創価学会破折
新・邪難粉砕

 最近、学会員と法華講員との対論において、驚くべき邪難を述べる学会員(いずれも男子部)が出はじめているという。
 なんと彼らは、本門戒壇の大御本尊を後世の偽作と決めつけ、『二箇相承』・『日興跡条々事』を悉(ことごと)く偽書と断定している、というのである。
 しかも、この見解は、学会職員らが書き込みをするインターネット上のサイトに公然と述べられ、これを、他の学会員も学会本部も黙認しているのだ。
 こうした流れからして、平成3年以降、学会葬の執行・観念文の改変・ニセ形木本尊の流布・五座三座の廃止―等と、次第に異流義化を露(あら)わにしてきた学会の、今後の方向が垣間見えるかのようだ(もし学会が「そんなことは絶対にない」と言うのであれば、そのように断言すればよろしい)。
 とはいえ、こうした学会員による邪難は、ことさら驚くに値(あたい)しない。何故なら、その大旨は、かつて他門流の似非(エセ)学者共が本宗に投げかけてきた疑難と軌(き)を一にするものであり、当然のことながら、本宗の歴代御先師や先達によって、ほとんどが粉砕されているからである。
 そうした破折済みの邪難を、今初めて現われた真実義であるかのように見せかけて、素知らぬ顔で持ち出してくる学会員の、なんと狡猾(こうかつ)で、愚かなことか。
 こうした悪らつな学会員の邪心を破り、また騙(だま)されている人々の迷妄を晴らすべく、今回よりQ&Aの形で破折を掲載していくことにしたい。

(『慧妙』H17.2.16)




血脈相承の尊厳について/『慧妙』H26.1.16

"偏頗な証拠主義"を嗤う/<法蔵>H22.1.30

宮田幸一の宗祖本仏義否定の邪説を破す/『慧妙』H29.2.1ほか

「創価学会仏」なる邪義妄説を破す/『慧妙』H28.12.1ほか

宮田幸一の「全ての本尊に功徳」説を破す/『慧妙』H28.10.1ほか

創大教授・宮田幸一の本尊義を破す/『慧妙』H28.3.1ほか

教学部顧問の爆弾発言に会員も唖然!/『慧妙』H28.1.16

学会、ついに大御本尊との訣別を表明!/『慧妙』H26.11.16

邪説の歴史/『慧妙』H20.2.16

金原某が大御本尊冒涜(ぼうとく)の悪書を発刊/『慧妙』H19.9.1

本部職員が明言した学会の邪義!/『慧妙』H18.7.16

再び大御本尊を掲げた学会の本音!?/『慧妙』H17.10.16

池田創価、ついに「日蓮本仏義」も放棄!?/『慧妙』H18.2.1

見よ!ここまで進んだ学会男子部の邪教化/『慧妙』H17.3.16
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二箇相承への疑難破折
御遷化記録(六老僧は平等ではない)

写本、書名や内容の引用等

別付嘱の存在示す証拠

「本門寺」の記述について

「本門寺」の正文書/第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝』

御書の真偽問題

かつての自説に逆行して恥じない学会/『慧妙』H17.7.16

「二箇相承は偽書、六老全てに相承」?/『慧妙』H17.6.1
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大御本尊への疑難破折
「出世の本懐」「一閻浮提第一の本尊」「本門寺の戒壇」

大聖人滅後の記録

大御本尊自体に対する疑難破折

大御本尊の授与書きへの疑難/『慧妙』H24.5.16ほか

「板の大御本尊は後世の造立」なる疑難を破す/『慧妙』H24.7.16ほか

「大御本尊も物質だから、いつか無くなる」?(そんな物が出世の本懐であるはずがない?)/『慧妙』H24.9.16

「大御本尊を造立する資力はなかった」との暴論を破す/『慧妙』H25.5.16・『慧妙』H25.6.1


『日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実』破折/『慧妙』H19.10.1ほか

戒壇の大御本尊の御相貌に関する邪難について/漆畑正善 御尊師『大日蓮』H20.4

史実を歪めた邪難について/森岡雄樹 御尊師『大日蓮』H20.5

金原による文献乱用の欺瞞を糾す/長谷川信達 御尊師『大日蓮』H20.6・H20.7

「出世の本懐」に関する金原の欺瞞を糾す/阿部正教 御尊師『大日蓮』H20.8


戸田城聖指導/『戸田城聖全集』第2巻

大御本尊誹謗の現証/『日蓮正宗創価学会批判を破す』S37.4.2ほか

「戒壇本尊と熱原法難は無縁」!?/『慧妙』H17.6.16

「出世の本懐は人の振舞」について/<法蔵>H18.5.7

筆跡鑑定の問題点
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『日興跡条々事』への疑難破折
『日興跡条々事』への疑難破折
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両巻血脈への疑難破折
両巻血脈に対する疑難を破す


"偏頗な証拠主義"を嗤う

(<法蔵>H22.1.30)

【仏法伝持の大前提】

・仏法の法体・法門は付嘱によって師から弟子へ正しく伝わる。<別付嘱の存在示す証拠>参照)

・法門の枢要部分は口伝によって伝わる。<「御書根本(口伝否定)」破折>参照)

・文書化された正依を正しく解釈できるのは、正しい付嘱を受けた方である。(同上)

・正依の真偽も付嘱による。(同上)

・以上が正統仏教全体に通じる大原則である。このことを無視して、「真筆がない」「(当事者本人の)記録がない」等と言って、自分たちに都合の悪い事柄を簡単に否定しようとすることは、仏法の道理に反する。

開祖の直筆の教え以外は、すべて排除するというのであれば、現存する世界的宗教のすべてが否定されるであろう。

・親筆がない場合でも写本や伝承、遺品、史跡等から総合的に考えて、最も可能性の高い事柄を通説として扱うのが、歴史学の常道である。決定的な証拠(当事者の直筆など)がないことをもって、全てを否定してしまう態度は、非科学的であり、道理に反する。



【執拗に「客観的証拠」を要求する学会員(?)】
<板本尊>
―以下の難癖はすべて"大聖人直筆の証文"を要求しているようである(笑)―

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・あら嬉しや、 『本門戒壇の大御本尊』を証明する弘安二年の客観的証拠をだして証明してくれますか?

・弘安二年十月十二日又はその前後一ヶ月でもよい。日蓮正宗大石寺において「本門戒壇の大御本尊」と呼称する板本尊の「全相貌」を、身延山で日蓮大聖人が認めたという証明。

・弘安二年十月十二日又はその前後一ヶ月でもよい。板本尊造立に日蓮大聖人が関わったという証明。日蓮大聖人が本尊を木製にせよと指示された証拠、彫刻中の日法に指南をされた証拠等々、何でもよい、一つでも出すべし。

・その板本尊を日蓮大聖人が「出世の本懐」と意義付けた直接の証拠。

・その板本尊を広宣流布の時に「本門寺の戒壇に安置する御本尊」と、日蓮大聖人自身が意義付けた証拠。

・日蓮大聖人が「文永、建治、弘安期の御本尊には、年代に応じて差異がある」と指南した証拠。後代の人物の説法ではない。日蓮大聖人自身の教示を。

・日蓮大聖人が「曼荼羅本尊には様々な意義付けというものがあり、自身が図顕した中でも特定の一つの曼荼羅本尊だけが特別である」とした証拠。

・日蓮大聖人が「本尊に関する権能を唯授一人で血脈相承」をした証拠。

・日蓮大聖人がその板本尊以外の本尊を「一機一縁」と意義付けた、称した証拠。
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大聖人直筆の御指南が残っていなければ(かつて存在したのもダメ)すべて否定するというのであれば、池田学会が配布して拝んでいる印刷の掛け軸(「本尊」と呼んでいる)についても、"日蓮大聖人が印刷の本尊を拝んでもよい、とした証拠"がなければ、謗法ということになってしまうのではないか(笑)


<付嘱>
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・細井日達氏に教えた人は前代の貫主であり、要は日蓮・日興の上代から口伝で「大聖人在世の身延山の御事」が伝わっているのだ、とでもいいますか。
ならば、日蓮・日興と大石寺の歴代貫主が口伝で間違いなく続いている、という客観的な証拠を示しましょう。(笑)

・大石寺貫主の唯授一人血脈相承による仏法継承・令法久住の根拠である「大聖人が日興上人に授与されたという二箇相承書」は、いつ、どこで、誰が言い出したのか?
・その書が日蓮真筆である証拠は?
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・学会では"エレベーター相承"と言って、戸田会長がエレベーターの中で、池田に後継指名をしたとしているが、それを裏付ける戸田自身の文書はあるのか。
・仏法上の指導的立場に関して、後継を付嘱ではなく弟子(それも在家)が話し合いで決めてもよいという証拠または、前例があるのか。



【学会員(?)でありながら公式見解と違う矛盾】
―これを放置・黙認する学会本部は、公式見解を信じていないということか!?―
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『本門戒壇の大御本尊』『唯授一人金口嫡々血脈相承』は、まったく日蓮大聖人のあずかり知らない後世の捏造でしょ、と言うのが私の結論です。
投稿者:買春法主 シアトル日顕 投稿日:2010年 1月23日
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 本門戒壇の大御本尊について偽物扱いしている意見は、大御本尊が本物である可能性を完全に排除していません。
 本物であるという説明も成り立つものです。偽物であるという決定的な証拠があるわけでもなく、単なる憶測に過ぎません。(中略)
 何より破門後の池田先生の御指導と現在までの学会の公式見解に反しています。
投稿者:Takeda 投稿日:2010年 1月23日



【学問的ではない学会員(?)の難癖】
―ただし、信仰は学問にあらず―
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●戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。・・・・・そして本堂で(戒壇の)御本尊に信者が参拝したのであり、大聖人ご在世当時、身延へ参拝しにきたのは信者だけですから、だれでも直接に(戒壇の)御本尊を拝めたのです(日達上人S40.2.16/第1回正本堂建設委員会)
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この日達氏の説法を文化庁等の関係機関、立正大学の教授クラスに直ちに持参し、読んでもらうべし。その結果「富士大石寺所蔵・弘安二年十月十二日造立とされる本門戒壇の大御本尊は、日蓮の真筆、板に謹刻が本物である」という結論が出たのなら、創価学会有志側もそれなりに相手にしてくれることであろう。「それが真に学問をする者の学究態度であろう。」というものだ、わかるか。
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●私がこの論文で試みようとするのは、現代の日本における代表的な日本文化論である鈴木大拙、和辻哲郎の2人の日本文化論の吟味である。(中略)
 鈴木は、禅と日本美術との関係を論ずるに当って、このような前提から出発する。禅の優位がすでに前提されているのだが、私はこの前提そのものが疑問であると思う。(中略)平安仏教が貴族仏教であるというのは、明治以後通説になった宗派的独断にすぎない。(梅原猛著「日本文化論への批判的考察」『展望』S41.8/『美と宗教の発見』筑摩書房)

●まだフランスでは日本の仏教についての認識は浅く、しかも創価学会が日本の学界を通じて、あるいは直接に研究者にアプローチしています。市民団体がこのように偏向のない研究の努力をしていますが、溢れんばかりの創価学会側からの情報に比べて他の情報はあまりにも貧弱なのです。単に日蓮正宗に限らず日蓮宗、法華経を重視する日本仏教全体の由々しき問題であり、日本の関係者の一層の努力を期待します。(国際ジャーナリスト・広岡祐児『フォーラム21』H16.1.1~2.1)

●昨年春、創価大学の教授が日蓮本仏論を否定する論文を執筆(『慧妙』H18.2.1)

●自然科学では実験・観察・シミュレーションなどによって仮説の正しさが証明され定説となることがあるが、その証明が困難であった場合や、証明が困難である場合が多い人文科学や社会科学では、仮説のうち多数派が支持する説が通説と呼ばれる。(「通説」/フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』H22.1.28)
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 学会員はよく「Aである客観的証拠は」と聞くが「Aでないという証拠」はあるのか。仮に「Aであるという証拠」が不完全であっても「Aでないという証拠」がなければ、少しでも可能性の高い方を通説とするのが歴史の常識ではないか。
 しかし、その通説も、専門家の多数派によって決められるのである。その専門家の中に「立正大学の教授クラス」や洗脳された創価構成員がいれば、中立公正な判断ができない可能性が否定できない。

 学会員は、日蓮正宗の教義や事跡について自分たちに都合の悪い事柄については、懐疑論者のごとく必要以上に客観的証拠を要求する。そして、少しでも証拠が不確かな場合は、あっさりと否定しようとする。このような態度は決して「学問をする者の学究態度」とはいえない。
 御書の真偽判定につき、真筆の存在に固執するのはその例である。確かに真筆の存在する御書については明らかに大聖人の御指南であり、彼らの言う「客観的証拠」であろう。しかし、道理に照らして真筆が消失しても正しく写本が伝承される可能性は存在するのであり、その可能性を否定する態度が学術的、科学的、合理的といえないのは明らかである。

 ただし、以上は第三者的立場からみた"客観的""学問的"評価にすぎない。血脈相伝に基づく大聖人の御指南を信じ、大御本尊の功徳を身に染みて実証している人々の価値観、判断基準とは異なって当然である。
 証拠、証拠という者は、学問的証拠がなくては信仰もしないのか?そのような姿勢では創価学会の信仰も成り立たないはずである(学問的に確定されなければ信仰もできないようでは、いつまでたっても、いかなる信仰の道にも入ることができないであろう)。
 学会の教義的矛盾は山ほどあるのに、それには目をつむり、宗門側の教義や事跡には「学問的」「科学的」という名の下に、徹底した懐疑主義の立場から批判する。これこそ、大いなる自己矛盾であり、彼らの主張が牽強付会の為にする行為(難癖)である"客観的証拠"である。

●反問するに日興上人が身延山にましまして何を御本尊と遊ばされてをつたか。(中略)上人の御本尊が大曼荼羅にあらせられたことは否定し得ないところであらう。日円返条に「聖人の御本尊の入せ給ひて候御厨子(ずし)に仏造つて入れ進候はんと申して候しは云々」といふを見れば此れは誰れもが認めるところであらう。然らばその御本尊を御離山に際し奉持遊ばされたとするに何んの不可があるであらうか。日興上人へ給はる御本尊を日興上人が御供申し上げるは理の当然である(日興上人へ給はるといふも此は大導師としての上人へ給はつたのである)。若しこの事実を認めるならば御板なると紙幅なるとは問題ではないが、御板でないといふならばその証拠を示すべきである。若しその証拠がなければ大石寺の伝ふる通りに信従してはどうか。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1320頁~)


●歴史学における実証主義者は厳密な史料批判を行い、客観的な事実を確定し、事実のみに基づいた歴史記述を行うものである。彼らは歴史を特定の立場に都合よく利用する思想を排し、科学的・客観的に歴史を把握しようという立場から主張する。一方、実証主義を標榜する研究者が、しばしば瑣末な史料批判にこだわり、大局的な歴史認識を見失う場合もある(Wikipedia「実証主義」H22.10.8)
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学会員の宗門批判は実証主義と呼べる程立派なものでは決して無いが、実証主義にも欠点、落とし穴はある。


●日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず(『三三蔵祈雨事』全集1468頁)
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仏法評価の原理として「道理」「証文」「現証」を挙げられている。しかし、大聖人の釈迦仏教に対する文証の扱い方は、必ずしも科学的な実証主義に合致するものではない。

●一念三千の法門は、但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。竜樹・天親知てしかもいまだひろいいださず、但我が天台智者のみこれをいだけり。(『開目抄』全集189頁)
●此の経は相伝に有らざれば知り難し(『一代聖教大意』御書92、全集398頁)
●設ひ法華・涅槃に於て誤有るも誤無きも、四十余年の諸経を捨てて法華・涅槃に随ふべし。(『開目抄』全集45頁)
●法華経に勝れておはする御経ありと申す人出来候はゞ、思し食すべし。此れは相似の経文を見たがへて申すか。又、人の私に我と経文をつくりて事を仏説によせて候か。智慧おろかなる者弁へずして、仏説と号するなんどと思し食すべし。慧能が壇経、善導が観念法門経、天竺・震旦・日本国に私に経を説きをける邪師其の数多し。其の外、私に経文を作り、経文に私の言を加へなんどせる人々是れ多し。(『善無畏三蔵抄』全集881頁)
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「依法不依人」の前提となるべき経文自体に誤りがあるのです。それを正しく取捨選択し、解釈できるのは何故か。それは釈尊からの付嘱によるのです。現に天台・伝教など、付嘱を受けたとされる方以外に、経文を正しく解釈された方はいないのです。

●総じて月支より漢土に経論をわたす人、旧訳新訳に一百八十六人なり。羅什三蔵一人を除てはいづれの人人も誤らざるはなし。其の中に不空三蔵は殊に誤多き上、誑惑の心顕なり。疑て云く、何をもて知るぞや、羅什三蔵より外の人人はあやまりなりとは。汝が禅宗・念仏・真言等の七宗を破るのみならず、漢土日本にわたる一切の訳者を用ひざるかいかん。答て云く、此の事は余が第一の秘事なり。委細には向つて問うべし(『撰時抄』全集268頁)
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誤りの多い経文の中より、正しい経文を選べるのは「余が第一の秘事」と仰せです。これこそ、釈尊よりの付嘱相伝に基づくものではないでしょうか。


 口伝を元に作成された仏典では筆跡鑑定による真偽判定はできない。その上、多くの誤伝、誤訳、捏造のある中で、正しい仏法の教えのみを選択し、釈尊の内証(悟り)に到達することは、どのようにしてできるのか?
 科学的な実証主義的手法を用いて、膨大な個々の史料を評価し結びつけ積み上げ、思想体系を構築するといった帰納的方法では、釈尊の内証に到達できないことは、これまでの仏教界の実態が証明しているといってよい。
 釈尊の内証と天台・伝教の内証と大聖人の内証が一体であればこそ、天台・伝教や大聖人は、釈尊の教えであるか否かを正しく判別し、経文を正しく解釈できるのである。これは演繹的方法である。

 御書に対する真偽判定と解釈も同様である。御書に思想性がなければ筆跡鑑定や、写本の古さといった外形的客観的特徴のみによって判別するしかない。
 しかし、御書は大聖人の内証を縦横無尽に展開された膨大な思想の宝庫である。御書述作の背景には一貫した思想体系が最初から存在するが、方便を排除した随自意の法門が直接的に述べられていることは、あまりないといってよい。四悉檀を駆使し、方便を交えて認(したた)められた膨大な御書を真偽判定し矛盾なく正しく解釈するためには、仏法の枢要部分を知悉していなければならないのである。
 仮に、付嘱を受けた方が真書として認定された御書の中に偽書が混入していたとしても、その偽書の内容は正当な仏法の教えであり、その偽書を信じて実践した者が仏道を踏み外すことはないのであるから、衆生を成仏に導くという大聖人の目的には適(かな)っていることであろう。
 とはいえ、偽書は偽書として正しく見極めるに越したことはないのであるから、少しでも正しい真偽判定を行なうためには、付嘱に基づく思想内容の正当性判断とともに、科学的な実証主義的史料評価を参考にすることも必要ではあろう。

●大体、偉大な人間の思想の中核を把握するには、ただ帰納的な推理の力だけでは何うも難しい。是非とも傑れた直観の力が要るやうに思はれる。(小林静雄著『世阿弥』)
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戦争で亡くなった小林静雄氏が、昭和18年に出版した著書『世阿弥』の中に書いたこの言葉は、20年たった今日、(中略)そのまま通用するように思われる。(梅原猛著『美と宗教の発見』)
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「直観の力」とは主観的で普遍的ではない。それに対して相伝は、著者本人の言葉であるから確実である。

[小林静雄](こばやし しずお、1909年9月2日~1945年1月24日)=日本の能楽研究者。研究のみならず能評、さらに新作能の創作など才気にあふれた活動で将来を嘱望されたが、第2次世界大戦で戦死した。(中略)
 その能楽史研究は多くの資料を用いた実証的なものであると同時に、新見と才気に満ちたもので、短い生涯の間に次々と優れた研究を発表した。特に『謡曲作者の研究』に収められた能作者についての研究は、作者研究の基礎をなすものとして高く評価されている。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』H22.12.4)

[梅原猛](うめはら たけし、1925年3月20日~)=日本の哲学者。京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。京都市名誉市民。文化勲章受章者。梅原日本学と呼ばれる独自の世界を開拓し、またスーパー歌舞伎を創作するなど、幅広い活動を行っている。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』H22.12.4)


●そして、大聖人様は一代聖教を鑑(かんが)みられた上から、結局、法華経が最も勝れた教えであり、その法華経の肝心とは南無妙法蓮華経の題目であるとおっしゃっているのです。ところが他宗では、たいてい一代諸経のなかで法華経も説かれ、さらにその法華経を要約したものが南無妙法蓮華経だと思っているのです。しかし、違うのです。南無妙法蓮華経が根本なのです。この南無妙法蓮華経から法華経へ、さらに法華経から一代諸経へと開かれていくのであります。それを逆に見るから、みんなおかしくなってしまうのです。
 だから、大聖人様の教え、南無妙法蓮華経が正しいと思って御書を見ていきなさい。また、仏教書を読んでいきなさい。そうすれば、一目瞭然に解るのです。どんなに頭のいい人でも、一代聖教を調べ、法華経を調べて、根本のところまでたどり着くには、何回も生まれ変わらなければできるものではありません。大聖人様は仏様だから、その根本のところをきちんとおっしゃっているのです。
 色々な法、教えがありますが、これらをずっとたどっていっても、南無妙法蓮華経にはたどり着かないのです。要するに、南無妙法蓮華経が根本であり、ここからみんな出ているのであって、大聖人様は、その上から末法に本門の本尊と戒壇と題目という三大秘法を整足して明かされているのであります。(第68世日如上人『大白法』R2.2.1b)





邪説の歴史(仮題)

―悪書は正義には勝てず―
(京都府 富士の清流『慧妙』H20.2.16)

 昨年、創価学会員・金原明彦(48歳)の名前で出版された悪書『日蓮と本尊伝承-大石寺戒壇板本尊の真実』は、畏(おそ)れ多くも戒壇の大御本尊について「弘安3年5月9日に顕わされた日禅授与の御本尊を模して造立されたもので、日蓮の造立ではあり得ない。筆者は戒壇板本尊の造立を日時か日影の時代によるものと推定する」等と大謗法の邪説を書いている。
 その目的は、創価学会が破門されて15年以上も経過した今日、なお創価学会員に残る戒壇の大御本尊への信仰を断ち切るために書かれたのが、この金原悪書なのである。
 それにしても、創価学会・池田大作が卑怯(ひきょう)なのは、仮に自説に確信があるのであれば正々堂々と創価学会名、または池田大作名で出版すればよいのに、部下に書かせて表向きは無関係を装っていることである(もし、そうでないというなら、サッサと大謗法の金原を除名処分にでもすればよいのに、それができないのだから、語るに落ちたというべきであろう)。
 哀れなのは、実名で悪書を書かされている金原明彦や松戸行雄や松岡幹夫らである(憂宗護法同盟とか青年僧侶改革同盟等と名乗っている離脱僧もそうである)。
 金原自身、この悪書執筆がそうとう恐かったのか、「けっして本尊批判のための偽作論ではない」とか「大御本尊そのものを批判するものではない」とか言い訳し、「研究過程において幾たびも襲(おそ)いかかってきた逡巡(しゅんじゅん)」等と言って、苦しい心情を吐露(とろ)しているが、命令に従っただけにせよ、悪書執筆という大謗法を犯した果報は、今後、身をもって味わうことになろう。もし金原に一片の良心が残っているのならば、悪書を撤回して懺悔(さんげ)謝罪することである。
 さて、今回の金原悪書のような戒壇の大御本尊否定論は、昔から何度も何度も出ては、破折されて消えていった邪説である。
 古くは身延派の安永弁哲(生存していたら98歳)が1956年に出した『板本尊偽作論』、ジョージ左京(生存していたら86歳、学会→正信会→独立)が書いた『大石寺の正体』等がある。
 このうち、安永は破折されて身延派からも見捨てられ、1度は著作を引っ込めたが、性懲(しょうこ)りもなく約30年後の1989年に正理研究会なる邪教と組んで再刊したものの、『暁鐘』139号「魔説・板本尊偽作論を摧(くじ)く」で粉砕されてしまった。ジョージ左京については、その後、仏教否定論にまで転落してしまった。
 また身延派や国柱会、本門仏立宗らの邪教も、一時期、盛んに偽作論を展開したが、これら邪教に対しては、他ならぬ当時の創価学会教学部が『創価学会批判の妄説を破す』(1955年)をもって粉砕している。金原には、自分たち学会の先輩が書いた当時の正論を、ぜひ読んでほしいものである。
 近年では創価学会が破門され、その混乱に乗じて美濃周人(61歳、学会→法華講→独立)が『家庭内宗教戦争』『謎の日蓮正宗・謎の創価学会』『日蓮正宗・創価学会50の謎』『日蓮正宗・創価学会謎の大暗黒史』『虚構の大教団』(1995年)等の邪説を、出版社を次々と変えて出したが、宗門の高橋粛道御尊師に破折され、その後は沈黙している。
 また、万年救護の御本尊に関する妄説としては、1986年の『大本尊ふたたび出現す』や1991年の高橋麦洲の『日蓮大聖人の正義』、玉井禮一郎の『立正安世論』等があり、いずれも大御本尊とは別の本尊を立てる妄説を主張したが、当時の御法主日顕上人猊下が1991年8月の全国教師会で「万年救護本尊に関する妄説と宗祖大聖人究竟の本尊について」を講義されて完全に粉砕されている(『大日蓮』548号掲載)。
 さらに学会脱会者の取り込みを狙って、1994年に元正信会の久保川法章が『法源寺の基礎教学』、1996年に西山本門寺の企画渉外部長の岡田日産(75歳)が『富士の奔流』、1997年に日蓮本宗系の柳澤宏道(47歳、法華講→日蓮本宗)が『石山本尊の研究』なる大御本尊否定論の悪書をそれぞれ出しているが、内容は過去に何度も破折されたことの焼き直しに過ぎず、注目されることもなく消えていった。
 この他、檀徒をつなぎ止めるために、正信会も血脈否定に止まらず、
 「戒壇の大御本尊とは楠板の大曼荼羅なりという固定解釈が今も大手を振っていないか、楠板は常住不滅なりや」(『継命』1991年3月1日付)
 「正本堂建立の際に、大御本尊のお化粧直しをしたが、漆(うるし)や金箔が精査され楠の状態も調べられた。こうした調査や鑑定を背景として学会の本尊観は変容し、戒壇の大御本尊を否定するならどのような学説が有効かを密(ひそ)かに研究することとなる」(『継命』1999年10月3日付)
 「日目から日郷への相承は十分に立証されよう、しかし日道の場合はどうであろうか」(『興風』22号・2000年3月)
 「大御本尊は……弘安3年5月9日書顕の本尊と酷似しており注意される」(『日興門流上代事典』2000年1月)
等々と次々と大謗法の邪説を展開したが、『慧妙』その他で法華講有志によって破折され、正信会内部からも猪又・山口両氏らが『危うし正信会』で腐敗堕落の実態を告発して分派活動を行なうなど、四分五裂の醜態(しゅうたい)をさらけ出している。
 このように、昔から邪教、異流義など様々な輩(やから)が邪説(戒壇の大御本尊否定論、血脈相承否定論、宗祖本仏否定論)を何度も構えて日蓮正宗を攻撃するものの、いずれも完全に破折され粉砕されてきた。正義にはけっして勝てないのである。
 今後も種々雑多な邪説が出てこようが、我々は必ず粉砕一掃していくであろう。





金原某が大御本尊冒涜(ぼうとく)の悪書を発刊

―学会、いよいよ「本門戒壇の大御本尊」を否定か!?一
―宗門誹謗の裏に隠された狙い―

(『慧妙』H19.9.1編集)

【またぞろ「河邊メモ」】
 8月11日付の『聖教新聞』(第4面)は、「宗祖違背の宗門は衰亡・破滅の一途」との小見出しを付けた対談記事を載(の)せ、その中で、
 「日顕(上人)は恐るべきことに、宗旨の根幹である本門戒壇の大御本尊を、偽物呼ばわりしていたんだ!
などと、御隠尊日顕上人を誹謗(ひぼう)している。
 この堕地獄必定の発言をなした者は、牙城会委員長の原田某であることになっているが、実際のところは、学会としての主張を原田某の名をもってしたものであろう。
 さて、この発言中の"日顕上人が大御本尊を否定した"とかいうのは、例によって、故・河邊慈篤尊師のメモが根拠とされているものである。
 だが、当の河邊慈篤師は、そのメモの内容について
●話の前後を抜いて記録してしまい、あたかも御法主上人猊下が御自らの意見として、「本門戒壇の大御本尊」を偽物と断じたかのごとき内容のメモとなってしまいましたことは、明らかに私の記録ミスであります(河邊慈篤師H11.7.10)
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と、日顕上人が偽物と断じたものなどではないことを、はっきりと証言されているのだ。
 さらにまた、御隠尊日顕上人も、
●いわゆる河邊メモは、客観的な言旨を極めて自己の主観的な形に書き変えた慈篤房の記録ミスである。(中略)学会で発表した、あのメモのような諸件についての主張をしたことは、断じてないのである(御隠尊日顕上人H11.9.18)
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と、御自身が、創価学会のいうような発言はされていない旨、はっきりと否定あそばされている。
 このことは、すでに幾度も繰り返し指摘してきたが、それにも拘(かか)わらず学会側が今に至るまで"河邊メモ"を挙(あ)げて誹謗し続けてきた理由―、それを窺(うかが)わせる出来事が、ここで表面化してきた。



【金原某著『日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実』】
<「本門戒壇の大御本尊」を否定するための布石、試論>
 すなわち、先日、金原明彦という学会員が『日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実』なる書を出版したことが、それである。
 この書の中で金原は、"河邊メモ"を足がかりにして、大石寺の本門戒壇の大御本尊が弘安3年5月御筆の日禅授与の御本尊をもとに、模刻・臨写された御本尊である、との疑難を構えているのである。
 これは、以前、創価大学教授・宮田幸一により「宗祖本仏義」の否定が試みられたのと同様、いずれ創価学会が「本門戒壇の大御本尊」を否定するための布石、試論として発表したもの、といえよう。
 すでに創価学会では、何年も前から、「本門戒壇の大御本尊」を否定するための準備を進めてきていた。それは、勤行の際の観念文や創価学会会則の中から、「本門戒壇の大御本尊」の文書を削除し、「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」などと曖昧(あいまい)な表現に改悪したことだ。
 これは重大な背逆であり、大謗法である。すでに三宝を破壊した池田大作はもとより、池田の率(ひき)いる創価学会に属する末端の学会員も、相応の罰を蒙(こうむ)り、堕地獄へと拍車が掛かるこを哀れむ。


<「本門戒壇の大御本尊」否定の動機>
 それでは、なぜ、創価学会は「本門戒壇の大御本尊」を否定するのであろうか。
 答えは簡単である。「宗祖本仏義」と同様、「本門戒壇の大御本尊」を否定しなくては、日蓮正宗の唯一正当性を否定することができず、その結果、創価学会こそ日蓮大聖人を信仰する正統な教団である、と主張できないからである。
 もう1つには、今でも相当数の学会員が「いつかは総本山へ登山し、本門戒壇の大御本尊にお目通りできる日が来る」と内心思っている。この会員達の「本門戒壇の大御本尊」への渇仰恋慕の想いを断ち切らなければ、揺るぎない創価学会根本思想を確立できないからである。(<『日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実』破折>参照)

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◆きょう12日は、日蓮大聖人が一閻浮提総与(世界の全民衆のため)の大御本尊を御図顕された日である。(中略)こうして、御本仏・日蓮大聖人による「法体の広宣流布」は確立された。(『聖教新聞』社説H17.10.12/<【本館】破邪顕正>WS)

1◆宗祖違背の宗門は衰亡・破滅の一途(見出し)
2◆日顕(上人)は恐るべきことに、宗旨の根幹である本門戒壇の大御本尊を、偽物呼ばわりしていたんだ!(牙城会委員長・原田某『聖教新聞』H19.8.11第4面)

↑矛盾↓

◆大石寺の本門戒壇の大御本尊は、弘安3年5月御筆の日禅授与の御本尊をもとに、模刻・臨写された御本尊である(取意=金原某著『日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実』)
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学会員である金原某は、学会本部の公式見解に反して大御本尊が偽物であるとした。

 一方で「本門戒壇の大御本尊を、偽物呼ばわり」(2◆)することを「宗祖違背」(1◆)と非難し、一方で会員に、大御本尊が偽作であることを"立証"させる。これほどの無節操・自己矛盾があるだろうか。
 金原の著作が学会本部の意向によるものでないのならば、金原の行為は「恐るべき」(2◆)「宗祖違背」(1◆)のはずだから、学会本部は即刻彼を除名すべきであろう。それができないのであれば、学会自身が内心、金原と同じことを考えているということである。
 公式見解と本心が違う学会最高幹部は、会員を欺いていることになる。「宗旨の根幹」(2◆)に関して会員を欺く学会が、大聖人の正統な門下であるはずがない!!(法蔵)





本部職員が明言した学会の邪義!

―本宗とは全くかけ離れた新興邪宗教ぶり―
―「先生は大聖人以上の賢王(けんのう)」「大御本尊は偽物!」―
―その呆れ果てた邪義を粉砕する―

(『慧妙』H18.7.16)

 平成3年に日蓮正宗から破門され、新興邪宗教としての道を走り始めた創価学会では、これまで、「弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊」を「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」とボヤかし、「凡夫本仏論」を吹聴(ふいちょう)して宗祖本仏義を暖昧(あいまい)にするなど、独自路線を構築してきたが、その邪義の内容はいま1つ不明確であった。
 学会本部職員のHは、『聖教新聞』の中で、日蓮正宗に対する誹謗記事等を担当してきた企画部副部長である。そのHが、このほど、法華講員との対論の中で、自らの所信として創価学会の邪義を開陳(かいちん)した。
 その内容たるや、御本仏日蓮大聖人に対する大冒涜(ぼうとく)、本門戒壇の大御本尊の完全否定--等々、あまりにも呆(あき)れ果てたものであった。以下、概要を紹介する。



【「池田は折伏現ずる賢王」だって!?】
―実際は聖僧に怨嫉し誡責(かいしゃく)される愚王―
<御本仏を「認めてあげる」!?>

 まずHは、日蓮大聖人を御本仏と拝することについて、
 「大聖人は主師親でいいよ。認めてあげる」
 「御本仏は大聖人でいい。主師親三徳大聖人でいい」
等と、偉そうに嘯(うそぶ)いた。
 いったい、御本仏を「認めてあげる」とは、何という言い種(ぐさ)なのか!?学会本部職員は仏以上の存在だ、とでも思っているのか、増上慢この上ない発言である。
 さらにHは、御歴代上人の拝し方について、
 「時の御法主が大聖人、それはいいよ、認めるよ」
 「三宝一体でいいよ」
等、従来の学会の主張(またH自身の主張)を大きく変える発言をなしたが、それは、けっしてHが御歴代上人を拝信するようになったのではなく、むしろ、本宗の三宝を根本から否定する意図の上から、「どうせ三宝の全てを否定するのだから、三宝は一体でいい」との意味で言ったものである。そのHの本音が程なく露呈(ろてい)する--。


<Hの邪義"池田賢王論">
 「日蓮正宗が他の日蓮宗と違うのは、日蓮本仏だよね。他では言わないよね。この日蓮本仏は末法だから通用するでしょ。これが正法・像法だったら、釈迦本仏でもいいわけだよね。これと同じことが立宗700年(昭和27年)。昭和27年以降と以前とは違うんですよ。
 「御本仏は大聖人でいい。主師親三徳は大聖人でいい。三宝一体でいいよ。だけど、その大聖人がやらなかった化儀の折伏をやる四菩薩が、在家の賢王となって現われる。それが創価学会だっていうこと。
 「総体の地涌とかいう人(※大聖人のこと)が残した法体を、全世界に弘(ひろ)める時には、在家に四菩薩が現われるでしょ。
 「昭和27年以前なら、歴代法主を大聖人と仰いで歴代法主を大聖人と仰いでやっていけばいいよ。でも、昭和27年以降は大折伏の時代に入ったんだぞ。今広宣流布の時、この時には在家に四菩薩が現われるんだ。そのとおり現われたのが創価学会会長であり、池田会長なんだ。
 「大聖人は本仏となって、僧侶となって1ぺん現われて、弘めるべき法体を顕わして、残した法体を弘める時は在家に四菩薩が現われる、と言われているんだ。大聖人と同格か、それ以上なんだ。
 「大聖人だって、大折伏の時代となったら摂受(しょうじゅ)になるんだから。
 「大聖人より、もっとすごい存在が現われるんだ。
 「弘める人の方が上だ。法体を確立したって、弘めなかったらしょうがない。
 「昭和27年以前は大聖人が上、昭和27年以降は池田先生が上。
 「(池田会長は)大聖人以上の存在なんだ。それは賢王というんだ。
 要するにHの主張は、
 「御本仏、主師親三徳は日蓮大聖人でいい。昭和27年まではそれでいい。でも、立宗700年の昭和27年以降は、大折伏の時代になった。この時は、在家に四菩薩が賢王となって現われる。それが創価学会であり、なかんずく池田会長である。この賢王は法を弘めるのだから、法体を確立されただけの御本仏より上の存在である」
というものである。
 そして、これを指してHは、
 「池田本仏論ではなく、池田賢王論
と言っている。


<池田は「賢王」などでない!!>
 だが、Hのいう"賢王"とは、御本仏日蓮大聖人よりも上の存在、というのだから、これこそ、日蓮大聖人を超える新たな仏を立てるものであり、まごうことなき池田本仏論の別名である。
 そもそも、Hが立論の根拠としているのは、『観心本尊抄』の
 「当(まさ)に知るべし、此(こ)の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王ど成って愚王(ぐおう)を誡責(かいしゃく)し、摂受(しようじゅ)を行ずる時は僧と成って正法を弘持(ぐじ)す」(御書661頁)
との御金言であるが、この御文につき、第26世日寛上人は
 「今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て仍(なお)摂受と名づくるなり。或は復(また)兼ねて順縁広布の時を判ずるか」(文段284頁)
と釈せられ、この賢王が出現するのは、三大秘法が国中に広宣流布する暁(順縁広布の時)のことである、と示されている。
 この広宣流布の暁の相については、『三大秘法抄』にも
 「有徳王(うとくおう)・覚徳比丘(かくとくびく)の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時」(御書1595頁)
との仰せがある。ここにいう、有徳王のごとき強信の王が、前の「賢王」のことであるのは、申すまでもあるまい。
 そして、この在家の賢王とは、有徳王が身命を賭(と)して覚徳比丘を守ったように、正法を持(たも)つ僧を命がけで守る、護法の士なのである。
 間違っても、僧侶不要論を主張したり、守るべき僧を自ら憎悪し攻撃するような「賢王」が、あろうはずはない。
 またHは、この「賢王」を金輪聖王(こんりんじょうおう)の出現と考えているとのことだが、いったい公の席におけるスピーチで、
 「お世辞を使っておいた方が、広布基金がたくさん取れる」(平成5年1月27日・アメリカSGI&関西合同総会)
 「ハワイ!マハロー!バカヤロー!バッハロー!」(同右)
 「もっといいのは、キンマン、いや、キン○○コだよ!」(平成5年7月7日・第66回本部幹部会)
などと吐(は)き散らす、池田大作のような愚劣で下卑(げび)た男が、もとより金輪聖王の境界などである訳がないのである。
 では、池田大作とは何者なのか、といえば、まさに、聖僧を怨嫉(おんしつ)して誡責(かいしゃく)される側の「愚王」であろう。それ以外にはありえない。



【大御本尊否定の疑難は破折済み】
―法華講員の破折で醜態(しゅうたい)晒(さら)したH―
<日禅授与本尊の疑難>

 次に、Hは、本門戒壇の大御本尊を完全否定するに及んだ。その根拠としているのは、例の"日禅授与の御本尊"の件である。
 Hは、3枚の写真(①北山本門寺蔵の日禅授与御本尊と思われる写真 ②明治の撮影といわれる不鮮明な戒壇大御本尊の写真 ③平成11年頃撮影と称する戒壇大御本尊のカラー写真)を示しながら、
 「戒壇の大御本尊の主題と日禅授与の主題は、原寸大でピッタリ重なるんだ
 「大聖人の数百ある御本尊のどれ1つとして、原寸大で重なるということはない。なのに、戒壇の大御本尊の主題と日禅授与の主題は、原寸大でピッタリ重なる
等々と、見てきたような妄説を繰り返した。
 だが、これは、すでに日顕上人が、
 「よく拝すれば、中尊の7字の寸法と、全体からの御位置においても、明らかに異なりが存し、また御署名・御花押の御文字及びその大きさや御位置、各十界尊形の位置等にも、歴然たる相異が存する」(平成11年9月18日)
と破されているように、「主題は原寸大でピッツタリ重な」ったりしていないのである。
 これでは、Hとはハッタリの頭文字か、といわれても仕方がない。



【『跡条々事』の読み方】
 さらにHは、戒壇の大御本尊が古来から大石寺に伝わる、との根拠を否定しようとして『日興跡条々事』の
 「日興が身に宛(あ)て給(たま)はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す」(御書1883頁)
との御文を、
 「読み方が違う。弘安2年にたまわった御本尊、弘安2年にもらったんだ!
などと曲げて解釈した。
 だが、それは昔から幾度も破折されてきた、他門流からの疑難の焼き直しである。
 すなわち、Hの言うような意味だとしたら、この御文は、
 「日興が弘安二年に身に宛て給はる」か、もしくは
 「弘安二年に日興が身に宛て給はる」
でなくてはならない。しかるに、
 「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」
と仰せられるかぎり、「弘安二年」は「大御本尊」に懸(か)かる語であって、賜(たま)わった時期を示すものではない。これは日本語の常識である。
 Hの名誉のために言っておけば、大学院まで出ているHが、この程度の国文法が解(わか)らないのは、何も頭が悪いわけではない。
 日蓮正宗を誹謗するためなら、文法も、道理も、好きなように曲げてかまわない、との歪(ゆが)んだ心がなせる業(わざ)―、要するにHは、頭ではなく根性が悪いのである。



【口から泡吹いて沈没!】
 かくて、根源の大御本尊まで否定したHは、「では何を広宣流布するのか?」との問いに、
 「一閻浮提総与の大御本尊。日寛上人の御本尊も、全て、一閻浮提総与の大御本尊の写しでしょ
 「(その一閻浮提総与の大御本尊は)宇宙にも存在しているし、我々の心にも存在している
 「久遠の法といってもいい
と力説するに至った。
 そこで法華講員から「宇宙に遍満(へんまん)していて我々の心にも存在しているなら、もとより広める必要もないではないか!」
と弾呵(だんか)されて絶句、支離滅裂になったHは、
 「カトリックでも広めたら立派
 「カトリックでも仏法の知恵を挟(はさ)んでいるから良い
 「それがわからなければ世界宗教たりえない
等の邪義を、口から蟹(かに)のように泡を吹きながら喚(わめ)いて、沈没してしまった。
 ともあれ、この日のHの発言内容は重大である。本部職員たるHが、学会員ギャラリーの前で、これを言い切ったのだから、これは今後、学会の公論となっていく可能性が高い。
 もし、Hが、この発言の責任を問われないとすれば、この内容を学会本部も是認した、と言ってよいだろう。
 学会のここまでの狂いぶりを、いまだ理解できていない一般学会員に、我々はいよいよ慈悲の大折伏を加えていかねばならない。





再び大御本尊を掲げた学会の本音!?

―クルクル変わる学会の大御本尊観―
(『慧妙』H17.10.16)

 10月13日付の『聖教新聞』の1面に、学会本部で12日、「日蓮大聖人御入滅の日」ならびに「弘安2年10月12日の大御本尊御図顕の日」を記念する勤行法要が行なわれた旨(むね)の報道がなされている。
 じつは、創価学会は昨年も、10月13日に勤行法要を行なっているが、それは「日蓮大聖人御入滅の日」を記念しての勤行法要であって、「大御本尊御図顕の日」を記念する行事は何ら行なわれた形跡がない。
 それもそのはず、学会では平成4年に改変した観念文においても、平成14年に改訂した会則においても、「弘安2年10月12日」「本門戒壇の大御本尊」という文言を削(けず)り取って、「一閻浮提総与の大御本尊」という抽象的な表現に改竄(かいざん)、以来、日蓮正宗大石寺(および弘安2年の本門戒壇大御本尊)からの、完全な分離独立路線を走っていたからである。
 この先に待つものは、池田大作による根本の本尊図顕であろう、と思われるなか、どうして、また、ここで、本門戒壇の大御本尊にこだわる方向へと舵(かじ)を戻したのか、果たして池田は、自ら本尊を顕(あら)わすことを断念したのか―。
 いずれにしても、ここでわざわざ「弘安2年10月12日に御図顕の大御本尊」、すなわち、大石寺奉安堂に御安置奉る本門戒壇の大御本尊の御図顕を記念する勤行法要を行なったということは、創価学会は再び、大石寺の本門戒壇の大御本尊が信仰の根本であることを口先だけとはいえ、認めたということだ。
 このことは、学会が、相変わらず、日蓮正宗大石寺に利用価値を感じており(※昭和49年の学会内部文書には「本山・正宗は、党や大学あるいは民音以上に、学会にとっては存在価値のある外郭〈がいかく〉だ」とある)、あわよくば、再び近い将来に関係修復ができないか、との期待を抱いている表われ、とも考えられる。
 なるほど、政治の世界においては、反自民を掲げて新進党を作ったかと思えば、その直後に水面下で自公連立の道を探り、それが功を奏してきた、謀略教団創価学会である。
 これまで、「大石寺にペンペン草をはやせ」と猛攻撃をし、「本門戒壇、板本尊、何だ!ただの物です」などと誹謗(ひぼう)してきておきながら、何らかのキッカケで、再び戒壇の大御本尊を護持する大石寺と連立(まさに学会の考えは、信伏随従ではなく連立)する、という妄想を描(えが)いたとしても不思議はない。
 だが、これは権謀(けんぼう)渦巻く政治の世界ではない。成仏・不成仏のかかった、厳正なる信仰の次元の話なのだ。
 したがって、そのような謀略的な思いが学会側にあったとしても、それが実現するようなことは絶対にない、大謗法の創価学会が許されることなどありえない、と断言しておこう。
 それにしても、この学会の方向転換で、2階に上ってはしごを外された格好になるのが、インターネット上や、法華講員との対論の場で、唯授一人の血脈相承はおろか、本門戒壇の大御本尊まで、「ニセモノだ!」と公言して憚(はばか)らない学会男子部の連中である。
 本紙連載の「学会員の新たな疑難を破す」では、そうした邪義の一々を粉砕してきたが、それでもまだ懲(こ)りずに、否、さらに露骨(ろこつ)に、本門戒壇の大御本尊を否定してきた彼らは、いったいこれからどうするのだろうか。
 ともあれ、この、右へ揺れ、左へ揺れる、学会の有り様こそ、大聖人が仰せの
 「諸宗は本尊にまどえり」(御書554頁)
の現証であれば、我々はさらに、迷走する邪教創価学会を徹底的に折伏していこうではないか。


$「大御本尊御図顕の日」

―「広宣流布の信心」を心新たに―
(『聖教新聞』社説H17.10.12/<【本館】破邪顕正>WS)

 きょう12日は、日蓮大聖人が一閻浮提総与(世界の全民衆のため)の大御本尊を御図顕された日である。
 大聖人は、御本尊を「法華弘通のはたじるし」(御書全集1243頁)として、したためられたと仰せである。御図顕された弘安2年(1279年)当時、駿河(静岡県中央部)地方では日興上人によって未曾有の弘教が進み、広布を阻もうとする三障四魔が吹き荒れていた。

<末法の民衆の救済のため>
 正義の仏法の流布を恐れた邪悪な宗教的権威が、幕府の政治的権力と結託し、大聖人門下に対して弾圧を加えてきた。これが歴史に残る「熱原の法難」であった。
いかなる迫害があろうとも、妙法を持つ民衆は一歩も退くことなく、不惜身命の実践を貫いた。この庶民の不屈の魂に、大聖人は時を感じられ、10月12日に大御本尊を御図顕されたのである。
 こうして、御本仏・日蓮大聖人による「法体の広宣流布」は確立された。大聖人の出世の本懐は、末法の民衆の救済のためにあったことを忘れてはならない。
そして今、世界190ヵ国・地域に地涌の菩薩の連帯を広げ、「化儀の広宣流布(※1)」を成し遂げているのが創価学会である。
 「日蓮と同意」(同1360頁)という大聖人と同じ決意に立って、現実に広宣流布の実践を進めている団体はほかにない。あの堕落法主の日顕に至っては、あろうことか「戒旦の御本尊のは偽物である」(河邊慈篤のメモ)とまで言い放った(※2)
 さらには、信徒を屈服させる道具として御本尊を利用し、創価学会の破門という僧俗和合を破壊する暴挙に出たのである。そこには民衆救済などみじんもない。これらの大謗法を重ねる偽法主に、「信心の血脈」が通っていないことは明々白々である。
 池田名誉会長は、『御書の世界-人間主義の宗教を語る』第2巻の「御本尊」の章で、次のように述べている。

<信心の血脈のない日顕宗>
 「御本尊の功力は無限大です。汲めども汲めども尽きることがない。皆がこれまで受けてきた功徳でもまだ比較することのできない、無量無辺の広大な功徳がある。
 その最大の功徳が、宿命の転換です。
 その功徳を引き出すのが、創価学会の信心です。」
 学会とともに歩む人生こそ、無常の幸福である。「広宣流布の信心」をわが心にたぎらせて、勝利の一生を飾っていきたい。
------------------------------------------------------------
※1 学会では「法体の広宣流布」「化儀の広宣流布」という語を用いるが、そのような仏法用語はない。
 まず、「法体の折伏」とは、御本仏日蓮大聖人が、諸宗の教義・本尊を打ち破られ、一切衆生を救う久遠元初の根本法の法体として、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされたことをいう。
 そして、「化儀の折伏」とは、邪宗謗法を破折して、日蓮大聖人が顕わされた三大秘法の正法正義を広く世に流布し、一人でも多くの人々にこの正法の信仰を受持させていくことをいう。
 我々が行なうのは、まさに、この化儀の折伏に他ならない。

※2 通称「河邊メモ」については、既に宗門によって破折済み(<「大御本尊偽作発言」破折>参照)


$きょう「日蓮大聖人御入滅の日」

―秋谷会長中心に学会本部で勤行法要―
―大仏法の師弟の魂は学会に脈動―

(『聖教新聞』H17.10.13/<【本館】破邪顕正>WS)

 きょう10月13日は、日蓮大聖人御入滅の日である。
 学会本部で12日、弘安5年(1282年)の「日蓮大聖人御入滅の日」ならびに弘安2年(1279年)10月12日の「大御本尊御図顕の日」を記念する勤行法要が行われた。
 これには秋谷会長、青木理事長をはじめ各部の代表が出席。厳粛に勤行・唱題、焼香し末法の御本仏である日蓮大聖人の民衆救済の大闘争の御生涯を偲び、広宣流布への誓いを新たにした。
 席上、会長は「仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり」(御書全集1189頁)を拝読。
 大聖人の出世の本懐であられる大御本尊の御図顕は、熱原の法難が契機であり、それは日興上人を中心とする弟子の弘教の闘争によって起きたものであったと述べ、「師弟」こそ大聖人の魂であると強調。
 創価学会は、この「師弟の道」を貫いた3代会長の精神を継承し、あらゆる障魔を打ち破りながら、厳然と広宣流布の勝利の実証を示していきたいと語った。





池田創価、ついに「日蓮本仏義」も放棄!?(仮題)

―創価大教授の邪義を黙認―
(『慧妙』H18.2.1)

 法華経の『寿量品』には「現有滅不滅」「常住此説法」等と説かれ、御本仏の御化導は三世常住であることが説かれている。
 しかるに、創価の血脈相承否定は、大聖人の仏法に何百年もの断絶があった、と言っているのであるから、御本仏日蓮大聖人の御化導は三世常住ではない、と言っていることとなり、それは御本仏に対する大冒涜(ぼうとく)である。
 つまり、創価が血脈を否定し、「大聖人直結」等と言って、最終的に主張しようとしているのは、大聖人が御本仏であることの否定と、池田本仏ということなのであろう。
 現に、昨年春、創価大学の教授日蓮本仏論を否定する論文を執筆しており、創価はそれを非難しないのであるから、黙認した、という以外ない。

[画像]:「日蓮本仏義」を否定した創価大教授の論文





見よ!ここまで進んだ学会男子部の邪教化

―「仏=妙法受持の人、法=題目、僧=本弟子6人」―
―日興上人への二箇相承も否定―
―本音を得々と語る―
―東京・北区男子部幹部・荻島クン―

(『慧妙』H17.3.16)

 創価学会員の迷妄も、ついに極みに達したようだ。
 去る2月12日、法華講員との対論に臨(のぞ)んだ創価学会男子部幹部・荻島某(東京・北区)は、席上、従来の創価学会が依(よ)り処としてきた三宝すら破壊する新たな邪義を、得々として並べ立てた。
 これが、本紙の指摘してきた、今後の学会が向かう新たな邪義の方向性と思われるが、その謗法(ほうぼう)ぶりには、多くの学会員すら呆然(あぜん)とするのではないか。
 以下に、荻島クンの妄論を公開するので、その支離滅裂さを、とくとご覧あれ。


【従来の学会三宝も否定】
―大聖人と凡夫を同列視―
〈法華講員〉創価学会の三宝は?
〈荻島〉仏は大聖人、法は南無妙法蓮華経の題目僧は日興上人のみ
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 荻島ら学会男子部にはすでに、本門戒壇の大御本尊を「法宝」と尊信する「信」はない。
 彼らは、日蓮宗(身延)と同じく「法は南無妙法蓮華経の題目」と立てて平然としているのだが、これが
 「久遠元初の法宝とは、即ち是れ本門の大本尊是れなり」(『六巻抄』197頁)
 「根源とは何ぞ、謂(い)わく、本門戒壇の本尊是れなり」(『六巻抄』68頁)
等の日寛上人御教示にも外れる邪義であることは言うまでもない。

〈法華講員〉『人間革命』に"会長への帰命"が書かれているが、創価学会の仏は池田名誉会長なのでは?
〈荻島〉(前に「仏は大聖人」と述べたことを翻(ひるがえ)して)仏とは一切衆生のことであり、妙法受持の人のことでしょ?妙法受持者であれば帰命してもいいいんだよ、御書にそのように書いてある。
 「帰命とは南無妙法蓮華経是なり」(『御義口伝』)
 「法華経の題目を以て本尊とすべし」(『本尊問答抄』)
なんだから、妙法受持者には帰命してもいいんだよ。特定して池田先生とするからおかしくなる。
 大聖人は「帰命」という言葉を使って、南無妙法蓮華経に帰命するって言ってんだよ、南無妙法蓮華経の当体は何かといったら、法華経の題目をもって本尊とすべしと言ってんだよ。で、
 「妙法の二字は一切衆生の色心の二法なり」(『御講聞書』)
と言ってんだから、一切衆生であり、妙法受持の人のことじゃん。

〈法華講員〉では、妙法受持者である我々(法華講員)に対しても「帰命」するのか?
〈荻島〉それはそうだよ、妙法受持の人ならいいよ。
〈法華講員〉「帰命と申すは我が命を仏に奉ると申すことなり」(『白米一俵御書』御書1544頁)
とあるように帰命とは仏にするもの。
〈荻島〉それは大石寺的考えでしょう。これは我が命を仏と奉る、ということでしょ?我々に仏界がある、その仏界に(南無)奉るんでしょ?いいじゃない。
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 つまり荻島は、仏に命を捧(ささ)げる、という御文を、我が命を仏として祀(まつ)り上げる、と曲解して読んでいるのだ。
 これでは、迷いの衆生を直ちに仏とする大増上慢であり、禅宗の即心是仏と変わらない。
 また、仏を信奉する仏道修行者ではなく、仏を押し倒そうとする天魔の所為(しょい)である。

〈法華講員〉昔は学会も、自分の命を仏に帰一させる、という解釈をしていたではないか。
〈荻島〉学会を破門にして、チャラにしたんだから、学会が昔、何を言ってようが関係ないでしょ。

〈法華講員〉一切衆生が仏だと言ってもそれは、総じて一切衆生には仏性がある、という意味であり、別して、信仰する対象とする仏は日蓮大聖人のみだ。
〈荻島〉総別の、という文証はあるの?
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 大聖人御一人が御本仏であることまで否定しようとする荻島。嗚呼(ああ)、これでみごとに身延派日蓮宗(正式には単称・日蓮宗だが、荻島クンにも解りやすい呼称にしておいた)の檀徒だ。
 いや、こんなことを言ったら、「そんな慢心者は要(い)らない!」と身延からもクレームが付くかもしれない。


【二箇相承まで完全否定す!】
―学会はこれを放置するか!?―
 ともかく荻島クンは、"題目を唱えている者は全て仏であり、大聖人との差別もない"と言い張り、自らの増上慢に気付かない。
 その上、今度は、大聖人から日興上人への二箇相承まで否定し始めるのである。

〈荻島〉御真筆出せよ。鑑定書出しな!
〈荻島〉二箇相承の御真筆出せよ。鑑定書出しな!
〈荻島〉『身延相承書』で「大導師」としておきながら、弘安5年10月8日に定められた本弟子6人について、『宗祖御遷化(せんげ)記録』には「弟子六人の事不次第」としてチャラにしてんだよ。6人が平等であると
 なのに弘安5年10月13日の『池上相承書』では再び日興上人を久遠寺の別当と定めている。
 つまひ、1度決めていながら元に戻して、また日興上人のみに血脈相承がなされるのか、そんなにコロコロ変わんのか?

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 冒頭に書いたように荻島は、創価学会の「僧宝」は日興上人である、と明言した。
 その日興上人への血脈相承を否定してしまっては、日興上人を「僧宝」と立てる根拠を、自ら破壊するようなものだ。学会男子部の"脳乱"も、ここに極まれり、である。

〈法華講員〉大聖人御入滅後、日興上人が身延山の別当としていらっしゃることに、他の五老は皆従っているじゃないですか。それはどう説明するんですか?それは、五老僧も、大聖人が日興上人に付属されたことを認めていたからでしょう?
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荻島にはこの道理も理解できない。

 なお、念のために申し添えておくが、「本弟子六人」とは、弘安5年10月8日に大聖人がお定めになった制度であり、これを日興上人が『宗祖御遷化記録』の中に記したもの。
 そこに「弟子六人の事不次第」とあるのは、同記録の六老僧の記載の順序が入門順になっていることに対して、それが信仰上の序列ではないことを御示しになったものである。
 それをわざわざ持ち出して、二箇相承を否定にかかるとは、荻島ら学会男子部は、すでに日興上人への「信」も失っている、と言えよう。
 かくして、荻島クンの立てる三宝とは、「仏とは全ての妙法受持の人、法は南無妙法蓮華経の題目、僧は本弟子六人」であることが明らかになった。
 これで本当にいいのか、学会教学部よ。このまま何の訂正もなく、荻島らを放置しておく、ということは、学会として、この支離滅裂(しりめつれつ)な邪義が今後の創価学会の教義となっていくのを容認している、否、この邪義が時間と共に会員の間に浸透していくのを待っている、と見なされても仕方あるまい。
 語るに落ちる、とはこのことだが、このような、日蓮正宗の仏法を破壊するための新たな邪義の発生を黙過することはできない。
 本紙では今後、こうした邪義を、連載中の「学会員の新たな疑難を破す」で取り上げ、残らず破折していくことを宣言するものである。

[画像]:「二箇相承の御真筆を出せ!」と息巻く荻島某







二箇相承への疑難破折

二箇相承とは、御本仏日蓮大聖人が、御入滅に先立って、御自身の仏法のすべてを日興上人にお譲(ゆず)りあそばされたことを示す、2通の譲り状のことをいいます。 すなわち、『日蓮一期(いちご)弘法付嘱書(身延相承書)』と『身延山付嘱書(池上相承書)』のことです。

日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てられるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つベきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬午九月 日
                                       日蓮 花押
                              血脈の次第 日蓮日興

(御書1675頁)

この『一期弘法付嘱書』により、大聖人が、日興上人ただ御1人に御自身の仏法の一切を付嘱され、日興上人を広宣流布の総指揮を執(と)られる本門弘通の大導師と固く決定あそばされたことが、明確に拝せられます。


釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。
弘安五年壬午十月十三日
                                      武州池上
                                       日蓮 花押

(御書1675頁)

この『身延山付嘱書』では、日興上人への付嘱を再び確認され、日興上人を身延山久遠寺の第2代・別当(住職)すなわち一宗の統率者であると明記され、日興上人に従わない者は謗法の者である、と門下に対して厳しく誡(いまし)められています。

 この二箇相承を拝すれば、御本仏日蓮大聖人の正統真実の仏法が、すべて日興上人ただ御1人に付嘱されたことは明らかであります。
 しかるに、大聖人の門流と名乗りながらも、二箇相承を認めてしまえば自らの立場が成り立たないために、日興上人への付嘱を否定せんとする輩(やから)がいます。(『慧妙』H17.6.1)


写本、書名や内容の引用等


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日道上人の御伝草案に二箇相承のことがないから、左様な相承はなかった(高田聖泉著『興尊雪寃録』/『日淳上人全集』1448頁)
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 若し此の見方が正当として許されるならば、御伝の中に六老定置のことがないし、日興上人の日目上人への御譲状のこともないから、皆それ等のことは無かつたといふ見方が許されなければならない。此れをもつて御伝の中にないから無かつたといふ議論は、問題にならない錯覚であることが理解できるであらう。
 御伝草案は、その書の目的に於て弘通上の御事蹟を列挙せらるるのであつて、御相承のことは重視せられておらないのは御文によつて明らかである。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1449頁)

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日興上人・目師・道氏(※ママ=師)の文献に二箇相承の記述が無いのは、なぜなのでしょうか?なぜ最初の文献が北山の文献なのでしょうか?上代に記述が無く、150年以上も経って出てくるものとは??
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●彼の三師(※日尊日順日代)等之れを見聞すといへども別に指示すべき事なき故に黙するのみ、例せば富永仲基の『出定後語』に、『大論』一百巻の中に一も大般涅槃経を引用せざるを以って此の経は釈迦滅後七八百年竜樹滅後の偽経と決せり、然れども前代の諸師及び宗祖等曽て之を以って偽とせず殊に信用し給へり、是れ他なし『大論』弘博といへども此の経を引くに用なきが故なり、況(いわん)や彼の三師等が僅(わずか)に五紙七紙一巻二巻の筆語中に是れを指示することなしとて何ぞ之れを偽と決せん(第52世日霑上人「両山問答」/『富士宗学要集』第7巻100頁)
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これは大御本尊に関する記述であるが、二箇相承にもあてはまる。

●よく三文学者の中には習い損なつて一にも文書二にも文書といつて文書がなければ何でも否定する輩がある。(中略)『池上相承書』の傍証が日興上人の御記録等にないとして不審するのは第一に文書の見方が悪いのと、第二に日興上人の御人格を無視して考へるからである。
 先づ第二からいへば日興上人の御人格は非常に御謹厳であらせられた、而して大聖人を拝し奉ること他のいづれの御弟子方よりも御尊崇遊ばされてをつたことは諸文書によつて拝察申上げることができる。然るに拘らず大聖人の御遺物配分の時御遺言に背いて註経を昭師が、立像を朗師が取られたのを黙々として御記録遊ばされて少しも制止なされなかつたのは何故であらうか。後年に於てこそ朗師が立像を奪ひ取つたと仰せられておるが、その時には異議を申されず、且(かつ)御記録なされてをる。而して又、『美作房御返事』に「所詮縦(たと)ひ地頭不法に候者眤(なじむ)て候なん争(いかで)か御墓をば捨て進(まい)らせ候はんとこそ覚候」と仰せられしめしは何故であらうか。此等の御文を通じて日興上人の御心中を推察申上げるに上人には大聖人御入滅後の教団の円満なる統制と発展とを念願せらるゝより他になかつたことが明らかである。かかる御心中の上人は、兄弟子は兄弟子として尊重し、弟弟子は弟弟子として慈愛し給ひ、殊に教田に於ける信徒の系統については意を用ひさせられて、一糸も乱れのない様に御計ひなされるにあつたのである。かやうなる御態度を持し給つた上人がどうして御付嘱を振り廻されやうか。本来、証文を振り廻すのは問題が起つた時のことで、円満なる時持ち出すべきものでない。若し円満なる時、或は円満にしやうとする時に持ち出せば、その結果はどうであるか、直に神経をとがらせるより他に役立たないのは人情の自然ではないか。また、証文の存在を周囲の者が知れば知る程、口に出していふ必要はない、従つて傍証は残らぬ筈である。
 此れ等の事情を胸にをいて御付嘱状を推察申上げなければ、その真相に接することはできない。見よ、文献の上に傍証が現はれたのは各流の間に溝が深くなつて正統問題が論議され出してきた後にあることも此れ等の消息に合致するものである。(中略)
 しかし乍(なが)ら証文といふものは時と場合によつては持ち出さなければならないし、持出して最も効果のある場合もある。それが日興上人に於かれては『美作(みまさか)房御返事』(<別付嘱の存在示す証拠>2●)や『波木梨実長に与ふる書』(<別付嘱の存在示す証拠>3●)であつて、そのうちに御示しなされたのである。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1293頁~)

★日興上人の文献中に二箇相承の書名、または内容をそのまま引用した例は見当たらない。しかし、二箇相承の存在を前提とした表現としか考えられない文書や事跡は明らかに存在する(<別付嘱の存在示す証拠><本門寺>参照)。

<上代に写本または引用がない理由>
・写本を残す理由は、その内容を広く伝え、後世に残すことであろう。しかし、同書は日興上人個人に付嘱された重書である上に、短文であるから内容全体を口伝することも容易である。口伝や真筆披瀝によって僧俗公然の事実であれば、わざわざ写本を残す必要もなかった。
・二箇相承は公然の事実であったからこそ、五老僧も日興上人の院主たる地位については否定できなかった(しかし、感情と教義解釈の面で信服できなかった)。
・日興上人も、二箇相承が公然の事実であり、現に久遠寺の院主につかれている以上、一々文証(二箇相承)を持出す必要がなかった。
・二箇相承は公然の事実であるにも拘らず、五老僧は日興上人から離反した。だからこそ日興上人も、二箇相承を持出して自身の正統性を証明するのではなく、個々の教義解釈や化儀を挙げて五老僧を破折され、御自分のみが正しく大聖人の法を伝持されていることを示された(『五人所破抄』等)。
・時代が下り、他門において二箇相承の存在を知らない者が増え、尚かつ各門流間において正統性が争われるようになると写本が流布しだしたといえよう。


【『本尊抄得意抄副書』】
1302(乾元1=聖滅21年)3.8 日頂、下総真間弘法寺を日揚に付し重須に来たり日興に帰依(『富士年表』)

●興上人一期ノ弘法ノ付囑ヲ受ケ、日蓮日興ト次第シテ、日興ハ無邊行再來トシテ末法本門ノ教主日蓮が本意之法門直授タリ(日頂『本尊抄得意抄副書』徳治3〈1308〉9.28=聖滅27/『宗全』1-44/wt)

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信用できません。この書は「【編者云】この書原本佐渡世尊寺の所蔵に係る、未だ真偽を断ずべからず。」となっており、証明するに至りません。
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「未だ真偽を断ずべからず」とは、真書である可能性も存在するということであろう。他門では"六老僧は平等"などと主張しているようであるが、その平等であるはずの日頂師が、最後の最後になって日興上人に帰依した事実は、重大である。このことは、日頂師自身、法門に対する信解は拙(つた)なかったにせよ、日興上人が大聖人の付弟であるという客観的事実は無視できなかったということを示しているのではないか。客観的事実とは「興上人一期ノ弘法ノ付囑ヲ受ケ」たということに他ならない。



【『日順阿闍梨血脈』『摧邪立正抄』】
1336(延元1=聖滅55年)9.15 三位日順、甲斐下山にて『日順阿闍梨血脈』を書す(『富士年表』)
1351(正平6=聖滅70年)3. 三位日順、『摧邪立正抄』を著す(『富士年表』)

●次に日興上人は是(これ)日蓮聖人の付処(ふしょ)本門所伝の導師也。禀承(ぼんじょう)五人に超え紹継(しょうけい)章安に並ぶ(日順『日順阿闍梨血脈』/『富士宗学要集』第2巻22頁)
●大聖忝くも真筆に載する本尊・日興上人に授くる遺札には白蓮阿闍梨と云云(日順『摧邪立正抄』/『富士宗学要集』第2巻50頁)
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初めの『血脈』の方だけではすぐに判らなくても、『摧邪抄』を合わせ見れば、両書が二箇の相承書を指していることに気がつきます。ちなみに『摧邪抄』にある「白蓮阿闍梨」とは日興上人の阿闍梨号ですが、宗祖御在世中にこの号を見るのは、二箇の相承書を除けば、御入滅間近の10月8日、六老僧選定の時しかありません(『宗祖御遷化記録』御書1863頁)。したがって「日興上人に授くる遺札」とは、二箇の相承書を指していることは明らかです。(『妙教』H16.2/<宗教に関心を持とう>WS)

●抑も此の血脈は高祖聖人・弘安五年十月十一日の御記文・唯授一人の一人は日興上人にして御座候、本地甚深の奥義・末法利益の根源なり(日順著『本因妙抄口決』/『富士宗学要集』第2巻84頁)
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此の『本因妙抄口決』は日順上人が他の請ひによつて説述されたもので、いふ迄もなく大聖人の『本因妙抄』を敷衍(ふえん)し給ひしものである。而して上掲の御文は本抄末尾に「日蓮嫡々座主伝法の書塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり」(『本因妙抄』全集877頁)との御文につき唯授一人とは日興上人であらせられると、念釈をされたのである。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1449頁)
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「弘安五年十月十一日」とは『本因妙抄』御述作の日付である。二箇相承も『本因妙抄』も日興上人への別付嘱という点では共通する。二箇相承を否定したい輩は、同時にまた『本因妙抄』をも否定しなければならない。尚、第59世日亨上人によれば「日蓮嫡々……」は、所謂後加文である。しかし、既に日順師の時代から存在していたことは明白。すなわち日興上人御自身による加筆であったと思われる。



【『五人所破抄見聞』】
1380(康暦2=聖滅99年)6.4 富士妙蓮寺日眼、『五人所破抄見聞』を著す(『富士年表』)

日蓮聖人之御付嘱弘安五年九月十二日、同十月十三日の御入滅の時の御判形分明也(富士妙蓮寺日眼『五人所破抄見聞』/『富士宗学要集』第4巻8頁)
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第59世日亨上人は『富士日興上人詳伝下』(62頁)において『五人所破抄見聞』を"正史料"と認定されている。

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信用できません。現代の『身延相承書』をごらんください。「九月 日」と日付が入っていません。しかし、日眼の『五人所破抄見聞』に「九月十二日」とある。しかも日教書写本は「九月十三日」となっている。どれが本当でしょうか?
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複数存在する写本間で、内容が多少異なることはままあることである。このことをもって、真書の存在自体を否定するのは、むしろ不合理というべきであろう。

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さらにいえば日眼の『五人所破抄見聞』は内容が書かれていません。したがって客観的な証拠にはなりません。
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「客観的」とはどういうことか?"日興上人に付嘱があったと思う"等の記述であれば著者の主観であるが。「弘安五年九月十二日、同十月十三日」の「日蓮聖人之御付嘱」とは、まさに二箇相承を指していることは明白である。大聖人滅後99年、日興上人滅後48年の記述である。



【日広の写本】
1468(応仁2=聖滅187年)10.13 住本寺(後の要法寺)10代日広、重須寺(後の本門寺)に詣(もう)で、二箇の相承書を謹写(『妙教』)

●富士重須本門寺に於いて御正筆を以て書し奉り畢(おわん)ぬ、応仁二年十月十三日(日広写本の奥書/『妙教』H16.2)
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なおこの写本をさらに大遠坊日是(享保7年寂)が転写したものが、今日まで大石寺に所蔵されています。(『妙教』H16.2/<宗教に関心を持とう>WS)

●私に云く先師日広上人富士に詣ずるの時此くの如く直(ただち)に拝書し給う也(原漢文・要法寺『夏期講習録』第2巻8頁・『本宗史綱』上巻236頁/『富士門流の歴史 重須篇』189頁)
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 上記日広写本の奥書の後に、同山(要法寺)18代日在(弘治元〈1555〉年寂)が、自山先師の行蹟であることを明記しています。
 なおこの写本をもとに、さらに大遠坊日是(享保7年寂)により転写されたものが、今日まで大石寺に所蔵されてきました。(『諸記録』4部末尾/『富士門流の歴史 重須篇』189頁)



【『類聚翰集私』『六人立義破立抄私記』】
1488(長享2=聖滅207年)6.10 左京日教、『類聚翰集私』を著す(『富士年表』)
1489(延徳1=聖滅208年)11.4 左京日教、『六人立義破立抄私記』に全文引用(『富士宗学要集』第4巻44頁)

●釈尊五十余年の説教、白蓮日興に之を付属す身延山久遠寺の別当たるべし、背く在家出出家共の輩は非法の衆たるべきなり・弘安五年九月十三日、日蓮在御判、血脈次第日蓮日興、甲斐の国波木井郷・山中に於いて之を図す。(左京日教『類聚翰集私』/『富士宗学要集』第2巻314頁)

●日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり、時を待つべきのみ事の戒法とは是れなり、中んづく我が門弟等此の状を守るべきなり、弘安五年十月十三日  日蓮在御判。(左京日教『類聚翰集私』/『富士宗学要集』第2巻314頁~)

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現在日蓮正宗でいう『身延相承』と『池上相承』が(※日付が)反対になっている。これだけでもアウト!です。
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年紀の指し違えや付記の誤りがあるのは、つねに正本を拝し得ざる仁ではやむをえぬことであろう。(第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝(上)』聖教文庫202頁)

 原本の写本は複数存在している。現存する写本間で日付を初め、内容が多少相違しているのは転写の問題であって、原本が真書か偽書かを決める証明とはならない。
 言い換えれば、「原本が真書であれば、いくら転写を重ねても誤りなどない」とは言えないということである。

これと同様、逆転した日付となっているものに、他門本成寺日現の『五人所破抄斥』がある。しかし以上の例は正本を見るのが不可能な状況における誤りと思われ、これ等の写本が存在しても、日辰所持本(※最も信頼できるとされる)の正確さを揺るがすものではありません。(『妙教』H16.2/<宗教に関心を持とう>WS)


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堀日亨氏(ママ)はこの左京日教『六人立義破立抄私記』を
1●依要山日悦写本更以他本加校雖然各本誤脱多々自雖加校訂不成完璧後賢宜加厳訂矣(第59世日亨上人著『富士宗学要集』第4巻46頁)
と書いており、文献的には使い物にならないものであり、これも二箇相承の正筆が存在したという証明になりませんね。
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「不成完璧」とは校正の問題であって、左京日教師が引用した文献が偽書だということではない。そもそも日亨上人は二箇相承が真書であるという御立場である(だからこそ御書全集にも掲載されたのである)。その日亨上人の御記述をネタにして、同上人の見識を否定しようというのだから、まったく"脳乱"しているとしかいいようがない。


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日教の記述は、日蓮教学の大家である身延・行学院日朝の「元祖化導記」の記述と違っています。同書によると、大聖人は九月十三日には身延におらず、くれじに滞在しているのです。
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1478年・文明10年(聖滅197年)(大石寺・日有の時代) 元祖化導記 身延山・行学院日朝
◆二十五、武州池上のこと
 或る記に云く、弘安五年壬午九月八日午の刻身延の沢を出御有って、其の日は下山兵庫四郎の所に一宿、九日大井庄司入道、十日曾祢の次郎、十一日黒駒、十二日河口、十三日くれじ、十四日竹下、十五日関下、十六日平塚、十七日瀬野、十八日の午の剋に武蔵の国荏原郡千束郷池上村に着き了んぬ
~御本に云く、文明十年(1478年)戊戌十月十三日これを書しおわりぬ。 日朝在判
元祖化導記下巻 寛文六年版
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北山にて「二箇相承書」を偽作したものの、後に行学院日朝の「元祖化導記」を知るところとなり、手直しをした、というところでしょうか。
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<『元祖化導記』の信憑性>
 同書は文明10(1478)年の作とされるもので実に聖滅197年のことである。当然、作者の日朝自身が見聞した内容ではない。では、何を根拠に記述したかといえば「或る記」と述べるのみで出所を明確にしていない。従って、何時作成されたのかも分からない。
 一方『類聚翰集私』『六人立義破立抄私記』の当該記述の原本である二箇相承書の存在自体については、富士妙蓮寺日眼師が『五人所破抄見聞』において「日蓮聖人之御付嘱弘安五年九月十二日、同十月十三日の御入滅の時の御判形分明也」と明言している(聖滅99年)。さらに日興上人の弟子・日順師も日興上人への付嘱を明言し(聖滅55年)、さらに「白蓮阿闍梨」と記された文書の存在に言及している(聖滅70年)。つまり、日興上人への付嘱状が存在したことは動かしようのない事実である。
 仮に、日教師が原本(オリジナル=敢えて真筆とは言わない)どおりに記述(書写)していたとしても、史料の信憑性の低さによって『元祖化導記』を否定することも可能である。ただし『波木井殿御報』(全集1376頁)によれば大聖人は、9月19日には池上に御到着されている。単純に考えて9月13日に身延を出発されたとしても9月19日に池上に到着することは不可能ではない。しかも聖滅99年の日眼師の記述によれば9月12日ということであるから、日教師または原本(写本)の誤写と考えれば尚更日程上、余裕がうまれる。
 尚、宗門では『元祖化導記』同様、大聖人が身延を発たれた日を9月8日としている。これは日教師の二箇相承書に対する記述を採用していないことと、身延から池上までの旅行記録に関して『元祖化導記』以外に史料がないからであろう。

<「甲斐の国波木井郷・山中に於いて之を図す」>
 「図す」とはどういう意味であろう。文書の作成に「図す」とは言わない。諸仏の像や曼荼羅(まんだら)などの図様を描き示したものを図像というから、曼荼羅など、ある特別な意味を持たせて文字(列)を配置した場合に使用したとも考えられる。しかしながら、二箇相承書は単なる文書であるから「図す」とは不自然である。もし、原本を写した者がこの文言を書いたとすれば、原本の文字とその配置にまでこだわって書写したという意図の表れとして「図す」という表現が成り立つのではないか。そういえば書写には臨写というのがあって、それは「正本(原本)を横に置いて、行数・字配り・字形に至るまで忠実に模写(もしゃ)すること」(『妙教』H16.2/<宗教に関心を持とう>WS)だそうである。この場合には「図す」という表現もあり得るかも知れない。しかし、書写は書写でも以下の理由によって原本(真筆)の書写とは考えにくい。
 同じ人物(日叶=日教=にっきょう)が書いた『富士立義記』を要山日在が添削前後補接したものが『百五十箇条』であるが(山口範道御尊師『日蓮正宗史の基礎的研究』/<toyoda.tv>WSによる)、この『百五十箇条』では当該部分は「甲斐国波木井山中に於て之も写す」となっている。しかも、10月13日付にはある「日蓮御判」の文字が9月13日付にはない。このことから考えて、「甲斐の国波木井郷・山中に‥」の文言は写本を書き写した者が書いたと考えられる。

[図像(ずぞう)]=①諸仏の像や曼荼羅(まんだら)などの図様を描き示したもの。多く白描で描かれるところから白描図像ともいう。②何らかの主題・象徴を担う画像。キリスト教におけるイコンなど。(『大辞泉』)

以上のごとく「甲斐の国波木井郷・山中に‥」は書写した者の加筆と考えられる。とすれば、従来『日蓮一期弘法付属書』を『身延相承書』とも称しているが、同書の内容を見る限り、述作場所を特定することはできない。であれば、仮に「九月十三日」の記述が原本(真筆)にあり、さらに『元祖化導記』の「十三日くれじ」が真実であったとしても両者に矛盾はないことになる(その場合『身延相承書』はくれじで書かれたことになる)。

<『類聚翰集私』『六人立義破立抄私記』を用いない理由>
●依要山日悦写本更以他本加校雖然各本誤脱多々自雖加校訂不成完璧後賢宜加厳訂矣(第59世日亨上人著『富士宗学要集』第4巻46頁)
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 日亨上人は『六人立義破立抄私記』について、複数の写本をもとに校訂したけれども写本自体が「誤脱多々」であり「不成完璧」と仰せである。二箇相承書の記述については『類聚翰集私』も『六人立義破立抄私記』と同様であるが、日亨上人は当該記述(二箇相承書)を採用されていない。つまり、日教師の二箇相承書に関する記述は信憑性が低い(誤写ということで二箇相承書自体の信憑性ではない!)、というのが日亨上人の御判断である。
 『類聚翰集私』と『六人立義破立抄私記』は作成年こそ古いが、二箇相承書の真筆を直接拝して書写したものではない。口伝または写本を書き写したものである。そうであれば、写本または口伝を重ねるうちに、誤伝、欠落、添加等のあることは十分考えられることである。
 これに対して真筆を直接書写(臨写)したとされる日辰所持本と、『本光国師日記』の記述(真筆を徳川幕府が筆写し、その写本を記録)はまったく同じであり、真筆を正しく書写している可能性が高いといえる。当然、それらには「(九月)十三日」という日付は入っていない



【『五人所破抄斥』】
1514(永正11=聖滅233年) 越後本成寺日現、『五人所破抄斥』に全文引用(『宗全』7-181/山口範道御尊師『日蓮正宗史の基礎的研究』/<toyoda.tv>WS)



【修理太夫判物】
1515(永正12=聖滅234年)6.26 今川氏親、二箇相承を見る

●日蓮聖人より的々相承並に本門寺の寺号の証文等何も支証明鏡の上は領掌相違無き者なり、仍て状件の如し。
 永正十二乙亥年六月廿六日
  修理太夫在り判
  本門寺日国上人
(『富士宗学要集』第8巻152頁)
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今川氏親寺号等の判物、祖滅二百卅四年、本門寺公称に就いて国主の判定の如き説あり如何か、正本北山に在り。(第59世日亨上人著『富士宗学要集』第8巻152頁)
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古老曰く昔は本門寺の寺号に付き残り四ヶ寺より種々の障(さわ)りを申し、公儀に訴える事之れ有り。其の砌は西山などは本門寺と名乗る事は思いも寄らざる事なり。之に依て今川家双方の諍論を聞食(きこしめ)し重須の証文二箇之相承並に寺号之証文等を御覧成られ、いかにも本門寺と名乗るべき旨証文を給る(石川元寧『諸記録』21部443=天和2〈1682〉年頃重須本門寺で古記録を筆写/『富士門流の歴史 重須篇』)
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この時、重須の所伝(近世の記)では、二箇の相承書と本門寺棟札を出したところ、奉行所の判断が下され、永正12(1515)年6月26日付けで、重須の本門寺公称を許可する証文が出されたとしています。(『富士門流の歴史 重須篇』)



【『申状見聞』】
1545(天文14=聖滅264年)4.7 保田日我、『申状見聞』を著す(『富士年表』)

●天奏の時本門寺日要と名乗り玉ふ其の故は当家の惣寺号也何の所も本門の寺なるべし、爰を以て名乗り給ふ也、別して(※?)云ふ時は久遠本門両寺一寺也、身延池上両けの相承是れ也(日我『申状見聞』/『富士宗学要集』第4巻81頁)

●久遠寺は本尊堂、身延相承是れ也、本門寺は御影堂、池上相承是れ也、流布の日の戒壇は本門寺、血脈の法主は久遠寺たるべし、其の故は血脈両箇の相承たる化儀本因の巻物、又高祖より三大秘法の頂戴日目上人、直授相承之れを思ふ可し誰か是れを諍ふ可けん哉(日我『申状見聞』/『富士宗学要集』第4巻112頁)



【『百五十箇条』】
1480(文明12=聖滅199年) 京住本寺本是院日叶(にっきょう)、『百五十ケ条』を著す(『富士年表』)
1547(天文16=聖滅266年) 要山日在、『富士立義記』(日叶作)を添削前後補接『百五十箇条』として二箇相承全文引用(山口範道御尊師『日蓮正宗史の基礎的研究』/<toyoda.tv>WS)

●日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付属す本門弘通の大導師為るべきなり、国主此の法を立てられば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ・事の戒法と謂ふは是なり、中ん就く我門弟等此状を守るべきなり。弘安五年壬午九月十三日、血脈の次第・日蓮・日興、甲斐国波木井山中に於て之も写す。(日叶『百五十箇条』/『富士宗学要集』第2巻182頁)
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大聖人の御判が記されていない。しかも「甲斐国波木井山中に於て之も写す」とは、文言どおりに解釈すれば、大聖人ではなく、書写した方の添加と考えられる。

●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当為るべし、背く在家出家共の輩は非法の衆為るべきなり。弘安五年壬午十月十三日  日蓮御判。武州池上(日叶『百五十箇条』/『富士宗学要集』第2巻183頁)



【日辰の臨写】
1556(弘治2=聖滅275年)7.7 19代広蔵院日辰、重須を訪れ時の住持8代日耀(にちよう)に二箇の相承書を臨写(りんしゃ)せしめる(現在西山本門寺藏)(『妙教』H16.2/<宗教に関心を持とう>WS)

●我(われ)日誉等と弘治二丙辰(ひのえたつ)年七月五日、駿河国富士郡重須本門寺に至る。同七日己午(つちのとうま)二刻此二ヶ御相承並本門寺額安国論等を拝閲せしめ畢(おわん)ぬ。後証の為住持日耀(にちよう)上人をして之を写さしめ、以て隨身上洛に備える。時に同月廿二日也 弘治三丁巳(ひのとみ)八月朔日(ついたち) 日辰(花押)(日辰臨写本奥書『妙教』H16.2/<宗教に関心を持とう>WS)
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 臨写とは正本(原本)を横に置いて、行数・字配り・字形に至るまで忠実に模写(もしゃ)することです。ゆえに臨写本は、大聖人が日興上人へ授けられた正本の形態をもっとも正確に伝えていると言えます。そして、日辰はこの臨写本をさらに転写した上で開版頒布(はんぷ)したということで(夏期講習録2巻9)、それが宗内で刊行された『法華経の原理一念三千法門』(小笠原慈聞著・昭和25年刊)巻頭に収録されています。
 日亨上人もこの臨写本によって、二箇の相承書御正本(原本)の雰囲気を、いささかなりとも偲(しの)ぶに足りると評されています(『興詳伝』152頁)。(中略)
 これまで、日蓮正宗で編纂(へんさん)されてきた御書全集が数種類ありますが、日亨上人が編纂された従来のもの、現在刊行されている『平成新編御書』、さらに『昭和新定御書』『平成改定御書』の何れについても、二箇の相承書は日辰所持本と大差のない内容であることが判ります。すなわち、成立の由来も明らかな日辰所持本は、かなりの信頼性をもって扱われてきたと言えます。(『妙教』H16.2/<宗教に関心を持とう>WS)

[画像]:二箇の相承書 日辰写本(『富士門流の歴史 重須篇』190頁)



【日主上人の書写】
1573(天正1=聖滅292年) 第14世日主上人、二箇相承書写(大石寺蔵)(山口範道御尊師『日蓮正宗史の基礎的研究』/<toyoda.tv>WS)

[画像]:二箇の相承書 日主上人写本(『富士門流の歴史 重須篇』190頁)



【『北山本門寺宝物目録』】
1579(天正7=聖滅298年) 北山本門寺宝物目録に二箇相承を挙ぐ(山口範道御尊師『日蓮正宗史の基礎的研究』/<toyoda.tv>WS)
1581(天正9=聖滅300年)3.17 重須本門寺二箇相承等の重宝を西山衆徒並びに武田勝頼の臣増山権右衛門等のために奪わる(『富士年表』)
3.28 重須日殿、重宝返還の訴状を武田勝頼に致す(同)

●一、日蓮聖人御直筆漫荼羅大小弐十幅。
 一、日興上人御真筆漫荼羅大小五十幅。
 一、日蓮大上人御真筆本門寺額。
 一、日興上人御真筆日妙聖人へ御遺状二通。
 一、日蓮大上人御真筆一部八巻御経。
 一、日蓮大上人御真筆紺紙金泥御経一部一巻。
 一、日蓮大上人御真筆御聖教。
 一、日興上人 同 上 同 上。
 一、日蓮大上人同 上 貞観政要一部七軸。
 一、天 神  同 上 法師功徳品。
 一、日蓮大上人同 上 二箇の相承
 一、日蓮聖入所持御珠数一連。
 一、日興上人     御申状三通。
 一、同 上      御自筆本尊授与目録一巻。
 一、同 上 同 上  日澄聖人御遺状一通。
 一、日 代 同 上  五人立義抄一巻。
 一、日 源 同 上  安国論二巻。
 一、日興聖人同 上  本尊七箇相承一巻。
 一、同 上 同 上  教化弘経七箇の口決一巻。
 一、同 上 同 上  産湯相承一巻。
 一、同 上 同 上 文底秘法相承一紙。
 一、同       本門寺御棟札一枚。
  以上。
右の通に御座候処先文に相誌し候天正九年武田勝頼家臣理不尽に奪ひ取り候に付き御注進申上げ候。  天正九年巳三月十七日 富士山本門寺、本妙寺、行泉坊、西之坊、養運坊、大乗坊。  増山権右衛門殿。(『富士宗学要集』第9巻20頁)

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しかし、この部分について、堀日亨上人は「祖滅五百四十七年の集なり北山本門寺にあり、此の抄録の文書は年月日あれども当時用ひたるものとも見へず、又入文に怪しむべきありて全く其の正偽を知らず、単に当時の宝物の概数を知るの料とするのみ。」と書いてある。つまり、この文献は信用性が無いというものですから、300年時点では「二箇相承」の本物が存在していたという証拠にはなりません。
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「全く其の正偽を知らず」とはあるが「単に当時の宝物の概数を知るの料」ともある。つまり日亨上人は、ここに掲載されている「宝物」の存在自体については否定されていないのである。さらに同じ『富士宗学要集』第9巻には「二箇相承紛失の由来」なる文章が掲載されているが、日亨上人はこれについて、全く疑義を挟(はさ)んではおられない。



【『駿府政事録』】
1611(慶長16=聖滅330年)12.15 重須養運坊、本門寺棟札・二箇相承を徳川家康の台覧に供す(『富士年表』)
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慶長16(1611・聖滅330)年12月15日付け、『駿府記』『駿府政事録』『駿国雑志』巻31中によれば、家康の側近として流通経済の確立に尽力したとされる、江戸金座の頭役・後藤庄三郎光次が、二箇の相承書を家康の面前に披露したことを記しています(3書ともほぼ同じ内容)。この時、重須重宝強奪事件よりすでに30年が過ぎていました。(『富士門流の歴史 重須篇』194頁)

●今般、富士本門寺より二箇の相承、日蓮の筆、後藤少三郎を以って御覧に備う(『駿府政事録』の1の慶長16年〈1611〉12月15日の条/『大日蓮』)
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 続いてこれを拝した家康が、
 「日蓮は爾前経を捨てなかったことはここに分明ではないか。後の末流に至って、僅(わず)かに『四十余年未顕真実』の一語を以て爾前教を棄捐(きえん)(捨てること)すべきと主張するのは、祖師(大聖人)の本意ではない(取意)」
と述べたと言うことです。
 また『駿国雑志』によれば、以上の家康の発言を記した後、慶長16年12月10日、仏法相承について家康の下問があり、時の住持日健は眼病のため、役僧養運坊が15日駿府城に登城、後藤庄三郎が案内して家康と対面、二箇の相承書と本門寺額を進覧したところ、上に挙げた発言が家康より発せられたと、やや詳しく説明しています。
 この折りに、二箇の相承書は幕府の手で筆写され、その写本を林羅山(はやしらざん)(道春)より借りて金地院崇伝(こんちいんすうでん)が日記中(『本光国師日記』)に記録しており、両相承書とも日辰所持本と全く同じです。(『妙教』H16.2/<宗教に関心を持とう>WS)

●駿州富士郡本門寺の什宝宗祖日蓮の真蹟二幅。後藤庄三郎光次持参して御覧に備ふ(『徳川実記』の同日の項/『妙教』H16.2)
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幕府は二箇相承の真筆と認識し、これを書写したのである。現在の御書掲載の二箇相承書は、これと全同の日辰書写本を基にしている。

●今晩富士本門寺校割(引渡しの意)、二ヶの相承日蓮筆後藤少三郎御覧に備う。其の詞(ことば)に云く釈尊五十年の仏法日(白)蓮阿闍梨日興に之を附属す云々(『駿府記』括弧内筆者・原漢文/『富士門流の歴史 重須篇』194頁)
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家康の指示で重須の重宝(二箇の相承書を除く)が返還された天正11(1581)年2月26日以降、この慶長16(1611)年までの間に、二箇の相承書は発見され、重須に返遠されたとも考えられますが、そのような記録は宗門内外何れにも残されていません。ただし(中略)幕府が発見した二箇の相承書は、「校割」つまり重須側に引き渡されていたとの意味に取ることも可能です。(『富士門流の歴史 重須篇』195頁)



【日陽の記述】
1617(元和3=聖滅336年)4.25 要法寺24代日陽、重須において二箇の相承・本門寺額等を拝見、すべて御正筆であることを念記(『妙教』H16.2/<宗教に関心を持とう>WS)

●大坊に帰り御霊宝頂拝す二ヶ御相承(是は日辰上人正筆御拝覧の時点画少しも違はず書写して今本寺に在り)、本門寺額、紺紙金泥の法華経一部、曼荼羅十七幅、安国論皆正筆なり(「釈の日陽」『祖師伝』/『富士宗学要集』第5巻60頁)



【日體の記述】
1877(明治10=聖滅596年) 下条妙蓮寺39代信領坊日體(にったい)、北山本門寺の御風入(かぜいれ)(虫干し)の折に二箇の相承書の御真筆を拝見(『妙教』H16.2)

●明治十年六月十三日北山本門寺に而(て)御風入之節御相承御直筆奉拝也 信領坊日體(妙観文庫本『興門口決』/『妙教』H16.2)
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『興門口決』全10巻は、妙蓮寺27代日立が、宝暦元(1751)年に編した、興門の化儀・化法に関する書。





別付嘱の存在示す証拠

―日興上人のみが別付嘱の方―

学会員が二箇相承を否定する目的は、唯授一人の血脈(別付嘱)の否定である。しかし、別付嘱の存在を示す史料は、大聖人・日興上人の時代を含め数多(あまた)存在する。実に、唯授一人の血脈相承の否定は、以下に列挙する文証等を悉く否定して初めて成り立つという、自己保身と我意我見に基づく牽強付会の不自然極まる暴論なのである。


【正統仏教の付嘱】
●正法をひろむる事は必ず智人によるべし。故に釈尊は一切経をとかせ給ひて、小乗経をば阿難、大乗経をば文殊師利、法華経の肝要をば、一切の声聞・文殊等の一切の菩薩をきらひて上行菩薩をめして授けさせ給ひき。(『四条金吾殿御返事』御書1041、全集1148頁)
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唯授一人のことは御書にもある。推して知るべしと言うべきか。(『大白法』H19.12.1)

●僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず(『四恩抄』御書268・全集938頁)

●此の経は相伝に有らざれば知り難し(『一代聖教大意』御書92、全集398頁)

 そもそも仏法においては、師匠に数多(あまた)の弟子があっても、その中から最も優(すぐ)れた1人を選び、唯授一人・面授口決(めんじゅくけつ)をもって、仏法の極理を相伝(相伝とは、師と弟子が相対して伝授すること)し、滅後の後継者を定めるのである(その目的は、仏法が十人十色の異解〈いげ〉によって惑乱〈わくらん〉されることを防ぐためである)。
 たとえば、法華経薬王菩薩本事品第23によれば、過去の日月浄明徳仏(にちがつじょうみょうとくぶつ)には、弟子として80億の大菩薩、72恒河沙(ごうがしゃ)の諸大声聞(だいしょうもん)がいたが、なかでも一切衆生喜見菩薩(いっさいしゅじょうきけんぼさつ)ただ1人を選んで相承なさっている。(法華経P528)
 また、釈尊は、入滅後の第2祖として迦葉(かしょう)に相伝し、法華経の教相においては、末法の弘教を上行菩薩に相伝されている。
 さらに、中国の天台大師は、弟子の章安(しょうあん)ただ1人に相伝し、日本の伝教大師も義真(ぎしん)ただ1人に相伝をなされている。
 このように、仏法における相伝とは、唯授一人・面授口決の方軌に則(のっと)って行なわれるものなのである。
 しかるに、日蓮大聖人ただ御一人のみが、こうした仏法の方軌を無視し、その鉄則を破られることなど、断じてありえない。
 そして事実、日蓮大聖人は、数多の弟子の中から、もっとも資質に勝(すぐ)れ、信行学に秀(ひい)でた日興上人ただ御一人を選ばれ、仏法の極理を余すところなく相伝して、固く第2祖と定められたのである。
 ゆえに、こうした妄説によって、正統な唯授一人の相伝を誹謗(ひぼう)しようとすることこそ、例証も無視した偏頗な考えに他ならない。(『慧妙』H25.7.16)




【結要付属の総別】
●釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給う然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む、又是には総別の二義あり(『曽谷殿御返事』全集1055頁)
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「釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給う」これに総別がある。「日蓮又日本国にして此の法門を弘む」これにも総別がある。だからこそ「又是には」と仰せなのである。『曽谷殿御返事』は冒頭から結要付属についてしか述べられていない。対告衆である曽谷殿も、既に末法流布の正法が上行菩薩への結要付属の法体であることを承知していたのであろう。つまり「総別」とは結要付属の中の総別である。

●二仏並座・分身の諸仏集まつて是好良薬の妙法蓮華経を説き顕し釈尊十種の神力を現じて四句に結び上行菩薩に付属し給う其の付属とは妙法の首題なり(中略)秘す可し秘す可し唯受一人の相承なり、口外す可からず(『御義口伝』全集782頁~)
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「四句に結び上行菩薩に付属し給う」「唯受一人の相承なり」とあるように、結要付属は別して上行菩薩一人への付嘱である。そのことは、上行菩薩の再誕である日蓮大聖人御1人が末法に御出現になり、下種仏法の法体を建立弘通されたという歴史的事実とも符合する。また日興上人に対して「口外す可からず」と仰せである。つまり、結要付属は、大聖人滅後の末法日本国においては別して日興上人への唯我一人の付嘱である。このことは上記『曽谷殿御返事』からも明らか。

●念仏とは唯我一人の導師なり、念法とは滅後は題目の五字なり念僧とは末法にては凡夫僧なり(『御義口伝』全集786頁)
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「仏」とは上行菩薩即日蓮大聖人のこと。何故なら、この仏の所持する法が「題目の五字」だからである。「唯我一人の導師」とあるとおり、上行菩薩即日蓮大聖人は多宝塔中において唯授一人の別付嘱を受けられた。




【末法の別付嘱】
●此の経は相伝に有らざれば知り難し(『一代聖教大意』御書92、全集398頁)
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<「御書根本」破折>参照。

●釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給う然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む、又是には総別の二義あり(『曽谷殿御返事』全集1055頁)
-----------------------
「釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給う」これに総別がある。「日蓮又日本国にして此の法門を弘む」これにも総別がある。だからこそ「又是には」と仰せなのである。

●当世の学者は血脈相承を習ひ失ふ故に之を知らず(『立正観抄』御書770、全集530頁)

●一 授職法体の事 仰せに云はく、此の文は唯仏与仏の秘文なり。軌(たやす)く云ふべからざる法門なり。十界三千の諸法を一言を以(もっ)て授職する所の秘文なり(『御講聞書』御書1860、全集845頁)

●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(大聖人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)

●依て座替と号す日興より日目嫡々相承手続支証の大曼荼羅なり(日興上人筆座替大本尊/『富士宗学要集』第5巻336頁)

●次に日興上人は是(これ) 日蓮聖人の付処(ふしょ)本門所伝の導師也。禀承(ぼんじょう)五人に超え紹継(しょうけい)章安に並ぶ(日順『日順阿闍梨血脈』延元1〈1336〉=聖滅55

付弟一人之を書写し奉るべきの由、日興上人御遺誡なり(日尊=日目上人の弟子『日蓮宗宗学全書』2-418)
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日尊は第4世日道上人時代も含め、生涯一幅の本尊も書写しなかったのである。(『日蓮正宗要義』249頁)




【日興上人の御事績と文献】
<宗義の深妙を相伝>
●大聖人門下多士済々、もとより文筆なきにあらざれども、興上はまれに国漢文に長じ、また能筆にして恪勤(かっきん)なるをもって最も秘書に適せり。ゆえに、随侍の期間もまた長く、自然に宗義の深妙をも相伝せられ、ついには本尊の相伝、曼荼羅の代筆、百六箇本迹の区別、本因妙の深義等におよぶ。注経についての御義口伝は、列衆ありといえども、興上これが首たり。そのほか竜泉寺申状案、諌暁八幡抄、三筆の聖教等、その証、歴々たり。(第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝上』聖教文庫170頁~)

―本尊の代筆―
●文永五年十月十三日、(弘安式にして日興上人の筆に大聖人が華押を為されたるもの、曾つて寛永十三年染師町に仏眼寺が在りし時近火に罹り此本尊自ら飛び去りて類焼を免れたるを以て「飛び曼荼羅」と称し伊達家の貴重する所と云云)、仙台仏眼寺。(『富士宗学要集』第8巻207頁)
●曼荼羅の代筆とは、仙台仏眼寺飛曼荼羅と称するもの(第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝上』171頁)
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「飛び曼荼羅」については、後の研究によって大聖人・日興上人書写ではない、との見解もあるようだ。が、日亨上人によれば、曼荼羅の代筆は「飛び曼荼羅」だけではないことは「等」の文字によって知れる。

●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(大聖人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
●明星直見の本尊の事如何、師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を以つて本尊とす可きと・虚空蔵に御祈請ありし時古僧示して言はく汝等が身を以つて本尊と為す可し(中略)釈迦古僧に値ひ奉つて塔中に直授せるなり貴し貴しと讃め被れたり、(中略)仍つて本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ。(大聖人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
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後加文ではない。御本尊書写の権能が唯授一人血脈相承の方に限るとされている。ここに日興上人への別付嘱は明らか。


―相伝書の付嘱―
●本尊相伝は七箇相伝・三度相伝等、百六箇本迹決、本因妙抄等は富士宗学要集第一巻相伝信条部を熟見せられたし。(第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝上』聖教文庫171頁)

●日興謹んで之を記し奉る。聖人の言く此の相承は日蓮嫡々一人の口決、唯授一人の秘伝なり(『産湯相承書』全集880頁)

●能く能く伝流口決す可き者なり。(『百六箇抄』全集862頁)
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日興上人御1人に付嘱(口伝)された書であり、公開を前提として認められたものではない。しかも、その内容は日蓮本仏論を端的に示されたものであり、上代の僧俗が容易に信解できる内容ではない。このような重大な法門が日興上人に相伝されたこと自体、日興上人が唯一の付弟である証左といえよう。

●秘す可し秘す可し唯受一人の相承なり、口外す可からず然らば此の去の字は不去而去の去と相伝するを以て至極と為すなり云云。(『御義口伝』全集783頁)

●然りと雖も天台伝教の御弘通は偏に理の上の法相・迹化付属・像法の理位・観行五品の教主なれば迹を表と為して衆を救い、本を隠して裏に用る者なり甚深甚深秘す可し秘す可し。(『本因妙抄』全集870頁)

●日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当て覚候へば、本意忘ること無く候(『原殿御返事』)
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断腸の思いで身延離山を決断された時に、御心情を吐露された御文。日興上人の末流に身を置く者として、この御文を幾度となく拝するならば、二箇の相承書を念頭に置かれた上での御決断であったことに気づかないはずはなく、火を見るよりも明らかであるというべきです。(『富士門流の歴史 重須篇』)



<久遠寺の院主別当>
1●うちこしうちこし直(ぢき)の御弟子と申す輩(やから)が、聖人の御ときも候しあひだ、本弟子六人を定めをかれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言はせんずるためにて候(第2祖日興上人『佐渡国法華講衆等御返事』)
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吾人は六老を定められた理由は『報佐渡国講衆書』(※『佐渡国法華講衆等御返事』)に「(※上記1●)」と仰せられた通りと拝する。勿論此の御手紙は弟子関係の乱れを防ぐためのものであるから特にかく仰せられたので、此の他に教団の中心たれとの思召しがあらせられたと拝することができる。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1268頁)


2●地頭の不法ならん時は我(大聖人)も住むまじき由、御遺言には承り候えども不法の色も見えず候。其の上大聖人は日本国中に我を待つ人無かりつるに此殿ばかりあり、然れば墓をせんにも国主用いぬ程は尚(なお)難くこそ有らんずれば、いかにも此人の所領に臥(ふ)すべき御状候し事、(※は、身延の沢を)日興へ賜(たま)わりてこそ遊ばされてこそ候しか(第2祖日興上人『美作房御返事』/『日興上人身延離山史』再版90頁)
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 此の御文書は美作房への御返事で、大聖人の御三回忌に上人が何処へも御出ましがなく御無沙汰をしておると仰せられ、しかしどうも老僧達が波木梨氏のことも誤解してか身延の山へ登て来ないが此れは大聖人の御墓を捨てることになつてよくないことである、実際、波木梨氏も老僧達のことをおろそかに思つてはをらないといつて弁護なされた、兎に角登山致されたいというふ御手紙である。(中略)
 御文を拝すれば、その御意は、なる程波木梨氏は信心未熟で又、大聖人の御遺言もあらせられて、いかにも頼りにはならぬかしれないが、これといふも身延の沢を日興へ賜てその上で墓所を身延に建てよと仰せられたのである。それであるから、たとへ波木梨氏がどうであるとも構はぬではないか、といふにある。(中略)
 大聖人が身延に墓所を建てよと御定めなされたことは、教団の中心が其処にあることを決定なされたものである(1●)。而して此れを日興上人へ賜つたことは嫡弟付弟の義であるといはなくてはならない。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1275頁~)


3●総じて久遠寺の院主学頭は未来までも御計へて候べし(第2祖日興上人『与波木梨実長書』正応元年11月/『日淳上人全集』1296頁)
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これは日興上人が御自ら身延山の別当なることを仰せられた傍証ではないか。或は又早川君は此れについて弘安9年頃御入山なされて、院主になられたので、その意味で此処に仰せられたのであつて、此れによつて大聖人の御付嘱の有無は判断できないといふかもしれないが、此の御言葉はしかく軽いものではない。波木梨殿へ最後の教訓として院主の御見識をもつて仰せられたのである。若し波木梨殿が推戴して御二人の間の約束の上に院主になられたものならば此場合此御言葉を用ひさせ給ふ筈がない。既にこの時は正応元年11月で波木梨殿との間は遂に如何んともすべくもなく御離山を決意遊ばされた時である。一方波木梨殿の腹の底には自分も御弟子方も大聖人に対しては同等であるとの考へがあり、また民部阿闍梨を師匠にしたるなりと言はしめた程である。この波木梨に対して尤も権威あるは久遠寺の院主たることである。こは大聖人の御寄託があつてこそ此場合初めて用ひられる御言葉である。(第65世日淳上人「早川一三君の蒙を啓く」/『日淳上人全集』1296頁~)
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ただし、『日興上人身延離山史』(再版137頁~)では、同書について「本書そのものに絶対の信頼を措けぬ」、「不合理な諸点」がある、として偽書の可能性を示している。(法蔵)


―御影堂の存在より、当初から日興上人は常住の別当職であった―
●弘安七年甲申五月十二日甲州身延山へ登山。同年十月十三日大聖人の第三回御仏事に相当するの日、始めて日興上人に対面、御影堂に出仕す云云(日目上人の弟子、日尊師の行跡を記した『尊師実録』/『日蓮宗宗学全書』2-411頁)
●聖人御存生の間は御堂無し、御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計らいとして造り玉ふ(日興上人より薫陶を受けた三位日順師著『開山より日順に伝はる法門』/『富要』第2巻95頁)
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これらの記述から、少なくとも大聖人の3回忌以前より、日興上人が久遠寺の別当として身延の地を掌理していたことが明確にうかがえる。(森岡雄樹 御尊師『大日蓮』H20.5)



<日目上人への付嘱>
日興上人が日目上人に法を別付嘱されたことは、紛れも無い史実である。日興上人の付嘱のあり方をもって、大聖人の付嘱のあり方を推定することができる。何故なら、日興上人が最も大聖人の法門を正しく信解されていたことは学会員も認めるところであるが、そうであれば、付嘱のあり方についても大聖人の振る舞いを規範とされたことは容易に理解できるからである。

1290(正応3=聖滅9年)10.18 日興、日目に法を内付し本尊を授与〔譲座本尊〕(石蔵/『富士年表』)
1298(永仁6=聖滅17年) 日興、本弟子6人を定む(『富士年表』)
●依て座替と号す日興より日目嫡々相承手続支証の大曼荼羅なり(日興上人筆座替大本尊/『富士宗学要集』第5巻336頁)
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日興上人は日目上人御1人に法を付属された後に、本弟子6人を定められた。大聖人が本弟子6人を定められたことは、学会員も認めているようであるが、日興上人が本弟子6人を定められたことは、明らかに大聖人に倣(なら)われたものである。であれば、日興上人が本弟子を定める前に、付弟1人を定められたこともまた、大聖人に倣われたと考えるのが自然であろう。要するに、日興上人がそうであられたように大聖人もまた、本弟子6人を定められる前に、法を1人の弟子に付嘱されたのである。

●大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。(『日興跡条々事』御書1883頁)
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元弘2年(1332年)11月10日、日興上人が87歳の時(『新版仏教哲学大辞典』初版第2刷1360頁)。日興上人は、法を日目上人に付嘱し、さらに大石寺を付嘱された。これは、大聖人の付嘱のあり方に倣われたものであろう。とすれば、久遠寺の第2代院主であられた日興上人に別付嘱のあったことは明らかである。



【まとめ】
―日興上人に別付嘱があった証拠―
・正法・像法時代は勿論、末法においても付嘱に総別が存在する(上記)。
・日興上人は離山されるまで、久遠寺の院主として同寺に常住されていた(『日興上人身延離山史』参照)。日興上人自身「御墓を身延に定められたのは、日興に身延(久遠寺)を付嘱されたからだ(取意)」(2●『美作房御返事』)と仰せになっている。
・日興上人は日目上人に法を別付嘱され、さらに大石寺を付嘱された。これは、大聖人の付嘱に倣(なら)われたと考えるのが自然である。すなわち、日興上人から日目上人への付嘱がそうであったように、久遠寺を管領された日興上人こそが付法の弟子である。
・日興上人は日目上人に法を別付嘱され、さらに本弟子6人を定められた。これは大聖人の付嘱のあり方に倣われたと考えるのが自然である。すなわち、日興上人から日目上人への付嘱がそうであったように、本弟子6人の内に1人、別付嘱の方(日興上人)がおられる。
・『原殿御返事』等に見られるように、日興上人は御自分のみが大聖人の仏法を正しく受持されているという御自覚があられた。また、事実そうであった。
・大聖人は『百六箇抄』等の相伝書を日興上人のみに付嘱された。

以上のことから、日興上人が別付嘱の方であることは明らかである。久遠寺の付嘱といい、重要法門の付嘱といい、現存する諸史料から見ても、二箇相承の内容は歴史的事実と合致しているのである。言い換えれば、大聖人をはじめ日興上人やその直弟方の言動・振る舞いは、二箇相承の内容に沿ったものである。そうであれば、二箇相承が真書であっても何ら不自然ではない。むしろ真筆が存在しないことをもって内容まで否定してしまう方が、牽強付会の暴論といえよう。

日興上人への別付嘱を否定するには、以上のすべての文証や事蹟を否定しなければならない。仮に誰かが根拠もなく二箇相承書を偽作したとしても、その内容と符合する文書や事蹟が数多存在し、何百年にも渡って伝承される、などということは常識では考えられない。ちなみに、日朗への別付嘱を示す『日朗譲り状』なる偽書があるが、その真書であることを証明する文書や事蹟は存在しないし、日朗1人が別付嘱を受けた意義(特別な法門・法体の存在)もないし、後世の日朗門下にも特別な相伝・付嘱(特別な法門・法体)は存在しない。





「本門寺」の記述について


1●現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇也、願主弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日(弘安2年10月12日)

2●三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり(弘安3年『百六箇抄』全集867頁)
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後加文ではない(『富士宗学要集』第1巻18頁参照)。

3●戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か(弘安4年4月『三大秘法抄』全集1022頁)

4●日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てられるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。(弘安5年9月『一期弘法付嘱書』全集1600頁)

 広宣流布達成時には「最勝の地を尋ねて戒壇を建立」(3●)するというのは『三大秘法抄』の御指南である。とすれば戒壇に安置すべき御本尊が必ず存在するはずである。真筆御本尊中、唯一「本門戒壇」の文字が認められた弘安2年10月12日の御本尊(1●)こそが、それである。
 「最勝の地」とは富士山の本門寺であるというのは、日興上人や弟子方の文献に明らかである。日興上人を正師と仰ぐ者は、同上人が大聖人の御意思にない御指南をされるはずがないことを信じるべきである。広布の完結を意味する「本門寺」の指南及び、本門戒壇に安置される御本尊の付嘱こそは、日興上人が唯一の後継者である証拠である。
 「本門寺」に関する日興上人や弟子方の御指南が大聖人の御指南に基づくものであるならば、その基となる御指南とは『一期弘法付嘱書』『百六箇抄』以外にはない。要するに学会員よ、真に日興上人を正師・僧宝と仰ぐのであれば、『一期弘法付嘱書』『百六箇抄』の真書であることを信じるべきである。
 尚、妄言者共は、"『百六箇抄』は認めるが『一期弘法付属書』は認められない"というかも知れない。しかし『百六箇抄』は「能く能く伝流口決す可き」(全集862頁)とあるように、日興上人御一人に付嘱(口伝)された書であり、公開を前提として認められたものではない。しかも、その内容は日蓮本仏論を端的に示されたものであり、上代の僧俗が容易に信解できる内容ではない。このような重大な法門が日興上人に相伝されたこと自体、日興上人が唯一の後継者である証左といえよう。


1309(延慶2=聖滅28年) 日興の命により寂仙房日澄、『富士一跡門徒存知事』を草す(『富士年表』)
5●彼の本門寺に於ては先師・何の国・何の所とも之を定め置かれずと。爰に日興云く、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり、然れば駿河国・富士山は是れ日本第一の名山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由・奏聞し畢んぬ、仍つて広宣流布の時至り国主此の法門を用いらるるの時は必ず富士山に立てらるべきなり。(日澄『富士一跡門徒存知の事』全集1607頁)
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「広宣流布の時至り国主此の法門を用いらるるの時は必ず富士山に立てらるべきなり」とは、明らかに『日蓮一期付嘱書』の内容である。日澄師は正安2年(1300年=聖滅19年)に、日向と義絶し日興上人に帰伏した方である。日興上人の信頼も篤く乾元2年(1302年)には重須談所初代学頭に任ぜられている。
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本書は草案であり此れが完成せられたのが『五人所破抄』であります。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1136頁)

1328(嘉暦3=聖滅47年)7. 日順、『五人所破抄』を草す(『富士年表』)
●近く我が国の大日山を尋ぬれば日天の能住なり聖人此の高峰を撰んで本門を弘めんと欲す、閻浮第一の富山なればなり(日順『五人所破抄』全集1613頁)
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此れをもつて判断すると日順師は御付嘱状を拝し、『五人所破抄』に躊躇するところなく(※上記5●下線部を)訂正して大聖人が富士山をお指し遊ばれた旨を記載されておるのであります。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1139頁)

1332(元弘2=聖滅51年)7.24 日興、本尊聖教に関する置文を書し如寂房日満に与う(8-145)(『富士年表』)
●日満阿闍梨相計ひて信心を守り子孫迄之を付し、阿仏房の本堂に之を安置し本門寺の重宝たるべし(第2祖日興上人『定佐渡の国法華衆等の本尊聖教の事』/『富士日興上人詳伝(下)』222頁)
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この御譲状によってみれば、本尊聖教の保存権の在所は、第1は理想の本門寺すなわち広布達成後建立の道場であり……(第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝(下)』222頁)

●一、本門寺建立の時、新田卿阿闍梨日目を座主と爲し、日本国乃至一閻浮提の内、山寺等に於て、半分は日目嫡子分として管領せしむべし。残るところの半分は自余の大衆等之を領掌すべし。
一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。(第2祖日興上人・元弘2年11月10日『日興跡条々事』御書1883頁・真蹟大石寺)
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元弘2(1332)年は日興上人御入滅の前年であり、聖滅51年

●日蓮聖人の御影并(ならび)に御下文(薗城寺申状)、上野六人の老僧の方巡に守護し奉る可し。但し本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。此条、日興上人の仰(おおせ)に依って支配し奉る事此の如し。此の旨に背き異議を成し失ひたらん輩は永く大謗法たるべし。仍(よっ)て誡の状、件の如し(第3祖日目上人・正慶2年2月13日/『富士宗学要集』第5巻190頁)
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是れ正く目師の御蹟なり。(第52世日霑上人「両山問答」/『富士宗学要集』第7巻118頁)
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正慶2(1333)年は聖滅52年、日興上人御入滅の年である。真蹟は大石寺に収蔵(『富士年表』による)。

●国主被(レ)建ヲ(二)此法(一)之時三堂一時ニ可(二)造営(一)也(国主此の法を建てらるるの時三堂一時に造営すべきなり)(『本門寺棟札裏書』/『日淳上人全集』1232頁)
●一、日蓮聖人御影堂 一、本化垂迹天照太神 一、法華本門寺根源(『日順雑集』/『富士日興上人詳伝下』68頁)

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日順師は正安3(1301)年、大聖人滅後20年に得度された方であり、日興上人の弟子として重須談所2代学頭にもなられた方である。「三堂」とは広布の暁に本門寺に建立されるべき堂宇のことで本堂、御影堂、垂迹堂のことである。

●大聖人御記文に帝王御崇敬有りて本門寺造立以前には遺弟等曽て仏像造立すべからず云云(日印より日代への状/『富士宗学要集』第5巻48頁)
●日印俗姓は三浦なり康永三甲申年六月八日、日尊の付弟を贈り授けらる、同七月十七日書状を西山本門寺日代上人に奉り疑問を捧ぐ、其の状に云はく。(「日印の伝」康永3年/『富士宗学要集』第5巻47頁)
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日印は日興上人の弟子・日尊の弟子。康永3(1344)年は聖滅63年、日興上人入滅12年のことである。

●仏像造立の事、本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し国主御帰伏の時三ケの大事一度に成就し給はしむべき御本意なり(康永3年・日代より日印への状/『富士宗学要集』第5巻50頁)
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日代は日興上人が定められた新六の1人。

1351(正平6=聖滅70年)3. 三位日順、『摧邪立正抄』を著す(『富士年表』)
●法華は諸経中の第一・富士は諸山中の第一なり、故に日興上人独り彼の山を卜して居し、爾前迹門の謗法を対治して法華本門の戒壇を建てんと欲し、本門の大漫荼羅を安置し奉つて当に南無妙法蓮華経と唱ふべしと(日順『摧邪立正抄』正平6年3月/『富士宗学要集』第2巻43頁)
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 日順師は日興上人の弟子。将来建立される「法華本門の戒壇」に安置される本尊が「本門の大曼荼羅」だと明言している。「富士は諸山中の第一」とあるから「法華本門の戒壇」とは富士に建立されることが分る。これは事の戒法について言及した『三大秘法禀承事』にも明示されていないことであり、大聖人御書中『日蓮一期弘法付嘱書』と『百六箇抄』のみに示されたことである。この戒壇に安置される「本門の大曼荼羅」についての御指南は『日興跡条々事』に示されている。
 つまり、「富士は諸山中の第一」「法華本門の戒壇」の語は、明らかに『日蓮一期弘法付嘱書』と『百六箇抄』の存在を裏付けるものであり、「本門の大曼荼羅」の語は『日興跡条々事』の存在を証明するものである。

●南閻浮提第一の富山九山八海を引き廻す本門の戒壇なれば紅蓮華の方にては日蓮大聖人、白蓮華の方にては日興上人なり、同名同体なり(妙蓮寺日眼『五人所破抄見聞』/『富士日興上人詳伝下』63頁)
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第59世日亨上人は正史料と認定されている。「南閻浮提第一の富山」「本門の戒壇」とは、まさに『一期弘法付属書』の内容である。

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◆日蓮聖人は、弘安5年9月8日、9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。長栄山本門寺という名前の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。(<池上本門寺>WS050812)
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 「日蓮聖人が名付けられた」とは、何の根拠もない創作である。しかし、「本門寺」の名が大聖人御入滅直後から付けられていたとするならば、しかもその名が大聖人の御指南に由来するとするならば、その御指南とは、まさに『一期弘法付嘱書』『百六箇抄』以外ありえない。とくに『一期弘法付属書』は、大聖人の後継者を示された御指南であり「我が門弟等此の状を守るべきなり」とあることから、少なくとも本弟子6人は、その内容を知っていたはずである。
 池上本門寺は本弟子の1人・日朗の系統である。だから日興上人やその弟子方の文書を拝見して「本門寺」の名称を思い立ったとは考えにくい。また、『百六箇抄』も日興上人に与えられた法門(秘伝)であるから、同様である。
 要するに、日興上人の門流でもない者が、大聖人御入滅直後から「本門寺」の名称を使用していたことは、『一期弘法付嘱書』が大聖人御在世から存在していたことを証明するものである。





「本門寺」の正文書(仮題)

(第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝(下)』73頁~抜粋編集)

本門寺という文書は、正文書として開山上人の御自筆にも日目上人筆にも多々あるが、いずれも稀に見ゆる大本門寺のことであり、将来に実現すべき広宣流布の第一歩たるべきことに深く思いをいたさるべきために、所有の史料を奉列するものである。


【〈正文書〉興師御正筆御本尊、各山に珍蔵するその脇書】
●本門寺に懸け万年の重宝たるなり。
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建治二年二月五日 河合入道へ 西山本門寺に在り(『富士宗学要集』第8巻史料類聚①220頁)

●本門寺の重宝たるべきなり。
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弘安二年 日澄の母尼へ 京都妙覚寺に在り(富土宗学要集第8巻史料類聚①222頁)

●本門寺の重宝たるべきなり。
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弘安二年十一月 日 俗日増へ 大石寺に在り(『富士宗学要集』第8巻史料類聚①177頁)

●大本門寺の重宝なり。
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弘安三年五月八日 日華上人へ 京都本能寺に在り(富士示学要集第8巻史料類聚①223頁)

●本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。
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弘安三年五月九日 日禅上人へ 東京法道院に在り(『富士宗学要集』第8巻史料類聚①178頁)

●本門寺に懸け万年の重宝たるぺし。
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弘安三年五月九日 日禅上人へ 重須本門寺に在り(『富士宗学要集』第8巻史料類聚①215頁)

●本門寺に懸け末代の重宝たるべきなり。
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弘安四年三月 俗日大へ 讃岐法華寺(今本門寺)に在り(『富士宗学要集』第8巻史料類聚①213頁)

●本門寺重宝たるべ書なり。
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弘安四年四月廿五日 比丘尼持円へ 京都本満寺に在り(『富士宗学要集』第8巻史料類聚①223頁)


【その他の正文書】
●定、佐渡の国法華衆等の本尊聖教の事。日満阿闍梨相計ひて信心を守り子孫迄之を付し、阿仏房の本堂に之を安置し本門寺の重宝たるべし、然らずんば富士本堂に入れ泰るべき者なり(中略)元弘二年七月廿四日 日興在り判。(〈正文書〉日興上人御筆、日満へ譲状)
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佐渡阿仏妙宣寺にあり(『日蓮宗宗学全書』第2巻興尊全集興門集142頁、『富士宗学要集』第8巻史料類聚①145頁)

●日興上人御遺跡の事。
日蓮聖人御影並に御下し文園城寺申状。上野六人老僧の方・巡に守護し奉るべし、但し本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし(中略)正慶二年癸酉(みずのととり)二月十三日 日善在り判 日仙在り判 日目在り判(〈正文書〉三師置状)
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日目・日仙・日善三師の筆大石寺にあり(『日蓮宗宗学全書』第2巻興尊全集興門集202頁、『富士宗学要集』第8巻史料類聚①18頁)





御書の真偽問題


【『三大秘法抄』】
1354(正平9=聖滅73年) 日順、『本因妙口決』を著す
●三大秘法抄に云はく題目に二意有り云云、能く能く之れを習ふべし。(日順『本因妙口決』/『富士宗学要集』第2巻)
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『三大秘法抄』の名目は、日順師の『本因妙口決』が初出。大聖人滅後73年のことである。(塩田義遜「三大秘法の研究」の引用取意『日淳上人全集』1219頁)

1397(応永4=聖滅116年) 日時、『三大秘法抄』『治病抄』『薬王品得意抄』を写す(『富士年表』)

[三大秘法禀承事]=本抄は、御真筆の所在が不明で、かつ他の御書とは著しく趣が異なっているため、古来から真偽論があった。しかし、近年、大石寺で第6世日時上人の写本が発見されたこともあり、全く偽書説に根拠がないことは明らかである。ちなみに、文部省の統計数理研究所の研究グループが、昭和52年(1977年)から3年がかりでコンピューターを使っての科学的なメスによって解析した結果でも、大聖人の御真筆であるとされたことが報道されている(昭和55年6月7日付、朝日新聞、毎日新聞など)。その調査方法は、三大秘法抄の総計千3百19語からなる全文を、名詞、動詞、形容詞など16種類の品詞に分解、すべての言葉をコンピューターに記憶させた。更に真作17編、偽作8編も同じようにコンピューターに入れ、総計10万語近くを分析。統計的な解析は、第1に「文の構造に関する情報」として、文の長さ、各品詞の使用割合、品詞間の接続関係などを数量化し、第2に「個々の単語の使用の割合に関する情報」の、大別して2つの方法で調べた。その結果、文の構造、単語の使用頻度などの判別で、三大秘法抄は真筆と考えられるとのデータが得られている。本抄は、大田金吾の死後、五老僧の1人・日頂の手に渡り、日頂が富士の日興上人の元へ帰順された時、本抄を捧持してきたと推察される。そして、永禄、天正のころ、北山と西山の紛争に介入した武田の家臣等の暴挙により、二箇相承等とともに紛失したことは、当時の北山の記録によって明らかである。すなわち天正11年(1583年)の北山本門寺本尊已下還住の目録に「百六箇、旅泊辛労書、三大秘法書・・・は御本書紛失写のみ御座候」(『富士宗学要集』第9巻22頁)とある。(学会教学部編『新版仏教哲学大辞典』初版)

 以上のように、『三大秘法抄』もまた、真筆が存在しない。さらに最古の写本が第6世日時上人のもので、大聖人滅後116年である。また、書名の記述では日順師の『本因妙口決』があるが大聖人滅後73年である。上代(大聖人や日興上人の時代)の写本が存在しない点では二箇相承と同じである。しかも当抄は、真筆紛失までの経緯が二箇相承ほど明確ではない。
 しかしながら当抄は文章が長いこともあってか、文部省の統計数理研究所が「文の構造」「単語の使用割合」についてコンピューターを用いた真偽判定を行った結果、真書であることが判明している。
 このことから分ることは、真筆の有無や写本の古さによって単純に真偽を決めることはできないということである。

★"真筆がないから偽書""写本が新しいから偽書"→このような論理が通用するならば法華経も釈尊の説いた法門ではないと認めなければならなくなるだろう。

※日蓮正宗とは仇敵(きゅうてき)の間柄といえる身延山久遠寺で、平成25年に、五老僧の一人、民部日向の筆と伝えられる『三大秘法禀承事』の写本を修復して公開。日向は正和3年(1314年)の寂であるから、これが日向の真蹟であれば、遅くも日蓮大聖人滅後33年には写本が存在したことになる。(『慧妙』R2.6.16b)



【御書全般】
 御書全集の目録を見れば一目瞭然であるが、御書の大半(6割以上!)は真筆が存在していない。もし、真筆の有無をもってのみ真偽を判定するようなことがあれば、御書全集は大半が偽書となってしまうのである。
 また、大聖人の仏法は相伝を中心とするものであり、難信難解の下種仏法を後世に正しく伝えるために秘伝とされた文書が多く存在する。「一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し」とされた『三大秘法抄』もその1つである。そのために自宗にあっても写本が作られず、さらに他門に流出することがなかった場合もあったと考えられる。そのために『三大秘法抄』は録内に漏れ、録外にかろうじて含まれている。『御義口伝』『本因妙抄』などは秘伝中の秘伝とされたためか、録外にも漏れている有様である。
 このような事情を全く考慮せずに"真筆がないから偽書だ""写本が新しいから偽書だ"という輩は、自分達の立場を有利にするために道理を無視して牽強付会の主張をしているといえよう。

[録内録外]=日蓮大聖人滅後3百数十年過ぎから江戸時代にかけて、大聖人の御書をまとめて版本にしたものをいう。はじめに「録内」40巻・148通が発行され、ついで「録外」25巻・259通が発行された。(学会教学部編『新版仏教哲学大辞典』初版)

●御真蹟がないといふ理由を挙げて否定していますが此れは全く言い掛りの議論で問題になりません。此れで思ひ出すのは昔、富士流と他門流と論争したとき他門流は『下山御消息』といふ御書の御真蹟は無いではないか、それであるから偽作だと主張したが丁度それと同じであります。素養あるものの立つべき議論ではありません。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1376頁)

●世間のことでもそうであるが、宗教上では殊に余程確実なる論拠のない限りは真偽等の説はなすべきでないと思ふ。近頃は稍(やや)もするとその傾向が著しく、すぐに真偽論を為すものがあるが自らの短見を暴露するはいゝとしても聖言を傷つける罪は決して軽くない。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1230頁)

 そもそも、文献が残っているから正しい、逆にないから間違っているというのは、あまりにも短絡的な考え方である。世間においても、当然の認識であることはあえて文書にしない場合もあるように、文献の存否だけをもって、物事を即断することはできないのである。
 また甚深な意義を有する故に、内容の詳細に関してはみだりに公開することなく、文献としては非公開である可能性も考えられる。
 大事なことは、その文献の内容が、文理現の三証に照らして間違いのないものであるか、どうかであり、文献はあくまでも傍証にすぎないことを心得るべきである。(『慧妙』H17.7.16)
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上記は文献至上主義に関する記述であるが、「文献」を「真筆」に代えて「真筆至上主義」批判としても充分通用する。

●もう1つは真偽の問題であります。これはなかなか難しいのです。間違いなく真書であるものと、全く偽書であるものと、あるいはその中間において、はたしてこれは真書であるか、偽書であるかが色々な面で、かなり深い、広い洞察と教義的な意味での深い経験乃至その内容がなければ、その判定は難しいのです。しかし、『平成新編御書』の編纂に携わった人達の非常に深い勉学のなかから、それらのものが正しく取捨選択されておるのです。(第67世日顕上人『大日蓮』H17.8)

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あなた方は、たしかに法主の権能を宗祖のいくつかの言説によっても根拠づけようとしています。しかし日蓮文献に関する研究上の定説では、それらはすべて後人の偽作か加筆であり、循環論法を脱しているという有力な根拠になりえません(脱落僧・松岡幹夫『研究調査に対する協力のお願い』H17.7.30)
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しかし、どの御書や御相伝書が、どのような理由で〝偽作〟なのかや、どの箇所が〝加筆〟であって、なぜそれが論証に不適切なのかは明記していない。全く非論理的な記述である。このようなふざけた理由で当方の主張を否定することはできない。(中略)さらに大聖人の文献の何が偽作なのかを、その理由と共に明示せよ。またどの部分が加筆なのかを明示し、なぜそれが論証として不適切なのか理由を述べよ。そしてそれは、創価学会の公式見解なのか、それとも汝の私的見解なのかを明らかにせよ。(『松岡幹夫の傲慢不遜なる10項目の愚問を弁駁す』H17.8.24)



【御書の真偽も相伝に基づいて判定】
・大聖人の法門は相伝仏法。釈尊より上行菩薩への口伝に基づく内証付嘱(法体相承)によって法門を展開された。
・本仏の悟りの上から、一切経を見聞し、法華経就中羅什三蔵訳の妙法蓮華経を最第一とされた。これを衆生に教えるために五重の相対等の教判を用いられた。
・文献至上主義の立場からいえば、"法華経は釈尊の説いた法門ではない"可能性も出よう。しかし、そのような立場に立つこと自体、大聖人の仏法とは相容れないし、凡夫の頭で論理的可能性をいくら論じたところで、所詮は可能性の問題に終ってしまい、絶対的な結論など得られない。

●総じて月支より漢土に経論をわたす人、旧訳新訳に一百八十六人なり。羅什三蔵一人を除てはいづれの人人も誤らざるはなし。其の中に不空三蔵は殊に誤多き上、誑惑の心顕なり。疑て云く、何をもて知るぞや、羅什三蔵より外の人人はあやまりなりとは。汝が禅宗・念仏・真言等の七宗を破るのみならず、漢土日本にわたる一切の訳者を用ひざるかいかん。答て云く、此の事は余が第一の秘事なり。委細には向つて問うべし(『撰時抄』全集268頁)
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誤りの多い経文の中より、正しい経文を選べるのは「余が第一の秘事」と仰せです。これこそ、釈尊よりの付嘱相伝に基づくものではないでしょうか。これは、経典の真偽に関する御指南であるが、御書についても偽書、誤伝の存在することは同様です。

●御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者之有る可し、若し加様の悪侶出来せば親近す可からざる事。(『日興遺誡置文』全集1617頁)
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今まで御書として尊重し、しかも現在も御書全集に収録されている御文を"真筆がない""上古の写本がない"などといって偽書扱いする学会員は「悪侶」と同じである。


<質問>
・二箇相承を否定する者は、"日興上人が唯一の僧宝"であるという新興宗教・池田学会の主張も否定するのか?

◆仏法の基本である「三宝」は、歴代上人が御指南されているように、「法宝」は御本尊、「仏宝」は日蓮大聖人、「僧宝」は日興上人であり、三宝が相即する御本尊を拝し奉るのが、私たちの信心である。(秋谷会長『聖教新聞』H3.9.30/『慧妙』H14.7.16)
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破門前の創価学会は僧宝を歴代上人としていた。ところが、宗門から破門されると"僧宝は日興上人のみ"と言い出した。今の学会は、この主張さえも放棄するのか!?無節操、御都合主義もここに極まれり!!





かつての自説に逆行して恥じない学会

―他門の邪義を踏襲する"二箇相承否定"―
(『慧妙』H17.7.16)

 「二箇相承」への疑難、それは、「戒壇の大御本尊」誹謗(ひぼう)と並んで、本宗に背(そむ)く輩(やから)が必ず口にする邪義であり、この疑難を多くの学会員が口に出し始めている現実こそ、創価学会が異流義化した最たる証明である。
 今、創価学会では、教義、歴史、否その存在さえも宗門に依存しなければならない状況を打開しようと、新たな理論構築に右往左往している。そのためには、自分たちにとって都合の悪い歴史や過去の主張さえ、いとも簡単に否定しており、その課程で、この疑難も出てきたといえよう。
 「二箇相承」とは、『日蓮一期弘法付嘱書』と『身延山付嘱書』の2通の付嘱書のことである。
 すなわち、「日蓮一期の弘法」とあるように、大聖人が御生涯をかけて弘通された三大秘法の仏法、極まるところ大御本尊に具(そな)わる化儀化法の一切を日興上人に付嘱されたことを明らかにされ、さらに日興上人を「身延山久遠寺の別当」に任ぜられ、一門の在家・出家の中で日興上人に信順しない者は非法の衆であるとして、日興上人を御入滅後の一門の棟梁に定められた、重要な相承書である。
 身延をはじめとする他門では、この「二箇相承」を大聖人の御筆として認めることなく、偽書扱いしてきた。
 そして創価学会では、過去、これらの邪義を破折してきたのであるが、今、学会は、それらの邪義と同轍(どうてつ)の誹謗を口走り始めたのである。まさに自語相違・自己矛盾の極みであり、抱腹絶倒の奇行である。
 さて、以前の創価学会は、二箇相承をどのように位置づけていたのであろうか。
 「日蓮大聖人直流の門下にすべての相伝があるといえるが、別していえば、法体の血脈相承はただ一人に限る。日蓮大聖人の付嘱が唯授一人の日興上人にあらせられることは、二箇相承に明らかである」(『聖教新聞』昭和42年6月2日付)。
 すなわち、自らの正当性を主張するための根拠として、二箇相承を依用していたのである。この主張は今や、180度逆になりつつあるわけだが、そもそも正義(しょうぎ)とは永遠不変のものであり、その時の都合で変わるものでないことを認識すべきである。
 破門前の創価学会は、他門流日蓮宗との法戦の中で、自らの立場を正当化するために、「日興上人大導師説」を全面にして戦い、「二箇相承」を大聖人の真撰として用いていた。しかしながら、謗法払いを撤廃(てっぱい)し、他宗との迎合をはかり、「折伏」の概念(がいねん)が消滅した今日の創価学会においては、正義を証明する「二箇相承」は、もはや不必要になったのであろう。
 ことに、独自の謗法路線をつき進む上で、大聖人直結、御書直結などの珍説を標榜(ひょうぼう)・正当化し、さらに大謗法者池田大作のもとへ尊敬を集中させる理論を形成しようとすると、何よりも障害になるのが、本宗の「唯授一人血脈相承」の存在なのである。これを否定しなければ、創価学会の正当化ははかれない。
 御当代日顕上人への誹謗中傷もその一環であるといえるが、その「唯授一人血脈相承」を否定せんとして突き詰めていくと、大聖人が唯授一人の方軌をもって、日興上人に仏法を付嘱されたこと自体を、否定せざるをえなくなる。よって、その証文ともいうべき「二箇相承」を否定するのは、邪教創価学会として当然の成り行きである(さらに日興上人から日目上人への付嘱の書である『日興跡条々事』に関する疑難にも、同様の思惑が存する)。
 要するに、二箇相承の存在を偽書と決めつけ、日興上人への唯授一人血脈相承を歴史的事実ではない、としてしまえば、日蓮正宗に伝わる正義は成り立たなくなる、という腹づもりなのである。
 さて、周知のごとく、二箇相承に関しては、古来、日付の異同や御真筆の紛失した経緯など、今後の研究をまたねばならない事項が多分にある。
 そのうちで、日興上人の時代に二箇相承の写本がなかった、ということを取り挙げ、だから大石寺には二箇相承がなかった、とするのはまったくの的(まと)はずれである。
 すなわち、この疑難を持ち出す輩の致命的な誤謬(こびゅう)は、身延日蓮宗等に代表される、文献至上主義に陥(おちい)った考証姿勢にある。
 そもそも、文献が残っているから正しい、逆にないから間違っているというのは、あまりにも短絡的な考え方である。世間においても、当然の認識であることはあえて文書にしない場合もあるように、文献の存否だけをもって、物事を即断することはできないのである。
 また甚深な意義を有する故に、内容の詳細に関してはみだりに公開することなく、文献としては非公開である可能性も考えられる。
 大事なことは、その文献の内容が、文理現の三証に照らして間違いのないものであるか、どうかであり、文献はあくまでも傍証にすぎないことを心得るべきである。
 なお、日興上人の御振舞いに明らかなように、宗門上古には、ただ1人として日興上人への唯授一人血脈相承を非難する者は無かったから、ことさらに御相承を問題にする必要もなかった。日興上人が付弟であることは揺るぎない事実であるが故に、当時の人々は、あえて二箇相承を書き写したりする必要もなかった、といえるのである。そして、二箇相承の内容は「要旨」としては周知であったものの、文献の詳細に関してはみだりに公開されていなかったことから、記録によって日付や文体の異同が生じた、と考えられるのである。
 また「二箇相承が大石寺にないのはおかしい」という疑難に関してだが、「二箇相承」は日興上人への御付嘱状である。日興上人が大石寺を日目上人にお譲りになられ、重須の談所にお移りになられる際、ご自分でお持ちになるのが至極当然であり、正本は日興上人が身にあてて所持され、御遷化(せんげ)を迎えた重須に蔵されていた、と考えるのが自然である(その後は戦乱の世に加え、横行した御宝物の窃盗・強奪等によって、文献としての二箇相承書は行方不明となった)。したがって、大石寺にないことは、何も問題のない事柄である。
 そもそも「二箇相承」は、大聖人から日興上人への御付嘱を証明する文書ではあるが、唯授一人血脈相承の内容ではない。その当体・実義は、単に文献の授受のみによって譲渡されるようなものではなく、唯我与我の尊い御境界の上からお命に具わりたもう御法魂なのである。
 なお、付け加えておくが、以前、創価学会では『日蓮正宗創価学会批判を破す』等において、「二箇相承」を偽書とする輩の論難を破折しているが、時が移り、その破折によって今度は自分たちが破されているのは、なんとも滑稽(こっけい)である。創価学会では「時代」を殊更に強調し、狡猾(こうかつ)な教義改変を正当化するが、その果てに待っているのは、極悪謗法の醜態(しゅうたい)である、と自覚すべきである。

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 しからば、真実の日蓮宗と、ニセモノとはどこで見分けるのだ。どこに標準をおくのかというなら、大聖人の御遺言(『日蓮一期弘法付嘱書』御書全集1600頁)を拝見しなくてはならない。
 「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中(なかんづく)我が門弟等此の状を守るべきなり。
 弘安五年壬午九月 日
日蓮在御判
血脈の次第日蓮日興」
 このように、日蓮大聖人の仏法は日興上人に御相伝になり、日興上人は大聖人滅後7年にして延山をお去りになって、富士郡上野村の大石ケ原をひらいて大石寺を建てられたことは、歴史の厳然たる事実である。
 その後、6百数十年、「時を待つべきのみ」との御遺命をつつしみ、代々の御法主上人は清浄に法を守り、かつ正しく相伝して、ここにいたったのである。(「折伏論」S26.6.10『戸田城聖全集』第3巻93頁)





「二箇相承は偽書、六老全てに相承」?

―史実からも道理からも相承は日興上人に―
(『慧妙』H17.6.1)

 二箇相承とは、御本仏日蓮大聖人が、御入滅に先立って、御自身の仏法のすべてを日興上人にお譲(ゆず)りあそばされたことを示す、2通の譲り状のことをいいます。
 すなわち、『日蓮一期(いちご)弘法付嘱書(身延相承書)』と『身延山付嘱書(池上相承書)』のことです。
 まず、弘安5年9月、御入滅が近いことを予期されていた大聖人は、身延を出て常陸(ひたち)に向かわれるにあたり、とくに日興上人をお召しになって、『日蓮一期付嘱書』を授(さず)けられました。
 「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てられるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つベきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。
 弘安五年壬午九月 日
日蓮 花押
血脈の次第 日蓮日興」(御書1675頁)
 この『一期弘法付嘱書』により、大聖人が、日興上人ただ御1人に御自身の仏法の一切を付嘱され、日興上人を広宣流布の総指揮を執(と)られる本門弘通の大導師と固く決定あそばされたことが、明確に拝せられます。
 さらに、同年10月13日の御入滅当日の朝、大聖人は、池上宗仲の邸において、重ねて『身延山付嘱書』を日興上人に授けられました。
 「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。
 弘安五年壬午十月十三日
武州池上
日蓮花押」(御書1675頁)
 この『身延山付嘱書』では、日興上人への付嘱を再び確認され、日興上人を身延山久遠寺の第2代・別当(住職)すなわち一宗の統率者であると明記され、日興上人に従わない者は謗法の者である、と門下に対して厳しく誡(いまし)められています。
 この二箇相承を拝すれば、御本仏日蓮大聖人の正統真実の仏法が、すべて日興上人ただ御1人に付嘱されたことは明らかであります。
 しかるに、大聖人の門流と名乗りながらも、二箇相承を認めてしまえば自らの立場が成り立たないために、日興上人への付嘱を否定せんとする輩(やから)がいます。
 彼等のおもな主張は、大聖人が本弟子6人を定め置かれたことをもって、「日興上人が兄弟子をさしおいて付嘱を受けているはずがない」とか「付嘱は6人すべて受けているのだ」といったものです。
 また、かの池田創価学会においても、最近では会員達が、二箇相承の正本が紛失していることを理由に、「二箇相承の存在そのものが疑わしい」などと言い出しています。
 これらの疑難について、簡単に破折していきたいと思います。
 まず、本弟子6人についてですが、大聖人は弘安5年10月8日、日持・日頂・日向・日興・日朗・日昭の6人を本弟子6人と定められました。
 そして、これを大聖人の御命によって日興上人が記録された書(『宗祖御遷化〈せんげ〉記録』御書1863頁)には、冒頭に「弟子六人の事 不次第」とあって、入門の若い順(逆次)に6人の名前が記されています。
 しかし、ここでわざわざ「不次第」と念記されているのは、すでに(9月に)日興上人ただ御1人が付嘱を受けておられるが故に、"入門順に上下の位が定まるものではない"ということを示されんがためであり、けっして"6人が平等に法を付嘱された"などという意味ではありません。
 また、この本弟子6人が定められた真の理由は、各地の僧俗が本弟子を通じて大師匠である大聖人を拝していく、その師弟の筋目を明確にすることにあったのです(そのことは日興上人の『佐渡国法華講衆御返事』の中で明らかにされています)。
 ですから、本弟子6人が定められたことと日興上人の付嘱とは、別問題であり、まして、入門の順番によって日興上人への付嘱が否定されることなど、絶対にありえないのであります。
 そもそも仏法の奥義は、師がもっとも勝(すぐ)れた弟子を1人選んで付嘱(相伝、相承)され、正しく後世に伝えられるものです。
 ゆえに、釈尊は迦葉(かしょう)1人に付嘱し、迦葉は阿難に譲って、24代まで達しています。また、中国の天台大師も一切を弟子の章安に付嘱していますし、日本の伝教大師も義真ただ1人に付嘱を与えています。
 こうした、唯授一人・面授口決という方軌を、日蓮大聖人だけが破られる、などというはずがないではありませんか。
 日蓮大聖人は、末法万年にわたって正法を正しく守り伝えていくため、多くの御弟子の中から、よく大聖人と一体の境地に至っていた日興上人御1人を選んで、甚深の法義のすべてと御内証(御本仏の胸中に秘められた真実の悟り)の法体そのものを、余すところなく付嘱されたのであります。
 また、二箇相承の正本が紛失しているということについてですが、たしかに、二箇相承は、残念ながら、日興上人御遷化後の天正9年(1581年)3月17日、武田勝頼によってその正本が押収され、そのまま所在がわからなくなってしまいました。
 しかしながら、当時の多数の写本が残っていますので、二箇相承が存在したことは明白であり、かつ、正本が紛失した時の事情も明らかである以上、二箇相承の存在と日興上人への付嘱については、1点も疑う余地はありません。
 何より、日蓮大聖人の御入滅後、大聖人の跡を継いで身延山久遠寺の第2代・別当となられたのは日興上人であった、という事実が、大聖人から日興上人への御付嘱を証明している、といえましょう。
 以上のように、日蓮大聖人の仏法は、日興上人に相承され、その後も唯授一人の血脈相承によって、富士大石寺にのみ、厳然と伝わってきています。
 私達は、大聖人の仏法を正しく伝えてくださった日興上人の御恩徳を忘れることなく、相伝に基づく正しい信心に励んでまいりましよう。







大御本尊への疑難破折

◆農民信徒たちの不惜身命の姿に、大聖人は、民衆が大難に耐える強き信心を確立したことを感じられて、10月1日に著された聖人御難事で「出世の本懐」を遂げる時がきたことを宣言されました。「出世の本懐」とは、仏がこの世に出現した目的という意味です。 そして、弘安2年(1279年)10月12日に一閻浮提総与の大御本尊を建立されたのです(一閻浮提総与とは全世界の人々に授与するとの意)。(「熱原の法難と大御本尊建立」/<SOKAnet>090315)

◆広宣流布に戦う信心強き庶民郡の本格的な出現を機に、大聖人は大御本尊を建立されたのです。3年前の建治2年(1276年)に著わされた「報恩抄」に仰せのように南無妙法蓮華経は万年の未来まで、流布して末法の人々を救っていける大法である。しかし、出世の本懐である大御本尊の建立は、それを受持し奉る「不惜身命の民衆」の出現を待たれて実現されたのです。(池田大作『御書の世界』第22回「熱原法難(下)」/<若鷹>BBS090315)

◆席上、会長は「仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり」(御書全集1189頁)を拝読。
 大聖人の出世の本懐であられる大御本尊の御図顕は、熱原の法難が契機であり、それは日興上人を中心とする弟子の弘教の闘争によって起きたものであったと述べ……(『聖教新聞』H17.10.13/<【本館】破邪顕正>WS)
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学会員の中には、「大御本尊は出世の本懐ではない」「大御本尊は後世の偽作」と言って、法華講員に対して「証拠を出せ!」と息巻く者がある。しかし大御本尊を否定する学会員よ、まずは「弘安2年の大御本尊が出世の本懐」とする自分たちの師匠と対論すべきではないのか。


「出世の本懐」「一閻浮提第一の本尊」「本門寺の戒壇」


【出世の本懐】
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大石寺では、本門戒壇の本尊を大聖人出世の本懐だ、などと立てているが、そのような文証があるなら出してみろ。
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<出世の本懐の時期>
1●此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがことし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり(弘安2年10月1日『聖人御難事』御書1396、全集1189頁)
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 古来、これに疑難をなす妄弁者共は、「これは立宗以来、27年が経(た)った、という年月の経過を述べたにすぎない」だとか「立宗以来、27年間にわたり大難を受けた、ということを述べたもの」などと言って、涼しい顔をしている。
 だが、この御文が、そのようにしか読めないとすれば、よほど国語能力がないか、根性が曲がっているかの、いずれかであろう。
 この御文は、三国四師(インド・中国・日本の三国に、釈尊・天台・伝教・大聖人という4人の法華経の行者がいること)の関係において、まず前に、三師が出世の本懐を遂げるまでの年数「四十余年」「三十余年」「二十余年」と、そこに至るまでにはいずれも大難があったことを挙、(あ)げられ、次に、それと対比する形で、日蓮大聖人の場合の年数は「二十七年」で、それまでの間にはやはり大難があったことを述べられているのである。
 されば、「余は二十七年なり」とは、語の重複を避けて省略されているものの、理の指(さ)し示すところ、「余は二十七年にして出世の本懐を遂ぐるなり」の意であることは、誰の目にも明らかであろう。
 これを、妄弁者らのごとく読むとすれば、わざわざ前文に、三国四師の出世の本懐までの年数を挙げられた理由がなくなってしまい、文意が支離滅裂となってしまう。むりな曲解は禁物である。(『慧妙』H17.2.16)

[出世の本懐]=釈尊の出世の本懐は法華経28品を説くことであり、天台大師の出世の本懐は摩訶止観を説くことであった。(学会教学部編『新版仏教哲学大辞典』初版)


<出世の本懐とは大御本尊>
さて、かくして大聖人は、この時期(弘安2年10月1日の近辺)に出世の本懐を遂げられたことになるが、それは具体的に何を指しているのか―。

2●出世の本懐とはこれなり(文永12年3月『阿仏房御書』御書793、全集1304頁)
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 大聖人は、すでに文永12年3月の時点で、宝塔=曼荼羅(まんだら)御本尊を指して「出世の本懐」と仰せである。これと、弘安2年10月1日の「余は二十七年」(『聖人御難事』)の御教示より、御自筆の、それも弘安2年10月1日近辺に顕(あら)わされた御本尊が出世の本懐であることは間違いない。
 とすると、唯一、その脇書に「本門戒壇」とお認(したた)めがあり、かつ堅牢(けんろう)な楠板をもって建立された(御筆御本尊のうち板御本尊はただ1体である)、弘安2年10月12日の大御本尊以外に、出世の本懐と認(みと)められる御本尊はないのである。(『慧妙』H17.2.16)

 当に知るべし、智者大師は隋の開皇十四年、御年五十七歳、四月二十六日より止観を始め、一夏にこれを説いて四年後、同十七年、御年六十歳の十一月に御入滅なり。
 吾が大聖人は文永十年四月二十五日に当抄を終り、弘安二年、御年五十八歳の十月十二日に戒壇の本尊を顕して四年後の弘安五年、御年六十一歳十月の御入滅なり。
 これに三事の不可思議あり。
 一には天台大姉は五十七歳にして止観を説き、蓮祖大聖は五十八歳にして戒壇の本尊を顕す。また天台は六十歳御入滅、蓮祖は六十一歳御入滅なり。これ則ち像末の教主の序、豈不思議に非ずや。
 二には天台は四月二十六日に止観を始め、蓮祖は四月二十五日に当抄を終る。天台は十一月御入滅なり。蓮祖は十月御入滅なり。蓮祖は後に生れたまうと雖も、下種の教主なり。故に義、前に在り。
 この故に蓮祖は二十五日応当抄を終り、十月の入滅なり。天台は前に生れたまうと雖も、熟益の教主なり。故に義、後に在り。この故に二十六日に止観を始め、十一月の入滅なり。種熟の序、豈不思議に非ずや。
 三には天台・蓮祖は同じく入滅四年已前に終窮竟の極説を顕す。寧ろ不思議に非ずや。

(第26世日寛上人『観心本尊抄文段』)


●就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり(第26世日寛上人『観心本尊抄文段』)

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御書(『聖人御難事』)の日付が10月1日で大御本尊建立は12日であるから御書をお認めの時には未だ御本尊の建立はなかった。だから、大御本尊は出世の本懐ではない。
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此の議論は御本尊の尅体(こくたい)に余り捉(とら)はれたものです。卑近な例で礼を失しますが囲碁の名人戦に於て最後まで打たずに幾手か手前で勝負あつたとして石を置きますのは既に双方の筋を読んでをるからであります。此れは石を置いたと同じだからでありませう。前から法難の成り行きと此れに処する信徒の行動を注視あそばされてゐた大聖人は、鎌倉よりの注進によつて御本尊御建立の事を心に御定め遊ばされたと拝すべきでありませう。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1383頁)

名前起点出世の本懐起点からの年数(※)
釈尊成道(30歳)法華経の説法開始(72歳)

●法華経は如来出世の本懐(『守護国家論』全集40頁~)
43年
天台大師南岳大師の門下に入る(23歳)「終窮究竟の極説」とされる一念三千の法門を明かした『摩訶止観』を講説(57歳)

●天台大師は霊山の聴衆として如来出世の本懐を宣べたもうと雖も時至らざるが故に妙法の名字を替えて止観と号す(『立正観抄』全集529頁)

35年
伝教大師比叡山寺において法華十講を始める(798年)法華経による「大乗戒壇」の勅許が下りる(822年)25年
大聖人立宗宣言(1253年4月28日)本門戒壇の大御本尊造立(1279年10月12日)27年
※「数え年」と同じ要領で表記

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◆教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ(『崇峻天皇御書』)
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出世の本懐とは、「御義口伝に云く大願とは法華弘通なり」の御金言のごとく、広宣流布のための実践活動すること自体が「真の出世の本懐」である。
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<「出世の本懐は人の振舞」について>参照


◆大聖人は、熱原の法難における民衆の信心に呼応して、弘安2年10月12日に、出世の本懐として大御本尊を顕された(斉藤教学部長 H14.3.28 於全国総県長会議/<日蓮正宗>WS)
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この発言は『聖教新聞』(H14.3.30)に掲載されたと思われる。



【一閻浮提第一の本尊】
●文永8年10月9日 本尊を顕わす(「日蓮大聖人年表」14頁/『新編御書』)
●佐渡に出発される前日の10月9日、大聖人は手もとにあった粗末な筆(楊枝の筆)で一幅の妙法漫荼羅を図顕されました。この漫荼羅は現在、京都立本寺(日蓮宗)に所蔵されていますが、これが大聖人御一代における最初の本尊となります。(「日蓮大聖人今昔物語」『妙教』)
3●此の釈に闘諍の時と云云、今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり、此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し(文永10年『観心本尊抄』全集254頁)
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これは大聖人様が、唯一の本懐の御本尊として本門戒壇の大御本尊を未来にお顕しになるための予言なのです。故に未来の一言として「立つべし」と仰せられている。大聖人様は決してこの約束を反故にされていません。そこのところをよく拝さなければならないわけです。(第67世日顕上人・夏期講習会H12.7.27)
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 『観心本尊抄』は、文永10年の述作である。文永10年の時点で「一閻浮提第一の本尊」建立の時期は「立つ可し」と未来形をもって示されている。さらに具体的には「自界叛逆・西海侵逼の二難」が起こる時であると教示されている。
 一方、大聖人は『観心本尊抄』述作以前の文永8年10月には既に本尊を顕されている。このことから、「一閻浮提第一の本尊」とは大聖人書写の数多の曼荼羅本尊の中でも特別な(それこそ一閻浮提第一の)存在であることが分る。
 他国侵逼難は文永11年と弘安4年に起こっている。これは『聖人御難事』で出世の本懐の時期を「余は二十七年」(1●)とされた年即ち弘安2年と符合している。

[べし]=①確実な推量・予想を表す。…にちがいない。きっと…だろう。
②意志・決意を表す。…つもりだ。きっと…(よ)う。
③当然だ、適当だと判断する意を表す。…はずだ。…といい。…のがよい。
④勧誘・命令の意を表す。…なさい。…なければならない。
⑤可能の意を表す。…ことができる。…ことができよう。(三省堂『例解古語辞典』第3版)

[一閻浮提第一の本尊]=全世界で最も勝れた本尊のこと。日蓮大聖人が、弘安2年(1279年)10月12日に御図顕された本門戒壇の大御本尊をいう。(創価学会教学部編『新版仏教哲学大辞典』初版)



【弘安2年の大御本尊】
4●日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。(第2祖日興上人『日興跡条々事』御書1883頁・真蹟大石寺)
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大聖人出世の本懐たる弘安2年の大御本尊は、唯授一人相承に伴い、第2祖日興上人に授与され、さらに第3祖日目上人へと伝わったのである。これこそ「一閻浮提第一の本尊」である。尚、第59世日亨上人は『富士日興上人詳伝(下)』(58頁)において『日興跡条々事』を"正史料"と認定されている。

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真筆とされる御文は
「日興が身に宛て給はるところの弘安二年の大御本尊は日目に○○○○之を授与す(之れを相伝す本門寺に懸け奉るべし)」
となっており、その○○のところは削ってあり、( )の中は他人の筆である。此れは後年都合の悪い文字を削り、都合のよい文字を加へたのである。此れをもつて本門寺の戒壇御本尊といふのは誤りであるは明らかだ。(高田聖泉『興尊雪寃(せつえん)録』/『日淳上人全集』1458頁~)
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其の論拠は『日蓮宗々学全書』の冠註にある。全く馬鹿ばかしくてお話しにならない。成程御真跡の文字の削除や加入は冠註の如くである。しかし、これは後年どころか日興上人が直々なされたことである。此れこそ上人の御用意が万々籠(こも)らせ給ふところで、我々が涙をもつてその思召の程を拝察申上げるところである。此には此れ以上は申さない。軽々しく申すべきではないからである。高田氏に一分の道念があれば日蓮正宗に帰依してその御真書を拝したら此のことは納得がゆくといふことだけを申してをく。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1462頁)
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もし同書が謀作であるならば、わざわざ文字の削除や加筆をする訳がない。だからこそ高田某も加筆された部分のみが他人の筆であると考えた訳である。しかし、もし、高田某の言うとおりだとしても「日興が身に宛て給はるところの弘安二年の大御本尊」の存在は証明される。また、全体の内容から日目上人への御付嘱状に相違ない。であるならば、「弘安二年の大御本尊」も日目上人へ付嘱されたと考えるのが当然。さらに第1条には「本門寺建立の時」云云とあり、第3条は「広宣流布を待つべきなり」とあるのだから、第2条の「弘安二年の大御本尊」も本門寺建立との関係で記述されたことが容易に推察できる。

●熱原の法華宗二人(「二」ハ「三」ノ誤リナリ=日亨上人)は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす(第4世日道上人『三師御伝土代』/『富士宗学要集』第5巻8頁)
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日興上人と御相談にて御本尊を建立遊ばされたのであるは明らか(第65世日淳上人『日淳上人全集』1461頁)
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熱原の法難を機縁として、弘安2年に建立された御本尊の存在することは明らかである。この御本尊こそ「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」(『日興跡条々事』)である。

以上のことから出世の本懐とは曼荼羅本尊建立のことであり(2●)、これに総別がある。別とは宗旨建立27年(1●)に当る弘安2年建立の本門戒壇の大御本尊であり、他国侵逼難が惹起する時に建立された「一閻浮提第一の本尊」(3●)である。これこそ日興上人が「日目に之を相伝す」「本門寺に懸け奉るべし」と仰せられた法体である(4●)。

番号時期文証出典内容
文永8年10月本尊を顕わす「日蓮大聖人年表」14頁/『新編御書』これは自界叛逆難(②)、他国侵逼(西海侵逼)難(④)が起こる前である
文永9年2月自界叛逆難の現証としては、文永9年(1272年)には執権北條時宗の異母兄・時輔の謀反の陰謀が発覚し、名越時章、教時らとともに誅殺されている。創価学会教学部編『新版仏教哲学大辞典』初版これが③の「自界叛逆」の難
文永10年4月今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり、此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し『観心本尊抄』全集254頁この時既に本尊を書写されていたことから(①)、「一閻浮提第一の本尊」とは唯一の特別な意味を持つ本尊である
文永11年10月5日蒙古来襲「日蓮大聖人年表」15頁/『新編御書』これが③の「西海侵逼」の難
文永12年3月(宝塔=曼荼羅御本尊を指して)出世の本懐とはこれなり『阿仏房御書』全集1304頁出世の本懐とは曼荼羅本尊である
弘安2年10月1日此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。(中略)余は二十七年なり『聖人御難事』全集1189頁出世の本懐とは曼荼羅本尊(⑤)の中でも弘安2年に書写された本尊である
元弘2年11月日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし『日興跡条々事』御書1883頁・真蹟大石寺・弘安2年に出世の本懐として顕された曼荼羅本尊(⑥)は、大聖人→日興上人→日目上人と相伝された
・この本尊こそ広布達成時に「本門寺に懸け奉る」べき「一閻浮提第一の本尊」(③)である。


<学会への質問>
・大聖人が時期を限定されて「自界叛逆・西海侵逼の二難」(『観心本尊抄』)が起こる「此の時」(同)に「立つ可し」(同)とされた「一閻浮提第一の本尊」(同)とは何か。
・大聖人が特に年を限定されて「余は二十七年」(『聖人御難事』)に「出世の本懐を遂げ給ふ」(同)と仰せられた「出世の本懐」とは何か。
・日興上人が「本門寺に懸け奉るべし」と仰せられた「弘安二年の大御本尊」とは何処にあるのか。


◆きょう12日は、日蓮大聖人が一閻浮提総与(世界の全民衆のため)の大御本尊を御図顕された日である。(『聖教新聞』社説 H17.10.12/<【本館】破邪顕正>WS)
◆弘安2年10月12日の大御本尊御図顕の日(『聖教新聞』1面 H17.10.13)
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 学会本部で12日、「日蓮大聖人御入滅の日」ならびに「弘安2年10月12日の大御本尊御図顕の日」を記念する勤行法要が行なわれた旨(むね)の報道がなされている。
 じつは、創価学会は昨年も、10月13日に勤行法要を行なっているが、それは「日蓮大聖人御入滅の日」を記念しての勤行法要であって、「大御本尊御図顕の日」を記念する行事は何ら行なわれた形跡がない。
 それもそのはず、学会では平成4年に改変した観念文においても、平成14年に改訂した会則においても、「弘安2年10月12日」「本門戒壇の大御本尊」という文言を削(けず)り取って、「一閻浮提総与の大御本尊」という抽象的な表現に改竄(かいざん)、以来、日蓮正宗大石寺(および弘安2年の本門戒壇大御本尊)からの、完全な分離独立路線を走っていたからである。
 この先に待つものは、池田大作による根本の本尊図顕であろう、と思われるなか、どうして、また、ここで、本門戒壇の大御本尊にこだわる方向へと舵(かじ)を戻したのか、果たして池田は、自ら本尊を顕(あら)わすことを断念したのか―。
 いずれにしても、ここでわざわざ「弘安2年10月12日に御図顕の大御本尊」、すなわち、大石寺奉安堂に御安置奉る本門戒壇の大御本尊の御図顕を記念する勤行法要を行なったということは、創価学会は再び、大石寺の本門戒壇の大御本尊が信仰の根本であることを口先だけとはいえ、認めたということだ。(『慧妙』H17.10.16)



【本門寺の戒壇】
<大聖人の御当体=末法弘通の法体=罪障消滅のため参詣すべき対象>
5●戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(『御義口伝』全集760頁)

6●三大秘法其の体如何、答て云く予が己心の大事之に如かず汝が志無二なれば少し之を云わん寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり(中略)戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋(ふみ)給うべき戒壇なり(『三大秘法禀承事』全集1022頁)

7●我が身法華経の行者ならば霊山の教主・釈迦・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化の大士・迹化の大菩薩・梵・釈・竜神・十羅刹女も定めて此の砌におはしますらん、水あれば魚すむ林あれば鳥来る蓬莱山には玉多く摩黎山には栴檀生ず麗水の山には金あり、今此の所も此くの如し仏菩薩の住み給う功徳聚の砌なり、多くの月日を送り読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし、然るを毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか、弥はげむべし・はげむべし。(弘安3年10月8日『四条金吾殿御返事』全集1194頁)

8●其の上此の処は人倫を離れたる山中なり、東西南北を去りて里もなし、かかる・いと心細き幽窟なれども教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所・喉は誕生の処・口中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり(中略)彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり、参詣遥かに中絶せり急急に来臨を企つべし、是にて待ち入つて候べし、哀哀申しつくしがたき御志かな・御志かな。(弘安4年9月11日『南条殿御返事』全集1578頁)
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 「毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか」(7●)と大聖人が登山を強く勧められているのは、「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(8●)の理による。法とは「寿量品の事の三大秘法」(5●)であり「其の体」(6●)は「寿量品に建立する所の本尊」(6●)即「法華経の行者の一身の当体」(5●)である。
 すなわち大聖人即本尊であるが故に、その場所に参詣することによって(説法を聞くためではない)無始以来の罪障が消滅する大功徳があるのである。


<大聖人の当体たる本尊安置の場所が本門事の戒壇>
 大聖人即本尊所住の地が「霊山の教主・釈迦・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化の大士・迹化の大菩薩・梵・釈・竜神・十羅刹女も定めて此の砌におはしますらん」(7●)と仰せになっている。
 一方「事の戒法」たる本門事の戒壇についても、大聖人所住の地同様「懺悔滅罪」(6●)「大梵天王・帝釈等も来下して蹋(ふみ)給う」(同)と仰せである。このことから、広布達成時に建立される戒壇には大聖人の当体たる御本尊が安置されることが分かるのである。


<本門寺の戒壇には弘安2年の大御本尊を安置>
「毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか」(7●)との御手紙を頂いた四条金吾は、このとき既に曼荼羅本尊を頂戴していた。それでも大聖人は金吾殿に「我が身法華経の行者ならば霊山の教主・釈迦・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化の大士・迹化の大菩薩・梵・釈・竜神・十羅刹女も定めて此の砌におはしますらん」との御指南をされ、身延への参詣を奨励されている。このことから、「大梵天王・帝釈等も来下」(6●)し弟子檀那が「懺悔滅罪」(同)のために参詣すべき「戒壇」(同)に安置される本尊は一機一縁の御本尊とは別格であることが分る。とすれば大聖人御親筆本尊中唯一「本門戒壇」の文字があり、「此の法門申しはじめて今に二十七年」(9●)に「出世の本懐を遂げ給う」(同)と仰せになった弘安2年10月書写の本尊こそ、真実の法即人・人即法、御本仏日蓮大聖人の御当体たる御本尊ということになる。

9●清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年〔太歳己卯〕なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり。(『聖人御難事』全集1189頁)

10●日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。(『身延相承書』全集1600頁)
11●日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。(第2祖日興上人『日興跡条々事』御書1883頁・真蹟大石寺)
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広布達成時の「戒壇」(6●)は「本門寺」(10●)内に建立される。この「本門寺」「戒壇」「に懸け奉る」(11●)本尊こそ「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」(同)なのである。

「三大秘法其の体如何(中略)寿量品に建立する所の本尊」(6●)
「本尊とは法華経の行者の一身の当体」(5●)
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末法弘通の法体は曼荼羅本尊即日蓮大聖人

「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり(中略)彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり、参詣遥かに中絶せり急急に来臨を企つべし」(8●)
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人法一箇の御本尊に参詣することによって罪障消滅

「戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋(ふみ)給うべき戒壇なり」(6●)
「本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり」(10●)
「弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。」(11●)
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一切衆生が参詣すべきは弘安2年の大御本尊のみ

 大聖人が「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」(6●『三大秘法禀承事』)と仰せになった以上、「戒壇」に安置すべき本尊がなくてはならない。本尊とは勿論「寿量品に建立する所の本尊」(同書)である。
 「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて」(同書)と仰せのように、一切衆生が参詣すべき場所は地球上に1ヵ所のみである。
 「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり(中略)彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり、参詣遥かに中絶せり急急に来臨を企つべし」(8●『南条殿御返事』)と仰せのように参詣すべき場所には法体がなくてはならない。法体=曼荼羅本尊は数多(あまた)存在するが一切衆生が参詣すべき唯一の戒壇に安置されるべき法体は、自余の本尊とは別格であるはずである。

以上のように、曼荼羅本尊は数多存在するのに対し、一切衆生が懺悔滅罪のために参詣すべき本門寺の戒壇は1つしかない。だから、この戒壇に安置すべき特別の御本尊に関する御指南が必ずあるはずである。しかして、これについての御指南は、ただただ大聖人付法の弟子・日興上人の門流にのみ存在するのである。


<罪障消滅のために参詣する場所と対象>
時期参詣場所拝む対象文証
御在世久遠寺または大聖人居住の処大聖人または大御本尊・我が身法華経の行者ならば(中略)毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか(『四条金吾殿御返事』)
・本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(『御義口伝』)
滅後大石寺大御本尊・本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。(中略)志有らん人は登山して拝したまへ(第26世日寛上人『寿量品談義』)
広布達成時本門寺本堂大御本尊・一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋(ふみ)給うべき戒壇なり(『三大秘法禀承事』)
・国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり(『身延相承書』)
・弘安二年の大御本尊は(中略)本門寺に懸け奉るべし(第2祖日興上人『日興跡条々事』真蹟大石寺)


<学会員への質問>
・もし、大御本尊が偽物であるならば、「一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋(ふみ)給うべき戒壇」(『三大秘法禀承事』)に安置すべき御本尊は、一体何処にあるのか。
・「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。」(『日興跡条々事』)という「弘安二年の大御本尊」は何処にあるのか。
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●小乗戒壇には仏像を置かず、四天王を四隅に立て、三師七証をもって授戒をなす。迹門戒壇には釈迦牟尼仏を請して和尚とし、文殊師利菩薩を請して阿闍梨とし、弥勒菩薩を請して教授とす。これが小乗の三師にあたるがゆえに現在の僧は単に伝戒の役をなすのみ。これをもってかんがうれば、本門戒壇にはむろん本門の大曼荼羅を安置すべきことが、とうぜんであるので、未来建立の本門戒壇のために、とくに硬質の楠樹をえらんで、大きく四尺七寸に大聖が書き残されたのがいまの本門戒壇大御本尊であり、すなわち、小乗の三師にあたり、円頓の釈迦文殊弥勒にあたり、当時の法主は伝戒の大任を負うのみである。(第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝(下)』59頁)

1351(正平6=聖滅70年)3. 三位日順、『摧邪立正抄』を著す(『富士年表』)
●法華は諸経中の第一・富士は諸山中の第一なり、故に日興上人独り彼の山を卜して居し、爾前迹門の謗法を対治して法華本門の戒壇を建てんと欲し、本門の大漫荼羅を安置し奉つて当に南無妙法蓮華経と唱ふべしと(日順『摧邪立正抄』/『富士宗学要集』第2巻43頁)
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 日順師は日興上人の弟子。将来建立される「法華本門の戒壇」に安置される本尊が「本門の大曼荼羅」だと明言している。「富士は諸山中の第一」とあるから「法華本門の戒壇」とは富士に建立されることが分る。これは事の戒法について言及した『三大秘法禀承事』にも明示されていないことであり、大聖人御書中『日蓮一期弘法付嘱書』と『百六箇抄』のみに示されたことである。この戒壇に安置される「本門の大曼荼羅」についての御指南は『日興跡条々事』に示されている。
 つまり、「富士は諸山中の第一」「法華本門の戒壇」の語は、明らかに『日蓮一期弘法付嘱書』と『百六箇抄』の存在を裏付けるものであり、「本門の大曼荼羅」の語は『日興跡条々事』の存在を証明するものである。

●『日興跡条々事』の御文を知らないか、或は偽書として無視するものが多いが、それがために重大なる錯誤に堕するのである。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1341頁)

12●此の釈に闘諍の時と云云、今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり、此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し月支震旦に未だ此の本尊有さず、日本国の上宮・四天王寺を建立して未だ時来らざれば阿弥陀・他方を以て本尊と為す、聖武天皇・東大寺を建立す、華厳経の教主なり、未だ法華経の実義を顕さず、伝教大師粗法華経の実義を顕示す然りと雖も時未だ来らざるの故に東方の鵝王を建立して本門の四菩薩を顕わさず、所詮地涌千界の為に此れを譲り与え給う故なり(文永10年『観心本尊抄』全集254頁)
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『観心本尊抄』には四天王寺、東大寺、延暦寺に比して閻浮提第一の御本尊建立を仰せ給ふ(第65世日淳上人『日淳上人全集』1463頁)。四天王寺、東大寺、延暦寺(戒壇)はすべて権力者が建立したものであり、東大寺は小乗戒、延暦寺は法華経迹門の戒壇である。このことから一閻浮提第一の本尊=本門事の戒壇安置の本尊、であることは明白である。

★一閻浮提第一の本尊=広布達成時の戒壇安置の本尊=出世の本懐=弘安2年の大御本尊
★広布達成時の戒壇=本門寺の戒壇

一閻浮提第一の本尊=広布達成時の戒壇安置の本尊(6●12●)
一閻浮提第一の本尊=出世の本懐(1●3●)
出世の本懐=弘安2年の大御本尊(1●4●)
広布達成時の戒壇=本門寺の戒壇(6●10●11●)





大聖人滅後の記録


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「束(つか)」の存在は同時に台座が造られたことを意味し、当初より安置されたことを示していて、秘蔵の意図は感じられない。当時の身延山に公然と安置されたとすると、日蓮門下の何処にもその記録が残っていないのは不審である(『日蓮と本尊伝承』96頁)
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そもそも板御本尊であれば、「秘蔵」であれ、「公然と安置」であれ、建立後に御安置されるのは当然であり、したがってまた初めから束が設(しつら)えられることも当然である。それを束の存在をもって「秘蔵」だとか「公然と安置」だなどといって戒壇の大御本尊をあげつらうこと自体、まさに木を見て森を見ずの謗りに当たるものであろう。(『大日蓮』H20.5)


【久遠寺本堂(大坊)の本尊】
●もし身延沢を御出で候えばとて、心変わりをも仕り候て疎(おろそ)かにも思い進らせず候、又仰せ入り候御法門を一分も違え進らせ候わば、本尊並びに御聖人の御影のにくまれを清長が身にあつく深く蒙(こうむ)るべく候(正応元年12月5日「波木梨清長誓状」/『富士宗学要集』第8巻10頁)
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[通解]=若し万一あなた(日興上人)が身延沢を御立ち去りなされても、私(清長)は一向変心は致しません。又疎末(そまつ)にも御扱い申しません。これ迄仰せ遊ばした御法門の一ヶ条でも違反するような事があったら、大御本尊は勿論の事、大聖人の御影様の御憎悪を、この清長が一身に厚くも深くも蒙りましょう(『日興上人身延離山史』再版140頁)
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これは西山本門寺所蔵の文書で、書誌学的にも疑問の余地のない正史料である(『日興上人身延離山史』再版140頁)。波木梨清長とは波木梨実長の長男である。文中「本尊並びに御聖人の御影」とは、久遠寺に安置されていた大御本尊と大聖人の御影様に相違ない。何故なら、清長が「本尊並びに御聖人の御影」と書いたのは、この2つが久遠寺において一所に安置されていたからであろう。とすれば、当然「本尊」とは曼荼羅本尊であるが、日興上人が身延離山に際して御影様とともに御搬出されたのは大御本尊様だとされているのである。

聖人の御本尊の入らせ給いて候御厨子(ずし)に仏造りて入れ進らせ候わんと申して候いしは、白蓮阿闍梨御房も聞かせ給い候いしに、尤(もっと)も能(よ)かるべしと仰せ候いしなり、聖人の御仏は始成の仏にて候と和泉殿仰せられしを、など聖人は秘蔵し進らせて我より後には墓の上に置けとは仰せ候いけるぞと問答申して候えば、宣(の)べやらせ給い候わで御立ち候いき。(正応2年2月12日「波木梨入道日円より大隈殿への状」/『富士宗学要集』第8巻13頁~)
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これは、日興上人が身延を離山された直後の文書である。「聖人の御本尊の入らせ給いて候御厨子(ずし)に仏造りて入れ進らせ」とあるように、大聖人直筆の曼荼羅が安置されていた御厨子に、御本尊がなかったことが分る。それは何故か、日興上人が離山に際し御搬出されたからに他ならない。では、その御本尊とは何か。史料を見る限り、久遠寺に安置されていた大聖人直筆本尊は"弘安2年の本門戒壇の大御本尊"以外あり得ないのである。尚、文中、日興上人があたかも、仏像の安置を容認されたかのごとき内容が書かれているが、日興上人の他の文書から考えてあり得ないことである。これは、波木梨実長が仏像安置を正当化するために話を捏造したか、あるいは日興上人の仰せを曲解したかのいずれかであろう。
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反問するに日興上人が身延山にましまして何を御本尊と遊ばされてをつたか。(中略)上人の御本尊が大曼荼羅にあらせられたことは否定し得ないところであらう。日円返条に「聖人の御本尊の入せ給ひて候御厨子(ずし)に仏造つて入れ進候はんと申して候しは云々」といふを見れば此れは誰れもが認めるところであらう。然らばその御本尊を御離山に際し奉持遊ばされたとするに何んの不可があるであらうか。日興上人へ給はる御本尊を日興上人が御供申し上げるは理の当然である(日興上人へ給はるといふも此は大導師としての上人へ給はつたのである)。若しこの事実を認めるならば御板なると紙幅なるとは問題ではないが、御板でないといふならばその証拠を示すべきである。若しその証拠がなければ大石寺の伝ふる通りに信従してはどうか。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1320頁~)

●板本尊は延山に多数ある。なかにも、日向の添書に「正安二年庚子十二月日。右日蓮幽霊成仏得道乃至法界衆生平等利益の為に之を造立す」とある丈二尺七寸、幅一尺八寸の大聖人の御筆を写した板本尊が、宝蔵に厳護せられてあるが、ほとんど秘仏で、一般には公開せられていないのはなんのためかを知らぬ。(第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝(下)』120頁~)
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 正安2年は、日興上人身延離山から11年の後であります。更に、その後13年も日向は身延に在住しております。そして、この板御本尊は身延の本堂の本尊としておったことは、この板御本尊造立の正安2年より51年も後の観応2年、辛卯の年に
 「身延山久遠寺同御影堂、大聖人御塔頭、塔頭板本尊  金箔 造営修造結縁」(『日蓮宗宗学全書』第1巻)
と中山3代日祐の『一期所修善根記録』に書き残してあります。
 これをもって身延の御影堂の大聖人の御厨子の中に、日向造立の板本尊が安置してあったことはあきらかであります。(中略)
 一尊四士の釈尊像を中心とする日向が、板本尊を造立したということは、その前に戒壇の大御本尊が存在していたという正しい証明であります。この日向造立の板本尊は、今は富士に気兼ねしてか本堂にまつらず倉庫の中に隠匿しているのであります。(第66世日達上人『本門戒壇の疑難に対する弁駁』/<破折情報館>WS060206)



【記録の少ない理由】
<信心未熟な者への配慮>
一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し(『三大秘法禀承事』全集1023頁)
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戒壇(事の戒法)についての御指南でさえ、一般僧俗には秘密にされたのである。その戒壇に安置すべき大御本尊の意義を秘されるのは、むしろ当然である。久遠寺においては本堂または大坊に安置されていたが、それも一般僧俗が大御本尊の意義を知らなかったからである。

●日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。(第2祖日興上人『日興跡条々事』御書1883頁・真蹟大石寺)
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●本門戒壇にはむろん本門の大曼荼羅を安置すべきことが、とうぜんである(中略)開山上人は、これを弘安二年に密付せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのである(中略)「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」として、戒壇本尊とは書かれなかったのは、大いにこの味わいがある。(第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝(下)』59頁~)
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●上代にはこのことが自他に喧伝せられなかったが、いずれの時代(中古か)からか、遠き広布を待ちかねて特縁により強信により内拝のやむなきにいたり‥(第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝(下)』59頁)
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身延離山後、大御本尊の意義が次第に明らかにされたため、かえって「秘蔵」を余儀なくされた。しかし時の経過とともに「遠き広布を待ちかねて特縁により強信により」"内拝"という形でお目通りが許された、ということか。

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 また、日興上人が富士に移る前は、その本尊は身延山久遠寺にあったことになるが、そのような重大意義をもつ本尊のことを、五老僧は誰一人として知らず、一言も書き残していない
 要するに、本門戒壇の本尊は大石寺が後世に作った偽作であり、大聖人の当時には存在していなかったのである。
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 そもそも、「天台沙門」を自認して、釈尊一体仏の像に執着したり、大聖人御筆の御本尊を死人と共に埋葬(まいそう)してしまうような五老方が、御本尊の意義、なかんずく本懐中の本懐というべき大御本尊の重大意義を、もとより気付けるわけがない。
 それが理解できるような方々であったら、邪宗謗法化して、日興上人から厳しく破折されることになどならなかったであろう。(『慧妙』H17.2.16)


<記述の必要性がなかった>
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正応二年に大石寺に事の戒壇の本尊を安置し本六人已下守番勤仕すとならば日尊日順日代等の俊傑之を見聞せざるの理あらん、乃至一も指示せざる
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●彼の三師等之れを見聞すといへども別に指示すべき事なき故に黙するのみ、例せば富永仲基の『出定後語』に、『大論』一百巻の中に一も大般涅槃経を引用せざるを以って此の経は釈迦滅後七八百年竜樹滅後の偽経と決せり、然れども前代の諸師及び宗祖等曽て之を以って偽とせず殊に信用し給へり、是れ他なし『大論』弘博といへども此の経を引くに用なきが故なり、況(いわん)や彼の三師等が僅(わずか)に五紙七紙一巻二巻の筆語中に是れを指示することなしとて何ぞ之れを偽と決せん、況や今現に此の大本尊在(ましま)すをば如何がすべき。(第52世日霑上人「両山問答」/『富士宗学要集』第7巻100頁)
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日霑上人は、江戸時代の儒学者富永仲基が、大智度論に一箇所も涅槃経の引用がないことを根拠に、涅槃経は龍樹以後に成った偽経であると難じたが、こうした論難に対しては他の誰も支持をしなかった例を挙げられ、彼のお弟子方は大御本尊に触れる必要がなかったから触れなかったまでであると返されています。(榎木鏡道著『富士門流の歴史 重須篇』43頁)

●日興上人独り彼の山を卜(ぼく)して居し、爾前迹門の謗法を対治して法華本門の戒壇を建てんと欲し、本門の大曼荼羅を安置し(重須の学頭三位日順師著『擢邪立正抄』/『富士宗学要集』第2巻43頁)
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大石寺に大御本尊がましましても、日代・日尊師等はその重大さを理解できなかったのであり、その中で重須の学頭三位日順師はただ1人、『擢邪立正抄』に、「●」と、大御本尊のことに明言した事実を(日霑上人が)挙げています。(榎木鏡道著『富士門流の歴史 重須篇』43頁)


<掠奪の回避>
●日有の彫尅(ちょうこく)せる本尊と者(は)、宗祖の御真筆紫宸殿の本尊と称する者之れを模写して彫尅せし事あり。伝へ言ふ其の時乱離の世に乗じ身延の群徒来りて戒壇の本尊及び其の他の諸霊宝を鹵掠(ろりゃく=かすめとること)せんとするの説あるに仍って、日有計って真の本尊及諸霊宝をば駿東部東井出村井出某氏の窖(こう=あなぐら)に蔵し(此家子孫今に連綿し村内一之旧家今の家主弥平冶と号す、此窖今に存し御穴と称し常に香花を供すと云云)日有彫尅の本尊を仮立して且(しば)らく戒壇の本尊に擬せしとなり、事鎮静の後・日有自判を加へ是れを鳥窪の住僧日伝に授与するの文字あり、是れ則方今天王堂に安置せる板本尊是れなり(第52世日霑上人「両山問答」/『富士宗学要集』第7巻102頁)

●古来の雰囲気に注意すれば如何(いか)に富士門に於て身延山側に対し、御宝物のことに関し警戒的空気があつたかは今日の想像以上であつた(中略)全く先師方の記述には常に此の心持ちが表はれてをる。既に日興上人が御離山に当つてわざわざ大井庄司を後楯にせられしは多くこの御懸念にあらせられたことは史伝のいふところであり、此れは引き続き富士門を支配した懸念であつた。それ故一切の記述に於ても此点は常に考慮せられたところである。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1322頁)



大御本尊は、久遠寺の本堂または大坊に安置されて、僧俗皆が拝していた。しかし当時は、その本尊の重大なる意義(出世の本懐、事の戒壇安置の本尊)については、ほとんどの方が知らなかった。後世、大御本尊の意義を知った身延の者たちは、これを取り返そうとした。上代において大御本尊に関する記述がほとんどないのは、凡そ以下の理由によると考えられる。

①事の戒法について御指南された『三大秘法禀承事』には「一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し」(『三大秘法禀承事』全集1023頁)と仰せである。戒壇についての御指南でさえ、一般僧俗には秘密にされたのである。その戒壇に安置すべき大御本尊の意義を秘されるのは、むしろ当然である。

②日興上人は身延離山にあたり、大御本尊と生御影並びに御灰骨等を搬出なされた。このことは、御灰骨以外については波木梨実長等も知っていたことである。しかし、彼らは、大御本尊の意義を知らず仏像に執着していたが故に、これを取り返そうとはしなかった。要するに、身延側の諸霊宝掠奪の難を避けるために、大御本尊についての記述を控えられた。

③日興上人の門弟方は、大御本尊の意義(出世の本懐、一閻浮提最勝の曼荼羅、本門寺本堂に安置すべき本尊)を師より口頭によって伝え聞いていた。だから、わざわざ文書にして残す必要がなかった(ただし、日代等は、本門寺には仏像も安置されると考えていた)。このことは、後に、大御本尊を所持していない日興門流の文献にも大御本尊の記述が存在していることから推察できる。

久遠寺の板本尊、今大石寺にあり。大聖御存日の時の造立也(保田妙本寺第14代・日我/『慧妙』H17.2.16)
●駿州富士大石寺は興師御開闢(かいびゃく)の地也(中略) 日本第一の板本尊高祖聖人の眉間の骨舎利、水精の瓶塔に入れて親く拝見す云々(京都要法寺第18代・日陽/『慧妙』H17.2.16)
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日興上人の流れを汲(く)む他山に、後世までこのように伝わっていたことは、大御本尊が宗開両祖の御時から在(ましま)した傍証といえよう。




【熱原の法難との関連】
<『「弘安二年十月十二日」の周辺』>
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このように差し迫った慌しい状況下で、楠木の巨大な料板を用意し、彫刻せしめ、漆を塗り、塗箔がなされたと想像するのはかなり無理な話である。史実もまた、戒壇本尊の在世における存在を否定していると言わざるを得ない(金原某著『日蓮と本尊伝承』107頁)
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 金原の眼には、熱原法難が突如惹起(じゃっき)したと映るのかも知れないが、事実は数々の予兆の結果であり、大聖人の透徹した仏眼には、このような法難に発展することが、既に予見されていたのである。こうした状況のなかで、御本仏日蓮大聖人は、出世の本懐として戒壇の大御本尊を御図顕されたのであり、『聖人御難事』に、
 「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり」(御書1396頁)
と、大御本尊御図顕の12日前、様々な大難を経て、今こそ出世の本懐を遂げるべき時であることを宣言あそばされている。その時期を冥鑑して周到な御用意をあそばされたことも当然、考えられることである。(森岡雄樹 御尊師『大日蓮』H20.5)



<『御伝土代』の読み方について>
(『慧妙』H19.11.1)
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●熱原の法華宗二人は頸を切られおわんぬ、その時大聖人御感あって日興上人と御本尊に遊ばす(第4世日道上人『三師御伝土代』/『富士宗学要集』第5巻8頁)
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10月12日には(※神四郎等の)斬首はされていない。だから、大聖人が神四郎等の斬首に御感あって大御本尊を建立なさるということは時系列上ありえない。(金原某著『日蓮と本尊伝承-大石寺戒壇板本尊の真実』取意)
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-熱原法難を機縁に大御本尊御図顕-
 そこで、まず、熱原地方で起こった法難についてであるが、これは何の前触れもなく突発的に起きたものではなく、熱原郷に法華衆が急増していくのを怨嫉(おんしつ)した謗法者達により、弘安2年4月頃から迫害が始まり、8月の法華衆徒・弥四郎の斬首を経て、9月21日の神四郎ら20名の信徒拘引でピークに達したものである。
 しかして、『聖人御難事』の執筆された10月1日は、まさに熱原法難の真っ只中の時期であった。
 しかも、同御書に、
 「彼のあつわらの愚癡の者どもいゐはげましてをとす事なかれ。彼等には、たゞ一えんにをもい切れ、よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ。ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ。さむしといわば八かん地獄ををしへよ。をそろしゝといわばたかにあへるきじ、ねこにあへるねずみを他人とをもう事なかれ」(『聖人御難事』御書1398頁)
と仰せられていることから判るように、拘引された熱原の信徒達が、無事に釈放される可能性はほとんどなく(よからんは不思議)、逆に、極刑に処せられることは間違いない(わるからんは一定)であろう、との見通しすらあったのである。
 この時にあたって、出世の本懐を遂(と)げられるべき時機の到来を感ぜられた日蓮大聖人は、同御書に
 「余は二十七年なり」(『聖人御難事』御書1396頁)
と宣言あそばされた。
 そして、その11日後に、本門戒壇の大御本尊を顕わされたのである。
 これに対し、「神四郎等の斬首は10月15日だから、これを機縁として12日に本尊を建立する、などということはありえない」とする疑難は、まったく取るに足らない言い掛かりである。
 すなわち大聖人は、門下僧俗の強い信心によって熱原大法難が起きたことに時機を感ぜられたのであり、ただ3人が斬首されたかどうか、という1点だけを御覧になっていたわけではあるまい。
 また、斬首というなら、すでに8月には弥四郎が斬首されているし、10月1日の時点でも「わるからんは一定」すなわち極刑は確実、という状況が眼前にあった。
 だが、こうした大法難の中にあっても、熱原の信徒達は、退転なく題目を唱え続けていたのであり、ここに、大聖人は時機を御感あって、10月12日に大御本尊を建立あそばされたのである。
 そして、その3日後の15日に至り、拘引された20名のうち3人が斬首されて、熱原の大法難は終息した。

 このことを後世、記述するときに、簡潔に「熱原で法難が起こり、法華衆3人が首を斬られた。その事件に時を感ぜられた大聖人は、出世の本懐たる大御本尊を顕わされた」と書くのは、ごく自然のことであろう。また前出『御伝土代』も、その趣旨で書かれたものに他ならない。
 しかるを、「斬首は10月15日だから、これを機縁に10月12日の段階で本尊を建立することなどありえない」と言って、これに拘泥するのは、まったくためにする疑難、笑うべき言い掛かりである。


-笑うべき言い掛かり-
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>素直に読めば、「日興上人と御本尊にあそばす」とは、「〝日興上人〟と御本尊に認められた」と解釈するのが最も妥当な解釈である。すなわち、熱原法難における日興上人の奮闘を賞せられて、上人号をもって御本尊に記しおかれ云々(金原某著『日蓮と本尊伝承-大石寺戒壇板本尊の真実』)

>この時(『御伝土代』執筆の時)には、この「日興上人」と認められた御本尊が存在したのかもしれない。(同)
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 だが、そのような説は、大聖人が「日興上人」と認められたという御本尊を提示してから言うべきであろう。そんな御本尊が存在したという事実も、記録も、何1つない上、大聖人の御書の中にも「日興上人」と認められたものはないのである。
 ゆえに、全ては金原某の妄想・邪推(じゃすい)と言う外はない。





『日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実』破折

(『慧妙』H19.10.1ほか編集)

【破折①=河邊メモ】
―「メモ」が指すのは後の正信会僧―
 悪書は、故・河邊慈篤尊師の書いたとされる「河邊メモ」を悪用し、自身の邪説を正当化しようとしている。
 そこで、まず「河邊メモ」について説明しておきたい。
「河邊メモ」とは次のようなものである。
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S53・2・7、A面談・帝国H
 一、戒壇之御本尊之件
 戒壇の御本尊のは偽物である
 種々方法の筆跡鑑定の結果解った(字画判定)
 多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ
 日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている
(中 略)
 ※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の
 誰かが売りに出し、それを応師が何処で発見して購入したもの(弘安3年の御本尊)
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 学会側は文中の「A」とは当時・教学部長であった阿部日顕上人のことである、として、日顕上人が昭和五十三年当時、大御本尊を「偽物」と断じていた、と大宣伝してきた。
 だが、これは所詮、メモという性質が問題である。
 この「河邊メモ」を一読してもわかるように、メモというものは自分の覚えとして書き留めるものであるから、主語・述語・背景・状況などが省(はぶ)かれており、第三者が易々(やすやす)とその内容を解読できるものではない。そして事実、学会側はこのメモを誤読しているのである。
 当事者である河邊尊師は、これについて、
●当時の裁判や以前からの「戒壇の大御本尊」に対する疑難について(※日顕上人とお話する中で)、それらと関連して、宗内においても、「戒壇の大御本尊」と、昭和45年に総本山へ奉納された「日禅授与の御本尊」が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折を伺(うかが)ったもの(河邊尊師)
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と、メモを残した当時の状況を述べられた。
 そして、この河邊尊師の説明が当時の状況と合致する、確かなものであることを、本紙『慧妙』(H14.6.1)が証明したのである。これによって、昭和53年当時、大御本尊を「偽物」とする疑難は、日顕上人ではなく、後に正信会となる一部僧侶が口にしていたことが明らかとなった。
 ところが金原某の悪書は、こうした事実を全く知らぬ顔で、
 「宗門中枢より本格的な板本尊批判が登場した。談話メモとはいえ、内容はかなり具体的で、しかも主張するところはすこぶる断定的である
などと述べ、相変わらず、日顕上人が大御本尊を否定して「偽物」と断じたことにしてしまっている。そして、これを最初の足がかりとして、大御本尊と日禅授与御本尊の比較へ入っていくのである。
 要するに金原某は、大御本尊への疑難は日顕上人も述べられているものであるとして、さも、それらしく権威付けをするために、河邊メモを使った、というわけである。
 全く恣意的であり、この河邊メモを利用した諜りはすでに崩れている。重ねて言うが、大御本尊への疑難は、日顕上人ではなく、現正信会の一部が口にしていたのだ。
 いくら繰り返し言い続けても、雪は墨にならない、と知るべきであろう。(『慧妙』H19.10.1)

 金原の悪書は、創価学会が出所を明らかにできない「河邊メモ」なるものを土台として展開し、第6世日時上人や第9世日有上人の時代に戒壇大御本尊が造立されたのではないか―等の邪推を試みている。
 だが、日顕上人はもちろん、メモを書いた故・河邊師本人が、内容について完全に否定しているのであるから、土台が、すでになくなっていることに気付くべきである。
 いかに様々な文献を拾い上げようとも、徒労に終わるのであるから、御苦労なことである。
 しかも、その中で「戒壇の御本尊は偽物である」というメモの文章を、何の迷いもなく「戒壇の御本尊は偽物」と決めつけて読んでいるが、ここにも大きな問題があるといえよう。すなわち、この場合「の」の字の存在は重要で、「の」の字があることによって「戒壇の御本尊の(巻物あるいは写真)は偽物」とならなければ意味が通じなくなり、結果として戒壇の御本尊とは別の「物」が浮かび上がってくるからである。
 それを、あえて「の」の字を無視して読み飛ばし、その上で、あろうことか御隠尊日顕上人が、本門戒壇の大御本尊を偽物呼ばわりしたと、勝手に邪推(じゃすい)しているのだから、呆(あき)れる。(『慧妙』H19.9.16)



【破折②=出世の本懐】
 さて、金原の悪書は、「本門戒壇の大御本尊」の御相貌(そうみょう)に関して触れているが、これについては我々が立ち入るべき内容ではないとしても、次の点において、すでに金原の、妄説は破綻(はたん)している。
 すなわち、本宗では、弘安2年10月1日の『聖人御難事』に
●仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計(ばか)りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり(弘安2年10月1日『聖人御難事』御書1396、全集1189頁)
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と仰せられていることについて、これこそ大聖人が出世の本懐を遂げることを宣言あそばされた御文であり、それが同年10月12日に図顕された「本門戒壇の大御本尊」である、と拝している。
 ところが金原は、この弘安2年10月に遂げられた大聖人の出世の本懐とは熱原法難のことであり、大聖人の仏法を大衆が確固たる信心で信ずることができるようになった、それを象徴しているのが熱原法難である、等の笑うべき説を立てているのである。
 だが大聖人は、文永12年の『阿仏房御書』において、
●あまりにありがたく候へば宝塔(※曼荼羅御本尊のこと)をかきあらはしまいらせ候ぞ、(中略)出世の本懐とはこれなり(文永12年『阿仏房御書』御書793、全集1304頁)
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と仰せられ、大聖人出世の本懐とは、大衆が受ける法難などでなく、御自身の顕わされる御本尊であることを、はっきりと明かされている。
 そして、大聖人の顕わされた、数多(あまた)の御本尊の中でも、「余は二十七年(にして出世の本懐を遂ぐる)なり」と仰せられる弘安2年10月に、楠の御板をもって御図顕あそばされた本門戒壇の大御本尊こそ、
●就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり(第26世日寛上人『観心本尊抄文段』文段集197頁)
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と拝すべき御本尊なのである。
 もし、金原の言うごとく、この「本門戒壇の大御本尊」が宗祖の出世の本懐ではないというなら、弘安2年10月に大聖人が「余は二十七年なり」と仰せられて御図顕になった、本懐中の本懐に当たる御本尊が、外(ほか)になくてはならないはずである。
 だが、そのような御本尊はどこにも存在しないし、かつて顕わされたということを窺わせる資料も、何1つ存在しない。唯1つ、弘安2年10月12日の「本門戒壇の大御本尊」を除いては―。
 金原よ、あろうことか、日寛上人をも凌(しの)ぐかのごとく慢心し、得々と述べた汝の試論も、この1点で完全に崩壊していることを知るべきである。そして、結論ありきの邪説を猛省せよ、と呵(か)しておく。



【破折③=書体批判の謀りについて】
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 文字曼荼羅研究の先駆者である立正安国会の山中喜八が指摘するように、宗祖直筆の文字曼荼羅の書体の特徴と図顕時期との関係は、特に中央首題の「経」字に於いて顕著に見ることができる。これについて山中は、現存する宗祖文字曼荼羅の全体を、その「経」字書体によって4期に分類し、
 第1期 文永8年10月~建治2年8月
 第2期 建治3年2月~建治3年11月
 第3期 弘安元年3月~弘安3年3月
 第4期 弘安3年3月~弘安5年6月
としている。(略)この山中喜八の分類に従えば、「弘安二年十月」は本来、第3期に属するはずである。ところが、問題の「経」の字を比較してみると、一見して明らかなように、大石寺板曼荼羅(※戒壇大御本尊のこと)のそれは第4期に属するもので、すなわち弘安3年以降の特徴を示している。(略)この点における「例外」は存在していない。(略)大石寺板曼荼羅の書体は弘安3年3月以降に初めて見られる書体なのである
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 日蓮大聖人は、文永・建治・弘安年間に数多の曼荼羅(まんだら)本尊を顕(あら)わされているが、その時期によって御本尊の相貌(そうみょう)や書体に変化が拝される。
 その深意については我々凡夫の思慮できることではないが、金原某の悪書は、その点に目をつけて、上記のごとく述べる。
 つまり、大御本尊の中央首題の「経」の御文字の特徴は、弘安2年10月期(第3期)のものではなく弘安3年3月以降(第4期)のものだ、というのである。
 悪書は、このような説明と共に、第1期から第4期までの御本尊、及び戒壇大御本尊(であるとする写真)の「経」の御文字部分を、合計5枚の写真で対比しており、これだけを見れば、なるほど、大御本尊の書体は弘安3年3月以降の第4期に属するかのように、思い込まされてしまう内容となっている。
 しかしながら、大御本尊と類似した「経」の御文字は、じつは、弘安元年8月に顕わされた2体の御本尊にも拝されるのである。
 金原は、その事実を悪書の本文中には全く書かず、姑息(こそく)にも、巻末の「注」の中に小文字で述べている(こうしておけば、一般読者の多くはこれを読み飛ばすし、万一、指摘されても言い逃がれができる、と思ったのであろう)。
 しかも、そこで金原某は、この弘安元年8月の2体の御本尊の書体が、「特例」「異例」であるなどと言う一方で(そもそも本文では「例外は存在していない」と断言していたはずだが!?)、なおも、
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大御本尊の「経」の御文字の筆運びが「折り返した形で運筆される」「弘安3年3月以降の筆法」であるから、弘安2年10月の書体ではない
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との難癖(なんくせ)を付けている。
 だが、あまり知ったふうなことは言わぬがよい。
 周知のとおり、戒壇の大御本尊は御板に彫刻された御本尊である。こうした、板に彫刻された御本尊の場合、「折り返した形」等々といった筆運びを鑑定することは、ほとんど難しいのであって、悪書も名を挙げている「文字曼荼羅研究の先駆者である立正安国会の山中喜八」ですら、
墨跡(ぼくせき)を見なくては確信のもてる返事はできない
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と述べている程である。
 すなわち、金原某が知ったか振りで述べている鑑定もどきの言は、その道の第一人者ですら言えない、はったりなのである。
 ともあれ、時代による御本尊の書体の変化には、大まかな傾向ではあるけれども、例外もあって決定的ではない。しかるを、最初に結論ありきで恣意(しい)的な書体批判を展開した金原某の悪書は、信ずる価値なき謀(たばか)りである、と言わざるをえないのである。(『慧妙H19.10.1』)



【破折④=大御本尊と日禅授与御本尊について】
―出処不明の写真では問題外!―
 悪書は、何処からか持ち出してきた、大石寺所蔵の弘安3年5月9日御筆・日禅授与御本尊の写真(これまで公開されていた日蓮宗北山本門寺所蔵の日禅授与本尊の写真ではない)なるものと、これまで世に出ていなかった戒壇大御本尊の隠し撮り写真らしきものを比較して、首題の寸法が同じだの、酷似(こくじ)しているだのと、得々として評している。
 じつに、これこそが悪書の骨子ともいうべき内容といえよう。
 だが、このような比較には、真面目に真実を究明しようとしていく上では、何の意味もない。
 そもそも、大石寺が認めてもいない写真で、しかも、いつ誰が、どうやって撮ったかも言えない出処不明の写真では、「これが大御本尊だ」「これが日禅授与御本尊だ」と言われたところで、白とも黒とも言いようがないし、反論のしようもない。
 ちなみに、今日のCG(コンピューターグラフィックス)の技術からすれば、この程度の写真を作ることは十分可能であり、だからこそ、公式に大石寺の認める写真でなければ、比較する意味がないのである(※大石寺が、一切の御本尊について写真鑑定を許していないことは、前回すでに述べたとおり)。
 要するに、金原の悪書は、単なるこけおどしの域を出ていないのであって、これに乗って具体的議論に入ることは、まさに狂人走って不狂人走るの謗(そし)りを免れぬであろう。
 なお、その上で一言しておけば、仮に両御本尊の主題が酷似していたとしても、余の可能性もある。すなわち、前回②ですでに述べたように、戒壇大御本尊は弘安2年10月御図顕の、大聖人出世の本懐たる御本尊である。一方、日禅授与の御本尊は弘安3年5月の御認めである。推するは畏(おそ)れ多いが、この前提に立つならば、大聖人が何らかの深慮によって、すでに御図顕されていた大御本尊の首題を模して、日禅授与の御本尊を顕わされた可能性もある、と拝せられるであろう。(『慧妙』H19.10.1)



【破折⑤=板御本尊という態様について】
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>表面に施された塗漆・金箔についてあらためて考えてみると、全く宗祖らしからぬ作為的、装飾的表現である。(中略)たとえ何らかの意図をもって特別な御本尊を残されたとしても、「日蓮がたましいひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ」との聖語からすれば、それが紙墨(しぼく)であっても何ら不都合はないはずである
>本寺においてその前例がなくして彫刻・塗箔の板本尊造立を末寺がなし得るだろうか
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―〝彫刻〟についての疑難に理由なし―
 文字曼荼羅の意義が全く判っていない、きわめて情緒的に片寄った妄説である。
 そもそも、日蓮大聖人が
●日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ(御書685頁)
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と仰せられているのは、何も「墨」の中に大聖人の「魂」が入っている、との意ではなく、文字によって大聖人の御悟りを顕わす、の意に他ならない。それは、
●文字は是(これ)一切衆生の心法の顕はれたる質(すがた)なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相(そう)する事あり。凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり。然れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり(御書36頁)
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とも仰せのように、色法たる文字をもって、仏の悟り・心法を顕わせば、それが仏の色心不二の当体となる、との法理によっているのである。また、
●色心不二なるを一極(ごく)と云ふなり(御書1719頁)
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との御示しもあるが、要するに大曼荼羅御本尊は、日蓮大聖人の心法を、色法の文字をもって顕わされた、色心不二・一極の当体である、というところが大事なのである。
 されば、彫刻であろうと紙墨であろうと、御文字をもって顕わされた御本尊の意義には、いささかの異なりもない。
 このような法理も解らぬ輩(やから)が「すみにそめながしての聖語」などと、知ったかぶるものではない。(『慧妙』H19.10.1)

―日向も宗祖を真似て板本尊造立―
 金原某の道理からすると、次のような事実はどう理解するのであろうか。
 すなわち、五老の1人・民部日向は、日興上人の身延離山後の正安2年12月、自ら大聖人の紙幅御本尊を模写して、板本尊を造立している。(『身延山文書』日蓮宗宗学全書22巻)
 いかに大聖人の法義に暗い五老でも、いちおう大聖人の直弟である以上、大聖人のなさった前例がなくして、自らまったくの新義を作り出すことはありえない。したがって、これは、身延山久遠寺の本堂に安置された本門戒壇大御本尊を拝していた日向が、大御本尊を真似(まね)て板本尊造立に及んだ、と考えるほかはないのである。
 もし、そうでない、と言うのなら、これ以外の、さらに合理的な説明を示すべきであろう。
 この、日向造立の板本尊は、それから50年以上も、身延山久遠寺の本堂の本尊として安置し続けられたことが、記録(『一期所修善根記録』日蓮宗宗学全書1巻)により明らかである。
 金原某は、この事実について、どう説明するというのか。(『慧妙』H19.10.1)



【破折⑥=身延の庵室に大御本尊は安置できなかった!?】
―百余名が修行できた身延庵室!―
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弘安2年10月の身延山に、かかる巨大な板本尊を安置し得る環境があったであろうか。(中略)御書によれば、身延の庵室が造られたのは、文永11年の6月で、この建物は3間4面、高さ7尺の小さなものであった。
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 要するに金原某は、弘安2年当時の身延の庵室について、広さは3間4面(※1間は今日の単位では約1㍍82㌢。畳の長い方と同じ)であるから、わずか18畳、高さは7尺(※1尺は今日の単位では約30㌢)であるから2メートル強であると考え、そのような手狭な庵室に大御本尊を安置できたはずがない、というのである。
 以前より考古学者気取りの金原某は、このような説を得々と述べているが、まったくの勉強不足、素人丸出しの妄説といわざるをえない。
 何故ならば、当時の1間とは柱と柱の間を示す表現であって、今日の長さの単位(約1㍍82㌢)を指すものとはいえないからである。その証拠に、日蓮大聖人は弘安2年8月の御手紙に
 「今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義し候ぞ」(『曽谷殿御返事』御書1386、全集1065頁)
と仰せられている。もし金原某のいうように、身延の庵室がわずか18畳の広さしかなかったのであれば、とても百余人の御弟子を住まわせて修行させる、などということができようはずがない。
 逆にいうならば、当時の身延の庵室には、百余人の御弟子を居住せしめることが可能な広さがあり、したがって大御本尊安置に必要な広さも十二分にあった、といえるのである。(『慧妙』H19.10.16)



【破折⑦=史実から見て弘安2年10月当時に大御本尊建立は無理!?】
―それでも御聖筆での御図顕はできた!―
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(※当時は熱原法難への対処に追われていたので)このような差し迫(せま)った慌(あわただ)しい状況下で、楠木の巨大な料板を用意し、彫刻せしめ、漆(うるし)を塗り、塗箔がなされたと想像するのはかなり無理な話である。史実もまた、戒壇本尊の在世における存在を否定している。
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だが、このような自分の勝手な妄想を自ら破してみせても、何の意味もない。何故ならば、「弘安二年十月十二日」というのは、当然のことながら、御聖筆をもっての大御本尊御図顕の日であって、彫刻や塗箔のなされた日ではないからである。この点を指摘しておけば十分に事足りるであろう。(『慧妙』H19.10.16)



【破折⑧=身延山久遠寺は弘安7年末まで無住!?】
―弘安5年10月からの在山は明らか!―
悪書は、日興上人が身延山久遠寺第2代たることを否定し、弘安7年10月まで身延は無住であった、そこに大御本尊のみが在(あ)ったはずはない、と論難しようとする。

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もし弘安2年10月以降、戒壇本尊が身延に安置され、この宗宝が日興に親付されたのであれば、宗祖滅後当初より日興は身延に常住されたはずで、果たしてこのような墓番制度が必要であったろうか。
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 そもそも、日興上人を除く五老僧は、大聖人御入滅後わずか1年も経たぬうちに、大聖人の御廟(ごびょう)のある身延山久遠寺から離れ、本師を捨てた格好となっているが、このような五老の信仰の不確かさを、大聖人が御気付きにならなかったはずはなかろう。
 地頭・波木井実長の信仰の惰弱(だじゃく)さに関し、予め「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(『聖典』555頁)との御遺言を示された大聖人である、御入滅後に本弟子の五老が離散していくやもしれぬことに対し、備えを御用意なさることは当然である。
 そして、それこそが「六人香花当番」(御書1866頁)という、墓所輪番の御遺言であったものと拝されるのである。
 つまり、本師大聖人の御墓所を輪番する、という定めによって、五老の信仰をつなぎとめておく御配慮だったのであり、このことと、日興上人が身延山久遠寺の第2代別当として常住されることとは、矛盾(むじゅん)のない全くの別問題である。

―日興上人身延入山は弘安5年―
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 弘安8年1月4日に、波木井実長が鎌倉の地から日興上人にお送りした書状の中で
 「御わたり候事こしやう人の御わたり候とこそ思まいらせ候へ(日興上人が身延にましますことは、故聖人がましますように感じられます)」
との感激が述べられている。これは日興上人の身延入山に対する喜びを伝える波木井の書状である。(これが)弘安8年正月の状であれば、日興の身延常住決定はその前、弘安7年末頃ということになる。(取意)
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 だが日興上人は、弘安5年10月25日、日蓮大聖人の御灰骨と共に身延に帰山あそばされ、以来、身延山久遠寺の第2代別当として在住せられたのである。
 その証拠に、同年12月11日、鎌倉にいた波木井実長より身延の日興上人へと奉(たてまつ)った、次のような書状が存する。
●まことに御経を聴聞つかまつり候も、聖人の御事はさる御事にて候。それにわたらせ給候御ゆえとこそ偏へに存じ候へ。よろづ見参にいり候て申べく候。
恐々謹言   十二月十一日  源 実長
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金原某が挙(あ)げた弘安8年1月4日の書状は、波木井が日興上人の身延在山を以前と変わりなく喜んだ内容であって、そのとき初めて在住せられるようになった、との理解は誤りである。

―輪番するのは寺でなく墓所―
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単に墓の管理に留まらず、「墓所寺」すなわち身延山の管理をも意味していたと考えられ、六老の誰一人として常住の別当職を任じられた者はなかったはずである。
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 ここで墓所輪番制度について少し説明しておくが、それは前にも述べたとおり、大聖人が
 「六人香花当番」(御書1866頁)
と仰せられた御遺言によるものであり、本弟子の6人(六老僧)を中心とする18人の弟子で、御廟所を1ヵ月ずつ輪番する、という内容であった。
 弘安6年1月、日興上人は、集まった老僧(日昭・日朗・日持)と共に、この輪番を制定し、後のために『墓所守る可(べ)き番帳の事』として記録されたのである(日興上人の御正筆が西山本門寺に現存)。
 しかるに、金原某の悪書は、この輪番制度を〝墓所の寺を輪番する〟と読み変えてしまっている。だが、大聖人御遺言の「六人香花当番」とは明らかに墓所の輪番を指しているし、そもそも身延山久遠寺の住職を1ヵ月ずつ輪番するかのごとき、珍妙な制度のあろうはずがない。(『慧妙』H19.10.16)

―日興上人の一門が墓所を守護―
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●身延の沢の御墓の荒れはて候いて、鹿かせきの蹄(ひづめ)に親(まのあた)り懸らせ給い候事目も当てられぬ事に候(日興上人『美作房御返事』弘安7年10月/『聖典』555頁)
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この秋に身延御墓の有り様を目の当たりにした日興が(略)そのまま在山した。
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 まず、「身延の沢の御墓の荒れはて候いて」云々の文から、実際に大聖人の墓所が目も当てられぬほど荒廃(こうはい)していた、などと考える方がどうかしている。
 そもそも、墓所を輪番する18人のうち10人までが、甲斐・駿河地域在住の、日興上人とその直弟子・孫弟子である。そして、墓所の輪番給仕を怠(おこた)るようになったのは、日興上人御一門を除く五老僧等の番衆である。
 老僧方が輪番給仕を怠っていることを嘆(なげ)き、その不知恩を責める日興上人が、老僧等の番衆が登山してこないのが悪いとばかりに、自分達も先師の御墓を放置して、目も当てられぬほど荒廃させる、などということがあろうか。
 ましてや、身延山付近には、日興上人の教化された地頭・波木井一族も住んでいるのに、五老僧等の怠慢(たいまん)によって御墓が荒れ果てていくのを誰も気付かず、日興上人が久し振りに登山して判った、などという馬鹿げたことが、あろうはずがない。
 実際は、身延に常住しておられた日興上人と、その弟子方によって、大聖人の墓所の香華給仕は怠りなく行なわれていたのである。
 その上で、前の『美作房御返事』の文は、老僧方の不知恩を責め、美作房にも、強く報恩の念を喚起し、登山参詣を促された表現、と拝するべきが当然であろう。

―金原説は実情無根の邪推―
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日興の身延入山在住は弘安7年秋以降である。しかも、その在住は状況に応じて決定されたことで、あらかじめ計画されていたことではない。よって、身延山に戒壇板本尊が存在したと考えるのは不自然であり、入山に至るまでの諸状況から見てもその存在は否定せざるを得ない。
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 以上のごとく、弘安5年10月以来、日興上人が第2祖として身延山に常住されたのは厳然たる事実であり、これを否定する根拠は存しない。
 むろん、日興上人は身延に常住とはいえ、一歩も山外へ出られなかったというわけではなく、大いに富士方面等へも弘教に赴(おもむ)かれたであろうが、大勢は身延在住であられた、という意味である。(『慧妙』H19.10.16)



【破折⑨=『日興跡条々事』草案に関する疑難】
―「弘安二年に給わる所の大御本尊」!?―
(『慧妙』H19.11.1)
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●日興カ当身所給安貳年所給大本尊日興一期之後日目授弘安五年二月二十九日御下文与之(『日興跡条々事』草案第2条)
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 ここで注意したいのは、問題の大御本尊に関する条項が、当初は
 「日興カ当身弘安貳年所給大本尊日興一期之後日目授与之」
と記されていたことである。「弘安二年に給わる所の大本尊」であれば、「弘安二年」はあくまで所給の年であって、御本尊書顕の年を指すものではない。(中略)日興が弘安2年に給わった御本尊である限り、戒壇板本尊ではない、と考えるべきである。
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 第59世日亨上人が『日興跡条々事』について
 「富士開山日興上人より三祖日目上人に総跡を譲られるもの、正本案文共に総本山に厳存す」(『富士宗学要集』第8巻17頁)
と仰せられている「案文」、すなわち『跡条々事』の草案を挙げている。

<草案を本意とは言い難い!>
 だが、この草案に日興上人が削除や加筆を記される前の文が、金原某の言うような形の文としてでき上がっていたか、どうかは、まったく定かではない。何故ならば、金原某も自ら
 「草案らしくやや粗雑な筆致で、随所に添削修正が施され、草稿を練られた様子がうかがえる。(中略)複雑な添削の状況」
と述べているように、この草案は、一旦綺麗(きれい)に仕上げられたものに後から添削を加えられた、というよりも、最初から草案(下書き)として、お書きになる途中で随時に削除や加筆をされながら、修正を施しつつ文を練っていかれたもの、と拝されるからである。
 それを「当初は、こういう文として記されていた」と決めつけてみても、それは金原某の妄想でしかない。
 また、一般に草案というものは、あくまでも文案を練っている途中の下書きであるから、筆者の真意ともいうべき「正本」が完成した後には、あえて用いたり拘泥(こうでい)すべきでないのが通例である。
 したがって、『跡条々事』に記された日興上人の御正意は、あくまでも『跡条々事』の正本によって拝すべきが当然である。それを、わざわざ草案を探し出し、そこに自らの妄想を加えて、「弘安2年はあくまで給わった年であって、御本尊書顕の年ではない」などと結論付けるのは、文書を読み解く姿勢が誤っている、としか言いようがない。

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たしかに添削の段階で、「所給」の2字が弘安2年の上に移されているが、これは当初、「弘安二年所給大本尊」と「弘安五年二月二十九日御下文(※この文は第4条として書かれた後、線で抹消されている)」と別記されたのを、後から「並弘安五年二月二十九日御下文」と1箇条にまとめるにあたって、「所給」の意を「大本尊」と「御下文」の双方に懸(か)けるために「日興当身」の下に移されたと見るべきであろう。
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 しかし、だとすれば、この文意は、日興上人が身に宛て給わったところの「弘安二年大本尊」と「弘安五年二月二十九日御下文」となって、弘安2年は大御本尊に懸かり、弘安5年2月29日は御下文に懸かることになる。
 そして、この「御下文」というのが、大聖人の御代理で天奏をなさった日目上人に対し、弘安5年2月29日、後宇田天皇が下賜(かし)された下し文であることは富士門流の常識である(※この下し文は、重宝として守護されていたが、日目上人滅後、日代系の西山に伝わって紛失したと伝えられる)から「弘安五年二月二十九日」という日付は「御下文」が認(したた)められた時期を指し、同じく「弘安二年」という年数は「大本尊」が御図顕された時期を指すことになってしまう。


<邪智によるとんでもない珍説>
―「御下文」は『法華証明抄』とは別物―

これでは金原某の思惑とは正反対の結論となってしまうため、悪書はとんでもない珍説を構える。すなわち、
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>この「御下文」は宗祖が日興に与えられた『法華証明抄』であると考えている。『法華証明抄』は弘安5年2月28日に認められ(中略)写本には、末尾に、日興による「弘安五年二月二十九日」との到来筆が記されており、『草案』に見える「日興所宛給弘安五年二月二十九日御下文」が、給わった日をもって示された『法華証明抄』を指したものであることは、ほぼ確定
>内容は一面、南条殿の病気平癒(へいゆ)を目的としているが、同時に、「法華経の行者日蓮」の立場を極めて鮮明に打ち出すことをもって弟子日興に下したのである。(中略)上代において『法華証明抄』正本がいかに重要な扱いであったか
>「御下文」が『法華証明抄』であれば、「弘安五年二月二十九日」は日興上人が同抄を大聖人から給わった時を示し、したがって「弘安二年」も日興上人が「大本尊」を大聖人から給わった時を示す
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まさに一読噴飯(ふんぱん)の珍説だが、それにしても『法華証明抄』の写本に同書到来の日時として「弘安五年二月二十九日」とあるのを見つけ出し、これが「御下文」であると結び付けていく奸智(かんち)には恐れ入る。金原某1人の智恵によるものか、はたまた悪書の作成に関わった他の者の智恵によるものか、いずれにせよ、彼奴(きゃつ)等は「魔の眷属」となりきって、魔の智慧を発揮しているものと見える。

 さて、ここで取り上げられた『法華証明抄』であるが、この書は重病の南条時光殿へ与えられたもの(※当時は御弟子が御書を受け取られ、それを信徒に解説した)であり、特別な法門書ではない。
 金原某の悪書は、「『法華経の行者日蓮』の立場を極めて鮮明に打ち出すことをもって」云々などと言うが、それなら、御自身が法華経の行者にして末法の主師親たることを明かされた『開目抄』や、御自身が霊山虚空会において相承を受けられた上行再誕たることを明示された『三大秘法抄』等の方が、当然に重要な法門書である。
 また、「上代において『法華証明抄』正本がいかに重要な扱いであったか」などと言うなら、それほど重要な書を、どうして日興上人は五大部・十大部の中に選ばれなかったのか。
 その法門上の内容からいっても、御書としての位置付けからいっても、日興上人が『法華証明抄』のみを取り挙げて、御遺言ともいうべき『跡条々事』にわざわざ記される意味などはどこにもない、というべきであろう。
 したがって、「御下文」が『法華証明抄』であるなどというのは、全く議論の余地すらない、素人騙(だま)しの妄説である。
 また、この妄説が成立しない以上、従前どおり、「御下文」は弘安5年2月29日に後宇田天皇が下賜された下し文と解するのが当然であり、同時に、草案に示された「弘安五年二月二十九日」及び「弘安二年」は、いずれも、それが記され顕わされた日付を示している、と拝すべきである。



【破折⑩=『御伝土代』の読み方について】
(『慧妙』H19.11.1)
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●熱原の法華宗二人は頸を切られおわんぬ、その時大聖人御感あって日興上人と御本尊に遊ばす(第4世日道上人『三師御伝土代』/『富士宗学要集』第5巻8頁)
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10月12日には(※神四郎等の)斬首はされていない。だから、大聖人が神四郎等の斬首に御感あって大御本尊を建立なさるということは時系列上ありえない。(取意)
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<熱原法難を機縁に大御本尊御図顕>
 そこで、まず、熱原地方で起こった法難についてであるが、これは何の前触れもなく突発的に起きたものではなく、熱原郷に法華衆が急増していくのを怨嫉(おんしつ)した謗法者達により、弘安2年4月頃から迫害が始まり、8月の法華衆徒・弥四郎の斬首を経て、9月21日の神四郎ら20名の信徒拘引でピークに達したものである。
 しかして、『聖人御難事』の執筆された10月1日は、まさに熱原法難の真っ只中の時期であった。
 しかも、同御書に、
 「彼のあつわらの愚癡の者どもいゐはげましてをとす事なかれ。彼等には、たゞ一えんにをもい切れ、よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ。ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ。さむしといわば八かん地獄ををしへよ。をそろしゝといわばたかにあへるきじ、ねこにあへるねずみを他人とをもう事なかれ」(『聖人御難事』御書1398頁)
と仰せられていることから判るように、拘引された熱原の信徒達が、無事に釈放される可能性はほとんどなく(よからんは不思議)、逆に、極刑に処せられることは間違いない(わるからんは一定)であろう、との見通しすらあったのである。
 この時にあたって、出世の本懐を遂(と)げられるべき時機の到来を感ぜられた日蓮大聖人は、同御書に
 「余は二十七年なり」(『聖人御難事』御書1396頁)
と宣言あそばされた。
 そして、その11日後に、本門戒壇の大御本尊を顕わされたのである。
 これに対し、「神四郎等の斬首は10月15日だから、これを機縁として12日に本尊を建立する、などということはありえない」とする疑難は、まったく取るに足らない言い掛かりである。
 すなわち大聖人は、門下僧俗の強い信心によって熱原大法難が起きたことに時機を感ぜられたのであり、ただ3人が斬首されたかどうか、という1点だけを御覧になっていたわけではあるまい。
 また、斬首というなら、すでに8月には弥四郎が斬首されているし、10月1日の時点でも「わるからんは一定」すなわち極刑は確実、という状況が眼前にあった。
 だが、こうした大法難の中にあっても、熱原の信徒達は、退転なく題目を唱え続けていたのであり、ここに、大聖人は時機を御感あって、10月12日に大御本尊を建立あそばされたのである。
 そして、その3日後の15日に至り、拘引された20名のうち3人が斬首されて、熱原の大法難は終息した。

 このことを後世、記述するときに、簡潔に「熱原で法難が起こり、法華衆3人が首を斬られた。その事件に時を感ぜられた大聖人は、出世の本懐たる大御本尊を顕わされた」と書くのは、ごく自然のことであろう。また前出『御伝土代』も、その趣旨で書かれたものに他ならない。
 しかるを、「斬首は10月15日だから、これを機縁に10月12日の段階で本尊を建立することなどありえない」と言って、これに拘泥するのは、まったくためにする疑難、笑うべき言い掛かりである。


<笑うべき言い掛かり>
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>素直に読めば、「日興上人と御本尊にあそばす」とは、「〝日興上人〟と御本尊に認められた」と解釈するのが最も妥当な解釈である。すなわち、熱原法難における日興上人の奮闘を賞せられて、上人号をもって御本尊に記しおかれ云々
>この時(『御伝土代』執筆の時)には、この「日興上人」と認められた御本尊が存在したのかもしれない。
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 だが、そのような説は、大聖人が「日興上人」と認められたという御本尊を提示してから言うべきであろう。そんな御本尊が存在したという事実も、記録も、何1つない上、大聖人の御書の中にも「日興上人」と認められたものはないのである。
 ゆえに、全ては金原某の妄想・邪推(じゃすい)と言う外はない。





史実を歪めた邪難について

-戒壇の大御本尊誹謗の悪書『日蓮と本尊伝承』を破す③-
(森岡雄樹 御尊師『大日蓮』H20.5)

 金原は悪書『日蓮と本尊伝承』第4章において、「史実の考察-史実も戒壇本尊を受け入れない-」と題し、本門戒壇の大御本尊の存在を否定しようとしている。
 ここではその史実を検証し、むしろ史実が戒壇の大御本尊の存在を証明していることを述べて、金原の邪難を破折することにした。



1.「日蓮滅後の身延山と日興の身延入山時期」との邪難について
①「日蓮滅後の身延山」について
 金原は、『宗祖御遷化記録』中の「御所持仏教の事」や『墓所可守番帳事』を頼りとしながら、
 「定められた輪番は、単に墓の管理に留まらず、『墓所寺』、すなわち身延山の管理をも意味していたと考えられ、六老の誰一人として常住の別当職を任じられた者はなかったはずである」(『日蓮と本尊伝承』112頁)
と述べている。つまり、日蓮大聖人滅後の身延山久遠寺は、当初、大聖人の「墓所寺」であって、常住の別当職はなかったとし、弘安6(1283)年正月に、久遠寺の管理も含んだ墓所の香花当番として、上足18名による墓所輪番制度が定められたと言うのである。
 これは、金原が、戒壇の大御本尊を否定するために構えた「史実の考察」のなかで、金原が展開する「日興上人の身延入山時期」の大前提に当たるものである。
 もとよりこれは、大聖人が『身延山付嘱書』において、
 「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり」(御書1675頁)
と定められた付嘱状に照らせば、金原の邪説は既に成り立たない。
 ただ、こうした金原の邪説展開のなかで、1点だけ指摘しておく。それは『宗祖御遷化記録』の「御所持仏教の事」にある、「注法華経」に関する、
 「墓所の寺に篭(こ)め置き、六人香花当番の時之を被見すべし」(御書1866頁)
との御記述の扱いで、金原は「墓所の寺に篭め置き」とあることから、「香花当番」の管理は、墓だけではなく、身延山久遠寺まで含むと言うのである。
 右の「六人香花当番」が、実際の輪番制度として定められたのは弘安6年正月であり、それは西山本門寺蔵の日興上人筆『墓所可守番帳事』(以下、西山本と言う)として遺されている。だが、その内容は、標題や「六人香花当番」との語から明らかなように、大聖人の御墓所を守護し、香花を供養する輪番制であり、金原が言うような、身延山久遠寺の管理を含めた輪番制の文言はない。
 かつて日蓮宗等の輩が、西山本に対し、池上本門寺蔵の日興上人筆と伝える『身延山久遠寺番帳事』(以下、池上本と言う)を持ち出して、墓所守護輪番制を身延山久遠寺輪番制にすり替えたことがあった。しかし池上本は明らかな後世の偽作であって、けっして日興上人の御筆ではない。
 このことは、昭和36年11月20日に富士学林から刊行された『日興上人身延離山史』の論証どおりである。
 要するに、金原は西山本を挙げつつも、『宗祖御遷化記録』の「墓所の寺に篭め置き」の語から、枉(ま)げて池上本の意をもって邪説を構えたに過ぎないのである。


②日興上人の身延御入山時期について
 金原は、弘安6年正月に身延山の管理を含む墓所守護の輪番制度が定められたが、数年を経ずしてこの制度が崩壊し、墓所が荒廃したために、日興上人が身延に入山したとする。そして、その時期については、日興上人が弘安7年の秋ごろから身延山の整備復興に取り掛かり、10月13日に大聖人の3回忌を奉修したあとであるとして、
 「弘安7年末頃」(『日蓮と本尊伝承』126頁)
と主張する。
 つまり、弘安6年正月の輪番制制定後から弘安7年末までは、日興上人は身延に定住しておらず、したがって戒壇の大御本尊の厳護給仕もできないとして、大御本尊を否定しているのである。
 金原の「弘安7年末頃」という日興上人の身延入山時期説は、前段で既に大前提が崩壌しているが、ここではあえてその論拠として挙げているものについて検証し、破折を加えておく。
 (1)波木井文書について
 金原が、日興上人の身延入山時期を弘安7年末ごろとする理由の1つは、波木井文書にあるとする。波木井文書とは、波木井実長(のちの日円入道)関連の書状で、6通が現存し、西山本門寺に蔵されている。金原は、このうちの弘安8年正月4日状を根拠として挙げている。
 実は、古来、当書状の末尾1紙と、別の「二月十九日」状の末尾1紙が錯簡(さっかん)されて伝承してきた経緯がある。このため、当書状は、長らく弘安7年2月19日の書状とされてきたが、昭和36年に富士学林研究科の調査によって改訂された。
 この書状の冒頭部分を左に挙げることとする。
 「はるのハじめの御よろこび、かたがた申しこめ候イぬ。さてハくをんし(久遠寺)にほくゑきやう(法華経)のひろまらせをハしまして候よしうけ給ハり候事、めでたく、よろこび入ツて候。さて御わたり候事こしやう人(故聖人)の御わたり候とこそ思イ候ひしうへ」(『大日蓮』S36.7 32頁)
 金原は、右の「御わたり」を日興上人の身延入山を表す語と見て、この直前の前年末、つまり弘安7年末ごろに日興上人は身延に入山したと言うのである。
 しかし、昭和36年11月、教学部が、これら書状の錯簡が修正されたことを踏まえて発表した「波木井文書の年次推定について」で論考しているように、波木井文書で使用される「御わたり」は、「渡」すなわち「渡りきた」の意ではなく「在」すなわちそこに「いらっしゃる」の意である。
 したがって、右の文は、新春の慶賀を述べたあと、法華経の信仰が久遠寺において興隆していることを喜んだ上で、「さて(日興上人が久遠寺に)いらっしゃることは、故大聖人が(久遠寺に)いらっしゃるのと同じと存じ上げます」と波木井実長の所懐を述べたものである。故に、けっして日輿上人が身延に入山されたことを述べたものではない。金原の解釈は全く当たらないのである。
 故にまた、金原は姑息にも、
 「戒壇本尊の存在や、二箇相承を肯定するのは極めて困難である」(『日蓮と本尊伝承』128頁)
とも言うが、これも日興上人の身延入山時期を弘安7年とすることによって生じる邪説に過ぎない。

 (2)『美作房御返事』の記述について
 金原は、弘安7年10月18日付、日興上人の『美作房御返事』の、
 「身延の沢の御墓の荒れはて候いて、鹿かせきの蹄(ひづめ)に親(まのあた)り懸らせ給い候事目も当てられぬ事に候」(『日蓮正宗聖典』555頁)
との記述をもって、日興上人が身延に在山していない証拠であるとし、
 「(美作房御返事の)具体的表現には強いリアリティが感じられる」(『日蓮と本尊伝承』118頁)
などと述べている。
 先にも述べたように、日興上人は大聖人滅後、直ちに身延に入山されている。しかも、墓所守護の輪番制には、列記18名中、大半が日興上人および日興上人の弟子・孫弟子で構成されており、日興上人が身延山の別当であることを踏まえての輪番であることが表れている。故に、大聖人の墓所が荒れたままで放置されることなどありえない。
 『美作房御返事』の記述は、むしろ墓所守護の輪番制が守られていないことを述べ、美作房に対して登山を促すためになされた婉曲的な表現と解すべきである。
 故に、ここでも金原の言い分は、なんら当たらない。

 (3)『尊師実録』の記述について
 金原は、日目上人の弟子、日尊師の行跡を記した『尊師実録』の記述に、
 「弘安七年甲申五月十二日甲州身延山へ登山。同年十月十三日大聖人の第三回御仏事に相当するの日、始めて日興上人に対面、御影堂に出仕す云云」(『日蓮宗宗学全書』2-411頁)
とあることについて、
 「日尊は弘安7年5月12日の登山では日目に面会しておらず、10月13日の聖人3回忌に初めて対面した、とある。これは弘安7年5月の時点で、日目が身延に不在であった有力な証拠で、筆者(金原)の推論を補証するものである」(『日蓮と本尊伝承』129頁)
と、得々として述べている。
 ところが『尊師実録』の記述は、日尊師が弘安7年の5月に登山した時、日興上人は偶然不在であったが、10月の3回忌に再度登山した折に、初めて日興上人にお会いできたということである。これは弘安6年に目目上人を師匠として出家得度した日尊師が、弘安7年の5月に登山したのは、大師匠である日興上人が身延に常住されていたからこそ、お目通りのために登山したということである。
 日興上人の教化は、甲州、駿州に及んでいたのであるから、時に応じて教化弘教に出向かれ、身延に不在であったとしても、なんの不思議もない。
 故に、『尊師実録』の記述は、むしろ逆に目興上人常住を裏付けるものと拝すべきである。

 (4)御影堂の存在より、当初から日興上人は常住の別当職であった
 また、日尊師が弘安7年10月、大聖人の3回忌に、
 「御影堂に出仕す云云」(『日蓮宗宗学全書2-411頁)
と記していることは、この時、既に身延山に御影堂が存在していたことを証明するものである、
 この御影堂の建立について、日興上人より薫陶を受けた三位日順師の『開山より日順に伝はる法門』には、
 「聖人御存生の間は御堂無し、御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計らいとして造り玉ふ」(『富要』第2巻95頁)
と記されているが、これらの記述から、少なくとも大聖人の3回忌以前より、日興上人が久遠寺の別当として身延の地を掌理していたことが明確にうかがえる。
 金原が「筆者の推論を補証する」として示した資料そのものが、金原の矛盾を浮き立たせるものとなっている。
 以上のように、諸文献の解釈、諸状況などから考えて、戒壇の大御本尊の存在や、日興上人の身延入山時期など、本宗古来の伝承に間違いはないのである。



2.「戒壇板本尊の形態と在世の身延山」との邪難について
①御在世の身延山の建物について
 金原は、大聖人御在世の身延山の建物について、
 「身延に庵室が造られたのは、文永11年の6月で、この建物は3間4面、高さ7尺の小さなものであった」(『日蓮と本尊伝承』92頁)
と述べ、さらに、
 「右の如き状況の中に、5尺弱の厚板に漆・金箔の施された巨大な板本尊が、台座に据えられて安置されたことを想像するのははなはだ困難である」(同94頁)
と、戒壇の大御本尊の形態上、身延の庵室には御安置できないと否定している。
 たしかに『庵室修復書』等の記述によれば、大聖人の住まわれた建物は、さほど大きいとは感じられない。しかし、弘安元年11月29日の『兵衛志殿御返事』には、
 「人はなき時は四十人、ある時は六十人、いかにせ(塞)き候へども、これにある人々のあに(兄)とて出来し、舎弟(しゃてい)とてさしいで、しきゐ(敷居)候ひぬれば」(御書1295頁)
とあり、また弘安2年8月11日の『曽谷殿御返事』には、
 「抑(そもそも)貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目(がもく)其の数有りしかば、今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」(同1386頁)
と仰せである。
 このように、多くの人々を身延の地に収容しえた状況を勘案すれば、庵室はともあれ、身延の建物のすべてが、戒壇の大御本尊を安置できないほど狭隘(きょうあい)・狭小なものでなかったことは明らかである。


②大御本尊の「形態」についての邪説を破す
 金原は、戒壇の大御本尊の形態につき、
 「表面に施された塗漆・金箔についてあらためて考えてみると、全く宗祖らしからぬ作為的、装飾的表現である」(『日蓮と本尊伝承』91頁)
と、板に御図顕され、彫刻した上に塗漆・金箔の装飾がなされている等に疑点があると言う。
 もとより戒壇の大御本尊は大聖人の出世の本懐であり、将来的に本門の戒壇に御安置し、末法万年に伝持されるべき御本尊であることを拝せば、塗漆や金箔による装飾がなされることは、むしろ当然と言うべきである。
 また金原は、
 「『束(つか)』の存在は同時に台座が造られたことを意味し、当初より安置されたことを示していて、秘蔵の意図は感じられない。当時の身延山に公然と安置されたとすると、日蓮門下の何処にもその記録が残っていないのは不審である」(同96頁)
と述べて、大御本尊に束があるということは、当時から「公然と安置」されていたはずであり、その記録が残っていないことが「不審」であると疑難している。
 そもそも板御本尊であれば、「秘蔵」であれ、「公然と安置」であれ、建立後に御安置されるのは当然であり、したがってまた初めから束が設(しつら)えられることも当然である。それを束の存在をもって「秘蔵」だとか「公然と安置」だなどといって戒壇の大御本尊をあげつらうこと自体、まさに木を見て森を見ずの謗りに当たるものであろう。
 なお、金原は「何処にもその記録が残っていない」と言うが、大聖人御在世当時の身延安置の御本尊について、具体的な記録文献は伝承されていない。身延に御本尊が御安置されていたことは確実だが、どこに、どのように、安置されていたかなどの記録そのものが乏しいのである。
 ただし、参考として、『身延山久遠寺諸堂建立記』には、
 「一、板本尊 本尊は祖師の御筆を写すか、下添え書きは第三祖向師の筆なり、下添え書きに云く、正安二年庚子十二月日右日蓮幽霊成仏得道乃至衆生平等利益の為に敬って之を造立す」(『日蓮宗宗学全書』22-56頁)
とあり、日興上人が身延を離山したあと、民部日向が大聖人の御筆を模写して板本尊を造立していることが判る。
 民部日向は、画師に命じて画(え)曼荼羅を造立させたことが『原殿御返事』(『日蓮正宗聖典』561頁)によって知られるが、このような迷乱を行う日向が、大聖人御筆の御本尊を模刻して板本尊を造立したのは、日向の宗教的信条からではなく、大聖人・日興上人が身延に在山されていた時からの化儀を踏襲したものと言えよう。
 さらに、中山法華経寺第3世の日祐は、日向のあとを受けて身延の別当となった日進と親交があったことが知られているが、『一期所修善根記録』に次のように記している。
 「観応二年辛卯十一月十八日(中略)身延山久遠寺同御影堂、大聖人の御塔頭、塔頭板本尊金薄造営修造結縁」(『日蓮宗宗学全書』1-446頁)
 これによって解ることは、大聖人滅後70年の身延山の御影堂では、「金薄」の入った板本尊と大聖人の御影が安置されていたことである。この化儀が、戒壇の大御本尊を御守護申し上げ、大聖人の御影を「仏聖人」(『歴全』1-176頁)と拝された日興上人の化儀を模したものであることは、想像に難くない。



3.『「弘安二年十月十二日」の周辺』との邪難について
 金原は、弘安2年10月12日の大御本尊御図顕の日の周辺、つまり熟原法難の渦中の緊迫した状況を縷々(るる)述べた上で、
 「このように差し迫った慌しい状況下で、楠木の巨大な料板を用意し、彫刻せしめ、漆を塗り、塗箔がなされたと想像するのはかなり無理な話である。史実もまた、戒壇本尊の在世における存在を否定していると言わざるを得ない」(『日蓮と本尊伝承』107頁)
と結論づけている。
 金原の眼には、熱原法難が突如惹起(じゃっき)したと映るのかも知れないが、事実は数々の予兆の結果であり、大聖人の透徹した仏眼には、このような法難に発展することが、既に予見されていたのである。こうした状況のなかで、御本仏日蓮大聖人は、出世の本懐として戒壇の大御本尊を御図顕されたのであり、『聖人御難事』に、
 「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり」(御書1396頁)
と、大御本尊御図顕の12日前、様々な大難を経て、今こそ出世の本懐を遂げるべき時であることを宣言あそばされている。その時期を冥鑑して周到な御用意をあそばされたことも当然、考えられることである。
 また「彫刻せしめ、漆を塗り、塗箔」の過程の可否を論ずることも不毛の論であり、それによって「戒壇本尊の在世における存在を否定」することはできないのである。



小結
以上、金原の言う史実を検証してきたが、大聖人御在世はもとより、入滅後の種々の状況からも、本門戒壇の大御本尊の存在は、「史実も戒壇本尊を受け入れない」(『日蓮と本尊伝承』83頁)どころか、史実が証明していることが明らかである。
(もりおかゆうじゅ・忠正寺住職)





「出世の本懐」に関する金原の欺瞞を糾す

―戒壇の大御本尊誹謗の悪書『日蓮と本尊伝承』を破す⑥―
(阿部正教 御尊師『大日蓮』H20.8)

 金原は、悪書『日蓮と本尊伝承』の「おわりに」において、
 「造立主による下段の腰書きを依拠として主張される宗祖直造説や、唯一絶対の根本本尊説・出世本懐説は誤り」(『日蓮と本尊伝承』213頁)
と述べ、釈尊の出世の本懐とは法華経の説法ではなく、一切衆生の成仏得道にあり、また『聖人御難事』に示された日蓮大聖人の出世の本懐も、本門戒壇の大御本尊の造立ではなく、熱原信徒の自立した信仰の確立にあるとして、本門戒壇の大御本尊を否定するための会通(えつう)を試みている。
 本来ならば、大聖人の出世の本懐に関する事案は本論で述べるべきであるにもかかわらず、「あとがき」のような形でこっそりと述べる辺りに、金原の姑息な性根がかいま見える。
 よって、ここでは、大聖人御一期の御化導の意義をも否定する金原の「出世の本懐」に関する邪説を破折する。


1.諸仏出世の目的と本懐について
 金原は、
 「諸仏出世の目的(本懐)は、端的に言えば、一切衆生の成仏得道である」(同216頁)
と述べている。
 たしかに釈尊の出世の目的も、大聖人の御化導の意義も、一切衆生の救済にあることは論を俟(ま)たない。
 しかし、衆生救済は観念論でもなければ、凡夫衆生の不確定な信仰への督励をもって終わるのでもない。それは、あくまで衆生を成仏せしめる法体の開顕があって、初めて成しうることであり、法体の開顕なくしては衆生の成仏もかなわないのである。
 よって金原の説は、仏の衆生救済という広義における出世の目的と、法体の開顕という出世の本懐とを混同した僻見(びやっけん)である。


2.釈尊の「出世の本懐」について
 金原は、本門戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐であることを否定するため、
 「宗祖が釈尊の本懐を『法華経』と位置づけたのも、『法華経』、なかんずく『法華経寿量品』の説法によって一切衆生の成仏が事実上開かれたから」(同頁)
と述べている。
 しかし、仏の出世の本懐はあくまで仏の能導による法体の開顕にある。すなわち『守護国家論』に、
 「今法華経に至りて九界の仏界を開くが故に、四十余年の菩薩・二乗・六凡始めて自身の仏界を見る。此の時此の人の前に始めて仏・菩薩・二乗を立つ。此の時に二乗・菩薩始めて成仏し凡夫始めて往生す。是(こ)の故に在世滅後の一切衆生の誠の善知識は法華経是(これ)なり」(御書151頁)
と説かれているように、在世の衆生の成仏は、釈尊が出世の本懐たる法華経を説いたことによって開かれた得益であるから、本懐たる法華経は能開、衆生成仏は所開の関係にある。つまり、釈尊の在世滅後の熟脱の衆生は、釈尊による法華経の開顕がなければ、けっして得脱することができない故に、法華経こそ「一切衆生の誠の善知識」なのである。
 さらに言えば、『三大秘法抄』に、
 「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり」(同1595頁)
と述べられているように、大聖人が「法華経を諸仏出世の一大事」すなわち出世の本懐と説かれた理由は、三世にわたる一切の仏法の根源である本門三大秘法が法華経の文底に秘沈されているからである。故に釈尊の出世の本懐はあくまで法華経による法体の開顕に存するのである。
 なお金原は、
 「宗祖自身が『教主釈尊の出世の本懐は人の振舞いにて候いけるぞ』(全集1174)と明言しているように、本懐成就はあくまで衆生が的となっている」(『日蓮と本尊伝承』216頁)
と主張しているが、その根拠として引用した『崇峻天皇御書』(御書1174頁)の文は、四条金吾に対する勧誡として示されたものであり、その対告(たいごう)の上からは、広義における衆生救済として「人の振る舞い」と示されていると言える。しかし、その根本には、教主釈尊の本懐たる本門寿量の開顕があり、さらに滅後における本門修行の方規として説示された初随喜品の行相が、釈尊の過去世における不軽菩薩の但行(たんぎょう)礼拝である。故に、その本門寿量品より開かれた不軽の行相をもって「人の振る舞い」と示されたことを根底に置かなければならない。


3.大聖人の「出世の本懐」について
 金原は『聖人御難事』の「余は二十七年なり」の文意について、
 「『二十七年』は単に弘安2年のみを切り取られてかく述べられたのではなく、27年に及ぶ日蓮大聖人の弛まざる闘争と、その延長線上に興起した熱原法難における門下の自立した信仰を1つの結実として、『余は二十七年なり』と発せられた、とみるべきではなかろうか。私はそう確信する」(同217頁)
と述べ、本門戒壇の大御本尊を否定する立場から「余は二十七年なり」を会通し、熱原法難における信徒の「自立した信仰」を「1つの結実」として大聖人の本懐成就に見立てているのである。
 しかし、『聖人御難事』の「余は二十七年なり」を含む前後の文には、
 「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」(御書1396頁)
とある。つまり、釈尊は40余年に「法華経」を説き、天台大師は30余年に『摩訶止観』を講説し、伝教大師は20余年に「大乗戒壇」を建立して、それぞれ出世の本懐を遂げられたことを述べられ、さらに本懐を遂げられるまでの間に大難があったことを指摘されている。
 それぞれの出世の本懐と大難の関係を図示すれば、次のようになる。

・釈尊-40余年に「法華経」を開顕
・天台-30余年に『摩訶止観』を講説
・伝教-20余年に「大乗戒壇」を建立

その中の大難-申す計りなし。先々に申すがごとし

 要するに、大聖人が『聖人御難事』に示された釈尊、天台大師、伝教大師の出世の本懐とは、いずれも具体的な御事績を挙げられているのである。
 故に、大聖人におかれても、宗旨建立より27年の弘安2年に当たり、今まさに出世の本懐を遂げようとする御意志を明かされたのである。
 また『阿仏房御書』には、
 「あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづ(譲)る事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり」(同793頁)
と、出世の本懐とは「宝塔」、つまり大漫荼羅本尊の御図顕にあると述べられている。
 これを、先の『聖人御難事』の文と合わせ拝すれば、『聖人御難事』が著された弘安2年10月のころ、大聖人の本懐中の本懐となる大漫荼羅を御図顕されたことが明らかである。
 すなわち、それこそが弘安2年10月12日に造立された本門戒壇の大御本尊なのである。
 このことを『聖人御難事』の文に照らして図示すれば、次のようになる。

・大聖人-27年に「本門戒壇の大御本尊」を造立

その間の大難-各々かつしろしめせり

 つまり日寛上人が『観心本尊抄文段』において、
 「弘安元年巳後、究竟の極説なり。就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是(こ)れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」(『日寛上人御書文段』197頁)
と述べられた、大聖人のすべての大漫荼羅本尊のなかで「究竟の中の究竟、本懐の中の本懐」である本門戒壇の大御本尊こそ、大聖人の出世の本懐と拝すべきである。
 また、日寛上人は、
 「三大秘法を合すれば則ち但(ただ)一大秘法の本門の本尊と成るなり。故に本門戒壇の本尊を亦(また)は三大秘法総在の本尊と名づくるなり」(『六巻抄』82頁)
と仰せられているように、本門戒壇の大御本尊こそ一大秘法の本門の本尊であり、三大秘法総在の本尊なのである。
 したがって、本門戒壇の大御本尊の造立がなければ、大聖人の三大秘法の御化導が成就せず、さらに末法濁悪の一切衆生は仏道を成就することができない。それこそ、金原の言う「出世の本懐」すなわち衆生救済がかなわないことになるではないか。
 故に、大聖人の出世の本懐は、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊の造立であったことは明らかである。
 なお、御歴代上人の書写された御本尊には「奉書写之」と認(したた)められているが、それは本門戒壇の大御本尊の御内証を、代々の御法主上人が唯授一人金口(こんく)の血脈をもって書写されたことを示していると付記しておく。


4.大聖人の大漫荼羅本尊の御化導について
 大聖人の大漫荼羅本尊の御化導を拝するに、竜の口において発迹(ほっしゃく)顕本なされた大聖人は、その御内証をもって、佐渡へお発ちになる前日(文永8年10月9日)、依智(現在の厚木市)において初めて御本尊(御本尊集1番)を御図顕された。
 佐渡期における御本尊の相貌(そうみょう)は、妙法首題の左右に釈迦・多宝や上行等の四菩薩、不動・愛染等を配する簡素なものであったが、身延入山後は九界の列衆が記された広式の御本尊(御本尊集11番以降)を顕示される。しかし、いまだ本懐成就の時至らず、妙法首題の下に御名と御花押を左右に配して認められ、人法一箇の内証を標示されていない。
 しかして、大聖人は、弘安元年以降、まず文上の義によって示された東方善徳仏・十方分身諸仏を除かれ、また仏滅讃文には寿量品の仏身が非滅現滅・三身常住であるとの意義を示された。また、妙法首題の直下に御名・御花押を重ねて大書され、南無妙法蓮華経即日蓮という内証を標示された。さらに弘安2年2月には、法華経の会座に連なっていない、地獄界の代表である提婆達多を文底の意義より示して(第3祖日目上人授与の御本尊・御本尊集60番)、十界の聖衆を整足されるなど、大漫荼羅本尊の御化導が弘安2年には究竟の域に達していたことが拝されるのである。
 そこに、弘安2年4月の四郎男の刃傷に始まる熱原法難が惹起(じゃっき)したのである。日興上人の御化導による熱原信徒の信行は、大聖人の御修行に続く、門下僧俗の不自惜身命の実践を示したものである。
 このような門下篤信の信徒が大聖人の仏法のために命を賭(と)す状況を鑑みられ、本懐成就の時の到来を御感なされた大聖人は、既に内因たる大漫荼羅本尊の御化導が究竟の域に達していたこともあり、熱原法難を外縁として、ついに弘安2年10月12日に出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を造立なされたのである。


5.日興上人の「本門寺重宝」等の文言について
 金原は、「おわりに」の注記として、
 「日興が後年、『本門寺重宝也』『万年の重宝也』『奉懸本門寺可為万年重宝者也』等と書き付けて未来本門寺のために準備された」(『日蓮と本尊伝承』217頁)
と述べ、日興上人が「本門寺重宝」などと御本尊に書き付けられた意味を限定しようとしている。
 しかし、御遺命の本門寺建立に関する日興上人の深い御内意は、御相伝にかかわる重大事であり、金原如き凡夫の浅知恵で論じても詮ないことである。
 ただし、それらの書き付けがある御本尊が数幅にも及んでいることから考えると、単に「未来本門寺のために準備」などということでは、けっしてない。大聖人のすべての御本尊は何ものにも代え難い〝重宝〟であり、後世における散逸を防ぐため、血脈の正系たる未来本門寺に宛てて厳護されることを記し置かれたと拝すべきであろう。


おわりに
 大聖人の出世の本懐に関する異説は種々存しようが、特に大聖人の出世の本懐を熱原法難とする主張は、近年、自称正信会においてなされている。
 故に、金原の説の如きは、おおよそ正信会のこうした説を自説に塗り替えた二番煎じに過ぎないものと言うべきであり、幼稚な戯論(けろん)と断ずる。





戸田城聖指導

(戸田城聖『戸田城聖全集』より)

【出世の本懐】
 弘安2年10月12日に大聖人が、一切衆生を救う本尊として一閻浮提総与の本尊をくだされたのである。この本尊を拝し、受持し、題目を唱うるならば、かならず幸福の道へと突進するのである。この大御本尊こそ大聖人一大事の秘法、すなわち民衆の不幸を救う最大根幹であることは種々立証されるところであり、かつ大石寺においては種々の御相伝あるとうけたまわるが、いま一文を引いて、あきらかに大聖人出世の御本懐の一分を示そう。
 『聖人御難事』御書にいわく、
 「去ぬる建長五年(太歳癸丑)四月二十八日に安房の国長狭郡の内東条の郷・今は郡なり、天照太神の御くりや(厨)右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり、此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年(太歳己卯)なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」(御書全集1189頁)
 この御書に御おおせのごとく「余は二十七年なり」とは弘安2年10月12日の総与の御本尊の出現をさしての御おおせであって、このおことばによって本仏出世の御本懐はこの御本尊の出現にある。世の不幸を救う一大秘法はこの本尊にありと信じなくてはならぬ。(「折伏論」S26.6.10『戸田城聖全集』第3巻96頁~)

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 弘安2年の御本尊は、本門戒壇の大御本尊と申し上げ、日蓮大聖人が出世の本懐として、弘安2年10月12日に御図顕になられたのであります。『聖人御難事』に、建長5年より、余は27年にして出世の本懐を遂げるとおおせあそばされています。
 日寛上人は、大御本尊について
 「就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟(くきょう)中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況(いわん)や一閻浮提(世界)総体の本尊なる故なり」(『観心本尊抄文段』)
といわれています。
 さらに、日寛上人は、大御本尊の功徳について
 「これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。故に十方三世の恒沙(ごうしゃ)の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸(ことごと)くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣(おもむ)くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫(しばら)くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂(いわゆる)『正境に縁すれば功徳猶(なお)多し』とはこれなり」(『観心本尊抄文段』)
とおおせであります。
 このようにすばらしい大御本尊が、700年の昔から日本に厳存し、今日では奉安殿に御安置されているのです。
 これに対しては、なにものも絶対疑っては相(あい)なりません。いま、安永弁哲が、偽作論の中で、第9代の日有上人様が板曼荼羅を偽作したといっている。これが、他宗の間違った議論なのです。これにみな迷う。総本山で、明らかにすればいいのに秘密主義なのです。それは
 「時を待つ可(べ)きのみ」(御書全集1022頁)
というご命令をそのままうけてらっしゃるから、正直なのです。本山ぐらい正直なところはないのです。
 日有上人が御本尊を偽作したというのは、身延の連中のいうことなのですが、そういわれると、そういうこともあるかなと、思うものもあるでしょう。私は総本山にきて、日有上人の御本尊を拝したことがあります。これは現在でも御宝蔵にきちんとしまってあるのです。身延派はこの御本尊様と間違えているのです。またおかしいのは紫宸殿(ししんでん)御本尊様のことをいっているのでもない、これは年号が違うのです。また御本尊様ともいえない。まったくのうそです。弘安2年の御本尊様は、弘安2年の御本尊様です。これは拝んでみれば功徳があるのでわかるではないですか。あの御本尊様を他の人が作れますか。私がラジオやテレビを作るようなもので、いくらやっても映らないようなものです。洗濯機にしても私が作ったのでは動かないのです。そのようなものです。大御本尊様を拝んでいれば、そんなことはわかるではないですか。弘安2年の御本尊様は、日有上人がつくったのではありません。日有上人のは別にあるのです。(『戸田城聖全集』第2巻13頁~)



【大御本尊の功徳】
 この死後の大生命に溶けこんだすがたは、経文に目をさらし、仏法の極意を胸に蔵するならば、自然に会得するであろう。この死後の生命が、なにかの縁にふれて、われわれの目にうつる生活活動となってあらわれてくる。ちょうど、目をさましたときに、きのうの心の活動の状態を、いまもまた、そのあとを追って活動するように、新しい生命は、過去の生命の業因をそのまま受けて、この世の果報として生きつづけなければならない。
 かくのごとく、寝ては起き、起きては寝るが、ごとく、生きては死に、死んでは生き、永久の生命を保持している。その生と生の間の時間は、人おのおの異なっているのであるから、この世で夫婦・親子というのも、永久の親子・夫婦ではありえない。ただ、清浄なる真実の南無妙法蓮華経を信奉する、すなわち、日蓮大聖人の弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊を信ずる者のみが、永久の親子であり、同志である大功徳を享受しているのである。(「生命論」S24.7.10『戸田城聖全集』第3巻22頁)

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 しかるに、私は、いま結論だけを大胆にいうならば、20世紀の科学をいだき、20世紀の科学の指向する道を指導する力のある宗教は、
「日蓮正宗」
 であると確信するのである。それには、深い理由があって、一言につくすことは不可能であるが、いま、きわめて概括的に述べると、左のとおりである。
 釈迦は偉大な予言者であって、自己の滅後の世相を、幾段階にも分けて、その世相およびその時代の衆生の機根にかなう教典を分類して残された。その最後の時代が末法であり、この衆生は、貪・瞋・癡の三毒が強盛であって、尋常の力をもってしてはとうてい救うことはできないとし、しかも、この時代には、釈迦50年の経典がすべて役に立たなくなると断言した。このときにあたり、1人の聖人があらわれて、釈迦の教典中、最高の地位にある法華経より、さらにすぐれた「教え」をもって、世人を化導すると予言したのである。
 この予言をうけて、末法に出で、予言に寸分のちがいなく行動して、法華経以上の「大白法法」を打ちたてられたのが、日蓮大聖人である。法華経以上の「大白法」とは何か。それは、本門の三大秘法であり、なかんずく、三大秘法随一の本門戒壇の大御本尊こそ、いっさいの教典の帰趣するところであり、あらゆる生活、あらゆる学問の根源である。
 科学と宗教について、その解決を求めるものは、よろしく、この三大秘法―なかんずく本門戒壇の本尊について、あらゆる方向から検討する必要があると主張するものである。(「科学と宗教」S24.8.10『戸田城聖全集』第3巻30頁~)

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 この大石寺には、日蓮大聖人出世の御本懐たる一閻浮提総与の大曼荼羅が相伝せられている。この大曼荼羅こそ末法の衆生の不幸を救う大威力のあるもので、この大曼荼羅を本として御出現した御本尊こそ、人に強き生命力を与え、不幸を根本から救うのである。すなわち家なき者に家を、子なき者に子を、親なき者に親を、財なき者に財を、病の者には良医と健康とを与える絶対の功徳の根源である。
 邪宗の本尊は不幸の根源となり、この正宗の大御本尊は、いっさいの幸福の根源である。(「折伏論」S26.6.10『戸田城聖全集』第3巻93頁~)

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 どの御本尊様でも功徳ははかりしれません。しかも五十展転という法門があり、随喜功徳品のなかに説かれている方程式があります。
 最初に御本尊様の功徳を知った人が、次の人に知らせ次から次へと知らせて、50番目の人が法を知らせた功徳はいかばかりかというに、世界中のありとあらゆる生物の欲する願いがかなえられ、また仏教によって声聞、縁覚の境地を得せしめる功徳ははかりしれませんが、御形木様(入信と同時に下付される御本尊)の功徳はもっとすごいのであります。
 同じく常住様(猊下直筆の一機一縁の御本尊)の功徳もすばらしいのですが、ここにいます大御本尊様(本門戒壇の大御本尊)はただ「妙」と申し上げる以外にない、絶対の功徳のある御本尊様であります。(『戸田城聖全集』第2巻28頁)



【なぜいろいろな御本尊があるのか】
 御本尊様は1つしかありませんが、無量義経に分身散体の法というのがあります。この分身散体の法というのは、日蓮正宗を除いて日本広しといえども絶対に説いておりません。分身散体の分け方により種々分けられますが、すべて一閻浮提の大御本尊に帰一するのです。
 いま、懐中御本尊といいましたが、ふところに入れるものはなんでも懐中ですが、これはお守り御本尊といって、われわれが身をもって守る御本尊であります。むかしは功労のあった人に御下付されましたが、現在も功労によっていただけます。純真に信心に励んで、お守り御本尊を受けられるようになりたいものです。(『戸田城聖全集』第2巻30頁~)



【大御本尊の対告衆について】
 邪宗のものが「大御本尊様の対告衆が弥四郎国重となっているが、法華講中弥四郎国重という方は存在していない」という。これが一般の断定なのです。
 また、これを熱原三烈士の1人となぞらえている人も、学説上あります。南条殿の子供と断定している人もあります。だが、だいたいの学説においては架空の人ということになっています。これは私は、もっともなことだと思います。
 なぜ、日蓮大聖人様が「法華講中弥四郎国重」として、弥四郎国重を大御本尊様の対告衆にしたかという問題なのです。これは、よほど仏法に通達してこないとわかりません。しろうと論議だと納得できないことです。少なくとも、信仰に透徹して、仏法の奥義がわかれば、ごくかんたんな問題なのです。
 なかにはこういう議論を立てる者もいます。「大御本尊様は日興上人に授与したのであるから、なぜ対告衆を日興上人になさらないのか」と。
 それは、日興上人を対告衆としたのでは、一閻浮提総与とはならないのです。この一閻浮提総与の御本尊すなわち南無妙法蓮華経というものは、全世界にひろめる人、まずこれを日本にひろめて戒壇を建立する人に授与すべきものなのです。
 ここで問題が1つあります。そのまえにいっておきますが、私がおどろいたことが1つあります。それは、私が東之坊を創価学会として総本山へご寄進申し上げたときのこと、僧侶から話がありまして「仏器から御厨子までぜんぶ私がお引き受けしますから、あとはよろしく取り計らっておいてください」といったのです。そうしましたら、東之坊の御本尊の対告衆は私になっているのです。ほんとうなら東之坊に御僧侶がいらっしゃるのですから、その御僧侶へお下げ渡しになったらいいはずでしょう。「私の名前でやってください」といったのではないのです。しかるに、御本尊お下げ渡しの原則によって、私にお下げ渡しになっている形になっています。しかし、あの御本尊様は東之坊の御住職の、身にあてたまわる御本尊です。ただ対告衆が、私であるというところを、よくよく考えてもらわなければなりません。
 そこで、弥四郎国重の問題ですが、対告衆に一連のものがあるのです。まず法華経の読み方がわかっていれば、弥四郎国重の問題もわかってきます。法華経がりっぱな経典であることは、だれでも認めています。そのなかに書いてあることを、まず認めなければなりません。ところが日蓮大聖人の御書にも、序品八万の大衆ということばが使われていますが、序品八万の大衆はどうなるでしょうか。
 経文には、そこに集まった人の名前が記されています。まずはじめは舎利弗、神通第一の大目犍連(もっけんれん)、その他の阿羅漢を集めて万2千人となっています。菩薩摩訶薩8万人、摩訶波闍波提比丘尼の眷属6千人、名月天子その他の天子の眷属数万人、跋難陀竜王などの眷属、これも、何万人、かくして集まった阿闍世王の眷属何千人。ソロバンにおいてみたことはないのですが、霊鷲山へ、ざっと2、30万集まっています。そうしたらどうでしょう、そんなにたくさん集まれますか。1つの都ができてしまうではないですか。しかも八大竜王もきています。阿修羅王もきています。そんなものがきているわけがないではないですか。かりに集まっても便所の設備だけでもたいへんです。8年間もそんなに集まって、いくら釈尊が仏でも20万、30万に聞かせる声がありますか。そうなってくると霊鷲山に集まったというのは、おかしいではないですか。菩薩が8万人も集まるわけがないではないですか。総本山に7万人の人が御遷座式に集まっても、あの騒ぎです。いま3千人集まってもこの騒ぎではないですか。山の中です、広場ではないのです。そうなったら仏法上の根幹をなす「序品八万の大衆」はどうなりますか。日蓮大聖人様は、はっきりとお認めになっています。しかも事実の研究の上からゆけば、そんなものはありません。ないものを書いた法華経は、信用できなくなるでしょう。もし法華経がだめだとなれば信ずるものがなくなってしまいます。
 それは何十万でもかまわないのです。なぜかならば、釈尊己心の舎利弗であり、釈尊己心の8万の菩薩であります。釈尊己心の提婆達多であり、釈尊己心の八大竜王であります。死んでそこにはいないはずの舎利弗にも、己心の舎利弗なるゆえに話しかけえたのです。釈尊の胸に集めた何十万の人、それを対告衆として法華経を説いているのです。生命の実相をはっきりしなければ、法華経の序品から読めなくなってきます。
 よく「法華経を読みました」などという人がいますが、おかしくてたまりません。読めるものですか、読めるわけがありません。大御本尊を信じないで、読めるわけなんかありません。もし、ありとすれば、大御本尊様を信じないまでも、大御本尊を知りぬいていえなかった竜樹、天親、天台、妙楽はこのかぎりではありません。読めていたのです。
 その意味からいきますれば、弥四郎国重は法華経をひろむべきいっさいの人を代表した人物、日蓮大聖人己心の弥四郎国重なのです。実在の人ではない。実在の人でなくても、いっこうさしつかえないのです。
 歴史的に調べて実証して、こうあらねばならんなどというのは、科学ということばに迷った人のやり方で、仏法哲理の上からいけば、日蓮大聖人己心の弥四郎国重に授与あそばされたのですから、日蓮大聖人のお考えとしては、もっとも理想の人格、法華経の行者の弟子として、理想の人格の人物として、世の中へおさだめになって、その者にお下げ渡しになっているのですから、そんなこと、実在であろうとなかろうと、考えなくともいいことになってきます。
 第一、智者の舎利弗の議論にたいして、寿量品を立て、生命を捨てて守護する信者を代表して、己心の弥四郎国重を日蓮大聖人は立てられたのです。諸君も、日蓮大聖人己心の弥四郎国重になりきりなさい。
 これは私はたくさんの人のなかでは話しません。もしこれを話して、あなた方がこれを人に話していい負かされたり、自分の心に疑いを起こしたりしたならば、かならずや罰を受けねばなりません。それほど重大な本尊論の問題でありますから、めったに話したことはありません。ごく側近の者に話したことがあります。本日はもしこれをいわなければ、なおさら疑いを起こす時期にきているように思いますからして、やむなく問いにまかせて答えました。これは絶対にまちがいのないことですから、信じていただきましょう。(『戸田城聖全集』第2巻15頁~)



【万年救護と一閻浮提総与の御本尊】
 万年救護の御本尊と申し上げますのは、日蓮大聖人様の宣言書であります。この宣言書には、2つあるのです。佐渡始顕の御本尊も宣言書であります。これは三世十方の諸仏に向かって「日蓮はこの本尊をもって、衆生を救いますぞ」という宣言書が、佐渡始顕の本尊です。また、万年救護の御本尊は「おまえたちを、これによって救ってやるのだぞ」という宣言書であります。
 一閻浮提総与の御本尊というのは、その奥にもう一段高く、この御本尊をもって「おまえたちはみな拝めよ。この御本尊によれば、おまえたちのいっさいの悩みは解決するぞ」という御本尊です。
 万年救護の御本尊は、保田の妙本寺にあらせられます。保田の妙本寺を開基した日郷という人が、寂日坊にあった万年救護の御本尊を持ったまま、千葉の保田へいって、そこへ寺を造ったのが、妙本寺なのです。
 今度ようやく、妙本寺の富士師が目ざめて、6百何十年後の今日において、総本山へ帰伏(昭和32年4月)したのです。大石寺門流になったのです。そこに万年救護の御本尊はあります。「先祖がもっていったのだから、いずれ、かえすだろう」と私は思うけれども、まだわかりません。
 万年救護の御本尊は、衆生に対する宣言書なのです。いま、奉安殿に(現在は正本堂に)います大御本尊様が、ほんものなのです。これが大もとになってしまうのです。たとえていえば、金庫みたいなものです。金庫の前に書いた証書が、万年救護の御本尊です。中身が奉安殿の大御本尊様であらせられるわけです。(『戸田城聖全集』第2巻20頁~)



【佐渡始顕の本尊】
 佐渡始顕の御本尊様は御直筆はないはずです。しかし、日蓮大聖人様が、佐渡で初めて御本尊様をおしたためになったということは正しいのです。もっとも、そのまえに、本間六郎左衛門におしたためになった御本尊様がありますが、これは南無妙法蓮華経だけです。それが寺泊かどこかに1幅あります。しかし、いまのような久遠元初の自受用報身如来の当体であり、中央の南無妙法蓮華経という、その仏の脇士として、釈迦多宝の2仏がおつかえする形の御本尊というものは、佐渡で初めてあらわされたものです。
 ところが、佐渡始顕の本尊が有名になったのは、田中智学君からです。田中智学という人は、ご承知でありましようが、一派をひらいたような気分でいた人です。あれは「横浜問答」(明治15年、日蓮正宗と蓮華会との問答)でさんざんやられたのです。それで、東京にいられなくなって、大阪へ逃げた。ところが大阪の蓮華寺の信者も強いので「ようし、こい」と待っていた。そこで大阪にもおれなくなって京都へ行ってしまった。京都でいろいろやったが、初めて三大秘法ということを覚えた。それで東京へ帰ってきて、今度は佐渡始顕の本尊といいだしたのです。そして「本尊は佐渡始顕によるべし」といいだしたのです。
 御本尊にもいろいろありまして、桑名の寺にある御本尊は左不動と申しまして、不動明王は右にあるべきなのに日蓮大聖人様は左におしたためになられています。それから臨滅度の本尊と申しまして、日蓮大聖人様がお亡くなりになったときにおかけになって拝んだ本尊があります。これがほんとうの本尊だなどと身延でいいだしています。日蓮大聖人様がお亡くなりになるとき、魂がとびこんだから、その本尊がほんとうだといっているのです。とびこんでもいいでしょう、しかしこれが身延にあるかというと、これがないのです。ただ大石寺の一閻浮提の本尊がいやなものだから、臨滅度の本尊はいい、などといいだすのです。これは鎌倉にあって、その写しが池上にあるといっています。
 よく身延は紫宸殿御本尊がだめだといいますが、自分の所には何もない。だから「大石寺はだめだ。あっちにある、こっちにある」といっているのです。
 佐渡始顕の本尊は、御本仏が出現をして、御本尊を顕し、この本尊をもって一切衆生を救っていくことを三世十方の仏菩薩に、宣言したものですから、対告衆がない。ただ拝み奉るだけなのです。
 田中智学は一宗をたてても、自分の本尊がない。そこで佐渡始顕の本尊ということをいいだしたのです。ちょうどあいていたところをつかんだみたいなものです。そしていまの田中智学派の本尊としたのです。ところが田中智学のかたみともいわれ、相棒ともいわれていた山川智応は、なかなかの学者なのです。この人の書いた書物のなかに、いまいわれている佐渡始顕の本尊は、ほんものでないとはっきりいっているのです。これではどうにもなりません。
 この本尊は、どういう本尊かというと、徳川時代に、佐渡から出開帳(でかいちょう)というのをやったのです。出開帳というのは、佐渡まで本尊を拝みに行けないから、それをもってきて、東京で拝ませて、賽銭を集めて帰ろうと、金もうけにかついでやってきたのです。ところがあんまりみいりがないので、帰れなくなりましたので、質に入れて帰ったのです。そのことが山川智応の本に書いてあるのです。それを何とかいう大名がうけ出して、それで、流れ流れたのです。
 もし、はんものであるとしても、質屋へはいったのでは、もったいない。でもほんものの御本尊が質へはいるわけがありません。(『戸田城聖全集』第2巻22頁~)





大御本尊誹謗の現罰

―便妙日騰師について―
(創価学会教学部編集『日蓮正宗創価学会批判を破す』S37.4.2鳳書院発行/<御遺命守護資料館>WS)

 次に日騰師について、次のような疑点をのせている。
 「智伝日志は、宝冊に近世における石山の碩学、便妙日騰が友人の国学者大堀有忠に語った言葉をのせていうには『大石寺に戒壇の本尊あり、惜哉九代日有師之を彫刻して其本紙を失す』と」
 つまり、大石寺近世の大学者と仰がれた日騰師が、大石寺の戒壇の本尊を、日有上人が彫刻してしまったという話を、大堀という国学者に語ったというのである。身延あたりで稲荷や竜神に向かって、喜んで題目を唱えている無智の大衆なら、さぞ迷いそうな見てきたようなウソである。
 このような日志の暴論に対して、日霑上人は、じつに理を尽くして、次のようにお答えになっているから、よく心してこれを拝せ。
 「またその彫剋は久遠院便妙・国学の友・大堀有忠に語つて云く云云とは死人に口なし、能き証人なり、彼の便妙なる者吾が信者ならざる方外の友杯に妄りに法語をすべきの人にあらず、是れ必ず死して其の人の亡きを幸とし斯かる胡乱(うろん)なる証人を出し給いし者か、もし万が一・彼の人にしてこの語あらば彼の人の殃死(おうし)は必ずこの妄言を出せし現報なるべし、あに慎まざるべけんや」(※『富士宗学要集』第7巻101頁)
 御文の日霑上人は、かの久遠院といくらも年齢の異なる人ではない。日志の非難に対しこのようにお答えになっているのであるから、身延派において、さらにこれを引用したのなら、歴史上の事実をさらに精査すべきである。
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 久遠院日騰師は、博学強記にして学頭を勤めたが、安政の大地震の際、家の倒壊にあって横死を遂げたのでした。
 日霑上人また「博学強記絶倫の人(師)天之を縦(ゆる)さずして殃死を示す。是れ宿業か現報か。後生を肝に銘じその独(ひとり)を慎む」と。(<御遺命守護資料館>WS)

[画像]:創価学会教学部編集『日蓮正宗創価学会批判を破す』S37.4.2鳳書院発行

[画像]:日謄師の横死について述べられた第52世日霑上人の御文





「戒壇本尊と熱原法難は無縁」!?

―法難との関係に疑う余地なし―
―ためにする疑難は止めよ!―

(『慧妙』H17.6.16)

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大石寺では、宗祖の『聖人御難事』や、4世日道上人著『御伝土代』の「熱原の法華宗二(※三)人は頚(くび)を切られ畢(おわ)んぬ。その時、大聖人御感有りて日興上人と御本尊に遊ばす」(『富士宗学要集』第5巻8頁)の文に依(よ)って、熱原三烈士の殉教を機縁に宗祖出世の本懐たる戒壇本尊が建立された、という。だが、『聖人御難事』は弘安2年10月1日の書であるから、戒壇本尊の10月12日の日付より以前であるし、熱原三烈士の斬首は10月15日であるから、これを機縁として10月12日に本尊を建立することなどありえない。
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 これまた、疑難(ぎなん)のための疑難である。
 まず、熱原地方で起こった法難についてであるが、これは何の前触れもなく突発的に起きたものではなく、熱原郷に法華衆が急増していくのを怨嫉(おんしつ)した謗法者達により、弘安2年(1278年)4月頃から迫害が始まり、8月の法華衆徒・弥四郎の斬首(ざんしゅ)を経(へ)て、9月21日の神四郎ら20名の信徒拘引(こういん)でピークに達したものである。
 しかして、『聖人御難事』の執筆された10月1日は、まさに熱原法難の真っ只中の時期であった。
 しかも、同御書に、
 「彼のあつわらの愚凝(ぐち)の者どもいゐはげましてをとす事なかれ。彼等には、たゞ一えんにをもい切れ、よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ。ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ。さむしといわば八かん地獄ををしへよ。をそろしゝといわばたかにあへるきじ、ねこにあへるねずみを他人とをもう事なかれ」(御書1398、全集1190頁~)
と仰せられていることから判(わか)るように、拘引された熱原の信徒達が、無事に釈放される可能性はほとんどなく(よからんは不思議)、逆に、極刑に処せられることは間違いない(わるからんは一定)であろう、との見通しすらあったのである。
 この時にあたって、出世の本懐を遂(と)げられるべき時機の到来を感ぜられた日蓮大聖人は、同御書に
 「余は二十七年なり」(御書1396、全集1189頁)
と宣言あそばされた。
 そして、そのわずか11日後に、本門戒壇の大御本尊を顕(あら)わされたのである。
 されば、「余は二十七年なり」の御文は、立宗より27年目の今こそ、いよいよ本懐を遂げるであろう、との宣言であることは、いうまでもない。
 しかるを、「これは10月1日の書であり、戒壇本尊の10月12日の日付より以前であるから、おかしい」などと難クセを付ける輩(やから)は、すでに自分の頭の方が、そうとうおかしくなっていて、物事を正しく理解できなくなっているのである。
 重ねていうが、本懐成就の時機を感ぜられた大聖人は、10月1日にその旨を宣言され、それから諸々の準備をあそばされて、10月12日に大御本尊を御図顕あらせられた。そこに、何らの不合理もなければ、疑いを差し挟む余地もないのである。
 また、「熱原三烈士の斬首は10月15日だから、これを機縁として12日に本尊を建立する、などということはありえない」との疑難も、まったく取るに足らない言い掛かりである。
 すなわち大聖人は、門下僧俗の強い信心によって熱原大法難が起きたことに時機を感ぜられたのであり、ただ3人が斬首されたかどうか、という1点を御覧になっていたわけではあるまい。
 また、斬首というなら、すでに8月には弥四郎が斬首されているし、10月1日の時点でも「わるからんは一定」すなわち極刑は確実、という状況が眼前にあった。
 だが、こうした大法難の中にあっても、熱原の信徒達は、退転なく、題目を唱え続けていた。
 ここに、大聖人は時機を御感あって、10月12日に大御本尊を建立あそばされたのである。
 そして、その3日後の15日に至り、拘引された20名のうち3人が斬首されて、熱原の大法難は終息した。
 このことを後世、記述するときに、簡単に「熱原で法難が起こり、法華衆3人が首を斬(き)られた。その事件に時を感ぜられた大聖人は、出世の本懐たる大御本尊を顕わされた」と書くのは、ごく普通のことであろう。また第4世日道上人の『御伝土代』も、その趣旨で書かれたものに他ならない。
 しかるを、「斬首は10月15日だから、これを機縁に10月12日の段階で本尊を建立することなどありえない」などと言って、これに拘泥(こうでい)するのは、まったくためにする疑難、笑うべき言い掛かりである。
 妄弁者よ、歪(ゆが)んだ自らの心を省みて、大いに恥じ入るべきであろう。






「出世の本懐は人の振舞」について


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<文証>
◆教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ(『崇峻天皇御書』)
                               
                               
<現証1>
◆今先ず現証を引き、次ぎに文証を引かん。初めに現証とは、開目抄下に云わく、日蓮と云いし者は去ぬる文永八年九月十二日子丑の時に頚刎ねられぬ、此れは魂魄佐渡の國に至りて等云云(第26世日寛上人『文低秘沈抄』)
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この文では、代表的な事例として、大聖人が竜の口法難での振る舞いでもって、仏法の真実をご自身の身の上でもって体現されている。
                               
<現証2>
 戦時中、宗門より除名処分された牧口先生は獄死、初代会長の遺志を継いだ戸田先生は、戦後に75万世帯の広宣流布を達成、御書の編纂や宗門興隆においても7千万登山の基礎を築き、のちに池田先生により引き継がれ、宗門史上において前代未聞の大発展に貢献した。
 また、戸田先生逝去後も、3代会長となった池田先生指揮のもと、大折伏を実践、正本堂建立を実現したのである。創価学会の3代会長は死身弘法の体現者である。
 本門戒壇の御本尊の大功徳について、日寛上人が詳細に述べられているのにも関わらず、創価学会出現以前の宗門は身延はおろか、日蓮宗系各派の中でも弱小教団であった。750年間、正しい法が伝わったのは事実であるが、その法が本格的に広まらなかったのも事実である。
 以上の現証を無視して、歴代法主の相伝・血脈・法主は御本尊と唯一不二の尊体などといえば「現証無視の机上の空理空論」であり、邪義である。

結論として出世の本懐とは、「御義口伝に云く大願とは法華弘通なり」の御金言のごとく、広宣流布のための実践活動すること自体が「真の出世の本懐」である。
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<出世の本懐は法体>
●一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり、此の五字日蓮出世の本懐なり之を名けて事と為す(『御義口伝』全集717頁)

本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか(『顕仏未来記』全集507頁)
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妙法蓮華経とは即ち本門の本尊なり(第26世日寛上人『立正安国論愚記』/『富士宗学要集』第4巻300頁)

「日蓮出世の本懐」=「南無妙法蓮華経」=「本門の本尊」

★大聖人の御書中、出世の本懐を法華経(御本尊)とする御指南がほとんどであり、人の振る舞いを出世の本懐とする御指南は、『崇峻天皇御書』のみである。だから、「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞」という文証をもって大御本尊が出世の本懐であることを否定することはできない。


<振る舞いとは修行>
●一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ(『崇峻天皇御書』全集1174頁)
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「法華経の修行の肝心は不軽品」とあるように、当該御書は「出世の本懐」を特に修行の側面から御指南されたものである。しかし、肝心要の法体は寿量品に秘沈されているのである。正しい法体から離れた修行では「出世の本懐」とはならない。

●我等衆生の振舞の当体、仏の振舞なり、此の当体のふるまいこそ長者なれ、仍つて観心の長者は我等凡夫なり、然るに末法当今の法華経の行者より外に、観心の長者無きなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者、無上宝聚不求自得の長者に非ずや(『御講聞書』全集819頁)
●今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違わざるなり。(『百六箇抄』全集863頁)
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「久遠名字の振舞」=「日蓮が修行」=「南無妙法蓮華経と唱え奉る」。「南無妙法蓮華経と唱え奉る」とは末法の正行であり本門の題目である。本門の題目とは本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることである。いくら振舞いを強調しても、修行の対境たる本門の本尊に迷いニセ本尊に執着したのでは、正しい振舞いとはいえない(<ニセ本尊破折>参照)。


<修行(本門の題目)は法体(本門の本尊)に納まる>
●末法のために仏留め置き給う迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし(『報恩抄』全集328頁)
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「本門の教主釈尊を本尊」が本門の本尊、「南無妙法蓮華経と唱うべし」が本門の題目。つまり、三大秘法の中の「題目」(本門の題目)とは「南無妙法蓮華経と唱」えること、すなわち信行義。

●三大秘法其の体如何、答て云く予が己心の大事之に如かず汝が志無二なれば少し之を云わん寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり(『三大秘法禀承事』全集1022頁)
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三大秘法の「体」とは「本尊」であり「本有無作三身の教主釈尊」。すなわち、本門の題目(信行義)と本門の戒壇は人法体一の「本門の本尊」に納まる。

●夫れ本尊とは所縁の境なり・境能く智を発し智亦行を導く、故に境若し正しからざれば智行も亦随って正しからず、妙楽大師謂える有り「仮使(たとい)発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶多し・若し正境に非ずんば縦い偽妄無きも亦種と成らず」等云々(第26世日寛上人著『文底秘沈抄』)
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「正境」とは「本尊」であり、法体である。いかに真剣に唱題(これこそ末法の修行の基本であり根本の"振る舞い")しても、「正境」である本門の本尊が無ければ「種」(仏種)とはならないのである。逆に、正しい本尊に縁しておれば「発心真実ならざる者」でも「功徳猶多し」なのである。

★法門(法体)があっても修行がなければ成仏できない。反対に、いくら修行をしても正しい法門(法体)に基づかなければ功徳はない。つまり「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞」とは、修行の側面を強調して"法華経(御本尊)に基づく修行(振る舞い)によって、成仏がかなう"ということを述べたに過ぎず、法華経(御本尊)が出世の本懐であることを否定したものではない。修行(振舞い)と法体の関係についていえば、むしろ修行(振舞い)は法体に納まるのであり、法体が根本である。


「広宣流布のための実践活動」などと言っても、根本の法体(大御本尊)に迷ってしまったのでは衆生救済はできない。従って、いくら人数が増えても本懐の成就もありえない。
●就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり(第26世日寛上人『観心本尊抄文段』)
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本懐にも総別がある。「本懐の中の本懐」は富士大石寺に御安置の本門戒壇の大御本尊である。

●富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何んぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり(中略)化を受け教を稟(う)く、須(すべから)く根源を討(たず)ぬべし、若し根源に迷わば則ち増上して真証(しんしょう)を濫(みだ)さん(第26世日寛上人『文底秘沈抄』)
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この御教示は、全世界の人々が総本山大石寺にまします本門戒壇の大御本尊を信受することこそ広宣流布であるとの御意である。(『新興宗教「創価学会」「会則」改変の欺瞞を糾す』/<宗門>WS)
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「広宣流布の根源」である「本門戒壇の本尊」から離れてしまったのでは「増上して真証(しんしょう)を濫(みだ)」すことになる。したがって、いくら人を増やしても真実の広宣流布とはいえない。(【本門寺の戒壇】参照)

●邪正肩を並べ大小先を争はん時は万事を閣(さしお)いて謗法を責むべし是れ折伏の修行なり、此の旨を知らずして摂折途に違はば得道は思もよらず悪道に堕つべし(『聖愚問答抄』全集494頁)
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 「万事を閣(さしお)いて謗法を責むべし」と仰せである。選挙運動や(似非)平和活動などは「閣」くべき「万事」に含まれるはずである。
 尚、学会員は"創価学会は折伏している"と思い込んでいるようだが、彼らのやっていることは、与えていっても"布教という名の勧誘"であり、決して折伏ではない(<摂受謗法路線>参照)。当該御文にあるように折伏とは末法の「修行」なのであり、いくら人数が増えても「謗法を責」めなければ折伏とはいえない。従って「得道は思もよらず悪道に堕つべし」。

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【出世の目的は衆生救済】
[本懐]ほん‐かい=もとから抱いている願い。本来の希望。本意。本望。「―を遂げる」(『大辞泉』)

●唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめんと欲す(『八宗違目抄』全集157頁)

●我本誓願を立つ一切の衆をして我が如く等しくして異なること無からしめんと欲す(『開目抄』全集209頁)

●四仏知見を以て三世の諸仏は一大事と思召し世に出現したもうなり(『御義口伝』全集717頁)
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 四仏知見とは、諸仏が世に出現する最も重大な目的、すなわち一大事因縁を明かしたもので、開仏知見・示仏知見・悟仏知見・入仏知見の4をいいます。
 仏知見とは、仏の真実の智慧である一念三千の妙法蓮華経です。『法華経方便品』に、
 「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうと名づくる。諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、仏知見を示し、仏知見を悟らしめ、仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう」(趣意『開結』166頁)
と説かれるように、諸仏は、衆生の生命に冥伏する妙法の仏知見を開き、示し、悟らせ、入らしめるために出現されるということです。(『大白法』)



【衆生救済の法(法門・法体)は法華経】
―だから具体的には真実の法(の確立)が出世の本懐―
●阿難・弥勒・迦葉我世に出でし事は法華経を説かんがためなり我既に本懐をとげぬ今は世にありて詮なし今三月ありて二月十五日に涅槃すべし(『法蓮抄』全集1045頁)
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仏が出世した目的は、一切衆生をして成仏得道せしめることである。しかし、成仏得道といっても、真実の法が示されなければ実現できない。また、仏は一切衆生を教化し、仏国土の成就を見届けて入滅するのではない。すなわち、仏が、その一生の内で成し遂げるべき本懐とは、衆生に成仏得道の法(法門・法体)を示すことだといえる。

●法華経は如来出世の本懐なる故に「今者已満足・今正是其時・然善男子我実成仏已来」等と説く(『守護国家論』全集40頁~)
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仏が示した真実の教法自体が出世の本懐

●法華経に法・譬・因縁と云う事あり法説の段に至つて諸仏出世の本懐・一切衆生・成仏の直道と定む(『一念三千法門』全集414頁)

●四十余年に所被の機縁を調へて後八箇年に至つて出世の本懐たる妙法蓮華経を説き給へり(『聖愚問答抄』全集480頁)

●法華は釈尊乃至諸仏出世の本懐なり(『立正観抄』全集529頁)

●法華経の現文を見るに仏の本懐残すこと無し(『守護国家論』全集73頁)

●三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり三世の諸仏の出世の本懐・一切衆生・皆成仏道の妙法と云うは是なり。(『法華初心成仏抄』全集557頁)

●唯以一大事と説き給へる法華経を信ぜざらん人は争か仏になるべきや(『主師親御書』全集385頁)

●法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候(『三大秘法禀承事』全集1023頁)

●浄土の三部経とは釈尊一代五時の説教の内第三方等部の内より出でたり、此の四巻三部の経は全く釈尊の本意に非ず三世諸仏出世の本懐にも非ず唯暫く衆生誘引の方便なり(『念仏無間地獄抄』全集98頁)

●一代聖教の大王・三世諸仏の本懐たる法華(『念仏無間地獄抄』全集99頁)

●如来在世に前の四十余年には大小を説くと雖も説時至らざるの故に本懐を演べ給わず、機有りと雖も時無ければ大法を説き給わず、霊山八年の間誰か円機ならざる時も来る故に本懐を演べたもう(『当世念仏者無間地獄事』全集109頁)

出世の本懐とは、成仏得道の法(法門・法体)




【下種仏の出世の本懐(法体)は漫荼羅本尊】
●一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり、此の五字日蓮出世の本懐なり之を名けて事と為す、日本国の一切衆生の中に日蓮が弟子檀那と成る人は衆生有此機感仏故名為因の人なり、夫れが為に法華経の極理を弘めたるは承機而応故名為縁に非ずや、因は下種なり縁は三五の宿縁に帰するなり、事の一念三千は、日蓮が身に当りての大事なり(『御義口伝』全集717頁)
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「日蓮出世の本懐」=「南無妙法蓮華経」=「事の一念三千」

●塔中相承の本尊なり(『御講聞書』全集832頁)
●又結要の五字とも申すなり云云、上行菩薩取次の秘法は所謂南無妙法蓮華経なり云云。(『御義口伝』全集840頁)
●法体とは南無妙法蓮華経なり(『御義口伝』全集709頁)
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上行菩薩へ付嘱されたのは「本尊」=「南無妙法蓮華経」である。

●本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか(『顕仏未来記』全集507頁)
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妙法蓮華経とは即ち本門の本尊なり(第26世日寛上人『立正安国論愚記』/『富士宗学要集』第4巻300頁)

●時に我も及も衆僧も倶に霊鷲山に出ずるなり秘す可し秘す可し、本門事の一念三千の明文なり御本尊は此の文を顕し出だし給うなり(『御義口伝』全集757頁)
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大聖人弘通の法体=「本門事の一念三千」=「御本尊」

日蓮大聖人の出世の本懐=上行菩薩付嘱の法体=御本尊=本門事の一念三千=南無妙法蓮華経




【「振る舞い」と法門・法体】
●末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり(『諸法実相抄』全集1358頁)
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大聖人が衆生済度のために弘通される法門法体とは「妙法蓮華経の五字」「本門寿量品の事の一念三千」である。


<成仏得道は修行(振る舞い)による>
●我等衆生の振舞の当体、仏の振舞なり、此の当体のふるまいこそ長者なれ、仍つて観心の長者は我等凡夫なり、然るに末法当今の法華経の行者より外に、観心の長者無きなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者、無上宝聚不求自得の長者に非ずや(『御講聞書』全集819頁)
●今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違わざるなり。(『百六箇抄』全集863頁)
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「久遠名字の振舞」=「日蓮が修行」=「南無妙法蓮華経と唱え奉る」。「南無妙法蓮華経と唱え奉る」とは末法の正行であり本門の題目である。本門の題目とは本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることである。いくら振舞いを強調しても、修行の対境たる本門の本尊に迷いニセ本尊に執着したのでは、正しい振舞いとはいえない(<ニセ本尊破折>参照)。

●一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ(『崇峻天皇御書』全集1174頁)
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 「法華経の修行の肝心は不軽品」とあるように、当該御書は「出世の本懐」を特に修行の側面から御指南されたものである。しかし、肝心要の法体(本門戒壇の大御本尊)は寿量品に秘沈されているのである。
 「人の振舞」とは「不軽菩薩の人を敬いし」ことであるが、これが「法華経の修行の肝心」だと仰せである。仏の出世の本懐が一切衆生の救済(成仏得道)にあることは論を俟たないが、その為の教法は法華経である。修行は大事であるが「一代の肝心」たる法華経の修行でなければ衆生の成仏もない。ここでは修行の大事なことをお示しであるが、修行(振舞い)といっても法(法体)から開かれるものであって、根本は法(法体)である(下記<修行(振舞い)は法体に納まる>参照)。

●三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり一とは〔中道なり法華なり〕大とは〔空諦なり華厳なり〕事とは〔仮諦なり・阿含・方等・般若なり〕已上一代の総の三諦なり、之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり(中略)三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し障り無く開悟す可し自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰り無し、三世の諸仏の勘文是くの如し秘す可し秘す可し。(『三世諸仏総勘文教相廃立』全集574頁~)

●我等が一身妙法五字なりと開仏知見する時即身成仏するなり。開とは信心の異名なり。信心を以て妙法を唱へ奉らば軈(やが)て開仏知見するなり(『御義口伝』全集716頁)
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末法の一切衆生にとって、開仏知見とは、本門の本尊と境智冥合のもと、我が身即妙法と開くことであり、それは信心根本に題目を唱えることである。

●後の五百歳に法華経の行者有つて諸の無智の者の為に必ず悪口罵詈・刀杖瓦礫・流罪死罪せられん等云云、日蓮無くば釈迦・多宝・十方の諸仏の未来記は当に大妄語なるべきなり。(『真言諸宗違目』全集140頁)
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日蓮大聖人が法華経の予証のごとく「悪口罵詈・刀杖瓦礫・流罪死罪」せられたからこそ、「法華経の行者」であることが証明された。また、この尊い振る舞いの結果、発迹顕本、法体の建立とつながっていく。すなわち大聖人御一期の御化導(振る舞い)そのものが、法の顕れであり、その究極が大御本尊建立なのである。

●法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし(『開目抄』全集230頁)
●真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり、されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし況滅度後の大難の三類甚しかるべしと(中略)誰人にても坐せ諸経は無得道・堕地獄の根源・法華経独り成仏の法なりと音も惜まずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ三類の強敵来らん事疑い無し。(『如説修行抄』全集501頁)
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「三類の怨敵」も法華経を説き邪法を破折するから現れるのである。法華経がなければ、どんな振る舞いをしても「三類の怨敵」は現れないし、「法華経の行者」ともなれない。そして、この法華経に則った振る舞い(如説修行)によって難が起き、その難を乗り越えることによって発迹顕本され、究極の法体(大御本尊)建立という本懐を遂げられるのである。究極の法体(大御本尊)建立もまた、「振る舞い」である。

●総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ(『四菩薩造立抄』全集989頁)

●夫れ本尊とは所縁の境なり・境能く智を発し智亦行を導く、故に境若し正しからざれば智行も亦随って正しからず、妙楽大師謂える有り「仮使(たとい)発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶多し・若し正境に非ずんば縦い偽妄無きも亦種と成らず」等云々(第26世日寛上人『文底秘沈抄』)
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「正境」とは「本尊」であり、法体である。いかに真剣に唱題(これこそ末法の修行の基本であり根本の"振る舞い")しても、「正境」である本門の本尊が無ければ「種」(仏種)とはならないのである。逆に、正しい本尊に縁しておれば「発心真実ならざる者」でも「功徳猶多し」なのである。


<世法即仏法>
●一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ(『崇峻天皇御書』全集1174頁)
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仏法は人の行動そのものを説かれたものです。つまり私たちの日々の言動が、そのまま釈尊の出世の本懐である法華経を体現していくことになり、世人としての振る舞いそのものが、仏法を行ずることとなるとのお示しですから、ここに「世法即仏法」「仏法即世法」の要諦が示されるのです。(『大白法』)

●御みやづかいを法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり(『檀越某御返事』全集1297頁)
●智者とは世間の法より外に仏法を行なはず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり(『減劫御書』全集1466頁)
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御書全集では「行なはず」を「行ず」としているが、これは誤読である(<宗門御書の批判は「ヤブヘビ」>参照)。


<人法一箇>
●本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(『御義口伝』全集760頁)

A●日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし(『経王殿御返事』全集1124頁)
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この「南無妙法蓮華経」とは、三大秘法の中の「題目」ではない。「日蓮がたましひ」と仰せのように御本仏の内証であり、御本尊のことである。この御本尊(南無妙法蓮華経)を信じて唱題することを本門の題目(三大秘法の1つ)という(下記5●)。

●日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて(『開目抄』全集223頁)
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これは竜口における発迹顕本である。大聖人はここに、上行再誕の垂迹身を捨て、久遠元初自受用身の御境界を顕されたのである。したがって「魂魄」とはA●の「日蓮がたましひ」であり、御本仏の内証(内心の悟り)である。この内証を、末法万年の衆生救済のため、事相の大漫荼羅本尊に顕されたのである。謗法者は「大聖人が竜の口法難での振る舞いでもって、仏法の真実をご自身の身の上でもって体現」などと言うが、その振る舞いの目的は発迹顕本にあり、発迹顕本の目的は本尊(法体)の建立にあるのだ。大聖人の出世→上行菩薩の再誕としての振る舞い→発迹顕本→本仏の内証を本尊に顕す→末法万年の衆生救済

●法体とは南無妙法蓮華経なり(中略)法体とはと云う事なり(『御義口伝』全集709頁)

●寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり(『三大秘法禀承事』全集1022頁)
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「無作三身の教主釈尊」とは日蓮大聖人のこと。「本尊」=日蓮大聖人

●教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり(『南条殿御返事』全集1578頁)
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「一大事の秘法」とは御本尊のこと(下記1●~3●)

南無妙法蓮華経=本仏の内証(内心の悟り)=御本尊の内証

だから、大聖人の振る舞いは、そのまま法の顕れである。大聖人は法華経の行者として如説修行され、三類の強敵を招き寄せ、大難を乗り越えることによって、御本仏としての本地を開顕された。そして、後に、御本仏の内証を究極の法体(大御本尊)として建立されたのである。究極の法体の建立もまた尊い振る舞いであり、「出世の本懐は人の振舞」とするならば、法体の建立こそ本懐中の本懐である。



【昔の学会指導】

◆この大石寺には、日蓮大聖人出世の御本懐たる一閻浮提総与の大曼荼羅が相伝せられている。この大曼荼羅こそ末法の衆生の不幸を救う大威力のあるもので、この大曼荼羅を本として御出現した御本尊こそ、人に強き生命力を与え、不幸を根本から救うのである。すなわち家なき者に家を、子なき者に子を、親なき者に親を、財なき者に財を、病の者には良医と健康とを与える絶対の功徳の根源である。
 邪宗の本尊は不幸の根源となり、この正宗の大御本尊は、いっさいの幸福の根源である。(「折伏論」S26.6.10『戸田城聖全集』第3巻93頁)

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修行(振舞い)は法体に納まる


<付嘱の体=一大秘法=本尊=本仏の当体>
1●大覚世尊、仏眼を以て末法を鑑知し、此の逆・謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたまふ(中略)爾の時に大覚世尊寿量品を演説し、然して後に十神力を示現して四大菩薩に付属したまふ(中略)但此の一大秘法を持して本処に隠居するの後、仏の滅後、正像二千年の間に於て未だ一度も出現せず。所詮仏専ら末世の時に限って此等の大士に付属せし故なり(『曽谷入道殿許御書』)
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釈尊が四大菩薩に付嘱した法は「一大秘法」

●大覚世尊御入滅の後、二千二百二十余年を経歴す、爾りと雖も月漢日三国の間にいまだ此の大本尊有さず、或は知って之を弘めず、或は之を知らず、我が慈父、仏智を以て之を隠し留め、末代の為に之を残し給う、後の五百歳の時、上行菩薩世に出現して之を弘宣し給う(日蓮大聖人が文永11年に顕された御本尊)
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正法像法2千年間「隠し留め、末代の為に之を残し給」はれた末法弘通の正体とは「大本尊」、すなわち釈尊より上行菩薩への付嘱の法体は「大本尊」

2●教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり(『南条殿御返事』)
3●本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(『御義口伝』全集760頁)
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「霊鷲山にして相伝」とは上行菩薩への付嘱。「一大事の秘法」=「本尊」=本仏の当体

●寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり(『三大秘法禀承事』全集1022頁)
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「無作三身の教主釈尊」とは日蓮大聖人のこと


<三大秘法は一大秘法(本尊)に納まる>
●三大秘法其の体如何、答て云く予が己心の大事之に如かず汝が志無二なれば少し之を云わん寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり(『三大秘法禀承事』全集1022頁)

●夫れ法華経の第七神力品に云く「要を以て之を言ば如来の一切の所有の法如来の一切の自在の神力如来の一切の秘要の蔵如来の一切の甚深の事皆此経に於て宣示顕説す」等云云、釈に云く「経中の要説の要四事に在り」等云云、問う所説の要言の法とは何物ぞや、答て云く夫れ釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり、教主釈尊此の秘法をば三世に隠れ無き普賢文殊等にも譲り給はず況や其の以下をや(『三大秘法禀承事』全集1021頁)
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「如来の一切の所有の法」とは上行菩薩へ付嘱された法(下記4●)。これを1●では一大秘法(本尊)とし、ここでは三大秘法「寿量品の本尊と戒壇と題目の五字」としている。すなわち、三大秘法は一大秘法に納まるのである。

4●地涌千界の菩薩を召して如来一切所有の法を授く、(中略)本門五字の肝要は上行菩薩の付嘱なり誰か胸臆なりと称せんや(『五人所破抄』全集1612頁)
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ここでは付嘱の体を単に「本門五字」としている。『本尊問答抄』に「法華経の題目を以て本尊とすべし」と仰せになっていることからも分かるように、御本尊のことを単に「妙法蓮華経」とか「南無妙法蓮華経」とか、ある場合には「題目」とか仰せになっているのである。そして、この御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることを「本門の題目」という。↓

5●末法のために仏留め置き給う迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし(『報恩抄』全集328頁)
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「本門の教主釈尊を本尊」が本門の本尊、「南無妙法蓮華経と唱うべし」が本門の題目。つまり、三大秘法の中の「題目」(本門の題目)とは「南無妙法蓮華経と唱」えることであって、南無妙法蓮華経自体のことではない。

・「如来の一切の所有の法」=「上行菩薩の付嘱」=「三大秘法」=「本尊と戒壇と題目の五字」
・「三大秘法其の体」=「本尊」=「教主釈尊」=「一大秘法」

・釈尊より上行菩薩への付嘱の体(法体)とは一大秘法の御本尊であり、これを三大秘法と開くと「本尊と戒壇と題目の五字」となる。

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>諸仏出世の目的(本懐)は、端的に言えば、一切衆生の成仏得道である(『日蓮と本尊伝承』216頁)

>宗祖が釈尊の本懐を「法華経」と位置づけたのも、「法華経」、なかんずく「法華経寿量品」の説法によって一切衆生の成仏が事実上開かれたから(同頁)

>宗祖自身が「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞いにて候いけるぞ」(全集1174)と明言しているように、本懐成就はあくまで衆生が的となっている(同216頁)
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●仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり(『聖人御難事』御書1396頁)
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 「四十余年」「三十余年」「二十余年」「出世の本懐を遂げ給ふ」とあるのだから、釈尊や天台大師は存命中のある時点に出世の本懐を達成されたことが明白。一方、衆生救済は仏菩薩方の教化以降、何十年何百年と経過したのちに広宣流布の暁に達成されるものである。このことから、衆生救済は仏出世の目的ではあるが、出世の本懐ではない。出世の本懐は衆生救済の根本的法体を確立することであることが分かる。
 「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞い」(『崇峻天皇御書』全集1174頁)というのも法体を根底にした正しい修行の側面から述べられたものである。大聖人についていえば法体建立に向けての様々な振舞い(法門確立と折伏、三類の強敵の興起、発迹顕本など)が「振舞い」に当たり、「振舞い」の成就=本門戒壇の大御本尊建立と拝するべきであろう。(法蔵)








『日興跡条々事』への疑難破折

『日興跡条々事』への疑難破折


一、本門寺建立の時、新田卿阿闍梨日目を座主と為し、日本国乃至一閻浮提の内、山寺等に於て、半分は日目嫡子分として管領せしむべし。残る所の半分は自余の大衆等之を領掌す可し。
一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。
一、大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。
 右、日目は十五の歳、日興に値ひて法華を信じて以来七十三才の老体に至るも敢へて違失の義無し。十七才の歳、日蓮聖人の所に詣で(甲州身延山)、御在生七年の間常随給仕し、御遷化の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞の功他に異るに依って此くの如く書き置く所なり。仍って後の為証状件の如し。
十一月十日
                                       日興 花押

(御書1883頁)


●右一紙御付属状の案文は大石寺の使僧大納言将来の間、重須本門寺の新造の坊に於て之れを書写せしめ畢ぬ。時に永祿二己未二月廿六日申刻、日辰在判。(日辰『祖師伝』/『富士宗学要集』)
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日辰は京都要法寺の第19代。師は永禄2(1559=聖滅277)年に『日興跡条々事』の真筆(案文)を披見し、これを書写している。

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真筆とされる御文は
「日興が身に宛て給はるところの弘安二年の大御本尊は日目に○○○○之を授与す(之れを相伝す本門寺に懸け奉るべし)」
となっており、その○○のところは削ってあり、( )の中は他人の筆である。此れは後年都合の悪い文字を削り、都合のよい文字を加へたのである。此れをもつて本門寺の戒壇御本尊といふのは誤りであるは明らかだ。(高田聖泉『興尊雪寃(せつえん)録』/『日淳上人全集』1458頁~)
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其の論拠は『日蓮宗々学全書』の冠註にある。全く馬鹿ばかしくてお話しにならない。成程御真跡の文字の削除や加入は冠註の如くである。しかし、これは後年どころか日興上人が直々なされたことである。此れこそ上人の御用意が万々籠(こも)らせ給ふところで、我々が涙をもつてその思召の程を拝察申上げるところである。此には此れ以上は申さない。軽々しく申すべきではないからである。高田氏に一分の道念があれば日蓮正宗に帰依してその御真書を拝したら此のことは納得がゆくといふことだけを申してをく。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1462頁)
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もし同書が謀作であるならば、わざわざ文字の削除や加筆をする訳がない。だから高田某も加筆された部分のみが他人の筆であると考えた訳である。もし、高田某の言うとおりだとしても「日興が身に宛て給はるところの弘安二年の大御本尊」の存在は証明される。また、全体の内容から日目上人が付法の弟子であることも明らかである。


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◆日興が身に宛(あ)て給(たま)はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す(『日興跡条々事』御書1883頁)
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読み方が違う。弘安2年にたまわった御本尊、弘安2年にもらったんだ!(学会本部職員H)
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 戒壇の大御本尊が付嘱の法体であることを否定しようとしての主張か。(法蔵)
 だが、それは昔から幾度も破折されてきた、他門流からの疑難の焼き直しである。
 すなわち、Hの言うような意味だとしたら、この御文は、
 「日興が弘安二年に身に宛て給はる」か、もしくは
 「弘安二年に日興が身に宛て給はる」
でなくてはならない。しかるに、
 「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」
と仰せられるかぎり、「弘安二年」は「大御本尊」に懸(か)かる語であって、賜(たま)わった時期を示すものではない。これは日本語の常識である。(『慧妙』H18.7.16)




【内容が符合する文証】
●下種弘通戒壇実勝の本迹 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり(『百六箇抄』全集867頁)

●法華は諸経中の第一・富士は諸山中の第一なり、故に日興上人独り彼の山を卜して居し、爾前迹門の謗法を対治して法華本門の戒壇を建てんと欲し、本門の大漫荼羅を安置し奉つて当に南無妙法蓮華経と唱ふべしと(日順『摧邪立正抄』正平6年3月/『富士宗学要集』第2巻43頁)
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 正平6(1351)年は聖滅70年。日順師は日興上人の弟子。将来建立される「法華本門の戒壇」に安置される本尊が「本門の大曼荼羅」だと明言している。「富士は諸山中の第一」とあるから「法華本門の戒壇」とは富士に建立されることが分る。これは事の戒法について言及した『三大秘法禀承事』にも明示されていないことであり、大聖人御書中『日蓮一期弘法付嘱書』と『百六箇抄』のみに示されたことである。この戒壇に安置される「本門の大曼荼羅」についての御指南は『日興跡条々事』に示されている。
 つまり、「富士は諸山中の第一」「法華本門の戒壇」の語は、明らかに『日蓮一期弘法付嘱書』と『百六箇抄』の存在を裏付けるものであり、「本門の大曼荼羅」の語は『日興跡条々事』の存在を証明するものである。


●熱原の法華宗二人(「二」ハ「三」ノ誤リナリ=日亨上人)は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす(第4世日道上人『三師御伝土代』/『富士宗学要集』第5巻8頁)
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日興上人と御相談にて御本尊を建立遊ばされたのであるは明らか(第65世日淳上人『日淳上人全集』1461頁)
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熱原の法難を機縁として、弘安2年に建立された御本尊の存在することは明らかである。この御本尊こそ「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」(『日興跡条々事』)である。

●依て座替と号す日興より日目嫡々相承手続支証の大曼荼羅なり(日興上人筆座替大本尊/『富士宗学要集』第5巻336頁)
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「日興より日目嫡々相承」とあるように、この座替御本尊こそが、血脈相承の証拠である。正応3(1290)年、日目上人31歳のこと。上記『日興跡条々事』で大御本尊を相伝されたのが元弘2(1332)年だから、それよりも40年以上前のことである。学会員が『日興跡条々事』を否定する目的は、唯授一人の血脈相承の否定にある。しかし、日目上人への別付嘱の文証(真筆)は、『日興跡条々事』だけではない。