、あの無謀な戦争に反対し、軍部独裁の国家権力の弾圧にもかかわらず毅然(きぜん)として節を曲げずに、昭和18年、治安維持法違反ならびに不敬罪で検挙され、投獄されながらも己の信念を貫き通したというではないか。これは決定的な要素であった。2年間の獄中生活に耐え、軍国主義思想と戦った人物には、信念に生きる人間の崇高さと輝きがある。極論すれば、当時の私にとっては「戦争に反対して獄に入ったか否か」ということが、その人間を信用するかしないかを判断する大きな尺度になっていたといっても過言ではない。(同)
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<池田の入信に戸田会長は無関係>
●いま創価学会で言われているような、池田と戸田先生の伝説的な出会いはそこではありませんでした。
 『人間革命』や学会の書物には、美化された出会いが描かれていますが、その日、我が家には戸田先生はいらっしゃらなかったのです。もちろん、池田は詩も詠んでいませんでしたよ。彼は我が家に来てから、10日後に入信します。私は池田にデートに誘われ、日比谷に映画を見に行ったこともあるので、当時のことはよく覚えています。あの頃の池田は、"今に見ていて下さい、僕のこれからを見て下さい"と、よく言っていました。上昇志向が非常に強い人でした。(三宅妙子『週刊新潮』H15.12.18)
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三宅妙子さんは三宅家の三女。父・穣(ゆたか)氏は地元・大田区蒲田の支部長を務め、しばしば自宅で座談会が開かれていた。池田が入信を決意したという座談会場こそ、彼女の自宅だったのである。

●学校時代の友人にさそわれて創価学会の本部へいきました。その友だちは哲学のいい話があるがこないか、とさそったのです。私は友人と2人で行ったのですが3、40人もいたでしょうか。5時間くらいもそこで締めあげられたのです。南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で破れて信仰しなければいけないということになってしまったのです。負けたのでシャクにさわってしかたがない。その時の感じをいえば、理論をうけとめる素地がないからわからない。それだのに相手は確信をもって話している。こちらは観念的で浮いているような感じがしたんです。そのときの話というのはこうなんです。「これから先のこと、20年先のことがわかるか。これから年とって、その先なんのため生きたかを考えることになるがそれならば今のうちに考えたらいいではないか。自分の宿命は自分でも知らないではないか。誰が援助しても、社会的に偉くなっても宿命だけはわからない。宿命は解決できるか、人生ひとたび死ぬではないか。苦しんで死ぬのではしかたない。この4つの全部がわかっていれば信仰の必要はない。わからなければ真面目に考えろ。信仰をしろ」というのです、私はこれに答えられず、信仰すると答えたのです。それでお題目を唱えろということでしたが、はずかしくてしかたがなかったのです。友人は入信しないで黙っていました。それから御本尊をお下げするという話で、私は30分間ほどいりませんとがんばったんです。すると幹部の人がなだめて、むりやり私に押しつけました。
 家に帰っても3日間おがまずにほっておきました。3日目にものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って、私ばかり狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました。それは高校をでて蒲田に勤めて出張していたときのことです。それからは、おがみはじめるとなんとなく1日安心感があって、おがまない日は仕事もなにも落着かない。それでおがむとこうなんだから信仰は大事だなあと思ったのです。それから1年は普通にやっていました。そのころはバチがこわかったのです。前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される。その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました。2年目に「立正安国論」の講義を聞いてから、よし、よい勉強しようと考えるようになりました。3年目の8月に戸田さんの出版に小僧から入りました。信用組合にも入っていたんですが、アパートに住んで、給与もなく乞食同然で苦しくてしかたなかったんです。戸田のところへいったからというので、家からは勘当同然でした。14、5人の研究会の仲間からもやられました。そこで御本尊さまにこの苦しみだけ逃れさして下さい、という願いをして御題目を60万遍唱えることにしました。逃れなければやめようと思っていたのです。それが不思議にも百日過ぎて急によくなってきたのです。その時先生は事業を譲っていましたが、それをこしてから完全になにからなにまでよくなって、身体も、生活も、物質的にも、社会的地位も過分なまでによくなったんです。私の体験は3年だけです。信仰しなかったならば23くらいで死んだだろうといわれています。信仰していなかったら貧乏で、病気で死んでいたでしょう。わたしは今それから6年経っていますがずっと順調で申し分のない幸を得ております。(池田発言/小口偉一編『新心理学講座4 宗教と信仰の心理学』河出書房、1956年57-59頁)
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池田は昭和30年ころ、宗教学者のインタビューに答えて、入信前の心理や座談会の模様、入信までの経緯や信者としての生活等を語っている(中略)インタビューでの池田の回答は、いくつかの細かな事項が、一般に行われている説と相違するが、宗教学者・日隈威徳(ひぐまたけのり)はもっとも事実に近く、かなり率直なものと見ることができるとしており、少なくとも池田の当時のいつわらぬ心境を察知するには十分である(池田に関する資料は発表年時の古いものほど、ことに会長就任前のものほど、信憑性が高いといえる)。(溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』)

●私が信仰したのは、丁度今から10年前の8月24日です。……折伏されたのは、前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった2階の8畳と6畳の2間でした。……そこで多くの広宣流布の人材が毎日会長先生の御講義をきいたんです。私はそこで教学部長から折伏されたんです(池田大作『聖教新聞』S32.10.18/『フォーラム21』H15.1.1)

●一応信仰したけれどずい分悩みました。「えらいことをやっちゃったな、一生、南無妙法蓮華経と唱えるのか、みんな気違いだと思うだろうなあ…」などと、ずい分苦しみました。(池田大作『聖教新聞』S32.10.18/『慧妙』H19.5.1)

●ちょうど15年前に、小平教学部長と、それから矢島尊師に連れられて、ちょうど日淳上人様の勤行ご導師をいただいて、たった3人だけの御授戒でした。それで私は、真ん中にすわらされてしまって、勤行がはじまったけれども、またひじょうに長い勤行で(笑い)、びっくりしてしまいました。それで、日淳上人より御本尊様をお下げ渡しいただくときに、もう足がしびれて、このまま一生信心するのでは、もうたまったものではない(笑い)と、もったいない話ではございますが、そのときは〝信心は結構でございますから、きょうは御本尊様はいただかないようにします〟と、そういうように申し上げたのです。その場所で。すると日淳上人は「まあ、そういわないで、きょうは御本尊様をもっていきなさい」と(笑い)、何回も何回も押し問答になりまして、とうとう日淳上人様は、ひじょうにがん固な方であって、私は負けまして(笑い)。そして、ちょうだいして今日にいたったわけであります(『聖教新聞』S37.2.20/『慧妙』H19.5.1・H21.9.1)

[画像]:昭和32年10月18日付『聖教新聞』および昭和37年2月20日付『聖教新聞』

 いかがでしょうか。池田大作が「生」で語った、自分自身の入信当時の状況には、小平教学部長(当時)に折伏されたと、再三にわたって語っているのです。池田の入信に関わった人物の名前としては、「戸田先生」の「と」の字さえ出てきません。
 しかも、「南無妙法蓮華経」がきらいで、御本尊下附を拒み、大幹部らが投獄されたことに恐れおののいて信心をやめようと思いつめていた池田大作――それが、いつの間にか戸田会長とは不思議な縁で結ばれていたことにしてしまい、「戦争に反対して獄に入ったか否か」を人を信用する基準にしていた、とまで平気で放言してしまうのですから、呆(あき)れて物が言えません。(『慧妙』H19.5.1)


<即興詩は青年訓のパクリ>
 そうそう、もう1つ言っておきますと、池田が戸田会長の前で詠(よ)んだ即興詩とやらですが、あれはどう見ても戸田会長の「青年訓」の〝パクリ〟であり、後からとってつけたものです。
 なぜなら、当時の池田には、そんな文才はさらさらなかったことを証明する、動かぬ証拠があるからです。
 次に挙(あ)げる詩は、池田大作がある女性に宛てた「ラブレター」の中に綴(つづ)った詩です。

◆体で見たことをゆう。
 体で見たことを書く。
 体で見たことを行ふ。
 目で見て見えるか?
 耳で聞いて聞えるか?
 体で讀んだものが本当だ。
 体で祈ったものは実現する。
 体で語ることは誰にも聞える。
 体で悟った真理だけが我がものである。

 爾(なんじ)の願いを高めよ。
 爾の願いを潔めよ。
 爾の願いを深めよ。
 爾の願いを廣めよ。

 私欲を離れた願いならば死ぬまで願いつずけよ。
 諦めるから叶わぬ。
 應答を信ぜよ。
 正しき願いは実現する。
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 憧(あこが)れの女性に送った手紙にしたためた詩ですから、おそらくは、推敲(すいこう)に推敲を重ねたものでしょう。
 しかし、戸田会長と会ったその場で詠んだ即興詩に較べて、なんと稚拙(ちせつ)なことか。
 「勲章お化け」とあだ名される改竄(かいざん)商人も、その化けの皮を剥(は)がしてみれば、どこにでもいる、小心者の見栄っ張りにしか過ぎないのです。(『慧妙』H19.5.1)



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 『慧妙』は名誉会長が『人間革命』で入信の状況を脚色したとか、三宅家の座談会に戸田先生は出席していないとか、即興詩を詠んだのは嘘だとか、言いたい放題の悪口を書き殴っている。
 だが、森田一哉前理事長は「新来者として来ていた池田青年が戸田先生の前で即興詩を詠んだ場にいました」と証言。そして「随分、変わった青年がいるなあ、と感心したことを覚えています」と述べていた。
 それに何より、最新号の『慧妙』で「当時、戸田会長が『立正安国論』講義を行なっていたのは『毎月の第1日曜日だった』(竜年光)ということだから、やはり、この日に池田が戸田先生の講義を聞いた、などという事実はない」と紙面に登場する竜年光自身が「私と創価学会の歴史」と題し、次の通り書いていた。

◆昭和22年の8月下旬、都内で、戸田先生を囲んでの座談会が開かれた。その席で1人の若い青年が真剣な表情で戸田先生に2、3の質問をしたあと、その時の心境を詩に託して朗々と読み上げたのである。私はその場にいて、あっけにとられてしまった。その青年こそ、現会長池田先生だったのである(『聖教新聞』S50.3.12)
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このように明確に戸田先生と池田青年との出会い、池田青年が即興詩を詠んだ事実、そこには何らの脚色もないことを記しているではないか!(『フェイク』第504号=04.03.28/sf:5724)
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 『フェイク』が持ち出してきた龍氏の"証言"というものは、日付も暖昧(あいまい)で、かなり記憶があやふやに見えます(それもそのはず、この"証言"なるものは昭和50年当時の文で、池田入信の頃から27年以上も経っているのですから、記憶が暖昧で当然です)。
 また、森田の"証言"とやらにしても、すでに池田が入信神話を語った後に、学会内に「それは事実ではない」などと"証言"できる者がいるはずがありません。どうやら、せっかくの反論も、空振りだったようです。(『慧妙』H16.4.1)





【日本正学館入社の"真相"】
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 山平(忠平)は戸田に言った。
 「先生、山本伸一君です」
 「わかっている」
 山本伸一は、だまって履歴書を提出した。やや長い睫(まつげ)が、影を落とし、まだ少年らしい面影を残している。
 戸田は、ていねいに履歴書をひろげ、仔細にじっと眼を注いでいた。(中略)やがて顔をあげると、微笑みながら山本をじっと見つめ、一言、こう言っただけである。
 「頑張るか」
 山本伸一は、間髪を入れず答えた。
 「はい。おねがいいたします」
 一瞬の気合いであった。決定的な瞬間である。時はすでに熟していたのだ。……1年前、戸田と邂逅(かいこう)したあの夏の夜……山本伸一が予感したことは、避けがたく、いま現実となって、立ち至ったのである。
(『人間革命』第3巻)
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戸田会長との"運命の糸"の強さを強調し、"どこの、誰の世話にならずとも、2人は出会い、師弟の契りを結ぶ運命にあったのだ"と思わせ、池田が入信当初から不思議な因縁の人物であったかのように脚色しているのがよくわかる。

"鳴かず飛ばず"の信心だった池田大作を、戸田先生の日本正学館に連れていき、就職を斡旋(あっせん)したのは私の母でした。それまで池田は、蒲田工業会という小さなところに勤めていたんですが、私の母が「辞めたほうがいいんじゃないの」と声をかけて。
 私の家は、戸田先生とはずいぶん懇意(こんい)にさせていただきました。目黒区白金の戸田先生のお宅にも、何回もおじゃましたし、先生の事業などにも協力させていただきました。そんな関係から、池田のことも気安く頼むことができたのだと思います。
 けれど、それに対する感謝の言葉を、池田から聞いた覚えは、1度もありません。(三宅妙子『慧妙』H16.4.1)
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三宅妙子さんの父親は地元・蒲田の支部長を務め、しばしば自宅で座談会が開かれていた。池田が入信を決意したという座談会場こそ、彼女の自宅だったのである。さらに、彼女は、池田の片思いの相手でもあった。(<恋文に認めたお粗末な「詩」>参照)





【貸し金業】
<「金集め」に腐心した青春時代>
 池田大作は第2代会長・戸田城聖がやっていた金貸し業の社員出身である。彼は1949年(昭和24年)1月、21歳になったばかりのとき、戸田の経営する出版業「日本正学館」に「小僧から入った」が、同社はその年10月には倒産、同時に、池田は戸田が専務理事をつとめる小口金融「東京建設信用組合」の社員に移動した。
 「重苦しい中を、仕事のことで、部長と、O学園にゆく。またO第一小学校に回る」(50年5月10日『若き日の日記』1)
 池田は戦前の創価教育学会員や、個人的な知り合いなど、誰彼問わず訪ねては、カネを貸すよう頼み回った。信用組合は取り立てにからんで、刑事事件までひき起こしていた。
 50年8月、東京建設信用組合は大蔵省から営業停止を命ぜられ、ここに戸田は事業家として致命的に敗れた。組合法違反に問われ、債権者からは告訴されるハメに陥る。そのため戸田は創価学会理事長の椅子を去り、後任を矢島周平(後に大宮・正因寺住職=故人)に譲って夏期講習会にも出られず、一時は城聖の名を城外と変え、雲がくれした。
 だが、戸田も一筋縄ではいく男ではない。いつ起訴されるかもしれない身にもかかわらず、裏では同じく小口金融の「大蔵商事」を用意していた。同社の初代代表役員は矢島周平(2代は和泉覚)だったが、実権は専務理事の森重紀美子、それに戸田自身が握った。森重は公然とした戸田の愛人である。池田は直接の上司である奥山和平が責任をとって去ったため、50年11月に営業部長に昇格した。(『フォーラム21』H15.1.1)

●ちょっと池田大作のことを調べたことがありましてね。そうしたら、かなりひどいことをやってるんですよ。池田大作は青年部にいた前、財務を担当してたんですね。そこで高利貸しをやってたんですよ。それで、苦しい商店街とかあるでしょ?そこに金を貸して、返せなくなると、即刻、土地を担保に取っちゃうんですよ(脚本家・笠原和夫『昭和の劇』太田出版/佐高信『噂の真相』H15.4)
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取った後に、新しい職を見つけてやったり、店を開かせたりして学会に取り込んでいく。池田より1歳上で、観念だけでは生きられないという同じ戦後的人間の笠原は、それを「偉い」と思って映画化しようとしたがダメだった。(佐高信『噂の真相』H15.4)

●戸田城聖第2代会長は金の面は自分で何とかしようとして、大蔵商事など金貸しや信用金庫などを随分とやったんです。その尻拭いと言うか、酷な言い方をすれば金貸しの手代をしていたのが池田大作です。彼も当初は好きでやっていたわけではないと思うのですよ。しかし、彼には才能があったようで、池田が"ここ金あるよ"という家には、見た目は貧乏な家でも必ず金があった、ということを古参の幹部から聞きました。逆に門構えの立派な家の前で"ここはどうだ?"なんて聞いても、池田が"ここにはない"と言えば、その通りだったそうです。(小川頼宣=創価学会本部元広報部副部長『週刊新潮』H15.12.18)

●要するに、観念でもって今さら宗教だなんて言うやつはおらんと。金だと。食うためにやるんだと。現実主義で、金を集めるために宗教をやるんだと。じゃあ、それを誰がやるのかという時、俺がやってやると出てきたのが池田大作なんですよ。宗教家なんていうのは、みんな金貸しなんてことはやりたくないわけでしょ?それで返せなくなったら土地を取り上げるなんてことは1番汚い。要するに手が汚れる話ですよ。それを誰がやるのかという時に、俺がやってみせると。それが池田大作の今の出世の基なんですよ(脚本家・笠原和夫『昭和の劇』太田出版/佐高信『噂の真相』H15.4)
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池田に対するホメ殺しのような笠原の「礼讃」だが、多分、学会員は猛反発するに違いない。金正日と同じように「伝説」は十分につくられているからだ。(佐高信『噂の真相』H15.4)

●(※大蔵商事に入った頃)昭和25年に池上でやった最初の同窓会に現れた時だったな。あの時のことは今でも忘れられない。昭和17年卒業組は今昔会という同窓会を開くんだけど、その時、池田は遅刻してきた。同窓会に顔を出したのは後にも先にもその時だけだよ。遅刻してきたのに、恩師に挨拶もせずに、どっかりと席をおろして、いきなり演説を始めたんだ。大きな声で。みんな驚いたよ。遅刻してきたのに、いきなりですからね。ひとしきり自分の話が終わったら、初めて"おっ先生、元気か"なんて片手をあげた。田中角栄みたいなあれだよ。目立たないだけのあの男が、いつの間にかそういう尊大さを身につけていたんだ。(小学校時代の同級生『週刊新潮』H15.12.18)
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大蔵商事時代の彼が、水を得た魚のごとく活き活きとし、さらに周囲が驚くほどの尊大さを身につけ始めたのは注目に値する。

[画像]:肩で風を切って歩いていた当時の池田大作/右は大蔵商事時代の名刺(『週刊新潮』H15.12.18)


<会長就任後に発揮したほんとうの酷薄さ>(『フォーラム21』H15.1.1抜粋)
 池田は大蔵商事では、戸田の愛人である専務・森重紀美子に密着して仕えた。戸田夫人に対してより、いっそう彼女にゴマをすった形跡がある。
 大蔵商事の社業は順調に推移し、57年には甲賀(※当時国鉄大宮機関区の経理係長で、東京建設信用組合の協力者のひとり)が退職者の58人のカネを取りまとめて貸していたカネ600万円も返すほどの勢いだった。甲賀は学会本部に呼ばれ、戸田からこういわれる。
 「大蔵商事はカネもできた。だからこのカネは返したいのだが、どうだろう。ワシに一の友人である精文館書店の北村宇之松にそっくり貸してやれないか」
 甲賀は出資者とも相談のうえ、戸田から、まして学会本部で頼まれたことでもあり、精文館書店にカネを回すことにした。戸田の保証つきと受けとめたのである。戸田が生きている間は、精文館書店もきちんと利子を届けて、何1つ問題は起こらなかった。同社は戸田の『巻頭言集』、『人間革命』(池田の同名書とは別)、湊邦三の宗教小説、経本などを刊行して、相応の利益をあげている会社だった。
 ところが58年に戸田が死に、60年に池田が創価学会の第3代会長に就いてから、事態は一変した。
 「池田は、これから戸田先生の関係はいっさい切ると宣言して、取引の継続を頼み込む北村さんの願いを頑として聞かなかった。」(甲賀)
 北村は池田によってすべての糧道をたたれたのだから、精文館書店の倒産は当然である。連鎖的に甲賀が道義的な責任を負う58人分の貸し金回収も不可能になり、600万円の重荷はすべて甲賀1人の肩に掛かってきた。
 「北村さんはその年のうちに、池田を恨んで憤死してしまった。病床では私にすまないと泣いて謝りましたが、池田がそれまで通り精文館書店に仕事を続けてさえいれば、すべてが順調にいったんです。何も倒産する状態ではなかったのだから。 しかも私が森重さんに戸田さんとのいきさつを何度話しても、森重さんは弁護士に会えと逃げるし、池田は知らぬ存ぜぬで、何一つ面倒を見ようとしない。北村さんの葬式では遺族に600万円は香典に上げますからといって、それから私は出資者への弁償のために無我夢中で働きました(甲賀)





【後継者指名】
<エレベーター相承/3月1日>
『人間革命』12巻に記載された、昭和33年3月1日に行われた日蓮正宗総本山大石寺の大講堂落慶法要において、戸田会長から池田氏に対して「広布の継承」すなわち後継指名がなされたとの場面は、以下の通り。
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 そのあと、午後1時から祝宴となった。戸田城聖は、日淳上人とともに、来賓を招いて行われる6階の貴賓室での祝宴に、出席することになっていた。また、5階の大会議室では寺族の祝宴が、講堂の大広間では学会員の祝宴が、それぞれ行われた。
 山本伸一は、戸田の腕をとって言った。
 「先生、まいりましよう」
 戸田の腕は温かかった。伸一は、体内に脈打つ師の鼓動を感じた。しかし、その腕は元気だったころと比べ、1回りほど細くなっていることに気づいた。
 清原かつ、森川一正もやって来て、戸田を囲むようにしてエレベーターに向かった
 エレベーターが上昇しはじめると、戸田は、伸一の顔をのぞきこむように見すえた。そして、静かだが、力をこめて言った。
 「さあ、これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。伸一、あとはお前だ。頼むぞ
 伸一の体に電撃が走った。伸一は、緊張した面持ちで戸田を凝視した。2人の眼と眼が光った。
 「はい!
 自らを鼓舞する、深い決意を秘めた声であった。それだけで、言葉はなかった。静寂のなかに、戸田のやや荒い息遣いが聞こえた。師と弟子は、無限の生命の言葉を交わすかのように、沈黙したまま互いの顔を見つめ合った。それは厳粛な瞬間であった。
 清原と森川も、緊張した表情でこのやりとりを見ていた。2人は、戸田と伸一の厳粛な姿のなかに、師から弟子への広布の継承を鋭く感じとったに違いない。
 それから戸田は、大きく頷くと、にっこりと微笑を浮かべた。エレベーターは6階に着いた。
(『人間革命』第12巻)
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●3月1日、落成法要を終えて、戸田先生は祝賀会に向かうためにエレベーターに乗られ、柏原ヤスさんと森田一哉さんと私が同乗しました。(山浦千鶴子『大白蓮華』H18.3)
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 この"証言"が事実だとすれば、いわゆる"エレベーター相承"の現場には、柏原ヤス・森田一哉の両名が同座していたことになる。
 ところが、この両名が、『大白蓮華』昭和35年6月号の「特集・第3代会長就任」と題する記事に寄せた文。その内容は、それぞれの言葉で"戸田会長が意図したとおりに青年部の中から3代会長が生まれた"ということを喜び、池田へおべんちゃらを贈ったものだが、両名とも、「大作、お前が全部やるんだ」との重大発言のことどころか、「大講堂落成法要」にも、「3・16」にも触れていない。当然のことながら、「エレベーター」の「エ」の字もない。
 そればかりか、この特集記事には、総勢10名の創価学会最高幹部が名を連ね、それぞれ自分の知る、戸田会長と池田大作のエピソードを披瀝(ひれき)し、池田大作こそが戸田会長の後継者に相応(ふさわ)しい、と持ち上げているが、そうしたエピソードにおいても、「大講堂落成法要」「3・16」に関するものは皆無である。
 このことからも、"「3・16」は広布後継の儀式だった"というのが、後から強引にコジツケたものであることが窺(うかが)われる。(『慧妙』H18.3.16)

 この大講堂落慶法要という重大な行事に際しても、池田や北條、森田、秋谷らは戸田先生の側にいなかったのです。
 戸田先生はジリジリして待っておられました。しばらくして池田がやってくると、いきなり「大作、なぜ、大事な時に俺の側にいないんだ!俺とお前しかいないんだぞ。それなのに、お前はどうしていないんだ!」と大声をあげて池田を怒鳴りつけられたんです。
 ところが池田は悪びれる風でもなく、シレッとして「いえ、私のような者はこんな晴れがましい場に出るより、外で案内係りをしているほうがふさわしいと思いましたので」などと言い訳したのです。しかし、その面貌には、怒鳴りつけられたことに対する反感の色が浮かんでいました。(中略)
 池田の様子を見た戸田先生は何もおっしゃらず、池田をその場に残してエレベーターに乗り込み、祝賀会に向かわれました。
 それまで戸田先生は、池田を公衆の面前で公然と怒鳴りつけるようなことはしませんでした。それだけに戸田先生の激しい怒りに、居合わせた幹部は、皆、驚きました。
 池田は『人間革命』第12巻の「後継」の章で、この大講堂落慶法要祝賀会のエレベーターの場面を取り上げ、戸田先生とともにエレベーターに乗り込み、その中で戸田先生から、後継の指名を受けたかのように記載していますが、そもそも池田はエレベーターに乗っていないのですから、後継の指名などあろうはずがありません。
 もし、『人間革命』の記載のように、戸田先生から後継の指名があったとすれば、どうして戸田先生の逝去後、創価学会の会長職は2年余にわたって空席だったのでしょうか。この事実1つ見てもわかるように、戸田先生から池田に後継の指名などというものはなかったのです。(龍年光『フォーラム21』H15.1.15)

●「さあ、これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。伸一、あとはお前だ。頼むぞ」 伸一の体に電撃が走った。伸一は、緊張した面持ちで戸田を凝視した。2人の眼と眼が光った。 「はい!」 自らを鼓舞する、深い決意を秘めた声であった。(『人間革命』第12巻)
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池田自身が執筆したとされる『人間革命』によれば、戸田会長は他の弟子の見守る中で、「伸一、あとはお前だ。頼むぞ」と"後継指名"をしたことになっている。しかもそのとき池田は「深い決意を秘め」て「はい!」と言い、後継指名を受けたのだそうだ。師匠の生前に後継者指名を深い決意をもって受諾しておきながら、何故、学会は2年間もの間会長職が空白だったのか?この一事をもってしても『人間革命』のいう「エレベーター相承」なるものが如何にイイカゲンであるかが分かろう。


<敵は内部>
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 ある時、報告にやってきた参謀の滝本欣(※龍年光氏)が、戸田にたずねた。
 「先生が1日の落慶法要で言われましたように、御書も発刊され、大講堂も建立されたいま、学会は身延をしのぎ、もはや、敵はなくなったと思います。これからの学会は、何を敵として進んでいけばよいのでしょうか」
 戸田はよこになっていたが、質問を聞くと、布団の上に起き上がった。そして、滝本の顔を見て言下に答えた。
 「敵は内部だよ
 自己の利益のために学会の組織を利用しようとする者は、今後、学会が大きくなればなるほど、さらに、出てくるであろうことを、彼は予見していた。それゆえに、今後の学会の敵は何かという滝本欣也の質問に、即座に「敵は内部だ」と答えたのである。
 しかし、それは同時に、滝本自身に対する戸田の警鐘でもあった。滝本をよく知る戸田は、彼の生き方に対して人知れず心を痛めてきたのである。
 戸田城聖は、いま理境坊の2階にあって、滝本欣也を前に、この一青年の来し方を思い起こした。そして、滝本をまじまじと見つめて、もう1度、言った。
 「敵は内部だよ……」
 彼は、私生活にだらしなく虚栄心の強い滝本が、最後まで心配でならなかったに違いない。(『人間革命』第12巻)
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 仮に『人間革命』に書かれているように、戸田会長が龍氏の姿勢を心配していたとするなら、当の本人が眼前にいるのである、その場で注意をしたはずである。婉曲な「敵は内部」との表現で自らの亡き後の創価学会の課題を吐露したのは、むしろ誰よりも目をかけてきた池田氏を死の1カ月前に「学会の敵」であることを龍氏に告げなければならなくなった戸田会長の、婉曲な表現でしか示し得ない苦衷が投影されていると見る方が自然である。
 この『人間革命』第12巻は、龍氏が池田、森田、秋谷の各氏に最終勧告と最終通告を出して創価学会と絶縁した平成3年10月12日以後、創価学会ならびに池田氏が日蓮正宗から破門ならびに除名となった後の平成4年から5年にかけて執筆され、刊行されたものである。絶縁宣言した生き証人の龍氏を、池田氏は『人間革命』誌上で、戸田会長の言葉を借りて中傷し、自己弁護を図ったのである。(『フォーラム21』H15.2.1)

●会議(※昭和33年3月17日の第1回最高会議)では、辻が、戸田先生に対して、「先生、次の会長は誰にするんですか」と単刀直入に質問しました。 すると戸田先生は、「それは、お前たちで決めるんだ」とハッキリと答えられたのです。 当然、「池田」という指名があると思っていた辻はビックリしたようで、あわてて「先生、先生、3代会長はどうするんですか」と息せき切って聞き直しました。 すると戸田先生は再び、「それはお前たちが決めるんだ」と、強い口調できっぱりと述べられるとそのまま横を向いてしまい、以後、なにもおっしゃらなかったのです。そのあまりに決然とした姿勢に、最高会議のメンバーは誰1人として何も言えないまま戸田先生の部屋を後にしましたが、この時、戸田先生はハッキリと池田は後継者ではないという意思を明確にされたのです。(龍年光『フォーラム21』H15.2.1)
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この最高会議の事実は、『人間革命』には1行も記載されていない。『人間革命』によれば池田氏は3月16日夜に東京に帰京し、2、3日して再び大石寺に戻ったとある。 ただし3月22日に理事室と参謀室の合同会議があり、その席上、戸田会長から「学会の組織は戸田の命だ」として、不純な幹部の追放、粛正の指示があったとの記載がある。 いずれにせよ、戸田会長から池田氏を後継会長とするとの指名はなかった。否、指名がなかったばかりか、当時を知る生き証人の龍氏の証言によれば、当初、池田氏を後継者にと考えていた戸田会長が、死の1カ月前には、池田氏を後継者にするとの考えを放棄し、逆に池田氏は後継者ではないとの意思を明確に示していたことが明白である。(『フォーラム21』H15.2.1)


<車駕/3月15・16日>
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<1>3月15日
 3月15日の午後、車駕が出来上がった。それは、大きくがっしりしていた。制作費は、4万円になってしまった。まだ、高校卒業者の初任給が1万円に満たないころである。澤田良一は、車駕が出来上がると、輸送担当の青年たちと一緒に、理境坊の中庭に運んだ。山本伸一は車駕を見ながら、澤田の労をねぎらい、心から感謝の意を表した。
 「ありがとう。立派にできたね。これなら、戸田先生のお体に負担をかけなくてすむ」
 そして、制作にかかった費用を聞くと、伸、は財布をはたいて、自分ひとりで全額を支払った。
 澤田は、師の戸田城聖をどこまでも思う伸一の姿勢に、熱いものが込み上げた。
 それから、伸一は、理境坊の2階に行って、戸田に報告した。2階には、理事などの3、4人の幹部がいた。
 「明日の式典で、先生にお乗りいただこうと、車駕をつくりました。御覧いただければと思います」
 戸田は伸一に支えられ、窓のところへ行くと、しばらく車駕を見ていた。そして、思いもかけぬ厳しい言葉が、戸田から発せられた。
 「大きすぎる。これでは戦闘の役にはたたぬ!
 体は衰弱していても、戸田には縦横無尽に広布の戦場を駆け巡ろうとする気概が、熱く脈打っていたのだ。また、戸田は伸一に、常に実践に即した立案、計画が必要であることを、教えておきたかったのである。(中略)澤田は、2階のやりとりを聞きながら、体から血の気が引くのを覚えた。
―参謀室長のせいではない。あの形も大きさも、私が考案したものだ。責任は私にある。

<2>3月16日
 戸田城聖は、山本伸一に手を取られて、理境坊の玄関に降り立った。玄関前には周囲を白い布で巻いた車駕が置かれてあった。戸田は車駕を見ると、また、大きな声で言った。
 「大きすぎて、実践には向かぬ。戦いにならんぞ!
 2度にわたる戸田の叱責であった。その時、伸一が1歩前に進み出て言った。
 「先生、よくわかりました。申し訳ございません。しかし、この車駕は弟子が真心でつくったものです。どうかお乗りください」
 自らの命の燃え尽きんとするまで、戦いの極意と闘将の気迫を身を以て教え伝えようとする師の厳愛。その師の体を気遣い、いたわろうとする弟子の真心―それは、師と弟子の熱い生命交流のドラマであった。
 戸田は、伸一を見てにっこり頷くと、弟子たちに体を預け、車駕の中央に固定された肘掛け椅子に座った。(『人間革命』第12巻)
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 理境坊の2階から小泉理事長らに両腕を支えられて降りてきた戸田先生は、その「車駕」を一目見られた途端、渾身の力を振り絞るようにして、再び、公衆の面前で、「何だこれは、これでは戦場を駆け回ることはできんじゃないか。大作!お前はなんという奴だ、俺の心の分からん奴だな」と池田を激しく怒鳴りつけられたのです。
 この時の戸田先生の怒りの形相はすさまじいものでした。その場に居あわせた幹部は、皆、首をうなだれていましたが、池田だけは平然としており、後日、北条(浩氏・昭和54年に池田氏が会長辞任した後の創価学会会長)たちに「あれは5万円もかけてつくったのだ。戸田先生こそ俺の気持ちが分からなかったんだ」とうそぶいていました。
 3月1日の大講堂落慶法要の祝賀会に向かわれる際のエレベーター前での叱責に続き、理境坊の玄関先で大勢の幹部を前に、「大作、お前は何という奴だ、俺の心の分からん奴だな」と言われたことは、「池田は後継者に非ず」ということを大勢の学会幹部の前で宣言されたのです。(龍年光『フォーラム21』H15.2.1)


<「世界広布の夢を伸一に託した」!?/3月17日~>(『慧妙』H24.6.1)
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 伸一は、静かに胸に手をあてた。彼の上着の内ポケットには恩師戸田城聖の写真が納められていた。彼は、戸田が逝去の直前、総本山で病床に伏しながら、メキシコに行った夢を見たと語っていたことが忘れられなかった。
―あの日、戸田は言った。
 「待っていた、みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めてな。行きたいな。世界へ。広宣流布の旅に……。伸一、世界が相手だ。君の本当の舞台は世界だよ。世界は広いぞ」
 伸一は、戸田が布団のなかから差し出した手を、無言で握り締めた。
 すると、戸田は、まじまじと伸一の顔を見つめ、力を振り絞るように言った。
 「…伸一、生きろ、うんと生きるんだぞ。そして、世界に行くんだ」
 戸田の目は鋭い光を放っていた。伸一は、その言葉を遺言として胸に刻んだ。(『新・人間革命』第1巻「旭日の章」)
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 おそらく、学会員諸氏は疑問に思わないだろうが、ここには重大なウソがある。
 戸田氏が大病を患(わずら)い、昭和33年3月16日以降、徐々に衰弱し4月2日に逝去(せいきょ)するまで、ほとんど寝たきりで、幹部ですら面会禁止状態であった事実。つまり、池田大作も病床の戸田氏のもとへは行くことができず、戸田氏からかような直接指示を受けることはできなかった、という簡単な現実である。(中略)

●この病状悪化振(ぶ)りを見逃さないで頂きたいと思います。(※昭和33年3月)18日には御法主日淳(にちじゅん)上人が病床へ御見舞い下さいましたが、(学会としての)大儀式の16日(※創価学会員の言う「広布の模擬試験」)から僅(わず)か2日後なのに、もう身を起す事も叶(かな)わず、猊下へ応答の言上も出来ず、御見舞30分程の間に・唯「ハイ」「ハイ」を数回申し上げた丈(だけ)でした。これさえ細々(ほそぼそ)やっとのかすれた小声でしかありませんでした。この場に連なっていた石田達も心中涙して同席申し上げたものでした。猊下が人々の心中を察せられて殊更(ことさら)明るく御振舞(おふるま)い下された事を、今でも有難(ありがた)く想(おも)い起こすものであります。
 石田も年期が十二分に入った肺病のお蔭で、この5年後に同じ(瀕死〈ひんし〉の)経験をしてつくづく躰で判ったのですが、3月20日過ぎからは、人手を借りても、床へ身を起す事も叶わず、病状急傾斜してお声も出ず、御耳丈(だけ)は温度に鋭敏であられた様であります。何ともお痛ましい事でありました。会務や面接は一切禁止……というより不可能―こういう状態で面接や会話が出来ると思う者は、死に掛(か)けた経験が無いからだ―自動禁止で、病室へは理事長さえも近寄っては居(お)りません。医師以外は完壁(かんぺき)に入室阻止です。一切の会務は戸田先生御自身での報告受取不可能・指示不可能の為、小泉理事長が責任で全てを処理して居りました。
 それなのに、29日なのに、阻止もされないで、どうして池田氏丈(だけ)は前後2度も、病床へ参上しスリ寄れたのでしょうか?(中略)
 傍証ですが、在山終り頃の先生の病床には、M女さん(戸田氏の愛人・森重氏?)とオシャベリ美代さん(和泉美代秘書部長)2人体制での看護が続き、あと、補佐の婦人部幹部が交替で当った丈(だけ)でした。この2人は、昼夜付き切りですから、仮りに29日に池田氏が2度、病床へ参上出来たとしても、戸田先生と2人きりには成れません。ですから「先生と私の2人だけの場で残された遺言の1つとなった」(第14回本幹での池田発言)は作り事である事がハッキリ判ります。(石田次男著『内外一致の妙法この在るべからざるもの』)
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これが、戸田2代会長から1度は創価学会第3代会長と名指しされて辞退した石田次男氏の談である。すなわち、瀕死の戸田会長のそばに居られたのは、看護に必要な女性のみだったのである。

●(大講堂落成大法要。後に『広宣流布の模擬試験』あるいは『3.16』と称される)この儀式の後、先生の体がいよいよ衰弱されたため、原島宏治、小泉隆、辻武寿、柏原ヤス、馬場勝種ら理事たちと、池田・北条・森田・龍の4参謀が揃って戸田先生の枕元に行き、遺言を聞こうということになった。音頭を取ったのは辻、原島、小泉らで、この際はっきり池田を3代会長に指名してもらおうというハラづもりだったようだ。
 辻は「大久保彦左衛門」と渾名(あだな)され、どんな場面でも物(もの)怖(お)じせずにズバッと物を言う男だった。この時も、病の先生の枕辺(まくらべ)で、当然のような顔をして、「先生、3代会長は誰にするんですか」と単刀直入に尋ねた。ところが先生は、はっきりした声で「それは、お前達が決めるんだ」と答えられた。
 当然、「池田」という返事が返ってくると期待していた辻は驚き、もう1度同じことを聞いたが、返事は同じであった。(竜年光『池田創価学会を解散させよ』)
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 石田氏の証言では、この場には池田はいなかったことになっており、龍氏の上記文中では、池田がその場にいたことになっている。これが龍氏と石田氏の描写の違いだが、ただ、この点を除けば、戸田氏による池田指名はなかったことで一致している。
 過去を振り返る際に、各人によって思い込みや記憶違いが生ずることはままあることで、その場に池田がいたかいなかったかは、ほとんど問題にはならない。大事なのは、戸田氏が池田を「3代会長」にという意思表示をしなかったという「事実」である。

●その後(※戸田会長逝去後)、2年間創価学会の会長がいなかったのは、この日の会合で戸田先生が、池田を指名しなかった結果である。(龍年光著『有徳王』)
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 この指摘は重大であり、核心を突いている。
 もし、仮に戸田氏が池田を指名していたならば、戸田会長逝去後、速やかに池田第3代会長が就任していなければ理屈が合わないことになる。それが、2年間空白のまま―すなわち、『新・人間革命』の冒頭から描かれる「3代会長池田大作(本文では「山本伸一」)ありき」の筋書きは池田大作による捏造なのである。





【的場事件】
 昭和33年3月28日、池田は大石寺の境内で、大石寺の所化頭である的場正順師に対するリンチ集団暴行事件を引き起こした。
 この事件は、日蓮正宗宗門に対する威嚇・威圧のために池田氏が、側近の星野義雄登山部長らの青年部員と立案、実行したもので、大石寺内事部で修行している所化・小僧を統括する立場にある所化頭の的場師を、大石寺境内を流れる潤井川の水に沈め、暴行を加えたというものである。

<的場師暴行事件>
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 毎日、酒を飲み、お小僧さんを虐待するこの僧侶に対し、青年たちの誰もが義憤を感じた。(中略)伸一は、所化頭に反省を求める必要があると考え、総本山の内事部を訪ねた。
 伸一は、青年たちが怒りのあまり、口調が詰問調になるたびに、「まあ、待ちなさい」と、制止することを忘れなかった。
 所化頭はよほど酒を飲んでいたと見え、青年部員の言うことさえ、理解できないようだった。伸一は僧侶の無惨な醜態を前にして、憤りを通り越して、むしろ悲しさを覚えていた。戸田が宗門の興隆のために、外護の赤誠を貫いてきたことを潮笑うかのように、僧侶の腐敗、堕落は、限りなく進行していたのである。
 青年の1人が言った。
 「酔っているのなら、顔を洗ってきたらどうですか」
 所化頭は衣を脱ぐと、川に入り、顔を洗いはじめた。戻ってくるのを待って、伸一は込み上げる激情をこらえ、諄々と諭すように語りはじめた。(中略)
 伸一は忍耐強く、噛んで含めるように所化頭の非をただした。真心をつくしての説得であった(『人間革命』第12巻)
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 事件があった日は、戸田先生の病状はさらに悪化し、理境坊の2階にふせっておられました。小泉隆理事長らは戸田先生を東京の病院へ移送するために帰京していました。
 そうした大石寺に突然、池田が腹心である北条(浩・後に理事長、会長)や森田(一哉・現理事長)、秋谷(栄之助・現会長)、星野登山部長らを連れて登山してきたのです。池田は重篤の戸田先生を理境坊に見舞うこともなく、いきなり「これから所化頭の的場を徹底的にやっつける。彼は大変素行が悪い、小僧さんをいじめる、こんなことではこれから学会員の子弟は僧侶に志願しなくなってしまう。だから断固として粛正するのだ」と言って、大石寺の内事部に押し掛け、「的場を出せ」と怒鳴り散らし、3時間後に、出てきた的場師を六壷において大勢で吊るし上げたのです。
 その後、的場師を潤井川の川原へと連行していき、自ら裸になった的場師を青年部員に担ぎ上げさせて冷たい水の中に頭を何回も押し込ませたのです。午前8時に始まり午後5時に終わった一連の暴行事件の指揮をとった池田の形相は、これまで誰にも見せなかった険悪なものでした。(龍年光『フォーラム21』H15.2.15)


<戸田会長の「追撃の手をゆるめるな」発言>
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 その言葉は、しばしば途絶えたが、ただならぬ気迫にあふれていた。
 「…衣の権威で、学会を奴隷のように意のままに操り、支配しようとする法主も、出てくるかもしれぬ。……ことに、宗門の経済的な基盤が整い、金を持つようになれば、学会を切り捨てようとするにちがいない……。戦時中と同じように、宗門は、正法を滅亡させる元凶となり、天魔の住処にならないとも、限らないのだ」
 戸田は、最期の力を振り絞るように叫んだ。
 「そのためには、宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え。……いいか、伸一。1歩も退いてはならんぞ。……追撃の手をゆるめるな」
 それは、炎のような言葉であった。瞬間、戸田の眼が燃え輝いた。これが、彼の最期の指導であり、愛弟子への遺言となったのである。伸一は、その言々句々を命に焼き付けた。(『人間革命』第12巻)
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 事件後、池田は1人で理境坊の2階にあがって行き、しばらくして降りてくると、下で待っていた北条、森田、秋谷らに対して「戸田先生が、追撃の手をゆるめるなといわれた」と、さらに宗門を攻撃するよう戸田先生が指示したかのように告げたのです。しかし戸田先生は、所化・小僧さんを、「この中から将来の猊下がお出ましになるんだ」と言って、毎年、理境坊に招待し、御本尊様の前の上座に並ばせ、自らは下座から、1人1人に恭しく新調の衣を差し上げるほど、若い修行中の僧侶を大事にされていました。
 ですから戸田先生が僧侶暴行事件の報告を受けて、「追撃の手をゆるめるな」などと発言されるはずがありません。
 実際、戸田先生を4月1日、東京の病院に移すため付き添った小泉隆理事長に対して戸田先生は「猊下に申し訳ない、猊下に申し訳ない」と何度も繰り返しながら、下山されていったのです。
 後に小泉は私に「あの豪毅な戸田先生が、あの時はまるで子どものように、何回も何回も『猊下に申し訳ない』と謝られていた。どうしてなんだろう」と語りました。小泉は事件当日、東京に行っており不在でしたので、池田が引き起こした暴行事件を知らなかったのです。(龍年光『フォーラム21』H15.2.15)

●また御法主上人は唯授一人、64代の間を、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。(戸田会長・関西本部入仏落慶式S30.12.13)
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唯授一人の法水写瓶を信仰の根本だと考えていた戸田会長が「衣の権威で、学会を奴隷のように意のままに操り、支配しようとする法主も、出てくるかもしれぬ。」などと発言するはずがない。もし、そんなことを発言していたとすれば、会員に対する指導と正反対となり、妄語の罪を形成する。世法上も信仰上も許されない大罪となってしまう。現在の創価学会は日顕上人を、衣の権威で、学会員を奴隷のように扱い、切り捨てた「天魔」と非難しているが、『人間革命』第12巻の戸田発言は、まるで今日の創価学会の主張を先取りするような内容になっている。この『人間革命』第12巻が執筆、刊行されたのは、日蓮正宗が創価学会を破門した後の平成4年から5年にかけて。おそらく池田は戸田会長の言を利用して、創価学会の日蓮正宗攻撃を正当化しようとしたのだろう。





【「会長就任劇」の真相】
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>当時の最高幹部の"池田先生に1日も早く第3代会長に就任していただきたい"との強い願いがあった。その指導者としての抜きん出た力量を感じ、第3代は池田室長しかありえないというのが、多くの幹部の一致した認識であった。(『創価新報』H24.6.20)
>当時の理事長は、理事たちと協議の上、学会の運営を実質的に統括する「総務」という役職を設けたのである。(同上)
>やがて、会内には池田総務の会長就任を望む声が高まり、2年の時を経(へ)て、60年(同35年)5月3日に、池田第3代会長が誕生したのである(同上)
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<「総務」就任>
 まず、「総務就任」について、創価学会の理事の1人であった石田次男氏は次のように言う。
●この事件(※「追撃の手をゆるめるな」の遺言をデッチ上げた件)から3ヵ月後に、小泉理事長は池田氏を〈総務〉に任命します(じつは池田の工作で任命させられた)が、その理事長はやがて「(池田氏に)実権を奪(と)られてしまった」とボヤクようになり、聞き知った池田氏から、会長就任後にこの件で徹底的にカタキを取られ、いびられるようになってまいります。(石田次男著『内外一致の妙法―この在るべからざるもの』)

 また、当時、男子青年部第7部隊長だった藤原行正氏も、
●戸田構想にはなかった「総務」のポスト就任もその1つで、この役職は最初、池田の発案で、職務権限そのものが曖昧(あいまい)なまま設置された。ところが34年6月、池田は参謀室の北条、森田、竜らと共に理事室のメンバーに名を連(つら)ねた際、自分の総務職を次のように規定した。
 「理事長のもとに、理事室を代表して、事務局及び各部を統括する」
 すなわち、池田総務は会長代行たる小泉理事長と組織最高の意志決定機関たる理事室をつなぐパイプ役となり、理事会の決定事項は池田総務を通して小泉理事長へ伝わるという新システムであった。これによって池田は自動的に学会上層部全体の動きを掌中(しょうちゅう)にできる立場を得た。(藤原行正著『池田大作の素顔』)

 つまり、「総務」職は、小泉理事長が池田のために用意したポストではなく、池田が全権を掌握(しょうあく)すべく、自ら工作して作らせたポストだ、というのである。
 実際、池田の「総務」就任は昭和33年6月30日だが、藤原証言を裏付けるように、これを発表した『聖教新聞』では、その職務について規定も説明もしておらず、翌34年6月まで曖昧なままになっている。


<「会長」就任>
 また、「会長就任」についてであるが、戸田氏逝去(せいきょ)から1ヵ月が経(た)った昭和33年5月3日、第18回春季総会の席上、小泉氏は
●会長先生亡きあとの学会につきましては、ただ今、原島理事から話がありましたように、非常に世間が騒いでおります。皆さんも御心配なさっているのではないかと思いますので、はっきり申し上げておきます。とにかく会長という職は当分おかないつもりであります(小泉理事長『聖教新聞』S33.5.9)

と語り、また原島氏も、
●われわれで、会長になりたいなどと考えているものは、それこそ1人もいない(原島理事『聖教新聞』S33.5.9)

と語っており、少なくとも、当初から池田に「1日も早く会長に就任してほしい」などと願っていた、とは考えられない。
 前出の藤原氏は、当時の模様を次のように説明している。
●池田がしきりに戸田会長の「遺志」を本部幹部会や青年部幹部の前で口にするようになったのもこの前後(※昭和34年頃)である。
 「戸田先生は3代会長は青年部から出すとおっしゃったはずだ」
 みんなはそのとおりだと思った。しかし、ただ1人、何度もこの言葉を繰り返した池田の狙(ねら)いは、長老たちの会長昇格の芽を摘(つ)むところにあった。やがて学会本部内には、
 「次の会長はやはり青年部だな。戸田先生もたしかにそうおっしやった」
という空気が強まった。(藤原行正著『池田大作の素顔』)

 こうして、池田自らが謀(はか)り、作出した3代会長推戴(すいたい)の機運が醸成(じょうせい)されていくが、万事が順調だったわけではない。藤原氏は、会長代行であった小泉理事長が池田大作に対して
●戸田先生でさえ、牧口初代会長が亡くなって7年後に会長に就任された。池田さんの会長就任には賛成ですが、まだ時期尚早でしょう。もう少し待たれてはいかがですか(小泉理事長/藤原行正著『池田大作の素顔』)

と牽制していた旨(むね)も証言している。
 これを記しているのは藤原氏だけではなく、石田次男氏も
●昭和33年~35年当時、冷静にこういう路線を検討する空気など、全く入り込む余地もなかった。せいぜい、小泉理事長の「(候補者は若すぎるから)7年早い」説くらいの考え方で精いっぱいであった。池田がPRした「早く3代会長を実現しないと戸田先生の御意志に反する」というドグマだけが凝り固まって、池田氏の人心操縦に乗せられていった(石田次男著『内外一致の妙法―この在るべからざるもの』)

と証言ている。
 このように、小泉理事長は、戸田会長の7回忌までを目途(めど)として、池田の会長就任に待ったをかけていたが、池田は、己れの会長就任を妨げる四囲の状況を打破するために、戸田氏の言葉を利用するなどして、3代会長推戴への機運を作り上げたのである。(『慧妙』H24.7.16)






池田神話のひとつ「大阪事件」の真相

―「勾留」は刑罰にあらず!「法難」は大ウソ―
―有罪会員を切り捨て何が「正義の証明」か!?―
(『フォーラム21』H14.7.1/『慧妙』H15.10.16編集)

平成15年10月1日付『創価新報』を見た。刮目(かつもく)すべきは、「昭和37年(1962年)1月25日、大阪事件の裁判で池田会長(当時)が無罪となり、無実が証明された」と息巻いている点だ。いったい事実はどうだったのか?

<「大阪事件」とは>
 昭和32年4月、参議院大阪地方区の補欠選挙において、当時の学会本部長の小泉隆と渉外部長の池田大作らがこの選挙運動を指揮し、学会組織として公職選挙法に違反した事件である。具体的には、小泉理事長は、主として"実弾作戦"を、池田渉外部長は戸別訪問をそれぞれ担当、現地で指揮に当たり、府下の5支部に「選挙係」を設け、6万の会員のほとんどを戸別訪問に動員したというもの。投票数日前には"タバコ戦術"として職安十数ヵ所で、日雇(ひやと)い労務者に候補者名を書いたピースなど約4千個をバラまいた(『朝日新聞』S32.7.29夕刊の取意)容疑であった。
 結果的には、翌年に小泉が無罪となり、4年後の37年1月に池田が禁固10月の求刑を受けたものの、検察側は公判で戸別訪問の指示を立証できず、無罪を判決されて解決した。
 しかし、では大阪事件は、学会として本当に「無実」だったのか、というと、小泉・池田以外の、選挙運動に参加して起訴された学会員41人は、学会より除名され、さらに、このうち20人の創価学会員については戸別訪問で罰金1万円から3千円、うち10人に公民権停止3年7人に公民権停止2年の判決が言い渡されているのである。
 つまり、当時から現在に至る創価学会における「大阪事件」の勝利は、証拠不十分で指示を立件できなかった池田大作に限ったもので、その陰には、多くの末端会員の切り捨てという、限りなく非情な真実があるのだ。

<池田顕彰に利用>
 池田大作が公選法違反で逮捕され、大阪東署と大阪拘置所に15日間勾留された。いわゆるブタ箱入りであり、酔っ払って乗車拒否のタクシーを蹴(け)っ飛ばすぐらいでも、間と運が悪ければ、あり得る事件である。
 勾留は刑ではない。警察署内の留置場(ブタ箱)と、れっきとした刑務所とは大いにちがう。勾留とは本来、刑が確定する前の被疑者・被告人の逃亡・証拠隠滅を防ぐために行なわれる「未決拘禁」であって、刑罰としての意味はまるでない。
 だが、池田はこの大阪事件に連累(れんるい)したことで、初代・第2代と続いた名誉ある「投獄=法難」を第3代会長でもある自分もまた受けたとして、池田自身の神聖化に活用し、自己顕彰の根拠にしている。
 また、これまで、この大阪事件の詳細については、創価学会側の都合のよい宣伝のみがなされ、末端会員には真実が明らかにされていなかった。

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●創価学会幹部45人起訴
[大阪発]大阪地検は、去る4月行われた参議院大阪地方区補選での創価学会幹部らの公選法違反事件について、29日、同学会本部理事長、東京都議小泉隆(48)=東京都大田区蒲田五ノ一一=ら45人を買収で、(うち2人は略式請求)同渉外部長池田大作(29)=同区調布小林町三八八=ら3人を戸別訪問で、それぞれ起訴した。起訴状によると、この選挙で、小泉理事長は主として「実弾作戦」を、池田渉外部長は戸別訪問をそれぞれ担当、現地で指揮に当り、大阪、船場、松島、梅田、堺の5支部に「選挙係」を設け、府下約6万世帯の信者のほとんどを戸別訪問に動員したもの。  投票日前日には、「タバコ戦術」として職安十数ヵ所で、日雇労務者に候補者名を書いたピースなど約4千個をばらまいたという(『朝日新聞』S32.7.29夕刊/『慧妙』H22.7.1)

 また、学会は7月3日と言っているが、実際は7月4日に大阪東署へ出頭、その後、拘置所入りしていた池田大作は、7月17日に大阪市中央公会堂で開かれた大阪大会に姿を現わした。
 ここに大きな疑問が出てくる。犯行を否定し続けている容疑者の拘留期間は21日間のはずだ。7月4日に出頭して17日に出てきたのならば、計算が合わない。池田大作は拘留期間中に自白したことになる。
 学会員にとって、「永遠の指導者」池田大作が検事の取調べに対し、ペラペラと自白する姿を思い浮かべるのは、不快であろう。だが事実は、
 「検事のいうがままの調書に署名し、7月17日(小泉は15日)保釈出所した。」(『池田大作「権力者」の構造』溝口敦著)
と取る以外にない。
 学生運動家でさえ、逮捕されても完全黙秘を貫(つらぬ)き、仲間を売るような真似(まね)はしない者が多い。だが、池田大作は、この時転(ころ)んだのだ。
 余談がある。この事件の裁判費用は本来、池田大作個人の事件である以上、池田が負担すべきものである。戸田城聖の学会葬の費用をも戸田夫人に負担させたくらいだから、それが筋だ。だが、
 「最初から結審まで学会が全額を負担した。昭和37年の判決後、池田氏は分割払いででも、学会へ返済すべきものなのだが、返した話は聞いていない。」(『内外一致の妙法』石田次男著)
 それならば横領だ。
 この裁判のために、自民党元代議士である大瀧弁護士を核にした強力弁護団が結成されたが、池田大作が3代会長にならないと、この弁護団が崩壊する。少なくとも無実化する。
 「〈総務〉就任(昭和33年6月)を急いだのも理由は同じだ。と言うのは、大瀧弁護士は戸田城聖先生の旧友でしかなく、池田氏を厄介(やっかい)視していた人物だから……。(略)有罪当然を承知の池田氏としては、まず会長にならないと裁判で無罪を勝ち取ることも難しくなる。(略)この選挙違反が有罪であれば学会内での池田株は暴落する。無罪ならば〈法難だった〉という箔(はく)が着く。有罪無罪の落差はあまりにも大きい……と見た池田氏は、事件からくる学会内での失脚を恐れて、拘置所入り以前から心にあった会長就任意思を、事件後に決定的に固めてしまった…と石田は観ている。」(前出同書)

[画像]:大阪大会を報じた『聖教新聞』=そこには、壇上で懸命に"弁明"する小泉と池田の写真も
(『慧妙』H22.7.1)





池田は「仏法西還」の先駆にあらず

―功労者に箝口令(かんこうれい)布き"実績"独占―
(『慧妙』H16.4.1抜粋編集)

<虚構だった池田による"仏法西還">
―池田渡印の前年、すでに正法は到達―

池田大作が第3代会長に就任した翌年、「仏法西還」と称し、日達上人と共にインドを訪れ、日達上人御書写の『三大秘法禀承事』や、池田の揮毫(きごう)を彫りつけた石版などをブッダガヤの地に埋めた時のことである。
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1◆今回の山本伸一のアジア訪問の目的は、日蓮大聖人の御予言である、"仏法西還"の第一歩を印し、東洋の幸福と恒久平和への道を開くことにあった。(中略)
 もしも、創価学会がなければ、この仏法西還の御本仏の御予言も、虚妄(こもう)となってしまったにちがいない。
 その先駆けの歩みを、伸一は会長に就任して迎えた新しき年の初めに、踏み出そうとしていたのである。それは仏法の歴史を画し、東洋に生命の世紀の旭日を告げるものであった。(『新・人間革命』第3巻)

2◆この渡印にさいしては、さきのアメリカのように、現地に学会員がいて組織づくりをしてきたような事情とは違い、インドのようにひとりも会員がいない所もあり、この未開拓の分野に先駆をきって戦ってくるわけである。(『聖教新聞』S36.1.18)
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 "月氏国すなわちインドへ正法が流布していく歴史的先鞭(せんべん)は、このオレがつけた!"そんな池田の得意顔が目に浮かぶようではないか。
 この記事(2◆)にしてからが、池田宣揚のために事実を曲げている。
 というのは、その当時、インドにはすでに正宗信徒(学会員)がおり、しかも熱心に信仰に励んでいた。その事実は創価学会としても充分に承知しており、『大白蓮華』(S35.8)誌上にも、その事実を述べていたのだ(写真参照)。

[画像]:海外広布の進捗状況を伝える『大白蓮華』S35.8=そこには、「昭和35年4月調べ」として、「インド2世帯」と明確に

しかして、そのうちの1人で、インドの最初の「一粒種」であるT・プラサド氏は、何を隠そう、三宅妙子さん(<恋文に認めたお粗末な「詩」>参照)の夫君、伊藤監英氏が折伏した人物であった。

●私が、夫・伊藤監英と結婚したのは、昭和34年9月のことでした。
 その頃、私たち夫婦の新居を座談会場に、もっぱら外国人を対象にして折伏を進めていました。その際、当時、アジア各国との技術交流を推進する、アジア協会(※「アジア協会」とは、「国際協力事業団」の前身の1つである「海外技術協力事業団」の旧称)というところに勤めていた央洋一さんという学会員が通訳を担当していました。
 T・プラサド氏は、アジア協会で技術研修を受けるために来日していたインドの高級官僚で、彼を連れてきたのは央さんです。
 プラサド氏が入信するに至る大きなきっかけとなったのは、来日中に体調を崩したプラサド氏を、約1ヵ月にわたって、私の家で看病したことです。その間、折にふれては仏法の話をしたことで、氏は入信を決意したのです。
 昭和35年、プラサド氏は、御下附いただいた御本尊様をしっかりと捧持(ほうじ)し、インドヘと帰っていきました。(三宅妙子)
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かくして、日蓮正宗の御本尊は、池田が渡印する前に、すでにインドの地に到達していたのだ。昭和36年以降、池田はその事実を隠して、自分が先駆者であるかに脚色してきたのだが、それはとんだ嘘っぱちだったわけである。


<記念品埋納が成功した背景には・・・>
―功労者たちの口封じた池田ら首脳―

●池田大作が日達上人と共に渡印し、『三大秘法禀承事』などを埋納する、という話を聞き及んだ私たち夫婦と央さんは、昭和35年12月、学会本部に池田大作を訪ねました。そこには秋谷と森田もいました。
 私たちは、インドの高官であるT・プラサド氏のことなどを話し、仕事を兼ねてインドに行くので、何かお手伝いさせてほしい、と申し出ました。
 すると池田たちは、仏頂面で、「何かしたいというなら、行って勝手にやればいい。ただし、それが成功したからといって、表には絶対出てくるな!出てきたらクビだぞ! 」と言い放ったのです。それでも主人たちは、インドヘと旅立っていきました。
 日達上人と池田らの一行が帰国した後、主人たちも帰国しましたが、ブッダガヤのことについては私達にも語ろうとしませんでした。唯一、「T・プラサドはよくやってくれた」と語った以外は―。また、央さんは、インドから帰国して間もなく、創価学会をやめてしまいました
 後に、私の弟で、池田一行に通訳として同行した三宅建夫が、「埋納が終わった後、なぜ、皆で一行の宿泊先のホテルに顔を出さなかったんだ」と言ってきましたが、出発前にあれだけ厳しくクギを刺されていれば、主人たちがホテルに行かなかったのも当然だと思います。(三宅妙子)
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 昭和36年当時の創価学会といえば、海外では全く無名。その団体がいきなり、後年、世界文化遺産に登録されるような外国の聖地にモニュメントを埋めるなど、よほどの後ろ盾がなければ不可能なのは、誰の目にも明らかだろう。だからこそ、アジア協会に勤めた関係で、アジアの諸事情に通じていた央洋一氏と、インド高官のT・プラサド氏の存在は、実際に大きな影響を与えたはずだ。
 ところが『新・人間革命』には、伊藤氏も央氏も、そしてT・プラサド氏もいっさい登場せず、ただただ、寸暇(すんか)を惜しみ、飛行機の中でも、空港の待合室でも、移動中の車の中でも、「行く先々で、地涌の菩薩の出現を願い、大地に題目を染み込ませる思いで、唱題し続け」た山本伸一の姿を述べるばかりなのである(この件で池田は、ブッダガヤにほど近いパトナ空港において「カルカッタにいる日本人のメンバーが迎えてくれた」などと書き、万一指弾されてもお茶を濁せるよう準備している。が、そうなると、前掲の『聖教新聞』の記述はウソだ、と、自ら白状したことになる)。


<ブッダガヤには埋納品すでに無し>
―学会はこの現実をどうするのか!?―

●伊藤は池田の"忠告"を忠実に守り、インドでの出来事は何も語りませんでしたし、記録の類も残しておいてはくれせんでした。
 ところが、インドから帰国した伊藤が入院している時に、私の家に、インド政府の公式文書が郵送されてきたのです。
 それを読んだ私はビックリ仰天し、入院中の伊藤に相談するのももどかしく、急いで文書を翻訳(ほんやく)し、公式文書と共に学会本部に届けました。その手紙には、「ブッダガヤの地を整備するため、埋納された品は他所に埋め直しました」と書かれていたからです。(三宅妙子)
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 ちなみに、埋納当時の『聖教新聞』にも、また『新・人間革命』にも、池田らが現地の責任者に確認し、「埋納品が掘り返されることはない」とのお墨付きをもらって安堵したこと、東洋広布の暁(あかつき)にはじめて、これらの埋納品を掘り出す、ということが明記されている。
 それが、埋納からいくらも経たないうちに掘り出され、別の場所に移されてしまっていた、というのは、創価学会にとってはまさに重大事。
 そんな重大な連絡が伊藤氏になされたということは、インド政府は、伊藤氏こそ件(くだん)の埋納に拘(かか)わる中心的人物だと理解していたからに他ならない。

●学会本部に着いた私は、そこにいた白木薫次さん(池田大作の義父で、当時創価学会理事)に手紙を見せて事情を説明しました。ところが、白木さんはそれを聞いて慌(あわ)てるでもなく、むしろ迷惑そうな顔をするばかりで、手紙も「いらない」というから、そのまま持ち帰ってきてしまいました。
 伊藤たちが、命をすり減らすような思いで行なったことが、学会にとってはそれほど軽いことだったのか、複雑な思いにかられ、私はこのことは誰にも話さず墓石の下まで持っていこう、と決意しました。学会の言う「東洋広布」というのがいつのことか知りませんが、いずれブッダガヤを掘り起こしたときに慌てればいいんです。
 それが私の、いえ、池田に踏み台にされた伊藤・央・プラサドの無念を晴らす、ささやかなお返しだと思いますから。(三宅妙子)
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今まで、身内にもこの手紙のことを語ったことのなかった三宅さんは、本紙からの取材申し入れを受けようと決意した時、「全てを墓石の下に持っていっては独り相撲で終わってしまう。今こそ口を開いて、池田の欺瞞(ぎまん)ぶりを多くの人に知らせなければ」と考え直したという。

●創価学会が、日蓮正宗誹謗(ひぼう)の非を悔(く)いた上で、礼を尽くして「埋め直された場所を教えてほしい」と言ってきた時には、教えてもいいと思っています(三宅妙子)
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またしても『人間革命』の虚構は崩れ去った。心ある学会員よ、今からでも遅くはない、「池田大作」という虚像に訣別し、正法に帰依せよ。






戸田会長の7回忌を機に池田教に転換

―全権握り衆院を目指した池田―
―"「戸田」の威"を借りた池田―

(元創価学会本部広報部副部長・小川頼宣『慧妙』H22.4.1)

 前述のとおり、『水滸会記録』中の「衆議院」に関するわずか230字の記述から、創価学会に巨大すぎる負荷がかかった。
 この負荷が学会に歪(ゆが)みをもたらした。
 幹部も会員も、寝食を惜しんで衆議院選挙を戦った。多くの会員が会社をクビになったり、選挙違反で捕まったりした。当選責任者の総司令は、落とせば池田大作の逆鱗(げきりん)に触れ、左遷(させん)された。
 学会は、衆議院議員を増やすため、「全ては広宣流布のためである」と称し、犠牲者を切り捨て、死の行進を始めたのである。それは池田大作の、原稿用紙1枚にも満たない粗雑な記述から始まった。
 こんな虚構の大義が、なぜ昭和39年から表看板にしゃしゃり出てきたのか。
 団結の年と名付けられたこの年は「広布本門の時代」とも位置づけられた。その性格は、戸田城聖の7回忌法要における話で明らかである。すなわち、
●過去7年間は恩師戸田城聖の遺命と構想を実現し、飛躍的発展を遂(と)げた時代であったが、それはもはや夢に過ぎない。いよいよこれからは、第3代池田会長の類(たぐい)なき独創力と指導力、構想力をともに呼吸しつつ、広布、世界平和の大事業を、独自に、思う存分展開せんとするとき(聖教新聞社刊『革命の大河』より)
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だという。恩師戸田城聖の霊前で、戸田の遺命を実現するのは夢に過ぎず、これからは池田大作が独自の路線を展開すると言っている。
 恩師を蔑(ないがし)ろにすること甚(はなは)だしい内容だ。少なくとも弟子の言うことではない。
 4月1日、戸田城聖の7回忌の「お逮夜法要」で、最高幹部にありうべからざる右の発言をさせて、池田大作自身は「私ども戸田門下生は、本日をまた第一歩として、再び第三文明、世界平和建設への第2の目標へ向かって、勇敢に、力強く大勝利の進軍を開始したい」と述べた。
 当時大学1年の私は「迹門から本門の時代になったのだ。本門とは理ではなく事である。事とは実践である」との指導を受け、素直に折伏に励んでいたが、「しかしどうして戸田城聖先生の構想を実現するのが迹門なのか?」釈然としなかった。
 では、池田大作は、戸田城聖が逝去(せいきょ)してからの7年間で、何をしたのだろうか。
昭和36年5月3日文化局の設置。
 文化局は、政治、経済、教育、言論の4部からなる。局長には辻武寿参議院議員が就(つ)いた。ことに政治部は
●混乱した日本の政界を浄化するため、学会精神に育(はぐく)まれた優秀な政治部員を養成し、日本の政治に正しい方向を示していくとともに、本質的な国立戒壇建立という大業の必要性を、政界に理解させようというものである(『聖教新聞』S36.5.6)
●創価学会は政党ではない。したがって衆議院にコマを進めるものではない。あくまでも、参議院、地方議会、政党色があってはならない分野に議員を送るものである(『大白蓮華』S36.6)
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と公言した。しかし、その後の動きは、明らかに衆議院進出を目指した政党結成の布石を次々と打っている。
昭和36年11月27日公明政治連盟を発足。
昭和37年4月2日『公明新聞』を創刊。
昭和37年7月20日、参議院の院内交渉団体・公明会を結成。公政連の15議員を無所属クラブから独立させる。事実上の政党結成である。
昭和37年9月13日、公政連の第1回大会で、池田大作は次のように言う。
●もし10年先、20年先、(略)大政治団体になり、皆さん方が一流の名士になって、派閥やそれから反目があるような事が、もし毛筋でもあったならば、即座に我が政治連盟は、大衆の政治団体ではない、そういう資格はないものとして、解散を私はすべきであるということを、本日第1回の大会において、言い残しておきたいのであります。(『公明新聞』S37.9.16)
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 これは、公政連のオーナーである池田大作に解散権がある、と言っているようなものだ。
 右の動きと対応する形で、創価学会の規則も大幅に変貌(へんぼう)を遂げている。
 池田大作は、戸田城聖の「ゆずる会長は1人でありますが、その時に、分裂があってはなりませんぞ」との遺訓を盾(たて)に、会内支配を強め、創価学会規則の改定を繰り返し、独裁体制を完成させていく。
昭37年6月の創価学会規則の改定では、
 会長は4年の任期と定められ、理事会によって罷免(ひめん)されることがある
と定められていた。
・それが昭和41年5月の規則になると、会長は、
 ①創価学会の責任役員である
 ②総務を統括する
 ③幹部会を招集する権限を持つ
 ④責任役員を任命し罷免する
 ⑤副理事長、理事、その他の必要な役員を任命し罷免する
 ⑥任期は終身とする
 ⑦会長の後任を選ぶことができる
と変わっている。
 運営権、人事権、財産処理権、全ての権限が池田に集中しており、これは改定という域を超えている。まるで「宮廷クーデター」による革命か、下剋上(げこくじょう)による主(あるじ)殺しの国盗り物語である。
 通常、革命政権とは、政府軍と革命軍が堂々と戦場で渡り合って雌雄(しゆう)を決し、革命軍が勝利して新しい政権を確立することをいう。
 これに対し「宮廷クーデター」とは、大統領以下の閣僚を少数の部隊が殺戮(さつりく)し、軍を掌握(しょうあく)した後、自らが大統領であるという宣言をマスコミによって発表する。
 当然のことながら政治体制に変革はない。選挙によらず、武力によらない政権交代だと思ってもらえればよい。暗く卑怯(ひきょう)な政権との印象が
強い。
 余談ながら、池田大作は、マムシとあだ名を取る斎藤道三を主人公にした、司馬遼太郎の『国盗り物語』の例をよく引いた。自分によく似ていると思ったからなのか、一度聞いてみたいものである。










思想と人格

池田大作の思想と人格

http://www.toride.org/real/real.htm

自前の機関紙誌をフルに使い、日蓮正宗誹謗(ひぼう)に明け暮れる創価学会は、この世の中に存在する野卑(やひ)な言葉の全(すべ)てを集めたような俗悪記事を、相も変わらずタレ流し続けている。こんな下劣な記事を掲載できる感性は"異常"と断定せざるを得ないが、そもそも教祖からして"異常"な人物である故、学会内部においては、"異常"も"正常"と受け止める者が大半なのであろう。(『慧妙』H16.11.16)



【人格】
<憎悪>
<傲慢(ごうまん)>
<我儘(わがまま)>
<品性>
<臆病>
<コンプレックス>
<嫉妬>
<物欲>
<名誉欲>
<奇行>

【信心】
<憍慢(きょうまん)>
<勤行>
<本尊>
<折伏>
<御供養>
<僧侶蔑視>

【政教一致(権力志向)】
―総体革命・本化国主への野望―

【政治理念】
―理念なき御都合主義―

【謀略】


【人格】
<憎悪>
怒りの炎を燃やして「戦闘」する!「叱咤(しった)」する!「攻撃」する!「追撃(ついげき)」する!これこそが仏法であり、正しき人間の道である。(池田大作『聖教新聞』H11.10.11/『慧妙』H17.5.1)

●師である私が迫害を受けている。仇を討て。言われたら言い返す。打ち返す。切り返す。叫ばなければ負けである。戸田先生も、牧口先生の仇をとると立ち上がった。私も戸田先生の仇を取るために立った。私の仇を討つのは、創価同窓の諸君だ。(平成8年11月3日「創価同窓の集い」にて/『週刊新潮』H15.12.18)

●2001年5月3日、広宣流布の同志を裏切った者の大罪を、厳然と天下に公表したい(中略)宗門の悪侶、学会の反逆者を書き連ね、その罪科を、血涙をもって後世に残したい。永久追放の証としたい(池田大作『聖教新聞』H6.9.2/『大白法』H14.8.1)

●あっ、クリントン元気かしら、ああっ、そう、あのよーにね、口をうまくね、うんと、うんと人を誤魔化してね、あのー、あのー警察につかまんないように、ンフフフ、まあーいいや、ね、口をうまく、クリントン以上に口をうまくね、折伏戦でやってください。指導してください。口をうまく、口下手なんていうのはね、時を遅れています。クリントンは口がうまかったんだから。(アメリカSGI&関西合同総会H5.1.27/『慧妙』H17.1.1)
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池田大作は、アメリカ大統領との会見を何度も企てたものの、これまで1度も実現していない、という。その腹いせに、当時の大統領だったクリントン氏を"嘘つき"呼ばわりし、クサして見せた!?

●あのー、まぁ日顕(※日蓮正宗管長・阿部日顕上人)なんか、その(※イヤな奴の)代表だっていうんだ。ほんな、針金(はりがね)でゆわえて、あの頭、トンカチでぶっ叩いてね。(平成4年12月13日・全国青年部幹部会)

●このあいだ、オバサン、オバサンジョだ。2つ字を加えなきゃオバサンだったが、男だったんですよ(※ナイジェリアのオバサンジョ元国家元首のこと)。アフリカ全体の中心的人物だ。じつを言えば頭がいいんです、なかなかねェ。アフリカっていうと、少しねェ、黒くてねェ。そう、そんなもんじゃない、先入観がよくない。1番バカなのは日顕(上人)!(平成4年4月26日・第8回中部総会)
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「人権」「人権」と騒ぐ池田大作こそ、じつはアフリカの人々を偏見の目で見ている、という本音がポロリ!

脱会者は自殺するまで追いつめろ(『諸君!』H4.5/『妙観』H4.5.15/『大白法』H15.1.16)

●全員が「勝つ」と強く決めていけ!勝つか負けるか。やられたらやりかえせ。世間などなんだ!私は恐れなど微塵(みじん)もない。勇者は私だ。私だけ戦っている。強気でいけ!強気で勝つんだ!強気、強気、強気…でいこう。どこまでもしぶとくいくんだ。(中略)なんでもいいから、言い返すんだ。こわがったり、ひるんだりしてはいけない。怒鳴(どな)っていけばいいんだ!(中略) 反逆者には「この野郎、馬鹿野郎」でいいんだ!(H1.3.12・埼玉指導での池田大作発言/『慧妙』H17.5.1)

●私は、戸田先生から〝あいつを殺せ〟と言われれば殺す気で、お仕(つか)えしてきた。君は私が「殺せ」と言ったら人を殺せるか
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と言われ、ためらうことなく「ハイ」と答えて弟子に加えられ、「新弟子証」を与えられました。(〝新弟子〟は、池田の門下生であり、牧口・戸田氏の門下は、〝本弟子〟とされました。池田は、日蓮大聖人が「本六・新六」の弟子を定められたのを真似〈まね〉したのです。)(創価学会元顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.5.1)


<傲慢>
●平成7年には、来日したネルソン・マンデラ南アフリカ共和国大統領(当時)と会見した池田大作が、いかにも親密ぶって同大統領の頬(ほお)をなでつける、という"暴挙"を犯した。これに対し、「あまりにも非礼だ」との批判が相次いだ。(『慧妙』H18.8.1)
[画像]:マンデラ大統領の頬をなでる池田(『フォーカス』H7.7.19)=この一件は、マスコミも大きく取り上げた。

●池田氏の話し方は、傲慢かつ他に恐怖心を与えるもので、彼が話を進め、他の人がそれにうなづき従う、といったものでした。 時として、彼が予期しない、一般的でない意見が述べられると、途端に彼の目には厳しい反応が現われ、警告にも似た冷たさが浮かぶのです。 私達は、形だけの会話をしながら、この男を観察いたしました。彼は、頭の先からハンドメイドの靴のつま先まで、俗人そのものであり、崇高さのひとカケラも見えませんでした。「彼の職業が何か。当ててみろ」と言われても、"宗教家"と答えられる人は、ほとんどいないでしょう。 私は、多くの有力者と会ったことがあります。それは、首相をはじめ、さまざまな分野の指導者達ですが、しかし、池田氏のように、絶対的権力者の雰囲気をにじみ出させた人物と会ったことはありませんでした。 彼は、おそらく長年にわたり、あらゆる自分の気まぐれを押し通し、すべての命令に従わせ、そして、それに対する反論や軋櫟に触れないよう、守られてきた人間なのでありましよう。 私はめったに恐怖を感じることはないのですが、彼の中にある何かに、私は体の芯までゾッとさせられました。 夕食は苦しい体験でした。私達は、伝統的な日本間に通されました。畳に座布団を敷き、池田氏を中心にテーブルを囲みました。テーブルの中央には料理人が入り、熱い油の鍋から天ぷらを揚げてくれるのです。 「あまり堅苦しい話は、今夜はやめにして、ともかく楽しみましょう」と、池田氏は命令口調で言いました。 私達は、耐えがたい、くだらない会話を、まだ続けなければならないのかと、沈痛な気分になりました(ポーリー・トインビー=トインビー博士の孫娘『ガーディアン』S59.5.19/『フォーラム21』H17.1.1)
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昭和59年、ポーリー・トインビーさんは創価学会の招待で来日し、池田氏と面談。未発表の対談部分の出版を依頼されたのだが、その際の感想を帰国後、手記として『ガーディアン』紙(S59.5.19)に発表した。

●紹介する写真(①②③)は、昭和40年代、創価学会本部内で撮られたものです。『月刊ペン』裁判の記録によれば、池田によって顔に落書きをされた被害者は、当時、創価学会第1庶務に勤務していたYさんの娘。プライバシー保護のため被害者である幼児の目を隠していますが、少なくとも原版写真を見るかぎり、幼児が喜んでいるようには見えません。否、むしろ、困惑の表情をしています。(『慧妙』H18.9.1)
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 親としては、たとえ相手が誰であっても、自分の子供が慰(なぐさ)み者にされるのを見て平常心でいられるわけがありません。
 にも拘(かか)わらず、池田大作は、平気で幼児を慰み者にしたのです。これぞ"自分は何をしても許される"という慢心の極みでなくして、いったい何でしょう。
[画像]:幼児の顔に落書きする池田

●私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者最高権力者である。(『池田大作―その思想と生き方』S40/『慧妙』H17.4.1)
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会長就任の5年後、37歳の池田会長にインタビューした評論家・高瀬広居氏の『人間革命をめざす池田大作 その思想と生き方』(65年)(『週刊新潮』H15.12.18)


<我儘>
なんだ、こんなケチ臭いもの(第2回正本堂建設委員会 於妙光寺S40頃)
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 その次にお弁当が出た。するとまた彼は「●」なんて言う。池田は呼ばれているのだよ。たとえおにぎり1個でも、お寺で出してもらったものは、御本尊様からいただくんですよね。ありがたくいただくのが礼儀じゃないですか。しかも、猊下も同じものを召し上がるのですから。
 それで、観妙院さんがとうとういたたまれなくなって、「これは猊下の思し召しです」と言ったら、池田は「あっ、それは失礼しました」って慇懃無礼(いんぎんぶれい)な謝り方でしたね。(前川慈肇御尊師『富士の法統妙教編集室』

メロンが小さい(第2回正本堂建設委員会 於妙光寺S40頃)
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それからデザートにメロンを出したところが、今度は「●」って、怒るんだよ(笑)。(前川慈肇御尊師『富士の法統妙教編集室』)


<品性>
●処女のお嬢さんが、輪姦(りんかん)されたあと、さらに蹴(け)とばされているような気分(インタビュー『週刊文春』)
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これは、かの言論出版妨害事件につき、池田大作が『週刊文春』のインタビューの中で語った言葉だが、いったい、どういう顔をして、こんな台詞(せりふ)を語れるのだろうか。たぶん婦女暴行魔しか使わない(?)ような、この異常な台詞は、世間に対して美辞麗句(びじれいく)を並べる池田の正体が、いかに品性下劣であるかを雄弁に物語っている。まさに宗教者云々以前の問題であろう。そもそも「輪姦」とは、「多人数の男が次々に一人の女性を強姦すること」であり、世間のほとんどの人間には、日常において、まったく縁のない言葉である。ところが池田にとっては、雑誌のインタビューという、おおっぴらなところで、簡単に口をついて出てくるほど、生活に即した言葉であるようだ。「御里が知れる」とは、こういう姿を指して言うのであろう。心底は、女性蔑視(べっし)と人権軽視そのものでありながら、"口八丁、手八丁"で、「人格高潔」な「世界の指導者」を演出し、学会員たちを洗脳し続ける希代の詐欺(さぎ)師・池田大作。(『慧妙』H16.11.16)

●金のタマゴ、キン○マじゃないよ

●んもー、糸満平和会館なんて、名前変えた方がいいんじゃないか、うまく、ダメか、ウーマンぽい、ウーマンぽい、イトマンなんてウーマンぽい、ダメか、ダメか、もっといいねー、もっといいその、キンマン、イトマン、キン○○コだよ(H5.7.7・第66回本部幹部会)

●ニューヨーク!ニューヨークの人は、毎日身体を洗っているからきれいです。(※外人には全くウケない)(アメリカSGI&関西合同総会H5.1.27

●ハワイ!(中略)マハロー! マハロー! バカヤロー! バッハロー!アメリカSGI&関西合同総会H5.1.27

●皆さん方もねェ、もうションベンしたいから早く(※会合を)終わりたいな、って思っているよねェ。(H4.4.26・第8回中部総会)

●私がアメリカに行く2年くらい前、学会本部でセンセーと会食を共にする機会がありました。海外から来た婦人部のメンバーも交えた、6人ほどの席でした。
 その時、第1庶務の若くて綺麗(きれい)な女性にいろいろと世話を焼いてもらっているセンセーの姿を見て、私は素朴(そぼく)に、「どうして、ご飯を食べるくらい自分でできないのか」と不思議に思ってしまいました。
 しかも、間近でセンセーが食べる姿を見ていると、何だかとても下品なのです。平気で口を開けたままゲップはするし、音を立てて食べるし、という感じでした。(元学会公認通訳・後呂聖子『慧妙』H21.2.1)


<臆病>
●池田氏の本質は神経質、はっきり言うと臆病なのだ。これは悪口の類ではない。あの猜疑心の強さと臆病さがあって、今日の創価学会と池田氏があるのである。(元公明党委員長・矢野絢也『G2』/<YAHOO>H22.1.25 13時35分配信)(【「内弁慶」の発露「言論出版妨害事件」】【出廷拒否の「月刊ペン事件」】参照)

●池田大作はN君の行動を見て、身構えながらも余裕の態度で「おう!君か!」(※池田はN君とは創価学園の校友会で会っている)と言いながらも、後ずさりし、突然、脱兎(だっと)のように逃げ出したのである。驚いたことに池田は、大事な来客の存在も忘れ、ただ、ひたすらN君に背を向け遁走(とんそう)した。その光景は、大指導者を装う威厳など全くなく、むしろ滑稽(こっけい)な喜劇役者のように写った。 池田は、よほど気が動転したのか、いつも利用している本部正面玄関と文化会館来客用玄関との区別ができず、文化会館に間違って飛びこみ、あわてて、そこから飛び出してきた。(元学会本部職員・小多仁伯『慧妙』H15.12.1)


<コンプレックス>
●長男・博正氏が生まれた時、正式に「大作」と改める。「たいちゃん」「たっちゃん」と呼ばれていた年少時代に触れられることをひどく嫌う。(戸口浩著『創価学会の真実』日新報道200頁)
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名前にコンプレックス?

●オウムの麻原もそうでしたが、私もやはり池田氏を考える場合にこの言葉(※コンプレックス)が第一に浮かびます。大森海岸の海苔屋に生まれ、学歴もない彼が、社会的に認知されている人をコントロールできる快感を覚えたのではないでしょうか。彼らの共通点はエリートを支配することに喜びを感じることです。池田さんは実は非常に小心で、自信のない人だと思います。自信あるリーダーというのは、相手を一方的に支配しようとはしません。気が小さいからこそ、怖いのです。しかし、問題はそのリーダーに率いられ、肥大化した集団が信者どころか、日本全体を支配しようとしていることです。宗教、教団が持っている暴力性、排他性、差別性というものは物凄く強い。ヨーロッパの歴史を見れば分ると思いますが、肥大化したこういう集団を動かした時には無限の力が働き、人間一人一人を蹂躙していくことは歴史が証明しています。排他、除外というものは、宗教によって美化されます。普通の組織、政治とは違った、宗教自身の持つ恐ろしさを忘れてはなりません。(宗教学者・山崎龍明=武蔵野大学教授『週刊新潮』H15.12.18)


<嫉妬>
●池田大作が欲しくても貰(もら)えない「勲一等」の勲章を竹入氏が受けたことで、激怒した池田大作は、竹入氏が『朝日新聞』に回顧録を連載し、日中国交回復の裏話を明らかにした中に、池田大作のことを一言も触れなかったことで、またまた激怒して、『聖教新聞』と公明党による〝竹入バッシング〟を徹底的に行ないました。
 それでも腹の虫が治まらなくて、公明党に
 「竹入氏が、委員長時代に党の金を使って妻に高価な宝石を買った。その金を返せ」 という訴訟を起こさせたようですが、先日、東京地裁で、公明党全面敗訴の判決が下りました(記事参照)
 作り話をデッチ上げ、子飼いの弁護士達を使って裁判を起こし、大勢で口を揃(そろ)えて証言していたものと思われます。(『慧妙』H20.5.1)



<物欲>
●正本堂の御供養。5年間であれだけ。10年間はあの倍。あの発表の外に百億はやった。又、かせぐよ(第44回社長会S46.1.26)
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 池田は、正本堂建立御供養(学会では、355億円が集まったと発表していました)においても、公式発表した以外に百億円を稼いだばかりか、宗門を恫喝して、納めた御供養の中からも13億7千万円を拠出(きょしゅつ)せしめています。
 さらには、今や年間2千億円以上を集金する狂乱財務。昭和56年には150億円だったものが、今では10倍以上。平成2年などは3千9百億円集めたといわれます。(『慧妙』H18.2.1)

●本山の全T・V報告。東洋(東洋物産)でやらせようね、いいね。どれ位儲(もう)かる。10%かそれでは少ない、15%位儲けなさい。かまわないよ(第53回社長会S46.10.13)
●本山のCATV予算はいくらだ。2億1千万か。その見積はそれとして、1千750万技術料として加算しなさい(第56回社長会S46.12.31)
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学会の系列企業に「●」と命じ、あらゆる機会を通じて日蓮正宗からも不当な搾取(さくしゅ)を続けてきました。(『慧妙』H18.2.1)

●皆んなは公私混同、公私混同と云うが、私は公私混同で全部公だよ。仏法に私はないよ(第20回社長会S44.1.22)
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 かくして集金された金銭は、いったい、どこへ消えて行ったのでしょうか。いみじくも、池田は次のように(●)言いました。
 全国の学会施設のうち約百ヵ所に池田専用施設が設けられ、国家元首も及ばぬような、贅(ぜい)を尽くした風呂、トイレ、ぶ厚いジュータン、壮大なシャンデリア等々が用意されたことは、すでに多くの証言、証拠写真によって明らかといえましょう。それぞれの専用施設が、数億から数十億かけて作られ(しかも、土地代を除いて、です)、調査を受けそうになれば一夜にして取り壊し、また作る―まさに池田発言のごとく、池田は「公私混同で全部公だ」との信念(?)のもと、学会に集まる巨額の金を好き放題に使ってきたのであります。
 かの1億7千万円入り金庫が捨てられていた事件(平成元年7月)にしてもしかり。中西治雄総務(当時)が犠牲となり、全てをかぶって記者会見しましたが、"中西氏個人の商売で得た金が、金庫に入って聖教新聞社の地下にあり、それも昭和46年当時で現在の6億円にもあたる大金を、20年近く忘れていた"などという釈明を、いったい、誰が信じるというのでしょうか。
 この事件発覚の際、『聖教新聞』は、「今度は廃品金庫から1億7千万円。ゴミの中から。欲ボケ社会の戯画(ぎが)・縮図か」(「寸鉄」欄)などと酷評(こくひょう)していましたが、"捕えてみれば我が子なり"で、まさに「欲ボケ」池田学会の「縮図」ともいうべき事件でありました。(『慧妙』H18.2.1)

●(※日達上人に)おい、金があるだろ。金を出せ!(正本堂の落成1周年記念の後S48)
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創価学会は正本堂の御供養に全力をあげたのだから、今度は宗門が、その返礼として創価大学の建設に金を出せということだと聞いていたけど(前川慈肇御尊師『富士の法統妙教編集室』)


<名誉欲>
◆池田大作氏の理論の精髄(せいずい)は「哲学」です。ゆえに、人種や国境という違いを超えて、平和を伝播(でんぱ)することができます(東北師範大学の「池田大作哲学研究所」所長『聖教新聞』H19.6.2/『慧妙』H19.8.1
◆池田先生の哲学こそ東洋思想の真髄(しんずい)であり、人類にとって最も必要とされる思想であることを証明するには、本格的な研究活動が不可欠です(東北師範大学長『聖教新聞』H19.6.2/『慧妙』H19.8.1)
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 中国その他の国において"称賛"されている池田であるが、その称賛の中身は「哲学」であり、とくに「平和の伝播」に関するものであることが分かる。"大聖人直結"を自認する者が、大聖人の教えを広めずに「池田大作氏の理論」「池田先生の哲学」を広めているのだから、呆れてしまう。
 中国では「池田」の名前を知っている者はいても「日蓮大聖人」の御名前を知っている者はいないであろう。また、池田を知っている者にとってのキーワードは「哲学」「平和」であって決して仏法ではない―こんなことが容易に推測できる。
 してみれば、池田の"海外旅行"の真の目的は、「池田大作」の名前と「平和」をセットで浸透させることであり、その先にあるものは……と簡単に池田の野望が透けて見えるではないか。(法蔵)


<奇行>
[画像]:"居眠り勤行"を演じる池田大作(『慧妙』H18.8.1)=「寝ながらナンミョ・ナンミョ・ナンミョ……何千べんやったって(御本尊に)当たらない」と居眠り勤行を演じて見せ……

[画像]:弓を引く真似をして「バーン!」(『慧妙』H18.8.1)=「御本尊にピシャッと願いが通じるような、真剣勝負の勤行……」と語りながら、ピストルを撃(う)ったり弓矢を射(い)る真似をして見せるのです。

[画像]:壇上の幹部を皮肉って、進軍ラッパを吹く真似(『慧妙』H18.8.1)=スピーチの冒頭で、いきなり、アメリカSGI名誉理事長となったジョージ・ウイリアムス氏の批判を始めました。驚くべきことに、本人が幹部席にいるにも拘(かか)わらず、です。ウイリアムス氏には人望がなかった、と言いたい池田は、「1人で進軍ラッパ吹いていた」とラッパを吹く真似(まね)。要するに「笛吹けど踊らず」だった、と言いたかったようです。

[画像]:机をバンバン叩きながら「マッハロー、マハロー、馬鹿野郎だ!バッハロー!」(『慧妙』H18.8.1)

[画像]:最後は、会員の歓声にオーバーアクションで「ビックリしたなァ、もー」(『慧妙』H18.8.1)=まともなスピーチもせず、会員を小馬鹿にしたパフォーマンスだけで帰ってしまった池田大作―彼が、会員のことなど全く大事にしていないことが、このビデオを見るとよく判(わか)ります。




【信心】
<憍慢(きょうまん)>
私の話が高尚(こうしょう)で、そしてわかりやすく、そいで哲学的で、そいで文学調で、詩的で、そいで会話的である。頭がそうとう聡明でないと追っついていけないんです。そいで、行き詰まったところでコーラスやって、皆なでウップン晴らしをすると。それが、芸術的、SGIの本当の仏法の行き方なんです。その反対が日顕(上人)の行き方なんです。(アメリカSGI&関西合同総会H5.1.27

法華経第4の巻には法師品、仏様を一中劫という永い間、罵り続ける罪よりも、末法の法華経の行者――別しては私だ!総じては学会員――を、たとえ、わずかにも憎み、敵対する罪の方がより以上に深い、と説かれております。これ大聖人の仰せです。(H4.4.26・第8回中部総会)

●心から、全世界の創価学会を代表して、中部の壮年部にご苦労さまと申し上げます。アリガト。(※参加者、拍手して手を振る)もォ、手の振り方もやっとだしね。それから、今、手を振った人、中風になりません!! 顔色がいい。ね。もう少し景気よく振ればねェ、福運つくんだけど……(H4.4.26・第8回中部総会)

"師弟血脈"という観点から大聖人の仏法の本因・本果の流れを見るならば、大聖人のお立場は本因妙の仏法の上の本果妙であり、第2祖日興上人が本因妙ということになる。(中略)今度は私が本果、北條理事長をはじめ副会長が本因の立場になるのである。(池田大作『前進』S52.6/『慧妙』H16.8.16)

なんだかんだ云っても、私とつながりがあるから福運がつく(池田大作・第40回社長会・S45.11.19/『慧妙』H16.8.16)

私には全部わかっている。又、本部から、いつも会えないから、電波を発信しているのだけれども、いくら発信しても受信機が壊れていては何もならない。(池田大作『前進』S45.5/『慧妙』H16.8.16)

皆さん方に題目を送ります。皆さん方もしっかり題目をあげてほしい。送信機がいくら立派でも、受信機が壊(こわ)れていてはだめだ。(池田大作『前進』S44.10/『慧妙』H16.8.16)

私の頭の中にあることは全部事件をまぬがれる。頭を通るだけで良くなる。(だから)何でも話しておかねばならないのだ。(池田大作・第15回社長会・S43.8.3/『慧妙』H16.8.16)

私から幹部の任命を受けることは、記別(仏が弟子達の未来の成仏を約束すること)を受けること です。会合もただ列座しているのと、記別を受けて出るのとでは違う。記別とは信心の血脈です。これなくしては「法華経を持つとも無益なり」である。私は現在の仏法の指導者です。私を中心にして御本尊を信ずることによってこそ、「霊山(りょうぜん)に近づく鳥は金色になる」との御金言のごとく、幸福境界を確立することができるのです。(池田大作『前進』S42.2/『慧妙』H16.8.16)

そばにいても、会長の心を知ることは難しい。雖近而不見 (すいごんにふけん)である。(池田大作『前進』S42.2/『慧妙』H16.8.16)

私は、何も言わなくてもみな見えているよ。とても敏感なんだ。……私は言ってあげて、罪業を切ってあげているのだ。(池田大作『前進』S41.1/『慧妙』H16.8.16)

大信者に対して失礼じゃないか(第2回正本堂建設委員会 於妙光寺S40頃)
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所化が会議の座配を作っていたのかな?最初は、会議の席は当然一番正面が猊下の席で、その次が総監さんで、要するに池田の席が最上席でなかったらしいんだね。それを作っている時に観妙院さんが来られて、「これではダメだ」と言って、(池田は慶讃委員長だから)正面の席を猊下と池田と並べるように作り替えたんだよ。しかし、それを学会の青年部が見ていて、最初に作った座配のことを逐一池田に報告をしたのが事の起こりらしい。それで、池田が怒ったんだ。彼は「●」と言ったんだけど、彼は非常に発音が不明瞭な点があって、始め何を怒っているのか、末席にいたからわからなかったんだ。何はともあれ、会議の時に猊下と並んで池田も座ったんだから、なんら問題はないにもかかわらず、それを2時間ぐらい会議はそっちのけにして文句を言い続けていたんだ。本当に蛇みたいにしつこかったよ。(前川慈肇御尊師『富士の法統妙教編集室』

私を離れて、いくら戦ってもダメだ。私と境智冥合(きょうちみょうごう) していなければ、異体同心とはいえない(池田大作『前進』S40.6/『慧妙』H16.8.16)

私のそばにいたら私になんでも言えるように境智冥合しなさい。それ以外にないよ。私は信心の指導者だ。私しかいないよ。(池田大作『前進』S40.6/『慧妙』H16.8.16)

●池田会長は、モダンな本部応接室のアームチェアーにアグラをかき直すと、煙草を一服し、静かに、そして激しい語気でいった。 「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」 同席の大幹部数人は深く肯(うなず)き、息をのんだ。(池田大作インタビュー=評論家・高瀬広居『人間革命をめざす池田大作 その思想と生き方』S40/『週刊新潮』H15.12.18)

本仏気取りで弟子檀那(だんな)に成仏の記別を与え、三世十方を見通すがごとき大風呂敷を広げ、自らを福運の当体と言って憚(はばか)らず、自分が功徳を与える、自分と境智冥合せよ、と説く池田大作―まさに"池田本仏論"は、他ならぬ池田大作自身が作出した大謗法であることが、これらの慢心発言から明らかであります。


<勤行>
●ねェ、朝勤行してない人、ずいぶんいるかも知れないけどさァ、いいですよ、お題目1ぺんでいいんです。(H4.4.26・第53回本部幹部会/『慧妙』H16.8.16)

●学会の内部資料(学会が裁判の際に証拠として提出した"池田大作の行動記録")によれば、池田は昭和45年当時より、五座三座の勤行もまともにしていなかったことが明らかです。

・「十四時二十五分 勤行  十四時三十五分 手紙二通書く」→勤行10分
・「十三時十五分 勤行  十三時二十分 食事 広間 原稿」→勤行5分
・「十一時〇〇分 勤行  十一時〇〇分 離れに行かれる」→勤行0分
・「十四時〇四分 勤行  十四時一〇分 終了 おそば」→勤行6分

(学会が「月刊ペン」裁判の際に証拠として提出した"池田大作の行動記録")

 池田の朝の勤行というのは、ほとんど、5・6分、あるいは0分(おそらく題目三唱のみ)といった、呆れ果てた体(てい)たらくなのです。
 それ故(ゆえ)、かつて、池田大作が総本山大石寺の法要に参詣(さんけい)した折など、わずかな時間の正座で、すぐに足がしびれて立てなくなるのを、多くの僧俗(そうぞく)が目の当たりにしています。(『慧妙』H16.8.16)

[画像]:学会が、自ら裁判所に提出した池田の行動記録

●池田が、多勢の会員の導師となって読経・唱題(むろん短い時間ですが)することもありますが、その内容・実態を見ると、さらに呆れさせられます。というのは、池田の前にある経机の上には、常に茶托(ちゃたく)と茶碗(ちゃわん)が置かれており、池田は茶を飲みながら勤行の導師を行なっているのです。経机を卓袱台(ちゃぶだい)の代わりにし、茶を飲みながら勤行する―池田の行体の弛(ゆる)み様(よう)には、もはや開いた口が塞(ふさ)がりません。(『慧妙』H16.8.16)

[画像]:経机の上に茶托と茶碗を置いて読経・唱題する池田大作


<本尊>
●本門戒壇・板本尊、何だ!寛尊(かんそん)は「信心の中にしか本尊はない」と。ただの物です!(H5.9.7・本部幹部会/『慧妙』H16.11.16)

●(三大秘法総在の大御本尊のことを)やっぱり、曼荼羅はいつかなくなっちゃう。物体だから(H5.5.3・池田発言/『慧妙』H16.11.16)


<折伏>
●名誉会長は、父・子之吉、母・一の五男として出生。兄弟は一応、10人。妻妾同居とも言われ、実子を養子に出したり、養子にもらったりの複雑な家庭環境にあった。 父・子之吉は「強情さま」とも言われるほどの真言宗の強信者。葬式も真言宗で行っている。名誉会長は、学会に入ってからは、ほとんど実家に出入りしていない。勘当同然だった。名誉会長が折伏した家族・一族は、兄弟2人だけだという。(戸口浩著『創価学会の真実』日新報道200頁)

●「折伏しろ」っていうから、私は自分の友だちを10人ぐらいよんだのです。・・・会長先生がわざわざ、私のおよびした会合に出て下さったこともありました。しかしだれも信心しないのですよ。一生懸命やってもね。みな友だちがはなれっちゃうんだよ。(池田大作『聖教新聞』S34.2.6/戸口浩著『創価学会の真実』日新報道200頁)
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名誉会長は、1対1の折伏が苦手。「人間・池田太作」を知る人の大半は、入信していないようだ。幹部として立場を得たときは成果を出しても、名誉会長が紹介者となる個人折伏は、ご本人が次のように語る如くあまりない。(戸口浩著『創価学会の真実』日新報道200頁)

[画像]:池田の実家の墓


<御供養>
●サンフランシスコの皆さん、今回は関西の交流団がお世話になりました、と、お世辞を使っておいた方が、広布基金がたくさん取れることを、私は声を小さくして申し上げておきます。(アメリカSGI&関西合同総会H5.1.27


<僧侶蔑視>
おい!そこの眼鏡。一回やっつけてやろうかと思ったのに、要領がいいもんだから…(第2回正本堂建設委員会 於妙光寺S40頃)
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と突然恫喝(どうかつ)されてね。(前川慈肇御尊師『富士の法統妙教編集室』

こんな所で乾杯するのはやだけど、しようがない乾杯してやろうか(第2回正本堂建設委員会 於妙光寺S40頃)
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昼食の時に、池田は「●」って、隣に日達上人が座っていらっしゃるにもかかわらずそういう無礼なことを言うのだよ。(前川慈肇御尊師『富士の法統妙教編集室』)

私が御開扉に出る時にはあの住職は出さないでほしい
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 当時は御開扉が奉安殿だったろ。それで御開扉の時に池田が入口で猊下をお待ちしている。そこへ猊下がご出仕なされ、一往池田に会釈をされる。塔中の住職たちも何となく会釈はするのだが、中に挨拶をしない住職がいた。
 この方は、むかし堀上人のお供をされた時に「わしが代表で挨拶をするのだから、お供で来ているお前たち後の者はいちいち挨拶をしなくてもいい」と言われたというんだ。だから御開扉の入場の時には池田に挨拶しなかった。するとそれが池田には気にいらなくて、「●」と宗務院へ申し入れたというのだ。
 又その逆に、あるとき総坊へ池田が来たので、某塔中の住職が挨拶をしたら、側近が「先生の足を止めた」と言って、雪山坊(池田の宿坊)まで謝りにやらされた人もいた。まったく池田という人間は、この上ないわがままで増上慢な人間だったな。(前川慈肇御尊師『富士の法統妙教編集室』)




【政教一致(権力志向)】
―総体革命・本化国主への野望―
●すごい時代に入りました、ね!そのうちデェジン(大臣)も、何人か出るでしょう。もうじきです、明日あたり出るから。みんな、皆さん方の部下だから、そのつもりで。日本一の創価学会ですよ。(H5.8.8・第69回本部幹部会)

●私が教わったのは帝王学だ。私は最高権力者になる。そのときには創価学会を解散してもいい。(池田大作『月刊現代』S45.7/『慧妙』H17.3.1)
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"創価学会・公明党を使っての天下取り"―。これが、池田大作が目指してきたものなのである。そして、その究極の目的は、池田大作が最高権力者の地位に上り詰めることにあるのだ。

●広宣流布の時には、不開門(あかずのもん)が開きます。その時は、どういう儀式になるのか。(中略)一義には(※不開門を開くのは)天皇という意味もありますが、再往は時の最高権力者であるとされています。すなわち、公明党がどんなに発展しようが、創価学会がどんなに発展しようが、時の法華講の総講頭であり、創価学会の会長がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます。後々のために言っておかないと、狂いが生ずるから言うのです。(『聖教新聞』S40.7.26)

●広宣流布(※ここでいう広宣流布は、国民のほとんどが学会員となった状態)の時には、参議院議員、衆議院議員もいてさ、皆な財布の中には少なくとも10万や20万入れて、洋服も月賦じゃないの着てさ、ひとつ国会議事堂やプリンスホテルや帝国ホテルで会おうじゃないか。要所要所を全部ね、学会員で占めなかったら広宣流布できゃしませんよ。ひとつ天下取るまで諸君は大事な体だから、うんと修行して行きなさいよ。(池田大作『聖教新聞』S32.9.6/『慧妙』H17.3.1)

●同君(※池田のこと)は常に一言う「天下を取ろう」と。(『聖教新聞』報道記事・S27.3.10/『慧妙』H17.3.1)




【政治理念】
―理念なき御都合主義―
●あれ(※大学紛争)は一種の精神風俗への感染症としかいいようなく、覆面にヘルメットというファッションは宗教団体にまで蔓延していき、創価学会の青年部の学生たちと一緒に池田会長までがヘルメットに覆面といういでたちで片手を突き上げ、「宗教社会主義」なる面妖な祝詞をとなえているのを何かのグラビアで目にしてあきれ果てたのを覚えている。(石原慎太郎著『国家なる幻影』文芸春秋社H11 P89~90)

[画像]:昭和44年7月の創価学会学生部集会にゲバ学生スタイルで出席した池田大作の勇姿
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かつて池田が唱えていたという実体のない「宗教社会主義」なる主義は、いつのまにやら完全に捨て去られた。社会主義とは対極にある「資本主義」の擁護者・自民党に擦り寄り、権力者気取りである。御本人は以前から「全体主義が1番」だと思っていたようですが・・・↓

●本当は、全体主義は1番理想の形態だ。(S47.6.15・第61回社長会での池田大作発言/『慧妙』H17.4.1)

●基本理念は王仏冥合・仏法民主主義(公明党結党宣言S39.11.17)




【謀略】
口八丁・手八丁でよ。なんでもうまくやるんだ。社会(党)だって方便(ほうべん)を使っている。共産(党)だって目的のためならみんな謀略(ぼうりゃく)じゃないか。一般社会だって利益のためならあらゆる手段をつかう。うちは信心のため、信心を守るため、学会を守るためだ。(S51.6.1・扶桑研修所での池田大作発言/『慧妙』H17.5.1)
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むろん、ここで池田が「信心を守るため、学会を守るため」などと言っているのは、本音に訳せば「学会の勢力を伸ばし、自分の野望を達成するため」ということに他なりませんが、池田に盲従(もうじゅう)する狂信的幹部達は、この池田流"将軍学"を忠実に実行に移していきました。(『慧妙』H18.2.1)

●(※学会が犯〈おか〉した言論妨害といっても)たいした妨害ではないよ。どこでもやっている事だよ。(S45.2.27・第31回社長会での池田大作発言/『慧妙』H17.5.1)

ある日、堺の選挙事務所が、酔っばらいに荒された。報告を受けられた先生は「すぐ110番に電話して警察に来てもらいなさい」と指示され、間髪(かんはつ)を入れず、また「警察に電話をしたか」と電話があり「いま呼んでいます。もう来ると思います」と、お答えすると、先生は、さらに「刑事は、どうした」「近所には、全部、あいさつに行きなさい」「"いま、対立候補が、こちらの選挙事務所になぐり込みをかけてきました。そのため皆さんに、たいへん、ご迷惑をおかけしました"といって御近所を全部回りなさい」と指導された。まったく敏速な処置であった。
 大急ぎで50軒ぐらい近所回りをした。そして先生は「対立候補は悪らつな妨害をやる。"選挙事務所になぐりこみをかけてきた"という印象を与えればよいのだ。特定の候補の名を出さず、一軒一軒手を打て」といわれた。
(『前進』S41.12"将軍学を学ぶ"/『慧妙』H18.2.1・H26.5.1)
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創価学会の幹部向け機関誌『前進』の昭和41年(1966年)12月号(第79号)に掲載された、田代富士男(当時は副理事長)の懐古談だ。ここで田代は参院選における池田参謀の具体的な謀略の一端を明らかにしている。(『慧妙』H26.5.1)
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たかが酔っばらいのイタズラを、対立候補の殴(なぐ)り込みにデッチ上げ、巧妙に選挙妨害を図(はか)るとは、なんとも恐ろしい"将軍学"があったものですが、池田は、こうした"目的のためなら手段を選ばぬ"謀略(ぼうりゃく)思想を幹部達にも叩き込みました。(『慧妙』H18.2.1)
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昭和31年7月に実施された第4回参議院選挙大阪地方区での実話。大阪地方区から立候補した白木義一郎の選挙司令は池田大作(参謀室長=当時)で、池田の妻かね(後に改名して香峯子)と白木とは、いとこの間柄でもあった。『前進』は学会幹部を対象とした機関誌で、当該記事は田代富士男(後に公明党参議院議員となったが、砂利船汚職事件で起訴され、政界を引退)の述懐。(『慧妙』H25.1.1取意)

[画像]:『前進』に載った田代富士男の回想。池田の指示で行なわれた謀略を得々と書いている(『慧妙』H25.1.1)







怨嗟(えんさ)で溢(あふ)れた池田の日記

―改竄(かいざん)し自らの正統性を強調―
―『傑出した才能の持ち主・戸田城聖』より―

(元・学会本部職員組織センター副部長 小多仁伯『慧妙』H21.11.1)

 また、池田大作が自分を神格化するために改竄(かいざん)・創作した『若き日の日記』にも、たびたび「水滸会」の模様が出てきます。
 ちなみに『若き日の日記』については、本連載のパートナーである小川頼宣氏が、福鳥源次郎氏(元副会長・故人)宅に行った時に福島氏から聞いたエピソードを話してくれました。
 それは、ある時、池田大作が大学ノート数冊ほどを福島氏に渡して、「この日記を適当に編集して作れ」と命じ、福島氏が中心となって池田大作を神格化する書『若き日の日記』を完成させた、というのです。
 この『若き日の日記』の原本は、池田大作が会長に就任するまでの、日常活動での様々な事柄を綴(つづ)ったものでしたが、その内容(※福島氏らが手を加える前の原本の内容)は、他人に見せるのを憚(はばか)るようなもので、先輩幹部や同志たちへの批判や悪口で埋められていたといいます。
 信仰心の無い、また怨念(おんねん)の塊(かたまり)のような、まさに池田らしい内容に、これを見た一部の首脳は、閉口したといいます。
 特に名前が出ていたのは、小泉隆、和泉美代、辻武寿、竜年光といった、若き日の池田にとっては先輩幹部だった人たちで、その人たちに対し、すさまじい悪口が浴びせられていたそうです。
 福島氏は、小川氏に、「家のどこかにその日記があるよ」とも言っていたとのことですので、いつの日か、その日記の原本が陽(ひ)の目を見る時が来るのを期待します。
 ともあれ、後年出版された『若き日の日記』は、原型を止どめないほど修正されており、そこでは、池田大作を美化し、また戸田城聖の正当な後継者として位置づけるよう、編集されていました。池田大作は幹部たちに「この日記に示されるように、死にもの狂いで私に仕(つか)えなさい!」と指導すると共に、戸田城聖が「主・師・親」であり、その後継の相承が「水滸会」の中で成された、と演出したのです。池田大作の抜け目なさが如実(にょじつ)に現われた話です。
 さて、この「水滸会」では、一般学会員には知ることのできない、幹部候補生向き、政治家向きの指導が、秘密裏(り)に行なわれました。そのため、これをまとめた『水滸会記録』は"門外不出の書"ともいわれ、いつしか池田大作による支配構造の道具として利用されるに至ったのです。
 この『水滸会記録』に何故、"遺誡置文"などという題号をつけたのか、については、次回に述べることにしましょう。






学会の公認通訳として見た池田の姿

―それは失望の連続だった―
(理境坊所属妙観講・後呂聖子『慧妙』H21.2.1)

 私は学会2世として、創価学会員の両親のもとに生まれました。両親は、学会の活動拠点として我が家を提供し、広布のためにと、より広い会場を目指して引っ越したり、家を建て替えたり、百畳敷きの会館を提供したり、熱心に活動を行なってきました。
 そうしたなかでも、私が静岡の高校にいた頃、母がある女性と大親友だったことから、その女性が池田センセーの愛人であることを知りました。
 その女性は、結婚していて夫も子供もいます。御主人は、自分の妻とセンセーとの関係を承知していて、何も言わない御褒美(ごほうび)として、センセーから大幹部に任命されたというのです。
 多感な年頃だった私は、そのようなことにおぞましさを感じながらも、中学時代からの夢であった通訳になるために勉学に励み、第2志望の創価大学に入学することになりました。
 そして、在学中に「通訳になりたいのは、単なる自己満足ではなく、世界中に日蓮大聖人の仏法を求めている人達がいて、その人達に仏法を正しく伝えるためである」と自覚してからは、さらに一心不乱に英語の勉強と信心活動に打ち込みました。


【間近に接してショック!】
 当時は、、池田センセーの英語の通訳として、矢倉涼子さんが活躍中でした。その矢倉さんが私の大学在学中に結婚することになり、"ポスト矢倉涼子"選びが始まって、まだ学生だった私にも白羽の矢が立ち、私は「涼子部隊」と称される通訳のメンバーに選ばれました。
 そのグループの目的は、"矢倉涼子に続く、池田センセーのお役に立てる通訳を育成する"というもので、英語以外の言語も含め、全部で7、8人はいたと思います。
 それまでは比較的遠い存在だった池田センセーを、私がすぐ目の前で見たのも、この涼子部隊の集まりの時でした。それまでは、池田センセーが大学に来た時に、一緒に記念写真を撮ったり、講演を聞いたり、会食会に参加したりということは数多くありましたが、私は大勢の中の1人にしかすぎませんでした。それが、私のすぐ目の前でセンセーに接する機会ができたのです。
 間近で接したセンセーに対する私の印象は、「ふんぞり返っていて、何と不遜(ふそん)な態度の人なんだろう」という強烈なものでした。しかし、その頃の私は"池田センセーは、信心の絶対的な指導者"と信じていましたので、すぐさま、「自分は何て信心がないんだろう!そんなふうに思ったのは、自分の心が汚ないからだ」と思い直し、自分の直感をかき消しました。
 その席では、さらに腑(ふ)に落ちないことがありました。
 涼子部隊の1人がセンセーに、「80歳を越えた祖母が体も弱っていて、どうしたらよいか」との質問をしたところ、センセーからは、「もう、そこまで生きたのだから、いいよ」といった返事が返ってきたのです。
 私にはどうにも納得のいかない返事でしたが、それもまた、深く考えないようにして、心の中に封印しました。
 今にして思えば、誰人たりとも、「あなたはもう充分に生きたからよい」とか「悪い」とかと判断を下す権利など、あるはずがなく、正しい仏法信仰者の言葉としては、「最後まで福徳を積ませてあげられるように、家族で助けてあげましょう」と言うべきだろう、と思います。
 いずれにせよ、これが生(なま)の池田センセーとの最初の出会いでした。


【異常な「恋愛禁止」のこだわり】
 その後、大学を卒業した私は、池田センセーから認められた最年少の「公認通訳」に任命され、本部でも池田センセーの通訳になるべく、どんどん訓練を受けていきました。国際部長からも女子部長からも後押しを受けて、センセーのもとへ、センセーのもとへと連れていかれました。
 その間、同じようにセンセーの通訳になるべく訓練を受けていたポルトガル語の通訳者は、彼氏を作ったことで池田センセーの逆鱗(げきりん)に触れ、「目的が違う!」と怒鳴られて、通訳を降ろされました。池田センセーの通訳になるには、彼氏を作ることは御法度(ごはっと)だったのです。
 私もそれは厳重に注意を受けていました。「彼氏ができると、そちらに心が奪われて、センセーの通訳に集中できないから」というのが理由です。
 これもまた、私にはどうしても納得のいかないことの1つでした。「本物の信心というのは、周りにどんな誘惑があろうが魔の働きがあろうが、それらに影響されない強い自分を築いていくことではないのか。そうでなければ、センセーの通訳は一生結婚できないことになる」と。
 その「恋愛禁止令」がセンセーの意志であることを、強く認識させられたのは、私が通訳の仕事でアメリカに長期出張していた時のことです。その時、たまたまセンセーも訪米してきて、数名の通訳と共にセンセーに再会する機会があったのですが、センセーは、まずは会って早々、私を指さして、「えーと、これは何だっけね、これは?」と、まるで物扱いするかのように聞いてきました。
 私は少しショックで、何も答えられずにいると、周りの人が私の立場を説明してくれました。すると、センセーは急に、「彼氏はいるのか?」と何の脈絡もなく聞いてきたのです。2、3回、畳みかけるように同じ質問をしてきましたので、私が「いいえ」とだけ答えると、センセーは「イヤー心配だ!心配だ!」と言い出し、側(そば)にいた第1庶務の女性にすぐさま何か指示を出していました。
 後でわかったのですが、その第1庶務の女性は、私がアメリカにいる間、定期的に連絡を取っていくように、と言われたのだそうで、私に彼氏ができていないかどうかの監視役として彼女を付けたようです。


【「身代わり勤行」に呆然!】
 私がアメリカに行く2年くらい前、学会本部でセンセーと会食を共にする機会がありました。海外から来た婦人部のメンバーも交えた、6人ほどの席でした。
 その時、第1庶務の若くて綺麗(きれい)な女性にいろいろと世話を焼いてもらっているセンセーの姿を見て、私は素朴(そぼく)に、「どうして、ご飯を食べるくらい自分でできないのか」と不思議に思ってしまいました。
 しかも、間近でセンセーが食べる姿を見ていると、何だかとても下品なのです。平気で口を開けたままゲップはするし、音を立てて食べるし、という感じでした。
 また、センセーは、勤行もまともにしていなかったのではないでしょうか。私は、矢倉涼子さんの口から、こういうことを聞きました。
 「センセーがソ連に行く時は、共産圏で勤行ができないから、私がセンセーのために朝晩とも2回ずつ勤行するの。」
 共産圏といえども、ホテルの部屋で勤行することはできるはずです。私は、センセーが勤行をしないという事実を知った衝撃が大きくて、信じられない思いでしたが、2度にわたって矢倉涼子さんから同じことを聞きました。
 なお、身代わりで勤行するほどセンセーの信頼が厚く、近年に至るまでずっとセンセーの側に仕えていた矢倉涼子さんは、2年ほど前、大麻所持で逮捕されるという事件を起こしましたが、これが今の池田創価学会の現実を物語って余りあるような気がしてなりません。


【通訳に困ったアドリブ暴言】
 さて、私がセンセーの口から宗門攻撃の言葉を初めて聞いたのは、1990年(平成2年)の8月頃でした。学会本部に海外メンバーが集(つど)った時に、いきなり宗門の悪口を言い始めたのです。
 しかも何の脈絡もなく、「みんな騙(だま)されちゃいけない!」という檄(げき)を何度も飛ばし、矢倉涼子さんも通訳に困っていました。
 一度、次のようなことがありました。
 センセーは、講演直前に通訳の所に原稿を届けさせました。矢倉涼子さんが1人で全てに目を通すことは不可能だったので、皆で手分けをして翻訳文を書き込みました。
 それを、センセーのスピーチに合わせて矢倉涼子さんが読み上げようとしたのですが、何人もの人の手書きで読みにくかったことに加え、センセーがアドリブで言う宗門攻撃には脈絡がないので、彼女はものすこく苦労していました。後で彼女が、「もう、泣きたかった」とこぼしていました。
 センセーの口から怨念のように宗門誹謗が繰り返され、あげくは「五座の勤行はしなくていいんだ」などと言い出したのを聞いて、私は、学会は完全におかしい、と思うようになり、平成3年の3月、ついに家族全員で脱会いたしました。






池田は宗教者ではなく"哲学者"!?

―哲学「主」宗教「従」が池田の本音!?―
―哲学による一切衆生救済は不可能―

(『慧妙』H19.8.1)

 6月2日の『聖教新聞』によると、中国・東北師範大学に「池田大作哲学研究所」なる機関が誕生したらしい。しかもこの「池田大作哲学研究所」は、アジアの15箇所の大学に設立されているようだ。
 その内容は、「池田名誉会長の思想・哲学や著作、行動を研究する」というものだが、池田大作の実像を知る者にとっては、まさに開いた口がふさがらぬ思いである。池田のような男を研究をして得られる成果が、どのようなものであるか、他人事ながら心配になる。
 また、『聖教新聞』には、開所式の中で東北師範大学の所長が「池田大作氏の理論の精髄(せいずい)は『哲学』です。ゆえに、人種や国境という違いを超えて、平和を伝播(でんぱ)することができます」と述べ、また学長が「池田先生の哲学こそ東洋思想の真髄(しんずい)であり、人類にとって最も必要とされる思想であることを証明するには、本格的な研究活動が不可欠です」などと池田を称賛した、と報じている。これによれば、もはや池田は宗教者ではなく、哲学者(?)となったらしい。
 さらに6月12日の『聖教新聞』には、ゴルバチョフ財団から特別顕彰を受けたことを報ずると共に、「偉大な歴史と哲学を残せ」とのタイトルで、池田・ゴルバチョフ会談を載(の)せている。その中で池田は「私も全力を尽くします。一番大切なのは『対話』です。『哲学』です。『思想』です。『人間』です」と、自らも哲学者気然とした発言をしている。
 いちおう、曲がりなりにも日蓮大聖人を信仰している(と称する)創価学会の「永遠の指導者」池田大作が、いまや宗教者ではなく、哲学者を気取っているのである。
 こうした、哲学を主、宗教を従とする池田の発想は、大聖人が破折した華厳宗の誤りと類似している。
 華厳宗は、"海印三昧"という悟りを、釈尊の最も大事な悟りであり最高のものである、とする。そして、真理や悟りのみを重んじ、仏の出現された意義や衆生救済という目的、修行などを軽んじるのである。
 つまり、華厳宗では、宗教と哲学を顛倒(てんどう)させる誤りを犯しているのであり、哲学に偏重(へんちょう)する池田は、まさに、この華厳宗と同じである。
 所詮、哲学というものは、単に思想があるというだけで、人々を救うための徹底した実践形態を持たない。これに対し、宗教は、単なる哲学と違い信仰である。信仰とは、信ずる対象があり、信ずる対象との感応道交によって、直ちに善悪正邪の感化を受けるものである(ゆえに、信ずる対象の高低・正邪・浅深によって宗教の勝劣が決まる)。
 むろん、大聖人の教えもこれに漏(も)れるものではないが、信ずる対象が、末法万年の衆生の闇を救う唯一無二の大法たる大御本尊であるから、最勝最高の宗教となるのである。
 この、信仰を抜きにした単なる哲学を重んじ、「平和」や「人間主義」などといくら提唱しても、信仰による感応道交のない観念論では、所詮、衆生を救うことはできない。
 そもそも、日蓮大聖人の出世の本懐たる大御本尊を「ただのモノ」と軽賎(きょうせん)したり、修行の基本である勤行を1分もしない池田には、観念だけの空理空論の世界しかなかったのであろう。
 ともかく、大聖人の仏法と哲学を混同する池田は、
 「法華経を讃(さん)すと雖(いえど)も還(かえ)って法華の心を死(ころ)す」(御書1456頁)
との戒めに当たる大悪人であることは明確である。学会員は、一刻も早くこの邪義に気付くべきである。

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◆池田大作氏の理論の精髄(せいずい)は「哲学」です。ゆえに、人種や国境という違いを超えて、平和を伝播(でんぱ)することができます(東北師範大学の「池田大作哲学研究所」所長)
◆池田先生の哲学こそ東洋思想の真髄(しんずい)であり、人類にとって最も必要とされる思想であることを証明するには、本格的な研究活動が不可欠です(東北師範大学長)
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 中国その他の国において"称賛"されている池田であるが、その称賛の中身は「哲学」であり、とくに「平和の伝播」に関するものであることが分かる。"大聖人直結"を自認する者が、大聖人の教えを広めずに「池田大作氏の理論」「池田先生の哲学」を広めているのだから、呆れてしまう。
 中国では「池田」の名前を知っている者はいても「日蓮大聖人」の御名前を知っている者はいないであろう。また、池田を知っている者にとってのキーワードは「哲学」「平和」であって決して仏法ではない―こんなことが容易に推測できる。
 してみれば、池田の"海外旅行"の真の目的は、「池田大作」の名前と「平和」をセットで浸透させることであり、その先にあるものは……と簡単に池田の野望が透けて見えるではないか。(法蔵)






いよいよ加速する悩乱ぶり

―『聖教新聞』も手に負えず?―
(『大白法』H19.3.1)

【大作の支離滅裂なスピーチ】
 周知のとおり、創価学会問題の発端は、平成2年11月16日、本部幹部会における池田大作のスピーチにある。
 『聖教新聞』に掲載された内容とは全く異なるスピーチを行っていた事実が露見した当初、筆者は何度も大作のスピーチを聴き、宗門を蔑視し、御法主上人を軽視する大作の無信心に心底、あきれるとともに、その支離滅裂な内容に大作の悩乱を垣間見た気がした。加えて、これを平然と聞き入る学会幹部をはじめ、末端会員の姿にも驚いた。
 当時、藤本総監は、
 「あのスピーチを聞いて、おかしいなと思わない、ということ、それ自体がおかしい」(『大日蓮』H3.1.25号外12頁)
と指摘されたが、大作の破仏法のスピーチが学会員にすり込まれ、「おかしいなと思わな」くなっている現実を考えたとき、創価学会の大謗法の根深さを痛感したことを記憶する。
 あれから15年以上経った今も、相変わらず大作の放埓(ほうらつ)な世迷い言が、そのまま『聖教新聞』に掲載されてはいないようだ。

【『聖教新聞』での自認】
 実際の大作のスピーチと、『聖教新聞』に掲載された内容とが、全く違う事実を、かねて読者から訝(いぶか)しがられていたものか、大作のスピーチ内容を掲載した最近の『聖教新聞』に、次のようなおもしろい註が加えられている。
 「※編集部として、名誉会長の了承のもと、時間の都合で省略された内容を加えて掲載しました」(H19.1.10)
 その日の大作のスピーチでは「省略された」もの、つまりは全く喋(しゃべ)っていない「内容」を編集部が「加え」たと、『聖教新聞』が自ら言っているのである。
 ???…大作が喋っていないものを記事として加えた?
 大作が喋ってもいないのに、さもスピーチしたかのように付け加えたとなれば、これは立派な「改竄(かいざん)」ではないか。なんのことはない、大作のスピーチは、改竄して掲載していると、『聖教新聞』自身が認めたのである。
 そもそも新聞とは、真実を公正に読者へ伝えることが、その使命ではないのか。にもかかわらず、写真は偽造するわ、スピーチは改竄するわ…。
 これはもはや、報道としての存在意義を自ら放棄したことを宣言したものである。

【『聖教新聞』も手に負えず?】
 あるいは、ありのままに報道すると、大作の悩乱が浮き彫りとなるため、これを綺麗に仕立て上げていくうちに、全く別物に仕上がってしまったので、やむなく註記を加えたものか。
 『聖教新聞』の立場をこちらで斟酌(しんしゃく)する必要はないが、いずれにせよ、編集部諸氏の苦労を思うと、哀れと言うほかはない。
 理由はどうあれ、今や『聖教新聞』は大作を守ることだけに腐心していることは間違いない。人々を正しい仏法へ導くどころか、邪義・魔説を広く頒布しているのが実態である。
 その一翼を編集諸氏が担っている事実を考えれば、労多くして罪障を積んでいるだけ、文字どおりの徒労に終わっている。

【「頭破作七分」の現証】
 『種々御振舞御書』に、
 「頭破作七分と申すは或は心破作七分とも申して、頂の皮の底にある骨のひゞたぶ(狂)るなり。死ぬる時はわるゝ事もあり(中略)これは法華経の行者をそし(謗)りしゆへにあたりし罰とはし(知)らずや」(御書1071、全集924頁)
と御教示のとおり、正法誹謗の現証は「頭破作七分」「心破作七分」の罰として現れる。
 スピーチをそのまま掲載できないほど悩乱する、今の大作の姿こそ、この罰の現証である。
 この事実を読者へ伝え、創価学会がいかに邪教であるかを報道し、読者を正法へと導くことが、『聖教新聞』の使命であろう。
 右の註記こそ、『聖教新聞』が真実を伝えていない証左である。






証人喚問から逃げまくる不肖の弟子

―これでも師弟不二?―
<法蔵>H19.4.5

【言論問題】
昭和44年に、学会を批判した書籍の出版を、学会が組織的に妨害。これが社会問題となり、池田大作を国会に証人喚問する要求まで出された。(<「言論出版妨害事件」の概要>参照)

S45.1.11
・TBSテレビで放映されていた対談番組「時事放談」で、政治評論家の細川隆元氏が「公明党はナチスに通ずる、今度はこの席に関係者を呼んで問いただす」と発言し、細川氏と小汀利得氏の対談の席に池田大作を迎える特別企画が組まれた。(『フォーラム21』)
しかし、池田側は、体調不良で多忙という奇妙な理由で出席を拒否した。(『フォーラム21』)


S45.2.18~
・特別国会では、社会・民社・共産の各党が、竹入委員長、田中幹事長、池田大作の国会喚問を要求したのをはじめ、基本的人権の1つである言論の自由を侵した創価学会・公明党の危険な体質や、当時、国立戒壇の建立を掲げていた創価学会・公明党の政教一致問題等について厳しい追及を加えたのだった。(『フォーラム21』)
●池田会長は自らの国会喚問を阻止するために衆参両院の公明党国会議員を総動員し、赤坂2丁目のクラブ「石丸」などを拠点に、各党の理事を接待責めにして懐柔する工作をおこなった。さらに、池田会長は佐藤(※栄作首相)にも連絡を取っていた。70年1月30日の『佐藤日記』には、岩佐富士銀行頭取を通じて「藤原弘達問題には干与しな[い]様に」という池田からの伝言が記され、佐藤は「同感」と岩佐に伝えている(『佐藤日記(4)』31頁)。野党などから出された池田喚問要求について佐藤はのらりくらりと対応し、結局これをうやむやにしてしまう。池田の伝言どおり、「干与しない」ように行動したのである。(『前衛』H15.7)

●69年末に表面化した言論出版妨害問題のときは、佐藤栄作首相と自民党幹事長をしていた田中さんには、助けられ、感謝している。終生忘れない。国会では罵詈雑言を浴びせられ、ほかにだれも助けてくれる人はいなかった。
 創価学会批判の本が出るというので、私が田中さんに頼んで仲介に動いてもらったのだが、田中さんは追及されると、「竹入に頼まれたのではない。幹事長だから勝手におせっかいをやいているだけだ」と釈明していた。これには感激した。家の周りは、新聞記者に囲まれて出られない。電話で連絡を取った。
 「ここも新聞記者でいっぱいで出られないぞ」
 「すまんなあ」
 「いいよ、幹事長やめりゃあいいんだから」
 「それじゃあ、こっちも委員長やめなくっちゃあ」
 「いやあ、まあまあ、成り行きだ。こんな泥沼、いつでもあるんだから」
 こんなやりとりをしたのを思い出す。
 佐藤さんは、関係者の証人喚問要求に、のらりくらりと時間かせぎをしてくれた。国会の委員会採決も先送りしてくれるなどいろいろ配慮してくれた。(竹入義勝=公明党元委員長「竹入秘話」『朝日新聞』H10.8.26/『前衛』H15.7)

●当時、池田大作氏は「田中さんのためなら公明党をつぶしてもいい」とまで言ったそうだ。田中は年1回の公明党の青年研修会で講演して帰ってくると、私に池田氏がああ言ったとかこう言ったとか、全て話してくれた(佐藤昭子=田中秘書『私の田中角栄日記』75頁/『前衛』H15.7)



<証人喚問に「狂ったように」反応>
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〈青木(理事長)〉中部といえば、昔は変な議員がのさばった。陰険、陰湿な宗教弾圧、人権侵害もあった。だが、中部の同志は勝った。
〈松尾(中部青年部長)〉愛知県選出の塚本三郎だ。昔の民社党の委員長までやった男だったが、最後は惨めな敗残の姿になった。今じゃ若い人は、塚本なんて全然、知らない(笑い)。
〈松原(中部長)〉塚本は昭和40年代に『公明党を折伏しよう』とかいう、ふざけた、デタラメな本を出した。以来、学会への狂気じみた弾圧、中傷を何十年も繰り返した。
〈青木〉塚本は立正佼成会だった。それで偉大な学会に嫉妬していたんだよ。
〈原田〉あいつは、そのデタラメ本を国会の衆院予算委員会にまで持ち込んで"証人喚問、証人喚問"と、狂ったように喚き散らしたんだ
〈松原〉昭和45年2月28日のことだ。あの陰険な宗教弾圧!日本の憲政史上に残る暴挙だった。
〈松尾〉しかし、末路はあっけなかったな。悲惨だったな。
〈原田〉最後はアッと言う間に転げ落ちた(大笑い)……
〈松尾〉今じゃ、誰も塚本なんか相手にしない。寄りつく人間なんて、ほとんどいない。
〈松原〉もともと同僚や後輩からも「心の狭い男だ」と陰口を叩かれていた。有名な話だ。政治家を辞めたとたんに、皆から見捨てられたのも、当たり前だ。
〈藤野(中部婦人部長)〉本当に哀れ(笑い)。これが、権力に狂い、嫉妬に狂った「政治屋」の末路ね。
(『聖教新聞』H17.1.12/『フォーラム21』H17.3.15)
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ここでいう「証人喚問」とは昭和44年の学会による言論出版妨害事件に関するものである。当時、民社党の国会議員であった塚本氏は、池田大作を国会に証人喚問するように要求したのである。

●いまここにたくさんのいわゆる犯罪の数々というものが、不幸にして創価学会さんのものがあまりにも私は目につきました。そこで、この際、かつては立正佼成会庭野会長を呼んだ事例が国会においてはあります。よって、この際、われわれはいまこそ国政調査権を発動して、国民の前にこのような真相を明らかにする必要があると思います。したがって、これらのデータから見まするとき、この際創価学会池田大作会長を証人として喚問することを委員長に要求いたします。(衆議院予算委員会での塚本氏の質問S45.2.28/『フォーラム21』H17.3.15)


<1970.5.3>
……今回の問題は、あまりにも配慮が足りなかったと思う。また、名誉を守るためとはいえ、これまで批判に対してあまりにも神経過敏にすぎた体質があり、それが寛容さをかき、わざわざ社会と断絶をつくってしまったことも認めなければならない。……今後は2度と、同じ轍を踏んではならぬと、猛省したいのであります。……言論の自由が、幾多、先人の流血の戦いによって勝ち取られたものであり、……これを侵すことは民衆の権利への侵害であることを明確に再確認し、言論の自由を守り抜くことを私どもの総意として確認したいと思いますがいかがでしょうか(池田大作「第33回本部総会」『聖教新聞』S45.5.4/『フォーラム21』H14.12.15)
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証人喚問は、池田が佐藤栄作らに泣きついて、実現されなかった。しかし、学会が行った言論妨害が不問に付されるはずもない。結局、池田自身が世間に対して謝罪し「猛省」したのである。

また、学会は、公明党の支持団体ということになります。とうぜん学会員の個人個人の政党支持は、従来通り自由であります。学会は日蓮大聖人の御本尊を信奉する宗教団体であって、政党支持については、会員の自由意思にまかせ、まったく干渉するものではありません(池田大作「第33回本部総会」要旨/『フォーラム21』H15.7.15)

 学会による言論出版妨害は、明らかに憲法で保障された思想・良心の自由や表現の自由を妨げる暴挙である。さらに、一宗教団体の悪事を隠蔽するために公明党議員があれこれ動き画策したことは政教分離の原則にも反する重大問題である。であれば、塚本氏が公共の利益を守るために真実を究明すべく、池田大作に対して証人喚問したこと自体は、国会議員として当然の行為である。その上、池田自身が非を認めて世間に対し謝罪したのであるから、学会として、氏の行為を批判できる筋合いはないはずである。
 それにもかかわらず、問題終結より30年以上も経過して、「"証人喚問、証人喚問"と、狂ったように喚き散らしたんだ」「陰険な宗教弾圧」と批判している。
 これでは、当時の池田の謝罪や「猛省」は心にもないパフォーマンスに過ぎなかったと白状しているようなものである。さらに、自分達が悪事をはたらいておきながら、それを追求する人をいつまでも憎み続ける体質は、とてもまともな宗教団体とは思えない。
 言論問題で彼らは表向き謝罪し「猛省」したのであるが、裏では批判者を恨み続けていた。その連中が今、表向き「人間主義」だの「平和」だのを掲げている。その裏に何があるかを考えると空恐ろしい。




【月刊ペン事件】
 昭和50年暮から同51年4月にかけて月刊誌『月刊ペン』誌上で、編集長の隈部大蔵は、創価学会批判を連載したが、そのなかで池田大作会長(当時)の女性関係を暴露した。創価学会と池田大作、及びその相手とされた多田時子、渡部通子らは、名誉毀損罪で隈部大蔵を告訴した。
 隈部大蔵は逮捕され、1審、2審で懲役10月、執行猶予3年の有罪判決を受けたが、最高裁判所は、この、1、2審判決を不当として破棄し、裁判のやり直しを命じた。
 やり直し裁判では、池田大作も2度にわたり証人出廷するなどして世間の注目を集めたが、裁判所は〝罰金30万円〟という、微罪処分を下した。この事件の上訴中、隈部大蔵は病死し、裁判は中止となった。(<自由の砦>WS)

池田氏の女性スキャンダルが問題となった月刊ペン事件で、検察官から池田氏の証人出廷を求められた創価学会は、相手方の月刊ペンの代理人に2000万円とも3000万円ともいわれる裏金を渡し、池田氏の証人出廷を阻止すべく工作した。(『フォーラム21』H17.3.15)




【自民党による喚問要求】
自民党は、前年(※平成7年)のオウム真理教事件に端を発した宗教法人への厳しい世論を背景に、池田名誉会長の証人喚問を要求するなど厳しく対立した。「敵の味方は敵。自民党の創価学会バッシングは当然のことだ。しかし、あのバッシングは相当効いた」(公明党元三役経験者)。やはり池田会長(当時)の国会証人喚問請求までに発展した69年の言論出版妨害事件以来の危機だった。(国正武重=政治評論家『文藝春秋』H15.8)

平成7年初頭には自民党の池田喚問要求を阻止するために公明党出身の新進党議員やその秘書らが、国会でピケを張ったのも記憶に新しい。(『フォーラム21』H17.3.15)



【証人喚問が怖い】
 ことほど左様に池田氏ならびに創価学会は池田氏の国会証人喚問を恐れている
 その池田喚問を最初に要求したのが塚本氏だったことから、創価学会は塚本氏を誹謗中傷し続けるのである。要するに首脳座談会での誹謗中傷は証人喚問を要求された池田氏の恨みつらみの投影に他ならない。そうであればこそ、次のような下品で野卑な言葉が羅列されるのである。(『フォーラム21』H17.3.15)

宗教弾圧の政治屋は全部自滅。当然だ。正義の法則に怨嫉すれば自分を破壊(『聖教新聞』H16.8.25「寸鉄」/『フォーラム21』H17.3.15)
「ゲスは美徳に出会うと気分を損ねる」哲人(セネカ)。学会を嫉むゲス議員ども(『聖教新聞』H16.9.3「寸鉄」/同)
仏法迫害の政治屋は「終にほろびざるは候はず」。現罰続々、無惨な魔物よ(『聖教新聞』H16.10.8「寸鉄」/同)
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創価学会用語における「宗教弾圧」とは、畢竟(ひっきょう)、池田氏の国会証人喚問要求に他ならない。ちなみに池田氏は昭和34年10月23日付『聖教新聞』に掲載された学生部弁論大会の報道記事で次のように発言したと報じられている。(『フォーラム21』H17.3.15)

◆3、4年前立正佼成会の庭野日敬が国会に召喚されていろいろ調べられた事がある。この時会長(戸田城聖)はニッコリ笑って"こっちへくればいいな、この時こそ立正安国論を叫びたい"と申しておられました。大事な時に叫ぶことこそ、私は本当の雄弁ではないか(と思う)(池田大作『聖教新聞』S34.10.23/『フォーラム21』H17.3.15)
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自家撞着とはこうしたことを言うのだろう。

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【戸田会長】
ニッコリ笑って「(証人喚問が)こっちへくればいいな、この時こそ立正安国論を叫びたい」(『聖教新聞』S34.10.23)


両者は正反対、これでは師弟背反

【池田学会】
◎言論問題→・テレビの対談要請には体調不良で多忙という奇妙な理由で出席を拒否
・国会証人喚問には、各党の理事を接待責めにして懐柔する工作。さらに、佐藤栄作首相や田中角栄に助けを求めて有耶無耶に

◎月刊ペン事件→相手方の月刊ペンの代理人に2000万円とも3000万円ともいわれる裏金を渡し、池田の証人出廷を阻止すべく工作

◎平成7年の国会→自民党の池田喚問要求を阻止するためにピケ







仰天スピーチの証拠と『聖教』改ざん報道(仮題)

(『慧妙』H18.11.1抜粋編集)

【仰天スピーチと改ざん記事】
<「キン○○コ」発言>
◆んも-、イトマン平和会館なんて、名前変えた方がいいんじゃないか、うまく、ダメか、ウーマンぽい、ウーマンぽい、イトマンなんてウーマンぽい、ダメか、ダメか、もっといいねー、もっといいその、キンマン、イトマン、キン○○コだよ。(第68回本部幹部会H5.7.7)
ざん
◆更に南は沖縄・糸満平和会館の開館も、おめでとう。きょうから、この3会場でも、衛星中継がスタートしている。(『聖教新聞』H5.7.9)
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なんと、異常発言部分はバッサリと「カット」されているのです。これぞまさに「C(カット)作戦」!!


<「板御本尊ただの物です」発言>
◆宗祖大聖人が、この御本尊も、ただ信心の2字におさまると言われたのである。信心の2字の中にしか、本尊はないんです。本門戒壇、板御本尊、何だ。寛尊は「信心の中にしか本尊はない」と。ただの物です。いちおうの機械です、幸福製造機だから。(第70回本部幹部会H5.9.7)
ざん
◆大聖人は「此の御本尊も、只信心の2字にをさまれり」(御書〈※全集〉1244頁)と仰せである。「信心の2字」の中にこそ御本尊は、ましますと。戸田先生は、御本尊を「幸福製造機」に譬(たと)えられたが……(『聖教新聞』H5.9.9)
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 やはり、都合の悪い部分はバッサリと切り取られ、池田スピーチの支離滅裂(しりめつれつ)さは、装飾を施(ほどこ)されて隠されてしまっています。これは、いうなれば、「偽造写真」ならぬ「偽造スピーチ」!!
 創価学会の欺瞞(ぎまん)体質は、こんなところにも看(み)て取れるのです。



【学会の反論と動かぬ証拠】
池田大作の、その人格や信心を疑いたくなる仰天スピーチを暴露(ばくろ)されてしまった創価学会は、慌(あわ)てて弁明をしました。
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<「キン○○コ」発言について>
名誉会長のスピーチは何度も改ざんされた経験がある。テープ自体の信びょう性についても疑問ですね。悪意をもって編集されたものだ

<「板御本尊ただの物です」発言について>
あの発言は、名誉会長の声とは断定できない。「どんな価値のあるものでも、その価値の分からない者には値打ちがない」といった例(たと)え話を、つぎはぎで編集したもの
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 そこで本紙は、問題の池田スピーチのテープと、シナノ企画から発売されていた『対話シリーズ』ビデオのうち、「池田SGI会長ヨーロッパ広布の旅」と題されたビデオを、声紋解析で有名な日本音響研究所に鑑定を依頼しました。
 しかしてその結果は、

1、指定された部分「糸満平和会館て、(中略)イトマン、キン○○コだよ」に関して編集・改ざんの形跡は、見当らない
2、反訳は、「宗祖大聖人が、この御本尊も、ただ信心の2字におさまると言われたのである、信心のなk.信心の2字の中でしか、本尊はないんです。本門戒壇・板本尊、なんだ、寛尊は信心の中にしか本尊ない、ただ物です、いちおうの、機械です、幸福製造機だ」。(漢字、記号は便宜上、発音に添って使用)
3、鑑定資料2(シナノ企画から発売されたビデオ)で池田大作であると指定された音声と鑑定資料1(池田の間題発言テープ)の指定された音声は、同一人の音声と推定する(声紋検査)

 こうして、問題のテープの声は、間違いなく池田大作のもので、編集・改ざんされてはおらず、本紙の反訳も正確であることが証明されたのです。
 以後、創価学会は、この件についてはピタッと沈黙してしまいました。

[画像]:鑑定結果=池田大作の異常スピーチは正真正銘の本物!






「アメリカSGI&関西合同総会」で見せた奇行(仮題)

―これが池田大作の実像だ!!①―
(『慧妙』H18.8.1)

 今回は、池田大作の品性がよく現われた1本のビデオテープを紹介します。
 そのテープに収められているのは、平成5年1月27日に、アメリカのロサンゼルスで行なわれた「アメリカSGI&関西合同総会」の模様。池田はその中で、聴衆の歓心(かんしん)を買おうとして、様々なパフォーマンスを繰り広げます。
 他の登壇者の発言中、いきなり机を叩き出し、登壇者に向かって意味もなく「クリントン、がんばれ、クリントン」とヤジを飛ばす池田大作。
 その後、式次第を無視してスピーチを始めようとする池田に、側近が慌(あわ)てて駆け寄ると、
 「コーラス?コーラスは後!」
と命じ、次のように語り出しました。
 「私の話が高尚(こうしょう)で、そして解りやすく、そいで哲学的で、そいで文学調で、詩的で、そいで会話的である。頭がそうとう聡明(そうめい)でないと、追いついていけないんです。そいで、行き詰まったところでコーラスやって、みんなウップン晴らしをすると。それが、芸術的、SGIの本当の仏法の行き方なんです。
 哲学的で、文学調で、詩的で、会話的なスピーチ????常識ある人間には、ちょっと想像がつきません。
 しかも、行き詰まったところでコーラスやって、皆でウップン晴らしをするのが、SGIの本当の仏法の行き方である、とは、いったい何のこっちゃ!?と言いたくなります。要するに「思いつき」と「デタラメ」がSGIの仏法なのだ、ということです。
 さて池田は、スピーチの冒頭で、いきなり、アメリカSGI名誉理事長となったジョージ・ウイリアムス氏の批判を始めました。驚くべきことに、本人が幹部席にいるにも拘(かか)わらず、です。
 ウイリアムス氏には人望がなかった、と言いたい池田は、「1人で進軍ラッパ吹いていた」とラッパを吹く真似(まね)。要するに「笛吹けど踊らず」だった、と言いたかったようです。
 池田は続けて、スピーチ原稿を読み始めますが、パフォーマンス好きな池田のこと、真面目な話だったのは十分程度で、話の内容が"真剣な祈り"ということになると、「寝ながらナンミョ・ナンミョ・ナンミョ……何千べんやったって(御本尊に)当たらない」
と居眠り勤行を演じて見せ、「御本尊にピシャッと願いが通じるような、真剣勝負の勤行……」と語りながら、ピストルを撃(う)ったり弓矢を射(い)る真似をして見せるのです。
 ところが、原稿を読むのに飽きたのか、しばらくすると、「ここで話を変える」と宣言し、スピーチを中断してしまいました。
 そして、また壇上の幹部をクサした後、今度は「サンフランシスコの皆さん!」「ワシントン!」「ニューヨーク!」「ハワーイ!」などと全米各地からの参加者に声をかけ、その反応に大げさなパフォーマンスとジョークで答えたのですが、これが、どうせSGIメンバーには日本語が通じないだろうと考えての、メンバーを完全に小馬鹿にしたもの。
 「サンフランシスコの皆さん、今回は関西の交流団がお世話になりました。ありがとうこざいます。(中略)と、お世辞を使っておいた方が、広布基金がたくさん取れることを、私は声を小さくして申し上げておきます
 「クリントン(※当時の米大統領)は元気かしら?あのようにね、口をうまく、うんとうんと人をごまかして、警察につかまんないように
 「ニューヨークの人は、毎日身体を洗っているからきれいです
 「ハワァーイ!(中略)マッハロー、マハロー、馬鹿野郎だ!バッハロー!
 それが終わると、「後の原稿は新聞に出しときます。もう面倒くさいから
と、スピーチを終わらせてしまったのです。
 ちなみに、このデタラメきわまる池田スピーチを感動的な名スピーチに翻訳(といえるのか!?)する、という名人芸を見せていたのが、このたび覚せい剤・大麻取締法違反でつかまった、美人通訳の矢倉涼子サンでした。
 この会合には、はるばる日本から、また、ハワイ・アラスカといった遠隔地から、「池田センセーのスピーチが聞ける!」と会員が集(つど)ったというのに、まともなスピーチもせず、会員を小馬鹿にしたパフォーマンスだけで帰ってしまった池田大作―彼が、会員のことなど全く大事にしていないことが、このビデオを見るとよく判(わか)ります。

[画像]:"居眠り勤行"を演じる池田大作

[画像]:弓を引く真似をして「バーン!」

[画像]:壇上の幹部を皮肉って、進軍ラッパを吹く真似

[画像]:机をバンバン叩きながら「マッハロー、マハロー、馬鹿野郎だ!バッハロー!」

[画像]:最後は、会員の歓声にオーバーアクションで「ビックリしたなァ、もー」

[ビデオ]:アメリカSGI&関西合同総会H5.1.27






池田大作の実像を検証する

―自作自演の猿芝居だった"池田本仏論"―
―池田大作の本性は懶惰懈怠の不信心者―

(『慧妙』H16.8.16編集)

 創価学会が謗法(ほうぼう)化していった根元には、すでに指摘したとおり"池田本仏論"があります。
 もとより、末法の仏は日蓮大聖人御一人ですから、
 「四天下(てんげ)の中に全く二の日無し、四海の内豈(あに)両主有らんや」(御書677頁)
の道理で、池田大作が仏でなどあるはずはありませんが、ここでは、池田大作の行体や言動、信条などを検証して、それを裏付けてみましょう。


【本仏を気取った慢心発言の数々】
学会出版物や内部資料の中には、以下のごとく、池田大作の本仏気どりの指導が随所(ずいしょ)に散見されます。

私から幹部の任命を受けることは、記別(仏が弟子達の未来の成仏を約束すること)を受けること です。会合もただ列座しているのと、記別を受けて出るのとでは違う。記別とは信心の血脈です。これなくしては「法華経を持つとも無益なり」である。私は現在の仏法の指導者です。私を中心にして御本尊を信ずることによってこそ、「霊山(りょうぜん)に近づく鳥は金色になる」との御金言のごとく、幸福境界を確立することができるのです。(池田大作『前進』S42.2号)

私は、何も言わなくてもみな見えているよ。とても敏感なんだ。……私は言ってあげて、罪業を切ってあげているのだ。(池田大作『前進』S41.1)

なんだかんだ云っても、私とつながりがあるから福運がつく(池田大作・第40回社長会S45.11.19)

私の頭の中にあることは全部事件をまぬがれる。頭を通るだけで良くなる。(だから)何でも話しておかねばならないのだ。(池田大作・第15回社長会S43.8.3)

皆さん方に題目を送ります。皆さん方もしっかり題目をあげてほしい。送信機がいくら立派でも、受信機が壊(こわ)れていてはだめだ。(池田大作『前進』S44.10)

私には全部わかっている。又、本部から、いつも会えないから、電波を発信しているのだけれども、いくら発信しても受信機が壊れていては何もならない。(池田大作『前進』S45.5)

私を離れて、いくら戦ってもダメだ。私と境智冥合(きょうちみょうごう) していなければ、異体同心とはいえない(池田大作『前進』S40.6)

私のそばにいたら私になんでも言えるように境智冥合しなさい。それ以外にないよ。私は信心の指導者だ。私しかいないよ。(池田大作『前進』S40.6)

そばにいても、会長の心を知ることは難しい。雖近而不見 (すいごんにふけん)である。(池田大作『前進』S42.2)

"師弟血脈"という観点から大聖人の仏法の本因・本果の流れを見るならば、大聖人のお立場は本因妙の仏法の上の本果妙であり、第2祖日興上人が本因妙ということになる。(中略)今度は私が本果、北條理事長をはじめ副会長が本因の立場になるのである。(池田大作『前進』S52.6)

本仏気取りで弟子檀那(だんな)に成仏の記別を与え、三世十方を見通すがごとき大風呂敷を広げ、自らを福運の当体と言って憚(はばか)らず、自分が功徳を与える、自分と境智冥合せよ、と説く池田大作―まさに"池田本仏論"は、他ならぬ池田大作自身が作出した大謗法であることが、これらの慢心発言から明らかであります。



【懶惰懈怠(らんだけたい)】
<「題目1遍でよい」>
 かつて池田大作は、会員たちに次のように指導していました。
 「私も200万遍(べん)、300万遍の題目をあげてあげて、あげぬいて、少しずつ御本尊様のお力、大聖人様の仏法の片りんがわかってきた程度であります。皆さん方も題目をあげてあげて、あげぬいて、本当に御本尊様の功徳はすごい、偉大なんだ、大聖人の仏法は世界最高なのだということを、自分自身が体得していっていただきたい。」(S40.2.20『会長講演集』第13巻)
 もとより池田が「御本尊様のお力、大聖人様の仏法の片りん」すらわかっていたか、どうか、大いに疑問ですが、時が下り、日蓮正宗から分離独立した後の指導では、露骨(ろこつ)に池田の本音(ホンネ)が出ています。

心から、全世界の創価学会を代表して、中部の壮年部に御苦労様と申し上げます。ありがと。(参加者が拍手して手を振るのに対し)もォ、手の振り方もやっとだしね。それから、今、手を振った人、中風になりません!!顔色がいい。ね、もう少し景気よく振ればねェ、福運がつくんだけど…。(中略)ねェ、朝勤行してない人、ずいぶんいるかもしれないけどさァ、いいですよ、お題目1遍でいいんです(池田大作・平成4年4月26日・第53回本部幹部会)
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 「池田に手を振れば福運がつく」から「勤行をしなくても題目1遍でいい」とは、初信者でも呆(あき)れるような無茶苦茶な話です。
 このような指導を真顔でできるとすれば、池田自身も、もとより「200万遍、300万遍の題目をあげてあげて、あげぬいて」などおらず、大事な化儀(けぎ)である勤行・唱題すら疎(おろそ)かにしていたであろうことが、容易に窺(うかが)われます。


<勤行時間0分>
そして事実、学会の内部資料(学会が裁判の際に証拠として提出した"池田大作の行動記録")によれば、池田は昭和45年当時より、五座三座の勤行もまともにしていなかったことが明らかです。

・(昼近くに起床して風呂に入った後)13時30分・勤行 13時40分・研修所発勤行10分
11時00分・勤行 11時00分・離れに行かれる勤行0分
13蒔15分・勤行 13時20分・食事勤行5分
14時04分・勤行 14時10分終了・おそば勤行6分
14時35分・勤行 14時35分・手紙2通書く勤行0分

(学会が裁判の際に証拠として提出した"池田大作の行動記録")

 池田の朝の勤行というのは、ほとんど、5・6分、あるいは0分(おそらく題目三唱のみ)といった、呆れ果てた体(てい)たらくなのです。
 それ故(ゆえ)、かつて、池田大作が総本山大石寺の法要に参詣(さんけい)した折など、わずかな時間の正座で、すぐに足がしびれて立てなくなるのを、多くの僧俗(そうぞく)が目の当たりにしています。


<御茶飲みながら勤行>
 また、池田が、多勢の会員の導師となって読経・唱題(むろん短い時間ですが)することもありますが、その内容・実態を見ると、さらに呆れさせられます。
 というのは、池田の前にある経机の上には、常に茶托(ちゃたぐ)と茶碗(ちゃわん)が置かれており、池田は茶を飲みながら勤行の導師を行なっているのです。
 経机を卓袱台(ちゃぶだい)の代わりにし、茶を飲みながら勤行する―池田の行体の弛(ゆる)み様(よう)には、もはや開いた口が塞(ふさ)がりません。
 このような懶惰懈怠(らんだけたい)そのものの男に、仏祖三宝に対する敬虔(けいけん)な信心など、あろうはずがないではありませんか。






直訴の青年に周章狼狽

―前後不覚の態で脱兎のごとく遁走!―
―"イケダ体験"雑感―
(元学会本部職員・小多仁伯『慧妙』H15.12.1)

 昭和61年10月29日、その日は雲ひとつない快晴であった。「このような日には、神宮外苑の木漏れ日の中を散策すると、気分が最高だろうな」などと思いつつ、筆者は、N青年と共に創価文化会館の案内所の受付に着いた。
 受付には、顔見知りの本部の警備職員達が、来訪者2~3名の応対をしていた。
 筆者は太田昭宏青年部長への面会を申し入れた。用件は、太田氏と面識のあるN青年を伴(ともな)っての面談であったが、本当の目的は、この案内所で池田大作を捕まえ、N青年と池田を引き合わす事にあった。
 太田青年部長は、当時、問題視されていたN青年との面会を、快く了承し、しばらくの間、案内所で待つよう返答してきた。
 計画どおりである。これで池田大作と遭遇する第1関門は突破できたことになる。
 それにしても、太田氏の人の良さ(悪く言えば脇の甘さ)を、不憫(ふびん)に思わずにはおれなかった。
 というのは、太田氏は、この面会の数ヶ月前、N青年の件で池田大作の逆鱗(げきりん)に触れたばかりであり、そのため、学会首脳達も太田氏に批判を浴びせていたのである。
 太田氏が池田を怒らせてしまった理由であるが、N青年の父親は元都議会の実力者、母親は幾たびも池田大作のセクハラに耐えてきた経緯を持つ、いわば池田大作のウラのウラまで熟知した「池田打倒」の急先鋒であった。あろうことか太田青年部長は、このN青年の人物評を、本部組織センターにおいて秋谷(現会長)や青年部幹部のいる前で、大声で言ってしまったのである。「小多仁さん、N君と会ってきましたよ!なかなかよい青年ですね!皆が心配するような人物ではないですよ」
 太田氏にしてみれば、まだ若いN青年を色メガネで見るのは好ましくないとの思いで、組織センター幹部に言いたかったのであろう。
 これが太田氏の創価学会幹部としての甘さなのである。その結累として、池田大作の怒りを買い、そのあとすぐに聖教新聞社地下の閑職に追われ、また落選確実な東京8区(文京・中央・台東)の衆議院候補になり、悲哀を味わうことになる。
 今、太田昭宏氏は公明党の次代を担(にな)う人材としてクロースアップされているが、上記のような大らかな人柄のため、首脳の中には将来を危慎(きぐ)する声もある。
 筆者は、太田氏の常識的な物事の捉(とら)え方や優しい側面が、変節を繰り返す公明党のスタンスとは、似つかわしくないと思っている。むしろ、太田氏は将来、公明党解党へのリーダーシップを発揮するかもしれない、と逆説的に期待したい。
 ともあれ、この日、N君を学会本部に連れて行った最大の理由は、池田大作と直接会って、率直に意見を述べ、懇談する機会を造ることにあった。
 「池田大作と、どうしても会いたい」とのN君の強い希望があり、御両親の長年の願望でもあったからである。
 そもそも「池田大作と会う」ということは、不可能に近い、といわれていた。
 小心者の池田大作は"おれを守れ"とばかり、過剰なまでの警備陣を配置する。ゆえに、その厳重な池田大作の包囲網をかいくぐって、面会したり拘束したりする事は、はなはだ難しいのである。
 しかし、私達は、この日のために着々と準備を重ね、池田の行動範囲を絞り込み、日程を把握(はあく)することに成功したのである。
 案内所の隅で、私達は池田大作を、今や遅しと待っていた。
 通常、池田は黒い最高級車に乗ったまま、案内所の脇を猛スビードで通過して、建物奥の本部正面玄関に横付けする。
 この時がチャンスであった。その機を逃さず、N君が池田の車を追って、その正面玄関で捕まえる、という計画であった。
 はたして池田大作は、案内所前で乗用車から降り、来客を伴って本部の中へゆっくりと入ってきた。計画どおりである。池田は、来客に何かの説明でもするように、立ち止まって話をしている。池田は、慇懃(いんぎん)にして尊大な態度で来客と接しており、すこぶるご機嫌の様子であった。
 筆者は、頃あいを見て「今ですよ!」とN君の背中を押した。
 N君は「センセー、Nです!センセー、Nです!」と声を張り上げ、「センセー!お話があります」と、駆け出しながら池田に迫っていった。
 この一瞬の出来事に、池田の警護隊をはじめ第1庶務の職員達は、なす術もなく見守るばかりであった。まるで時間が止まったかのようである。
 池田大作はN君の行動を見て、身構えながらも余裕の態度で「おう!君か!」(※池田はN君とは創価学園の校友会で会っている)と言いながらも、後ずさりし、突然、脱兎(だっと)のように逃げ出したのである。驚いたことに池田は、大事な来客の存在も忘れ、ただ、ひたすらN君に背を向け遁走(とんそう)した。その光景は、大指導者を装う威厳など全くなく、むしろ滑稽(こっけい)な喜劇役者のように写った。
 池田は、よほど気が動転したのか、いつも利用している本部正面玄関と文化会館来客用玄関との区別ができず、文化会館に間違って飛びこみ、あわてて、そこから飛び出してきた。そのため、池田を追ってきたN君との距離がなくなった。
 N君は「センセー!」「センセー!」と追いすがる。その時、池田は「わかってる」「わかってる」「あとで、あとでな!」というセリフを発しながら、奥の正面玄関に消えていってしまった。
 筆者は、この歴史的(?)な出来事の、一部始終を冷静に観察していた。
 一方、この場に居合わせた他の人達は、どのような様子であったか。
 まず、池田に置き去りにされた来賓の、ひきつった顔が印象的であった(池田が車を降りて案内するぐらいの大事な人物と思われる)。また、池田を警護するため、日常的に訓練を重ねてきた池田警護隊の、茫然自失の態。案内所職員の金縛り状態―。どれ1つを取っても、池田大作にとっては、腹わたが煮え繰り返る思いであっただろう。
 私達の本当の期待は、N君の熱情を池田が受け止め、懇談が実現する、というところにあった。これは池田が逃げ出したため、失敗に終わったが、池田大作の真の姿を知ることにより、このような臆病な男を「稀有(けう)の指導者」と錯覚していたことが、私もN君も、よく分かったのである。
 この日、本部全体会議が行なわれたが、出席を予定していた池田大作は、動揺のあまり、職員の前に出ることさえできず、会議を欠席してしまった。
 御聖訓に
 「おごる者は必ず強敵に値ひておそるゝ心出来するなり。例せば修羅(しゅら)のおごり、帝釈(たいしゃく)にせめられて、無熱池(むねっち)の蓮(はちす)の中に小身と成りて隠れしが如し」(御書579頁)
とあるように、池田大作こそ典型的な増上慢の権化、といえるであろう。しかも、池田は、三宝を破壊し、自らを永遠の指導者と位置付ける大悪人である。
 その池田大作に騙(だま)され続ける学会員が、哀れでならない。





人々の「福運」奪う暗黒の魔王

(『慧妙』H18.2.1)

 この現代の天魔は、自ら次のごとく豪語しました。
 「なんだかんだ云っても、私とつながりがあるから福運がつく」(第40回社長会・昭和45年11月19日)
 「タクシーに先生(池田のこと)が乗って降りると、良い客がつく。私が乗ると、今日はもう心配ない」(第55回社長会・昭和46年12月15日)
 「私の頭の中にある事は全部事件をまぬがれる。頭を通るだけで良くなる。(だから)何でも話しておかねばならないのだ」(第15回社長会・昭和43年8月3日)
 「太陽にあわなければしおれるよ。社長会に入っていのちびろいしたな」(第59回社長会・昭和47年3月31日)
 この言葉のとおりなら、池田の弟子となって一生懸命に活動している学会員は皆、福運に満ちて、商売繁盛、事件を免(まぬが)れ、命を長らえているはずです。
 が、しかし、事実は全く正反対といわざるをえません。
 会員に財務を競い合わせて、やれ「自分は百万円出した」「いや、自分は1千万」などと発表させ、生活保護家庭にまで財務を強行推進した結果、学会員において、金策に行き詰まっての犯罪、サラ金苦による自殺心中夜逃げ―が多発し、随所で家庭崩壊の悲劇が起こりました。
 現に、『週刊朝日』(昭和58年4月22日号)のグラビアには、東京都住宅局が管理する、夜逃げした人々の残していった仏壇が報じられていましたが、その大半が、鶴丸のついた学会員の仏壇でした。
 また、『アサヒグラフ』(同年9月2日号)の特集「サラ金地獄"蒸発"の現場」でも、写真の大半に鶴丸のついた仏具や経本が写っています。
 こうした悲劇は、非活動会員の身の上に起こったことではなく、歴とした第1線の幹部や市議・県議といった人々をも巻き込んで、広く発生してきたのであります。
 さらには、学会員として活動する中で、人格が破綻(はたん)したり、ノイローゼとなって、凶悪犯罪に走ったケースもじつに数多く見られます。学会幹部による詐欺・窃盗・放火・殺人・麻薬・密輸・連続婦女暴行等々、なんと重大犯の3割近くが学会員といわれているほどです。
 なおまた、幸せを願い、真面目に生活していながら、謗法の果報として悲惨な末路となった気の毒な学会員のケースも、数えきれないほどあります(これについては、あらためて紹介することにしましょう)。
 しかして、不可思議なことに、池田が会談し絶讃した各国の指導者達―ルーマニアのチャウシェスク大統領、パナマのノリエガ将軍、ソ連のゴルバチョフ大統領等々までもが、「福運がつく」どころか、相次ぎ崩れ落ちていってしまいました。
 ちなみに、仏法でいう「魔」、とは「奪命者」「奪功徳者」の意であり、第六天魔王(天魔)とは、その一切の魔を司(つかさど)る者です。その意味からすれば、まさに池田大作こそ天魔、「太陽」どころか、関わる者すべてを滅ぼし尽くしていく暗黒の魔王という他はありません。






「メロン事件」他(仮題)

―幼児性・異常性・傲慢・自己中心―
(前川慈肇御尊師『富士の法統妙教編集室』)

〈前川師〉(中略)印象深いのはね、第2回正本堂建設委員会。妙光寺で開催した通称「メロン事件」。あれは決して忘れられない事件だったねえ……。
〈編集部〉建設委員会に華王寺さんもその場にいらっしゃたのですか?
〈前川師〉いたいた。私はね、池田大作に「おい!そこの眼鏡。一回やっつけてやろうかと思ったのに、要領がいいもんだから…」と突然恫喝(どうかつ)されてね。
〈編集部〉猊下(日達上人)ご臨席の会議の場でですか?名指しで華王寺さんのことを池田大作が恫喝するのですか?
〈前川師〉そうだよ。
〈編集部〉それは異常ですね。また、なぜその時に当時総監でいらした大東院さん(妙光寺住職・日明贈上人)を池田大作は槍玉にあげて、インネンをつけて恫喝したのですか?
〈前川師〉それはね、大東院さんは総監としてかなり学会の言動に対して抵抗されたらしいよ。そこで池田はチャンスをねらっていたんだね。あえて会場を妙光寺にしたとか。大東院さんがご存知だったかどうかは知らないけれど…。伝聞ですよ。所化が会議の座配を作っていたのかな?最初は、会議の席は当然一番正面が猊下の席で、その次が総監さんで、要するに池田の席が最上席でなかったらしいんだね。それを作っている時に観妙院さんが来られて、「これではダメだ」と言って、(池田は慶讃委員長だから)正面の席を猊下と池田と並べるように作り替えたんだよ。しかし、それを学会の青年部が見ていて、最初に作った座配のことを逐一池田に報告をしたのが事の起こりらしい。それで、池田が怒ったんだ。彼は「大信者に対して失礼じゃないか」と言ったんだけど、彼は非常に発音が不明瞭な点があって、始め何を怒っているのか、末席にいたからわからなかったんだ。何はともあれ、会議の時に猊下と並んで池田も座ったんだから、なんら問題はないにもかかわらず、それを2時間ぐらい会議はそっちのけにして文句を言い続けていたんだ。本当に蛇みたいにしつこかったよ。おまけに、自らを「大信者」と言って憚(はばか)らない。増上慢の極みだよ。
〈編集部〉普通の感覚でいうと、戒壇の大御本尊様を御安置申し上げる堂宇を建立するための委員会なのですから、猊下が中心に座られて、以下は宗門側・信徒側と別れて座るのが当然と考えられるのですが…。でも池田は猊下と同列に自分が座らないのは「けしからん」と言うのですね。おかしいですね。
〈前川師〉うんうん。それで、会議の間中、大東院さんをこれでもか、これでもかとやっつけたんだよ。
 それから、昼食の時に、池田は「こんな所で乾杯するのはやだけど、しようがない乾杯してやろうか」って、隣に日達上人が座っていらっしゃるにもかかわらずそういう無礼なことを言うのだよ。
 その次にお弁当が出た。するとまた彼は「なんだ、こんなケチ臭いもの」なんて言う。池田は呼ばれているのだよ。たとえおにぎり1個でも、お寺で出してもらったものは、御本尊様からいただくんですよね。ありがたくいただくのが礼儀じゃないですか。しかも、猊下も同じものを召し上がるのですから。
 それで、観妙院さんがとうとういたたまれなくなって、「これは猊下の思し召しです」と言ったら、池田は「あっ、それは失礼しました」って慇懃無礼(いんぎんぶれい)な謝り方でしたね。
〈編集部〉これは完全に嫌がらせですね。
〈前川師〉そう。インネンつけてね。それからデザートにメロンを出したところが、今度は「メロンが小さい」って、怒るんだよ(笑)。
〈編集部〉1個そのまま出してやればよかったですね(笑)。
〈前川師〉彼はメロンが大好きらしいよ(笑)。普通はメロンなんかは、6等分くらいに切って出すだろ?それが小さいって言ってまた怒る。それで最後にこう言ったよ。「こんなお寺は使ってやらない」ってね。
〈編集部〉妙光寺を借りて会議をやっていて、よくそこまで言えたものです。呆(あき)れてしまいますね。
〈前川師〉「こんなお寺は使ってやらない」って池田は言うけれど、今の法華講の人たちは「お寺を使わさせていただく」って言うじゃない。そうだよね、お寺は住職の物ではなくて御本尊様のものだから。御本尊様の建物を使わせていただくというのが信心だよ、でも彼にはそんな気持はさらさらないんだ。
〈編集部〉猊下の前でですか?
〈前川師〉そうだよ。まあ…、猊下の前でよくぬけぬけと言うなと呆れたけれど。確か正本堂の上棟式の後だったか、日達上人の前で「先生。先生♪」(池田礼賛の歌)なんていう学会の歌を歌わせるぐらいだから、正常じゃない。また昭和48年正本堂の落成1周年記念の後に、日達上人に向かって「おい、金があるだろ。金を出せ!」(創価学会は正本堂の御供養に全力をあげたのだから、今度は宗門が、その返礼として創価大学の建設に金を出せということだと聞いていたけど)なんて言うのだから。あの男は1人では言えないんだ。家来がいると威張りたくなるらしいんだね。
〈編集部〉これは、たとえ信心の世界ではなくても、目上の人に「おい、金を出せ!」なんて言えないですよね。ましてや相手は猊下なのですから、本当に池田は精神を病んでいますね。
 話を元に戻しますが、妙光寺の会議の時に、他の学会の幹部たちはどういう態度でいたのですか。そんなに横暴な態度の池田に何も言えないでただ黙っていたのですか?
〈前川師〉もちろん黙っていたよ。
〈編集部〉それを止める人はいなかったのですか?北條・秋谷・森田以下大ぜいいたのでしょ?
〈前川師〉いない、いない。そんなこと言ったら自分が抹殺されてしまうから。彼は最高権力者だよ。生殺与奪の権力をにぎるスターリンのようだ。これが創価学会の実像だよ。本人は裸の王様だけどね。何にしてもひどかったよ。
 私が本山の御仲居だった時に、高校生だったのが当時妙光寺の所化でいたけど、それ以来学会嫌いになってしまった。誰だってあれを見ていたら学会を嫌いになるよ。猊下や住職に対して、あそこまで無礼を働かれたら二度と学会を好きにはなれないだろ…。
〈編集部〉しかし、そこまで池田を増長させた原因は何だったのですかね?また日達上人は、よくそのような池田・学会の横暴を堪忍せられましたよね。
〈前川師〉そうだな、いろいろあって一概には言えないな。ただ「綸言汗の如し」(出た汗を再び体内にもどすことができないように、天子の言葉は取り消すことができないという事)で、猊下が大ぜいの前で会長をお叱りになったら、会長の立場もなくなり、面子もたたなくなるから、大きな御慈悲の上から本当に日達上人は我慢していらっしゃった。でもその会議のあと、その日のうちに、日達上人は観妙院さんとお話しになり、この問題をきちっと解決されたんだよ。
〈編集部〉どういう形でですか?
〈前川師〉観妙院さんは「あのような座配は宗門の古来からのしきたりであって、決して会長を蔑(ないがし)ろにしたものではない」ということを、また大東院さんのお人柄等々、学会本部に行って池田大作と膝つき合わせて語り、完全に収められたんだそうだ。
 日達上人があそこまで我慢をされたというのは、やはり猊下としてはその場をお立ちになってしまったらどうなるか?収拾がつかなくなる。宗内が混乱する。それを考えられて我慢されたのだと拝察すべきだよね。
〈編集部〉我々日達上人の弟子が、当時本山の小僧でいた時に、猊下はよく、「僧侶は堪え忍ぶのが僧侶の修行なんだぞ」とおっしゃられていましたが、その当時はそのような背景があったのですね。
〈前川師〉また、こういうこともあったな。私が本山にいた時に、当時は御開扉が奉安殿だったろ。それで御開扉の時に池田が入口で猊下をお待ちしている。そこへ猊下がご出仕なされ、一往池田に会釈をされる。塔中の住職たちも何となく会釈はするのだが、中に挨拶をしない住職がいた。
 この方は、むかし堀上人のお供をされた時に「わしが代表で挨拶をするのだから、お供で来ているお前たち後の者はいちいち挨拶をしなくてもいい」と言われたというんだ。だから御開扉の入場の時には池田に挨拶しなかった。するとそれが池田には気にいらなくて、「私が御開扉に出る時にはあの住職は出さないでほしい」と宗務院へ申し入れたというのだ。
 又その逆に、あるとき総坊へ池田が来たので、某塔中の住職が挨拶をしたら、側近が「先生の足を止めた」と言って、雪山坊(池田の宿坊)まで謝りにやらされた人もいた。まったく池田という人間は、この上ないわがままで増上慢な人間だったな。






幼児の顔に落書き(仮題)

―"自分は何をしても許される"という慢心の極み―
(『慧妙』H18.9.1)

 紹介する写真(①②③)は、昭和40年代、創価学会本部内で撮られたものです。
 『月刊ペン』裁判の記録によれば、池田によって顔に落書きをされた被害者は、当時、創価学会第1庶務に勤務していたYさんの娘。そして、副会長の上田雅一はこの件について、次のように"証言"しています。
 「池田会長は子供が大好きな人で、当時、(学会本部周辺には)幼稚園に入る年頃の子供がたくさんいて、本部近くの路地でいつも遊んでいたんです。
 それを見ていた池田先生が、かわいさのあまり、子供が喜ぶのを知って、ああいうことをしたのです。Yさんの子供だけが、狙(ねら)い撃ちされたわけではありません。私の子供だって何回もそういうことがありましたよ。

 しかし、プライバシー保護のため被害者である幼児の目を隠していますが、少なくとも原版写真を見るかぎり、幼児が喜んでいるようには見えません。否、むしろ、困惑の表情をしています。
 それよりも何よりも、このことを知って、いちばん心穏やかでないのはYさんだっだのではないでしょうか。
 親としては、たとえ相手が誰であっても、自分の子供が慰(なぐさ)み者にされるのを見て平常心でいられるわけがありません。池田とて人の親、その心情が解らぬはずはないでしょう。
 にも拘(かか)わらず、池田大作は、平気で幼児を慰み者にしたのです。これぞ"自分は何をしても許される"という慢心の極みでなくして、いったい何でしょう。しかも、上田の言からすれば、池田はこの1回だけでなく、複数の幼児に対してたびたび、このようなイタズラをしていた、というのですから、もはや呆(あき)れ果てて物を言う気も起こりません。
 およそ、宗教者としての襟度(きんど)が感じられない池田の振る舞いは、通常の神経を持ち合わせた者であれば、とうてい見過ごすことなどできません。
 が、狂信的学会員には、そうした傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な振る舞いが、池田特有の"ユーモア"に映るのでしょう。そして、そんな池田を増長させているのが、他でもない、池田を師と仰ぐ学会員達なのです。
 写真③をご覧になれば、それがよく理解できるのではないでしょうか。池田が幼児にイタズラをするのを黙って見ていただけでなく、イタズラされた幼児の顔を見て歯を見せて笑う。中には腹を抱えている者まである--これでは、池田の増長に歯止めが掛かるわけがありません。
 ですから、自分よりもはるかに年長の者や、国賓(こくひん)に対してまで、尊大な態度をとることができるのです。

[画像]=年齢差も、相手の立場も、全て自分を"偉大な師"に見せるために利用する池田大作





会員と宗門からダブル搾取

(『慧妙』H18.2.1)

 「日蓮正宗を守っていくことは私どもの役目です。(中略)創価学会としては、永久に皆さん方から、ただの1銭も寄付を願ったり、供養を願うような事はありません」(『聖教』昭和37年6月9日)
と言って、学会がお金を集めるのは日蓮正宗に寺院を寄進したり御供養するためで、学会としては1銭も受けていない(ならば、あの3千名からの膨大〈ぼうだい〉な職員・職業幹部達は、カスミでも食べて生きているというのでしょうか)、と宣伝してきたのです。
 しかし、これらの池田発言は、全て会員を欺(あざむ)くための嘘(うそ)でした。たとえば、
 「正本堂の御供養。5年間であれだけ。10年間はあの倍。あの発表の外に百億はやった。又、かせぐよ」(第44回社長会・昭和46年1月26日)
等の発言からも明らかなとおり、池田は、正本堂建立御供養(学会では、355億円が集まったと発表していました)においても、公式発表した以外に百億円を稼いだばかりか、宗門を恫喝して、納めた御供養の中からも13億7千万円を拠出(きょしゅつ)せしめています。
 さらには、今や年間2千億円以上を集金する狂乱財務(昭和56年には150億円だったものが、今では10倍以上。平成2年などは3千9百億円集めたといわれます)で会員の生活を圧迫する一方、学会の系列企業に、
 「本山の全T・V報告。東洋(東洋物産)でやらせようね、いいね。どれ位儲(もう)かる。10%かそれでは少ない、15%位儲けなさい。かまわないよ」(第53回社長会・昭和46年10月13日)
 「本山のCATV予算はいくらだ。2億1千万か。その見積はそれとして、1千750万技術料として加算しなさい」(第56回社長会・昭和46年12月31日)
と命じ、あらゆる機会を通じて日蓮正宗からも不当な搾取(さくしゅ)を続けてきました。
 また、会員から巨額の金銭を拠出させる大義名分となっていた「日蓮正宗を守っていく役目」すなわち"寺院の建立寄進"という点についても、当時の学会が日本最大の宗教法人であるにも拘(かか)わらず、日蓮正宗の寺院数は日蓮宗のそれに比して僅(わず)か1割程度、それも近年寄進の寺院は小さくて安普請(やすぶしん)、一方、学会の会館は規模建築費ともに「超」がつくほど―という実態を冷静に考えてみれば、虚偽(きょぎ)は明白です。
 要するに池田は、「日蓮正宗のため」と称して会員から徹底的に搾取し尽くし、それで本当に日蓮正宗を守るわけでもなく、かえって日蓮正宗をも搾取する対象としていたのです。
 かくして集金された金銭は、いったい、どこへ消えて行ったのでしょうか。いみじくも、池田は次のように言いました。
 「皆んなは公私混同、公私混同と云うが、私は公私混同で全部公だよ。仏法に私はないよ」(第20回社長会・昭和44年1月22日)
 全国の学会施設のうち約百ヵ所に池田専用施設が設けられ、国家元首も及ばぬような、贅(ぜい)を尽くした風呂、トイレ、ぶ厚いジュータン、壮大なシャンデリア等々が用意されたことは、すでに多くの証言、証拠写真によって明らかといえましょう。それぞれの専用施設が、数億から数十億かけて作られ(しかも、土地代を除いて、です)、調査を受けそうになれば一夜にして取り壊し、また作る―まさに池田発言のごとく、池田は「公私混同で全部公だ」との信念(?)のもと、学会に集まる巨額の金を好き放題に使ってきたのであります。
 かの1億7千万円入り金庫が捨てられていた事件(平成元年7月)にしてもしかり。中西治雄総務(当時)が犠牲となり、全てをかぶって記者会見しましたが、"中西氏個人の商売で得た金が、金庫に入って聖教新聞社の地下にあり、それも昭和46年当時で現在の6億円にもあたる大金を、20年近く忘れていた"などという釈明を、いったい、誰が信じるというのでしょうか。
 この事件発覚の際、『聖教新聞』は、「今度は廃品金庫から1億7千万円。ゴミの中から。欲ボケ社会の戯画(ぎが)・縮図か」(「寸鉄」欄)などと酷評(こくひょう)していましたが、"捕えてみれば我が子なり"で、まさに「欲ボケ」池田学会の「縮図」ともいうべき事件でありました。






独善性と人間不信

―"目の上の瘤(こぶ)"潰しに懸命の結果・・・―
―"イケダ体験"雑感―
(元学会本部職員・小多仁伯『慧妙』H16.1.1抜粋)

 「なぜ、今日まで池田大作は後継者を育てなかったのか」その原因は、池田の稀(まれ)に見る独善性と、極端な人間不信等に起因する、といわれている。
 筆者は、昭和40年代から約20年間、本部職員として秋谷栄之助現会長の下で働いてきたが、その間、池田の秋谷に対する"嫉妬(しっと)や苛(いじ)め"の場面を数多く見てきた。
 入社した頃、旧聖教別館4階の部屋で、筆者は広報総局長だった秋谷と、毎日のように遅くまで残業していた。
 ある時、秋谷が電話に"ヒソヒソ"と語りかけており、それが何日か続いた。電話の内容は、池田からの理不尽な叱責(しっせき)に対して、事実関係を当事者に確かめているようだった。
 電話を取り次いで分かったことだが、その相手の多くは、矢野絢也(元公明党書記長)や渡部一郎(元衆議院議員)等の親・秋谷メンバーといわれる人たちであった(ちなみに、秋谷栄之助・渡部一郎は、戸田2代会長から、それぞれ「城永」「城克」という名前をもらっていたが、池田大作が、これを嫌い、元の名前に戻させた、といわれている)。
 だが、こうした池田の苛めにも堪(た)えて、実務者として力のある秋谷は、やがて聖教新聞社主幹、副会長、会長へと昇進していく。
 一方、池田大作は秋谷を潰(つぶ)したいのか、長い間、さまざまな人間を秋谷と競わせてきた。それは青木亨(現理事長)、山崎尚見(副会長・元広報室長)、福島源次郎(元副会長)、野崎勲(副会長)等の人たちである。
 山崎尚見などは、公然と"秋谷がなんだ"とばかりに、秋谷に盾突いていたが、それぞれ池田が後ろ盾にいて"けしかけている"のは、周りの職員たちも先刻承知していたのである。
 ある日、本部組織センターでの出来事であるが、第5代会長となった秋谷のもと、20名ほどの職員が仕事中、突然、池田大作が入ってきた。何事かと思った瞬間、池田は秋谷会長をものすごい剣幕で怒り出したのだ。
 池田は、5分間ぐらい秋谷に罵声(ばせい)を浴びせて、意気揚々と帰っていった。秋谷会長は、その間、直立不動で"ハイ""ハイ"と答えているのみであった。私は今でも、その時の秋谷会長の、屈辱にゆがんだ顔を忘れることができない。
 なぜ、新入職員や役職の無い職員の前で、会長職にある人物を叱(しか)り飛ばすのか?筆者は、池田大作の途方もない独善的な振る舞いと暴力団のような口ぶりに、しばらくの間、体の震えが止まらなかった。
 そして、そのような池田大作を観(み)ているうちに、池田からどんどん心が離れていくのを、どうすることもできなかったのである―。
 あれから長い時間が経(た)った。もはや池田大作の余命は、あと僅(わず)かである。
 哀れなるかな、池田は死ぬ瞬間まで、誰も信用することはできないであろう。
 一介の書生から、"天下人"の妄想に迷い、とうとう仏法破壊の極悪人と化した池田大作の終焉。
 我ら「法華講衆」にとっては、創価学会員を猛折伏する機会の到来である。本年「破邪顕正の年」を、歓(よろこ)び勇んで精進してまいりたい。






池田が恋文に認めたお粗末な「詩」

―これでは入信神話もボロボロ総崩れ―
(『慧妙』H16.3.16・H16.4.1・H16.5.16)

 入信後の池田であるが、信仰面、というより"成果"の面で頭角を現わし始めたのは、文京支部に派遣されてからのことで、昭和24年1月、戸田会長の日本正学館に入社するまでは、しばらく"泣かず飛ばず"が続いたという。
 そんな池田だったが、"女好き"はやはり生来のものと見え、信心は"泣かず飛ばず"でも、女性に対してはマメに働きかけることを忘れなかった。その対象は、他ならぬ三宅妙子さんであった。
 三宅さんの写真をほしがる池田に、三宅さんが不承不承、証明写真ほどの大きさの写真を1枚、渡したことがあった。
 これに狂喜した池田は、その写真を肌身離さず持ち歩いていたという。池田は、そのことを、問わず語りで三宅さんに語っている。
●あれは、昭和23年頃、池田が20才頃のことだったと思います。「映画の券をもらったから」と池田に誘われ、2人で映画を観(み)に行ったこともあります。
 でも私は、池田に対し、恋愛感惰を持つまでには至りませんでした。
 つい最近、池田から当時もらった手紙が出てきましたので、手紙のやりとりをしたことはあったんだと、改めて思い出したくらいです。(三宅妙子)
-----------------------
 そう言いながら三宅さんが見せてくれた池田の手紙からは、文学青年を気どりながら、何とか自分の"熱い想い"を伝えようとの池田の苦心が伝わってくる。
 たとえば、三宅さんから写真をもらった時の心境・三宅さんへの想いを、池田は次のように書いている。

賢女のphotoを無理に頂いた私の心境を!妙子さん、お互いに若いのです。未完成です。故に、完成を目指し未完成の歌を高らかにうたほうではありませんか。(池田のラブレター)
-----------------------
文学青年を気どる池田の、三宅さんへの想いは、文面からよく伝わってくる。ちなみに、池田の手紙には、次のような自作の「詩」が添えられていた。

体で見たことをゆう。
体で見たことを書く。
体で見たことを行ふ。
目で見て見えるか?
耳で聞いて聞えるか?
体で読んだものが本当だ。
体で祈ったものは実現する。
体で語ることは誰にも聞える。
体で悟った真理だけが我がものである。

爾(なんじ)の願いを高めよ。
爾の願いを潔めよ。
爾の願いを深めよ。
爾の願いを広めよ。
私欲を離れた願いならば死ぬまで願いつずけよ。
諦めるから叶わぬ。
応答を信ぜよ。
正しき願いは実現する。

 想いを寄せた人に送った「詩」であれば、これは、推敲(すいこう)に推敲を重ねた、池田の自信作(?)なのだろうが、あまりに稚拙(ちせつ)で、とても詩などと呼べる代ろ物ではない。
 さて、これと較(くら)べて、池田の「入信神話」に登場する、かの即興詩はどうか―。

旅びとよ
いづこより来り
いづこへ往かんとするか

月は沈みぬ
日はいまだ昇らず

夜明け前の混沌に
光 もとめて
われ 進みゆく

心の 暗雲をはらわんと
嵐に動かぬ大樹を求めて
われ 地より涌き出でんとするか

 練りに練った自信作と、その場の思い付きで詠んだとされる即興詩。その、あまりの違いについては、小中学生の目にも明らかだろう。しかも、その「即興詩」たるや、当時の池田が知り得るはずのない、戸田会長が後年に作った『青年訓』にソックリなのである。
 もはや、池田の入信神話がデッチ上げであることは、誰の目にも明らかであろう。

 閑話休題。
 こうした池田のアプローチを受けても、三宅さんはこれに取り合わなかったため、2人の関係は"信仰の同志"以上になることはなかったようだ。
 それを逆恨みしたのか、池田は後に、三宅妙子さんに連なる人々を、ことごとく冷遇した。

●私はそういうことに無頓着(むとんちゃく)なので、人から指摘されるまでまったく気付きませんでしたが、言われてみれば、たしかに私たちは冷遇されていたようです。
 でも私たちは、少なくとも学会に在籍していた当時は、池田から感謝されこそすれ、冷遇されなければならないようなことは、何1つしていないと思います。
 そもそも、池田が戸田先生の日本正学館に入社できたのだって、私の母が「蒲田に、こういう青年がいるんですが」と戸田先生に取りなしたからこそなんですから。(三宅妙子)

[画像]:文学青年(?)の"実力"がわかる池田の「ラブレター」=これによって即興詩のデッチ上げまでバレてしまった!?

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『慧妙』は池田青年の手紙を恋文だと揶揄しているが、これは激励文である。竜や大草の愛人が夜の行為を克明に記した「今夜も爆発」「やだよ、そんな娘(こ)は」のような熱烈な日記に比べると、その違いが明白ではないか。(『フェイク』第504号=04.03.28/sf:5724)
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「貴女のphotoを無理に頂いた私の心境を!」などと書く激励文がありますか?社会通念上、それは「ラブレター」と呼ぶのではないでしょうか。念のため、問題箇所を拡大して掲載しますので、よくご確認ください。(『慧妙』H16.4.1)

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 "舞台となった三宅家三女"が全てを語ったそうですが、これを読んで私は、せっかく早い時期から入信しても「やはり持ち続けるのはとても難しいんだ」という感想を持ちました。一生涯不退転でやりぬ<、貫き通すことは、至難のわざ、私も他山の石として身が引き締まる思いがしましたよ。
 (※池田大作が三宅家三女に送った)恋文とやらが本物としたら、それを今まで大事に持っていたのは、余程忘れられなかったのでしょうね。かなわぬ恋は嫉妬(しっと)の炎となったことでしょう。
 女は嫉妬により、石にも蛇へも変わるそうですから、この証言も、あてにもクソにもなりませんね。可愛さあまって憎さ百倍てことよ。
(学会婦人部とおぼしき者による無記名投稿『慧妙』H16.5.16)
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 この学会婦人部は、早い時期に日蓮正宗に入信していた三宅妙子さんが、学会という組織の謗法に気付いて脱会、法華講へ所属を移したことを、「退転」と受け止めているようだ。
 だが、よく考えてみるべきである。もともと創価学会という宗教など存在しておらず、学会はあくまでも日蓮正宗を信仰する信徒団体の1つであったはずだ。
 その学会が、日蓮正宗に背いて別の宗教となった時点で、「退転」したのは学会首脳およびそれに従う会員達である。三宅さんらは、日蓮正宗の信仰を「一生涯不退転で」「貫き通す」「持ち続ける」ために、やむなく学会を脱会するに至ったのであって、話はまったく逆なのである。
 この学会婦人部の感覚は、最初から、池田大作を崇(あが)める創価学会という宗教に入信した人のそれであって、だから三宅さんら脱会者を退転者扱いするのである。ならば、彼(彼女?)らが長年にわたって日蓮正宗の御本尊を拝み、これぞ世界最高の大仏法と述べてきたのは、いったい何だったのか!?げに恐るべきは、道理を弁(わきま)えぬ者の盲信というべきであろう。
 なお、三宅証言は"嫉妬の産物"だ、との論難であるが、そもそも、恋文を送ったのは池田大作なのである。それを送られた側が「かなわぬ恋は嫉妬の炎となる」道理がないではないか。こんな本末転倒の言い掛かりをもって「この証言も、あてにもクソにもならない」というのだから、その知的レベルが疑われよう。
 ちなみに、件の手紙(恋文)は、三宅さんが、取材の際に裏付け資料はないかと捜すうち、保管してあった私信の中から池田の手紙を見つけ出し、これを取材者に提示したところ、取材者の指摘を受けて初めて「恋文」だと気付いた、というのが実際である。このことは三宅さんの名誉のためにも言っておこう。
 なお、件(くだん)の「手紙」が「恋文」であるか否かは、本紙報道にとって、本質的な問題ではない。そこに記された、推敲(すいこう)を重ねた末のものであろう池田の「詩」が、同時期、戸田会長との出会いの際に詠(よ)んだとされる「即興詩」に比べ、はるかに稚拙(ちせつ)であることが問題なのである。

[画像]:池田大作が三宅妙子氏に宛てて出したラブレター
[画像]:入信当時の池田大作の文才を物語って余りある自筆の「詩」