国立戒壇建立
広宣流布した暁における大御本尊安置の場所(施設)を「事の戒壇(戒法)」という。この戒壇について当初、学会は「国立」であると主張していた。この「国立戒壇」建立こそが公明党(またはその前身)の最大の目的だったのである。
●
戒壇とは
王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ(『三大秘法禀承事』全集1022頁)
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「王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持」つ状態を"王仏冥合"という。すなわち日本国中の人々が日蓮大聖人の仏法を信仰する状態である。このときに、「戒壇」が「建立」される。
[王仏冥合(おうぶつみょうごう)]=王法とは王の法、すなわち国主の法令・政治のこと。広くは世法の意。仏法とは末法の今日では日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経をいう。(『新版仏教哲学大辞典』聖教新聞社S61)
1954.11.22
・創価学会、
文化部設置
1955.4
・統一地方選挙で文化部員を中心に
創価学会政治連盟として52人が当選
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この中で選挙は地割りが基本であると学ばれ、5月、東京にブロック制が実施され、以後、各地におよんだ。ブロック制は折伏―入信の系統による基本組織(タテ線)とは別の、ヨコ線とよばれる地域別組織である。(『池田大作「権力者」の構造』172頁)
1956.7
・参院選で3議席を獲得
◆
我等が政治に関心を持つ所以は、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。即ち、国立戒壇の建立だけが目的なのである。(戸田城聖/『週刊ポスト』H15.11.28)
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「言論問題」以前の学会は、「広宣流布」の達成を示す戒壇を「国立」としていた。さらに「広宣流布」及び「国立戒壇」は、創価学会の政界進出によって達成されると考えていた。
◆王仏冥合とは、鎌倉時代、日蓮宗の開祖・日蓮上人が『立正安国論』の中で使っている言葉で、王法(王の政治)と仏法(仏の教え)を一体化した時に真の平和と幸福が訪れるという考え方である。創価学会は、選挙によって政権を取り、国会の議決で「国立戒壇」をつくって、一宗教を国教化する目的で政界進出をはかったのが原点だった。 それをきっかけに、創価学会は選挙活動を通じて布教を進め、会員数を増やし、同時に議席を増やしてきた。「広宣流布」、つまり布教活動さながらの選挙運動のやり方は今も当時そのままのスタイルをとっている。(『週刊ポスト』H15.11.28)
1959
・参院選で6議席を獲得
◆
大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべき、どうしても通らなければならないのが創価学会の選挙なのでございます。(池田大作『大白蓮華』S34.6/『週刊ポスト』H15.11.28)
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1960.5.3
・
池田大作が創価学会第3代会長に就任
1961.5.3
・文化部が文化局に格上げされ、局内に
政治部が設置された。これが、後の公明党につながる直接のルーツである。
●池田が戸田以来の政治進出を受け継ぎ、さらに強化、拡大する方向に踏み出したのは昭和36年5月3日の文化局の設置からであった。文化局は池田によって「第三文明」の実行機関と意味づけられた、政治、経済、教育、言論の4部(のちに学芸部増設)からなる、本格的な政治進出のための中枢機関であり、局長には参議院議員・辻武寿が任じられた。(溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫)
◆混乱した日本の政界を浄化するため、学会精神によってはぐくまれた優秀な政治部員を養成し、日本の政治に正しい方向を示していくとともに、本質的な国立戒壇建立という大業の必要性を、政界に理解させようというものである(『聖教新聞』S36.5.6)
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この記事に明らかなように、政治部は国立戒壇の建立をむくつけに目ざすものであった。
<自民党と学会のつながり>
―表は野党、裏では自民中枢と密接―
自公連立には、長い前史がある。それは一般に考えられているよりもずっと長く深いものであり、驚くべきことに、公明党が結成される前から始まっていた。(
<創価・自民の「絆」・・・>参照)
1961.11.27
・政治団体・
公明政治連盟(公政連)を結成。委員長・原島宏治、副委員長・北条浩、書記長・龍年光
●池田氏は、この時期に、池田勇人首相と親密な関係にあり、その後も歴代首相と会った、と自ら話しています(『産経新聞』H13.9.18など)。
陰で自民党中枢とつながり、表むきは野党ポーズをとっていたのです。(『前衛』H15.11)
<創価・自民の「絆」・・・>参照
1962.7
・
第6回参院選で9人を当選させ、非改選議席と合わせて15議席となった。
1962.7.20
・参議院の院内交渉団体・
公明会を結成。公政連の15議員を無所属クラブから独立させる。事実上の政党結成である。(『慧妙』H22.4.1)
●
池田大作さんとは、お互いに30歳代そこそこのときに会っているんだ。あれは1963年の東京都知事選挙に、自民党から東龍太郎が再出馬して、創価学会の60万票の行方が鍵を握っていたときだ。自民党としては、なんとかこの学会票60万票がほしいから、大野伴睦が池田大作さんに会おうとしていた。そこで関係者を探すと、財界人で塚本総業の塚本素山が創価学会の実力者で、池田大作さんとしょっちゅう会える立場にあるという。それで彼が池田大作さんを大野伴睦に紹介してくれて、ホテル・ニュージャパンで二者会談が行われたんだ。・・・・・・この後、池田大作さんが「創価学会の60万票を自民党に入れる」という一筆を書いてくれる。それを僕がもらいに行き、大野伴睦に届けるなんてことがあったんだ。大野伴睦はそれを見て飛び上がって喜んだよ。・・・・・・これで都知事選に自民党は大勝する。このころから僕は保革連立じゃないけれども、まず学会勢力を自民とくっつければ、相当な安定政権ができるなと思い始めてたんだな。(渡辺恒雄・現読売新聞社長/伊藤隆・御厨貴・飯尾潤『渡邊恒雄回顧録』中央公論社H12 279〜280頁)
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大野伴睦が池田大作に働きかけようとした動機は、東京都知事選挙での票である。大野との二者会談で頼まれた池田は「創価学会の60万票を自民党に入れる」と一筆書いている。
選挙での票ほしさに創価学会への接近を図るという図式は、昔も今も変わっていない(『前衛』H15.7)。
1964.11.17
・
公明党を結成
・結党宣言では、「
王仏冥合・仏法民主主義」を基本理念に。
・
安保条約については発展的解消を主張
1967.1.29
・総選挙で公明党は25人を当選させ、
衆院に進出
◆われらは政党ではない。ゆえに、けっして、衆議院にその駒を進めるものではない。参議院ならびに地方議会等、その本質にかんがみて、政党色があってはならない分野に、人材を送るものである(池田大作『大白蓮華』S36.6/『慧妙』H17.9.1)
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「創価学会は政党ではない」から「衆議院にコマを進めるものではない」。この論理からいけば、今の学会は政党ということになる。確かに、実態は宗教政党である。( ̄― ̄)ニヤリッ
●池田大作はしなやかな鋼だ、煮ても焼いても食えない。公明党は
法華さんの太鼓を叩くヒトラー・ユーゲントだ。(田中角栄/元秘書・早坂茂三の記憶)
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秘書の早坂茂三氏も、昭和42年1月の総選挙で公明党が初めて衆議院に進出した後、招かれて、田中氏とともに学会本部を訪れた際の帰りの車中で"親方"がこう言ったのを記憶している。(『週刊新潮』H15.11.6)
1967.1.31
・池田は、公明党指導部を衆議院中心に切りかえ、
委員長に創価学会総務の竹入義勝、書記長は同副理事長の矢野絢也を指名した。(『池田大作「権力者」の構造』260頁)
●(※「代議士に初当選したとたん、委員長とは責任重大ですな」と問われ)
池田会長から申し渡されたばかりで、正直いって面くらってます(竹入義勝『毎日新聞』夕刊S42.2.1/『前衛』H15.8)
<言論問題と政教分離宣言>(
<言論問題>参照)
1969.10
・明治大学法学部教授で、政治評論家の藤原弘達氏が『創価学会を斬る』を上梓(『フォーラム21』H14.12.15)
1969.12
・NHKで放映した「総選挙特集番組」で、共産党の議員が、「創価学会を斬る等の出版物に、創価学会・公明党が出版に圧力、妨害をくわえている」と、発言。受けて、公明党の議員が、「
そんなことはしていない。すべてウソである」と、反論したことから、著者の藤原氏が、「冗談じゃない。それでは事実を語る」と、
公明党から依頼されたという自民党の当時幹事長であった故・田中角栄氏による、出版差し止めを前提にした"アメとムチ"による妨害、圧力。さらには広告拒否や自宅への強迫電話、黒枠つきのハガキなどがジャンジャン郵送されてきていることを暴露。創価学会・公明党による
「言論出版妨害事件」が、こうして表面化した。(『フォーラム21』H14.12.15)
●(※学会員によるイヤガラセについて)
警察がそれとなく藤原弘達氏のお子さんなど家族の警備をしたほどでした。(中略)『潮』の社員や『聖教新聞』の社員などが書店回りをして、「置くな」と圧力をかけていたんです。「
『創価学会を斬る』を置くと、『人間革命』などの売れ筋の創価学会の本を引き上げるぞ」という脅しだったそうです。(遠藤留治=日新報道代表取締役『フォーラム21』H15.7.1)
1970.5.3
―池田大作、言論問題で「猛省」―
◆
……今回の問題は、あまりにも配慮が足りなかったと思う。また、名誉を守るためとはいえ、これまで批判に対してあまりにも神経過敏にすぎた体質があり、それが寛容さをかき、わざわざ社会と断絶をつくってしまったことも認めなければならない。……今後は2度と、同じ轍を踏んではならぬと、猛省したいのであります。……言論の自由が、幾多、先人の流血の戦いによって勝ち取られたものであり、……これを侵すことは民衆の権利への侵害であることを明確に再確認し、言論の自由を守り抜くことを私どもの総意として確認したいと思いますがいかがでしょうか(池田大作・第33回本部総会/『フォーラム21』H14.12.15)
―政教分離宣言―
◆
学会は、公明党の支持団体ということになります。とうぜん学会員の個人個人の政党支持は、従来通り自由であります。学会は日蓮大聖人の御本尊を信奉する宗教団体であって、政党支持については、会員の自由意思にまかせ、まったく干渉するものではありません(池田大作・第33回本部総会・要旨/『フォーラム21』H15.7.15)
◆
また、選挙にさいしても、公明党は党組織を思いきって確立し、選挙活動もあくまで党組織の仕事として、明確に立て分けて行っていただきたい。むろん、創価学会も支持団体として従来どおり地域ごとの応援はとうぜんしていきたい。党員についても、学会の内外を問わず、幅広く募って、確固たる基盤をつくっていただきたいと、公明党に要望したい。また、党がひとり立ちしたことに対し、皆さん方もあたたかく見守っていただき、応援もしていただきたいのであります。(池田大作・第33回本部総会・要旨/『フォーラム21』H15.7.15)
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この政教分離宣言は、創価学会・公明党が引き起こした
言論出版妨害事件に対する厳しい社会的批判を背景になされたものであり、池田会長自身、政教分離宣言の冒頭で、「
今度の言論問題を通じて、さまざまな問題が浮かび上がってきました」として、創価学会と公明党の政教分離が言論出版妨害事件を契機とするものであることを自認している。(『フォーラム21』H15.7.15)
★学会の一部門といえる公明政治連盟が発展する形で結成された(64年11月)公明党も、結党宣言では、「王仏冥合・仏法民主主義」を基本理念にしていたが、政教分離宣言を機に「平和と福祉」のソフト路線を前面に掲げた。
権力を求めて
言論問題や
正本堂問題によって創価学会は国立戒壇を撤回し、政教分離を表明した。しかし、「王仏冥合」の学会版ともいうべき理論「総体革命」の下、公明党を政界支配の道具として全力でバックアップする。すなわち形式的には政教分離であっても実態は政教一致のままであった。
<反権力を鮮明>
1972
・総選挙で敗北
●(昭和)47年総選挙で敗れ、共産党が進出したあたりから路線は左右に揺らぐ。48年1月、「反自民、反権力」と左カーブ、小選挙区制導入粉砕、美濃部東京都知事支持など社会、共産両党との提携を強化。とくに日米安保条約については、結党時の「発展的解消」から「段階的解消」へ、そして「早期解消」、さらに48年9月、初めて「即時廃棄」に。(『朝日新聞』S59.11.13)
1973.1
・
「反自民、反権力」と左カーブ(『朝日新聞』S59.11.13)
1973.9
・
日米安保条約について即時廃棄を主張
<右傾化>
1974.4
・京都府知事選の蜷川7選出馬問題で社会党と、さらに憲法をめぐる論争で共産党と、それぞれ距離ができる。
1975.10
・党大会で、竹入委員長が「改心した自民党員」を巻き込む形での中道国民戦線の結集を提唱、いわゆる
現実路線に軌道修正、さらに、
安保の存続を事実上黙認
1977.4
・民社党から学会側に、国会に提出される質問趣意書の写しが送り付けらる。
●
土地取得や開発行為に違法がある。宗教施設の名目で、実態は、保養所や
池田大作の豪華専用施設が作られている(民社党の質問趣意書『慧妙』H16.10.16)
●北海道・根室の"別海研修所"(当時)では、
国定公園内の防風保安林を、無断で違法に伐採(ばっさい)していた上、誤って、
隣地の町有林を伐採していた。 大沼・十和田・箱根といった従来からの研修所にも、
無許可で、勝手に巨大な石碑を建てたり建物や庭園を造(つく)っていた。(中略)(※霧島研修所では)地元の役人を懐柔(かいじゅう)して
許可を取り、それを何十倍にも拡大して自然破壊を実行した。(『慧妙』H16.10.16)
●民社党候補に対し、学会票を貢(みつ)ぎ物に差し出す。ということで、何とか国会質問はくい止めた。
"公民選挙協力"は、この時から始まった。(『慧妙』H16.10.16)
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「土地取得や開発行為に違法」「池田大作の豪華専用施設が作られている」というのは学会の問題である。この問題を回避するために学会票を民社党に回し、さらには公明党を民社党に協力させるというのだから、まさに政教一致である。これは、"政教分離宣言"以後のことである。また、この事実は、学会・公明党の選挙及び政治行動が公共の福祉の為ではなく、学会自身の利益(しかも不正行為を含む)の為に行われていることを示すものである。(法蔵)
1978.12
・大平内閣発足
●
「(※大平)どうだ、内閣に入って、いっしょにやらないか」「(※竹入)条件は変わらない。ひとつは憲法擁護、もう1つは企業献金をやめるということだ」「(※大平)企業献金をやめるなんて自民党がまとまらない」「(※竹入)企業献金をやめる約束をすれば、一気に連立に行くぞ。やめるまで10年くらい余裕をもっていい」「(※大平)必要悪だ。企業献金をやめることはできないな」1979年10月の総選挙後に自民党の40日抗争が起きた。助けを求めてきた大平正芳首相と、東京・築地の料理屋で、公明党と連立内閣を組むかどうか真剣なやりとりが続いた。大平さんは憲法擁護に反対しなかった。企業献金廃止が最大の問題だった。だが、こっちから思い切って出した10年の猶予付きの助け舟にも動かなかった。(竹入義勝・公明党元委員長「竹入秘話」『朝日新聞』H10.8.27)
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竹入時代には企業献金廃止が連立の条件だったが、1999年10月には企業献金廃止はまったく連立の条件に入っていなかった。それどころか、2003年には企業献金の公開基準の引き上げに同意し、世間から非難されている。
●
連立の誘いは、このときが初めてではなかった。大平さんが首相になってから、予算修正問題などで苦境に立った時、何回か打診を受けた。すぐ、企業献金問題のやりとりになった。(中略)連立するといっても、政策的には安保・自衛隊が大きな課題だった。当時の公明党は、日米安全保障条約は段階的解消を掲げていたし、
自衛隊も違憲性が強く、国土防衛隊への改組を主張していたから、時間をかけて、調整していく必要があった。しかし、ロッキード事件などに表れた自民党の腐敗体質の追放を宣言しさえしてくれたら、手を組んでも良いと考えた。(竹入義勝・公明党元委員長「竹入秘話」『朝日新聞』H10.8.27/『前衛』H15.8)
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大平内閣は79年度予算案審議の過程で、野党からE2C予算削除要求を出され、結局、予算凍結で収拾した。この時、話題になったのが政策課題ごとに中道政党と連携する「パーシャル連合」であった。しかし、実際にはさらに進んで入閣の打診が行われていたわけである。その
ネックになったのが企業献金問題、安保・自衛隊の問題だったというのだから、「今は昔」の話である。
変わったのは自民党ではなく公明党だったということが、このことからも良く分かる。(『前衛』H15.8)
1978
・
自衛隊を認知(竹入発言『朝日新聞』S59.11.13)
1980
・社公合意
●54年末から55年初めにかけて公明党が橋渡し役となってようやく結んだ社公、公民の連合政権構想も、55年6月の衆参同日選挙で野党側が敗北すると、空中分解状態に。公明党は連合の基軸を
次第に自民党寄りに移していく。(『朝日新聞』S59.11.13)
1981
・保守との連合を頭に置いた「新しい選択」を掲げ、
「安保存続、領域保全に限定した自衛隊合憲」へと政策転換
1984
●これを聞いて権藤さんは、ようやく金丸さんと会う決心をした。案の定、
金丸さん(※信=自民党国対委員長)は権藤さん(※恒夫=公明党国対委員長)にカネを手渡した。その額500万円。そのうち300万〜400万円くらいを使って焼き物を金丸さんに送り返した。(中略)それでも権藤さんの手元には200万円近い現金が残った。(参議院議員・平野貞夫『月刊現代』H16.5)
1984.3
●いざとなれば公明党は自民党のためになるはずだ(田中角栄/『文藝春秋』H15.12)
1984.秋
・二階堂擁立工作(
<資料>参照)
●頼みの田中氏がロッキード事件で逮捕されると、公明党は表向き社公民路線をとって自民党に距離を置く姿勢をみせた。そうした中、田中離れを強める中曽根政権下で竹入氏と佐々木良作・民社党委員長が仕掛けたのが田中派の重鎮、二階堂進・自民党副総裁の首相擁立構想を柱とする
自公民連立工作である。(『週刊ポスト』H11.7.9)
●公明党は、今回の二階堂擁立工作をきっかけに、
公然と自民党との連合政権づくりに踏み出すだろう。(『朝日新聞』S59.11.13)
1986.12.4
・矢野絢也、委員長就任
●86年に委員長を交代した。私が党首の座を手放したくないように言われたが、とんでもない話だ。(中略)「
辞めるなら創価学会も辞めなければならないぞ」などといわれ、聞き入れてもらえなかった。(中略)7月の衆参同日選挙がすんでしばらくして、軽井沢で池田名誉会長に会った。「次の党大会で辞めます」「ご苦労さまでした」。初めてお許しが出た。(竹入義勝=公明党元委員長「竹入秘話」『朝日新聞』H10.9.17/『前衛』H15.8)
1988.5
・公明党所属の衆議院議員・大橋敏雄氏が、昭和63年5月10日発売の『文藝春秋』誌上で、池田大作・創価学会名誉会長を批判する論文を発表した。中身は、学会を私物化し、相変わらず政教分離を弁えない池田氏を批判したものだった。公明党批判ではなく、あくまで池田批判だったが、この論文は学会のみならず公明党にも大きな動揺をもたらした。
●大橋問題に対する公明党の対応は、あまりに稚拙だった。6月6日、公明党は、告発の内容とは無関係な、「金銭トラブル」や「女性スキャンダル」を理由に大橋議員を除名する。この対応にも批判が集中した。(参議院議員・平野貞夫『月刊現代』H16.5)
●竹入先生に聞いたところ、
学会がかなり無理を言って公明党に大橋問題を処理せよ、といってきたらしい。矢野委員長も腹ではやりたくなかったが、しかたなくやらされたようだ(公明党議員・権藤恒夫/参議院議員・平野貞夫『月刊現代』H16.5)
1988.秋
●88年秋に召集された臨時国会は折りから表面化したリクルート事件一色だった。リクルート・コスモス社から未公開株が流れた政治家は竹下首相はじめ宮沢喜一蔵相、中曽根康弘前首相ら政権中枢を直撃し、公明党を含めて野党側はすべて消費税導入に強硬に反対して審議拒否、竹下内閣は行きづまった。 が、土壇場で公明党と民社党が助け舟を出した。
消費税導入時期に半年間の試行期間を置くことと、寝たきり老人に派遣するホームヘルパー倍増を条件に両党は審議に応じ、法案は成立した。 この時、自民党で野党との交渉を指揮したのが竹下派の金丸信・衆院税制問題等調査特別委員長であり、竹下派と公明党の提携で竹下氏は当面の危機を乗り切った。 その一方で、
リクルート事件では社会、公明、民社の野党側議員にも未公開株が流れていたことが発覚しており、≪
疑惑隠しの談合政治≫という批判が高まった。(『週刊ポスト』H11.7.9)
1988.12
・
国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域の静穏の保持に関する法律が制定される。
●あの法律は竹下内閣が
消費税を導入するための見返りとしてできた。内容は、国会や在外公館の周辺で右翼などが街宣活動を展開して騒音問題が深刻になっており、規制しようという趣旨だったが、そこに公明党が「
政党本部周辺も規制対象に入れてほしい」といってきた。政府はなんとしても消費税法案を成立させなければならなかったから、公明党が消費税の審議再開に応じることとひきかえに要求を飲んだ。官房副長官だった小沢一郎氏は「
憲法違反じゃないか」と怒っていた。確かに、この法律は政治活動や言論の自由に抵触する恐れがあり、消費税導入のためとはいえ、私が手がけたなかでも悪法の1つと内心、忸怩(じくじ)たる思いを抱いている(平野貞夫=民主党参院議員『週刊ポスト』H15.12.5)
●公明党本部と学会本部はJR信濃町駅をはさんで指呼(しこ)の間(かん)にある。政党条項の裏には、
党本部を街宣活動の規制対象にすることによって、そのまま学会本部周辺まで警察の警護エリアとして守られるという巧妙な仕組みが秘められていた。(『週刊ポスト』H15.12.5)
●平野(※貞夫)によれば、88年に政府与党が静穏保持法を成立させたのも、公明党を消費税法案の審議に協力させるためだった。当時、衆院事務局の委員副部長だった平野は学会・公明党側から取引の相談を持ちかけられて「いいでしょう」と返答した。消費税法案は絶対に通すべきだという信念があったからだ。(『月刊現代』H16.2)
1989
・ベルリンの壁崩壊
1991
・
湾岸戦争での多国籍軍への90億ドル支援に賛成
・国税庁による創価学会に対する税務調査
1992
・自民党と連携し、
国連平和維持活動(PKO)協力法成立に協力
・国税庁による創価学会に対する税務調査
矢野氏は平成3、4両年にわたり、公明党の支持母体である創価学会に税務調査が入った際、学会員による寄付のリストや美術品、池田大作名誉会長の個人所得などの調査には応じられないとする学会側の依頼を踏まえ、税務当局と折衝したことを明かした。(<産経ニュース>H21.7.1)
●それ(国税庁の調査)を1つの転機として、公明党の政権に入る意欲、池田名誉会長のそれについての強い意志というものが、それを1つの転機として、それまでは公明党は野党ということでやってきたわけですが、にわかに、
政権参画意欲が強まったことも、これまた事実でございました(矢野絢也・元委員長『慧妙』H21.7.16)
権力の中枢へ
<非自民非共産で政権狙う>
1993
・細川連立内閣誕生(自民党が野党に転落)
◆
スゴイ時代に入りました、ね!そのうちデージンも何人か出るでしょう。まあ明日あたりですから。みんな、皆さん方の部下だからそのつもりで。日本一の創価学会ですよ。明日の新聞楽しみに。まだ言うのは早いんですけどね。これからですよ本当の仕事は。デージンたちがやる(池田大作・細川内閣の組閣前日に長野市で行われた学会本部幹部会/『月刊現代』H16.2)
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「デージンも何人か出る」これは単なる予測ではない。そのことは「明日の新聞楽しみに。まだ言うのは早い」という発言に明らかである。単なる支持団体の長が組閣名簿をいち早く手に入れ、名前こそ出していないが大臣が公明党議員から出ることを発表する。学会(池田大作)が公明党を牛耳っている証拠ではないか。
1994.12
・地方議員と95年非改選の参院議員主体の
公明、衆院議員と95年改選の参院議員による
公明新党とに分かれ、公明新党は新進党に合流
●公明党は新進党結党の時、まず衆院側を先行合流させ、参院と地方組織は「公明」として残し、後に全面合併するという2段階方式をとると約束していた。が、いざ
参院公明の合流を迫られると、猛烈な拒否反応を示した。「新進党の本部は国会の近くに置かれていたため、
参院公明まで合流してしまうと、政党条項で学会を守れなくなるというのが公明を解散しない理由だった」新進党中枢にいた民主党幹部はそう振り返る。当時、
新進党党首だった小沢氏が突然、同党の解党を決断した背景には、公明党の存立目的と性格が一宗教団体の"派生的存在"にすぎず、それから抜け出すことができないと見切ったのが真の理由とされる。(『週刊ポスト』H15.12.5)(1988.12の項参照)
1995
・自民党は、前年のオウム真理教事件に端を発した宗教法人への厳しい世論を背景に、
池田名誉会長の証人喚問を要求するなど厳しく対立。
◆細川内閣から旧新進党の解党までが、学会にとって最も苦しい時期だった。村山内閣ができて、政権与党に復帰した自民党は宗教法人法改正など次々に学会攻撃を重ねてきたのに対して、新進党はついに政権を奪えなかった。
組織を守るには、自民党と組むという選択肢しかなくなった。(公明党中枢筋『週刊ポスト』H15.11.28)
◆敵の味方は敵。自民党の創価学会バッシングは当然のことだ。しかし、あのバッシングは相当効いた(公明党元三役経験者『文藝春秋』H15.8)
<自公接近>
1996
・春の住専国会から野中らの新進党切り崩し工作が本格化した。平野(※貞夫=当時、新進党議員)によれば、野中(※広務=自民党幹部)は旧公明党の衆院議員らに「
都市部を中選挙区(3人区)に戻して当選しやすいようにするから、公明党を復活させないか」とさかんに働きかけてきたという。(『月刊現代』H16.2)
●「公明」(旧公明党の、地方議員と平成7年の参院選で非改選の参院議員らで構成)の代表を務める
都議会議員・藤井富雄さんが、山口組系の暴力団
「後藤組」の後藤忠政氏とかつて会談をもったことがあり、その現場を隠し撮りしたビデオがあるとのことで、それを材料に、野中さんは旧公明党を揺さぶってきたのだ。(中略)こうした動きもあり、結局、住専国会は与党の思惑通りになってしまった。そして
これをきっかけに野中さんは公明・学会との関係を深め、一方公明は自民党に擦り寄るようになっていく。これが後の新進党解党、現在の自公連立への布石ともなってしまった。(
参議院議員・平野貞夫『月刊現代』H16.6)
・自民党の機関紙『自由新報』が、池田大作の女性問題に関する告発記事を掲載
・はじめての小選挙区比例代表並立制で旧公明党系議員の勢力は選挙前の52人から39人に減った。だが、小選挙区制は目に見えないメリットを学会にもたらした。
与野党の議員たちがあっちからもこっちからも票欲しさに学会詣でを繰り返すようになったのである。全国の学会票は少なく見積もっても600万票。単純計算すれば300小選挙区にそれぞれ2万票以上の学会票があることになる。それが与野党のどちらにつくかで4万票以上の差がつく。
学会は自前の候補者を立てない選挙区で当落を左右できるようになり、かえって政界への実質的な影響力を増した。(『月刊現代』H16.2)
1997.6.11
●(※竹下登)神崎さん、
公明党は自民党と一緒になった方が良いわね。日本の政界はいずれ、自民党と、もう1つの政党が争う構図になる。社会主義政党は姿を消す(星浩「自公新党、誘った竹下氏」『朝日新聞』H14.7.13/『前衛』H15.8)
1997.12
●(※新進党)党首選からちょうど1週間後の25日(※H9.12.25)、赤坂の全日空ホテルで「公明」の藤井代表と会談した小沢さんは、驚くべき報告を受けた。 「比例区だけじゃなく地方区も公明独自で対応する」と藤井さんが言いだしたのだ。これは
全面合流の約束を破り、公明党という組織を残していくという意思表示だった。 このころから旧公明党は、自民党に擦り寄り始めていた。背景には、自民党の野中さんらの工作があった。野中さんは、公明党・学会が希望する
中選挙区制復活を約束したようだ。 公明党が自民党に擦り寄ったもう1つの原因は、
公明が新進党に全面合流してしまった場合、「国会議事堂周辺及び外国公館周辺の静穏保持法」の適用に信濃町が掛からなくなる恐れがあったことだ。公明党が消滅すれば、隣接する学会本部にさまざまた団体から街宣攻撃が加えられることが予想できた。(
参議院議員・平野貞夫『月刊現代』H16.6)
・新進党が解体。旧公明党グループでは、衆院議員は
新党平和を結成、参院議員は
黎明クラブを結成するがすぐに公明と合流
●新進党時代から池田名誉会長については「尊敬している」(※小沢一郎=以下同)と口にしていた。しかし「政治の場での影響力は地方議会まではいい。国政にまで出てきたのは問題がある」とも言っている。新進党解党の一因は、公明がルビコンを渡らなかったことにある(中略)小沢は、公明が解党して新進党に合流するか試した。ところが衆院の公明は新進党に合流したが参院は残った。小沢は「やはりルビコンを渡れない。
あくまで宗教団体の政党だな」と言った。今自公政権対民主で、小沢は対立姿勢を明確にしている(政治評論家・鈴木棟一『週刊ダイヤモンド』H20.6.7)
1998.4
・過半数割れしていた自民党が、与謝野馨広報本部長名で創価学会側に謝罪した(「自由新報事件」)。
●今のような青木幹雄と秋谷会長、八尋副会長とのつき合いができたのは、この「自由新報事件」の時です。『自由新報』に謝罪文を載せる前に、創価学会幹部と自民党幹部との極秘の話し合いが、与謝野馨事務所内で行われた。メンバーは創価学会側は八尋副会長、自民党側は与謝野と青木副幹事長(当時)だった。与謝野事務所内でお互いが顔をつきあわせ、謝罪文の文面を作成したんです。
この頃から青木と八尋のつき合いが始まった。(元自民党幹部『文藝春秋』H15.12)
1998.11
・公明と新党平和が合併して公明党を再結成
●経過としては複雑であったが、その狙いははっきりしていた。
できれば非自民保守新党に合流したいが無理なら元に戻るというもので、公明は失敗したときのためにかけられた保険のようなものであった。 このとき、
創価学会は「小沢」と組むか「反小沢」と組むか、様子を見ていたのである。そのために公明党を2つに割り、一方を小沢の新進党に合流させ、それが失敗したときのために他方を残しておいた。結局、新進党は行き詰まって解体する。小沢を見限った学会は公明と新党平和をドッキングさせて元の公明党に復帰させた。 結局、こうして保守2大政党構想は挫折し、保険として残しておいた公明が生かされ、公明党は元に戻った。もちろんそれは、公明党自身の選択ではなく、創価学会、とりわけ池田名誉会長の意向によるものだったであろう。
政党を割るのも、それを元に戻すのも学会の意のままであった。(『前衛』H15.8)
・
公明党の提案で地域振興券配布決定 -----------------------
地域振興券は以前から公明が主張していたもので、国民に一律3万円の商品券を支給して消費不況脱出の起爆剤にしようという構想である。経済界や自民党内ではその効果を疑問視する声が圧倒的に多かった。
●野中(※広務=自民党幹部)はその前後に、都心の料亭の離れで「公明」の藤井と会食した。旧国鉄長期債務処理法案の審議などで協力を得るためだ。野中の要請に対し藤井は、「公明としては
地域振興券を目玉にしたい。うちの浜四津敏子が提案するから、それを飲んでくれませんか。そうすれば法案成立に協力しましょう」と交換条件を持ち出した。(中略)政府が15歳以下の子供がいる家庭に配布した地域振興券の総額は約7千億円。野中は実施が決まった後、派閥の若手議員たちとの会合でこう言ったという。「
天下の愚策かもしれないが、7千億円の国会対策費だと思って我慢してほしい」
1999.1
・自民党・自由党連立
●もともと、
“クッション”役は、公明党が野党時代に連立の“条件”として、自民党側に求めたものでした。98年の参院選後、野中広務官房長官(当時)から連立を打診された神崎武法代表が「
それ(自公連立)にはクッションが必要だ」(『毎日新聞』H11.7.25)と述べたといわれます。
それまで野党として水面下で自民党を支えていたものの、公然と与党入りするためには「クッション」があった方が都合がいいという打算です。 自民党の側も党内の批判をおさえるために、緩衝材の存在が好都合でした。 その結果、自民党はまず、99年1月に小沢一郎氏率いる自由党と連立。その9ヵ月後に公明党が連立に加わり、自自公連立政権がスタートしたのです。その後、自由党が分裂したため、連立相手は、保守党、保守新党と変わりましたが、時々の緩衝材となって、自公連立がむきだしになるのを避けてきたのです。(『しんぶん赤旗』H15.11.12)
公明党は結党以来、「反自民」の一翼を担ってきたが、神崎氏が代表になった翌年の99年、自民党との連立に大きくかじを切った。(中略)
「創価学会を守るために自民党にすり寄ったのではないのか」――この連立には当初からそんな疑念がつきまとってきた。自民党の創価学会攻撃をかわすのが最大の狙いというわけだ。靖国、日中で断固とした態度をとれないことも、そうした見方を後押ししている。(『朝日新聞』社説H18.9.19)
<自自公連立>
●ここ10年の日本政治を分析すると、自自公連立(による政策新人類の消滅)が近代化の分かれ目で、それ以来、
日本の政治は後退してしまった。あれほど残念なことはない(コロンビア大学政治学教授・ジェラルド・カーティス
『月刊現代』H16.2)
1999.7
・自民党との連立与党に参画(閣外)
・連立入りの際に「活力と安心の生活大国を築く」「国家主義の台頭や右傾化に歯止めをかける」「政治の質を変える」という3つのスローガンを打ち出す。(公明党臨時党大会/『前衛』)
●
自自連立政権に参加した1999年、公明党は
「平和と人権の党」を誓った。しかし、その誓いとは裏腹に、ひたすら
権力を追い求めるのが今の公明党の姿だ。国政・地方の選挙や重要法案成立の舞台裏で、
自民党に恩を売りながら自己保身と拡大を続けている。日本を戦争のできる国に導くのが自民党なら、その舞台づくりに一役買っているのが公明党、その最大の支持母体である「創価学会」、そして学会トップの池田大作名誉会長といえるのではないだろうか。(『週刊金曜日』H15.6.13)
・
国旗国歌法成立
1999.8
・
通信傍受法(盗聴法)成立
1999.10
・小渕恵三第2次改造内閣成立(自自公連立政権)
●自自公連立政権参加の公明党・創価学会の存在を「
どこまでもついていきます下駄の雪」などと蔑んでいた(自民党の長老『文藝春秋』H15.8)
●公明党は、再び政権参加戦略を練り直す必要が生じた。それは、
自民党に対抗して政権に参加するという93年以来の戦略を180度転換し、自民党と共に政権に参加するというものである。ただし、その
内実は「小沢」を捨てて「反小沢」に乗ったというにすぎない。このような公明党の方向転換は、参院での過半数を割り、連立相手を求めていた自民党にとっても歓迎できるものであった。 そして、このときになって
再び息を吹き返したのが、田中派以来の遺産である。(中略)
自民党と自由党の中心になったのは小渕首相と小沢自由党党首で、どちらも旧田中派であった。これに、公明党を加えたのが自自公連立だから、この連立政権の
実体は旧田中派と公明党との連立政権だったということになる。(『前衛』H15.8)
●与党入り後は、
テロ対策特別措置法、有事関連法、イラク復興支援特別措置法などの成立に積極的役割を果たした。(『読売新聞』社説H15.11.12)
[画像]: 「池田大作グループ(公明党)が『平和』を唱えながら後押しをして成立させた主な戦争傾斜関連法」(『フォーラム21』H15.10.1)
◆
公明党と創価学会が一体だったら憲法が許さないかといえばそうじゃない。私どもは一体ではない。だが、仮に一体であっても憲法はそれを許さないなんていう規定は1つもない。政教分離の政とは政党のことじゃなくて、国家なんだ。(冬柴幹事長9910/『週刊ポスト』H15.11.28)
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政権党になった公明党の、"もう誰にも政教一致を批判させない"という自信の表われとも聞こえる。
<自公保連立>
2000.4
・自由党が連立から離脱。自由党から分裂した保守党(後に保守新党)が与党に残る。
2000.11
・高齢者への定率負担制度を「
血を流してでも、勇気を持って、断行しつづけていかなければならない」(江田康幸衆院議員)と強行
・中小企業向け
不正融資疑惑で公明党前衆階義員の元秘書逮捕
2001
・KSD事件で村上元自民党参院議員会長逮捕(3月)。
公明党にも機関紙広告料として資金流れる。
・
テロ対策特措法成立(11月)
2002
・サラリーマン本人3割負担を推進
◆(自民党幹事長に)
公明党だけが熱心に推進しているのではないかという批判を受けているので、与党一体となって不退転で取り組んでいただきたい(冬柴鉄三幹事長・030403)
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福祉切り捨てでは、いまや自民党顔負け
・「北方支援事業」を食い物にした鈴木宗男議員から
公明党議員(遠藤和良)に「ムネオ・マネー」流れる。
・アメリカの対イラク戦争を側面支援するために
イージス艦のインド洋派遣同意
●時の権力者に巧みに近づくのは公明党の政治的処世術の最たるものだろう。 小泉首相は就任当初、「政策が一致すれば政権の枠組みにはこだわらない」と、自公連立には否定的で、むしろ民主党との連携に傾いていた。当時は自民党内で小泉首相と対立する野中広務氏を中心とした橋本派が公明党とのパイプ役を務めており、小泉首相の目的は連立組みかえをほのめかすことで公明党を揺さぶり、橋本派を牽制することにあった。 公明党にすれば、連立解消は最悪の事態である。そこで
橋本派から小泉首相=森派へと見事に乗りかえた。小泉首相が昨年秋の臨時国会でテロ対策特措法を成立させ、アメリカの対イラク戦争を側面支援するためにイージス艦のインド洋派遣を決めた時も、
公明党は一も二もなく同意した。派遣に反対していた野中氏など、「
公明党が賛成するなら友情は捨てないといけない」そういって抗議したほどだった。さらに今年7月の通常国会で公明党は自民党とともにイラク復興支援法を強行採決し、戦乱のイラクヘの自衛隊派遣を容認している。「平和の党」の看板をかなぐり捨てて小泉首相と命運をともにし、今や、小泉首相-森派-公明党ラインが政権の中枢に位置している。(『週刊ポスト』H15.11.28)
2002.12
・保守党が保守新党に
2003.6
・
政治献金公開基準引き上げに合意
●これを
おごりと言わずして何と言おう。与党3党が合意した、政治献金の公開基準の引き上げのことだ。(中略)それにしても、
不可解なのは公明党の態度だ。党内には公開基準の改定への反対論が根強かった。
神崎代表も「譲ることはない」と繰り返し言明してきた。それが土壇場で一転、妥協である。 政治改革が政界最大の課題となった
10年前、公明党は細川政権の与党として改革に最も熱心な政党の1つだった。「企業献金の禁止」も主張していた。 理由はどうあれ、今回の妥協はあの頃の公明党の姿とは結びつかない。考えたくないことだが、
自民党と一緒に長く与党暮らしを続けるうちに、自民党のあしき文化に染まってしまったのだろうか。 神崎氏は「与党のなかで公明党らしさを発揮する」と語ってきた。この問題でこそ、自民党にノーと言うべきである。
与党案にはまったく理がないのだから。(『朝日新聞ニュース速報』H15.6.13)
2003.7
・
イラク派兵法を強行。衆院の採決では
自民党に退席者・反対者が出る中、公明党は一糸乱れず賛成
<自公連立>
2003.11 総選挙
・惨敗した保守新党が解党して自民党に合流。小泉政権は自民、公明2党の連立となる。
・自公選挙協力で与党過半数(絶対安定多数)維持
●本社の出口調査では、公明支持層の6割が小選挙区で自民党候補に投票した。東大の蒲島郁夫教授は、3年前の総選挙でも公明の協力で落選を免れた自民党候補が36人に及んだと分析している。自民党はおんぶにだっこで公明党に支えられている。 首都圏では、協力の見返りに「比例は公明へ」と叫ぶ自民党候補も目立った。そんな公明党頼みに、自民党内からは「
公明は麻薬と同じだ。よく効くが依存症から抜け出せなくなる」と自嘲(じちょう)の声も聞こえる。 創価学会を支持母体とする公明党は、全国平均で1つの小選挙区に2万〜3万の基礎票を持つと言われる。2大政党色が強まり、自民、民主の候補がぶつかりあう選挙区が増えた結果、自民支援に回る公明票の威力はいや増すことになった。 かつて公明党内では東京都議会がめざすべきモデルとされた。都議会で自民、社会両党の勢力が拮抗(きっこう)した時代、公明党が常にキャスチングボートを握っていた。いまや国政の舞台でも、そうした感がある。 それにしても、なぜ自民党支援なのか。公明党の立党の理念である
「清潔、福祉、平和」は、自民党の利権政治や憲法9条改正の流れとは必ずしもそぐわない。実際、社会党などとの連立をめざした時期があったし、10年前には非自民の細川政権に参加もした。だが、小渕政権で
自民党との連立に踏み切ってからの4年間は、自民党との協調関係を強める一方だ。 忘れてならないのは、創価学会が第2次大戦中に宗教弾圧を受けたことだ。細川政権の崩壊後に新進党に参加したときも、自民党が創価学会の池田大作名誉会長を参考人として国会に呼ぼうという動きさえあった。結局、大切な
組織を守り拡大するには、権力の中にいて影響力を持つべきだということになったのだろう。しかし、
政権への参加を重視する余り、政策での公明党らしさが次々と色あせてきたのではないか。(『朝日新聞ニュース速報』H15.11.11)
2003.12
・イラク復興支援特別措置法に基づく
イラクへの自衛隊派遣を容認(閣議決定)
●
「平和」を立党の原点とする公明党は、これを良しとするのだろうか。首相をたしなめ、イラク政策を見直すよう声をあげるべきではないのか。例えば、派遣を当面見送り、イラク人への主権の移譲やイラク国内の安定化の様子を見ながら自衛隊を活用する時期を探ることも選択肢としてはあり得るだろう。神崎代表が
憲法9条の堅持を言う公明党だからこそ、そうした現実的な主張にも説得力が増すのではないか。(『朝日新聞ニュース速報』H15.12.5)
●連立与党が政策を調整し合うのは当然だ。しかし、組織が弱体化している自民党は「公明票依存症」が強まっている。「平和と福祉」が2大看板だった公明党は福祉政策実現に力を入れる一方で、
自衛隊のイラク派遣や多国籍軍参加は次々と容認した。双方に
政治的な打算が目立ち始めている。(中略)
公明党も当初掲げていた「自民党に対するチェック機能」という役割は薄らぎ、連立を離脱する考えはないようだ。こうした両党の現状維持志向が、選挙制度を含む
参院の抜本改革を阻む一因ともなっていないだろうか。(『毎日新聞』社説H16.6.19)
2006.9
・8年間も公明党の代表をつとめてきた神崎武法が、月末の党大会で引退
●公明党は結党以来、「反自民」の一翼を担ってきたが、神崎氏が代表になった翌年の99年、自民党との連立に大きくかじを切った。(中略)
創価学会をめぐるこの党の不可解さは、神崎時代にもぬぐい去ることはできなかった。
神崎氏は選挙CMで「そうはイカンザキ」と大見えを切った。断固とした姿勢を印象づけるキャッチコピーとしては上出来だったが、この7年、選挙以外でその叫びが聞けなかったのは残念だ。(
『朝日新聞』社説H18.9.19)
2009.8.30 総選挙
・民主党が過半数の議席を獲得して政権奪取。
自公連立政権が崩壊した。
・公明党は前回比で比例2減の21、8小選挙区は全敗。結党以来最低の議席数で歴史的敗北となりました。東京12区の太田昭宏代表や大阪16区の北側一雄幹事長がそろって落選するなど「党存亡の危機」となっています。(『しんぶん赤旗』H21.9.1)